2022/01/22

第5部 西の海     11

  カルロ・ステファン大尉は陸軍水上部隊への輸送トラックから降りると、運転手の下士官に礼を言って、大統領警護隊太平洋警備室の建物に入った。見た目は隣の陸軍水上部隊の基地のボイラー室か?と思える様な小さなコンクリート造りの建物だった。ステファンがドアの前迄行くと、ドアが開いて30代半ばの男性が姿を現した。大統領警護隊の制服を着た隊員で肩章は大尉だった。
 ステファンと彼は視線を交わし、敬礼して挨拶を交わした。

「本部遊撃班所属カルロ・ステファン大尉であります。本日付で太平洋警備室厨房班に着任致します。」
「太平洋警備室ホセ・ガルソン大尉だ。指揮官補佐をしている。」

 ガルソンはステファンを建物の中に招き入れた。海側の窓が小さいのは村の家々と同じだ。海からの強風で割れないよう、小窓で明かりを採っている。薄暗くないのは東側の窓が大きいからだ。ブラインドは開いていた。広くない室内に机が4台、窓際に1台。ガルソンはステファンを奥のドアへ真っ直ぐ連れて行った。形式通りドアをノックして、少し開いた。中の人に声を掛けた。

「本部からステファン大尉が到着しました。」

 中の人の声は聞こえなかった。しかしガルソン大尉は「はい」と答え、ステファンに入れと合図した。ステファンは荷物を床に置き、室内に足を踏み入れた。戸口に1歩入り、敬礼した。

「ステファン、着任致します。」

 指揮官室は薄暗かった。ブラインドを全部閉じて、照明も薄暗かった。机の向こう側に胡麻塩頭の女性が軍服姿で座っていた。50代だと聞いていたが70歳近くに見える、とステファンは感じた。ガルソン大尉が紹介した。

「我々の指揮官カロリス・キロス中佐だ。」
「太平洋警備室へようこそ」

と彼女が囁く様に言った。そしてガルソン大尉に言った。

「ここでの任務を教えてあげなさい。」

 ガルソン大尉は敬礼し、ステファンに部屋から出る様に合図した。ステファン大尉はもう一度敬礼してからガルソンについて部屋を出た。ドアを閉じると、ガルソンが肩の力を抜いた様に感じた。
 室内にはさっきまでいなかった男女が3人、それぞれの机の前に立っていた。ガルソン大尉が声を掛けた。

「紹介しよう。今日からここで3ヶ月間厨房勤務をするステファン大尉だ。」

 彼は右に立っている男性を指した。

「ルカ・パエス中尉、車両と船舶などの乗り物の担当をしている。機械の整備なども得意だ。彼はブーカだ。」
「よろしく。」

 パエス中尉は30代後半と思われた。

「お若いですな、ステファン大尉。」

 明らかに年下の上官のステファンにパエス中尉がニコリともせずに挨拶した。まだ20代になってそこそこのメスティーソの若造が、と言う目だ。ステファンは本部でもそう言う目をよく見たので、無視した。パエスとガルソンはどちらが年上なのだろう。
 ガルソンは次にパエスの隣の机の男性を指した。

「ホセ・ラバル少尉。主に港の警備を担当している。外国から来る船を見張る仕事だ。彼はカイナとマスケゴの血を引いている。」
「よろしく。」

 ラバル少尉も年上だ。恐らく40代、パエスよりガルソンより年上だ。ステファン大尉は居心地が悪くなってきた。何故なら、3人目の先輩である厨房班のブリサ・フレータ少尉も30代だったからだ。先輩が全員年上で階級が下だ。ガルソンは大尉だが、昇級は何時だったのだろう。

「君はどの部族だ?」

とガルソンが訊いてきた。ステファン大尉はあまり答えたくなかったが、この質問は”ヴェルデ・シエロ”である限り、絶対に避けて通れない。彼は答えた。

「白人の血が入っていますが、グラダです。」

 僅か4人の先輩達が一瞬ざわついた、と彼は思った。実際は声を出さなかったが、彼等は互いの目を見合ったのだ。パエス中尉が声を掛けてきた。

「オルガ・グランデを一人で2年間制圧したシュカワラスキ・マナの息子と言うのは、貴方のことか?」

 これも答えたくなかったが、ステファンは頷いた。

「スィ。しかし私は父を覚えていません。2歳の時に彼は亡くなったので・・・」

 重たい沈黙が訪れ、不意にそれを振り払う様にフレータ少尉がステファンに手を振った。

「夕食の支度をしますから厨房へ案内します。」

第5部 西の海     10

  サン・セレスト村の診療所は女性医師マリア・センディーノと2人の地元の女性が看護師として働いていた。センディーノは白人で、隣国の太平洋岸の町の出身だったが、結婚してセルバに来たのだと言った。同じく医師だった夫は数年前に亡くなった。エル・ティティの警察署長ゴンザレスの妻子の命を奪ったのと同じ疫病だった。患者から罹患して、治療が間に合わず亡くなったのだとマリアは言った。イサベル・ガルドスが医学部生だと知ると、喜んだ。彼女の子供もグラダ大学で医師を目指して学んでいるのだが、まだ地元に帰って来ないのだと言う。
 診療所はセンディーノ家が経営しているが、村で唯一の医療機関と言うこともあり、港を利用している鉱山会社各社から少しずつ援助が出ているのだと言った。だから僻地の診療ではあるがレントゲン施設があり、簡単な手術を行える部屋もあった。特にアンゲルス鉱石は社長がミカエル・アンゲルスからアントニオ・バルデスに代替わりしてから援助を増やしてくれていると、マリアは感謝していた。テオはバルデスにマフィアのドンの様な印象を持っていたが、考えるとマフィアは地元を大切にする。バルデスも地元民にはそれなりに優しいのだ。

「アカチャ族はサン・セレスト村の構成員の9割を占めています。私は東のアケチャ族を知りませんが、内務省から貴方の調査に協力するよう要請が来ましたので、お手伝いします。」
「頬の内側の細胞を採るだけですから、健康診断の様な血液採取はしません。ただ、採取の目的をアカチャ族が納得してくれるかどうか、自信がないのです。」

 テオは正直に言った。先住民保護の予算を削るための検査だ。内務大臣は東西の海岸地帯に住む2つの先住民の集団が同じ祖先を持つと遺伝子レベルで証明して、助成金対象を一グループだけにしようと企んでいる。

「遺伝子が同じでも文化が別なら別部族ですよね。」

 アーロン・カタラーニは大臣の考え方に不満を覚えていた。マリアも頷いた。

「別部族だと言う結果が出るよう祈って検査しましょう。」

 宿舎は診療所から徒歩3分の距離にある空き家だった。マリアと2人の看護師で前日に掃除してくれたので、テーブルや椅子はすぐに使えた。ベッドは1台しかなかったので、それを小さめの部屋に移動させ、女性のガルドスに使わせることにして、テオとカタラーニは大きい方の寝室で寝袋で寝ることにした。
 セルバ共和国七不思議の一つ、どんなに辺鄙な土地でも必ず井戸がある、を裏切らず、この空き家にも井戸が裏手にあり、5、6軒で共同で使用していた。テオは炊事当番を決めてキッチンの壁に貼り出した。それから3人で村の食料品店に出かけて買い出しをした。アカチャ族は純血種の先住民で年配の女性は伝統的な襞の多いスカートを履いていたが、働ける世代や若い人は都会と変わらぬ服装だった。言葉もスペイン語で、男達は港で働いていた。女性達は村より標高の高い土地に作られた畑で野菜やトウモロコシを作っていた。もう少し南へ行けばバナナ畑があると言う。
 そう言えば往路で山を大きく迂回する様なポイントがあったが、あの辺りがバナナ畑だった、と思ったテオは、そこが以前通ったことがある道だったと思い出した。セルバ共和国に亡命する前、彼はアメリカ政府からの束縛から逃れようとエル・ティティに逃げたことがあった。その時、反政府ゲリラに誘拐され、ケツァル少佐とロホ、ステファンに救出されたのだ。ゲリラに重傷を負わされたロホを背負ってジャングルを走り、ティティオワ山の火口付近から生まれて初めて”空間通路”を抜けて出た場所が、あの道路側のバナナ畑だった。

 もう2年になるのか・・・

 感慨深いものがあった。あれは辛い事件だったが、お陰で大統領警護隊文化保護担当部との仲が深まった。信頼と信用を勝ち得たのだ。
 夕食の時、細胞の採取方法を話し合った。村の住人全員の細胞を採る必要はない。若者から高齢者まで、各世代毎に4名ずつ細胞を採っていこう。診療所に来る人の細胞は、ガルドスに任せる。ガルドスは医学生だから、マリアの手伝いが出来る。テオとカタラーニは港で港湾労働者から細胞を集める。これはアンゲルス鉱石のバルデスに協力を依頼してあるので、従業員から採取する。バルデスは内務省から話を通してもらっているので従ってくれる筈だ。
 上手く作業が運べば週半ばで終了するだろう。

第5部 西の海     9

  1週間程度の滞在ならサン・セレスト村の店で必需品を揃えることが出来ると言ったのは、ステファン大尉を拾う為に現れた陸軍の下士官だった。2人の院生と同じ飛行機でやって来たステファン大尉は陸軍基地に挨拶もせずに直接任地へ赴くのだ。それは彼の判断ではなく、大統領警護隊本部からの指示なので、陸軍基地司令官も承知していると言う。だから基地から水上部隊へ物資を運ぶトラックで大統領警護隊の隊員も運んでしまおうと言うことだ。テオは買い物をしてから夕方のバスで海辺の村へ行くつもりだったが、ステファンがトラックの荷台で良ければ乗って行くかと訊いたので、乗せてもらうことにした。
 テオが荷台に乗せてもらうことにした、と言うと、アーロン・カタラーニが助手席に乗せてもらっても構わないかと訊いた。飛行機で散々揺すられたので、トラックの荷台で乗り物酔いの限界に来るのではないかと心配していた。一同は笑って、運転手の下士官の許可をもらい、カタラーニは助手席に座った。テオとイサベル・ガルドスはステファン大尉と一緒に荷台に乗った。ネットでしっかり固定されている食糧品や生活用品の箱にもたれかかり、ネットを掴んで体を固定した。
 トラックは空港からオルガ・グランデの市街地を通り抜け、山道へ入って行った。遠去かる街並みを眺めながらガルドスが「都会生活よ、さようなら!」と叫んだので、ステファンが愉快そうに笑った。テオは彼に「試し」の内容を聞きたい衝動に駆られたが、我慢した。きっと外部の人間に漏らしてはいけない神聖な試験なのだろうと想像は出来た。呪いをかけられた人から呪いを取り除き、悪霊を追い払ったり、捕まえたりする修行だ。メスティーソの隊員でそこまで出来る人は滅多にいないと聞いたことがあったので、ステファン大尉はやはりシュカワラスキ・マナの息子として才能を持って生まれたのだ。そして祖父エウリオ・メナクからもかなりのグラダの要素を引き継いだのだろう。
 道路は舗装が終わり、ダートになった。トラックがギシギシと大きな音を立てて揺れまくった。喋ると舌を噛みそうだ。サスペンションが硬いとガルドスが文句を言い、ステファンが軍隊だから快適性は考えないと言った。彼等は気が合ったのか、話せる状態の道を走る時はお喋りして楽しんでいた。ステファンがメスティーソなので大統領警護隊だと意識せずにガルドスは話せる様だ。テオは外の風景を楽しんだ。灰色の岩石や黄色い土の山道が続いた。道幅は結構あって、アンゲルス鉱石や他の中小の鉱山会社が港への輸送路を整備していることがわかった。たまに港から戻る空のトラックとすれ違うと土埃が酷く、スカーフやマスクが欠かせなかったが、道路はティティオワ山の西斜面を大きく蛇行しながら下って行き、やがてトラック後部からでも真っ青な水平線が見え始めると、ちょっとした観光気分になった。
 途中でトラックは休憩の為に停車した。小さな集落があって、そこで飲料水を販売していた。コーラが高価だったので、テオはステファンと同じ地元でよく飲まれている甘味が付いたソーダ水を飲んだ。カタラーニは水だけで、ガルドスはレモン水を飲んでいた。運転士の下士官は持参した水筒で喉を潤していた。テオは時計を見た。空港を出てから2時間近く経っていた。ここから後どのくらいか、と訊くと、下士官は後1時間と答えた。
 セルバ人の1時間は1時間半だと思えば腹が立たない。トラックはまだ太陽が燦々と輝いている時間にサン・セレスト村に到着した。
 村はテオの想像と全く違っていた。石を積み上げて造った壁にコンクリートを薄く塗装し、屋根もちゃんとコンクリート製のしっかりした家が平地に並んでいた。メインストリートを挟んで山側に住宅、海側に商店や倉庫が並んでいた。

「高い位置に住宅があるのは、津波対策です。」

とステファンがそれとなく説明した。

「基地は海側にありますが、通信関係の施設は山側の別棟になります。」

 トラックが一軒の黄色い壁の家の前に停車した。カタラーニが降りて来て、後ろに来た。

「診療所に着きました。僕等はここまでだそうです。」


2022/01/21

第5部 西の海     8

  テオは”ヴェルデ・ティエラ”と呼ばれるセルバ先住民の遺伝子をこれまで細かく分析したことがなかった。漠然と”ヴェルデ・シエロ”と区別する為に分析するだけだった。”シエロ”達が”ティエラ”と呼ぶ場合は、”シエロ”でない人間を意味する。つまり先住民も白人もアフリカ系もアジア系もアラブ系も全部”ティエラ”だ。しかしセルバ国民が”ティエラ”と言う場合は先住民を指す。これがややこしい。”シエロ”の人口が少ないので、後者が”ティエラ”だと頭に入れておけば良いのだが、テオの親しい友人は”シエロ”なので彼は時々混乱した。
 内務大臣パルトロメ・イグレシアスがテオに依頼したのは、東海岸地域に住む”ヴェルデ・ティエラ”と太平洋岸地域に住む”ヴェルデ・ティエラ”が同じ一族なのか調べてくれと言うものだった。東のアケチャ族と西のアカチャ族が同じ先祖を持つ部族なのか、知りたいのだと言う。その理由は政治的次元のもので、言語が微妙に異なる両部族が同じ形態の祭礼を行ったり、共通の神話を持っていることなどから、居住区を管理する役人を1人だけにするか2人にするか、大臣は悩んでいるのだ。管轄する部署が一つなら予算を組み易い。テオは先住民を管理する部署を一つだけにして、担当者を部族毎に任命すれば済むことだろうと思ったが、どうやら同じ祖先を持つと思われる2つの部族を1つと見做して保護政策の予算を削ろうとしている様だ。役人の人件費の問題もあるのだろう。イグレシアス家は白人なので、先住民対策が時に厳しく、度々抗議のデモが行われる。テオはパルトロメ・イグレシアスに個人的な感情を持っていないが、亡命の際には色々便宜を図ってもらったし、保護してくれたので、取り敢えず調査の依頼を引き受けた。
 大学に1週間の予定で出張届けを出し、研究室の院生を2名連れて行くことにした。バイト代は雀の涙ほどしか出せないが、交通費と宿泊費は大学から出してもらえるよう交渉して成功したし、論文の課題に使っても良いと言う条件で男女2名が名乗り出てくれた。アーロン・カタラーニと言うイタリア系のメスティーソ男性とイサベル・ガルドスと言うスペイン系メスティーソ女性だ。ガルドスは医学部の学生で遺伝子の勉強をするために生物学部のテオの研究室に通っていた。アリアナ・アズボーンの弟子でもある。先住民に多い筋肉疲労から来る衰弱死を遺伝子の分析で対策を考えたいのだと言う。だから鉱山労働者が多い西海岸に行きたいのだ。
 週明けの月曜日、テオはエル・ティティの家からバスでオルガ・グランデに昼過ぎに到着して、空港でセルバ航空の定期便(1時間遅れた)でやって来た2人の若者と合流した。海辺のサン・セレスト村に診療所があり、そこの医師が調査に協力してくれると言うので、村にある空き家を宿舎として用意してくれている筈だ。そこへ行く前に装備品のチェックをして足りない物を購入してから村へ向かうバスに乗ろうと話し合っていると、声をかけて来た男がいた。

「オーラ、テオ! どうして貴方がここに?」

 振り返ると、カルロ・ステファン大尉がリュックを背負って立っていた。勿論軍服にベレー帽だ。髭も生やしているから、チェ・ゲバラが立っている様に見えた。ゲバラより顔の輪郭に少し丸みがあったのだが、1ヶ月も地下神殿に篭る指導師の試しの直後なのでほっそりとなって、ますますゲバラに似てきた。
 凄い、本物のエル・パハロ・ヴェルデだ!と目を丸くしている2人の院生を置いて、テオは親友と握手を交わした。

「試験に合格したんだってな! おめでとう!!」
「グラシャス!」

 ハグは好まない”ヴェルデ・シエロ”だが、ステファンはテオのハグを素直に受け容れた。彼は以前より細く見えたにも関わらず、筋肉はさらにしっかり逞しくなっているとテオの手の感触が伝えた。
 体を離してから、ステファンはもう一度最初の質問を繰り返した。

「ここで学生を連れて何をなさっているのです?」

 テオは院生達を振り返った。

「国務大臣の依頼で、先住民アカチャ族の遺伝子サンプルを採取しに来たんだ。東のアケチャ族と同じ部族であることを証明して欲しいらしい。政治的理由だよ。」

 ステファンが苦笑した。

「遺伝子が同じでも部族は違うと思いますがね。」
「大臣が分析結果を見てどう判断するかは、俺たちの知ったこっちゃないさ。」

 テオが院生達にウィンクして見せると、アーロン・カタラーニが同意した。イサベル・ガルドスは苦笑しただけだ。

「アカチャ族の村へ行かれると言うことは、ポルト・マロンへ行かれるのですね?」
「そうだったかな?」

 テオが考え込むと、ガルドスが笑った。

「先生は地名を覚えるのが下手ですね。 海辺の村はサン・セレストしかありませんよ。」
「だが、ポルト・マロンは鉱石の積み出し港だろう?」
「でも集落はそこだけです。村の外れにポルト・マロン港があるのです。」

 ステファンも「スィ」と言った。

「沿岸警備隊の基地も、陸軍水上部隊も大統領警護隊太平洋警備室も、サン・セレスト村にあります。食料品店も郵便局も診療所もサン・セレスト村にあります。」

 テオはオクタカスにあった先住民の集落に似た時代遅れの村を想像していたのだが、どうやら目的地は町の様相をしているらしかった。



 

2022/01/20

第5部 西の海     7

  約束の時間にカルロ・ステファン大尉がケツァル少佐のアパートを訪問した時、少佐はまだ夕食中だった。家政婦のカーラがステファンに食事はどうしますかと訊いたので、彼もいただくことにした。急な来客でも1人や2人の追加ならカーラは平気だ。
 向かい合って食べていると、数年前に戻った様な気分になった。カーラが帰り支度を始めたので、彼は席を立ち、彼女を見送った。この習慣も同じだった。彼女がタクシーに乗る前に彼は尋ねた。

「少佐はドクトルと上手くいってますか?」

 カーラはちょっと首を傾げた。

「休日のことはわかりません。でも月曜日の少佐はいつもご機嫌なので、上手くいっているのだと思いますよ。」

 ステファンは笑って彼女を送った。部屋に戻ると、少佐がテーブルの上の彼女自身の食器を片付けていた。彼の分はまだ残っていたのでそのままだ。彼が椅子に座ると、彼女が食器を洗っているうちに食べてしまいなさいと命じた。上官と部下というより、正に姉と弟だ。ステファンは温かいものを胸の内に感じ、その新しい感情にちょっと戸惑った。
 食事を終え、後片付けも終わってコーヒーを淹れてから、2人は改めて向かい合って座った。

「話とは何です?」

と少佐が先に切り出した。ステファンは質問した。

「指導師の試しに合格した後の最初の勤務は厨房班だと思いますが、他の部署に行かされることはよくあることですか?」

 厨房班は大統領警護隊の指導師の資格を持たなければ勤められない部署だ。本部にいる警護隊全員の食事の世話だけでなく、大統領の食事、大統領府での会食の世話もする。これには理由がある。そして指導者の資格を取った者は必ず最短でも半年は厨房班で勤務するのが慣習となっていた。(だから少佐以上の将校は全員料理が出来る。)

「他の部署?」

 訊かれて彼は言った。

「太平洋警備室です。」

 思いがけない部署の名が出て、ケツァル少佐は暫く沈黙した。偶然先日話題に出たばかりだ。指揮官のカロリス・キロス中佐は覚えているが、他の隊員は全く知らない。

「正式に辞令が出たのですか?」
「スィ。あちらの厨房で3ヶ月、それからこちらに戻って厨房で3ヶ月と命じられました。」
「エステベス大佐からですか?」
「ノ、エルドラン中佐とトーコ中佐のお2人からです。連名で辞令を出されました。」

 副司令官からの辞令なら、恒久的な地位を与えられるのではない。これは「任務」だ。

「太平洋警備室の厨房へ赴任とは聞いたことがありません。副司令お2人からの命令なら、それは臨時の身分を与えられて行う任務です。」
「やはりそう思われますか?」

 ステファンは腕を組んで考え込んだ。

「最初は本部の厨房班が定員一杯ではみ出したのかと思ったのですが、エルドラン中佐から向こうの隊員達の名簿を渡され、可能な限り情報を収集してから出発するようにと言われ、あちらで何か起きているのではと思っている所です。」
「あちらの様子は何も中佐から教えられていないのですね?」
「何も。寧ろ中佐達の方が情報を得たい様子でした。」

 ケツァル少佐も考え込んだ。本部から遠い分室で何か起きていても知りようがない。キロス中佐はマメに定時報告をしている筈だが、司令部に何らかの不安を感じさせる事象が起きているのかも知れない。

「太平洋警備室の厨房要員は1名ですね?」
「スィ。カイナ族のブリサ・フレータ少尉です。彼女と交代と言うことでもないのです。」
「他の隊員は?」
「中佐の副官のブーカ族のホセ・ガルソン大尉、同じくルカ・パエス中尉、マスケゴとカイナのミックスのホセ・ラバル少尉、以上です。キロス中佐以外は全員西海岸の出身です。」
「本部ではカイナ族とマスケゴ族はブーカとのミックスしかいませんから、確かに地域性はありますね。しかし特におかしい点はなさそうです。司令部は貴方に何を調べさせたいのでしょう?」
「エルドラン中佐はそれに関して何も仰いません。」

 ステファン大尉は冷めてしまったコーヒーを飲んだ。カップを置いて言った。

「不穏な動きがあるのであれば、副司令ははっきりそう仰ると思います。きっと何か掴みかねていることがあり、それが何か知りたいのでしょう。危険な任務とは思いませんが、軍人ですから常に用心を怠らぬよう勤務します。万が一・・・」

 少佐は弟の言葉を遮った。

「カタリナのことは私がしっかり守ります。グラシエラにはロホがいます。しかし貴方は一人で向こうへ行くのでしょう。それなら事前にオルガ・グランデで味方に出来る人々をチェックしてから行くべきです。」
「グラシャス。」

 ステファンは微笑した。

「”ティエラ”の知り合いを総動員して味方予備軍を想定しておきます。」


2022/01/19

第5部 西の海     6

  文化・教育省のオフィスにロホが帰ると、まだシエスタが終わっていないにも関わらずケツァル少佐とアンドレ・ギャラガが仕事をしていた。マハルダ・デネロスがいなかったので、オクタカスへ戻ったと思われた。人手が足りないので少佐とギャラガは昼休みを早めに切り上げて仕事をしているのだ。定刻の午後6時に帰るために。
 ロホが自席に着くと、少佐が声をかけた。

「教授のクシャミは治りましたか?」

 ロホは大学へ行くと少佐に告げた覚えがなかった。教授が彼女に大尉が来たと教える筈もないだろう。テオが彼女に告げる必要もない。上官は鎌をかけて来たのだ。ロホは素直に答えることにした。恐らく少佐は教授の本当の血統を知っているのだろうと彼は思った。だから嘘をつく必要はない。

「お昼前に治ったそうです。考古学部へ来た客はどんな成分の香水を使っていたのでしょうね。」
「間違ってもセニョリータにプレゼントしないで下さい。」

とギャラガが揶揄った。

「後でステファン大尉に撃たれますよ。」

 アンドレ!とロホが低い声で叱責した。グラシエラ・ステファンと交際を始めたことは、まだ他の職員に秘密なのだ。一般市民から畏怖の目で見られる大統領警護隊だが、この文化保護担当部の隊員は文化・教育省の職員達から友人として見られている。恋人が出来たなんて知られた日には絶対に揶揄われるのだ。
 ケツァル少佐が忍び笑いしながら書類をめくっていると、携帯電話にメールが着信した。差出人はカルロ・ステファン大尉だった。

ーー今夜お会い出来ませんか?

とあった。指導師の試しが終わったらしい。だが難関試験が終了したからと言って合格したとは限らない。少佐は返事を打った。

ーー合否は?
ーー通りました。

 淡々とした返答だ。あまりにあっさりしているので、彼女は彼が会いたがる理由を考えてしまった。

ーー貴方と私の2人だけですか?
ーースィ。場所と時間は貴女が決めて下さい。

 少佐は邪魔が入って欲しくない場合の会見場所をいつも同じ所に指定する。

ーー2000に私のアパートで。
ーー承知しました。

 ロホの机から溜め息が聞こえた。予算を組まなければならない監視計画書が溜まっていたのだ。

第5部 西の海     5

  学生達がケサダ教授を呼ぶ声が聞こえた。教授をお茶に誘っているのだ。ケサダは手で合図を送ると、残った食事を急いで食べてしまい、テオとロホに挨拶して、トレイを持って去って行った。彼の後ろ姿を見送りながらテオはロホに尋ねた。

「本当に君の用件は彼のクシャミのことだけかい?」

 ロホは迷った。テオにあの衝撃波の話をするべきだろうか。尤も教授自身がさっき言葉に出したので、テオも聞いているのだ。

「スィ、教授のクシャミです。」
「衝撃波を彼が出したのか?」
「私だけが感じたのです。デネロスとギャラガは感じていない様子でした。」
「それはつまり?」
「攻撃に使う気の爆裂波ではなく、身内に注意を促したり、呼びかけたりする時に使うものです。」

 ロホはちょっと考えて、周囲に聞き耳を立てている人間がいないことを確認してから説明を続けた。

「例えば、親が森の中や人混みで子供を呼ぶ時や、上官が己の部隊の部下だけに全員集合を掛ける時などに発する気です。ただ、先程貴方が教授に言われた様に、クシャミなどで無防備になった瞬間に発してしまう場合もあります。」
「教授のその衝撃波は大きかったのに、メスティーソの少尉達は気がつかなかったのか。」
「そうです。つまり、凄く独特の衝撃波を教授は出されたのだと思います。純血種のブーカやオクターリャ、サスコシなどにしか感じ取れない波です。」
「それにグラダも?」

とテオは付け加えた。そう考えたから、ロホはケツァル少佐に”心話”で報告してみたのだ。大臣の部屋にいても少佐にだって感じ取れただろうと思ったから。しかし少佐は無視した。

「ケサダ教授は純血種だろ?」
「でもマスケゴ族です。」

 ロホはこの時、一瞬テオの目が揺らいだことに気がついた。

「何かご存知なのですか、テオ?」

 ロホは鋭い。テオは己が隙を見せてしまったことを悟った。だが、「あのこと」は秘密にすると、ムリリョ博士と約束したのだ。だから彼はロホの顔を真っ直ぐに見て言った。

「今朝の教授のクシャミのことは忘れた方が身のためだ、ロホ。」

 ロホの目に「納得がいかない」と言う表情が浮かんだ。テオはどう言えば彼を納得させられるかと考え、”ヴェルデ・シエロ”流の語り方を思いついた。

「彼がどの部族の出身だろうと、彼をマスケゴとして育てた人の気持ちを考えてやってくれないか? そして彼はマスケゴとして生きているんだ。それを尊重して差し上げよう。君も古い考えの実家を出て新しい君自身の家を作ろうとしているんだ。理解出来るよな?」

 ロホが目を遠くへ向けた。そして呟いた。

「サスコシのメスティーソが純血のグラダを普通の子供として育てた様に・・・」
「そうだ。」

 改めて向き直ったロホの目はもう迷いがなかった。

「グラシャス、テオ。納得しました。今まで経験したことがない強さの衝撃波を感じ取ってしまったので動揺してしまいました。大尉になったばかりなのに、恥ずかしいです。」
「恥ずかしいことはないさ。ここは戦場じゃないんだ。だけど、そんなに大きかったのかい、彼のクシャミの衝撃波は?」
「スィ。これでやっとわかりました、少佐があの教授を怒らせるなといつも仰っている意味が・・・だからセニョール・シショカは彼に屈したのですね。」

 テオとロホは笑った。

「ところで、教授が文化保護担当部へ出向いたのは、どこかの遺跡を新たに発掘するためかい?」
「ノ。先日発見されたオルガ・グランデ聖マルコ遺跡の見学をなさりたいそうです。恐らく、ミイラの中に仲間外れがいないか、確認されるのでしょう。」

 ああ、とテオは納得した。以前ムリリョ博士から博物館収蔵のミイラの中から”ヴェルデ・シエロ”のものを探し出せと強制的にバイトをさせられたことがあった。ケサダ教授はそんな手間を後日に行いたくないので、自ら遺跡を見て幽霊の有無を確認するのだ。”ティエラ”の幽霊は生きている”ヴェルデ・シエロ”がミイラに近づくと怖がって遺体の中に隠れてしまうが、”シエロ”の幽霊は隠れない。だから助手ではなく教授自らが見に行く必要があるのだ。
 教授は生まれ故郷のオルガ・グランデを懐かしがって見に行く訳ではないのだ。恐らく10歳になるかならぬかのうちに離れてしまった故郷、母親もグラダ・シティに引き取ってしまっている現在は、未練がないのかも知れない。彼の胸の内は誰にもわからない。



第11部  神殿        23

  一般のセルバ共和国国民は神殿の中で起きた事件について、何も知らない。そんな事件があったことすら知らない。彼等の多くは”ヴェルデ・シエロ”はまだどこかに生きていると思っているが、自分達のすぐ近くで世俗的な欲望で争っているなんて、想像すらしないのだった。  テオは、大神官代理ロア...