2021/09/22

第3部 夜の闇  12

  翌日、テオは少し早めに家を出て、ロホとケツァル少佐を拾い、文化・教育省へ送った。その後で大学に出勤すると、最初にジャガーの血液の遺伝子分析結果をチェックした。ジャガーの血液はジャガーの血液だが、そうでない部分もあった。人間の血液と混ぜた様な感じだ。人間の姿の”ヴェルデ・シエロ”の遺伝子分析結果をテオは知っている。脳の構成を決定づける因子が通常の人間と異なっていた。しかし動物に変身する因子らしきものは発見されなかった。と言うより、当時はナワルなど考えもつかなかったのだ。その後、友人達の許可を得て彼等の遺伝子を分析したこともあったが、全員同じだった。普通の人間と殆ど差がなかったのだ。脳の働きが少し違うだけで。その違いが超能力の素だろうと思えたが、全身をジャガーやマーゲイやオセロットに変化させる仕組みがどの因子なのか、テオにはまだわからなかった。ナワル状態の”ヴェルデ・シエロ”からもっと血液を採取出来れば良いのだが、ナワルは神聖な儀式の時に使うものだから、研究の為に変身してくれとは言えなかった。
 取り敢えず、アスルに依頼された「チュパカブラ」なる生物の体毛がコヨーテの物だったと言う報告書を作成し終わったところに学生達が集まり出した。彼等に昨日採取した牛の検体の分析をさせ、テオはジャガーの分析結果も印刷し、データを消去した。
 突然男子学生達が歓声を上げた。口笛を吹いた者もいたので、何事かと振り返ると、見かけない女子学生が戸口に立っていた。すぐには誰だかわからなかった。彼女はテオが振り向いたので、微笑みかけた。

「ブエノス・ディアス、ドクトル・アルスト。」

 笑顔でやっと相手がわかった。笑うとケツァル少佐によく似ている。テオも思わず微笑んでいた。

「ブエノス・ディアス、グラシエラ。」

 彼は立ち上がり、戸口へ行った。男子学生達は文学部で評判の美人学生に見惚れている。女子学生達は呆れている様だ。グラシエラは”ヴェルデ・シエロ”らしく抱擁はしないで、握手だけで挨拶した。そして尋ねた。

「少しお時間いただけます?」
「スィ。中に入るかい?」
「廊下で結構です。」

 つまり、そんなに重要ではない用件だ。テオはドアを開いたままで廊下に出た。

「どんな用件?」

 グラシエラ・ステファンはカルロ・ステファンの実妹で、ケツァル少佐の異母妹だ。兄の方針で、大統領警護隊とは距離を置いて生活しているので、テオとも滅多に出会わない。出会う時は、大概彼女が異母姉のケツァル少佐を誘って遊びに行く時だ。少佐は貴重な休日が潰れると文句を言いつつも、妹の誘いを断らない。そして何故か必ずテオを誘うのだ。アッシー君として。
 グラシエラは廊下の前後を見てから、彼に確認した。

「昨日、ここを訪問したエル・パハロ・ヴェルデはカルロですね?」
「スィ。」

 カルロ・ステファンは本隊に戻ってから滅多に実家に戻らないので、グラシエラは寂しがっている。テオは、昨日カルロが大学に来た時に妹に会ってやれと言うべきだったな、と悔やんだ。

「彼は任務で手に入れた物の遺伝子分析が必要として、俺に鑑定を依頼しに来たんだよ。君のところに顔を出すようにアドバイスすれば良かったな。」
「それは良いんです。」

 グラシエラは兄が「任務」を理由に滅多に実家に顔を出さないことで、兄に甘えることを諦めていた。彼女は声を潜めた。

「彼が女子学生と会っていたって本当ですか?」

 テオは彼女を見つめた。そして吹き出しそうになった。グラシエラは兄がガールフレンドを作ったと思ったのか?

「本当だよ。だけど、その女性は彼が捜査中の事案に関する目撃証言を伝えに来たそうだ。彼女の方から声をかけたらしい。」

 ステファン大尉がその学生の証言の信憑性を疑っていることは言わなかった。その代わりに、グラシエラにちょっと待ってもらって、ロホに電話をかけた。仕事の邪魔をしては悪いので挨拶をするとすぐに用件に入った。

「昨日、カルロが証言を取った女子学生の名前、わかるかな?」
ーースィ。顔と一緒に氏名も伝えてもらいました。

 ステファン大尉からケツァル少佐、少佐からロホへ”心話”での伝言だ。ロホから女子大生の名前を聞いて、礼を言って電話を終えた。グラシエラが興味津々で彼を見ていた。彼女はロホの名前に反応したのだ。無理もないだろう。彼女とロホは年齢が近いし、ロホはかなりのイケメンなのだ。数回しか会ったことがなくても、彼女の心に彼の印象が残っているのだ。
テオは2人を結びつけてやろうかと思いつつ、彼女に質問した。

「文学部のビアンカ・オルティスって女性を知っているかい?」
「ビアンカ・オルティスですか?」

 グラシエラは少し考えた。文学部の学生は人数が多い。義務教育の教員免許が取れるので専攻希望者がいつも定員をオーバーして他学部の教授達を羨ましがらせるのだ。グラシエラもその教員志望者の1人だった。

「何科ですか?」
「それは聞いていないなぁ。」
「調査をご希望ですか?」

 ちょっと面白がっているので、テオは彼女を巻き込みたくないと思った。下手に巻き込んで面倒なことになれば、ステファン大尉やケツァル少佐に怒られる。2人共、末っ子の妹には平穏な人生を送って欲しいと願っているのだ。

「否、調べなくて良い。必要だったらカルロが自分で調べるだろう。」
「何かの容疑者なんですか?」
「そうじゃないが・・・」

 このまま会話を続けると泥沼に陥りそうだ。テオは残念だが彼女との会話を終わらせることにした。

「一昨日の夜にサン・ペドロ教会近辺でジャガーが目撃されたって噂を聞いているかい?」
「スィ。ちょっと話題になってました。でも何かの見間違いじゃないんですか?」

 グラシエラは生まれて直ぐに祖父によって超能力を封印された。普通の人間の女の子として生きるようにと言う大人達の願いだ。”心話”は出来るが、それ以外は夜目が効くだけだ。ナワルを使えない”ヴェルデ・シエロ”だ。だから母親も兄も彼女にナワルのことを教えていない。
 テオは囁いた。

「ビアンカはジャガーを見たと証言したんだが、時間と場所を考えたら他の証言と矛盾するんだ。だからカルロは彼女が犬を見間違えたんだろうって考えている。」
「そうなんですね。」

 目撃者が見間違えたのなら、ステファン大尉はもうビアンカ・オルティスに興味を持たないだろう。グラシエラはそう考えた。兄の意中の人は知っている。兄は異母姉に恋をしている。シータの心の中は彼女には読めないのだが、彼女はセルバ共和国の家族法を知っていた。「先住民に限り」と言う文言付きだが、異母兄弟姉妹は婚姻出来る。つまり、シータさえ承諾すれば、兄は彼女を娶ることが出来る。グラシエラは異母姉が大好きで尊敬していた。ただ、兄と姉が婚姻可能と言う法律にはちょっと引っかかっていた。とは言うものの、兄を悲しませたくなかったし、同時に兄に他の女を好きになって欲しくもなかった。
 兄がビアンカ・オルティスと何も関係がないのだったら、それで良い。
 グラシエラは、テオの仕事の邪魔をしたことを謝罪し、次の授業のために人文学の学舎へ戻って行った。 

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