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2021/07/03

アダの森 14

  カルロ・ステファンが能力を使えないのは、能力が「無い」からではなく、使い方を「知らない」からだと、ケツァル少佐は言った。ジャングルの中を歩いている時に、と彼女はシオドアに問いかけた。

「鳥や虫が私達の周囲にいなかったのを知っていましたか?」
「スィ。鳥の声も虫の鳴き声も全くしなかった。」
「小さい生き物がカルロから放出される気を感じて逃げたからです。」

 ああ、それで、とシオドアは納得した。ステファンが自分と一緒にいると敵に勘付かれると言って別行動を取った理由がそれだったのか。

「彼は気の放出を抑制出来ないのか?」
「コントロールする方法を知らないのです。本来は子供の頃にママコナの声を聞いて習得する基本中の基本です。」

 そんな話をステファン自身がシオドアに語ってくれたことがあった。純血の”ヴェルデ・シエロ”はママコナの声を言葉として聞けるが、異人種の血が入ると頭の中で蜂が唸っている様な音がするだけだと言っていた。

「彼は”心話”は出来ます。だから士官学校から大統領警護隊に採用されました。生まれつき気を放出したままの人ですから、周囲の人々は彼を警戒しました。彼のそばにいると落ち着かなくなるのです。ですから、彼は普通の仕事に就けなくて軍隊に入り、軍人としての才能を見込まれて士官学校へ入れてもらえました。士官学校へは時々大統領警護隊の幹部が新入生をスカウトする為に顔を出します。」
「どうやってスカウトするんだ? 士官学校は普通の人の方が多いだろう?」
「新入生を横一列に並ばせて幹部が顔を見て歩きます。実際は目を見るのです。”心話”で1人ずつ話しかけて返事があれば候補生のリストに入れます。士官学校を卒業と同時に警護隊に配属されるのですが、学校の成績次第ではN Gの人も当然出てきます。ロホとカルロは一緒に採用されました。ブーカ族の良家の子であるロホは全てにおいて成績優秀で性格も素直で優等生でしたが、カルロは貧民街の出で子供時代は素行も良くなかったのです。正反対の育ちの2人が、どう言う訳か馬が合って仲良しになりました。警護隊のスカウトは当初ロホだけを採るつもりだったのですが、司令のエステベス大佐がどうしてもカルロも採りたいと希望したのです。」

 シオドアとケツァル少佐はアメリカ大使館の前の交差点にやって来た。

「エステベス大佐は彼を訓練すれば”人並み”に能力を使えるようにしてやれると思ったんだね?」
「スィ。それに、大佐はロホが優しすぎることも気にしていました。凶悪な敵と戦う時に彼の優しさは彼自身の命取りになりかねません。」

 それは先日の”赤い森”の事件で証明済みだった。ロホは目の前でシオドアがゲリラに傷付けられるのを想像するだけで耐えられなかった。それが彼自身を危うく死にかける目に遭わせてしまったのだ。

「ロホの優秀な能力の使い方からカルロが学び、カルロの躊躇なく戦う姿勢からロホが学ぶことを大佐は期待したのです。しかし・・・」

 少佐は肩をすくめた。

「物事はなかなか上手く運ばない物です。」

 シオドアは交差点の斜め向かいに見えている大使館の門を見た。入りたくないが、入らねばならない。彼は少佐を見ずに言った。

「ここでお別れだ、少佐。俺と一緒にいるところを連中に見られない方が良い。」

 すると少佐が彼にそっと囁いて、道路の反対側へ渡って行った。シオドアはびっくりして、やって来た方角へ歩き去って行くケツァル少佐を見つめた。
 彼女はこう言ったのだ。

「Te besare en mi corazon.」(心の中で貴方にキスを)

 シオドアは幸福と悲しみを同時に感じた。もう一度、ここへ戻って来たい。彼等と一緒に笑っていたい。
 彼は未練を振り切って、交差点を渡った。そして大使館の門に向かって歩いて行った。門前には2人のアメリカ兵が立ち番をしていた。彼等が彼が少佐と一緒にいるところを見たかどうか確かめる気持ちはなかった。もし見たとしても、彼女が何者か彼等は知らない筈だ。

「ヤァ」

と彼は兵士に声をかけた。

「シオドア・ハーストと言います。アメリカ人です。帰国したいがパスポートを紛失したので、出国出来ません。再発行の手続きをお願いしたい。」




アダの森 13

  マハルダ・デネロス少尉の予想が外れてケツァル少佐は40分後に部署へ戻って来た。彼女がカウンターの仕切り戸を荒々しく押し開けて入って来たので、文化財・遺跡担当課の人々はこの4階のセクションに出してもらえる予算が減らされたな、と思った。果たして、彼女の後ろからついて来た課長は更に暗い顔をしていた。

「盗掘が増えていると言うのに、遺跡パトロールに出せる金はないとさ! 内務省の役人達が公金をネコババして飲み食いに使っていた事実はどうなるんだ?!」

 課長が吠えた。

「国防費は増額されているのに、文化・教育省にはその半分も出してくれない。大臣は会議室で繰り言ばかりで、国会議事堂で発言する勇気もない無能者だ!!」
「その無能者を大臣に任命した大統領も無能者だ。」
「大統領を選んだのは誰だ?」
「私はアイツに投票していない。」

 待合室の客まで巻き込んで4階フロアは賑やかになった。これでまた業務がストップだ。このセルバ的な風景をシオドアは第3者の立場で見物していた。ここでは古代の神様は関係ない。現在を生きているセルバ人が自分達の考えを主張し合っていた。
 ケツァル少佐が机に戻って持って来た書類をバサっと投げ出した。机の下からシオドアが見慣れた物を出してきたので、彼は思わず身を乗り出した。

「少佐、それはマズイ!」

 ケツァル少佐は天井に向けてアサルトライフルを一発放った。4階フロアがいっぺんに鎮まった。彼女はカウンター内の職員達をぐるりと見回して言った。

「さっさと報告書を上げる!」

 そして自席に着いた。職員達が何事もなかったかの様に働き出した。さっきまで喚いていた客達も大人しくカウンターの前に並んだり、ベンチに戻った。シオドアは天井を見上げた。何処にも弾痕はなかった。彼女は空砲を撃ったのだ。呆気に取られたシオドアの表情を見て、デネロス少尉がクスクス笑った。ステファン大尉が呟いた。

「今週は既に3回目だ。」

 少佐はご機嫌斜めなのだろう。きっとロホが謹慎処分を喰らって本部に留め置かれたからに違いない。彼女はシオドアに気づかないで(或いは気づかないフリをして)書類を片付け始めた。シオドアは仕方なく立ち上がって彼女の前に立った。

「オーラ、少佐。」
「何か御用ですか?」

 愛想の無さはいつも通りだ。シオドアは苦笑した。

「ゲリラから助けてもらった礼を言いに来た。それと、暫くお別れになるかも知れない。或いは、これっきりかも・・・」

 ステファン大尉とデネロス少尉が仕事の手を止めた。”ヴェルデ・シエロ”を驚かせてやったぞ、とシオドアは思った。少佐がペンを探すフリをしながら言った。

「北へ帰るのですか?」
「スィ。大使館が俺を探しているなら、俺が向こうに帰る意思がないことをちゃんと伝えようと思う。強制送還されるかも知れないが、向こうに戻ったら俺の考えをしっかり訴えるつもりだ。セルバとアメリカは敵国同士じゃない。俺がセルバに引っ越す権利を否定出来ない筈だ。」

 少佐がやっと顔を上げて彼を見てくれた。

「ゴンザレス署長はそれを承知しているのですか?」
「スィ。俺の安全の為に、向こうとの関係にちゃんとケジメをつけて来いと言ってくれた。もし向こうの政府が俺を出国させないと言うのなら、俺は署長を向こうに呼ぶ。俺が見つけた俺の家族なんだ。」

 シオドアは相手が何も言わないので、仕方なく別れの挨拶を言った。

「世話になった。有り難う。ロホとアスルにも挨拶したかったけど、不在では仕方がない。彼等によろしくと伝えてくれ。それじゃ・・・」

 彼はステファン大尉とデネロス少尉にも頷きかけて、カウンターの外に出た。振り返ると涙が出そうな気がして、前を向いたままだった。生まれて初めて気の置けない仲間に出会った気がしたが、己の人生にケジメをつけないことには彼等に迷惑がかかるとわかっていた。国立遺伝病理学研究所は”ヴェルデ・シエロ”の存在を知れば絶対に興味を抱く。大統領警護隊に手を出せなくても、巷で平和に暮らしているセルバ人に接触して来るだろう。この国を引っ掻き回して欲しくなかった。研究所がこの国のことをどれだけ知っているのか、確認しなければならない。
 気がついたら、雑居ビルを出て歩道に立っていた。アメリカ大使館へは歩いて20分ほどだ。そう思った時、隣でケツァル少佐の声がした。

「いつになったら横断するのです? 青信号を2回も逃しましたよ。」

 横を見ると少佐が立っていた。

「いつからそこに居たんだ?」
「青信号2回分前から。」

 信号が青になったので、2人は道路を横断した。

「ついて来たのか?」
「貴方が本当に大使館に行くのかどうか確かめる為に。」
「もう逃亡したりしないさ。」

 心なしか歩調が遅くなった。出来れば彼女とずっと話していたい。しかし何を話そう・・・。

「ステファンは大尉に昇進したのに、嬉しくなさそうに見える。」

 思いついたことを言ってみた。すると少佐が同意した。

「昇級するのに十分な活躍をしたのに、認めたがらない人々がいるからです。」

 思わずシオドアは足を止めてしまった。

「彼の活躍を認めたがらない?」
「彼は兵士としての実力で”赤い森”を殲滅しました。”ヴェルデ・シエロ”の能力を使って闘ったのではありません。」
「それは良いことじゃないのか?」
「良いことです。だから大尉に昇級しました。」
「わからないなぁ。」

 シオドアは道端で話す内容ではないと気がついた。何処か邪魔が入らない場所はないものか。しかし少佐は気にせずに続けた。

「警護隊の中には、能力を上手に使えても出世出来ない者もいます。実戦経験がなかったり、経験があっても軍人としての能力に欠けている人です。彼等は退役する迄少尉のままです。」
「ステファンは能力を使えなくても中尉になって、今度は大尉になった。万年少尉達から妬まれているのか。」
「そしてその親達からも。」

 少佐が深い溜息をついた。シオドアはある疑問を感じた。

「ステファンは能力を使えないのに、どうして大統領警護隊に入れたんだ?」

 すると少佐ははっきりと言った。

「彼は能力の使い方を知らないだけなのです。目覚めれば、大将にもなれます。」


 

2021/07/02

アダの森 12

  ゲリラ騒動から半月後、シオドアはグラダ・シティに出かけた。エル・ティティに戻ってから、ゴンザレス署長と将来の計画をじっくりと話し合った。記憶が完全に戻った訳ではなかったが、これ迄に知り得たこと、思い出せたことを洗いざらい打ち明け、遺伝子組み替えで人為的に生み出された人間であることを語った。ゴンザレスはそれでも彼を見る目を変えなかった。今あるお前が本当のお前だと言ってくれた。そして”ヴェルデ・シエロ”との関わり合いを打ち明けると、ちょっと難しい顔をした。

「彼等の秘密を知ってしまった上で、この国に住もうと決意したのなら、彼等が納得する形で味方であることを示さなければいけないな。」

と署長は言った。

「お前の友達になってくれた大統領警護隊の人々はほんのひと握りだ。彼等がお前を守り切れるとは限らない。お前も彼等を守らなければいけない。お前の友達は皆んな若いのだろう? お前が味方であることを納得させなければならないのは、もっと年上の、長老と呼ばれる連中だ。誰が長老なのか、俺達一般の人間にはわからない。だから、連中は恐ろしいんだ。」

  田舎警察の署長ではあったが、腹を割って話してみると、やっぱりセルバ共和国の裏の世界を知っていた。ゴンザレスは、シオドアが本当の安全を手に入れる迄待つと言ってくれた。

「それから、わかっていると思うが、彼等の存在を大ぴらに語ってはならない。俺達警察官は巡査の身分の頃は一般の人と同じ知識しか持っていないが、警部やそれ以上の階級になると上の方から”ヴェルデ・シエロ”の扱い方を教えられる。例え一生出会うことがなくても、この国で多少なりと権力を行使する人間だったら知っておくべきルールだ。失礼のないように、怒らせないように、だが普通の人として扱う、それが彼等自身が望んでいることだ。外国人のお前が、俺と同じ気持ちで彼等と付き合うと誓っていることを、彼等に知らせる必要がある。」

 だから、シオドアは首都へ出てきた。北の国の政府と国立遺伝病理学研究所との関係に、決着をつける為に。大使館に出頭する前に、彼は文化・教育省へ足を向けた。大統領警護隊文化保護担当部の友人達に挨拶をしておきたかった。もしかするとセルバ共和国に戻って来られないかも知れない。それにロホの容態も知りたかった。オルガ・グランデ基地で別れた時、ロホは医療班のストレッチャーに寝かされて運ばれて行ったのだ。シオドアはそれから直ぐにエル・ティティに送られたので、彼が再手術を受けたかどうかも知らなかった。
 いつもの愛想がない女性軍曹に身分証を提示した。エル・ティティ警察が発行した正規の身分証だ。軍曹は全く気に留めないで入館パスを発行し、手渡してくれた。
 4階に行くと、大統領警護隊文化保護担当部は閑散としており、シオドアが初めて見る若い女性が1人パソコンで作業をしているだけだった。長い艶やかな黒髪を引っ詰めてポニーテールにしている。薄いピンク色のTシャツと白いコットンパンツ姿の軽装で学生に見えた。シオドアが「オーラ」と声をかけると、振り向いて「オーラ」と笑顔で返事をした。めっちゃ可愛いじゃん、とシオドアは思ってしまった。

「テオドール・アルストと言います。ケツァル少佐はおられますか?」

 あー、残念っと言う顔をした若い女性は、床を指差した。

「少佐は文教大臣と各セクション代表者の会議に出ておられます。学校関係のセクションが我が儘を言わなければ後1時間程で戻られますよ。」

 彼女の言葉に、文化財・遺跡担当課の職員達が遠慮なく笑った。学校関係の部署は”我が儘”が多いのか、とシオドアは苦笑した。彼も大学で教鞭を取った短い期間に研究費の攻防をしている教授達をよく見かけたのだ。大統領警護隊の給料は大統領府から出ているのだが、遺跡発掘調査隊の護衛にかかる費用は文化・教育省と国防省が攻防戦を繰り広げていると、大学の知人が教えてくれたことがあった。少佐はどっちが払っても構わないから、費用をケチるなと言いたいだろう。
 シオドアはカウンターの外になる待合スペースのベンチを見た。相変わらず申請に来て待たされている人が5人ばかり座っている。”
死者の村”でロホが応援を連れて戻るのを1日中虚しく待っていたことを考えれば、ここは天国だ。

「1時間なら待ちます。」

 多分、セルバ時間だから1時間は120分から200分だ。急ぐ用事がないので、シオドアはベンチの空いているスペースに腰を下ろした。ステファン中尉とアスルの机はいつも通り書類に埋もれている。ロホの机も同じだ。仕事は怪我人に容赦無く押し寄せて来るようだ。
 若い女性を見ていると、彼女は自身の机の書類をデータ入力してしまい、隣のステファン中尉の机に手を伸ばした。シオドアが「え?」と驚いている間に彼女は上官の机から書類を一掴み取って、それをまた彼女のパソコンに入力し始めた。どんどんデータを入れて行き、終わると机の反対側の山に積んだ。再び次の一掴みに取り掛かったので、シオドアはお節介かもと思いつつ、つい声を掛けた。

「君は秘書なのかな?」
「ノ。大統領警護隊の少尉です。」

 彼女の指が素早く動き回り、パソコンの方が付いて行けないのではないかとシオドアは心配した。彼女がステファン中尉の書類を半分まで片付けたところで、当のステファン中尉がお茶のカップを片手に階段を上って来た。シオドアは立ち上がって彼を迎えた。

「オーラ、久しぶりだね。」

 中尉が立ち止まり、こんにちは、と言った。一見無愛想に見えたが、目は優しく笑っていた。そして手を振ってカウンターの中へ招き入れてくれた。
 若い少尉が手を止めて2人を見たので、中尉が紹介した。

「マハルダ・デネロス少尉です。少尉、テオドール・アルストさんだ。」
「ドクトル・アルストでしたか!」

 デネロス少尉が立ち上がった。シオドアは彼女と握手した。大統領警護隊の人間と握手で挨拶をしたのは初めてだ、とぼんやり思った。
 ステファン中尉はシオドアにロホの椅子を勧め、自席に着いた。机の上を見て、少尉を振り返ったので、デネロス少尉が悪びれもせずに言った。

「提出期限が切れていたので、片付けておきました。残りも私がしておきますから、大尉はマルティネス中尉の書類をお願いします。」

 シオドアは一瞬彼女が上官の階級を間違えたのかと思った。しかし誰も訂正しようとしなかった。ステファン中尉(それとも大尉?)が自分の机の上の書類を掴み、デネロス少尉の机にドサっと置いた。

「頼む。」

 そしてカップのお茶を一口飲んでから、シオドアに注意を戻した。

「お元気ですか?」
「スィ。君も元気そうで何よりだ。」

 ロホの容態が気になったが、新たに生じた疑問に対する好奇心が勝った。

「さっき彼女は君を大尉と呼んだけど・・・」
「2日前に昇級しました。」

 反政府ゲリラ”赤い森”を1人で殲滅したからだ。間違いなく大手柄だ。出世は当然だ。シオドアはおめでとうと祝福の言葉を贈った。ステファン大尉は軽く頭を下げて祝福を受け止めた。あまり嬉しそうではない。まさか、とシオドアは急に心配になった。

「ロホの容態はどう?」
「順調に回復しています。」

 返事が早かった。答えるステファン大尉の目も明るかったので、シオドアはホッとした。大尉がもう少し説明が必要だと思ったのだろう、シオドアがオルガ・グランデ基地から去った後のことを簡単に教えてくれた。
 ロホは基地の軍医の診察を受け、直ぐに再手術を受けた。本当なら左腕を失うほどの深傷だった。奇跡的に(と大尉は言ったが、シオドアは”ヴェルデ・シエロ”だから、と解釈した)、神経や腱が切れていなかったので、裂かれた筋組織と血管を縫合してもらうと、少佐と大尉は彼をグラダ・シティに連れて帰り、国防省病院の大統領警護隊専門病棟に入院させた。

「肩の傷ですから、4日もすれば彼はベッドから出て歩いていました。体力も徐々に戻ったので、3日前、警護隊幹部から事情聴取を受け、ゲリラに捕虜にされた経緯を調べられました。」
「それは・・・」

 ロホが捕まってディエゴ・カンパロに刺されたのは俺のせい、とシオドアは言いかけて、言葉を飲み込んだ。大統領警護隊にとって、いかなる理由でも原因は己にあるのだ。ロホがケツァル少佐に命じられたのは偵察であって、シオドアの救出ではなかった。ジャガーに変身したのは、ジャングルの中を歩くのに効率が良いと彼自身が判断したからだ。そして十分な休憩を取らずに報告の為に隠れ家を出た。単独なら安全地帯へ行けると己を過信したのだ。大統領警護隊の上層部はそう判断した筈だ。

「彼が何か懲戒を受けることはないだろうね?」

 それが心配だ。体がもう大丈夫なら、次はその身上だ。降格などされたら気の毒だ。彼は罰を受けねばならないことをしていない。俺は彼に助けられたことを心から感謝している。
 ステファン大尉はシオドアの懸念を察してくれた。

「少佐と私は、彼が貴方を救出しなかったら、今頃貴方が酷い目に遭わされていた筈だと意見しました。貴方が心から彼に感謝していたとも証言しました。」

 そして、溜息をついて言った。

「上層部が一番問題にしたのは・・・」

 彼は声をグッと低くして囁いた。

「彼がナワルを使ったことです。」

 ナワルとは、メソアメリカ地域において伝承される鳥獣に変身する能力を持つとされた妖術師や魔女、シャーマン、あるいはその変身後の姿を指す言葉だ。考古学に疎いシオドアでも博物館の説明書きやパンフレットでその程度の知識はあった。”ヴェルデ・シエロ”の世界では、無闇に使ってはならない能力なのだろう。もしかすると、本来は儀式などの時に使う神聖な力なのかも知れない。
 ステファン大尉は僚友の将来が心配で、己の出世を喜べないのだ。

「司令のエステベス大佐は、当分の間ロホを現場に戻さないと決定を下されました。」
「それはつまり?」
「警護隊本部から彼を出さないと言うことです。暫くの間、彼は士官教育の場で教官をやらされます。何をして良いか良くないか、教える立場になって反省せよと言うことです。」

 シオドアはちょっとだけ安心した。完全に体力が戻る迄、ロホが安全な場所にいるのは大切なことだ。彼がそう言うと、ステファン大尉が渋い表情を見せた。

「そう言う訳で、私は非常に忙しいのです。1人足りない訳ですからね。エステベス大佐はロホを降格にもクビにもしないし、配置換えもしない。つまり、この部署に新しい人員は入って来ないのです。」

 キーボードを叩きながら、デネロス少尉がププッと吹いた。シオドアも笑いそうになった。ステファン大尉は怒って見せているが、本当はロホがまた戻って来ると知って嬉しいに違いない。シオドアは誰にともなく尋ねた。

「アスルも忙しいんだね?」
「当然です。」

 大尉がタバコを出して咥えた。

「ロホの事務仕事を私が、外の仕事をアスルが分担しています。」
「そして私が、皆んなの書類をデータ入力しています。」

 デネロス少尉が楽しそうに言った。


 

2021/07/01

アダの森 11

  ステファン中尉がシオドアの所へ上がって来た。シオドアは立ち上がって、ディエゴ・カンパロだった男の死骸を見ないように心掛けながら、ロホのそばへ行った。リュックから最後のオレンジジュースのパックを出して、日陰に入って来たステファン中尉に差し出すと、中尉は首を振って断った。

「それは貴方とロホで飲んで下さい。」

 そしてロホの前に屈み込んで僚友の傷の具合を見た。シオドアが説明した。

「少佐が応急処置を施したんだ。カンパロは彼の肩の関節を故意に刺していた。」

 ステファン中尉はロホの左手に触れた。

「感覚はあるか?」

 ロホが小さく頷いた。指を動かして見せた。ステファン中尉がシオドアを見上げた。

「大丈夫です、病院で診て貰えば元通りに治るでしょう。」
「出血が酷かった。感染症も心配だ。早く連れて帰ろう。」
「今度は私がロホを背負います。」

 ステファン中尉もゲリラ相手に戦って来たのだ。疲れているのはお互い様だとシオドアは思ったが、彼の体力もそろそろ限界に来ていたことは確かだった。ロホをステファン中尉の背中に載せるのを手伝ってから、リュックを背負った。
 岩陰から出ると、ケツァル少佐は既に火口の縁に登っていた。足元が岩から崩れやすいガレに変化していたので、歩いて登るのが難しかった。シオドアはステファン中尉の横に並んだ。

「さっき”赤い森”を殲滅したと言っていたけど、カンパロの手下全員を倒したのかい?」
「スィ。連中は全員手配書が廻っている男達でした。どの男も少なくとも4、5人は殺している悪党共でした。」
「俺は自分が無事だったのが不思議に思うよ。」
「貴方は最初の夜に逃げ出せたからです。1回目の要求にアメリカ大使館が応じなければ、耳や指を切り落とされるところでしたよ。」
「ロホには本当に感謝している。」
「ロホも貴方に感謝していますよ。ずっと背負って逃げてくれたのですから。」

 中尉が背中のもう1人の中尉に「なぁ?」と声をかけた。ロホがスィと呟いた。
3人がクレーターの縁に辿り着くと、少佐が「遅い」と文句を言った。そして今度は緑色の池に向かって急斜面を下り始めた。シオドアは驚いた。

「こんな斜面を怪我人を背負って降りられるものか!」

 ステファン中尉が意見を言う前に、少佐が足を止めて振り返った。

「通れる場所を探して降りて来なさい。」

 シオドアはステファン中尉を見た。ちょっと呆れた。

「思い遣りが欠けてないか?」
「いつもの彼女です。」

 通り道を見つけるのは名人の”ヴェルデ・シエロ”だ。ステファン中尉はすぐに九十九折に降りて行けるルートを見つけた。それでも足元は登りより慎重になった。

「さっきのカンパロを撃った時は、彼女は弾を必要以上に撃ち込み過ぎたんじゃないか? 君の狙撃でアイツは既に死んでいただろう?」

 シオドアが意見を言うと、ステファン中尉が苦笑した。

「部下を傷つけられて激怒していたので、抑制が効かなかったのでしょう。少佐を怒らせると本当に怖いですよ。」

 池の畔で少佐が待っていた。シオドアは何故こんな場所に彼女が皆んなを連れて来たのか理由がわからなかった。立ち止まって火口の壁を見上げていると、少佐の横に立ったステファン中尉に呼ばれた。

「少佐と私の間に立って下さい。」

 意味がわからぬまま、言われた通りに立つと、少佐に手を握られた。びっくりしたが、さらに驚いたことに、反対側の手をステファン中尉に握られた。
 少佐がロホに声を掛けた。

「ロホ、しっかりカルロにしがみついていなさい。跳びますよ。」
「跳ぶって?」

 シオドアの質問が終わるか終わらぬかのうちに、少佐とステファン中尉が同時に池に向かってジャンプした。シオドアは思わず叫び声を上げていた。


 シオドアはいきなり草が生えた大地の表面に倒れ込んだ。水じゃない、と思った瞬間に背中に恐ろしく重い物がのしかかった。

「グエ・・・」

 胸から空気が押し出され、彼はうめき声を上げた。潰れるかと思った。上の方でケツァル少佐の声が聞こえた。

「着地失敗・・・いつものことだけど。」

 首を動かして見上げると、バナナの木に少佐が引っかかっていた。
 シオドアの背中でステファン中尉の声が言った。

「もう少し上達して頂けませんか?」
「ごめんなさい。」

 少佐がバナナの木から飛び降り、重なり合っている男達のそばに駆け寄った。

「ロホが下にならなくて良かった。」

 彼女はまず一番上にいたロホに肩を貸して、ステファン中尉から下ろした。ステファン中尉が起き上がり、シオドアは命拾いした。起き上がって周囲を見回すとバナナ畑だった。まだ小さな実が房になって木からぶら下がっている。畑の向こうの方で車が走る音が聞こえた。

「大丈夫ですか?」

 ステファン中尉が気遣ってくれた。シオドアは大丈夫と手を振った。咳が出た。

「池に跳び込んだと思ったけど・・・?」
「”通路”を通ったのです。」
「”通路”?」
「空間の隙間・・・みたいなものです。」

 上手く説明出来ないと言いたげに、ステファン中尉は肩をすくめた。ロホは近くのバナナの木にもたれかかって座っていた。まだかなり辛そうだ。痛み止めが医療キットにあった筈、とシオドアはリュックを下ろそうとした。近くで車のエンジンがかかる音がした。少佐がバナナの葉で隠していたジープを動かしたのだ。

「オルガ・グランデ基地へ行きます。ロホを軍医に診せてから、貴方をエル・ティティへ送りましょう。」

 シオドアは車を眺め、それからバナナの木の下の2人の中尉を見た。

「少佐、訊いてもいいかな?」
「何ですか?」
「さっきのテレポーテーションみたいなことが出来るんだったら、山に登ったりしなくても良かったんじゃないか? それに今も、直接基地に行けば良いだろう?」

 少佐がハンドルにもたれかかって溜息をついた。

「ドクトル、私はテレポーテーションなどしていません。”通路”を通っただけです。”通路”は出入り口が決まっているのです。何処からでも入れる訳ではなく、何処へでも好きな場所に出られる訳でもありません。」
「つまり、今回は、あの池とこの畑が繋がっているだけ?」
「そうです。」

 少佐は説明が面倒臭くなったらしい。部下に大きく腕を振って見せた。

「早く怪我人を乗せなさい。置いていきますよ。」


アダの森 10

  シオドアとケツァル少佐は負傷したロホを連れて死者の村を迂回し、ティティオワ山の山頂南壁へ登った。北壁の切り立った崖と違って、こちら側は緩やかな斜面で、それだけ歩く距離は長くなる。シオドアは少佐が何故このルートを登るのか理由がわからなかった。勿論ジャングルを歩くのは障害物が多く、もっと難しい。それに大きな山の裾は山頂の周回より距離がある。しかし南の地方からオルガ・グランデへ通じる幹線道路が走っているのは山裾だ。アンゲルス鉱石が掘り出した鉱石を港まで運ぶ運送路でトラックの交通量が多い。セルバ共和国陸軍の輸送隊も毎日その道を利用する。実際、ロホもその道を目指してジャングルを抜けて行こうとした。そして同じことを考えたゲリラに追いつかれ、捕まった。
 ティティオワは有史以前に活動を停止した複成火山だ。南斜面の上部に側火山の噴火口が残っていた。小さいながら綺麗な円形をした緑色の水の池を見て、シオドアはちょっと驚いた。エル・ティティ警察署にあるティティオワ山の地図に記載されていなかったからだ。
 ケツァル少佐がシオドアに止まれと合図した。

「”入口”です。ここで休憩します。」

 つまり、ステファン中尉が合流するのを待つのだ。シオドアは古い溶岩由来の岩陰にロホを下ろした。包帯に血が滲んでいるが、出血は昨夜ほどではなさそうだ。シオドアは少佐が下ろしたリュックからオレンジジュースのパックを取り出した。開封してロホの唇に少し掛けてやると反応したので、右手を支えてやって怪我人が飲みたいだけ飲ませてやった。自身は水筒の水が半分残っていたので、少佐と分け合った。水を飲むと少佐は見張りのために岩陰から出て行った。
 水分と糖分を摂取したお陰で、ロホは少しだけ気力を取り戻した様だ。泥だらけかすり傷だらけのシオドアの顔を見上げて、微かに笑った。シオドアも微笑み返し、ステファン中尉はまだだろうかと岩陰から顔を出した。少佐が左手10メートル程離れた岩の上に座って斜面の下を眺めているのが見えた。
 シオドアは小石が転がる微かな音を耳にした。右側からだ。シオドアは少佐を見た。彼女は気がついていない。またジャリッと音がした。敵でも味方でもどっちでも良い、少佐に教えなくては。
 シオドアは咄嗟に喉の奥でクッと音を立ててみた。途端に少佐が岩の向こう側へ飛び降りて姿を消した。
 物音が大胆になった。岩の上の少佐が消えたからだ。向こうは早くに少佐を見つけていた。シオドアは腰から拳銃を抜いた。それから少佐が持って来ていたロホのアサルトライフルの存在を思い出した。銃器はロホの傍に置かれていた。
 今のロホに自動小銃の類を使用するのは無理だ。シオドアは静かに岩陰の奥に戻ると、ロホの右手に拳銃を握らせた。そして自分はアサルトライフルを手に取った。約4キロのライフルの重さが手にずっしりと来た。守るべき命の重さだ。再び岩陰の外に出て、身を伏せた。
 迷彩服の男が旧式のAKを構えながら近づいて来るところだった。ディエゴ・カンパロだ。しかも1人だった。シオドア達が水辺でロホの手当をしていた間に斜面を登って先回りしていたのだ。何故手下を連れていない? シオドアは不安になって反対側を見た。幸い背後は誰もいなかった。ホッとした途端、銃声が響き、すぐそばの岩の表面が弾かれた。見つかった。シオドアは首を縮めた。ライフルを構えようとしたが、また銃弾が飛んで来た。

「止めなさい!」

 ケツァル少佐が怒鳴った。カンパロが銃口の向きを変えた。

「こいつは驚いた! アンタ、ケツァル少佐じゃないのか? まさかこんな場所で本物にお目にかかれるとはな!」

 シオドアはギョッとした。彼女は敵の前に姿を曝したのか? 彼はそっと岩陰から顔を出した。
 ケツァル少佐が先刻まで座っていた岩の下でアサルトライフルを構えて立っていた。カンパロとの距離は200メートル程だ。互いに銃口を向け合って立った。

「1人で来たのですか?」

と少佐。カンパロがニコリともせずに答えた。

「怪我人を抱えたアメリカ人の相手は俺1人で十分だと思ったのでね。」

 そして彼は自嘲気味に言った。

「手下の言うことを信じるべきだったな。誰もいない筈なのに、いきなり殴られたってよ・・・」
「捕虜を救出した人間が同時に陽動作戦を行える筈がないでしょう。」
「そうだな・・・”ヴェルデ・シエロ”を捕まえたんだ、仲間がやって来てもおかしくなかった。」
「大統領警護隊が”ヴェルデ・シエロ”だなんて、誰がお前に教えたのです?」

 シオドアは少佐がカンパロを撃たなかった訳がわかった。アメリカ大使館の動きを知ることが出来て反政府ゲリラに情報を流している人物が存在する可能性を、シオドアは語った。少佐は真面目に聞いてくれていたのだ。

「誰だろうと関係ないだろ。アイツらにとって、俺はただの”出来損ない”だ。俺に名前を名乗る様な連中じゃねぇっ!」

 ”ヴェルデ・シエロ”の血を引く異種族の子孫達を”ヴェルデ・シエロ”の純血至上主義者達は、侮蔑の意味で”出来損ない”と呼ぶのだ、とメスティーソのステファン中尉が教えてくれた。しかし大部分の”ヴェルデ・シエロ”のメスティーソ達は能力を発現させられない故に、自分達のルーツを自覚することもなく普通の人間として普通に暮らしているのだ。
 ディエゴ・カンパロは自分の祖先を知っている。”出来損ない”であることにコンプレックスを抱いている。つまり、この男は、”出来損ない”らしく、中途半端に超能力を持っているのだ。だから、ここへ1人でやって来た。
 なぁ、ケツァル少佐、とカンパロが睨み合ったまま声をかけた。

「アンタが俺の心を読もうとして失敗したのは、わかるぜ。俺に”心話”は無理だからな。そして俺は、そこの岩陰でさっきの銃撃に腰を抜かしたアメリカ人と怪我をして動けねぇジャガーの兄さんの気配がわかる。今、アンタがその銃で俺を撃っても、俺はあの2人を道連れにする程度の力がある。アンタと相討ちになることも有り得る。どうする? このままじっと睨み合って、ジャガーの兄さんが弱って死ぬのを待つかい?」
「否、待たないね。」

 不意にシオドアの頭の上で声がした直後、銃声が響いてカンパロの頭から血飛沫が上がった。ケツァル少佐の銃も火を吹いた。連射を胴に受けてカンパロの体が背後に吹っ飛んだ。手首を撃たれ、A Kも飛んだ。
 シオドアは地面に伏せていた。見たくなかったし、見る勇気もなかった。
 銃声が止み、シオドアとロホの身を守っていた大岩からステファン中尉が飛び降りた。その勢いのまま斜面を下って、ズタズタになったカンパロの死骸に近づいた。

「悪いな、俺も”出来損ない”なんで、お前を生け捕る技量がなかったんだ。」

 そう呟いて、中尉は死骸にぺっと唾を吐き捨てた。彼の横にケツァル少佐が来た。

「グラダ・シティの”ツィンル”の中に良からぬ振る舞いをする者がいる様です。」

 彼女の言葉に、中尉が上官を見た。強張った表情で尋ねた。

「確かですか?」
「コイツがそう言いました。その者がドクトルをコイツに売り、コイツはその者にロホを売ろうとしたに違いありません。」
「ロホはブーカ族の貴族の子ですから、身代金を狙ったのでしょう。」

 少佐はカンパロの死骸に興味を失ったのか、視線を部下に移した。

「遅かったですね。貴方の方が先に来ていると思っていました。」
「”赤い森”を殲滅させたので時間を喰いました。遅れて申し訳ありません。」

 少佐が天を仰いだ。

「私の部下達は、どうして命令外のことをするのでしょう?」


アダの森 9

  カンパロと手下達は銃を掴んでキャンプの向こう側へ走って行った。焚き火から抜き取った棒を松明代わりにして茂みに入って行く。焚き火のそばに1人だけ残った。ロホの横に立って見張っている。
 ケツァル少佐がシオドアに軍用ナイフをそっと差し出した。シオドアが受け取ると、彼女はスッと立ち上がり、焚き火の近くへ出て行った。見張りは彼女が視野に入っている筈なのに気が付かない。少佐は猫の様に足音を立てずに彼のそばへ近づいた。流石に気配を感じたのだろう、見張りが振り向いた。シオドアは撃ち合いになるかと思った。しかし、見張りは目の前に立っている女性が見えていない様だ。首を傾げ、また仲間が動き回っている森の方を向いた。松明の灯が少しずつ遠ざかって行く。向こうへ行ったぞ、あっちだ、と声を掛け合うのが聞こえた。
 少佐がライフルの負い紐を肩から外し、銃身を握るといきなり見張りの頭部を殴打した。見張りが昏倒した。彼女が振り返ったので、シオドアは茂みから跳び出した。杭に駆け寄り、ロホを縛り付けている縄をナイフで切断した。その間少佐は武器を持ち直し、周囲の警戒を怠らなかった。
 ロホの左肩は汚れた布が巻き付けられているだけで、その布も軍服も血でグッショリ濡れていた。意識がない。だがまだ呼吸はあった。シオドアはリュックを下ろし、ロホを背中に担ごうとした。彼の動きに気づいた少佐が素早く手を貸した。身長があるロホを担ぐのは、やはり身長があるシオドアでも容易なことではない。シオドアは少佐の指示を待たずに森の中へ走った。少佐は彼が森に入ったことを見届けると、リュックを背負い、そばのテントの中を覗いた。予備の武器が置かれていた。その中からロホの銃を迷うことなく取り出すと、残りの銃器にランプの油をかけた。
  夜の森を人間を背負って走るのは非常に困難だった。シオドアが悪戦苦闘しながら駆けていると、すぐにケツァル少佐が追いついた。後方で花火が弾ける様な音が始まった。シオドアが思わず足を止めると、少佐が怒鳴った。

「止まるな!」

 シオドアは再び走り出した。キャンプでの騒ぎを聞きつけてゲリラ達が戻ったのだろう、怒声が聞こえた。闇雲に夜のジャングルに銃弾を撃ち込む馬鹿がいた。射程距離から出たと思われたが、シオドアは生きた心地がしなかった。
 木の枝がぶつかって来た。シオドアは背中のロホを枝から守ってやれる余裕がなかった。せめて大きな枝にぶつけない様に、とひたすらそれだけ念じながら走った。ケツァル少佐が彼の前に出た。ナイフで枝を切り払ってくれたので、少しだけ楽になった。しかしこれは追手に自分達が通った道筋を教えることになる。

「少佐・・・」

 シオドアは喘ぎながらなんとか言葉を声に出した。

「来た道を通れないか?」
「ノ。”入口”から遠すぎます。」

 意味がわからないが、ステファン中尉と落ち合う場所へ行く方角ではないと言うことだ。
 彼等はジャングルの中を歩いているのか走っているのか判別出来ない速度で移動した。シオドアは汗だくだった。しかし汗の臭いより背中のロホの体から漂う血の金気臭い臭いが気になった。野獣がこの臭いを嗅ぎ付けて襲って来るのではないか。それはゲリラとは別の心配だった。
 少し先を走っていた少佐が足を止めた。シオドアに待てと合図を送り、前方を見ていた。数分後に振り返ると、来いと手を振った。
 水辺だった。岩の間を冷たい沢が流れていた。前の日にシオドアがステファン中尉に危うく撃たれそうになった場所からちょっとばかり上流だ。シオドアは岩の上にロホを下ろした。ロホが微かに呻き声を立てた。シオドアが水を飲む間に少佐がスカーフを水で浸してロホの顔を拭いてやった。ロホが目を開いた。何か言いかけたが、少佐は彼の唇を指で軽く抑えた。彼女がリュックを下ろしたので、シオドアは中から医療キットを出した。彼には中身がよく見えなかったが、少佐には昼間同様見えているのだろう。ロホの左肩に巻かれた汚い布を外し、軍服をナイフで切り裂くと、傷口が見えた。胸ではなく腕の付け根だ。もしやカンパロは関節を狙った? シオドアは少佐のスカーフをもう一度水で洗い、ロホの傷口を出来るだけ綺麗に拭いた。その間に、少佐は人間ではない離れ業をやってのけた。医療用の針に糸を通したのだ。

「ロホを抑えて下さい。応急処置を施します。」

 シオドアは咄嗟に目に入った小枝をナイフで切り取り、ロホの顔の前にかざした。

「これを咬め。声を出すなよ。」

 照明なしで外科手術をするなど、前代未聞だ。シオドアは苦痛で全身に力を入れてしまうロホを必死で抱き抑えた。ステファン中尉がいてくれたらもう少し楽なのにと思ったが、いない人間を悔やんでも仕方がない。ロホも必死で耐えていた。刺された時の痛みと針で縫われる痛みと、どちらが苦痛だろうとシオドアは思った。

「終わりました。よく頑張りましたね、アルフォンソ。」

 少佐の一声で、シオドアもロホも力を抜いた。力が抜けるとロホはまたもや気絶してしまった。どうせなら手術前に気絶してくれれば良いものを、とシオドアは内心悔やんだ。また傷口を拭い、包帯を巻いた。少佐が地面に穴を掘って血で汚れた物を埋めた。それから、やっと彼女も手を洗った。
 東のエル・ティティの方角に太陽が上ろうとしていた。


2021/06/30

アダの森 8

  今度はケツァル少佐が先頭に立った。3人のゲリラが歩いた後を追跡して行く。アサルトライフルは何時でも撃てる様に腰だめの状態だ。シオドアは最後尾にいた。ついて行くのがやっとだ。大統領警護隊の2人は殆ど駆け足だったが彼を置き去りにすることはなかった。シオドアの足音が少しでも遠ざかると歩調を落とし、追いつくのを待ってくれた。
 つとステファン中尉が足を止めた。ケツァル少佐も立ち止まって振り返った。中尉が言った。

「敵が近いです。私が一緒だと全員が見つかってしまいます。向こう側へ廻って囮になりますから、その間にロホを救出して下さい。」

 シオドアは彼の言葉の半分が理解出来なかった。何故中尉が一緒だと敵に見つかるんだ? しかし少佐は素直に部下の申し出を受け入れた。

「了解です。”入り口”で落ち合いましょう。」

 中尉がリュックを下ろし、シオドアに差し出した。シオドアがそれを受け取り背負ったところに、今度は拳銃を渡された。

「撃てますね?」

と訊かれた。シオドアは自信がなかったが、頷いた。遊びで射撃場に行ったことはある。記憶喪失になる前だったが、そんな気がした。拳銃をベルトに差すと、ずっしりと重たかった。リュックより重たい。

「躊躇わずに撃ちなさい。」

と中尉がアドバイスをくれた。

「連中は”砂の民”と同じで危険です。向こうは躊躇わずに撃ってきます。」

 少佐が囁いた。

「一緒に闘い一緒に帰る。」Peleemos juntos,  Vamos a ir juntos a casa. 

 中尉も同じ言葉を繰り返した。2人がこちらを見たので、シオドアも真似た。

「一緒に闘い一緒に帰る。」

  ステファン中尉は少佐とシオドアに敬礼すると、夕暮れが迫るジャングルの中に素早く消え去った。
 シオドアが中尉が去った方角を見ていると、少佐が歩き出した。彼は慌てて追いかけた。用心深く足元を確認しながら進んだ。森の中はすっかり暗くなった。空気が湿っていて重たい。雨季だが今年は雨が少ないとエル・ティティの住人達が空を心配していた。豪雨になったのはシオドアが田舎町に逃げてから最初の半月だけで、後は曇ったままで、たまに思い出したように降るだけだった。
 一度何気なく倒木を跨ぎ越える際に、危うく蛇を踏みつけるところだった。少佐!と彼が声を出さずに叫ぶと、ケツァル少佐が軍用ナイフで蛇の頭を刎ねた。ナイフを草で拭いて、彼女はちょっと言い訳っぽく言った。

「カルロがいればこんな苦労はしなくて済むのです。」

 ステファン中尉がなんだって? 
 暗闇でも目が見えるのはロホだけではないと言うことが証明された。少佐は昼間と同じスピードで歩いて行く。夜行性の昆虫の鳴き声が煩く、樹木の上で何かが動き、声を立てた。
 シオドアはその音や声が先刻までしなかったことに気がついた。今朝少佐達と合流してから、ずっと静かだったのだ。小さな生き物達が彼の周辺で動き出したのは、何時からだ? 
 木が燃える臭いがして来た。タバコの臭いもする。人の気配だ。少佐が立ち止まり、シオドアに姿勢を低く、と手で合図した。彼女も中腰で数メートル進んだ。
 キャンプがあった。シオドアが脱出した同じ場所とは思えなかった。テントは2つだけだ。その間に焚き火が作られている。夜間航空機を飛ばさないセルバ共和国だから、火を焚いても空から発見されないとたかを括っているのだ。
 焚き火のそばに杭が打たれ、そこに1人の男が縛り付けられ、地面に座り込んでいた。迷彩服の左肩の色が黒くなっている。血だ、とシオドアは察した。男は顔を俯けていたが、ロホに違いない。
 
 焚き火のそばに3人の男がいた。折り畳みの椅子に座って、鍋で煮込んだ肉を食べている。1人は向こうの方で立ち番をしている様だ。テントの一つからカンパロが出てきた。

「明日の夜明けにここを発つ。」

 彼の宣言に仲間達が顔を上げてボスを見た。

「明日の夜明け?」
「あの白人は探さないのか?」
「あいつはどうでも良い。」

  カンパロがロホの前で屈み込んだ。捕虜の顎を手で掴んで顔を自分の方へ向けさせた。

「思いがけない獲物が獲れた。こいつは高く売れる。」

 手下達からブーイングが聞こえた。

「インディヘナの男なんか買うヤツがいるもんか!」
「大統領警護隊が身代金を払うとは思えねぇな。」
「第一、へフェ、あんたがそいつを刺して弱らせちまった。明日になれば死んじまうぜ。」
「死ぬものか。」

 カンパロが手を離したので、ロホはまたぐったりと頭を垂れた。

「またジャガーに化けるとヤバいから、弱らせる為に刺したんだ。こいつ等は簡単には死なない。しぶとく生き延びてきた連中だからな。」

 シオドアは少佐を見た。彼女は目を閉じていた。ここで感情を昂らせまいと気を鎮めている様に思えた。カンパロはロホが再びジャガーに変身するのを恐れて刺したと言った。刺された時、ロホは既に縛られていた筈だ。無抵抗な人間を刺すカンパロの残虐性をシオドアは思い知らされた。自分が無事だったのが不思議なくらいだ。ロホは刺された時に心の中でケツァル少佐に助けを求めたに違いない。彼女はそれを確かに受信した。
 どうやってロホを助けようか? シオドアは”心話”を使えない己が歯痒かった。少佐と相談が出来ない。その時だった。
 キャンプの向こう端で見張りに当たっていた男が声を上げた。

「何かいるぞ!」

 ゲリラ達が一斉に手近の武器を手に取った。見張りがジャングルを指差した。

「虫の声が止んだ。」

 ガサガサと茂みが音を立てて、黒い影が走り去った。見張りが発砲しながらそちらへ走った。焚き火のそばにいた1人が火の付いた棒を掴んだ。

「アメリカ人だ。捕まえろ!」



アダの森 7

  太陽がジャングルの木々の向こうにある。木漏れ日はあまり差し込まない。ステファン中尉が先頭に立ち、シオドア、ケツァル少佐の順番で3人は森の中を歩いた。オクタカス遺跡のメサを軽々と下りて行った時の様に、ステファン中尉はまるで道があるかの様に迷うことなく進んで行く。足元の枝や草を踏んで音を立てることもない。シオドアは彼が足を置いた通りに歩いた。後ろの少佐も音を立てないので、時々彼女が遅れずについて来ているのか心配になる程だ。
 突然、中尉がクッと喉を鳴らし、前に倒れ込んだ。シオドアは仰天する前に、後ろから少佐に地面に押さえ込まれた。危うく声を出しそうになって自制した。中尉は倒れたのではなく、伏せたのだ。アサルトライフルを構え、そのまま固まっている。シオドアは背中に少佐の体重をかけられたまま、息を殺した。不謹慎だが、彼女の胸の感触が心地よい・・・。
 数メートル前方でガサガサと草をかき分ける音がした。タバコの臭いがした。人間が歩いている。

「あの白人、なまっちょろいから遠くへは行っていないと思うがなぁ。」
「どこかに隠れているんだ。」
「まさか、”死者の村”じゃないよな?」
「ロス・パハロス・ヴェルデスでも近づかない場所だ。」
「白人なら入るかも知れないぜ。」

  男が3人。そのうちの1人の声は聞き覚えがある。ムカデを取ってくれた男だ。シオドアは誘拐された時、ゲリラは全部で5人だったと記憶していた。カンパロの声は今聞こえない。もう1人いた筈だ。

「昨日の昼に捕まえたエル・パハロ・ヴェルデの兵隊・・・」

 え? シオドアはピクリと体を動かしてしまい、少佐に頭を思い切り押さえつけられた。

「へフェ(ボス)がえらくご執心じゃないか。」
「あいつが俺を殴り倒したジャガーだって、ふざけたことを言ってやがるぜ。」
「ジャガーに化けるのは”ヴェルデ・シエロ”だろ? 大統領警護隊はそのお遣いに過ぎないって言うのによ。」
「大体、お前、本当にジャガーに殴られたのか? ジャガーは一撃でお前の首を跳ばせるんだぜ。」
「本当にジャガーを見たんだ。テントから出たら、目の前にいやがった。跳びつかれて、あっと言う間に気を失っちまったんだ。」

 彼等は喋りながら遠ざかって行く。ステファン中尉がそーっと体を起こした。ケツァル少佐もシオドアの背中から静かに離れた。シオドアは彼女が完全に彼から降りる迄伏せたままだった。
 3人は静かにゲリラ達の後ろをつけて行った。まるで獲物に忍び寄るジャガーそのものだ、とステファン中尉の後ろを歩きながら、シオドアはそんな感想を抱いた。
 ロホはやっぱり捕まったのだ。酷く消耗していたから、ゲリラ達に追いつかれたのだ。戦わずに捕まったのか? 戦える力は残っていなかったのか? 
 カンパロは手下を襲ったジャガーがロホだとわかったのだ。あの男はメスティーソだが、”ヴェルデ・シエロ”の存在を知っている。彼の先住民の血は、古代の一族のものなのかも知れない。しかし彼の手下共は”ヴェルデ・シエロ”は昔話の神様と言う程度の認識だ。人間がジャガーに変身するなど、信じられないのだ。
 
 それが一般常識ってもんだ。

 カンパロともう1人の手下はキャンプでロホを見張っているに違いない。ひょっとすると、彼を拷問している可能性もある。シオドアは焦燥感に襲われた。もしロホが殺されたら、それは俺のせいだ。
 つい足速になってしまい、靴の下でパキッと音がした。3人共に同時にフリーズした。シオドアを怒るよりも、ステファン中尉は前方を行くゲリラの動向を伺った。男達はジャングルに人間の敵はいないと考えているのか、喋りながら物音を立てて歩き続けた。
 ゲリラ3人の姿が見えなくなった。 ステファン中尉が背筋を伸ばしたので、シオドアも肩の力を抜き、ごめん、と謝った。少佐が彼の横に来た。

「連中は足跡を残してくれました。距離を空けて追跡出来ます。」
「ロホは捕まったんだね。」
「山から幹線道路に出てしまう前に力尽きたのでしょう。道路に出られさえすれば救援を求めることも出来た筈です。」

 彼女はシオドアを見た。

「カンパロはロホが貴方を逃したジャガーだとわかった様です。」
「うん。 あいつはタダのゲリラじゃなさそうだ。」

 その時、ケツァル少佐は一瞬ビクッと体を震わせ、顔色を変えた。彼女の気配の変化にステファン中尉が気付いて振り返った。

「どうしました?」

 ケツァル少佐は硬い表情でゲリラ達が消えた方角を見つめた。睨みつけたと言っても良い。

「今、ロホが私を呼びました。早く行きましょう。」


 

 
 

アダの森 6

 斜面を登るケツァル少佐の足取りが重たかったので、シオドアは足を止めて彼女を待った。

「幽霊が見えているのかい?」
「明瞭に見えている訳ではありません。白い人影があちらこちらに浮かんでいるのです。」

 シオドアは周囲を見回した。霧が漂っているだけだ。まさかこの霧が幽霊と言う訳でもあるまい。

「俺には霧にしか見えない。だけど、昨夜は声を聞いた。」

 先を登っていたステファン中尉がチラッと振り返り、また前を向いた。シオドアは昨夜耳にした不思議な声の説明をした。

「楽しそうな感じだった。きっと誰かを呪ったり恨んだりはしていないよ。生きていて楽しかった日々を思い出して語り合っていたに違いない。」

 少佐が彼の横に並んだ。しげしげと彼を眺めた。

「貴方は本当に不思議な人ですね、ドクトル。私達は亡者を見たり感じたりしますが、声は聞こえないのです。貴方に彼等の言葉が理解出来たら、簡単に済む物事もあるでしょうね。」

 幽霊の声が理解出来たら皆んなで祓い屋でもするかな、とシオドアは冗談を言った。大統領警護隊は多分、そう言う能力を持つ人々なのだ。しかし職業にはしていない。”ヴェルデ・ティエラ”の拝み屋はいても”ヴェルデ・シエロ”の祈祷師はいないのだ。正体を隠しているから。

「今朝、俺が目を覚ましたのは、空気がビリリと振動したからなんだ。あれも幽霊の仕業かい?」

 するとステファン中尉が足を止めて振り返った。少佐がまたシオドアをじっくりと見つめた。

「あれを感じたのですか?」
「スィ。君達も感じたのかい?」

 すると彼女が、

「あれは私です。」

と言った。

「ロホを心の力で呼んだのです。でも彼は応えてくれません。」

 シオドアは彼女が死者の村へ行きたがらない理由を突然悟った。彼女はもしロホが亡者の群れの中にいたらと不安なのだ。彼は彼女を励まそうと言った。

「ロホは本当に疲れているんだよ。変身後は2日程寝込むと言っていたから、今頃何処か安全な場所で休んでいるに違いない。」
「早く安全な場所で休憩しましょう。」

とステファン中尉が少し苛っとして言った。それで3人は再び歩き始め、シオドアが隠れていた小屋に辿り着いた。中の安全を確認して、中尉はシオドアと少佐を中に入れ、彼自身は外の草の中に座った。見張りながらの休憩だ。彼が背負っていたリュックを少佐が受け取り、中から携行食を出してシオドアに食べさせてくれた。シオドアは母国の軍事食糧を試食したことがあるが、セルバ共和国の物は超シンプルだと思った。ロホにもらった干し肉もそうだったが、少佐とステファン中尉が持って来たのはパサパサに乾燥させたジャガイモと硬いチーズだけだった。もっとも彼等は短期の活動を想定しているのであって、長期戦をするつもりはないのだ。真空パックに入ったオレンジジュースが一番美味しかった。

「ディエゴ・カンパロと言う男なのだが・・・」

とシオドアはお腹が落ち着くと、誘拐されている間に得られた情報を出した。

「アメリカ政府がCIAを使って俺を探していると言っていた。普通のセルバ人がそんなことをどうやって知る? 口から出まかせなのか、それとも彼に情報を流している人間が政府関係者の中にいるってことだ。そう思わないか?」
「お金で繋がっている政治家とゲリラは珍しくありません。」

 少佐が溜息をついた。

「セルバ人は天使ではないし、聖人でもありません。私達の一族にもお金を稼ぐのに夢中で優しい心を忘れた人は大勢います。」
「そりゃ、人間だもの、欲はあるさ。だけど、俺が北米政府のお尋ね者で、エル・ティティに隠れているってカンパロに教えたヤツがいるらしいんだ。」
「私のチームにとってカンパロと”赤い森”は天敵です。遺跡発掘調査団を狙う不埒な連中ですから、繋がりを持つことはありません。」
「わかってる。多分、俺はグラダ・シティから脱出する時に誰かに見られたんだ。大学関係者に知り合いが多かったからね。友達じゃなくても、北から来た講師って言うので注目を集めたことは確かだ。その目撃者がアメリカ大使館の動きを知っていて、カンパロと繋がりを持っている。」

 シオドアは食べた後のゴミを小さくまとめた。遺跡に残さないように、袋に入れてリュックに仕舞った。

「出かけるかい? ”赤い森”がキャンプを移動させていなければ、俺も何となく位置がわかる。逃げたのが夜中だったから、方角にちょっと自信がないけど。」

 しかし少佐はもう少し休みましょう、と言った。

「闇雲にジャングルの中を歩いても消耗するだけです。午後迄休憩です。」
「ロホと何処かで行き違いになった可能性もあるしね。」



2021/06/29

アダの森 5

  待つ身は辛い。狭い隠れ場所から出るのは用を足す時だけ。水場はゲリラに見張られている可能性があるので近づかないように、とロホから釘を刺されていた。小さな水筒の水を大切に、口の中を湿らせる程度に飲み、干し肉を齧ると言うよりしゃぶった。退屈を紛らわせるのは、遺伝子マップだった。石の上に石で図を描いていった。ジャガーに変身する遺伝子とは、どんなものだ? サンプル”7438・F・24・セルバ”の情報は、これも含んでいるのか? 過去に捨てた筈の遺伝子分析が退屈凌ぎに役立った。
 2度目の夜は寒かった。標高がそこそこあるので夜間は気温が下がる。石の床が冷たかった。昔の人はここにハンモックをぶら下げたのか? この天井の高さでは無理だろう。きっと木でベッドを作ったに違いない。
 眠れないでいると、小屋の外で人の話し声が聞こえた。追手か? シオドアは壁に身を寄せ入り口から覗かれてもすぐには見られない様に試みた。話し声は次第に大きくなってきた。大勢がてんで勝手に喋っている様だ。男の声、女の声、子供らしい甲高い声もする。何だか楽しそうだ。棄てられた村で真夜中に人が集まるのか?
 シオドアは不思議に思い、そっと小屋から顔を出してみた。誰もいなかった。声はパタリと止み、それっきり聞こえなくなった。風が草の上を吹き抜け、ザワザワと葉が鳴っただけだ。
 シオドアは空を見上げた。雨季の空は雲に覆われ星は見えなかった。さっきの賑やかな声は何だったのだろう。幽霊なのか? 
 小屋に戻り、寒さに震えながら再び声が聞こえて来るのを待つ内に、いつの間にか膝を抱えて座ったまま眠りに落ちた。
 

 ビリリっと空気が震えた感触がして、シオドアは飛び起きた。危うく低い天井に頭をぶつけるところだった。床の一角に太陽の光が当たっていた。朝が来ていた。
 シオドアは小屋から顔を出した。雲が去って青空が見えていた。空気が冷たく肌に気持ちが良かったが、空腹で喉も渇いていた。
 さっきの空気の震えは何だったのだろう? 幽霊の悪戯か? シオドアは用心深く外に出た。死者の村の周辺には誰もいない様だ。水を探しに行こう、と思った。まだロホも少佐も来ないだろう。ゲリラに見つかりさえしなければ、少しの間留守にしても大丈夫だ。彼は身を低くして斜面を歩いた。沢が出来る地形を考え、滑らないように足元に注意しながら森へ近づいて行った。
 茂みの中から水音が聞こえた。水が流れている。シオドアは嬉しくなり、一瞬注意が散漫になった。低木を押し分けた途端、目の前に迷彩色の服が見えた。
 カンパロだ!
 固まってしまったシオドアに、向こうも咄嗟に腰だめでアサルトライフルを向けた。迷彩色のヘルメットの下は、ちょっと丸味のある顔にゲバラ髭、目元に傷はない。5秒後、同時に相手が誰だかわかった。
 シオドアは全身の力が抜けて、その場にヘナヘナとしゃがみ込んだ。

「ステファン中尉・・・君にここで出会うとは・・・」

 向こうも銃口を下に向けた。息を吐いて囁いた。

「ドクトル、もう少しで撃つところでした。」

 ステファン中尉の背後から音を立てずにケツァル少佐が姿を現した。彼女も迷彩服で同色のヘルメットを被っていた。アサルトライフルを持っている姿は初見だ。シオドアを眺め、それから周囲を見た。低い声で尋ねた。

「ドクトル、ロホと出会いませんでしたか?」
「会ったよ。彼が俺をゲリラのキャンプから助け出してくれたんだ。」

 少佐がステファン中尉と目を合わせた。そして直ぐにシオドアに向き直った。

「何時のことです?」
「2日前の夜。俺がカンパロに捕まったその夜さ。」

シオドアは斜面の上の方を振り返って指差した。

「あの上に棄てられた古い村の跡があって、そこに案内された。俺は彼の言いつけを守って昨日1日村の跡に隠れていたんだ。彼はオルガ・グランデ基地へ向かった。君と合流するつもりだった筈だけど・・・」

 物凄く嫌な予感がした。その予感が的中したことを、少佐が教えてくれた。

「彼は基地に戻っていません。貴方が誘拐されたとゴンザレス署長から連絡を受けて、私は電話で彼に現地の偵察を命じました。本来なら、昨日の昼迄に戻っている筈でした。」
「俺のせいだ。」

 シオドアは泣きたくなった。あの優しい若者の身に良くないことが起きたのは明白だ。

「彼はジャガーに変身して偵察に来たんだ。そして偶然俺を見つけて、敵の隙を突いて助け出してくれた。変身したら酷く疲れると言っていたんだ。だから俺は足手まといにならないよう、ここに残って、彼は基地へ報告の為に戻ると言って、隠れ家から出て行った。まだ基地に戻っていないのだとしたら・・・」

 少佐が溜息をついた。

「変身する必要があったとは思えません。ナワルは無闇に使うものではないのです。ロホはナワルを使う方が効率が良いと考えたのでしょうが、それなら基地に帰り着く迄そのままの姿を保っていれば良かったのです。」
「ジャガーの姿では俺と話せないだろう?」

 多分、ケツァル少佐もステファン中尉もジャガーに変身出来るんだ、とシオドアは確信した。少なくとも少佐は変身が自分達の体にどんな影響を与えるか理解している。

「君達はロホが戻らないから探しに来たのかい?」
「スィ。」
「勿論貴方の救出も目的です。」

 少佐の相変わらずの愛想なしの返事を、中尉が慌ててフォローした。そして少佐に提案した。

「少し休憩しましょう。ドクトルが隠れていた村の跡へ行きませんか。」

 ケツァル少佐は斜面を見上げて、不満そうな顔をした。

「あそこへ行くのですか?」

 シオドアは彼女が嫌そうに呟くのを聞いた。

「亡者がいっぱいいますよ。」

 ステファン中尉がシオドアの目を見た。 え? シオドアはびっくりした。今、俺に何か言おうとしたのかい? 中尉が頬をぽりぽりと掻いた。

「ドクトルが平気なのですから、大丈夫ですよ。」

 もしかして、少佐は幽霊が見えているのか? 彼女は幽霊が怖い? 悪霊は平気なのに? ステファン中尉はちょっと焦れた。 シオドアに手を差し出して立たせると、少佐に手を振って、来いと合図した。シオドアは少佐の為に少しだけ時間稼ぎをすることにした。

「実は水汲みに来たんだ。近くに水場はないかな?」

 

アダの森 4

  鳥の囀りでシオドアは目が覚めた。朝だ。狭い窓から朝日が差し込んでいる。彼は体を起こした。四角い石に囲まれた空間だった。屋根がある。下は石畳だ。壁を形成している石はきちんと四角く整えられていた。出口は小さいが縦長の長方形だ。牢獄ではなさそうだ。シオドアは引っ掻き傷だらけの自身の腕や脚を見た。シャツの前は開いており、ボタンがなくなっている。胸にも枝で付いた傷があった。
 昨夜の出来事は夢ではなかった。彼はジャガーに導かれ、急斜面を上り、ジャングルの中の廃墟に隠れたのだ。ジャガーは石の小屋の前で立ち止まり、彼の顔を見て、小屋を見た。入れと言われている、と感じたシオドアは素直に小屋に入った。それっきりジャガーを見ていない。疲れていたシオドアはそのまま眠ってしまったのだ。
 喉が渇いていたので、シオドアは小屋から出た。昨夜は暗かったので、どんな場所だかわからなかったが、石で出来た建造物が深い草に覆われた斜面にポツポツと顔を出しているのが見えた。遺跡だ。神殿や道路の様な物は見当たらなかった。シオドアが寝ていた小屋と同規模の同型の物が10ばかりあるだけだ。下の方にはテラス状の土地が数段あり、その下にジャングルが広がっていた。昔の村の跡地か?遺跡は白い霧で包まれていたが、斜面の下の風景は見ることが出来た。 
 ふと横を見ると、迷彩服の男が1人近づいて来るところだった。アサルトライフルを腰だめで撃てる形に持って草の中を足音を立てずに歩いていた。胸に緑色の徽章が光った。シオドアは一気に緊張を解き、石壁にもたれかかった。

「ブエノス・ディアス、ロホ。」

 シオドアが挨拶すると、向こうも挨拶を返してくれた。

「ブエノス・ディアス、テオ。」

 そばに来ると、ロホが腰から小さな水筒を外して渡した。シオドアは夢中で中の水を飲んだ。ロホが彼の全身を眺めた。

「昨夜は無理をさせてしまいましたね。しかし、あのまま貴方をあそこに置きたくなかったのです。」

 シオドアはびっくりして水筒を持つ手を下げた。

「何のことを言ってるんだ? 俺はジャガーに助けられて・・・」

 彼はそこで言葉に詰まった。彼を見つめているロホの目がいつもと違っていた。金色の眼球に細い縦長の瞳孔。白目の部分がない。まるで猫の目みたいだ。
 ロホがそばの壁にもたれかかった。疲れ切っている。それでも彼はシオドアに言った。

「ここはまだ奴等に知られていません。知っていても近づくのを嫌がる筈です。」
「遺跡だからかい?」
「遺跡と言うより、棄てられた死者の村です。疫病が流行ったので、住人が村を捨てて他所へ引っ越したのです。」
「君はここを知っていたんだね。」
「この山の反対側にあるディエロマ遺跡調査隊の護衛を指揮したことがあります。その時に山の周辺を調べたのです。」
「この山はティティオワ山だよね?」
「南斜面です。北側にディエロマ、東にエル・ティティ、西の斜面を降ればオルガ・グランデです。」
「君は何処から来たの? まさか、1人で俺の救助に来た訳じゃないよね?」

 ロホは困ったと言う表情をした。

「オルガ・グランデ基地で司令達と雨季明けの発掘調査の護衛隊を編成する相談をしていました。そこへケツァル少佐から、貴方がカンパロに誘拐されたと連絡が入りました。」

 少佐から? シオドアは一瞬心が弾んだ。彼が洗濯場所に置いた手紙を、ゴンザレス署長は正しく解釈して、政府軍ではなく、州警察本部でもなく、大統領警護隊文化保護担当部に連絡してくれたのだ。

「少佐が君に俺の救出を命じてくれたんだ!」
「ノ、違います。」

 ロホは申し訳なさそうに説明した。

「少佐は、昨夜グラダ・シティを発たれました。私は貴方が連れて行かれた場所を特定せよと命じられただけです。」
「つまり・・・救助の下見?」
「そうです。」
「もしかして、彼女はまだ車の中・・・とか?」
「スィ。」

 セルバ共和国では夜間航空機を飛ばさない。山が高く乱気流が発生しやすい地形と、古い航空機の性能の脆弱さ故だ。外国から来る航空機は海側から来る。国土上空を横断するのは昼間だけだ。
 シオドアは頭を掻いた。

「救助の下見に来て、うっかり救助しちゃった訳だ・・・」
「スィ。」
「有り難う。」

 ロホの肩に手を置いた。振り返ったロホの目は黒い人間の目になっていた。

「昨夜のジャガーは君だったんだね?」

 スィ、と答えてしまってロホはちょっと狼狽えた。

「信じられないでしょう?」
「信じるさ。」

 シオドアは微笑んで見せた。

「だって、あのジャガーは人間みたいな行動を取ったんだ。それにさっきの君の目はジャガーの目だった。」

 ロホが慌てて手で目を覆った。その仕草が可愛らしかったので、シオドアは笑った。

「もう人間の目に戻っているよ。」
「貴方は本当に不思議な人です。」

 ロホが彼らしい優しい表情で彼を見た。

「我々を怖がる人の多くは、ジャガーに食い殺されないかと心配するのです。我々のナワルがジャガーであると言い伝えが残っているからです。でも貴方はジャガーを見ても怖がらなかった。」
「否、十分怖かった。悲鳴を上げようと思ったけど、声が出せなかった。それだけ恐ろしかったんだ。刺激しないように、ひたすら無抵抗で動かずにいた。」
「怖がらせてしまってすみません。お陰でゲリラに見つからずに貴方を助け出せた。」

 シオドアとロホは笑い合った。
 ところで、とロホが言った。

「これからオルガ・グランデ基地に行かなければなりません。エル・ティティへ行く経路はゲリラが抑えているでしょうから、西へ行きます。しかし・・・」

 彼は疲れた顔でシオドアを見た。

「ご覧の通り、私は疲れています。ジャガーに変身するとエネルギーを恐ろしく消耗するので、普段2日程寝込むんです。 私1人なら今日中に基地迄帰れますが、貴方を連れて行くのは難しいです。」
「俺はジャングル歩きに慣れていない普通の人間だからね。」
「悪く思わないで下さい。ゲリラに追跡されたら、貴方を守りきれません。少佐が来られる迄、ここで隠れていて下さい。食料はこれしかありませんが。」

 ロホが迷彩服のポケットから紙で包んだ一握りの大きさの物を出した。干し肉だった。


アダの森 3

  ”赤い森”はかつて小作農民や低所得層労働者が支配階級に抵抗し、人権救済を求めて組織した政治団体だった。だがまとまりの悪い組織で、結成されて数年も経たぬうちにゴロツキの集団と化した。銀行強盗、トラック襲撃、外国人誘拐で資金を集め、民衆の支持を失い、革命思想から頓挫した。今は市民から忌み嫌われる存在だ。セルバ共和国政府軍は彼等を何度か追跡し、アジトを襲撃したが、いつも幹部に逃げられた。巷の噂では、”ヴェルデ・シエロ”の血を引くメンバーがいるのではないかと囁かれていた。ジャングルの中を縦横無尽に移動し、神出鬼没のゲリラ活動に、官憲は手を焼いていたのだ。しかし国防大臣は大統領警護隊に協力を求めなかった。協力を要請しても拒否されることはわかっていた。”国家の存亡に関わる問題”ではないからだ。
 シオドアは頭から目隠しの袋を被されて森の中を歩かされ、”赤い森”のキャンプに連れて行かれた。感覚では半日歩いた気分だった。色々と障害物を迂回したり坂を上がったり下ったりしたので、時間がかかったのだ。川を2回渡ったが、同じ川なのか川が2本あるのか不明だった。
 テントの中で袋を外された。縛られたまま箱の上に座らされ、写真を撮られた。身代金要求に使うのだ。蒸した芋と水だけの食事の間だけ、手を縛っている縄を解いてもらった。ゲリラ達はシオドアの前に来る時はスカーフで顔半分を覆っていた。カンパロだけが顔を曝していたのは、本人も有名だとわかっていたからだろう。特徴である目の下の傷痕はスカーフでは隠せない位置だ。
 日が落ちてからカンパロがシオドアが軟禁されているテントに来た。

「アメリカ政府と交渉する。」

とゲリラの頭目が言ったので、シオドアは笑った。

「無駄だよ、連中は俺なんぞに身代金を払ったりしない。」

 シオドアは政府が作った人間だ。いなくなっても悲しむ親族はいないし、救出を求める友人もいない。第一、俺がいなくなってもアメリカ国民は誰も気が付かない。俺は普通の市民ではなかったから。アメリカ政府は俺を使い捨て出来るんだ。

「お前を探してアメリカ政府のスパイどもがグラダ・シティの中を探っているそうじゃないか。」

 とカンパロが言ったので、

「誰からそんな話を聞いたんだ?」

と尋ねてみた。カンパロがニヤリと笑った。

「お前のことを教えてくれた人さ。」
「だから、誰なんだ?」

 カンパロはククッと喉の奥で笑ってテントから出て行った。
 ジャングルの奥で盗賊紛いの行いをしている連中が、どうしてCIAが俺を探しているって知っているんだ? シオドアは木箱の上に座ったまま眠る訳にいかないので地面に腰を下ろした。土の上に直に座るのは嫌だったし、毒のある生き物に噛まれたり刺されたりする危険があったが、体を休めるには地面に座って木箱にもたれかかるしかなかった。
 カンパロは外務省の人間や政府軍の幹部と繋がりでも持っているのか? それを考えて、シオドアはゾッとした。それなら”赤い森”の幹部が捕まらない理由がわかる。誘拐した外国人の身代金を交渉する窓口を何処かに持っているのだ。窓口の人間が上手く立ち回らなければ、身代金を取っても人質を殺害してしまう。窓口の人間の正体を人質が知ってしまったから? 
 ”赤い森”のメンバーに”ヴェルデ・シエロ”の血を引く者がいると言う噂は本当だろうか。カンパロのあの自信に満ちた態度は、超能力を持っているからか? 大統領警護隊文化保護担当部の隊員達からは感じ取れなかったが、”ヴェルデ・シエロ”は他人の心を読めるのではないのか? それなら”赤い森”のメンバーがCIAの情報を得られることも考えられる。まさかカンパロがその能力を持っているんじゃないだろうな。しかし、あの男はメスティーソだ。ステファン中尉が言っていた、純血至上主義者が呼ぶところの”出来損ない”だ。メスティーソに人間の心を読む力があるのか?
 シオドアは体に何かモゾモゾとした気色の悪い感触を覚えた。暗くて見えないが、何かが服の中に入って来た様だ。彼は叫んだ。

「毒虫だ、助けてくれ!」

 テントの入り口が揺れた。誰かが怒鳴った。

「静かにしろ!」
「体の上を何か這っているんだ。取ってくれ、早く!」

 シオドアの悲痛な声に、男が1人入ってきた。時代がかった石油ランプを木箱に置いて、シオドアの上体を起こした。シオドアは胸の上だと訴えた。男が乱暴に彼のシャツの前を開いた。ボタンが千切れて飛んだ。シオドアは男が大きなムカデを指で摘んで捕まえるのを呆然と眺めた。

「そんな物がテントに入って来るのか?」
「何故俺達セルバ人がハンモックで寝るのかわかっただろう。」

 男はムカデをシオドアの顔にわざと近づけ、彼が怯えるのを見て笑った。そして片手にムカデ、片手にランプを持ってテントから出て行った。
 ドサっと大きな物が倒れる音がした。何だろう? シオドアはテントの出入り口を見て、次の瞬間凍りついた。
 大きな獣が見えた。黒い影がテントに入って来た。シオドアは口を開けたが悲鳴は出なかった。上げたかったが声が出なかった。必死で頭を回転させた。動かない方が良い、じっとしていろ、シオドア・・・
 獣が足音もなくテントの中を歩き、シオドアの横に来た。シオドアは目だけ動かしてその動物を見た。大きな頭、小さな耳、半開きの口から見える鋭い牙・・・獣が前足を上げてシオドアの背中を押した。シオドアは無言のまま体を折り曲げた。どうするつもりだ? 手に硬い物が触れてそれが牙だと悟った時は、また悲鳴を上げそうになった。手首が引っ張られた。獣は彼の手首ではなく、縛っている縄を引っ張ったのだ。ググッと2度3度引っ張られ、突然両手が自由になった。
 獣は直ぐに彼から離れ、テントの出口へ向かった。外を伺い、振り返った。

 「来い」と言っているのか?

 シオドアは立ち上がった。獣は彼がそばに来ると、一気にテントの外へ走り出した。シオドアも後に続いた。テントのすぐ脇で男が1人倒れていた。地面に転がったランプから漏れた油に火が点いている。もう直ぐテントに油が流れ着く。
 シオドアは獣の後をついてジャングルの中に走り込んだ。背後のキャンプで人の声が聞こえたが、振り返らなかったし、立ち止まらなかった。脚を木に引っ掛け、枝で額を打ったが、ひたすら走った。獣はしなやかに夜の闇の中を走って行く。途中で立ち止まる時は、彼がちゃんとついて来れているか確認している様子だった。
 これは虎か? 否、違う、斑紋が月明かりで見えた。豹? 南米の豹? 
 シオドアは目の前を走る美しい獣に魅了された。これはジャガーだ。太古からこの地で神と崇められてきたジャガーだ。

 俺は今、神に導かれている。


2021/06/28

アダの森 2

  夕刻、セルバ共和国の首都グラダ・シティにある雑居ビルに入っている文化・教育省の4階の電話が鳴った。職員はほとんど退庁しており、最後迄残っていた男性職員と大統領警護隊文化保護担当部の指揮官ケツァル少佐の2人が帰宅しようと立ち上がったところだった。男性職員は一瞬少佐を見たが、目を合わせる前に慌てて電話に出た。

「文化・教育省・文化財・遺跡担当課・・・」

 ケツァル少佐はショルダーバッグを肩に掛けた。どうか電話がこっちへ回って来ませんように。

「スィ、私がミゲールです。え? 女性のミゲール?」

 少佐は早く帰ろうと歩きかけた。ミゲール氏が彼女の机の上のネームプレートを見た。彼女とは決して目を合わさない。大統領警護隊との付き合い方ルールその1だ。

「文化財・遺跡担当課に女性のミゲールはいません。」

 頼むから、こっちへ回してくれるな、と少佐は心の中で願った。私の目を見ろ。私はいない。
 ミゲール氏は彼女を見ない様に努力しながら言った。

「大統領警護隊文化保護担当部のミゲール少佐ならおられますが?」

 馬鹿者! なんでそれを言うかな? 

 ミゲール氏が電話の転送ボタンに指を置いた。

「ケツァル少佐、5番にお電話です。」

  少佐の机の電話が鳴った。ケツァル少佐はバッグを机の上に置いて、電話に出た。

「大統領警護隊文化保護担当部、ミゲール少佐・・・」
ーーセニョリータ、ラ・パハロ・ヴェルデの少佐?

 中年の男の声が聞こえた。ケツァル少佐は声の主を思い出せなかったが、向こうは安堵した様子だった。

ーーやっと捕まった! もう半時間も電話をたらい回しされたんだ。
「何方様?」
ーーエル・ティティ警察署長のゴンザレスです。

 少佐は小さな田舎町を直ぐには思い出せなかった。遺跡があれば忘れないのだが。ちょっと沈黙していたら、ゴンザレス署長が早口で言った。

ーー助けて欲しい。テオがゲリラに攫われちまった!
「テオ?」
ーーテオドール・アルスト、貴女がエル・ティティに来られた時は、ミカエル・アンゲルスって名乗ってた。

 ああ、とやっと思い出した。一月以上前に、アメリカ政府を怒らせ、一族の長老達を怒らせ、セルバ共和国の裏の世界を引っ掻き回して行方をくらませた男だ。本人が望み、大統領警護隊文化保護担当部の隊員達も身の安全の為に、その存在を忘れた男だ。本人の希望通りにエル・ティティに行ったのか。ゴンザレスと再会出来たのか。しかし・・・なんですって?

「ドクトル・アルストがゲリラに攫われたと仰いました?」
ーースィ、セニョリータ。今朝、川に洗濯に行ったきり帰らないんで、巡査を迎えに遣ったら、洗濯物と手紙が残っていた。ミゲールに連絡を、って書いてあった。だから、貴女を探していた。貴女が私にくれた名刺に、ミゲールって書いてあっただろ?

 ケツァル少佐は溜息をついた。あのアメリカ人は何処まで騒動を引き起こすのだ?

「ゲリラは政府軍の担当です。オルガ・グランデ基地に連絡なさっては?」
ーーそんなことをしたら、テオがここにいることがアメリカ政府に知られてしまう。

 つまり、エル・ティティ警察は首都警察が全国に手配した行方不明のアメリカ人を隠していた訳だ。
 ゴンザレスが訴えた。

ーーテオは、大学の仕事をほっぽり出して私の所へ来てくれた。息子同然なんだ。カンパロなんぞに殺させたくないんだ。

 ケツァル少佐の頭の中で警鐘が鳴った。 カンパロ?

「今、貴方はカンパロと言いました?」
ーースィ。ティティオワ山周辺を縄張りにしている反政府ゲリラだ。実態はただの誘拐ビジネスで稼ぐ山賊だがね!
「ゲリラの頭目は、ディエゴ・カンパロなのですね?」
ーースィ、セニョリータ。テオを助けてやってくれるか?
「努力します。通報を有り難う。」

 ケツァル少佐は電話を切った。既にミゲール氏は帰宅していた。
 少佐は数秒間考え、携帯電話を出した。部下の携帯にかける。相手はまだ運転中なのか、すぐには出なかった。彼女が一旦切ると、5秒後に相手からかかってきた。少佐は直ぐに出た。

「ケツァルです。」
ーーステファンです。何か?
「ティティオワ山へ行きます。同行を命じます。」
ーー今夜ですか?
「スィ。」
ーー1時間後に本部へお迎えに上がります。
「よろしく。」


 

アダの森 1

 エル・ティティの町はテオドール・アルストを歓迎してくれた。代書屋が戻って来てくれたのだ。”ミカエル・アンゲルス”が町から出て行って以来口数が減っていたゴンザレス署長が元気を取り戻した。町の若者達が毎晩の様に誘いに来て、シオドアと一緒にバルで飲んだ。女性達が畑で穫れた野菜を持って家に訪ねて来た。巡査達は首都から回って来た行方不明のアメリカ人の手配書を黙って破り捨てた。
 シオドアの頭から方程式も遺伝子解析も組み替えも、全て消え去った。毎朝ゴンザレスと自分の朝食を作り、掃除をして洗濯をして、シエスタの準備をする。ゴンザレスや巡査達とお昼を食べて、軽く昼寝をしてから、会計士事務所へ出勤し、仕事を手伝う。誰かが代書が必要な文書を置いていたら、それをパソコンで清書して印刷しておく。いつの間にかそれは消えていて、代わりに野菜や僅かばかりの現金が置いてある。
 シオドアの居場所がそこにあった。必要とされ、自分も必要としている。誰も命令しない。付き纏わない。

「だが、運転免許証や病院に掛かる時の身分証はいつか作らねばなるまいよ。」

とゴンザレスが心配した。なんとかするよ、とシオドアは言った。大統領警護隊にこれ以上頼る訳に行かないので、本当になんとかしようと考えるのが、日課の一つになった。正式な市民権を取得するには、どうすれば良いのだろう。今のままでは不法滞在になる。
 エル・ティティに戻って37日目。彼は川で洗濯をしていた。ゴンザレスと彼自身の物に加えて独身の巡査の衣服も洗ってやっていた。代書屋に加えて洗濯屋もしようかな、と思った。エル・ティティには以前洗濯屋がいたのだ。歳を取って引退してしまい、後継者がいない。働く時間は十分ある。元洗濯屋の爺さんに道具を借りて商売を始めようか、と思った。

「グラダ・シティとその周辺でCIAが血眼になってアンタを探してるって言うのに、当の本人は川で洗濯かい? いい気なもんだぜ。」

 対岸で男がそう言った。シオドアが顔を上げると、男が1人、AKを抱えて立っていた。迷彩服を着ているが、セルバ共和国政府軍の徽章は何処にもない。大統領警護隊の緑の鳥の徽章もない。
 もしかして、コイツ、やばいヤツじゃないか?
 シオドアは男に言い返した。

「CIA相手に隠れん坊している覚えはないがね。」

 彼は最後の濯ぎを終えたシャツを絞った。洗濯籠に放り込むと、男をもう一度見た。髭面で四角い顔の、よく見るタイプのメスティーソだ。日焼けして、左目の下に横一文字の白い傷痕がある。警察署に手配書が回って来ていた。

「反政府ゲリラの”赤い森”のリーダー、ディエゴ・カンパロだな?」

 フンっとカンパロが笑った。

「署長の家の居候のことはある。手配書を見たんだな。」
「町の至る所にコピーを貼り出してあるさ。何か用か?」

 カンパロはCIAが俺を探していると言った。反政府ゲリラがなんでそんな情報を持っているんだ? コイツらこそアメリカの敵じゃないか。麻薬を売った金で武器を買い、外国人を誘拐しては身代金を要求する。身代金を受け取ったら人質を解放するかと思えば、必ずしもそうではない。3人に1人は殺害されている。逃げようとして、あるいは拘束中に抵抗したり、見張りの機嫌を損なって。
 気がつくと、川のこちら側にもゲリラが居た。シオドアは5丁の銃に囲まれていた。

「アンタを捕まえたら、北の国の政府はいくら払ってくれるかなぁ。」
「無駄だ。特殊部隊を送り込まれて、君達は全滅する。」
「アンタも道連れにされるぜ。」
「どうかな? 一応、俺が生きていることが、彼等にとっては重要なんだよ。面子があるからね。」

 カンパロはシオドアとの言葉のやり取りに早くも飽きた。仲間に合図を送った。

「縛り上げて連れて行け。」

 シオドアは銃を見た。”風の刃”から逃げるより難しそうだ。

「わかった。大人しくついて行く。だけど、署長に手紙を書かせてくれ。CIAに連絡してくれるだろう。」


第11部  紅い水晶     9

 ”ヴェルデ・シエロ”と付き合うと、その物事への周りくどい対処の仕方や、やたらと遠回しな表現とかで苛々させられることが度々ある。ケツァル少佐は生粋の”ヴェルデ・シエロ”で、生まれながら大ピラミッドのママコナ(巫女)からテレパシーで一族の作法を教わったが、育て親は殆ど普通の人間に等...