2022/12/12

第9部 ボリス・アキム       6

 「もし差し支えなければ、奥様もこちらのテーブルにお呼びして構わないでしょうか?」

 マイロが訊くと、アキムは首を振って、隣室の妻に声を掛けた。

「せレーヌ、こっちへ来ておくれ。」

 セレーヌが同席していた使用人達に断って、食堂へ入って来た。夫の隣の空いた席に着いた。マイロとチャパは改めて彼女に挨拶した。それでセレーヌも挨拶を返した。セルバ流に右手を左胸に当ててする挨拶だ。

「妻はアケチャ族のメスティーソです。」

とアキムが紹介すると、チャパが頷いた。

「僕もです。アケチャ族はセルバの東海岸から内陸に分布している先住民です。僕はグラダ・シティで生まれ育ちました。」

 セレーヌは夫をチラリと見て、自由に喋っても構わないことを確認でもしたのだろう、やっと普通に客に向かって口を開いた。

「私はアスクラカン出身です。でも早い時期にグラダ・シティの学校に送られ、そこで教育を受けて医療に従事することになりました。故郷に戻ったのは、夫と知り合ってからです。親族とは付き合いがありますが、友達はみんなグラダ・シティにいます。ですから、街のこちら側はよく知っていますが、旧市街や北部のことはあまり馴染みがありません。もし、シャーガス病の調査で市北部に行かれる場合は、知人を紹介させて下さい。」

 地方訛りがない首都で使われているスペイン語で彼女は喋った。夫と普段会話している言葉なのだろう。地元民と話す時は、地元方言を話すのかも知れない。セルバ人の中年女性はぽっちゃり体型が多いが、セレーヌは都会派らしく、スリムで化粧も垢抜けていた。
 マイロは一見愛想なしに見える彼女の好意的な言葉だと解した。

「いや、昆虫を探すのが今回の目的なので、病気の発症例などは病院で聞いてみます。昆虫は民家の壁などにいるもので・・・」

 アキムが遮った。

「いや、案内人がいる方が安全です。」
「安全?」

 アキムとセレーヌが視線を交わした。アキムがマイロに向き直った。

「アスクラカン市北部の先住民の中にはちょっと閉鎖的な思想の人々がいます。同じ部族でも南部の住民は開けていて、他部族や異人種、外国人を好意的に受け入れてくれますが、北部の住民達はかなり警戒心が強いのです。外国人を攻撃することはないと思いますが、その、失礼ですが、貴方の肌の色が・・・」

 マイロは溜め息をついた。

「目立つのですね?」
「スィ。グラダ・シティや東海岸の町村では珍しくない肌の色ですが、内陸になると保守的です。白人もあまり歓迎されません。」
「あの人達だけです。」

 セレーヌが言い訳するかの様に口を挟んだ。

「3つか4つの家族が保守的なのです。ただ、その家族が財政的にも政治的にもかなり力を持っているので、北部地区の住民達は逆らわないのです。他所者が案内なしに足を踏み入れると、忽ち監視されます。手を出さなくてもジロジロみられるのです。早く川を渡って帰れと無言の圧をかけられます。本当に不愉快なんです。」

 アキムが無理に笑顔を作った。

「北部地区は狭い範囲ですから、川の南側の方が資料を集めるのに適していますよ。案内が不要と仰るなら、南部だけにして下さい。アメリカから来られた方にアスクラカンの恥ずかしい部分を見せたくないのです。」

 ああ、とチャパが声を出したので、マイロはそちらを見た。チャパが肩をすくめた。

「アスクラカン出身の学生仲間からも同じ話を聞いたことがあります。なんだか小説が書けそうな謎に満ちた家族だそうですよ。結婚も自分達の親戚の間で行うので、南部の同じ部族の家族とは付き合いが殆どないそうです。」

 先住民を怒らせてはいけない。セルバ共和国に入る前に、亡命・移民審査官からそんな忠告を受けていたっけ。マイロは素直に「わかりました」と答えた。

2022/12/11

第9部 ボリス・アキム       5

  ボリス・アキムはちょっと謎めいた微笑みを浮かべた。

「お2人は私がロシア人だと思っていらっしゃいますね?」
「スィ・・・街の食堂でそう聞いて来ました。」
「違うのですか?」

 マイロとチャパが戸惑いの表情になったので、アキムは笑った。

「祖父母はロシアからの移民です。だが、私はアメリカで生まれました。ニューヨーク出身ですよ。」
「え? アメリカ人なんですか?」

 マイロはびっくりした。アキムのスペイン語が完璧なので、中米生まれのロシア系住民だと思っていた。アキムはビールをグッと喉に流し込んでから、続けた。

「両親の親達はロシア出身です。私が生まれた頃はまだソ連だったかな・・・亡命と言うか、兎に角第二次世界大戦の前後にロシアを逃げ出してアメリカに渡って来たそうです。私はロシア系移民の3世として育ちました。だから、ロシア語は話せないんですよ。親の世代も殆ど英語で通していましたから。だけどロシア系のコミュニティの中で暮らしていたので、キリル文字を読んだり、多少の単語などは理解出来ます。私は高校に入る頃にコミュニティを出たくて、親に無理を言って全寮制の学校に入りました。コミュニティは貧しい家庭が多くて、嫌だったんです。犯罪に関わる人もいてね・・・」

 マイロは理解出来た。アフリカ系のアメリカ市民も同じだ。彼の実家は裕福で、彼は希望する医学の道に進めたが、マイノリティには違いない。
 アキムはまたビールを飲んだ。

「奨学金で大学に入り、医学を学びました。開業出来る金銭的余裕はありませんでしたから、研修で行った病院でそのまま働いていたのですが、中米の病院で働かないかと言う誘いがあったのです。まだ医師免許を取って2年目のことでした。聞いた限りでは条件が良かったので、応募したんです。しかし・・・」
「想像していたのと違ってました?」

とチャパがニッと笑って言った。アキムが苦笑した。

「スィ。設備も薬剤もお粗末で、だけど患者は多い。医者達はふんぞり返って治療は適当、私が勉強して行ったスペイン語ではなかなかコミュニケーションが取れなくて、ホームシックになりました。その頃に妻に出会ったのです。」

 彼は隣室の妻を見た。

「せレーヌはセルバ人で看護師の修行に外国に出ていたのです。彼女もその国の医療の実態にうんざりしていて、私とよく愚痴を話し合いました。私のスペイン語はお陰で上達したのですが・・・」

 彼はクスクス笑った。

「彼女がセルバに帰国すると言うので、私は勤めを辞めて、彼女について来ました。就労ビザを取らなかったので、観光ビザで・・・所謂不法滞在で違法就労です。彼女が戻った病院で臨時雇いの医者として働き出しました。」

 マイロはびっくりした。それではボリス・アキムは密入国扱いになるのではないか? 彼が驚いた表情をしたので、アキムがニヤッとした。

「私がやばい立場にいるとお考えですね?」
「違うのですか?」
「確かに、最初の1年間はいつ捕まるかとビクビクしていました。しかし、ある日、当時働いていた病院に大統領警護隊がやって来たんです。」

 アキムはマイロに念を押す様に尋ねた。

「ご存知ですよね、大統領警護隊のことは?」
「あ・・・大統領府の隣に本部があって・・・」
「この国に入国する時に、面接を受けたでしょう?」
「スィ・・・亡命・移民審査官に・・・」
「あの役職は、大統領警護隊の隊員が就くのです。つまり、病院に来た隊員は、正に亡命・移民審査官でした。私が何者か、何をしているのか調査に来たのです。」

 アキムは遠くを見る目をした。

「彼等は私に色々な質問をしました。私の出身地、家族、学歴、職歴、そしてセルバでの活動、根掘り葉掘り聞かれました。そして最後に、いつアメリカに帰るのか、と質問されました。」

 彼は視線をマイロに戻した。

「私は、帰るつもりがないことを告げました。その時、私はもうセレーヌと離れられなくなっていました。彼女のお腹には私の子供がいました。病院も私を頼りにしてくれていました。祖国アメリカでも任地の国でも、私は必要とされていなかった。しかし、セルバでは私を必要としてくれる。私の居場所はここしかないと思いました。私は、セルバ共和国に帰化を申請しました。永住権が欲しいと言ったんです。」

 アキムは当時のことを思い出したのか、ふっと大きな溜め息をついた。

「3ヶ月間、グラダ・シティの不法滞在者収監施設に入れられました。そこでは他の収監者達の健康管理を任されました。その間にきっとアメリカ政府とセルバ政府の間で私の処遇について話し合ったのでしょう。私は釈放され、1年間グラダ・シティの病院で働くことを命じられました。1年間、首都から出てはいけないと言われ、せレーヌと電話でのみ接触を許されました。彼女がグラダ・シティに行くことも1年間禁止されたのです。彼女が言うには、不法滞在者を隠していた罰だと言うことでした。」
「試されたんですよ。」

とチャパが言った。

「本当に貴方と奥さんがこの国で暮らしていく決心をしていることを。もし奥さんを首都に行かせて、夫婦で外国へ逃亡しちゃったら大統領警護隊の面目丸潰れでしょ?」
「そう思います。」

とアキムが笑った。

「1年間会えませんでしたが、せレーヌは出産して、私を待っていてくれました。子供は男の子で・・・今はアスクラカンの市民病院で働いています。」
「それじゃ、ハッピーエンドなんだ!」

 チャパが嬉しそうに声を上げ、マイロも笑顔が出た。アキムもニッコリした。

2022/12/10

第9部 ボリス・アキム       4

  部屋は粗末なベッドが2台置かれた質素な場所だった。客間ではなく、入院患者用の病室だ。隣は大部屋でベッドはなく、患者がいる時はハンモックを吊るすのだと言う。床の上に直接寝かせたりはしないのだ。アキムと妻のセレーヌは2階に部屋があった。初老の使用人夫婦がいて、家事手伝いをしていた。
 午後の診療が始まると、パラパラと患者がやって来た。昼間聞いた産業医と言う言葉通り、近所の工場で怪我をした工員が多かった。病人は年配者で、若い人は多少具合が悪くても医者に掛からないのだろう。アキムが法外な診療費を取っている訳ではなく、住民が倹約しているのだ。

「医者より祈祷師を頼る人もいるのですか?」

とマイロが尋ねると、アキムが笑った。

「セルバ人を未開人だと思わない方が良いですよ。確かに祈祷師のところへ行く人もいますが、それは医者に見放された人です。治る見込みがない重病人です。」

 マイロは不思議に感じた。

「治る見込みがない人を祈祷して、患者が死んでしまえば、祈祷師は信用を失くすでしょう?」

 アキムはただ肩をすくめただけだった。チャパが何か言いたそうな表情をしたが、マイロは気づかなかった。
 夕食はセレーヌと使用人の妻が作った料理が並んだ。アスクラカンの習慣なのか、セレーヌは使用人と同じテーブルに着き、マイロはチャパとアキムと3人で食卓を囲んだ。
 食事中の話題はマイロの前職に対するアキムの質問から始まった。マイロは毎日研究室で顕微鏡を覗いていたと言った。事実そうだったし、原虫に冒された患者から検体を集めるためにシャーガス病が発生しているメキシコやコスタリカなどに出かけたりしたが、それ以上感染症センター外の人に説明出来る内容のことはなかった。

「ご存知の様に、シャーガス病の原虫を殺すにはベンズニダゾールやニフルチモックスの投与が必要ですが、その治療費は高額です。そしてこの病気が発生する国々は決して豊かではありません。また、これらの薬剤は妊婦や腎臓、肝臓が不全な患者には使えないし、ニフルチモックスは、神経疾患や精神疾患のある人に使用出来ません。だから僕はもっと安価な薬品を作るべきだと思いますが、それは薬学の世界です。僕は予防の観点から研究をしています。セルバ共和国ではシャーガス病の発症例が見られません。それが何故なのか知りたいのです。何故ここだけが、空白なのか・・・」

 アキムがチラリと隣室で食事をしている妻と使用人夫妻の方を見た。そして直ぐにマイロに視線を戻した。

「貴方がシャーガス病の治療に興味を持たれたのは何故です? お身内でその病気に感染した人がいたのですか?」

 マイロは頷いた。

「学生時代の親友の父親が感染者でした。仕事で南米生活が長かったのです。アメリカに帰国してから発症しました。幸い病名が判明したのが早かったので助かりましたが、世の中にそんな難病が普通の生活の中に存在することを知って衝撃を受けたのです。親友は外科の道に進んだのですが、僕は微生物由来の感染症研究に進路を決めました。」

 成る程、とアキムは呟いた。そしてチャパを見たので、チャパはちょっと恥ずかしそうに告白した。

「僕は研究室が決まっていなかったのです。あまり成績が良くなくて、僕を採用したがる研究室もなかったところへ、ドクトル・ミロが来られて・・・室長がドクトル・ミロの助手にならないかと勧めてくれたんです。」
「良く働いてくれる助手ですよ。」

 マイロが誉めてやると、若者は頬を赤く染めた。そしてアキムを促した。

「次は貴方の番ですよ、ドクトル・アキム。」

2022/12/07

第9部 ボリス・アキム       3

 「医療ジャーナルに書かれていたと思いますが、僕はシャーガス病の研究をしています。あの病気はまだワクチンがありません。多くの人々が苦しんでいます。ですが、セルバ共和国にはシャーガス病の発症例が一つもありません。」

 マイロがアキムを見つめると、アキムが首を振った。

「確かに、私もシャーガス病のことは知っています。」
「貴方が診てこられた患者の中で、あの病気に罹患していると疑いのあった人はいましたか?」

 アキムはちょっと考え込む素振りをした。片手で顎髭を撫でて、空を見つめ、やがてマイロに視線を戻した。

「この診療所の患者には当該症例の人は出ていません。」
「そうでしょう!この国にはシャーガス病が発生していないのです。周辺の国には当たり前の様に患者が発生しているのに・・・」

 マイロは携帯の画面にサシガメの写真を表示してアキムに見せた。

「こんな昆虫を見たことはありませんか?」
「庭にいそうだが・・・」
「家の壁とか・・・?」
「否、家の中にはいません。」

 マイロは室内を見回した。アキムが言い直した。

「家とは、一般家庭と言う意味で、私の家と限定した訳ではありません。」

 するとチャパが彼に尋ねた。

「アスクラカンでも家を建てる時に祈祷してもらうのですか?」

 アキムが彼に向かって微笑んだ。

「スィ。郷に入れば郷に従え、ですよ。」

 マイロは宗教的なことには興味がなかった。民間信仰を信じるたちではない。だが、もしかすると、と言う考えが頭をよぎった。

「その祈祷と言うのは虫除けの様なことをするのかな?」

とチャパに尋ねてみた。チャパがちょっと困った様な顔をした。

「いえ、悪霊全般を家から遠ざけるお祈りです。祈祷師を呼んでお祈りしてもらうんです。」

 アキムが苦笑した。

「殆どのセルバ人が家を建てる時にそうします。貴方はまだご覧になったことがないのですね。」
「ええ・・・まだ色々入国後の書類仕事が忙しくて、大学の外へ出かける時間がないんです。住民と触れ合う機会をもっと増やして情報を集めたいのですが。」
「セルバ人はカトリックですが、古代の民間信仰も持っているのです。家を新築する際の祈祷は重要な様です。祈祷師の数が少ないので、新築が重なると祈祷師の取り合いになる程ですよ。」

 するとチャパも言い添えた。

「祈祷しないと、その家の住人は病気になるんです。悪霊が入って来るから・・・そう信じられています。」

 悪霊がサシガメのことだとは思えない。マイロはシャーガス病がセルバに存在しない理由をそこでも発見出来なかった。アキムが、アスクラカンにはどれぐらい滞在するのかと訊いた。マイロは農村部へ調査に行きたかったので、3日程と答えた。

「近郊の集落などで昆虫を探してみようと思っています。症例発生地の昆虫とこの国の昆虫の差異を調べたいのです。」

 するとアキムが微笑んだ。

「それではうちに泊まりなさい。部屋はありますよ。家族は妻と私だけです。たまには客を迎えるのも良いものです。」



第9部 ボリス・アキム       2

  ボリス・アキムの診療所は普通の民家というより、中古のアパートを買い取って改装した雰囲気の建物だった。青いペンキを塗ったドアは、少々色が禿げていたが、そんなに古くなかったし、荒れた雰囲気もなかった。ドアの上に「アキムの診療所」と書いた看板が設置され、ドアノブに「シエスタ」と書かれた札が下がっていた。医者は昼休み中だ。ここに住んでいるのだろうか? マイロはドアをノックしてみた。チャパが「シエスタ」の札の下部に小さく電話番号が書かれていることに気がついた。

「かけてみます?」
「スィ、頼む。」

 チャパが己の携帯を出して、書かれている番号を入力した。だが呼び出し音が鳴る前にドアの内側でガチャリと鍵を外す音がした。チャパは入力を取り消した。
 ドアが小さく隙間を開けた。

「急患?」

と女の声がした。マイロは素早く大学のI Dを提示した。

「医学者のマイロと言います。グラダ・シティから来ました。ちょっとだけドクトルに地元の患者の話をお聞きしたいのですが、今日はお忙しいでしょうか?」

 ドアがさらに少し開いた。内側にチェーンが掛かっていて、それ以上は開かなかった。メスティーソの女性が尋ねた。

「手に取って見て良い?」
「どうぞ。」

 マイロは首からストラップを外し、I Dを彼女に渡した。女性はそれを眺め、そして顔を上げた。目の白い部分が印象的に見えた。

「夫に見せてくるわ。待っててくれる?」
「スィ。」

 ドアが閉じられた。炎天下で待つのは少し辛かったが、チャパが何も言わないし、周囲はそんなに治安が悪い様にも見えない。民家が立ち並んでいて、道路に家具を出して寛いでいる人が見えたし、立ち話している年配者のグループもいた。
 5分程して、女が戻って来た。ドアを開いて、「どうぞ」と招き入れてくれた。
 建物の中は涼しかった。南国の家は大概そうだ。石造りでも風通しが良い。アキムの診療所は煉瓦と漆喰の2階建に思えた。女性はその辺の女性達が着ている薄い袖なしのワンピースを同じように着用し、黒い髪を頭の上でお団子に結っていた。薬の匂いがしたので、看護師をしているのかも知れない。
 マイロとチャパは待合室の様な部屋に通された。木製のベンチが2つと、古いテレビと大勢に読まれてボロボロになりかけた雑誌があるだけだった。その辺に掛けて待ってて、と言い置いて、彼女は再び奥に姿を消した。

「旦那は寝ているのかも知れませんね。」

とチャパが囁いた。

「ロシア人にも昼寝の習慣があるのかなぁ。」
「そりゃ、あるだろうさ。」

 マイロは室内を見回しながら呟いた。清潔な部屋だ。サシガメが住んでいなさそうな空間だった。掃除が行き届いた待合室は、この診療所が繁盛している印象を与えた。経営者に余裕があるのかも知れない。
 廊下を歩いてくる気配がした。マイロが振り向くと、薄暗い通路から1人のがっしりとした体格の40過ぎと思える男が姿を現した。額が大きく、後退している髪は赤毛だった。短い顎髭も口髭も赤い。日焼けしていたが、顔つきはいかにもロシア人に見えた。服装はTシャツにジーンズで、逞しい左腕に青い鳥の刺青があった。

「ドクトル・ミロ?」
「マイロです。」

 マイロが名乗ると、男はアキムと名乗った。マイロは握手の後でチャパを紹介した。

「助手のホアン・チャパです。僕の研究室の唯一人の助手です。」

 アキムはチャパに軽く頭を下げた。チャパはセルバ人の常識として握手を求めなかった。アキムもそれは承知なのだ。彼はマイロに視線を戻した。

「貴方の記事を医療ジャーナルで読みました。ここへはどんな御用です?」



2022/12/05

第9部 ボリス・アキム       1

  アーノルド・マイロとホアン・チャパはレンタカーで昆虫採取の旅に出た。微生物研究室はマイロにこれと言った役割を与えていなかったので、彼が無期限の旅行に出ることに特に異論はない様子だった。ただ、室長のベンハミン・アグアージョ博士には毎日定時連絡を入れて現在地や助手の安全を報告する義務を課せられた。勿論、これはマイロ自身の安全確認のためでもあった。マイロが暫く旅に出ると告げた時、隣人のアダン・モンロイがお守りを貸してくれた。動物の牙を使ったネックレスだ。かなり大きな猛獣の牙に見えた。

「ジャガーの牙だ。僕の先祖から伝わっている家宝だ。だから無くさないでくれよ。帰ってきた時、返してもらうからな。それから、もし追い剥ぎとかに遭ったら、これを見せてやれ。きっと君を守ってくれる。」

 マイロは迷信を信じない男だった。しかしモンロイが家宝を貸してくれるのだから、無碍に断ることが出来なかった。それをチャパに見せると、驚いたことに医学を修めている若者が、ネックレスに向かって手を合わせてお祈りした。マイロは彼が口の中で呟く言葉をなんとか聞き取った。

「雨を呼ぶ人、我らを守り給え。」

 マイロは民間信仰に興味がなかった。少なくとも、病気に関する迷信以外は関心がなかったので、このお祈りもすぐ忘れた。
 借りた車は大きめのSUVだ。あまり長期の旅行にはならないとマイロは思っていた。採取する昆虫の体内にいる原虫の研究だから、昆虫を死なせたくない。出来るだけ早く帰るつもりだった。
 一番最初の目的地はアスクラカンだ。商都なので、それなりに清潔な宿泊施設があるとガイドブックにあったが、サシガメは人間の住居の壁の中にいたりする。だから可能な限り宿のランクを落とした。費用節約も目的の一つだ。
 早朝にグラダ・シティを出て、昼前にアスクラカンに到着した。想像したより道路が整備されていて、快適なドライブだった。道の両側も家並みが続いており、ジャングルは見えなかった。時々目に入る緑色の広がりは、農地だとチャパが教えてくれた。果樹園が主だった使用目的だ。セルバ共和国は果物が美味しい。マイロもドライブの途中で道端の出店で果物を買って、飲み物代わりにした。その際に売店の周囲を飛ぶ昆虫も少し採取した。サシガメではないが、人や果物に留まって給液する虫たちだ。羽虫はすぐ死んでしまうので、スライドグラスに挟んだりして、ちょっと時間をくった。だが、それも想定内の時間使用だ。チャパもテキパキと作業に協力してくれた。医者になりたいのだから、彼はセルバ人としては珍しく真面目によく働く若者だ。マイロは彼との旅行が楽しいものになると期待した。だから車内で流す音楽はチャパの好きな曲で統一した。

「ドクトルの好きな曲は?」
「聞いて笑うなよ、僕はドイツのクラシック派なんだ。」
「はぁ?」

 アフリカ系のマイロの顔を見て、チャパが意外そうな顔で声を上げたので、マイロは笑ってしまった。

「勿論、先祖の音楽も好きさ。だけど、クラシックの方が気分が落ち着くんだよ、僕はね。」

 それでも2人でラジオの音楽に声を合わせて歌いながら、運転を続けた。
 アスクラカンの街はグラダ・シティほど都会ではないものの、賑やかで活気に満ちていた。住民は殆どメスティーソで、マイロの肌の色は少し目立った。敵意はない視線を感じながら、彼はドライブインと思われる店に休憩するために入った。客は男性が多いと思った。するとチャパが囁いた。

「近くの工場の従業員の行きつけの店みたいですよ。同じ服を着た人が多いです。」

 確かにそんな雰囲気だった。通りすがりのドライバーもいる様だが、他所者が少ないのか、視線を感じてしまった。店の従業員がチャパに向かって注文を聞いた。チャパがマイロを見たので、マイロは任せるよ、と言った。それでチャパが「お勧め」を聞いてくれて、鶏肉の煮込みとパンでお昼を食べた。隣のテーブルの男が話しかけてきた。

「グラダ・シティからかい?」
「スィ。今夜はここに泊まるけど。」
「だったら、晩飯はセントラルへ行った方が良いぜ。あっちの方が色んな店があるし、酒も飲める。」
「グラシャス。」

 マイロは風土病のことを聞きたかったが、控えた。少なくとも食事を終える迄は穏やかに過ごしたい。ところがチャパが携帯の画面を出して、その男に見せた。

「この街でこんな虫を見たことありますか?」

 サシガメの写真だ。男が顔をしかめて画面を睨んだ。

「どこにでもいそうな虫だな。この虫がどうかしたか?」
「家の中にいたりします?」
「普通にいるだろ?」

 男が胡散臭そうに視線を向けてきたので、マイロは仕方なく大学のI Dを出した。

「昆虫の研究をしているんです。正確には、昆虫が媒介する病気の研究です。」

 男が彼をジロジロ眺めた。

「あんた、医者?」
「医者と言えば医者ですが、研究専門です。治療はしない・・・」
「それじゃ、ここじゃなくて、アスクラカン市民病院で聞けよ。この街で一番良い病院だ。ちょっと金が要るけどな。」

 するとどこかの会社の制服らしき繋ぎを着た男が話しかけて来た。

「俺らの会社の産業医が近所に診療所を開いている。そこへ行ったらどうだい?」

 それは耳寄り情報だ。町医者の方が大病院の医者よりシャーガス病の情報を持っていそうだ。マイロは医者の名前を聞いてみた。

「ドクトル・アキム、ボリス・アキムってロシア人の医者だ。ロシアから来たとは聞いていないが、ロシア人だ。」

 すると別の男が言った。

「俺はポーランドから来たって聞いた。」
「ノ、ドイツからだって言ってた。」
「嘘だろ?アメリカ人だぜ。」

 店内が賑やかになり、マイロはチャパを見た。チャパが肩をすくめた。グラダ・シティの酒場でもよく見かけた光景だ。この国の人は他人に無関心なふりをするが、一旦火が着くとお節介になる。そして質問者の存在を忘れて自分が正しいと主張を始めるのだ。

「ボリス・アキムって医者なんですね?」

 マイロが大声で尋ねると、口々に喋っていた男達が全員揃って、「スィ!」と怒鳴ったので、可笑しかった。


2022/12/02

第9部 シャーガス病     11

  マイロの寮の部屋には小さなバルコニーがあった。人が3人もいればいっぱいになる。隣を見ると、モンロイが時々Tシャツやパンツを干していた。他の部屋でも洗濯物を干すのに使われている様だ。反対側の部屋の住人は喫煙に使用していたので、干し物は彼が留守の時が良かった。
 マイロもTシャツやタオルを干すのに使った。
 チャパと旅行の打ち合わせを終えて部屋に戻り、旅支度を始めて間も無く、彼はそのバルコニーに動物がいることに気がついた。視線を感じたので振り向くと、ガラス戸の向こうに斑模様の大きな猫が座っていた。一瞬ヒョウかと思った。しかしヒョウにしては小柄で、ほっそりしていた。
 マイロはガラス戸が半分開いていて、網戸になっていることを思い出した。ドキリとした。

「ヤァ」

と猫に声をかけてみた。猫は黙って彼を見返した。マイロは写真を撮ってやろうと思った。携帯電話をポケットから出そうとお尻に手を伸ばすと、猫が立ち上がった。細い長い脚だ。スリムでかっこいい。尾も長く、すらっとしていた。

「君の写真を撮るだけだよ。」

とマイロが言うと、猫は黙ってそっぽを向き、くるりと体の向きを変えて、次の瞬間素早く彼の視界から消えた。

 ここは2階だ!

 マイロは慌ててバルコニーへ出る戸を開いた。猫が消えた方向を見たが、猫がバルコニー伝いに走り去って、庭の立木に飛び移って姿を消すまで見送っただけだった。
 その日の夜、アダン・モンロイと廊下で出会った時に、その話をすると、モンロイが首を傾げた。

「話を聞くと、そいつはマーゲイって野生の猫みたいだけど、この国でマーゲイがいるのは、僕の故郷のプンタ・マナ近辺で・・・」

 急に彼は口をつぐんだ。マイロが次の言葉を待っていると、彼は苦笑して見せた。

「ラッキーだったな、珍しい物を見られて。」


第9部 シャーガス病     10

  アーノルド・マイロがセルバ共和国に入国して1ヶ月経った。彼はグラダ大学の職員寮に住み、医学部微生物研究室でシャーガス病がセルバ共和国で発症していない事実を確証しようと研究していた。と言っても、この1ヶ月は文化・教育省へ大学職員として働くための手続きで通ったり、保健省で感染症の症例に関する資料を閲覧する為の許可を申請したり、国内を資料収集の為に移動する許可を得る為に外務省へ行ったり、内務省へ行ったり、と忙しく、研究らしいことは殆ど出来なかった。この南国の役所は、兎に角どの省も部署も、緩いのだ。書類を提出して、次の日に、記入の誤りや抜けた箇所の指摘の連絡が来る。書類を返してもらいに行き、訂正して提出すると、申請受理の連絡が来るのはまた次の日で、その日が週末だったりすると次週に持ち越しだ。しかも書類の種類によって担当部署や担当者が異なり、同じ建物の中を行ったり来たりする羽目になるのだった。
 唯一人の助手ホアン・チャパはマイロをドクトル・ミロと呼んだ。訂正しても直ぐ間違えるし、役所の職員達もミロと呼ぶので、マイロは1ヶ月でアーノルド・ミロに改名した気分になった。一度ある役人が彼のスペイン語が堪能なことを感心して称賛した。

「アメリカ人でそんなに喋れるなんて思いませんでした。もしかして、ジャマイカ人ですか?」
「いや、カリブ諸国に親戚はいない。だけど、研究の為にもっと若い頃からメキシコから島々やベネズエラ辺りを歩き回っていたからね。」
「ああ、成る程ね。商社マンではなかったんですね。」
「商社マンだったら、何か都合悪いのかい?」
「そうじゃありませんが・・・」

 役人が罰が悪そうに苦笑した。

「スパイ映画とかで、C I Aがよく商社マンとか新聞記者になっているじゃないですか。」

 マイロは噴き出した。

「僕がスパイだって思った? そうなら、もっと自由に活動しているよ。僕は今大学の規則に縛られているんだから。寮の門限が午後10時なんだ。」
「それはお気の毒に。」

 週末は日付が変わっても外で騒ぐセルバ人が大笑いした。
 大学のカフェは医学部よりも全学部共通の場所であるキャンパス中庭に面した大きなカフェが人気だった。学生も職員もそこで昼食を取るので、医学部のカフェは午前のお茶などでコーヒーや菓子を出す程度だ。食事を取りたければ大きなカフェへ行く。料理は一流レストラン並みとは言えないまでもリーズナブルな値段でそれなりに美味しいし、量もあるので、マイロは朝食以外はそこで済ませることが多かった。たまに隣のモンロイと外食することはあるが、大学内で用が足りるのだ。寮にはコインランドリーがあったし、病院内にもコンビニがあった。しかし、そろそろ昆虫を採取しにグラダ・シティから出る頃だな、と彼は思った。行くべき場所を助手のチャパに相談して決めてから外務省へ許可を取りに行くと、結構大雑把に「セルバ共和国北部」と言う範囲で許可証をもらえた。

「感染症の原因を捕まえに行くから、人が住んでいる場所で昆虫を捕まえる。北部なら、どんな場所に行けば良いかな?」

 農村地帯を想定しながらチャパに話しかけると、助手は地図を出して、幹線道路を示した。

「グラダ・シティから西部の基幹都市オルガ・グランデを結ぶハイウェイです。ここをドライブしながら行く先々で民家の壁などを調べて行くのはどうでしょう?」
「人口は?」
「アスクラカンと言う都市はセルバ共和国3番目の都会です。先住民もいるし、農村も周辺に集まっていますから、サンプル採取なら、ここが一番最適でしょう。次に、エル・ティティと言う小さな町をハイウェイは通ります。ここは車が休憩する程度の本当に鄙びた町ですが、東西の移動には必ず通過します。昆虫の移動もあるでしょう。但し、宿泊出来る所は1軒しかありません。滅多にありませんが、稀に満室になっていることがあって、そんな夜にエル・ティティに到着すると悲劇です。」

 チャパは経験があるのか、苦笑した。マイロは興味を感じて、「そんな場合はどうする?」と尋ねた。チャパは答えた。

「教会にお願いして泊めてもらいます。エル・ティティだけじゃなく、この国では教会があれば泊まる場所を何とか確保出来ます。聖堂に泊まるか、どこかの民家を紹介してもらうか、ですけど。」

 彼は画面を移動させ、オルガ・グランデを出した。

「ここは、軍の病院が一番大きな医療施設で、医療に関することは軍病院で聞けば良いとされています。病気も怪我もそこで診てもらえます。民間の病院となると、医療費が高いので庶民は利用出来ないんです。ああ、でも・・・」

 彼はある一点を指した。

「ここはアンゲルス鉱石と言う一番大きな鉱山会社の病院で、従業員やその家族は格安で診療を受けられます。グラダ大学病院とも患者のデータ共有をしています。それで、ここ数年は一般の市民も軍病院の紹介があれば診てもらえるそうですよ。」
「それじゃ、シャーガス病の研究にも多少の情報を提供してもらえるかな?」
「多分・・・オルガ・グランデにシャーガス病の発症例があれば、ですけど。」

 それではオルガ・グランデを最終目的地にして、昆虫採取旅行に出かけようか、と言うと、チャパは喜んだ。

「君1人だけなら、旅費は僕の研究費から出せる。但し、食費は別だぞ?」
「わかってます。グラシャス、ドクトル!」

 マイロはチャパに抱きしめられ、頬にキスされた。このラテンの乗りはまだ馴染めないな、と思った。


第11部  紅い水晶     8

 研究室に入るとテオはケツァル少佐に電話をかけてみた。少佐は彼からの電話とわかったので、すぐに出てくれた。バックで船の汽笛らしき音がして、彼女が港湾施設にいることがわかった。 「出かけている時に申し訳ない。」 とテオは切り出した。 「ケサダ教授から依頼されて、文化保護担当部の人に...