2022/05/30

第7部 渓谷の秘密      14

 尾根と言っても標高が低いので、登山のレベルではなかった。トレッキング程度だ。ロホを先頭に、テオを挟んでケツァル少佐が最後に並んで歩いた。通常は女性が真ん中だろうとテオは言ったが、いつもの如く無視された。民間人で”ティエラ”だから、真ん中はテオの位置なのだ。ロホも少佐も足音を立てない。木の葉が擦れて音が出るのはテオが動く時だ。 尾根を越えて、低地に降りると、渓谷と違って湿度が低くなった。川はなさそうだ。
 南に向かっていると、テオの耳に人の話し声の様な音が聞こえてきた。彼が小声でそれを少佐に囁くと、彼女は首を振った。聞こえないのだ。ロホも気に留めていないので、聞こえていないらしい。つまり、これはテオだけが聞き取れる霊の声だ。彼は緊張したが、ロホはそれほど重要とは考えていなかった。

「真っ昼間に大声を出している霊は大丈夫ですよ。」

 どう大丈夫なのか?と尋ねる間もなく、声が静かになった。こちらの話し声が霊に聞こえたのだろう。藪を掻き分け、開けた場所に出た。苔や蔦に覆われた石の壁や床が見て取れた。低木が生えているので全体像が見通せないが、結構な面積がありそうだ。少佐が囁いた。

「カブラロカの住民が住んでいた地域と思われます。安全を確認した後でンゲマ准教授に教えてあげましょう。」
「それじゃ、俺が聞いた声は?」
「陽気な古の住民達でしょう。」

 悪霊ではない、と言われて、テオはホッとして肩の力を抜いた。ロホが前方を銃先で指した。

「澱みが見えたのは、もっと向こうです。恐らく、そっちに墓地があるのでしょう。」

 古代の町の遺跡の中を慎重に足を進め、遺跡を傷つけないように細心の注意を払って歩いた。テオはンゲマ准教授やケサダ教授に見せるために写真を撮影しておいた。

「現代のカブラ族はここへ来ないのか?」
「植民地化された時に彼等の先祖は捕まって海の近くへ集められました。2、3世代はここを覚えていたかも知れませんが、現在の人々は言い伝え程度の知識しか持っていないでしょう。もしかすると、トロイ家の息子はその言い伝えを確認しようと冒険に来て、悪霊に捕まってしまったのかも知れません。」

 テオは遺跡を振り返った。そして心の中で言った。

 お喋りしている暇があるなら、子孫を守ってやってくれよ。

 遺跡を抜けるのに半時間かかった。石組がぐらついて足元が覚束ない箇所があったり、藪になって抜けられず、迂回しなければならない箇所があったり、で、考古学者には楽しい場所だろうが、ただ歩いている人間には散歩に不向きだった。
 再び森に戻り、ロホがリュックサックを探って、ネックレスを出した。黒い小さなビーズのネックレスで、テオの首にかけてくれた。

「お守りです。悪霊避けにどの程度効果があるかわかりませんが、憑依されるのは防げると思います。」
「グラシャス! 悪霊に襲われたら、憑依される他にどんな支障が出るのかな?」
「邪気の為に病気になったり、怪我をしたり・・・」
「それは防げないのか?」
「どれだけ防げるのか、悪霊の力によります。」

 ロホは申し訳なさそうに言い訳した。

「父や長兄ならもっと強力な魔除けを作れるのですが、私は四男ですから・・・」

 つまり、マレンカ家に代々伝わる秘伝の魔除けは教わっていないと言うことか。テオは納得した。
 少佐が彼等の遣り取りを聞いていたが、テオの不安を取り去る為に言った。

「ロホか私のそばにいれば大丈夫です。」

 ”ヴェルデ・シエロ”の中でも最強と言われるグラダ族とブーカ族だ。テオは彼等を信じていたが、悪霊の正体がわからないことが気になった。邪気を放って、それに触れただけの人を衰弱させ死に至らしめたネズミの神様より強いのだろうか。 
 町の遺跡から小一時間歩いて、地面がかなり乾いてきた。植物の様子も少し変化した。背は高くないが頑丈そうな樹木が生えていた。その木がまばらになる辺りに蟻塚があった。白っぽい蟻塚を2つ眺め、3つ目は赤い色をしていた。周囲の土の色とは違う、気味が悪い黒みがかった赤だ。テオは不快な臭いを感じた。彼が足を止めると、少佐とロホも立ち止まり、ロホがテオを己の背に隠す形で立った。少佐が囁いた。

「これは開けられていません。霊はまだ地下にいます。」

 テオは地図を出し、歩いてきた行程の地形を思い出しながら、現在地を探った。ロホが振り返り、テオが指したポイントを見て、空を見上げた。太陽の位置を確認して、それからテオに頷いて見せた。テオは地図に印を記入した。ロホがリュックサックから木で作った人形の様な物を出し、蟻塚の上に刺した。

「封印かい?」

 テオが尋ねると、彼は首を振った。

「ただの標識です。触るな、と言う警告です。」

 まだ眠っている悪霊には手を触れないで、彼等は探索を続けた。



第7部 渓谷の秘密      13

  アスルが尾根のキャンプへ戻ると言うので、ロホもついて行った。2人で交代しながら昼間の嫌な気配が近づかないよう見張るのだ。テオはケツァル少佐と共に陸軍のキャンプのそばに残った。車の後部席を倒し、簡易ベッドを設え、少佐はそこに寝て、彼は陸軍のテントに入れてもらった。兵士達は交代で警護に当るので、無駄なお喋りはしないで寝ていた。着任した当初は誰も人間がいないジャングルの奥地だと気楽に考えていたが、麻薬組織が彷徨いているかも知れないと言われて、状況が変わったのだ。若い兵士達は緊張していた。
 大学のキャンプも静かだった。学生達は昼間の発掘作業で疲れていた。そろそろ町に戻って1週間の休憩に入りたい頃だろう。別の学生と交替する予定の人もいる。ンゲマ准教授は洞窟の中を探検したのだろうか、とテオは考えた。もし洞窟がサラなら、尾根に石を落とす穴がある筈だ。アスルは何も言わなかったから、まだンゲマ准教授は尾根に登っていないに違いない。
 夜が明けると、渓谷は冷んやりとしていた。湿度が高いので寒く感じないが、爽やかな朝とは言い難かった。陸軍警護班は既に朝食の支度を始めており、発掘隊でも炉の火を大きくしてスープを煮込み始めた。テオは雨水を溜めたタンクの下で顔を洗い、自分達が持参した食糧を出して朝食の準備をした。少佐が森のどこかで着替えをして戻って来た。着替えたのは下着だけだが、それでもさっぱりした表情だ。ロホとアスルを待たずに朝食を取った。

「今日はどうする?」
「昨日の場所をさらに西へ探索してみます。」

 そこへロホとアスルが揃ってやって来た。アスルは陸軍の朝食を取りに行ってしまい、ロホだけがテオ達と合流した。

「昨晩は平和でした。」

と彼は報告した。

「尾根から見た限りでは、異常なし。ただ、南西の方角で空気が澱んでいる地点があります。」

 そんなことも見えるのか、とテオは内心感心した。少佐が頷いた。

「何かがいる様です。もしかすると我々を誘き寄せる罠かも知れませんが、確認の必要があります。」
「俺達が探索に出掛けて、ここは大丈夫なのか?」

 テオが単純に心配すると、ロホが肩をすくめた。

「アスルがいます。」
「ああ、そうだった・・・」

 テオはまだアスルが超能力を使って戦う姿を見たことがなかった。彼が知っているアスルの戦いは白兵戦だ。格闘技の達人なので、腕力と技で敵を倒すのだ。しかしアスルは純血種の”ヴェルデ・シエロ”で、能力的に高いと評されるオクターリャ族だ。爆裂波での攻撃も半端ないだろう。

「悪霊が墓から出て来ているのだろうか?」
「それなら封じ込めるのは簡単ですが・・・」

 ロホが顔を顰めた。

「悪霊使いが相手なら、厄介です。」
「悪霊使い?」
「死者の霊を呼び出して悪いことに使う悪い連中です。普通の人間なので浄化出来ないし、捕まえても本人に呪いを解く力を使わせないと悪霊が暴走してしまいます。最悪な場合は、悪霊使いに呪いを解く力がないこともあります。」

 テオは不味いコーヒーを飲む手を止めた。

「そんな場合はどうするんだ?」
「悪霊をそいつに憑依させて人間ごと消滅させます。一番やりたくない技です。」

 ロホが少佐を見た。少佐も肩をすくめた。

「私にその技は使えません。祈祷師の家系である貴方にしか使えない。私は貴方を守ることしか出来ませんから、もし悪霊使いを見つけたら、必ず私を呼んで下さい。」

 テオはまた別の疑問を抱いた。

「君達の結界は”ティエラ”には効果がないんだろ?」
「物体に効果がないと言うだけです。」

 ロホが言った。

「霊は封じ込められます。私は経験がありませんが、”ティエラ”のテレパシーとか言う能力も封じ込められますよ。」

 どうも「神の次元」の会話を完全に理解しきれないテオは黙り込んだ。そこへアレンサナ軍曹が朝の挨拶に来たので、その会話はそこで終わった。

2022/05/29

第7部 渓谷の秘密      12

  トロイ家のそばで野営する予定だったが、急遽変更することにした。装備はまだ車に積んだままだったので、車に乗り込むとテオ達はすぐにカブラロカ遺跡発掘現場に向かった。ケツァル少佐が先刻の嫌な気配の存在を気にしたのだ。1人で大勢の”ティエラ”を守っているアスルに注意喚起する必要があると彼女は判断した。
 遺跡へ向かう道はさらに細く、轍の通りに走らないとぬかるみに落ちそうだ。随分湿気の多い渓谷だ、とテオは感じた。そのうち日当たりが良くない場所に入り、植生が貧しくなってきた。大きな樹木が減り、低木だらけだ。道は川から離れ、背が高い木が茂る傾斜地へと移動し、凸凹を我慢すればぬかるみより走りやすくなった。ロホが地面に残る石組に気がついて、古代の道の跡です、と教えてくれた。
 暗くならないうちに遺跡に到着出来た。テントと小さなプレハブ小屋があり、細やかな集落を形成しているかの様だ。ンゲマ准教授の発掘チームはその日の発掘作業を終え、出土品の分類や洗浄をしていた。夕食当番も忙しく働いていた。
 アレンサナ軍曹と部下達は大統領警護隊の車両に気がつき、駆け寄って来た。ロホが緑の鳥の徽章を提示するより先に彼等は整列して敬礼した。
 ケツァル少佐とロホが降りたので、テオも運転席から出た。

「今日は発掘隊とは関係ない要件で来ました。」

と少佐が軍曹に説明した。

「しかし、あなた方にも知っておいてもらった方が良いと判断すべき状況が発生したので、ここに来た次第です。クワコ中尉はまだ監視中ですか?」
「その筈です。」

 アレンサナ軍曹は尾根の監視場所を振り返った。キャンプ地からは人がいる様子が見えないが、そこにアスルのキャンプがあるのだろう、とテオは想像した。ロホが暢んびりと言った。

「彼はすぐに来ますよ。」

 軍曹が自分達のキャンプを手で示した。

「あちらで休憩されてはいかがですか? 悪路のドライブは疲れるでしょう。」

 ケツァル少佐が警護任務の最高責任者だと知っているので、軍曹は緊張していた。彼女の機嫌を損なうと、彼の軍歴に傷が付きかねない。少佐は微笑んで見せた。

「グラシャス。みんな楽にしてよろしい。各業務に戻りなさい。」

 軍曹が解散の合図を出したので、兵士たちはそれぞれの持ち場へ戻った。学生達が、ちょっと好奇心に満ちた目で見るのを感じながら、テオは軍人達について陸軍のキャンプサイトへ行った。夕食のシチューが煮える良い匂いがして、空腹を感じたが我慢した。護衛隊も大学の発掘隊も余分な食糧は持っていないだろう。緊急時の非常食でもないのだから、客が彼等の食糧を食べてしまってはならない。しかし、軍曹が言った。

「クワコ中尉がいつも森の中で食材調達して下さるので、十分な量があります。遠慮なく召し上がって下さい。」

 勿論アスルは学生達の分は獲らないだろう。警護についている陸軍兵の労いの為に短時間で出来る狩りを行なっているに違いない。
 確かにアスル伝授の味付けだと思える野趣溢れる野豚のシチューを堪能しているところへ、やっとアスルが現れた。上官のケツァル少佐とロホに敬礼して、テオには頷いて見せてから、アレンサナ軍曹に告げた。

「南西の尾根の向こうに警戒しろ。こんな場所に山賊が来ると思えないが、殺人事件で無人になった家に引き寄せられる連中がいないとも言えないからな。」

 南西の尾根の向こう、つまりテオ達が遭遇した「嫌な気配」がいると思われる方角だ。アスルの言い方は、物好きな空き家荒らしを警戒しろと陸軍兵に命じた様に聞こえたが、恐らく彼は、と言うより、彼も、嫌な気配を感じたのだ。
 軍曹が承知と返答して、部下にトランシーバーで指示を出した。
 軍曹を同席させたまま、アスルは焚き火を囲んで上官達とテオと共に夕食を取った。話題はトロイ家の事件を発掘隊がどこまで知っているかと言うことだった。ンゲマ准教授と学生リーダーには事件の顛末がやや詳細に伝えられているが、学生達には動揺と不安を与えないよう、世間で流されているニュース以上の情報を与えていない、と軍曹が説明した。「やや詳細」と言うのは、錯乱した少年が家族を殺害して、現在勾留中と言う程度だ。大学側は世間同様事件が麻薬絡みだと思っている。学生達は渓谷入り口の民家が賊に押し入られ、家人に犠牲者が出たが、犯人は逮捕されたと伝えられている、と軍曹が言った。これは准教授が捻り出した嘘の情報だ。本当のこと、世間で信じられている事件の概要は、発掘が終わってから知らされるだろう。或いは、買い出し当番で出かけた学生が何か真実に近い情報を得たかも知れないが、テオが観察した限り、学生達は動揺している様子がなく、平素を保っていた。
 ケツァル少佐、ロホ、アスルは”心話”で互いの情報を交換し合った様だが、どのタイミングで行ったのか、テオにはわからなかった。当然アレンサナ軍曹は何も知らない。軍曹と部下達も麻薬絡みの犯罪に純朴な先住民の農家が巻き込まれた不幸な事件だと信じていた。だから少佐は言った。

「麻薬組織の残党が隠れている可能性があります。あなた方は学生達を守る任務をこれ迄通り続ける訳ですが、学生が警護範囲から出ないよう、しっかり見張って下さい。」

 つまり、アスルの守備範囲から出すなと言うことだ。しかしアレンサナ軍曹は拡大解釈した。学生が麻薬組織と接触することを防げ、と捉えたのだ。彼は頷いた。

「承知しました。彼等が外部の人間と接触しないよう、しっかり見張ります。」

 

2022/05/27

第7部 渓谷の秘密      11

  少し傾斜になった滑らかな岩場を登り、腰を下ろすのに丁度良い形状の岩を見つけて、テオはそこにケツァル少佐を座らせた。己は少し離れた位置で岩場に座った。

「今回の事件に直接ではないが、アデリナ・キルマ中尉が関わったんだな。」
「憲兵隊の護衛を指揮したのです。捜査の手伝いもしたでしょうね。ゲリラの犯行の疑いも当初出ていた様ですから。」

 キルマ中尉の第17特殊部隊は、テオがアメリカ合衆国からセルバ共和国に亡命して来た時、内務省の命令でテオの家の警護を担当した。実際には運転手兼護衛のエウセビーオ・シャベス軍曹と夜間担当の2人の兵士がいた。シャベスは”ヴェルデ・シエロ”達の因縁の闘いの巻き添えを食って重傷を負い、回復後一線から退いたと、テオは後日耳にしたことがあった。テオの護衛を担当しなければ、まだ特殊部隊で働いていただろうと、テオは彼に申し訳なく感じたが、少佐達は、それが軍人の宿命だ、と取り合わなかった。それでもテオは敢えて質問してみた。

「キルマ中尉と言えば、彼女の部下だったシャベスは今どうしているのかな?」

 少佐は「知らない」と答えるだろうと予想したのだが、彼女はきちんと答えた。

「陸軍の広報部で働いています。頭を負傷したので、少し半身に障害が残ってしまい、戦闘に出られません。しかし本人は軍を離れ難く、出身地で新兵募集の窓口勤務をしているそうです。」

 流石に本部では残れなかったのだ。敵に誘拐され、負傷したので、彼自身のプライドで昔の仲間と一緒の場所に居辛いこともあったのだろう。

「彼が元気なら、それでいいんだ。」

とテオは言った。”ヴェルデ・シエロ”に操られたことをシャベスは完全に忘却しているだろう。悪霊に操られて家族を殺めてしまった少年と同じだ。救いは、シャベスは誰も傷つけなかったことだ。テオは事件の後でシャベスを見舞いたかったが、それは内務大臣から禁止されてしまった。被護衛者と護衛者は個人的に親しくなってはいけないと言う理由だった。他にも政治的理由があった筈だが、亡命者のテオは仕方なく従うしかなかった。
 微風を楽しみながら、彼と少佐はロホの儀式が終わるのを待っていた。そろそろ終わる頃だろうとテオが腕時計に目を向けた時、少佐が岩の上に跳び上がる様に立ち上がった。アサルトライフルを西の方角に向け、射撃の構えになったので、テオは反射的に岩の上に身を伏せた。

「何だ?」
「嫌な気配を感じました。」

 テオの背後からロホが静かに、しかし仲間に解る様に葉音を立てて現れた。彼が少佐に報告した。

「何かが10時の方角から近づいています。」

 少佐が前方を見つめたまま頷いた。ロホがテオのそばで膝を突いて少佐と同じ方角にライフルを構えた。銃弾で倒せる相手なら良いが、悪霊なら”ヴェルデ・シエロ”の気の方が有効だろうとテオは思った。
 少佐は身を隠すつもりはなさそうで、岩の上に立ったままだ。テオは彼女が心配だったが、守られている身で何かが出来るとも思えなかった。こんな時は歯痒くて仕方がない。彼女が最強の”ヴェルデ・シエロ”と言われるグラダ族だとしても、人間に変わりないのだから。
 さぁ、来い! とばかりに少佐が銃を構えた時、軍用車両のエンジン音がトロイ家の方角から聞こえて来た。来る時にすれ違った、発掘隊の買い出し係が戻って来たのだ。エンジン音が聞こえた瞬間、少佐が銃を下ろした。ロホもフッと息を吐いて銃を退いた。

「大丈夫ですよ。」

とロホに声をかけられ、テオは起き上がった。

「気配が消えたのか?」
「猛スピードで去って行きました。」
「車の音に驚いた?」
「恐らく。」

 少佐が岩から降りて男達を振り返った、その顔に「残念」と書いてあったので、テオは笑いそうになった。それを誤魔化す為に、質問した。

「何だったんだ? 悪霊か?」
「人です。」

と少佐が答えた。

「でも嫌な気を放っていました。」
「すると”シエロ”か?」
「どうでしょう。」

とロホが首を傾げた。

「一族の気とは異なる感触でした。」
「私もそう感じました。」

 少佐が不満げに森を見つめた。

「もし”ティエラ”なら、異能者でしょう。厄介な相手の様です。」



2022/05/26

第7部 渓谷の秘密      10

  ロホが惨劇があった家から出て来て、自分達のキャンプ地に来た。”心話”でケツァル少佐に家の中の様子を報告してから、テオにも説明してくれた。

「血の跡などは残っていますが、清めの儀式が行われていました。恐らく近隣のカブラ族の人々が捜査員が去った後で片付けと葬式を行ったのでしょう。後半月すれば彼等はこの家を焼き払う筈です。本当はすぐに焼きたいのだと思いますが、憲兵隊が許可を出すのが半月後だからです。」
「気の毒な犠牲者の霊は浄化されているのか?」
「私は何も感じませんでしたから、彼等はもうここにいません。」

 テオは家を見た。決して立派な家屋ではない。木造の壁とトタンの上に木の皮や葉を葺いた屋根の典型的な僻地に住む先住民の家だ。家財道具が転がっていてもおかしくない庭は何もなく、後片付けをした人々が使える物は使おうと持ち去ったのだとロホが言った。

「但し、家の中の物は持ち出していないですね。やはり死者に悪いと思ったのでしょう。家と一緒に焼いてしまうつもりの様です。死者の持ち物ですから。」

 キャンプは車だけだ。テントなどはひとまず車内に残して置いて、畑を見に行った。まだ収穫前の若いトウモロコシの畑だった。獣避けの柵を開いて中に入ると、ちょっとした迷路の中にいる気分になった。背が高いトウモロコシの中を歩き、テオはどうにか反対側に出た。少佐とロホを呼ぶと、2人も間もなく姿を現した。

「畑の中には何もありません。」
「向こうに道らしき踏み跡がある。」

 テオが指差した方角に、草が倒れた細い獣道の様な通路が見えた。川へ行くのだろう。3人はその道を進んだ。

「遺跡へ行く道と直角の方角になりますね。」

と少佐が囁いた。ロホが頷いた。

「西向きですね。罪人の墓がありそうな方角です。」
「だけど、トロイ家は結構長くここに住み着いていたんだろ? 何故今更なんだろう?」

 テオが素直な疑問を提示すると、少佐もロホも首を傾げた。 
 道の先は新しい開墾地だったが、そこにも墓らしきものはなかった。さらに奥へ道らしき踏み跡が伸びていた。
   薮の中を歩き続けると、足元が再び緩くなって来た。湿地だ。不意に少佐がテオの腕を掴み、足止めした。彼女がそっとライフルの先で指す方向を見ると、大きなアナコンダが前方10メートル程のところを横切って行くのが見えた。大きなニシキヘビの類は都市部でもペットにしている人がいたりして、テオは見たことがあったが、野生の巨大な蛇は初めてだったので、思わず腕に鳥肌が立った。
 セルバ人は蛇を殺さない。神聖視すると言うより、いても邪魔にならないと考えている様だ。しかし北米育ちのテオは慣れなかった。毒蛇と無毒蛇の区別もつきにくい。
 アナコンダが通過するのに数分要した。それだけ長い蛇だった。アナコンダも急いでいなかったのだろう。沼地の主の様に悠然としていた。
 ロホがアナコンダが来た方角を指した。

「あちらの地面が乾いている様です。あちらへ回りましょう。」

 アナコンダは水辺へ狩に行くところだったのだろう。蛇が体を温めていた乾燥した地面の方へ一行は方向を転じた。靴やパンツの裾が泥だらけになったが、ジャングルの中での活動では覚悟していることだ。それでも固い地面を歩く様になると、テオはホッとした。道はなくなったが植生がまばらで背が低い樹木だけになった。
 突然ロホが立ち止まり、左手を指差した。

「あれ、塚じゃないですか?」

 テオと少佐も足を止めた。彼が指差した方角を見ると、低い樹木の中に石組が見えた。ロホが少佐とテオに待機と手で指図して、独りで近づいて行った。彼は石組の前で立ち止まり、繁々と眺めてから、手招きした。
 テオと少佐は静かにそちらへ歩いて行った。苔むした石組だった。高さは1メートルあるかないかで、根元の土が赤く見えた。石組は上部が崩れ、南北の幅50センチ程の柱の中央に細い縦型の穴が見えた。崩れた部分は新しい石の面が剥き出しになっていた。
 ロホが言った。

「恐らく、トロイ家の息子はこれをうっかり壊してしまったのでしょう。遊びではなく、狩でもしていたのではないでしょうか。」
「この塚のそばに居たってことか?」
「スィ。体がぶつかったか、持っていた物をぶつけたかしたのだと思います。」

 テオは恐る恐る穴を覗いて見た。深い穴なのか、真っ暗で何も見えなかった。

「ここから悪霊が出て来て少年に取り憑いたのか・・・」

 想像すると気が滅入った。ロホが背に背負っていたリュックサックから浄化の儀式の道具を取り出した。少佐がテオの肩に手をかけた。

「私達は向こうに行っていましょう。」

 悪霊はもういないと聞いても、やはり気持ちの良い場所ではなかった。

 

2022/05/25

第7部 渓谷の秘密      9

  森の中の道はダートでぬかるんでいた。予想通り凸凹だし、車はエアコンの効きが悪かった。運転はテオ、ケツァル少佐、ロホの3人で交代にハンドルを握った。路面に轍がなければ引き返したくなるような道だ。途中で2度ほど分かれ道があり、真新しい轍がそちらへ続いていたので、2度目の当番で運転していたテオが危うくそちらへ行きそうになったこともあった。しかし助手席の少佐が軍用車両の轍でないことに気がついて、その分かれ道が別の家族の開墾地へ向かうのだとわかった。

「分岐点に標識ぐらい立てておけよな・・・」

 テオは独りで苦情を呟いた。ロホが本来の道に残る轍を見て、憲兵隊か陸軍特殊部隊でしょうと言った。

「大統領警護隊が訓練を終えて引き揚げた後、彼等も事件現場の臨場を終えて帰投したのです。」
「それじゃ、この轍を辿って行けば、殺人があった家に行き着くんだな。」

 正直なところテオは現場を見たくなかった。あまりにも無惨で酷くて悲しい事件だ。殺された夫婦は何故息子が凶行に及んだのか理解出来なかっただろうし、息子も己が親を殺してしまった記憶もないのに親殺しの罪を問われている。兄が親を殺してしまう場面を見てしまった弟はどんなに深い心の傷を抱えていることだろう。
 物思いに耽っていたので、大きくカーブを曲がったところで、対向車が来ることに気が付き、離合スペースがないことに焦ってしまった。
 オフロード車同士、顔を突き合わせて停車してしまった。まさかの対向車だ。テオが窓から顔を出すと、向こうも顔を出した。見覚えのある顔だった。テオは思わず声をかけた。

「君は確か考古学部の・・・」

 向こうもテオをじっと見つめてから、アルスト先生、と言った。名前を思い出せないテオの複雑な表情に気が付かずに、学生は助手席に座っていた兵士に何か言い、それから数メートル車をバックさせた。ぬかるみに車を入れ、テオ達の車を通してくれた。
 離合してから、学生の車がぬかるみから出られることを確認する迄テオは動かなかった。

「何処へ行くんだ?」
「デランテロ・オクタカスまで、買い出しですよ!」

 学生はそう言って、クラクションを鳴らし、走り去った。
 少佐が時計を見た。

「この時刻にここへ来たと言うことは、かなり早い時刻にキャンプを出たようですね。」
「買い出しは予定の行動なのだろう。兵士は護衛だな?」
「当然です。」

 奥地に大勢の人間がいるのだと確信が持てれば気が楽になった。テオは車のスピードを上げた。そして昼になる前に、一軒の家が前方に見えてきた。
 誰も来ない土地だが周囲に黄色いテープが張り巡らされていた。前庭は既に草が伸びかけており、車や大勢の人間に踏み荒らされた箇所がぬかるんで残っていた。テオはなんとなく鼓動が激しくなり、血圧が上昇する気分になった。ケツァル少佐が彼の雰囲気に気がついて声をかけた。

「大丈夫ですか? 私は何も感じませんが?」

 テオは深呼吸して、車を停めた。

「大丈夫だ。犯罪現場と思ったら、ちょっと興奮してしまった。」
「もう霊はここにいませんよ。」

と言いながら、ロホが早くも後部座席から外に出た。彼は黄色いテープをくぐり、規制線の中に足を踏み入れた。
 少佐も外に出たので、テオも出ようとすると、少佐が手で制止した。

「駐車場所を決めてからにして下さい。私が決めます。」

 現場の下見をロホに任せて彼女は周囲の地形を眺めた。そして少し進んだ場所に乾燥した平地があるのを発見して、そこに車を誘導した。周囲より高いと言う訳でなかったが、渓谷の尾根を形成している岩盤の端っこが露出している感じだ。少佐はそこの周囲に無数の轍があるのを見て、その場所が特殊部隊の野営地になっていたのだと見当をつけた。焚き火の跡を残さないのが、いかにも特殊部隊らしいが、少佐は敏感に炉の跡を見つけた。アデリナ・キルマ中尉は憲兵隊の護衛をしていたので、戦闘体制とは違って多少の気の緩みがあったのかも知れない。そこが大統領警護隊のスカウトから漏れた要因だろう、と少佐は想像した。少佐と中尉はほぼ同期の年代だが、少佐はいきなり大統領警護隊に入隊したので、陸軍の経験がなかった。キルマ中尉と同じ時間を過ごしていないので、彼女が新兵時代どんな様子だったのか、知らなかった。
 テオが車を停め、輪止めを置いて、野営の準備を始めたので、彼女は物思いから戻って彼の仕事に手を貸した。


2022/05/24

第7部 渓谷の秘密      8

  テオは都会育ちだ。そしてケツァル少佐もロホも都会育ちだ。しかし軍人2人はジャングルでの活動訓練をみっちり仕込まれていたので、テオは心強く感じていた。
 取り敢えず1週間の出張期間をもらって、テオは大学の仕事を休んだ。休講の間、学生達には各自自主研究を与えたので、戻ったらその検証をしなければならないが、土壌検査など実際にはしないのだから、時間はある筈だった。
 ケツァル少佐はマハルダ・デネロス少尉に発掘申請が通りそうな案件があれば、メールするようにと告げた。申請内容の写真を送れと言うと、デネロスが不審そうな顔をした。

「ジャングルでお仕事なさるのですか?」
「見るだけです。内容に不備がなければ、ロホにも見せます。」
「出来るだけ粗探しします。」

とデネロスは言い、上官達を笑わせた。
 テオ、少佐、ロホの3人は少佐が「公務」でチャーターした民間機に乗ってデランテロ・オクタカス飛行場へ降り立った。テオはその飛行場に来るのは3度目だったが、毎回ダートの滑走路をガタガタ走る飛行機の振動に不安を覚えるのだった。
 携行用保存食は都会で購入した方が安いので、到着した時点で大きな荷物を持っていた。現地の大統領警護隊格納庫の管理人がオフロード車を準備してくれていたので、それに荷物を積み込んだ。事件現場までは車で行くことが出来る、と聞いて、テオは内心ホッとした。殺人事件があった場所で寝泊まりするのは気持ちの良いものではないが、戦場で野営する兵士達のことを思えば、我慢するしかない。
 ロホが管理人にトロイ家の息子達の様子を質問していた。

「祖父と両親を殺害した長男はどうなった?」
「憲兵隊の発表では、精神錯乱と言うことで、病院に送られました。恐らく本人は何も覚えていないでしょうし、現在は正気を取り戻していますから、辛い現実を味わっているでしょう。逆にこれから精神に大きな負担を強いられることになるんじゃないですか。」
「悪霊の仕業だから釈放しろ、とは誰も言わないだろうしな・・・。」

 他者に優しいロホは少年の将来を想像して暗い目をした。事件がなかったことにするには、ニュースが全国に拡散されてしまっていた。アベル・トロイには一生親殺しの汚名がついて回るのだ。

「次男はどうなったか知っているか?」
「弟の方は叔父がいるので引き取られたそうです。その家でどんな生活をしているのか、俺達にはわかりません。」

 テオは聞くともなしに彼等の会話を聞いていた。格納庫の管理人はデランテロ・オクタカスの情報を大統領警護隊の為に収集する役目もしているのだな、とぼんやり思った。
 ロホは管理人に礼を言い、隊則で規定されている金額のチップを払った。情報収集は管理人の臨時収入だ。多分、普段は全く別の仕事をしていて、大統領警護隊が来る時に格納庫の掃除をしたり、備品を整えているのだろう、とテオは想像した。
 1日目はデランテロ・オクタカスの格納庫で泊まった。食事は村の食堂で取った。風呂はないので、管理人が公衆蒸し風呂を教えてくれた。ジャングルに入れば5日間風呂なしになるので、テオとロホはじっくり蒸されて寛いだ。少佐も女性の風呂に入って、そこでトロイ家や森に住んでいる先住民達の情報を仕入れた。
 2日目の朝、彼等はカブラロカ渓谷入り口の家に向かって出発した。

2022/05/23

第7部 渓谷の秘密      7

  文化・教育省は入居している雑居ビルの改修工事を行う決定を下し、工事期間中はシティ・ホールに臨時オフィスを設けた。シティ・ホールで行われるイベントは土日に開催されることが多いので、週末は机やI T機器の移動で大忙しだ。だから大臣は観客席の半分をオフィス代用に使い、半分だけ市民に開放することにした。
 大統領警護隊文化保護担当部は文化財・遺跡担当課と境界のない狭い空間に同居した。元々同じフロアにいる仲間だから、その件に関して問題はなかった。気に入らないのは、通路を隔てて他のフロアの部署がいることだった。それぞれのフロア毎に仕事のやり方が違うし、陳情に来る市民の要件も違うので、かなり騒々しい職場環境だ。こんな場合、下っ端が一番損をする。直接市民と接する仕事をしている彼等を置いて、上司達は早々に静かな場所へ逃げてしまうのだ。文化保護担当部もアンドレ・ギャラガ少尉とマハルダ・デネロス少尉が取り残され、ケツァル少佐とロホは出張を決め込んだ。その出張の内容が、悪霊を封じ込めた墓探し、と聞いて、ギャラガとデネロスは内心下っ端で良かった、と思った。監視業務と違って森の中を歩き回るのはかなりしんどい仕事だ。都会育ちのギャラガは気を放出していればヒルや毒虫が寄って来ないと承知してはいるものの、それでも慣れない。樹木で空が見えない、見通しが利かない薮の中を歩くのも好きでなかった。デネロスは大学の研究課題が図書館の古書を必要としていたので、都市から離れたくなかった。だから留守番を命じられて、2人共ホッとしたのだ。
 ケツァル少佐とロホはジャングルでの活動準備を整えた。参加要請の理由に納得出来ないテオドール・アルストも同行だ。

「遺伝子学者の俺が、どうして蟻塚の土壌分析を行わないといけないんだ?」

 少佐とロホが視線を交わした。”心話”だ。ロホが咳払いしていった。

「貴方は霊の声を聞けます。我々には聞こえない。」
「だけど、君達は霊を見ることが出来るじゃないか。」
「封印されている場所が破壊されなければ霊は出て来ないんです。我々の今回の任務は霊封じではなく、霊が封じられている場所を探して地図に載せるだけです。」
「つまり、俺は警察犬の役目をするのか?」

 少佐とロホが「スィ」と頷いた。

「土壌分析は大学に出張の理由を誤魔化す手段に過ぎません。」

 ロホは地質学の教室から借りてきた土壌分析のサンプル容器と薬剤が入ったキットをテオに渡した。
 少佐が机の上に地図を広げた。

「悪霊の被害に遭ったトロイ家の人々の行動範囲は大体このくらいです。」

 彼女は赤ペンでトロイ家の場所にバッテンを描き、それから地図上で半径5キロメートルの大きな円を描いた。

「これは狩猟の範囲ですから、農民の彼等は実際はもっと狭い範囲で行動していたと思われます。」

 彼女はタブレットで衛星写真を出し、拡大して見せた。

「畑がここ、これが現在の耕作地です。こちらの空き地が、次の開墾地の筈です。今回の悪霊はここにいたのだろうと推測されるので、この開墾地を中心に捜索します。」
「アスルやンゲマ准教授達がいる遺跡は?」
「この渓谷の奥です。」

 ロホがペン先で谷間の奥まった地点を指した。

「ここに准教授の見立て通りにサラがあるなら、ここで有罪判決を受けた罪人は処刑のために集落から離され、森の中の牢に入れられたのでしょう。処刑方法はいろいろありますが、”風の刃の審判”で重傷を負った人間が有罪になったのですから、瀕死の状態か、既に死亡して運ばれたと考えられます。牢がそのまま墓となったと推測しても構わないかと・・・」

 ロホは考古学の先輩のケツァル少佐を見た。少佐が頷いた。

「生き埋めにされた人が悪霊になった可能性が高いですね。」
「嫌な話だな。」

とテオは囁いた。

「トロイ家の人々はそんな昔のことを知らずに住み着いたんだな?」
「カブラ族は遺跡が建設された場所より移動して、本来はもっとデランテロ・オクタカスに近い場所に住んでいるのです。トロイ家はきっと30年前に政府が出した入植助成金をもらって開墾を始めたのでしょう。大昔、そこがどんな土地だったのか知識がなかったのです。部族も現在の場所に移住して数世紀経っていますから、先祖の土地で何が行われていたか、どんな土地なのか、言い伝えすら残っていないのです。」

 少佐は宗教学部で民間伝承などを研究しているウリベ教授から確認を取っていた。文書化された歴史の記録を残さない部族の研究は難しい。口述で聞き取るしかない。特に白人が入植してから移住や迫害、言語統制が行われ、多くの伝承が失われた。ウリベ教授はカブラ族の多くがスペイン語を話し、部族固有の言語を話せる人が殆ど残っていないことを嘆いていた。彼女が録音したのは5つの昔話だけで、生きた会話などはなかったのだ。
 テオは念の為に質問した。

「カブラロカに反政府ゲリラはいないよな?」

 少佐が答えた。

「多分。」



2022/05/22

第7部 渓谷の秘密      6

  ケツァル少佐が自宅アパートに帰ると、ちょうどテオドール・アルストがテーブルに着いてカーラの給仕で夕食を始めようとしていた。彼はカーラが玄関へ出迎えに行ったので、彼女が帰ったと知った。

「始めるのを待っているよ。」

と彼が声をかけたので、少佐は急いでバスルームに入り、埃だらけの服を脱いでシャワーをサッと浴び、新しいTシャツとざっくりしたコットンパンツに着替えてダイニングに入った。テオは律儀に料理に手をつけずに待っていた。カーラがスープを温かいのと取り替えましょうかと声をかけたが、構わないと断った。
 向かい合って、赤ワインで軽く乾杯した。

「今日は文化・教育省で大変なことが起きたんだってな?」

 テオがトイレ詰まりを思い出させる発言をしたので、少佐はちょっと顔を顰めた。

「明日もビルを使えないのであれば、場所を移して業務しなければなりません。省庁そのものを引っ越した方が良いでしょうね。」

 インフラ整備にお金をケチる政府に不満な少佐はワインをごくりと飲んだ。そして話題を変えた。

「今日は急な出張がありました。」
「うん、カーラから聞いた。」
「命令を出したのは、”名を秘めた女の人”です。」
「え?!」

 テオの食事の手が止まった。全く予想外の人物が出て来たので、驚いたのだ。少佐とママコナがテレパシーで会話出来ることは知っているが、ママコナから命令が出たなんて初めて聞いた。これは、この部屋の外でする話ではないな、と彼は感じた。カーラは慣れているのか、何も聞かなかったふりをして、メイン料理を出し終えると、帰り支度を始めた。デザートまで居るつもりはないのだ。テオは少佐に断り、彼女を階下迄見送り、タクシーに乗車するのを見届けてから部屋に戻った。
 少佐がメインの肉の塊を大小2つに切り分けていた。小さい方をテオの皿に取って、彼女は残りが載った皿を自分の前に引き寄せた。テオの肉の3倍はありそうだ。彼女は超能力を使ったな、とテオは思った。

「ママコナはどんな命令を君に出したんだい?」
「悪霊の浄化です。」

 即答してから、少佐は説明した。

「カブラロカ渓谷近くの地元民の家で殺人事件が起こりました。その家の人が森の中にあった罪人の墓を何らかの理由で壊してしまい、悪霊となった罪人の霊が少年に取り憑き、家族を殺害してしまったのです。」
「それは酷いなぁ・・・」

 テオは正気に帰った時の少年の心の傷を思い計って気が滅入りそうになった。しかし少佐は感情を交えずに説明を続けた。

「偶然大統領警護隊遊撃班と警備班が近くで軍事訓練を行なっていました。彼等は惨劇を逃れた子供を保護し、その子を追ってきた憑き物憑きの少年を捕え、カルロ・ステファン大尉が悪霊を木偶に封じ込めました。彼は自力で浄化する自信がなかったので、木偶を持ち帰って上官に任せようと考えたのですが、ママコナが悪霊が首都に入ることを嫌がり、私に悪霊を首都に入れるなと訴えて来たのです。」
「ちょっと待った・・・」

 テオは心に浮かんだ疑問を素直に口に出した。

「どうしてママコナは君に命令したんだ? カルロの上官はセプルベダ少佐だろ?」
「セプルベダは男性です。」

 とケツァル少佐は即答して、彼の質問を終わらせようとした。テオは、何故男では駄目なのか訊こうとしたが、少佐は話を続けた。

「私はデランテロ・オクタカスまで行く時間がなかったので、カルロにロカ・ブランカへ回れと命じました。カルロはエミリオ・デルガドと2人で仲間と離れ、ロカ・ブランカで私と合流し、ビーチで木偶に封じ込めた悪霊を3人の力を合わせて浄化しました。」
「浄化出来たんだな。」
「幸いロホの助力を必要とせずに済みました。」
「おめでとう。」
「でも、まだ森の中に同じような悪霊を閉じ込めた墓がありそうです。」

 テオは肉を噛みながら考えた。もしかして、この出張報告はここから本題に入るのではないか?

「もしかして、これから悪霊を封じ込めた墓を探しに行くのか?」
「探しておいた方が良いでしょう。全てを浄化させる必要はありませんが、今後地元民が避けて通れる印を付けておくべきです。」
「どうやって探すんだ? ジャングルの中だろう? それにカブラロカって、現在アスルが発掘隊の護衛で行っている奥地だよな?」

 テオの知識では、グラダ・シティからデランテロ・オクタカス迄は国内線の航空機で行き、そこからオクタカス遺跡迄車で半日かかる距離だった筈だ。飛行機は毎日飛んでいる訳でなく、定期便は週に2回、月曜日と木曜日だけ、後は農家などが共同で料金を支払って農産物を運ぶチャーター便が偶に飛ぶだけだ。車でグラダ・シティから行けば、実際の距離ではアスクラカンより近いが所要時間は倍かかる悪路だ。そのデランテロ・オクタカスの村からカブラロカ渓谷はオクタカスより遠いと聞いていた。
 少佐が彼に尋ねた。

「蟻塚が赤いと言うのは、土の色が赤いのですよね?」
「俺は蟻の専門家じゃない。だが、蟻塚は土で出来ているな、普通は・・・」
「赤土でないのに赤い蟻塚が出来ていたら、それが悪霊を封じ込めた墓だそうです。」
「誰が言ったんだ?」
「ムリリョ博士。」

 テオは黙り込んだ。この会話は、彼に墓探しに参加しろと暗に言っているのだ、と敏感に察しながら・・・。


2022/05/21

第7部 渓谷の秘密      5

  グラダ・シティに帰った時、まだ太陽は沈んでいなかった。明るい夕暮れの街中をケツァル少佐はセルバ国立民族博物館に向かった。博物館の事務室に事前に電話をかけると館長であるファルゴ・デ・ムリリョ博士は在館だと言うことだったので、面会希望を伝えて、返事をもらう前に博物館に行ったのだ。面会を拒否する連絡はなかったので、博物館の駐車場に車を置いて、館内に入った。平日なので博物館は空いており、職員が閉館時間迄まだ1時間あると言うのに、終業準備に取り掛かっていた。少佐は緑の鳥の徽章を提示し、入館料を払わずに中に入った。
 奥の事務室に入り、早くも帰り支度を始めている職員の間を通り、さらに奥の館長執務室の前へ行った。ドアをノックすると、「入れ」と声がした。
 ムリリョ博士は左の椅子にミイラを一体置いて、机の上に置いたラップトップで仕事をしていた。書類を作成しているらしく、ケツァル少佐が挨拶しても頷いただけだった。それで少佐はマナー違反になるが、彼女から要件を切り出した。

「カブラロカ遺跡について教えて頂きたいことがあります。」
「あそこは未調査だ。」

 ムリリョ博士は顔を上げようともしない。彼が急いで作成しなければならない書類とは、政府に提出する予算案だろうか、と少佐は考えた。セルバ共和国政府の公金支出の申請締め切りはとっくに終わっていたが、ムリリョ博士の様な大物は多少遅刻しても受け付けてもらえるのだ。

「あの遺跡はサラではないのですか?」
「ンゲマはサラだと期待して掘っているが、まだ結果報告が来ていない。」
「サラであった場合、処刑された罪人は何処に葬られたのでしょう?」

 ムリリョ博士の手が止まった。老”ヴェルデ・シエロ”は顔を上げて、少佐を見た。

「儂はあの場所が現役であった時代の風習など知らぬ。カブラ族の先祖が築いたのであろう。カブラ族に訊けば良い。」

 少佐の質問の意図を尋ねようともせずに、博士は再びラップトップの画面に視線を戻した。少佐はもう少しだけ粘ってみた。

「先祖の風習を知らなかった為に、カブラ族のある一家に悲劇が起こりました。」
「ならば・・・」

 博士はそれでも顔を上げてくれなかった。

「ウリベに訊いてみろ。あの女はそう言う風習を調べているのだからな。」

 彼は卓上の電話を取った。内線で誰かを呼び出し、

「大臣のアドレスは何だったか?」

と訊いた。この場合の大臣は文化・教育大臣だ。 大臣宛の書類だ。やはり予算案なのだろう。事務員の回答を聞き、博士は「グラシャス」と一言囁き、電話を終えた。そして教わったアドレスに書類を送信した。
 少佐はその作業が終るまで辛抱強く待っていた。ムリリョ博士は若い人々がどんなに長く待たされても気にしない。飽く迄我流を貫き通す人間だ。そして少佐も辛抱強い。相手の性格を知っているから、決して急かさないし、諦めない。
 博士が遂にラップトップを閉じた。仕事を終えたので、帰り支度を始めた。もうすぐ閉館時間だ。少佐が声をかけた。

「カブラ族の農夫一家が何らかの悪霊を知らずに目覚めさせてしまい、取り憑かれた若い息子が両親と祖父を鎌で惨殺し、逃れた弟も殺そうとジャングルの中を追ったそうです。弟は偶然大統領警護隊遊撃班の野外訓練部隊に遭遇して保護され、追跡して来た兄は部隊に確保されました。ステファン大尉と遊撃班が悪霊を若者から追い出し、木偶に封じました。ステファンは上官に浄化を依頼するつもりでしたが、ママコナが悪霊を首都に入れることを嫌がり、私が浄化を依頼され、ロカ・ブランカの海岸で処理しました。
 同様の悪霊がまだカブラロカ遺跡の近辺に封じられているかも知れないと懸念が残ります。探す手立てをご存じでしたら、ご教授下さい。」

 考古学の弟子として、”ヴェルデ・シエロ”の若衆として、少佐は博士に教えを請うた。博士は鞄に書類を詰め込みながら言った。

「赤い蟻塚を探せ。」

 それだけだった。

2022/05/19

第7部 渓谷の秘密      4

  ステファン大尉は海岸で直属の上官セプルベダ少佐に電話をかけて、彼とデルガド少尉が遅れて帰還する理由を報告した。彼等2人が他の部下達と別行動を取る旨は既に伝えてあったので、今度の電話の要件は木偶をロカ・ブランカで処理しなければならなかった理由の報告だ。”曙のピラミッド”の聖なるママコナが木偶をグラダ・シティに持ち込むことを拒んだと聞き、セプルベダ少佐は「仕方あるまいよ」と呟いた。

ーーあのお方は首都を守らねばならないからな。取り憑かれる人間が”シエロ”ならあのお方も直ぐに誰が被害者か察知出来るが、”ティエラ”が被害者の場合は誰に悪霊が取り憑いてしまうのか、あのお方も我々もわからない。実際に被害者が別の人間を襲う迄わからないからな。人口が少ない地方で被害を最小限に食い止めたいとお考えになられたのだろう。
「しかし、”名を秘めた女の人”が遊撃班でも警備班でもなく文化保護担当部の指揮官に処理を命じられたのは・・・」

 ステファン大尉は上官の顔を潰したのではないかと、心配した。しかしセプルベダ少佐はいつもの如く、カラカラと明るく笑った。

ーー私は女性ではないぞ、ステファン。当代のママコナは困ったことが起きれば、まずは女性達に接触なさる。きっと女同士互いに感応しやすいのだろう。厨房でも君達男ではなく女性隊員に食事の我儘を仰っていただろう?
「あー・・・そう言えば・・・」

 ステファン大尉は苦笑した。彼自身はママコナのテレパシーを読み取れないが、神殿が本部厨房と直結しているので、女官が文書で大巫女様の食事のリクエストを持って来ていた。但し、ステファンや男性の専属厨房係隊員ではなく、女性隊員宛てばかりだった。

ーー大きな声では言えないが、巫女様はお年頃の女性だからな。

とセプルベダ少佐は言った。生まれて直ぐに神殿に迎えられ、一度も外に出たことがない女性の人生をちょっと考えたのだろう。ママコナは世界を見る能力があると言われている。だがピラミッドの中で瞑想して見る世界ではなく、実際に海の音や草原を渡る風や山の厳しさを体験なさりたいのではないか、とステファンはちょっぴりママコナに同情を覚えた。古代から幾世代もそうして閉ざされた空間で一生を終えて来た女性達を思った。そして姉や妹やマハルダ・デネロスがそんな境遇に生まれなくて良かったとも思ってしまった。

「半時間休憩を取ってから、帰還します。」

 ステファン大尉は上官に告げて電話を終えた。
 砂浜の外れで、古い漁船の影に入ったケツァル少佐とデルガド少尉が休んでいた。悪霊浄化で力を使ったので、休んでいるのだ。少佐はロホにお祓いが無事に終わったことを連絡して、ステファンが近づくと、「貴方も休みなさい」と言った。ステファンは部下を見た。デルガド少尉はあろうことかケツァル少佐のすぐ横で猫の様に丸くなって眠っていた。長身を胎児の姿勢にして本当に寝ていた。ステファンが眉を上げたので、ケツァル少佐が少尉を庇った。

「グワマナ族のエミリオにすれば、さっきのマックス攻撃波はかなりの消耗です。大目に見てあげなさい。」
「わかっています。」

 姉の隣は俺の場所なんだ、とステファン大尉は心の中で毒づいた。デルガドに他意がないとわかってはいたが。それに今、少佐の隣が空いていたとしても、彼が座れば少佐は鬱陶しがるだろう。ステファンは少し離れた影の中に腰を下ろした。

「ドクトルと上手く行っていますか?」
「余計な質問はしなくてよろしい。」

と少佐はつっけんどんに言い、それから答えた。

「一緒に住んでいると言うだけで、以前と変わりませんよ。」

 つまり、上手く行っているのだ。安堵と嫉妬が同時に起きて、ステファンは未練たらしい己にうんざりした。テオドール・アルストとケツァル少佐の同居は文化保護担当部に何ら変化を齎さなかった。つまり、それだけあの北米からやって来た白人は仲間に溶け込んでいるのだ。アスルがテオと同居を始めた時も同じだ。寧ろそれまで宿無しだったアスルが遂に定住したか、と仲間達は安堵したのだ。ステファンが文化保護担当部から出て行った時の方が仲間のショックは大きかったのだ。
 少佐が優しい目で、眠るエミリオ・デルガド少尉を見下ろしていた。ステファンはふと不安になった。少佐がデルガドを文化保護担当部に欲しいと言い出したらどうしよう? デルガドは結構文化保護担当部の仲間に気に入られている。気難しいアスルさえ、彼を家に泊めるし、チェッカーの相手をさせるし、マハルダ・デネロスもデルガドには優しい。だがステファンにとっても頼りになる部下だ。超能力の強さが遊撃班で一番弱いグワマナ族にも関わらず、デルガドは努力と才能で他部族の同僚と同等の活躍をしてみせる。そこが純血種の凄いところだ。異人種ミックスのステファンには必要不可欠な補佐だ。

「エミリオをそんな目で見ないで下さい。」

 ステファンはついそう口に出して言ってしまった。少佐が彼を見た。暫く眺め、それから小さく噴き出した。

「この子を取られたくなければ、指揮官としての腕をもっと上げなさい。」

 姉らしい言葉を残して、彼女は立ち上がった。

「先に帰ります。貴方はもう少し休息が必要です。無理せずに戻りなさい。」


第7部 渓谷の秘密      3

  ロカ・ブランカに到着したのは昼過ぎだった。観光地として成り立っている町ではないので、ハイウェイから離れると店らしき施設は殆ど見当たらない。ケツァル少佐は前年に宿泊した宿屋へ行った。昼間は食堂として営業しているので、そこで軽く昼食を取った。女性の一人旅は珍しいのか、客や従業員の目を集めたが、彼女が持つ独特の雰囲気、つまり「この女は只者ではない」感じが男達に威圧感を与えた。それは決して彼女が尊大な態度を取ったのではなく、彼女が”ヴェルデ・シエロ”の気を放っていたからだ。普通の人間達は、彼女が何者か知らなくても気軽に近づいてはいけない存在だと、本能的に察した。気を放つことは”ヴェルデ・シエロ”にとって「気を緩めている」場合と「警戒している」場合とに別れるが、この時少佐は気を緩めていた。周囲に彼女の敵となりうる存在が何もなかった。
 デランテロ・オクタカスからロカ・ブランカ迄どれだけ時間がかかるのか見当がつかなかった。幸いシエスタと言う習慣があるセルバ共和国では、店がどんなに混み合って席順を待つ人が外で並んでいようが平気で店に長居出来る。そしてこの時、ロカ・ブランカの宿屋の食堂はガラガラだった。地元の人間が数人カウンター席で食事の後のお喋りに興じているだけだったので、少佐もコーヒーを注文して窓から海を眺めてぼんやり座っていた。
 沖にある白い岩が町の名前の由来だ。その岩に打ち寄せる波頭を見るともなしに眺めていると、宿屋の外で軍用ジープのエンジン音が近づいて来て停車した。
 少佐は顔を戸口に向けた。開放されたままのドアの向こうから1人の長身の若者がやって来た。大統領警護隊の制服を着ていたので、食堂内の人々の間に一挙に緊張が走った。その隊員の顔を見て、ケツァル少佐は立ち上がった。若者が彼女の前に来て、気をつけして敬礼した。

「遊撃班ステファン大尉、デルガド少尉、只今到着しました。」
「ご苦労。」

 少佐も敬礼を返し、店主に紙幣を渡すと釣りを受け取らずにデルガド少尉と共に外へ出た。ジープの外にステファン大尉が立っていた。デルガド少尉が彼と同行した理由を彼女は漠然と察していた、デルガド少尉はロカ・ブランカより南のプンタ・マナ出身だ。このハイウェイ周辺の地理や裏道に詳しかった。恐らく彼が進んで運転手を買って出たのだろう。
 ステファン大尉は少佐に敬礼すると、ジープの後部へ顎を振った。

「荷物はあちらです。」

 教えられなくても、少佐にもわかった。ジープの後部から黒ずんだ煙が立ち上っている様な感じがした。ステファンが宿に入って来なかったのは、荷物から離れたくなかったからだ。目を離すと危険な存在だと彼は認識していた。
 少佐が”心話”を求めると、ステファン大尉はカブラロカ渓谷で起きた殺人事件や森の中で部下達が見つけた少年、飛行場に現れた憑き物付きの若者の話を伝えた。

「すると、その憑いていた物を移した木偶を貴方は今運んでいるのですね?」
「スィ。私の力では浄化出来ません。上官にお頼みするつもりでした。」
「セプルベダ少佐が浄化出来るレベルではありますが、”名を秘めた女の人”がそれを首都に持ち込むことを拒んでいます。」

 少佐は悪い気が立ち昇る様を嫌そうに眺めた。デルガド少尉は沈黙していた。純血種の彼にも見えているのだが、指導師の修行をしていないので、憑かれるのを防ぐことは出来ても祓うことは出来ない。恐らくステファン大尉と2人だけの道中、背後にあんな悪霊を積んでいては気持ちの良いドライブではなかったろう。

「力は大きくありませんが、汚れの程度が酷いです。新しい汚れの下に古い汚れが山積みされている感じです。きっと古い墓か何かに手を加えてしまい、封じ込められていた悪霊を出してしまったのでしょう。」

 ケツァル少佐は周囲を見回し、それから海岸へ車を出すよう命じた。
 ビーチは静かだった。元々地元民しか来ない海水浴場だ。平日に泳ぐ人は少なかったし、その日は少し波が高かった。
 3人の大統領警護隊隊員は砂浜に打ち上げられていた乾いた流木などを拾い集めた。それを砂の上に積み上げ、問題の木偶を布に包んだまま木の上に置いた。3人で取り囲み、少佐は言った。

「聖なる光を頭に思い浮かべ、木偶を見つめなさい。ステファンは出せるだけの結界能力を使うこと。デルガドは攻撃だけを考えなさい。」

 少佐が火種を作り、積み上げた枯れ木の山の下に入れた。暫く燻ってから、火が上がった。ステファンとデルガドは命じられた能力をマックスで出した。もしこの場面を目撃した”ティエラ”がいたら、彼等が光の筒の中に取り込まれた様に見えただろう。
 ステファンが築くグラダ族の結界の中で、デルガドの爆裂波が木偶に送り込まれた。布に包まれた木偶から黒い煙の塊の様なものが浮き上がった。少佐がそれに向けて浄化の呪文を唱えながら爆裂波をぶつけた。
 ドンっと鈍い音が響いた。木端と砂が四方八方に飛び散った。一瞬太陽の様に眩しい光を発し、木偶は消えた。
 ケツァル少佐、ステファン大尉、そしてデルガド少尉は砂の上に空いた浅い穴を眺めた。焦げた木片が散らばっていた。集めた枯れ木が全て一瞬で燃え尽きたのだ。

「質問してよろしいですか?」

とデルガドが口を開いた。少佐が「スィ」と答えた。少尉が質問した。

「あれは何だったんですか?」

 当然の質問だった。少佐はステファンを見た。

「カブラロカ遺跡の近くで事件が発生したと言いましたね?」
「スィ。」
「カブラロカ遺跡はまだ調査が始まったばかりですが、”ティエラ”の遺跡です。ハイメ・ンゲマ准教授が発掘隊の指揮をしています。」
「警護指揮官はアスルですね?」
「スィ。この際アスルは関係ありません。ンゲマが何を遺跡に求めているか知っていますか?」
「ノ」
「サラです。」

 サラは古代の裁判所だ。オクタカス遺跡はサラで裁判を行うために囚人を収監したり、裁判関係の役人が住んでいた遺跡だと考えられている。カブラロカも規模が小さいだけで、同じ様な場所だったのだろうとンゲマは推測しているのだ。

「”風の刃の審判”で有罪が決まった人間は大概処刑されました。処刑されなくても、岩を落として怪我をする程度で罪の重さを測ったのですから、有罪者はほぼ全員死んだことでしょう。その死骸を何処かに埋葬したのだとしたら、そこを掘った者に悪霊が取り憑く恐れがあります。」
「殺害された農夫の家族は、その墓を知らずに開墾したと?」

 ステファンが推量を述べると、少佐は頷いた。

「恐らく、知らずに何か傷つけるか、壊すかしたのでしょう。そして若い息子に取り憑いた。私は先刻若い男の気配を一瞬感じました。犠牲者の取り憑かれた息子は、悪霊となった罪人と年齢が近かったのだと思います。」

 デルガドが身震いした。

「そんな墓がまだあの森の中に残っているのではありませんか?」

 少佐は頷いた。そしてンゲマ准教授と学生達の無事を案じた。


2022/05/18

第7部 渓谷の秘密      2

  ケツァル少佐は腹違いの弟カルロ・ステファン大尉に電話をかけた。大統領警護隊遊撃班は警備班と違って時間は比較的自由だ。会議や危険な任務の遂行中でなければ、時間に関係なく出てくれることが多い。呼び出し音5回の後、ステファンの声が聞こえた。

ーー遊撃班ステファン大尉・・・

 姉からの電話だとわかっているが、彼女が私的用件で電話をかけて来る人間でないことを知っているので、役職で名乗った。ケツァル少佐も「ケツァル」と名乗った。

「今何処にいますか?」

 テレビ電話を使わないので、顔は見えなかった。背景が見えないが、背後の音が聞こえた。車のエンジン音で、車内にいるらしい。それも乗用車ではない。ステファンが雑音に負けない声で答えた。

ーーデランテロ・オクタカスからグラダ・シティに向けて車で半時間の場所です。

 そんな場所にいる理由は語らなかったし、少佐も訊かなかった。彼女は言った。

「そこからロカ・ブランカへ抜けられますか?」
ーーロカ・ブランカですか?

 ステファン大尉が怪訝そうな声を出した。ロカ・ブランカは東海岸線を通るハイウェイ沿いの漁村だ。観光客ではなく地元民御用達の海水浴場でもある。デランテロ・オクタカスとグラダ・シティの間を通るハイウェイから外れて海へ向かわなければならない。遠回りだ。

ーー何か用件があるのですか?
「出会った時に話します。貴方の荷物を必ず持って来て下さい。」
ーー部下は?
「部下が一緒ですか?」
ーー演習の帰りです。遊撃班の半数を率いています。

 少佐は考えた。ママコナは、「汚れ」を持っているのはステファンだと言った。部下は関係ないのだろうと思われる。

「部下はそのまま本部へ帰しなさい。それとも車両は1台だけですか?」
ーー指揮車両とトラックです。では、私だけが用件の対象ですね?
「スィ。 セプルベダ少佐には私から連絡を入れておきます。」
ーー承知しました。

 少佐は電話を切った。何時に落ち合うとか、何処で会うとか、そんな約束はしなかった。彼女はテオの居住区から彼女自身の場所へ戻った。手早く外出の準備をすると、カーラに言った。

「今夜帰りが遅くなるかも知れません。テオが帰ったら先に食べてもらって下さい。私は必ず今夜中に帰宅するつもりで出かけます。」
「わかりました。」

 カーラはいつも余計な質問をしない。軍人の家で働いていることを十分に承知していた。
 少佐は駐車場へ行き、彼女のベンツに乗り込んだ。車を道路に出してから、ステファンが拾った「汚れ」とは何だろうと考えた。彼女の唐突な要求に彼は素直に従うようだ。つまり、彼は己が「汚れ」を所持していることを自覚しているのだ。
 ママコナが首都に入れることを厭うもの。つまり、悪霊か? ケツァル少佐はロホに電話を入れておくことにした。車が大通りに出てしまう前に路駐して、ロホの携帯にかけた。
 ロホは2回目の呼び出し音の後で直ぐに出た。この男は文化保護担当部の仲間から電話がかかって来る時の着信音を他の人間からの着信音とは別に設定している。

ーーマルティネス・・・
「ケツァルです。貴方に知っておいてもらいたいことがあります。」
ーーどうぞ。
「”名を秘めた女の人”から要求がありました。カルロが持っている『汚れ』を聖都に入れるなと言うものです。」
ーーカルロの『汚れ』ですか?

 ロホの声に不安が混じったので、少佐は彼の誤解を解こうとした。

「カルロが汚れているのではなく、彼が持っている物が汚れていると言う意味です。本人も自覚している様でした。」
ーー”名を秘めた女の人”が厭う物ですね。祓いが必要なのですか?
「恐らく、カルロはセプルベダ少佐に祓ってもらうつもりで持ち帰って来る最中だった様です。でもママコナはその物がグラダ・シティに持ち込まれるのを嫌がっています。」
ーーセプルベダ少佐にはご依頼がなかったと言うことですか。
「”名を秘めた女の人”は女性に話しかける方が気楽な様です。」

 実際、”曙のピラミッド”の当代ママコナは女性の”ヴェルデ・シエロ”にお気楽に話しかけてくることが多い。まだ若いので、男性に話しかけるのが気恥ずかしいのかも知れない。ロホは男ばかりの兄弟の家で育ったが、父や兄達ではなく母親の方がママコナの声をよく聞いていた。母親は儀式に関わらない人だが、儀式に関する質問をママコナから受けて、ロホの父親に質問してから返答をしていた。
 ケツァル少佐は言った。

「貴方の助力が必要になった場合に、助けを求めます。よろしいですか?」
ーー承知しました。いつでもお呼び下さい。



2022/05/17

第7部 渓谷の秘密      1

  ケツァル少佐はグラダ・シティの自宅で、真昼間にも関わらず1人の時間を過ごしていた。休業するつもりなどなかったのだが、彼女が指揮する文化保護担当部が置かれている文化・教育省のビルがある問題を抱えてしまったからだ。文化・教育省が入居している4階建ての雑居ビルの何処かで、トイレの排水管が詰まってしまった。その結果、庁舎内は勿論のこと、ビルの1階で営業しているカフェ・デ・オラスも、少佐が一度も入店したことがないド派手な衣装を販売しているブティックも、省庁の職員達の主治医みたいな内科の診療所も、物凄い臭いに閉口し、一斉に休業してしまった。業者が呼ばれ、現在何処が臭いの発生源なのか調査中だ。
 職場に物理的な問題が発生した場合、セルバ共和国では場所を替えて仕事をすると言うことをしない。労働者は休んでしまう。休んだ分だけ給料が減るのだが、その間は別の仕事を見つけて働いても誰も文句を言わない。
 大統領警護隊文化保護担当部は文化・教育省文化財・遺跡担当課が休めば自分達も休む。発掘申請書は文化財・遺跡担当課が受理して文化保護担当部へ回すので、肝心の書類が回って来なければ文化保護担当部の仕事はない訳だ。
 少佐が休業を宣言すると、アンドレ・ギャラガ少尉は大学生に変身してグラダ大学へ行ってしまった。考古学部の通信制の学生だが、たまには全日制の授業を受けてみようと言う魂胆だ。マハルダ・デネロス少尉も溜まっていた大学の課題を消化する為に図書館へ行った。アスルはカブラロカ渓谷の遺跡の監視業務に就ているので不在だ。ロホも市内で行われている建設現場で出土した遺跡調査の巡視に出かけて、そのまま自宅へ直帰すると言っていた。
 ケツァル少佐は暇だった。文化保護担当部に届く申請書が丁度途切れたタイミングでトイレが詰まったので、彼女の仕事がなかった。だから彼女は自宅に帰った。突然の雇い主の帰宅に家政婦のカーラがちょっと迷惑そうだったので、彼女は「別宅」、即ちパートナーのテオが使っている居住区へ入った。テオはグラダ大学生物学部遺伝子工学科の准教授で、最近仕事が忙しい。隣国からの依頼で、20年前に隣国で起きたクーデターの犠牲者の遺体が数10体発掘され、身元鑑定のためのD N A分析に没頭していた。だから昼間、彼の居住区には誰もいなかった。
 テオの寝室は2人の部屋だ。少佐の寝室には時々女性の友人や部下が泊まるので、彼女は男性を入れない。男性客は彼女の居住区の客間に泊まる。テオの居住区の客間は、テオ個人の研究室になっていた。遺伝子抽出の為の機械や冷蔵庫、コンピューターが置かれている。大学で研究出来ないもの、つまりテオ自身の永遠のテーマとなる”ヴェルデ・シエロ”のD N A分析を行う部屋だ。少佐には理解出来ない世界なので、彼女は決してプライベイト研究室に入らない。例え家主であっても、彼女の慎みだった。
 暇を潰す為に、彼女はテオの居住区のリビングにいた。普段寛ぐ時は彼女の居住区のリビングを使う。それはテオも同じだ。だが、今はカーラが掃除をしたり、夕食の仕込みをしたりしている。家政婦の仕事の妨害をしたくないので、少佐はテレビも家具もないがらんとした部屋で、唯一置かれている古いソファの上に寝そべって帰り道に購入した雑誌を眺めていた。たまにはゴシップ紙も良いもんだ、と思っていると、突然頭の中でママコナが話しかけてきた。

ーー汚れを聖都に入れないで。

 ”曙のピラミッド”に住まう”名を秘めたる女の人”が聖都と呼ぶのはグラダ・シティのことだ。少佐はちょっと考えた。ママコナの言葉は時に抽象的で、話しかけられた”ヴェルデ・シエロ”は意味を理解するのに時間を要することが往々にあった。結局聖なる巫女が何を拒んでいるのか判明しなかったので、少佐は問いかけた。

ーー汚れとは?

 ママコナは短く答えた。

ーーエル・ジャガー・ネグロが持っている。

 そして彼女からのアクセスは途絶えた。
 少佐は雑誌を胸の上に置いて考えた。エル・ジャガー・ネグロは彼女の異母弟カルロ・ステファンのことだ。ステファン大尉が今何処で何をしているのか知らないが、何か良くない物を拾ったようだ。ママコナはそれが首都に入ってくることを拒んでいる。恐らくステファン本人に命令したいのだろうが、白人の血が混ざっているステファンにママコナの言葉は理解出来ない。だから姉のケツァル少佐に依頼が来たのだ。
 少佐は体を起こした。暇潰しが出来たようだ。まずは、ステファン大尉が何処にいるのか調べなければならない。

第7部 南端の家     15

  銃声を耳にした遊撃班の隊員達が格納庫の口に集まっていた。警備班2班で事足りると思ったのか、フェンス際へ来ないで様子を伺っていた。救急車と警察車両がやって来るのを見て、アクサ大尉は部下に犯人と思しき若い男を格納庫へ連行するよう命じた。

「見た限りでは祓いが必要と思われる。この状態のまま警察に渡すのは危険だ。」

 格納庫の口では、ステファン大尉がフェンスの向こうの様子を眺めていた。警備班達は怪我人の応急処置を施し、足止めした見物人に事情を聞いていた。そこへ町の救急車と民警が来た。騒ぎが収まりかけた頃に憲兵隊もやって来た。
 警備班第7班が引き摺ってきた若い男を見て、ステファンは格納庫の中へ入れろと命じた。

「テントを張って、中に入れておけ。恐らくその若者の中に何かがいる。」

 ステファン大尉が結界を張るのが苦手だと知っている部下達は素早く行動した。管理人やエステバン少年がいる位置から離れた場所にテントを張り、そのテントの周囲を円陣で囲んだ。ステファン大尉は己の荷物から30センチメートル程の大きさの木像を取り出した。顔と胴体だけの木偶で、目鼻はない。
 テントの中に押し込まれた若者は、白目を剥いて、唸っていた。狂犬病に罹った犬の様だ。皮膚にも衣服にも血が着いているが、黒ずんでいて異臭を放っており、2、3日経った古い物だとわかった。新しい血痕は先程フェンスの外で襲われた見物人の血だろう。後ろ手に縛られていたが、歯を剥き出して近づく者を威嚇するので、警備班に撃たれた肩の傷は放置されたままだ。そこからも血が流れていた。狙撃者は肩を撃ち抜いたので弾丸は体に残っていない。振り回していた鉈を落とすために撃たれたのだ。
 ステファン大尉は部下をテントから出すと、1人で若者の前に屈み込んだ。顔を見つめ、視線を合わそうとしたが、白目を剥いたままなので不可能だった。恐らくこの男は、アベル・トロイだ、とステファンは思った。何かが取り憑いている。ステファンは己と若者の間に木偶を置いた。木偶は顔はないが裏表はあるので、表を少年に向けた。グァっと若者が威嚇する声を出した。ステファン大尉はいきなり彼の頭部を左右から手で押さえた。同時に気を若者の目に向かって放った。

「ギャーーーー!」

と若者が悲鳴を上げた。テント内に一瞬白い粉でも舞ったように粗い粒子の渦が生じた。テントが空気を注入されたかの様に膨張し、1秒後に3箇所が裂けた。円陣を組んでいた12人の大統領警護隊遊撃班は結界を張る気をマックスに高めた。その結界に白い渦が押し戻され、木偶の頭から吸い込まれて、やがて消えた。
 若者ががくりとその場に崩れ落ちた。ステファン大尉は床に尻を突け、部下の誰にともなく命じた。

「そのガキを手当してやれ。」

 2人が若者を破れたテントから出し、腕を縛っていた革紐を切り、汚れた衣服を脱がした。残りの部下達は大尉が手を振ったので、テントを片づけ始めた。キロス中尉が木偶を見た。

「悪霊ですか?」
「スィ。何者なのかは知らんが、私の力でなんとか封じ込めた。かなり強引だったがな。」
「強引?」
「グラダの力の大きさで少年の体から追い出し、木偶に追い込んだ。それだけだ。セプルベダ少佐の様に悪霊を納得させて沈静化させた訳じゃない。だから、こいつはまだ浄化されていない。聖布の袋を取ってくれ。」

 キロス中尉はステファンの荷物から木偶が元々入れられていた布袋を取り出した。ステファン大尉はそれを受け取り、丁寧に木偶を入れて包む様に巻きつけた。革紐で袋全体を縛る様に巻き、しっかり端を結んだ。
 デルガド少尉は厨房区画を見た。管理人が出勤して来ており、エステバン少年を庇う様に立ってこちらを見ていた。”ティエラ”同然だが”シエロ”の血を引く彼等は大統領警護隊が何を行ったのか、理解していた。目撃したことを口外してはならない。彼等は掟を肝に銘じていた。
 警備班の隊員達が戻って来た。事件の後片付けは全て憲兵隊に押し付けて来たのだ。憲兵隊は見物人達から事情聴取するだろうが、大統領警護隊が確保した容疑者の引き渡しも要求してくるだろう。大統領警護隊も悪霊に取り憑かれて凶行に及んだ若者を庇うつもりなど毛頭ない。ただ、真犯人たる悪霊を憲兵隊に渡すつもりもなかった。
 エステバンが手当を受けている若者に近寄って行くのをビダルは見ていた。きっとトロイ家の大人達を殺害したのは、悪霊に取り憑かれていたアベル・トロイに違いない。エステバンはその凶行の最中を目撃してしまったのだろうか、それとも惨劇が終わったところに居合わせたのか。いずれにしても、エステバンは兄がなんらかの形で関わっていると知っているのだ。
 エステバンが少し距離を取って立ち止まった。ステファン大尉が尋ねた。

「アベルか?」

 エステバンは頷いた。ステファンが言った。

「君の兄を憲兵隊に渡す。君も一緒に行くか?」

 ビダルは大尉を見た。憲兵隊がどんな判断を下すのか、わからない。だが、どんな形でもこの兄弟にハッピーエンドは訪れない。
 エステバンが頷いた。そして気絶しているアベルのそばに駆け寄り、怪我をしていない方の兄の手を握りしめた。

2022/05/16

第7部 南端の家     14

  一夜明けて、大統領警護隊第7班と第8班は手早く格納庫内でのキャンプの撤収を始めた。朝食は作業が終わってからだ。忙しいので、ビダル・バスコ少尉は毛布にくるまったままのエステバン・トロイを遊撃班の場所へ連れて行った。まだ撤収指示が出ていない遊撃班は、キャンプの後片付けを後回しにして、朝食場所の設営を行なっていた。警備班の分も用意しておくのだ。管理人が来るのは食事が終わる頃になる。朝食準備は大統領警護隊が自分達で行うのだった。指導師の資格を持っているステファン大尉が簡略された食材清めの儀式を行い、隊員達がすぐさま調理に取り掛かった。床に下ろされたエステバン少年は目を覚ましており、大人達の作業を珍しそうに眺めていた。一晩暖かい場所で眠ってかなり落ち着いた様子だった。隊員達は誰も事件の話も昨夜の怪しい気配の話もしなかった。箝口令が敷かれていたのではなく、普段から無駄口を叩かないだけだ。それにまだ軍事訓練は本部に無事帰投する迄続いているのだ。
 キャンプの撤収が終わったが、朝食の支度はまだ終わっていなかったので、警備班の隊員達は格納庫の外に出てランニングをした。陸軍航空部隊や空軍も朝の日課をこなしているのが見えた。デランテロ・オクタカスは半官半民の飛行場なので、民間航空会社も格納庫を持っている。そちらは朝一番の便を飛ばす会社だけが扉を開き、プロペラ機の整備を行なっていた。他の会社はまだ仕事を始めていない。ロノイ大尉もアクサ大尉も部下達を指揮しながら、民間格納庫の様子を伺っていた。何か異変があればすぐに駆けつけなければならない。だが朝日が射す飛行場は平和そのものに見えた。
 ロノイ大尉はビダル・バスコ少尉をチラリと見た。半年前に部下の家族に降りかかった悲劇を彼はまだ覚えていた。だからバスコが森の中で保護した少年に未練を抱く感情はわかっているつもりだった。しかし大統領警護隊は個人的感情で行動を取ってはならない。特に現在のビダルは少年に感情移入しやすい精神状態だとロノイ大尉は判じていた。それは国民の安全を守るために集中しなければならない大統領警護隊にとって命の危険に関わることだ。常に第三者の目で物事を見なければならない。それ故、ロノイ大尉はビダルからエステバンを引き離すことを決断していた。少年のためではない、ビダルのためだ。
 飛行場のフェンスの向こうに人影が見えた。滅多に見られない大統領警護隊を見ようと集まったデランテロ・オクタカスの若者達だ。国民にとって畏怖の対象であり、憧れの存在である大統領警護隊。決してその期待に背いてはならないのだ。
 突然、その見物人の人垣の中で叫び声が上がった。ワーっとか、ギャーとかそんな悲鳴だ。大統領警護隊は一斉にそちらへ注意を向けた。第7班がそちらへ走った。ランニング中も抱え持っていたアサルトライフルを前に向けた。指揮官の命令を待たずに、誰かが発砲した。人垣が左右に分かれ、悲鳴は小さくなったが、騒ぎは収まらなかった。フェンスを跳び越えた隊員達が何かを取り囲み、若者達に怒鳴っていた。

「ここを離れるな!」
「騒動の発端を見た者はいるか?」

 ロノイ大尉は第8班に飛行場周辺の封鎖を命じた。

「その若い連中をどこにも行かせるな。事情聴取する迄足止めしろ。」

 部下達が散開すると、ロノイ大尉はアクサ大尉のそばへ行った。

「何があった?」
「あの男が見物人に襲いかかった。」

 アクサ大尉が顎で示した先に、地面に男が1人倒れていた。左肩を撃ち抜かれ、苦痛で呻いていた若い男は、血まみれの服を着ていた。地面に鉈の様な刃物が落ちており、別の男性数名が腕や顔から血を流しているのが見えた。怪我人は第7班が直ちに応急処置に取り掛かっていたが、撃たれた男はまだだった。その男は後ろ手に縛られるところだった。大尉達は、その男が、男と呼ぶにはまだ幼さが残る少年だと気がついた。ロノイ大尉が呟いた。

「まさか、アベル・トロイか?」


第7部 南端の家     13

  夕食の後片付けが終わる頃に、陸軍特殊部隊と憲兵隊の捜査車両がカブラロカ渓谷から戻って来た。ステファン大尉はエステバン・トロイ少年を宥めすかし、何とかビダル・バスコ少尉から引き離し、憲兵隊と共にオクタカス支部へ連れて行った。
 2時間後に再び少年を連れて戻って来た大尉は疲れた表情だったが、ビダルに「一晩一緒にいてやれ」と少年を返した。そして大尉自身はアクサとロノイ両大尉を促し、一緒に格納庫から出て特殊部隊の格納庫へ向かった。
 格納庫の外に現場から戻った陸軍特殊部隊第17分隊の隊長アデリナ・キルマ中尉が待っていた。簡単な挨拶を交わしてから、まずステファン大尉が保護した少年の情報を彼女に与えた。そしてロノイ大尉が現在世間で報道されている捜査内容を伝え、アクサ大尉が3時間前に格納庫の外に近づいた怪しい気配について伝えた。
 キルマ中尉はそれらの情報を暫く頭の中で吟味してから、現場の捜査情報を伝えた。

「被害者は渓谷の入り口でトウモロコシを栽培していた先住民カブラ族の農夫カシァ・トロイと息子カミロ、カミロの妻のマリアの3人。3人共に鋭い刃物で全身をめった斬りされていました。恐らく農業用の鎌を振り回されたのだと思われます。鎌は血で汚れた状態で畑の外れに放置されていました。殺害された順番は分かりませんが、カミロがマリアを庇う形で倒れていたので、夫婦は同時に襲われたものと推測されます。夫婦は家の中で殺害されており、床に血溜まりを踏んで付いた足跡が無数にありました。スニーカーの足跡です。一種類だけでしたから、犯人は1人と思われます。同じ足跡が外で死んでいたカシァの周囲にも残っていました。家の中に物色した跡はなく、物取りとは思えません。
 戸口に子供の勉強道具が入ったカバンが落ちていたので、下の子供が帰宅して現場を目撃したと思われました。エステバンと年上の息子の行方を探しましたが、見つからず、兄の方は事件発生日から学校にも友達のところにも現れていません。憲兵隊が指紋を数カ所から採取していますが、我々にはまだ情報はありません。」
「犯人を追跡出来なかったのか?」

 ロノイ大尉が、”ヴェルデ・シエロ”なら出来るだろうと言うニュアンスで言った。キルマ中尉は大統領警護隊の「上から目線」を無視した。

「樹木の葉などに付着した血痕や地面の足跡を追跡しましたが、カブラロカ川に犯人が入ってしまったようで、川から痕跡が途絶えました。」
「川か・・・」

 ステファン大尉が呟いたので、残りの3人が彼を見た。ステファンが思ったことを言った。

「犯人は川を歩いて下流へ向かったのだろう。ところが2日目に上流で遊撃班のキロス中尉と警備班のバスコ少尉が下の子供のエステバンを見つけ、川で子供の体を洗ってやった。犯人はエステバンの気配を感じ、追跡を始めたのだ。そしてここまで追ってきた。」
「そんなことが出来るのは、”ティエラ”ではないですね。」

 キルマ中尉が眉を寄せた。ロノイ大尉が囁いた。

「何か悪い物に取り憑かれた”ティエラ”なのかも知れん。例えば、行方不明になっている上の息子・・・」

 暫く4人の”ヴェルデ・シエロ”達は沈黙した。悪霊に取り憑かれて人を殺めた例は過去にもあった。どれも官憲に射殺されたり、捕まって精神病院に閉じ込められてそれっきりだ。憲兵隊も警察も、”ヴェルデ・シエロ”に救いを求めない。悪霊祓いをしてもらって正気に帰っても、世間が許さないからだ。どんな理由があっても人殺しは人殺しだ、とセルバ人は考える。正気に帰って社会に戻されても世間は受け容れてくれない。結局別の犯罪に走ったり、精神に異常を来したり、自死してしまうのだ。

「もし、犯人がアベル・トロイだとして、彼の犯行だと立証できなければ、憲兵隊は手を出せないだろう?」

とステファン大尉が言った。残りの3人はまた彼を見た。「元ケチなこそ泥」のステファン大尉は考えを述べた。

「アベルを我々が捕まえ、祓いをして正気に帰す。恐らくアベルには犯行時の記憶がないと思う。だから、そのままエステバンと共に残りの人生を生きさせる・・・」
「アベルはそれで良いかも知れないが、エステバンは何かを見たんじゃないか?」

 アクサ大尉が言った。

「憶測だけで我々が論じ合っても仕方がない。明日、警備班は本部に帰還する。後は遊撃班に任せる。」

 彼はキルマ中尉を見た。キルマ中尉は肩をすくめた。

「私の隊は憲兵隊の援護をしただけですから、捜査にこれ以上首を突っ込みません。少なくとも、ゲリラの仕業でないと結論を出しました。」

 一番年長のロノイ大尉が頷いた。

「では話はまとまった。それぞれの職務を果たそう。解散だ。」

 警備班の大尉達が格納庫に戻った。ステファン大尉は怪しい気配が現れたと思われる方角の森を眺めた。するとキルマ中尉が声をかけて来た。

「カブラロカの遺跡にクワコ中尉がいました。」

 ステファン大尉が振り返った。

「アスルが?」

 文化保護担当部時代から弟の様に可愛がってきた元部下だ。尤もアスルの方も2歳年上のミックスの上官を弟扱いしていたが・・・。

「元気そうでしたか?」
「スィ。すっかり指揮官が板についていました。」

 ステファンは微笑した。弟分の成長が誇らしくあり、またちょっと寂しかった。一緒に大きな遺跡で警備の指揮を執りたかったな、と思った。

「情報、有り難う。今夜はゆっくり休んで下さい。」

 キルマ中尉の豊かな胸にともすれば向いてしまいそうな視線を制御して彼は手を振り、背を向けた。



2022/05/15

第7部 南端の家     12

 「アベル・・・」

 エステバン少年がビダルの胸に顔を押し付けたままで呟いた。ビダルは彼の体を己の胸から離し、顔を見た。

「さっき、ここへ近づいたのは、アベル・トロイか?」

 少年が首を振った。違う、と。ビダルはステファン大尉に視線を移した。ステファン大尉は立ち上がって、ロノイ大尉と”心話”を交わしたところだった。アクサ大尉は自身が指揮する第7班と共に格納庫の外へ出て行ったので、姿が見えなかった。”心話”を終えたロノイがどこかに電話をかけた。
 数分後ロノイ大尉がビダルのそばへ来た。直属の上官が近づいて来たので、ビダルは少年の肩を抱き寄せる形で立ち上がり、指示を待った。ロノイ大尉はエステバンの顔を眺め、それから部下に視線を戻した。

「先刻の『何か』はその子を追って来たのかも知れない。デランテロ・オクタカスの憲兵隊にその子を任せるのは、ちょっと不安だ。」

 憲兵隊にも”ヴェルデ・シエロ”はいるのだが、デランテロ・オクタカス支部にはいない、と言うことだ。大尉達は先刻の「嫌な気配」が普通の人間や動物ではないと考えている、とビダルは察した。グラダ族のステファン大尉が滅多に発しない威嚇の気を放ったのだ。相手は尋常でないモノだ。ビダルは上官に質問した。

「この子をグラダ・シティに連れ帰るのでありますか?」
「ノ」

 ロノイ大尉は即答した。

「子供の面倒を見る暇は我々警備班にはない。大統領警護隊の役目でもない。憲兵隊がトロイ家の親族を探している。その子は教会が預かるそうだ。」

 教会に子供を預けるのは憲兵隊に任せるより不安ではないか、とビダルは内心思ったが、反論しなかった。その代わりに申し出てみた。

「親族が現れる迄、私がこの少年を護衛しましょうか?」

 しかし、その申し出はあっさり却下された。

「君には警備班のルーティンをこなしてもらわねばならぬ。その子の護衛は遊撃班が行う。」

 想定外の出来事に対処するのが遊撃班の任務だ。ロノイ大尉の言葉は理にかなっていた。ビダルは不満を押し隠し、頷いた。そこへアクサ大尉と第7班が戻って来た。

「逃げられた。だが、どう言う輩かは見当がつく。」

 アクサ大尉は、仲間に告げた。

「滑走路の向こうの藪に血の匂いが残っていた。人間の血だ。恐らく、殺人者がその子供を追跡して来たのだ。」

 大統領警護隊の隊員達は、エステバン・トロイを見た。第8班の隊員の一人が考えを口に出した。

「その子供はジープでここへ連れて来られました。殺人者はジープを追って来たのですか?」

 アクサ大尉はその質問に考えることもなく答えた。

「子供の匂いがジープのタイヤ痕の辺りで消えて、ジープは森の中の一本道を通ってここへ走って来た。恐らく他の車の轍が重なることはないだろう。だから安易に追跡出来たと考えられる。」
「わかりました。」

 素直に質問者は納得した。アクサ大尉の説が正しいとすると・・・とビダルは思った。追跡者はずっとエステバンを森の中で探していたのだ。ビダルとキロス中尉が少年を川で洗ったり、ステファン大尉達と出会って休憩させたりしている間に接近して来たのだろう。

「子供を事件の目撃者として、消しにかかろうとしていたのか?」

とロノイ大尉が呟いた。邪悪な気を放つ追跡者。大統領警護隊は厄介な敵がいると感じ始めていた。


 

2022/05/14

第7部 南端の家     11

  格納庫の管理人の1人がラジオから仕入れた情報で、殺人事件があったカブラロカ渓谷の民家の、行方不明になっている子供達の名前は、兄がアベル・トロイ、弟がエステバン・トロイだとわかった。ビダル・バスコ少尉がエステバンと呼びかけると、初めて少年は反応した。涙を流し、泣き出した。オクタカス地方の方言を話せる管理人が話しかけ、エステバン少年は自宅で起きたことをポツリポツリと話し始めた。
 彼が片道3時間の道のりを歩いて学校から帰宅すると、家の前庭で祖父が死んでいたこと。家に駆け込むと、母親と父親も血まみれで倒れていたこと。
 それだけを聞き取るのに10分も要した。少年の記憶が多少混乱していたのと、難しい語彙が上手く使えなかったからだ。管理人が質問者であるステファン大尉とビダルに標準語に通訳し直したのも、手間がかかった原因だった。
 両親が死んだことをエステバンが理解出来ていることが、大人達に彼を痛ましく感じさせた。

「誰が君のパパとママから命を奪ったのかな?」

 管理人が可能な限り穏やかな表現を使って質問した。殺人者を目撃したのか、と訊きたいのだ。
 エステバンは暫く黙っていた。床を見つめ、唇を噛み締めていた。犯人を知らないのではなく、知っているのだ、とステファンは思った。だが言いたくない。言わなければと言う気持ちと言いたくない気持ちが少年の幼い心の中で闘っている、そんな表情だった。だから、彼は想像した犯人を言ってみた。

「アベルがパパとママを死なせたのかな?」

 エステバンは再び泣き出した。物悲しい声を出して、悲痛な表情で泣いた。ビダルは彼を抱き締めてやり、上官を見た。ステファン大尉は背後で控えていたロノイ大尉とアクサ大尉を振り返った。ロノイが囁いた。

「憲兵隊に通報しよう。アベル・トロイを親殺しの罪で手配するべきだ。」
「だがこの少年は兄が親を殺すところを見た訳ではない。」

とアクサが待ったをかけた。

「重要参考人として手配させるべきだ。」

とステファンも意見を述べた。

「少なくとも、アベルを探し出して保護なり拘束なりしなければならない。真犯人が誰かは不明だが、少年の確保が先決だ。」

 ビダルは黙って上官達の話し合いを聞いていた。彼の腕の中で少年は少しずつ落ち着きを取り戻してきた感じだった。
 昔、親に叱られて泣く弟をこうやって抱き締めた・・・とビダルは思った。ビトは彼とそっくりの双子だったが、性格はビトの方がヤンチャだった。優等生のビダルは、奔放な弟を時に羨ましく、時に疎ましく感じた。だが、この世の誰よりも愛していた。彼はエステバンの背中を優しく撫でた。
 何かの間違いだ。お前の兄ちゃんは何かのトラブルに巻き込まれたんだ。お前の両親の死に関わっちゃいない。
 そう言ってやりたかった。
 アクサ大尉が携帯を取り出して憲兵隊に電話をかける声が聞こえた。
 格納庫内は静かになっていた。大統領警護隊の隊員達はビダル・バスコ少尉が抱き締めている子供を眺め、憲兵隊と話をしている上官の声を聞いていた。
 ステファン大尉が、ふと格納庫の壁へ顔を向けた。少し遅れて遊撃班の隊員達も同じ方向へ注意を向けた。警備班の隊員の中にも、銃を掴んで立ち上がりかけた者がいた。
 ”ヴェルデ・シエロ”の野性の勘だ。近くではないが、遠くとも言えない距離に、何か嫌な気配を感じ取った。ビダル・バスコは少年を守らねばと、エステバンを包み込む様な体制を取った。軍人ではない管理人達は感じなかった様子だったが、隊員達のほぼ一斉の緊張した様子に、ただならぬものを感じたのだろう、3人固まってビダルのそばに寄って来た。分散すると、”ヴェルデ・シエロ”達の守護に負担をかけると知っていたからだ。
 ステファン大尉から強い気が発せられるのをビダルは感じた。ステファンはミックスなので結界を張るのが得意ではない。その代わり強烈な破壊力を持つ爆裂波を出せる。その力を少しだけ放っているのだが、並の威力ではないので他の隊員達は気負い負けしそうになった。ステファン大尉は、格納庫に近づいて来た「嫌な気配」を威嚇したのだ。それ以上近づくとただでは済まないぞ、と。
 不意に「嫌な気配」が消えた。警備班第7班の隊員達が格納庫の外へ走り出て行った。

第7部 南端の家     10

  管理人が格納庫の扉を開けてくれたので、ステファン大尉はジープをそのまま格納庫内に乗り入れた。ガランとした空間に、軍用車両数台が駐車しており、その間に大統領警護隊の隊員達が班毎に集まって休息を取っていた。建物の中でキャンプをしているかの様な状態だ。コンクリートを敷き詰めた床だから、その上に野営用の装備を広げて座ったり寝たりするのだ。椅子やテーブルもあるが、全て折り畳み式だ。グラダ・シティに帰る時は、全部持って帰る。管理人には彼等が使う車だけしか残らない。管理が楽だと言えば楽だが、誰も来ていない時は寂しいだろう、と隊員の何人かはそう思った。
 ステファン大尉が車を停めると、アクサ大尉とロノイ大尉が出迎えた。車内から一番格下のビダル・バスコ少尉が急いで降りた。直属の上官であるロノイ大尉の前に立ち、敬礼した。

「ビダル・バスコ、只今戻りました。」

 一瞬で”心話”による報告がなされた。迷子の情報を得たロノイ大尉は少々困惑してジープに視線を向けた。ステファンとデルガド少尉、そして子供を連れてキロス中尉が降りて来た。3人の大尉が互いに目を見て”心話”を交わし、それからアクサ大尉が管理人を呼んだ。3人の管理人は格納庫の隅に設けられた簡易厨房で大鍋に作ったシチューを隊員達に配膳しているところだったが、1人が急いでジープのところへ走って来た。アクサ大尉が命じた。

「その少年に食べ物を与えて、何処かで休ませてやれ。その子の処遇を決める迄、誰かが見張っていろ。」

 管理人が「承知しました」と応じ、少年について来いと声をかけた。しかし少年はキロス中尉の制服の端を握り、離れようとしない。キロスが少し強引に彼を押し離すと、今度はバスコ少尉に駆け寄ってしがみついた。ビダルは困惑して上官を見た。ロノイ大尉が溜め息をついた。

「最初に接触した者を頼りにしている。バスコ、今夜はその子のそばにいてやれ。」
「承知しました。」

 少年にしがみつかれたまま、ビダルは敬礼して、管理人の誘導に従って、少年と共に厨房へ歩き去った。
 少年が話し声を聞けない距離まで遠ざかったと判断してから、ステファン大尉がキロス中尉とデルガド少尉に、先刻ロノイ大尉とアクサ大尉から分けられた情報を口頭で伝えた。

「カブラロカ渓谷の入り口付近にある民家が何者かに襲われ、家人3名が惨殺されているのが、一昨日の午後に発見されたそうだ。昨日我々が見た陸軍航空部隊のヘリは、捜査の為に現地入りした特殊部隊と憲兵を乗せていた。殺害されたのは、5人家族の大人3人、10代と7、8歳の男の子供2人が行方不明になっている。」

 キロスとデルガドが一瞬顔を見合わせたが、”心話”は行わなかった。キロスが尋ねた。

「我々が保護した少年が、その年下の子供の方だと、大尉方はお考えなのですね?」
「恐らく。」

とアクサ大尉が答えた。

「まだ一言も喋らないそうだが、きっと親が殺されるところを見てしまったのだろう。恐怖心を和らげてやらねば、何があったのか語らないと思う。それに殺害事件の犯人に関する情報は今のところ何も我々には知らされていない。あの子供はここから出さない方が良かろう。」

 大尉達は指揮官用に設けられた場所へ行った。デルガドとキロスは遊撃班の休憩場所へ向かった。子供に関する情報は仲間内で拡散しても良いが、格納庫の外は駄目だ、と命じられた。事件発生に関する情報は既に全員が知っていた。地元のラジオが伝えていたのだ。恐らく憲兵隊は秘密にしたかっただろうが、ジャーナリストはどこでも鋭く事件を嗅ぎつけるのだ。だから子供を保護したことは決して外部に漏らしたくないのだった。
 ステファン大尉はカブラロカ渓谷の奥にある遺跡が気になった。遺跡があると言うことは、文化保護担当部に在籍していた頃に知った。まだ誰も手をつけていない未調査遺跡だ。発見した、あるいは存在を確認したのはムリリョ博士だろうか、それともケサダ教授だろうか、兎に角峡谷の奥にあるので今迄誰も発掘に行かなかった。海外には知られていない遺跡だ。ムリリョ博士が広くその存在を明かさなかったのは、装備に費用がかかるからで、何か呪いとか聖地だからと言う問題ではない、と以前ケツァル少佐が言っていたな、とステファン大尉はぼんやりと思い出した。殺人犯が遺跡に逃げ込んでいたら、嫌だな、と彼は思った。遺跡はどの民族が造ったにしても、神聖な先祖の遺構だ。汚されたくなかった。

 

2022/05/13

第7部 南端の家     9

  デランテロ・オクタカスへ向かう車のハンドルを握ったデルガド少尉は時々後部席の気配を背中で伺った。後部席では、少年がファビオ・キロス中尉とビダル・バスコ少尉に挟まれて座っていたが、半時間もするとどちらにともなく頭を傾けてうとうとし始めた。助手席のステファン大尉が囁いた。

「くたびれているんだな。」

 4人の大統領警護隊隊員は話し合った訳ではなかったが、少年が何か恐ろしいことから逃げて来たのだろうと想像をしていた。見知らぬ軍人に捕まるより、もっと恐ろしいことだ。

「この子をどうしますか、大尉?」

とビダルが質問した。キロスが答えた。

「決まっているだろう、憲兵隊に引き渡す。先住民に関するトラブルは憲兵隊の管轄だ。」

 自分達も先住民なのだが、大統領警護隊が「先住民」と言う時は、本当の”ヴェルデ・ティエラ”を意味する。つまり、白人や旧大陸のその他の人種の血が混ざっていないインディヘナで、”ヴェルデ・シエロ”でない先住民のことだ。
 ステファン大尉からもデルガド少尉からも異論が出なかったので、ビダルは黙り込んだ。少年を最初に見つけたのは彼だ。少年は何かに怯えているが、それが何なのか喋ってくれない。第一発見者として、ビダルは少年を助けたいと言う衝動に駆られていた。もしかすると、非業の死を遂げた一卵性双生児の弟ビトの代わりに少年を助けたいだけなのかも知れないが。彼は少年の耳元で囁いた。

「せめて君の名前がわかればなぁ・・・」

 携帯電話の電波が届く圏内に入って間もなく、ステファン大尉の携帯に着信があった。ステファンが電話を取り出すと、警備班第7班のアクサ大尉からだった。

「ステファン・・・」
ーーアクサだ。電話が通じる場所にいると言うことは、帰還途中と考えて良いか?
「問題ない。キロス中尉とバスコ少尉も一緒だ。」
ーー遅刻の言い訳は電話で聞ける内容か?
「電話で言えない程複雑な内容ではない。森の中で子供を見つけて保護していたのだ。」

 すると、電話が数秒間沈黙した。子供と言う予想外の単語に驚いたのかとステファンが想像すると、やがてアクサ大尉が言った。

ーーその子供は君達と一緒なのか?
「一緒に連れて帰るところだ。何も喋らないので、名前も親もわからん。」
ーー逃さないよう、注意してくれ。理由は君達が戻ってから話す。以上。

 唐突に電話が切れ、ステファン大尉は眉を顰めて電話を見た。短い通話では何もわからないが、子供の存在自体はデランテロ・オクタカスでは意外ではなかった様だ。子供が大統領警護隊と出会って保護されたことが驚きだった、そんな印象を与えたアクサの喋り方だった、とステファン大尉は感じた。
 キロス中尉が己の帽子を脱いで、不意に少年の頭に被せた。バスコ少尉が訝しげに彼を見ると、キロスが前の座席にいる上官にも聞こえる声で言った。

「大尉の電話が聞こえました。子供の顔が車外から見えない様にした方が良いかも知れないと思いましたので、帽子を被せました。」

 彼もアクサ大尉の声を聞いて、何か普通でないことが子供の身に起きているのではないか、と感じたのだ。デルガドが提案した。

「駐留施設へ行く道で”幻視”を使って子供が乗っていない様に見せましょう。」
「ノ」

 ステファンは彼の提案を却下した。

「大人に挟まれて座っている子供の姿は外からは見えづらい。敢えて疲れるようなことはするな。」

 デルガドは「承知しました」と答えた。
 大統領警護隊のジープは鄙びたデランテロ・オクタカスの街中を通らず、直接町外れのダートの滑走路を備えた地方飛行場へ向かった。滑走路の片側に格納庫と思われる蒲鉾型の建物が10棟ばかり並んでおり、1棟はセルバ共和国空軍、2棟はセルバ共和国陸軍航空部隊、1棟は大統領警護隊が所有していた。空軍と陸軍は実際に航空機を格納したり、整備したりする場所として使用していたが、大統領警護隊は軍事訓練用の準備・休憩施設として使っていた。普段は軍属として雇われている3人の血の薄い”ヴェルデ・シエロ”の子孫達が管理人として勤務しているだけで、隊員は訓練の時やゲリラ掃討の戦闘時にしか来ない。
 管理人達は純血種の隊員達から同胞扱いされたことがなかったが、最近はミックスの隊員が増えてきたお陰で人並みに話しかけてもらえる様になった。純血種達も昔と比べて人当たりが柔らかくなった、と彼等は感じていた。
 一足先に帰還した隊員達の食事の世話などをしていた彼等は、新しい遊撃班の副官が帰って来るのを見つけて、喜んだ。ミックスの幹部候補生だ。無事に帰って来てくれた、と彼等は安堵した。と言うのも、アクサ大尉達が仕入れたカブラロカ渓谷の殺人事件の情報を集めたのが、彼等だったからだ。



2022/05/12

第7部 南端の家     8

  仲間が去ると、演習場所は静かになった。ステファン大尉は仮砦だった空き地に残った切り株に腰を下ろし、抑制タバコを咥えた。火は点けない。気を抑制してしまうと、敵の奇襲に遭った時に気のコントロールが難しくなる。彼は白人の血を引いているので、純血種の同胞と違って超能力をコントロールするのにも精神力が必要だった。タバコを咥えるのは、ただ口寂しいからだ。
 デルガド少尉は近くの大木に登って太い枝が出ている箇所に座った。ナイフを研ぎながら周辺に気を配っていた。ステファンが低い声で話しかけた。

「バスコ少尉は単独行動だったのか? ロノイもアクサも彼の相棒らしき部下に触れなかったが・・・」

 デルガドが肩をすくめた。

「第8班は人数が奇数でしたから、一人余ったのでしょう。バスコは銃弾探索の開始時点から私達のそばにいました。ロノイ大尉も承知されていたと思います。」
「つまり、単独行動をしていたのではない、と言う言い訳か・・・」

 ステファン大尉はちょっと気に入らなかった。バスコ少尉は肌の色の違いで仲間外れになっているのではないだろう。人種ミックスなので、気の抑制に多少問題があるに違いない。ステファンも警備班にいた頃経験していた。純血種の隊員は、気の抑制が上手く出来ない人種ミックスの同僚と組むのを嫌がるのだ。己が危険に曝される恐れがあるから。大統領府で警備に就いている平時は良い。だがジャングルの中で軍事演習したり、実戦になると命が懸かってくる。”出来損ない”との組み合わせは御免だ、と言う論理だ。
 警備班総指揮官は面倒見の良い男だが、遊撃班や他の部署と違って部下が多過ぎる。人員管理を各リーダーに任せているので、一人一人の教育まで手が回らない。訓練所から卒業してしまうと隊員達は自力で実践力を学んでいかなければならない。バスコ少尉は身近に良いお手本となる先輩や同僚がいないのかも知れない。
 忍耐を強いられる「待つ」体制でいること2時間、やっと木の上にいたデルガド少尉が背を伸ばした。

「キロス中尉とバスコ少尉の気を感じます。ええっと・・・誰か連れていますね。」

 ステファン大尉はタバコをポケットに仕舞い、立ち上がった。自分達の存在を伝える為に鳥真似をした。キロス中尉が応えた。
 演習場だった空き地に、ファビオ・キロス中尉とビダル・バスコ少尉が姿を現したのは10分後だった。2人に挟まれるようにして、10歳に満たないと思しき先住民の少年が1人一緒だった。
 キロス中尉は上官以外の仲間がいなくなっていることで、自分達の遅刻が仲間を困らせたと理解した。彼はステファン大尉の正面に立ち、敬礼した。

「遊撃班ファビオ・キロス中尉、警備班第8班ビダル・バスコ少尉、只今戻りました。遅延により隊にご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした!」

 ステファン大尉は少年を見た。少年がバスコの手を握っていることに気が付いた。顔手足は綺麗だが、服は破れ、汚れている。ステファンはキロスに声をかけた。

「言い訳を聞こう。」

 キロス中尉は「はっ」と敬礼し、”心話”を求めた。ステファン大尉はそれに応じた。
 ビダル・バスコが少年を見つけ、キロスが駆けつけると少年が逃げ出した。2人はジャングルの中で彼を追いかけ、捕まえた。少年は狂気の如く暴れ、泣き喚いたので、彼を落ち着かせる為にキロスはバスコに水場を探せと命じ、残して来た相棒のデルガド少尉に川へ行くと声をかけた。キロスとバスコは少年に何処から来たのかと尋ねたが返事をもらえなかったので、川を探し、水で少年を洗い、落ち着かせた。水を得ると少年は気を鎮め、バスコが所持していた干し肉を貪り食べた。成人相手なら”操心”で事情を説明させるが、子供には使わないのが大統領警護隊の規則だ。子供の柔軟すぎる心に精神波を送ると悪影響を与えると考えられていたからだ。子供は口を利かなかったが、バスコが「兵隊が大勢いる所へ行くか?」と訊くと頷いた。それでキロスとバスコは少年に時々声をかけながら演習場所に戻って来た。
 それらの事情を一瞬で報告されたステファン大尉はちょっと戸惑った。子供の相手は滅多にしたことがない。彼はジープに行き、車内から装備品のビスケットを取り出した。それを水筒と共に子供に渡すと、子供はまた食べた。食べている子供の相手をバスコ少尉に任せ、ステファン大尉はキロス中尉に尋ねた。

「迷子にしては、場所が奇妙だな。」
「スィ。親が近くにいる気配がありません。それに・・・」

 キロスは声を小さくした。

「川に近づいた時、あの子は怖がったのです。上流を見て、ママと呟いたのですが、決してそちらの方へ行こうとはしませんでした。」
「上流にママがいて、しかし、怖いものもいるのか?」
「川に沿ってカブラロカ渓谷の奥へ向かう道があります。数台の軍用トラックが通った跡がありました。まだ新しく、今朝のものと思われます。昨日、陸軍航空部隊のヘリコプターが飛んでいましたが、関係があるでしょうか?」

 ステファン大尉は考えた。陸軍が訓練やゲリラ掃討作戦を行うと言う情報は全くなかった。カブラロカ渓谷で何か想定外のことが起きたのかも知れない、と彼は考えた。カブラロカ渓谷の奥に遺跡があると聞いたことがあるが、遺跡絡みなのか、それとも、森で暮らしている先住民に何かあったのか?
 彼はバスコ少尉に声をかけた。

「その子はまだ何も喋らないのか?」
「ノ、何も・・・」

 バスコ少尉は少年を気遣うように顔を見たが、少年は彼と目を合わそうともしなかった。しかし、バスコが立ち上がると、彼も慌てて立ち上がり、バスコの手を握った。それを見たステファン大尉は、樹上のデルガド少尉に声をかけた。

「デランテロ・オクタカスへ引き上げるぞ、エミリオ!」

 そしてキロス中尉とバスコ少尉にジープに少年を乗せるようにと命じた。

第7部 南端の家     7

  大統領警護隊遊撃班副指揮官カルロ・ステファン大尉は最後の銃弾が回収されたので、部下達に”感応”で全員集合をかけた。しかし、いつも優等生で時間に遅れたことがないファビオ・キロス中尉がまだ来ていなかった。隣で同じく部下達を集合させた警備班第7班と第8班のリーダー達も、ヒソヒソ話していたので、ステファンはそちらへ顔を向けた。

「戻って来ない部下がいるのか?」

 第8班のリーダー、アダベルト・ロノイ大尉が認めた。

「第8班のビダル・バスコ少尉がまだ戻らない。」

 そう言えば目立つ肌の色をした兵士がいないな、とステファン大尉は気が付いた。彼はキロス中尉とよくコンビを組むグワマナ族のデルガド少尉を振り返った。

「デルガド、キロスとバスコを見かけなかったか?」

 通常野外活動する場合は所属班に関係なく2人1組で行動することが原則になっていた。デルガドはキロスと一緒にいた筈だ、とステファンは思い出した。デルガドが答えた。

「半時間前迄中尉と一緒にいました。バスコ少尉は見かけませんでしたが、鳥真似で呼ぶ声が聞こえたので、それが少尉だったのかも知れません。中尉が様子を見てくると言われて、私から離れられました。数分後に、中尉が、川へ行くから先に戻れと声をかけられましたので、私は戻りました。」
「川へ行くと言ったのか?」

 ステファン大尉は少々困惑してロノイ大尉を振り返った。この近辺で川と言えば、カブラロカの遺跡がある渓谷から流れ出る細い流れだけだ。集合場所から徒歩で1時間近くかかる。ロノイ大尉がデルガドに尋ねた。

「バスコ少尉も同行したのか?」
「それが・・・」

 デルガド少尉は”心話”を上官に求めた。ステファン大尉とロノイ大尉はそれに応じ、デルガド少尉が薮の向こうから聞こえた音声を2人の上官に伝えた。ロノイはそれを第7班のリーダー、クレメンテ・アクサ大尉にシェアした。
 バスコ少尉とキロス中尉は「子供」に出会い、その子供を追いかけて行ったと思われる会話が、デルガド少尉には微かに聞き取れた。
 ステファン大尉は腕時計を見た。本部へ帰投する門限はないが、予定より遅れるのであれば連絡を入れなければならない。
 ステファンはロノイ大尉とアクサ大尉に言った。

「私がデルガド少尉とここに残る。貴方方は部下をデランテロ・オクタカス迄連れて引き上げてくれないか?」

 2人だけで大丈夫か?とは誰からも訊かれなかった。彼等は全員”ヴェルデ・シエロ”だ。都会育ちの者もいるが、厳しい訓練を受け、選別された優秀な兵士ばかりだ。森の中での活動も既に何度も体験している。互いに相手の能力を疑うことをしなかった。指揮官達が心配するのは部下を無駄に消耗させることだけだ。アクサ大尉とロノイ大尉は承知した。遊撃班10名も連れて帰るのだ。

「車を1台残しておく。2000迄に君達が戻らなければ、本部に連絡する。」

 アクサ大尉がジープを1台目で指した。ステファン大尉は頷いた。アクサ大尉が指揮官同士だけに聞こえる声で言った。

「いかなる理由であれ、集合に遅れるのは懲罰ものだ。キロスとバスコには後で全員にビールを奢らせる。」

 ステファンとロノイは吹き出し、頷いた。


2022/05/11

第7部 南端の家     6

  隠れん坊と言えば子供の遊びを連想するが、大統領警護隊の隠れん坊は軍事訓練だ。遊撃班の隊員の半数13名と警備班の2班がジャングルの中で隠れん坊をしていた。警備班にとっては半年に一度の野外訓練だ。森の中に築いた「砦」を守り、遊撃班の攻撃を防ぐ訓練だ。遊撃班の方は半数ずつ交代で2ヶ月に1回行っているから手慣れている。仲間とは言え、手強い相手だ。そして勿論、彼等は実弾を用いる。自然保護の観点から迫撃砲使用は3回迄と決められているが、何時撃って来るかわからないので、警備班は気が抜けない。
 その時、2日間の訓練に参加した警備班は第7班と第8班だった。第8班はこの野外訓練が無事終了すれば2ヶ月の休暇に入る。だから彼等は張り切っていた。ヘマをして休暇が延期されては堪らない。
  第8班のビダル・バスコ少尉も緊張と希望で張り詰めた気分で砦の搦め手を守っていた。休暇をもらったら、実家の母親とボーイフレンドをメキシコ旅行に連れて行く計画だった。母親と彼氏は町医者だ。地域の住民の健康を守り、親身になって治療を行う医者だ。ビダルにとって自慢の”両親”だった。昨年ビダルの弟ビトが突然非業の死を遂げ、母親に過大な心の負担をかけてしまった。そばにいてやりたかったが、大統領警護隊から与えられた臨時休暇だけでは足りないと彼は感じていた。母親の彼氏が母親を支えてくれたことに心から感謝した彼は、2人にも休暇を与えたかった。この訓練に失敗は許されない。彼はそう心に言い聞かせていた。
 陸軍航空部隊のヘリコプターが上空を通過した時、大統領警護隊は1日目の訓練に入っていた。遊撃班が砦を攻撃し、警備班が死守する訓練だ。突貫工事で築かれた砦は銃弾と砲撃で壁を穴だらけにされてしまったが、警備班は遊撃班が壁の内側に入り込むことを辛うじて防ぐことに成功した。3名が負傷したが、軽傷で済んだ。ビダルも迫撃砲の爆風を喰らったが、どうにか結界を張って近くにいた仲間共々無事に1日目を過ごせた。
 夜は夜襲に備える訓練で、碌に眠れなかった。効率的に休息を取る訓練だ。夜襲をかけてきたのは、彼等警備班のリーダー2名を含む上官チームで、人数は少ないが半端なく手強かった。なんとか砦の真ん中の「女神像」代わりのコカコーラのボトルを死守した。あと30センチの距離で部下達に押さえ込まれた上官は苦笑した。
 
「コーラのボトルの前に花なんか供えるなよ、モロに障害物になっているじゃないか。」

 一同は疲れていたが、爆笑した。
 2日目は規定範囲内のジャングルに隠れた遊撃班を警備班が探し出して捕らえる訓練だった。度重なる訓練で森を知り尽くした遊撃班を見つけ出すのは難しかった。一度など、本物のマーゲイを遊撃班のエミリオ・デルガド少尉のナワルだと勘違いして捕まえたら、手酷く引っ掻かれた警備班隊員もいた。デルガドは変身などせずに高い木の上で静かに座っていただけだった。
 昼過ぎに訓練は終了し、大統領警護隊は散らばった銃弾や薬莢の回収を開始した。カウントを間違えると面倒なことになるので、全員真剣だ。迫撃砲弾の破片も残らず回収だ。
 1時間かけて作業して、最後の一発を全員で探していると、ビダルの視界に不自然に動く藪があった。彼はライフルを肩から下ろし、構えた。気を抑制し、静かに藪に近づいた。木の枝をかき分けた途端に、泥の塊が飛んできた。彼は際どい距離でそれを空中で砕いた。泥が飛び散った。安心する間もなく、次の塊が飛んで来た。ビダルは怒鳴った。

「止めろ!」

 視界の中に子供がいた。泥だらけの顔で、無表情のまま、手に泥を掴んでいた。男の子、年齢は7、8歳か? 先住民だが、こんな奥地に村があっただろうか? 村がないから実弾演習の場所として幹部はこの森を選んだ筈だが。
 ビダルは子供に銃口を向けたくなかったが、ゲリラは子供でも殺人者に仕立て上げる。だから彼は銃を向けて話しかけた。

「大統領警護隊だ。君はどこから来た? 名前は?」

 子供はぎゅっと口を結び、泥を握る手を挙げたままだ。ビダルは気がついて銃を下ろした。

「泥を投げなければ、撃たない。君は誰だ?」

 だが子供の顔に浮かんだ怯えは消えなかった。ビダルは思った。彼の黒い肌が子供を怯えさせているのではないか、と。彼は応援を呼んだ。鳥の囀りに似た声だが野鳥ではない、そんな甲高い音を喉から発した。子供は荒い息をしながら彼を睨みつけたままだった。

「どうした?」

 微かな足音の後で、男の声がビダルの背後から聞こえた。”ヴェルデ・シエロ”の言語だ。ビダルも同じ言語で答えた。

「子供がいる。名前を聞いたが答えない。私の肌の色に怯えている様だ。」

 間もなく彼の横に遊撃班の隊員が姿を現した。ファビオ・キロス中尉だ。彼は子供を確認し、ビダルをチラリと見た。スペイン語で話しかけた。

「脅かすようなことを言ったか?」
「ノ。銃を向けただけです。だが、森でいきなり私の様な風貌の男が現れたら、びっくりするでしょう。」
「別に君の姿は珍しいものじゃない。」

 キロス中尉は子供に1歩近づき、腰を屈めた。

「大統領警護隊だ。泥を捨ててこっちへ来なさい。」

 しかし、返答は彼の顔めがけて飛んで来た泥の塊だった。キロス中尉はそれを空中で破壊したが、飛沫を避けきれなかった。その隙に子供が背中を向けて走り出した。ビダルは追った。


2022/05/09

第7部 南端の家     5

  トロイ家の殺人事件(と勝手にアスルは決めた)は警護の兵達には通知されたが、学生達には秘密に臥された。ンゲマ准教授にだけは秘密にしておけないので、アスルとアレンサナ軍曹は持っている情報だけを伝えた。ハイメ・ンゲマ准教授はまだ30代前半だが、老成した風貌で、実際落ち着きのある男だった。黙って事件発生の話を聞き、それから警護兵達に質問した。

「学生達の安全の為に、一旦発掘隊を引き上げさせるべきだろうか?」

 アスルは今回の発掘の為にンゲマと学生達が周到に準備と計画を繰り返し確認し、資金も自分達で調達した努力を知っていた。

「遺跡と野営地を決して離れない、我々の目の届く場所から出ない、それを守ってもらえれば、我々は調査中止を強いることをしない。」

 遠回しのセルバ流の言い方だ。中止したかったらすれば良い、続行するならすれば良い、どちらでも良いぞ、と調査隊に判断を委ねる言い方だった。
 ンゲマもがむしゃらに研究を重視して学生の命を疎かにする男ではなかった。彼は約束した。

「警護側からの言いつけを学生達に守らせる。一人でも違反すれば、その時点で、中止を申し渡してくれて結構。」

 流石にムリリョ博士とケサダ教授の一番弟子だ、とアスルは感心した。無理を通して発掘許可を取り消されることを恐れている。学生達を危険に曝して大学から追放されたくない。彼自身の名誉にも関わることだ。セルバでは、目下の者、年下の者、弱い者を守れない男は男ではない、と言う風潮がある。それは力を用いて闘うことだけでなく、その時の判断能力も含めていた。ンゲマが今迄都市近郊の安全地帯ばかりを掘っていたのも、ゲリラの出没が一時期活発になっていたからだ。彼が都会から離れた場所へ行く時は、大概師匠達と一緒だった。彼は知らないが、師匠は2人共”ヴェルデ・シエロ”だ。
 学生達の管理をンゲマに任せ、アスルとアレンサナ軍曹は警戒を強化した。密かに遺跡周辺にトラップを仕掛け、森から近づく者があれば音が鳴るようにしたり、足を輪で捉えて樹上に跳ね上げて捉える罠を置いた。

「外から来る人間だけでなく、言いつけを破って出かける学生も捕まえられますね。」

とアレンサナが愉快そうに言った。アスルもちょっと学生達に意地悪してみたい気分で頷いた。彼も2年程前はグラダ大学考古学部の学生だった。通信制だったので学生として発掘に参加したことはなかったが、ケツァル少佐やステファン、ロホに付いて監視業務に就いたことがあった。学生達は年上で裕福な家庭の子供達だ。小柄で純血先住民のアスルはよく揶揄われた。大統領警護隊の恐ろしさを知らない若者達の奢りを、アスルは経験した。だが、アスルはオクターリャ族の英雄だ。僅か12、3歳で100年近い過去に時間跳躍して伝染病で死に絶える寸前だった村を救った一族の英雄だった。彼は忍耐を学んでいた。世間知らずの学生達が「ガキ」に見えたので、相手にしなかった。当時の学生達と、今彼が護衛している学生達は違う人々だ。しかし時々学生達は規則破りスレスレの行為で警護兵達をドキリとさせる。だからアスルは彼等にちょこっとお灸を据えたかった。
 アデリナ・キルマ中尉がやって来た日の夕刻、アレンサナが仕掛けた輪罠で野豚が獲れた。豚は直ちに兵士の手で解体され、その夜の夕食の材料になった。アスルは肉とスープの容器を受け取り、ンゲマ准教授のテント前へ行った。准教授は発電機を使って電灯を灯し、遺跡の背後にあるメサの洞窟を撮影した写真をテーブルの上に並べていた。アスルはテーブルの端っこにスープの容器を置いた。ンゲマが彼に気づいて顔を上げた。

「サラか?」

 アスルの問いに彼は頷いた。

「まだ天井の開口部を見つけていないが、必ずある筈だ。明日、洞窟の中に入ってみる。」

 完璧なサラを発見することが彼の悲願だった。過去に発見されたサラの遺構は全て審判の部屋の部分が崩落していた。故意に爆破で崩されたオクタカスのサラ以外は、放棄された後長い年月の間に天井部分が脆くなり、自然に崩落したのだ。

「開口部を見つけてからにした方が良い。」

とアスルは反対した。

「天井部分の状態を確認して、問題ないと思ったら洞窟に入ると良い。中に入って天井が崩れたら、逃げ場を失って大怪我で済まなくなる。」
「だが、今は屋根の部分へ登るのは御法度だろ? 殺人犯がいるかも知れないんだ。」

 メサの上部はアスルが定めた警護範囲の外になるのだ。アスルは警護範囲を広げるつもりなどなかった。陸軍兵達を疲れさせることは出来ない。

「後3日、我慢して欲しい。食糧調達の日に村から業者が来るだろう? その日に罠などを除いておく。」

 ンゲマは一瞬不満げな顔をしたが、理性で押さえ込んだ。相手が大統領警護隊だから我慢するのではない。自分達がジャングルの僻地にいて、近くで殺人事件が発生して、犯人が捕まっていない、そんな状況下にいることを理解していたからだ。

「わかった。洞窟は逃げたりしない。中尉の言に従う。」


第7部 南端の家     4

  特殊部隊の第17分隊長アデリナ・キルマ中尉が発掘隊のキャンプを訪れたのは、その翌日の午前遅く、昼近くになってからだった。アスルは彼女が現れる前に、陸軍のトラックと憲兵隊のバンが1台ずつ、ジャングルの中の小道を走って渓谷入り口の一軒家へ来たことを知っていた。トラックは前日ヘリコプターから降下した特殊部隊員達を乗せて帰るための車両だ。バンは憲兵隊の鑑識だろう。
 キルマ中尉は一人でジャングルの中の一本道を歩いて遺跡近くのキャンプ迄歩いて来た。兵士と言えど単独行動は慎むべきなのだが、彼女は”ヴェルデ・シエロ”だったので、屈強な男性兵士より強かった。勿論彼女の部下達は分隊長の正体を知らない。
 中尉はキャンプ地の警護をしていた陸軍警護班の兵士と少し話し、それからアスルが昼食のために尾根から下りて来る迄待っていた。彼を呼ぶために”感応”を使ったりしなかった。”ティエラ”の中で生きる”シエロ”は、極力超能力の使用を避ける傾向がある。使わない方が正体がバレないからだ。アスルは今でも兵士として優秀な彼女が何故大統領警護隊のスカウトによる選から漏れたのか、理由がわからない。彼女も語らない。
 アスルが現れると、彼女は敬礼で迎え、それから言葉で告げた。

「我々の任務について説明したいことがあります。」

 彼女がアレンサナ軍曹を見たので、アスルは人払いではなく、軍曹にも聴かせておいた方が良い、と彼女が言いたいのだと判断した。それで軍曹を手招きして、彼女のそばへ行った。
 アスル、アレンサナ軍曹、そしてキルマ中尉の3人は、他の人々から少し距離を置いて立った。

「渓谷の入り口にあるトロイ一家をご存知ですね?」

とキルマ中尉が尋ねた。アスルとアレンサナは頷いた。

「家の前を通ったからな。だが挨拶程度で住民と会話を交わした覚えはない。ここで野営を始めてからあの家に行った者は、この発掘隊では一人もいない筈だ。」
「ここに到着してから今日で4日目です。食糧補給は3日後になっています。」

 アスルとアレンサナが順番に言うと、キルマ中尉がちょっと考えた。そしてやっと核心に触れた。

「2日前の午後、この界隈を行政的に管轄するセラウ村の村長に通報がありました。トロイ家で人が死んでいると言うものでした。通報者は隣の家・・・車で20分かかりますが・・・の男で、トウモロコシの取り入れと搬送の相談に訪れたところ、家の中でトロイ家の人々が死んでいるのを発見したと言うことです。」

 アレンサナ軍曹がアスルを見た。若い軍曹の目に不安の色を認めたアスルは、黙ってキルマ中尉に視線を戻した。アレンサナはアスルより7歳年上だが、今迄都会に近い安全地帯で発掘隊の警護業務をして来た。こんな秘境で働くのは初体験だから、不安を感じたのだ。アスルは”心話”でキルマに注意した。

ーー”ティエラ”達を怖がらせるなよ。
ーーわかっています。

 キルマ中尉はアスルより、アスルの上官のケツァル少佐より年上だが、それでもまだ30歳になっていない。だが入隊以来ずっと”ヴェルデ・ティエラ”の世界で勤務しているので、部下の扱いは十分心得ていた。大統領警護隊は陸軍より格上だと言っても、アスルは9歳近く年下だ。彼女はちょっと気分を害したが、感情を表に出さなかった。
 彼女は続けた。

「死体の状況の説明は省きますが、刃物傷で、成人男性2名、女性1名が死んでいました。殺人と思われます。現在現場の鑑識作業を憲兵隊が行っています。」
「わかった。」

 アスルは頷いた。だがキルマの報告はまだ終わりでなかった。

「トロイ家では、14歳と7歳の息子がいるのですが、その子供達が行方不明です。」

 アスルとアレンサナが彼女を見つめた。

「子供が行方不明?」
「逃げたんじゃないですか?」
「そうだと良いのですが・・・」

 キルマ中尉が悩ましげな表情で樹木の上の方を見ながら言った。

「子供を誘拐する目的で親を殺害したと言う考えを憲兵が示しました。ゲリラが兵士を養成する為に未成年者を攫うことがあると隣国から情報が来ていたそうです。」
「隣国のゲリラ?」
「我が国のゲリラ活動は最近沈静化していますので、隣国から越境して来た可能性を捨てきれません。」

 キルマ中尉は溜め息をつき、アスル達に向き直った。

「もし、子供を見かけたら、保護をお願いします。怯えて隠れている可能性もありますので、慎重に願います。」
「承知した。」

 アスルとアレンサナ軍曹はキルマ中尉に敬礼し、キルマ中尉は昼食の支度をしているテントから漂ってくる美味しそうなスープの匂いを背に、森の小道を戻って行った。
 アレンサナ軍曹が呟いた。

「あの中尉は一人でジャングルの中を歩いて来たんですかね?」

 アスルはその言葉を無視して彼に早めに昼食を取るように、と言った。

「飯を食ったら、遺跡周辺をもう一度歩いて侵入者や隠れている者がいないか確かめてみよう。」



2022/05/08

第7部 南端の家     3

  ヘリコプターが一旦飛び去った。学生達が少し落ち着かない様子だ。あまり遠くない場所で何かが起きていると察したのだ。ンゲマ准教授は若者達に声をかけ、調査への注意が散漫にならないよう気を引き締めにかかった。アスルは尾根に戻った。低い尾根だから登るのにも下るにも時間はかからない。遺跡から学生達が掛け合う声が聞こえていたが、南の森からも特殊部隊の兵士の声が聞こえた。大声を出しているから、所謂作戦ではない。事件捜査の手伝いだ。アスルは耳を澄ませた。学生の声が邪魔だが、どうにか兵士達の会話を断片的に聞き取れた。死体の数を数えている。一軒家の家族に何かとんでもない不幸が起きた様だ。
 一軒家の家族は友達ではないし、発掘隊と何らかの接触があった訳でもない。遺跡へ来る途中、家の前を通過しただけだった。細い轍だけの道が家の前を通っている、それだけだ。畑は家から少し藪の中を歩いて行かねばならない場所にあり、そう言う位置関係は珍しくない。古くからの農民には訪問者に大事な畑を見せない習慣がある。だから都会から来た学生の中には、家だけ見て、どうやって暮らしているのだろうと素朴に驚きと疑問を抱く者もいた。
 それだけの接点しかない人々の身に何か良くないことが起きたとしても、発掘隊や護衛部隊に責任はない。だがすぐ近くで起きたことは、気持ちの良いことではない。
 アスルは無視しようかと思ったが、心がざわついた。以前はそんな経験をしなかった。テオドール・アルストと付き合い出してから、彼の心に変化が起きたのだ。”ヴェルデ・シエロ”でなくても仲間になれる。仲間でなくても守りたくなる人はいる。例えば、ジャングルの奥地で細々と家族を養っている人とか・・・。
 無線機からンゲマ准教授がアスルを呼ぶ声が聞こえた。アスルは無線機を手に取った。

「何か用ですか?」
ーー学生達が落ち着かない。渓谷の入り口で何かあったのだろうか?

 落ち着かないのは准教授もだろう、とアスルは思った。発掘隊の責任者としてンゲマは学生達の安全を守る義務がある。彼は軍隊が動いたので、反政府ゲリラを心配しているのだ。アスルは過去に何度もンゲマの発掘調査隊の護衛と監視をしてきた。ンゲマ准教授は古代の裁判方法である”風の刃の審判”に用いられたサラと呼ばれる円形洞窟型の完全な原型を探している。求める物が洞窟の奥にあるので、もしその中に入って調査している最中にゲリラに襲われたら逃げる場所がない。だからンゲマは治安が不安定な地方を極力避けて場所を選んできた。アスルにとって、仕事がやりやすい考古学者だった。しかし、今回のカブラロカ遺跡はンゲマにしては珍しく辺鄙な場所だ。最寄りの街まで車で1時間以上かかるし、携帯電話が繋がらない。先住民も、渓谷の入り口の一軒家の家族だけで、人がいない。ゲリラが出たと言う噂さえなかった。人間がいない場所で、軍隊が現れた。だからンゲマは神経質になっていた。
 アスルは無線機に向かって言った。

「陸軍は我々がここにいることを知っています。何か良くない事態が起きれば、連絡が来ます。先生は我々に全てを任せて、発掘を続けて下さい。」

 ざーっと雑音の後、ンゲマが「わかった」と応えた。そして雑音が途絶えた。
 アスルは渓谷の入り口を見た。樹木の揺れは収まっていた。ヘリコプターから降下した特殊部隊も憲兵も姿は見えなかった。しかしアスルは木々の下で10名ばかりの兵士が動き回っているのを感じていた。

2022/05/07

第7部 南端の家     2 

  カブラロカ遺跡の発掘が始まって2日目、再び川下が騒がしくなった。今度は昼間だった。尾根の監視場所にいたアスルは北東の空からヘリコプターのローターの回転音が近づいて来るのを耳にした。乾季と言えど熱帯雨林地方では空が快晴と言う時間は長くない。必ず雲がどこかに浮かんでいる。その雲の切間からヘリコプターが飛んで来るのが見えた。あれは陸軍のヘリコプターだな、と彼は判別した。特殊部隊を任地へ輸送する機体だ。セルバ共和国は空軍よりも陸軍の方が最新鋭の機体を所有している。どちらの軍幹部の方が政府に対して強い発言力を持っているか鮮明にわかる。
 しかし陸軍特殊部隊がこの周辺で何の用だろう。アスルは遺跡をチラリと見た。ンゲマ准教授と10人の学生、それに交代で護衛に就いている陸軍警護班の兵士3人が木々の間で動き回っているのが見えた。夜間の歩哨に就く2人はテントの中で寝ていた。警護班長のデミトリオ・アレンサナ軍曹が空からの音に気が付いて動きを止めたのが見えた。北東の空を見上げ、音の正体を見極めようとしている。
 アスルは再び空に視線を向けた。ヘリコプターが渓谷の南の入り口近くへ降下して行くところだった。あの辺りにヘリコプターが着陸出来る空き地があっただろうか。樹木がざわついていた。その頃になってやっと発掘隊や他の兵士達も音が聞こえる方へ顔を向けた。
 ヘリコプターからロープが降ろされ、兵士が数名降りて行くのが見えた。最後に降りた兵士は白いヘルメットを被り腕に白い腕章を付けていた。憲兵だ。
 アスルは胸がざわついた。憲兵がこんな森の奥にどんな要件があってヘリコプターで飛んで来たのだ? 渓谷の入り口には確か民家が一軒あった。最寄りの別の民家との距離は定かでなかったが、隣人と行き来する時はトラックで20分ばかり走ると言っていた。老人と息子夫婦、それに10代の息子ともっと幼い息子の2人の子供が暮らしていた。カブラロカ遺跡がまだ生きた街であった時代に作られた畑を、いつの時代からか受け継いで細々と農業を営んで暮らしていた慎ましい先住民の一家だ。彼等の家がある辺りに、ヘリコプターから憲兵と陸軍特殊部隊が降下して行ったのだ。
 アスルの背後で無線機から彼を呼ぶ声が聞こえた。アレンサナ軍曹だ。アスルは遺跡を見た。アレンサナ軍曹が片手を上げて合図を送って来た。アスルも片手を上げて応えると、ライフルを手に取り、崖道を駆け降りて行った。
 アレンサナは大統領警護隊が到着するのを待ちきれなかったのか、それとも発掘隊に聞かれたくない話を入手したのか、メサの麓まで走って来た。

「中尉、特殊部隊が渓谷の入り口に降りて来ました。」

 わかりきった情報だった。アスルは頷いた。

「俺も見た。憲兵も一人混ざっていたぞ。」
「え、憲兵もですか?」

 アレンサナがいた場所からは樹木が邪魔でよく見えなかったらしい。

「連絡を取ってよろしいですか?」
「構わない。」

 アスルの許可を得て、アレンサナは衛星電話を取り出した。彼がかけたのは、一番近いデランテロ・オクタカス飛行場だった。ローカルな小さな飛行場だが、セルバ空軍や陸軍航空部隊の基地がある。カブラロカまでヘリコプターを飛ばすなら、デランテロ・オクタカスが一番近い発着地点だ。アレンサナ軍曹はそこの陸軍航空部隊にヘリコプターがカブラロカ渓谷へ飛んで来た理由を尋ねた。何らかの軍事作戦であれば返答はないだろう。しかし基地はあっさり理由を教えてくれた。

ーー司法警察から出動要請があった。森の中の一軒家で事件が起きているらしい。
「事件ですか?」

 アレンサナはちょっと困ってその場の上官になるアスルを見た。アスルは黙って聞き耳を立てていた。先方はあまり多くを語らなかった。

ーー発掘現場に影響はないと思われるが、詳細はまだ不明だ。何かあればこちらから連絡する。エル・パハロ・ヴェルデにもそう伝えておけ。

 通話を終えたアレンサナは、またアスルを見た。アスルは肩をすくめた。

「向こうも何が起きているのか、まだわからないのだ。俺達は発掘隊を守っていれば良い。」

 何かあれば守護者として大統領警護隊がみんなを守る。アスルの落ち着いた様子を見て、アレンサナは敬礼で応えた。

2022/05/06

第7部 南端の家     1

  カブラロカ遺跡は細長い渓谷の奥に存在する、セルバ共和国で一番「秘境」っぽい場所にある遺跡だった。オクタカス遺跡よりティティオワ山よりで、山の南側、火山からの溶岩で形成された5本の脚の様な尾根と尾根の間にある渓谷の奥だ。ティティオワ山の噴火は有史以前のことなので、溶岩の山も今は土を被り植物が覆っている。ジャングルとは少し植生が異なるが、素人が見れば密林だ。それぞれの谷間に水の流れがあり、カブラロカ遺跡は一番水流が多い川の上流にあった。雨季は川が増水するので、今迄存在を知られていても近づく人が殆どいなかった遺跡だ。近寄り難い場所にあるので、要塞か宗教的施設かと想像されていたが、近年そうではないらしいと言う見解が出て来た。土地が狭いので建造物は少なく規模も小さいが、オクタカス遺跡とよく似た形状で建物が配置されており、地形的にもオクタカスと似ていた。遺跡のすぐ背後にメサがあって、洞窟があったのだ。
 グラダ大学考古学部准教授ハイメ・ンゲマは学生10人と共に雨季が終わるとカブラロカに足を踏み入れた。陸軍警護班5名と監視役の大統領警護隊文化保護担当部キナ・クワコ中尉も一緒だった。
 ンゲマは最初に川から離れた高い場所にベースキャンプを設置した。遺跡のそばで寝泊まりしたいが、川のそばが危険だと言うことを常識として知っていた。スコールで増水すれば学生達の命を危険に曝しかねない。それに水辺は動物が集まって来る。危険生物との接近遭遇や生態系へ影響を及ぼすことを避ける目的もあった。
 キナ・クワコ中尉、通称アスルはンゲマが扱いやすい学者だと認識していた。”ヴェルデ・ティエラ”だから、何か不都合なことがあれば”操心”で操れるし、セルバ人の常識を持っている。それに師匠はセルバ考古学の重鎮だから、発掘のマナーもみっちり仕込まれていた。
 初日にキャンプを設置してしまうと、ンゲマ准教授はアスルと陸軍警護班のデミトリオ・アレンサナ軍曹を連れて遺跡を一望出来る尾根へ登った。2人に地図を渡し、発掘作業を開始する場所と後に拡張する範囲を説明した。警護する者にとって有り難いことだった。アスルはオクタカスでもメサの上から監視出来たことを思い出し、その場所を己の持ち場と決めた。

「今日から2週間作業をして、1週間大学に戻り、また2週間作業して、と繰り返す予定です。」

 ンゲマの説明に、アレンサナ軍曹が頷いた。軍隊の休日ではないが、部下達を近くの街へ引き上げさせて休ませることが出来る。国内の研究機関の護衛を引き当てると、この手のサイクルで仕事をしてくれるので、軍隊としても嬉しいのだ。外国の発掘隊だとこうはいかない。乾季の持ち時間ギリギリまで発掘を続けるので、護衛部隊もずっと現場にいなければならないのだ。アレンサナは己の籤運の良さに感謝した。
 監視役のアスルはンゲマ准教授の発掘隊が完全に作業を終了させる迄担当の遺跡から目を離せない。ただ発掘隊が大学に戻っている間はリラックス出来るので、彼もグラダ大学のスケジュールを歓迎した。
 暗くなる前に学生達と兵士達が食事の支度と翌日からの作業の準備に入った。発掘隊の規模が小さいので、護衛も一緒に食べる。2名を歩哨に残し、一行は寛ぎの時間に入った。アスルは料理の皿を受け取ると、目をつけておいた木に登って、枝にまたがる形で座り、食事をした。自ら料理して仲間に振る舞う腕前の彼にとって、「稚拙な味」だったが、決して文句は言わない。監視業務に就いている時は料理をしないのだから、他人の作った物に我儘を言わないことにしていた。
 グラダ・シティの家は、アスルが監視業務でグラダ・シティを離れている間は、空き家だ。借主のテオドール・アルストが時々様子を伺いに戻って来るが、テオはもうケツァル少佐のコンドミニアムに引っ越してしまっており、家賃だけ家屋の所有者に支払っている状態だ。アスルは部屋代をテオに払うが、家の借主の権利は持っていない。少佐からテオに代わって借主になれとせっつかれている。しかしアスルは固定した家を持つ気分にまだなれないでいた。テオの家の居候と言う立場が一番気楽なのだ。そして、他の家に移ろうと言う気持ちにもなれないでいた。

 いっそのこと、ロホが引っ越して来れば良いんだ。

と彼は思った。寝室とダイニング兼リビングしかない狭いアパートより、広くないが寝室2部屋にリビングとダイニングがあるテオの家の方が、将来ロホに必要となるだろう。それとも旧家の息子らしくロホは結婚したらどこか大きな家を手に入れるのだろうか。

 家の交換を持ちかけてみようか?

 ロホが現在住んでいるアパートは、かつてカルロ・ステファンが住んでいた。だからあのアパートならアスルも引っ越して構わないと思った。
 アスルが空になった皿を片付けるために木から降りた時、川下の方向で鳥が騒いだ。陽が落ちて暗くなっていた。だが確かに鳥が騒いでいた。群れで夜を過ごしていた鳥達がいる茂みで何かがあったのだ。
 アスルがその方向を見て立っていると、アレンサナ軍曹がそばに来た。

「鳥が騒いでいますね。」

と軍曹も気になるのか、話しかけてきた。この軍曹は夜目が利く。かなり薄いが”ヴェルデ・シエロ”の血を受け継いでいるのだ。もう”心話”や”感応”は使えない、ほぼ99パーセント”ティエラ”だが、暗闇の中でも目が見えた。当人は先祖に”ヴェルデ・シエロ”がいるなんて夢にも思っていないだろうが。アスルは鳥の巣を何かが襲ったのだろう、と呟いた。

第11部  紅い水晶     8

 研究室に入るとテオはケツァル少佐に電話をかけてみた。少佐は彼からの電話とわかったので、すぐに出てくれた。バックで船の汽笛らしき音がして、彼女が港湾施設にいることがわかった。 「出かけている時に申し訳ない。」 とテオは切り出した。 「ケサダ教授から依頼されて、文化保護担当部の人に...