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2022/01/17

第4部 花の風     30

  ミイラとなったアンドリュー・ウィッシャーのDNA分析結果が出た。テオはそれをアンドレ・ギャラガのDNAと比較した。そして無言でアスルに見せた。アスルは目を細めて2枚の細長いゲノム分析表を眺めた。そして、テオを見た。

「で?」

と彼は問いかけた。テオは真面目な顔で答えた。

「ウィッシャー家の人間はアンドレをアメリカへ連れて行けないってことさ。」

 アスルは彼を数秒間見つめ、それからゲノム表を投げ捨てた。

「だったらはっきりそう言えよ。アンドレはミイラと無関係なんだろ?」
「そうさ。」

 テオは笑いながらゲノム表を拾い上げ、それをビリビリと破った。

「偶然顔立ちが似ていただけだ。そしてアンドリュー・ウィッシャーが死んだ時期とアンドレが生まれた頃が近かった。おまけにウィッシャーの息子だと偽ってアンドリューに似た顔のウィンダムが現れたもんだから、ややこしくなったのさ。」

 アスルは「けっ」と吐き捨てるように声を出し、ソファの上に寝転がった。テオはダイニングの椅子に座って彼を眺めた。ケツァル少佐から週明け迄大人しくしていなさいと言われたので、アスルは出かけずに家の中にいる。サッカーに出かけても良いのに、とテオは思ったが、セルバ人はサッカーの勝敗に熱くなるので、この週末はフィールドに出ない方が無難だろう。

「アスル、昇級する時、本部で儀式の様なことをするのかい?」
「そんなものはしない。新しい階級章をもらうだけだ。」

 アスルは体を起こした。

「ロホが大尉になったら、またお祝いをしなきゃな。」
「君の昇級祝いと合同でやろうか?」
「俺はいい。ロホのお祝いだけだ。」

 照れ臭いのだ。もっとも乾杯の時に一緒に祝えば良いのだ。テオはそれ以上彼を追い詰めずに解放した。
 カルロ・ステファンが指導師の資格を取ったらお祝いをしたいとも言いたかったが、文化保護担当部のメンバー達はそれに一言も触れない。これもワイワイ祝う様なものではないのかも知れない。 だがテオはどんな些細な理由でも良いから、また皆で集まって騒ぎたいなぁと思うのだった。
 セルバではおめでたいことが続くことを「花の風が吹く」と言う。


2022/01/12

第4部 花の風     29

  結局アスルは大して飲んでもいなかったのに、寝てしまった。昼間の業務でくたびれたのだろう。金曜日の夜だ。ケツァル少佐も彼とテオにさっさと帰れとは言わなかった。
 テオは用心深く彼を肩に担ぎ上げ、客間のベッドへ運んだ。少佐の家は土足厳禁なのでアスルは素足だった。行儀良くベッドに寝かせて上掛けをかけてやり、テオはダイニングに戻った。少佐がテーブルを片付けていたので、手伝い、皿洗いをした。

「マハルダがいないと忙しいんじゃないか?」

と彼が言うと、少佐が肩をすくめた。

「アスルが監視で出ている時の方が忙しいです。彼は1日おきにミーヤ遺跡の日本人のところに通っています。新しい消しゴムがコレクションに加わった様です。彼がくたびれているのは、データ入力が面倒臭いからです。」
「誰でも苦手はあるさ。」

 少佐がクスッと笑った。

「中尉に昇進すれば秘書を雇えるのです。財政的な問題で私の部署では誰もそんな贅沢をしていませんが。」

「秘書? 一般人から雇うのか?」
「スィ。」
「ロホは兎も角、アスルは秘書を雇う人間に見えないな。彼は自分でやらないと気が済まないだろう?」
「確かに。」

 皿を洗い終わり、水気を拭き取って棚に仕舞った。それからコーヒーを淹れて2人でリビングでまったりタイムにした。
 テオはロジャー・ウィッシャーの件の顛末を語った。少佐は知っているのかも知れないが、大人しく聞いてくれた。テオの話がウィッシャーの逮捕で終わると、彼女はそこで感想を述べた。

「その、ウィンダムとやらは、恐らく強制送還になると私は思います。アメリカ人を刑務所に入れて、また向こうから誰かが派遣されて来たらイタチごっこになるでしょう。シーロも外務大臣もそれぐらい理解していますから、罰金でも課して追い払う筈です。」
「そう願いたいな。”砂の民”の発動が想定外に早くなければ、だけど。」

 ”砂の民”と言ってから、テオは大学病院での出来事を思い出した。

「これは君だから打ち明けるが・・・」

 少佐が彼を見た。彼は声を顰めた。

「先方も君とカルロには打ち明けても構わないと言っていた。だが、俺は君だけに語る。」

 必要ないとわかっていても、彼は窓の外のバルコニーに誰もいないことを目視で確認した。

「俺は大学病院でマレシュ・ケツァルと会った。」

 少佐が眉を上げた。ちょっと驚いていた。

「ご存命でしたか・・・」
「スィ。今は夢の世界に生きているが・・・息子の家にいる。」

 ケツァル少佐は暫く黙ってテオを見つめ、やがて微笑した。

「彼女はオルガ・グランデを出て、グラダ・シティに来たのですね。」
「直接来たのかどうか知らないが、大切な息子に出会えて今は息子の家族の世話を受けている様だ。コディア・シメネス、知っているかい?」
「スィ。フィデルの奥様です。ムリリョ博士の末のお嬢様でもあります。とても優しくて、でも聡明な方ですよ。」
「彼女の付き添いで通院しているんだ。だから、マレシュと会ったと言ったが、言葉を交わしたのはコディアとだ。ただ、声をかけて来たのはマレシュの方だった。」

 少佐が「え?」と言う顔をした。滅多に見られない表情だ。テオはちょっと笑った。

「彼女は息子の記憶を無意識に読み取って俺の顔と名前を覚えているんだ。きっと君や教授の教え子達や教授が関わった人々も覚えているんじゃないかな。だけど俺には彼女の言葉が理解出来なかった。君達の母語を喋っていたから。」
「それは恐らくイェンテ・グラダ村での方言でしょう。時々カタリナがポロリと口に出しますが、カルロもグラシエラも私も理解出来ない時があります。」
「そうか・・・すると彼女の言葉を理解出来る人は現在教授夫妻とカタリナだけなのかも知れないな。」

 テオはコーヒーを飲み干してカップをソーサーに戻した。

「俺は彼女と出会ったことを教授に言ってない。彼女の存在は教授夫妻とムリリョ博士だけの秘密なのだと思う。」
「私もそう思います。ムリリョ博士が彼女の話をして下さった時、博士は彼女の現在の行方をご存知ないと仰いました。きっと他の長老に教えたくなかったのでしょう。ですから、私もここで貴方から聞いた話を忘れることにします。」
「カルロには言わない方が良いな?」
「言わないで下さい。あの子はフィデルから心を盗まれる迂闊者ですから。」

 ケツァル少佐は愉快そうに笑った。



 

第4部 花の風     28

 ケツァル少佐の自宅での夕食に招待されたのがテオと己だけだと知って、アスルはひどく不安げな顔になった。過去にも同じ面子で夕食を取ったことがあったが、その時は少佐の命令でテオを過去の時間帯に隠す任務を帯びていたのだ。しかし今回はただ「夕食においで」だ。テオは何故彼がそんなに不安気になるのか理解出来なかった。ステファン大尉やロホなどは単独で少佐の家に呼ばれたことがある。それもこれと言った用事ではなく、少佐も彼等も暇で一人で食事するのが寂しい時だった。 普通に世間話をしてご飯を呼ばれて帰った、とテオは聞いていたので、アスルが緊張する理由がわからなかった。
 カーラが作った家庭料理が並ぶ普通の夕食だった。いつもなら厨房を覗きたがるアスルが大人しく座っているので、少佐がワイングラスを手にしたまま、部下を眺めた。

「どうしたのです、アスル? いつもの貴方らしくありませんね。体調が良くないのですか?」
「否、何でもありません。」

 アスルがテオをチラリと見た。なんで呼ばれたんだろ?と目で訊いてきた。”心話”を使えないテオでも彼の気持ちがわかった。ギャラガの遺伝子を調べたことがバレたのだろうか。
 少佐がワインを飲み干して、グラスをテーブルに置いた。

「貴方達、一緒に暮らしてみてどうですか?」

と訊いてきたので、テオは隣の同居人を見た。

「楽しい。俺は彼と一緒で生活にメリハリが出た。時々闖入者もいるし。」

 上官に視線を向けられて、アスルは少し頬を染めた。

「今のところ、快適です。」

 少佐が頷いた。

「つまり、貴方はこれからも当分テオの家に住み続けると考えて良いですね?」

 テオはハッと気がついた。少佐は、司令部が考えているアスルの昇級の条件である「定住」を確認しているのだ。アスルは直ぐには答えなかった。1箇所に長く住んだことがないと言う彼が、珍しく5ヶ月近くテオの家にいるのだ。

「クワコ少尉」

と少佐が彼を呼び慣れた渾名ではなく、本名で呼んだ。アスルが「はい!」と真っ直ぐ彼女を見て答えた。少佐も彼を真っ直ぐに見つめた。

「来週明けに、本部から正式に通達が出ます。貴方は中尉に昇級します。潔斎して、伝令が来たら直ちに本部へ出頭して辞令を受けなさい。この週末は家で静かに過ごすこと。決してこの話をぶち壊す様な真似はしないで下さい。私の立場もあります。」

 アスルが立ち上がった。椅子の横に立ち、姿勢を正すと、敬礼した。

「シンセラメンテ グラシャス!」(心から感謝します)

 テオは嬉しくなった。アスルなら当然の出世だ。ケツァル少佐も敬礼して、部下に座れと合図した。アスルが腰を下ろしたので、テオはおめでとうと声をかけた。アスルは赤くなって、小さな声でグラシャスと返答した。

「これで文化保護担当部は、少佐1人、中尉2人、少尉2人になるのか?」

とテオが確認すると、少佐が微笑んだ。

「中尉はすぐにアスル1人になります。大尉が1人出来ますから。」

 アスルが顔を上げた。今度は本当に嬉しそうに目を輝かせた。

「ロホが大尉に昇級するのですか?」
「スィ。」

 少佐も嬉しそうだ。

「ロホの昇級もアスルのと合わせてずっとお願いしていたのですが、司令部は彼が”赤い森”事件でミスをしたことをかなり重く見てなかなか承知してくれませんでした。でも、あれ以来彼は慎重に行動するようになり、後輩の指導も上手くやっています。祈祷や指導師の役目もそつなくこなしてきたので、目立った手柄はありませんが、もう良いだろうとお許しが出ました。これで私も安心して外へ監視業務に出られます。」
「ロホに指揮官の事務仕事を押し付ける気か?」

 テオが呆れて言うと、アスルがニヤリと笑った。

「ドクトル、ウチの少佐はオフィスより外での仕事の方がお好きなんだ。」

 彼が己のグラスにワインのお代わりを注ごうとすると、少佐が瓶を取り上げた。

「今夜はここまで。それ以上飲むと貴方は寝てしまいます。」
「眠ったジャガーは結構重いからな、抱っこで運べないんだ。」

とテオも揶揄ったので、アスルはプーっと頬を膨らませて拗ねて見せた。

第4部 花の風     27

  夜中になる前に、テオは大学から電話を受けた。彼の研究室が泥棒に荒らされたと言う報せだった。テオは人間のサンプルを全部持ち帰って自宅の冷蔵庫に入れておいたので、電話をかけてきた警備員に、ドアを施錠してくれるよう頼んだ。

「何を盗られたか、明日チェックする。」

 もし分析器を盗まれたら大学の損害だ。分析中だったのはミイラのサンプルで、アンドレ・ギャラガの分は既に解析も終わっているから安全だった。
 翌日出勤すると、部屋の中は大して荒らされていなかった。連絡してきた警備員は夜勤明けで眠たそうだったが、テオが「盗まれたのは冷蔵庫の中の豚の精子だけ。後は大丈夫。警察にも憲兵隊にも連絡無用。」と言うと、安心して帰って行った。
 恐らくロジャー・ウィンダムは目を覚まして、リュックサックと携帯電話と財布が無くなっていることに気づき、慌てて逃げたのだ。事務局の鍵入れからテオの研究室の鍵だけが無くなっていたので、警備員が様子を見に行き、ドアが開けっぱなしになっていた為に侵入者がいたと気づいた。
 テオはケツァル少佐に夕食に招かれていることを思い出し、ゴンザレス署長に電話をかけた。

「ごめん、また帰れなくなった。」
ーーまたデートか?
「まぁ、そんなものだ。」
ーー良いことだ。お前の様に若い男がこんな田舎に律儀に帰って来る必要はない。
「エル・ティティに空港があれば、明日の朝にでも帰るのに。」
ーー飛行機は止めておけ。バスと違って、今度は本当に死ぬぞ。

 携帯の画面の中でゴンザレスが笑った。

ーーこうしてお前の顔を見られているんだから、俺は寂しくなんかないぞ。
「愛してるよ、親父。」
ーー俺もだ、倅。

 電話を切って、テオは思った。いつかケツァル少佐を連れてエル・ティティに行く日が来るのだろうか。
 また電話が鳴った。シーロ・ロペス少佐からだったので、急いで出た。少佐は挨拶もそこそこに、起きたことだけを告げた。

ーー例のアメリカ人を空港の税関で逮捕しました。
「ウィッシャーをですか?」
ーーセルバ産と思われる動物の生殖細胞を無断で持ち出そうとしたので、職員が引き留め、憲兵隊に引き渡しました。グラダ大学のラベルを貼った小瓶に入っていましたが、お心当たりはありますか?

 仕方なくテオは答えた。

「昨晩、研究室に泥棒が入って、豚の精子の瓶を1本盗まれました。被害はそれだけだったので、警察には届けていません。」
ーー豚の精子ね・・・

 ロペス少佐は電話の向こうで微かに笑った。

ーー農業省が乗り出して来るでしょう。外務省としては、あちらの政府に同国人を拘束したことを連絡しなければなりません。
「彼は運が良かったと思います。こちらの刑務所に入るか、本国へ強制送還されるか、でしょう?」
ーー刑務所は死刑宣告と同じですがね、彼の場合は。

 またもや身の毛のよだつ様な予言をして、ロペス少佐は電話を切った。ウィンダムの正体を伝えるべきだったかとテオは考えたが、結局電話を掛け直すことはしなかった。

 俺もセルバ人の考え方に染まってきたかな・・・


第4部 花の風     26

  室内では分析器が仕事をする微かなブーンと言う機械音が響いていた。廊下を足音を忍ばせてやって来た人物はその音に気づいたのだろうか、一旦前を通り過ぎて、直ぐ戻って来た。アスルはドアの横に立っていた。多分、正面に立っても普通の人間の目に見えない”幻視”を使うだろうが、用心に用心を重ねている。
 事務局から盗んで来たのか、鍵を使ってドアを開け、侵入者が室内に入ってきた。アスルは動かない。相手の出方を伺っている。テオは男だと判断した。
 男は携帯ではなく小型のライトを出して棚を物色し始めた。何か目的を持って探している。テオは男が横方向に移動する度に己もそっと机を回る様に移動した。男がうっかりゴミ箱を蹴飛ばし、床にプラスティックの容器が転がる音がした。男は慌ててライトを消し、暫く動きを止めた。それから誰も聞いていないと判断し、再び動き出した。散らばったゴミを片付けるつもりはなさそうだ。不意に男がライトの向きを変え、テオは急いで身を低くした。男は分析器を眺め、それから舌打ちした。何をする機械なのかわかっているが、中身を確認出来ないのだ。
 再び男は棚を見ていき、やがて冷蔵庫と金庫を発見した。金庫の中は学生達の名簿と成績表、試験問題の資料が入っている。普通の泥棒が盗んでも意味がない紙切ればかりだ。男は金庫を後回しにして冷蔵庫を開けた。冷蔵庫も夜間は鍵を掛けるのだが、先刻テオが開けたまま、無施錠のままになっていた。テオが人間のサンプルを回収した後は、牛と豚のサンプルしか残っていない。ラベルには採取した農場の名前と番号が記してあるだけだ。男はそれを眺め、背負っていた小さなリュックの中にそれを入れ始めた。
 アスルが男のそばにそーっと忍び寄った。気配に気がついて男が振り返ったが、何も見えなかった。ただ、後ろの壁にアスルの影が映った。男は咄嗟に横を見た。アスルが別の場所に立っていて、影が映ったと思ったのだ。アスルが握った拳銃のグリップで男の側頭部を殴った。
 男が倒れたので、テオは机の影から出た。アスルが素早く男の腕を背中に回し、革紐を名人技で手首に巻き付けて縛り上げた。大統領警護隊は手錠を使用するが、この場面でアスルは持っていなかったのだ。しかし”ヴェルデ・シエロ”を拘束するのに有効な革紐は常備していた。それから男の服を探り、拳銃と折り畳みナイフを回収した。
 テオは壁の照明のスイッチを入れた。そして男の顔を見てアスルに言った。

「ロジャーだ。」

 アスルが冷蔵庫から氷を出して、男の顳顬に押し付けた。男が目を開けた。アスルが英語で話しかけた。

「ここで何をしていた?」

 ロジャー・ウィッシャーは彼を見上げ、それからテオに気がついた。またアスルを見て、もう一度テオを見た。

「ドクトル・アルスト、話を聞いてくれ。」

 彼が体を動かしたので、アスルが「ノ!」と言った。

「そのままの姿勢で話せ。」

 テオはロジャーにアドバイスした。

「逆らうな。俺の友人は白人嫌いで気が短い。」
「大統領警護隊?」
「答える必要はない。」

 アスルは1メートル以上ロジャー・ウィッシャーから距離を取っていた。それが嫌いな人間に対する彼の許容範囲の限界だ。昔はテオに対してもこうだったのだ。
 ロジャー・ウィッシャーはうつ伏せの姿勢で仕方なく話を始めた。

「憲兵隊が父は盗掘目的で遺跡に潜り込んで事故死したと言った。僕は恥ずかしかった。確かに父は黄金郷を探していたから、その可能性もあると思った。出来ればこの国に父の痕跡を残したくなかった。貴方はミイラの組織サンプルを採ったと思ったので、回収しようと思ったんだ。」
「それなら、電話でも構わないから、そう言ってくれれば、俺は貴方にサンプルを返した。無理に分析する必要はないから。貴方が時計であのミイラがアンドリュー・ウィッシャーだと確認しただろう。貴方が本当のロジャー・ ウィッシャーなのかどうかは、わからないが。」

 ロジャーが沈黙した。するとアスルが彼の顔のそばに行き、屈み込んだ。相手の髪の毛をいきなり掴み、顔を上げさせた。目と目を合わせた時、彼の目が金色に光った。
 アスルが言った。

「氏名、所属、階級、任務を言え。」

 ウィッシャーが唇を震わせた。何かと戦っているかの様な苦痛の表情を浮かべ、やがて絞り出すような声で喋り始めた。

「私はロジャー・ウィンダム、フォース・リコーン・中米戦略部隊所属、大尉、国立遺伝病理学研究所から脱走したシオドア・ハーストが現在研究しているものが何なのかを調査し報告する任務を帯びている。」

 テオは腹が立った。やっぱり北の国は彼を諦めていない。と言うか、セルバ共和国がどんな国なのか探りたいのだ。何故テオが亡命したのか、何故堅固な警備体制を敷いていた研究所が滅茶苦茶に荒らされたのか、何故当時研究所にいた人々の多くが記憶を失っているのか。
 アスルが尋ねた。

「今、何を知っている?」
「何も・・・」

 ロジャー・ウィンダムが答えた。

「奴らの守りは鉄壁だ。ハーストは私を警戒している。彼の研究サンプルを手に入れたら、直ぐに出国しなければ・・・」

 アスルが彼の髪の毛を離した。ロジャー・ウィンダムはばたりと床に顔を落とした。気絶していた。アスルはテオを見た。

「こいつの名前がわからなかったので、心を盗めなかった。”操心”で質問に答えさせただけだ。」
「十分だよ、アスル。グラシャス。しかし、こいつをどうしよう? 下手に始末したら、北はまた誰かを送り込んで来るぞ。」
「今の尋問は記憶に残らない。」

 アスルは冷蔵庫から豚のサンプルを出した。ウィンダムの手首を縛っている革紐を解き、その手の中に豚のサンプルを握らせた。
 ウィンダムのリュックサック、携帯電話と財布を奪い、立ち上がるとテオを見た。

「帰ろう。こいつはこのままにしておく。多分、強盗に襲われたと思うだろう。」



2022/01/11

第4部 花の風     25

  テオはもやもやした気持ちを抱えたまま自宅に帰った。アスルがキッチンで野菜と肉の煮込みを作っていた。
 テオは鞄を寝室に放り込むと、ダイニングのテーブルの前に座った。甲斐甲斐しく働くアスルを見ながら、彼は呟いた。

「俺はお人好しだなぁ。」

 アスルが呟き返した。

「今頃気がついたのか。」

 ムッとしたが、アスルは元々口が悪い。テオは頭の上で手を組んだ。

「父親探しをしていたアメリカ人は偽物だとさ。ミイラは本物のアンドリュー・ ウィッシャーだが、ロジャー・ウィッシャーは偽物だ。だからアンドレと血縁ではないし、恐らくアンドリューとも他人同士だ。アンドレとミイラの比較を行わなければならなくなった。」

 アスルが肩越しに彼を見た。

「どんな結果が出ようが、アンドレは俺たちの一族だ。アメリカ人には渡さない。」
「当たり前だろう。」

と言い返してから、テオはドキリとした。ロジャー・ウィッシャーと名乗った男は、”ヴェルデ・シエロ”のDNAを採取に来たのではなかろうか。大統領警護隊に接近してみたものの、触れることさえ出来ず、相手にもされなかった。だから次に隊員と親しくしている遺伝子学者に接近した。何らかの理由をつけて隊員の細胞を手に入れようとしていたのであれば・・・。
 テオは研究室の冷蔵庫を思い出した。文化保護担当部の友人達のサンプルを保存してある。他人にわからないように記号で識別ラベルを書いてあるし、他にも色々動物や人間のサンプルを入れてあるが、根こそぎ奪われたらお終いだ。
 彼は玄関に向かった。

「大学に行ってくる。DNAのサンプルが心配だ。」

 ドアを開けようとすると、直ぐ後ろにアスルがついて来ていた。

「相手は武器を持っているかも知れない。俺も行く。」

 めっちゃ心強い用心棒だ。10人のならず者を薙ぎ倒した格闘技の達人だ。テオは彼に来いと手を振った。 アスルは外に出ると、小さく手を振った。後でわかったことだが、ちゃんとドアを施錠してくれたのだ。
 アスルを助手席に乗せてテオはグラダ大学に向かって車を走らせた。大した距離ではないが、夜のラッシュアワーが起こっていた。一般企業は省庁よりシエスタが長い分、終業時間が1時間遅い。企業勤めの人々が帰宅する時刻だった。なかなか前へ進まない。
 テオが焦っていると、アスルが言った。

「先に行ってる。」

 彼はテオの返事も待たずに助手席側のドアを開けて、外に降りた。ドアをバタンと閉めて、車の列の間を走って姿を消した。アッと言う間の出来事で、テオは何も言えなかった。通常なら15分で行ける距離を半時間かけて大学に到着した。遅く迄研究している学者もいるのか、いくつかの部屋の窓に灯りが点いていた。
 テオは駐車場に車を駐めると、自然科学学舎の研究室へ走った。アスルが開けてくれたのか、それとも何処かの研究者が開けっ放しにしているのか、入り口の扉が開いていた。テオは中に入った。何度か夜に来ているので、暗くても勝手はわかる。非常灯の灯りだけを頼りに階段を上り、2階の研究室へ行った。ドアの前へ行くと、アスルが気配でわかるのか、ドアを中から開けてくれた。

「まだ誰も来ていない。」
「それじゃ冷蔵庫の中の物を持って帰る。」

 ロジャー・ウィッシャーが偽物なら、今夜辺りにサンプルを探しに来るだろう。いつ迄もセルバでぐずぐずしていない筈だ。身分を偽る目的で利用した行方不明者が、ひょんなことからミイラになって現れたのだ。身元確認でセルバとアメリカの間で情報交換が行われて、回数が多ければ偽物の息子だとバレる。
 テオは携帯のライトを頼りに棚から保冷バッグを出し、冷蔵庫の中の友人達のサンプルを取り出して中に入れた。小さいので重量はないが、暗がりで落として紛失する恐れがあるので慎重に作業した。
 全部入れ終わって保冷バッグの口を閉めた時、アスルが囁いた。

「足音が近づいて来る。机の後ろに隠れていろ。」

第4部 花の風     24

  テオが仕事を終えて帰宅する準備をしていると、ケツァル少佐から電話がかかってきた。出来れば直ぐに会いたいと言うので、カフェテリア・デ・オラスで待ち合わせる約束をして大学を出た。徒歩でも10分の距離だ。車を文化・教育省の駐車場の空きスペースに置いて、カフェに行った。少佐も直ぐ来た。ただし、少佐は2人いた。どちらも大統領警護隊だ。

「ブエノス・タルデス、ロペス少佐。何か御用ですか?」
「ブエノス・タルデス、ドクトル・アルスト。例のアメリカ人の件です。」

 まだ何も注文していなかった。ケツァル少佐が車の中で話しましょう、と言うので、彼女のベンツまで行った。

「父親探しをしていたアメリカ人ですね?」

とテオは確認した。ロペス少佐が「スィ」と肯定した。ベンツの後部席に男性2人が並んで座り、ケツァル少佐は運転席に座った。ロペス少佐が先に言った。

「先ず、貴方の方の出来事を話して頂けませんか? ウィッシャーと名乗る男の父親探しの進捗状況です。」

 それで、テオはウィッシャーが公園で話しかけて来た翌日、マカレオ通りの食料品店で再び出会ったことを語った。アスルからも大統領警護隊に声をかけて来るアメリカ人の話を聞いたので、ネットで検索して、ウィッシャーが勤務する靴の会社が実在すること、ウィッシャーの経歴に海兵隊勤務があるのに、本人との会話では一度もそれが出てこないこと、C I Aの仕事をしていたと本人は言ったが、それなら父親探しもそちら方面で出来る筈なのに、コネを使わないこと、ウィッシャーは大学の講義の最中に教室に現れ、父親探しを依頼してきたこと、その際にDNA検査用サンプルを採取させてくれたことをかいつまんで話した。

「それから、ニュースになったのでご存じだと思いますが、考古学部がオルガ・グランデで出土したミイラの鑑定を依頼して来て、ケサダ教授と学生達が俺の研究室でミイラの荷解きをしたんです。布を剥がしたら、ミイラの腕に腕時計が嵌められていて、まるで助けを求めるような異様なポーズをしていました。しかもインプラントで歯の治療をしていた。直ぐに憲兵隊に連絡してミイラを引き取ってもらいました。ウィッシャーに憲兵隊が腕時計を見せたら、父親の時計だと確認しました。インプラントの方もアメリカから歯科医療記録を取り寄せるそうです。 ウィッシャーも父親に間違いないだろうと言っています。それから・・・」

 テオは医学部でコンピューター処理による復顔術で、写真のアンドリュー・ウィッシャーと同じ顔が現れたと話した。

「まだコンピュータ画像の話をロジャーに連絡していないのです。恐らく、あれを見ればミイラが父親のものだと納得するでしょう。」
 
 するとロペス少佐が言った。

「ミイラが写真の男である可能性は否定出来ないでしょう。確かに、20年近く前に南の国境検問所からセルバに入国して、出て行った記録が何処にもないアメリカ人が一人いました。アンドリュー・ウィッシャーと言う名前に間違いありません。」
「では・・・」
「しかし、アンドリュー・ウィッシャーに息子はいませんでした。」

 テオは思わず、「ハァ?」と声を上げてしまった。

「しかし、ロジャー・ウィッシャーのネット上のプロフィールには、父親はアンドリューと書いてあった・・・」
「そもそもロジャー・ウィッシャーと言うアメリカ人はいないのです。否、貴方が会っていた男はロジャー・ウィッシャーではない、と言った方が良いでしょう。」
「それじゃ、あのネット情報自体がフェイクですか?」
「今どき、ネットで直ぐ身元を調べられるとわかっている組織がでっち上げた偽のプロフィールでしょう。20年前に行方不明になったアメリカ人がいたので、それを利用したのです。恐らく、ロジャーと名乗る男は少しばかり顔を整形していると思います。それとも行方不明者に似た顔の男が任務を与えられたか・・・」
「任務?」

 ケツァル少佐がそこで初めて言葉を発した。

「テオ、ロジャー・ウィッシャーとミイラのDNAを比較分析したのですか?」
「否、まだだ。分析器に入れて、君の電話をもらったのでそのままにしてある。分析表は夜中に出て来る予定だ。」

 アンドレ・ギャラガとロジャーの比較はしたが、これはアスルとの約束で2人の少佐には言えない。

「きっと他人ですよ。」

とロペス少佐が言った。

「ロジャー・ウィッシャーなる人物の真の目的が何であれ、彼は大統領警護隊を騒がせた。当然ながら外務省は彼の身元調査に遊撃班の出動を依頼しました。私の耳には入っていないが、”砂の民”もその動きを察しているでしょう。遊撃班がウィッシャーを捕まえれば、あの男の命は助かるでしょうが、そうでなければ、我々には何も出来ません。」

 背筋が寒くなるようなことを言って、ロペス少佐はベンツから出た。そして近くに駐車してあった彼自身の車に乗り込むと、直ぐに走り去った。
 テオは黙ってそれを見送っていた。ケツァル少佐が咳払いしたので、彼は我に帰った。

「ごめんよ、直ぐに出る。」

 すると少佐が言った。

「明日、うちへ夕食に来ませんか? アスルも一緒に。」


第4部 花の風     23

  アスルとの静かな夕食を済ませると、テオはゲノムの分析結果表を詳細に眺めた。アスルはいつもの様にサッカー中継をテレビで観戦していた。近所の家から聞こえて来るような興奮した叫び声を上げたりしないが、熱心に見ていて、テオがコーヒーを淹れてやっても直ぐには気づかない程だ。
 テオは3時間程分析表を見つめ、やがて大きな溜め息をついてデスクのライトを消した。書斎兼寝室を出ると、サッカーの試合が終わったところで、アスルがテーブルの上を片付けていた。

「遺伝子の分析は途中だが、結果は大体出た様だ。」

とテオが言うと、アスルは手を止めて彼の顔を見た。テオはちょっと笑って見せた。

「アンドレはウィッシャー氏の子供ではなく、ギャラガ氏の子供だ。」

 アスルは数秒間彼を見返し、そして頷いた。微かに安堵の表情が見て取れた。

「顔の印象は似ているが、アンドレがロジャーと兄弟である確率は、俺の分析では殆どない。まだ見てみないといけないが、肉親だと言う決め手は現在の段階では皆無なんだ。ウィッシャーはアングロサクソンだが、アンドレはラテン系の白人の子供だと思う。彼には色々な人種が混ざっているが、イギリス系ではないと、俺は思う。」
「あいつが何系だなんて、俺達にはどうでも良いんだ。」

とアスルは言った。

「あいつが肉親のことで今以上に悩まずに済めば、良いんだ。」

 テオは同意した。そして「おやすみ」と言って、寝室に戻った。デスクの上の分析表を折り畳み、鞄に入れた。
 翌日、大学に出勤すると、テオは医学部解剖学科のベアトリス・ビスカイーノ准教授にメールを送った。何時研究室にお邪魔すればよろしいかと言う問い合わせだ。ビスカイーノ准教授は3分後に返事をくれた。午後1時ではどうか、と言うことだ。シエスタの時間に行うと言うことは、彼女にとってはお遊びの次元なのだろう、とテオは予想した。
 承諾して、午前中の仕事に専念した。
 昼食は手早く取った。ちょっと楽しみで興奮していたのかも知れない。コンピュータでの復顔処理はテレビで見たことがあるが、実際に見るのは初めてだった。
 ビスカイーノ准教授の部屋に行くと、学生も数人いた。課外学習の形で彼女は行うのだとわかった。テオはアンドリュー・ウィッシャーの写真を画像が出来上がってから出すと言うことに決めて、彼女の作業を見学した。
 さまざまな方向から撮影したミイラの頭部の骨の写真から立体画像を作り、それにコンピュータが「肉付け」していく。3Dプリンターが部屋にあったが、ビスカイーノはそれを使わなかった。正規の製造依頼でないので、スクリーン画像だけの制作だ。
 
「苦悶の表情の骨だったから、画像もちょっと歪むかも。」

とビスカイーノは断った。最も画像が修正されており、彼女の言葉はちょっとした「脅し」に過ぎなかった。テオと学生達が見守る中で彼女はキーボードから次々とコマンドを入力していった。
 1時間後に出来上がった男性の顔を見て、テオは写真を出した。みんなでそれとスクリーン上の顔を見比べた。

「そっくりだ!」
「これでミイラの身元が判明しましたね。」
「遺伝子の方はどうなんですか?」

 テオは言った。

「親族から要求があれば分析するけど、申請がなければしない。」

 そしてビスカイーノ准教授と握手した。

「グラシャス、ビスカイーノ准教授。息子さんに連絡しておきます。」
「グラシャス。お役に立てて嬉しいです。」



2022/01/10

第4部 花の風     22

 解剖学の教授は留守だった。しかし助手を務めた准教授が事務室前迄ミイラのサンプルを持って来てくれた。

「人工物での身元確認では正確性が低いですからね。」

と彼女は言った。彼女はロジャー・ウィッシャーの父親捜索の件を知らなかったので、テオが説明すると、コンピュータでミイラの生前の顔を作ってみようかと提案してくれた。それでテオは、ベアトリス・ビスカイーノと言うその准教授の研究室を翌日訪問する約束をした。
 医学部から生物学部に戻り、午後の授業をこなした。研究室に再び戻った時、携帯電話が鳴った。画面を見るとケサダ教授だったので、病院前で教授の母親と妻に出会ったことがバレたのかと冷や汗が出た。教授が話がありますと言うので、テオは覚悟を決めて考古学部へ行きますと答えた。
 急いで室内を片付け、翌日の授業の準備ができていることを確認すると、部屋を施錠して考古学部へ向かった。
 ドアをノックすると、ケサダ教授が自ら開けてくれた。

「急に呼び出して申し訳ありません。」

と教授が言ったので、怒っていないとわかった。テオは出来るだけリラックスしようと己に言い聞かせた。勧められた椅子に座ると、ケサダ教授はコーヒーを淹れてくれた。

「例のミイラのことです。」

と彼が切り出した。テオが黙っていると、彼は「聞いた話です」と断りを入れた。

「黄金郷などと言う馬鹿な夢を見てオルガ・グランデの旧市街を彷徨いていた白人がいたそうです。」

 テオはドキリとした。アンドリュー・ウィッシャーのことか?

「暗がりの神殿の銘板を誤訳した呪い文が黄金の在処を示す暗号だと勘違いした様でした。彼は聖マルコ教会の地下墓地の存在を何処かで知り、バルで知り合った仲間2人と夜中に床石を剥がして墓地へ降りる入り口を見つけました。彼等は墓所へ降りた。そしてそこに安置されている遺体の中で金の指輪を嵌めている一体を見つけました。バルで知り合った男達は当然セルバ人でした。彼等は黄金が欲しかったが、ミイラの指輪を見て怖気付きました。死者の冒涜は恐ろしい呪いを呼び込むと信じたのです。しかし白人はその指輪に文字が刻まれているのに気がつき、ミイラの指から指輪を抜き取ろうとしました。セルバ人はそれを止めようとして争いになりました。暗闇の中での争いです。白人は転倒し、脚を折りました。セルバ人は逃げた。階段を駆け上がり、教会に出ると床石を元通りに戻して去りました。」

 一気に語ると、ケサダ教授はテオを真っ直ぐ見た。そして繰り返した。

「聞いた話です。」

 テオは黙っていた。アンドリュー・ウィッシャーの身に何が起きたのか、ケサダ教授が教えてくれているのだ。ウィッシャーがバルで出会ったセルバ人は、普通のセルバ人だったのだろうか。ウィッシャーが呪い文を元に黄金を探していると言う噂を聞いて、彼に接近した”砂の民”ではなかったか。年代的には、オルガ・グランデの戦いが行われた頃だ。オルガ・グランデの街にはシュカワラスキ・マナの結界の為に街中に閉じ込められた”ヴェルデ・シエロ”達がいたのだ。”砂の民”が結構いたのではなかったか。彼等はマナと戦いながらも、一族を守る仕事もこなしていた。 ウィッシャーの言動は一族の秘密の聖地を探そうとしていると受け取られたに違いない。だからウィッシャーは「粛清」された。
 ケサダ教授は勿論その頃はまだ子供だった。母親の希望で、ムリリョ博士に引き取られてグラダ・シティで暮らしていた。だから、アンドリュー・ウィッシャーに起きたことは、伝え聞きだ。「聞いた話」だ。誰から聞いたのか、教授が語ることは永久にない。一緒に異様なミイラを見た仲間として、教授が独自のルートで調べたことを教えてくれたのだ。

「グラシャス。」

とテオは言った。教授が軽く頭を下げた。

「一つだけ・・・」

 テオは、多分これは教授も知らないだろうと予想しつつも尋ねた。

「その白人が、”シエロ”の女に子供を産ませたと言う話はありませんね?」

 教授がちょっと考えて、そして彼が誰のことを念頭に置いて質問したか、思い当たった様だ。ノ、とケサダ教授は首を振った。

「あったかも知れませんが、私は聞いていません。しかし、なかったと言うことにしておいた方が良い。」
「そうですね。」

 テオは同意した。あんな末路を辿った男の子供だったなんて、考えただけでも嫌じゃないか。


第4部 花の風     21

  シエスタの時間だ。テオは医学部へ歩いて行った。グラダ大学医学部は人文学舎や自然科学舎からちょっと距離がある。病院が併設されているので駐車場も別だし、職員寮も立派なものが建てられている。アリアナ・オズボーンは結婚する直前迄そこに住んでいた。今はロペス少佐と夫の父親と共に郊外の大きな家に住んで運転手付きの車で通勤だ。テオはアリアナではなく解剖学の教授を訪ねるつもりだった。事務所で面会を申し込んで、断られたら帰ろうと言う軽い気持ちだった。ミイラが現在何処に保管されているのか訊くだけでも良かった。
 病院前は広い芝生の庭になっていて、車椅子に乗った患者やパジャマ姿の患者がベンチに座っているのが見えた。
 ベンチに座った先住民の高齢女性の前を通り過ぎようとした時、女性が囁いた。

「テオドール・アルスト・・・」

 テオはびっくりして足を止めた。振り返ると、その女性はパジャマではなく、Tシャツに巻きスカートを身につけた、年配のセルバ女性に多い服装で、白い髪を三つ編みにして顔の両側に垂らしていた。皺だらけの顔を彼に向けて微笑んだ。テオの名前を呼んだものの、彼女はその後先住民の言語でブツブツ呟き、彼は理解出来なかった。テオは彼女の前に戻り、身を屈めて声を掛けた。

「ブエノス・タルデス。」

 先住民の言語を習いたいのだが、どう言う訳か大統領警護隊の友人達は教えてくれない。”ティエラ”の先住民の言語も習おうとしてみたが、発音が難しい音があって、なかなか習得出来ないでいた。だからスペイン語でその高齢女性に話しかけた。

「俺のことをご存知ですか?」

 女性はまた微笑した。その時、別の女性の声が聞こえた。

「義母は子供に還っているのです。出身部族の言葉しか話しません。」

 テオは後ろを振り返り、40代と思われる先住民の女性を見つけた。純血種だが、”ティエラ”なのか違うのか、わからなかった。テオは立ち上がり、ブエノス・タルデスと彼女に挨拶した。彼が胸から下げている大学職員のI Dカードを見て、女性がニッコリした。

「ドクトル・アルスト、お初にお目にかかります。」
「俺をご存知ですか?」
「スィ。父や夫から貴方のことを伺っています。」

 女性は優しい笑顔を見せたが、その目は知的で、鋭い光を放っていた。テオはドキリとした。”ヴェルデ・シエロ”だ。彼が彼女の正体に気づいたことを、女性も察した。だから彼女は名乗った。

「貴方は一族ではないので、他人を介さずに自己紹介致します。コディア・シメネスと申します。」
「セニョーラ・シメネス・・・失礼ですが、お父様やご主人は俺のことを・・・」
「父も夫もグラダ大学の考古学部で教授をしています。」

 テオは数秒後に、彼女が誰のことを言っているのか悟り、心の底から驚いた。コディア・シメネスはファルゴ・デ・ムリリョ博士の娘だ。そして夫と言うのは、フィデル・ケサダ教授だ。すると、目の前に座っている高齢女性は・・・。彼は低い声で囁いた。

「この方は、マレシュ・ケツァル、いや、マルシオ・ケサダさん?」

 コディアが、「スィ」と頷いた。

「5年前から夢の中に住んでいます。過ぎ去りし日を見て、生きているのです。」
「さっき、俺の名を呼んだんですよ。」
「恐らく夫の記憶を読んだのでしょう。」

 コディアは夫の母親を月に1度定期健診で通院させているのだと言った。薬局で薬を受け取る間、庭で義母を待たせていたのだ。「オルガ・グランデの戦い」を目撃したイェンテ・グラダ村の最後の生き残りである女性は、人生の辛かった記憶を仕舞い込んで、楽しかったことだけを思い出しながら余生を送っているのだろう。
 テオはコディアの許可をもらってマルシオ・ケサダの手を握った。年老いたグラダの血を引く女性はニッコリ笑って彼の目を見た。そして何かを囁いた。コディアが通訳してくれた。

「義母は言いました。エウリオの娘は元気ですか、と。」
「スィ。」

 テオはマルシオの目を見つめて大きく頷いた。

「カタリナ・ステファンは元気です。」

 マルシオがまた何か言った。コディアが通訳した。

「赤ちゃんによろしく。」

 多分、マルシオの中の時は、カルロとグラシエラが幼い時で止まっているのだろう。カタリナが子供を産んだ時、彼女自身は我が子フィデルを守る為に手放していたのだ。今、息子の家で息子の妻に世話をされていることを理解しているだろうか。
 テオはマルシオをハグしたい衝動に駆られたが自重した。”ヴェルデ・シエロ”は異人種とハグする習慣を持たない。それにコディア・シメネスの父親は純血至上主義者だ。もしかすると隠して養っているマルシオ・ケサダの存在をテオが知ったことを知ると、機嫌を損なうかも知れない。
 テオはマルシオ・ケサダから離れた。

「この人の存在は一族には秘密でしたよね?」

と確認すると、コディアは頷いた。

「貴方は信用出来ると夫が言っておりますので、明かしました。」
「グラシャス。」

 テオは心から礼を言った。

「俺は今日のこの出来事を忘れます。」

 するとコディアは微笑んで言った。

「シュカワラスキ・マナの子供達には打ち明けても大丈夫だと思いますよ。」


第4部 花の風     20

  水曜日の昼前にアンドレ・ギャラガとロジャー・ ウィッシャーの遺伝子分析結果が出た。テオはそれを比較していくつもりで、分析表を鞄に入れて、昼食を取りにカフェへ行った。料理を取ってテーブルに着いた時、ロジャー・ウィッシャーがやって来るのが見えた。偶然なのだろうが、テオはちょっと緊張を覚えた。ウィッシャーは彼を見つけると真っ直ぐテーブルに来た。ハローと声をかけ、向かいに座っても良いですか、と訊くので、テオは許可した。

「憲兵隊から連絡が入ったんで、報告しておこうと思いました。」

と ウィッシャーは切り出した。テオが彼の顔を見ると、ウィッシャーはちょっと悲しげに見えた。

「ここの大学で騒ぎになったミイラがありましたね。確か、貴方の研究室で荷解きされたとか?」
「スィ。考古学部の学生達が腕時計や歯のインプラントに気が付いて、分析が中止になったミイラですね。」

 テオは、ウィッシャーが憲兵隊からもらった連絡の内容に見当がついた。ウィッシャーが溜め息をついた。

「憲兵隊にその腕時計を見て欲しいと言われて、昨日の午後、行って来ました。綺麗に泥を落としてもらっていて、裏側の刻印がはっきり見えました。From Mary to Andrew、母が父の誕生日祝いに贈った時計に間違いありませんでした。」
「それは・・・」
「さらにインプラントの調査で、父の歯科の医療記録を取り寄せる許可が欲しいと言われたので、書類にサインしました。恐らく明日にはアメリカから返事が来るだろう、と。」

  ウィッシャーはテーブルに視線を落とした。

「骨から推測される身長や、髪の色、褪せていますが父の髪の色である可能性はあります、それらの要素を合わせて、あのミイラは父である可能性が大きいです。」
「それは・・・残念です。」

 テオはそれ以上言うべき言葉を見つけられなかった。父親が時計を他人に譲ったとか、盗まれた可能性はないのかと言おうかと思ったが、インプラント治療を受けていたとしたら、本人である確率が高い。
 ウィッシャーが顔を上げた。

「兎に角、貴方が大統領警護隊を通して憲兵隊に父の捜索を頼んでくれたので、こんな形ですが父を見つけられたと思います。礼を言います。」
「俺は何の力にもなっていません。」

 ウィッシャーが立ち上がったので、テオも立ち上がった。手を差し出され、握手した。

「これからどうされますか?」
「仕事で来ているので、任期が終わる迄はこちらにいます。ミイラが父だとはっきりしたら、アメリカへ連れて帰って埋葬します。」

 さようなら、とウィッシャーは歩き去った。
 あっけなく終わった父親探しに、テオは釈然としないものを感じたが、黙って靴のセールスマンを見送った。


第4部 花の風     19

  オルガ・グランデからアンドレ・ギャラガがメールで写真を送って来た。地下墓所はやはり旧市街にある小さな教会の床石を外して階段を降りたところにある、十字形の通路で、規模はあまり大きくなかった。グラダ大学考古学部は教会の名前を採って「オルガ・グランデ・聖マルコ遺跡」と名付けた。大統領警護隊文化保護担当部は遺跡登録したが”ティエラ”の墓所なので関心が薄い。グラダ大学も調査を現地の考古学研究施設に託してしまった。
 ギャラガがグラダ・シティに帰って来た。”心話”でケツァル少佐や先輩将校達に報告すると、土日に働いた代休をもらい、海へ息抜きに行ってしまった。
 テオもエル・ティティでゴンザレス署長とのんびり週末を過ごし、月曜日の午前大学に戻り、午後初級者向け講義をこなし、夕方に帰宅した。アスルが帰って来た。珍しくテイクアウトの夕食を買って来ていた。後輩2人がいない職場は流石にキツかったらしい。テオは何も言わずに彼が買った料理を食べた。アスルは食事が終わるとシャワーを浴びて、テレビも見ずに寝てしまった。テオも流石に長距離バスの旅の直後の仕事は堪えた。
 翌朝、テオが目覚めると、アスルはいつもの様に朝食の支度をしていた。ギャラガは何時帰るのかと訊くと、明日から通常業務に戻ると答えた。

「あいつ、海が好きだから、偶にボーッと波を眺めていると気分が落ち着くそうだ。」
「そんなことを以前にも言っていたな。」

 するとアスルが、ドクトル、と呼んだ。

「あいつのサンプルは採ってあるのか?」
「スィ。君達文化保護担当部のサンプルは全員ある。カルロも採ってある。」
「あいつと、あの訳のわからないアメリカ人の比較は出来るか?」

 思いがけないアスルの言葉に、テオは驚いて皿から顔を上げた。アスルは横を向いた。

「あいつの為じゃない。俺がスッキリしないんだ。突然現れた白人が父親を探していると言う。写真の男はアンドレに似ている。その父親が行方不明になった年代はアンドレが生まれた頃だ。しかもその父親は、『暗がりの神殿』の呪い文に似た言葉を聞いて黄金郷を探していたそうじゃないか。アンゲルス鉱石が見つけたミイラは白人のものだと聞いた。地下墓所から出ようとして出られずに死んだかも知れないと、遺跡登録の申請書を持って来た考古学部の学生が言っていたぞ。俺は何だか落ち着かないんだ。」
「その気持ち、俺にもわかる。」

 テオは同意した。

「アンドレにしてみれば今更なんだろうけど、恐らく彼も落ち着かないんだ。だから海を見に行った。ウィッシャーが彼と無関係な人間だとはっきりさせれば、彼もスッキリするだろう。」

 テオとアスルは2人だけの約束を交わした。アンドレ・ギャラガとロジャー・ウィッシャーの遺伝子を比較する。どんな結果が出ようと、ギャラガが希望しない限りは本人に教えない。ケツァル少佐にもロホにもデネロスにも、ステファンにも教えない。
 アスルは普段通り、ロホの車に同乗して出勤して行った。テオも時差出勤して、研究室に入ると、ウィッシャーとギャラガのサンプルから分析に取りかかった。

第4部 花の風     18

  週末迄は平和に過ぎた。テオの自宅ではエミリオ・デルガド少尉が宿泊して、日中テオとアスルが仕事に出ている間、彼は市内の図書館に行ったり、スポーツ施設へ出かけたりして休日を楽しんでいた。許可されている休暇の期限迄後5日あると言う。それ迄は本部に帰りたくない様だ。若者らしく遊んでいた。アスルは彼に家事を手伝わせなかった。彼も下宿生活で、家賃を安くしてもらっている代わりに家事をしているのだ。デルガドは彼にとっても客であって、後輩だからと言って使うことはなかった。テオはアスルのそんな妙に律儀なところが可愛く思えた。
 憲兵隊はミイラの検死をグラダ大学医学部に依頼した。医学部では警察と憲兵隊から検死を請け負っているが、ミイラは滅多にないので、見学者が多かった、とアリアナが電話でテオに教えてくれた。彼女も見学したのだ。
 ミイラの着衣や履物の分析は憲兵隊の科学分析室が行う。セルバ共和国でも司法はちゃんと科学的な設備を持っているのだ。レントゲン撮影で骨やデンタルインプラントが確認された。ミイラは左大腿骨を骨折しており、それで地上に出られなかった可能性も考えられた。法医はミイラを傷つける了承を憲兵隊から得ると、インプラントの歯を取り出した。腕時計や、着衣のポケットに入っていた身分証らしきもの、骨の細胞などを採取した。

「骨格から判断するに、ミイラは白人、男性、残った歯を分析するが、恐らく20代から50代と思われる。」

 憲兵隊は時計の製造番号やインプラントの歯からミイラの身元を探すだろう。何処まで真剣に捜査するのか不明だが。
 テレビのニュースで時計や判明した情報が報道された。テオはDNA鑑定の依頼が来るかと思っていたが、憲兵隊から連絡はなかった。
 考古学部はケサダ教授以下学生達も苦悶のミイラの身元に無関心だ。彼等はバルデスが新たに送ってきたミイラを調べ、D N Aの鑑定に回すことなく、15世紀の”ヴェルデ・ティエラ”オルガ族の支族のミイラと結論を出した。遺跡登録の為の出張も教授の助手が行くと言うことで、文化保護担当部もアンドレ・ギャラガ少尉を派遣することにした。彼等は週末を待たずに木曜日に出発した。時間がかかる路線バスではなく、騒音が酷いセルバ航空の定期便だ。航空機嫌いのギャラガはロホから乗り物酔い防止の御呪いをしてもらってから空港へ出かけて行った。
 テオが金曜日の朝、エル・ティティ帰省の準備をしていると、デルガド少尉が官舎に帰ると挨拶した。

「まだ2日あるだろ?」
「体を勤務時のサイクルに戻しておかないと、復帰初日がきついですから。」

 エミリオ・デルガドは爽やかに笑って、宿泊と食事の礼を言って朝日の中を出て行った。テオは玄関ドアを閉じてリビングに戻った。アスルが出勤準備を終えて、こちらも出かけようとしていた。デルガドと特に仲良しと言う素振りを見せなかったが、夜のチェッカーの相手がいなくなって寂しいだろうとテオは思った。しかしそれを言うと怒る人間なので、黙っていた。

「アンドレもマハルダもいないから、今日のオフィスは忙しいんじゃないか?」

とテオが言うと、アスルはフンと言った。

「昔に戻っただけだ。」

と言ってから、彼はチェッと舌打ちした。

「カルロもいないんだった・・・」

 今日の文化保護担当部は、ケツァル少佐とロホとアスルの3人だけなのだ。つまり、明日の軍事訓練も3人だ。彼は口の中で呟いた。

「マーゲイを引き止めておけば良かった。」

 テオは笑いそうになって我慢した。デルガド少尉は頭脳明晰だろうが武闘派のイメージが強い。オフィスワークをしている姿を想像出来なかった。土産物屋の息子と言うことだが、帰省中はどうしていたのだろう。結局、私生活を何も語らずにデルガドは去って行ったのだ。


第4部 花の風     17

  ケツァル少佐は考古学部へ行き、ケサダ教授と新しい遺跡の登録について話し合った。教授は実際に現場を見てみないことには規模も位置もわからないと言うことで、次の週末にオルガ・グランデに行くと言った。少佐は彼の出発日時が決まったら教えてもらう約束をした。彼女が同行するか部下を行かせるか、それは教授のスケジュール次第だ。
 テオはその話を彼女が生物学部に戻って来た時に聞かされた。少佐が自宅での夕食に招いてくれたのだ。

「オルガ・グランデは教授の生まれ故郷だね。」

と言うと、少佐は頷いた。

「でも彼は今迄一度もそれに触れたことがありません。」

 きっと彼の出自を秘密にしたい養い親の意向があるのだろう。
 少佐は一足先に帰っていると言って、ベンツで去って行った。テオも自分の車に乗って家路を走った。バスターミナルの近くへ来ると、丁度南から来た路線バスが到着して乗客がゾロゾロ降りて来るところだった。テオは歩行者の為に減速した。するとバスから降りた人々の群れの中に、知っている顔を見つけた。彼はその人のそばまで車を近づけ、窓を開けて声をかけた。

「エミリオ!」

 エミリオ・デルガド少尉が振り返った。よく日焼けした顔を綻ばせた。

「ドクトル・アルスト! 久しぶりですね。」
「良ければ乗って行け。」
「グラシャス!」

 車を止めることなく、窓からリュックサックを後部席に放り込み、助手席のドアを開けてデルガドが入って来た。セルバ人は結構この手の芸当を普通にやっている。危険なので、テオは本当はやって欲しくないのだが、人種に関係なく彼等は日常しているのだ。
 ドアを閉じると、テオはスピードを上げた。

「本部へ帰るのかい? それともうちに来る?」
「まだ休暇中です。実家にいても暇なので戻って来たのですが・・・」
「それじゃうちに来い。と言っても、今夜俺はケツァル少佐の家の夕食に招かれている。俺の家にはアスルしかいない。どっちが良い?」

 ちょっと意地悪な選択だ。時間を考えると、アスルはまだ買い物中だろう。デルガドは数秒考えて、アスルを選んだ。上官の家に招かれもしないのに押しかけたくないのだ。テオは車を路肩に停めて、アスルに電話をかけた。デルガドを自宅に落として己は少佐の家に行くと言ったら、アスルは一言「わかった」と答えて切った。
 マカレオ通りの自宅前でデルガド少尉を下ろし、テオは西サン・ペドロ通りの高級コンドミニアムへ行った。デルガドは自分で鍵を開けられるので、外で待つことはない。
 急な人数変更でも家政婦のカーラは動じない。元々主人のケツァル少佐の食事量が多いので、1人客が増えても影響がないのだ。少佐はカーラが持ち帰る量をちゃんと考えて食べる。満腹になる必要がないので、残す場合もある。残れば朝食で食べてしまうし、残り物がなければ彼女自身で作るだけだ。
 宴会の時と違ってごく普通の家庭料理をテオは味わった。カーラの料理はどれも美味しい。店を出してもやっていけるのでは、と言ってみたが、彼女は笑っただけだった。
 宴会の時と違い、カーラは後片付けもした。テオは皿洗いを手伝い、彼女が帰り支度をしてタクシーに乗るまで付き合った。
 部屋に戻ると、少佐はテーブルの上にオルガ・グランデの地図を広げていた。その横にあるのは、2年前にアンゲルス鉱石の本社でもらった坑道地図だ。

「バルデスがミイラを見つけた墓所は、現在の旧市街地の商店街の地下の様です。」
「墓の上で商売をしているなんて、誰も夢にも思わないだろうな。」
「でもこの区画の何処かに、墓所に入る入り口があるのです。」
「上から探しても時間がかかるだけだ。墓所から上に出る通路を探した方が早くないか?」

 アンゲルス鉱石は地下の工事現場を照らす照明機材や掘削機を所有している。

「地下の墓所って、通路状だろ? 両側に棚みたいに岩を掘って、そこに遺体を置いて行く形式だったと思うが。」
「その通りです。通路1本だけの小規模な墓所なのか、枝分かれして複雑に広がっている大規模なものなのか・・・」

 少佐は市街地図に何か見つけた。

「ここに教会があります。小さいですが、古いと思います。ここが怪しいですね。」

 彼女は紙面を指でトントンと叩いた。

「ミイラの様子をフィデルに”心話”で見せてもらいました。きっと地下で死んでしまったのでしょう。気の毒ですが、何処かで無断侵入したに違いありません。」

2022/01/09

第4部 花の風     16

  憲兵隊が到着したのはテオが電話を掛けてから半時間以上経ってからだった。憲兵隊本部はグラダ大学から車で10分もかからない距離なのに、何故そんなに時間がかかるのか、とケサダ教授は指揮官の大尉に苦情を言った。
 テオの研究室の前は人だかりが出来ており、大学当局の事務員や他の教授や学生達が集まっていた。テオは生物学部の学部長に事態を説明し、憲兵隊にも説明し、最後にやって来た学長にも説明した。喋りながら、何故ミイラが新しいと見破ったケサダ教授が説明しないのか疑問に思った。ケサダ教授はミイラを収容する作業を始めた憲兵達に指図して、テントを撤収し、自分の教室の学生達を引き連れて考古学部へさっさと帰ってしまった。
 テオは遺伝子工学教室の学生達と部屋の掃除をした。干からびた死体を目撃してしまった若者達にトラウマが残らないか心配だったので、気分が悪くなった人は医学部のカウンセラーを紹介すると言っておいた。
 憲兵隊の大尉は、テオに、ミイラが出土した場所はオルガ・グランデなので、捜査権は向こうの憲兵隊に移ると言った。但し、ミイラの身元を調べるのに遺伝子工学教室の協力を求める可能性もあるので、その時はよろしく、と言って撤収して行った。
 静かになるとテオはどっと疲れを感じた。今日は早く帰って休もうと部屋を片付けていると、ケツァル少佐が現れた。

「ミイラが現代人のものだったそうですね?」

 ケサダ教授から聞いたのかと思ったら、そうではなく、噂を立てることはマナー違反と考えるセルバ人らしくなく、ニュースが早々にテレビやラジオで流れていたのだ。大学で思いがけない死体が見つかったと、メディアがセンセーショナルに報道していた。
 テオは苦笑した。

「ケサダ教授が珍しく怒鳴っていたぞ。バルデスは彼が何者か知らないだろ?」
「恐らく、ただの考古学の先生としか認識していないでしょう。」
「教授はバルデスの嫌がらせかと疑っていた。バルデスは、あのミイラが恐ろしげなので鉱夫達が怯えたのだと言い訳していたけどね。」

 少佐が笑った。彼女はミイラは怖くない。怖いのは本気で怒った場合のケサダ教授だ。

「それで、遺跡発見は本当のことなのですね?」
「スィ。ミイラは他にもあるらしい。教授は別のものを送れとバルデスに要求していた。」
「普通のミイラが後で送られて来るのですか。」

 少佐は考古学部がある人文学の学舎を窓から眺めた。

「取り敢えず、新発見の遺跡として名称を決めて登録しないといけませんね。後で地図で位置を確認しなければ。」
「ミイラはチタンのインプラントをして、腕時計を嵌めていた。服装もボロボロだったが俺達と同じような服を着ていた。」
「チタンのインプラント?」

 少佐が興味を持ってテオを見た。

「見えたのですか?」
「ノ、俺には見えなかった。ケサダにはわかったみたいだ。」

 もしかして拙いのでは、とテオは感じた。ケサダ教授は無意識にミイラを透視してしまったのだ。だが、そんなことに疑いを抱く学生や憲兵はいただろうか?

「憲兵隊にも検死施設があります。恐らくレントゲンや解剖で死因や遺体の特徴を掴んで身元調査を試みるでしょう。DNA鑑定はその後です。」
「あの死体は、もう使われなくなった墓地にあったんだ。」
「墓地が500年近く前のものだと言っていましたね。きっと地下墓地の上にスペイン人が建物を築き、その後植民地支配が終わった後も建物が上に残ったのでしょう。アンゲルス鉱石は地下を掘って墓地に行き当たったのですから、死体はそれより前、誰かが地下墓地の入り口を知っていて、そこから入れられたものと思われます。或いは、誰かが入り込んで迷ってしまい、出られずに死んでしまったか・・・」

 少佐は肩をすくめた。

「事件なのか事故なのか、検死でわかると良いですが。」



第4部 花の風     15

  梱包されたミイラと言うのは、結構場所を取る荷物になった。犯罪被害者等の鑑定の場合、医学部や病院で解剖して採取した検体を遺伝子工学教室に送って来るのだが、ミイラの場合はどの部分の細胞を採るのか遺伝子学者が決めるので、テオの研究室で梱包を解くことになる。テオと彼の教室の学生達は、荷物を運んできたケサダ教授と教授の研究室の学生達が梱包を解くのを取り巻いて見学した。教授は埃が飛散しないよう、発掘現場で用いる雨の日対策用ビニルテントを設置し、その中に荷物を置いた。テオ達は透明のテントの外側にいた。テントの中は蒸し風呂並みに暑いだろうに、考古学教室の学生達は繋ぎの作業着に帽子とマスク、手袋を着用して作業した。大事な弟子達が埃を吸い込まないよう、教授が彼等に装備させたのだ。アンゲルス鉱石の作業員達が包んだキャンバス生地を剥がし、ボロボロになった崩れる寸前の古い布を慎重に剥いでいく。取った布も研究資料なので、ビニル袋に収納する係もいた。
 やがてミイラが姿を現わすと、その異様なポーズにテオは思わず目を見張った。学生達もちょっとざわついた。考古学教室の学生達も作業の手を止めて、戸惑った様子で教授を見た。
 ケサダ教授がミイラを手袋を嵌めた手で掴み、その顔を見える様に動かした。扱い慣れている手つきだが、マスクの上に見えている目は厳しかった。
 テオはミイラをビニル越しに眺めた。亡くなって埋葬されたセルバ人のミイラは普通三角座りの姿勢で座っている。しかし、テントの中で梱包を解かれたミイラは地面に四つん這いになった姿勢で、片手を前に伸ばしていた。まるで救いを求めているポーズだ。その顔は口を大きく開き、苦悶の叫びを上げているかの様だ。髪の毛は赤かった。着衣は崩れそうなボロ布になっていたが、西洋風の衣服に見えた。
 ケサダ教授は学生達にテントから出る様に指図した。その際に、彼等にすぐ防護装備を解いて体を洗うように言いつけた。そしてテオを呼んだ。テオがテントの入り口に行くと、彼は憲兵隊を呼ぶよう要請した。テオはミイラを見た。そして500年前にミイラになった人が身につけている筈がない物を目撃した。彼も遺伝子工学教室の学生達を振り返って宣言した。

「今日の作業はここまでだ。聞いた通り、これから憲兵隊を呼ばなければならない。2、3人残って憲兵が来たら、ここへ案内して欲しい。」

 そして彼は携帯電話を出した。憲兵隊本部に繋がると彼は言った。

「グラダ大学生物学部遺伝子工学教室のテオドール・アルスト准教授です。オルガ・グランデから送られて来たミイラを研究する為に、考古学部が運び込んで梱包を解いたのですが、そのミイラがどうも新しいのです。」
ーーミイラが新しい?
「多分この半世紀以内のものです。現代人のものです。」
ーーそんなことがすぐわかったのですか?
「スィ。腕時計をはめていますから。」

 憲兵隊は出動を渋った様子だったが、テオが憲兵隊が来ないのなら大統領警護隊を呼ぶと言ったら、慌てて「すぐに人を遣る」と言って切った。
 テントの中ではケサダ教授がオルガ・グランデのアントニオ・バルデスに電話を掛けていた。テオが憲兵隊との会話を終えた時、教授はアンゲルス鉱石の社長に苦情を言い立てていた。

「貴方は考古学的調査が必要なミイラと、最近死んだ人間のミイラの区別もつかないのですか? チタンのデンタルインプラント治療を行い、腕時計をはめた人間が500年前に存在したと思っているのですか?」

 ケサダ教授はバルデスが厄介な死体をこちらへ押しつけたと決めつけた。

「他にもミイラはあったのでしょう? 何故それをこっちへ送らないのです? 新しい死体はそちらで処理して欲しかった。」

 なんだか問題点がテオとケサダ教授ではズレている感じがしないでもなかったが、テオはアントニオ・バルデスが故意に新しい死体を選んで送りつけたと言うケサダ教授の考えを支持したかった。 ケサダ教授の電話からバルデスの声が聞こえた。

ーー苦しんでいる姿のミイラが鉱夫達を怯えさせたんですよ、教授! だから送ったんだ。時計は兎に角、インプラントなんか知りませんよ!

 教授が怒鳴り返した。

「すぐに別のミイラを送って来なさい。さもないと、ここにあるミイラを送り返します。鑑定費用も全部そちらに請求しますからね!」

 教授は声は怒っているが、感情的になっていない、とテオはわかっていた。フィデル・ケサダは”ヴェルデ・シエロ”だ。本気で腹を立てれば室温が下がる。それだけは、はっきりとテオは知っていた。


第4部 花の風     14

  夕刻、テオは文化・教育省の前で省庁が閉庁するのを待った。午後6時になると、ビルの中から一斉にお役人達が出て来た。裏手の駐車場へ行く人、バスターミナルへ向かう人、飲食店街へ消えていく人・・・。アンドレ・ギャラガとアスルが前後して出て来た。アスルがテオを見て顔を顰めた。

「まさか俺を迎えに来たんじゃないだろうな?」
「残念ながら違う。でも一緒に乗って帰っても良いぞ。」

 アスルは断るジェスチャーをして、1人で歩いて街中へ去って行った。多分、食材を購入して先回りして帰るのだ。料理は彼の趣味の一つだ。妨害すると怒るので、テオは彼が料理をしそうな日は少し遅れて帰ることにしていた。
 ギャラガはテオに「また明日」と挨拶してバスターミナルへ歩き去った。官舎に帰って質素な夕食を取り、勉強するのだ。
 ケツァル少佐とロホは話をしながら出て来た。テオに気がつくと、彼等は足を止めた。

「約束でもしてました?」

と少佐が不審そうに尋ねた。夕食の約束がなければ彼女は真っ直ぐ帰宅して、家政婦のカーラが作った美味しい夕食を1人で楽しみたいのだ。ロホはそんな上官の生活を知り尽くしているので、ちょっと笑った。テオは「そうじゃない」と急いで否定して、用件を述べた。

「土曜日に公園で声を掛けてきたアメリカ人の件だ。」

 少佐がカフェを見たので、ロホは「お先に」と帰ってしまった。テオは少佐に導かれるままカフェテリア・デ・オラスに入った。
 コーヒーだけ注文して、ロジャー・ウィッシャーとあれから日曜日と月曜日に続けて出会ったこと、ウィッシャーの怪しい父親探しの依頼を少佐に語った。

「大統領警護隊は人探しが任務ではありません。」

と少佐が不機嫌そうに言った。そうとも、とテオは同意した。

「だから、彼は大統領警護隊が警察か憲兵隊を動かしてくれないかと期待しているようなことを言っているんだ。」
「警察も憲兵隊も暇ではありません。」
「実際に動く必要はないさ。声を掛けてくれさえすれば良いんだ。俺も大統領警護隊に相談してみたから。」

 言いつつ、彼はアンドリュー・ ウィッシャーなる人物の写真を出した。ケツァル少佐はそれを見て、ますます不機嫌な顔になった。

「アンドレに似ていますね。」
「偶然だと思うが。それにC I Aなら、事前にアンドレの写真を入手して古い写真らしく加工も出来るだろう。俺たちに接近する理由を作るために。」

 彼女が気が進まなさそうな顔で写真を摘み上げた。

「兎に角、私達に好奇心を持った人物と言うことですね。セプルベダ少佐にこの件を預けても良いですか?」

 テオはドキリとした。セプルベダ少佐は大統領警護隊遊撃班の指揮官だ。遊撃班は正規任務でない突発的な事案に対処する部署で、隊員は大統領警護隊の中でもエリートと呼ばれる猛者ばかりだ。遊撃班が動けば、他の部署の隊員達は何か不穏な出来事があったなと思うだろう。そうなると何時かは”砂の民”にも知られる。

「ロペス少佐にも言ってあるんだ。人探しじゃないが、俺達に興味を抱いたアメリカ人がいるって。外務省からは何も言ってこないが。」
「シーロはアリアナの安全の為にも何か手を打つでしょう。でも彼自身が何かをすることはありません。彼の仕事は調査と指図です。実際の対処は、やはり遊撃班に指図が下ります。」

 結局セプルベダ少佐の部下が動くのだ。テオはカルロ・ステファン大尉がまだ地下神殿から戻っていないことを残念に思った。ステファンならこちらの我が儘を多少は聞いてくれるだろうに。何はともあれ、テオが大統領警護隊を動かすことは出来ない。
 テオはもう一つの用件に移った。

「別件でもう一つ用事がある。これは依頼じゃないんだ。ケサダ教授に頼まれたんだが、オルガ・グランデのアンゲルス鉱石が新しい坑道を掘っていて、遺跡を発見した。墓地らしい。そのうちアンゲルス鉱石から文化保護担当部に報告が行くと思うが、バルデスが忘れるようだったら困るから、君に伝えておいてくれ、と言うことだ。」
「新しい遺跡ですか。」

 少佐も本業の話になったので、ちょっと機嫌が直った。

「墓地と言うことは・・・」
「ミイラが出た。それで明日そのミイラが俺の研究室に届けられる予定だ。普通のセルバ人であると言う鑑定結果が欲しいんだとさ。アンゲルス鉱石の従業員達が”シエロ”の墓じゃないかと心配して働かないので、バルデスが困っているそうだ。」
「それはただのストの口実でしょう。」

 と少佐が苦笑した。


 

第4部 花の風     13

  翌日、テオが大学の昼休みに学生達と世間話をしながらランチを楽しんでいると、考古学部のケサダ教授が近づいて来た。

「ブエノス・タルデス、遺伝子工学の諸君。」

 教授の挨拶を聞いて、テオはご機嫌良さそうだと思った。この先住民の先生はいつも服装がきちんとしていて、私服でも清潔感が漂う。女子学生達のみならず男性学生も憧れの目で見る人だ。学生達が振り返り、挨拶を返した。1人が冗談混じりに言った。

「いつも難儀なミイラの細胞を有り難うございます。今日のミイラは何ですか?」

 横に座っている女性が肘を突っついて注意を与えたが、教授は怒りもせずに微笑んだ。

「今日は君たちに人間のミイラをお願いしようと思ってね。」

 学生達がシーンとなったので、テオは可笑しくなった。

「遺跡から人間が出ましたか、教授?」
「スィ。」
「それは凄い!」

 遺跡が多いセルバ共和国だからと言って、簡単に人間のミイラが発掘される訳ではない。テオは興味を抱いた。現在ケサダ教授の教室の学生達が掘っているのは、比較的年代が新しく、ミイラを作る条件には適さない気候の東海岸地方の小さな遺跡5ヶ所だった。しかし、教授は言った。

「残念ながら私の学生達の手柄ではないのです。ミイラはオルガ・グランデのアンゲルス鉱石の坑道で同社の従業員達が掘り当てたのです。」
「坑道で?」

 テオは急に不安になった。「太陽の野に星の鯨が眠っている」と言う文言が刻まれている「暗がりの神殿」はアンゲルス鉱石社の坑道の地中奥深くにある。あの付近は既に金鉱を掘り尽くしたとして廃坑になっている筈だ。
 しかしケサダ教授は泰然として言った。

「新しい坑道を拡張する作業で、昔の墓所にぶつかったらしいのです。現地の考古学者が5世紀前の墓だと判定したのですが、鉱夫達が、もし”ヴェルデ・シエロ”の墓だったら呪いを受けると怖がって作業を中断しているらしく、困ったバルデス社長が鑑定を依頼して来ました。」

 セルバ人のミイラは布の衣で包まれて埋められる。エジプトのミイラの様な副葬品がないので、部族や年代の推定が難しい。勿論、その墓が発見された場所にどんな部族が住んでいたのか、現地の考古学者は調べているから推定出来ているのだ。しかし、怯える鉱夫達を宥める為に大学へ鑑定依頼が来た訳だ。
 学生達の中で囁き声が聞こえた。

「”ヴェルデ・シエロ”のDNAサンプルなんて存在しないぞ。」
「比較しようがないじゃないか?」
「馬鹿だな、現代人のDNAと比較して同じだと証明すれば良いのさ。」

 テオがケサダ教授を見ると、教授はその囁き声の会話を耳にして微笑んでいた。テオは学生の意見を支持した。

「ミイラを鑑定して、現代人と同じだと証明すれば良いのですね?」
「スィ。墓がある場所に昔住んでいた部族はわかっています。彼等は今でもオルガ・グランデで我々と同じ生活をしているので、サンプルが必要なら取り寄せます。」
「その必要はないでしょう。部族まで特定してくれとバルデス氏が要求されるのでしたら、話は別ですがね。それと関係なく、鑑定料金をしっかり請求されると良いですよ。こちらから、考古学部に請求する鑑定料に、そちらの手数料を上乗せして請求するんです。」

 ケサダ教授は愉快そうに笑った。学生達も笑った。女子学生が不安そうに教授に質問した。

「ケサダ先生、そのミイラは何時届くんですか?」
「予定では明日。」
「じゃ、私、休みます。」

 またテーブル周辺でドッと笑い声が上がった。
 ケサダ教授はその女子学生を指差して首を振り、それからテオに頼み事をもう一つ加えた。

「新しい遺跡発見と言うことになるので、大統領警護隊文化保護担当部にアンゲルス鉱石から報告が行くと思いますが、もし彼等がそれを怠った場合は罰則ものですから、貴方からミゲール少佐に前もって伝えておいていただけませんか?」
「わかりました。必ず伝えておきます。少佐に出会えなくても、クワコ少尉には必ず出会いますから。」

 ケサダ教授が立ち去ると、学生達の話題はミイラの細胞抽出方法に移った。テオはそれを聴きながら、何となく己の研究室の方向性を確立出来そうに感じた。ミイラの遺伝子鑑定だ。行き当たりばったりで家畜の遺伝子組み替えや植物の品種改良の研究の手伝いをしていたが、これから専門分野としてミイラの鑑定をしていこう。それなら文化保護担当部とも考古学部とも繋がりが持てる。

「そう言えばさぁ・・・」

と対面に座っている男子学生がつまらなそうな表情で言った。

「文化保護担当部のあの娘、デネロスは最近大学に来ないなぁ。」
「マハルダ・デネロスかい? そう言えば新学期が始まってから来ていないな。」
「忙しいんじゃない? 彼女、あれでも少尉よ。大統領警護隊の少尉って言ったら、陸軍の少佐みたいな位なんだって。」
「偉いんだ!」
「まだ20歳だよな?」

 1人がテオを振り返った。

「先生、デネロス少尉と最近出会いますか?」
「彼女は遺跡にいるよ。」

 テオはデネロスが男子学生達に人気があることを知って、ちょっと嬉しかった。

「オクタカス遺跡ってジャングルの中の遺跡でフランスの発掘隊の監視と護衛を指揮している。11月迄は帰って来ない。」

 男子学生達から失望のブーイングが上がった。

2022/01/08

第4部 花の風     12

  テオがカルロ・ステファン大尉から以前聞いた話によると、アンドレ・ギャラガの父親はアメリカ人で、ギャラガが5歳の時に亡くなったことになっている。母親は父親の姓はギャラガだったと息子に教えたそうだ。しかしファーストネームを教えてもらった記憶はギャラガになかった。ギャラガをネグレクトして、偶に相手にする時は殴ったり罵ったりするばかりだった母親の名前はルピタ・カノと言った。ステファン大尉が言うには、ルピタはマリア・グアダルぺの愛称なのだそうだ。しかしギャラガは、記憶の中にある母親がそんな高貴な印象を与える名前だったとは到底思えなかった。ルピタは街娼だったのだ。彼女は息子に自分達はブーカ族だと教えていたが、カノと言う名前はカイナ族に多いのだと言う。ブーカ、オクターリャより力の弱いカイナ族であることは決して恥ではないのだが、ギャラガが放つ気は大きく、大統領警護隊は彼がルピタが言った通りブーカ族で間違いないだろうと考えていた。しかし、彼が初めてナワルを使った時、色は薄いものの黒いジャガーに変身したことから、彼の大きな気はグラダ族の血から来ていることが判明した。恐らく、グラダを遠い祖先に持ち、ブーカとカイナの血も受け継ぎ、”ティエラ”の血が混ざり、最後に白人の血が入った複雑なミックスの”ヴェルデ・シエロ”、それがアンドレ・ギャラガだった。
 ギャラガの外見は白人だ。色白で髪は赤い。目も薄い茶色だ。しかし完全に白人かと言えばそうでもなくて、先住民の雰囲気も持っている、そんな風貌だ。だからメスティーソの女性達に彼はよくモテる。現在のところ、仕事と勉学に忙しい男なので、恋人を作る気はないらしい。
 ギャラガは出自に関してコンプレックスがあるので、先祖の話が好きでない。特に白人の血のことに触れられるのを嫌がる。彼にすれば、今更親族が現れても迷惑なだけだ、と言う気分なのだろう、とテオは気遣った。両親の墓が何処にあるのかも覚えていない男は、もしかすると異母兄弟かも知れないアメリカ人の出現に、腹を立てているかの様に見えた。
 3軒目のバルで、ロホとアスルは卓上サッカーゲームに興じた。テオとギャラガはそばでそれを眺めながら、ビールを飲んでいた。

「例の父親探しをしているアメリカ人ですが・・・」

と不意にギャラガが話しかけて来た。テオは顔を向けて、聞いているよ、と示した。ギャラガが続けた。

「その男自身がエル・ドラドを探していると言うことはありませんか?」
「あー、成る程、そう言う考え方もあったなぁ。」

 テオは、ロジャー・ウィッシャーがアリアナや彼の様子を探りに来たとか、”ヴェルデ・シエロ”に関心を持って調べに来たとか、そっち方面を考えていたので、ギャラガの発想に盲点を突かれた感じがした。

「セルバに黄金郷伝説はないだろ? 俺はそこまで思いつかなかったな。」
「私はそのウィッシャーと言う男が、南の国に兄弟姉妹がいるかも知れないと考えないことを思うと、父親さえ見つければ、黄金があるかないか確認出来ると思っている様な気がします。」
「俺は彼のネット情報では海兵隊に所属した経験があるのに、彼自身が俺に話した経歴にはそれが一切触れられていないことが気になったんだ。俺がネットで確認することを予想しなかったのか、それとも知られても支障がない経歴なのか・・・」
「海兵隊よりCIA に属していた経歴の方が知られたくないと思いますけどね。」

 テオは彼を眺めた。

「アンドレ、君は英語を話せたな?」
「私の見た目が白人なので、上官の意向で英語の会話と読み書きはしっかり学習させられました。」
「アメリカ人のふりをしなくても良いから、英語が出来るセルバ人として、ウィッシャーと接触出来ないか? ”操心”とか習得しただろ?」
「ウィッシャーから情報を引き出すのですか?」

 ギャラガは好奇心で目を輝かせた。しかし、理性が勝った。

「面白そうですが、上官の許可を得ませんと・・・」

 彼がここで言う上官は、ケツァル少佐だ。ギャラガを警備班から引き抜いて、姉の様に見守りながら厳しく能力習得の監督をしている師匠でもある。怒らせると、非常に恐ろしい。”ヴェルデ・シエロ”は普通の人間の心を目を見て支配してしまう能力を持っているが、テオの様にその技が効かない人間も稀に存在する。少佐は、まだ未熟な部下が万が一にもそんな人間に遭遇して危険な目に遭わないよう、”操心”の無断使用を認めないのだ。
 だから、テオはこの場は退くことにした。

「そうだな、俺の好奇心を満たす目的で君が営倉送りになっては申し訳ない。俺から少佐に相談してみる。どのみち、この写真を配らないといけないから。」



2022/01/07

第4部 花の風     11

  テオは研究室に戻ると、ロジャー・ウィッシャーの頬内側の細胞を分析器にかけた。それから翌日の授業の準備をした。昨シーズン、火曜日は午後の講義だけだったが、受け持つ学年が増えたので、午前にも講義がある。それに院生の助手が2人付いた。授業の準備を手伝ってくれるが、秘密の研究をした時はちょっと障害になる存在だ。だがウィッシャーのDNA 検査は秘密にする必要がなかった。行方不明の肉親を探している外国人の細胞だと言うと、助手達は機械のお守りを引き受けてくれた。彼等はテオが驚異的な速さで遺伝子マップを解読していく場面に立ち会うのが嬉しくて堪らないのだ。
 ケツァル少佐の個人的興味で依頼されていたフィデル・ケサダ教授の細胞はまだ手に入れていない。しかし、教授の出生の秘密を知ってしまったので、少佐は興味を失ってしまい、依頼は立ち消えになった。テオも危険を冒してまで、現代最強と言われる”ヴェルデ・シエロ”の細胞を無理に採りたくなかった。
 そのケサダ教授はテオの心を知ってか知らずか、新たな動物のミイラを学生に託してテオの研究室に送り込んで来た。今度は大型の動物で、リャマと思われた。リャマはアンデスの動物だ。そのミイラが中米の東海岸、ジャングルに近い場所で出土した。考古学者は東海岸に住んでいた部族が南米の何処と交易していたのか知りたいのだ。テオは分析作業を助手に任せた。ミイラのどの部分から使える細胞を取り出せるか、助手の腕試しだ。但し、貴重なミイラを傷だらけにするなと事前に注意を与えておいた。
 夕刻になると、研究室を片付け、助手を帰した。分析器には仕事をさせておき、ドアを施錠してテオは文化・教育省の駐車場へ行った。出張から戻ったロホとアスル、ギャラガと夕食に出かけた。ケツァル少佐は文教大臣と各課の責任者達との夕食会と言う名の「仕事」だ。きっとドレス姿なのだろう、と想像しつつ、バルへ行った。
 カウンターで立ち飲み立ち食いしながら、テオはロジャー・ウィッシャーが大学に現れた話を語った。預かった写真を出して見せると、ロホが「おや?」と言う顔をした。アスルも戸惑った様な表情を見せた。ギャラガだけが「ふーん」と言う興味なさそうな顔で写真を見た。その顔をロホとアスルが見た。だからテオもギャラガを見て、やっと写真の中の男が誰に似ているのかわかった。
 ギャラガが先輩達の視線を感じて顔を上げた。

「何ですか?」

 後輩に対して遠慮と言うものを持たないアスルが言った。

「お前は写真の男と似ている、と思った。」

 ロホとテオも頷いたので、ギャラガは「でも」と言った。

「私の父親はギャラガです。ウィッシャーではありません。」
「だがお前の出生届は何処にも出ていなかっただろ?」

とアスルは容赦なく詰めた。アンドレ・ギャラガは物心がつく前に父親を亡くし(と母親が言ったそうだ。)、母親からはネグレクトされた。小学校も行かせてもらえなかった。軍隊に入ったのも、母親の死後、生きる為に彼自身が年齢を誤魔化して入隊したのだ。その時、どうやら陸軍の入隊検査がいい加減だったらしく、大統領警護隊にスカウトされて、初めて出生届が出ていないことが判明した。司令部はエステベス大佐の指示で彼の出生登録を行い、ギャラガはセルバ人であるにも関わらず、16歳になって初めて正式にセルバ国民となったのだ。彼の出生届の両親の欄に書かれている名前は、司令部が彼自身から聞き取った名前だった。それが真実の両親の名前なのかどうか、誰も知らないのだ。
 ギャラガが意地になって言った。

「私はそんな男を知りません。第一、アメリカに妻子がいるのにセルバでも家族を作るなんて・・・」

 テオは苦笑した。以前もそんな男と知り合った。セルバに妻子がいるのにアメリカでも女性に子供を産ませた男がいて、その息子と大統領警護隊は知り合ったのだ。

「アンドレ、気になるなら、君の遺伝子検査をしてやるぞ。ロジャー・ウィッシャーと兄弟かどうか判定してみれば良いんだ。」
「結構です。」

 ギャラガが珍しく反抗的になった。

「私は私です。ルーツなんか知りたくもありません。」
「でも君のサンプルは持っている。」

 ロホが言った。

「検査費用はいくらだったかな?」


 

第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...