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2021/12/21

第4部 悩み多き神々     20

 「明日は好きなだけ眠れるぞ。」
「遊撃班は気の毒ですね、あのまま続けて任務だ。」
「心配するな、警備班のルーティンの調整が出来たら、すぐに交代要員が行くさ。」

 食事が終わると、大統領警護隊はアルコールを楽しむでもなく、あっさり席を立った。ロホがケツァル少佐のカードを預かり、カウンターへ行った。

「精算してくれ。」

 バーテンダーではなく、店の支配人が素早くカードを受け取り、レジを打った。カウンターの少し離れた位置で、グラシエラがもたれかかって彼を見ていた。顔もルックスも身のこなしも一部の隙もない「完璧な王子様」だ。ロホが視線に気がついてこちらへ顔を向けかけたので、彼女は急いでトレイを持ち、バーテンダーが上げたグラスを載せた。客のテーブルに歩いて行きながら、彼女は少しばかり幸福を味わった。
 文化・教育省に行けば彼が働いている。それは承知している。しかし、用もないのに出かけて行って彼の業務を邪魔すれば、絶対に姉様に叱られる。しかし多分、姉様は休日に彼女がロホと話をしたり、デートすることは止めないだろう。問題は兄だ。兄とロホは仲良しだ。しかし、兄は彼女が軍人と交際することを嫌がる。己が軍人だから、危険と常に隣り合わせで働く男と妹を付き合わせたくないのだ。それに兄とロホの仲が、彼女が原因で拗れてしまうのも嫌だ。
 客にグラスを配り、彼女は顔を上げた。大統領警護隊は店を出て行くところだった。最後尾にいたテオ先生が、手を振ってくれたので、彼女も振り返した。
 姉様とテオ先生に何とか兄を説得してもらえないだろうか、とグラシエラは考えた。だが兄は、姉様に失恋したばかりだ。今、この話題を出すのは拙いかも知れない。
 バーテンダーがカウンターの向こうで呼んだので、彼女は急いで戻った。もう少し様子をみよう。ロホはまた店に来てくれるだろう。彼女がここにいると知ったのだから。
 大統領警護隊文化保護担当部は、帰りの車の配分を変更した。ケツァル少佐は彼女のベンツのハンドルを握り、ロホ、デネロス、ギャラガを乗せた。テオの車はアスルだけだ。アスルはテオの車に乗ると必ず寝てしまう。喋ることがないからだ。しかし話し相手がいない運転は睡魔を呼び込む。テオは満腹と疲れの攻撃に抵抗しながら、市街地に向かって走った。少佐のベンツは陸軍基地を大きく迂回して、大統領府の方向へ去った。先に大統領警護隊の官舎にデネロスとギャラガを送り届けるのだ。
 テオはマカレオ通りに向かって運転した。ロホもマカレオ通り北部に住んでいるが、何故か少佐は彼をベンツに乗せた。彼女の意図を何となくテオは察した。
 どうにか無事に自宅駐車場に車を乗り入れることが出来た。エンジンを切ると、アスルが目を覚ました。もう着いたのか、とブツブツ言いながら、彼は先に車を降りて玄関へ行った。いつもの様に鍵なしでドアを開けようとして、彼は動きを止めた。隣家の人が外へ出て来たのだ。長屋の住民達は、ドクトル・アルストが軍人とルームシェアしていると知っていたが、実際にアスルを見かけることが滅多になかった。アスルはさりげなく胸の徽章を手で隠し、隣人に「ブエナス・ノチェス」と言った。隣人はニッコリ笑って挨拶を返した。そしてテオとアスル、どちらへと言うこともなく、言った。

「昨日から何処かへ出かけていたのかい?」

 テオが愛想良く答えた。

「軍事演習があるって言うので、見学に行ったんだ。」
「そうかい、軍人さんも土曜日だって言うのに大変だね。」

 また明日、と言って隣人は車に乗り込んだ。
 テオが鍵を出して、ドアを開けた。家の中に入るなり、アスルはバスルームに駆け込んだ。テオはドアを閉め、アスルが玄関に置きっぱなしにしたリュックをリビングまで運んだ。くたくただったが、コーヒーを淹れた。コーヒーが出来上がり、彼がカップに注いで飲みかけたところへ、アスルが濡髪のまま現れた。勿論服も着ていない。

「シャワーの湯が出ないぞ。」
「また故障か・・・明日修理する。」
「俺は冷水でも平気だが、あんたは嫌じゃないのか?」
「今日は水で構わない。暑いし、体もくたくただ。」

 アスルは彼の部屋となった客間へ入って行った。テオはコーヒーを飲み続けたが、アスルが戻らないので、ポットとカップだけテーブルに残して、自分の部屋から着替えを取ってバスルームに入った。
 入浴後にテーブルを見ると、ポットとカップはそのままだった。アスルは寝てしまったのだ。


 

第4部 悩み多き神々     19

  埃と汗にまみれた戦闘服姿のままで入れる店が、陸軍基地周辺に集まっていた。その中の、昼間から開いていて夜の早い時間に閉める稀な店を、ロホは知っていた。セルド・アマリージョ(黄色い豚)と言う中クラスのレストランで、客層は軍隊関係と民間人が半々。軍人の間では、安心してガールフレンドを連れて行ける店として知られていた。デートに使える店に演習後のドロドロの服で入るのはちょっと気が引けたが、他の店がまだ営業前だったので、文化保護担当部はセルド・アマリージョに押しかけた。
 ウェイターは一瞬ムッとした顔をしたが、客の胸に輝いている緑色の鳥の徽章を目にすると、急に愛想が良くなり、上席に案内した。店内に賑やかなポップが流れており、テーブルの半分が埋まっていた。客は若い兵士が多かった。新しく入ってきたグループに目を遣り、それが大統領警護隊だと気付くと、彼等は慌てて視線を逸らした。
 6人は丸テーブルに着いた。渡されたメニューを開くと、そんなに高い料理はなく、適度な料金でお腹いっぱい食べられるとわかった。テオはケツァル少佐の隣になり、少佐が指差す料理に全部頷いて見せた。少佐が上目遣いで彼を見た。

「本当に、これで良いのですか?」
「構わない。君が好きなものなら、なんでも・・・」
「スパイシーですよ。」
「大丈夫だろう。」

 テオはもう片側の隣のデネロスを振り返った。デネロス少尉は何故かデザートから見ていた。

「マハルダ、食事から先に選んでくれよ。」
「そっちにお任せします。私は甘い物担当。」

 男3人は別のメニューを眺めて、肉の大盛りメニューを選んでいた。そこへウェイトレスが来た。メニュー用タブレットを持って、彼女は操作しながら尋ねた。

「ご注文は?」

 その声に聞き覚えがあったので、テオは顔を上げた。同時にロホも彼女を見た。コンマ1秒ほど早く、ロホが相手の名前を口に出した。

「グラシエラ?」

 ケツァル少佐も顔を上げた。デネロス、アスル、ギャラガもウェイトレスを見た。若いウェイトレス本人も目を丸くして客を見た。

「シータ! それに・・・」

 彼女の頬が赤くなった。知っている人に出会って動揺しているのだ。テオが尋ねた。

「アルバイトかい?」
「スィ。土曜日の夕方だけ・・・友達のお兄さんがバーテンダーをしていて、その紹介です。」

 彼女はそっと姉を見た。”心話”で、母親には秘密にして、と要請した。ケツァル少佐が溜め息をついた。

「ママより兄貴の方が厄介だと思いますけどね。」

と彼女は囁いた。少佐はこの店を選んだロホを見た。ロホが急いで言った。

「私は彼女がここで働いているなんて、知りませんでした。」
「土曜日だけですから。」

とグラシエラも慌てて言い訳した。余程異母姉に知られたことが気まずいのか、動揺程度が半端でない。テオは店内を見回した。

「健全な店に見える。取り敢えず、注文を取ってくれないか?」

 それで各自食べたい料理を告げた。妹の手前、控えるつもりなのか、ケツァル少佐も1人前しか注文しなかった。
 グラシエラがカウンターへ戻ると、デネロスが内緒話をするかの様に、テオと少佐に顔を近づけて囁いた。

「グラシエラは、ロホ先輩を全然見ませんね?」

 え? とテオは思わず対面に座っているロホを見た。ロホはギャラガに、酔っ払いに絡まれた時の対処法を話し始めたところだった。アスルは厨房が気になる様だ。奥を何度もチラチラ見ている。
 ケツァル少佐が苦笑した。そして小さな小さな声で囁いた。

「彼女は、ロホがこの店に時々現れるので、友達に頼んで働かせてもらっているのです。」

 さっきの”心話”の時、妹の真意をチラッと感じてしまったのだ。テオとデネロスは顔を見合わせた。数秒後、2人はクスッと笑った。

「ああ、そう言うこと・・・」
「可愛いですね。」
「兄貴が知ったら、悩むぞ。」

 カルロ・ステファンは妹に平凡な人生を送らせたいと願っている。普通の市民と結婚して家庭を持って、平和な穏やかな暮らしをして欲しいと思っているのだ。だから、軍人や警察官との交際は駄目だと日頃から言っていた。しかし、兄貴の親友で優しくイケメンのロホを紹介された時、グラシエラは心に何か響く物を感じたのだ。こればっかりは、阻止出来ない。 ロホの方はどうなのだろう。
 テオとデネロスが見つめると、ロホが視線を感じて、ギャラガから対面に目を向けた。

「何か?」
「別にぃ・・・」

 その時、アスルが、ちょっと失礼する、と言って、立ち上がり、厨房へ歩いて行った。何だろう? と仲間達が見守っていると、彼は厨房入り口近くのカウンターにもたれかかり、バーテンダーに声をかけた。

「料理の過程を見学して良いか? 中には入らない。俺は埃だらけだから。」

 見学だけでしたら、とバーテンダーがドキドキしながら答えた。大統領警護隊の客は初めてだ。いや、ロホは今まで何度かここへ来ていたが、その時はいつも私服だったので、正体がわからなかった。イケメンの軍人らしき客、と言う認識だったのだ。
 バーテンは、他のテーブルへ注文を取りに行ったグラシエラを指した。

「彼女とは、お知り合いで?」

 アスルは本当のことを言った。

「我々の上官の妹御だ。少佐殿が溺愛されている。」

 成る程、とバーテンは頷いた。そして思った。あのウェイトレスに客が手を出したり絡まないよう、見張っていなければ、と。さもないと、客の命が危ない。

2021/12/20

第4部 悩み多き神々     18

  帰りは、ケツァル少佐のベンツをロホが運転し、アスル、ギャラガが乗った。テオの車には少佐とデネロスだ。ロホについて行けと言われて、テオは行き先がわからぬまま運転した。

「今日の遊撃班は1人足りませんでしたね。」

と助手席の少佐が言った。それでテオはいなかった隊員を思い出した。

「エミリオ・デルガド少尉だ。彼はハリケーンが上陸した日に休暇をとって、今実家に帰省中なんだ。」
「そうですか。」

 少佐が苦笑した。

「あの子がいなくて良かった。」
「どうして?」
「マーゲイは身軽ですから、単独で何処にでも侵入して来ます。大勢の敵が外から銃撃して来て、応戦している時に、マーゲイが1匹中に入り込むと、大変ですよ。」

 すると後部席のオセロットが口を挟んだ。

「私だって侵入出来ますよ。」
「貴女は駄目。」

と少佐が断言した。デネロスがほっぺたを膨らませた。

「どうしてですかぁ?」
「目立ちます。」

 少佐がキッパリ言い切った。

「可愛いから。」

 テオは笑い出した。デネロスも怒る気力を失って笑い出した。
 ベンツの中では、全く別の話題が話されていた。

「ケツァル少佐はカルロに厳し過ぎるんじゃないか?」

とアスルが疑問を呈した。しかし、ロホは、

「あれで良いんだ。」

と言った。

「兄弟で大統領警護隊に入っている人は少ない。それにカルロは一度外郭団体に出て、それから再び戻された。司令部もセプルベダ少佐も彼に目を掛けている。純血種で年上の万年少尉達の妬みを買いやすい。だから、ケツァル少佐は彼に恥ずかしい思いをさせてでも、他の隊員達と公平に扱っていることを見せなければならないんだ。」

 ギャラガは黙って聞いていた。彼もロホが言っている意味が理解出来た。警備班にいた頃は、能力がない偽”シエロ”と言われたり、”出来損ない”と蔑まれたりした。そして文化保護担当部に抜擢されると、今度はやっかみで皮肉を言われる。だから彼はそれ迄以上に規律を守って真面目に勤務しているのだ。
 助手席のアスルが肩越しに振り向いた。

「どうだ、アンドレ、今日は思いっきり発散出来たか?」
「スィ!」

 ギャラガは苦手な先輩が白兵戦の時に何度か助けてくれていたことを知っていた。それに礼を言えば、却って照れ臭さを隠すために怒る先輩であることもわかっていた。だから、彼は素直に言った。

「思いきり暴れることが出来て楽しかったです。色々教授されることもあって、勉強にもなりました。また、こんな訓練をやりたいです。」
「よし、よく言った!」

 アスルが満足気に前を向いた。ロホに声をかけた。

「で、何処に行く?」
「肉が良いか? 魚が良いか?」

 アスルとギャラガは示し合わせた訳ではなかったが、声を揃えて叫んだ。

「肉!」



第4部 悩み多き神々     17

 撤収作業が行われた。大統領警護隊は薬莢も銃弾も残らず回収した。文化保護担当部も遊撃班も同じ作業だ。テオは民間人なのでしなくて良いと言われたが、アンドレ・ギャラガと一緒に作業した。

「”ヴェルデ・シエロ”は怪我の治りが早いのに、指揮官は部下の治療を行うのか?」
「ああ、あれは・・・」

 ギャラガは鉄板にめり込んだ銃弾を引き抜こうとペンチで引っ張った。

「気の爆裂での負傷は自力で治すのが難しいからです。」
「と言うと?」
「普通の怪我は筋肉が裂けたり、腱が切れたり、骨が折れたりするものです。そう言うのは自力で治せるんです。ちょこっと医療処置を施せば、”ティエラ”の数倍のスピードで治せます。」
「うん、知ってる。」
「気の爆裂での負傷は、細胞自体がぐちゃぐちゃに壊れてしまうので、自力で治そうとすれば時間がかかります。これは医療処置が困難でもあります。我々はこれを『呪いが残る』と表現します。『呪いが残る』のは爆裂を食らった時だけではありません。例えば、”操心”に掛けられた人の手でナイフで刺されたり銃で撃たれた時も、微力ですが物体から相手の気が伝わるので、傷つけられた人は肉体の傷が治ってもその後長期間苦痛を味わいます。ですから、気の放出を使う演習を行う場合は、必ず『祓い』が出来る上級士官が立ち合います。今日の場合は、遊撃班のセプルベダ少佐と文化保護担当部のケツァル少佐、それにロホ先輩です。」
「カルロはまだ出来なかった?」
「恐らくセプルベダ少佐から理論上は教わっておられた筈ですが、実践出来る機会がなかったのです。訓練で気の爆裂による負傷をしたい人なんていませんから。それで、先刻大尉自身の気の爆裂で負傷した少尉達を、2人の少佐とロホ先輩の監視の下で大尉が『祓い』で治療したのです。」
「それじゃ、ロホがそばに立っていたのは、カルロが失敗した場合の助っ人か?」
「スィ。下手に『祓い』をすると軽微な負傷でも部下を死なせてしまいますから、施術を行う上官は緊張の極地です。」

 テオは目で友人達を探した。すると、見覚えのある顔が遊撃班の中にいた。

「君は、ファビオ・キロス中尉じゃないか? オルガ・グランデの廃坑で出会ったことがある。」

 声を掛けられてキロス中尉が振り向いた。いかにも大統領警護隊のエリートらしく、彼は敬礼で挨拶の代わりにすると、無駄話をせずに作業に戻ってしまった。テオは苦笑した。

「出会ったのは2年近く前だしな、民間人から慣れ慣れしくされても困るだろうさ。」
「その境目が難しくて・・・」

とギャラガがボソッと言った。

「学校でどこまで学生達と付き合えば良いのかわかりません。」

 テオは彼を見て、大学の先生らしく優しく励ました。

「君自身の心に素直になって付き合えば良いのさ。学生達は勉強でライバルになることもあるだろうが、敵じゃないからな。気が合えば仲良く付き合えば良いさ。」
「グラシャス、准教授。」

2人の少佐は車の影に座って部下が集めてくる銃弾や薬莢の数をチェックしていた。1発でも取り残すと、後で面倒なことになるかも知れないので、慎重だ。もしこの廃工場で後に犯罪でも起きて、その時に演習の銃弾が残っていて発見されたら、警察の犯罪捜査に支障を来たす。ケツァル少佐は時計を見た。

「セプルベダ、そろそろ本部へ帰る時間ではないのですか?」
「後1発、数が合わない。」
「こちらもあと2発です。私達で探しますから、撤収してください。」

 こんな場合、素直に相手の厚意を受け取るべきだ。セプルベダ少佐は、グラシャスと言い、部下に声を掛けた。

「集合!」

 遊撃班が一斉に彼の前に集まり、整列した。ステファン大尉が進言した。

「少佐、まだ1発銃弾が行方不明です。」
「文化保護担当部が捜索を引き受けてくれる。」
「もしよろしければ、私が銃弾を呼びます。」

 え?とテオは思ったが、ケツァル少佐以外の”ヴェルデ・シエロ”達も、え? と言う顔をした。しかし、ケツァル少佐が言った。

「お止めなさい。行方不明の弾丸は合計3発です。3方向から飛んできますよ。」
「大丈夫、出来ますって!」

 ステファンが弟の顔で言ったので、セプルベダ少佐が、ステファン!と怒鳴った。

「上官に口答えするな。」
「申し訳ありません!」

 ステファンがビシッと全身を強張らせて姿勢を正した。しかしその直後、その場にいた一同はもう少しで吹き出しそうになった。ケツァル少佐が弟にあっかんべーをしたのだ。そして彼女が喉を鳴らした。

 クッ

 テオも含めて全員がその場に伏せた。ケツァル少佐だけが空中にジャンプして、体を回転させながら腕を振り回した。地面に降り立った彼女は言った。

「直れ!」

 ”ヴェルデ・シエロ”達が立ち上がった。テオも慌てて立ち上がった。
 ケツァル少佐がセプルベダ少佐に握った手を開いて差し出した。

「お好きなものをどうぞ。」

 セプルベダ少佐が苦笑した。

「それは使ってはならぬ技だぞ、ミゲール。」
「上層部には黙っていて下さい。部下達は疲れています。今日はこれで本当に撤収しましょう。」

 遊撃班の隊員達は指揮官の合図で素早くジープに乗り込んだ。指揮官車がクラクションを鳴らすと、彼等は一斉に走り去って行った。
 敬礼で見送った文化保護担当部は、ホッと肩の力を抜いた。デネロスがケツァル少佐に尋ねた。

「カルロもさっきの技を使えるのでしょう? どうしてやらせてあげなかったのですか?」

 少佐が顔を顰めた。

「彼は、自分が気を放出する際に仲間を巻き込まぬよう結界を張るタイミングを、まだ完全にものにしていません。さっきも3人怪我をさせたでしょう? そんな人が複数の方向から銃弾を呼んだりしたら、誰かが大怪我をします。」

 彼女はデネロスを見た。

「貴女は結界を張るタイミングが上手になりました。オクタカス監視を安心して任せられます。」
「グラシャス。」

 デネロスは心から嬉しそうな顔をした。ギャラガも格闘の時に相手を妨害する気の出し方を習得したと、褒めてもらえた。
 アスルとロホからも2人の後輩にそれぞれ評価が与えられた。そのアスルは、頬をちょっと切っていた。少佐に視線を向けられて彼は言い訳した。

「今夜の晩飯をどうするか、考えてしまったので・・・」
「戦闘の最中にですか?」
「気が緩んでいました。」

 ロホがライフルの先で工場を指した。

「罰として1周してこい。」

 


第4部 悩み多き神々     16

  テオとデネロスが階段を下りて階下へ行くと、既に「戦闘」は終了していた。廃工場の駐車場に遊撃班と文化保護担当部の隊員達が集合しており、テオは地面に座り込んだ3人の隊員の前にステファン大尉が屈み込んでいるのを目撃した。彼はデネロスに小声で尋ねた。

「何をしているんだ?」
「今の段階は、多分、透視です。負傷の程度を調べています。」

 隊員達は距離を開けて立っていた。全員疲れているが、休めと言われていないので、直立不動で立っているのだった。アスルとギャラガも彼等の横で立っていたので、デネロスも急いでギャラガの隣に並んだ。テオはどうしようかと迷い、結局彼女の隣に立った。
 座り込んでいる隊員の向こうに、2人の少佐が並んで立っていた。テオはセプルベダ少佐を初めて見た。想像したより小柄だが、顔は映画で見る先住民の賢人の様な重厚な雰囲気を漂わせる風貌だった。何族だろう、と思わずDNAを気にしてしまった。
 座り込んでいる隊員を挟んでステファンの反対側にロホが立っていた。いつもの優しい顔と違って厳しい軍人の顔で、真っ直ぐ立っているが身構えている印象をテオに与えた。
 ステファンが1人を残りの隊員から離して座らせた。彼が隊員の左肩に手を当てると、ロホが隊員に声を掛けた。

「息を全部吐き出せ。肺に空気があると危険だ。」

 ハァッと隊員が息を吐くと、ステファンの顔が一瞬力んだ表情を見せた。空気が一瞬ビッと固くなった、とテオは感じた。隊員が全身の力を抜いて、ぐにゃりと体を崩しかけた。ステファンが両手で彼を支えた。

「大丈夫か?」
「大丈夫です、グラシャス。」

 隊員は立ち上がり、ステファンに敬礼し、それから2人の少佐、ロホの順に敬礼してから、整列している仲間のところに走った。
 ステファンは次の隊員にも同じことをした。2人目は肩ではなく腰だったので、地面にうつ伏せに横たわらせて行った。隊員は彼が力んだ時に、まるでお尻を引っ叩かれた様にピクンと体を動かしたが、すぐに立ち上がり、上官達に敬礼して、仲間のそばに戻った。
 3人目はかなり辛そうな顔をして座っていた。ステファンは彼が地面に横たわるのに手を貸した。

「骨は折れていない。内臓も大丈夫だ。だが腹部の筋肉が損傷している。」

 ステファンは彼に負傷の状況を説明した。隊員が何か言いかけたが、彼はその口を指で押さえた。

「喋るな。かなり痛いだろうが、私に治せる。耐えてくれ。」

 彼は己のスカーフを出して隊員の口に咥えさせた。そしてロホを見上げた。

「肩を押さえてくれ。」

 ロホは無言で隊員の頭の方へ行き、その両肩を押さえた。ステファン自身は隊員の腰の上に己の体重をかける姿勢を取り、両手を腹部の上に翳した。テオは一瞬空気が冷たくなったと感じた。1秒後に周囲は元の蒸し暑い南国の空気に包まれていた。
 隊員が起き上がった。額に脂汗を浮かべていた。彼は咥えていたスカーフでそれを拭おうとして、それが上官のものだったと思い出した。ステファンが彼の微かな戸惑いを察して言った。

「そのまま使え。」

 そして隊員と共に2人の少佐に敬礼した。次にロホにも敬礼した。セプルベダ少佐が頷いた。

「戻れ。」

 ステファンと3人目の隊員が遊撃班の列に走った。
 セプルベダ少佐がケツァル少佐に向き直った。

「今日はなかなか有意義な訓練を考えついてくれて、感謝する。」
「こちらこそ、若い少尉達に為になる攻撃を仕掛けて頂いて感謝します。」

 どっちが勝ったんだ?とテオは疑問を持ったが、少佐達はまるで世間話をする様に廃工場の建物を見上げた。

「所有者が警察を通して要望を言ってきたそうだ。」
「あら、なんて?」
「演習で使用するなら、本気で暴れて解体費用がかからないように徹底的に破壊して欲しいと。」
「それは残念。もっと早く言って欲しかった・・・」

 まだ原型を留めている工場の建物を見ながらケツァル少佐が笑った。

「迫撃砲を使う訳にいかんからな。」

とセプルベダ少佐も笑っていた。
 テオは我慢できなくなって、声を掛けた。

「この勝負、どっちが勝ったんだ?」

 ”ヴェルデ・シエロ”達が一斉に彼を見たので、テオは肝が冷えた。将校の会話に割り込んではいけなかったのか?
 最初に笑ったのはセプルベダ少佐だった。

「どっちが勝とうが負けようが、予算審議では遺跡監視費用増額に賛成票を入れる。遊撃班には仕事の機会を増やせるチャンスだからな。だが、ステファンは逃げたぞ。」
「ロホと私で阻止しました。ですから、こちらの勝ちです。」

 鬼の様に怖いお姉さんは、不甲斐ない弟をジロリと見た。

「それに、彼はまだ結界を張るタイミングが悪いです。3名も負傷者を出しました。」
「仰せの通り。」

 セプルベダ少佐にも睨まれて、ステファン大尉は肩をすくめた。だが、と遊撃班の指揮官は彼を擁護した。

「気の爆裂による負傷の対処方法を習得出来ていることが判明した。こればかりは、実際に怪我人が出ないことには、判定出来ないからな。実際の戦いではなく訓練の場であって良かったとしよう。」

 彼は時計を見た。

「撤収にちょうど良い時間だ。では、次の機会を楽しみにしている。」
「次はこちらが攻撃する側になりたいですね。」

 おいおい、と男性の少佐は苦笑した。

「勘弁してくれ、ミゲール。守備より攻撃の方が簡単なのだぞ。」






2021/12/19

第4部 悩み多き神々     15

  階段の中ほどで座っているケツァル少佐が見守る中、アンドレ・ギャラガは3人の遊撃班隊員を相手に打ち合いをしていた。大統領警護隊は拳銃や軍用ナイフを所持しているが、訓練で格闘や打ち合いをする場合は流石に模擬弾装填の銃と模造刀を使う。それでも怪我は避けられない。相手の武器や拳が体に当たる寸前に気を放って避ける訓練だ。
 アスルは6人を相手にしていた。盗掘美術品密売組織の悪党達を10人まとめて病院送りにしたアスルだが、やはり同じ大統領警護隊相手だと手こずった。向こうも彼が格闘技の達人だと知っているから傾向と対策は練っている。それでも彼は巧みに相手に攻撃を仕掛け、遊撃班が気で彼の動きを鈍らせるのを防いでいた。
 ケツァル少佐は相手の人数を数え、遊撃班は現在指揮官を含めて26名だった筈、と考えた。セプルベダ少佐は彼女同様工場跡地の何処かで部下達の戦いぶりを観察している。1人は2階で縛ってある。人質だ。だから15人が外にいる。
 2階ではデネロスが4面のそれぞれの窓に結界を張って、屋根からの侵入を妨害していた。遊撃班は、午前中と違って彼女ではなく壁やガラスを銃撃して、彼女の注意を逸らせようと仕掛けてくる。格闘になると複数の男相手に1人の彼女はちょっぴり不利になるから、彼女は結界で相手の接近を防いでいた。
 ロホは屋根を警戒していた。デネロスの訓練の為に結界を張っていない。敵がそれに気がついて屋根を破って襲撃してくる場合を想定して、天井を睨みながら2階の床を歩き回っていた。
 テオは心臓がぱくぱくする緊張を感じていた。相手は”ヴェルデ・シエロ”なので遠慮せずに拳銃を撃てと言われても、やっぱり人間に向かって発砲するのに慣れていない。事務所の窓を順番に警戒していると、後ろで手首を縛っていた革紐を金属片で断ち切ったステファン大尉が静かに立ち上がった。目隠しを取り、両手首を擦ってから、テオの後ろを通り、事務所から出ようとした。事務所の外でロホが怒鳴った。

「テオ、後ろ!」

 テオが振り返ると同時にステファンが事務所から飛び出した。テオは発砲したが銃弾は壁に当たった。ロホが遠慮なくステファンにアサルトライフルを撃った。パンっと音がして空中で火花が散った。ステファンがフンッと鼻を鳴らして、窓を突き破り、屋根の上に飛び降りた。

「デネロス!」

とロホが叫んだ。

「ここは良い、下へ行け!」

 そして彼自身はステファンを追って窓の外へ飛び出した。
 テオは何が何だかわからず、窓に駆け寄った。デネロスがそれに気づき、咄嗟に事務所の窓に結界を張った。そして事務所の中に駆け込み、テオの服を引っ張った。

「窓から顔を出しちゃ駄目!」

 テオはそれでも外が気になって屋根を見た。
 外に出たロホは途端にカルロ・ステファンが放った強烈な爆風に襲われた。彼は両腕を交差させて頭部を守り、爆風を押し返した。押し返された爆風をステファンは耐えたが、近くにいた味方が3人吹き飛ばされ、屋根から転げ落ちた。

「馬鹿者、結界を張って仲間を守れ!」

と中尉のロホが大尉のステファンに怒鳴りつけた。チッとステファンは舌打ちし、身を翻して屋根から飛び降りようとした。そして脚を何かに掬われてその場で転倒した。下から壁を駆け上がって来たケツァル少佐が彼の顔の前に立った。

「愚か者、私から逃げられると思っているのですか!」

 ステファンは屋根の縁から下を見下ろした。さっき屋根から落ちた3人が地面に座り込み、そばにセプルベダ少佐が立って屋根を見上げていた。

「ミゲール!」

と彼が声を掛けた。

「今日はこれで終わりにしないか? ステファンの風が味方を打ちのめした。」

  ケツァル少佐は彼を見下ろし、それから弟を見て、呟いた。

「力だけは強いんだから・・・」


第4部 悩み多き神々     14

  ジープの座席で丸くなって昼寝をしていたセプルベダ少佐の携帯電話が鳴った。彼が電話の画面を見ると、エルドラン中佐からだった。少佐は直ぐに姿勢を正して電話に出た。

ーーまだ文化保護担当部は片付かんのか?

と中佐が尋ねた。セプルベダ少佐は欠伸を噛み殺して、「まだです」と答えた。すると中佐が言った。

ーー1700に大統領が南部国境へ出かけられる。
「それはまた急なことで。」
ーー当日に言われると警備班のシフト変更が間に合わない。1600迄に撤収して戻って来い。大統領の警護を頼む。
「承知しました。」

 一旦電話を切ると、セプルベダ少佐はケツァル少佐に電話をかけた。相手もまだシエスタの途中だったので、不機嫌な声で応答した。文句を言われないうちにセプルベダは要件を告げた。

「ミゲール、訓練の予定を変更しなければならん。大統領が急な外出をされる。」
ーーそれは仕方ありませんね。刻限は何時です?
「1600には本部に帰りつかねばならん。」
ーーわかりました。では、シエスタ終了次第、総攻撃をかけて下さい。

 セプルベダ少佐は時刻を確認した。まだ27分眠れる。

「承知。では、27・・・26分後に。」

 電話を切ると、彼は再び目を閉じた。
 廃工場では、ケツァル少佐が部下に声を掛けた。

「予定変更! 敵は1600迄に撤収しなければならない。総攻撃をかけてくる。心しておけ!」

 オー!と声を上げ、文化保護担当部の面々が持ち場に散った。テオは再びステファンの手を縛り、目隠しをした。革紐の痕が生々しく痛そうだったので、気持ちだけ緩めて縛った。階段を上り、事務室に入った。午前中と同じ椅子に大尉を座らせ、彼も机の上に座った。

「終了予定が早まって助かったよ。」

と彼は囁いた。

「朝からずっと戦場にいる気分で、耳が銃声でおかしくなりそうだ。」
「私もこんな長時間銃器を用いた訓練をしたのは、陸軍時代以来です。」

 と言いつつ、ステファンは昼食時にこっそり入手した平たい金属の破片を袖口から出した。手の感触だけで向きを持ちかえ、革紐を擦り始めた。テオは気が付かずに、事務所の外の作業場所跡を歩いているロホの姿を窓から眺めた。

「まさかグラシエラはこんな危険な遊びをしないだろうな?」
「彼女は普通の女の子として育ちましたから・・・」
「だけど、君とケツァル少佐の妹だぞ。 君のお母さんだって、お父さんに会いに井戸を上り下りした人だろ? お淑やかに見えても、活発なんじゃないのか?」

 半分揶揄い目的だったが、ステファンは「そう言われるとね」と目隠しをしたまま苦笑した。

「あの子も近所の男の子達とよく喧嘩したり、探検ごっこしていましたから。」
「この前キャンパスで出会った時、どんな教師になりたいのかって訊いたら、僻地の学校で教えたいって言っていたぞ。ゲリラとか怖くないのかって訊いたら、へっちゃらだって。」
「へっちゃら? 気も使えないのに・・・」

 ステファンは口元から微笑を消した。彼は呟いた。

「まさか・・・」
「まさか? 何だ?」
「いえ・・・祖父さんの封印が解けたのかと・・・しかし、あれは掛けた人でなければ解けませんから。」
「彼女の気力が強いってことだろう。恋人でも出来たかな?」
「それなら、私に、」
「滅多に家に帰らない兄貴に言うかな?」
「・・・」

 その時、階下で大きな音が響いた。銃声と怒鳴り声。アスルだ、とテオが思ったら、ステファンが「再開だ」と言った。


第4部 悩み多き神々     13

  朝ごはんは前夜の晩餐の残り物だったが、昼ごはんは朝ごはんの残り物だった。肉や野菜をトルティーヤで巻いた物を食べて、水で流し込んだ。捕虜もシエスタの間は縛を解かれて目隠しも外してもらえた。

「”ティエラ”で大統領警護隊の軍事訓練に参加した人は、貴方が初めてですよ。」

とロホが言った。テオは精神的に疲れていた。実弾が撃ち込まれてくるのだから、無理ないことだ。

「無事に今日の夜を迎えられたら、体験談を本にでも書くよ。」

と彼は言い、埃だらけの床に横になった。”ヴェルデ・シエロ”としての実戦経験がないアンドレ・ギャラガに、アスルが白兵戦になった場合の気の使い方を教えていた。格闘技の練習の様に見えたが、アスルは動きの一つ一つに、どのタイミングで気を発して相手の動きを鈍らせるか、教えているのだ、とデネロスが説明してくれた。

「”ヴェルデ・シエロ”は気を使って相手を倒せても、死なせてはいけない、それが掟だったな?」
「スィ。だから、格闘している時に気を出すタイミングや大きさの調節を学ばないといけないんです。下手をして相手を死なせては大変ですから。ですから、この訓練の時は、必ず少佐以上の階級の立ち合いが必要です。」

 でも、とデネロスはウィンクした。

「ロホとアスルはこの分野に関しては少佐級の実力を持ってますから。」
「純血種ですからね。」

とステファンが囁いた。

「それに相手を思い遣ることが出来る。心が安定していないと出来ません。」

 血気盛んな若者達は力を出し過ぎるのだろう。デネロスがステファンを見て微笑んだ。

「大尉は気を使わなくても実力で敵を倒せますものね。」
「だから、今それを修行しているんだよ。」

 ステファンはテオに愚痴った。

「司令部は、私が気の抑制を完璧に出来る様になったらメスティーソの隊員達の指導師にする腹積りの様です。」
「君はきっと良い先生になれるだろうな。」

 テオは慰めた。

「指導師になったら、自由に外出出来るんじゃないのか?」
「でも遺跡とは縁がなくなります。」
「遺跡で訓練したら?」

とデネロスが暢気に言った。

「遺跡を壊さないように気を出す訓練したら良いんですよ。」

 テオとステファンは顔を見合わせた。どんな戦闘訓練なんだ?
 ケツァル少佐とロホは床の上の埃に線を引いて工場の間取りを描いていた。

「セプルベダは何処から攻撃してくると思います?」
「この西側にある原料搬入口辺りでしょうか。建物の開口部が広いですから。しかし、2階も、この屋根が低い部分から侵入される可能性があります。」
「2階はマハルダの結界で守りなさい。彼女の結界が破られたら、貴方に任せます。人質はテオに一任します。人質が逃げたら、テオに追わせてはいけません。彼は事務所に留めおくこと。」
「承知しました。」

 ロホは天井を見上げた。

「床板が腐っている箇所がいくつかありますからね・・・」



第4部 悩み多き神々     12

  銃弾と弾薬にかかる費用を考慮して、遊撃班は「絶え間ない攻撃」はして来なかった。文化保護担当部もそれは同じで、各自持ち場から見える敵のグループの様子を伺い、油断していると思われる箇所へ撃ち込んだ。
 2時間経って、ケツァル少佐の元にセプルベダ少佐から電話が掛かってきた。

ーーそっちは怪我人が出たりしていないだろうな?
「全員無事です。そちらはいかがです?」
ーーフライングしてリーダーにビンタを食らったヤツが2名いたが、怪我人は出ていない。
「今日は迫撃砲の予定は?」
ーーそれは使わない。民家が近過ぎる。さっき、ギャングの抗争と勘違いした市民からの通報で警察が来た。こっちの車を見て、直ぐに帰ったがな。ところで、捕虜と話がしたい。

 ケツァル少佐はちょっと考え、「お待ちを」と言って、階段を軽々と駆け上がり、事務所に入った。そろそろ飽きてきたテオが何か言う前に、少佐はステファンの顔の前に電話を差し出した。

「セプルベダ少佐が貴方と話たがっています。」

 ステファン大尉は溜め息をついて、電話に向かって「オーラ」と声をかけた。遊撃班の少佐が尋ねた。

ーー何で捕まったんだ?
「申し訳ありません。ミゲール少佐の結界が破れなくて・・・」
ーー無理に破ろうとしなかっただろうな? ケツァルの結界にまともに突っ込むと、頭がパーになるぞ。

 テオにもその声は聞こえた。ちょっとゾッとする話だが、”ヴェルデ・シエロ”の結界は”ティエラ”には無害だと聞いているので、黙っていた。
 それはしていません、とステファンは否定した。

ーーまあ、良い。可能な限り逃げる努力をしろ。彼女に代われ。

 ケツァル少佐が電話を自分の顔に近づけた。

「何か?」
ーー昼休みはどうする?
「こちらは食糧持参です。」
ーーでは、1200から1400までシエスタだ。その後、突入を図るぞ。
「了解。では、もう2時間頑張りましょう。」

 ケツァル少佐は電話を終えて、携帯を仕舞った。テオが要求した。

「俺に耳栓の差し入れをしてもらえないか?」
「我慢出来ませんか?」
「訓練だと分かっていても、実弾だ。心臓に良くない。」
「アスル!」

 少佐が怒鳴った。直ぐにアスルが階段を駆け上がって来た。

「何か?」
「テオに耳栓を作ってあげなさい。」
「はぁ?」

 と言いつつ、アスルは再び階段を駆け下り、数分後に救急箱を持って戻ってきた。脱脂綿を切ってテオに無言で差し出した。

「そろそろ弾丸落としに飽きて来ましたが、少佐。」

と彼は遠慮なく上官に文句を言った。ケツァル少佐は彼を引き連れて階段を降りながら言った。

「1200から2時間昼休み、午後は向こうが侵入を図って来ます。白兵戦をしますから、我慢なさい。」

 その声を聞いたテオは不安になった。思わずステファンに、白兵戦?と聞いた。ステファンが言った。

「C Q BやC Q Cです。アスルの得意項目です。」




第4部 悩み多き神々     11

 何故こんな事態になったのだろう? とテオドール・アルストは考えつつ、車をイゲラス通りの廃工場へ乗り入れた。だが入り口に現れたギャラガにしっしと手で追い払われた。車を離れた場所に駐車せよと言われていたのだ。テオは慌てて方向転換して敷地外に出た。1分ほど走って、小さな教会前の広場に駐車した。そこは安全だと言われていた。ケツァル少佐のベンツもロホのビートルもなかったが、彼は借りてきたステファン大尉が使っていた大統領警護隊のジープをそこに停めた。緑色の鳥が描かれた車に悪さする度胸がある人間は、セルバ共和国にいないだろう。
 歩いて廃工場に戻ると直ぐに数台のジープがやって来た。どれも緑の鳥の絵が描かれている。テオは慌てて廃屋の中に駆け込んだ。
 汚れたガラス窓の向こうを眺めていたギャラガが声を張り上げた。

「早速包囲されましたよ。」
「車は何台?」
「5台。遊撃班ほぼ全員です。」
「セプルベダもいる?」
「いらっしゃいます。」

 よし、とケツァル少佐は頷くと、テオを振り返った。

「捕虜を2階の事務所へ連れて行って、見張ってなさい。」
「俺は君の部下じゃない・・・」
「そんなことを言える立場ですか?」

 少佐はアサルトライフルを振った。

「外に放り出しましょうか? 今出たら、向こうは実弾を撃ってきますよ。そもそも、これは誰のアイデアです?」
「乗ったのは誰だ?」

 副官のロホが階段の上で怒鳴った。

「裏手にM M Gを配備されました。」
「見張ってなさい。」

 少佐はテオに顎で指図した。

「早く!」

 仕方なく、テオは彼用に渡された拳銃をステファンの後頭部に押し付けて、歩け、と命じた。拳銃は彼の独断でロックしてある。ステファンは目隠しされて後ろ手錠の状態だ。歩きながら、彼が文句を言った。

「私の立場はどうなるんですか? 人質だなんて、情けない・・・」
「人質は逃げる努力をするのも訓練だろう?」

 目隠しされていてもステファンは階段を躓くこともなく、上手に上って行った。
 2階ではロホとデネロスがそれぞれ南北を受け持っていた。染色用の機械の錆びたのやら、大きな穴やら、埃だらけで天井から垂れ下がっているワイヤーを避けながら、小屋の様に設けられた事務所に入った。テオは埃だらけの椅子に捕虜を座らせた。

「俺は、まさか少佐が俺のアイデアを採用するとは思わなかったんだ。」
 
 彼が言い訳すると、ステファンが憮然とした声で言った。

「彼女は、戦闘ごっこが大好物なんですよ。」

 そして小声で付け足した。

「”ヴェルデ・シエロ”はこう言うシチュエーションが大好きなんです。」
「それで遊撃班も乗ってきた?」
「連中だって大喜びですよ。」

 いきなり下の方で銃撃音が響き、テオは肝を冷やした。銃声が響いた割にはガラス等の破壊音は聞こえなかった。

「さっきの方角は、アンドレの持ち場だな・・・」
「ガラスが割れていないので、彼は銃弾を全部落とせたのでしょう。」

 つまり、文化保護担当部と遊撃班が撃ち合って、双方の弾丸を気で破壊する練習をしているのだ。確かに、この訓練は、空間の大きさから考えて本部内では無理だろう。
 次は激しい連射音。機関銃だ、とテオはゾッとした。

「もうM M Gを使っている。」

とステファンが呆れた様な声を出した。

「指揮官が指図する筈がないから、担当者が自己判断で使ったな。」
「機関銃の使用はもっと後の方が良いのか?」
「まとめて弾き返せる結界を張る練習になります。敵が結界の張り方を学習してしまうと、銃火器での攻撃は困難です。これはマハルダの訓練にもってこいだ。」

 捕虜なのにステファンは解説者になっていた。
 機関銃の連射音は数分で止んだ。きっと指揮官が射手を叱っていることだろう。

「ところで、テオ、手首が痛いので革紐を少し緩めていただけませんか?」

 ”ヴェルデ・シエロ”は金属の手錠を簡単に破壊してしまえるので、縛る時は革紐やダクトテープを使う。

「申し訳ないが、カルロ、そんなことをしたら、俺が少佐に殴り倒される。」

  その時、事務所の中にロホが駆け込んで来た。テオの前を駆け抜け、ステファンを跳び越して、入り口の反対側の壁の窓のガラスの割れ目からアサルトライフルを突き出し、10発程連射した。
 テオはロホにともステファンにともなく、尋ねた。

「少佐はこの敷地全体を結界で覆っていないのか?」

 ロホが振り返った。

「そんなことをしたら、訓練になりませんよ。誰もあの方の結界は破れないんですから。」



 

第4部 悩み多き神々     10

  大統領警護隊遊撃班の指揮官チュス・セプルベダ少佐は、文化保護担当部の遣いだと言う白人男性が持ってきた文書を読んで、吹き出してしまった。綺麗に印刷された文書にはこう書かれていた。

 本日0800より軍事訓練を行います。遊撃班のご協力を要請します。
当部署では、遊撃班所属カルロ・ステファン大尉を捕虜として拘束しております。
場所はイゲラス通りの廃棄された染色工場跡。
本日1800迄に我々から彼を奪還して下さい。出来ない場合は、次の予算審議会で遺跡監視費用の増額に賛成票を願います。
    文化保護担当部指揮官 シータ・ケツァル・ミゲール少佐

 もう1枚手紙が入っていて、そこには、肉筆の走り書きがあった。

 女を怒らせると碌なことになりません     ステファン

 セプルベダ少佐はケツァル少佐を怒らせた覚えはなかった。だから、これは姉弟喧嘩が変な方向へ発展したのだな、と思った。だがこの軍事訓練参加要請を断る理由がなかった。遊撃班は他部署から応援要請があれば応じて加勢するのが任務だ。それに、僅か5人で国内の遺跡監視業務を行なっている文化保護担当部は日頃から山賊やゲリラ相手に戦っている実戦部隊だ。都会の本部に設置された安全な施設内で訓練するだけの隊員達に、刺激を与えるのにちょうど良い要請だった。
 セプルベダ少佐は秘書に言った。

「遣いの人に、文化保護担当部の宣戦布告に応じる、と伝えよ。それから、ステファンには、くれぐれも敵に寝返るな、と告げておいてもらえ。」

 秘書が部屋を出て行くと、少佐は時計を見た。午前7時半だった。少佐は席を立つと廊下に出て、気を放った。集合の合図だ。
 各部屋から一斉に隊員達が飛び出してきた。常から集合がかかれば直ぐに出る心構えが出来ている。廊下に立った部下達に指揮官は言った。

「文化保護担当部が我が班のステファン大尉を人質に取ったと連絡してきた。場所はイゲラス通りの廃棄された染色工場だ。これから本日1800迄に彼を取り戻さねばならん。これは訓練だが、決して気を抜くな。相手は、グラダのケツァルとブーカのマルティネスだ。気の大きさは半端ではない。油断すると訓練と雖も命に関わる大怪我をするぞ。」

 大統領警護隊は想定外の訓練があっても動揺しない。廊下に緊張感が漂い、空気が凍りついた様な冷たさになった。
 誰かが質問した。

「クアコとデネロスもいるのですね?」
「スィ。」
「ギャラガも?」
「スィ。それに、厄介だが、民間人が1人参加している。白人の”ティエラ”だ。彼には絶対に怪我をさせるな。守護者としての”ヴェルデ・シエロ”の誇りを守れ。」

 隊員達が一斉に、オーッと声を上げた。少佐が声を張り上げた。

「0800開始だ。急げ!」

 忽ち遊撃班の隊員達は出撃体制に入った。車両部に走る者、武器庫に走る者、後方支援準備に入る者。
 警備班の隊員達がその慌ただしい動きに気づかない筈がない。官舎で寝ていた非番の隊員達も遊撃班が放つ強い緊張感に目を覚まされた。何が起きているのかわからないが、出動準備で走り回っている遊撃班に声を掛けて邪魔することは許されない。
 セプルベダ少佐が己の武器の装備を整えていると、当直の副司令官エルドラン中佐から内線電話がかかって来た。

ーー遊撃班が慌ただしく戦闘準備をしていると報告が入っているが、何かあったのか?

 セプルベダ少佐は真面目な顔で答えた。

「文化保護担当部が当班の隊員一名を人質に取って、本日夕刻迄に取り戻せなければ次の予算審議会の折に味方せよと脅して来ました。若い連中の訓練に絶好の機会ですから、これから相手をしてやります。」

 武闘派のトーコ中佐なら、ここで大笑いするだろうが、冷静沈着なエルドラン中佐は、暫し沈黙した。それから、質問した。

ーーミゲール少佐の真意は?

 セプルベダ少佐は辛抱強く答えた。

「土曜日の軍事訓練です。彼女流の・・・」
ーーあの緩い部署のお遊びか・・・

 中佐が吐き捨てるように言った。

ーー隊員を死なせるなよ、セプルベダ。
「承知しております。」

 エルドラン中佐は文化保護担当部の実力を承知している。日頃の勤務はセルバ流にゆるゆるなのに、週末は生死をかけたお遊びをやっている部署だ。遊撃班の訓練には格好の相手であることを理解した。
 少佐は時計を見た。

「刻限が迫っておりますので、行きます。」
ーーよし、行ってこい!

 電話を置くと、セプルベダ少佐は部屋から飛び出した。

「出撃!」


 



2021/12/18

第4部 悩み多き神々     9

  大統領警護隊はダラダラと朝食を取ったりしない。普通は。しかし、その朝は食事開始の合図を少佐が出すことはなく、テーブルに着いた人から順番に好き勝手に食べた。少佐は豆と果物だけ食べていたし、ロホはひたすら豆を愛していた。アスルの手料理をテオとデネロスとステファンは堪能したが、アスル本人は好きな物だけ選り分けて食べた。

「今日の軍事訓練は何をするんですか?」

とデネロスがサラダをモリモリ食べながら質問した。少佐はパイナップルを齧りながら考えた。そして逆に問い返した。

「貴女は何をしたいですか?」

 うーんとデネロスが考えこんだ。やりたいことは沢山ある。それが軍事訓練になるかな?と考えているのだ。過去に行ったのは、ボーリング(球を気でコントロールする)、デネロス農園の手伝い(体力作り)、隠れんぼ、鬼ごっこ、サイクリング、海水浴、ロッククライミング・・・。彼女はチラリとテオを見た。そして答えた。

「鬼ごっこ!」

 彼女と少佐の目が合った。 テオは彼女達が”心話”を使ったことに気がついた。デネロスは、どんな鬼ごっこを希望しているのかを伝えたのだ。うーん、と少佐が唸った。
 ステファンがフォークを置いた。

「ご馳走様でした。無事に夜を過ごして、皆さん、羽目も外しませんでしたから、私はこれで引き揚げます。」
「え? もう帰っちゃうの?」

 デネロスがガッカリした声を出した。少佐が言った。

「彼は任務でここにいたのですよ。」
「でも・・・」

 テオはふと不謹慎な軍事訓練を思いついたので、口に出した。

「カルロを捕虜にして遊撃班に取り返しに来させるとか?」

 一同が彼を見た。駄目だよね、とテオが笑いかけると、彼等は次にステファンを見た。ステファンが「え?」と言う顔をした。

「駄目です。」

と彼が言った。少佐が微笑んだ。テオは提案した本人であるにも関わらず、呟いた。

「本気か?」



第4部 悩み多き神々     8

  物音でカルロ・ステファンは目が覚めた。携帯を出して見ると早朝の5時半だ。彼は上体を起こした。バスルームでシャワーを使う音が聞こえた。首を動かすと横でテオドール・アルストが寝ていた。ソファの上のアスルは猫のように丸い姿勢で眠っている。
 ステファンは立ち上がり、背伸びをした。喉が渇いたのでキッチンへ行き、水を飲んだ。リビングに戻り、テーブルの前に座って残っていた料理を摘んだ。それからバスルームに行った。このアパートの良い所は、お風呂とトイレが別の部屋になっていることだ。そして浴室も広いので3人ほどで一度に使用出来る。彼はシャワーの音を聞きながらトイレを使った。再びリビングに戻ると、先に寝落ちしていたアスルが目を覚ましてソファの上で背伸びをしていた。敬礼で朝の挨拶に替えると、彼は交代でトイレに行き、戻ってくるとキッチンに入った。
 バスローブに身を包んだケツァル少佐が姿を現した。濡れた髪もタオルで包んで、彼女はリビングを通り過ぎ、キッチンへ行った。アスルに指図した。

「朝は作る必要ありません。昨晩の残り物を片付けましょう。」
「適当にアレンジしますよ。」

 アスルは何か作りたいようだ。少佐はそれ以上意見せずに、任せます、とだけ言った。そしてリビングに戻り、床の上のテオを見下ろした。

「どうしてこの人がここに落ちているのです?」
「ここで構わないと思ったからでしょう。」

 ステファンは使用済みの皿やグラスを片付けながら言った。彼は姉が何も覚えていないのだと気がついて、言い添えた。

「貴女を寝室へ運んだのは私ではありませんから。」

 ちょっと空気がピリッとした。ケツァル少佐が・・・恥じらった。

「そうですか。」

と彼女が呟いた。

「貴方に任せたつもりだったのですが。」
「私は貴女の子守りではありません。」

 彼女は弟をちょっと睨んでから、寝室へ戻って行った。
 キッチンからアスルがやって来て、アレンジしたい料理の皿を持って行った。ステファンも片付けを手伝い、少佐が着替えて戻って来るとテーブルの上は綺麗に整理されていた。

「煮豆は要りますか?」
「あれば中尉が喜ぶでしょう。」
「冷蔵庫に作り置きがあるので、全部出してもらっても結構です。」

 美味しそうな匂いが漂い始めると、テオが目を覚ました。床の上で寝たので、体が硬っていた。彼が肩や腕を動かしている間に、早起きの3人が朝食の支度を整えた。
 デネロスが起きてきて、テーブルを見ると大急ぎでバスルームへ駆け込んだ。朝ごはんの前に身支度してしまうつもりだ。つまり、朝食準備を手伝うつもりはないらしい。
 テオは客間へ行った。ドアを開けると、中の人は2人共まだ眠っていた。ロホはベッドで、ギャラガは昨夜アスルが言った通り、床の上で寝袋に入って寝ていた。テオはちょっと考え、それから少佐の真似をして声を上げた。

「起床!」

 ロホがバッと上体を起こした。ギャラガも体を起こそうとして、寝袋だったので動けずに転がった。テオは、ごめんよ、と言った。

「”シエロ”に不意打ちを食らわせられるって、滅多にないからな。」


第4部 悩み多き神々     7

  日付が変わってからデネロスは少佐の寝室へ去って行った。テーブルの上の食物は痛みやすい物を冷蔵庫に入れたが、あとはそのままだ。
 テオは結局客間に行かずにリビングのカーペットの上に横になった。ケツァル少佐はリビングにあまり装飾品を置いていないが、クッションだけは沢山あって、その一つを枕代わりに使った。見張りだと言いながらも、横にステファン大尉も寝転がった。2人で夜空ならぬ天井を見上げて並んでいた。カルロ、とテオは囁きかけた。ステファンが返事はしないで顔だけ彼の方へ向けた。

「少佐とは結婚しないのか?」

 ステファンが微かに笑った。

「彼女はもう私を弟としか見てくれません。事実そうですし。母もグラシエラも古い慣習には抵抗がある様です。週明けにイェンテ・グラダに行った時、私達の血が濃過ぎることを実感しました。血が濃すぎた為に、私達の親族は己を制御出来ずに皆殺しにされた。同じ轍を踏むことを、彼女は恐れているのです。それがわかった時、私も吹っ切れました。彼女を超える女性に出会えるか、それはまだわかりませんが、もう彼女を女として見るより、姉と上級将校と言う存在でしかないです。」

 そしてテオに釘を刺した。

「だからと言って、貴方が彼女を手に入れようとしたら、私が厳しい審査官になりますからね。兄弟が姉妹の婚姻相手を吟味するのは当然でしょう?」
「おっかないなぁ。」

 テオは天井を見上げて笑った。 

「そんな兄貴が家にいたから、グラシエラが雨季休暇の間仏頂面していたんだな。」
「ああ、グラシエラ・・・」

 ステファンは暗がりの中で顔を顰めた。

「少佐より彼女の方が心配です。オルガ・グランデのスラム街で鍛えられていると思いますが、グラダ・シティは色んな男がいますから。」

 テオはソファの上のアスルを起こさないよう気を遣いながら笑った。
 なんとなく、抱き枕が欲しくなってきた。だから言った。

「君を抱いて寝たいな。」
「え?」

 ステファンがギョッとなったので、彼はまた笑った。

「今の姿の君じゃない、ジャガーの君だよ。オルガ・グランデの坑道の中で君のナワルを抱き締めた時の、毛皮の手触りが素晴らしかったんだ。艶々で柔らかくて・・・君のナワルしか触ったことがないんだ。ロホは目で見ただけだったし、他の人のはまだ見たことがない。」
「煽てても変身しません。」

 ステファンが背中を向けてしまった。本気で眠るようだ。それで報告書が書けるのか?と思いつつも、テオも瞼を閉じた。

第4部 悩み多き神々     6

  アスルはソファの上に横になるとすぐに眠ってしまった。テオはデネロスとステファンと料理を摘みながら小一時間ほど世間話をして過ごした。デネロスはオクタカス遺跡の情報を知りたがり、偶然テオとステファンはそこで知り合ったので、どちらも遺跡の話を彼女に語って聞かせることが出来た。

「美術品と言う観点からすれば、そんなに高価な出土品はないが、歴史マニアやメソアメリカ文明マニアが欲しがるような石像や土器は多いかなぁ。」

とステファンが先日捕まえた遺跡荒らしを思い出しながら呟いた。

「年代が10世紀以降で新しいから、保存状態も悪くない。だから、盗掘者は素人のコレクターにもっと古い年代であるかのように告げて高値で売りつけるんだ。」
「監視に重点を置く場所はありますか?」
「やっぱり支配階級の住居と思われる場所だな。出て来る物が多い。」

 テオは2年前の見学で思い出した壁画を指摘した。

「その金持ちらしき住居跡に壁画があったんだ。色が残っていて、学者達が喜んでいた。剥がして修復したいと言っていたが、それは許可が出るのか?」
「ノ。」

とステファンとデネロスが声を合わせて否定した。

「修復するかしないかは、セルバ国立民族博物館が決めます。申請が通るまで、私達はその壁画に手を加えられないよう見張ります。」
「すると、ムリリョ博士次第?」
「博物館とグラダ大学の考古学者達が相談して決めるのです。壁画の傷み具合を調査しないとね。」
「国外持ち出しは禁止です。これはギリシアでもペルーでも、古代遺跡を管理する国では常識です。どうしてもセルバの技術では無理って言う場合のみ、外国の機関に依頼します。」
「そう言うことは、滅多にありませんがね。」

 遺跡の話をしている時のカルロ・ステファンは本当に楽しそうだ。カルロ、とテオは言った。

「遊撃班に所属したままで、遺跡関係の任務に就くことは出来ないのかなぁ?」
「遺跡関係の任務?」
「だから、チンケな遺跡泥棒相手じゃなく、大掛かりな盗掘と密売組織の捜査とか・・・ほら、ロザナ・ロハスの組織みたいなのを専門に扱う任務とか、さ。」

 するとデネロスがムッとして反論した。

「私達、チンケな泥棒ばかり追いかけている訳じゃないですよ。大掛かりな組織犯罪も捜査してます。」

 ステファンが苦笑しながら後輩の肩を持った。

「その通り、貴方が言ったことは、少佐のお仕事なんです。」
「そうか・・・」

 ステファンが文化保護担当部に戻って来られる道を見つけた様な気がしていたテオはガッカリした。

「遊撃班は色々な分野へ助っ人に行く仕事なので、勉強することも多いです。」

と大尉が言った。気がつくと、彼は海老ばかり食べていた。

「私は取り敢えず体験出来ることは全部体験したいと思っています。まだ上の階級に昇級するための覚悟が足りないと、先日副司令官からも姉からも言われましたし。」

 ケツァル少佐のことをサラリと「姉」と呼んだ。テオは気が付いたが、気づかないふりをした。

「私が少佐以上の階級に上がれば、必然的にケツァル少佐と同じ部署に配属される可能性は無くなります。一つの部署に指揮官が2人いることはありませんからね。だから・・・」

 ステファンはソファの上のアスルを見た。

「彼はロホと同じ部署にいたいが為に少尉のままでいる。ロホは少佐の部下のままでいたいから、中尉のままでいたい。文化保護担当部の男連中は甘えん坊ばかりです。」
「アンドレは上に行きますよ、きっと。」

とデネロスが言った。こちらは肉料理ばかり手をつけていたが、やっとデザートに入ったところだ。

「でも彼は色々ハンディがあるから、年数がかかると思います。だから彼は安心して修行に取り組んでいるのです。孫ができるまでに少佐になるんだって言ってました。」

 テオとステファンは思わず笑ってしまった。

「本当にアイツはそんなこと言ったのか?」
「何年かかるんだ? 20年もかけて少佐になるのか?」

 

 

2021/12/17

第4部 悩み多き神々     5

  テオはケツァル少佐の個室に初めて入った。デネロスが気を利かせて照明を点けてくれた。想像した通り、と言うか、予想以上に、と言うか、若い女性にしては質素な部屋だった。一応寝具がセッティングされているシングルベッド、その横にハンモックがぶら下がり、窓際の机の上にラップトップ、プリンター、キャビネットには書物とDVDが詰め込まれていたが、衣類はクローゼットの中に仕舞われているので他に何もない。壁には絵も時計もない。花も飾っていない。人形もない。本当に寝るためだけの部屋だ、とテオは思った。
 ハンモックは高さがあまりなかったので、デネロスに抑えてもらってそこに少佐を転がした。アパートの中では”ヴェルデ・シエロ”達は裸足なので、靴を脱がせる必要はなかった。ベッドの足元にデネロスのリュックが置かれていたので、彼女もこの部屋で寝るのだとわかった。

「まだ起きているのかい?」
「スィ。家政婦さんがタクシーに乗るのを見届けるよう、少佐に言われてます。」

 もしかすると少佐以上に飲んでいるかも知れないのに、彼女はまだ素面同然の顔をしていた。テオは携帯を出して時刻を見た。

「後片付けは俺達でやるから、カーラを帰してあげよう。」
「そうですね。最後のお料理も出ましたから。」

 少佐の寝室を出ると、丁度カルロ・ステファンがロホに肩を貸して客間へ歩いて来るところだった。ロホはもう半分眠りかけていた。

「おやおや、今日の堕落したインディヘナはロホの番かい?」

 ステファンが苦笑した。

「見張らなくても、ここの連中はみんなすぐ寝てしまいますがね。」

 テオは2人の為に客間のドアを開けてやった。客間にはベッドが2台あるが、ロホの他に誰が使うのだろう。階級から考えればステファンだが、彼は「見張り」だ。
 リビングに戻ると、デネロスが家政婦のカーラに帰り支度をさせていた。料理をいくらか持たせて帰らせるようだ。アスルは食べることに専念して、今夜はまだ飲んでいない。ギャラガが苦手なアスル先輩の相手を1人でしていた。テオが戻ったので、ホッとして、お手洗いに立った。ずっと我慢していたのか、とテオは可哀想に思えたが、笑ってしまった。
 ロホを寝かしつけたステファンも戻って来た。カーラが帰る前の挨拶をした。するとアスルが立ち上がった。デネロスに「君は座ってろ」と言って、彼女をアパートのロビー迄送って行く役目を引き受けた。
 ステファンが椅子に座り、残った料理を突きながら話しかけてきた。

「アリアナが結婚するそうですね。」
「スィ。いきなり帰って来て、いきなり結婚すると言うから、驚いた。」
「女性達は知っていた様ですが・・・」

 ステファンに睨まれて、デネロスがえへへと笑った。ステファンも結局表情をやわらげた。

「実は、ロペス少佐が結婚されることは知っていました。本部でも結構噂になっていたのです。あの通りの、堅物のイケメンですから、どんな女性が彼を落としたのだろうと、隊員達が色々憶測を立てていたんですよ。」
「彼とアリアナの取り合わせが予想外で、たまげたよ。」
「私は2人の結婚式には出られませんが、祝福していると伝えてください。」
「グラシャス。」

 これで、アリアナとステファンの関係は綺麗に途切れた。これから彼は、彼女の友人と言うより、友人の弟と言う立場になっていくだろう、とテオは予想した。
 ギャラガが戻って来た。彼は酒に強い方だが、昼間の疲れと主役と言う緊張で、酔いが回ってきた様だ。眠たそうな目になっていたので、ステファンが声をかけた。

「客間で寝てこい、アンドレ。後は私が片付ける。」
「しかし・・・」
「そう言う役目の仕事だ、今夜は。」
「では、ブエナス・ノチェス。」

 ギャラガは室内の人々に敬礼して、客間へ消えた。ステファンがテオに顔を向けて囁いた。

「酔っ払って、ジャガーに変身されては面倒ですから。」
「ああ、それで見張りが必要なのか。」

 テオは笑った。ジャガーより小さいオセロットのデネロスは、まだ飲めそうだ。だがお酒に飽きたのか、彼女も料理をつまみ始めた。
 アスルが戻って来た。彼は飲んでいないが、満腹になっていたので、やはり眠たそうな雰囲気だった。テオは彼に確認した。

「客間はロホとアンドレが使っている。君もあっちへ行くかい?」
「アンドレは寝袋だ。あいつはそう言うヤツだから。」

とアスルはぶっきらぼうに言い、付け加えた。

「残りのベッドはあんたが使うんだ。俺はここで良い。」

 ステファンが微笑して、目で少尉にソファを示した。

第4部 悩み多き神々     4

  テオがケツァル少佐のコンドミニアムに到着すると、家政婦のカーラが玄関のドアを開けてくれた。良い匂いが漂ってきて、テオのお腹が鳴った。カーラが可笑そうに笑った。
 リビングのテーブルの周りに集まり、銘々が好きな飲み物をグラスに注いで、アンドレ・ギャラガの合格祝いで乾杯した。この夜は、部下達を送り届ける必要がなかったので、ケツァル少佐も飲んだ。話題はやはり文化保護担当部らしく、遺跡泥棒の対策だった。と言っても、酒の席だから、真面目な会議ではなく、かなりふざけたアイデアを述べたり、盗んだ神像の呪いでボロボロになった泥棒の話とか、どこまでが真剣でどこまでがふざけているのか、何が冗談で何が真実なのか、よくわからない話が取り止めもなく続いた。それでテオはクイのミイラの話をして、それの出土場所がグラダ・シティ南部なのに、クイのDNAは北部の齧歯類の特徴を持っているのだと喋った。

「それはつまり、北部の村と南部の村の間に交易があったと言うことですね。」

とギャラガが一人前の考古学部学生の顔で言った。

「貢物かも知れないでしょ。」

とデネロスが言った。

「北部で南部の産物が出てこなかったら、南北の交易じゃなくて、南が北より強くて貢物を要求したのよ。」
「そうなんだ?」

 ギャラガが先輩デネロスの言葉に感心したので、みんなが大笑いした。

「北で南の産物が出土していないからと言って、それが南北に優劣があった理由にはならないさ。」

 ロホがデネロスの出鱈目な学説を批判した。勿論デネロスは後輩を揶揄ったのだ。テオはアスルがカーラにまとわりつくようにして料理の学習をしているのを見物していた。手伝いもしているから、カーラは煩がらずに彼の相手をしていた。少佐は自分で色々とカクテルを作っては試すという遊びをやっていた。彼女が作るカクテルをデネロスは勝手に取って飲んでいる。かなりの大酒飲みだ。ビール派のロホは時々強い酒が入ったカクテルをデネロスに飲まされそうになって困っていた。
 チャイムが鳴った。少佐が携帯を出して、コンドミニアムの入り口に来た客を見た。そして無言で開扉のボタンを押した。テオがその動作に気が付いたが、彼女が何も言わないので、訪問者が誰なのか訊かなかった。
 数分後、玄関のチャイムが鳴り、カーラが応対に出た。玄関で彼女の嬉しそうな声がして、やがて廊下からカルロ・ステファンが現れた。真っ先に反応したのは、いつもと同じくデネロスだった。パッと席を立って、大尉に飛びついた。子供の様にキスを浴びせる彼女をなんとか宥めて、ステファンは最初に家の主人であるケツァル少佐に挨拶した。そしてパーティーの主役であるギャラガに祝辞を述べた。

「休暇かい?」

とテオが尋ねた。ステファンは残りの仲間にも挨拶をしてから、ノ、と答えた。

「任務です。今夜は文化保護担当部が荒れるかも知れないから、羽目を外さないように見張れと副指令から命じられました。」
「それって、君は飲むなってことか?」

 ステファンが悲しそうに頷いたので、ロホとアスルが笑った。

「なんの罰なんだ、カルロ?」

 ロホがその夜6本目のビールを空けながら笑った。ステファン大尉は肩をすくめた。

「少佐はご存じだ。」

 ケツァル少佐はフンと鼻先で笑って、ソファの自分の隣を掌で軽く叩いた。そこに座れと命令したのだ。ステファンが素直に座ると、彼女は彼にもたれかかった。

「かなり飲んでますね?」

 ステファンはテオをちょっと睨んだ。しっかり見張っていろよ、と目で訴えてきたので、テオはおかしかった。

「俺は彼女の保護者じゃないぜ。」
「でも貴方の言うことを一番よく聞きます。」

 ロホとデネロスがケラケラ笑い、ギャラガは酔っ払った上官達をどう扱って良いものか、困っていた。まだそんなに飲んでいなかったアスルが、最後の料理を並べ終わると、自分の席に着いて猛然と食べ始めた。

「飲めないのなら、たらふく食ってくれ、大尉。」
「そうしたいが、動けない・・・」

 ケツァル少佐が体重をかけてもたれかかっているので、ステファンは困ってしまった。テオは少佐が落ちかけていることに気が付いた。強い筈の彼女だが、自作のカクテルを飲み過ぎて酔いが回ったのだ。

「テオ、お願いします。」

 ロホに頼まれて、テオは「なんで俺が?」と思いつつ、椅子から離れ、ステファンの前に行った。

「こんな無防備な少佐を見るのは初めてだ。」
「全員が揃っているからです。」

とステファンが言った。

「安心しているんですよ。」

 彼はテオが姉を抱き上げるのを手伝った。デネロスが立ち上がった。少佐を抱き上げたテオを寝室へ案内した。後ろでステファンがとんでもない助言をくれた。

「添い寝はOKですが、それ以上進まないで下さい。」


第4部 悩み多き神々     3

  テオは文化・教育省には寄らずに真っ直ぐ自宅へ車で帰り、車と仕事用鞄を置き、服も気軽な普段着に替えてから、歩いてケツァル少佐のコンドミニアムへ向かった。時間はかかるが、隊員達は酒類の買い物をしてから集まるので、遅くなることはない。少佐は上客用の高いお酒をストックしているが、普段飲みのお酒はその都度買う主義なので、部下達は自分が飲みたいものを自前で購入して持ち寄る。その方が気兼ねなく飲めるのだ。テオもワインとギャラガにお祝いのプレゼントとして買った万年筆の箱を持っていた。今時万年筆かと思えたが、格式ばった書類に署名する時必要だと少佐が言ったのだ。
 歩いていると、後ろから来た車がクラクションを鳴らした。路肩に身を寄せると、車が横に停車した。

「ドクトル・アルスト?」

と窓を開いて運転者が声を掛けてきた。振り返ると、暗がりの中で憲兵の制服を着た男が見えた。声と風貌に見覚えがあった。

「ムンギア中尉!」
「ブエナス・ノチェス。」

 ロカ・ブランカの漂流者の事件で知り合った憲兵だ。

「このご近所にお住まいですか、ドクトル?」
「スィ。君もかい?」
「スィ。今週は泊まり込みなので着替えを取りに家に帰って、今は基地への戻りです。」

 マカレオ通りは、軍人や省庁関係者の中間職に就いている人が多く住んでいる。その程度の給料で住めるそれなりの住宅地なのだ。
 中尉がテオの手に掴まれているワインの瓶を見た。

「お友達の家にお呼ばれですか?」
「スィ。ちょっとした食事会だ。」
「どちらまで?」
「西サン・ペドロ通り1丁目第4筋・・・」
「ひゃあ、一等地じゃないですか!」
「友達がね。」

 中尉が助手席を指した。

「登り坂でしょう。よければ送って行きますよ。時間はありますから。」
「グラシャス。」

 この手の親切を断る理由はない。ムンギア中尉は気の良い男だ。テオは勧められるまま車に乗った。
 走り出してすぐに中尉が尋ねた。

「例のアメリカ人はどうなりました?」
「知らないんだ。」

 実際、テオはエルネスト・ゲイルがあれからどうなったのか、教えられていなかった。生きているのか死んだのか、まだセルバにいるのか、国外に出されたのか、全く情報が来なかった。

「外務省のあの少佐とは知り合いだけど、仕事の内容を教えてもらえる程親しくないんだ。」
「そうですか。」

 ムンギア中尉はがっかりした様子だった。

「うちの大佐に訊いても、もう終わったことだと言うばかりで、何もわからないんです。軍ではこんな場合、深入りしてはいけないんですけどね。」
「個人的に気になるんだな。」
「スィ。でも、貴方もご存じないのでしたら、私も忘れましょう。」

 それがセルバ流だ。

「その方がいいね。大統領警護隊が絡んでいるから、適当に処理して仕舞えば良いさ。」
「アメリカには変なものを流さないで欲しいですね。」

 エルネスト・ゲイルは「変なもの」か。 テオは笑ってしまった。


 


2021/12/16

第4部 悩み多き神々     2

  シークエンシングによってクイのミイラから遺伝子配列を決定させ、さらにクイの体内から採取した微生物も分析した。それから現代のクイのものを比較して、ミイラの出所がグラダ・シティの北にある東海岸北部地方と推定した。
 結果が出たのが夕方だったので、テオは結果だけケサダ教授のアドレスにメールしておいた。分析表は月曜日に渡します、と断り書きを付けて。
 ミイラの分析で時間がかかってしまったので、アスルとテオのDNAを調べる暇がなくなり、彼は研究室内を片付けて冷蔵庫に鍵を掛けた。冷蔵庫の中には他にも生体細胞のサンプルが色々と入っており、お金にならないが研究には必要な物ばかりだ。
 自然科学の学舎を出て駐車場へ向かっていると、人文学の学舎前でムリリョ博士とケサダ教授が立ち話をしていた。教授が博士に携帯の画面を見せて何か言うと、博士は仏頂面をますます強張らせて短く何か言った。ケサダ教授が首を振り、博士は話にならんと言うジェスチャーをして駐車場に向かって歩き始めた。教授は空を仰ぎ見て、何かを呪った様に見えた。
 テオはケサダ教授のそばへ行った。いかにもただ通りかかったと言うふりをして声を掛けた。

「先程の人はムリリョ博士ですね。大学に顔を見せるのは3ヶ月ぶりなのでは?」

 ケサダ教授は不機嫌な声で応えた。

「3ヶ月と13日ぶりです。」
「なんだか不機嫌でしたね。」
「新しい博物館の間取りでお気に召さない場所があるのです。」

 そう言えば、セルバ国立民族博物館は建て替え中だった。外側は完成して、内部の工事をしているところだった。展示室の形で意見が食い違ったのだろう。

「壁を可動式にされては?」

とテオが提案してみると、教授は肩をすくめた。

「それがお気に召さないのです。先祖の霊が落ち着かない、と。しかし予算も組んでしまっているし。」
「大学と博物館は共同で建て替えに携わっているのですか?」
「スィ。最終決定は教授会だけでなく、他の考古学研究機関も参加して行います。だから私に博士が腹を立てられても、意味はないのです。博士も理解していらっしゃるが、誰かに怒りたいのですよ。」

 八つ当たりか。テオは「大変ですね」としか言いようがなかった。それから、クイの分析結果が出たので、メールしておいたと告げた。グラシャスと言ってから、教授が尋ねた。

「費用は如何程ですか?」
「ランチ一回分で結構です。」

とテオは言った。ケサダ教授は良識のある人だったので、首を振った。

「もっとかかっているでしょう。現実的な金額を週明けに報告して下さい。私ではなく考古学部が払うのですから、遠慮なさる必要はありません。」
「グラシャス。」

 テオは教授とランチを一緒にして何とか彼の細胞サンプルを手に入れようと企んだのだが、無駄だった。教授は、「ではまた来週」と言って去って行った。

 

第4部 悩み多き神々     1

  その夜、アスルはテオが寝る迄戻って来なかった。気まぐれな男なので、テオは気にしなかった。それに朝起きたら、ちゃんと朝食の準備が出来ていて、アスルが遅刻しそうだとバタバタ出勤準備しているのを目撃してしまった。

「遅れる心配があるなら、朝飯を簡単にしても良かったのに。」

とテオが言うと、彼は返事をせずにリュックを掴んで外へ出て行った。同じマカレオ通りの北部に住んでいる先輩のロホがビートルで拾ってくれるのだ。ロホは真面目だから毎朝定刻にやって来る。アスルが家の外に立っていないと通り過ぎるので、アスルはバスに乗るのを良しとしなければ歩いて行くしかない。夕方はテオの車に便乗する。
 テオは食事を終えると、アスルの分も食器を洗い、身支度して大学へ出勤した。金曜日だ。夜はアンドレ・ギャラガの大学合格祝いの宴会がある。レストランを予約しようかとロホが提案したら、少佐が「うちで飲みましょう」と言ったので、少佐のコンドミニアムが会場だ。料理は、家政婦のカーラが腕を振るってくれるから、味は間違いない。少佐は本部の官舎に早速デネロスとギャラガが外泊することを事前連絡してくれた。名目上「軍事訓練の準備で徹夜」だ。
 彼女はアリアナも誘ってくれたのだが、アリアナは婚約者と新居を見に行って、それから彼氏の父親と食事をするのだと言った。デネロスが腕組みした。

「アリアナのお祝いもしないといけないんだけど、ロペス少佐が来るかなぁ・・・?」
「ロペス抜きでやれば?」

と冷たい少佐。えー、でも、とデネロス。

「酔い潰れるロペス少佐を見たいじゃないですか!」

 その話をロホから聞いた時、テオは大笑いしてしまった。純血種のインディヘナはあまりアルコールに強くない。ロホも飲むとやたらとハイになってしまうし、アスルはすぐ眠ってしまう。どちらかと言えばミックス達の方がお酒に強い。シーロ・ロペス少佐は純血種のブーカ族だ。そして素面の時は、石像のような堅物だ。
 堅物でも、アリアナをしっかり守って愛してくれるなら、いいじゃないか。アリアナも彼に夢中になっているし。テオは悔しいがちょっと妬けた。
 夜の予定をワクワクしながら想像していると、講義も軽快に喋ってしまう。学生達は、「またアルスト先生は大統領警護隊と遊びに行くんだな」と予想して、クスクス笑った。
 お昼になった。シエスタを終えたらアスルと己のDNAを分析しよう、とテオは思いつつ、大学のカフェに行った。ケサダ教授が考古学部の学生達と集まってランチをしているのが見えた。こんな場合は中に割り込めない。遺跡発掘の相談をしていることが多いからだ。テオはクイのミイラの分析がまだだったことを思い出した。シエスタが終わったらいの一番に手をつけなければ。今夜祝ってもらうアンドレ・ギャラガも考古学部の学生になるのだが、通信制なので発掘に参加出来ない。参加しようと思ったら、後期まで待たなければ参加資格がもらえない。尤も仕事が発掘の監視をする部署なので、そのうち嫌でも遺跡発掘現場へ行かされるだろう。
 テオが料理を取って、どこに座ろうかとキョロキョロしていると、手を振る女性がいた。宗教学部のノエミ・トロ・ウリベ教授だった。ふっくらとした、典型的な「昔の」セルバ美人だ。ギュッと抱きしめたりしないよな、と思いつつそばへ行った。ウリベ教授は正面の席を指差した。

「お座りなさいな。私は直にいなくなりますから。」

 彼女はほとんど空になった皿を前にして、コーヒーを楽しんでいた。テオはグラシャスと感謝して、お言葉に甘えた。

「雨季休暇明けの週は流石に学生が多いわね。」

とウリベ教授が言った。テオは同意した。

「新学期のスタートですからね。学生達が一番張り切っている週ですよ。」
「地方から来た学生が一番張り切っているわね。私も彼等から民族文化の新しい情報を得られるから、この時期はぼーっとしていられないのよ。若者の宗教みたいなものを教えてもらうの。」

 教授はアハハと豪快に笑った。そう言えば、とテオは教授を見た。

「教授はどちらのご出身ですか?」
「私?」

 ウリベ教授がニコッとした。

「こう見えても、グラダ・シティっ子なのよ。田舎者ぽいでしょうけど。」

そしてまたアハハと笑った。テオはその流れでさりげなく尋ねた。

「ケサダ教授もダンディですから、グラダ・シティ生まれなんでしょうね。」
「ノ。」

 意外に速攻でウリベ教授が否定した。

「彼はオルガ・グランデ生まれよ。10代まであっちで育ったの。言葉でわかるわ。だから私が指摘したら素直に認めたわよ。お父さんがこちらの人なのですって。育て親の伯父さんが亡くなったので、お母さんと一緒にお父さんを頼って都会に出て来たって言ってたわ。」

 それが真実だとしたら、とテオは思った。ケサダ教授のお父さんって誰だ?




第11部  紅い水晶     9

 ”ヴェルデ・シエロ”と付き合うと、その物事への周りくどい対処の仕方や、やたらと遠回しな表現とかで苛々させられることが度々ある。ケツァル少佐は生粋の”ヴェルデ・シエロ”で、生まれながら大ピラミッドのママコナ(巫女)からテレパシーで一族の作法を教わったが、育て親は殆ど普通の人間に等...