2023/02/26

第9部 セルバのアメリカ人      12

  マイロがカフェ・デ・オラスを出て間も無く携帯に電話がかかって来た。画面を見るとアダン・モンロイだった。

ーー今何処にいる?
「文化・教育省の前だ。」
ーー予定がなければ、今夜一緒に飯を食わないか?

 有り難かった。孤独感を覚えかけていたマイロはそのお誘いに乗った。モンロイはマイロが何度か連れて行かれたバルを指定し、半時間後に2人はそこのカウンターで出会った。
 ビールで乾杯して、モンロイは役所に何の用事があったのかと尋ねた。

「役所じゃないんだ、下のカフェで生物学部のドクトル・アルストと会っていた。」
「研究の話かい?」
「ノ、今朝初めて会って、ランチに誘われたんだが、僕はすっぽかしてしまって。」

 あれ?とマイロは思った。どうしてすっぽかしてしまったのだろう。理由を思い出そうとしたが、思い出せなかった。モンロイがのんびり尋ねた。

「ランチって、キャンパス内のカフェで?」
「スィ。彼は学生達と野外活動した後で・・・」

 モンロイが朗らかに笑った。

「それじゃ、別にすっぽかしても誰も怒らない。教授同士のランチだったら、失礼になるだろうけど、学生達と教師が一緒のランチは誰でも参加OK、勝手にドタキャンOKさ。君が参加しようがしまいが、アルストは気がつかなかっただろうし。」
「そんなものなのか?」
「そんなもの、セルバ流だ。」
「だが、アルストはアメリカ人だ。」
「元、だよ、彼は僕等以上にセルバ人になりきっている。」

 モンロイは愉快そうだ。

「それで、さっき彼に謝っていたのか?」
「そうなんだ・・・」

 謝罪の他にも何か喋った様な気がするのだが、マイロはそれも思い出せなかった。モンロイがチラリとバルの壁の時計を見た。

「この時刻だったら、役所は閉庁だな。ドクトル・アルストは1人だったかい?」
「スィ、彼は1人だった。」

 他に誰かいたっけ?マイロは何か記憶の一部が欠落している感が拭えなかったが、やはり思い出せなかった。モンロイは彼に視線を戻した。

「閉庁時間にあの店にいたんだったら、ドクトルはロス・パハロス・ヴェルデスと一緒だったと思うがな?」
「ノ、誰も来なかったぞ。」

 僕はずっとドクトル・アルストと2人で喋っていた。マイロはそう信じていた。モンロイはそれ以上突っ込まなかった。彼が店を変えようと提案したので、マイロはその前にトイレを借りると言って、店の奥に向かった。モンロイは携帯を取り出し、メールを打った。

ーー彼は全て忘れている。

 速攻で返信が来た。

ーー了解。

 モンロイはその遣り取りを削除した。

 行きつけのバルに入った大統領警護隊文化保護担当部の隊員達とテオドール・アルストはテーブル席に陣取った。ロホの携帯にメールが着信したので、ロホは素早く返信して、その遣り取りを削除した。そして上官に報告した。

「彼は忘れたそうです。」
「何を?」

とテオが無邪気に質問した。少佐が彼に説明した。

「貴方が通話をオンにしてさっきの男性との会話を私に聞かせてくれたでしょう?」
「スィ。彼の方から俺に面会を求めて来たので、どんな内容なのか不安になってね。案の定彼は大使館の人間に接触されていた。」
「ダニエル・ウィルソンに関しては、遊撃班が対処してくれます。私はカフェで彼が私達と会ったことを忘れさせたのです。大使館が彼に接触しなければ、放置出来たのですけど。」
「俺はウィルソンとやらが彼に言ったことを不愉快に感じたけど、彼も俺の過去に不審を抱いただろうからな・・・忘れてくれた方が、今後も彼と話を交わしやすいよ。」

 テオはロホを見た。

「彼の周囲に監視を置いているのかい?」
「特に彼を対象にしている訳ではありません。”砂の民”に情報収集係として仕える古の子孫がいるように、我が警護隊にもそう言う役目の人がいます。何か一族に関わることがあれば細やかに報告してくれる奇特なボランティアです。そのうちの1人がたまたま彼と友達になったと言うだけです。」
「細やかに?」
「スィ。彼が普段と違う行動を取ったら、教えてくれる。そして、これもたまたまですが、その人の窓口が私なのです。」

 すると、アスルが言った。

「アメリカの政府機関から来た医者だからな、遊撃班も監視している。マーゲイは彼にナワルを見られたらしい。ロホの情報提供者が野良猫だと誤魔化してくれたそうだが。」
「もしかして、マイロがオルガ・グランデから帰る道中に車に乗せた太平洋警備室の隊員も、彼を監視するのが役目だった?」
「恐らく本部からの指示でしょう。だから航空機を飛べなくしたのも太平洋警備室の仕事ですよ。ただあの監視はマイロを警戒すると言うより強盗や山賊から警護する意味もあったでしょうね。」
「あの人は良い人です。楽しい思い出だけを持って帰国して欲しいです。」

とアンドレ・ギャラガが言って微笑んだ。




2023/02/25

第9部 セルバのアメリカ人      11

  大統領警護隊の隊員達が全員立ち上がった。テオドール・アルストも立ち上がった。マイロは入り口の方向を見て、やはり立ち上がった。近づいて来るのが上官だからではなく、先住民の美女だったからだ。先に来ていた4人の隊員より年長だろうがまだ若い。そして歩き方が堂々として力と自信に満ち溢れているように見えた。まるで雌のライオンが近づいて来る様だ。否、ここは中米だ。彼女は雌のジャガーだ。
 部下達が敬礼で迎え、彼女も敬礼で返した。ほんの一瞬だ。他の客が気付く暇もない程に。アルストは優しい笑みで彼女を迎えた。

「お疲れ!」
「グラシャス。」

 彼はマイロを手で指して彼女に紹介した。

「グラダ大学医学部微生物研究室のアーノルド・マイロ博士だ。ドクトル、こちらは大統領警護隊文化保護担当部指揮官ミゲール少佐です。」
「初めまして。」
「初めまして。」

 少佐も握手をしてくれなかった。彼女はアルストの隣に座り、彼女が座ったので隣のテーブルの部下達も座った。

「彼はシャーガス病の予防を研究しているんだ。」

とアルストが彼女に説明した。

「俺は今朝初めて彼に会ったんだが、その時にうっかり彼の専門を無視して治療薬の開発をしてくれと的外れな要求をして、彼を困らせてしまった。」
「いいえ、困ってなどいませんよ。」

 マイロは苦笑した。

「ただ現場が求めていることに僕の研究がすぐに役に立てないのがもどかしいと言うだけです。」
「私には科学の難しい話は分かりません。」

と少佐が言った。

「でも時間がかかると言うことは知っています。貴方の研究がいつか実を結ぶ日が来ることを願っています。」

 隣のテーブルで2人の先住民の部下達が相談を始めた。夕食をどの店で取ろうかと言う内容だ。魚が良いとか、カーラが休みとか、そんな言葉が聞こえたが、マイロを誘う提案は出なかった。
 マイロはそろそろ退散した方が良さそうだと感じた。相手は軍人で、先住民で、そこにアメリカ政府から良くない心象を持たれている元アメリカ人が加わったグループだ。
 マイロは腰を上げた。

「僕は寮へ帰ります。」
「そうですか、お気をつけて・・・」

 アルストが立ち上がって握手してくれたが、引き留めなかった。マイロは座ったままの女性軍人を見た。彼女が顔を上げて彼の目を見た。


第9部 セルバのアメリカ人      10

  大統領警護隊と名乗ったからには、彼等は全員軍人なのだ。しかしマイロの目の前にいる若者達はTシャツにデニムパンツと言うラフな姿だった。ただ庶民と違うのは、彼等は薄手であるがジャケットを着ており、その下にホルダーに収まった拳銃を装備していたことだ。
 セルバの軍人らしく彼等はマイロと握手してくれなかった。そして隣のテーブルに腰を落ち着けた。彼等が注文を始めたので、マイロは仕方なく席に腰を下ろした。アルストがクスッと笑った。

「まだセルバの習慣に慣れていないんでしょう?」
「そうです。助手から度々注意されますが、どうしても挨拶に握手をするものだと体が動いてしまう・・・」
「親しくなれば握手してもらえます。」

 ギャラガと目が合った。少尉が質問してきた。

「もう強盗事件のショックは無くなりましたか?」
「有り難う、山の様な報告書と事情説明と電話でくたびれましたがね。」

 だが別のショックを今経験したところだ。

「君は軍人だったんですね。てっきり学生かと思って・・・」
「学生です。通信制ですが。軍人と二足草鞋と言うより、軍務に必要なので勉強しています。」
「文化保護担当部は考古学の履修が必要なんですよ。」

とデネロス少尉が教えてくれた。

「私達は、我が国の文化遺産を守ることが任務です。遺跡発掘申請の審査や盗掘から遺跡を守る仕事をしています。だから普段はこんな格好でオフィスにいます。」

 彼女は楽しそうに笑った。彼女の2人の上官はマイロに関心なさそうで、それぞれ携帯の画面を眺めていた。

「普段着で勤務出来るんですね。」

とマイロはオルガ・グランデから帰る時に同乗させた若い軍人を思い出して言った。

「西からこちらへ帰って来る時に、頼まれて大統領警護隊の隊員を1人車に乗せました。彼は軍服を着ていたなぁ。」

 へぇっとアルストが反応した。

「頼まれて?」
「スィ、太平洋警備室とか言う部署から本部へ出かけるとか何とかで、その時に飛行機が飛べなかったんです。それでホテルを出る時に声をかけて来て・・・」

 そこで初めてマイロは重大な謎に気がついた。

「どうして彼は僕がグラダ・シティに帰るって知ったんだろう? ホテルの前で待っていたかの様な・・・」

 彼はドキリとした。カフェ・デ・オラスにいる4人の大統領警護隊の隊員達が無言で彼を見たからだ。
 テオドール・アルストがその沈黙を破った。

「その隊員の名前は?」
「ブラス・オルニト少尉。」
「誰か知ってるか?」

 アルストの問いに、クワコ中尉が頷いた。

「アスクラカン出身の警備班のヤツだ。以前時々サッカーの練習に来ていたが、最近顔を見ないと思ったら、太平洋警備室に転属していたのか。」
「良い人ですね。アスクラカンで実家に泊めてくれました。強盗に僕は所持金を盗られたので、助かりましたよ。」
「ガソリン代は出さなかったでしょ? その代わりの親切よ。」

とデネロス少尉が笑った。
 するとマルティネス大尉が入り口に目を遣って呟いた。

「おっ、やっと指揮官殿がお出ましだ。」


第9部 セルバのアメリカ人      9

  そのまま時間が経つのを忘れてマイロはアルストと互いの研究の話を語り合った。話しながら、マイロはアルストが非常に頭脳明晰だと気がついた。専門用語は殆ど説明が不要なのだ。医学の知識はあまりないと言いながら、アルストは一度聞いたことを忘れないし、聞き返しもしない。マイロが行った実験や分析もその工程や目的を忽ち理解した。そして何が問題点なのかも聞くだけで分析して指摘してくれた。マイロは説明していたつもりが、いつの間にか教わる立場になっている己に気がついた。

 この人は本当に政府の重要な研究機関に居たに違いない。だから外国人と恋愛して外国に移住することを政府は警戒し、阻止しようとしたのだろう。そして今も警戒されているんだ。

 原虫の遺伝子の話を終える頃に、アルストが視線を店の入り口へ向け、ニッコリした。

「やっと俺の連れ達が勤務を終えた様です。」

 マイロが振り返ると、若い男女が店に入って来るところだった。その一人は彼が知っている顔だった。

「あの彼は、考古学の学生のアンドレ・ギャラガ君じゃなかったですか?」
「スィ、俺の友人のアンドレです。」
「オルガ・グランデで僕が強盗に遭った時に、助けてくれた考古学者のチームにいましたよ。彼にも世話になりました。」
「存じています。彼から聞きました。」

 新しい客の一団はアルストを見つけると近づいて来た。先住民の男性2名とメスティーソの女性1名、それに白人に見えるギャラガだ。アルストが片手を挙げて、「ヤァ」と挨拶した。女性が足早に近寄って来た。

「今日は、テオ。どうしたんです、今日は素敵な連れがいるんですね!」

 陽気に目を輝かせて視線を向けて来たので、マイロはドキドキした。すごく可愛い女性だ。彼は思わず立ち上がった。

「アーノルド・マイロ、グラダ大学医学部微生物研究室で研究しています。アメリカの国立感染症センターから出向して来ています。専門はシャーガス病の予防対策の研究です。」
「お医者さんですか?」
「医師免許を持っていますが、臨床医ではありません。研究専門です。」

 女性の後ろで一番身長が高い男性が咳払いした。とても綺麗な顔立ちの先住民の男だ。女性がペロッと舌を出した。

「いけない! あの、こちらは・・・」

 彼女が後ろを振り返った。

「上官のマルティネス大尉です。それから・・・」

 マルティネス中尉の隣の少し背が低い男性を指して、

「上官のクワコ中尉、それからこっちは・・・」

 ギャラガを指した。

「後輩のギャラガ少尉です。私はデネロス少尉です。よろしく!」

 アルストが笑った。

「マハルダ、何か忘れているぞ。」
「え? あ!」

 デネロス少尉はそそっかしいのだろう、バツが悪そうに言い足した。

「私達は、大統領警護隊文化保護担当部です。それでぇ・・・指揮官は後から来ます。」


 

2023/02/22

第9部 セルバのアメリカ人      8

  テオドール・アルストはカフェ・デ・オラスのテーブル席でグラスに入った冷たいグァバジュースを前に本を広げていた。かなり前に着いた様だ。マイロが声をかけると、座ったままで向かいの席を手で示した。

「昼間はランチに行けなくて申し訳ありませんでした。」

とマイロは謝罪した。アルストは肩をすくめた。

「こちらがいつもの作業の流れに貴方を誘っただけです、気になさらぬよう。」
「実は、この店でランチを食べたんです。」

 マイロは昼間の不愉快な体験を思い出しながら言った。

「正直に申せば、今朝貴方にシャーガス病の治療法を研究して欲しいと言われて動揺しました。僕の専門は防疫の方なので・・・」
「ああ・・・」

 アルストが申し訳なさそうな表情になった。

「すると俺は貴方に的外れな要求をしてしまった訳ですね。」
「お互いに初対面でしたから、僕の専門分野が何なのか貴方がご存知なかったのは、仕方がありません。ただ、その時はちょっとモヤモヤした気分になって、貴方のお誘いを蹴ってしまったんです。だが・・・」

 マイロはちょっと急いだ。今の会見がその件に関することだと誤解されたくなかった。目的は別にあるのだ。

「僕が貴方にもう一度お会いしたいと思ったのは、その件ではないんです。」

 彼は無意識にテーブルの周囲に目を配った。店内の客は昼時と違って、早い時間に仕事を終えてのんびりしている年配者が多かった。オフィス街のカフェの多くは夕刻には閉まるので、その日最後のお茶を楽しんでいる雰囲気が漂っていた。

「昼飯を食べる店を探して歩いている時に、アメリカ大使館の人間に声をかけられて、この店に誘われたんです。」
「大使館の人間?」
「ダニエル・ウィルソンと名乗り、身分証も見せられました。」

 マイロはアルストの表情を伺ったが、相手は聞き覚えのない名前を聞いたと言う顔をしただけだった。

「最初は、僕が先日オルガ・グランデで強盗被害に遭った件で声をかけて来たのかと思いました。しかし道で偶然出会ってそんな話をする筈はないでしょう。」
「偶然ではなかったのですか。」
「多分、大学から尾行して来たのだと思われます。彼は僕が貴方に会ったことを確認して来ました。」

 アルストの顔から人懐こい表情が消えた。真面目な顔で彼はマイロを見た。

「俺はあまり本国の政府から好かれていないんです。理由は言えない。申し訳ないが、理由を聞けば貴方も本国に帰れなくなる可能性があります。」

 マイロは戸惑った。

「それはどう言う・・・」
「医学部で俺の話をどうお聞きになったか知りませんが、俺はアメリカからの留学生や客員講師達から出来るだけ距離を置いています。彼等に迷惑をかけたくないのでね。」
「何故です?」

 マイロはテーブルの上に身を傾けた。

「ウィルソンは、貴方が僕にセルバへの帰化を誘っても話に乗るなと言いましたが・・・」

 アルストがクスッと笑った。

「そんなことを言いましたか、アイツらは・・・」
「アイツら?」
「俺が怒らせた連中です。俺がセルバに帰化したのは、愛する人々と一緒に暮らしたかったと言うだけの理由です。しかし、連中はそう受け取らなかった。俺が祖国を裏切って祖国に不利な情報をセルバ政府に流したと思い込んでいるんですよ。」

 マイロは暫くアルストの顔を見つめた。遺伝子分析に非常に優秀な才能を持っているのに無名の学者・・・もしかすると、政府関連の施設で働いていて、国家機密を扱う仕事をしていたにも関わらず、外国人と恋に落ちて国外に出てしまったと言うことなのか? 
 そう言えば、アルストの助手が言っていたな、「奥様が軍人なので」と。アルストは国家機密を扱える部署にいたが、セルバ共和国の軍人と恋に堕ちて亡命したのか?

「安心して下さい、俺は貴方を誘うと言う気はありません。貴方が勝手にセルバを気に入って、住み着きたいと思われるのは勝手ですけどね。」

 アルストがウィンクした。マイロは思った。恐らくアルストに近づくアメリカ人は大使館から似たような忠告を受けているのだろう。祖国を裏切った男と親しくするな、と。
 マイロはアルストに尋ねた。

「ドクトル、貴方は今幸せですか?」

 アルストが微笑んだ。そして力強く答えた。

「スィ!」


第9部 セルバのアメリカ人      7

  マイロは学舎の建物から出る途中、生物学部の受付事務所を見つけた。目立たないドアの部屋だが、内と外に向けた窓があり、中で事務員が2人、午後の休憩をしているのが見えた。一人はイヤフォンを付けて音楽を聴きながら雑誌を読み、もう1人はパソコンで何かの動画を見ていた。マイロが窓枠を叩くと、パソコンの前の事務員が顔を上げた。

「シエスタですよ。」
「知ってる、申し訳ない。ドクトル・アルストの携帯電話の番号を教えてもらえないだろうか?」

 マイロは己のI Dカードを提示して大学職員であることを示した。事務員がチラッとそれを見た。

「お急ぎですか?」
「面会を希望なんだ。出来れば早いうちに・・・」

 すると事務員が己の携帯を出して何かを打ち込んだ。そしてマイロに顔を向けた。

「メールを入れておきました。あの先生は数分後には返事をくれます。その辺でお待ち下さい。」

 かなり長閑な対応だ。仕方なくマイロは反対側の壁にもたれかかり、携帯で学内ニュースを眺めた。殆どが講義の予定変更や休講のお知らせだった。大学内で大きな事件があった様子はない。考古学関係では、カブラロカ遺跡発掘チームが来週半ばにグラダ・シティに帰って来る予定、とだけあった。何処のどんな遺跡なのかマイロには想像もつかなかった。頭に浮かんだのは、真っ暗な地下墓地のミイラ・・・彼は頭を振った。あんな物は早く忘れてしまおう。
 ピロンっと可愛らしいメロディが聞こえ、事務員が携帯を覗いた。彼がこちらを振り向いたので、マイロは窓に近づいた。事務員が言った。

「午後4時にカフェ・デ・オラスに行けますか?」
「大丈夫です。」
「では、そう返信しておきます。」

 アルストのメアドや電話番号を教えてくれる気配はなかった。
 マイロは礼を言って、医学部へ戻った。自身の研究室に入ると、ホアン・チャパの書き置きが机の上にあった。急用が出来たので早退する、とあった。ふと気がついて携帯を見ると、同じ内容のメールが入っていた。マイロから返事がなかったので、置き手紙だ。何となくチャパの急用の中身に察しがついた。あの若者は今恋愛中で、オルガ・グランデ旅行の間メールも電話もしなかったので、彼女がむくれてしまい、現在彼は彼女の機嫌取りに忙しいのだ。彼女から勉強を教えてくれとか、食事に行こうと誘いがあると、慌てて出かけてしまう。医者になりたいのか、彼女と一緒にいたいだけなのか、どっちなんだとマイロは呆れていた。
 仕事をする気分になれず、マイロは寮に戻った。シャワーを浴び、服を着替えた。それで時間を潰し、そろそろ出かけようと思って部屋から出ると、アダン・モンロイと出会った。向こうは帰って来たところだった。

「出かけるのかい?」
「スィ。ちょっと人と会う。仕事の話だ。」

 言い訳しなくても良いのに、そう言った。チャパの影響か? モンロイが「また虫か?」と聞いたので、笑って返した。

「ノ、これから会う人は昼間カエルを獲っていた。」
「へ?」

 キョトンとするモンロイの肩を叩いて、マイロは寮を出た。


2023/02/21

第9部 セルバのアメリカ人      6

  マイロは何だか不愉快な気分になった。カフェ・デ・オラスを出ると、通りを見回した。ダニエル・ウィルソンの姿はどこにもなかった。マイロは大学に戻った。しかし医学部には行かずに、生物学部の学舎に向かった。テオドール・アルストの研究室は2階にあり、ドアの間隔から想像すると、他の部屋より面積が広そうだった。もうアルストは部屋に戻っているだろうか、それともキャンパスのカフェでまだ学生達と喋っているのだろうか。マイロはドアをノックした。男の声が応えた。

「誰方?」
「医学部のマイロです。」

 ドアが開かれた。鍵は掛かっていなかった様だ。ドアを開けたのは、メスティーソの若い男だった。彼はマイロより背が低かったので、ちょっと見上げる感じで言った。

「ドクトル・アルストに面会でしたら、先生は帰られました。」
「帰った?」
「スィ。今日は午後の講義がないので。元々今日は先生の出勤日じゃないんです。スニガ准教授の代理で出て来られただけですから。言伝がありましたら、僕が承っておきます。」

 彼はそこでやっと自己紹介した。

「院生のアーロン・カタラーニです。宜しく。」
「あ・・・医学部微生物研究室のアーノルド・マイロ、アメリカから出向して来ています。」
「存じ上げてます。外国から来られる先生は学内報で紹介されますから。」

 カタラーニが人懐っこい笑を浮かべた。

「写真より実物の方がいい男ですね。」

 マイロはどう返して良いのかわからず、仕方なく尋ねた。

「ドクトル・アルストに話があるのですが、どこへ行けば会えますか?」
「んーー」

 カタラーニが考え込むふりをした。

「多分、ご自宅だと思います。先生は自宅に個人の研究室をお持ちなので、そこで個人的に依頼を受けた遺伝子分析をなさっています。所謂副業ってヤツですよ。だから、もし面会を希望されるなら事前に約束された方が良いです。大学の講義より熱心に研究されているんで、電話を掛けてもお手伝いさんが取り次いでくれない時もあるのでね。それに・・・」

 彼が、「ここが肝心」と言いたげに指を振った。

「奥様が軍人なので、滅多に客を家に入れないんです。客に会う時は、外で会われます。カフェ・デ・オラスって店で、文化・教育省のビルの1階にありますよ。」


 

第9部 セルバのアメリカ人      5

  ダメージを受けた細胞を修復するにはiPS細胞の研究が有望だろう、とアルストは言った。マイロの専門ではない。マイロは予防の観点から研究をしているのであって、治療は別の分野だ。彼は黙り込み、そのまま歩いて大学の駐車場に到着した。アルストは中古の日本車から着替えが入っているらしいバッグを取り出した。

「研究室で着替えてきます。キャンパス内のカフェでランチにするので、良ければ来て下さい。生物学部の他の教室の学生達も集まって来ますよ。」

 虫の研究者もいると言うことだったので、マイロは再会を約束して一旦アルストと別れた。医学部迄距離があるので、図書館で時間を潰した。スニガ准教授の「セルバの森の妖精達」とロマンティックな題名の書籍を見つけた。棚から取り出して開いて見ると、トカゲ類と両生類の写真集だった。昆虫に関する書籍もあったが、原虫はなかった。防疫学は医学部の図書館の方へ行った方がありそうだ。
 結局昼食会はパスしてしまった。スペイン語は堪能だが、現地の若い子達が繰り出す早口の現代語にはついていけない。
 ふと思いついて考古学部のケサダ教授の研究室へ電話をかけてみた。助けてくれたお礼がまだだった。しかし電話に出たのは秘書と名乗る男性で、教授はまだオルガ・グランデにいると言うことだった。
 仕方なく、一人で食事する場所を探して大学の外の商店街を歩いていると、一人の開襟シャツを着た中年男性が後ろから近づいて来た。マイロの横に並ぶと、「ハロー」と声をかけて来た。

「国立感染症センターから出向しているマイロ博士ですね?」
「そうですが、貴方は?」
「アメリカ大使館の職員のダニエル・ウィルソンと言います。」

 歩きながら彼はポケットから財布を出し、名刺を取り出した。

「お昼はもう済まさせれましたか?」
「いえ、まだ・・・」
「良ければ、あの店で一緒にいかがです?」

 男性が指差したのは「カフェ・デ・オラス」と書かれた看板の店だった。マイロが知っているビルの1階に構える店だ。文化・教育省が上階にあり、職員食堂みたいに昼間は賑わっている。勿論一般の客も気軽に入れるし、マイロも既に何度か利用していた。タコスが美味い店だ。
 店内に入ると、お昼の混雑時だったが、運よくテーブルが一つ空いたところだった。そこに席を取って、タコスとコーヒーを注文した。向いに座ったウィルソンを改めて見ると、よく日焼けした南欧系白人で、団子鼻はボクシングで打たれたのか、少し歪んで見えた。微かに傷跡があった。それでマイロは尋ねた。

「失礼を承知でお尋ねしますが、その鼻はボクシングで? それとも喧嘩ですか?」

 ウィルソンがニヤッと笑った。

「流石にお医者さんだ、イエス、これはボクシングです。骨を折られまして・・・それでも綺麗に治った方ですよ、なかなか気づく人はいません。」
「それで・・・どんな御用件です?」

 強盗被害に遭った報告を大使館にしておいたが、そんな用件に見えなかった。第一街中で偶然見かけて声をかけてくるような案件ではない。

「用ですか? そうですね・・・」

 ウィルソンは席の周囲に目を配った。

「貴方は最近、生物学部の遺伝子学者テオドール・アルストにお会いになりましたか?」
「最近、ええ、1時間前に会いました。東パスカル公園の池で。」
「池?」
「彼は学生達とカエルの捕獲をしていたんです。」

 ほうっとウィルソンが言った。

「カエルの捕獲ね・・・」
「同僚の別の准教授の代理だったようです。」
「何か言葉を交わされました?」
「僕の研究に遺伝子分析を使わせてもらおうと声をかけたのですが、やんわりと断られました。僕は防疫の研究をしていますが、彼は治療方法の研究を僕に期待したんです。でもそれは僕の専門分野ではない・・・」
「研究の話だけですか?」
「他に何か話すことがありますか? 僕は彼のことを知らないし、彼も僕のことを知らない。趣味の話なんて出来やしませんよ。」

 注文した料理が運ばれて来て、2人は暫く黙って食べた。ウィルソンは食べるのが早かった。マイロがまだ半分食べないうちに、平らげた。彼は口元と指を紙ナプキンで拭ってから、マイロに言った。

「もし、アルストがセルバへの帰化を誘っても話に乗らないで下さい。」
「どうして彼がそんな誘いを僕にかけるのです?」

 マイロが面食らうと、ウィルソンは「気にしないで」と言い、テーブルの上に2人分の代金を置いて、「ではさようなら」と言い、店から出て行った。

2023/02/20

第9部 セルバのアメリカ人      4

  亀の噛みつき騒ぎが収まると、アルスト准教授は学生達に撤収を命じた。学生達は全員男性で、半分はアルストの、残りの半分はスニガ准教授の教室の学生だと言うことだった。女性達はカエルの捕獲に参加しなかったので、アルストが自分の教室の学生を助っ人に連れて来ていたのだ。だから捕まえたカエルは全部スニガ准教授の学生達が大学へ持ち帰った。アルスト組は公園から出ると、近くの水場で泥を落とした。グラダ・シティには街角のあちらこちらに自由に水を使える水場が設けられていて、市民はそこで洗濯をしたり、物を洗浄するのに水を使っていた。飲料水ではないので、飲むことは出来ない。少なくとも、マイロは道端の水場で喉を潤す市民を見たことがなかった。衛生教育をしっかりしている街なのだ。
 アルストが大学のカフェに集合して昼食にしようと提案すると、学生達は大喜びで銘々好きな方角へ散って行った。衣服を着替えて長靴を片付けてくるのだ。
 マイロは大学の方向へ向かって歩き出したアルストを追いかけた。

「貴方はどこへ?」
「大学の駐車場。車の中に着替えを常備しているんです。」

 野外活動が好きらしいアルストと並んでマイロは歩いた。

「実は、シャーガス病の病原であるトリパノソーマ・クルージの遺伝子を分析して、あいつらを撲滅する薬剤とか開発出来ないかな、と思っているんですが・・・」

と話しかけると、アルストは肩をすくめた。

「遺伝子から弱点を見つけるのは、すぐに出来ることじゃないですね。」
「ええ、わかっています。」
「俺なら、原虫にやられた臓器を回復させる薬剤を作る方を選択しますよ。」
「それは・・・」

 まだ開発されていない。トリパノソーマ・クルージからダメージを受けた臓器は細胞が破壊され、修復不可能なのだ。しかしアルストは言った。

「細胞を蘇生させる、あるいは修復させる為の研究をされているんじゃないんですか?」
「僕は予防法を探っていて・・・」
「自然界の昆虫の体内から原虫を殺してしまうなんて不可能です。人間に出来ることは、せいぜい虫が我々の生活圏に入って来ないようにするだけですよ。」

 アルストはマイロを見た。

「貴方が所属される国立感染症センターは高度な技術と知識の塊の様な場所でしょう。俺達在野の研究者にとっては手の届かない高い所にある城みたいなもんです。どうかそこで病人が元の生活に戻れる様な治療法を早く見つけて下さい。待っています。」

 

2023/02/19

第9部 セルバのアメリカ人      3

  東パスカル公園はグラダ大学から歩いて20分ほどの距離にある住宅地の中の緑地だった。そんなに広くなく、芝生の中に花壇がいくつか造られており、真ん中に池があるのだ。池は多分天然のものだろう。コンクリートやブロックで護岸されているのでなく、草が生えた土の土手で囲まれていた。水深もなくて、行政は安全柵を設けてもいない。そこに学生が10人ばかり長靴を履き、ゴム手袋と泥除け用にゴーグルを装着して歩き回っていた。カエルを捕まえると岸辺に置かれたバケツに入れていく。
 麦わら帽子を被った白人の男が学生が捕まえたカエルに標識を取り付けていた。彼も丈の長いゴム手袋を装着し、ゴーグルをかけていた。
 マイロは白人の男に近づき、声をかけた。

「ドクトル・アルストですか?」

 男が顔を上げた。眩しそうに目を細めたのは、マイロが逆光の中にいたからだ。

「スィ。貴方は?」

 マイロは立ち位置をずらして自分の顔を見せた。

「アーノルド・マイロ、医学部微生物研究室の客員研究者です。」

 ああ、とアルストが頷いた。彼は英語に切り替えた。

「アメリカ国立感染症センターから来られた方ですね。」

 彼は立ち上がった。身長はマイロほどある。背が高いし、スリムで、そして若い。彼はゴム手袋を右手から抜き取り、ゴーグルも取った。綺麗な青い目をした北欧系と思われる顔だ。

「テオドール・アルスト・ゴンザレスです。世間ではアルストで通っています。アメリカではシオドア・ハーストと言う名前でした。」

 手を差し出され、マイロは握手に応じた。彼も英語で話した。

「カエルを集めているのですか?」
「ええ・・・」

 アルストはバケツの中を見せた。毒々しい色をした美しいカエルが数匹入っていた。

「先日、ここで遊んでいた近所の子供がカエルの毒で重体に陥った事故がありました。今までにない事故だったので、市当局が事態を重く見て、この池にヤドクガエルが棲息していないか調査するよう依頼して来たんですよ。本来は小動物の研究をしているスニガ准教授の仕事になるのですが、彼は今スペインへ出張中で、俺が代理で学生達と資料集めをしているところです。似たような色合いのカエルが住んでいますが、こいつらは昔からこの池にいるそうで、毒なんてないって地元民が言うんです。もしかすると誰かが毒ガエルを持ち込んで交雑したのかも知れないと思い、これから大学へ持ち帰って遺伝子分析します。」

 一気に喋ってから、アルストはマイロをジロリと見た。

「ところで、何か御用ですか?」

 マイロは笑いそうになった。アルストはすっかりセルバ人のペースで行動している。准教授なら学生にさせて自分は研究室で待っていれば良いだろうに、と思った。尤もマイロだってサシガメを求めて太平洋岸まで行った人間だ。自分で行動しなければ気が済まない口だった。

「僕の研究テーマをご存知ですか?」

 アルストはこちらに関心ないだろうと思っての質問だったが、意外にも相手は頷いた。

「シャーガス病の予防策を研究されているのでしたね。」

 向こうにはこちらの予備知識がある。マイロは少し緊張した。

「そうです。アメリカにいる時に、セルバ共和国ではシャーガス病の発症例がないと聞いて、どんな予防対策を講じているのか、或いはセルバ人に原虫への耐性があるのかと、調べに来ました。しかし・・・」

 彼はちょっと肩の力を抜いた。

「開発途上国だと思って上から目線で見ていたようです。この国では都市部で住居の消毒などの対策を取っているのですね。セルバ人が特別丈夫な様でもない様だし・・・」

 アルストが口元に小さく笑いを浮かべた。

「まあね、シャーガス病対策と言うより、マラリアや他の病気の予防対策に保健省が市民の家を消毒して回っていることは事実です。地区毎に分けて2、3年の周期で行っています。それに地方では民間信仰で使用されるお香が消毒薬と似たような効果を出しているみたいです。」

 突然池の中で大声で喚きだした学生がいた。マイロとアルストが振り向くと、一人の学生の袖に大きな亀が食らいついていた。アルストがマイロを置いて池の中へ駆け込んだ。

「ハイメ、腕を噛まれていないか?」
「ノ、服だけです。買って間なしのパーカーですよ! こら、亀、放しやがれ!」
「脱げ、ハイメ! 亀に触るんじゃない!」


2023/02/17

第9部 セルバのアメリカ人      2

  マイロは微生物研究室の人々に、シャーガス病に感染した臓器を回復させる薬を研究している人はいないか期待して、セルバ共和国へ来た。しかしセルバ共和国には感染症例が極めて少なく、病気の研究者そのものがいなかった。僻地では患者がいたのだが、報告されていないのだ。グラダ大学で研究を続けても無駄だと感じた。家屋を消毒してサシガメの侵入を阻止するだけしか予防策がない。トリパノソーマ・クルージを殺す薬剤はある。高価なので開発途上国の庶民にはなかなか手が出ない。

 僕の仕事は、安価な薬の開発に繋がる原虫の研究だな・・・

 国立感染症センターに戻って研究を続けよう、と決心した。本国にその旨を伝えると、大学の次の学期が始まる迄待てと言われた。大学との契約があるのだ。
 それなら待ち時間を利用してトリパノソーマ・クルージの遺伝子分析をもう一度じっくり勉強しようと思った。そして、グラダ大学生物学部遺伝子工学科のテオドール・アルストのことを調べてみた。だがどうにもよくわからない人物だと言う印象をネットデータから得ただけだった。
 テオドール・アルストは5年前に突然アメリカから移住して来た。移住や帰化した理由は一切ネットでは拾えなかった。いきなりグラダ大学の生物学部に採用され、遺伝子学者として講師から准教授へと進んだ。遺伝子マップの解析に非常に優秀だと言う話だが、何か大きな発見をした訳ではない。ただ何百年も経ったミイラの遺伝子を分析して、性別のみならず出身部族まで読み解いてしまうところは、他の遺伝子学者には出来ない芸当だった。さらに遺伝子からその人物や生物の個体が持つ特徴、個性まで分析してしまえるのだ。
 こんな才能を持ちながら、何故この准教授は無名なのだろう。
 マイロは大学の内線電話の番号を押してみた。

ーー准教授テオドール・アルスト・ゴンザレスの研究室です。

 若い女性の声が聞こえた。多分秘書か助手だ。マイロは名乗り、准教授と面会したいと伝えた。すると女性が言った。

ーードクトル・アルストは、今日朝から東パスカル公園の池に学生達と共に蛙を捕まえに行っています。帰りは未定です。

 マイロは時計を見た。

「昼には戻られますか?」
ーー午後には戻られるでしょうが・・・

 女性はのんびりと言った。

ーー多分どこかで泥を落として食事をされてシエスタになさる筈ですから、もしかするとそのまま帰宅されるかも知れません。

 悠長だな、とマイロは思った。アルストはアメリカ人じゃなくセルバ人になりきっている。

「君はそこで留守番しているの? 夕方迄?」
ーー私は定時になれば帰ります。

 そして女性はマイロにアドバイスした。

ーー東パスカル公園に行かれたら、ドクトル・アルストに会えますよ。アポなしでも大丈夫です。公園ですから、誰でも行きます。


2023/02/16

第9部 セルバのアメリカ人      1

 グラダ大学に戻ると、マイロは忙しかった。先ず、旅行のレポートを医学部微生物研究室の室長ベンハミン・アグアージョ博士に提出しなければならなかった。さらに文化・教育省にも国内旅行が終了した報告を怠る訳にいかなかった。その前に、盗まれたクレジットカードの処理をカード会社に連絡し、新しいカードを作ってもらう手続きをしなければならなかった。パスポートは戻って来たが、もしかするとコピーされて悪用されるかも知れない。アメリカ大使館にも連絡を入れておいた。銀行にアクセス出来るようになると、真っ先にホアン・チャパに立て替えてもらった旅行費用を返済した。大学から一部の費用は出る筈だが、それがいつになるか見当がつかなかったので、チャパには出してもらった全額を返したのだ。
 寮友のアダン・モンロイにお守りを返して、役に立ったと告げると、モンロイは真面目な顔で話を聞いてくれた。

「僕の先祖は大昔に神と友達になったそうだ。その神がこの世から去って行く時に、僕の先祖にこの牙をくれたんだと、と言う話が家に伝わっている。」
「君の先祖はジャガーと友達だったのかい?」
「神様はジャガーなんだ。」

 モンロイはマイロの狭い部屋で、彼のベッドに腰掛けてビールを飲んでいた。ビールは彼の差し入れだ。

「この国では、森に住んでいるジャガーやマーゲイやオセロットは神様なんだ。ピューマも神様だけど、ピューマは恐ろしい神で、審判を行うと言われている。彼等を怒らせちゃいけない。」
「よその国の伝説や神話を馬鹿にするつもりはない。」

 とマイロは言った。

「でも呪いを信じて、防疫を疎かにするとシャーガス病などの厄介な病気に罹る。君も気をつけろよ。」

 すると、モンロイが首を傾げた。

「同じアメリカ人でも、君とドクトル・アルストは正反対だな。」
「ドクトル・アルスト?」

 名を口にしてから、マイロは思い出した。生物学部で遺伝子工学を教えている准教授だ。確かアメリカから帰化したと誰かが言っていたな。モンロイが窓の外に目を向けた。文化系や理系の、医学部以外の学部がある方角だ。

「アルストはセルバ人の信仰を迷信と片付けずに、真面目に受け容れるそうだ。それに彼はロス・パハロス・ヴェルデスと友達だからな、神様に守られている人って先住民の学生達は呼んでいる。」



2023/02/15

第9部 古の部族       21

  翌日、マイロはオルガ・グランデを出た。所持金を盗まれたし、セルバ共和国にシャーガス病が存在しないと言う伝説が嘘だと判明したからだ。アメリカへ報告されていたのは、東部の清潔な都会での話だった。郊外に出れば、病気は存在したし、患者も死者もいたのだ。
 帰りも車だった。ただ、同乗者が一人増えた。グラダ・シティに行くから乗せてくれと頼んで来た兵士がいたのだ。胸に緑色の鳥を象った徽章を付けた軍服姿の若い男だった。メスティーソだったが、チャパが大統領警護隊の隊員だと教えてくれた。太平洋警備室所属ブラス・オルニト少尉、と兵士は名乗った。

「本来は空軍の航空機で本部へ一時帰還する予定でしたが、空軍の整備が遅れているので、車で帰還することにしました。バスは週末にしか走らないので、便乗を願います。」

 「願う」と言っているが、この国で軍人に物を頼まれて断る人間はいない。最初から「乗せろ」と要求しているのと同じだ。チャパが囁いた。

「承諾して下さい。エル・パハロ・ヴェルデが一緒に居れば、どんなトラブルにも巻き込まれずに済みます。」

 生きている魔除けか、とマイロは思った。

「当然、ガソリン代は出ないんだろうな?」
「向こうは公務なので、普通は出ません。」

 微生物の研究も公務なのだが、と思いつつ、マイロは若い兵士を後部席に乗せた。兵士の荷物は足元の床に置かれた。しっかりアサルトライフルもあったので、マイロは余り良い気持ちがしなかった。
 道中、オルニト少尉は静かで、全く話しかけてこなかった。マイロがチラリと後ろをミラーで見ると、彼は寝ていることもなく只窓の外の風景を眺めているだけだった。
 往路と同じくバス事故の現場に来ると、チャパが車を停めた。短い祈りを捧げ、マイロが先に目を開けて後ろを見ると、兵士も殊勝に祈っていた。
 エル・ティティで水とガソリンを補給した。マイロは全てチャパに立て替えてもらっていたので、使用した金額をきっちりメモしておいた。
 夕刻、アスクラカンに到着した。宿を探さなければならない。するとオルニト少尉が携帯電話でどこかにかけて、それからチャパに道を教えた。

「もしかして、アスクラカン出身ですか?」

とチャパが尋ねると、少尉は「スィ」と答えた。

「乗せてもらった礼に、私の実家で泊まってもらおうと思うが、かまわないですか?」
「グラシャス。」

 思いがけず宿代がただになった。マイロは伝統的な先住民の家を想像したが、メスティーソのオルニト少尉の実家は普通の庶民が暮らす住宅地にある、普通のコンクリートの家だった。息子同様に口数の少ない父親と、陽気な母親はどちらもメスティーソで、突然の客を温かくもてなしてくれた。
 食事をしている間、オルニト親子が殆ど会話をしないことにマイロは気がついた。時々目を合わせるだけだ。しかし仲が悪い様に見えず、母親は嬉しそうだ。
 美味しい夕食で満腹になると、「狭くて申し訳ないが」と言いながら、少尉の個室で3人一緒に寝る準備が出来ていた。床にマットレスを敷いて、薄い毛布だけの寝床だが、家の中は清潔でサシガメの心配は不要だった。

「実家によく帰るのですか?」

とチャパが横になってから質問した。すると、初めて少尉が恥ずかしそうに笑顔を見せた。

「ノ、2年ぶりです。本当は航空機で帰る予定だったので、この帰省はない筈でした。しかし、飛行機が飛べないとわかり、太平洋警備室に報告すると、上官から、誰かの車に便乗させてもらえと指示がありました。その時、彼が言ったのです、途中アスクラカンで宿泊するようなら、実家に立ち寄って構わない、と。」

 厳しい表情しか見せなかった兵士が、普通の若者に見えた一瞬だった。マイロは彼を乗せて良かった、と思った。
 翌日、朝食の後で、オルニト親子は丁寧に先住民式挨拶を交わし、マイロとチャパには握手をしてくれた。最後に母親が息子をハグして、普通に親子の情愛を見せた。
 グラダ・シティまでの道中は順調で、首都に入るとマイロはホッとした。大統領警護隊本部前で、オルニト少尉は車から降りて、丁寧に敬礼でマイロとチャパに別れを告げた。
 

2023/02/13

第9部 古の部族       20

  アンドレ・ギャラガがグラダ大学考古学部のキャンプに歩いて戻ると、敷地の端っこで石の上に座ってケサダ教授が星を見上げていた。一見物思いに浸っている様に見えたが、実際は星の角度を測っているのだとギャラガにはわかった。セルバの古代遺跡は建築される向きが決まっている。それが地下墓地にも適用されているのかどうか、教授は計測しているのだ。地下墓地は見えないが、彼の頭の中には墓所の通路や遺体を置く棚の位置がしっかり入っていて、地上にいても己がどこの棚の上にいるのかわかっている。ギャラガは素直に恩師の能力を尊敬していた。自分は今遺跡の上にいるのか否かもわからないのだから。
 彼が少し距離を置いて立って眺めていると、ケサダ教授が気がついて振り向いた。ギャラガは邪魔をしてしまったと思い、謝罪した。教授は黙って己の隣を指差した。座れと言うことだ。ギャラガは仕方なくそばへ行って石の上の恩師の隣に腰を下ろした。

「ドクトル・マイロはママコナが首都を虫の害から守護していることも、一族が地方の家を一軒ずつ守っていることも気がついていません。」
「気がつかれてたまるか。」

とケサダが苦笑した。

「虫にだけわかる微量の気だ。人間は感じない。」
「鉱山会社の社長はわかっている様です。だがあの男は喋らないでしょう。」
「口が固いから今日の地位を手に入れたのだ。あの男はあの男なりに己の街を守護しているのさ。」

 ギャラガは彼を見た。

「先生はマイロが落ちて来ることがわかっていたのですか?」
「どう言う意味だね?」
「つまり・・・」

 彼は少し躊躇った。恩師を怒らせたくなかったが、素直に言わなければもっと怒られるだろう。

「誰かが彼を粛清しようとしたことをご存じだったのかと・・・」

 ハッと教授が短く笑った。

「私が連中の仕事を知る筈がない。それにあのアメリカ人は本当に只の強盗に襲われたのだ、アンドレ。偶然私が立っていたそばに通風孔があって、地上で強盗どもが話している声が聞こえてしまった。悪党どもはアメリカ人を殺すつもりだったが、彼はジャガーの牙のお守りを持っていた。だから強盗どもは彼を殺せず、仕方なく穴に捨てたのだ。直接手を下すのが怖かったのだろう。それがマイロにとっては幸いしたのだ。」
「牙のお守りですか・・・強盗を退ける力を持っている、かなり霊力の強い人の形見ですね。」

 ギャラガは首を傾げた。

「マイロは何処でそんな物を手に入れたのでしょう。」
「さぁな・・・知りたければ君が自分で彼に訊いてみると良い。」

 教授は再び空に目を向けた。

「アンドレ、ここの墓所も定型通りの向きで造られているぞ。」


第9部 古の部族       19

  アントニオ・バルデスはペンションの建物を出ると駐車場に待たせていた車に乗り込んだ。後部席に既に乗り込んで彼を待っていた人物がいた。彼にバルデスが言った。

「マイロは何も知らない。シャーガス病を媒介する虫を予防する手段を考えているだけだ。」
「それじゃ、このまま放置しておいて大丈夫と言うことですね。」

と呟いた男は、ほっと一息ついた様子だった。バルデスが尋ねた。

「君を何処まで送って行けば良い?」
「発掘隊のキャンプで結構です。まだ掘らなきゃならないので。」

 バルデスが町名を告げると、車が動き出した。 バルデスが更に尋ねた。

「学生達にマイロのことはどう説明しているんだ?」
「何も・・・」

 男はクスッと笑った。

「ケサダ教授とサンチョ・セルべラス先輩が上手く誤魔化してくれた筈です。誰もマイロのことなんか覚えちゃいません。」
「その・・・」

 バルデスは頭を掻いた。

「教授と君の先輩のことを俺は忘れた方が良いんだろうな。」
「そうですね。忘れた方が気が楽ですよ。」
「それじゃ、忘れよう。」

 オルガ・グランデの実力者が苦笑した。

「マイロも運の良いヤツだ。遺跡に落っことされるなんて。廃坑だったら、死んでいた。」
「そうですね。」

 男も笑った。

「あの教授は結構気まぐれなところがある方なので、たまたま墓所の奥まで足を伸ばされたんです。発掘現場に留まっておられたら、誰もあのアメリカ人が落ちて来る音を聞かなかったでしょう。」

 そして彼はバルデスに言った。

「貴方にスパイの様な役目を頼んでしまって、すみませんでした。グラシャス。」
「気にするな。俺はあの程度の腹の探り合いに慣れている。」

 やがて遺跡に通じる坑道の入り口に近づくと、男は「ここで」と言い、車が停止した。ドアを開いて外に出た男は、バルデスに挨拶した。

「グラシャス、セニョール。貴方の協力を少佐に伝えておきます。」
「別に恩に着せる様なことはしていない。それにこれは、本来君等の仕事じゃないだろう。」
「そうです。では、ブエナス・ノチェス。」
「ブエナス・ノチェス。」

 ドアが閉まり、走り去る車に向かって、アンドレ・ギャラガ大統領警護隊文化保護担当部所属少尉は敬礼して見送った。



2023/02/11

第9部 古の部族       18

  マイロはバルデスの申し出をどうしても素直に受け入れることが出来なかった。マフィアの首領の様に市民から恐れられている男が、市民の為に研究資金を出すと言う、その親切心が胡散臭く感じてしまった。

「大変有り難いお話ですが、私個人が援助を頂くことは出来ません。私はアメリカ合衆国の研究者の一人として来ている訳で・・・」
「賄賂の様に聞こえたのなら、申し訳ない。」

とバルデスが笑みを浮かべた。

「個人で受け取るのが無理でしたら、グラダ大学医学部へ寄付の形で資金を提供しましょう。それなら貴方の本国も我が国の文化・教育省も文句を言わないでしょう。」

 大学への寄付か。マイロはそれで折れることにした。恐らく大学は断らないだろう。全額がマイロの研究に充てられるとは思えないが、援助はあった方が良い。彼もバルデスに微笑で答えた。

「有り難うございます。」

 コーヒーが運ばれて来た。芳しい香りを嗅ぎながら、マイロはその日の朝からの出来事を思い返した。ペンディエンテ・ブランカ診療所を訪問してメンドーサ医師から呪い師の話を聞いた。そして呪い師に会えるツテを探してスラム街を歩いている時にひったくりに遭った。犯人を追いかけて走り、角を曲がったところで後ろから襲われたのだ。そして穴に捨てられ、地下遺跡を発掘中の考古学者達に偶然救助された。随分昔のことの様に思えた。

「ところで、セニョール・バルデス、貴方は呪い師がサシガメから住民を守る御呪いをする話を聞いたことがありますか?」

 バルデスが笑った。

「サシガメと言うより、病気から住民を守るのです。迷信です。本当に力を持つ呪い師なんて滅多にいるもんじゃありません。」

 彼は腕時計を見た。

「そろそろ私はお暇します。どうぞゆっくり休んで下さい。このペンションの費用は会社が出しますから、ご遠慮なくバルでもジムでも使って下さって結構です。」

 彼はマイロとチャパに握手して食堂を出て行った。彼が出て行くと、チャパがふーっと息を吐いた。

「緊張した・・・」
「大物だもんな。」

とマイロが笑うと、助手はふくれっ面をした。

「先生はあの男の評判をご存知ないから、呑気に会話出来たんです。」
「どんな評判だ?」

 チャパはそっと周囲を見回した。他のテーブルの客はお喋りに夢中だ。

「彼自身が言ってたでしょ、先代に拾われたって。ただの孤児だった男が、大企業の経営者にのし上がったのは、単に先代に気に入られたからじゃないです。彼自身がライバルを蹴落として、幹部になって、先代の腹心にまで出世したからです。蹴落とす方法がどんなものか、ここじゃ言えません。誰が聞いているかわかりませんからね。でもオルガ・グランデの市民には常識みたいな噂です。それに先代の亡くなり方も異常だったと聞いています。屋敷の使用人は怖がって誰にも言わないそうですが・・・」
「何だ、それは? 要するに誰も知らないことを、みんな怖がっているのか?」

 チャパは黙って目をパチクリさせた。

「そう言えばそうですね・・・僕も実際のところ何も知りません。」

 マイロが噴き出したので、彼も笑った。

2023/02/10

第9部 古の部族       17

 「私は医学には疎いし、高等教育を受けたこともありません。先代に拾われて、会社の経営のノウハウを叩き込まれた時に、教養として多くのことを少しずつ勉強させられた程度です。まぁ、先代が一番力を入れて教えてくれたことは、いかに人間を動かすかと言うことですがね。」

 バルデスが語り始めた。

「貴方が研究されているシャーガス病は知っています。中南米では珍しくない厄介な感染症ですな。私どもの鉱山では外国人労働者も多く働いています。その中にはセルバ国外でサシガメに刺されてあの忌々しい病気に感染したことを知らずにやって来る者が少なくありません。発症して、初めて自分に何が起きているのか知るのでしょう。アンゲルス鉱石は、先代のエンジェル鉱石時代から陸軍病院や市民病院に寄付をして、労働者の健康管理に気を配ってきました。しかし、あの病気は、労働者が医者にかかる頃にはもう手に負えない。薬剤は高価で治療に時間がかかります。労働者階級では治癒は無理なのです。」

 マイロはつい口を挟んでしまった。

「セルバ人の発症例は少ない様ですが・・・」
「東部では滅多に出ないだけです。向こうには・・・」

 バルデスは何かを言いかけて止めた。そしてオルガ・グランデの話に戻した。

「一応オルガ・グランデ市当局は年に1回市内の家屋の消毒を行なっています。昔疫病が流行って国全体で多くの死者を出してから、政府の方針なのです。費用は市民持ちですが、そんなに高価ではないので、比較的多くの市民が申し込んで消毒してもらっています。シャーガス病が標的の消毒ではないが、運よくあの虫も防げる様なのです。だからサシガメとか言う虫は、市街地では見かけません。しかし、スラム街は別です。住民は貧しく、市の援助があっても申し込む金銭的余裕がありません。ボランティア団体も治安が比較的良い地区にしか入らない。貴方が強盗被害に遭ったペンディエンテ・ブランカ地区などは論外です。」

 ああ、とマイロは納得しかけた。消毒と言う国全体の方針があるのか。しかし大学では耳にした記憶はないのだが。チャパを見ると、助手は黙って食事を続けていた。オルガ・グランデの有力者の話にうっかり割り込んで逆鱗に触れたくないのだろう。

「貴方が研究されているサシガメを防ぐ有効的な手段が、安価で為されるなら、この国は大歓迎です。そう言う国の役に立つ研究をされている方が、この国で強盗に遭われたと聞いて、私は情けない気持ちになったのです、ですから、これは私から貴方の研究への支援です。もしよろしければ、貴方がこの国に滞在中の資金援助をさせて頂きたい。」
「嬉しいのですが・・・貴方の会社に直接の見返りはないでしょう。」
「労働者の健康管理に使用する金を考えたら、大したことはありません。」

 バルデスは沈んだ表情をして見せた。

「セルバ人労働者は外国人労働者に病気が発生すると、その坑道で働くのを嫌がるのです。自分達に移りはしないかとね。消毒の必要がない病気でも坑道を消毒して安全だと言い聞かせなければなりません。その費用は馬鹿にならないのです。」





第9部 古の部族       16

  ドレスコードが気になってクローゼットを覗いて見ると、嫌味にならない程度にジャケットやシャツ、ボトム、革靴などが置かれていた。ネクタイがないので、仕方なくノータイで部屋を出た。チャパも「こんな服装は成年式の時以来です」とはにかみながら着替えて現れた。
 ダイニングルームに行くと、他の客もみなリラックスした服装で、リゾート気分でいることがわかり、2人は少し気が楽になった。
 案内されたテーブルは商談の客達から少し離れた位置にあったが、却って有り難かった。コース料理のメインと酒を好きな物をメニューから選べた。マイロは酔いたくなかったので、ビールにした。チャパもビールだ。セルバ人はビールが好きだ。地ビールだけでも10種類以上あった。
 食事を終える頃に、不意に一人の男性がテーブルの横に立った。

「ドクトル・マイロとセニョール・チャパですね?」

 顔を上げると、体格の良い日焼けしたメスティーソの男が立っていた。労働者ではなく事務仕事をしている綺麗な手をしていた。服装はマイロ達同様に淡い色のシャツの上に薄手のジャケットを着て、タイはしていなかった。
 マイロは立ち上がった。チャパも慌てて立ち上がった。

「アーノルド・マイロとホアン・チャパです。」
「アントニオ・バルデスです。」
「今日は思いがけないお招きを有り難うございます。」

 握手すると、力強い手応えが返ってきた。バルデスと言う男は気力も体力も充実している様だ。マイロが質問する前にバルデスが言った。

「この待遇に不審を抱いておられると思います。説明をさせて頂いてよろしいですか?」
「お願いします。」

 バルデスが2人に座るよう合図すると、ボーイがバルデス自身の為の椅子を素早く運んで来た。丸テーブルを3人で囲む形になった。

「先ず、これを貴方にお返しします。」

 バルデスがポケットから携帯電話を出してマイロに差し出した。マイロは目を見張った。彼の引ったくられた携帯電話だった。

「これをどこで?」
「市内の闇市でね・・・」

 バルデスが溜め息をついた。

「貧富の差が犯罪を生む。私の会社は大きいが、この国全体を救う力はありません。」


第9部 古の部族       15

  車で連れて行かれたのは、ホテルではなく誰かの別荘と思われる様な建物だった。豪奢な邸宅が点在する日当たりの良い斜面の上の方にある、2階建ての白い壁の家屋で、芝生の庭が贅沢に見えた。オルガ・グランデで庭に芝生を持つことは、裕福な印だ。数人の身なりの良い男女がその庭で散策したり、景色を楽しんでいた。

「アンゲルス鉱石が顧客の為に経営しているペンションです。」

と運転手が告げた。

「お客様は欧米やメキシコ、ブラジル等から来られます。」

 つまり金を買いに来ているのだろう。運転手はマイロとチャパの荷物を持つとフロントへ案内した。レセプションでチェックインの手続きを頼むと、マイロとチャパに頷いて外へ出て行った。
 マイロにとっては、このランクの宿泊施設は決して初めてではない。アメリカ国立感染症センターで勤務する科学者なら自腹で泊まれるか否かは別問題として、学会のシンポジウムやその他の会合でこの手の施設を利用することが何度かある。しかし一介の学生であるホアン・チャパには初めての経験だ。ロビーに入った途端に緊張している彼を促し、チェックインの手続きを済ませ、マイロはスタッフに案内されて部屋へ入った。綺麗なシングルの部屋で、寝室と居間がある。居間にバスルームのドアと隣の部屋へ繋がるドアがあった。チャパの部屋と行き来出来る構造だった。スタッフが夕食はダイニングルームで自由に取れること、料金はオーナー持ちなので気にしないで良いこと、と説明してから、最後に言い足した。

「恐らくお食事の頃に、オーナーが挨拶に来る予定です。どのお客様のテーブルにも回って行かれますから、お気楽にお待ち下さい。」

 オーナーとは、即ちセニョール・バルデスと言うフィクサーだな、とマイロは思った。この奇妙な待遇の説明を聞かせてもらえるのだ。自国の名誉の為に、強盗の被害に遭った外国人を一人一人もてなしている筈がない。きっと何か訳ありなのだ。

2023/02/09

第9部 古の部族       14

  アンドレ・ギャラガはマイロとチャパをセラード・ホテルに送り届けると、発掘現場に戻ると言って、歩き去った。マイロは部屋に入るとベッドに倒れ込み、そのまま眠り込んだ。なんだか急に物事が動き出したみたいだ。彼は早くアメリカへ帰りたいと思い、しかしまだ何か知らなければならないことがある様な気がして、微かな焦燥感を抱いたが、疲労で眠りに陥った。
 チャパが起こしに部屋に来てくれたのが午後5時半だった。セルバ人は時間にルーズな方なので、6時迄余裕があるかと思ったら、迎えが既に来ていると言う。マイロは慌てて顔を洗った。着替えも急いで済ませたが、サシガメ捕獲が目的の旅だ。Tシャツとデニムしか替えがなかった。ホテルを移動するだけだから、と荷物を急いでまとめて、チャパと共にロビーに降りた。
 白い制服を着た、いかにも「運転手」と言う身なりの男性が待っていた。マイロとチャパの名前を確認すると、車に案内してくれた。それが防弾ガラスで守られた高級S U V車で、マイロは驚いた。

「誰の差金です?」

思わず質問すると、運転手は「何を馬鹿な質問をするのだ」と言いたげな表情で答えた。

「セニョール・バルデスの御指図です。」

 チャパがギクっとして、マイロに囁いた。

「アンゲルス鉱石の経営者です。」
「金持ちか?」
「そりゃもう・・・」

 チャパはさらに小さな声で言った。

「逆らうと命がないと言われてます。」

 しかしマイロは素直に車に乗る気分になれなかった。

「僕等に親切にしてくれる理由がわからない。セニョール・バルデスに直接会うことは出来ますか?」

 運転手が困惑した顔になった。

「私にはわかりません。でも貴方の希望は伝えておきます。」

 チャパがまた言った。

「この場は素直に車に乗せてもらいましょう、先生。僕等が行かなければ、この運転手が罰を受けることになります。」
「そのバルデスって人はどんだけ力を持っているんだ?」

と言いつつも、マイロはセルバ人達を困らせるのは良くないと感じた。少なくともチャパを危険な目に遭わせることは出来ない。

「わかったよ、車に乗る。だけど断っておくが、僕は強盗に遭って有金全部盗られたんだ。だから君にチップを払えない。」


第9部 古の部族       13

 陸軍病院へは、アンドレ・ギャラガが道案内を兼ねて同行してくれた。古い趣のある植民地時代を彷彿させる建物だったが、中身は近代的な病院だった。受付でギャラガが自身のI Dを提示して、連絡が入っている筈だと言うと、すぐに看護師が現れて診察室へ案内してくれた。
 マイロはレントゲンを撮ってもらい、改めて傷口の消毒をしてもらった。怪我をした経緯を語ると、医師は「運が良かった」と言った。

「殺されて捨てられても不思議ではないです。あのペンディエンテ・ブランカ地区はオルガ・グランデでも一番治安の悪い地域です。憲兵隊に連絡を入れておいたと、付き添いの方が仰ったが、まず犯人は捕まりません。」

 それは携帯電話も戻って来ないと言うことだ。マイロは貴重な写真やメモや友人達の電話番号などを失ったことを悔やんだ。
 特に大きな怪我でなく、薬も不要だと言われ、処置代だけを支払って(払ったのはチャパだ)、病院を出たのはシエスタの時間が始まった後だった。

「クレジットカードは大丈夫だったんですか?」

 チャパに訊かれて、マイロはカード会社にも連絡する必要性を思い出した。

「ああ、なんてこった!」

 思わず英語で悪態をついた。ギャラガがチラリと彼を見た。

「カードを使える店は限られています。貴方の事件はアンゲルス鉱石に通報しておいたので、なんとかしてくれるでしょう。」
「鉱山会社が何をしてくれるんだ?」

 マイロが重い気分で尋ねると、チャパが理解したと言う表情でギャラガを見た。

「アーノルド・マイロ名義のカードを使う客がいたらすぐに会社に知らせが入るんですね?」
「スィ。」

 セルバ人同士で何か暗黙の了解事項があるようだ。
 ギャラガが昼食に誘ってくれた。マイロは食欲がなかったが、若者が案内してくれた食堂は美味しい煮込み料理を出しており、匂いを嗅いだら急に手が動いて彼は食べ物を腹に詰め込んでしまった。チャパも満腹で嬉しそうだ。
 食事中にギャラガの携帯に誰かから電話がかかって来て、若者は数分間中座した。戻って来ると、彼は尋ねた。

「宿泊はどちらに?」
「セラード・ホテルと言う宿だが・・・」

 ああ、とギャラガが頷いた。知っている宿の様だ。

「夕刻迄そちらで休んで下さい。知人が1800、つまり午後6時に迎えに行くので、荷物を持って車に乗って下さい。知人が別の宿に案内してくれます。」
「どう言うことです?」

 ギャラガはちょっと困った顔をした。

「知人は国費で研究されている外国人がオルガ・グランデで事件に巻き込まれたことを恥ずかしく思っています。 それで、貴方を励ましたいと思っている様です。」

 意味がわからない。マイロの表情を見て、ギャラガが苦笑した。

「戸惑われるのは当然です。私も今迄そんな待遇を聞いたことがありません。でも断らない方が良いですよ。断られることに慣れていない階級の人ですから。」


2023/02/08

第9部 古の部族       12

  小屋の外から車のエンジン音が聞こえて来た。ケサダ教授がマイロの為に小屋の隅に置かれた大きな保冷ボックスから水の瓶を取り出した時に、車がドアの前で停止した。車のドアが開閉する音が聞こえ、やがて3人の若い男が入って来た。先頭を走って来たのがホアン・チャパで、次がサンチョ・セルべラス、最後がマイロが初めて見る赤毛の白人だった。

「ドクトル!」

 チャパがマイロに抱きついた。

「無事だったんですね! 良かった!! ドクトル・メンドーサが警察に電話をかけようとしたところへ、そこの・・・」

 彼は赤毛の白人を振り返った。

「ギャラガ君が来て、貴方が無事だと教えてくれたんです。」

 ギャラガと呼ばれた男は、ケサダ教授と一瞬視線を交わし、それから己の繋ぎのポケットからマイロにとって見覚えのある品物を出して来た。

「溝に捨てられていました。現金は抜かれていましたが財布と身分証です。パスポートも・・・」

 汚れてしまった貴重品をマイロは受け取った。夢中で確認しているマイロは、背後でケサダ教授とセルべラスが視線を交わし、意味深に笑みを浮かべたことに気が付かなかった。チャパが溜め息をついた。

「パスポートを売り飛ばされなくて良かったです。」
「財布だって、この辺りじゃ売り物だからね。」

とギャラガが言った。マイロは顔を上げ、ギャラガが若いのに鍛え上げた肉体を持つことに気がついた。何かアスリートの様だ。教授や仲間と同じ様に繋ぎを着ているが、立派な筋肉を持っていることがわかる。考古学の学生なのだろうが、まるで軍人の様な雰囲気だ。

「医者に掛かりますか?」

とチャパがマイロに尋ねた。自分達も医学の分野の人間だが、マイロは頭部を怪我している。用心したいのは当然だ。

「ペンディエンテ・ブランカ診療所が一番近いが、この時間はシエスタの前で忙しいだろう。」

 ケサダ教授がそう言って、携帯電話を出した。マイロは己の携帯電話はどうしたのだろう、と思った。ギャラガが持って来てくれた品物の中に彼の携帯はなかった。
 ケサダ教授は誰かに電話を掛け、診察の手配をしている様子だった。マイロは横になりたくなった。気分が悪い訳ではない。酷く疲労を感じたのだ。セルバ共和国に発症例がないと思われたシャーガス病は、存在した。真剣にサシガメを探していたことが無駄になった。市街地で存在しない患者がスラムにいるのは、やはり住居の建築資材や構造の問題だろう。
 教授が通話を終えて、マイロに言った。

「陸軍病院が受け入れてくれるそうです。これからすぐに行きなさい。」


第9部 古の部族       11

  マイロはケサダ教授の沈黙の理由が判らなかった。呪い師との接触方法を考えてくれているのか、それとも呪いなど信じるに足らぬものだと考えているのか。
 やがて、教授が静かな口調で質問して来た。

「呪い師に関して、どんな話を聞かれました?」
「ああ・・・」

 マイロは天井に視線を向けた。

「グラダ大学医学部では、民間信仰による治療に頼る市民がまだ存在すると聞きました。医療を信用出来なくて、最期は呪い師に祈祷を頼むとか。
 アスクラカンでは、家を建てる時に呪い師に祈祷してもらい、その家に住む家族に災いが降りかからない様に祈ってもらうのだと言う話でした。だから、アスクラカンではシャーガス病の症例は聞かない、と町医者が言っていました。勿論、彼は祈祷のお陰でサシガメが家に住み着かないと信じている訳ではありませんが。
 ペンディエンテ・ブランカ診療所のメンドーサ医師は、スラム街の住民は呪い師を雇う金がないので儀式をしてもらえないと言っていました。だから、ここのスラム街にはシャーガス病の患者がいるのです。」

 フン、とケサダ教授が鼻を鳴らした。

「呪い師に病気を退ける力などありません。虫を追い払う特別な薬剤を使うのでもありません。そんな薬剤が存在したら、今頃中南米各国で販売されているのではないですか?」

 正論だ、とマイロは思った。彼は無意識に頭の傷に手をやって、腕の痛みに気がついた。どうやら穴に落ちた時の打撲傷らしい。

「体をところどころ打ったみたいです。失礼して服を脱がせてもらいます。」

 彼はシャツを脱いでみた。肌は黒いが打ち身があれば自分でわかる。そして傷は打ち身ではなく擦過傷だった。緊張が解けてきて、痛みが今頃出て来たのだ。教授が彼の体を眺めた。

「背中と腕に擦過傷があります。包帯の必要はないが消毒しておきましょう。」

 ヒリヒリする痛みにマイロは耐えた。彼の胸にぶら下がっている牙のネックレスに、教授が目を細めた。

「良いお守りをお持ちだ。」
「アダン・モンロイが貸してくれたんです。これを奪われなくて良かった。」
「誰もそんな物を奪おうとは思わないでしょう。」

 ケサダ教授は微かに意味不明な笑みを口元に浮かべた。マイロは気づかずに言った。

「これのお陰で殺されずに済んだのかも知れません。」

 ケサダが小さく頷いた。スィ、と。



第9部 古の部族       10

  地下の世界は、かなり現実的だった。地下墓地の遺跡から少し通路を歩くと、すぐに機械音が聞こえ、明るい空間が広がっていた。坑道から搬入された鉱石をベルトコンベアに載せて地上へ運ぶ基地の様な場所だった。大勢の労働者達が働いていた。オルガ・グランデの一大産業と言うのが理解出来る光景だ。もしかすると地上の労働者より多いのかも知れない。

「ここはアンゲルス鉱石の3番坑です。」

とマイロの耳元で学生のセルべラスが大声で言った。大きな声を出さないと聞こえないのだ。

「僕等は、こちらのエレベーターで地上へ上がります。」

 地下墓地の出口からすぐのところに、小さなエレベーターが設置されていた。

「別に僕等の為に造ってくれた訳じゃないんですが、たまたま近くで遺跡にぶち当たったので、アンゲルス鉱石がグラダ大学に連絡してくれたんですよ。」
「遺跡を調査してしまわなければ、坑道を拡張出来ないからね。」

とケサダ教授も怒鳴った。

「エレベーターは、緊急避難用と換気口、食糧や水の調達の為に、たくさん造られている。今調査している地下墓地は運が良い場所にあった。」

 彼等は狭いエレベーターに乗り込んだ。マイロは長い梯子がエレベーターの横に設置されているのを見て、あれを登らずに済んで良かった、と心から安堵した。まだ後頭部が痛かったし、梯子を登る間に貧血でも起こしそうな気分だ。
 ガタガタ音を立てながらも、エレベーターは無事に地上に出た。扉を開くと、またゲイトがあり、番人がいた。市民が勝手に入り込まないように、また掘っているのが金鉱石なので、警備がいるのだ。ケサダ教授は番人に挨拶して、通行証らしきパスを見せた。セルべラスも見せた。マイロは身分証を持っていなかったが、番人は見せろと言わなかった。
 3人は陽光の中を歩き、少し離れた広い場所に建てられたプレハブの小屋の一つに入った。そこはどうやらグラダ大学考古学部の宿泊所らしく、学生達の荷物や毛布が所狭しと置かれていた。
 ケサダ教授はマイロを端の空いた場所に置かれているテーブルと椅子へ案内した。マイロはそこで椅子に座り、セルべラスの手で後頭部の傷の手当を受けた。血で汚れたガーゼを見て、マイロはゾッとした。頭を割られずに済んで良かった。

「連れがいるんです。僕の助手でホアン・チャパと言う若者です。車で待っている筈ですが・・・」

 チャパは車でマイロの後ろをついて来ていた。もし、マイロがひったくりを追いかけて走ったのを、チャパまでが追いかけていたら・・・。マイロは心配になった。ケサダ教授は慌てなかった。

「貴方が落ちた穴の位置は見当がつきます。ペンディエンテ・ブランカと呼ばれるスラムの坂道から路地に入ったところでしょう。車は入れないから、坂道のどこかに貴方の連れはいると思われます。すぐ探してもらいましょう。」

 教授が学生の目を見た。セルべラスが頷いて、外へ出て行った。
 マイロは溜め息をついた。

「身分証と財布を取られました。パスポートも奪われました。僕を知っている人々に出会えたことが奇跡の様です。」
「何故医学部の人があんな物騒な場所に行かれたのです?」
「ペンディエンテ・ブランカの診療所を訪問したのです。シャーガス病の症例があると聞いたので・・・医師と話をして、それから実際に病気や媒介する昆虫を見つけた人がいないか、探しに行ったんです・・・否、違うな・・・」

 ようやくマイロの記憶がはっきりしてきた。

「医師が、シャーガス病を防ぐために、この国の人は呪い師を雇う話をしたんです。それで、僕は呪い師が虫から身を守るための薬剤か何かを使っているのかも知れないと思い、呪い師に連絡するつてを探していたんです。」

 考古学者が暫く沈黙した。そしてマイロは気がついた。この教授は純血の先住民だ。さっきの学生も先住民だった。もしかして、呪い師を知っているのではないか・・・。

2023/02/07

第9部 古の部族       9

  マイロはびっくりして相手の男を見上げた。

「何故僕の名前を・・・」
「あー、それは・・・」

 若い男が頭を掻いた。

「大学で貴方を見かけたことがあります。貴方は文学部のモンロイ先生と親しくされているでしょ? 僕はモンロイ先生の現代詩の講義を教養の科目で採っているので、貴方のことを先生からお聞きしたことがあったんです。」

 そして彼は自己紹介した。

「考古学部のサンチョ・セルべラスと言います。」

 彼は傍の歳上の男を見た。

「僕の指導教授のケサダ先生です。」
「考古学部のフィデル・ケサダです。」

 それでマイロも自己紹介した。

「医学部微生物研究室の客員研究員アーノルド・マイロです。」
「ドクトル・マイロ、失礼、ミロと呼んでしまった。」
「ミロでも結構です。研究室の人は皆さん、そう呼ぶんです。」

 やっとマイロはケサダ教授が差し出した手を掴んで立ち上がった。まだ頭が痛み、少しふらついてしまう。ケサダ教授が気遣って言った。

「取り敢えず上に出ましょう。貴方は怪我をしている。」

 マイロは考古学者達の発掘作業を邪魔してしまったと申し訳なく思ったが、頭部の痛みに逆らえなかった。セルべラスに肩を支えられるようにして、暗闇の中を歩いた。考古学者2人のヘッドライトだけが頼りだったが、彼等は慣れているのかスムーズに歩き、マイロの足元を気遣ってくれた。
 やがて明るい空間に入った。そこはもう少し広い場所で、電線が引かれ、ライトがいくつかぶら下げられていた。岩壁に棚状の穴が無数に開けられ、それぞれに人骨が入っているのを見て、マイロはゾッとした。ヘルメットに繋ぎの作業着姿をした若い男女が10名ばかり棚の内部写真を撮影したりメモを採っていたが、教授とセルべラスがマイロを連れて現れると、みんな振り返った。数人はマイロを大学で見かけたことがあったのだろう、「え?」と言う顔をした。

「先生、その人は?」
「事情は後で話す。彼は怪我をしているから、これから上へ出る。君達も片付けて後から来なさい。」

 教授は腕時計を見た。

「今午前11時14分だ。12時15分にベースに集合。」

 了承したことを示す学生達の声を聞いて、ケサダ教授に導かれマイロは再び歩き出した。歩きながらポケットを探った。財布も身分証もなかったが、首から下げているジャガーの牙だけは残っていた。


2023/02/06

第9部 古の部族       8

「ペンディエンテ・ブランカの入り口辺りに、この男の連れがいる筈だ。車の中にいる。警察に駆け込まれると面倒だから、眠らせてくれ。」

 誰かがそう囁いていた。男の声だ。すぐ近くにいる。別の声が少し離れた位置で「承知しました」と応えた。
 マイロは目を開こうと努力した。頭を動かすと後頭部に針で刺された様な痛みがあった。思わず声を出した。最初の声の主がそれを聞きつけた。

「目が覚めた様だ。」
「照明を点けましょう。」

 3人目の声がそう言った。そして目の前にほんわりとした黄色い灯りが灯った。マイロは己の瞼が開いていたことに気がついた。今迄真っ暗だったのだ。声の主達がいると思しき方向へ顔を向けた。男が2人座っていた。ライト付きのヘルメットを被り、繋ぎの作業服の様な格好だ。マイロは起きあがろうとした。再び後頭部がズキリと痛んだ。思わず悪態が口から出た。

「ああ、糞!」

 すると男の一人が囁いた。

「アメリカ人です。英語を喋りました。」
「知っている。」

 片方の男がそばへ来た。

「軽い脳震盪だ。それから少し頭皮を切っているが、大した傷ではない。」
「大したことはなくても、痛い。」

 と言いつつ、マイロは用心深く上体を起こした。恐る恐る後頭部に手を当ててみた。チクリと傷が痛んだ。

「一体、僕の身に何が・・・?」
「それは私にはわからない。」

と男が言った。

「君は竪穴から滑り落ちて来た。そして私の学生達の前にいきなり現れたのだ。」
「学生?」

 マイロは周囲を見回した。そして、2人の男の後ろにある物に気がつき、ギョッとした。

「貴方の後ろ!ミイラじゃないか?!」
「スィ、ミイラだ。」

 男もその連れも平然としていた。連れの若い方が言った。

「ここは14世紀の地下墓地で、我々は考古学者です。」

 マイロは暫く理解出来ないで土の上に座っていた。彼が覚えているのは、スラム街で携帯電話を少年にひったくられ、追いかけたことだ。路地に入り込み、角をいくつか曲がって、少年に追いつけそうになった時、いきなり後ろからガツンとやられた。そこで意識が飛んでしまった。
 マイロが黙ってしまったので、歳上の男が言った。

「オルガ・グランデの地下は金鉱を掘るための地下通路が迷路状に広がっている。そして古代から近世迄の先住民の地下墓地が同様にアリの巣のように造られている。市街の至る所にその入り口が口を開いていて、うっかりすると転落する。生きて出られるのは稀だ。大概は落ちたら死ぬ。」

 マイロは溜め息をついた。

「うっかり落ちたんじゃないと思う。ひったくりを追いかけて、多分そいつの仲間に後ろから襲われたんだ。気絶した。覚えているのはそれだけだ。」

 ああ、と若い方が呟いた。

「この人、穴に捨てられたんですよ。」
「運が良かったな。垂直の穴ではなく、傾斜孔に落とされたのだ。」

 彼等は立ち上がり、歳上の方がマイロに手を差し出した。

「立てるか、ドクトル・ミロ?」


第9部 古の部族       7

  診療所の業務時間が迫って来たので、マイロとチャパはメンドーサの元を辞した。外に出たが、まだ一日は始まったばかりの時刻だ。マイロは少しスラム街を歩いてみると言った。チャパが驚いた。

「止めた方が良いです、診療所の近所は安全かも知れませんが、奥は昼間でも危険です。」
「僕はアメリカでもっと危険な地区を歩いたことがある。それにこの広い通りから出ないように歩くよ。君は車で待っていてくれ。」

 マイロが歩き始めると、チャパは舌打ちして車の中に入った。運転席からマイロを眺め、エンジンをかけるとそっと車を駐車場から出した。少し進んで止まり、少し進んで止まり、マイロが見える距離を静かに尾行した。マイロは気がついたが、振り返らずに歩き続けた。
 スラム街はスラムなりに店があった。何やら怪しげな商品を並べて売っていたり、食べ物を出す屋台があった。マイロの黒い肌はそんなに珍しくないのか、気軽に声をかけて来る売り子もいた。マイロはそんな一人に質問してみた。

「呪い師って、どうやって探すんですか?」

 すると売り子は黙って彼から離れた。肩をすくめ、首を振っただけだった。知らないのか。マイロはさらに歩き、声をかけて来る人に呪い師のことを訊いてみたが、手応えはなかった。呪い師が何かハーブのような物を儀式に使い、それがサシガメを追い払うのだとしたら、予防手段に用いることも可能ではないか、と考えたのだが、呪い師を見つけるのは容易くないようだ。スラム街に住んでいない呪い師の住所をスラムの住人は知らないのだ。せめて探し方を教えてくれないかな、とマイロは思った。アスクラカンでもエル・ティティでも呪い師はいるのだろう。グラダ・シティでもいるだろう。しかし、どうやって連絡をつければ良いのか。

 何やってんだろうな、僕は・・・

 最先端医療の研究者の筈なのに、中米の貧しい国で最も貧しい地区で呪い師を探している。マイロはなんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。

「兄さん、タバコくれよ。」

 若い男の声が聞こえた。振り向くと、10代後半の若い男が道端に座り込んで、こちらを見ていた。

「タバコは吸わないんだ。」

 答えると、少年が立ち上がった。

「それじゃ、葉っぱは?」
「やらない。」
「それなら、なんでここに来てるんだ?」

 マイロは携帯を出した。サシガメの写真を出して見せた。

「この虫を見たことあるか?」

 少年が顔を近づけた。と思ったら、いきなりマイロの手から携帯電話をひったくって走り出した。

「待て!」

 マイロは追いかけた。少年は路地に逃げ込み、マイロは追った。チャパの目の前でマイロは姿を消した。

 

第9部 古の部族       6

「セルバのサシガメは、周辺国と同様、メキシコサシガメの一種です。特に変わった生態を持っている訳ではありませんし、体内に持っている原虫も変わらないと思います。」

 メンドーサは診察室の壁をちらりと見た。

「ここは消毒していますが、この集落の家々はそんな余裕がありません。刺される人も少なくありません。」
「では、生息場所が限定されていると言うことですか?」
「それ以外に考えられません。」

 メンドーサはカルテをパラパラとめくり、一件を広げてマイロに差し出した。

「患者はこの地区の住人です。寝ている間に刺されたと思われます。発症迄時間が経っていたので、当人は何時何処で刺されたのか覚えていませんでした。」

 患者は慢性心筋炎に罹っていた。既に死亡している。 メンドーサはさらにマイロに綴りを持たせたままで数ページめくった。

「この女性も心筋炎で死亡しました。ここは貧しい人々が住んでいます。彼等が私の所へ来る頃には殆ど手遅れの状態なのです。」

 それは他国でも同じだった。金銭的余裕がある人でも気付くのが遅い場合がある。シャーガス病は早期発見が回復の決めてで、発見が遅れれば助からない。

「何故、ここだけに発症例があるのでしょう? グラダ・シティやアスクラカンは清潔なのでしょうか?」
「清潔に見えましたか?」

 メンドーサが苦笑した。

「首都や内陸の商都が消毒薬で綺麗だと思いますか?」

 マイロは隣のチャパの表情が固くなったことに気が付かなかった。メンドーサはちょっと考えてから、言った。

「セルバ人の体質は普通のものです。特別にクルーズトリパノゾーマに免疫がある訳ではありません。その証拠に、都会の人間をこの地区に連れてきたら、数日内にサシガメに刺されますよ。恐らく、サシガメにとって、ここが一番住みやすいと言うだけなのでしょう。」

 チャパが不意に質問した。

「ここには、呪い師はいないのですか?」

 マイロはびっくりして助手を振り返った。メンドーサが若者を見た。

「この地区に住んでいません。頼まれればやって来ますが、謝礼を出せる家庭がどれだけいるか・・・」
「呪い師?」

 マイロはチャパとメンドーサ、どちらにともなく尋ねた。医者らしくない言葉だ。だが、以前にもそんな話を聞いた記憶があった。メンドーサがマイロに意味不明の微笑をして見せた。

「外国人の貴方には奇異に聞こえるでしょうが、セルバの呪い師は新しい家を建てる時に儀式を行ってくれます。そうすると、その家はその呪い師が元気なうちは病人を出さないと言い伝えられているのです。民間信仰ですがね。」
「その呪い師に払う謝礼を払えない人が、ここに集まっているんですよ。」

とチャパが悲しそうに言った。

2023/02/05

第9部 古の部族       5

  スラム街へ行くと言うと、チャパはあまり気乗りしない表情だった。だからマイロは提案した。

「僕が車から降りたら、君はそのまま市街地へ戻って、陸軍病院でシャーガス病の患者がいないか訊いてくれないか?」
「先生一人置いて行くなんて出来ません。」
「僕は医者の所にいるから、多分安全だと思う。帰る時は連絡する。」

 チャパは結局一緒に行くと言った。万が一マイロに良くないことが起これば、彼が責任を問われるとわかっていたのだ。
 スラム街は石の住居に板屋根を載っけたような小屋が建ち並ぶ斜面の集落だった。煉瓦造りの家もあったが、それもかなり年季が入っていた。だがマイロが知っているゴミだらけの歩道や落書きだらけの壁は殆どなかった。所在無げに家の前で座っている男や、井戸らしき場所で集まって喋っている女性達が、目慣れぬ車の侵入に注目したが、襲ってくる気配はなかった。
 ペンディエンテ・ブランカ診療所は看板を出していたので、すぐにわかった。白っぽい石の坂道の登り口にあるコンクリート製の建物で、駐車場も4、5台分あった。すぐ裏手の小さな家は医者の住まいかも知れない。住民の家には見えなかった。
 マイロとチャパが車を降りると、診療所のドアが開いて、メスティーソの中年男性が顔を出した。マイロは「ブエノス・ディアス」と挨拶した。男性が頷いた。

「ブエノス・ディアス。貴方がドクトル・マイロ?」
「スィ。ドクトル・メンドーサですね?」

 2人は握手した。マイロはチャパを紹介し、診療所の中に案内された。看護師らしい中年のメスティーソの女性が業務開始の準備をしていた。歩きながらメンドーサが尋ねた。

「シャーガス病の研究をなさっているのですか?」
「スィ。実は、セルバ共和国ではシャーガス病の発症例がないと聞いて、何故なのだろうと調査に来たのです。実際、グラダ・シティでもアスクラカンでもエル・ティティでも、症例があったと言う話を聞けませんでした。病気を媒介するサシガメすら見つけられなかった。だから、噂通り、この国にシャーガス病が発生していないのだと思い始めていたのですが・・・」

 メンドーサが診察室のドアを開いた。

「医療関係者に会って話を聞かれましたか?」
「スィ。グラダ大学医学部で研究者達と話をしましたが、彼等は発症例がない病気に無関心な様子でした。アスクラカンでは町医者の話を聞きましたが、やはりシャーガス病の患者を診たことはないと言うことでした。」

 マイロとチャパはメンドーサが指した椅子に座った。メンドーサは自分の椅子に座り、棚からカルテを綴ったものを数冊出した。

「私はここで仕事を始めて10年になります。シャーガス病のことは勿論学生時代に習いました。この国の医者は免許を取るとほぼ全員がメキシコや外国の病院へ研修に出ます。ですから、みんなシャーガス病のことは知っています。だが帰国してから実際に患者に出会う医者は殆どいないでしょう。」
「何故です?」

 マイロは身を乗り出した。

「何か特別なことでもあるのでしょうか? サシガメの種類が異なるとか・・・?」


第9部 古の部族       4

  セラード・ホテルはリゾート気分になれなかったが、寝るだけなら申し分なかった。部屋も平日に関わらずそこそこ塞がっていて、客はそれなりに身なりの良い人々で、ビジネスホテルの雰囲気だった。食堂がないので、朝食はチェックアウトしてからチャパと2人で街中のカフェに入った。そこでマイロはオルガ・グランデ陸軍病院に電話をかけた。グラダ大学医学部出身者が多く働いている病院で、何か相談事があれば陸軍病院に連絡すると良いと学部長に言われていたからだ。マイロは電話口に出た女性に、身分と旅行の目的を告げ、スラム街の住民の健康状態について知りたいが誰に訊けば良いかと相談してみた。
 女性は少し待って下さいと言い、一旦電話から離れたが、数分も経たぬうちに戻って来た。そしてある医師の連絡先を教えてくれた。

ーー町医者ですが、スラム街の住人の健康管理も市から委託されている先生です。

と電話口の女性は親切に言った。

ーー忙しい人ですから、電話で約束を取り付けてから訪問された方が良いでしょう。
「グラシャス!」

 マイロは教えられた番号へかけてみた。数回の呼び出し音の後で、男性の声が応答した。

ーーペンディエンテ・ブランカ診療所・・・
「オーラ、私はアーノルド・マイロと申します。アメリカから来たグラダ大学医学部の客員研究者です。ドクトル・メンドーサでしょうか?」
ーースィ・・・

 相手が戸惑ったのか、すぐには反応がなかった。マイロは急いで続けた。

「シャーガス病の研究をしています。もし時間があれば、スラムの住民の健康状態についてお話しを伺いたいのですが、貴方のご都合はいかがでしょうか?」
ーーシャーガス病?
「スィ。あの厄介な病気の予防方法を研究しています。もし、貴方の患者の中でその症例がありましたら・・・」
ーー患者はいますよ。

 え? とマイロはびっくりして声を出してしまった。セルバ共和国ではシャーガス病は発症例がなかったのではないのか?
 メンドーサ医師が言った。

ーーシャーガス病の患者はいます。だが薬剤が高価なので治療の目処が立たない。

 マイロは緊張を覚えた。

「これからそちらへお伺いしても宜しいでしょうか? お仕事の邪魔はしません。」
ーーどうぞ。診療は9時から始めます。

 時刻は午前7時半だった。


2023/02/04

第9部 古の部族       3

  オルガ・グランデのリオ・ブランカ通りにあるセラード・ホテルがその夜の宿泊場所だった。予約した訳ではなかったが、グラダ・シティを出発する前に調べたら、そのホテルが予算の範囲内で一番評判が良かった。少なくともセキュリティ上安全なのだ。だからしっかりした宿泊施設だろうと思って行ってみたら、普通の安宿だった。入ったところにロビーがあって、受付カウンターがあるのはホテルらしい体裁だ。しかし鍵をもらって2階へ上がると、トイレは共同でシャワーは一つしかなかった。マイロとチャパは隣り合う部屋に入った。ベッドと小さな物入れ用チェストがあるだけだった。冷蔵庫やテレビはない。荷物をベッドの下に押し込んで、廊下に出るとチャパも出て来た。ホテルに食事をする場所がないので、外食になる。フロントの男性に食事が出来る店を尋ねると、地図を出して来て通りを3、4本教えてくれた。そこへ行けばいくらでも店があると言う。
 ホテルから出て、2人は歩き出した。車はホテル前に路駐だ。道路脇にずらりと路駐の車が並んでいるので、少なくとも駐禁で警察に罰金を取られることはなさそうに思えた。

「セラード・ホテルにサシガメはいると思うかい?」

 マイロが尋ねると、チャパは肩をすくめた。

「セロ・オエステ村にいなければ、ここにもいないと思いますけど・・・」
「いるとすればメキシコサシガメの仲間だが・・・」

 マイロは周囲を見回した。古い石畳の道と石を基材にした家屋が並んでいる。そして広い道に出るとそこはアスファルト舗装でコンクリートのビルが建っていた。緑が少ない、と感じた。グラダ・シティに比べて街の色が白っぽい。
 昼食はエル・ティティを出る時に購入しておいたパンだけだったので、夕方にはもう空腹で堪らなかった。しかしセルバ共和国の夕食タイムは始まるのが遅い。殆どの店がまだ閉店の札を掲げていた。チャパは同国人だから慣れている。彼は大きな教会前の広場へマイロを連れて行った。そこでは気の早い屋台が早々に店を開けているところだった。
 ポジョフリート(フライドチキン)とライスの盛り合わせを頼み、道端に置かれた椅子に座って食べた。隣に座った男が、どこから来たのかと声をかけて来た。アメリカだと答えると、金を掘りに来たのか、船乗りかと訊かれた。マイロは携帯を出してサシガメの写真を見せた。

「こんな虫を見たことないですか?」

 男が目を細めて写真を見た。

「スラムに行けばいくらでもいるさ。」
「スラム?」

 男は摺鉢型の都市を囲む斜面の一角を指差した。

「まともな仕事にあり付けない連中の寝床さ。」
「虫に刺されて病気になる人もいる?」
「いるだろうさ。連中は医者にかかれないし、呪い師に払うお礼も持っていないから。」

 男がマイロをジロリと眺めた。

「昆虫学者かい?」
「まぁ、そんな様なものだけど・・・」

 研究専門の医者だと言っても、相手にはわからないだろう、とマイロは思った。男は職人風に見えた。

「貴方はこの近所の人?」
「スィ。仕立て屋だ。今日は上がってこれからバルを回る。」

 男は鶏肉の骨をしゃぶってから、マイロに注意を与えた。

「わかってるだろうが、スラムには暗くなってから近づくんじゃないぞ。」



2023/02/03

第9部 古の部族       2

  マイロは慎重にポケットから携帯を取り出した。

「正直に言います。私は今、この虫を探しています。見たことがありますか?」

 サシガメの写真を画面に出して、相手にゆっくりと差し出した。民家の住人である男性はそれを眺め、それからマイロに視線を戻した。

「そこらへんにいる虫ですが、これが何か?」

 そこらへんにいる? マイロは突然期待に心が躍るのを感じた。彼は少し慌てて身分証を出した。

「私はグラダ大学の医学部で研究をしているアーノルド・マイロと申します。アメリカから研究の為に来ている客員研究者です。」

 彼はチャパを振り返った。

「こちらはホアン・チャパ、セルバ人で私の助手です。2人でこの虫を探してグラダ・シティからオルガ・グランデ迄のハイウェイをドライブしているところです。」

 男性はマイロの大学のI Dを手に取った。彼が眺めている間にチャパも己の身分証を出した。男性は彼のI Dも見た。そして2人にI Dを返した。

「医学部のドクトルと言うことは、お医者さんですか?」
「アメリカの医師免許は持っていますが、セルバ共和国ではただの研究者です。チャパ君は将来医者になると思いますが・・・」

 チャパがちょっとはにかんだ笑みを浮かべた。マイロが説明した。

「写真の虫は原虫・・・寄生虫のようなものを持っていて、人間の血を吸います。そして糞をします。寄生虫はその糞の中にいて、人間が鼻から吸い込んだり、刺された傷口から侵入します。原虫が体の中に入った人間は心臓疾患などの病気に罹り、完治するのが困難になります。最悪、死に至ります。」

 マイロは説明を続けた。

「この病気は中南米の至るところで確認されている、広く蔓延している恐ろしい病気です。しかし、不思議なことにセルバ共和国では発症事例の報告がないのです。ですから、僕はセルバのサシガメ、この写真の虫です、と他の地域のサシガメにどんな違いがあるのか調べたいのです。」
「違いがあれば?」
「他国での予防の対策を考える材料になる筈です。」
「違いがなければ?」
「その時は、セルバ人の体質が他国の住民と違いがあるのか、調べます。」

 喋りながら、ふとマイロは思った。相手はただの農民に見える。普通の人はマイロの説明を聞いても、へぇ!とか、ふーん、と言った表情をする。難しくてよく理解出来ないと言う顔だ。しかし、目の前の男性は、「わかっている」と言う表情だった。
 男性は不意に視線を畑の方向へ向けた。

「この村でその虫に刺されて病気になったと言う人はいません。そもそも虫に刺されたと言う話は聞きません。乾いた土地ですから、虫には生きにくいでしょう。」

 サシガメは家の中にいると、マイロが言いかけると、チャパが彼の袖を引いた。そっと小声で囁いた。

「彼は僕等に去れと言っているのです。」

 マイロは助手を振り返った。チャパが小さく首を振った。先住民を怒らせるな、と言いたいのだろう。マイロは畑の向こうに見えている都市を見た。まだ調査対象はいくらでもある、と彼は思った。それで、彼は名刺を出した。

「私達の為に時間を割いて頂いて有り難うございました。もし虫を捕まえたり、刺された人がいたら、この番号に電話して下さい。すぐに駆けつけられるとは思いませんが、必ず戻って来ます。協力をお願いします。大勢の病気で困っている人々の為です。」

 すると、男性が名刺を受け取ってくれた。名前と電話番号を眺め、静かな口調で言った。

「では、私も名前を貴方に教えます。セフェリノ・サラテ。この村はセロ・オエステです。」


2023/02/01

第9部 古の部族       1

  チャパが言った通り、カーブを3つ過ぎると民家が見えた。少し離れて緑色の平地もあったので、どうやらトウモロコシ畑と思われた。ぽつりぽつりと建っている民家の外観は土壁に瓦を載せたもので、どれも平家だ。伝統的な農耕民の家だ、とマイロはちょっと明るい気分になった。サシガメがいるかも知れない。

「あの村へ立ち寄ろう。」

彼が指差して言うと、チャパが「え?」と言う顔をした。

「先住民の村ですよ。」
「それが問題かい? いかにもサシガメがいそうじゃないか。」
「僕はこっちの先住民との付き合い方を知りません。」

 暫く車内に沈黙が漂った。マイロはグラダ・シティでも先住民と付き合った覚えがなかった。少なくとも研究者と学生として言葉を交わしたことはあっても、普通の住人の家を訪ねたことはない。考えて、マイロは質問した。

「贈り物が必要だろうか?」
「そんな物は要らないと思います。村をただ訪問するだけなら・・・でも僕らは家の壁の中にいる虫を探すでしょう?」

 そうだ、いきなり他所者が来て自分の家の壁を見せろと言ったら、誰でも愉快じゃない。マイロは後部席に体を向けて、リュックから水筒を出した。そして中の水を外に捨てた。

「水を分けてもらおう。」

 チャパは無言で次の分岐で村に向けてハンドルを切った。

「言葉はスペイン語で通じるよな?」
「電気が通っているから、テレビを持っているでしょうし、大丈夫でしょう。」

 言われてみれば、電柱が街の方から並んで立っていた。未開地ではないのだ。未舗装の細い道路を走って、最初の民家の前に車を停めた。
 前庭に鶏がいた。古いピックアップトラックが1台駐車していた。裏手に洗濯物が干されているのがチラリと見えた。どこかで犬が吠え、家の中から初老の女性が出て来た。マイロが車から降りると、ちょっとびっくりしたようだ。それがマイロの肌の色に驚いたのか、ただ知らない人が来たから驚いたのかは不明だった。チャパも運転席から出たので、マイロは「オーラ!」と声をかけた。水筒を見せた。

「今日は。少し水を分けていただけますか?」

 女性は無言でマイロからチャパに視線を映した。チャパが挨拶した。

「今日は。僕達はグラダ・シティから来ました。これからオルガ・グランデの市街地に行きます。」

 すると女性は手で「そこで待て」と合図して、家の中に入って行った。マイロは助手を振り返った。チャパが苦笑した。

「どうやら、女性は見知らぬ男性と口を聞かない、って言う風習が残っているみたいです。」

 その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、家の中から先刻の女性より少し若く見える男性が出て来た。服装は普通にボタンダウンのシャツにデニムボトムだ。マイロは以前チャパが見せてくれた挨拶を思い出して右手を左胸に当てて見せた。

「ブエノス・タルデス(今日は)。」

 男性はちょっと眉を上げて、それから同じ動作をした。

「ブエノス・タルデス。どんな御用ですか?」

 目は水筒ではなくマイロの額を見ていた。相手の目を見つめるのはタブーになっている国だ。マイロに訪問の真意を尋ねている、とマイロは感じた。こんな村に水を求めに来る旅人などいないのだろう。
 マイロは腹を決めた。


第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...