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2022/12/02

第9部 シャーガス病     11

  マイロの寮の部屋には小さなバルコニーがあった。人が3人もいればいっぱいになる。隣を見ると、モンロイが時々Tシャツやパンツを干していた。他の部屋でも洗濯物を干すのに使われている様だ。反対側の部屋の住人は喫煙に使用していたので、干し物は彼が留守の時が良かった。
 マイロもTシャツやタオルを干すのに使った。
 チャパと旅行の打ち合わせを終えて部屋に戻り、旅支度を始めて間も無く、彼はそのバルコニーに動物がいることに気がついた。視線を感じたので振り向くと、ガラス戸の向こうに斑模様の大きな猫が座っていた。一瞬ヒョウかと思った。しかしヒョウにしては小柄で、ほっそりしていた。
 マイロはガラス戸が半分開いていて、網戸になっていることを思い出した。ドキリとした。

「ヤァ」

と猫に声をかけてみた。猫は黙って彼を見返した。マイロは写真を撮ってやろうと思った。携帯電話をポケットから出そうとお尻に手を伸ばすと、猫が立ち上がった。細い長い脚だ。スリムでかっこいい。尾も長く、すらっとしていた。

「君の写真を撮るだけだよ。」

とマイロが言うと、猫は黙ってそっぽを向き、くるりと体の向きを変えて、次の瞬間素早く彼の視界から消えた。

 ここは2階だ!

 マイロは慌ててバルコニーへ出る戸を開いた。猫が消えた方向を見たが、猫がバルコニー伝いに走り去って、庭の立木に飛び移って姿を消すまで見送っただけだった。
 その日の夜、アダン・モンロイと廊下で出会った時に、その話をすると、モンロイが首を傾げた。

「話を聞くと、そいつはマーゲイって野生の猫みたいだけど、この国でマーゲイがいるのは、僕の故郷のプンタ・マナ近辺で・・・」

 急に彼は口をつぐんだ。マイロが次の言葉を待っていると、彼は苦笑して見せた。

「ラッキーだったな、珍しい物を見られて。」


第9部 シャーガス病     10

  アーノルド・マイロがセルバ共和国に入国して1ヶ月経った。彼はグラダ大学の職員寮に住み、医学部微生物研究室でシャーガス病がセルバ共和国で発症していない事実を確証しようと研究していた。と言っても、この1ヶ月は文化・教育省へ大学職員として働くための手続きで通ったり、保健省で感染症の症例に関する資料を閲覧する為の許可を申請したり、国内を資料収集の為に移動する許可を得る為に外務省へ行ったり、内務省へ行ったり、と忙しく、研究らしいことは殆ど出来なかった。この南国の役所は、兎に角どの省も部署も、緩いのだ。書類を提出して、次の日に、記入の誤りや抜けた箇所の指摘の連絡が来る。書類を返してもらいに行き、訂正して提出すると、申請受理の連絡が来るのはまた次の日で、その日が週末だったりすると次週に持ち越しだ。しかも書類の種類によって担当部署や担当者が異なり、同じ建物の中を行ったり来たりする羽目になるのだった。
 唯一人の助手ホアン・チャパはマイロをドクトル・ミロと呼んだ。訂正しても直ぐ間違えるし、役所の職員達もミロと呼ぶので、マイロは1ヶ月でアーノルド・ミロに改名した気分になった。一度ある役人が彼のスペイン語が堪能なことを感心して称賛した。

「アメリカ人でそんなに喋れるなんて思いませんでした。もしかして、ジャマイカ人ですか?」
「いや、カリブ諸国に親戚はいない。だけど、研究の為にもっと若い頃からメキシコから島々やベネズエラ辺りを歩き回っていたからね。」
「ああ、成る程ね。商社マンではなかったんですね。」
「商社マンだったら、何か都合悪いのかい?」
「そうじゃありませんが・・・」

 役人が罰が悪そうに苦笑した。

「スパイ映画とかで、C I Aがよく商社マンとか新聞記者になっているじゃないですか。」

 マイロは噴き出した。

「僕がスパイだって思った? そうなら、もっと自由に活動しているよ。僕は今大学の規則に縛られているんだから。寮の門限が午後10時なんだ。」
「それはお気の毒に。」

 週末は日付が変わっても外で騒ぐセルバ人が大笑いした。
 大学のカフェは医学部よりも全学部共通の場所であるキャンパス中庭に面した大きなカフェが人気だった。学生も職員もそこで昼食を取るので、医学部のカフェは午前のお茶などでコーヒーや菓子を出す程度だ。食事を取りたければ大きなカフェへ行く。料理は一流レストラン並みとは言えないまでもリーズナブルな値段でそれなりに美味しいし、量もあるので、マイロは朝食以外はそこで済ませることが多かった。たまに隣のモンロイと外食することはあるが、大学内で用が足りるのだ。寮にはコインランドリーがあったし、病院内にもコンビニがあった。しかし、そろそろ昆虫を採取しにグラダ・シティから出る頃だな、と彼は思った。行くべき場所を助手のチャパに相談して決めてから外務省へ許可を取りに行くと、結構大雑把に「セルバ共和国北部」と言う範囲で許可証をもらえた。

「感染症の原因を捕まえに行くから、人が住んでいる場所で昆虫を捕まえる。北部なら、どんな場所に行けば良いかな?」

 農村地帯を想定しながらチャパに話しかけると、助手は地図を出して、幹線道路を示した。

「グラダ・シティから西部の基幹都市オルガ・グランデを結ぶハイウェイです。ここをドライブしながら行く先々で民家の壁などを調べて行くのはどうでしょう?」
「人口は?」
「アスクラカンと言う都市はセルバ共和国3番目の都会です。先住民もいるし、農村も周辺に集まっていますから、サンプル採取なら、ここが一番最適でしょう。次に、エル・ティティと言う小さな町をハイウェイは通ります。ここは車が休憩する程度の本当に鄙びた町ですが、東西の移動には必ず通過します。昆虫の移動もあるでしょう。但し、宿泊出来る所は1軒しかありません。滅多にありませんが、稀に満室になっていることがあって、そんな夜にエル・ティティに到着すると悲劇です。」

 チャパは経験があるのか、苦笑した。マイロは興味を感じて、「そんな場合はどうする?」と尋ねた。チャパは答えた。

「教会にお願いして泊めてもらいます。エル・ティティだけじゃなく、この国では教会があれば泊まる場所を何とか確保出来ます。聖堂に泊まるか、どこかの民家を紹介してもらうか、ですけど。」

 彼は画面を移動させ、オルガ・グランデを出した。

「ここは、軍の病院が一番大きな医療施設で、医療に関することは軍病院で聞けば良いとされています。病気も怪我もそこで診てもらえます。民間の病院となると、医療費が高いので庶民は利用出来ないんです。ああ、でも・・・」

 彼はある一点を指した。

「ここはアンゲルス鉱石と言う一番大きな鉱山会社の病院で、従業員やその家族は格安で診療を受けられます。グラダ大学病院とも患者のデータ共有をしています。それで、ここ数年は一般の市民も軍病院の紹介があれば診てもらえるそうですよ。」
「それじゃ、シャーガス病の研究にも多少の情報を提供してもらえるかな?」
「多分・・・オルガ・グランデにシャーガス病の発症例があれば、ですけど。」

 それではオルガ・グランデを最終目的地にして、昆虫採取旅行に出かけようか、と言うと、チャパは喜んだ。

「君1人だけなら、旅費は僕の研究費から出せる。但し、食費は別だぞ?」
「わかってます。グラシャス、ドクトル!」

 マイロはチャパに抱きしめられ、頬にキスされた。このラテンの乗りはまだ馴染めないな、と思った。


2022/11/30

第9部 シャーガス病     9

  セルバ共和国の教育施設は午前10時頃に半時間のお茶の時間があり、正午または午後1時から午後4時または5時迄シエスタと呼ばれる昼寝の時間がある。授業は午後6時頃に終わるのだ。マイロが休憩時間にも仕事をしても良いのか、と尋ねると、それは自由だとチャパは答えた。

「だけど助手や学生に手伝わせることは出来ませんよ。」

とニヤニヤしながら言った。

「ドクトルは今日の午後、文化・教育省に各種の手続きに行かれると思いますが・・・」
「スィ、バルリエントス博士が案内してくれるそうだ。」
「役所は正午から午後2時迄シエスタです。但し、職員によってはもっと長く休憩している人もいるので、3時頃に行かれた方が無難ですよ。」
「バルリエントスも4時迄シエスタなんじゃないか?」
「役所は3時台が一番混まないんです。」

 地元民がそう言うのだから、正しいのだろう。チャパはマイロを医学部のカフェに案内してくれた。職員に混ざって車椅子の人もいたので、患者も利用するのだ。2人はコーヒーを買って、テーブルに着いた。

「君はシャーガス病について、どの程度知っている?」
「一応、ドクトルに着くようにと言われて急遽勉強したんです。サシガメ類の昆虫が人間の皮膚を刺して吸血します。その時に糞もする。その糞の中に微生物クルーズトリパノゾーマ原虫がいて、刺した傷などから人間の体内に侵入し、臓器を侵します。」

 チャパは症例を挙げたが、どれも文献による知識の枠を出なかった。彼はシャーガス病症例に実際に接した経験がないのだ。研究者としてでなく、患者の身近な人としての経験もなかった。

「君が知っている人で、シャーガス病の罹患者はいたかい?」
「あー・・・」

 チャパは考え込んだ。

「心筋炎や栄養失調や・・・そう言う患者はいたかも知れませんが、病気の名前を聞いたことはありません。」
「だが近隣諸国では発症例があることは知っている?」
「スィ。国外に出かける時は気をつけるように、と言われます。外国には”シエロ”はいないので。」

 マイロは一瞬キョトンとした。

「”空”(シエロ)がないって?」

 チャパが苦笑して見せた。

「セルバの昔話に出てくる守り神です。仲良くしていたら病気や怪我を防いでくれる神様です。」

 医学を勉強する人間にそぐわない発言だ。だがマイロは気にしなかった。英語にだって神を普通に会話に登場させる表現があるのだから。
 チャパが小さな声で囁いた。

「さっき目を見つめて人間を支配する神様の話をしたでしょう?」
「うん。」
「その神様が”ヴェルデ・シエロ”って言うんです。セルバ人の精神的な支えです。」
「そうなのか・・・でもどうして小声で話すんだ?」
「”シエロ”はその辺にいて、こちらの会話を聞いているんです。あまり自分のことを話題に出されるのを嫌うので、大きな声で呼んではいけないのです。」



 

第9部 シャーガス病     8

  微生物研究室は教授、准教授、助手を合わせて全部で17人だと言うことだった。クアドラードと呼ばれる休憩室にいた10人の他に、講義に出て来る准教授が1人、研究室にこもっている助手が2人、休んでいる准教授と助手が2人ずついた。バルリエントスは准教授だ。マイロは彼に充てがわれた研究室に案内された。誰かのお下がりの部屋と言う感じで、中古の電子顕微鏡や、質量分析器、パソコンなどが置かれている狭い部屋だった。もし助手を付けてもらっても、1人が精々だ。狭くて動きが取れなさそう、とマイロは思った。

「前の住人はどんな研究を?」

と訊くと、案内してくれた若い男性研究者が首を傾げた。

「僕が来た時にはここは既に空き部屋だったので、時々道具を使いに誰かが来る程度でした。」

 そして彼は言った。

「僕はまだ研究対象を明確にしていないので、暫くドクトルの下に着くよう言われています。」

 つまり、助手だ。確か、名前はホアン・チャパだったな、とマイロは思った。覚えやすい名前だ。

「院生かい?」
「スィ。実は遺伝病の先生の下に入ったのですが、その先生が子供を産むので休んじゃって、仕方なく微生物研究室へ鞍替えしたんです。」

 遺伝子の研究と微生物の研究か。マイロはチャパのクリッとした目を見た。チャパが慌てて目を逸らしたので、セルバのマナーを思い出し、マイロは謝った。

「すまない、目を見てはいけないんだったね。」
「心を盗まれないように、と言う昔からの作法です。」

とチャパが言った。

「古代の神様は人間の目を見つめて心を支配して言うことを聞かせた、と言い伝えられています。だから、現代でも礼儀作法として、他人の目をまともに見つめるのはタブーなんです。」
「わかった。心しておく。だけど、遺伝子と微生物の研究はかなり違うだろ?」
「微生物の遺伝子分析をするでしょう? だから僕はここで研究を続けられるだろうと、アグアージョ教授が仰って・・・」
「そうだね。これから、2人で頑張っていこう。」

 マイロが微笑んだ時、チャイムが鳴った。チャパが言った。

「お茶の時間です。」


第9部 シャーガス病     7

 マイロは微生物を探して野外活動することも多かったので、野営は慣れていた。大学の寮に戻ると、モンロイと別れ、自室に入った。まだ午後10時になっていなかったが、くたびれたので、荷物の中から寝袋を出し、ベッドのマットレスの上に広げて、その中で寝た。熱帯でも夜は冷え込むことがある。マイロはその点は経験があったので、用心を怠らなかった。
 翌朝、買ったばかりのポットで湯を沸かした。モンロイが寮の水は沸騰させれば安全だと言ったので、それに従ってコーヒーを淹れた。窓の外は霧が出ていた。湿度が高いので、夜間の気温低下と無風状態の結果だ。コーヒーとビスケットだけの軽い朝食を取り、それから廊下の突き当たりのバスルームに行った。モンロイが昨晩忠告してくれた通り、ちょっとした渋滞が起きていたが、お陰で同じ階の住人5人と挨拶が出来た。4人はモンロイを含めた若い研究者で、 1人だけ初老の准教授だった。准教授で寮生活なのか?と思ったが、気難しそうなその男は名前しか教えてくれなかった。医学部小児科のホアン・デル・カンポ博士だった。マイロが同じ医学部で働くと言っても、黙って頷いただけだった。モンロイ以外の3人の若い男達は、それぞれ文学部で教員を目指す学生達の指導を行なっている体育講師や、物理学の助手、考古学部の助手だった。カンポ博士は白人で残りはメスティーソだ。マイロの様なアフリカ系の人は2階にはいなかった。若い男達はモンロイ同様人懐こい風だったので、カンポ博士は黒人が嫌いなのかな、とマイロは勘ぐってしまった。
 イメルダ・バルリエントス博士は約束の9時を10分ほど遅れて迎えに来た。セルバでは10分は遅れたことに入らない、と堂々と言われて、マイロは改めて己が異国に来たのだと感じた。
 
「早速アダン・モンロイと仲良くなられたのですね。」

と医学部に向かって歩きながら、バルリエントスが微笑んだ。マイロが昨夜の夕食の話をした後だ。

「彼とお知り合いですか?」
「知り合いと言えば知り合いです。プンタ・マナ近辺で貝の寄生虫を研究した時に、少し協力してもらいました。この国の先住民達は都会の人間を警戒しますので、地元出身者の協力があると大変助かります。」
「プンタ・マナの先住民と言うのは、ガマナ族ですね?」
「スィ。アダンから聞かれたのですね?」
「スィ。これから僕はジャングルとかにも入ると思いますが、用心しなければならない先住民はいるのでしょうか?」

 すると彼女は笑った。

「もし、弓矢や吹き矢で攻撃してくる裸の人々を想像なさっているのでしたら、それは間違いです。セルバ共和国の先住民は既に文明化されています。ただ、土地を使う権利に煩いだけなのです。」
「では、土地に踏み込む許可をもらう必要があると?」
「そんなのはないです。個人の所有地でない限りは。」

 医学部の建物はグラダ大学の中で最も近代的だった。病院と隣り合わせで、中庭で散歩する患者が数人見えた。マイロはバルリエントスと共に病棟ではなく、学舎の入り口から中に入った。入り口で彼は職員証を渡された。

「これがなければ、学舎に入れませんから、絶対に紛失しないでください。」

 職員証は昔ながらのパスケースにプラスティックのカードを入れて、ストラップで首から下げる形式だった。裏面を学舎の入り口の壁に備え付けられているパネルにタッチすると、ドアが開く。

「他の学舎、文系や理系の学舎は日中の出入りが自由なのですが、医学部は研究対象の人間の個人情報や外部に持ち出されると困る微生物などの資料があるので、セキュリティを厳重にしています。」

 微生物研究室は2階にあった。ガラス張りの壁で仕切られ、階段を上り終えると、最初に職員全員が休憩出来る広いスペースがあった。そこに10人ばかりの男女がいて、マイロを見ると立ち上がった。バルリエントスが紹介した。

「アメリカから来られたアーノルド・マイロ博士です。」
「マイロです、よろしく。」

 マイロが挨拶すると、彼女が年配の男性を紹介した。

「微生物研究室の室長、ベンハミン・アグアージョ博士です。水中微生物の研究をされている、私の恩師でもあります。」

 アグアージョ博士は2メートル近い大男で、メスティーソであろうが白人に近い風貌だった。手を差し出して挨拶した。

「君のことは国立感染症センターから聞いている。セルバへようこそ!」

 その後、マイロはその場に居合わせた人々を順番に紹介された。どの人も人当たりの良さそうな笑みで迎えてくれた。それぞれの専門を聞けば、この研究室の主だった研究対象は水中微生物のようだ。飲料水による感染症が多いのだろう、とマイロは心の中で結論着けた。彼のように昆虫を媒介とする微生物感染症はそんなに研究されていない。少し奇異に感じたが、シャーガス病の発症例が殆どない国なので、関心を持たれていないのだろう。
 アグアージョも彼の心の中を見透かした様に言った。

「恐らく、もう察しておられるだろうが、ここには君と共同研究する研究者はいないのだ。シャーガス病が中南米では珍しくない感染症だと知っているが、セルバ共和国では珍しい病気となっている。もしかすると逆に多過ぎて誰も関心を持たないと言う可能性もあるがね。君に部屋を用意しているが、研究の手助けが必要な時は、生物学部を頼ると良い。あちらは昆虫の研究をしている准教授がいる。ええっと・・・」

 アグアージョがちょっと戸惑って、傍の若い男性を見た。若い研究者が囁いた。

「スニガ准教授。」
「スィ、スィ、マルク・スニガだ。彼に相談しなさい。昆虫の採取や分類など、喜んで協力してくれるだろう。」


2022/11/28

第9部 シャーガス病     6

 「兎に角、僕はセルバのサシガメと近隣諸国のサシガメにどんな違いがあるのか調べる。もしサシガメに差がなくて、人間の方に違いがあるなら、別の研究者の仕事になる。」

 マイロはビールをグッと飲んだ。セルバ共和国のビールは軽くてソフトドリンクの様だ。彼は話題の方向を相方に変更した。

「君はどんな詩を研究しているんだい?」
「ああ・・・」

 モンロイがポケットから携帯を出した。

「僕は現代詩。街中で庶民が即席で歌い踊る、その歌詞を拾って歩いている。そしてそれが古くからあるこの国の民族の文化とどう結びついているか、どれだけスペイン、キリスト教の影響を受けているかを分析しているんだ。世の中の人々には何の価値もない研究だけどね。」

 彼が携帯を操作すると、低い音量で音楽が流れてきた。画面を覗くと、どこかの街中の通りで、職人が道端にテーブルを置き、その上で何らかの部品を修理している場面だった。職人は歌を口ずさみながらテンポ良く作業しているのだ。音楽はラジオや媒体から流れているのではなく、彼が作業する金属が醸し出している音だった。マイロは思わず目を輝かせてそのシーンに見入った。

「へぇ! 凄いや、この人のオリジナルの歌だよね?」
「スィ、この人はいつもこんな調子で歌っている。テンポは同じなんだけど、歌詞は毎回違うんだ。彼の即興だからね。そして次の日には、もう彼はこの歌を忘れている。だけど、勿体無いと思わない?」
「思う!」
「僕が録音していると、物好きだね、って彼は笑ったけどね。」

彼は記録再生を止めて、携帯をポケットに入れた。

「僕の教室の学生達は少ない。でもみんな熱心なんだ。歌の中には社会への不満や家族への愛が込められている。それを彼等と一緒に僕は分析している。」

 そんな文学もあるのだ、とマイロは内心感心した。シェークスピアやイェーツやサリンジャーを分析するだけじゃなく、庶民の言葉を研究しているのか。

「君はグラダ・シティの出身?」
「ノ、プンタ・マナってぇ、南の漁師町で生まれ育ったんだ。」
「親御さんは漁師?」
「ノ、漁師になれるのは生粋のガマナだけで、僕等は船のメンテナンスをする仕事や、バナナ畑で作物の管理や収穫をしている。それか、観光客相手の土産物屋やガイドだな。僕の親は親父が小さな造船所の職人、お袋は畑で働いている。」

 マイロは聞き慣れない単語を聞いた気がした。

「ごめん、僕はまだスペイン語が堪能じゃないんだが、ガマナって何?」
「誰が君がスペイン語堪能じゃないって思うかな?」

と笑ってから、モンロイは教えてくれた。

「ガマナ族って言う先住民だ。昔からプンタ・マナに住んでいて、古い伝統や言葉を守っている。漁業権を持っていて、プンタ・マナで漁師をやりたければ、ガマナ族に許可をもらわなければならないんだ。政府の先住民保護政策もあるけど、昔からの慣習でもある。」
「許可を貰えば、ガマナ族でなくても漁師が出来るんだ?」
「建前はね・・・だけど権利を買う料金が結構高いし、漁師の集まりに参加してもガマナ語が理解出来なければ話し合いに入れない。で、結局権利を手放してしまうことになるから、他の部族や他所者は漁師にならない。漁をやりたければ、プンタ・マナより北へ行くべきさ。」
「ふーん・・・君はガマナ語はわかるの?」

 モンロイが苦笑した。

「まず、ガマナ族の家族でなけりゃわからないな。発音も文法も難しいし、言葉だけでなくボディランゲージも入るんだ。全部覚えなきゃいけない。」
「じゃ、君はガマナ族の詩の研究はやらないんだ。」
「しない。したくても、彼等は教えてくれないってウリベ教授が言ってる。」

 訊かれる前に彼は説明した。

「ウリベ教授って言うのは宗教学部の先生で、民間伝承の祈祷や呪いの研究をしている女性だ。」

 そして、マイロにとってとても耳寄りな情報をくれた。

「ウリベ教授は農村や狩猟民族の風土病などを治療する呪い師などとも交流があるんだ。だから、君が研究している病気のことも知っているかも知れないぜ。」


2022/11/26

第9部 シャーガス病     5

  アダン・モンロイは中古のドイツ製スポーツワゴンを持っていた。もし今夜学部に挨拶に行かないのなら、一緒に買い物と夕食に行こうと彼はマイロを誘った。もうマイロのことをアーンと呼んでいた。やたらと人懐っこいので、うざくなる程だったが、間も無くそれはこの国の人間なら普通の他人との接し方だとマイロは知った。部屋を出て、駐車場へ行く迄の間に出会った人々は皆モンロイと親しげに言葉を交わし、マイロにも挨拶してくれたが、半分は知らない人だとモンロイは説明した。

「基本的に、この国の人間は親切で陽気なんだ。ただ、先住民には気をつけた方が良い。彼等には部族毎に独特の風習や礼儀作法があるから、怒らせると一生口を利いてくれないこともある。」

 そう言ってモンロイは可笑しそうに笑ったので、冗談なのか本当のことなのかマイロは判断しかねた。
 車に乗り込むと、モンロイはマイロに買い物は現金かカードかと尋ねた。マイロがカードだと答えると、カードの種類を訊いて来た。

「使える店とそうでない店があるから。」

 それでマイロがカードの種類を言うと、大学から車で5分の所にあるスーパーマーケットの様な所に連れて行ってくれた。メルカドと呼ばれる集合市場の様な場所で、大きな建物の中に個人の店が入居しているのだ。

「もっと大きなメルカドもあるんだが、そこは基本的に現金だ。このメルカドはカードやスマートフォン決済が使える。」

 そしてモンロイはマイロが台所で使う小鍋やフライパンやケトル、食器を購入するのに値段交渉までしてくれた。余りに親切なので、何か裏があるのではないかと疑ってしまいそうだ。

「取り敢えず、今日は台所用品だけで良いだろう? 他の物は明日から、あんたが自分で揃えていけば良いさ。」
「有り難う・・・グラシャス、凄く助かるよ。」

 マイロが礼を言うと、モンロイはニヤッと笑った。

「僕は外国人と話をするのが好きなんだ。夕食に付き合ってくれよ。あんたの国の話やあんたの仕事の話を聞かせてくれ。その為に親切にしたんだぜ。」
「それじゃ・・・」

 マイロもニヤリと笑って見せた。

「君の話も聞かせてくれ。それから大学でのルールや教授達のこととか・・・」

 モンロイは一旦寮へ戻り、マイロの荷物を部屋へ運ぶのを手伝ってくれた。そして彼自身の部屋、廊下ではマイロの部屋の右隣の部屋の中を見せてくれた。広さはマイロと同じ、だが壁にラテンアメリカの有名芸能人のポスターやサッカー選手のポスターが貼られており、書棚には詩や文学系の書籍がぎっしり詰め込まれていた。パソコンも置かれていた。

「僕は講師だから、まだ研究室をもらえないんだ。だからこの部屋が僕の研究室。図書館が書斎だな。」
「授業は週に何回?」
「今期は3回。それだけじゃ食べていけないから、家庭教師とメルカドの売り子もやっている。あんたはラッキーだ。今夜は仕事がないんでね。」

 それはつまり、モンロイと出会う機会は週にそんなにないと言うことなのか? マイロはちょっと寂しく感じてしまい、少し自分で驚いた。いつの間にか、この人懐っこい男を頼りにしてしまいかけている。
 夕食には歩いて出かけた。グラダ大学と文化・教育省などがあった雑居ビルの通りの間には商店街が数本あり、飲食店が沢山あった。殆どの店の開店時間はもう少し後だと言いながら、モンロイは行きつけの早く店を開けるバルに入った。立ち飲みスタンドの様な店だが、早々と客が集まりかけていた。そこでモンロイはセルバ流の夕食の取り方を教えてくれた。先ずバルで軽いビールと数種の小皿料理を注文する。食前酒と前菜の様なものだ。その店で満腹になるまで居座っても良いし、別のバルに移動しても良い。さらに正式なディナーとしてちょっと値の張るリストランテに入っても良いのだ。マイロはバルの奥にテーブル席があるのを見つけて、そこへ移動しようとモンロイを誘った。話をするなら、ゆっくり座って食べたかった。
 モンロイはマイロにアメリカではどんな病院で働いていたのかと訊いた。医者だと名乗ったので、病院勤めだと思ったのだ。マイロが国立感染症センターで微生物感染症の研究をしていると言うと、目を丸くした。

「それじゃ、あんたはエリートなんだ!」
「びっくりする程偉くないけどね。」
「だって、国の機関なんだろ? そんな凄い所から、こんなちっぽけな国へ何を研究しに来たんだい?」
「シャーガス病の研究だよ。」
「シャーガス病?」
「サシガメ類の昆虫に刺されて感染する病気で・・・」

 そうか、セルバ人はシャーガス病を知らないんだ、とマイロは気がついた。シャーガス病の発症例がない国だから。しかしサシガメはいるのだ。イメルダ・バルリエントス博士は彼にサシガメや蠍に気をつけろと言ってくれたではないか。彼はモンロイにシャーガス病の説明を簡単にしてから、サシガメが寮にいるのかと尋ねた。モンロイはちょっと困った表情をした。

「僕等の部屋は2階だから、蠍はいない。サシガメも・・・地方へ行った時は見たことあるけど、寮じゃ見ない。グラダ・シティにいるかどうかも知らない。」
「確かに、ここは都会だよね。でも緑地も結構多いと思う。中南米では普通にいる昆虫なんだ。ただ、セルバではこの病気の発症例が報告されていないんだよ。だから、その謎を究明しようと僕が来た訳だ。病原となるクルーズトリパノゾーマがこの国に存在しないのだとしたら、その理由を突き止めて、中南米一帯の感染予防策に採用出来るだろう?」
「それじゃ、あんたは・・・」

 モンロイがマイロを眩しそうに見た。

「ラテンアメリカの人々の為に研究しているのか?」
「大袈裟だけど、確かにその通りだ。僕は誰かの役に立ちたいから、微生物の研究をしている。」

 モンロイはビールをグッと飲み干した。

「だけど難しいと思うな。だってそうだろ? 存在の証明は簡単だけど、不在証明は困難だって言うじゃないか。」


第9部 シャーガス病     4

  寮監の名前はカミロ・モンテスと言った。妻のマリアと2人で寮監をしているのだ。彼はマイロを2階の5号室に案内した。無口な男で、古風な鍵をマイロに渡し、シャワーとトイレは廊下の突き当たりだと教えて、さっさと去ってしまった。
 マイロは汗だくだった。エレベーターがないのでスーツケースを階段で運んだのだ。イメルダ・バルリエントス博士は寮の入り口までだった。入っていけないことはなかったが、彼女の役目はそこまでだったのだ。マイロに大学周辺の地図を手渡し、夕食を取れる店をいくつか印を入れてくれた。そして明朝9時に迎えに来ますと言って去った。
 マイロはスーツケースを床に置くと、まずベッドのマットレスの下を見た。それから壁に作り付けのクローゼットの中も見た。ワンルームの部屋で、奥に小さな簡易キッチンがあった。取り敢えず棚の中もチェックして、昆虫や昆虫の糞がないか調べた。作りは古いが清潔な寮な様だ。それでもスーツケースの中の衣料をクローゼットに仕舞い込む勇気が出ずに、彼は新しいシャツを出して、キッチンで水を出し、体を拭いた。
 着替えが済んだ時、ドアをノックする音がした。

「どなた?」

 スペイン語で尋ねると、スペイン語で返事があった。

「隣のアダン・モンロイ。」

 マイロはドアを開いた。顎髭を生やした30前後のメスティーソの男性が立っていた。頭髪はちょっと縮れて肩まで伸ばしていた。彼は手にしたコーラの瓶を見せた。

「新しい隣人が来ると聞いていたもんで、ちょっとご挨拶に来た。文学部で中米の詩や散文の講師をしている。もし良ければ、中に入っても良いかな?」

 マイロは部屋を振り返った。

「何もないけど、良ければどうぞ。」

 モンロイは遠慮なく入って来た。コーラの瓶を数少ない家具の一つである小さなテーブルの上に置いた。

「本当に何もないな。他の荷物は明日でも来るのかい?」
「え?」

 マイロはキョトンとした。

「これだけだが・・・」

 モンロイと目が合った。人懐っこいクリッとした目で、文学部講師と名乗る男は彼を見返したが、すぐに目を逸らした。

「それじゃ、生活に困るだろ? 鍋とかポットとか、カップとか、何もない?」
「・・ああ・・・何もない・・・」

 何故家財道具一切が揃っていると思い込んでいたのだろう、とマイロは自分で疑問に感じた。モンロイが彼をジロジロと眺めた。

「アメリカ人だと聞いていたけど・・・」
「イエス、スィ、そうだ。医学部の微生物研究室に来た。」
「じゃ、医者?」
「微生物に起因する感染症の研究をしている・・・医者と言えば医者だけど、臨床医じゃない。」
「そっか・・・」

 モンロイがいきなりコーラの瓶をテーブルに打ち付けたので、マイロはびっくりした。しかし、モンロイはテーブルの縁で瓶の栓を抜いただけだった。それをマイロに手渡し、彼は残った自分の分の栓を抜いた。

「それじゃ、買い物に行くかい? 少なくとも、明日の朝のコーヒーとか要るだろ?」

 このやたらと親切な歓迎振りは何なのだ? マイロは思わずモンロイを見つめた。すると、モンロイはまた目を逸らして、忠告した。

「セルバ人の目を見るな。正面から見つめると、礼儀作法に疎いと思われる。下手すると攻撃の意図ありと思われて、厄介な事態になるぜ。」

2022/11/25

第9部 シャーガス病     3

  やがて数分も経たぬうちに車は広い公園の様な場所に入った。

「グラダ大学の敷地内です。貴方のご要望はアパートだったのですが、手頃な物件が見つかりませんでしたので、暫く職員寮に入っていただけますか? 個室です。」

 マイロはそれで手を打つことにした。国立感染症センターから出してもらえる住居費の範囲で、大学への通勤時間が30分以内のアパートと言うのは難しいのだろう。車で来る道中に見たのは雑居ビルの上階がアパートになっている様な住宅ばかりだった。安いのかも知れないが、シャワーやトイレなどの衛生面が気になったし、セキュリティも万全と言えない筈だ。

「学生達は寮に入っているのですか?」
「学生寮は学生の実家の収入条件があります。出来るだけ貧しい家の子供から優先的に入れますので、恵まれた家庭の出身の学生は車で10分以上かかるサン・ペドロ教会周辺の住宅地にアパートを借ります。大学が指定した訳ではないのですが、家賃や生活環境が好ましいと判断されて、自然に学生達が集まったのです。」
「それじゃ、僕も移動手段を確保出来たら、そちらへ引っ越せば良いのですね?」
「スィ。大学と文化・教育省と保健省と外務省にお届け出さえ怠らなければ。」

 四箇所も届けを出さなければならないのか。マイロは内心げっそりした。するとそんな彼の心を見透かしたように、バルリエントスが笑った。

「貴方は永住なさる訳ではないので、手続きが多くなるのです。でもコネがあれば物事はスムーズに行きます。」
「コネ? 付け届けとか・・・」

 また彼女が笑った。

「付け届けを渡して動いてくれると信用する相手はまだいないでしょう? 私が言っているのは、職場に同じ様な経歴を持っている人を見つけると言うことです。」
「同じような経歴・・・?」
「スィ、アメリカから来られて大学で働いていらっしゃる博士達です。」

 バルリエントスは魅力的な大きな目を片方瞑ってウィンクした。
 やがて車が一棟の灰色のビルの前で停まった。

「着きました。職員寮です。」

 運転手が降りて、トランクに入れたマイロのスーツケースを出した。マイロとバルリエントスも降りた。運転手が英語でマイロに話しかけた。

「寮監を呼んで来ます。」

 そして足取りも軽く建物の中へ入って行った。マイロはビルを見上げた。3階建てで、壁面の汚れ具合から見るに、築10年は経っていそうだ。

「こちらは男女兼用です。」

とバルリエントスが言った。

「男が1階と2階、女が3階です。単身者用です。結婚している人は通常、寮には入りません。」
「だろうな・・・」

 見るからに新婚家庭を築きたくない雰囲気だ。

「買い物はキャンパス内と病院にコンビニが入っています。」
「病院?」
「大学病院です。医学部に併設されています。」
「ああ・・・」

 自分はこれからこの大学の医学部で働くのだ。マイロはキャンパス内を見回すように周囲に視線を向けた。寮はキャンパスの端にあるのだろう、大きな建物は植え込みの向こうにいくつか見えていたし、そちらの方から賑やかな人の声も聞こえていた。
 その時、バルリエントスが重要なことを言った。

「お部屋に入られたら、まずサシガメや蠍が物陰や物の下にいないか確認して下さい。」
「え?」

 思わずマイロは彼女を振り返った。

「サシガメがいるんですか?」
「いますよ。」

 バルリエントスはケロリとした表情で答えた。

「中南米ではどこにでもいます。セルバも例外ではありません。」
「でも、セルバでシャーガス病の発症例はないと聞きましたが・・・」
「ゼロではありません。ただ、セルバではセルバの神々が私達を守って下さるので、刺されても直ぐに処置を行えば助かります。」

 彼女はそれ以上のことは言わず、運転手と共にやって来る初老の男性に手を振った。

 


第9部 シャーガス病     2

  イメルダ・バルリエントス博士は運転手付きの車で迎えに来ていた。マイロは「こう言う貧しい国で大学で働くエリートは上流階級並の生活をしているのだな。」と思った。車は日本製のセダンで、少し狭かったがエアコンが効いていた。バルリエントスが尋ねた。

「先ず職場に行きますか、それとも宿舎へ行きますか?」

 マイロは汗で少し不快に感じていたので、シャワーを浴びたかった。

「宿舎へお願いします。」

 車が走り出した。その時になって、マイロはバルリエントスと英語で話していたのに、運転手が通訳なしで理解したことに気がついた。彼は彼女にスペイン語で言った。

「スペイン語を勉強してきましたから、日常会話なら大丈夫です。」

 バルリエントスがニッコリ笑った。魅力的な優しい笑だったが、残念なことに彼女の左手薬指には指輪が光っていた。
 グラダ・シティの大きな通りは渋滞していた。止まってしまうことはなかったが、車は歩いても同じではないかと思われるスピードで、ゆっくりと進んだ。

「シエスタが終わったところなので・・・」

とバルリエントスが言い訳した。ああ、とマイロは納得した。中南米ではシエスタと呼ばれる昼休みが重要だ。暑い国なので、涼しくなってから働くのだ。それまではゆっくりお昼ご飯を食べて昼寝をする。

「大学も夜働くのですか?」
「ノ、グラダ大学のシエスタは正午から午後4時迄です。終業は6時。」

 それじゃ午後は2時間しか働けないじゃないか、とマイロは驚いた。事務なら兎も角、実験や分析などの研究に2時間は少な過ぎる。

「研究時間が長引いた場合は?」
「部屋の使用責任者個人の責任で終日使用可能です。でも、それは医学部だけの話です。たまに生物学部でも徹夜することはあるそうですが。」

 生物学部が徹夜するなら有難い、とマイロは思った。原虫の分析を手伝ってもらえるかも知れない。
 シャーガス病のことを質問しようとした時、彼女が右前方を指差した。

「あれが我が国の精神的シンボル”曙のピラミッド”です。」

 ビルの並びが途切れ、空間が広がっていた。白っぽい大きな石を積み上げた四角錐の建造物が見えた。エジプトのギザのピラミッドに比べれば小さいが、それでも近づいて行くと迫力があった。ピラミッドの周囲は芝生になっていて、観光客が歩いていた。ピラミッド自体は立ち入り禁止なのだろう、登ったり触ったりする人はいない様子だった。

「いつ頃の物ですか?」
「文献となるものが残っていないのですが、言い伝えではセルバに最初の人間が現れた時に、あれも一緒に現れたそうです。」

 そしてバルリエントスは恥ずかしそうに言った。

「考古学に疎いので、その程度しかお伝え出来ません。」
「大丈夫です、僕も考古学や歴史には詳しくなくて・・・」

 マイロは彼女が彼の家族やアメリカでの仕事のことを尋ねないことに気がついた。彼女自身の紹介もない。身分証を見せてくれただけだ。これがセルバ文化の常識なのだろうか。
 ピラミッドの次は白亜の石造りの大きなコロニアル風の館が見えた。こちらはフェンスに囲まれ、かなり大きな敷地を取っていた。兵隊が門の両脇に立っており、観光客の興味の的になっている。

「大統領府です。」

とバルリエントスが説明した。

「大統領と家族が住んでいます。後ろの建物が国会議事堂です。ここから見るとくっついて見えますが、実際は大統領府と議事堂の間には道路があります。」

 大統領府は横長に見えた。まだずっとフェンスと建物が続いているのだ。

「こちら側は大統領警護隊の本部です。」

とバルリエントスが説明した。

「大統領や政府高官の護衛や国家レベルの犯罪・・・テロなどの取り締まりを行っている組織です。」
「建物が大統領府より大きいような・・・?」
「隊員の宿舎や訓練施設が併設されているからです。彼らの正門は別にあります。大統領府から警護隊の本部に入ることは出来ません。」

 車はセルバ共和国の政治の中枢部を離れ、本格的な市街地に入った。オフィスビルや商店が並ぶ賑やかな地区だ。車は少し走って、小綺麗な近代的ビルの前に来た。

「セルバ共和国保健省です。貴方がこの国の中で移動される時は、必ずこちらに行き先と滞在先、同行者、旅行の目的、滞在期間の届出が必要です。普通の外国人は外務省の管轄ですが、貴方は医療関係者ですから。」
「わかりました。」
「明日、正式にご案内します。」
「わかりました。」

 車は止まらず、商店街の中に入って行った。一棟の雑居ビルの前に来た。1階にカフェとブティック、小さなクリニックが入居している。上の階はアパートか?と思っていたら、バルリエントスが言った。

「文化・教育省です。グラダ大学はここの管轄ですから、明日からここで大学で働く諸手続きをして頂きます。」

 「明日」ではなく「明日から」だ。マイロは彼女を見た。中南米では役所仕事の速度が遅いと聞いたが・・・。


2022/11/24

第9部 シャーガス病     1

  国立感染症センターが微生物学者アーノルド・マイロをセルバ共和国に派遣したのは、シャーガス病の研究の為だった。シャーガス病は中南米の風土病で寄生性の原虫であるクルーズトリパノゾーマによる感染症である。人の住居に住み着くサシガメ類の昆虫の糞に含まれる原虫が原因で、原虫の侵入した部位の腫れや炎症、リンパ節腫腸で始まり、発熱、肝脾腫に進行し、一部の患者は急性心筋炎・髄膜脳炎で死亡することもある。さらに数年後、20~30%の患者に、慢性心筋炎、巨大食道、、巨大結腸などが起きることもあり、それらはやがて死に繋がる可能性が大きい。急性期に抗原虫薬による治療を開始しなければ完治は困難で、慢性期に移行してしまうと、薬物療法の効果はあまり期待できない。そのため、この病気は本当に感染しないことが重要で、サシガメ類の昆虫に刺されないことが予防方法としか言いようがない。
 だが、中南米で唯一箇所、この病気の発症例が認められない国がある。それが、セルバ共和国だった。マイロはサシガメ類昆虫がセルバ共和国に生息するにも関わらず、病気が発生しないことに興味を抱いた。セルバのサシガメにはクルーズトリパノゾーマが寄生しないのだろうか。他の中南米諸国のサシガメとセルバのサシガメはどう異なるのか、彼はそれを調査する為に派遣された。セルバ人の体質に原因がある可能性もあるのだが、それは万が一のこととして、先ずは昆虫の研究だ。
 マイロがグラダ・シティ国際空港に降り立ったのは、雨季明けの蒸し暑い晴れた日だった。晴れていたが、空の一部には分厚い雲が浮かんでいた。いつでもスコールが始まるよ、と言う雰囲気だ。空港は南国ムードいっぱいで、褐色の肌のメスティーソ達が荷物を運んだり、再会を喜び合ったり、足早に歩いていたりと賑やかだった。知名度の低い国だから、もっと田舎っぽいと想像していたマイロは、空港ビルを出て、近代的ビルが並ぶ方角を眺めた。高層ビルと言うものは見当たらなかった。どれも4、5階建てだ。予備知識では、セルバ共和国では首都にある”曙のピラミッド”を超える高さの建築物は禁止されているとあった。だが空港から見る限り、そのピラミッドは見当たらなかった。同じような高さのビル群に埋もれているのだろう。
 湿った生暖かい空気を吸い込んだ時、左脇から声をかけられた。

「ドクトル・ミロ?」

 マイロをミロと発音するのは、英米圏の外の人間だ。マイロはその程度の覚悟はしていた。振り向くと、1人の女性が立っていた。30歳前後と見える女性で、スマートな体型だが、これはこの国ではスリムな方になるのではないかな、と彼は勝手に思った。

「そうです、アーノルド・マイロです。微生物学者です。」

 女性は薄い赤系統の花柄ワンピースの胸元にぶら下がっていたI D証を提示した。

「グラダ大学医学部微生物研究所のドクトラ・イメルダ・バルリエントスです。貴方と同じ微生物学者です。」

 そして彼女は握手する前に言った。

「申し訳ありませんが、パスポートで確認させて頂きます。」

 それでマイロは慌ててパスポートを出した。アメリカを出る前に、煩く注意されたのだ。セルバ共和国では身分証を求められたら、必ず素直に見せること、と。
 ビザを取得する時に、セルバ共和国大使館で亡命・移民審査官と言う肩書きの男性と数回面接した。そのロペスと言う男は大使館職員かと思ったが、彼自ら出した身分証には、大統領警護隊司令部外交部少佐とスペイン語で書かれていた。ビザが降りる迄、何度も入国目的を尋ねられ、シャーガス病の講義を少佐に行う羽目になった。何らかのスパイ目的かと疑われているのかと当初は腹が立ったが、よく考えると、セルバ共和国にはシャーガス病が存在しないのだ。その原因を調べに行くのだから、シャーガス病を知らない人々に調査目的を理解してもらわねばならないのだ、と彼自身が理解した。
 パスポートと国立感染症センターのI Dをじっくり吟味してから、バルリエントス博士は彼に書類を返した。そしてやっとニッコリして手を差し出した。

「セルバ共和国にようこそ!」


第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...