2021/09/25

第3部 潜む者  3

  テオはブリーフケースを引っ込めた。真っ昼間、大学でこの老人、ムリリョ博士と出会うのは初めてだ。マスケゴ族の族長で長老で”ヴェルデ・シエロ”の長老会の重鎮で、”砂の民”のリーダー的存在が真の姿だが、表の顔はグラダ大学考古学部の主任教授でセルバ国立民族博物館の館長、考古学者であり、人類学者だ。テオは彼といつも博物館や、少し意外な場所で出会うことが多かったが、職場で会うのは本当に初めてだった。ムリリョ博士は滅多に大学に来ないのだ。ただ現在のところ、セルバ国立民族博物館は老朽化を理由に建て替え工事をしており、所蔵している民具や伝統的芸術品などは各地に分散して保管されている。少しずつ地方で一般公開して、グラダ・シティに来られない国民に自国の宝物を見せて回る巡回展示が行われているが、それは本部の博物館が休館している間の学芸員達の仕事だ。ムリリョ博士は所蔵品の保管所の管理を主に行っていた。
 ムリリョ博士が大学に来る用件は何だろう?とテオは考えた。大学の考古学部と博物館は経営が別物だ。どちらも国の機関だし、文化・教育省の管轄だが、責任者は異なる。博物館の館長は大学では主任教授で、学長でも学部長でもない。それに今日は教授会議の日でもなかった。考えられるのは、ムリリョ博士はケサダ教授に面会に来たのだろうと言うことだ。フィデル・ケサダはマスケゴ族で考古学教授、ムリリョの弟子だ。そして同じく”砂の民”だろう。(テオはまだ確認出来ていない。)
 テオは声を低めて断言した。

「あのジャガーはやっぱり誰かのナワルです。」

 ムリリョが白い眉毛の下の黒い瞳を彼に向けた。テオは続けた。

「大統領警護隊が捜査中です。出来るだけ早く捕まえて正しいルールを教えなければなりません。」

 さもないと、貴方はそいつを殺してしまうだろう、と彼は心の中で言った。それが”砂の民”の仕事なのだ。”ヴェルデ・シエロ”の存在を世間に曝してしまう様な愚行を為す者を、”砂の民”は抹殺して一族を守る。
 ムリリョ博士が不機嫌な声で呟いた。

「お前が心配することではない。」

 そして彼は歩き去った。きっと、黒猫の仕事が遅いと胸中で文句を言っているだろうな、とテオは想像した。ムリリョ博士は、黒いジャガーに変身するカルロ・ステファンを「黒猫」と呼ぶ。以前は蔑みで呼んでいたが、ステファンが気のコントロールを上達させて来ると、今は愛情を込めて呼んでいる様にテオには聞こえた。カルロが生まれる前から彼の母親のカタリナ・ステファンを見守ってきた老人にとって、「黒猫」はきっと「出来が悪いが可愛い孫」みたいな存在なのだろうと容易に想像出来た。
 ステファン大尉とデルガド少尉のコンビは”砂の民”より先にジャガーを見つけなければならない。
 テオはムリリョ博士にもケサダ教授にも同胞の粛清をさせたくなかった。

2021/09/24

第3部 潜む者  2

  昼食をゆっくり食べたいセルバ人は、急ぎの用事がなければファストフード店を利用しない。職場に近いレストランでテオはロホとデネロスと3人で楽しい昼食を取った。食事中は仕事の話をしないルールだが、テオはデネロスが出席した会議がどんな様子だったのか気になった。デネロスも、恐らく初めての体験だったのだろう、役人達が堂々巡りの話し合いをして少しも議事が進まなかったことを面白おかしく語った。

「あんな退屈な仕事を少佐は2日に一度はされているんですね!」
「私だって時々しているぞ。」

とロホがアピールした。

「アスルにもやらせようと思うのに、アイツはいつも肝心な時にいないんだ。」

 テオは笑った。

「大学の教授会議だって似たようなものさ。研究費のもぎ取りが懸かっている学科の先生達だけが必死なんだ。皆カツカツだけど、なんとかやっていけてる先生は黙って見ているか、居眠りしているね。」
「テオの研究室は余裕なんですか?」
「余裕がある訳ないだろ! 研究費の不足は世界的な問題なんだ。」

 満腹になって、彼等が店を出たのは午後2時前だった。大学も文化・教育省もシエスタは午後2時迄だ。しかしテオの研究室はもう誰もいないだろう。午後は授業がなかったし、学生達のレポートを読んで、来週の試験問題を考える仕事があるだけだ。
 大統領警護隊の友人達と別れて、彼は大学へ歩いて戻った。正門から入ってキャンパス内を横切り理系の学舎へ向かって歩いていると、人文学の学舎から1人の背が高い高齢男性が出て来た。髪は真っ白で、痩せた顔には鋭く光る目がある。純血種の”ヴェルデ・シエロ”だ。テオが苦手とする人物だった。
 テオは彼と目を合わせないように心がけながら、軽く頭を下げてすれ違おうとした。挨拶の言葉をかけても返事はないのだから、黙って通り過ぎようとした。それがこの人物に対するマナーなのだ。
 最接近した時、老人が囁きかけて来たので、テオは驚いた。向こうから声をかけて来たのは初めての様な気がした。

「昨日、黒猫がお前を訪ねて来たそうだな。」

 テオは肩の力を抜いた。言葉を交わすと何故か気が楽になる。彼は答えた。

「スィ。今彼が捜査中の事案について協力を求めてきたのです。」

 老人が黙って彼を見るので、テオはブリーフケースを前に出した。

「彼とデルガド少尉が採取した動物の体毛を遺伝子分析してみました。ご覧になりますか?」

 老人が無表情にブリーフケースを見た。短く「ノ」と言った。

第3部 潜む者  1

  お昼前にテオは大統領警護隊文化保護担当部に出かけた。研究室の学生達には、夕方4時迄に戻るが、もし戻らなければ鍵をかけて事務局に預けること、といつもの指示を出しておいた。未来の予定をはっきりさせないのがセルバ流だ。学生達も心得ており、恐らく彼等は昼食を終えるとシエスタに入り、そのまま次の別の教授の授業へ行く筈だから、研究室はお昼に施錠されてしまうだろう。
 文化・教育省までは徒歩10分だ。まだ昼休み前で、テオはいつもの手続きをして中に入った。朝送り届けたケツァル少佐は姿が見えず、2人の少尉もいなかった。ロホが1人でパソコン相手に仕事をしていたので、声をかけると、カウンターの中へ来いと手で合図してくれた。
 テオがそばへ行くと、質問される前にロホが説明した。

「少佐とアンドレは港へ出かけています。警察が麻薬関係のガサ入れをしたら遺跡からの盗掘品が一緒に出て来たので、連絡して来たのです。」
「それで少佐が出張ったんだな。アンドレはアッシー君か。」
「それもありますし、現場の勉強もさせる目的でしょう。」

 女性のマハルダ・デネロス少尉の時と違ってアンドレ・ギャラガ少尉はどんどん外へ出してもらっている様だ。警備班勤務の時に遊撃班と同様の仕事をさせられて荒っぽい体験をしたので、彼ならいきなり現場へ出しても大丈夫だとケツァル少佐は判断したのだろう。

「マハルダは?」
「彼女は2階で会議に出ています。」

 デネロス少尉は口が達者なので、そっちの方で鍛えられるのか、とテオは可笑しく感じた。適材適所と言えばその通りだ。

「マハルダの様な若い子が相手にしてもらえるのか?」
「どうせ予算の取り合いで学校部門と芸術推奨部門で喧嘩する会議ですから、彼女は座って聞いているだけですよ。もっとも彼女の性格だと、どこかで口出ししそうですがね。」

と言ってロホは笑った。
 テオはブリーフケースから「チュパカブラの体毛分析結果」の書類を出した。

「細胞がないので、DNAは取れなかった。成分分析だけだ。俺の分析と動物学のスニガ准教授の分析結果だ。どちらも同じ結果だから間違いはないと思う。」
「グラシャス。 直ぐにアスルに届けてやりたいのですが、アンドレが少佐のお伴で出かけてしまったので、明日になるかなぁ。」

 と言いつつ、ロホは横目でテオをチラッと見た。この「チラッと」は用心しなければならない。

「来週は今期の試験があるから、今日は早めに帰って試験問題を考えなきゃいけない。これでも俺は准教授だから。」

 と素早く予防線を張った。さもないと、ロホは「行ってくれませんか?」と言うに決まっている。果たして、中尉が「チェッ」と言いたそうな表情をしたので、テオは可笑しく思った。

「電話で結果を伝えてやれよ。それから書類を送れば良いさ。」
「そうします。」

 ロホは時計を見た。正午迄後10分だ。デネロス少尉がそろそろ戻って来るだろう。ランチタイムを潰してまで会議をする程の根性は、セルバ人の役人にないのだ。
 テオはもう一種の書類の存在を思い出した。

「カルロから預かった体毛の検査結果も出たんだが、どこに送れば良いかな?」
「持ち歩いていたら、そのうち出会うんじゃないですか?」

 これもセルバ的な返事だ。大統領警護隊遊撃班が探しているのは、ジャガーの居場所であって、ジャガーの遺伝子分析結果ではない。ジャガーが人間のナワルだろうが、本物のパンテラ・オンカであろうが関係ない。ジャガーの所在を突き止めて、市民に危害を加えないよう処理するのが仕事だ。
 テオは人間のナワルと動物とでは潜む場所が違うだろうと言いたかったが、黙っていた。ロホが自分の書類を片付けるのを待っていると、デネロス少尉が戻って来た。テオは歓迎の挨拶を受け、彼女が机の上を片付けてランチに出かける準備をするのを眺めた。

「友達とランチかい?」
「スィ。でも、その友達は貴方ですよ、テオ。」

と言って彼女は朗らかに笑った。ロホがパソコンを閉じながら、

「私も入れてくれよ。」

と言った。彼女が親指を上に向けてグーを出したので、和やかな雰囲気で彼等は昼食に出かけた。


2021/09/22

第3部 夜の闇  12

  翌日、テオは少し早めに家を出て、ロホとケツァル少佐を拾い、文化・教育省へ送った。その後で大学に出勤すると、最初にジャガーの血液の遺伝子分析結果をチェックした。ジャガーの血液はジャガーの血液だが、そうでない部分もあった。人間の血液と混ぜた様な感じだ。人間の姿の”ヴェルデ・シエロ”の遺伝子分析結果をテオは知っている。脳の構成を決定づける因子が通常の人間と異なっていた。しかし動物に変身する因子らしきものは発見されなかった。と言うより、当時はナワルなど考えもつかなかったのだ。その後、友人達の許可を得て彼等の遺伝子を分析したこともあったが、全員同じだった。普通の人間と殆ど差がなかったのだ。脳の働きが少し違うだけで。その違いが超能力の素だろうと思えたが、全身をジャガーやマーゲイやオセロットに変化させる仕組みがどの因子なのか、テオにはまだわからなかった。ナワル状態の”ヴェルデ・シエロ”からもっと血液を採取出来れば良いのだが、ナワルは神聖な儀式の時に使うものだから、研究の為に変身してくれとは言えなかった。
 取り敢えず、アスルに依頼された「チュパカブラ」なる生物の体毛がコヨーテの物だったと言う報告書を作成し終わったところに学生達が集まり出した。彼等に昨日採取した牛の検体の分析をさせ、テオはジャガーの分析結果も印刷し、データを消去した。
 突然男子学生達が歓声を上げた。口笛を吹いた者もいたので、何事かと振り返ると、見かけない女子学生が戸口に立っていた。すぐには誰だかわからなかった。彼女はテオが振り向いたので、微笑みかけた。

「ブエノス・ディアス、ドクトル・アルスト。」

 笑顔でやっと相手がわかった。笑うとケツァル少佐によく似ている。テオも思わず微笑んでいた。

「ブエノス・ディアス、グラシエラ。」

 彼は立ち上がり、戸口へ行った。男子学生達は文学部で評判の美人学生に見惚れている。女子学生達は呆れている様だ。グラシエラは”ヴェルデ・シエロ”らしく抱擁はしないで、握手だけで挨拶した。そして尋ねた。

「少しお時間いただけます?」
「スィ。中に入るかい?」
「廊下で結構です。」

 つまり、そんなに重要ではない用件だ。テオはドアを開いたままで廊下に出た。

「どんな用件?」

 グラシエラ・ステファンはカルロ・ステファンの実妹で、ケツァル少佐の異母妹だ。兄の方針で、大統領警護隊とは距離を置いて生活しているので、テオとも滅多に出会わない。出会う時は、大概彼女が異母姉のケツァル少佐を誘って遊びに行く時だ。少佐は貴重な休日が潰れると文句を言いつつも、妹の誘いを断らない。そして何故か必ずテオを誘うのだ。アッシー君として。
 グラシエラは廊下の前後を見てから、彼に確認した。

「昨日、ここを訪問したエル・パハロ・ヴェルデはカルロですね?」
「スィ。」

 カルロ・ステファンは本隊に戻ってから滅多に実家に戻らないので、グラシエラは寂しがっている。テオは、昨日カルロが大学に来た時に妹に会ってやれと言うべきだったな、と悔やんだ。

「彼は任務で手に入れた物の遺伝子分析が必要として、俺に鑑定を依頼しに来たんだよ。君のところに顔を出すようにアドバイスすれば良かったな。」
「それは良いんです。」

 グラシエラは兄が「任務」を理由に滅多に実家に顔を出さないことで、兄に甘えることを諦めていた。彼女は声を潜めた。

「彼が女子学生と会っていたって本当ですか?」

 テオは彼女を見つめた。そして吹き出しそうになった。グラシエラは兄がガールフレンドを作ったと思ったのか?

「本当だよ。だけど、その女性は彼が捜査中の事案に関する目撃証言を伝えに来たそうだ。彼女の方から声をかけたらしい。」

 ステファン大尉がその学生の証言の信憑性を疑っていることは言わなかった。その代わりに、グラシエラにちょっと待ってもらって、ロホに電話をかけた。仕事の邪魔をしては悪いので挨拶をするとすぐに用件に入った。

「昨日、カルロが証言を取った女子学生の名前、わかるかな?」
ーースィ。顔と一緒に氏名も伝えてもらいました。

 ステファン大尉からケツァル少佐、少佐からロホへ”心話”での伝言だ。ロホから女子大生の名前を聞いて、礼を言って電話を終えた。グラシエラが興味津々で彼を見ていた。彼女はロホの名前に反応したのだ。無理もないだろう。彼女とロホは年齢が近いし、ロホはかなりのイケメンなのだ。数回しか会ったことがなくても、彼女の心に彼の印象が残っているのだ。
テオは2人を結びつけてやろうかと思いつつ、彼女に質問した。

「文学部のビアンカ・オルティスって女性を知っているかい?」
「ビアンカ・オルティスですか?」

 グラシエラは少し考えた。文学部の学生は人数が多い。義務教育の教員免許が取れるので専攻希望者がいつも定員をオーバーして他学部の教授達を羨ましがらせるのだ。グラシエラもその教員志望者の1人だった。

「何科ですか?」
「それは聞いていないなぁ。」
「調査をご希望ですか?」

 ちょっと面白がっているので、テオは彼女を巻き込みたくないと思った。下手に巻き込んで面倒なことになれば、ステファン大尉やケツァル少佐に怒られる。2人共、末っ子の妹には平穏な人生を送って欲しいと願っているのだ。

「否、調べなくて良い。必要だったらカルロが自分で調べるだろう。」
「何かの容疑者なんですか?」
「そうじゃないが・・・」

 このまま会話を続けると泥沼に陥りそうだ。テオは残念だが彼女との会話を終わらせることにした。

「一昨日の夜にサン・ペドロ教会近辺でジャガーが目撃されたって噂を聞いているかい?」
「スィ。ちょっと話題になってました。でも何かの見間違いじゃないんですか?」

 グラシエラは生まれて直ぐに祖父によって超能力を封印された。普通の人間の女の子として生きるようにと言う大人達の願いだ。”心話”は出来るが、それ以外は夜目が効くだけだ。ナワルを使えない”ヴェルデ・シエロ”だ。だから母親も兄も彼女にナワルのことを教えていない。
 テオは囁いた。

「ビアンカはジャガーを見たと証言したんだが、時間と場所を考えたら他の証言と矛盾するんだ。だからカルロは彼女が犬を見間違えたんだろうって考えている。」
「そうなんですね。」

 目撃者が見間違えたのなら、ステファン大尉はもうビアンカ・オルティスに興味を持たないだろう。グラシエラはそう考えた。兄の意中の人は知っている。兄は異母姉に恋をしている。シータの心の中は彼女には読めないのだが、彼女はセルバ共和国の家族法を知っていた。「先住民に限り」と言う文言付きだが、異母兄弟姉妹は婚姻出来る。つまり、シータさえ承諾すれば、兄は彼女を娶ることが出来る。グラシエラは異母姉が大好きで尊敬していた。ただ、兄と姉が婚姻可能と言う法律にはちょっと引っかかっていた。とは言うものの、兄を悲しませたくなかったし、同時に兄に他の女を好きになって欲しくもなかった。
 兄がビアンカ・オルティスと何も関係がないのだったら、それで良い。
 グラシエラは、テオの仕事の邪魔をしたことを謝罪し、次の授業のために人文学の学舎へ戻って行った。 

2021/09/21

第3部 夜の闇  11

  カルロ・ステファン大尉はケツァル少佐の目を見た。”心話”で報告だ。一瞬で情報を得た少佐は頷いた。

「確かに、それは怪しいですね。」

 そして彼女は前へ向き直った。

「あまりこちらが目立っても、向こうに用心されるだけです。出没が昨日だけなら放っておけば良いでしょう。では、ご機嫌よう。」

 敬礼する大尉を残して彼女は車を出した。坂道を再びゆっくりと上って行くと、後ろを振り返ったロホが呟いた。

「おやおや、デルガド少尉は用足しに行く時にナワルを使うらしい。」

 え? っとテオは驚いて後ろを見ようと体を捻った。しかし大統領警護隊のジープは既に黒いシルエットどころか夜の暗がりの中に溶け込んで見えなかった。
 少佐は角を曲がり、少し走ってテオの家の玄関前にある駐車用スペースに車を入れた。

「コーヒーでも飲んで行くかい?」

 テオが誘うと2人の”ヴェルデ・シエロ”は素直に彼について家に入って来た。室内に入るとロホが勝手に掃き出し窓を開け、風を入れた。テオはキッチンでコーヒーを淹れた。少佐は何もしないでソファで眠たそうに座っていた。
 テオがコーヒーを運んで来ると、ロホが少佐にステファン大尉の報告を教えて下さいと言った。テオも興味があった。それで少佐は口外無用と言いながら、他部署の情報をペラペラと喋ってくれた。

「遊撃班の2人は今日の午後この付近一帯で目撃情報を収集しました。住民の証言はどれも同じで、西の方から犬が騒ぎ出し、サン・ペドロ教会前を過ぎて、東へ騒ぎが移って行ったと言うものです。たまに庭土に足跡が残っている家があり、それらからも東にジャガーが向かっていたことがわかりました。
 私が怪しい気配と最接近したのは東サン・ペドロ通り2丁目と第3筋の交差する付近でした。恐らく向こうは3丁目の通りにいた筈です。犬を黙らせてから、私は第3筋を上って引き返し、1丁目を歩いて西サン・ペドロ通り第4筋のアパートへ帰りました。歩きながら犬が再び吠え始めるのを聞きました。東の方へ吠え声が伝わって行ったと記憶しています。」
「俺が今日の昼過ぎにカルロと出会ったのは東サン・ペドロ通り3丁目の第6筋と第7筋の間だった。」
「カルロはその辺りの民家の庭にも足跡があったと言っています。ジャガーは道路や庭をフラフラとぶれながら東へ進んだのでしょう。」

 ロホがカップを手にしたまま、コーヒーに口を付けずに尋ねた。

「信用出来ない証言と言うのは、どんな内容です?」
「カルロが大学にテオを訪ねた後だそうです。女子学生が彼に声をかけて来たと言っていました。」
「カルロは女性にモテるからな。」
「テオ!」

 テオはチャチャを入れてしまって、ロホに注意された。少佐の話の途中でチャチャ入れはご法度だ。果たしてケツァル少佐はコーヒーを飲んで黙り込んでしまった。彼は謝った。少佐はもう一口飲んでから、話を再開した。

「女子学生は、ジャガーを目撃したと言いました。場所は西サン・ペドロ通り3丁目と第7筋の交差点です。彼女は2丁目の交差点にいたそうです。1丁目に彼女が家庭教師として雇われている家があり、彼女は2100より少し早めに仕事を終えて帰宅する為に自転車で坂を下っていました。彼女の家と雇い主の家は坂道でまっすぐ行き来出来る位置関係だそうです。
犬が騒いだので、彼女は不審に思い、自転車を停めて下りたそうです。そして下の交差点を横切るジャガーを見ました。ジャガーは東から西へ歩いていたそうです。」

 テオとロホが同時に挙手した。少佐が最初にテオに顔を向けた。テオが確認した。

「君が怪しい気配を感じて気を放ったのは、何時だった?」
「家に到着したのが2120でしたから、東サン・ペドロ通り2丁目と第3筋の交差する付近にいたのはほぼ2100丁度でしょう。」
「それより早い時間に女子学生は西サン・ペドロ通り3丁目と第7筋の交差点でジャガーを見たって? それも東から西へ歩くところを?」

 ロホが、それは無理、と呟いた。

「何丁目かは考えなくても、西の第7筋を東から西へ向かって歩いたジャガーが、数分後に東の第3筋にいる筈がありません。全力疾走してもジャガーの足で5分はかかります。ジャガーが走れば犬はもっと騒ぎ立てたでしょう。」
「そうですね。それに東サン・ペドロ通りで見つかった足跡は全て東向きだったそうです。ジャガーは西へ戻っていない。少なくとも、ジャガーの姿では西へ向かっていないと思われます。女子学生以外の、西へ向かうジャガーを見た人はいないのです。」
「それじゃ、その女子学生は何故嘘の証言をしたのか、と言う疑問が生じます。」
「彼女は”シエロ”ではないのか?」
「カルロは彼女の気を感じていませんが・・・」

 少佐がロホの目を見た。ロホが「へえ」っと言ったので、テオは彼を見た。ロホが言い訳した。

「美人なんです。何処かの部族の純血種と思われます。」
「”シエロ”か”ティエラ”かはわからないんだな?」
「気の制御が上手ければ、”ティエラ”のふりが出来ますから。」
「怪我はしていなさそうか?」
「見えた範囲では怪我はない様です。」

  恐らく、カルロ・ステファン大尉とデルガド少尉はその女性の証言に疑いを抱き、ジャガーはまだ東の地区にいると踏んだのだろう。
 それにしても・・・テオは先刻気になったことを思い出した。

「ロホ、君はデルガド少尉がナワルを使ったって言ったよな?」
「え・・・言いましたっけ?」

 ロホはすっとぼけようとしたが、上官程には上手くなかった。当の上官に睨まれて、告白した。

「マーゲイが交差点の陰から出て来て、カルロが車のドアを開けて乗せてやるのが見えたんです。」
「それ、用足しじゃなくて偵察に行っていたんじゃないのか?」
「カルロが許可したか命令して、少尉がナワルを使ったのでしょう。短時間なら大丈夫だと思ったのですね、きっと。」

 ケツァル少佐は見逃すべきか否か考えた。遊撃班長は許可したのだろうか。
 テオは別のことが気になった。

「俺にはデルガド少尉が純血種に見えたけど、ナワルはジャガーじゃなくてマーゲイなんだ?」
「デルガドはグワマナ族です。力が弱いんですよ。」

 とロホが教えてくれた。一般に・・・”ヴェルデ・シエロ”を知っている非”ヴェルデ・シエロ”と言う意味だが・・・純血種の方がミックスより能力が強いと考えられているが、それは誤解だ。純血種は、修行をしなくても能力を生まれつき使えるが、ミックスは教えられて訓練しないと使えない、と言うのが大きな差だ。超能力のパワーは、親や先祖がどの部族かで決まる。穏やかな能力の使い手であるグワマナ族の純血種より、古代から一族の頂点に立ってきたグラダ族の血が4分の3入っているミックスの方が遥かに力が強いのだ。だから、カルロ・ステファンは黒いジャガーで、デルガド少尉は小柄なマーゲイだ。
 翌日の仕事があるので、ケツァル少佐とロホは徒歩で帰宅することにした。どちらも純血種のグラダ族とブーカ族だ。それに拳銃を常時携行している。正体不明のジャガーが襲ってきても対処出来る。
 テオは2人から戸締りを厳重にと繰り返し言われながら、彼等を送り出した。


第3部 夜の闇  10

  結局車はテオの車で、運転は一番酒に強いケツァル少佐が引き受けた。市街地から一番遠いマカレオ通りにあるテオの家迄、3人で一台の車に乗って住宅街に向かってゆっくりと走った。テオがステファン大尉がジャガーの体毛を大学の研究室に持ち込んだ時に話した「尻尾がちょん切られたらどうなるか」の話をすると、少佐もロホも大笑いした。

「切らなくても、尻尾を怪我した時のことを思えば想像がつくでしょう。」

とロホが言った。すると少佐が笑い声を必死で押さえながら、

「誰とは言いませんが、ある少佐が尻尾をドアに挟んだことがあります。」

と言い出して、男達の注意を集めた。

「ある少佐?」
「私ではありませんよ。自分のことでしたら、私ははっきりそう言います。」

と少佐は予防線を張った。

「尻尾をドアに挟んで、その少佐はどうなったんだ?」
「彼はナワルを解いた後、一週間お尻が痛くて、まともに任務に就けませんでした。お陰で、私の仕事が増えて迷惑したのです。私はその時、まだ大尉でした。」
「文化保護担当部が設置される前の話か・・・」
「スィ。大昔です。」

 せいぜい3、4年前の話だ。それなら、その尻尾をドアで挟んだドジな少佐はまだ少佐のままなのかも知れない。

「ちょん切られて残った尻尾はどうなるのか、知ってるか?」
「消えます。」
「へ?」
「本体が人間に戻る時に、切れた尻尾は小さな骨と肉片になります。」
「確かか?」
「スィ。それも実例がありました。事故でしたけど、負傷者はかなり後遺症に苦しみました。体の一部を損傷して紛失したことになりますからね。1年ほど座れなかったのです。」
「やっぱりお尻に怪我をしたのか・・・」

 想像しただけで痛い。テオはナワルを使えなくて良かった、と思った。どんなメカニズムで変身するのか知らないが、どんな姿になっても人間の肉体なのだ。人間の骨格標本を見ると尾骨がある。ナワルを使う時はそれが伸びるのか? とテオは想像した。

「カルロは今夜この問題に悩んで眠れないんじゃないですか?」

とロホはまだ笑っていた。テオは血液を付着させて体毛を残したジャガーは、どの部分を怪我したのだろうと気になった。有刺鉄線で引っ掛けた傷なら、かなりヒリヒリ痛むだろう。

「俺は尻尾の管理まで出来る自信がないな。ドアで尻尾を挟んだ少佐も、尻尾の存在を忘れていたんだろうさ。」

 機嫌良く車を走らせていると、マカレオ通りの標識が見えた。そのそばに大統領警護隊のジープが駐車していたので、少佐が減速した。ジープの外で車体にもたれかかってタバコを吸っている男がいた。近づいて来る車を見て、誰の車かわかったらしく、片手を挙げた。少佐が後続車がいないことを確認して路肩に車を寄せて停めた。窓を開けると、カルロ・ステファン大尉が近づいて来た。

「警察ではないので、飲酒運転の取り締まりはしませんが、気をつけて下さいよ。」

と彼は元上官に注意した。テオが助手席で尋ねた。

「何故俺達が酒を飲んだってわかるんだ?」
「全員自家用車通勤なのに、1台にまとまってるじゃないですか。」

 彼は異母姉から酒の匂いを嗅ぎ取ろうと鼻をひくつかせた。少佐は卑怯にも黙りを決め込んだ。それでテオが言い訳をした。

「2件の動物の体毛分析結果について会議をしたんだよ。」
「バルでですか?」
「大尉、しつこいと嫌われるぞ。」

とロホが後部席でテオに加勢した。彼は上手に話題を転向させた。

「ここでジャガーを張っているのか?」
「そのつもりだが、昨夜の今日だ、ジャガーが誰かのナワルなら今夜は動けないだろう。しかし用心の為にここにいる。」
「相棒の少尉は何処だい?」

とテオは窓の外を見回した。ステファンは言葉を濁した。

「デルガドはちょっと・・・直ぐに戻って来ます。」

 つまり、生物の自然現象に逆らえないってことだ。遊撃班の2人はジャガーが現れないだろうと言う前提でこの場所にいる。だからステファン大尉は平気で喫煙しているのだ。
 テオは通りの名前を記した標識を見た。街灯の暗い灯りだが、普通の人間の彼にも文字は見えた。

「ジャガーは西から東へ向かっていたと聞いたが、マカレオ通りに君達がいるのはどう言う訳だい? ジャガーが家に帰ったのなら、西へ戻るだろう?」
「確かに、ジャガーが東から西へ向かったと言う証言がありましたが・・・」

 ステファン大尉は困った顔をした。あまり情報を「部外者」に言いたくないのだ。そこで初めて少佐が口を挟んだ。

「何? その証言が信用出来ないのですか?」

 大尉がビクッとした。姉ちゃんに図星をつかれる時の癖だ、とテオは心の中で思った。

2021/09/20

第3部 夜の闇  9

  食事の為に選ばれたのはイタリアンの店だった。少佐はレギュラーサイズのトマトソースとミートボールのスパゲティを2皿と特大サイズ1皿を注文した。それからビステッカの大皿とサラダ、イタリア風オムレツ、ローストした野菜の盛り合わせ等。店は少佐が常連客なので要領を得ていた。特大サイズのスパゲティを一番体格の良いテオの前に置き、取り皿も置いた。ロホと少佐はレギュラーサイズの皿で、少佐は少しずつテオの前の大皿から欲しい分だけ取っていくのだ。
 ワインを飲みながら、テオが話の続きを始めた。

「歩いて帰る件だが、ちょっと用心した方が良いな。」
「例のアレですか?」

とロホがはっきりしない物言いをした。少佐が「アレ?」とすっとぼけた表情で尋ねた。ロホが彼女に説明した。

「昨夜2100頃に東西のサン・ペドロ通りで犬が大騒ぎしていた件です。」

 ああ、と少佐は頷いた。

「吠えていましたね。」
「ジャガーを見たと言う通報が警察にあったそうだよ。」

とテオが言うと、「そう?」と驚いたふりをした。テオは彼女の見え見えの芝居に慣れていたので、無視した。

「警察は大統領警護隊に連絡した。それで、警護隊は遊撃班に捜査命令を出した。だから、今日の昼頃からステファン大尉とデルガド少尉が住宅地で聞き込み調査をしていた。俺はロホに呼ばれて文化保護担当部へ行く途中で彼等を見かけて声をかけたんだ。カルロがわかっていることを教えてくれた。民家の庭にジャガーの足跡が残っていた。見たと言う人も数人いるらしい。」

 少佐が無反応なので、彼女がジャガーの出没を知っているのかどうかわからなかった。

「俺がロホからチュパカブラの体毛を預かって大学で分析してたら、カルロがやって来たんだ。何処かの有刺鉄線にジャガーの毛が引っかかっていて、それを持って来た。毛の塊には血が付着していたから、今分析にかけている。明日の朝には結果が出るだろう。」
「ジャガーの毛?」

 少佐が呟くと、ロホが「黄色ですか?」と訊いた。テオは頷いた。

「どんな結果が出るのか、俺にはわからない。ジャガーだと言う結果が出るか、人間だと言う結果が出るか・・・」

 ”ヴェルデ・シエロ”はユニークだがヒューマノイドだ。それは過去の血液分析結果でわかっていた。だが、ナワルで変身したジャガーはどんな血液になるのだろう。もしジャガーになっている時の”ヴェルデ・シエロ”の血液がジャガーのそれになっていたら、分析結果だけでは住宅地に現れたジャガーが”ヴェルデ・シエロ”なのか本物のジャガーなのか判定出来ない。もし人間の血液だと言う結果になれば、それはかなり興味深い。姿はジャガーでも血液は人間のままだ。

 そう言えば、ナワルのジャガーは人間の思考力を持っている。

「もし昨夜のジャガーが人間なら、どう言うことが考えられる?」
 
 テオの質問に、少佐が不愉快そうに答えた。

「自制心のない人です。初めてナワルを使って慎みを忘れたのでしょう。」
「下手をすれば、”砂の民”に知られてしまいます。」

とロホが心配した。”砂の民”は”ヴェルデ・シエロ”の存在を世間に知られてしまうような行動を取る者を許さない。気の抑制が下手なミックスの”ヴェルデ・シエロ”が純血種に嫌われるのも同じ理由だ。”砂の民”に危険分子と判断されれば殺されてしまう。
 テオはママコナが新参者のナワル使用者に警告を与えないのかと気になった。

「ママコナが・・・」

 言いかけると、ロホが「しっ!」と口の前で指をクロスして見せた。みだりに呼んではいけないのだ。テオは反省し、言葉を変えた。

「名前を秘めた女の人は、新しいジャガーに作法を教えてやらないのか?」
「作法を教えるのは部族の年長者の役目です。」

 そう言って、少佐は昨夜の出来事を思い出した。

「彼女は新しいジャガーを知りません。」

 テオとロホに注目されて、遂に彼女は昨夜の体験を白状した。

「昨晩、私は散歩に出たのです。犬が西の方角から騒ぎ出し、徐々に東へ興奮が伝わって来ました。同時に何かが西からやって来るのを感じました。それが犬を怯えさせているのだと分かりました。私の近くまで来たので、私の周囲の犬も大騒ぎを始めました。私は不快に感じたので、犬を鎮める目的で気を発したのです。」

 ああ、とロホが頷いた。

「それで、犬どもが一斉に大人しくなったのですね。」
「スィ。犬を騒がせた者は私がいた通りから1本南にいました。私の気をそいつも感じたのでしょう、そこで停まっていました。私はそこから来た道を辿って家に帰りました。その時に彼女が私に『どうかしましたか』と尋ねて来ました。私が犬を鎮めただけですと答えると、彼女は納得してそれっきりでした。」

 テオは少佐の自宅とピラミッドの位置関係を頭に思い浮かべた。

「君のアパートは西サン・ペドロ通りだったな? ピラミッドのほぼ真北だ。」
「それが何か?」
「名前を秘めた女の人が君の気を感じた理由はわかった。君の力は大きいから、ピラミッド迄十分届いたんだろう。だけど、今日の昼に俺がカルロ達と出会ったのは、東サン・ペドロ通りだった。ジャガーは君の気を感じて立ち止まったが、その後再び東へ向かって歩いたことになる。」
「そのジャガーの家は東に行ったところにあるのかも知れませんね。」

とロホが言って、テオと少佐の注目を浴びた。ロホは肩をすくめた。

「きっと今夜は現れませんよ。ナワルを使った後は疲労感が半端じゃないですから。」

 

第3部 夜の闇  8

 午後6時過ぎ、テオドール・アルストは文化・教育省が入居している雑居ビルの前の歩道で退庁して出て来る職員達を眺めていた。誰とも約束していないが、1人ぐらいは夕食に付き合ってくれるだろうと期待しつつ立っていると、マハルダ・デネロス少尉がいつもの如く他部署の女性職員達とお喋りしながら出て来た。彼女は友人達と夕食を取ってから大統領警護隊の官舎に帰るのが毎日のルーティンだった。テオを見かけても手を振るだけで立ち止まってくれない。声を掛ければ来てくれるだろうが、その時はその他大勢の女性達も一緒だ。テオは彼女達の分までは払えなかった。だからデネロスはパスだ。
 少し遅れてアンドレ・ギャラガ少尉が小難しい顔をしながら現れた。彼は勉強があるので、夕食を何処か近くで簡単に済ませて官舎へ帰ってしまう。真面目な男だ。引き抜いてくれたケツァル少佐の為にも早く一人前の文化保護担当部隊員として働きたいのだ。だからテオは邪魔しない。ギャラガも彼に気づくと、片手を挙げて「さようなら」と挨拶をしてくれただけだった。ロホとケツァル少佐が間に2人置いて出てきた。ロホがテオに気がついて向きを変えてやって来た。

「ドクトル、何か分かりましたか?」

 仕事関連の時はテオではなくドクトルと呼ぶのが彼の習慣だった。彼の声を耳にして、少佐もやって来た。

「アスルの毛のことですか?」

 まるでアスル自身の体毛の話みたいに聞こえる。テオは苦笑した。

「晩飯に付き合ってくれるなら、結果を教えるよ。」

 少佐とロホがほぼ同時に「スィ」と答えた。
 店はいつもと同様に少佐が選んだ。高い店も安い店も少佐が選べば間違いなく美味しい物が食べられる。その晩は賑やかな方が内緒話にふさわしいと言うことで、立食バルから始まった。

「まず結果から言えば、あれはコヨーテの毛だった。」

とテオは報告した。

「ただ、伝染性の病気を持っている。狂犬病でなかったのが不幸中の幸いだ。被害が広がらないうちにコヨーテを捕まえた方が良い。周囲の村の家畜や犬、健康なコヨーテに病気が広がると面倒なことになる。」

 少佐が頷いた。

「内務省に勧告します。病気のコヨーテは1頭だけだと思いますか?」
「もらったサンプルだけでは複数か単数かわからない。だが発掘調査隊は十分用心しないといけないな。」
「チュパカブラの噂が出てから作業は停滞しているそうですから、作業員を分散させないようアスルに見張らせましょう。」
「問題はアスルが作業員達を納得させられるかどうか、ですね。」

とロホがビールの泡を鼻の下にくっつけて言った。少佐が紙ナプキンで拭き取ってやったので、彼はちょっと赤面した。それを誤魔化すために彼は言葉を続けた。

「彼は最初っからコヨーテだと言い張っていたのに、作業員達がチュパカブラだと騒いでいました。」
「発掘作業の妨害じゃないか?」

とテオが言ったので、少佐とロホが彼を見た。

「何故そう思うのです?」
「だって、そのミーヤ遺跡周辺で今までチュパカブラが出たって話があったのかい? 何もなかった土地でいきなり吸血鬼の話が出てくるなんて、おかしいぞ。」
「発掘を妨害して誰かが得をするのですか?」
「それは・・・」

 テオは言い淀んだ。 

「日当はどうなるんだ? 掘らなきゃもらえないのか?」
「それは調査隊サイドの問題で、当局は関知しません。」
「国はどうなんだ? 許可が下りた日程が過ぎてしまえば、国は発掘作業があろうがなかろうが、発掘を打ち切らせるんだろ?」
「スィ。」
「調査隊が収めた費用は国がそのままもらっちまう・・・」
「協力金は勿論返金しません。だからと言って、国が得をする訳ではありません。寧ろマイナスイメージになります。」

 そこで考えが尽きて、3人は暫く黙ってお酒とつまみを楽しんだ。2杯目のビールのグラスを手にして、テオは言った。

「兎に角、明日検査結果の報告書を作成する。アスルに直接送った方が良いか? それともそっちのオフィスに持って行こうか?」
「郵便では何時届くか分かりません。」

 少佐が赤ワインを飲みながら言った。

「アンドレを遣いに出しましょう。一度彼を出張させてみたかったのです。あまりグラダ・シティから出た経験がないので、他所の地方へ出かけることに慣れさせないといけません。」
「それじゃ、報告書はオフィスに持って行く。多分、お昼迄には提出出来る。」

 ロホがふと手に持ったビールのグラスを見た。

「今日は3人共車で来たのに、3人共飲んでますね。」
「歩いて帰れば良いさ。」

 テオはまだ酔っていなかった。これからディナーだ。少佐が携帯を出した。食事をする店に電話をして席を確保すると、男達を促した。

「食事に行きますよ。早く飲んで!」


第3部 夜の闇  7

  分析結果が出たら電話で教えると約束して、テオはステファン大尉を研究室から送り出した。学生達はアルスト先生が大統領警護隊の隊員と親交を持っていることを知っているので、別れの挨拶をしている2人を尊敬と羨望の眼差しで眺めていた。ステファン大尉はあまり学校が好きでないので、通信制の受講時代も殆どキャンパスを訪れたことがない。スクーリングの日に少佐やロホにせっつかれて渋々出席したぐらいだ。周囲にいる若者達が己と同世代だと言う意識があまりなかった。何処か別世界の人々、そんな感覚で彼は学生達の間を歩いて駐車場へ向かっていた。

「大尉!」

 誰かが呼んだ。周囲に軍人らしき人間が見当たらなかったので、彼は立ち止まった。女子学生が1人、彼に近づいて来た。片手に本を数冊抱えていた。

「大統領警護隊の大尉ですね?」

 ステファンは頷いた。

「スィ。大統領警護隊のステファン大尉です。」
「私は文学部のビアンカ・オルティスと言います。あの・・・もしかして、昨夜のジャガーをお探しですか?」

 ステファンは驚いた。ジャガーの出没は公表していない。目撃者には世間を脅かすといけないからと口止めした。しかし、全ての目撃者を当たった訳でもないので、情報が既に拡散している可能性はあった。彼は用心深く尋ねた。

「サン・ペドロ教会の近くにお住まいですか?」
「スィ、西サン・ペドロ通りの一番南のブロックに住んでいます。」

 南と言うことは、その界隈では家賃が安い地域だ。学生達が好んで住みたがる新しいアパートなどが建ち並んでいた。

「何かご覧になったのですね?」
「ジャガーを・・・」

 ビアンカ・オルティスはそっと周囲を見回した。ステファン大尉は他の学生達が好奇心でこちらを見ているのに気がついた。それで彼女に丁寧に声をかけた。

「もしよろしければ、何処で何を目撃したのかお聞きしたいのですが、そこのカフェで話しませんか? お友達がいるならご一緒にどうぞ。」

 彼女は承諾し、2人はカフェの屋外席にテーブルを確保した。オルティスは連れはいないと言い、コーヒーも断った。ステファン大尉は実際には使用しないが、スマホを置いて録音すると断った。彼女はそれを了承した。

「昨日は西サン・ペドロ通り1丁目のお宅へ家庭教師の仕事で出かけていました。」

と彼女は始めた。

「自宅アパートから坂道をまっすぐ上るだけなので、行きは自転車を押して行き、帰りはそれに乗って一気に下るので、夜でも安全だと思ってました。仕事は19時から21時頃迄で、家に帰ってから晩御飯を食べます。だから寄り道はしません。昨日は少し早く終わったので、自転車に乗って・・・犬が吠え始めたのです。それも1匹や2匹ではなくて、そのブロックから西の犬が全部って感じで吠えて・・・。」

 彼女は肩をすくめた。

「犬は好きなんですけど、物凄く切羽詰まった吠え方なので怖くなって、坂道の途中で自転車を降りて立ち止まってしまいました。」
「どうしてです? 一気に家迄下った方が安心出来るでしょう?」

 ステファンが突っ込むと、彼女は首を振った。

「分かりません、どうしてそうしたのか・・・兎に角怖かったんです。自転車を下りてすぐに、坂道の1本下の交差を大きな動物が横切るのが見えました。」
「大きな動物ですか。」
「昨日は満月が近くて月が明るかったでしょう? 頭から尻尾まで見えました。虎かジャガーだと思いました。犬じゃありません。歩き方が動物園で見たジャガーそっくりでした。」

 ステファン大尉は成る程と頷いた。

「斑模様は見えましたか?」
「月明かりで、背中が光っていましたから・・・あったと思います。」
「黄色いジャガー?」
「多分・・・黒くはなかったです。縞模様でもありませんでした。」
「そのジャガーはどっちの方向からどっちの方向へ行きました?」
「ええっと・・・左から右へ・・・東から西へ・・・」
「路面を歩いていたんですね?」
「あの時はそうでした。」
「目撃した場所の正確な住所は分かりますか?」
「西サン・ペドロ通り3丁目と第7筋の交差点です。」
「貴女はその時、第7筋の2丁目あたりにいた?」
「スィ。もしあのまま立ち止まらずに下っていたら、ジャガーと鉢合わせしたかも知れません。」

 ビアンカは身震いした。ステファン大尉はグラシャスと言って、スマホを仕舞った。

「その話はお友達に話しましたか?」
「スィ。そしたら、エル・パハロ・ヴェルデが生物学部の先生のところに来ているから、話すべきだと言われました。」

 と言ってから、彼女は慌てて「失礼しました」と謝った。大統領警護隊の隊員本人に面と向かって「緑の鳥」と呼び掛けるのは失礼に当たるのだ。しかしステファン大尉は気にしなくて結構です、と微笑して見せた。そして胸の内ではジャガーの出没情報がかなり拡散されているな、と毒づいた。


2021/09/19

第3部 夜の闇  6

  文化・教育省の終業時刻迄まだ2時間もあったので、テオは友人達を待つこともなく、大学へ行った。事務局へ行って学生が預けた鍵を受け取り、研究室へ行った。最初に冷蔵庫に牛の検体が収まっていることを確認してから、机の上のパソコンを立ち上げた。当日の作業報告を作成し、業務記録と共に生物学部主任教授のパソコンへ送信しておいた。同じ大学の施設へ出かけただけなので、出張費は出ないが、ガソリン代は出るだろう。自前の車を出した学生達の氏名も忘れずに記入しておいた。
 次にロホから預かったビニル袋を出し、中の動物の体毛と思われる物体を顕微鏡で眺めた。どう見てもイヌ科の動物の体毛にしか見えなかった。5本ばかりを別の袋に入れて、研究室から出て、野生生物の調査を主に行なっている准教授の部屋を訪ねた。相手は不在だったが助手が鑑定を引き受けてくれた。詳細な分類は必要ないから、何の動物かだけ調べて欲しいと言ったら、笑われた。

「遺伝子分析のエキスパートだから、アルスト先生の方が詳しいでしょ?」
「遺伝子分析は比較対象がないと、何なのか同定出来ないんだ。犬とか猫と言ってくれたら、それの基準表と比較出来る。」
「毛だけでは、犬と猫の違いははっきりしないのですけどね。」

 それでも助手は検体を預かってくれた。
 テオは自分の部屋に戻り、毛の1本を成分分析にかけた。毛だけではDNAが取れない。毛根の細胞が欲しかったが、それはなかった。アスルも謎の動物に噛まれた作業員の体に付着していた物を採取しただけだから、こちらから文句を言う訳にいかない。
 機械が分析結果を出すのを待っていたら、ドアをノックする音が聞こえた。彼は「開いてるよ」と答えた。先刻毛を預けた助手かと思ったら、入って来たのは軍人だった。

「相変わらず不用心な人ですね。」

とカルロ・ステファン大尉が言った。テオは振り返って笑った。

「ここに強盗が入ったなんて聞かないからね。」

 そしてカマをかけてみた。

「まさか、ジャガーの毛を持って来たんじゃないだろうな?」

 ステファン大尉が一瞬拗ねた表情を作って見せたので、図星だとわかった。

「流石ですね。」
「そうでもない。実はさっき文化保護担当部に呼ばれたのも、似たような用件だったんだ。」

 テオは分析器をペンで指した。

「アスルが動物の毛を送って来て、鑑定依頼して来たんだとさ。」
「アスルが?」

 ステファン大尉が興味を抱いて分析器の側へ立った。覗いても何も見えないのだが。テオは簡単に説明した。

「ミーヤ遺跡の発掘現場で、作業員が動物に噛まれたらしい。作業員達の間で、その噛んだ動物がチュパカブラじゃないかと噂が広まって、作業が滞っているので、普通の動物だと証明してくれと言う依頼だ。アスルがチュパカブラを信じている訳じゃない。」
「そうでしょうね。」

 大尉は勝手にその辺にあった椅子を引き寄せてテオの前に座った。

「警護隊に入隊すると民族の歴史を習いますが、そんな怪物の言い伝えなど教わりませんよ。」
「悪霊の話は教わるのかい?」
「大きな事件として残っているものは教わります。」

 それは興味深い。民族学のウリベ教授に聞かせたい。とテオは言って、少しだけ世間話のムードになったので、コーヒーを淹れた。大尉は急がないのか、コーヒーが出される迄大人しく座って世間話に付き合った。

「ギャラガ少尉は新しい部署に馴染んでいますか?」
「うん、心配無用だ。勉強熱心で、マハルダも良い教師だから、申請書のチェックは上手になった。専門用語も覚えたぞ。通信制は高校卒業の資格が要らないから、少佐が今度の学期からグラダ大学の通信制に入学させると言っている。」
「小学校も行っていない男がいきなり大学ですか? やるじゃないですか!」

 ステファン大尉も嬉しそうだ。この男は一応義務教育は受けたらしい。出席日数がギリギリだったと言っていたが。かっぱらいや掏摸の方が学業より忙しかったのだ。

「アンドレも他の連中同様、君が文化保護担当部に戻って来るのを待っている。一体、本部はいつまで君を捕まえておくつもりなんだ?」
「捕まっているつもりはありませんが、修行を終えたと承認してもらえる迄の辛抱です。」
「さっき一緒にいた隊員は少尉か?」
「スィ。遊撃班は手が空いている者から順番に任務を割り当てられるので、階級に関係なく組まされます。今日の相棒はデルガド少尉です。」
「彼は何処かで待っているのか?」
「車の中で寝ています。今夜、またジャガーが出没するかどうか、張り込むつもりなので。」

 テオは出来上がったコーヒーをカップに入れた。ステファンの好みを知っていたので、ミルクと砂糖も出した。ステファンはポケットからスカーフに包んだ物を出した。開くと黄色い毛の塊が入っていた。

「有刺鉄線に引っ掛けた様です。」

 テオは用心深くそれを空いたシャーレに入れた。

「確かに、ジャガーの毛に見えるな。」
「根元に少し血が付いているように見えます。」
「それは有り難い。」

 テオはじっと毛を見つめた。確かに血液の様な物が付着していた。シャーレに蓋をした。

「分析器が空き次第、これに取り掛かってみる。ところで、ちょっと不思議に思うんだが。」

と彼は言った。

「ここに毛が残っている。ジャガーが誰かのナワルだとして、その人物は人に戻った時、どこか怪我をしているのかな?」
「血が付いていますから、怪我をしていることは確かです。しかし、毛が抜けたぐらいでは人の体には影響ありません。」
「そうなのか・・・それじゃ、もし尻尾が何かでちょん切られたら、どうなるんだ? 人の体のどの部分が怪我をするんだ? 残った尻尾はそのまま尻尾として残るのか?」

 ステファン大尉は無言でテオを見つめた。テオも見つめ返した。
 やがて、ステファンが呟いた。

「想像を絶する痛さだと思いますが、怪我をするのは尻でしょうね。」
「誰も経験がないんだな?」
「聞いたこともありません。」
「それじゃ、残った尻尾の行く末は誰も知らないんだ・・・」
「知らないでしょう。」

 2人は溜め息をついた。



2021/09/18

第3部 夜の闇  5

  ロホは特に何処かへテオを連れ出すと言うことでなく、彼をカウンターを出た待合スペースの端っこに連れて行った。大きな窓から街の屋根が見えている。ピラミッドが近いので背が高い建物の建築が規制されている地区だ。4階建ては高いビルの中に数えられる。端っこのベンチが空いていたから案内したと言う感じで、ロホはそこに腰を下ろし、テオが座るのを待った。位置からすれば、職員達には聞こえても構わないが、客には聞き耳をたてて欲しくない場所だった。

「機密事項ではありません。」

とロホが前もって断りを入れた。

「ただマスコミに情報が流れると後が煩いので、若い人たちに聞かれたくないのです。」

 ロホだってカウンター前に並んでいる大学生達と同じ位十分若いのだが、年寄りじみたことを言った。テオもまだ30歳になる寸前だ。ロホが彼に預ける袋の中身がセンセーショナルな物だと見当がついたが、何なのかわからなかった。

「ミーヤ遺跡で起きている厄介ごとって何だ?」

 彼の質問に、ロホが顔を近づけて囁いた。

「チュパカブラです。」
「へ?」

 「へ?」としか言いようがなかった。チュパカブラは家畜の血を吸う化け物のことだ。但し、これは吸血鬼伝説がヨーロッパ人によって新大陸に持たらされてから出現したもので、皮膚病のコヨーテなどの誤認だろうと言われている。
 テオは当然ながら信じていない。超能力者の存在は信じても、吸血鬼は信じられなかった。

「発掘隊のメンバーが襲われたのか?」
「アスルの報告では、2人やられたそうです。ただ、死んではいない。首を噛まれて、近くの村の診療所に運ばれたそうです。」
「ミーヤ遺跡ってどんな所だ?」
「ジャングルの中にある、”ティエラ”の遺跡です。ジャングルと言っても、そんなに深くありません。診療所がある村からも近いし、遺跡の近くに道路が通っています。ゲリラも出ないので、アスルは盗掘の警備をしています。陸軍の警備出役も5名だけです。」

 テオは先刻のビニル袋を出した。

「それで、この毛はどうしたんだ?」
「噛まれた発掘作業員の体に付着していたそうです。誰かがチュパカブラの仕業だと言い出して作業員達の間に不安が広がり、作業が思うように進まないそうです。だから、この毛を分析して頂いて、野良犬の毛だと判明すれば現場も落ち着きを取り戻すだろうとアスルは言っています。」
「成程、そう言うことか。」

 テオはビニル袋をポケットに仕舞った。

「それじゃ引き受けよう。犬かコヨーテの毛だと確定出来れば、現場も納得するんだな。」
「スィ。チュパカブラが本当に化け物なら、ロス・パハロス・ヴェルデスの面目が立ちませんからね。」

 そう言ってロホは笑った。笑いながら彼はチラリとカウンターの奥の上官の席を見た。そしてさらに声を低くして尋ねた。

「昨夜、何か感じませんでしたか?」
「何かって?」
「空気がビーンと・・・2100頃に。」

 テオはちょっと考えた。テオが現在住んでいるマカレオ通りはジャガーの足跡をステファン大尉が調べていた東サン・ペドロ通りの東端に近い。そしてロホのアパートもマカレオ通りの北側の地区にあった。2100、つまり午後9時頃だ。その時刻、テオは夕食を終えて自宅でテレビを見ていた。空気がビーンと・・・?

「何も感じなかったが・・・君は感じたのか?」
「ノ、でも犬が騒いでいたのに、急に静かになったのはわかりました。」
「犬が騒いでいた?」
「私のアパートから南西方向でしたから、サン・ペドロ教会の界隈です。酔っ払いでも歩いて犬を脅かして回っているのかと思っていたのですが、いきなり静かになりました。」

 ロホはまたケツァル少佐をそっと伺うかの様に見た。テオも彼女を見た。少佐は一枚の書類に拘ってしかめっ面で書面を睨みつけていた。

「彼女が犬を脅かしたなんてことはないよな。」
「彼女はそんなことをしません。戦略的に必要な場合は別ですが。」
「それじゃ、犬が騒いだので、彼女が鎮めた?」

 テオとロホは顔を見合わせた。少佐は昨夜出没したジャガーについて何か知っているのだろうか?

第3部 夜の闇  4

  テオは文化・教育省の駐車場に車を置いた。本当は職員専用なので来庁者は徒歩5分の距離にある市営駐車場に車を置かねばならないのだが、常に空いているスペースがあって、そこは頻繁に来る人だけが知っている秘密の場所だった。その日も幸い空いていたので、テオはそこに駐車した。ケツァル少佐のベンツとロホのビートルが駐車しているのを確認した。
 どんなに顔馴染みになっても絶対に妥協しない入り口の番をしている陸軍の女性軍曹に身分証を提示し、リストに記名して入庁パスをもらった。
 階段を上って4階に到達すると、賑やかな声が聞こえた。文化財・遺跡担当課の前で数人の若者達が並んでいた。雨季が終わる後に始まるどこかの遺跡発掘に参加する学生やアルバイトの人々だ。文化財・遺跡担当課でパスを発行してもらわないと発掘隊のバスに乗せてもらえないので、パスの申請に来ているのだ。窓口の職員が申請書と身分証を見比べ、不備な点がないかチェックしていた。テオが大学で偶に見かける顔が数人いたが、知り合いではないので無視して、彼はカウンターの中に入った。職員ではないので勝手に入ってはいけない筈だが、そこはセルバ共和国だ、顔パスで自由に出入り出来る。中にいた職員と挨拶を交わし、彼は奥の大統領警護隊文化保護担当部に向かった。
 カウンターの前に座っている赤毛で色白の男は、アンドレ・ギャラガ少尉だ。数ヶ月前迄大統領警護隊本隊で警備兵として勤務していたのだが、ケツァル少佐に引き抜かれて、今は事務仕事をしている。高等教育どころか義務教育も満足に受けていなかったギャラガ少尉が、外国から提出された申請書をチェックして、提出者に記入漏れを指摘しているところだった。短期間で彼をそこ迄仕込んだ指導者のマハルダ・デネロス少尉は大したものだ。そのデネロス少尉は申請が通った書類を見ながら、陸軍の警備担当者に警備兵の派遣指示を電話で出しているところだ。彼女もこの仕事を任されてまだ日が浅い。しかし書類通りに指示を出すだけなので、強気で年嵩の陸軍少将相手に熱弁を振るっていた。
 テオは2人の少尉に目で挨拶して、ケツァル少佐の机に行った。少佐はいつもの様に書類を読んで署名をする承認業務に取り組んでいた。遺跡の規模と調査隊の規模、それに当たる警備兵の人数と兵力、その警備に係る予算が適当か否か判断して発掘調査計画を承認するか却下するか、彼女が決めるのだ。彼女が署名しなければ、警備隊の規模と予算を算定した副官のロホが再検討する。そして彼がどうしてもそれ以下の変更を見込めないと判断すると、その発掘申請は「却下」されるのだ。

「ブエノス・タルデス、少佐。」

と挨拶すると、ケツァル少佐は書類を眺めたまま、返事をしてくれた。顔を上げないのは、忙しいから話しかけてくれるなと言うメッセージだ。
 テオは彼女の机の前に2つ並んでいる机の一つに移動した。ロホがパソコンと書類を眺めながら、挨拶してくれた。

「お呼びだてして済みません。」

 彼は作業途中の書類を保存して閉じた。情報を画面に出したまま別のことに取り掛かったりしない。テオに空いている席の椅子を勧めた。テオが座ると、彼は机の引き出しからビニル袋を取り出した。

「アスルが送って来たのですが、何の毛だかわかりますか?」

 テオは袋を受け取った。茶色と灰色が混ざった様な動物の体毛らしいものが10数本入っていた。長さは1本3、4センチメートルか? テオは動物学者ではない。遺伝子分析の研究者だ。
 毛を眺め、それから空いている机を見た。

「アスルは発掘隊の護衛かい?」
「スィ。南部のミーヤ遺跡に行っています。そこでちょっと厄介事が起きているらしくて。」

 ロホは立ち上がり、テオに場所を移動しましょうと言った。少佐に断りを入れて、カウンターの向こうに出ようとしたので、テオは忘れないうちに彼女に質問しておくことにした。ロホにちょっと待ってと断ってから、少佐の机の前に戻った。

「ここへ来る途中の東サン・ペドロ通りで、ロス・パハロス・ヴェルデスと出会ったんだ。」

 少佐は聞こえていないふりをして、書類をめくった。テオは伝言を告げた。

「ステファン大尉から君に聞いておいてくれと頼まれた。昨夜は夜歩きしてないよな?」

 奇妙な質問に聞こえたのだろう、ロホが立ち止まって振り返った。デネロス少尉も電話を切ったばかりで、テオを見たし、ギャラガ少尉もカウンターの上の書類から顔を上げて後ろを振り返った。ケツァル少佐が最後に顔を上げてテオを見上げた。

「質問の意図が不明です。」

 テオは苦笑した。文化財・遺跡担当課の職員に聞かれても支障のない程度で説明した。

「今朝早く住民から警察にネコ科の大きな動物を目撃したと言う通報があって、警察が大統領警護隊に連絡したそうだ。それでステファン大尉が部下を連れて住宅街を捜査している。もし夜中に散歩して獣に出会したら危険だから、当分夜間は出歩かないように。」

 彼は一般職員達にも微笑みながら言った。カウンターの前で並んでいた発掘隊のアルバイト希望者達がざわついた。東サン・ペドロ通りから西サン・ペドロ通り迄の間に住んでいそうな富裕層の子供達には見えないが、その周辺に住んでいる人はいるだろう。
 ジャガーが誰かのナワルなら人を襲う可能性は低い、と思いたい。しかし用心するに越したことはない。
 ケツァル少佐が猫を被った顔で言った。

「夜間は出歩かないよう、気をつけます。」


第3部 夜の闇  3

  テオは自宅に帰ってシャワーを浴び、服を着替えた。すぐに文化・教育省へ行くつもりで車に乗り込み、住宅街の道を走り出した。信号がない道路を低速で走っていると、見覚えのあるジープが道端に停車していた。車体に緑色の鳥の絵が描かれている。道幅の余裕があまりないので、徐行して横を通ると、軍服姿の大統領警護隊隊員が民家の塀の前に立って、空を見上げていた。庭の中にも1人いて、住民と話をしていた。塀の外の隊員に見覚えがあったので、テオは少し進んで路肩がわずかに広がった場所に停車した。
 車から降りて、大統領警護隊のジープに近づいた。

「オーラ、カルロ!」

と声をかけると、塀の外の隊員がサッと振り返った。軍人には珍しいゲバラ髭を生やすことを認められている数少ない若い隊員が、テオを認めると微笑した。

「オーラ、テオ! ああ、ご近所だったんですね。」
「スィ、2ブロック向こうの角を曲がった先だよ。」

 久しぶりの再会だったのでハグしたかったが、自重した。カルロ・ステファン大尉は同性とのハグ自体は嫌いでないのだが、相手の方から抱きつかれると固まってしまう癖がある。過去の不愉快な体験のトラウマだ。だからテオはステファンの方からハグして来ない限り、握手で我慢する。尤も大統領警護隊の隊員達は滅多に他人に体を触らせないのだが。
 テオは塀の中を見た。中にいる隊員は住民の指差す地面を見ていた。珍しくスマホで写真を撮っていた。

「何をしているんだ?」
「捜査です。」

 カルロ・ステファン大尉は警備班から独立して活動する遊撃班に転属していた。ルーティンに縛られず、他の班で欠員が出たら代理で任務に就いたり、上官の命令で本隊の外で短期間任務に就いたりする部署で、勿論エリート中のエリートが集まるグループだ。
 ステファンは捜査内容を住民に喋るつもりはなかったのだが、テオは別格だ。”ヴェルデ・シエロ”の秘密を知っている数少ない白人で、科学者だ。そしてステファンの親友だった。それに捜査している理由を知らせた方がテオの安全にも繋がると判断したので、彼は囁いた。

「昨夜、この辺りでジャガーを目撃したと言う通報があったのです。」
「ええ?!」

 テオは再び塀の中を見た。中にいる若い隊員が撮影していたのは、獣の足跡だったのだ。
彼は周辺を見渡した。普通の住宅地だ。緑地が多いが、それでもセルバ共和国の首都グラダ・シティの中心地からそんなに距離はない。所謂都会の中の住宅地だ。野生のジャガーが出没する訳がない。ジャガーの生息地は他国同様セルバ共和国でも年々開発で狭まって来ていた。本物のジャガーを見たければ、ティティオワ山の南に広がるジャングル地帯に入らなければならない。運が良ければ見られる、そんな希少動物だ。もし都会の真ん中でジャガーが現れるとしたら、それは動物のパンテラ・オンカではない。
 テオはステファンに囁き返した。

「誰かのナワルか?」
「それ以外に考えられません。」

 ステファンは通りの南を指差した。

「昨晩、あの辺りで犬達が騒いでいたそうです。どこかにジャガーが現れて、怯えた犬の感情が吠え声で伝染して行ったのでしょう。実際に何処までジャガーが出現したのか、定かではありません。今朝になって、この家の住民が庭に大きな足跡を見つけ、警察に通報しました。警察が大統領警護隊に連絡して来たので、我々が出動して来た訳です。」
「ナワルは無許可で使えないよな?」
「別に許可制ではありませんが、重要な儀式や特別な時に使うものです。深夜の徘徊に使用されては困ります。」

 ”ヴェルデ・シエロ”と呼ばれるセルバ共和国の古代の神様は、儀式の時にジャガーやネコ科の動物に変身した。それは国内にある遺跡の壁画や彫像に残されているし、”ヴェルデ・ティエラ”と呼ばれる現代の先住民の神話や言い伝えの中でも言及されている。そして”ヴェルデ・シエロ”は実在して、今も存在している。市民の中に混ざってひっそりと生きているのだ。大統領警護隊は”ヴェルデ・シエロ”だけで構成されている軍隊だ。彼等は古代からセルバ共和国を周辺国の侵略から守り、植民地時代は庶民の心の支えとなり、現代も土着信仰の形で敬われているが、実際は「ちょっと強力な超能力を持つ普通の人間」なのだ。
 動物に変身するナワルは、儀式や特殊な戦闘の時以外に使ってはならないとされている。無闇に使うと正体が他の種族にばれてしまうし、ナワルを解いて人間に戻ると極端な疲労で1、2日は動けなくなるので、敵の攻撃をかわせない。大統領警護隊では上官の許可無しに変身すると罰を与えられる。市井の”ヴェルデ・シエロ”は他人種とのミックスが多く、ナワルを使えない人が多い。偶に純血種や使えるミックスもいるが、そう言う人々は属する部族から厳しい掟を教え込まれており、ルールを守って暮らしているのだ。ナワルを使う儀式は滅多に行われないし、長老の認可の元で行われるべきものだった。
 ステファン大尉が出張って来たのは、無届けのナワル使用が疑われるので、調査が目的だった。彼が空を見上げていたのは、ナワルを使える”ヴェルデ・シエロ”の気の波動を感じ取ろうとしていたのだ。

「この近辺で”シエロ”がいるのかな?」
「私が知る限りでは・・・」

 ステファン大尉は北西方向を見た。

「あっちにグラダの女が1人住んでいるだけです。」

 テオは吹き出した。「グラダの女」とは、彼の大親友で愛しい女性、ケツァル少佐のことだ。そして彼女はステファン大尉の元上官で、彼の腹違いの姉だった。少佐は唯一人の純血種のグラダ族だが、ステファンはミックスだ。グラダの血を4分の3近く持っている筈だが、彼自身は「半分」と言う。母方の曽祖父であろう白人の血が彼の”ヴェルデ・シエロ”の能力の開発に障害となるので、彼はいつも謙遜していた。人から尋ねられない限り、彼の方からグラダ族を名乗ることはない。

「少佐がナワルを使って夜歩きする筈がないしな・・・」
「そんなことを彼女がしたら、エステベス大佐が見逃しません。」

 車が通りの向こうからやって来るのを見て、テオは用事を思い出した。

「実はロホからオフィスに来いと呼び出しがかかっているので、これから行くところなんだ。何か言付けはないか?」
「ノ」

と言ってから、大尉はニヤッと笑って言った。

「少佐に夜歩きしなかったか、確認だけして下さい。」


 

2021/09/17

第3部 夜の闇  2

  テオドール・アルストは大統領警護隊文化保護担当部から要請を受けて、文化・教育省へ向かっていた。グラダ大学と文化・教育省は徒歩で10分の距離なのだが、お呼びがかかる日に限って彼は離れた場所にいた。大学の農業学部が経営する牧場で、牛達のDNAサンプル採取を行っていたのだ。ゼミの学生達と一緒に新しく生まれた仔牛の細胞をちょこっと頂く。最近、遺伝子操作された仔牛をある大手の食肉業者が購入しているのではないかと、市民団体の一つが騒ぎ出し、農業省からグラダ大学農業学部に調査依頼が来た。農業学部は遺伝子分析のエキスパートである生物学部の准教授テオドール・アルスト・ゴンザレスに仕事を丸投げしてきた。いかにもセルバ的なお役所仕事だ。それでテオは比較検査のためのサンプルを大学の牧場から採取する必要があったのだ。その月に生まれた仔牛10頭からサンプルを採取し終わった直後に、大統領警護隊文化保護担当部の副指揮官アルフォンソ・マルティネス中尉、通称ロホから電話がかかってきた。

ーーブエノス・ディアス、ご機嫌いかがですか?

 テオは額から流れる汗を拭きたかったが、手が牛の臭いで顔を拭ける状態ではなかった。目に汗が滲みて痛い。

「ブエノス・ディアス。ご機嫌良いとは言えないなぁ。牛臭くて・・・」

 牛の鳴き声がBGMになっていたので、ロホが尋ねた。

ーー大学に電話したら牧場におられると教えられたので、携帯にかけたのですが、本当だったのですね。乳搾りでもなさってるのですか?
「仕事だよ、ロホ。知ってるくせに、変なことを言うな。」

 ロホは真面目なイメージがあるイケメン軍人だが、時々ドキッとする冗談を言うので、油断ならない。セルバ人の男達の間で「乳搾り」と言えば、女性と遊んでいると言う暗語だ。女性との会話では使わない。職場で暗語を堂々と使っているのだから、恐らくロホの上官は席を外しているのだ。

「急ぎの用事かい? 急がなければ、一旦切って、手を洗って、こちらからかけ直すが・・・」
ーーノ、用件は短いです。

 ロホは本当に短く言った。

ーーお帰りの時で結構ですから、オフィスに立ち寄って下さい。

 そして「さようなら」と言って切った。テオの仕事の邪魔をしない配慮なのか、それとも彼自身の上官が戻って来たか、どちらかだろう。ロホの上官は部下が電話で長話をするのを好まない。
 テオは学生達に機材を片付けるように指図すると、手洗いに行った。石鹸でゴシゴシ洗ったが、牛の臭いは服にも染み込んだ様に臭った。これは時間をかけて取るより、自宅に帰って着替えた方が良さそうだ、と思えた。
 学生達に集合をかけ、現地解散を告げた。

「但し、サンプルを研究室に持って帰る人が必要だ。誰か引き受けてくれるか?」

 すぐに学生達が輪になって話し合いを始めた。数分後に学生寮に住んでいる男子学生が挙手したので、彼に研究室の鍵を預けた。サンプルを冷蔵庫に入れたら施錠して事務局に鍵を預けること、と言いつけた。そして一同には、

「今日の作業のレポートを明日提出すること。分析は明日の朝から始める。それじゃ、今日はお疲れ!」

と挨拶すると、学生達は午後から自由になったので大喜びで解散した。

第3部 夜の闇  1

  夜空に大きな月が浮かんでいた。満月にはまだ2日ほど足りなかったが、月明かりは外を歩くのに十分だ。ケツァル少佐は月明かりを必要としないが、アパートのバルコニーでビールを飲みながら外を眺めているうちに散歩をしたい衝動に駆られ、外に出た。私用外出だが、一応拳銃は携行していた。規則を守ることは部下を統率する者にとって重要だ。指揮官が規則を無視すると部下も無視する。
 家並みの向こうは明るかった。繁華街は夜明けまで明るい。平日でも活動している区画があるのだ。セルバ共和国には夜目が効く国民が多いので、昼間働けない場所の工事を夜間にやってしまう業者が少なくない。当局はあまり良い顔をしないのだが、そう言う労働者の夜勤明けの食事や寛ぎの場が夜も賑わっているのだ。
 少佐はアパートを出ると住宅街の道を目的もなく歩いて行った。坂道を上ったり下りたり、特に風景を楽しむこともなく、ただ月を追いかけて歩いている、そんな感じだった。時々民家の庭で犬が吠えた。人の気配で吠えただけだろう。少佐は気を完全に抑制していた。動物達に”ヴェルデ・シエロ”が歩いていると気取られる筈がなかった。
 1本向こうの筋の犬達が盛んに吠え始めた。何か怪しい気配が通っているのだ。少佐は足を止めた。犬の騒ぎは西から東へ移動して来る。先に吠えた犬の感情が伝わって、まだ怪しい気配が到達していない地区の犬も吠え始めたので、少し収拾が付かなくなってきた。その怯えた様な鋭い声に、少佐は一瞬気を放った。

ーー落ち着け

 犬達が静かになった。だが彼等は安心した訳ではない。犬達の緊張が伝わってきた。少佐が立っている通りの犬達も落ち着きを失っている気配だ。
 少佐が放った気は、犬達を怯えさせたモノにも伝わった筈だ。家並みを間に置いて、何者かと少佐が互いの出方を伺う、そんな状態が数分間続いた。

ーーどうしました?

 不意に少佐の脳にママコナが話しかけてきた。少佐が放った気をピラミッドの巫女が受信したのだ。少佐は簡単に答えた。

ーー犬が騒いだので鎮めただけです。
ーー満月が近いせいでしょう。

 ママコナはそれっきり何も言ってこなかった。
 怪しい気配の主はピラミッドには影響を及ぼしていない様だ。だが動かない。少佐が放った気を感じて警戒しているのだ。
 少佐は時計を見た。散歩に出てから1時間経っていた。そろそろ帰ろう。彼女は向きを変え、やって来た道を逆に辿り始めた。当初はぐるりと町内を一周するつもりだったが、犬を騒がせた気配と出くわすのを避けたかった。相手が悪意ある者かただの無心の者なのか判断がつかない。彼女は無用な争いを好まなかった。
 再び背後で犬の吠え声が始まった。怪しい気配は遠ざかって行く。誰かが犬に向かって「黙れ!」と怒鳴る声が聞こえた。
 

番外   番外編ではない

 登場人物にインタビューしたいことがあれば、コメント欄にどうぞ

2021/09/14

第2部 雨の神  6

  テオドール・アルストはケツァル少佐からランチの誘いを受けて、2つ返事で承諾した。少佐は2人の職場から当距離にある小洒落たレストランに席を予約してくれた。普段着で入れるが、料理は手の込んだものを出してくれる人気の店だ。

「ペラレホ・ロハスの処遇が決まったので、お知らせしようと思いました。」

 注文を済ませてから、少佐が切り出した。甘いお話でないことは察しがついていたので、テオは大人しく聞いていた。

「ペラレホはグワマナ族長老会の取調べを受け、取引に応じました。」
「取引?」
「ジョナサン・クルーガーへの制裁を部族に一任すると言うことです。船の当て逃げが起きた時、クルーガーは警察に賄賂を渡し、彼が犯人であると部族が知った時には国外へ逃亡した後でした。ですから、部族は彼に制裁を与えられなかった。結果としてイスタクアテとペラレホが復讐に走ることになったのです。部族はこれからクルーガーに相応の報いを与えるでしょう。」
「部族がペラレホの代わりに復讐してやるんだね?」
「報いを受けさせるのです。」

 少佐は復讐と言う言葉を避けた。恐らく、はっきりとした形でクルーガーに害を与えるのではなく、じわりじわりと苦しみが訪れる形になるのだろう。

「ペラレホはそれを受け入れた。彼はその代償としてどうなるんだ?」
「彼は警察に引き渡され、サン・ホアン村のフェリペ・ラモス殺害の容疑で起訴されます。」
「それは、つまり普通の”ティエラ”として裁かれると言うことか?」
「スィ。彼は遺跡への無断侵入と遺跡荒らしを認め、盗掘を指摘したラモスを殺害したと”自供”しました。」
「”ヴェルデ・シエロ”のことは一切言わずに・・・か。船舶事故のことも言わない訳だな。」
「スィ。ただ遺跡荒らしと殺人の罪だけです。」
「汚職警官を殺害したのも、彼等だろう?」
「それは不問です。何も証拠がありません。グワマナ族も調べようがありません。」

 兎に角、不幸な占い師を殺害した人は裁かれるのだ。

「ペラレホの処遇を教えてくれて有り難う。だが、サン・ホアン村はどうなるのかなぁ。」
「大統領警護隊本部が建設省にオルガ・グランデ北部の地質調査を行うよう勧告しました。あの辺りはオルガ・グランデの水源となる地下水流の支流になりますから、放置する訳に行きません。国とオルガ・グランデ市が大規模な調査に乗り出す筈です。サン・ホアン村は恐らく村ぐるみで移転になると思います。水源枯渇だけでなく、丘陵地の崩落も考慮しなければなりませんから。」
「すると、ラス・ラグナス遺跡が消滅する恐れもあるんだな?」
「スィ。ムリリョ博士が昨日、学術調査の申請を出されました。」

 へぇっとテオは感心した。

「あの人もちゃんと申請を出すんだ!」
「当然です。」

 と言いつつも、少佐も笑った。

「あの遺跡は”ヴェルデ・シエロ”のものではありませんが、コンドルの神像は強い霊力を持っています。博士は気になるようです。マハルダとアンドレも精霊を見ていますしね。」
「俺も見たかったなぁ・・・君は報告で見たんだろ?」
「スィ。綺麗な沼と葦が茂る岸辺の村でした。」

 テオはあの乾いた土地の大空に舞うコンドルと、大地を歩くジャガーを想像した。

「そうだ、一つお知らせがあります。」

と少佐が楽しそうに言った。テオが現実に還って彼女を見ると、珍しく少佐が楽しげな微笑みを浮かべて言った。

「文化保護担当部の欠員補充申請が通りました。若い子が来ますよ!」


 

2021/09/13

第2部 雨の神  5

  トーコ中佐が書類仕事に取り掛かって間もなく、秘書が次の面会者の来訪を告げた。入室を許可するとすぐにケツァル少佐が入って来た。敬礼して、夜の訪問を詫びる彼女を副司令が遮った。

「ギャラガのことだろう?」
「スィ。既にステファン大尉から報告がありましたね?」
「スィ。なかなか面白いではないか。」

 トーコ中佐は書類を閉じた。興味津々で体を机の上に乗り出した。

「君は何時気がついた?」
「気がつきませんでした。」
「ほう?」

 ちょっと驚きだ。彼は思わず言った。

「グラダはグラダを見分けるのではないのか?」
「彼の血の半分は白人です。そしてグラダの血の割合はカイナ族の血より少ないです。ブーカ族の血も混ざっています。正直なところ、初対面の時、彼の出自部族が分からなくて戸惑いました。」
「色々と混血を繰り返してきた家系なのだろう。もしかすると全ての”ヴェルデ・シエロ”の血が混ざっているやも知れぬ。ドクトル・アルストに遺伝子分析を頼んでみてはどうだ?」

 最後は揶揄いだった。先刻ステファン大尉から報告を受けた時、若い大尉の嫉妬心までトーコは読み取ってしまったのだ。大尉は愛する女性を親友の白人に奪われるのではないかと心底恐れていた。恐れる程にケツァル少佐はドクトル・アルストと仲が良いらしい。
 上官の揶揄いを少佐はものともせずに言った。

「遺伝子分析には、比較対象物が必要だそうです。全ての部族のDNAサンプルを採らせて頂ければ彼に分析を依頼出来ますが?」

 トーコは思わず笑った。ケツァルが男達を見ている次元と、ステファンが彼女を見ている次元は違うのだ、と彼は理解した。

「分析にかけなくともわかる。ギャラガが持っているグラダの血はかなり薄いのだろう。しかし薄くてもグラダの力の影響が強いのだ。だから、2頭目のエル・ジャガー・ネグロが現れた。」
「かなり黒が薄いエル・ジャガー・ネグロですが?」
「薄くても、あれは黒いジャガーだ。金色ではない。」
「認めます。」
「では、あの男をグラダ族と認定する。」
「承知しました。」

 ケツァル少佐が微笑した。トーコはドキリとした。この女はまた何か企んでいるな、と警戒した。果たして、彼女は机の方へ上体を傾けた。

「副司令、お願いがあります。」

 トーコは後ろへ上体を反らせた。

「何かな?」
「ギャラガ少尉を文化保護担当部へ下さい。」
「何?!」

 ケツァル少佐は熱弁を振るった。

「半年前に本部がステファン大尉を私から取り上げました。文化保護担当部は目下のところ人手不足に悩んでおります。私は再三人員補充を申請していますが、未だに聞き届けて頂けません。ギャラガ少尉はグラダ族です。彼は今回の任務で能力を目覚めさせました。グラダの力が暴走すると、止められるのはグラダだけです。しかしステファン大尉はまだ修行中で、一番能力の弱いグワマナ族に殴り倒される迂闊者です。ギャラガ少尉が暴走した時に制圧出来るのは私しかおりません。ですから、私が彼を教育します。アンドレ・ギャラガ少尉に文化保護担当部への出向を命じて下さい。お願いします。」

 トーコ中佐が吹き出した。

「最初からそのつもりでここへ来たな、ケツァル?」

 

第2部 雨の神  4

  大統領警護隊本部の正門を守る警備兵は、たまにしか現れないベンツを覚えていた。それでも規則に従い、運転しているケツァル少佐のI Dと緑の鳥の徽章を検め、確認すると敬礼して中へ通した。
 少佐は官舎にぎりぎり近い場所まで車を進め、そこで3人の部下を降ろした。

「私は車を所定の場所に置いてから司令部に行きます。それでは、ご機嫌よう。ブエナス・ノチェス。」

 敬礼して見送る部下達を置いて、彼女は駐車場へ走り去った。
 少佐が去ると、マハルダ・デネロス少尉も男達に向かって挨拶した。

「それでは、私も官舎へ戻ります。お役目お疲れ様でした。ブエナス・ノチェス!」

 ステファン大尉が優しく挨拶した。

「君の応援は頼もしかった。それにかなり成長したな、少尉。また早いうちに一緒に働けることを祈っている。ブエナス・ノチェス!」

 ギャラガ少尉は黙って敬礼した。思えば、女性と気後なく会話していた日々だった。彼が所属している警備班には偶々女性隊員がいないので、入隊以来長い間女性との「世間話」はしていなかったのだ。
 敬礼を交わして、デネロス少尉は官舎へ走り去った。門限まで半時間だった。

「良い子ですね。」

 ギャラガが呟くと、ステファン大尉が頷いた。

「可愛いだろ? 下手に手を出すと承知しないからな。」

 ギャラガはびっくりして大尉を見た。大尉は既に司令部に向かって歩き出していた。少尉は慌てて追いかけた。
 大統領警護隊司令部は24時間稼働中だ。入口で再び身分証の確認が行われ、中に入ると出会う人は皆上級将校ばかりだ。大尉以下はいない。だから誰かが来ると立ち止まって敬礼し、通り過ぎるのを待つ。副司令官の部屋へ辿り着くのに時間がかかった。
 ブーカ族とマスケゴ族のハーフのトーコ中佐は夜間の当番に就いたところだった。その日の昼間の副司令を務めたエルドラン中佐が南のグワマナ族の居住地で起きた事件の収拾に手間取り、引き継ぎが遅れたのだ。その昼間の事件の詳細を読もうとパソコンの報告書を開いたところへ、ステファン大尉とギャラガ少尉の帰還が告げられた。トーコは普通なら部下を待たせて先に報告書を読む主義だったが、官舎の消灯時間を考え、部下を優先させた。
 埃と石鹸の香りを漂わせたステファン大尉とギャラガ少尉が入って来た。敬礼して、大尉が任務終了を告げた。トーコ中佐は頷き、報告せよと言った。
 ステファン大尉がギャラガ少尉を振り返り、命じた。

「少尉、君から行え。」
「失礼します。」

 ギャラガが前に出たので、トーコ中佐は顔にこそ出さなかったが、驚いた。土曜日の朝迄は”心話”を使えず、どこかオドオドした感があった若者だ。だが今彼の目の前に立った少尉は堂々としていた。トーコの目を見て、土曜日から水曜日の夜までの出来事を伝えた。「一瞬」と呼ぶには1秒ほど長かったが、それでも完璧に彼自身が体験し、見聞きしたことが伝えられた。トーコ中佐は大統領官邸西館庭園の「視線」の謎が解明され、解決されたことを知った。それの原因を作ったグワマナ族の漁師ゲンテデマに起きた不幸、北部のサン・ホアン村で事件に巻き込まれた不運な”ヴェルデ・ティエラ”の占い師の不幸も知った。そして、エルドラン中佐の引き継ぎ報告書を読まなくても事態を理解した。
 トーコ中佐はギャラガ少尉を見た。もう君を誰にも”落ちこぼれ”と呼ばせずに済むな、と彼は”心話”で言った。ギャラガは頬を赤くして、「グラシャス」と答えた。
 ギャラガが退がったので、次はステファン大尉が前に出た。失礼しますと言って、報告の”心話”を行った。文化保護担当部、ムリリョ博士、ウリベ教授などの協力を得たことや、隙を作って敵の捕虜になったことも全て語った。協力を求めることは恥ではない。ただ捕虜にされたことは、中佐のお気に召さなかったことは確かだ。

「ケツァルとドクトル・アルストがいなければ、君は殺されていたかも知れない、と言うことだな。」

と指摘されて、彼は素直に認めた。

「またドクトルに助けられました。私が彼を守るべき立場であるのに・・・」

 ふふっとトーコが笑った。その笑みの意味を理解出来ずにステファン大尉が彼を見返すと、副司令官は言った。

「あの”ティエラ”の学者は、君の護り刀なのだろうな。きっとこれからも君と良きコンビになるだろう。」

 その言葉の意味を測りかねてステファンは上官を見つめたが、トーコ中佐は既に次の事案に取り掛かった。

「コンドルの怒りを鎮めたのは良かったが、君達がその荒地に雨を降らせる義務はなかっただろう。」
「そうですが、殺された占い師の霊を慰める為にも、少しだけでもあの地に潤いを与えたかったのです。」
「井戸の枯渇は地下水流の変化なのだな?」
「地揺れが頻発していることを考えると、それ意外に思いつきません。」

 トーコは少し考え込んだ。

「地質学院が群発地震に気がついていながら建設省に何も勧告しないのは由々しきことだ。 場所はオルガ・グランデに近い。あの都市に地震が起きないとも限らない。建設省に一言声をかけておかねばなるまい。」

 そして、2人の部下に視線を戻した。

「簡単に済むと思った事案が思いがけず深いところに原因があった。2人共、よくやった。特別任務を解く。本来の持ち場に戻ってよろしい。」
「失礼します。」

 ステファン大尉とギャラガ少尉は敬礼して副司令室を出た。ケツァル少佐はまだ来ていなかった。2人は官舎に向かって歩き出した。

「警備の時間割を思い出した。」

 大尉が溜め息をついた。

「睡眠時間が2時間しかない。これはきついな。」

 ギャラガは己の時間サイクルが大尉の2時間遅れであることを思い出した。

「私は4時間眠れます。」
「そう考えるのは甘いぞ。」
「え?」
「班は私達が抜けた人数で当番を回している。レギュラーの時間で考えるなよ。」

 ああ・・・とギャラガは天井を見上げて呻いた。計算すると大統領官邸の館内勤務の当番が回って来そうだ。絶対に居眠り出来ない任務だった。


2021/09/12

第2部 雨の神  3

  宴会が早々にお開きになったのには理由があった。一番の理由は明白な事実、即ち、「今日は水曜日」だった。週末ではないのだから、遅くまで飲み食いして騒いでは翌日の仕事に差し支える。テオは木曜日の講義の準備を思い出し、満腹になると一番最初に帰った。少佐がアパートの出口迄見送りに出て行ったので、ステファン大尉がまた拗ねてしまい、ロホに揶揄われた。

「休みをもらった時に会いに来ないから、冷たくあしらわれるんじゃないか。」

 アパートの出口では、テオが殺人事件の解決に協力してくれた礼を少佐に告げていた。 

「だけど、根本的な問題は解決されていないな。サン・ホアン村の水源枯渇問題だ。アスルの調査では、あの近辺は最近小規模な地震が群発しているそうじゃないか。雨乞いだけでは追いつかないだろう。」

 少佐もそれを認めた。

「オルガ・グランデの市役所に通知して村の移転を考えてもらうことになるでしょう。」
「やっぱり移転しかないか?」
「地下水脈を動かすことは、私達には不可能です。」

 人口が希薄な荒地に上水道を引く価値を、地方行政府が見出すことは期待出来なかった。それでも水不足が深刻な状態へ進みつつあることが村の外に知れたことは救いだ。病気の発生や農作物の不作による貧困を防ぐ手立てを考えることが出来る。

「当分は給水車の派遣を行うでしょうね。」

 給水車を所持しているのは陸軍基地だ。あの基地の司令官は色々することが多そうだ、とテオは思った。

「兎に角、今週は親父に殺人事件の犯人が捕まったと報告出来る。グラシャス、少佐。皆にも感謝を伝えておいてくれ。 では、ブエナス・ノチェス。」
「ブエナス・ノチェス。」

 ケツァル少佐はテオの唇に軽く触れる程度にキスをして、すぐに建物の中に戻って行った。その光栄にテオはしばし余韻に浸り、それからステファン大尉が呪い人形を作ろうと思い立たないうちにと、足早に帰途に着いた。
 テオの次に帰宅したのはロホだった。ビートルを運転する気力が残っているうちに、と彼は上官に挨拶し、仲間にも挨拶して帰って行った。
 アスルは家政婦のカーラと後片付けを始め、少佐は残りの部下達を促して階下へ降りた。


第2部 雨の神  2

  ケツァル少佐の高級コンドミニアムの玄関チャイムが鳴った時、テオとデネロス少尉は大急ぎで戸口に向かった。ドアを開けると、いきなり白塗りの奇妙な化粧をした男が3人、先を争うように雪崩れ込んできた。1人がカルロ・ステファンの声で怒鳴った。

「少佐! バスルームを使わせて頂きます!」

 3人はテオの手に次々と鞄を押し付け、再び先を争って浴室へ走って行った。テオは呆然とその後ろ姿を見送り、それからデネロスを見た。彼女がクスリっと笑った。

「ナワルが解けると眠くなるので、必死でぶっ倒れないうちに帰って来たんですね!」

 キッチンでは、家政婦のカーラの手伝いをしていたアスルが、彼女に囁いた。

「今何か見たか?」
「何も見てませんよ。」

 カーラは大鍋の中を大きな杓子でかき混ぜながら言った。

「私はこの家の中で聞いたり見たりしたことは、何もなかったと思うことにしていますから。」
「俺は貴女が好きだよ。」

 アスルはカーラのふくよかな頬にキスをした。カーラが微笑んだ。

「ここで働いていると、退屈しませんからね。」

 テオが居間に3個の鞄を抱えて戻ると、ケツァル少佐はソファに座ってテレビを見たまま尋ねた。

「3人共無事にナワルを使って人間に戻った様ですね?」
「スィ。アンドレもフラフラだったから、恐らく生まれて初めて変身したんじゃないか。」

 彼女が時計を見た。

「出発して3時間で戻って来ましたから、ジャガーでいた時間は正味1時間足らずでしょう。すぐに寝込んだりしません。夕ご飯を食べさせてから、マハルダと一緒に本隊に送り届けます。」
「それじゃ、今夜も君はアルコール抜きなんだな?」
「官舎組もお酒は抜きですよ。」

 えーっとデネロス少尉がわざとがっかりした声を出した。彼女は砂漠から戻ってきた男達が砂を廊下に落としたので、掃除機を持ち出したところだった。

「ビール1本ぐらいは許可下さい、少佐!」
「2本まで許可します。」
「グラシャス!」

 浴室の方から賑やかな男達の声が聞こえてきた。少佐が「子供の水浴びか!」と呟いた。
テオは”出口”が出現したと思われるピラミッド近くにロホの中古のビートルをデポしてやったのだが、ロホ達は誰にも見咎められずに乗り込めただろうか、と思った。恐らくラス・ラグナスで服を着てから”入り口”に入った筈だが、顔が白塗りのままだった。あの顔で緑の鳥の徽章を提示するのは気後するだろう。いくらセルバ共和国が古代の信仰を残す国だからと言って、平日の夜に都会の真ん中を雨乞いの儀式の格好で歩く人はいない。
 軍隊の入浴に慣れている男達は素早く体から砂と埃を落として、まだ埃っぽい服を身につけて居間に入って来た。最初にロホが少佐の前に立ち、”心話”で首尾を報告して、敬礼した。少佐が頷くと、彼は退がり、ステファン大尉と入れ替わった。大尉も”心話”で報告し、それから改まった口調で挨拶した。

「この度は多大なるご尽力をいただき、誠に感謝しております。」

 それに対する少佐の返答はテオの耳には冷たく聞こえた。

「私も司令部に報告することがありますから、全て語りますよ。」

 失敗も成功も隠すことなく上層部に報告すると言うことだ。しかしステファン大尉の顔に不満を表す色はなかった。彼は穏やかな表情で、グラシャスと応え、敬礼した。少佐は敬礼で応え、ギャラガを見た。大尉が退がって、少尉を前へ押し出した。ギャラガも”心話”で遺跡で見たままのことを報告した。自分が2頭の美しいジャガーを目の当たりにしてどんなに興奮してしまったかも伝えてしまったので、彼は恥ずかしくなって最後はうっかり目を伏せてしまった。少佐が指摘した。

「その目を伏せる癖はどうにかしなさい。」

 叱られて彼は顔を上げ、承知と応えた。少佐が言った。

「日曜日の朝、ここへ来た貴方はほとんど何も出来ない自信のないただの若造でした。今、水曜日の夜の貴方は基本をマスターして胸を張って仲間の元へ帰ることが出来るのです。短い日数でよく学習しました。これからも任務に励んで修練に努めなさい。努力は必ず報われます。」
「お言葉を胸に留めておきます。有り難うございました。」

 ギャラガは敬礼した。少佐が敬礼を返してくれた。
 アスルとカーラが料理の器を運んで来た。大勢で食事する時は居間で宴会状態になる。”ティエラ”のテオは少佐にお願いをしてみた。

「カーラも一緒に食べて良いかな?」

 家政婦が、とんでもない、と手を振ってキッチンへ戻った。しかし少佐は彼を見て微笑んだ。

「貴方が望むなら、喜んで。」

 どうして少佐はテオの「お願い」をいつも受け入れるのだろう? ちょっと嫉妬しながら見ているステファンに、ロホが囁きかけた。

「私の報告に少佐は驚かなかった。君も報告しただろ?」
「スィ。」

 我に帰ったステファンは生返事したことに気がつき、慌てて友人に問いかけた。

「何の報告?」

 ロホが目で窓際の席を指した。そこではデネロスとアスルがギャラガにセビーチェの食べ方を指導していた。ただの魚の料理なのだから、そんな必要はないのだが。
 ロホが声を落とした。

「アンドレのナワルだ。」
「ああ・・・」

 ステファンは微かに身震いした。

「なんだか良い意味で悪い予感がする。」
「なんだ、それ?」



 

 

第2部 雨の神  1

  ”出口”から出た瞬間、カルロ・ステファンは緊張した。一瞬警戒して背後を見てしまった程だ。先に”着地”していたロホが彼の動きに振り返り、肩をすくめた。ステファンに続いてギャラガが現れた。もう少しで上官を突き飛ばしそうになり、上体を後ろに反らしてよろめいてしまった。ロホが笑った。

「すぐに前に出ないカルロが悪い。」
「どうせグラダは”着地”が下手さ。」

 大尉は憮然とした表情で呟いた。彼が不機嫌なのは、着地のマズさだけではなかった。服装も気に入らなかった。片手に下げている鞄の中には普段着と靴が入っているが、今の彼は半裸状態だ。それはロホもギャラガも同様だった。現代のセルバ人の民族衣装はちゃんとズボンを履いてシャツを着て色彩豊かなポンチョを着用するのだが、今回ロホが要求したのは、古代の儀式用の装いだった。白い褌に首、手首、足首にビーズの輪っか、羽飾りの付いた冠だ。顔にはペイントだ。ステファンはゲバラ髭を生やしているので剃れと言われるのかと内心ヒヤッとしたが、それはなかった。しかしペイントの免除はなく、植物の樹液から作られた顔料で白塗りされて、青い模様を描かれた。ギャラガと互いの顔を見合って思わず笑った程、滑稽に見えた。同様の装いのロホは真面目だ。実家へ帰ってわざわざ年寄り連中から聞いてきたと言う儀式手順を大尉と少尉に教え、シェケレとグィロの演奏の仕方も教えた。
 現地に到着すると、ロホはすぐに帰りに使う”入り口”を探した。”出口”ができれば自然と”入り口”が近くに生じるのだ。ステファンはその法則を知っているがブーカ族ほどに”入り口”を見つけるのは得意ではない。ギャラガも犬みたいに周辺を探し回り、結局ロホが帰り道を見つけた。その前に荷物を置いておき、コンドルの神像がある場所へ行った。
 コンドルは砂に塗れて以前と同じ場所に立っていた。ロホは右目の穴を丁寧に掃除して、そこに回収された目玉を嵌め込んだ。戻ってきた目玉は隙間が生じ、風化した神像に不似合いに見えた。ロホは気にせずに神像の前に花を盛り付け、保冷バッグから新しい豚の心臓を出して置いた。
 数歩退がり、立ったままで古い”ヴェルデ・シエロ”の言語で歌い始めた。2小節目でステファンとギャラガは楽器を鳴らした。ロホが歌い、2人が音を立て、3人で並んでゆっくりと輪になってリズミカルに神像の前で回った。
 もしギャラリーがいたら照れ臭くて出来なかっただろうが、誰もいないのだ。ギャラガは頭を空白にして、教わった通りのリズムでグィロを鳴らし続けた。先頭のロホは歌いながら優雅に腕を動かして踊っていた。それを見るともなしに視野に入れていると、少しずつ手の動きが緩慢になってきた。早くも疲れたのかとギャラガは己の不甲斐なさに呆れかけた。ロホが腰を前に折った。彼は踊りながら冠を取り、空中へ放り投げた。ギャラガは鳥の羽根の冠が鳥になって飛び立ったのを見た様な気がした。続いてステファンのシェケレの音が止み、彼も冠を取って投げた。今度は鳥がはっきりと見えた。緑色の鳥が飛び立って行った。ギャラガの手が重くなり、彼はグィロを落とした。頭が締め付けられる。冠を取り、彼も投げた。鳥の羽ばたきの風を感じた。
 気がつくと、ロホとステファンの姿がなかった。ギャラガの前を歩いていたのは、金色の生地に黒い斑模様が美しいジャガーと、漆黒に輝く毛皮の黒ジャガーだった。ギャラガは呆然と見つめながらその後ろをついて行った。己が四つん這いになっていることに気が付かずに。


2021/09/11

第2部 ゲンテデマ  10

  ハイウェイ沿のドライブインで遅い昼食を取った。観光地なのでシエスタは関係なく店は営業していた。テオは米に糸状に裂いた肉をトマト味で煮込んだシチューをかけたイラーチャ・プレートを、ケツァル少佐は米に色々な蒸した野菜を添えて、スープに入れて食べるソパ・プレートを注文した。テオは生贄の目玉を忘れようと努力した。イスタクアテ・ロハスはジャガーの心臓の代わりに己の目をくり抜いてコンドルに捧げたのだ。そして甥が弟の仇を討ってくれたと思い、満足して海の底の弟の後を追って行った。
 ステファン大尉とギャラガ少尉は大空を舞うコンドルに導かれ、船の当て逃げ犯ジョナサン・クルーガーの家を突き止めた。そしてクルーガーを追い詰めたペラレホ・ロハスを間一髪のところで取り押さえた。クルーガーは警察に通報すると言ったが、大尉は彼と彼の女友達の目を見つめ、見たことを忘れさせた。
 グワマナ族の族長ロドリゴ・ロムベサラゲレスに連絡を取ると、グワマナ族の長老達がペラレホを引き取りに来た。ステファン大尉は長老達にイスタクアテとペラレホの2人のロハスが犯した罪を伝えた。コンドルの目玉を盗み、私怨を晴らす儀式に使った「神への冒涜」と、罪のないサン・ホアン村の占い師を殺害した罪だ。この時、ギャラガもちょっぴり追加の情報を伝えた。2人のロハスは大統領警護隊の隊員を殴って負傷させ、一晩捕まえていた、と。勿論大尉には教えなかった。余計なことを言うなと叱られるだけだ。

「結局クルーガーの当て逃げは有耶無耶にされるのかな。」

とテオが不満気に言うと、少佐がどうでしょうと返した。

「グワマナ族は当て逃げの犯人が彼だと知っていますし、今度は逃げられないよう監視するでしょう。彼のせいで一族の者が罪を犯したのですから、グワマナ族はクルーガーを許さないと思いますよ。」

 彼等は口を閉じた。テーブルのそばをアメリカ人観光客のグループが通った。男達が少佐を見て振り返っている。テオはちょっと優越感を覚えた。恋人ではないが、恋人同士に見えるだろう。
 彼等が奥のテーブルに行ってしまうと、テオと少佐は話を続けた。

「ペラレホは罰せられるのだろうな?」
「無罪とはならないでしょう。占い師を殺害した実行犯が彼なのかイスタクアテなのかわかりませんが、神像を冒涜して”ティエラ”に害を為したのです。占い師が彼等を神と頼って来たのに信頼を裏切ったのですから、一族の誇りが彼等のしたことを許しません。」

 少佐はペラレホの罪をさらに追加した。

「文化保護担当部に無届けで遺跡に立ち入りましたから、文化保護地域無断侵入と文化財損壊の罪で公訴します。」
「フェリペ・ラモスも遺跡に出入りしていた様だが・・・?」
「彼はサン・ホアン村の住民で、サン・ホアン村は元々ラス・ラグナスにあった村です。ラモスにはあの場所に出入りする権利がありました。」

 これでフェリペ・ラモスの霊も少しは浮かばれるだろうか? 否、まだ問題が残っていた。

「コンドルの目は今日中に遺跡の石像に戻されるのかな? ”入り口”を使わないと無理なんじゃないか?」

 ステファン大尉とギャラガ少尉はケツァル少佐からコンドルの目玉を受け取ると、少佐のSUVで先にグラダ・シティに帰ったのだ。テオと少佐がプンタ・マナの街でのんびり昼食を取っていたのは、グラダ・シティへ行くバスの時間調整の意味もあった。少佐はオフィスで留守番をしているロホやアスルに迎えに来いとは言わなかった。彼等には昨日から溜まった申請書の処理があるのだ。

「もし運が良ければ・・・」

 少佐はソパを食べてしまい、セビーチェとブリトーを追加注文した。

「ロホかマハルダが”入り口”を見つけて送ってやるかも知れません。」
「アンドレもブーカだろ? 彼にはまだ”入り口”を見つけるのは無理か?」

 すると少佐がテオの目をじっと見たので、テオはドキッとした。何かマズイ発言でもしたか? 彼女が言った。

「彼は自己紹介でブーカと言いましたが、ブーカではありません。」
「そうなのか?」

 アンドレ・ギャラガは半分白人だ。それは明白だった。残りの半分がブーカ族でないなら、どこの部族なのだ?

「彼の母親がきちんと息子に出自を教えなかったので、混乱が生じているのです。でも彼から発せられている気はブーカ族の波動とは異なります。」

 そこへセビーチェが運ばれてきた。少佐が器をテーブルの中央に押し出した。

「半分どうぞ。プンタ・マナで獲れた新鮮なシーフードですよ。」


第2部 ゲンテデマ  9

  ハリケーンで崩壊して放置された別荘があった。所有者は外国にいて、留守の間に災害に遭ったのだ。地元の若者達が無断で入り込んで遊んだ痕跡が見られた。壁に落書きだ。バンクシーの足元にも及ばない下手くそな絵がそこかしこにスプレーのペンキで描かれていた。床はタバコの吸い殻や空き缶だらけだ。別荘地なので近所の人が善意で管理することもないのだろう。一番海に近い部屋の床に、イスタクアテ・ロハスがいた。真っ昼間なのに蝋燭に火を灯して己の周囲に並べ、花を盛った上に丸い灰色の石を置いていた。その前にも血だらけの丸い物が2つ・・・
 その正体が分かった途端にテオは気分が悪くなり、廃屋の外に走り出た。朝食べた物が消化された後で良かった。それでもゲーゲーやってしまった。
 ケツァル少佐は床に座したイスタクアテに近づいた。老いたゲンテデマの顔は血で汚れていた。手にも血が付いていた。彼が古い言語で囁いた。

「ヤグアーか?」
「そうだ。」
「女か。」
「グラダの族長だ。」

 おう、とイスタクアテが声を上げた。少佐が確認のために尋ねた。

「己の目をコンドルに捧げたのか?」
「そうだ。船の白人が見つかるように。」
「白人は見つかったか?」
「見つけた。甥が謝罪させる。」
「目的は果たせたか?」
「果たした。」
「”ティエラ”の占い師を殺したか?」
「コンドルの目を奪おうとした。だから取り除いた。」
「もうコンドルの目は必要ないな?」
「ない。」

  ケツァル少佐はポケットから彼女のハンカチを出し、コンドルの目玉をそれで丁寧に包んだ。立ち上がると、囁いた。

「さらばだ、ゲンテデマ。」

 彼女が廃屋の外に出ると、テオがげんなりした顔で壁にもたれかかっていた。

「俺は君達の文化を否定するつもりはないが、生贄だけは受容出来ない。」

 少佐が苦笑した。

「私もです。」

 彼女は丸く包んだハンカチを彼に見せ、行きましょう、と首を振った。彼は廃屋を見た。

「イスタクアテは?」
「コンドルの目を取り返しました。もう用はありません。」
「しかし、殺人犯だろう?」
「私達に逮捕は出来ません。それに証拠もありません。」
「しかし・・・」

 その時、テオはドボンと言う水音を聞いた様な気がした。まさか? 彼が廃屋に入りかけると、少佐が彼の手を掴んだ。

「ゲンテデマは海に帰りました。追ってはいけません。」

 

第2部 ゲンテデマ  8

  事務所の外に出た時、テオが空を見上げた。海岸に並ぶ別荘の並びは屋根だけが見えていた。その向こうに緑色の海が輝いて見えた。真っ青な空・・・不慮の事故に遭った「空の緑」の命を呑み込んだ緑色の海・・・青い空・・・彼は心の中で言葉を繰り返し、空を見た。ケツァル少佐が車のドアを開けながら「テオ」と呼んだ。ステファン大尉とギャラガ少尉は後部席に乗り込もうとしていた。テオは彼等の焦りを理解していた。彼等の捜査期日は今夜だ。コンドルの目玉を取り戻しても、ラス・ラグナスへ行かなければ解決したことにならない。間に合うのか?
 彼は再び空を見て、ドキリとした。黒い鳥が大空を舞っていた。「少佐!」と彼はケツァル少佐を呼んだ。座席に座ったばかりの少佐が振り向いたので、彼は空を指差した。少佐がそちらを向き、よく見えなかったのか車外に出た。
 大きな黒い鳥がゆっくりと南の岬近くの空を輪を描いて舞っていた。

「コンドルです。」

 少佐が早く乗れと合図した。テオは走り、車に乗った。大尉が「何か?」と尋ねた。テオは空を見ろと怒鳴った。
 ベンツはハイウェイを南へ3分ほど走り、小道に曲がった。狭い道に入ってすぐに少佐が車を停めた。

「大尉、運転しなさい。」

と言いながら彼女は外へ出た。一瞬ステファンが戸惑うと、早く!と怒鳴った。テオは助手席から外に出た。ギャラガは動かなかった。どうして良いのか戸惑っていた。少佐が忍耐強く、”出来損ない”の弟に言った。

「コンドルは恐らくジョナサン・クルーガーの上を舞っています。それを見てペラレホがクルーガーの所へ行く筈です。」

 大尉がハッとして急いで後部席から運転席へ走って移った。

「貴女は、少佐?」

 問われて少佐が路地の奥を指差した。

「向こうから怪しい気が発っせられているのを感じます。イスタクアテだと思います。二手に分かれて追いましょう。」

 大尉の返事を待たずに彼女が歩き出したので、テオは迷わず彼女に付いていった。
 ステファン大尉は2人が並んで歩くのをチラリと見送り、すぐに車を出した。ペラレホに殺人を犯させてはならない。そんなことをしたら、コンドルの目が汚れてしまう。路地と言うより岸壁と人工的な壁が混ざる遊歩道の様な道だ。幸い金持ちの別荘街なので高級車が通れる道幅があった。しかし視界が狭く空が見えにくかった。

「アンドレ、空にまだコンドルはいるか?」

 ギャラガは窓から顔を出し、上を見上げた。

「います。もう少し左方向・・・次の角を曲がれますか?」

 言われた角を曲がると少し坂を下り、ちょっと広い場所に入った。行き止まりだったが車の転回場所らしくスペースはあった。薄いベージュ色の壁と門扉。色鮮やかな花が咲き乱れる低木の植え込みの向こうに平屋建ての綺麗な別荘が建っていた。屋根の上空を真っ黒な聖なる鳥が輪を描いて飛んでいた。
 ステファン大尉は車を停め、エンジンを切った。車外に出て、塀の中を覗き込んだ。芝生の庭の向こうに海が見えた。階段で海岸に降りられる様だ。プライベートビーチだ。ギャラガも外に出たので、彼は塀から離れ、そして勢いよくダッシュした。ジャガーの如く塀の壁を足で蹴って縁に2歩で駆け上がった。ギャラガもそれを見て、真似して上がって来た。電流が通るラインを越え、庭に飛び降りた。防犯用監視カメラがあるが、気にしなかった。相手は警察を買収出来る金持ちだが、こっちは緑の鳥の徽章を見せるだけで警察を引き下がらせる大統領警護隊だ。そして屋敷からは誰も出て来なかった。監視カメラを常にモニターしている警備員は雇っていない様だ。
 人の話声が聞こえた。海の方からだ。ステファンとギャラガは階段の降り口へ行った。
 想像通り、コンクリートの階段が下へ降りていた。下に木製の桟橋があり、クルーザーが係留されていた。水着姿の若い男女が船の甲板に立っており、桟橋にはTシャツに短パン姿の男が1人いた。後ろ姿だったが、髪の色や肌の色を見れば地元民だと分かった。ギャラガが囁いた。

「拳銃を持っています。」

 ステファンは頷いた。捕まった時に、連中に拳銃を奪われたのだ。その銃でペラレホ・ロハスはジョナサン・クルーガーと女性を脅していた。

「言い訳は聞きたくない。」

と彼は言っていた。

「これからお前が海に入って、俺の父に謝るんだ。」

 ステファンに聞き覚えのある声だった。クルーガーが手を差し出して命乞いをした。

「泳げない。金ならたくさんある。助けてくれ。」

 あまりスペイン語は得意でないようだ。恐らくペラレホが何を要求しているのか理解出来ていない。謝れと言うペラレホに対して、金を出すと言い続けるクルーガー。
 ステファン大尉とギャラガ少尉は階段を降り始めた。女性が彼等に気がついた。

「助けて!」

 彼女は英語で叫び、それからスペイン語で同じことを言った。もしかするとペラレホの仲間の強盗団だと思われているのかも知れない。女性はクルーガーの後ろに隠れるように立っていた。
 ペラレホは拳銃を白人達に向けたまま、首を少し動かして近づいて来る大統領警護隊を見た。

「お前か、”出来損ない”。」

と彼が呟いた。

「少し待っていろ。こいつに父への謝罪をさせてやる。その後はお前の好きにさせてやる。」
「それは待てない。観光客に何かあれば国の名誉に関わる。」

 ギャラガは立ち止まった。彼の拳銃は下水道で濡れてしまって使えない。装着しているだけだ。大尉は丸腰だ。しかし大統領警護隊は丸腰でも銃を持った敵と戦う訓練は十分していた。ただ、ギャラガはまだ「守護」目的で気を放った経験がなかった。銃が発射されるタイミングで気を放って銃弾を空中で破裂させる技だ。早過ぎると銃を撃った人間に大怪我させるし、遅ければ標的が怪我をする。特に今のような至近距離は難しい。それに、大きな問題があった。拳銃を持っているのも”ヴェルデ・シエロ”、しかも純血種だ。まともに気をぶつけ合うと、向こうの方が強い・・・ことになっていた。
 ペラレホは船の方へ向き直った。

「それならこの地上での謝罪は良い。こいつらに海の底でやってもらう。」

 ステファンが一声、アンドレ! と叫び、いきなりペラレホに飛びかかった。拳銃の発射音が響き、ギャラガは思わず力んだ。空中で何かが弾けた。
 魚網を引くゲンテデマの力は強かったが、格闘技の訓練を受けてきた大統領警護隊の逮捕術が勝った。ステファン大尉はペラレホを桟橋の上に押さえ込み、両腕を背中へ捻った。

「何か縛る物はないか?」

 訊かれてギャラガは、船の上で呆然としているクルーガーに同じことを尋ねた。女性が船室へ駆け込み、何かのコードやスカーフを抱えて戻ってきた。クルーガーは甲板にへたり込んでいた。

「コードじゃ駄目だ。」

 ”ヴェルデ・シエロ”なら気の力で切ってしまう。ギャラガは思いついてペラレホ自身の所持品を検めた。そして革紐を見つけた。それで手首を縛り、スカーフで目隠しした。

「悪いのは、向こうだ!」

とペラレホが喚いた。

「あいつが父を殺したんだ!」

 女性がクルーガーを見た。 そしてギャラガに尋ねた。

「貴方達、警察なの?」


 

第2部 ゲンテデマ  7

 「クルーザーの持ち主は公表されなかったのですか?」

とステファン大尉が質問した。ロムべサラゲレスは彼を見て、そして机の上のメモパッドに何か走り書きした。破り取って大尉に手渡した。大尉が声に出して読んだ。

「ヨナタン・クルゲール・・・」
「ジョナサン・クルーガーだろう。」

とテオが英語読みした。ロムべサラゲレスが頷いた。

「スィ、アメリカ人です。事故の後、警察を買収して過失は漁船の方にあったと言わせました。漁船が回避義務を無視して突っ込んで来たと。 カイヤクアテが亡くなったのは気の毒だったと見舞金を出しましたが、罪には問われませんでした。」
「クルーガーの船体の傷は左舷に付いていたのですか?」
「それは知りません。買収された警察官以外に船を実際に見ていません。」

 海上交通のルールに詳しくなさそうな大統領警護隊の隊員達にテオは簡単に説明した。

「衝突回避のために海上では右側通行が鉄則だ。互いに正面から来た場合は双方が右側へ回避する。直角に出会う場合は相手の船を右舷側に見る方の船が右へ回避し、左舷側に相手を見る船は速度を維持したまま直進しなければならない。或いは右舷側に相手を見る方の船が停止して相手の通過を待つんだ。これが国際ルールだ。」

 ほうっと大尉と少尉が感心した。ケツァル少佐は知っていたらしく、頷いた。多分、金持ちの養父母が船遊びを彼女に教えたのだろう。ロムべサラゲレスはバナナ畑で働いているが地元っ子なので船のことは知識がある様だ。

「イスタクアテの船は沈んでしまったので、彼の船の傷が右舷なのか左舷なのか分からず仕舞いでした。クルーガーのクルーザーは警察が船の身元を突き止めて捜査に行った時には既に修理の為に解体されていたそうです。」
「漁船は停泊して漁をしていたんじゃないですか? そこにクルーザーが突っ込んだ・・・」

 テオのツッコミにロムべサラゲレスは肩をすくめた。恐らくそれが真実だ、とテオは思った。車で海岸線を走って来る時、海に浮かぶ漁船をたくさん見かけた。どれも小さく、簡単な構造の船だった。欧米の漁師が使う様な超音波探知機やレーダーや集魚灯なんか搭載していないだろう。無線機を持っているかどうかも怪しい船ばかりだった。網を下ろして魚を獲っているところにクルーザーが高速で突っ込めばひとたまりもなかっただろう。

「クルーザーは救助義務を怠ったんじゃないですか?」

とテオが言った。

「どちらに非があるにせよ、動ける方の船が相手の船員を救助するのが義務でしょう?」
「ですから、当て逃げされたのです。」

 少佐が携帯で何かを検索していたが、顔を上げた。

「ジョナサン・クルーガーは今この町にいますね。」
「そうなんですか?!」

 驚く男達に彼女は携帯電話を掲げて見せた。

「SNSに自慢げに写真をアップしていますよ。」

 そこには「3年ぶりにプンタ・マナに来てまーーす! やっぱ、セルバの海は素晴らしい!」と能天気なコメントと桟橋に笑顔で立っている男女の写真が表示されていた。
 ギャラガ少尉が言った。

「3年で熱りが覚めたと思って戻って来たんだ。」
 
 ロムべサラゲレスが不安気に顔を曇らせた。

「ペラレホがこれを見たかも知れません。イスタクアテはネットをやらないでしょうが、甥は今時の男ですから。」

 少佐が立ち上がった。

「この場所を探しましょう。」




2021/09/10

第2部 ゲンテデマ  6

  ケツァル少佐は2人の警備班の大統領警護隊隊員をロムべサラゲレスに紹介した。緑色の鳥の徽章を3個も提示されたバナナ畑の支配人はトラックをチラリと見てから少佐に言った。

「10分待って下さい。商品を荷積みしてしまいます。門の横の事務所で改めてお話を伺いましょう。」

 そこで一行は再び車に乗り込み、バックで門まで戻った。守衛は訪問者が事務所前に駐車して車から降り、入り口の前へ向かったので、慌てて走って来た。そして何も言わずに事務所のドアを開錠した。
 普通の農園管理事務所だった。パソコンが1台、電話が1台、棚に書類のファイルが並び、伝票類やその他書類が他の棚に押し込まれていた。来客用の椅子は1脚しかなく、当然の様にケツァル少佐がそこに座った。テオは窓辺に立ってバナナ畑を眺めた。地面がわずかばかり傾斜して海へ向かって低くなっているのがわかった。ステファン大尉が横に来て、タバコを出して咥えた。テオは窓を開けた。事務所内の空気を入れ替えたかったし、エアコンが効く迄時間がかかりそうだ。それにステファンはタバコに火を点けたいだろう。しかし大尉は残念そうに言った。

「ライターをアイツらに盗られた様です。」
「根っからの泥棒コンビなのかな。」
「そんな連中がシャーマンだとしたら、残念です。」

 ギャラガが彼等の会話を耳にして室内を見回した。ロムべサラゲレスは喫煙しないのか、灰皿もライターもマッチも見当たらなかった。
 少佐は退屈そうに座っていたが、ただ座っているだけではなかった。ギャラガ同様室内を観察していた。しかし”ヴェルデ・シエロ”の居場所であることを示す様な物品は見当たらなかった。グワマナ族が一般人に溶け込んでいると言う噂は本当の様だ。
 トラックがバックで出て来た。門扉前で荷台からロムべサラゲレスと数人の男が飛び降りると、トラックは方向転換してフェンスの外へ出て行った。 作業員達が休憩用のプレハブ小屋に入って行き、ロムべサラゲレスが1人で事務所へやって来た。少佐が立ち上がったので、残りの3人も改めて整列してグワマナ族の族長を迎えた。

「族長がお若いので驚きました。」

と少佐が言ったので、彼は微笑み返した。

「貴女こそお若い。もう少し年上かと想像していました。」

 屋内の明かりの中で見ると、ロムべサラゲレスはテオや少佐と余り年齢が離れていない様に見えた。どう見えても30歳前後だ。

「最近の選挙は何時でしたか?」
「昨年の暮れでした。候補者が5人いたので不安でしたが自信はありました。長老会への顔見せはまだなので、私の当選を知らない人は多いです。」

 テオが怪訝な表情をしたので、ステファン大尉が囁いた。

「族長は選挙で決まるのです。大昔からの常識です。白人は世襲制だと勘違いしがちですがね。」
「ああ・・・そう言えば読んだことがある。北米の先住民も同じなんだ。」

グワマナの族長は椅子がないことを詫びた。

「本来なら客は自宅へ案内するのですが、時間がないとのことですから、ここで済ませましょう。」

 どうやら挨拶の時に、ケツァル少佐は”心話”で既に事情をロムべサラゲレスに伝えていたらしい。族長はステファン大尉に向き直った。

「お探しの男は、シャーマンのイスタクアテ・ロハスと甥のペラレホ・ロハスです。3年前に村を出て行方不明ですが、あの顔は間違いありません。」

 あの顔とは、テオと少佐がチラ見した、車に乗り込む年配の男と若者の顔だ。

「ゲンテデマですか?」
「スィ。ですが、気の毒に過去形です。彼等は船とイスタクアテの弟を失いました。」

 族長が窓から見える海を指差した。

「3年前、彼等はイスタクアテの弟のカイヤクアテと、イスタクアテ、ペラレホの3人であの付近で漁をしていたのです。カイヤクアテはペラレホの父親でした。彼等の船は、観光客が乗った大型クルーザーに当て逃げされたのです。」

 テオが思わず尋ねた。

「犯人は捕まらなかったのですね?」

 話に順番と言うものがあるので、族長は彼を無視した。

「ロハス一家の事故に気付いた仲間の漁船が集まって救助に当たったのですが、カイヤクアテは発見に2日かかってしまい、亡くなりました。イスタクアテは警察に当て逃げしたクルーザーの特徴を証言したのですが、犯人は捕まりませんでした。」

 彼は小さな声で付け加えた。

「相手は金持ちでしたから。」

 つまり、賄賂をもらって警察は犯人を見逃したのだ。テオは唖然とした。セルバ人達はそんなに驚いていなかったが、納得した筈はない。ギャラガ少尉が思わず質問した。

「担当した警察官は一族ではなかったのですか?」
「一族出身の警察官がいたらお目にかかりたい。」

とロムべサラゲレスは言った。確かにテオも”ヴェルデ・シエロ”の警察官を見たことがなかった。”ヴェルデ・シエロ”の公務員はまずもって大統領警護隊だ。隊員になってから官公庁の様々な分野で働くのだ。警護隊に入らなければ軍人だし、それ以外の公務員にはならない。
プンタ・マナの街の警察官は”ティエラ”しかいない。そして彼等は外国人から金品を収賄して”神様”を怒らせた。

「担当した警察官は2人いましたが、どちらも昨年相次いで事故で亡くなりました。」

 当然だろう、と言うニュアンスでロムべサラゲレスが言った。ステファン大尉が尋ねた。

「イスタクアテとペラレホの仕業ですか?」
「我々にはわかりません。」

 わかっていても彼は言わないだろう、とテオも大統領警護隊の3人も思った。恐らくこの街のグワマナ族達は汚職警察官が不慮の死を遂げても不審に思っていないのだ。アイツらは死ぬべくして死んだ、そんな認識に違いない。

「彼等はラス・ラグナス遺跡の神像から目玉を盗み、サン・ホアン村の占い師を殺害した容疑が掛かっています。我々はグラダ・シティで昨日彼等と接触しましたが、逃げられました。彼等が立ち回りそうな場所に心当たりがあれば教えて頂きたい。」
「さて・・・私は彼等の消息を3年ぶりに聞いたばかりですから・・・」

 族長として同族を庇っているのか、本当に知らないのか、判然としなかった。ステファン大尉がイラッとしかけた時、テオが質問した。

「単純に、コンドルの石像の目玉を何に使うかわかりませんか?」
「コンドル?」

 ロムべサラゲレスが初めてまともに白人の彼を見た。

「私はシャーマンではないが、コンドルの目なら探し物に使うでしょう。」
「つまり、件のゲンテデマ達はクルーザーを操縦していた白人を探している?」

 ああ、とケツァル少佐が何かを思いついて声を出した。

「だから魚を儀式に使って、船の行方を海の精霊に尋ねたのですね?」

 

2021/09/09

第2部 ゲンテデマ  5

  翌朝、ケツァル少佐はベンツのSUVにテオ、ステファン大尉、そしてギャラガ少尉を乗せて南のグワマナ族が住む地方へ向かった。水曜日の朝だ。警備班から来た大尉と少尉には、捜査の最終日だった。ステファン大尉には不本意だったが、この捜査には古巣の仲間達の援助が必要だった。彼もギャラガもゲンテデマの2人の男の顔を見ていなかったので、少佐とテオの記憶を頼るしかない。少佐は”心話”で男達の顔を教えてくれたが、顔だけでは犯人達の名前も居場所もわからないのだ。だから彼等には少佐が必要だった。ステファン大尉は悔しさを堪えて元上官にお願いしたのだ。「一緒にグワマナの村へ行って下さい」と。すると彼女はテオも行くなら行っても良いと答えた。ギャラガは大尉がムッとしたのが不思議だった。テオと大尉は親友の様だが、何故か時々ステファン大尉はテオに対して不満を抱いている様に見えた。
 東海岸地方の道路は快適だ。観光用に開発され、産業道路でもある。交通量が多く、道幅も片側3車線の幅だ。快適なドライブでまだ太陽が海の上にあるうちにプンタ・マナと言う町に到着した。外国人が所有する豪奢な別荘が海岸線に並んでいた。内陸側は先住民が多く住む綺麗な街だ。色とりどりの屋根の可愛らしい家が並んでいた。住宅地の背後にはバナナ畑が広がっていた。エル・ティティのバナナ畑よりずっと広大だ。畑の中の道路を走って行くと、テオが看板を見つけた。

「フェルナンデス農園だ。ここじゃないか?」

 何が「ここ」なのだろう、とステファン大尉は後部席で思った。少佐は目的地をテオにしか伝えていなかったので、それも彼は不満だった。ギャラガは大尉の気がピリピリするので、ちょっと不安になった。大尉がご機嫌斜めなのは、きっと捜査期限の今日になってしまったからだろう、と思うことにした。
 少佐は車を門扉の中へ乗り入れた。守衛の男に、ロドリゴ・ロムベサラゲレスと言う人に会いたいと告げると、男は胡散臭そうに車内を覗き込んだ。軍人の女性と、白人と私服の男2人だ。

「セニョール・ロムベサラゲレスが何処にいるのかわからない。うちの農園は広いから。」

 少佐がポケットに手を入れたので、男はチップを貰えるものと思って手を出した。少佐は緑色の鳥の徽章を出した。男はびっくりして手を引っ込めた。西の方角へ伸びる道を指差した。

「セニョールはあちらです。」
「グラシャス。」

 少佐は小銭を2枚ほど彼の手に入れてやった。それで十分だ。
 ジャングルの様なバナナ畑の中を走って行った。ギャラガが大尉に尋ねた。

「これ、全部1人の所有ですか?」
「会社形式になっているが、オーナーは1人だ。」

 ステファンは農園主の名前を知っていた。遺跡や考古学には無縁の実業家だが、バナナを大統領府に収めている業者だ。個人的に会ったことはないが、顔はメディアを通して知っていた。その人間と今回の捜査にどんな関係があるのだろうか。ロムベサラゲレスなどと言う長ったらしい名前の人間は何者なのか。
 行手を塞ぐ形でトラックが停車していた。畑の中にロープが張られ、大きなバナナの房がロープウェイみたいにぶら下げられて行儀良く順番にトラックの荷台に送られている最中だった。花柄の派手なシャツに綿パンの若い男がそばに立って、トラックの荷台の男達の作業を見守っていた。顔にはサングラス、ツバの広い日除け帽子を被っていた。
 少佐がSUVを停めた。テオが外に出た。彼は若い男に近づいて行った。

「ブエノス・ディアス。」

 彼が声をかけると、男はチラリと訪問者を見た。すぐに視線をトラックに戻しながら挨拶を返した。

「ブエノス・ディアス。何か御用ですか?」
「私はテオドール・アルストと言います。グラダ・シティから来ました。セニョール・ロムベサラゲレスはどちらにいらっしゃいますか? こちらで支配人をなさっていると聞きましたが。」

 若い男がトラックに向かって怒鳴った。

「止めろ! 休憩だ!」

 トラックの男達が畑の向こうへ同じ言葉を怒鳴った。「止めろ! 休憩だ!」 が伝言ゲームの様に伝わって行った。そしてバナナの行進が止まった。
 男がサングラスを外し、テオを見て、運転席の少佐を見た。そして言った。

「私がロドリゴ・ロムべサラゲレスです。」

 すると少佐が運転席から素早く降りて、テオとロムべサラゲレスのそばに来た。右手を左胸に当てて挨拶した。

「私はグラダのシータ・ケツァル・ミゲールです。」

 ロムべサラゲレスは同じポーズを取って改めて挨拶した。

「グワマナのロドリゴ・ロムべサラゲレスです。」

 大尉がギャラガに車から降りろと囁いた。

「族長同士の挨拶だ。私たちがここに座ったままだと不敬になる。」



 

第2部 ゲンテデマ  4

  小規模の地震が群発するサン・ホアン村は井戸が涸れ始め、占い師のフェリペ・ラモスは神様に救いを求めてラス・ラグナス遺跡へ行った。そこで神様の遣いであるコンドルの石像の目玉を盗まれていることに気がついた。井戸が涸れるのは神様の怒りだと思ったラモスは、神様に話を聞いてもらおうとオルガ・グランデへ”ヴェルデ・シエロ”を探しに行った。バルで「雨を降らせる人を探している」と言って心当たりを探っていた彼は、不幸にも遺跡荒らしの”ヴェルデ・シエロ”に出くわしてしまった。恐らくグワマナ族の漁師だった2人の男だ。彼等はラモスからコンドルの目玉を盗まれた話を聞き、ことが大きくなる前に手を打った。ラモスを殺害してしまったのだ。身元がわかる物を奪い取り、エル・ティティ郊外の畑の脇に遺体を捨てた。
 だが遺体が身につけていた”雨を呼ぶ笛”だけは取るのを忘れたのだ。エル・ティティ警察署長ゴンザレスの養子テオがそれに興味を持ち、大学で考古学教授ケサダに鑑定してもらった。笛がオルガ・グランデ北部で使われる雨乞いの儀式の物だと教えられたテオは、ゴンザレスに調査結果を伝え、ゴンザレスは地元警察に問い合わせてみた。そして2月前にサン・ホアン村のラモスが行方不明になったと言う届出があることを知った。
 一方大統領府西館庭園で謎の「視線」騒ぎが起きた。実際は何時から始まったのか不明だが、警備第4班が一巡以上するより前からだ。気味が悪いと感じた若い警護隊隊員達が報告書に書いて提出したのが、ほんの先週末だった。経験値の高い司令部の人間達は「視線」の正体に見当がついただろうが、それが何故そこに起きたのか、ステファン大尉とギャラガ少尉に調査と対処を命じた。
 大統領警護隊文化保護担当部から移籍したステファン大尉は、ギャラガと現場へ行き、空間の歪みを発見した。それが「視線」の正体だと彼はすぐにわかったが、それがそこに突然出現した理由は調査に出かけなければわからなかった。2人は”節穴”の向こうに見えた石らしきものを手がかりに、遺跡のエキスパートであるセルバ国立民族博物館のムリリョ博士に協力を求めた。ムリリョ博士は”節穴”の向こうに見えた石らしきものは、ラス・ラグナス遺跡の物だろうと見当をつけた。国内の遺跡に立ち入るには文化保護担当部の許可が必要だ。大尉は文化保護担当部の元同僚ロホに協力を求め、ロホは翌朝2人をケツァル少佐の自宅へ連れて行った。
 テオの殺人事件の身元探しを知っていたケツァル少佐は、ラス・ラグナス遺跡がサン・ホアン村のそばにあることを知り、ステファンとギャラガの遺跡捜査にテオとデネロス少尉を参加させた。テオの観察眼に期待したのと、デネロスに現場体験と護衛をさせたのだ。
 日曜日の夜にオルガ・グランデ基地で合流した4人は月曜日の朝、サン・ホアン村を訪問した。そこでラモス失踪の経緯を聞き、井戸が涸れ掛けていることを知った。ラス・ラグナス遺跡ではコンドルの神像の右目が失われ、目があった箇所に”節穴”が出来ていることがわかった。それが大統領府西館庭園の「視線」の正体だった。遺跡をさらに調べると、テオが抑制タバコの吸い殻を発見した。抑制タバコは”ヴェルデ・シエロ”しか吸わないタバコだ。遺跡荒らしが”ヴェルデ・シエロ”であった疑いが生じた。その夜、再び遺跡を調べていたデネロスとギャラガは遺跡の精霊とコンタクトを取れそうになるも失敗した。そしてステファンが突然姿を消した。
 ステファン大尉は誰かが先に遺跡に来て”入り口”に入るのを気配で知った。うっかり”入り口”に手を入れてしまった彼は吸い込まれ、”着地”した途端に何者かに殴られて昏倒した。
 大尉が消えたことを知ったテオとギャラガは”入り口”が閉じてしまう前に追いかけようと”入り口”に入った。そしてグラダ・シティの下水道の中に”着地”した。2人は下水道を歩き、地上に上がってケツァル少佐に助けを求め、”着地”した地上の座標を探した。そして何処かへ立ち去るグワマナ族の2人の男を目撃し、空き家に放置されたステファン大尉を救出した。グワマナ族達は呪いの儀式を行っていた様子だったが、妨害が入って逃げたのだ。彼等は魚の鱗や刺青からグワマナの漁師ゲンテデマであると推測された。
 
 サン・ホアン村から1人で帰って来たマハルダ・デネロス少尉はステファン大尉の無事な姿を見るなり彼に抱きついてワンワン泣き出した。1人でキャンプを片付け、2人の二等兵の記憶からステファン、ギャラガ、テオの記憶を消して、基地に戻って基地司令官からも記憶を抜き取り、彼女1人で遺跡調査に来たと思い込ませた。そして今にも落ちるんじゃないかと思わせる空軍の古い輸送機でグラダ・シティに帰って来たのだ。
 いつもは冷たい目で部下達が感情的になるのを見ているケツァル少佐がデネロスをステファンから引き剥がし、優しく抱き締めてやった。

「1人でよく後始末を手際良くやり遂げました。賞賛物ですよ。」
「少佐ぁ・・・もし皆とあれっきり会えなくなったらって思ったら、すごく不安でした。」

 男の部下達と違ってデネロスは感情をまっすぐにぶっつけて来る。少佐は食べてしまいたいくらいにこの女性少尉が可愛くて仕方がない。デネロスにハンカチを渡した。

「さぁ、顔を拭いて・・・皆で晩御飯に行きますよ。」
「私、埃だらけです。」
「それじゃ、うちに来なさい。男達に先に店を選んでテーブルを確保してもらいましょう。」


第2部 ゲンテデマ  3

  テオは自宅のベッドで心地良い昼寝から覚めた。体を起こそうとすると体に掛けた薄手のブランケットが重たくて動けなかった。このパターンは何時ぞやも・・・一瞬期待して首を曲げて見ると、若い男がベッドの縁に座っていた。ちょっとがっかりして、少し驚いた。

「アスル! 何故ここに? 少佐の遣いか?」

 アスルが立ち上がったので、起きることが出来た。アスルは迷彩柄のパンツにベージュのTシャツ、いつもの勤務中の服装だった。

「雨が降って来たので、雨宿りしていた。」

と何時も愛想のない男が呟いた。それなら居間で良いだろうと思った。客間でも良いのだ。アスルは時々ふらりとやって来て、勝手に泊まって行く。テオを嫌っている様に見えて、本当は愛しているのだと以前ロホにからかわれたことがあった。恋愛感情はないだろうが、憎まれていないとテオは思っている。アスルは「通い猫」のジャガーなのだ。定住する家を持たないので、住所不定では昇級させられないと大統領警護隊の本部から再三注意を受けているのだが、本人は気にしていない。

「君の部屋で休めば良いのに。」

 テオが言う「君の部屋」はアスルが普段勝手に宿泊する時に使用する客間だ。しかしアスルは顔を顰めて言った。

「カベサ・ロハ(赤い頭)がいる。」

 そう言えばアンドレ・ギャラガを客間に入れてやったのだ。ギャラガはアスルの1年下の少尉仲間だが、仲が良いと言えなかった。どちらかと言えば、ギャラガは虐められっ子で、アスルは虐める方だ。対マンで闘えば勝つ自信があっても、喧嘩する理由がなければ衝突を避ける。アスルのルールだ。
 テオがコーヒーを淹れると言うと、彼は素直に彼について居間に入った。

「もう少佐への報告は終わったのかい?」
「ノ。」

 テオがキッチンで作業する間、彼は手脚を伸ばしてストレッチしていた。

「今日は大学へ行って、内務省へ行って、建設省へ行って、地質学院へ行った。」
「遺跡の調査じゃなかったのか?」
「初めは遺跡の調査だった。」

 コーヒーの芳しい香りが漂うと、彼の表情が緩んだ。

「俺の好きなグアテマラだ!」
「俺も好きだから、最近はこれしか買わないんだ。」

 物音がして、2人が振り返ると、客間の戸口にギャラガが立っていた。コーヒーの香りで目覚めたのだ。アスルが「チッ」と舌打ちして、テオは微笑んで手招きした。

「君もコーヒーを飲めよ。これからアスルが調査報告をしてくれる。」
「そんなことを言った覚えはない。」

 と言いつつも、アスルはギャラガが席に着くのを待っている間、コーヒーに手を付けなかった。2人の少尉は挨拶も敬礼もしなかった。それぞれ砂糖やミルクで好みの味にコーヒーを調整して、それからテオがアスルを見た。

「ラス・ラグナス遺跡とは、どんな処なんだ?」
「考古学部にも史学部にも資料がなかった。全くのノーマークの遺跡だ。」
「しかし、セルバ国立民族博物館の地図には記載されている。」

 ギャラガはうっかり先輩が話している最中に口を挟んでしまった。アスルは彼を無視した。

「宗教学部へ行って、あの地方の伝承や神話に何か手がかりがないか調べた。何もなかった。」

 ウリベ教授の研究室に行ったのだろう。

「内務省へ行って、近くのサン・ホアン村の登録を調べた。あの村は植民地支配が始まった16世紀の記録にはなかった。最初の記載は17世紀中盤だ。税金を取る為に国土調査が行われたんだ。当時の地図を見ると、今より少し北寄りにあった。沼の辺りにあったんだ。」
「ラス・ラグナスは、サン・ホアン村だったのか?」
「そう考えて良さそうだ。村の移転の記録は資料整理が滅茶苦茶で、独立当時の物は田舎の村が大概同じことをしたが、植民地の支配者側が資料を焼いてしまって損失している。兎に角、19世紀の独立以降は今の位置に村がある。」
「村が移転したのは、沼が干上がったせいだろうか?」
「建設省へ行ってみたが、村の引っ越しに関する資料はなかった。そこで働いている知人が地質学院へ行けと言ってくれたので、行った。」

 セルバ国立地質学院は、ティティオワ山の火山活動の監視と西部海岸地方の砂漠化の調査、国土の地質調査、地図作成などをしている。地図作成は本来建設省が受け持っていそうなのだが、セルバ共和国では地質学院の仕事だった。

「オルガ・グランデから北は人口が極端に少ない。金の埋蔵量も期待出来ないので、白人は興味を持たなかった。それに、あの周辺は地揺れが多い。」
「地揺れ? 地震か?」
「スィ。昔のサン・ホアン村があった沼は17世紀から18世紀初頭にかけて頻発した小規模の地震で消滅したと考えられている。水源が絶えたのだろう。」
「現代のサン・ホアン村の井戸は涸れ掛けている。」

 ギャラガはつい再度口を挟んでしまった。アスルが初めて彼をジロリと見た。

「井戸を見たか?」

 ギャラガは彼の目を見た。”心話”で覗き見した井戸のビジョンを伝えた。アスルが微かに眉を上げた。なんだ、”心話”を使えるじゃん、と言う表情だ。彼は視線をテオに戻した。

「あの付近は、最近また小規模な群発地震が発生している。人が感じるか感じないかの微細な揺れらしいが、地質学院が設置した地震計にははっきり揺れが計測されているそうだ。恐らく地下の水流が変わってしまい、村の井戸に水が届かないのだ。」

 それはどんなに神様に祈っても効き目がない筈だ。村を救おうと遺跡の神像へ祈りに行き、遺跡荒らしを知って、オルガ・グランデに救いの手を求めて出て行ったフェリペ・ラモスの不運を、テオは哀れに思った。神と頼んだ”ヴェルデ・シエロ”が当の遺跡荒らしで、彼は殺されてしまったのだ。
 アスルがコーヒーを飲み干して立ち上がった。

「雨が止んだから、オフィスへ帰る。」
「少佐にさっきと同じことを報告するんだろ? 二度手間をかけさせて済まなかった。」
「どうせ、先に少佐に報告しても後であんたに教えなきゃならない。後先の違いだ。」

 彼はさよならも言わずに出て行った。ギャラガはぽかんとして彼の後ろ姿を見送った。
 テオが時計を見た。

「まだ夕食には早いが、俺達もゆっくり文化・教育省へ行こう。また歩く気力はあるか?」
「大丈夫です。」

 

 

2021/09/08

第2部 ゲンテデマ  2

  4階のオフィスに上がると、大統領警護隊文化保護担当部の場所にはロホ1人だけがいて、書類を眺めていた。ケツァル少佐とステファン大尉がカウンターの内側に入ると、昼休みでも出かけずに残っていた職員達が立ち上がった。大尉は忽ち古巣の職員達に取り囲まれた。
 少佐は彼をほっぽって己の机へ行った。ロホが立ち上がって机の前に来た。すぐに目と目で報告が交わされた。

ーーコンドルは高山地帯に住む鳥です。セルバにコンドルを神とする風習はありません。しかし、コンドルの神像を祀る部族がいた訳ですから、南から北上して来た外来種族の遺跡と考えられます。
ーーコンドルは天空の神の使者でしょう?
ーースィ。ですから、ラス・ラグナスを造った部族は神として祀っていたのではなく、神の使者として崇拝していたのでしょう。地上の者の願いを天空の神へ伝えてもらう為に祀っていたのだと思われます。
ーーでは、そのコンドルの像から目玉を奪う意味は何ですか?
ーーコンドルは天空から地上を見ます。その目を使う呪術ですから、何かを探していたのではありませんか?
ーー探す?

 少佐は考えた。

ーー目玉泥棒と思われるグワマナ族の男達が粘土人形を用いた呪いの儀式を行っていた形跡がありました。彼等は呪う相手を探して、コンドルの目玉を使ったのではありませんか?
ーー考えられます。
ーー彼等はカルロのジャガーの心臓を生贄に望んだそうです。
ーー心臓はコンドルへの礼でしょう。しかしカルロから心臓を取れなかった・・・
ーー年嵩のシャーマンが心臓を欲し、若い男がカルロは”出来損ない”だからナワルを使えないと言って止めたそうです。
ーーグワマナ族のシャーマンならカルロがナワルを使えるか使えないか判別出来るでしょう。若い男がシャーマンの弟子なら、判別出来る筈です。そいつはカルロを庇ったのです。
ーー生贄を得られなかったとすると、彼等はまだ標的を見つけていないのでしょう。
ーーテオの街で見つかった死体が、彼等の犠牲者だとすると、また殺るかも知れません。

 ステファンが職員達の歓迎から解放されて彼等のところへ来たので、少佐とロホの無言の会話は中断した。少佐がロホに言った。

「大尉に報告しなさい。彼の任務です。」
「承知しました。」

 ロホはステファンの目を見た。ステファンが憮然として呟いた。

「私の心臓はコンドルの餌か?」

 ロホが苦笑した。

「怒るなよ。多分、目玉の石を取り戻して元の場所に嵌め込めば、”節穴”の問題は解決すると思う。」

 

第2部 ゲンテデマ  1

  テオとギャラガをシエスタで休ませるためにテオの家に届けた少佐は、夕方連絡を入れると言って、ステファン大尉を連れて再び車を走らせた。大尉は静かに助手席に座っていたが、車が文化・教育省の方向ではなく住宅地をそのまま走るので、行き先に見当がついた。

「止して下さい、まだ帰りたくありません。」

 思わず抵抗すると、少佐はキッパリと言った。

「一言挨拶するだけで良いから、カタリナに会って行きなさい。さもないとここで放り出しますよ。」

 養母がセルバ共和国に帰ってくる時は必ず休みを取って実家に帰る上官がそう言うので、ステファンは仕方なく口を閉じた。テオの家がある地区は集合住宅が多いが、ステファン大尉が母親の為に買った家は戸建て住宅が多い地区だった。決して裕福な層ではないが、少し経済的に余裕のある人の住居地だ。スラムで生まれ育った母親が生活に慣れないうちに本隊に召喚されてしまった大尉が、母親に申し訳なく思っていたのは確かだった。
 家の前に駐車すると、少佐は首を振って彼に降りろと無言で命じた。ステファン大尉は一呼吸置いて、車外に出た。そして足早に家の中へ入っていった。狭い庭に野菜が植えられていた。洗濯物がロープに吊るされている。典型的なセルバ共和国の庶民の生活ぶりだ。大尉が本隊に去ってしまった後、少佐は暫く休日毎にこの家に通い、カタリナ・ステファンを外へ連れ出した。近所のメルカド(マーケット)へ行き、買い物をしながら近所の女性達とカタリナの顔繋ぎをした。早く友達を作って地区に馴染ませたかったのだ。異母妹のグラシエラはすぐに友人が出来て、大学でも楽しく過ごしている様だ。仕事を持たないカタリナには近所付き合いが重要だった。
 10分ほどして、早くもステファンが家から出て来た。後ろを振り返りもせず、足早に車に戻って助手席に乗り込んだ。

「行きましょう。」

と言うので、少佐は外を見た。窓からカタリナがこちらを見ていたので、彼女は敬礼して見せた。カタリナが手を振ってくれた。
 車を走らせてから、彼女が彼に「もう少しゆっくりすれば良いのに」と言うと、彼は抗議した。

「まだ任務遂行中です。それに長居すると頭の傷を見られてしまいます。」

 少佐は思わず笑った。ステファンは母親に心配をかけたくないのだ。

「母が貴女に感謝していました。貴女に連れて行っていただいたメルカドで知り合った女性グループに参加して織物クラブで機織りしているそうです。さっきも織り上げた布を検品している最中でした。」
「民芸品として売れますから、お小遣い稼ぎにもちょうど良い趣味ですよ。」
「その様です。それから・・・」

 少し大尉は躊躇った。

「もしクリスマスにミゲール夫妻がお許し下さるなら少佐をステファン家のクリスマスに招待したいと言ったので、少佐はミゲール家を大事に思っておられるのでそれはないと答えておきました。」

 ケツァル少佐は苦笑した。大統領警護隊にクリスマス休暇はないのだ。ただ警護すべき要人達が休暇に入るので、時間が余る当番には休暇を取る余裕が出てくる。文化保護担当部は文化・教育省がクリスマス休暇に入るので暇になるだけだ。ケツァル少佐はその間、養母が仕事の拠点としているスペインへ毎年行っていた。実を言うと、スペインからスイスへスキーに行くのが彼女の1年に1回の贅沢だった。実家を大事にすると言うより、実家を利用して遊びを優先しているのだが、彼女は黙っていた。
 
「貴方はクリスマス休暇がないと、ちゃんとカタリナに言いましたか?」
「スィ。がっかりさせたくないので、引っ越しの時に言いました。今までオルガ・グランデにも帰らなかったので、それは受け入れてくれました。しかし休みの時は電話ぐらい入れろと叱られました。」
「当然です。」
「テオからも同じことを言われました。」

 ムリリョ博士からも同様のことを言われたのだ。ステファン大尉は少し反省モードになっていた。
 車は文化・教育省の駐車場に入った。ステファンは半年前迄彼の愛車だった中古のビートルが停まっているのを見た。ロホがオフィスに戻っている様だ。



2021/09/07

第2部 地下水路  12

  お昼ご飯は大学のカフェだった。テオもギャラガもステファンも空腹だったが、相変わらずのケツァル少佐の食欲には及ばなかった。テオとギャラガは下水の臭いが微かに残る財布の中身を早く使ってしまいたかったので、少佐の分も支払った。ステファン大尉は財布をラス・ラグナスで置いてきたので文無しだった。当然彼の分も支払った。

「財布を買い換えないとな。」

 テオはテーブルに着くとそう言った。ギャラガは一つしか持っていない財布を眺め、溜め息をついた。するとテオが尋ねた。

「誕生日は何時だい? 財布をプレゼントする。」
「それはいけません。」
「否、俺が君を下水に突き落としたも同然だから。誕生日を教えないと言うなら、クリスマスに贈る。」

 それで仕方なく誕生日を告げた。そこへ少佐とステファンが食べ物を持って戻ってきた。食べ始めて間もなく彼女がギャラガに尋ねた。

「ゲンテデマと言う言葉をよく知っていましたね。」

 ギャラガは恥ずかしく思いながら言った。

「休日は1人で海へ出かけて浜辺で過ごすのです。街で遊ぶのに慣れていないし、友達もいないので。通りかかる漁師の会話を聞くともなしに聞いて耳に覚えのある単語だなと思ったのです。」
「泳ぎは得意ですか?」
「多少は・・・」
「よく行く浜辺はどの辺りですか?」
「グラダ・シティの南の方です。」
「ガマナ族を知っていますか?」
「スィ。」

 ギャラガは一瞬”心話”を使おうかと思ったが、テオがいるので言葉に出した。

「グワマナ族のことですね? ”ティエラ”はガマナと発音しますが。」

 テオが驚いて彼を見た。グワマナ族は”ヴェルデ・シエロ”だ。普通他部族は一般人に混ざって暮らしているが、グワマナ族は集団で生活しているのか? それも普通の人間のふりをして? 
 テオの驚きを感じて少佐が彼を見た。

「グワマナは大人しい部族で、現代も昔のしきたりを守って暮らしています。気の力も弱いので周囲に溶け込めるのです。国の南部で漁業や農業をして静かに暮らしていますよ。」
「だが、例の男はガマナ族の疑いがあるんだな?」
「確かめないといけませんが・・・」

 テオは先刻からステファン大尉が大人しいことが気になった。

「カルロ、まだ頭が痛むのか?」
「ノ・・・」

 大尉は物思いから覚めた様な顔をした。

「あの連中が誰を呪っているのだろうと気になったのです。呪いは相手を倒すだけではありません。呪った方も犠牲を強いられます。相手の命を奪うと自分も死ぬのです。」
「え? そうなのか?」

 テオはびっくりした。人を呪わば穴二つ。余程の覚悟がなければ他人を呪うことをしてはいけないのだ。これは神様を怒らせて呪われるのとは次元が違う。

「コンドルの目と人形の呪いは関係があるのかな?」
「同じ人間の仕業なら関係あるのでしょう。」

 少佐がギャラガをチラリと見た。

「でも今日の捜査はここで一旦休みにしましょう。少尉も貴方もシエスタが必要な顔ですよ。」

 確かにテオもギャラガも昨夜から一睡もしていなかった。睡眠だけはたっぷり取ったステファン大尉が申し訳なさそうな顔をした。

 

第2部 地下水路  11

 グラダ大学のメインキャンパスに到着した時、既にお昼前だった。早めに講義が終わった学生や、屋外で教師を囲んで授業をしているグループなど、敷地内は明るく華やかな賑わいを見せていた。ギャラガは生まれて初めて大学と言う場所に来て、緊張した。彼の様な貧しい生まれの人間には遠い世界だと思っていた。しかし周囲を歩き回っている学生達はきちんとした服装の者がいると思えば、ホームレス顔負けの見窄らしい身なりの者もいた。若い人も年寄りもいた。だがくたびれた雰囲気はどこにもなかった。どの人も活き活きとして見えた。
 ギャラガがケツァル少佐に買ってもらった古着は、大学では少しも古く見えなかった。同じようなファッションの人が多かったのだ。だからギャラガは気後せずにテオ達について行った。テオがグラダ大学の先生だと言うのは本当らしい。時たま学生が声をかけて来るのを、彼は「また明日な!」と言ってやり過ごした。
 やがて一行は博物館並みに重厚な石造の建物にやって来た。表示が出ていて、建物の右翼が文学部・言語学・哲学で左翼が考古学部・史学部・宗教学部だった。 建物自体の入り口の上には大きく「人文学」とあった。外観は植民地時代のものだが、中は改装されてかなり近代的だ。入ったところのロビーの突き当たりに本日の講義予定と在室の教授・教官達の名前が掲示されていた。電光掲示板だったので、ギャラガはちょっと驚いた。空港みたいだと思った。テオは考古学部にムリリョ博士の名前がなかったので、内心ホッとした。あの長老は嫌いではないが苦手だ。ケサダ教授は在室だと思ったが、少佐は宗教学部に向かった。
 目的の教授はノエミ・トロ・ウリベと言う女性だった。典型的な古典的セルバ美人で膨よかな体型で肌は艶々だが髪はシルバーだった。少佐がドアをノックすると1分ほどしてからドアを開けた。

「あら! シータ、久しぶり! 元気だった?」

 ケツァル少佐はウリベ教授の太い腕でギュッと抱擁された。少佐が息が詰まりそうな声で挨拶していると、ステファン大尉がこそっとその場を離れようとした。ウリベ教授は見逃さなかった。少佐を解放すると、すぐに「カルロ!」と叫んだ。ステファン大尉が固まり、彼も抱擁された。テオは人文学の建物にいる教授達とはあまり馴染みがなかったが、白人の教官はそれなりに目立つ。ステファンの次は彼だった。万力の様に締め付けられ、ステファンが逃げ出そうとした理由がわかった。

「ドクトル・アルスト、一度はお話したかったですわ!」
「光栄・・・です・・・ウリベ教授・・・」

 多分、誰も紹介も何もしていないのだが、ウリベ教授はお構いなしだ。初対面のギャラガ少尉まで犠牲になった。

「新しい学生かしら? よろしくね!」

 ギャラガは言うべき言葉を失して目を白黒させた。
 熱烈歓迎を受けた4人の訪問者は教授の部屋に招き入れられた。不思議な空間だった。アメリカ大陸南北から集められた土着信仰に使用される人形が所狭しと置かれていた。蝋燭や、祭祀の様子を撮影した写真を貼ったパネルや、書物や薬品の様な物が入った容器がそこかしこに置かれ、整理整頓されているのかいないのかわからない。奥に机と椅子があったが、教授は床に広げられたラグの上に座り込み、少佐も座ったので男達もそれにならった。
 ウリベ教授は”シエロ”なのだろうか”ティエラ”なのだろうか、とテオは様子を伺ったが、判別出来なかった。彼女は純血の先住民だ、それだけわかった。

「今日はお客さんが朝から多いわね。」

と教授がお茶をポットからカップに入れながら言った。

「朝一番にキナが来たわよ。それからアルフォンソ。次はシータとカルロが揃って来たのね。午後はマハルダが来るのかしら?」

 どうやらこの先生は大統領警護隊文化保護担当部の頼れる先生の様だ。少佐はアスル(キナ)もロホ(アルフォンソ)も命令を受けて真っ先にこの教授を頼ったことに、少し苦笑した。彼等がどんなことを聞いたかは尋ねずに、すぐに用件に入った。

「粘土の人形を使う呪術なのですが、鶏の頭とコカの葉っぱを使い、ジャガーの心臓を生贄に要するものは何を目的とするのでしょう?」
「ジャガーの心臓?」

 教授がカップのお茶を啜って、少佐を見た。

「写真ある?」

 少佐は空き家で男達がステファンを見つけた間に撮影した携帯の写真を見せた。それでウリベ教授は”ティエラ”だとテオはわかった。写真を拡大して教授は細部を眺め、やがて首を振って携帯を少佐に返した。

「嫌な図柄ね。儀式を中断してアイテムをかき回しているわ。何が目的かわからない様にしてある。」
「駄目ですか?」
「人殺しよ、それは間違いない。」
「このアイテムで準備は揃ったのでしょうか?」
「この儀式にジャガーは必要ありません。後は標的の持ち物か体の一部、髪の毛や爪を人形に埋め込んで、3日3晩呪文を唱え続ける。勿論、唱えるのはシャーマンでなければ効果はないわ。」
「一般的な儀式ですか?」
「呪いの儀式に一般的も何もないわね。でもこれは・・・」

 もう一度教授は少佐の携帯を受け取り、写真を拡大して隅々をじっくり再見した。そしてテーブルの角を指差した。

「これに気がついた、シータ?」

 少佐が携帯を覗き込んだ。そして素直に見落としを認めた。

「ノ、今ご指摘で気がつきました。」
「見せてもらって良いかな?」

 テオが好奇心で声をかけると、ウリベ教授は愛想良く見せてくれた。空き家のテーブルの角に光る小さな物がくっついていた。この形は・・・。

「魚の鱗ですね、ウリベ教授?」
「スィ、流石に生物学部の先生ね。これは鱗だわ。鶏の頭に加えて魚も贄にしたのね。」
「魚が加わると儀式の意味が違って来ますか?」
「違いはしませんが、シャーマンの出身がわかります。」

 テオは今朝見かけた2人の男を思い出してみた。ばっちり見えた訳ではないが、どちらも純血種の先住民に見えた。老人は口元に痣の様な物があった。あれは痣か? そうではなくて、もしや・・・? 彼がそれを言おうとすると少佐も口を開きかけた。2人同時に言った。

「口元に刺青・・・」

 互いに顔を見合った。少佐が先に尋ねた。

「老人の方にありましたね?」
「スィ。皺で痣みたいに見えたが、青黒い模様だと思われる。」

 ウリベ教授が立ち上がり、棚から本を一冊抜き取って戻った。パラパラとページをめくり、写真を客に見せた。

「こんな模様?」

 それは先住民の男の写真で、口の両端に青黒い波模様の刺青が入れられていた。隣のページは似たような民族衣装を着た男で、少し異なるがやはり波模様の刺青を口元に施していた。

「これは、ゲンテデマよ。」

と教授が言った。テオはケツァル少佐が「はぁ?」と言う表情をするのを初めて見た。

「それは部族名ですか?」
 
 すると予想外の方向から返事が来た。

「漁師です。」

 少佐とテオは後ろを振り返った。ステファン大尉は隣を見た。ウリベ教授がにこやかにギャラガ少尉を見た。ギャラガは赤くなって目を伏せた。教授が優しく頷いてから、説明した。

「スィ、漁師です。ゲンテ・デル・マール(海の民)のことよ、シータ。東海岸の漁師達は気取って自分達のことをそう呼ぶの。この刺青を施している漁師は、南の方のガマナ族ね。でも最近は顔に波模様を入れる人は少ないわ。野暮ったく見えるから、若者は腕や背中に入れたがるの。漁師もやらないからね。観光業に力を入れているわ。」
「では、この写真のテーブルの儀式を行っていたのは、ガマナ族の元漁師でシャーマンをしている人ですか?」
「しているのか、していたのかわからないけど、そんなところでしょうね。」

 

 

第2部 地下水路  10

  テーブルの上には粘土の他に蝋燭の燃え残りが5個、干からびた鶏の頭部3個、萎びた植物の葉の束が残っていた。

「心臓はコンドルの神様への生贄でしょう。」

とケツァル少佐が言った。

「ロホがそのコンドルの神様がどう言う力を持つ精霊なのか調べてくれています。」

 テオはステファン大尉が不満そうな表情になったのを見逃さなかった。これは彼の任務なのだ。しかし完全に大統領警護隊文化保護担当部にお株を奪われている。それは彼が望んだことではなかった。古巣の文化保護担当部に介入を許してしまったのは、彼自身の失敗に原因がある。彼は悔しいのだ。些細なミスで敵に捕虜にされて元上官に助けられる羽目になったことが、口惜しいのだ。それに彼はその元上官を超えたくて修行に励んでいると言うのに。
 少佐がギャラガに命じた。

「家の中を詳細に調べて犯人の身元特定の糸口を探しなさい。」

 ギャラガがキビキビと動き始めた。テオも一緒になって屋内のガラクタを調べ出した。少佐がステファンに尋ねた。

「敵はどうして急に撤収したのです? 貴方が電話をかけたからですか?」
「スィ。爺さんが私が放った微細な気を感じ取ったのです。電話の電波が結界を破ったとかなんとか言っていました。」
「結界を破った? 電波で破られる結界ですか?」

 少佐が髪を掻き上げた。考え込む時の彼女のポーズだ。

「結界は我々一族が互いに争うのを防ぐ為の防壁です。人(この場合は”ヴェルデ・シエロ”限定)や石や矢の投擲は防げますが、電波は防げないでしょう。」
「”ティエラ”が作る物は結界を通りますよね?」
「通ります。こちらが意識して破壊しない限りは弾丸でもミサイルでもなんでも通ります。」
「彼は私が電話をかけたので、私の気が彼の結界を破ったのだと勘違いしたのでしょう。」

 少佐は頭から手を下ろした。

「結界を張って呪い人形を使う儀式をしていた・・・その年寄りはシャーマンですね。」
「ブーカのマレンカ家の様な?」
「ノ、マレンカの一族は神に仕える神聖な家柄です。他人に呪詛をかけるような下品なことはしません。」

 テオが戻って来た。

「何にもない家だ。空き家に勝手に入り込んで寝グラにしていたんだろう。」

 ギャラガも居間に戻って来た。

「ほんの2、3日の滞在だった様です。儀式を行う場所としてここを見つけていたのでしょう。住んでいた形跡はありません。」

 そうなるとケツァル少佐の次の決断は早かった。

「グラダ大学へ行きましょう。」

 テオは目的の人物に当たりがついた。

「ケサダ教授かムリリョ博士を訪ねるんだな?」

 少佐がニッコリしたので、またステファン大尉が不満げな顔をしたが、テオは敢えて無視した。君は彼女がどれだけ君のことを心配していたか知らないだろう、と彼は心の中で呟いた。



2021/09/06

第2部 地下水路  9

  水で湿らせた古いタオルでステファン大尉の頭髪を拭うと、ドキッとする程血で汚れた。しかし当の傷の方は既に治りかけていて、頭皮に赤い線状の傷口が見えただけだった。気絶していた途中で苦い液体を飲まされたと彼が言うと、少佐がそれは麻酔効果がある薬草の汁だろうと言った。捕虜を眠らせて逃亡を防ぐのが目的で与えたのだろうが、眠ったお陰でステファンの頭部の傷の治りが早くなったのだ。
 何か覚えていることはないか、とテオが尋ねると、大尉は考えてからこう言った。

「若い男は魚臭かったです。」

 魚? テオと少佐は顔を見合った。ギャラガは遺留品のタバコの吸い殻を見た。ラス・ラグナス遺跡に落ちていた抑制タバコではなく、セルバ共和国なら何処ででも手に入る安物の既製品紙巻きタバコだ。

「遺跡に来た人物と同一でしょうか?」

 彼が呟くと、大尉が頷いた。

「同じ人物だ。私は君とデネロスと別れてドクトルが吸い殻を拾った場所へ行った。そこで人の気配を感じた。恐らく、私が近づいたので、先にそこにいたヤツが”入り口”に飛び込んだのだ。私は”入り口”を見つけ、うっかり手を中へ入れてしまった。先に入ったヤツが”通路”を閉じようとしたので、吸い込まれてしまったらしい。咄嗟に警報を発するのが精一杯だった。」
「それと財布のばら撒きとね。」

とテオが口を挟んだ。

「何か見つけたら声を出して構わないって言ったのは、何処のどなただったかな?」
「虐めないで下さい、テオ・・・」

 ステファン大尉が情けない顔をした。怖くて少佐の目を見られない様だ。

「目隠しされて、頭は痛いし、で暫く気を発すのを控えていました。それにあの爺さん・・・だと思いますが、年嵩の方が、やたらと私の心臓を欲しがるので、ナワルを使えない”出来損ない”だと思わせる為に出来るだけ力を使わないようにしていました。」
「どうしてあの年寄りは大尉の心臓を欲しがったのです?」

 ギャラガの質問にケツァル少佐が答えた。

「儀式に使う生贄が欲しかったのです。」

 彼女が茶色の塊をテーブルの上に転がした。土の塊に見えた。テオはそれを遠慮なく摘んで見た。

「粘土の塊に見える。」
「スィ。粘土で人形を作っていたのです。」
「人形を使う儀式と言えば・・・」

 大尉が考え込んだ。テオが先に思いついた。

「呪いだね?」
「スィ。それもただの呪いではありません。生贄を要求している儀式ですから、目的は呪殺でしょう。」

 少佐が不潔な物を見るように粘土の塊を見るので、テオはテーブルに置いた。ちょっと指を洗いたくなった。

「粘土の人形の中に心臓を入れるのか?」
「ノ。人形の中に入れるのは、殺したい相手の持ち物や髪の毛です。儀式を行って、最後に人形の頭を叩き潰す、或いは胸に釘を打つ、首をへし折る・・・」
「わかった。」

 テオは少佐を遮った。ギャラガはびっくりした。上官が話している時に遮ると懲罰ものだ。しかしテオは民間人で白人だった。軍隊の規則も”ヴェルデ・シエロ”の作法も無関係の人だ。平気で少佐を遮り、また質問した。

「それじゃ、生贄はどこで使うんだ? それにコンドルの神様の目玉はどこなんだ?」


第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...