ラベル 異郷の空 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 異郷の空 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021/07/16

異郷の空 30

  教会はすぐそこだったが、少佐はその裏手の墓地の入り口前に車を停めさせた。パトカーのサイレンが近づいてきた。尾行車も教会の前に到着した。

「俺達を、”コンドル”の一味だと通報したのかも知れないな。」

とシオドアが憂鬱な気分になって呟いた。少佐は気にせずに墓地の中へ入って行った。門扉が勝手に開いたので、彼女が開けたのだろう。一行は急いで彼女の後に続いた。少佐は仲間を墓地の入り口から10メートル程入ったところにあるマリア像の前へ導いた。ステファン大尉が足を止めた。

「少佐、ここの”入り口”は狭いですよ。」

 スペイン語だったのでアリアナには理解出来なかったが、シオドアもその意味することが分からなかった。

「”入り口”に幅があるのかい?」
「スィ。全員が一斉に入るには狭いのです。」

 ステファン大尉には空間の隙間が見えている様だ。これは以前から彼に備わっている能力だから、”見る”ことは彼等には普通に出来るものなのだろう。
 ケツァル少佐はシオドア達の目には何もない空間を右から見たり左から見たりして大きさを測った。

「通れないことはない。」

と彼女は呟き、仲間を振り返った。

「但し、1人ずつ、縦に並んで入らねばなりません。」

 シオドアは尋ねた。

「縦に入ると何か問題でもあるのかい?」
「先導者が疲れます。全員を引っ張らなければならないので。 着地が難しくなります。」

 シオドアはステファン大尉を見た。

「少佐は着地が上手じゃなかったっけ?」

 部下の立場でコメントしづらいが、大尉は彼に答えた。

「まともに着地された試しがありません。」

 スペイン語が分からないアリアナが、外の騒音を気にした。

「パトカーが来たわよ。」

 少佐がステファン大尉に命令した。

「先導しなさい。ドクトラ・オズボーンの手を握って。ドクトル、片手でドクトラの手を握って、もう片手で私の手を握って!」

 体の向きの前後を気にしている暇はなかった。ステファン大尉がアリアナの右手を掴んだので、シオドアもアリアナの左手を握った。少佐がシオドアの空いた手を握った。大尉が叫んだ。

「入ります!」

 警察車両が墓地の前に停まった。ステファン大尉が空中に体を捩じ込ませた。彼の体が暗闇に溶け込んだので、アリアナが息を飲んだが、彼女も彼の強い力に引っ張られて空中に消えた。シオドアも続き、墓地に警察が駆け込んだ時、少佐の赤いジャンパーが闇の中に消えていった。
 尾行していた男達が警察を掻き分け、走って来た。

「”コンドル”は?」
「消えた。」
「何?」
「そこで消えたんだ。抜け穴があるのかも知れない。」

 警察が応援を呼ぶ声を聞きながら、2人の尾行者はマリア像を眺め、顔を見合わせた。

「また”コンドル”は消えた。」
「研究所は混乱しているし、将軍のオフィスも連絡が取れない。どうなっているんだ?」

2021/07/15

異郷の空 29

  シルヴァークリークの町に入った。雪がチラついている。シオドアがケツァル少佐と落ち合った映画館ラシュモアシアター前でアリアナの車は停まった。着いたよ、とシオドアが声を掛けると、うたた寝をしていたステファン大尉が目を開いた。少佐はまだ寝ている。しかしこの”部隊”の隊長は彼女だ。大尉は意を決して上官を揺すった。

「現着です、少佐。」

 少佐が重たい瞼を開けた。

「もう?」
「映画館の前だよ。」

とシオドアも言った。

「ここから何処へ行くのか指図してくれ。アリアナも長時間の運転で疲れている。全員空腹なんじゃないかな?」

 少佐がうーんと伸びをした。それから窓の外を見て、雪に気がついた。

「マズイ・・・」
「雪が?」
「スィ。足跡が残ります。」

 つまり、「消える」ことが出来ないのだ。シオドアは気がついた。”ヴェルデ・シエロ”の超能力は相手の脳に錯覚や偽情報を植え付けるのがメインで、物体に作用を与えることが少ない。物体を破壊するのは瞬間的なパワーで、長時間何かを持続させることは無理らしい。自分の姿を「消す」のは透明になるのではなく、相手に「見えない」と思い込ませているのだ。だから、「見えない」筈なのに足跡の様な物質的な証拠が残ることは、彼等にとって都合が悪いのだ。しかし、目の前で降っている雪はまだ少なく、積もる心配はなさそうだった。
 シオドアは映画館のそばのハンバーガーショップを見た。ポケットを探ると何もなかった。仕方なくアリアナに声を掛けた。

「アリアナ、財布を持っているか?」
「ええ・・・」

 でも、と彼女が申し訳なさそうに言った。

「カードしか入っていないわ。使用したら、私達の位置がバレるんじゃない?」
 
 シオドアは尾行車を探して周囲を見回した。駐車場の出口付近に停まっている車がそれらしかった。

「俺達の居場所はもう通報されているよ。一緒にハンバーガーを買いに行こう。」
「私達も行きます。」

と少佐が既に車外に出ながら言った。結局4人全員で店に入った。奇妙な取り合わせの4人組だ。オフィスワーカーらしい服装にコートを着た白人女性、やはりオフィスワーカーの服装をしているがコートは着ていない白人男性、薄く黒いTシャツに赤いフード付きのジャンパーを着た先住民女性に、兵隊の様な制服を着たヒスパニック系の男性。その4人がぴったりくっつき合う様にカウンターの前に立って、それぞれ好みのハンバーガーとコーヒーとポテトを注文した。窓から遠く裏口に近いテーブルに陣取って、座るなり一斉に食べ始めた。食事の時は少佐のジャンパーのフードは後ろへ下ろされていた。それでシオドアは尋ねた。

「ずっとフードを被っていたけど、力の効果を高める為かい?」

 すると少佐がキョトンとした表情で彼を見た。

「ノ、寒いからですよ。他に理由はありません。」
「でも、薄着だわ。」

とアリアナが心配そうに言った。

「私のコートを貸しましょうか?」
「大丈夫です。 グラシャス。」

 軍人は食べるのが早い。少佐が自分の食べ物を早々に平らげてしまったので、シオドアは自身のポテトを彼女に分けてやった。さもないと、彼女は部下のポテトを狙う恐れがあった。ステファン大尉は最近ハンバーガーばっかりだなぁと言いたげに食べていたが、コメントはしなかった。アリアナが尋ねた。

「次は何処へ行くの?」

 シオドアは少佐を見た。ステファン大尉も少佐を見た。”隊長”は指に付着した脂を紙ナプキンで拭ってから、立ち上がった。

「ここから約5キロメートル、凡そ3マイルのところに古い教会があります。そこへ行きましょう。」

 彼等は店を出て再び車に乗り込んだ。アリアナがエンジンを掛けて車を発進させると、尾行車もライトを点灯した。彼女は気がついて不安になった。

「教会に何があるの? 尾行されているけど、逃げ切れるの?」
「大丈夫さ。」

とシオドアは根拠なく言った。彼女を励ます為だ。それから後ろを振り返って少佐に尋ねた。

「”入り口”があるのかい?」
「スィ。」

 少佐は隣の部下を見た。

「一番近いセルバへ行きます。」
 
 一瞬ステファン大尉がキョトンとした。それから意味を理解した。了解しました、と彼はスペイン語で呟いた。


異郷の空 28

  通路の出口が見えて来た。シオドアがホッとして力を抜きかけると、ステファン大尉が彼の肩を掴んで引き留めた。無言で「待機」と合図をして、1人で扉の前迄行った。シオドアは不安になってケツァル少佐を振り返った。彼女がジャンパーのフードを目深に引っ張った。彼等は3人共武器を持っていなかった。ステファン大尉が警備兵から服と靴を奪った時、少佐は武器を奪うことを承知しなかったのだ。
 扉の向こうの気配を推測ってから、ステファン大尉はゆっくりと扉を開いた。シオドアは扉の向こう側は給食センターの厨房だと想像していたが、違った。倉庫の様な場所で、宅配用の車やバイクが駐車していた。積み出し場所だった。しかし、積み込みをするドライバーはおらず、代わりに銃口をこちらへ向けて横一列に並んだ兵士と、その後ろに立つホープ将軍だけが10メートルばかり向こうにいた。

「よくこの通路を見つけたな。」

とホープ将軍が言った。

「尤も、研究所の設計図にアクセスしたログが残っていたから、ここへ来るだろうと言う見当はついていた。”コンドル”を連れて逃げる気か?」

 するとシオドアの後ろから横並びに出てきたケツァル少佐が将軍の言葉に返した。

「流石に将軍ですね、一少佐の考えなどお見通しだった訳だ。」

 将軍が目を細めて彼女を見た。彼女は想定外の人物だった様だ。

「何者だ?」

 少佐はフードを被ったまま、顔を上げて相手の目を見た。

「貴方の遺伝子から作られた息子を誘惑した者です。」

 シオドアは反射的に彼女を見た。将軍が俺のオリジナル? こんな嫌なオヤジが? だが、過去の彼自身の嫌な性格を思えば納得出来るかも知れない。将軍が愛情ではないが彼を昔からいつも妙に気にかけていたことも納得出来る。

「確かに、シオドア・ハーストは私が作った。」

とホープ将軍が断言した。

「だが息子とは呼ばない。90パーセントは他人だからな。彼は私の作品なのだ。お前達の様な外国人に渡す訳にはいかない。」

 彼は右腕を横へ上げた。

「逃がしはせん。ここで殺す。」

 シオドアは思わず横に立っているケツァル少佐の手を握ってしまった。 将軍が腕を下ろして叫ぶと同時に少佐も叫んだ。

「撃て!」
「狙え!」

 兵士達が一斉に向きを変えて将軍に銃口を向けた。
 ホープ将軍は何が起きたのか、一瞬理解不能に陥った。

「お前達、何をしている?!」

 少佐がはっきりと兵士達に言った。

「その男が少しでも足を動かしたり、あるいは一言でも言葉を発したら、即刻撃て。」

 将軍が息を呑んだ。シオドアは彼を助けたいと思わなかったが、人を死なせるのは嫌だったので忠告した。

「貴方が欲しがっていた超能力をプレゼンしてやってるんだよ。そこで黙って立ってろ。時間が経てば彼女の呪縛から連中は解放される。 其れ迄は、絶対に動くな。声を出すな。本当に死ぬぞ。」
「1時間だ。」

と少佐が軍人の口調で宣言した。

「1時間経てば兵士達は元に戻る。但し現在の記憶は残らない。お前が何を言っても彼等は全員お前の言葉を否定する。」

 彼女はシオドアとステファン大尉に進めと合図した。シオドアは歩きかけて、彼女の手を握っていることに気がついた。慌てて手を離した。物凄く照れ臭く、胸の動悸が激しくなった。少佐と大尉は彼の様子を気に留めずに、給食センターの建物から出た。
 まだ午後4時を少し過ぎたばかりだったが、アリアナ・オズボーンの車がエンジンをかけたまま停まっていた。運転席にいた彼女が3人を見つけ、車の窓から手を振った。シオドアは彼女を監視している車が通りの向こうにいるのに気がついた。少佐、と声をかけたが、少佐は無視した。 アリアナの車の後部席にセルバ人2人が乗り込み、シオドアはアリアナの隣に座った。

「何処へ行けば良いの?」

 アリアナが尋ねた。少佐がシオドアに言った。

「私を拾った場所へ彼女を誘導してあげて下さい。」

 シルヴァークリークの映画館前だ。シオドアはわかったと頷き、アリアナに基地から出て高速道路の入り口迄走れと指図した。アリアナが車を発進させると、当然ながら監視の車が尾行を始めた。

「尾行がついて来るぞ、少佐。」
「放っておきなさい。」

 少佐は面倒臭そうに呟いて、ステファン大尉の肩にもたれかかり、目を閉じた。大尉がシオドアに囁いた。

「電池切れです。」
「寝たのか?」
「スィ。彼女の睡眠を妨害すると恐ろしい目に遭います。目的地に到着する迄起こさない方が賢明です。」

 そして彼はシオドアに依頼した。

「もし尾行者が妨害を仕掛けて来たら、貴方が指揮して下さい。」
「俺が?」
「私はここの地理に詳しくありません。貴方の指図通りに動きます。戦闘は私がしますから、戦術は貴方にお願いします。」
「そう言われても・・・」

 シオドアはドアミラーに映る尾行車のライトを見た。恐らく尾行している要員は研究所かホープ将軍のオフィスにでも連絡を入れるだろうが、どちらも現在は混乱の極みだ。仕掛けてくる可能性は低いと思われた。

「今はただ逃げよう。アリアナ、高速道路は北行きへ入るんだ。間違えるなよ。」


異郷の空 27

  ケツァル少佐はシオドア・ハーストが知らなかった研究所の地下通路を設計図から見つけていた。食堂の厨房の冷蔵室から入って行くのだ。シオドアと警備兵から奪った制服を着たステファン大尉、それに赤いジャンパーを着た少佐は職員達が食事をする食堂を横切った。地下施設では超能力者達が収容室から逃げ出し、騒動になっているのに、誰も気が付かない。彼等の職場のコンピューターが狂ってしまっていることにまだ気が付かない。シオドアが連れている警備兵が捕虜だった男だとも思わないし、ましてや場違いな姿の少佐にも関心を持たない。
 シオドアは内心ケツァル少佐の人間の心を操る能力はどれだけの規模なのだろうと、畏怖を覚えていた。神様を敬う古代の民衆の気持ちがわかる気がした。”ヴェルデ・シエロ”は民衆を操り国家を維持し、天文学で気候を観測して神託で民衆に農作物の収穫時期や天災からの避難を伝え、栄えていた筈なのに、どうして歴史に痕跡を残さず表舞台から消えてしまったのだろう。生き残った子孫達が細々とその能力を生業に使い、普通の民衆に敬われながらも畏れられ、出自を隠して生きて来たのは何故だろう。
 冷蔵庫の奥にある扉を開けると、暗い通路が伸びていた。だが決して不潔な場所ではなかった。シオドアが中に足を踏み入れると自動的に照明が点灯した。最後に中に入った少佐が扉を閉じた。

「このトンネルは何処に繋がっているんだ?」
「赤い屋根の給食センターです。」
「はぁ?」
「貴方は、毎日食べていた食事が何処から運ばれて来ているのか、知らなかったのですか? 研究所の厨房はセンターで作られた料理を温めているだけですよ。」

 勿論少佐の知識も昨日インターネットで得たものだ。彼女は時計を持っていなかったが、シオドアより時間感覚は正確だった。

「1600過ぎにセンターから夕食が運ばれます。其れ迄にこの通路を抜けましょう。カートに通り道を塞がれたら面倒ですからね。」

 彼等は歩き始めた。人感センサーになっているらしく、歩く先々で照明が点灯し、歩いた背後で消灯されていく。シオドアの足音だけが響くので、彼は気になった。軍靴を履いているのに、セルバ人達は足音を立てない。こいつら、猫の足を持っているのか?
 冷蔵庫ほどではないが、通路内の空気は冷たく、乾いていた。シオドアは天井を見た。照明は埋め込み式だ。声を響かせたくなかったが、黙っていると息が詰まりそうな気がして、彼はステファン大尉に話しかけた。

「ここにコウモリはいないよな?」

 彼等が出会ったオクタカス遺跡の洞窟を思い出した。ステファンも同じことを思い出したのだろう、ちょっと笑った。

「コウモリが飛んで来たら、追い払ってあげますよ。」
「石は飛んで来ないだろう。」
「しかし銃弾が飛んで来る可能性は否定出来ません。」

 男達の無駄口を最後尾で聞いていた少佐が呟いた。

「そもそも、何故あの"風の刃の審判”があの時に起きたのか?」

 シオドアは彼女を振り返った。

「古い建造物が劣化して崩れたんだろう?」
「天井の穴を塞いでいた木や石が落ちた程度で、サラではなく通路にいた発掘隊に重軽傷者が出る事故になるとは思えません。”風の刃の審判”にかけられる咎人は、天井の穴の下に立たされるのです。」
「つまり?」
「落ちた石の破片が吹き飛ぶ様な力が人為的に加えられたと考える方が妥当です。」

 ステファン大尉が足を止めたので、彼女も止まった。シオドアも立ち止まった。大尉が少佐に尋ねた。

「あれは事故ではなく、何者かが発掘隊を狙った事件だと仰るのですか?」
「恐らく・・・」

 少佐はシオドアを見た。

「あの時、ドクトルはママコナの興味を引いてしまい、私が彼をオクタカスに隠しました。”砂の民”はママコナが興味を失えば、ドクトルを追跡したりしません。一族の脅威でない者を殺しては、却って危険だからです。」
「リオッタ教授は・・・」

 シオドアは当時のことを思い出そうとした。

「まだあの時、”消えた村”の話を知らなかった。だから、彼が狙われた訳じゃない。俺も脅威じゃないと思ってもらえたのなら、俺が狙われた訳でもない。」

 彼はステファンを見た。少佐も見たので、ステファンはたじろいだ。

「私が狙われたとでも?」

 彼は鼻先で笑い飛ばした。

「私はドクトルの護衛をしていたのです。ドクトルの行動を知っておかなければ、私があの洞窟に入ると知ることは出来ない。あの日、ドクトルは現場に行ってから、洞窟に入ることを決めたのでしょう?」

 シオドアは記憶の中を必死で検索した。

「洞窟に入ろうと誘われたのは、遺跡へ行く途中のトラックの上だ。そこで洞窟に入ることを決めて、君のキャンプ迄登るのを止めた。メサへ行かないと君への伝言を警護隊の兵士に頼んだんだ。」

 一瞬、通路内の空気が緊張した様な感覚をシオドアは覚えた。気温が摂氏で1度ほど下がった様な感覚だ。 少佐が部下を見つめた。

「カルロ、何か思い当たる節でもあるのですか?」

 ステファンが上官を振り返った。

「誓って言います、私はあの日、伝言を持って来た筈の兵士に会った覚えはありません。」
「ええ?!」

 シオドアはびっくりして声を上げてしまい、慌てて自分の口を手で塞いだ。通路内に彼の声が響いた。それが静まるのを待ってから、彼は言い張った。

「兵士は君に伝えると言って、確かにメサの方角へ車で走って行った。」
「私はその男に会っていません。ドクトルとボディガードが来なかったので、自分でメサを下りて様子を見に行ったのです。そしたらドクトルは発掘隊と一緒に洞窟に入る準備中でした。」
「その兵士は・・・」

 少佐が少し考えてから質問した。

「メスティーソでしたか、それとも純血種?」

 シオドアはまた考え込んだ。兵士達は軍服を着てヘルメットを被り、誰もが同じに見えた。だが、伝言を引き受けた兵士は、トラックの上で何度か彼やリオッタ教授に話しかけて来た。発掘隊のメンバーが話をしていると、近くに立っていることが度々あった。

「彼は先住民だったと思う。はっきり覚えていないんだ。」

 また気温が1度下がった気がした。今度はステファンが少佐を見つめた。

「少佐、何か思い当たることでも?」

 しかし、ケツァル少佐は答えなかった。進みましょう、と彼等を促しただけだった。

2021/07/14

異郷の空 26

  シオドア・ハーストは昔の自分の研究室にいた。助手達はお昼ご飯を食べに食堂へ行っている。彼はセルバ人のデータを消すために来たのだが、彼の目の前でコンピューターが狂いつつあった。理由は分からないがデータが崩れていく。ケツァル少佐が何かしたに違いない。しかし彼女はデータ消去をシオドアに任せてくれた筈だ。担当外のことを彼女がしたからと言って腹を立てたりしないが、データの崩れ方が尋常ではない。メインのディスクが壊れたとしか思えない。これは大騒ぎになるぞ、と思っていると、部屋の外が騒がしくなった。ガラス越しに通路を見ると、収容していた筈の男が1人警備兵から奪い取った銃で出くわした科学者を脅していた。
 これはやり過ぎだぞ、少佐・・・
 ステファン大尉1人を逃がす為の作戦が大ごとに発展していた。収容室から逃げた超能力者は今見えている男1人だけではあるまい。その証拠に建物の別の場所からも銃声が聞こえた。シオドアはもう一度研究室のパソコンを見た。画面がぐちゃぐちゃになっていた。隣のパソコンの画面は巨大な ? を映し出していた。
 シオドアは銃を持った男が立ち去るのを待って部屋から出た。通路を走って来る音が聞こえた。警備兵かと思ったが、エルネスト・ゲイルだった。

「テオ!」

とエルネストがシオドアを見つけて怒鳴った。

「一体何をやらかしてくれたんだ?!」
「俺は何もしていないさ。」

 シオドアは階段を目指して歩き始めた。エレベーターは逃げ出した超能力者が制圧した恐れがあった。エルネストが追ってきた。

「僕のデータが滅茶苦茶だ。助手達のも壊れている。そんなことが出来るのは君しかいない。」
「買い被るのは止してくれ。俺のデータも壊されたんだ。メインがどうかなったに違いない。これから所長に相談に行く。」
「逃げるつもりだろ!」
「何処へ? どうやって逃げるんだ? ここは基地の中だ。厳戒態勢を敷かれたら、俺は何処にも行けないぜ。」

 2人で押し問答していると、横で咳払いが聞こえた。2人同時に振り返った。赤いフードのケツァル少佐が立っていた。エルネストはうっかり彼女と目を合わせてしまった。少佐が囁きかけた。

「所長室へ案内して下さい。」

 エルネストはこっくり頷いた。そしてシオドアの胸ぐらを掴もうとしていた手を下ろし、歩き始めた。シオドアは少佐と目を交わした。

「ステファンは?」
「所長室にいます。」

 それ以上の説明は不要だ。シオドアと少佐はエルネストの後ろについて歩いた。

「他の収容者も釈放したな。ややこしい事態になっているぞ。」
「私達の狙いが彼1人だと思われたくなかったからです。セルバ共和国とアメリカ合衆国がこれからも仲良く付き合って行くために必要なことです。」

 つまりこの騒動は、ステファン大尉救出ではなく暴動だと認識させたいのだ。

「たった1人でテロかい? しかも武器はその目だけだ。」

 少佐は何もコメントを返さなかった。
 エルネスト・ゲイル、シオドア・ハースト、そしてケツァル少佐は階段を用心深く上り、地上階に出た。警報が鳴っても良さそうなのに、何も聞こえない。しかし警備兵達が走り回っていた。逃げた超能力者は複数だ。
 ワイズマン所長の部屋の前にある秘書室では秘書がコンピューターを見つめて座っていた。画面には「?」が表示されているだけだ。だが秘書は何も感じないのか、スクリーンを見ているだけだった。エルネストが執務室のドアの前に立った。

「所長、ゲイルです。入ります。」

 エルネストは返事を待たずにドアを開けた。そして中に足を踏み入れるなり、ステファン大尉に素手で頭をポカリとやられて昏倒した。

「お見事!」

とシオドアが呟いた。

「多少はスカッとしたかい?」
「もう2、3発お見舞いしたかったです。」

 シオドアは室内を見た。ワイズマンが額に脂汗を浮かべながらコンピューターにコマンドを送り続けていた。既に彼が使っている端末も言うことを聞かなくなっていると言うのに。
 少佐が2人の男達に声をかけた。

「外へ出ましょう。」


異郷の空 25

  ワイズマン所長が昼食を取るために部屋から出る準備をしていると、室内に人の気配があった。秘書が入って来た筈もなく、彼は片付けていたファイルを閉じてパソコンから視線を上げた。
 執務机の反対側に黒いTシャツに赤いジャンパーを来た若い女性が立っていた。アメリカ先住民だ、とワイズマンはわかった。だが、何処から来た? 何時部屋に入った? 彼は机の裏面に設置されている非常ボタンを押そうと思った。しかし彼の両手はキーボードから離れなかった。彼の目は吸い寄せられた様に彼女の黒い目から離れなかった。
 女性が優しい声音で話しかけてきた。後にワイズマンは彼女のことも彼女が言ったことも何も思い出せなかった。彼はメインコンピューターのデータベースを開き、全てのデータの初期化に着手した。
 メアリー・スー・ダブスンはパウダールームで化粧直しをしていた。ランチを外で取る予定で、その店のギャルソンが彼女のお気に入りの男性だった。基地内の高級フランス料理店だ。彼女の月一の楽しみだった。パウダールームのドアが開閉した。
 鏡に映った彼女の背後に誰かが近づいて来た。大柄な彼女の体に隠れて見えないが、確かに誰かが後ろに歩み寄って来たのだ。後ろに忍び寄るなんて、失礼だわ、と彼女は思い、勢いよく振り返った。黒いTシャツに赤いジャンパーを来た若い先住民の女性が立っていた。ダブスンの頭の奥で警鐘が鳴った。セルバ人に語り継がれている伝説の神様!
 彼女は携帯電話を出そうとしたが、手が動かなかった。目を閉じなければ。焦ったが、相手の目を見てしまった。女性が優しい声音で話しかけて来た。何を言われたのか、彼女は後日何も思い出せなかった。
 超能力者収容フロアへダブスンは向かった。後ろから女性がついてきた。すれ違う人々はフードを目深に被ったその人物が女性だと見当はついたが、誰だか分からなかった。ダブスンはコントロールルームに入った。職員が振り返ると、彼女は彼等に退室を命じた。2人の職員が部屋を出て行くと、フードの女性が彼等に言った。

「お昼ご飯を食べて来なさい。」

 職員達は振り返らずにエレベーターに乗って去った。
 ダブスンはコントロールパネルを操作し、収容されている全ての捕虜の部屋の解錠を行った。そしてお気に入りのギャルソンがいるお店に急いで出かけた。
 収容されている人々は10名ほどだった。彼等が逃げるか逃げないかは、彼等の自由だ。その時は収容者達に昼食が提供されていた。ステファン大尉もハンバーガーとチョコレートクッキーとプラムジェリー、コーヒーの食事を与えられた。しかし運動をしていないので食欲が湧かなかった。職員は食事のトレイをテーブルに置くと部屋から出て行き、当然ながら施錠した。ステファンは溜め息をついた。食べなければ、またあの小太りの男が来て文句を言うのだろうか。彼はハンバーガーを両手で押さえてからかぶりついた。味は悪くなかったが、2分の1まで食べて満腹になった。彼が皿にハンバーガーを戻した時、ドアの鍵がカチリと言った。振り返ると、誰もおらず、見張りは少し離れた通路の椅子に座って携帯の画面を眺めていた。気のせいか、と思った時、通路の向こうの角を曲がって赤いジャンパー姿の人物が近づいて来た。その顔を見て、彼は思わず微笑んでしまった。それなら、さっきの音は空耳ではない。彼はドアを引いてみた。ドアが開いた。彼は見張りに声を掛けた。

「おい、鍵が開いているぞ。」

 見張りがはじかれた様に立ち上がった。あってはならないミスだ。彼は囚人に言った。

「退がっていろ。施錠する。」

 その彼の首を後ろから赤いジャンパーの人物が殴りつけた。見張りは昏倒した。
 ステファン大尉が部屋から出ると、彼の上官が彼の足を見て眉を顰めた。

「裸足ですか?」
「スリッパしかもらえなかったのです。」

 ケツァル少佐は気絶している兵士を見た。ステファン大尉は素早く兵士の服を奪い、足から靴を脱がして、自分の足を入れた。多少窮屈だが動けるので暫しの我慢だ。彼の作業中に少佐は彼が閉じ込められていた部屋に入り、ハンバーガーを掴んだ。大口を開けて彼に断りもなく食べてしまった。大尉は勿論承知していた。能力を最大限に使う時の"ヴェルデ・シエロ”はエネルギーの消費量が物凄いのだ。彼自身まだ本調子ではない。体力を変身と脇腹の傷の治癒に使ってしまったのだから。プラムジェリーも食べてしまうと、彼女は部屋から出てきた。彼にクッキーを差し出した。食べろと言う無言の命令だ。口の中の水分を奪われるのが嫌だったが、ステファンはクッキーを口に詰め込んだ。コーヒーは無視して部屋に常時備えられている水で2人は水分補給した。その間10分と掛からなかった。
 少佐は彼について来いと合図して足早に歩き始めた。走ったりはしない。足元は軍靴なのだが足音も全く立てない。ステファンも多少サイズの小さな軍靴で彼女の後ろを追いかけた。途中で他の収容室の前をいくつか通った。解錠されたことに気づかない男性や、既に廊下に出て途方に暮れている女性、エレベーターを目指して走って行く男性等行動は様々だった。2人のセルバ人は彼等の存在を無視して歩き続けた。研究所が捕まえていた超能力者達に彼等の姿は見えなかった。ステファンは今まで自分の姿を他人に見られない”幻視”を使ったことがなかった。だから最初に警備兵と出会った時、一瞬身構えた。素手で戦うつもりだった。しかし少佐が振り返って”心話”で命じた。消えなさい、と。彼は咄嗟に念じた。消えろ、と。彼自身の体には何の変化もなかったので、彼は失敗したと思った。しかし警備兵が腰を抜かした。

「人が消えた!」

 警備兵が銃を構えて屁っ放り腰で近づいて来たので、ステファンは通り道を空けてやった。彼の目の前を警備兵は通り過ぎて行った。少佐が”心話”で言った。簡単でしょう、と。2人は地上階に出た。彼女が部下を案内したのは、ワイズマン所長の部屋だった。ワイズマンはまだメインコンピューターのコマンドに取り組んでいた。少佐はステファンに”心話”で命じた。

ーー見張っていなさい。この男の作業を妨害しようとする者は容赦なく叩きのめしなさい。

 ステファン大尉は命令を承った。
 ケツァル少佐はシオドア・ハーストを迎えに再び地階へ降りて行った。





2021/07/13

異郷の空 24

  シオドアが研究所に戻ったのは午前11時を過ぎた頃だった。ワイズマンに基地の外のアパートを引き払いコンビニのバイトも辞めた旨を伝えると、所長は少しだけ表情を和らげた。

「お前の居場所はやっぱりここなのだ、テオ。お前の以前の研究室はダブスンが引き継いでいるが、彼女1人では手に負えないことも多い。助手達も君の方を信頼している。今日は少しだけで良いから、顔を出してやれ。」
「わかりました。ところで、”コンドル”は大人しくしていますか?」

 ワイズマンが渋い顔になったので、ステファン大尉が逆らったのかと思ったが、原因はエルネスト・ゲイルの方だった。

「昨日エルネストに”コンドル”に近づくなと言ったのだが、今朝早速言いつけを無視した。」
「あの部屋に入ったのですか?」

 ワイズマンは頷き、シオドアに監視カメラの映像を見せた。 
 ステファンがベッドに腰かけてテレビを見ているシーンから始まった。朝食を終えた後であることは画面右下に表示されている時刻で分かった。捕虜を退屈させないようにテレビとオフラインのテレビゲーム、雑誌などが与えられている。他の被験者と同じ扱いだ。右端手前のドアからエルネスト・ゲイルが入って来た。ドアの外にヒッコリー大佐の部下がいるのが見えた。銃ではなく、棒状のスタンガンを所持していた。
 部屋に入って来たのがエルネストだと気がついたステファンが立ち上がった。明らかにエルネストを警戒していた。エルネストが持参した検査キットを出して、何か話しかけた。細胞採取の道具だ。被験者を傷つけずにDNAを採取出来るのだが、ステファンは拒否した。遺伝子を取られることを拒んだのではなく、エルネストを拒否したのだ。エルネストが彼を説得しようとした。恐らく前日の抱きつき騒動の言い訳でもしたのだろう。しかしその言い訳の内容をステファンは気に入らなかったのだ。首を振って、出て行けと言う素振りを見せた。才能より遥かに高いプライドの持ち主エルネスト・ゲイルは、犬を追い払う様なセルバ人の動作に気分を害した様だ。いきなりステファンに掴みかかった。監視についていた兵士が慌てて室内に駆け込んだ。ステファンはシオドアの言いつけを守って、エルネストを相手にしなかった。着ていたスウェットを掴まれ、引っ張られたが、兵士が彼からエルネストを引き剥がす迄我慢していた。エルネストは室外に引き摺り出された。
 そこで録画を止めて、ワイズマンが深い溜め息をついた。

「全く・・・彼はどう言うつもりなのだ? 」
「彼は言い訳したのですか?」
「うむ。彼が”コンドル”を抱き締めたのは、”コンドル”が母親を恋しがったからだと言った。抱き締めて慰めたかったと彼は言うのだ。」
「はぁ?」
「”コンドル”は今朝彼の言い訳でそれを聞いて気分を害した、と見張りが言っていた。」
「”コンドル”は母親を恋しがった覚えはなかったのでしょう。」
「エルネストは、君が”コンドル”と親しくしていることや、アリアナが彼と関係を持ったことで、自分だけが疎外されていると感じているのだろう。」
「つまり、”コンドル”に相手にして欲しいとエルネストは焦っている訳ですか?」
「自分が捕まえた獲物だから、自分に従わせたいのだろう。」

 シオドアは呆れた。ワイズマンも口の中で「くだらん」と呟いた。エルネスト・ゲイルには超能力者収容フロアへ当分立ち入らせないと所長は言った。それから書類を数枚挟んだクリップボードを出してきた。

「”コンドル”のカルテだ。タブレットに入力する前に紙で記録してくれないか。空欄のところを本人に質問して書き込んでくれ。」

 シオドアが見ると、最初の氏名の欄が空白だった。ステファンも射殺されたカメル軍曹もパスポートや運転免許証の類を一切所持していなかった。母国政府の命令で泥棒行脚をしていたのだから、身元を隠したのは当然だった。シオドアは取り敢えず姓の欄にカメルと書き込んだ。死んだカメル軍曹には悪いが名前を暫く使わせてもらおう。
 それから彼はクリップボードを持って収容フロアへ降りて行った。ワイズマンがタブレットの電子カルテを貸してくれないのは、シオドアをまだ信用していないからだ。それでも今日は単独で所内を歩く許可が出た。エルネストの愚行が酷かったせいだろうとシオドアは思った。
 ステファン大尉は昼食迄の暇つぶしにテレビゲームをしていた。オフラインだし、興奮させるといけないと言う理由で戦闘ゲームではなく、穏やかなR P Gだ。やっている本人はあまり面白くなさそうだ。銃火器をバンバン撃つゲームの方が性に合っているに違いない。それでも髭がない彼の顔は確かに幼い印象で、エルネストが抱き締めたくなったのも少しわかる気がした。恐らく普段のステファンがゲバラ髭を生やしているのも、きっと同じ理由からだ。軍人として敵を威嚇する為と、身を守る為に必要なのだ。
 シオドアは監視役に挨拶して、室内に入れてもらった。ドアを開く時に声を掛けたので、ステファンはゲームを終了させて彼を迎えた。シオドアは、”弟”が再び無礼を働いたことを詫びた。ステファンは苦笑いして、「あれは懲罰房行きですよ」と言った。
 シオドアはクリップボードを出して、質問に答えてくれと頼んだ。ステファンはそれをチラリと見て、氏名の欄にカメルと書かれているのを見た。

「氏名を教えてくれ。」
「ハイメ・カメル。」
「出身地?」
「オルガ・グランデ。」
「年齢?」
「21。」

 本物のカメル軍曹はもう少し老けて見えたが、ステファンがどこまで真実を言っているのか、シオドアにも分からなかった。血液型や体重などは既に計測や検査が済んでいる。シオドアが質問するのは個人的な生活面に関する情報だった。

「親は?」
「いない。」
「亡くなったと言うこと?」
「スィ。」
「兄弟姉妹は?」
「いない。」

 もしステファンに兄弟姉妹がいれば、研究所はその人々の情報も求めるだろう。親類の情報を質問する項目もいくつかあったが、どれもステファンは「知らない」「いない」「分からない」で通した。勿論、研究所も彼が素直に喋ると思っていない。質問が2つだけになった。

「結婚しているか?」
「ノ。」
「子供はいるか?」
「ノ。」

 シオドアは書類を並べ直した。

「質問は終わりだ。お疲れ様。」
「どの捕虜にもこんなことをしているのですか?」
「うん。自国民でも情報を正確に得られるとは限らないけどね。」

 
シオドアは立ち上がった。そろそろお昼だった。

異郷の空 23

  シオドアはアリアナの家に戻った。そこからコンビニの店主に電話をかけ、仕事を辞めると告げた。いきなりの退職願だったので店主は怒ったが、シオドアは電話を切った。基地から外へ出るつもりはなかった。監視が付いているのを知っていたし、基地の外では警察がまだ泥棒と黒豹を探しているのだ。
 ケツァル少佐はシオドアが研究所に行った時、一緒について来た。誰も彼女の姿が見えなかったらしく、彼とワイズマン所長が所長室で話をしている間もそばにいて、所長がパソコンを触る時はじっくり後ろから眺めていた。シオドアは彼女の存在がいつバレないかと内心冷や汗ものだったのだ。
 地下の超能力者隔離区画で警報が鳴った時、ワイズマンはすぐに電話連絡を受けた。セルバ人が目覚めたと言う報告だった。予定より早い目覚めに、ワイズマンはシオドアに同行を求め、2人は一緒に室外に出た。少佐は残り、それっきりシオドアは彼女を見ていなかった。
 夜中近くにアリアナ・オズボーンの家に戻った時も、アリアナしか家にいなかった。彼女は夜食にピザを取ってくれた。そして彼は客間のベッドで1人で寝た。
 翌朝、まだ日が昇る前に目覚めた。掛け布団が重たくて体を動かせなかったのだ。顔を上げると、布団の上でケツァル少佐が寝ていた。シオドアは布団から静かに体を出して、リビングへ行った。朝食の支度をした。家の中には女性が2人いたがどちらも料理に関して当てにならなかった。
 野菜スープを作り、卵とベーコンを焼いて皿に盛りつけたところで少佐が起きてきた。寝起きの少佐はバスルームではなくキッチンで顔を洗った。お金持ちのお嬢様より軍隊の人間の方が彼女の中で割合が大きいのだろう。

「ステファンに会ったかい?」
「ノ。逃走経路の確認をしただけです。」

 彼女は皿をダイニングに運んでコーヒーを淹れた。アリアナがやっと起きてきた。彼女は野菜スープだけ口をつけた。彼女のベーコンエッグは少佐が食べてしまった。

「お2人の今日の予定はどうなっていますか?」

と少佐が質問した。シオドアは適当な時刻に研究所に行くと言った。

「ステファン大尉が虐待されていないか監視しないとね。俺達ばかりが監視されるのは割りに合わないし。」
「私は定刻に出勤するわ。」

とアリアナ。すると少佐が彼女に言った。

「退勤は何時ですか?」
「研究の内容によります。今は・・・暇ね。昨日は休んだから前日の研究結果の確認をします。それから明日の準備をするから、夕方迄に帰れます。」
「1600には職場を出られますか?」

 アリアナはシオドアを見た。少佐の質問の意図がわからなかった。シオドアは少佐が何か作戦を考えているとしか分からない。黙ってアリアナを見返しただけだった。仕方なくアリアナは答えた。

「必要なら、指示された時間に帰ります。」

 すると少佐が立ち上がり、リビングへ行った。直ぐに戻ってきたが、アリアナの個人用ラップトップを持って来た。それをアリアナに見せた。

「1630迄にここへ行って待機して下さい。」

 シオドアが覗き込むと、赤い屋根の給食センターだった。少佐は建物の裏口あたりに指を置いていた。シオドアが

「そこに何かあるのか?」

と尋ねても彼女は答えず、アリアナに確認した。

「1630迄に行けますか?」

 シオドアが通訳した。

「午後4時半迄に行けるか、と彼女が訊いている。」
「行けます。」

 アリアナは決意した。これはステファン大尉を救い出す為に必要なのだ。
 少佐は「ブエノ」と呟いて頷いた。

「もし貴女さえよろしければ、パスポートを持って来て下さい。ドクトル、貴方のパスポートは何処にありますか?」
「え?」

 シオドアも少佐を見た。パスポート? そして彼は少佐の考えに思い至った。

「セルバへ逃げるのか?」

 少佐は即答しなかった。

「最寄りの安全圏に行くだけです。」

 それでも敵から逃げられるのであれば、文句はない。シオドアは言った。

「アリアナが仕事に行く時に、俺は一旦基地を出る。ワイズマンに研究所に戻れと言われて、コンビニの仕事を辞めたんだ。アパートを引き払ってくる。監視がついて来るだろうが、俺がパスポートを取りに行っても誰にも分からない。」

 彼はアリアナを見た。彼女は生まれたこの基地の外に住んだ経験がない。生まれてから今日迄の全てを捨てて逃げる覚悟があるだろうか。
 少佐がアリアナに言った。

「私達と一緒に行く決心がつかなければ、車だけ置いて帰って下さい。車をお返し出来る保証はありませんが。」
「行きます。」

 アリアナがキッパリと言った。少佐は頷いた。

「エンジンをかけたままでお願いします。もし私達が1630を過ぎても現れなければ、家にお帰り下さい。待っていては、貴女が危険です。」

 アリアナが硬い表情で頷いた。

「わかりました。でも・・・必ず無事に戻って来て下さい。お願い。」


2021/07/12

異郷の空 22

  ステファン大尉に与えられた新しい牢獄は、シオドアの要求通り3方がコンクリートの壁で1面がガラス張りだった。ガラス面にはブラインドが取り付けられていて、着替えや室内の隅に設置されたトイレを使用する際は囚人が自分で閉じられるようになっていた。シオドアは彼がその部屋で最初の食事を終える迄付き添った。食事の内容はマッシュポテトに牛肉のシチューをかけた物で、チョコレートクッキーと苺ゼリーが付いていた。飲み物は低カロリーのミルクだった。げっそりとその食べ物を見つめる大尉に、シオドアが半分食べてやろうかと提案すると、結構ですと断られた。

「もし毒が入っていたら、貴方と私は共倒れじゃないですか。」
「毒殺なんかここじゃやらないよ。」

とシオドアは蘇った過去の記憶を元に言った。

「出来るだけ自然死に見せかけるからね。」
「貴方も手を下したことがあるのですか?」

 ギョッとする質問をされて、彼は黙り込んだ。必死で頭の中を検索した。己の過去が決して綺麗な物でないことは、既にわかっていた。それでも他人の死に関わったかも知れないと思うのは辛かった。

「被験者を死なせたことはない。俺はそう言うことをする担当じゃなかったから。だけど加担していたことに変わりはないよな。」
「貴方の国は一体どこと戦っているのです?」

とステファン大尉が尋ねた。

「人間を兵器に作り変える必要がある戦争がどこで行われているのですか?」
「戦争は銃器や爆弾で行うものばかりじゃないんだ。国同士で情報の奪い合いや嘘をつき合うのも戦争だ。インターネットで攻撃し合うのも戦争だ。そこに人間の脳が必要なんだよ。普通の脳より大きな可能性を持った脳がね。」
「私はそんなものに関われる様な頭じゃありません。」
「君は興味なくても、君の遺伝子を受け継ぐ人間がやるだろう。」
「無理です。」

 彼が小さく笑った。

「ママコナの声を聞けないのに、まともな力を出せる筈がない。」
「それじゃ、君はママコナの声を聞けるんだ。」

 シオドアの言葉に彼は黙り込んだ。恐らく、彼の頭の奥で蜂の羽音がブンブン唸っているんだ、とシオドアは思った。”曙のピラミッド”に住まう巫女様の”声”はセルバから遠い異国にいる”ヴェルデ・シエロ”にも聞こえるのだ。だから、諸外国を仕事で旅していたミゲール夫妻に引き取られた純血の”ヴェルデ・シエロ”の女の子は正しく能力の使い方を学んだ。

「あれは偶然です。」

とステファンは言った。

「私は恐怖に襲われて、必死で生き延びようとした。だから警報装置を鳴らし、医療機器を破壊出来た。ナワルを使えたのも奇跡です。私はエル・ジャガー・ネグロなどではありません。」
「黒いジャガーだろ? 君が変身したんだ。どうしてエル・ジャガー・ネグロでないなんて言うんだ。」

 しかし彼はそれっきり黙してしまい、シオドアの質問に答えなかった。
 シオドアはワイズマン所長との約束を守って、囚人の食事が終わると空になった食器が下げられる時に一緒に部屋から出た。牢獄の天井に人が通りぬけられる大きさの通風孔が設置されていることを確認して。
 所長室に行くと、ワイズマンとヒッコリー大佐が待っていた。ホープ将軍がいなかったのでシオドアはホッとした。彼はあの将軍が大嫌いだった。記憶を失う前も失ってからも嫌いだった。シオドアをまるで自分の持ち物を見るような目で見つめるのだ。愛情の欠片をその眼差しから伺うことは一度もなかった。
 ワイズマンがブランデーをグラスに注いでシオドアに振る舞ってくれた。

「さっきはよくやった。」

 彼はポケットから小さな時計の様なものを出した。

「あのセルバ人が心電図計を破壊した時、お前と私はまだ通路の角を曲がる前だったが、強力な磁場の変化を計測した。普通ならあのフロアの電子機器の多くが狂った筈だ。しかし、あの男はあの部屋の中の物だけを破壊した。常識では考えられない現象だ。ピンポイント攻撃が出来る恐るべき能力の持ち主だ。」

 シオドアはステファンの為に真実を語った。

「あの男は自分で能力の制御が出来ないのです。機械を壊しましたが、壊すつもりはなかったのです。」
「狙って壊したのではないと?」

とヒッコリー大佐が尋ねた。今まで多くの超能力者やそれらしき人々を攫って来た男だ。彼の捕虜は捕まる時に抵抗したが、超能力を使えた試しがなかった。静かな部屋で精神を集中させて物を動かしたり、隣の部屋のカードの絵を読んだり、そんな程度だ。抵抗して物を破壊したり、特殊部隊の兵士を手を触れずに弾き飛ばした人間は、今回のセルバ人が初めてだった。あの能力が自制出来ないと言うのか?

「そうです。ですから彼を刺激することが一番危険です。研究に使うにも彼の承諾を得てからにしなければなりません。彼が腹を立てたりすると非常に危険なのです。」

 大佐が所長を見た。

「眠らせて飼うことは出来ないのか?」
「それではどんな能力を持っているのか、調べようがない。」
「だが、能力を使わせることが危険なのだろう?」

 シオドアは黙って2人の会話を聞いていた。どんな結論を彼等が出すとしても、俺達はここに長くいるつもりはないんだ。
 ワイズマンがシオドアを振り返った。

「テオ、お前の今の態度がどこまで信用出来るのか、私には判断つかない。だが、エルネストやダブスンでは、あのセルバ人は言うことを聞かないだろう。お前を研究に参加させることは出来ないが、あの男の世話を任せたい。」
「わかりました。」
「基地の外の家を引き払って、こっちへ戻れ。何かあればすぐに呼び出しに応じられるようにしておけ。」
「わかりました。」

 シオドアはしおらしくして見せた。そこで好奇心が首をもたげた。先刻の騒動を目撃したヒッコリー大佐に尋ねてみた。

「ところで大佐、エルネストはどんな理由で”コンドル”を抱き締めたのです? 俺は”コンドル”に訊いてみたのですが、彼も訳がわからないと言っていました。いきなり抱きつかれたのでびっくりして機械を壊したのです。」

 するとヒッコリー大佐はしかめっ面をした。

「我々にもわからない。麻酔から目覚めた”コンドル”を宥める為に彼は部屋に入った。優しく話しかけていただけに見えたのだが・・・いきなり”コンドル”に抱きついた。あんなことをされたら、俺でも仰天する。」

 そして多くの超能力者達を捕らえてきた男は囁いた。

「俺の目に”コンドル”は戦闘のプロに見える。その男が本気で怯えていた。それだけゲイル博士の行動は意味不明だったってことだ。」


異郷の空 21

  カルロ・ステファンは誰かに名前を呼ばれた様な気がした。まだ目蓋が重たかったが、彼は目を開いた。眩しかったが、天井と大きな照明器具が見えた。直ぐそばで男の声が聞こえた。

「目を開けたぞ!」
「馬鹿な、麻酔は効いている筈だ。」

 彼は起きあがろうとした。両手が引っ張られ、動けなかった。一瞬腹が立った。バキッと金属が折れる音がして両手が自由になった。男達が騒いだ。

「目を覚ました。」
「危険だ。退避しろ!」

 足音。ステファンは上体を起こした。白衣姿の男が2人、ガラス扉の向こうへ駆け出して行くのが見えた。扉が閉じられると同時に戸口の上で赤色灯が点滅を始め、アラームが鳴り出した。訳がわからないまま、彼は両腕に刺さっていた点滴の針を引き抜いた。頭部にも胸部にも足首にも端子が装着されていたが、それも一気にむしり取った。
 室内を見回すと、心電図や脳波計のモニターが目に入った。ガラス張りの狭い部屋だ。病院の様だが、何かおかしい。腰に薄いブランケットが掛けられていた。めくると、申し訳程度に下着だけ履かされていた。ベッドから降りると脚に力が入らず、転倒しかけた。ベッドの縁を掴んでなんとか体を支えたが、腕の力も頼りなかった。点滴の薬のせいだ、と彼は思った。脳の奥で声が聞こえていたが、言葉を聞き取れない。
 ガラス壁の向こうに兵士が駆けつけた。ヘルメットを被り、自動小銃をこちらへ向けて待機の姿勢で上官を待つ彼等は全員サングラスをかけていた。
 ステファンは無駄な戦いをしない主義だ。そんなものは少年時代の喧嘩で十分やってしまったし、セルバ共和国陸軍でみっちり教育された。もし今の状況が本当に絶望的なものであれば最後の意地で暴れたかも知れない。しかし彼の脳の奥でブンブン唸っている蜜蜂の羽音に似たものは、彼に理解出来ないまでも希望を与え続けていた。

 ママコナが俺に語りかけている・・・

 ガラス戸が開いて、ぽっちゃり顔の男が入って来た。男は用心深くゆっくりと近づいて来て、ベッドの縁を掴んで体を支えている彼のそばに立った。それから身を屈めて、彼と同じ目の高さで話しかけて来た。初めて見る顔だったが、声は聞き覚えがあった。アリアナ・オズボーンの家で捕まった時に、袋越しに耳にした声だ。

「君に痛い思いをさせたくないんだ。大人しくベッドに戻ってくれないか。今は君の健康状態を調べているだけだ。僕は君の友達のシオドア・ハーストの弟のエルネスト・ゲイルだ。」

 ステファンが点滴の針に視線を向けると、エルネストがちょっと笑って見せた。

「ああ、あれは痛いよなぁ。栄養剤だけど、君が目を覚ましたから、もう必要ないな。後でちゃんと食事を出す。だから心電図と脳波を測らせてくれないか。」

 彼はベッドの柵に掛けられた手錠を見た。捕虜の手首に掛けられていた方の輪っかは左右ともに砕かれていた。ピンポイントで確実に念力を使って標的を破壊している。凄い、本当にこいつは凄い。
 ステファンの頭の中の声が途絶えた。一瞬希望も途絶えた気分に陥ったステファンは思わず呟いた。

「ママコナ?」

 それをエルネストは聞き間違えた。彼が「ママ」と呼んだと誤解したのだ。こいつはやっぱりまだ幼いんだ。故郷に帰りたがっている。
 咄嗟に彼はセルバ人を引き寄せ、抱き締めてやった。この暴挙にステファンはパニックに陥った。心電図計や脳波計が火花を噴いた。ガラス壁の向こうの兵士達がいろめきたった。

「馬鹿野郎、エルネスト! 何をやってんだ?!」

 シオドア・ハーストの怒鳴り声が響いた。エルネストは頭の中が真っ白になった状態でガラス部屋の戸口を見た。ステファンも彼に抱き抱えられたままそっちを見た。シオドア・ハーストが立っていた。顔はやや青褪めていたが、目は怒りで燃えていた。シオドアの後ろにワイズマン所長がこれも強張った表情で立っていた。
 シオドアがヒッコリー大佐に向けて腕を伸ばし、抑えて、と合図を送った。そしてワイズマンを振り返った。

「部屋の中に入ります。」

 ワイズマンが頷いて許可を与えた。 シオドアが静かに部屋に足を踏み入れた。友人と言えどセルバ人は今興奮状態にいる。刺激するのは危険だった。

「彼から離れろ、エルネスト。君が彼を脅かしたんだ。」

 まだ頭が空白になったままのエルネストがその言葉を理解する前に、ステファンが彼を押しのけて立ち上がった。まだ足元がおぼつかないが、床に尻餅を付いたエルネストを見下ろす目に威圧感があった。だからシオドアは忠告した。

「君もエルネストを怖がらせないでくれ。目を逸らせてくれ。」

 武器となる目を塞がせるな、と暗に注意を与えた。ステファンは彼を見て、それからベッドの縁にドサリと腰を下ろした。その隙にエルネストが半分腰を抜かした状態で部屋の外へ逃げて行った。シオドアはステファンの隣に座った。室内を見ると計器類から煙が出ていた。点滴の針から薬剤がポトリと落ちた。神経の興奮を抑える鎮静剤だ。この薬は”ヴェルデ・シエロ”には効力がないのか。それとも”ヴェルデ・シエロ”はすぐに抵抗力をつけてしまうのか。

「気分はどう?」

 外の人間に余計な詮索をされないよう、英語で話しかけた。ステファンも英語で答えた。

「最低です。」

 シオドアは彼の脇腹の傷を見た。

「傷はまだ痛むかい?」
「こっちは大丈夫です。そろそろ痒くなって来ました。」

 彼はステファンの肩を軽く叩いた。そして立ち上がるとワイズマンに声を掛けた。

「室内の計器類は使い物になりません。部屋を掃除して機械を入れ替えるか、新しい部屋へ移してやって下さい。新しい部屋は出来れば3方は壁にして欲しい。プライバシーを守られないと、被験者が落ち着けない。それから、服を着せてやって下さい。普通に人並みに扱っていれば、彼も暴れたりしません。」

 そしてステファンを見て、「だろう?」と念を押した。ステファンも同意した。 ワイズマンも異論がなかった。

「新しい部屋を用意する。ただし、用意が出来るまでは見張りを残す。」

 彼は情けをかけてやることにした。

「移動まで一緒にいてやれ。ここで生活する心得でも教えてやることだ。出来るだろう? 君が記憶喪失になる前にやっていた仕事だ。」

 彼は立ち上がったエルネストを睨みつけ、ついて来いと合図して立ち去った。エルネストはガラス部屋を振り返った。シオドアを睨みつけたが、怒りと言うより嫉妬の炎をその視線に感じて、シオドアはびっくりした。
 部屋の外のヒッコリー大佐の特殊部隊は2人の見張りを残して引き上げた。
 シオドアはスペイン語でステファンに話しかけた。

「エルネストが君をどう扱うのか心配になって、ワイズマンに掛け合ったんだ。昔やっていた仕事内容を思い出してね・・・捕まえた超能力者の世話を指示していたのは俺なんだ。だから、素人のエルネストなんかに君を任せたら君も研究所も危険な状態になると訴えたら、中に入れてもらえた。」
「来ていただいて感謝しています。」

とステファンが元気のない声で言った。

「実際、私はもう少しでさっきの男の首を折るところでした。」
「何があったんだ?」
「わかりません。」

 彼は肩をすくめた。

「いきなり抱きついて来たんです。衆人環視の中で襲われるなんて思っても見ませんでした。」
「君を襲った訳じゃないだろうけど・・・」

 シオドアも肩をすくめた。

「俺も時々あいつが理解出来ないから。 兎に角、あいつ、エルネスト・ゲイルとダブスンって言う中年女性の博士には用心しろよ。ダブスンは時々オルガ・グランデへ研究サンプルを採取しに行っていたから、神様の扱いを現地の人間から聞かされている節がある。目を塞がれたら、君が困るだろう?」
「忠告有り難うございます。」
「俺はエルネストが持っている君のデータを消さなきゃならない。連中に寝返ったふりをするから、我慢していてくれ。」

 そしてシオドアは、ケツァル少佐から教わった”ヴェルデ・シエロ”の言葉で囁いた。

「彼女がここに来ている。」

 ステファンの目が希望で明るく輝いた。


2021/07/11

異郷の空 20

  エルネスト・ゲイルはアリアナ・オズボーンの家に仕掛けた盗聴器をシオドアに発見され破壊されたが、気にしなかった。シオドアが言った通り、昔から彼等の間ではイタチごっこで遊び感覚だったのだ。それに今回の「ハンティング」では十分役に立った。
 居住区の湖岸に設置されたC C T Vに黒い大きな獣が映っているのを発見したのは、エルネストだった。覗き見が趣味だから、警察や警備の防犯カメラ回線に侵入するのは得意だ。テレビで報道されていた「黒豹」だと直ぐにわかった。「黒豹」は湖を泳いでやって来て、あろうことかアリアナ・オズボーンの家の桟橋付近に上陸した。彼はアリアナに注意喚起の為に電話をしようと思ったが、「黒豹」が岸に上がって直ぐに蹲ってしまったので、電話するのを止めた。彼女が獣を見つけた時の反応を見たかった。獣は朝の太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。真っ黒な見事な毛皮だった。防犯カメラの解像度の高くない映像でも、綺麗な動物だとわかった。
 アリアナは彼が予想した時刻に帰宅した。研究所から車で5分の距離だ。何時、あの獣に気がつくだろう。エルネストはドキドキしながら自宅に造ったモニター室で見ていた。仕事もリモートだからモニター室に座っていれば出来た。アリアナの家の前にある防犯カメラに彼女が帰宅するのが映っていたが、裏庭は住民の要望でカメラがない。庭と公共の岸辺を仕切る植え込みの切れ目で蹲る「黒豹」は映っていたが、庭に出るアリアナは見えなかった。
 そのうち、「黒豹」が動いた。頭を上げ、何かを見た。彼女が来たのだ。エルネストは彼女が見えないことを悔やんだ。きっと悲鳴を上げたに違いない。「黒豹」が体を持ち上げた。這うように前進したので、エルネストはモニターの前で思わず怒鳴ってしまった。

「動くな! 見えなくなる!」

「黒豹」は尻尾だけカメラの中に残してまた動きを止めた。エルネストはアリアナが逃げてしまったのだろうと思った。実際、彼女はその時一旦家の中に逃げたのだ。彼は盗聴器の音声を聞くために機械を操作した。モニターから目を離した数秒間に、「黒豹」の尻尾がカメラから消えた。
 エルネストが期待したアリアナの救援要請の電話はなかった。彼女が「黒豹」に食われたのかと思ったが、そのうちリビングとキッチンに仕掛けた盗聴器から彼女が室内を動き回る音が聞こえ、彼はがっかりした。彼女は「黒豹」に気づかず、獣は場所を移動したのだろう、と思った。その後道路や他の湖岸のカメラをチェックしたが、何処にも「黒豹」は映っていなかった。民家の庭から庭を移動していると思われた。これは警備兵に連絡した方が良いかも知れない、と彼は思い、同時に面倒臭いと感じた。彼は気晴らしに基地の外に出かけ、公園のベンチで昼寝しているシオドアを発見した。昼寝の邪魔をして、警察無線で知り得た情報を聞かせてやると、シオドアはちょっと動揺したかに見えた。しかし、この時エルネストはまだ博物館の泥棒と「黒豹」を結びつけて考えていなかった。
 夜になる頃、アリアナがシオドアに電話をかける声が聞こえてきた。聞くともなしに聞いていると、彼女が彼に衣類を持って来てくれと要請した。男物の衣類だ。奇妙な要請だと思いつつ、エルネストは夕食の為に一旦モニター室を離れた。
 モニター室に戻ると、盗聴器からアリアナとシオドアの会話が聞こえてきた。その内容は不思議なものだった。彼女の家の中にシオドア以外の男がいるらしかった。しかもセルバ人だ。さらにエルネストを驚かせた会話が聞こえた。

ーー彼と今朝出会ったと言ったね。何処で?
ーーこの家の庭先。湖に降りるステップのところよ。
ーー彼は裸だったろう? 君は顔見知りなら誰でも平気で家に入れるのか?
ーー私が見つけた時、彼は人間の姿じゃなかったの!

 それからアリアナは信じられないような、御伽噺としか思えない話を語った。庭先で黒い獣を見つけ、その獣が人間の男に変化したこと、大怪我をしていたので家に連れ帰って手当してやったこと。熱を出して震えていた獣から変化した男を抱いて温めたこと。
 シオドアはアリアナの証言に驚かなかった。それどころか、セルバ人の中にはジャガーに変身する者がいると受け取れる発言をした。
 シオドアの声が聞こえなくなったので、エルネストはアリアナに電話を掛けてみた。門衛からシオドアが基地に入ったと報告を受けたと出まかせを言うと、アリアナも適当な嘘をついた。エルネストが電話を切ると、アリアナとシオドアが彼の悪口を言ったので、ちょっと腹が立った。我慢して聞いていると、彼等の会話でさらに驚きの事実が判明した。博物館の泥棒と「黒豹」男が同一人物で、セルバ共和国の政府が絡んでいると言うのだ。しかもシオドアの携帯に電話を掛けて来た人物はセルバ大使ともう1人「少佐」と呼ばれる人間だった。シオドアが「彼女」と言ったので、少佐は女性だと推測された。その時、第3の人物の声が聞こえた。男の声でスペイン語訛りのある英語だった。「黒豹」のセルバ人だ。
 シオドアは「少佐」を迎えに出かけた。アリアナと「黒豹」男だけが家に残った。
 エルネストは決心した。迎えが到着する前に、「黒豹」男を確保しなければならない。彼はヒッコリー大佐に電話を掛けた。大佐は研究所で研究に使われる超能力者達を集める任務を負ったプロだ。超能力者の存在は信じているが、「黒豹」に変身する人間の話は笑い飛ばされた。しかしエルネストが録音したアリアナとシオドアの会話を聞かせると、大佐は直ぐに部下を招集した。「黒豹」男は怪我をして弱っている。捕獲するなら今夜しかない。プロの超能力者ハンター達はアリアナ・オズボーンの家に集結した。エルネストはアリアナを抑える役目を自ら申し出た。彼女の家の鍵は持っていた。
 捕獲劇は短時間で終了した。「黒豹」男はエルネストの予想以上に衰弱していた。原因はアリアナだ、とエルネストには直ぐわかった。彼の好色な”妹”は昔から基地で訓練している兵士達の体を見るのが好きだった。大人になると時々若い兵士をつまみ食いしていた。親代わりのライアン博士もワイズマン所長も彼女が妊娠さえしなければ構わないと放任した。基地の外の男に夢中になられるよりましだと思ったのだ。セルバ人は正に彼女好みの肉体の持ち主だった。そして若かった。研究所へ運び込んで体を洗浄した際に髭も剃ってやったのだが、ゲバラ髭を剃り落とすと、意外に幼い顔立ちだったのだ。もしかするとアリアナが初めての女性体験ではないか、とエルネストは思った。
 ダブスンがアリアナの体からセルバ人の精子を採取した。彼女がどれだけ遺伝子解析の腕前を発揮させられるのか、エルネストは疑問だった。遺伝子情報の分析はシオドアの独壇場だったのだ。折角本物の超能力者の遺伝子を手に入れたのに分析出来ないのでは意味がない。だが研究所に反旗を翻したシオドアを研究に加える訳にはいかない。どうしたものか、とエルネストは考えながら、昨夜から今朝にかけての捕獲劇の報告書を作成していた。
 モニターの一つに、捕獲したセルバ人が映っていた。両手を手錠でベッドに繋がれている。頭部や胸部に脳波計や心電図の端子を付けられ、腕には栄養剤と麻酔剤の点滴を刺されていた。裸の左脇腹にガーゼを当ててテープで止めてある。大きな刃物傷があったが半分治りかけていた。警察の鑑識に頼み込んで送ってもらった博物館に残されていた泥棒のものと思われる血痕の分析結果と、捕らえたセルバ人の血液の分析結果が一致した。セルバ人が怪盗”コンドル”だと判明したので、研究所でのコードネームも”コンドル”に決定した。ただし、警察には泥棒を捕まえた報告をしていない。

「博物館に残っていた血痕から、警察は逃走した2人目の泥棒はかなり出血しているものと考えている。怪我をしてから今日で2日目だ。常識では治療しなければ命の危険があるそうだ。しかし、”コンドル”の傷は既に治りかけている。」

 ワイズマン所長が感動とも聞こえる微かに震える声で言った。エルネストはこの件に関しては驚かなかった。

「シオドア・ハーストもあの程度の傷なら直ぐ治りますよ。治癒能力の遺伝子は兵士に必要でしょう。」
「兵士が直接戦闘を行う場面は限られてくる時代だ。しかし、確かに場合によって人間を投入しなければならない戦場はまだ残っている。治癒能力の遺伝情報を解析するように。」

 ダブスンは所長に視線を向けられて頷いた。エルネストは彼女の能力を高く評価していないので、内心大丈夫かなと思った。分析に失敗して新しい精子の採取が必要になれば、”コンドル”が気の毒だ。


異郷の空 19

 アリアナが寝室から出て来ないので、シオドアは様子を見に行った。ドアをノックすると、中で「来ないで」と声が聞こえた。彼は無視して中に入った。アリアナはベッドの上に突っ伏していた。

「今日は休むんだろ?」
「ええ・・・」
「少し眠ると良い。」

 シオドアはベッドの端に腰かけて、彼女の髪を優しく撫でてやった。

「エルネストは君に酷い扱いをした様だな。」
「彼じゃないわ。ダブスンよ。」
「ああ・・・あのオバサンか。」

 メアリー・スー・ダブスンも先住民の遺伝子に関心を持っていた。ただ彼女の場合は超能力より人間の「原種」から新しい品種を作って戦略的に使える才能を開発しようとしていたのだ。たまたまセルバ人の遺伝子の中に奇妙なものを見つけたと言うだけで、それを解析した共同研究者がシオドアだった。 

「ステファン大尉には会えたか?」
「会わせてもらえる筈がないでしょう。」

 アリアナは顔を上げた。怒っていた。シオドアにではなく、無力な彼女自身に。

「エルネストは興奮しているわ。まるでライオンを生け捕ったハンターみたいに得意満面よ。ダブスンはセルバ人の扱い方を知っていると主張して、何とかして彼のチームに加わろうとしている。だけど・・・」

 彼女は体を起こした。

「超能力者の遺伝子分析の担当は貴方だったのよ、テオ。まだ思い出さない? 研究所は貴方が必要になると思う。それに彼・・・研究所は彼に”コンドル”ってコードネームを与えたわ。コンドルを扱えるのは貴方だけよ。彼に言うことを聞かせようと思ったら、貴方が必要ね。」
「それじゃ・・・」

 シオドアは提案した。

「俺を研究所に連れて行ってくれないか? エルネストがステファンを本気で怒らせる前に、俺が扱い方をレクチャーしてやる。下手なことをすれば、怪我人が出る。」

 アリアナは、投光器が破裂して、特殊部隊の兵士が見えない力で弾き飛ばされたことを思い出した。あの時は訳が分からなかったが、ステファン大尉が1人でやったことであれば、確かに危険だ。大尉はあの時酷く衰弱していた。もし元気な状態の彼を怒らせたら、どんな惨状になるだろうか。

「今から研究所に行くの?」
「直ぐにとは言わない。お昼も食べたいしね。冷蔵庫に何かあるか?」
「何か作るわ。待ってて。」

 彼女はクローゼットに向かった。

「彼女に何が食べたいか訊いてくれる?」
「自分で訊けば?」

 シオドアは彼女が感じている後ろめたさを解消するには、それ以外にないだろうと思った。
 彼がリビングに戻ると、ケツァル少佐はまたアリアナのラップトップを眺めていた。今度はGoogleの衛星写真だ。基地周辺だが、肝心の基地は映っていない。辛うじて居住区が見られるだけだが、ストリートビューはない。彼がそばを通ると、彼女が画面を指差した。

「これは何ですか?」

 シオドアは覗いて見たが、余り関心がなかった区域だったので、分からなかった。彼女はある赤い屋根の建物を指差したのだ。そこへ着替えたアリアナがキッチンへ入る為にやって来た。少佐が声を掛けた。

「ドクトラ、この赤い屋根の建物は何ですか?」

 アリアナは一瞬固まったが、直ぐにテーブルに近づいてラップトップを覗き込んだ。

「給食センターだわ。高齢者の住宅などに食事を宅配しているの。」

 少佐が考えこんだ。それっきり何も言わないので、アリアナは肩をすくめてキッチンに入った。シオドアはもう一度画面を見た。少佐が拡大して写真を眺めている。給食センターが何を意味するのか、彼は見当がつかなかった。
 アリアナが作ったのはカリカリベーコンと胡瓜のサンドウィッチと温めた冷凍ポテトだった。特に美味しいと言う訳ではなかったが、ないよりましだ。

「乾燥ジャガイモと硬いチーズよりは美味いよ。」

とシオドアが変な誉め方をしたので、少佐が次はペミカンにしますと言った。アリアナがクスッと笑った。シオドアと少佐が同時に彼女を見たので、彼女は慌てて言い訳した。

「あなた方が喋っているのを聞いていたら、まるで兄妹みたいだなって思ったの。」
「俺の兄妹は・・・」

 シオドアはちょっと躊躇ってから言った。

「君だよ、アリアナ。それから認めたくないがエルネストだ。」
「エルネストは外しても良いわよ。」

 アリアナが少佐に話を振った。

「貴女は兄妹がいますか?」

 いない筈だ、とシオドアは思ったが、少佐は答えた。

「弟と妹がいます。」
「え? 君は一人っ子じゃなかったっけ?」
「そんなことを言った覚えはありません。」
「でも、生まれて直ぐにお母さんが亡くなったと・・・」
「私を産んだ母親は亡くなりました。」

 少佐はいつも自分のことになるとはっきり言わない。彼女は父親もいないと言った。それはつまり、彼女の両親は正式に結婚していなかったと言うことなのか? それ以上プライベイトなことにツッコミを入れるのは良くない。彼は自重した。アリアナはあまり深く考えずに、

「弟妹がいるって良いですね。」

と言った。少佐はコメントしなかった。
 美食とは程遠いランチを終えて、シオドアは皿洗いを担当した。少佐はセルバ流にシエスタだ。ソファの上に横になって直ぐに睡眠状態に入った。アリアナは書斎に入り、ドアを開いたまま、仕事用のパソコンを開いたが、彼女も昨夜は一睡もしていない。椅子に座ったままうたた寝を始めた。
 皿洗いを終えたシオドアもリビングの椅子に座って目を閉じた。研究所に行って、どこまで奥へ行けるだろう。ステファン大尉は超能力者達を閉じ込めておくエリアにいる筈だ。昔のシオドアなら自由に出入り出来た区画だが、今は無理だ。

異郷の空 18

  昼前にアリアナ・オズボーンが帰宅した。酷く焦燥感を漂わせながら、家に入ると出迎えたシオドアに抱きつき、それから鞄をソファの上に投げ出してバスルームに真っ直ぐ向かった。

「君に挨拶ぐらいすれば良いのにな。」

 シオドアは”妹”の無礼をケツァル少佐に謝った。少佐は鞄が投げ出されたソファの真ん中に座っていたのだ。少佐はコメントせず、窓の外を振り返って見た。アリアナの車が車庫の外にある。シオドアの車を車庫に入れたからだ。路上に1台セダンが停まっていて、運転席と助手席にいる男達がこちらを見ていた。

「彼女は監視されていますね。」
「俺達も見られたかな?」
「貴方は車があるから、ここにいると連中はわかっているでしょう。」
「君は見られた?」
「見えていないと思います。」

 少佐は「私は猫ですから」と意味不明のことを呟いた。シオドアは先刻まで座っていた彼女の向かいの椅子に座った。

「アリアナは今朝風呂に入らなかった。彼女の習慣じゃない。清潔好きなんだ。」

 少佐がフンと鼻先で笑った。

「彼女の体からカルロの匂いがプンプンしていました。」

 シオドアはある考えに至って、ドキッとした。バスルームの方を見て、寝室の方角を見た。アリアナは庭先で拾った黒い猫に魅了されていた。彼を手当てして自身の体温で彼を温めてやった。それだけで満足しただろうか? シオドアが少佐を迎えに出ていた時間、2人はどうやって過ごしたのか。

「やばいかも・・・」

と彼が呟くと、少佐が不思議そうに彼を見た。

「どうしてです? カルロも彼女も大人ですよ。」

 シオドアは彼女を振り返った。少佐はアリアナがステファン大尉を誘惑したことに気がついていたのだ。だが、その行為の重要性には気がついていない。

「エルネストは彼女がステファンに何をしたか悟ったんだ。彼女の体にはステファンの遺伝子が残っている可能性があった。だから、エルネストは彼女に体を洗わずに研究所に来いと命じたんだ。」

 ケツァル少佐はやっとシオドアの憂慮の内容を理解した。ああ、と軽く相槌を打った。ちょっと痛ましいものを見るようにバスルームの方を見た。

「彼女には侮辱的な体験だったでしょうね。」
「それは・・・確かに彼女は気の毒だが・・・」

 どうも少佐と物事の見解がズレている、とシオドアは感じた。

「”ヴェルデ・シエロ”の遺伝子を研究所が手に入れてしまったってことだ。」

 彼はテーブルの上に体を乗り出して、少佐に顔を近づけた。

「いいかい、連中はステファンを捕まえた。だけど、彼はしっかりした自我を確立させた成人で、他人に操られることはない。薬やなんかで意識を混濁させて精神状態を弱らせ、研究所の言うことを聞かせる方法があるが、彼の様に強力な超能力を持つ人間を調教なんて出来っこないんだ。つまり、彼は本当に研究所が手に入れた初めての”本物”だから、まだ誰も調教の仕方を知らないんだ。操ろうとしても、絶対に無理だ。彼の力の本当の大きさを誰も知らないからね。無理やり従わせたら却って危険な事態になる。その程度の予測は連中も出来る。
 ステファン本人は兵器として使えないから、彼の遺伝子を使って使える人間を作るんだ。普通の人間の遺伝子情報に組み込んで超能力を使えるようにする。或いは時間はかかるが、彼の子供を作って研究所が操れる人間に育てる。」

 シオドアは自嘲した。

「思い出したんだよ、少佐。 俺がやっていた研究が、正にそれだったんだ。俺は変わった能力を持つ人間の遺伝子を集めて、分析して、兵器として応用出来る方法を研究していたんだ。だから、研究所は俺を野放しにしてくれないんだ。」

 少佐が理解した、と頷いた。

「カルロは種馬として捕まえられたのですね。」

 シオドアの目に、彼女はそんなに重要なことと考えていない様に映った。

「セルバの人口は120万です。そのうち純血の先住民は5パーセント、そのうち”ヴェルデ・シエロ”はその0.5パーセントです。メスティーソの”ヴェルデ・シエロ”が何人いるのか、私にはわかりませんが、かなりの人口になります。種馬の価値は大したことではありませんが・・・」
「そう言うことじゃなくて・・・」

 アリアナがバスルームから出て来た。バスローブを纏って、真っ直ぐ寝室へ入って行った。

「セルバ共和国は国を挙げて神様の遺伝子を守っているじゃないか。血液サンプルの持ち出しだって難しい。現にアンゲルス鉱石で採取したサンプルも全く偶然に”それらしい”ものが1件あっただけだ。セルバ人は外国に行っても、多分正体がバレないように用心している筈だ。研究所が手に入れられる遺伝子は、捕まえた男のものだけなんだ。」

 シオドアは結論を言った。

「ステファンを救出するのが一番の目標だが、遺伝子のデータも消さないといけない。」

 少佐が天井を見上げた。暫く考えてから、視線を彼に戻した。

「では、役割分担をしましょう。カルロは私が救出します。貴方はデータを消して下さい。」

 そんなに簡単に言って良い訳? シオドアは彼女の楽観主義は何処から来るのだろう、と疑問に思った。


2021/07/10

異郷の空 17

  ケツァル少佐が目を覚ますと、外はまだ暗かった。時計を見るとセルバ共和国なら既に太陽が昇っている時刻だ。彼女は隣の運転席で寝ているシオドア・ハーストの頬を手でピタピタと叩いて起こした。

「オズボーン博士の家に行きましょう。」

 シオドアは逆らわずに基地へ向かって走った。門衛はシオドアの顔見知りで、助手席で赤いフードをかぶっている人物をチラリと見た。詮索するつもりなどなかったのだが、フードの人物がフードを取ったので思わず顔を見た。目を見てしまった。そしてシオドアに行っていいよと手を振った。車が基地内に入った後、彼はシオドアが戻って来たことを研究所に報告するのを忘れた。
 居住区の道路には当然C C T Vが至る所に設置されていたが、故障している物もある。アリアナ・オズボーンの家のそばのカメラが突然火花を出して停止したが、誰も気が付かなかった。
 シオドアと少佐はアリアナの家の前で車を停めた。シオドアが提案した。

「エルネスト・ゲイルは昔から盗聴や盗撮が趣味なんだ。皆んなが知っているし、彼自身も知られていることを知っている。この家にも盗聴器が仕掛けてある筈だ。俺が見つけて壊しても、あいつは気にしない。これも昔からやってるイタチごっこだからね。少佐、お手数だが、これからこの家の盗聴器を探してくれないか?」
「承知しました。」

 ドアチャイムを鳴らすと、かなり待たせてからアリアナがドアを開けた。シオドアはドアチェーンが断ち切られているのを見たが、コメントはしなかった。鍵が無事だったのは、特殊部隊がステファンに気づかれないよう、静かに侵入したからだ。
 アリアナが抱きついて来たので、シオドアは彼女がどんなに怖かったか訴えるのを聞いてやった。その間にケツァル少佐が屋内を歩き回り、リビングとキッチンで1個ずつ盗聴器を発見した。シオドアはそれを彼が見つけたふりをして踏み潰した。寝室と客間、アリアナの書斎は無事だった。日頃から彼女が客を入れない場所だ。エルネストも入れてもらえなかったのだ。シオドアはステファンと美術品回収任務や暗殺未遂、ナワルに変身した話をしたのが寝室で良かった、と安堵した。
 アリアナがキッチンのテーブルにパンとジャムを出した。

「朝食にして頂戴。私は食欲がないから、食べずに出勤するわ。」

 シオドアはびっくりした。

「研究所に行くのか?」
「私の職場だもの・・・」

 彼女は着替える為に寝室へ行った。シオドアは少佐がキッチンでパンにジャムを塗るのを見た。女達は何か重大な危機があっても日常の習慣を変えないようだ。彼はキッチンに入り、インスタントのコーヒーを淹れた。少佐がラズベリージャムを塗ったパンをくれた。彼女はブラックベリーのジャムだ。

「彼女について行きますか?」

と少佐が尋ねた。シオドアは考えた。

「歓迎してもらえるとは思えないな。俺は追放された身だから。」
「でも研究所に入らなければ、何も出来ませんよ。」
「多分、ここで待っていれば迎えが来ると思う。」

 そこへ着替えたアリアナが戻ってきた。くたびれた顔で、なんとか化粧を直して髪を整えた程度だ。シャワーを浴びずに出かけるのが意外だったので、シオドアは不審を覚えた。それにまだ外は薄暗い。

「仕事を休めよ。」

 シオドアは精一杯思いやって声をかけた。アリアナは首を振った。

「行かなきゃ駄目なの。彼の為にも・・・」

 彼女はケツァル少佐を見る勇気がなかった。このインディオの女性は私が彼にしたことを絶対に気がついている。だから盗聴器を壊した後も私に一度も声をかけて来ない。
 アリアナは職場に出かけて行った。車で5分の距離だ。
 シオドアはリビングの床に散乱している投光器のレンズの破片を片付けた。特殊部隊は強烈な光をステファンの顔に当てて”ヴェルデ・シエロ”の最も手頃な武器である目を眩ませたのだ。エルネストにそんな知識はない。恐らくオルガ・グランデに遺伝子サンプルを集めに足を運んでいたダブスン博士がアンゲルス鉱石の連中から仕入れた”ヴェルデ・シエロ”の対処法だ。
 少佐はアリアナのラップトップを見つけた。アリアナが職場とは別に使っている物だ。昨夜はシオドアが少佐との落合場所を検索するのに使用した。今度は少佐が使い始めた。研究所の見取り図を探し出し、部屋数や配置を見ていた。シオドアが横から覗くと、今度は設計図を出していた。何処からそんなものを探し出したのだ? とシオドアは驚いた。国の研究施設だ。民間人がアクセス出来るものではない。しかし少佐は水道の配管や下水施設や通風孔の位置やゴミのダストシュートまでチェックした。

「ドクトル、彼等はカルロを何処に収容していると思いますか?」

 訊かれてシオドアは地下の特別区画を指した。

「ここは特定のメンバーしか入れない。アメリカ全土から攫われてきた超能力者達が収容される場所だ。検査と実験を行なって、使い物にならないと判断されたら記憶を消されて元の場所に戻される。世間じゃ、U FOに攫われて戻されたと騒いでいるがね。 ステファンを閉じ込めるなら、ここしかない。」
「貴方は入れるのですか?」
「以前は入れた。」

 何故そんなことを思い出せるのだろう。シオドアは自分で驚いた。さっきまでそんな研究所の暗部を思いつきさえしなかったのに。

「I Dカードとパスワードがあれば入れた。俺が生まれた場所でもあったから。超能力者を検査する場所は網膜認証が必要なんだ。」
「コンピューター相手では”幻視”は使えませんね。」

 と少佐は言ったが、特に諦めた感じではなかった。

異郷の空 16

  男達が去ってしまうとアリアナはリビングをぼんやり眺めた。割れた投光器のレンズが落ちている。ステファンの気の力で吹っ飛ばされた兵士がぶつかったテーブルがひっくり返り、上にあったラップトップが床に落ちていた。シオドアが置いていった料金切れの使い捨て携帯電話も転がっていた。
 彼女は携帯電話を拾った。ボタンを押すと一瞬だけ生き返った。最後の通話の番号を彼女はチラリと見た。彼女の脳はそれだけで十分だった。死んでしまった携帯電話を置いて、自分の電話でその番号にかけた。エルネストが部屋の何処かに盗聴器を仕掛けている筈だが、どうでも良かった。向こうに言いたいことが伝われば良いのだ。
 呼び出し1回で先方が出た。アリアナは相手に名乗る暇を与えずに喋った。

「オズボーンです。ここへ来ては駄目。テオと一緒に逃げて下さい。」

 数秒間を置いて、シオドアの声が聞こえた。

ーーアリアナ、どうした?

 アリアナはその声を聞くと涙が出てきた。しかし泣いていては伝えたいことが伝わらない。

「エルネストとヒッコリー大佐が来たの。彼を連れて行ってしまった・・・」

 シオドアも数秒間沈黙した。そして向こうで「あの盗聴オタクめ!」と喚く声が聞こえた。

ーー今、君の家か?
「そう・・・」
ーー来たのは2人だけか?
「いいえ、全部で8人いたわ。多分特殊部隊だと思う。彼はもう力が残っていなかったから、戦わずに捕まったわ。目隠しされたから、ダブスン博士がエルネストにセルバ人について何かアドバイスしたのよ。あの人、よくセルバの太平洋岸へ行っていたから。」
ーー君は何もされなかったのか? 怪我とかしていないか?

 シオドアはいつから他人を気遣うようになったのだろう。

「私は大丈夫。でも明日の朝、研究所へ来いと言われてる。」
ーー取り敢えず、逆らわずに従っていろ。こっちで何か手を考える。

 シオドアの方で電話を切った。アリアナは深呼吸した。そしてケツァル少佐の名前を出さずに会話出来たことに気がついた。盗聴されていても、エルネストに彼女の名前はわからない。否、今頃あの男は捕まえたセルバ人に注意を集中させて盗聴どころでないだろう。
 彼女は寝室へ行った。部屋の中にまだあの男の匂いが残っていた。日向ぼっこしている猫の毛皮に似た匂いだ。彼女はベッドに身を投げ出し、泣いた。

 シオドアとケツァル少佐はメルカトル博物館の近くの公園に車を停めていた。まだ早朝の午前2時だ。真っ暗で星は見えていない。月もない。空は曇っているのだ。雪が降るかも知れない。南国育ちのセルバ人はきっと寒い筈だ。シオドアは助手席の少佐を見た。彼女は先刻から腕組みして目を閉じたままじっとしていた。体に触れるな、声をかけるなと言われているので、彼も背をシートにもたれかけて目を閉じた。
 エルネストは門衛からシオドアがアリアナの家に呼ばれたことを聞いていた。だがステファン大尉が彼女の家にいることをどうやって知ったのだろう。室内に盗聴器を仕掛けているとしたら、ミゲール大使との電話も、大尉がカメル軍曹と行った任務や暗殺未遂の話も聞いた筈だ。あいつはセルバ共和国の秘密をどこまで知ってしまったのだろう。もしあの国が超能力者の国だと知ったら、アメリカ政府はどうするつもりだろう。今まで地球の片隅でひっそりと暮らしてきた古代の神々の子孫達をそっとしてやってくれないか。
 少佐が大きな息を吐いたので、彼は目を開いた。彼女が何処かに心を飛ばしていたのだろうと思ったが、質問しなかった。

「何かアイデアを思いついたかい?」

 すると彼女は言った。

「お腹が空きました。何か食べましょう。」

 シオドアは勤めているコンビニへ彼女を連れて行った。そこでブリトーとコーヒー、使い捨て携帯電話を2つ買った。少佐も使い捨て電話を使用していたのだが、アリアナとの通話が終わった後で捨てたのだ。
 お腹が膨れると少佐はシートを倒して寝てしまった。シオドアは彼女が豪胆なことは分かっているつもりだったが、ちょっと呆れた。アパートに帰ろうかとも思った。しかし建物のそばまで行くと、見慣れない車両が2台ばかり前の道路に駐車していたので、停止せずに通り過ぎた。公園に戻り、そこで彼も少し眠った。

 

異郷の空 15

  アリアナ・オズボーンはカルロ・ステファンの逞しい筋肉質の体を優しく何度も撫でていた。彼はウォッカマティーニ1杯で酔ってしまった。逃亡と変身と負傷で消耗した体力が戻っていなかった。だから彼女にされるがままになって、彼女が求めるままに体を動かした。アリアナは今まで味わったことがない快楽を体験した。シオドアも研究所の他の若い科学者達も助手達も、こんなに素晴らしい体を持っていない。この猫を手放したくない。
 だがカルロ・ステファンの方は違った。命の恩人の要求に応えただけだった。上官の、と言うより士官学校時代の上級生の命令に従う感じで「仕事をした」。終わると全身が溶けてしまう様な疲労感が残っただけだった。もうすぐ上官が迎えに来てくれると言うのに、眠たくて仕方がない。彼はシーツに顔を押し付けて目を閉じた。
 アリアナがベッドから出た。彼女ももうすぐシオドアがケツァル少佐を連れて戻って来ることを忘れていなかった。素早く服を身につけた。

「お水を持って来るわ。貴方も服を着て。」

 彼女が寝室から出ると、彼は仕方なく体を起こしてベッドから降りた。ズボンを履いた時、キッチンの方で物音がした。彼女は水を汲みに行ったのだから当然かと思ったが、彼の本能が警戒せよと言った。素足のまま、彼はドアに近づき、耳を澄ました。音は聞こえない。彼女が水を汲む音も冷蔵庫を開け閉めする気配もない。感じるのは複数の人間の張り詰めた緊張感だ。

 敵が家の中に入ってきている

 武器はない。ナイフもアサルトライフルも拳銃も何もない。変身も出来ない。今は指先さえ変化させる体力が残っていない。寝室の窓を見た。外にも人間の気配があった。
 彼はシャツを着た。捕まるとしても、みっともない姿で捕虜になるのは嫌だと思った。それにアリアナ・オズボーンがどうなったのか気になった。命の恩人だ。そして大事な友人テオドール・アルストの”妹”だ。
 靴がないので素足のまま、ドアを開き、廊下に出た。真っ暗だった。アリアナが照明を消した筈がない。シオドアが帰って来るのだから。キッチンとリビングの方へ歩き出すと、前方に人影が現れた。奇妙な頭部だったので、一瞬ギョッとしたが、赤外線スコープ付きのヘルメットを被っているのだとわかった。銃をこちらへ向けている。左右に1人ずつ。撃つなら撃て。彼はゆっくりと進んだ。暗闇は”ヴェルデ・シエロ”にとって色彩がないだけで普通に見える世界だ。キッチンの方でアリアナの匂いがした。血の匂いはしないから、彼女は抑えられているだけだ。彼が進むと、赤外線スコープの連中が後退りした。
 小さな家だ。すぐにリビングに到達した。部屋に入った途端に照明が点いた。強烈なライトを顔に浴びせられ、ステファンは手で顔を覆った。

「美術品窃盗犯の”コンドル”だな?」

と男の声がした。男はライトの横に立っているので顔が見えなかった。相手の目を見ることが出来ない。胴に銃口が押し当てられた。彼は仕方なく両手を挙げた。まだライトを顔に当てられたままなので目を前へ向けられなかった。ヘルメットを脱ぐ男達がチラリと見えた。
 警察ではない? 彼は軍人だ。外国の軍隊の制服の知識は持っていた。アリアナ・オズボーンの家の中にいるのはアメリカの陸軍だ。
 キッチンでアリアナのヒステリックな声が聞こえてきた。

「私の家の中で何をしているのよ! 彼は友達よ! 銃を向けないで!」

 するとステファンが知らない別の男の声が言った。

「君にセルバ人の友人がいたなんて、初めて知ったよ、アリアナ。今夜はテオが泊まる筈じゃなかったかい?」

 その男はライトの横の男にも声をかけた。

「そのセルバ人の頭に袋を被せなさい、ヒッコリー大佐。目を使わせちゃ駄目だ。ダブスンがそう言ってる。」

 ステファン大尉はアリアナとその若い男が言い合いを始めたのをぼんやり聞いていた。兵士が彼の腕を掴み、背中で緊縛した。そして若い男の希望通りに黒い不織布製の袋を頭部にすっぽりと被せられた。これじゃゲリラの誘拐と同じじゃないか、と彼は思った。急に恐怖が襲ってきた。2度と生きて故郷に帰れない。彼は心の中で叫んだ。

 ケツァル少佐、早く来てください!

 彼の腕を掴んでいた兵士が後ろに吹っ飛んだ。ライトの電球が破裂し、他の兵士達が手に電気の様な衝撃を感じて危うく手にしていた銃を落としそうになった。エルネスト・ゲイルは全身が痺れる様な感覚を覚え、ライトの破片を浴びて呆然としている制服姿のヒッコリー大佐を見た。

「何が起こったんだ?」

 大佐が呟いた。アリアナが床に膝を突いたステファン大尉に駆け寄った。

「大丈夫?」

 咄嗟に彼女は彼の名前を偽った。

「しっかりして、コンドル。」

 ステファン大尉は袋の中で微かに頷いた。エルネストが彼女の肩を抱いて引き起こした。そして大佐を振り返った。

「見たでしょ? 今のがこいつの力ですよ。凄い、本物だ!」

 ヒッコリー大佐は服に飛び散ったガラス片を手袋で払い落とした。兵士達は距離を空けてステファンを取り巻いている。少しでも変わったことをしたら撃ち殺しかねない雰囲気だ。 エルネストはアリアナを振り返った。

「こいつを説得しろ。大人しく従えば、傷つけたりしないと言うんだ。研究に協力すれば窃盗の罪は見逃してやると言え。」

 アリアナは彼を睨みつけ、それから再びステファンの横に膝を突いた。恐る恐る彼の背中に手をかけると、彼は微かに緊張したが、何も起こらなかった。彼女はそっと囁いた。

「貴方の遺伝子を調べさせて。痛い思いは決してさせないわ。だから、彼等に逆らわないで。わかるでしょう? 今の貴方に戦うのは無理よ。」

 彼女は彼が抵抗しないことを示す目的で彼を抱き締め、それからエルネストに頷いて見せた。
 ヒッコリー大佐がセルバ人を家の外に連れ出すと、エルネスト・ゲイルはアリアナにもついて来いと言った。

「テオが戻るのを待つわ。」

と彼女が逆らうと、彼は彼女の体を見ながらニヤニヤ笑った。

「だけど、サンプルは新鮮なうちに採取しておかないとね。」
「どう言う意味?」
「人前で僕に言わせる気かい? さっきまで彼と寝室にいたんだろ?」

 アリアナは耳まで真っ赤になった。それでも行かないと頑張った。それなら、とエルネストが彼なりに譲歩した。

「自分でサンプルを採取して明日の朝一番に持って来いよ。そうすれば彼に恥ずかしい思いをさせずに済むぜ。」

 彼は彼女を家に残し、外に出た。窓を黒く塗ったバンがエンジンをかけたまま待っていた。彼は中央の席に乗った。後部席を見ると、2人の兵士に挟まれて座ったセルバ人がぐったりしているのが見えた。ただし、袋を被せられているので顔は見えない。

「そいつ、どうしたんだ?」
「具合が悪そうです。」
「観察していろ。折角生け捕ったのに死なれては困る。」

 前に向き直った彼は呟いた。

「アリアナのヤツ、かなり弄んだ様だな。」

 研究所はすぐそこだった。


異郷の空 14

 シルヴァークリークが東海岸の先住民の町だと気がついたのは、目的地のラシュモアシアターに到着した時だった。すっかり夜中になっていたが、週末の映画館の前では若者達が酔っ払って騒いでいた。彼等の顔付きがとても懐かしいものに見えた。シオドアは駐車場の中をゆっくり車を走らせ、女性の姿を探した。多分迷彩服を着た人を探していたのだ。だからコーナーを曲がるためにうんと速度を落とした時に、派手な赤いジャンパーを着た女性にいきなり横から窓を叩かれてびっくりした。
 ケツァル少佐は黒っぽい色のTシャツの上に防寒用のド派手な赤いジャンパーを着ただけだった。腰から下は迷彩柄のパンツだ。シオドアがドアを開けると素早く助手席に乗り込んで来た。シオドアは来た道を逆に走り始めた。片道2時間の行程をまた運転するのだ。

「”出口”はここしかなかったのかい?」
「都会のど真ん中に出てしまうより安全でしょう。」
「好きな場所に出られるんじゃないのか?」
「目的地の近くに出られますが、希望通りの場所に出られるとは限りません。」
「俺には仕組みがまだよく分からないんだが・・・」
「空間は均一ではないのです。渦が所々にできて、常時移動しています。渦が”入り口”です。入ると自分が行きたい方角を念じます。”出口”が出来て外に出られます。達人は”入り口”を見つけるのが早いし、”出口”を作るのも上手です。」

 シオドアはゲリラから逃げた時、バナナ畑に落ちたことを思い出した。ステファン、シオドア、ロホの順に上下に重なって落ち、少佐はバナナの木に引っかかっていた。ステファンが上官に苦情を言っていたっけ。もっと上手になってくれ、と。多分、上手な人がいれば地面に立った状態で出られたのだろう。
 今度は少佐が質問した。

「私の部下に何があったのですか?」
 
 それでシオドアはステファンから聞かされた話を語って聞かせた。ミゲール大使がメルカトル博物館の泥棒騒動を知らなかったように、少佐も知らなかった。アメリカの小さな私立の博物館で起きた窃盗未遂事件など外国で報道されたりしないのだ。陸軍特殊部隊のカメル軍曹がステファンを殺害しようとしたと聞いて、少佐は難しい表情を浮かべた。

「本当に殺したいのなら、銃を使えば確実でしょうに。軍曹は拳銃を所持していたのでしょう?」
「俺はそこまでは知らない。だが、警察に向けて発砲したから撃たれたんだ。何か銃器を持っていたのだろう。 ナイフで心臓を刺すのは何か意味があるのかな?」

 すると彼女は嫌そうに顔を顰めた。

「心臓を汚したかったのかも知れません。」
「心臓を汚す?」
「古代の儀式で、勇士の心臓を神に捧げ、神官達が食べると言うものがあります。」

 シオドアは運転しながら、はぁ? と声を上げた。

「食人じゃないか!」
「スィ。メソアメリカ文明ではしばしば見られる過去の文化です。他国の遺跡でも同様の儀式を表すレリーフなどが残っています。食べられる心臓の持ち主は、その勇気と戦歴を讃えられるのです。」
「・・・理解出来ない・・・」
「生贄の文化を私も支持している訳ではありません。今は、カメルの行動を分析しようと試みているだけです。」
「それにしたって・・・心臓を刺すと汚すことになるのか?」
「生贄の心臓は、血を流さずに取り出されなければなりません。食べられる者の名誉です。しかし、心臓自体を刺して血を流せば、勇者は汚され、名誉も汚されます。」

 少佐の声に怒りが滲んだ。

「混血の”ヴェルデ・シエロ”が大統領警護隊の上位将校へ昇ることを我慢出来ない奴等がいるようです。」

 シオドアは以前に少佐やステファン大尉から聞いた純血至上主義者の話を思い出した。純血の”ヴェルデ・シエロ”こそが人間で、他は認めないと言うファシスト達の存在だ。

「純血至上主義者の長老がカメルにステファン大尉の暗殺を命じたと言うことか?」
「誰が命令を出したのか知りませんが・・・」

 少佐は考え込んだ。

「外国で自国民を殺害する様な愚かなことを彼等は喜ばない筈です。私達の存在を外国に知られる恐れがあります。彼等自身が最も心配することです。ですから、カメルのことは・・・」

 シオドアは先に推論を述べた。

「個人的怨恨かな。ステファンに出世を邪魔された誰かの一族が怒っているとか?」

 少佐は否定しなかった。

「私もそれ以外に思いつきません。カメルは”ヴェルデ・ティエラ”、つまり貴方と同じ普通の人間ですから、心を操る術をかけられていたのではないかと思われます。”操心”は非常に高度な術です。長老の誰かが関係しているのでしょう。」

 シオドア達は高速道路に入った。ステファン大尉暗殺未遂はこれ以上考えても埒があかなかったので、彼は話題を転じた。

「ステファンが黒いジャガーに変身したことも聞いた?」
「スィ。」

 少佐の雰囲気が一変した。明るくなったのだ。

「驚きました。誰もが彼はナワルを使えないと諦めていたのですから。私も彼をどう指導すべきか分からなかったのです。今回は酷い状況だった様ですが、一回変身に成功すれば、後は訓練次第で好きな時にナワルを使える様になります。ロホの様に軽はずみに使わないよう、釘を刺す必要はありますが。」
「ミゲール大使は、彼が変身したと聞いて慌てていた様だけど・・・」
「変身出来る”ヴェルデ・シエロ”を私達は”ツィンル”と呼びます。意味は正に”人間”です。本国の長老会は国中の”ツィンル”を登録しています。未登録の”ツィンル”は危険人物扱いされるので、カルロの身の安全の為にも一刻も早く長老会へ報告することが必要だったのです。」
「変身できなければ”出来損ない”で、変身出来たら出来たで危険人物扱いかい? 君達の世界も厄介な決まりが多いなぁ。」

 少佐は肩をすくめただけで、シオドアの言葉を否定しなかった。

「彼は白人の血が入っているので、何が出来て何が出来ないのか、本人も私達もわかりません。ただ普段放出しっぱなしの彼の気がかなり強いので、年長者達は彼を警戒しています。感情のコントロールが出来なければ、気を爆発させてしまう恐れがあるからです。」
「ステファンはカメルに脇腹を切られた時、びっくりして電線を切った筈の警報装置を鳴らしてしまったと言っていた。」
「その時点で気の制御が効かなくなっていたのでしょう。だから逃げたい一心で速く動けるジャガーに変身したのです。」

 シオドアは何か言い忘れているような気がしたが、思い出せないでいた。

「君達純血種は、誰でもジャガーに変身出来るんだね?」
「純血種は、スィ、誰でもナワルを使えます。」
「君も?」
「スィ。」
「混血の人は無理なのか?」
「その人の気の大きさによります。”うちの”マハルダ・デネロス少尉は白人の血の割合が多いのですが、彼女自身の気は大きいので、ナワルを使えます。ただし、ジャガーではなく、オセロットです。」
「可愛い!」
「でも獰猛なオセロットですよ。」

と言いながらも、少佐が微笑んだ。年下の部下達の話をする時、彼女は家族を思う母親の様な表情になるのだ、とシオドアは気がついた。ケツァル少佐にとって、文化保護担当部は家族なのだろう。だからどんな危険な状況でも、部下が困難に直面すると助けにやって来る。シオドアは羨ましいと思った。彼も早くエル・ティティに戻って、ゴンザレス署長や若い巡査達と一緒に暮らしたい。
 そんな温かい感情が、いきなり破られた。
 ケツァル少佐が突然ビクリと体を震わせた。 ドクトル! と彼女がシオドアを呼んだ。

「急いで下さい。今、カルロが私を呼びました。」


2021/07/09

異郷の空 13

  リビングに行くと、アリアナが誰かと電話で話をしていた。

「・・・だから、逃亡中の泥棒とか黒豹がここへ来たら怖いじゃない? 貴方に来てくれと言ってもどうせ来ないでしょ? テオが一番頼りになるのよ。だから彼に来てもらったの。朝までいてもらうわ。コンピューターには触らせないから安心して。私だってそんなに愚かじゃないわ。」

 相手はエルネスト・ゲイルだ。門衛からアリアナの家にシオドアが来ていると連絡が入ったのだろう。アリアナは彼に、

「もう少し女性に優しくすることを覚えたら?」

と皮肉を言って電話を切った。そしてシオドアを見て言い訳した。

「エルネストが、貴方がここに来ていると門衛に聞いて、電話をかけて来たの。研究には全く関係ない用事だからと言っているのに、しつこいのよ、彼。」

 シオドアは笑った。エルネストの性格は彼女同様よく知っている。

「あいつは、今日の昼間、俺のところに来たぜ。昼寝をしている俺の邪魔をした。それが目的なんだが、趣味の盗聴で知り得た警察の情報を得意げに喋った。お陰で俺は博物館の泥棒のことを知ることが出来た訳だけどね。」
「その泥棒のことだけど・・・」

 アリアナはリビングテーブルの上にラップトップを出していた。画面をシオドアの方に向けた。怪盗”コンドル”のニュースが一覧で出ていた。

「彼がこの泥棒なの?」
「正直に言えば、イエスだ。だけど、金儲けで盗んだのではないんだ。セルバ文明の遺物が盗掘されて博物館に売られていた。セルバ政府は返還を求めて訴訟を起こしているが、博物館は美術品を返すつもりがないので裁判が長引きそうなんだ。それで、セルバ政府の偉いさんが、ステファン大尉ともう1人の軍曹に盗み出してでも先祖の遺物を取り返せと命令したらしい。セルバ以外の美術品も盗んだが、それはダミーだ。見境なく盗んだようにアメリカ側に思わせたかったんだよ。」
「それで、昨日メルカトル博物館に侵入して失敗したのね?」

 カメル軍曹に暗殺されかかったと言えば、また話がややこしくなりそうだったので、シオドアは頷いて見せただけだった。

「彼をどうするの?」

とアリアナが尋ねた。 シオドアはどうしようか、と考えた。

「俺の車に隠して基地から出そう。そしてセルバ大使館へ彼を連れて行く。大使館で彼を出国させてくれると思うよ。」

 その時、シオドアの携帯に電話が掛かってきた。画面を見ると非通知だ。用心しながら出ると、相手はミゲール大使だった。

ーーこの電話は安全ですか?

と大使が尋ねた。シオドアの電話は彼が働いているコンビニで彼が自分で購入した使い捨てだ。彼が「スィ」と答えると、大使が言った。

ーー黒いジャガーを確保しなければなりません。
「大丈夫です。」

 シオドアはちょっと余裕を感じながら言った。

「ジャガーを保護しました。傷の手当も済んで、彼は休んでいます。」
ーーおお、それは有り難い!

 大使が喜びの声を上げた。

ーーすぐ迎えの者を遣ります。この番号をまだ使われますね?
「もう1回程度なら大丈夫です。」
ーーでは、連絡をお待ち下さい。

 大使は神に感謝する言葉を呟き、通話を終えた。シオドアが電話をポケットに仕舞ってアリアナを見ると、彼女はぼんやりとラップトップの画面を眺めていた。彼は彼女を安心させようと声をかけた。

「セルバ大使館が彼を迎えに来てくれるそうだよ。」
「そう・・・」

 心なしか不満気に見えた。なんだ? とシオドアは不審に思った。まさか、ステファンを手放したくないってか? 彼はジャガーで猫なんかじゃないんだぜ。
 シオドアはポットから冷めたコーヒーをカップに注ぎ、口を湿らせた。

「迎えが来る迄俺もここにいてやるよ。」

 まさか、呪いの笛の時の様に大使自ら来るのではなかろうな? と思いつつ、彼はリビングのソファに横になった。アリアナは困惑して彼を見た。

「寝室には彼がいるわ。私は何処で寝れば良いの?」
「客間があるだろう? 彼をあっちへ連れて行くべきだったな。」

 またシオドアの携帯が鳴った。今度も非通知だ。しかし大使が来るには早過ぎる。シオドアは警戒しながら電話に出た。

「ハースト・・・」
ーーラ・パハロ・ヴェルデです。

 想定外の声を耳にして、彼は跳ね起きた。思わず声が弾んだ。

「少佐! まさか、君が迎えの者?」

 ケツァル少佐は余計なお喋りをしない。

ーーシルヴァークリークのラシュモアシアターの前で待っています。

 電話が切れた。料金切れだ。シオドアは電話をテーブルの上に投げ出し、アリアナのラップトップを引き寄せた。シルヴァークリークは隣州の端っこにある小さな町だった。ラシュモアシアターはそこにある映画館だ。シオドア達がいる基地から車で片道2時間かかる。

「なんでそんな遠くにいるんだ? ってか、何時そこへ行ったんだ?」

 思わずシオドアが愚痴ると、ステファン大尉の声が答えた。

「”出口”がそこにしかなかったからでしょう。」

 リビングの入り口にステファンが立っていた。アリアナが彼を見て微笑みかけた。何か飲む?と尋ね、彼は水を所望した。
 シオドアは車のキーを掴んだ。

「”出口”の仕組みがどうなってるのか知らないが、兎に角急いで彼女を連れて戻って来る。何処にも行かずにここで待っててくれ!」

 急いで外へ駆け出したシオドアに、ステファン大尉が軽く頭を下げて謝意を表した。ドアが閉まると、アリアナは再び鍵を掛け、チェーンも掛けた。車のエンジンがかかり、走り出す音がした。彼女は窓から車を見送り、尾行する車両がいないことを彼女なりに確認した。
 振り返ると、ステファン大尉は壁にもたれて水を待っていた。

「お部屋で待ってて。すぐに持って行くから。」

と言うと、彼は素直に寝室へ戻っていった。彼女はキッチンに入り、ウォッカ・マティーニを作った。グラスを2つ、トレイに載せて寝室へ運んだ。ドアをノックして開くと、彼はベッドから大儀そうに体を起こした。まだ体力が戻ったとは言えないのだ。彼は申し訳なさそうに謝った。

「私が貴女のベッドを使ってしまいました。リビングへ移動します。」
「いいの、ここを使ってもらって構わないわ。」

 どうせ直ぐにいなくなるのでしょう? 彼女は自分が見つけた黒猫を手放したくなかった。せめて、迎えが来る迄・・・あの美しいインディオの女が来る迄は、この猫は私のものだ。


異郷の空 12

  カメル軍曹はセルバ共和国陸軍特殊部隊の隊員だった。特殊部隊は普通の人間、つまり”ヴェルデ・ティエラ”とメスティーソの”ヴェルデ・シエロ”で構成されている部隊だ。ここの”ヴェルデ・シエロ”はせいぜい”心話”を使える程度で、本人も出自の自覚がない連中ばかりだ。カルロ・ステファンも大統領警護隊にスカウトされなければ、こちらの部隊に配属される筈だった。だから、部隊で数少ない本物の”ヴェルデ・シエロ”である司令官から、北米の博物館が返還を渋っているセルバ文明の文物を奪還する任務にカメル軍曹を相棒として連れて行くようにと命令された時、若干足手まといだなと感じつつも従った。
 カメル軍曹はステファン同様貧民街の出身で、泥棒の才覚があった。ステファンが子供時代に家族の生活のためにかっぱらいや掏摸やひったくり等の窃盗を重ねていたのと違い、軍曹はトリックを用いて人を騙し金品を巻き上げる詐欺師的な行為が得意だったのだ。だから”コンドル”はカメル軍曹が下見をして計画を立て、ステファンが実行すると言う手口で美術品の”回収”を行った。任務遂行は上手く進んだが、2人が仲良くなることはなかった。カメル軍曹はステファンが放つ強い気を感じていたのかも知れない。任務の相談をする時、彼はステファンの目を決して見なかった。仕事をしない時は常に別行動だった。ステファンも子供の時から周囲の人間が彼に対して取るそんな風な態度に慣れていたので、別段不自然に感じなかった。
 最後の標的であるメルカトル博物館に侵入する時、初めてカメルが一緒に中に入ると言った。ステファンは邪魔だと拒否した。カメルは一旦意見を引っ込めたが、当日実行する段になって再び一緒に行くと言った。そして強引について来た。メルカトル博物館は個人が趣味で経営しているので、あまり高価な品はない。しかしメキシコのコーナーだけは本物の見事なオパールの仮面が展示されていた。小さな物だが、売れば結構な値段が付く。計画では、ダミーとしてその仮面を盗むことになっていた。
 ステファンが警報装置の線を切ってガラスケースから仮面を取り出した時、背後からカメル軍曹が突進して来た。気配を感じたステファンは本能的に体を右へ動かし、左脇腹をナイフで切られた。

「恐らくカメルは私の心臓を背後から狙ったのです。しかし私が動いたので、腹を切られた程度で済みました。」

 驚いたはずみで気の放出が一瞬爆発的になったのだろう、線を切った筈の警報装置が作動してベルがけたたましい音を立てて鳴った。カメル軍曹は慌てた。その隙にステファンは逃げた。カメルが追って来たが、直ぐにパトカーのサイレンが聞こえた。銃声を耳にしたが、ステファンはひたすら走った。切られた脇腹から血が吹き出し、激痛と恐怖が襲ってきた。

「私は無我夢中で逃げました。走っているうちに体が軽くなっていく感覚があり、袋小路に追い詰められた時、夢中でジャンプしたら塀の上に上がれたのです。」
「変身したことに気がついたのは、何時?」
「塀から近くの家の屋根に飛び移った後です。傷が痛むので確認しようとしたら、何故か舌で舐めてしまいまして、血の味で我に帰りました。」
「人間に戻ろうとは思わなかった?」
「その時はただ仰天してしまって・・・屋根の下では警察車両が集まっていましたし、人が大勢いたので、そのまま屋根伝いに移動しました。人間に戻ろうにも方法がわからないし、裸だし、味方もいないし・・・」
「俺のところへ来ることは考えなかった? ああ、住所を教えていなかったな。」
「それに貴方と出会えても、ジャガーが私であると伝えることは出来なかったでしょう。」
「そうだね。犬が導入されたから、逃げ続けて、湖に入って臭いを消したんだね。 この家の庭先に来たのは偶然かい? 偶然だな、君はアリアナを覚えていなかったんだもんな。」

 ステファン大尉は微かに苦笑して見えた。

「彼女に見られた時は、もうお終いだと覚悟しました。通報されて撃たれる、それだけが頭に浮かびました。しかし体力も気力も限界でしたから、地面に横たわっていたら、彼女が戻って来て、声を掛けて来ました。それで、人間に戻ったとわかりました。後は・・・もうどうにでもなれと思って、彼女にされるがまま風呂に入れられて、手当を受けて、寝てしまいました。」

 シオドアはアリアナが猫を抱いて寝たと言ったことを彼に話すのを止めた。言えばこの若い軍人は彼女とまともに顔を合わせられないのではないかと心配したからだ。

「君が逃げ回っていた頃に、ミゲール駐米大使に連絡を取ったんだ。まだ何が起きたのか具体的に分からなくて、俺自身が情報を欲したからね。大使は”コンドル”を知っていた様だが、メルカトル博物館の事件は知らなかった。」

 大尉の目が不安そうに泳いだ。

「大使は何か言いましたか?」
「警察が黒豹を探していると伝えたら、本国に連絡を取ると言って電話を切った。それっきりだ。」

 そしてシオドアは急いで大使の言葉を付け足した。

「電話を切る直前に大使は言った。豹ではなくて、ジャガーだ、エル・ジャガー・ネグロだって。」

 シオドアは、ステファン大尉が弾かれたように立ち上がったので、彼も驚いた。

「どうかした?」
「・・・なんでもありません・・・」

 しかし大尉は何かに激しく動揺していた。顔を背け、自分の腕で自分を抱き抱えるポーズになり、口の中でぶつぶつ呟いた。シオドアには「そんな筈はない」と聞こえた。



2021/07/08

異郷の空 11

  アリアナは黒い大きな猫を庭先で見つけたのだ。人間と同じ大きさの猫だ。鋭い牙を生やし、緑色に輝く目を持ち、太い四肢で大地を蹴って跳躍する、真っ黒なジャガーだった。ただ彼女が見つけた時、黒いジャガーは傷ついていた。左脇腹から血を流し、全身ずぶ濡れでブルブル震えていた。アリアナは博物館の泥棒も黒豹の出没も知らなかったが、目の前にいる動物が尋常でない物だと判じた。急いで家に駆け込んだ。ジャガーが追いかけて来るかと思ったが、その気配はなく、窓から庭を見ると、桟橋へ降りる階段の上で倒れていたのは獣ではなく人間だった。
 アリアナは警察に電話するべきだと心の中で自分に言い聞かせながらも、庭に出て、男に歩み寄った。男は全裸だった。脇腹から出血していた。近づいて来る彼女に気がついて顔を上げた。アリアナは彼の顔に見覚えがあった。何故彼がここに? そして男の目が緑色の猫の目だと気がついて、危うく悲鳴を上げそうになった。しかし彼女が声を出す前に、彼の方が先にぐったりと地面に顔を着けてしまった。
 死にかけている・・・
 彼女は彼の肩に手をかけて言った。

「しっかりして! 家へ連れて行くわ。そこまで頑張って!」

 男は最後の気力を振り絞って彼女に支えられながら立ち上がり、家迄歩き、何とかバスルームまで辿り着いた。そこでアリアナは彼を洗い、傷の応急手当てをした。傷は出血していたが半分ほど塞がっていた。だから縫合は必要ないと彼女は判断して、傷口が開かないよう医療用テープで塞いだ。包帯を胴に巻かれている間も男は一言も発しなかった。そして彼女の寝室へ誘導され、ベッドの上に横たわると直ぐに眠りに落ちた。
 経緯を聞かされたシオドアはアリアナの服装を眺めた。

「君も眠った様だね。」

 アリアナが自分の体を見下ろした。

「彼は熱を出して震えていたの。だから温めただけよ。」
「自分の体温でか。まぁ・・・あの体だから抱き甲斐はあっただろうさ。」

 彼女がムッとして言い返した。

「私は黒い猫を抱いたつもりよ。」

 ピザを2切れ残して、彼等は食事を終えた。

「ジャガーが彼になったと言っても、貴方は驚かないのね。」
「うん・・・彼が初めてじゃないから。」

 アリアナが固い表情でシオドアを見た。

「セルバ人って、皆んなジャガーになるの?」

 シオドアは思わず吹き出した。そして彼女が目に涙を浮かべていることに気がついた。ちょっと反省した。

「ごめん、君は俺ほどにはセルバ人を知らないって忘れていたよ。あの国の国民が皆んな変身する訳じゃない。殆どは俺達と同じ普通の人間だよ。同じって遺伝子操作されたって意味じゃなくて、本当に普通の人間って意味で・・・」
「わかってる。」
「だから、普通のセルバ人は変身しない。消えたりしないし、テレパシーも使わない。悪霊祓いもしない。時間の跳躍もしない。空間の跳躍もしない。」
「貴方はそれを全部体験したの?」

 アリアナに見つめられてシオドアがどう答えようかと迷った時、寝室で物音がした。救われた気分でシオドアは席を立ち、寝室へ行った。ドアをノックして、声をかけた。

「シオドア・ハーストだ。入るぞ、ステファン大尉。」

 そっとドアを開けると、ステファン大尉が慌ててベッドの上で毛布を被るところだった。シオドアは少し安堵した。大尉は動ける様だ。裸なので、ドアを開かれて慌てたのだ。

「君と俺は服が同じサイズだから、俺の家から新しい衣類を持ってきた。趣味に合わないかも知れないが、我慢して着てくれ。俺が過去の村から戻った時に、君に拾われて君の服をもらった。そのお返しだから、気にしないで使って欲しい。」

 大尉が上半身を起こして、グラシャスと言った。

「貴方の声が聞こえたので、まさかと思ってドアで聞き耳を立てていました。そしたらクシャミが出て・・・」
「その格好のままじゃ風邪をひく。残り物で悪いがピザがあるので、持って来る。腹が減っているだろう?」

 すると大尉が尋ねた。

「私を助けてくれた女の人は?」
「アリアナ・オズボーン、俺と同じ研究所で育った。妹みたいな人だ。グラダ・シティの文化保護担当部のオフィスで君と会ったことがあると言っている。」

 しかしステファン大尉は首を傾げただけでコメントしなかった。
 シオドアはダイニングに戻った。残り物のピザを皿に移し、アリアナが温めてくれたミルクと一緒にトレイに載せて寝室に戻った。ステファン大尉は服を着てベッドに座っていた。よほど空腹だったのだろう、ピザをもらうと直ぐに食べてしまった。部屋の隅にあった椅子に座って眺めていたシオドアは、その食べっぷりに思わず笑みを浮かべた。食欲があれば大丈夫だ。

「もう1枚頼もうか?」
「いえ、結構です。落ち着きました。」
「傷の具合はどうだい? 痛むか?」
「大丈夫です。寝ている間にかなり塞がった様です。」

 多分、”ヴェルデ・シエロ”だから言えることだ。シオドアは事件の経緯を知りたかった。

「博物館で何があったんだ? 警察は君達が仲間割れをしたと考えている様だが?」
「私にも訳がわからないのです。」

と大尉は言った。


 


第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...