2021/08/31

第2部 涸れた村  2

  テオドール・アルストがオルガ・グランデ基地に到着したのは兵士達の夕食が終わって2時間も経ってからだった。トウモロコシのトラックに便乗させてもらって路線バスよりは早く着いたが、市場がある場所から基地までの足を探すのに手間取ったのだ。結局彼は奥の手を使った。基地に電話して車両部で働く軍属のリコと言う男に迎えの車を手配してもらったのだ。リコは以前オルガ・グランデの実力者アントニオ・バルデスと言う半分マフィアの様な男の手下だった。記憶喪失になったテオが身元調べの為にオルガ・グランデにやって来た時に出会い、ケツァル少佐の盗品捜査に協力した見返りに身の安全を保証してもらった。つまり、バルデスが手を出せない陸軍基地で雇用され住み込みで働いているのだった。リコはテオを命の恩人だと敬っていたので、基地へ行きたいとテオが電話で告げると、自ら庶務用のトラックを運転して迎えに来てくれたのだ。テオは夕食がわりに肉の串焼きを買って、リコと2人で食べながら基地へ向かった。
 基地では先に到着していたマハルダ・デネロス少尉が司令官に砂漠の遺跡へ行く装備を要請していた。始めて山を越えて西へ来た若い娘っ子の要請など司令官は聞きたくなかったが、彼女は緑の鳥の徽章を胸に付けていたし、彼女の後ろに立っている男は私服姿ではあったが見覚えのある大統領警護隊の大尉だった。ケツァル少佐が連れていた部下だ、と記憶していたので、基地司令官はロス・パハロス・ヴェルデスの機嫌を損なうのは止めようと思った。それに遺跡調査の警護に人員を出すと基地へ降りる政府の交付金が増えるのだ。デネロスは司令官に6人の3日分のキャンプ装備と食糧、車2台と警備兵2名を出すことを承知させた。
 司令官室を出ると、ステファン大尉が彼女に囁いた。

「なかなかやるじゃないか。足りない物はなさそうだ。」

 えへへ、とマハルダが笑った。発掘調査隊警護の補佐でアスルに付いた時、あの気難しい先輩少尉からみっちりしごかれたのだ。
 ギャラガ少尉が先に休んでいる大統領警護隊用休憩室のそば迄来た時、反対側からやって来たテオと出会った。マハルダがきゃっと声を上げてテオに跳び付いた。

「ブエナス・ノチェス! 良かった、間に合いましたね!」
「ブエナス・ノチェス、マハルダ。空の旅は快適だったかい?」
「ノ、ノ、バスの方が良いです。」
「だが悲鳴を上げなかったのは偉かったぞ。」

 ステファン大尉が揶揄った。テオがデネロスを離して彼を見た。パッと顔が輝いた。

「カルロ! 久しぶりだなぁ! 元気してたか?」

 ステファン大尉はテオにハグされた。条件反射的に全身が硬直したので、テオが離れて笑った。

「すまん、すまん、君はこれが苦手だったんだな。」
「申し訳ありません、どうも男性に抱きしめられると、あの時の記憶が蘇って・・・」

 それでもステファンも苦笑していた。そして彼の方から改めてテオをハグした。

「また一緒に仕事が出来て嬉しいです。」

 2人は体を離した。デネロスが休憩室のドアを開いて、手招きした。
 ギャラガは大統領警護隊の官舎とさして変わりのない室内で、官舎と変わらない質素なベッドに座って地図を眺めていた。サン・ホアン村は記載されていたが、ラス・ラグナス遺跡はどこにも載っていなかった。村から車で4時間も走れば隣国だ。国境を越える様な厄介な話にならなければ良いが、と思っているところにステファン大尉とデネロス少尉が白人男性を連れて戻ってきた。この人がドクトル・アルスト? と思っていると、果たして大尉が「ドクトル・アルストだ」と紹介した。そしてテオにも「アンドレ・ギャラガ少尉です」と紹介してくれた。テオがにこやかに「ブエナス・ノチェス」と挨拶した。白人は十中八九握手を求めて来るのだが、テオは右手を左胸に当てて”ヴェルデ・シエロ”流に挨拶した。それでギャラガは敬礼で返して、大尉を見た。この人は一族のことを知っているのか? と思ったら、大尉が頷いたので、ギャラガは驚いた。”心話”が出来た? 大尉が呟いた。

「今更驚くなよ。」

 銘々が割り当てのベッドに座った。男女同室なので、デネロスも同じ部屋だ。コーヒーもビールもなかったが、テオがここへ来た経緯を話し始めた。エル・ティティの町の郊外でミイラ化した死体が発見され、身につけていた笛でサン・ホアン村の住人らしいとケサダ教授が鑑定してくれたこと、ゴンザレス署長がオルガ・グランデ警察に問い合わせて見ると、サン・ホアン村の占い師フェリペ・ラモスが行方不明になっていたこと、ラモスは生前ラス・ラグナス遺跡が荒らされていると言っていたこと、ラモスの遺体は遺族が引き取りに来たので、明日になれば村へ戻って来るだろうこと。
 テオが語り終えると、ステファン大尉が難しい顔になった。彼はテオに大統領府西館庭園での怪異の話をした。

「我々は空間に歪みが出来た原因究明と修復の為に遺跡へ行くのですが、遺跡荒らしが殺人事件と繋がっていると考えて良さそうですね。」
「恐らく、確実に繋がっているだろうな。だが、もう犯人は遺跡にいないだろう。」
「遺留品だけでも探しましょうよ。」

とデネロスがノリノリの声で言った。初めての単独調査を命じられて来たが、どうもオブザーバーが3人もいるようだ。しかし彼女はそんなことを気にしていなかった。盗掘調査と殺人事件捜査が重なっていそうだと好奇心が彼女を興奮させていた。
 その雰囲気を察したテオが大人の常識で注意した。

「殺人事件だとはっきりしたら、憲兵隊に捜査権が移るんだよ、マハルダ。」
「わかってます・・・って、警察じゃないんですか?」
「国境に近いし、先住民村だから憲兵隊の管轄だ。」

 ”ヴェルデ・シエロ”でなく”ヴェルデ・ティエラ”の先住民保護区になるのだ。メスティーソの村でないことを、テオはラモスの遺体を引き取りに来たサン・ホアン村の住民を見て知った。先住民率が住民の9割を越えると保護区指定になり、刑事事件は警察ではなく憲兵隊が担当する。小さな僻地の村ほど保護区に指定される率が高くなるのだ。ラモスが占い師として村の尊敬を集めていたのも納得だ。

「憲兵隊は民間人の俺が捜査に首を突っ込むのを許さないだろうし、君達も管轄違いだと追い払われる。下手をすると指揮官同士で喧嘩になるぞ。」
「憲兵隊長とエステベス大佐が喧嘩ですか?」

 デネロスが面白がっているので、ステファン大尉が「熱が出そうだ」と呟き、テオとギャラガは思わず笑った。

第2部 涸れた村  1

  アンドレ・ギャラガにとって大統領警護隊の女性隊員は高嶺の花だった。彼女達は純血種でもメスティーソでも誇り高く、自分より能力が下の男達に振り向きもしない。ケツァル少佐の様な女性は勿論論外だ。高級将校だし、そばにいるだけでも能力の高さも強さもわかる。他の女性隊員も皆昇級すると塀の外の世界へ出て行ってしまう。セルバ共和国の政界財界を動かす人々のそばで働く為だ。彼女達は”出来損ない”の”落ちこぼれ”など存在すら気に留めていないのだ。
 マハルダ・デネロス少尉と空軍の基地で出会った時、ギャラガはまずい相手に出会ってしまったと思った。訓練生時代、虐めに遭っているところを何度も目撃されていた。そして無視されたのだ。もっとも助けられでもしたら、却って自分が傷つくとわかっていた。
 デネロス少尉はギャラガを無視して、ステファン大尉に飛びついた。大尉が突然転属してしまったことを責め、少佐を一人にしたことを詰り、皆に寂しい思いをさせていることを散々愚痴った。ステファン大尉は絡みつく子供を宥める口調で彼女の相手をした。

「修道院に入った訳じゃないんだから、いつかは帰るさ。」
「そのいつかは、何時なんです?」

 ムリリョ博士みたいなことを言ってデネロスが拗ねて見せた。

「私に上官3人の面倒を見させないで下さいね。」

 ステファン大尉は笑って、彼女を抱きしめた。まるで兄妹だ。それからやっとギャラガを紹介してくれた。

「アンドレ・ギャラガ少尉、私の5日間だけの部下だ。」
「知ってます。カベサ・ロハ(赤い頭)のアンドレでしょ。」

  ギャラガはちょっと躊躇ってから言った。

「その呼び方は好きじゃないんだ。だから、ギャラガ少尉で良い。」

 デネロスは彼を眺め、「わかった」と答えた。
 3人はヘリコプターに乗り込んだ。正副のパイロットが2名、そして大統領警護隊3名、オルガ・グランデ基地へ派遣される新兵3名でヘリコプターはグラダ・シティを飛び立った。今迄セルバ空軍は夜間飛行をしたことがなかった。セルバ共和国の法律で夜間の航空機による山越えを禁止していたからだ。しかし計器の発達でティティオワ山を上手く回避出来る様になったので、その年の初めに法律が改正され、基準値を満たす計器を搭載した航空機に限り、国防省の許可を得て飛ばすことが出来るようになった。ギャラガ達が乗ったのは、正にその基準に合格した航空機3機のうちの1機、唯一のヘリコプターだった。
 離陸したのは午後4時近かった。3時に離陸予定だったが、セルバ共和国らしく整備点検で1時間遅れたのだ。これが我が国の空軍だ、と時間に正確がモットーの陸軍の出である大統領警護隊は情けなく思った。
 輸送機の揺れよりはマシな震動だった。それでもギャラガは昼食が少なくて正解だったと思った。デネロスは叫びたいのを我慢していた。高い場所は平気だと思っていたが、高過ぎた。思わず隣のギャラガの手を握ってしまった。お陰でギャラガは気分が悪いのを忘れることが出来た。


第2部 節穴  17

   ヘリコプターの準備が出来る迄ステファン大尉とギャラガ少尉はケツァル少佐のアパートで休憩した。ロホはお菓子のお礼にと少佐から煮豆が入ったタッパーウェアの容器を3つももらって、ほくほく顔で帰ってしまった。

「相変わらず、君は豆が好きなんだな。」

とステファンが揶揄うと、ロホはニヤリと笑った。

「少佐お手製の煮豆は絶品だ。そんじょそこらのレストランじゃ食えないからな。」
「最初から私たちをダシにして豆をゲットするつもりだったな?」
「ご明察。それじゃ、任務を頑張れよ。」

 ロホはギャラガにも敬礼してくれた。彼が部屋から出て行くと、急に静かになった様な気がした。
 ケツァル少佐は窓際へ行って、分解してあった機関銃の組み立てを始めた。ギャラガが興味を抱いてそばへ行こうとすると、ステファンが止めた。

「近づくな。彼女は時間を計ってるんだ。邪魔すると後が怖いぞ。」

 そう言う彼は少佐に借りたラップトップでインターネット情報を見ていた。オルガ・グランデ周辺の遺跡の最新情報や盗掘品密売情報だ。ギャラガはパソコンの知識があまりなかった。唯一使用する機会があるのは、大統領官邸内で来客のチェックをする時だけだった。訪問者の顔認証と履歴、本人確認と来邸登録と出邸登録を入力するのだ。パソコンの使い方は簡単だが応用の仕方がわからなかった。大尉の作業を見ていると、ただ検索ボックスにキーワードを入れて、後は画面に表示される情報のタイトルなどをクリックするだけだ。内容を読んだらまた戻って次のデータへ移行する。
 横から覗いていると大尉が気がついた。彼が位置をずらして移動した。

「代わりに見ていろ。ラス・ラグナスの情報は一つしかなかった。サン・ホアン村の情報も2つだけだ。そんな何もデータがない場所へ遺跡荒らしが行くのも妙な話だ。わざわざ足を運んで盗む物がなければ本当に無駄足じゃないか。荒らした奴は何かはっきりした目的があって行ったに違いない。現地へ行かないと、わからない。」
「私は何を見れば良いですか?」
「何だろうな? 自分で考えて検索してくれ。」

 無責任なことを言って、ステファン大尉はキッチンへ入って行った。
 ギャラガは暫く画面を眺め、「piedra (石)」と検索ボックスに入れた。約 246,000,000件の検索結果が出た。画像を見ると、スペイン語で検索したせいか中南米の石もの関係の写真が多かった。彼は記憶の中の、”節穴”から見えた材質と似た写真を探してデータを送って行った。
  ケツァル少佐は機関銃を組み立ててしまうと、また分解してバラバラにシートの上に部品をぶちまけた。そして再び組み立てに挑戦を始めた。きっと最初のタイムが気に入らなかったのだ。もしかして、この人の休日の遊びはこれなのか? ギャラガはパソコン画面を見るフリをして彼女の動きを見ていた。彼女はどの部品が何処に落ちているのかすぐわかる様で素早く拾い上げて組み立てていく。流石だな! と思っていたら、突然彼女の手が止まった。嵌め込んだばかりの部品を外して投げ捨てた。

「えーい、間違えた!」

 少佐がギャラガを振り返った。

「気が散る。」

 ギャラガはビクッとした。見ているだけだったのに。距離を置いていたのに。青い顔になった彼に少佐が硬い笑を浮かべて、半分組み立てた機関銃でキッチンを指し示した。

「カルロは何を作っているのです? 私の台所を使う限りは、美味しいものでなければ撃ちますよ。」

 ギャラガは立ち上がった。

「偵察してきます!」

 ジャガーの嗅覚には敵わなかったが、ギャラガの鼻も少し前から良い匂いを感じ取っていた。ケツァル少佐はキッチンから漂って来る匂いに気を散らされたのだ。彼の視線のせいではなかった。
 ステファン大尉は大きめの鍋でマカロニ入りのスープを作っていた。たっぷりの野菜とベーコンをトマト味で煮込み、最後に別茹でのマカロニを入れて完成。

「昼飯だと少佐に告げてくれ。」

と言われて、ギャラガはリビングに戻った。少佐は失敗したので時間を測るのを止めて残りの部品を組み立て終わったところだった。

「昼食です、少佐。」

 声をかけると、少佐が頷いて立ち上がった。機関銃は床に放置だ。弾がないので、ただの鉄の塊に過ぎない。
 昼食はキッチンとリビングの間のダイニングだった。ステファン大尉はたっぷり作ったにも関わらず、2人の男には少量の皿を配り、少佐の前にはたっぷり入れた皿を置いた。少佐が皿を見比べて言った。

「今日のヘリは最新型です。輸送機の様には揺れませんよ。」
「用心するに越したことはありません。」

と大尉が言った。ギャラガは航空機の類は全く経験がなかったので、上官2名の会話の意味を推し量りかねた。
 少佐が一口スープを口に入れた。

「美味しい。」

 合格点が出たが、大尉は特に喜んだ風になかった。多分、彼女の部下だった頃はよく作っていたのだろう。熱いスープは流石にスピーディーに食べられないのか、彼女はゆっくり味わっていた。ギャラガも美味しかったのでもっと欲しいと思ったが、大尉はお代わりをくれそうになかった。

「マハルダも行くのですね?」

と大尉が確認のために話しかけた。少佐が黙って頷いた。大尉がさらに尋ねた。

「そしてテオも合流する?」

 少佐はまた黙って頷いた。ギャラガも質問してみた。

「殺人事件があったようなことを仰っていましたが、今回の空間の穴と関係あるのでしょうか?」

 大尉が囁いた。

「それをこれから調査しに行くんじゃないか。」
「あ・・・そうでした。」

 少佐が水を一口飲んでから言った。

「マハルダは東海岸地区の遺跡しか経験がありません。それもロホやアスルの補佐です。今回初めて一人で調査に入るので、見落としがある恐れもあります。でも貴方の任務に直接関係することでなければ口出ししないで下さい。」
「承知しました。」
「恐らく、関係はあるでしょうけどね。」

 少佐はスプーンの上にどっさりとマカロニを掬い上げた。

「ドクトルは自由に行動させてあげなさい。彼はいつも何か予想外のものを見つけてくれます。」
「・・・そうでしょうね。」

 ギャラガは大尉がちょっと不満そうな表情になったのが気になったが、少佐は知らんぷりだった。スプーンの上のマカロニを少しずつ口に入れて時間をかけて食べたので、ギャラガはふと思った。
 ジャガーは猫舌なんじゃないかな。
 大統領警護隊の純血種の隊員達は冷たくなった食事でも文句を言わない。冷めた料理に不満を漏らすのはメスティーソの隊員だった。純血種の”ヴェルデ・シエロ”はナワルを使える。ジャガーやマーゲイやオセロットに変身するのだ。猫は熱いものを食べない。
 少佐がマカロニを全部食べてしまってから、スープを静かにお上品に飲んだ。

「現地で必要な物の調達はマハルダにさせなさい。」
「承知しました。それも彼女の勉強のうちですね。」
「スィ。でもないと困る物を彼女が忘れたら、口を出しても構いませんよ。」
「承知しました。」

 ステファン大尉が少佐の皿にお代わりを入れてあげた。
 

 

2021/08/30

第2部 節穴  16

  マハルダ・デネロス少尉は曜日が関係ない大統領警護隊の官舎で日曜日を過ごすのは好きでなかった。現代っ子の若い女性なのだから無理もない。しかし同期の女性隊員は勤務中で遊び相手がいなかった。だから彼女は土曜日の軍事訓練が終わると実家に帰り、兄夫婦の手伝いをして畑で収穫した野菜を洗ったり、トラックに積み込んで近所の市場へ卸す仕事をした。太陽が高くなってそろそろお昼ご飯かなぁと思う頃に、ケツァル少佐から電話がかかってきた。上官が休日にかけてくる時は、何か事件が起こった時だ。緊張と期待で出ると、午後の1500に空軍基地へ行けと言われた。

ーーラス・ラグナス遺跡で荒らしがあったと言う報告があります。基地からヘリでオルガ・グランデへ飛び、そこからサン・ホアンと言う村へ行きなさい。遺跡はその村の近くにあります。未調査の遺跡ですから、何がどう荒らされたのか不明です。村人の案内を連れて行くと良いでしょう。

 デネロスの胸が高鳴った。もしかして、これは?

「現場へ行って調査するんですね?!」
ーースィ。貴女が昨日報告を忘れなければ、昨夜のうちに指示を出していましたけどね。

 あちゃーっとデネロスは失態に気がついた。サン・ホアン村の占い師が殺された事件の方に関心が行ってしまったのだ。遺跡荒らしも確かにテオから聞かされたのに。しかし彼女は言い訳をせずに、「承知しました」と答えた。

「被害状況の調査ですね? 犯人の追跡はしないのですか?」
ーーサン・ホアン村の占い師が殺害されたらしいと言う話は聞いていますね?
「スィ。」
ーー今回は調査だけして帰りなさい。

 少佐は私を危険から遠ざけようとしている。そんな柔じゃないのに。
 しかし彼女は素直に「承知しました」と応えた。少佐に逆らっても碌なことはない。それに初めてのヘリコプター搭乗だ。初めての遠出の現場調査だ。嬉しいが、一つ確認しなくては。

「私一人ですか?」
ーーノ。ステファン大尉とギャラガ少尉が別件で同行します。それからオルガ・グランデ基地でドクトル・アルストが合流します。ドクトルはオブザーバーです。

 ケツァル少佐は「ではよろしく」と言って電話を切った。
 デネロス少尉は心が弾んだ。またカルロ・ステファンと一緒に仕事が出来る! 彼女には兄が3人いるが、カルロは4人目の兄も同然だった。そしてロホは5人目の兄で、アスルは6人目の兄だ。カルロが突然文化保護担当部からいなくなって彼女は寂しかった。同じメスティーソ同士で悩み事を聞いてくれた。実を言うと、カルロが能力に目覚める迄は、彼女の方が”ヴェルデ・シエロ”としての気の抑制能力は上だったのだ。彼は軍人としての心構えと武器を使った戦闘を教えてくれた。互いに足りないところを補い合う仲だった。同じ官舎で寝起きしていても、警備班と外郭団体勤務では生活サイクルが違う。2人はまだ官舎では一度も出会っていなかった。それが、初めての現場派遣がカルロと一緒の仕事だ!
 アンドレ・ギャラガ少尉のことも知っていた。同じ官舎にいたし、年齢的には同期だが、年齢を誤魔化して入隊したギャラガの方が軍歴は長かった。赤毛で白い肌はメスティーソの中でも目立っていた。そしてギャラガは何も出来ない”落ちこぼれ”だった。”出来損ない”レベルではない。”心話”さえ出来ないのに、何故ここにいるんだ?といつも仲間から揶揄われていた。デネロスは一度助けてやろうかと思ったが、女性に助けられたら彼をますます辛い立場に追い込むだろうと思って止めた。本当に辛いなら、ギャラガはとっくに除隊していた筈だ。彼はまだ頑張れるのだ。
 デネロスは緊急出動がかかった、と兄に告げた。兄がちょっと不安そうな顔をしたので、彼女は笑って見せた。

「国家機密だから言えないけど、戦闘はない仕事だから安心して。」

 自室に戻り、急いで荷造りした。ピクニックでないことは十分承知していたが、リュックに林檎を入れるのを忘れなかった。そして分解したアサルトライフルも入れた。重たくて好きでない防弾ベストも入れた。”ヴェルデ・シエロ”は昨年迄防弾ベストなど使ったことがなかった。しかしケツァル少佐が裏切り者の憲兵隊員に横から撃たれると言う前代未聞の不祥事が起きて以来、警備班と野外警備の隊員には防弾ベストの着用が義務付けられた。ヘルメットと軍靴をクロゼットから出して、着替えを始めた。野戦服でばっちり決めて行くのだ!



第2部 節穴  15

 「サン・ホアン村へ行きたいかって?」

 テオは思わず大声を出してしまった。エル・ティティ警察の事務所の中だ。巡査達と、サン・ホアン村から来た男2人が振り返った。彼は慌てて電話に手を当てて声のトーンを落とした。

「今、サン・ホアン村の住民が例の遺体を引き取りに来ているんだよ。」
ーー笛が村人の物だと確認が取れたのですか?

 日曜日の朝、電話をかけて来たケツァル少佐は、「ブエノス・ディアス」と挨拶するなり、いきなり「サン・ホアン村に行きたくないですか?」と質問して来たのだ。テオは面食らってしまった。昨日遺体の身元が判明したので少佐の電話に掛けたら、マハルダ・デネロス少尉が出て少佐は軍事訓練中で出られないと言った。デネロスも同じ訓練に参加していたのだが、捕虜の役なので荷物置き場に「監禁」されて退屈していた。遺体がサン・ホアン村の占い師の可能性があると彼女に伝言を頼んだ。

「スィ、占い師のフェリペ・ラモスの笛だって村長が確認した。村の近所の遺跡が荒らされていたので、様子を確認したラモスがオルガ・グランデへ出かけてそれっきり帰らなかったと・・・」
ーー遺跡が荒らされたと、村人が言ったのですか?
「スィ。昨日、俺はマハルダにもそう言ったけど?」

 電話の向こうで少佐が舌打ちするのが聞こえた。どうやらデネロスは遺跡荒らしの情報を伝え忘れたらしい。文化保護担当部らしからぬ失態だ。

ーー村人は今日帰るのですか?
「ノ。今日はこれから墓掘りだ。帰るのは明日だな。」
ーー貴方だけでも今夜中にオルガ・グランデに行けませんか?

 テオはバスの時刻を考えた。日曜日の午後はグラダ・シティ行きがあるが、反対方向のオルガ・グランデ行きはなかった。しかし・・・

「知り合いがトラックでトウモロコシを運ぶから、便乗させて貰えば夕方には着くかな?」

 ちょっと期待して尋ねた。

「君は基地にでも行くのかい?」
ーー私は行きません。

 テオはがっかりした。そうだろうな、遺跡荒らしの情報がマハルダで止まっていたのだから。
 少佐は別の人間を派遣することを伝えた。

ーーステファン大尉とギャラガ少尉が行きます。基地で落ち合って下さい。
「え? カルロが行くのかい?」

 驚きだ。大統領警護隊の本隊に呼び戻されてからステファン大尉と会えなくなって、寂しかったのだ。腹違いの姉そっくりの、あのツンデレ男が懐かしい。
 さらに少佐が嬉しいことを言った。

ーー漏れなくマハルダも付けます。

 基地に民間人のテオが行くことを伝えておくと言って、少佐は電話を切った。テオは楽しい気分になった。すぐにトウモロコシ農家の知人の家に行かなくては。その前にゴンザレスに出かけると伝えなくては。大学にも明日は帰れないので火曜日の講義を休むと伝えなくては。月曜日は講義がないので、気が楽だ。ところで・・・
 テオはふと思った。

 俺は何をしにサン・ホアン村へ行くんだ?


第2部 節穴  14

  ステファン大尉がケツァル少佐に言った。

「我々が調査に行きます。恐らく大統領官邸西館庭園の”穴”の”入り口”に当たるものがラス・ラグナス遺跡にあると思われるので、それを塞がなければなりません。何故”穴”が開いたのか原因の究明も必要です。現地に行きたいので、遺跡立ち入り許可を申請します。」

 ロホがチャチャを入れた。

「申請用紙はここにないぞ。」
「事後申請でお願いします。」

 少佐はパンケーキをパクリパクリと2口で食べてしまい、考え込んだ。ギャラガはびっくりしたが、ステファン大尉もロホも知らん顔をしていた。寧ろ、少佐の手が新しいパンケーキを求めて中央の大皿に伸びたので、ロホが素早くお代わりを少佐の小皿に取り分けて差し上げた。3枚目のパンケーキを食べてしまってから、少佐が顔を上げた。

「どうせ行くなら空軍の助けが要るでしょう?」
「スィ。遺跡へ行ける”通路”がありそうにないので、少佐から空軍へお口添えを頂ければ助かります。」

 すると少佐がギャラガを見た。

「ブーカ族なのに”通路”を見つけられないのですか?」

 ギャラガは赤くなった。彼が言い訳する前にステファン大尉が言った。

「彼はまだ修行の初期段階です。」
「そう・・・」

 少佐が特に感動した風もなく頷いた。

「それで貴方が導師として彼を任されたのですね?」

 え? とギャラガは驚いてステファン大尉を見た。大尉は彼を見なかった。見てもギャラガは”心話”を使えないのだから、心を読まれる心配はないのだが、つい習慣で相手に胸の内を明かしたくない時の行動が出たのだ。
 少佐が立ち上がって、棚の上の携帯電話を取った。何処かの番号を押して、窓際へ歩いて行った。
 ロホがギャラガにお菓子を食べるように勧めた。

「遠慮せずに食え。さもないと少佐に全部食われてしまうぞ。あの方は能力が強い分、エネルギー補給量も半端じゃないんだ。」
「彼女、今日はまだ能力を使っていないぞ。」

とステファン大尉が小声で囁いた。

「それに外出する気配もなさそうだ。」
「いいんだ、体重を増やされたら、こっちが悲しいじゃないか。」

 男達が勝手な会話をしているのを少佐は片耳で聞きながらもう片方の耳で電話の相手の言葉を聞いていた。そして頷いた。

「では、その新型ヘリの試験飛行に隊員を3名乗せて下さい。時刻はそちらの準備次第で結構です。グラシャス。」

 電話を切り、次に別の場所へかけた。挨拶をして、いきなり質問した。

「サン・ホアン村に行きたくないですか?」


2021/08/29

第2部 節穴  13

  女性が一人暮らしをしている家に入るのは初めてだった。ギャラガは殆ど恐る恐ると言う形容がぴったりな足運びでステファン大尉とロホについて中に入った。彼が入ってしまうと少佐が後ろでドアを閉めた。もう逃げられない、とギャラガは思った。オートロックの施錠音が聞こえた。短い廊下の突き当たりに広いリビングがあった。少佐が男達を追い越し、歩きながら手で座れと合図してキッチンへ消えた。ロホが彼女を追いかけてキッチンへ入り、ギャラガはステファン大尉がソファに座り、隣を示したのでそこに腰を下ろした。ソファは柔らか過ぎず硬くもなく、落ち着いて座していられる快適さだった。壁に薄型の大きなテレビが備え付けられ、棚には外国の様々な人形が飾られていた。目立つ家具はそれだけだった。バルコニーに面した掃き出し窓のそばの床にシートが敷かれ、その上に分解されたMP5短機関銃が散らばっていた。(ギャラガはMP5だと思ったが自信はなかった。)
 ギャラガが珍しくて室内を見回していると、ステファン大尉が小声で囁いた。

「少佐から”心話”を求められたら、昨晩の様に正直に伝えたいことだけ思い浮かべろ。力むと却って伝えたくないこと迄読まれてしまう。純血のグラダの力は半端ではないぞ。」
「承知しました。」

 忠告されると却って緊張してしまいそうだった。
 その頃キッチンでは2人の客の緊張を他所に、少佐とロホがのんびりした会話を展開していた。コーヒーの支度をしながら少佐がロホに苦情を言った。

「来るなら電話を入れて下さい。化粧をする暇もないじゃないですか!」
「まだお化粧を必要とされるお歳でもないでしょう。」

 お菓子を袋から皿に移していたロホは背中を肘で突かれた。

「あんな若い子を連れて来て・・・」
「カルロの部下ですよ。」
「部下の同伴が必要な任務とは?」
「それは本人から直接お聞きになられた方がよろしいかと。私の私見が入ると良くありませんから。」

 キッチンにコーヒーの芳しい香りが広がった。少佐がロホの右腕を掴んだ。

「綺麗に治りましたね。昨日は縫合が必要かと思いましたが。」
「擦り傷です。家に帰り着く迄に塞がって包帯も不要になっていました。」
「気をつけなさいよ。貴方はいつも終わりに気を抜く悪い癖があります。」
「肝に銘じておきます。」

 少佐が彼の腕を離し、カップにコーヒーを注ぎ入れた。
 2人がリビングに戻ると不思議な緊張感が漂っていた。少佐はすぐにそれが誰の気分なのかわかった。彼女がトレイをテーブルに置くと、ステファン大尉が自分でカップをそれぞれの席に分配して置いた。

「母がお世話になっているそうですね。」

と彼が世間話から始めた。少佐がロホを振り返ったので、ロホが手を振って否定した。

「私は何も言っていません。」
「ムリリョ博士からお聞きしました。」

と大尉が言ったので、ギャラガが「あっ!」と声を上げ、皆んなの注目を集めてしまった。ギャラガは焦った。彼は今になってムリリョ博士が言った「ステファン大尉の母親の面倒を見ているケツァル」が誰なのか悟ったのだ。ドッと冷や汗が出た。大尉が「何だ?」と尋ねた。ギャラガが返答に窮すると、ケツァル少佐が尋ねた。

「この子は誰?」

 ステファン大尉は紹介を忘れていたことに気がついた。失態だ。

「紹介が遅れました。警備第4班のアンドレ・ギャラガ少尉、ブーカ族です。5日間限定で私の下で働いています。少尉、こちらは文化保護担当部の指揮官シータ・ケツァル・ミゲール少佐だ。」

 立ち上がって挨拶すべきか? とギャラガは一瞬迷ったが、誰もが座ったままだったので彼も座ったまま敬礼し、「ギャラガです」と挨拶した。少佐が頷いた。

「ミゲールです。世間ではケツァルで通っています。好きな方で呼びなさい。」

 そして大尉に向き直った。

「用件とは?」

 大尉が少佐の目を見た。少佐も彼に視線を合わせた。いつもの様に一瞬で情報が伝えられた。少佐がコケモモパンケーキを小皿に取った。ロホが忘れ物に気がついた。急いで立ち上がり、キッチンへ歩き去った。大尉が少佐に尋ねた。

「ラス・ラグナス遺跡に行かれたことはありますか?」
「ノ。あることは知っていますが、行ったことはありません。」
「遺跡荒らしの通報もないのですね?」
「聞いていれば調査に行っています。」

 ロホが早足で戻って来た。メープルシロップの容器を持っていた。少佐の家のキッチンで何が何処にあるのか熟知している様だ。シロップをパンケーキにかける少佐にロホが話しかけた。

「ラス・ラグナスを調査しますか?」
「未調査の遺跡の被害状況が分かるのですか?」

と少佐が逆に質問して部下を考え込ませた。


第2部 節穴  12

  翌朝、ロホはステファン大尉とギャラガ少尉を連れて出かけた。朝食は一番近い大通りに出ていた屋台で揚げパンとコーヒーを買って済ませた。日曜日の礼拝が終わる迄一般市民が街を彷徨くことは少ない。歩いているのは主に観光客だ。大統領府に向かう団体がいる。正面玄関の儀仗兵の交代を見に行くのだ。ギャラガは儀仗兵が名誉な役職だとわかっていたが、なりたいとは思わなかった。正装して不動の姿勢で長時間多くの人の目に曝されて立っているなんてゴメンだった。イギリスの衛兵交代の様な華やかなものでもないのに、どうして観光客は喜んで見るのだろう。
 ロホはステファン大尉から譲り受けたと言う中古のビートルを持っていたが、車を使わずに3人でのんびり街中を歩いて行った。繁華街に向かわず、高級住宅街へ向かって行くので、ステファン大尉は彼の目的地がわかった。

「彼女に連絡を入れたか?」
「ノ。でも今日はご在宅の筈だ。昨日はかなり遊んだからな。」

 昨日は軍事訓練じゃなかったのか? ギャラガは疑問に思いつつ、黙ってついて歩いた。途中でまた屋台に寄り道して、ロホはお菓子をいくらか買った。ステファン大尉が尋ねた。

「コケモモパンケーキとアルコイリスは買ったか?」
「当然。」

 ギャラガが怪訝な顔をしたので、大尉が囁いた。

「賄賂だ。」
「?」

 大尉と中尉はクスクス笑いながら袋からアルコイリスを少しだけ掴みだして分け合った。ギャラガもお菓子を分けてもらい、歩きながら食べた。子供時代は縁がなかった甘味だった。
 かなり太陽が高くなってから目的地の高級コンドミニアムの前に到着した。ステファン大尉が慣れた手順でセキュリティキーパッドを叩いて分厚いガラス扉を開いた。中に入ると次の関門が待ち構えていた。ロホがずらりと並んだ入居者の各部屋のパネルから一つを選んでボタンを押した。ギャラガはパネル毎にカメラが付いていることに気がついた。扉毎にもセキュリティカメラが付いている。警戒厳重なコンドミニアムだ。部屋の主がカメラでロホを確認した様だ。第二の扉が自動的に開いた。
 生まれて初めて高級住宅に入った。ギャラガはエレベーターに乗っている間も落ち着かなかった。7階迄上がるのは時間がかからなかったが、ギャラガは初めての体験だったので気分が悪くなった。耳がおかしくなりそうだ。だから目的の階に着いて箱から出た時はホッとした。ロホがエレベーターホールに2つしかないドアの片方の前へ行き、チャイムのボタンを押した。2分間たっぷり待たされてから、ドアが開いた。
 Tシャツにデニムの短パン姿の、すらりと背が高い若い女性が現れた時、ギャラガの心臓が高鳴った。

 マジか?! ケツァル少佐じゃないか!

 大統領警護隊では今や伝説の様な存在になっているこの世で唯一人の純血種のグラダ族だ。誰よりも能力が強くて、気の制御が上手くて、敵には情け容赦なくて、美しくて・・・。 
 少佐は化粧っ気のないすっぴんだったが美しかった。そして不意打ちで現れた部下に腹を立てていた。

「朝っぱらから何の用です?」

 ロホが敬礼して申し訳なさそうに言った。

「申し訳ありません。まだお休みでしたか?」
「起床時間はいつも通りです。今日は日曜日ですよ。」
「すみません、客が少佐に面会を求めていまして・・・」

 ロホは体を少し横へ寄せて、連れてきた2人が少佐に見えるようにした。ケツァル少佐が視線を向けたので、ステファン大尉が敬礼して見せた。ギャラガも慌てて敬礼した。少佐が大尉と彼をじっくり眺めるのを意識したが、目を合わさない様に務めた。
 少佐はロホに視線を戻した。

「面会とな?」
「スィ。」
「彼等の任務の話?」
「スィ。」
「文化保護担当部と関係があるのですか?」
「あると思います。」

 少佐が溜め息をついて、入れと手で合図した。


 

 
 

第2部 節穴  11

  ギャラガは野宿することに抵抗を感じなかったが、ステファン大尉は屋根がある場所を希望した。実のところグラダ・シティの市街地は野宿が法律で禁止されていた。公園は特に警察が夜間巡回して旅行者を摘発する。ホームレスは市街地で寝泊まりしない。スラム街へ行けばいくらでも寝グラを提供してくれる親切な人がいるからだ。大尉が屋根がある場所を希望したのは、彼がオルガ・グランデ出身だったからだ。セルバ共和国の西部高地は夏でも夜間になると冷え込む。うっかり路上で寝てしまうと風邪をひくし、悪くすると命取りになる。大尉は子供時代の経験が身に染み付いていて、大人になっても防寒対策は怠らなかった。例えそれがジャングルでの野宿であっても。
 屋台の温かい食べ物で満腹になると、ステファン大尉は携帯電話を出した。少し考えてから、何処かに電話をかけた。

「ステファンだ。」

と彼は名乗った。ギャラガは彼の顔が和むのを見逃さなかった。親しい人にかけたらしい。博物館でムリリョ博士が言っていた実家にかけたのだろうか、と思っていると、大尉は

「仕事を増やして済まないな。」

と言った。相手の言葉を聞いて苦笑してから、要件に入った。

「悪いが今夜泊めてくれないか? 部下と私の2人だ。床の上で構わないから、朝までいさせて欲しい。夜が明けたら出て行く。」

 相手の言葉を聞いて、「歩いて行くから、先に寝ていてくれ」と言い、彼は電話を切った。

「お友達ですか?」

とギャラガは尋ねた。大尉が頷いた。

「文化保護担当部の中尉だ。私の同期。」

 ギャラガは漠然と心当たりがあったので言ってみた。

「ロホ・・・ですか?」
「スィ。」
「昨年、1、2ヶ月ですが訓練のインストラクターをして頂いたことがあります。」
「ああ・・・」

 大尉がちょっと遠くを見る目をした。

「アイツが肩の怪我をした時だな。」
「スィ。反政府ゲリラを相手にしてミスったと・・・自分と同じ過ちを犯すなと言う講義でした。」
「司令部も意地悪だろう? 失敗すると後輩の前で曝し者にするんだ。私たちも気をつけないとな。」

 2人は通りを歩いて行った。少しずつ人通りが減って行ったが、それは繁華街から住宅街へ入ったからだ。住宅街の夜中の道は安全と言えなかった。路地が多く、街灯も少ない。警察の巡回も高級住宅街から低所得者層の居住地へ行く程回数が減る。
 半時間歩いて、古いアパートに到着した。階段を歩いて3階迄上ると、ステファン大尉はあるドアのノブを掴んだ。施錠されていたが”ヴェルデ・シエロ”にはないも同じだ。チェーンが掛けられていなかったので、ドアを開いて中に入り、ギャラガを手招きした。ギャラガが入ると大尉はドアを閉じて鍵を掛けた。
 ギャラガは室内を見回した。照明は消されていた。彼が”ヴェルデ・シエロ”である証明が唯一存在する。闇でも目が見えるのだ。
 質素なアパートだった。必要最低限の調度品しか置かれていない。まるで大統領警護隊の官舎の部屋に台所が付いているだけ、と言えそうだ。ダイニング兼リビング、キッチン、バスルーム、そして寝室だけの狭いアパートだった。窓枠に男が一人腰掛けてビールの瓶を片手に持って、客を見て、「よう!」と言った。ステファン大尉も「よう!」と応え、窓際へ行った。

「起こしてしまったか?」
「寝るにはまだ早いさ。」

 ロホがギャラガに視線を向けたので、ステファン大尉が紹介した。

「警備第4班のアンドレ・ギャラガ少尉だ。副司令の命令で、今日から私とある任務に就いている。」
「よろしく、少尉。」

 ロホはいつでも誰にでも優しい。ギャラガも知っていた。この人は後輩達にとても人気があるのだ。昨年迄官舎に住んでいたことも、彼がこの中尉に親しみを感じた理由だった。普通、殆どの隊員は外郭団体に配属されたら官舎から出て行ってしまうものだ。
 ギャラガが挨拶を返すと、ロホはキッチンの冷蔵庫を指差した。

「ビールしかないが、好きなだけ飲んでくれて構わない。シャワーも使ってくれ。」

 大尉がそうしろと言うので、ギャラガは礼を言って、浴室に入った。珍しくお湯が出るシャワーだったのでびっくりした。ざっと体を洗って、着替えがないので下だけパンツを身につけて部屋に戻った。ステファン大尉とロホはテーブルの椅子に座って互いの近況報告をしていた。”心話”と声を交えての会話だ。近隣の部屋への配慮なのだろうとギャラガは思った。周囲の人間に自分達が何者か教える訳にいかないのだ。ギャラガが戻ったので、ロホが寝室を示した。

「ベッドを使って良いぞ、少尉。私はもう少しカルロと話したいから。」
「明日は日曜日だしな。」

とステファン大尉も言った。軍隊に所属していれば曜日など関係ないのだが、外の世界にいると日曜日は休みなのだ。ギャラガはなんとなく除け者になりたくないと思ってしまった。

「お邪魔でなければ、私ももう少し起きていたいです。」

 彼は上官達の意見を待たずに窓枠に座った。大尉も中尉も彼の希望を拒否しなかった。
 窓の外は低い住宅の屋根と庭と樹木が広がっていた。夜だし、街中だし、景色が綺麗と言う訳ではなかったし、夜空もいつもと同じだ。違うのは号令や掛け声が聞こえないこと。銃器の手入れの音がしないこと。大統領官邸の緊張感がないこと。
 大尉がロホに質問した。

「その右腕の擦り傷は、今日の軍事訓練のものか?」
「スィ。ユカ海岸で1600迄やっていた。少佐に銃撃されて、かわしたら堤防から滑り落ちたんだ。」
「滑り落ちた? 減点3だな。」
「捕虜のマハルダを取り返せなかったので、減点15さ。」
「一度も取り返せなかったのか?」
「出来なかった。少佐のガードが固過ぎる。アスルも腕を上げてきたしな。」

 軍事訓練って? ギャラガは耳をピンと立てたくなった。文化保護担当部って、文化財の保護をしている部署じゃないのか? 大尉が不満げに意見した。

「マハルダも脱走する努力をしなかったんだろ? 内と外で動かなきゃ、少佐の結界は破れないぞ。」
「だから、その内側でアスルがしっかりマハルダを抑えてしまうんだよ。」

 け・・・結界? ギャラガは胸がときめくのを抑えられなかった。”ヴェルデ・シエロ”が古代神として崇められた一番の理由だ。能力で一つの場所をすっぽり覆って外敵から住民を守る。現代の”ヴェルデ・シエロ”で広範囲の結界を使えるのは純血種のブーカ族だけだ。他の部族はせいぜい大型テント並みのものしか使えない。メスティーソはもっと困難だ。かなりの修行を要する。
 文化保護担当部は結界の使い方を訓練しているのか? 
 興奮したのが上官達に察知された。大尉と中尉がギャラガを振り返った。

「もう寝ろよ。」

と大尉が言った。中尉も言った。

「素直に寝ろ。明日、良いところへ連れて行ってやるから。」



第2部 節穴  10

  土曜日の夜だ。首都グラダ・シティは夜が更けても屋外を歩き回る人が多かった。広場ではコンサートも行われている。ギャラガはテレビも見なかったので、街がこんな風に賑やかな場所だと今更ながら思い出して驚いた。少し大通りから離れた脇道の角には、夜の商売女らしき人影も見えて、少し心が騒いだ。並んで歩いていたステファン大尉が囁くように尋ねた。

「なんだ?」
「何がです?」
「君の心が時々騒ぐ。」

 博物館でムリリョ博士と大尉がギャラガは気を放っていると言った。今迄そんなことを言われたことがなかった。当然自覚もなかった。気を放出しているから、大統領警護隊に採用されたのか。長年の謎が解けた気がした。司令部は彼がいつか同僚達と同じ様に力を使いこなせるようになると思っているのか? 出来れば、そうなりたい。ギャラガは心からそう思った。

「ギャラガと言うのは父親の名前か?」
「スィ。」
「母親は何族だった?」
「知りません。」

 大尉が頭をぽりぽり掻いた。

「ギャラガって、コンピューターゲームの名前なんだがなぁ・・・」
「え?」
「父親のフルネームは?」
「・・・知りません。」
「母親の名前は?」

 ギャラガは記憶の底にしまっていた女の名前を出した。

「ルピタ・カノ です。」
「マリア・グアダルペ・カノ か?」
「え?」
「ルピタはマリア・グアダルペの略だ。」

 ギャラガが黙ってしまったので、大尉は「まぁいい」と呟いた。

「カノはカイナ族に多い名前だ。だが君は自己紹介の時にブーカ族だと言った。」
「そう聞かされて育ちました。」
「私も君はブーカだと思う。カイナ族より気の力が大きい。純血のカイナ族はミックスの君より大きな気を持っていない。君の母親はブーカ族とカイナ族のミックスだったのだろう。本来なら、君の名前はアンドレ・カノ でも良かったのだ。」

 慕った記憶のない母親だ。いつも打たれるか罵られていた記憶しかなかった。食べ物を与えられて放置されていたのだ。ギャラガは言った。

「ギャラガで良いです。因みに、どんなゲームですか?」
「宇宙での戦いをイメージした固定画面型のシューティングゲームだ。」
「じゃぁ、やっぱりカノよりギャラガで良いです。」

 ステファン大尉が笑った。彼の名前はスペイン系だ。これはメスティーソでは珍しくない。それで尋ねてみた。

「大尉の姓は父方ですか母方ですか?」
「母方だ。」

 と大尉は答えた。

「グラダ族の子供は母方を名乗る。だから母方の祖母もステファンだった。だが祖母の母親は別の名前だったのだろう。祖母はスペイン人の父親の名前を名乗った様だから。」
「グラダ族の血はどちらから?」

 ちょっと興味が湧いた。もしギャラガの記憶が正しければ、現代グラダ族を名乗れる人は2人しかいない。グラダ系はいても半分以上グラダの血を持つ人は2人だけだと大統領警護隊の先輩達から聞いたことがあった。ステファン大尉はこう答えた。

「母からも父からも。」

 そして彼は広場の屋台を指差した。

「あそこで晩飯にしよう。」



2021/08/28

第2部 節穴  9

 ステファン大尉はムリリョ博士に”心話”で大統領府西館庭園の怪異を説明した。一瞬で終了した。ふむ、とムリリョはちょっと視線を天井に上げ、それからギャラガを見た。大尉がギャラガに言った。

「君が見た物を博士にお見せしろ。」

 ギャラガは一気に緊張した。彼は勇気を振り絞って告白した。

「出来ません。」

 大尉とムリリョが彼の顔を見た。ギャラガは赤面して、もう一度言った。

「”心話”を使えません。私は・・・緑の鳥の徽章を付ける資格がないのです。」

 ムリリョが大尉の目を見た。2人で”心話”を使って会話をしている。ギャラガはこの場から去りたくなった。己は”出来損ない”どころかただの”ティエラ”だ。大統領警護隊として勤務する資格のない男だ。
 ムリリョがギャラガに向き直った。

「気を放出しているのに、”心話”を使えない訳がない。」

と彼は言った。え? とギャラガは驚いてステファン大尉を振り返った。博士は今何と言った? ステファン大尉がギャラガに尋ねた。

「君のご両親は君に”心話”で話しかけなかったのか?」
「私の親ですか・・・」

 ギャラガは再び赤面した。父が何者だったのか知らない。アメリカから来た白人と言うだけだ。母親は売春婦だった。思い出すのも嫌だ。

「父は私が物心つく前に死にました。母は・・・まともに私と話をした記憶がありません。」
「どっちが白人だ?」
「父です。」

 大尉はムリリョ博士に言った。

「母親が基本を教えなかった様です。」

 ムリリョが首を振った。

「”ティエラ”でも親が話しかけない子供は言葉が遅れる。この男は幼児期身近にまともな”ヴェルデ・シエロ”がいなかったのだな。」
「何のことですか?」

 ギャラガは不安になってどちらにともなく尋ねた。ステファン大尉が答えた。

「君は能力を持っているのに使い方を知らない、と言う話だ。」
「私が能力を持っている? そんな筈は・・・」

 しかしムリリョはもうこの話題に飽きた様だ。ステファン大尉に言った。

「この男の記憶を探らせろ。もうすぐ閉館時間だ。」

 大尉が溜め息をついた。そしてギャラガに言った。

「君は否定しているが、君は全身から”ヴェルデ・シエロ”の気を放っている。それが、博士が君から記憶を引き出すことを妨げている。”心話”を使えないんじゃない、君自身が心を開いていないのだ。余計なことを考えずに、今日、私と一緒に見た物だけを思い出せ。目を開いたまま、見た物だけを思い浮かべろ。」

 ギャラガは深呼吸した。見た物だけを思い出せ? そんなの簡単だ。赤い花の手前、空中にポツンと見えた灰色の石の様な物・・・

「確かに、お前達は2人共同じ物を見た様だな。」

と不意にムリリョ博士が言って、ギャラガは我に帰った。博士が俺の心を読んだ?
 戸惑う彼を無視してステファン大尉が博士に尋ねた。

「どこの石かわかりませんか? 地質学者に訊いた方が良いでしょうか? 生憎知り合いがいないので、こちらへお邪魔させて頂いたのですが。」
「見えた物が石の一部だけと言うのが、心許ない話だ。しかし、あの材質は見覚えがある。」

 いきなり博士が歩き出したので、ステファン大尉がついて行った。ギャラガも慌てて後を追った。博士は入り口近くの壁に大きく描かれているセルバ共和国の地図の前で立ち止まった。現在確認されている国内の遺跡の位置が記されている地図だ。その一番上にある小さな青い点を博士が指差した。

「ラス・ラグナスと呼ばれる遺跡だ。まだ未調査なので青い印が付けられている。」

 大尉が見上げた。天井近くの青い点を見上げて、「知らないなぁ」と呟いた。

「発掘申請が出ていない遺跡ですね。私がオルガ・グランデにいた頃も聞いたことがありませんでした。祖父も知らなかったでしょう。」
「国境の砂漠同然の荒れた土地だからな、街の人間は知らない筈だ。陸軍基地から北へはそこの住民しか行かない。」
「住民? 村か町があるのですか?」
「サン・ホアン村と言う小さな集落がある。ラス・ラグナス遺跡はその村の先祖が造ったと思われている。」
「ラグナス(沼)なのに、砂漠なのですか?」

 ギャラガがうっかり口を挟んでしまった。ムリリョがジロリと彼を見た。

「昔は湿地だったのだ。」

 それだけ言うと、彼はステファン大尉に質問した。

「ところで黒猫、お前は空間の歪みの修復の仕方をわかっておろうな?」

 大尉が頬を赤く染めた。

「トーコ中佐にやってみろと言われました。」
「経験はないのか?」
「ありません・・・」

 ムリリョが天を仰いだ。

「今以上にケツァルに負担をかけるなよ、黒猫。」


第2部 節穴  8

  館長執務室に通されるかと思えば、中の展示室に入れてもらえただけだった。それでも空調が効いた館内は涼しかった。展示物が少ないと思ったら、博物館建て替えの案内が壁に貼り出されていた。建物の老朽化で新しく建て替えるのだ。展示物や所蔵物が仮の倉庫や展示室へ移転される途中だった。博物館の目玉展示物だけが客の為に残されているのだ。既に奥のブロックは閉鎖されており、立ち入り禁止のテープが貼られていた。
 夕刻なので客が少ない。博物館は午後7時迄開館しているが、外国人観光客は夕食の楽しみを逃すまいと昼間に目星をつけていた店へ向かって移動して行く。
 ステファン大尉は展示ケースの中の壁画の破片を眺めていた。ギャラガは先祖の遺物に興味がない。所在なげに大尉の横で立っていると、何処からともなく白いスーツ姿の老人が現れた。痩せて背が高く、髪は真っ白だ。目つきが鋭く、純血種の威厳と誇りが全身から漂っていた。ギャラガは一眼で彼が長老と呼ばれる地位の人だと察しがついた。姿勢を正すと、気配でステファン大尉が振り返った。彼も老人に気がつき、背筋を伸ばして足を揃えた。敬礼したので、ギャラガも急いで後に続いた。
 老人が呟いた。

「”出来損ない”が”出来損ない”を連れてきたか。」

 この差別用語は大統領警護隊に採用されてから嫌と言う程浴びせられてきた。純血種がミックスに対して使う侮蔑の言葉だ。それもメスティーソに対して使われる。異人種の血が入ると”ヴェルデ・シエロ”の能力を使いこなせないからだ。気の抑制が出来ない、ナワルを使えない、”幻視”や”操心”や”連結”と言った修行を必要としない能力も満足に使えない、当然高度な技を習得出来ない。純血種の”ヴェルデ・シエロ”からすれば、下手なことをされては一族の存在を一般の人々に知られてしまう恐れがあるから、ミックスの存在を嫌うのは当然なのだ。だが大統領警護隊に採用されたメスティーソ達は厳しい修行のお陰で純血種程の強さはなくても能力を使えるようになる。
 ステファン大尉は慣れている。彼もギャラガ同様入隊以来散々聞かされてきたのだ。そして、この長老が純血至上主義者で口が悪いことも承知していた。彼は挨拶した。

「お久しぶりです。お忙しいところに押しかけて申し訳ありませんが、教えて頂きたいことがあります。」

 老人がギャラガを見たので、彼は紹介した。

「大統領警護隊警備第4班のアンドレ・ギャラガ少尉です。少尉、こちらは人類学者でグラダ大学考古学部教授、セルバ国立民族博物館館長のムリリョ博士だ。」

 ギャラガは初対面の目上の人が話しかける迄黙っていると言う作法を守って、無言のままもう一度敬礼した。ムリリョ博士は見事にそれを無視して、ステファン大尉を見た。

「エステベスがお前を本隊に召喚したそうだが、母親をグラダ・シティに呼んでおいて放ったらかしか、黒猫?」

 いきなりプライベイトな話題を持ち出されてステファン大尉がちょっと怯んだ。

「仕送りは続けています。」
「半年の間、休暇なしで働いておるのか?」
「休暇はあります。家に帰っていないだけです。」
「エステベスはお前が家に帰るのを禁じておるのか?」
「ノ! 帰らないのは私が決めたルールです。修行が終わる迄の辛抱で・・・」
「その修行は何時終わるのか?」

 ステファン大尉が答えに窮した。ファルゴ・デ・ムリリョが冷たい目で彼を見つめた。

「お前が焦るのはわかる。お前の力は1年前に比べると遥かに大きくなった。今この瞬間も儂は感じる。上手く制御したいと気が逸るのだろうが、焦る程力は暴れるぞ。与えられる課題を一つずつ熟して身に覚えさせるしかない。休暇を与えられたら、家に帰って休め。」

 大尉は黙っていた。ムリリョは展示ケースの中を見るフリをして、付け加えた。

「何時までもケツァルにお前の母親の面倒を見させるでない。」
「え?」

 大尉が微かに狼狽えた。

「少佐が母の世話を?」
「早く街の暮らしに慣れさせようと、休日になれば買い物に連れ出したり、話し相手になっておる。お前の妹にも虫が付かぬよう見張っておる。」

 ギャラガはムリリョ博士がステファン大尉の親族に詳しいことを不思議に思った。純血種の長老とメスティーソの大尉はどんな関係なのだろう。
 大尉が首を振って何かを振り払う素振りをした。そして博士に改まって向き直った。

「兎に角、今日の訪問の目的を果たさせて下さい。大統領府でちょっと困ったことが起きているのです。」
「ほう?」

 ムリリョが初めてギャラガに目を向けた。

「それで、この白人臭いヤツを連れて来たのか?」

第2部 節穴  7

  アンドレ・ギャラガは所謂「普通の家」で暮らした経験がなかった。幼い頃はあったのだろうが、朧げな記憶しかない。父が死んだ後は母と2人でスラム街の掘立て小屋に住んでいた。それも1箇所ではなく、頻繁に家移りした。街娼をしていた母親が警察の摘発を逃れて場所を移動していたと知ったのは、軍隊に入ってからだ。母親の仕事が犯罪の部類に入るのだと知ったのも軍隊に入ってからだ。
 一張羅とも言える綿シャツ、ジャケットとジーンズに着替え、軍靴からスニーカーに履き替えて、ステファン大尉と共に大統領警護隊本部から外に出た。休暇はいつも一人で海岸へ行ってぼーっと過ごしていたので、目的があって外出したのは初めてだった。ステファン大尉はTシャツにジャケット、ジーンズで靴は高そうなトレッキングシューズだった。2人共拳銃は装備していた。これは休日でも持っていなければならない。大統領警護隊の義務だった。”ヴェルデ・シエロ”は超能力を持っているが、他人をその能力で傷つけることは禁止されている。敵に襲われた時に防御で用いるだけで、戦闘には普通の人間同様に武器を用いる。一度他人を超能力で傷つけると歯止めがきかなくなる。だから可能な限り使わない。それが彼等の良識だった。
 塀の外に出ると、大尉は何も言わずに歩き出した。ギャラガは大人しくついて行くだけだ。グラダ・シティに住んで長いが、街のことを何も知らない。恐らくグラダ・シティ生まれなのだろうが、地元っ子の自覚がなかった。ステファン大尉の言葉には微かに地方の訛りがある。遠くから来たと思われるが、大尉は地元っ子の様に通りをどんどん歩いて行った。土曜日の午後だ。街は賑わっていた。観光客が多い。白人も黒人も東洋人もアラブ人も歩いている。セルバ共和国の東海岸はリゾート地なのだ。
 ステファン大尉は最初に街角のATMで現金を下ろした。次に入った店でプリペイド方式の携帯電話を2つ購入して、1つをギャラガに渡した。領収伝票はギャラガに渡して、「失くすな」と命じた。

「後で必要経費で財務部からもらうからな。」

 それなら自分で保管すれば良いのに、と思ったが、ギャラガは黙っていた。ステファン大尉がしていることは、己にとっても将来の仕事の手本なのだ。それを彼は理解していた。
 大統領警護隊の中ではメスティーソは目立つ部類だったが、街中に出てしまうと自然に溶け込んでしまった。セルバ人の多くがメスティーソなのだ。
 バスに乗ったのは休暇以外で初めてだった。海ではなく市内を巡回する路線バスだった。10分ほど乗って、セルバ国立民族博物館前で降りた。観光客が屯する博物館前広場を横切り、階段を上ってチケット売り場へ行った。そこでステファン大尉はパスケースに仕舞っておいた緑の鳥の徽章を職員にチラリと見せた。

「大統領警護隊警備第2班のステファンと警備第4班のギャラガだ。ムリリョ館長はいらっしゃるか?」

 職員は徽章を見て不安そうな表情になった。大統領警護隊が博物館にやって来るなんて、どんな用事だろうと思ったのだ。文化保護担当部ならわかる。あの部署は時々遺跡の彫刻や壁画の意味を勉強しにやって来るから。しかし警備班の訪問は初めてだ。

「館長はいらっしゃいますが・・・」

 答えかけて、彼女は相手が旧知の顔であることにやっと気がついた。

「文化保護担当部の大尉?」

 ステファン大尉が頷いた。

「元、になるが、大尉のステファンだ。」
「それならそうと言って下さい。すぐ館長に連絡します。」

 セルバ共和国はコネが大事だ。

第2部 節穴  6

  テオドール・アルストが土曜日の昼にエル・ティティに帰省して、ゴンザレス署長とのんびり過ごしていると、署長に電話がかかってきた。ゴンザレスはふんふんと先方の話を聞いて、最後に「グラシャス」と挨拶した。電話を切るとテオがテレビを見ている横に戻って来た。

「例のバナナ畑の死体の身元がわかった様だぞ。」

と報告したので、テオは驚いた。セルバ共和国の警察にしては早かったんじゃないか? と彼は思った。尤も問い合わせてから既に11日経っていたのだが。

「死体はフェリペ・ラモスと言う男らしい。オルガ・グランデの北、国境に近いサン・ホアン村と言う所で占いなどをしていた農夫で、2ヶ月前から行方知れずになっていた。”雨を呼ぶ笛”をいつも持ち歩いていたと言うから、その男なのだろう。家族が明日こっちへ来るから、遺体を墓から掘り出さなきゃならん。」
「笛で身元確認してからの方が良いんじゃない?」

 身元確認の品が例の木片しかないと言うのは心許ないことだ。しかし、ミイラでは親が見ても分からないだろう。

「占い師ってことは、シャーマンかな?」
「どうかな・・・普通の占い師じゃないか? シャーマンって言うのは、大統領警護隊みたいな連中のことを言うんだ。直接神や心霊と話が出来る人々だ。」

 それじゃ俺がシャーマンじゃないか、とテオは心の中で苦笑した。大統領警護隊は”ヴェルデ・シエロ”なのだ。

「占い師を殺害するなんて、大罪じゃないのか? 」
「シャーマンと違って神様と入魂の間柄じゃないからな、占いが外れて頭に来た客にやられたのかも知れない。あるいは仕事と関係ない理由かもな。ここでは人の命はパンより軽いと考える連中もいる。」

 それは否定したくとも出来ない真実だった。テオが哀しい気分でテレビを消すと、ゴンザレスも昼寝の為に庭へ出ようとした。そして伝え忘れたことを思い出した。

「それから、あの死体に関係するのか分からないが、サン・ホアン村近くの古代遺跡が最近何者かに荒らされたそうだ。」

 テオは「古代」とか「遺跡」とかの単語に敏感だった。彼の大統領警護隊の友人達は古代遺跡を守る仕事をしているのだ。

「2ヶ月前に占い師が行方不明になったんだよね? 遺跡荒らしは何時のことなんだ?」
「それは分からん。ただ、ラモスは遺跡荒らしがあった後で行方不明になった。」
「遺跡で何か盗まれたのか?」
「何を盗まれたのか、誰にも分かっていない。正式調査が入っていない遺跡だそうだ。殺されたラモスはそこへ時々行っていたそうだ。」

 占い師が何のために遺跡に行ったのだ? 神託でも聞きに行っていたのか? それなら占い師ではなくシャーマンだろう、とテオは考えを巡らせた。盗掘の現場でも目撃して、消されたのか? 
 彼はゴンザレスが庭のハンモックへ行ってしまうと、携帯電話を出した。遺跡荒らしの情報は大統領警護隊文化保護担当部に連絡した方が良いだろう。もしかすると彼等は既に知っているかも知れないが、多忙なので通報を受けても直ぐに捜査に入るとも思えなかった。
 土曜日だから文化・教育省は閉庁している。ロス・パハロス・ヴェルデスの友人達はデスクワークが出来ないので、建前上「軍事訓練」をしている筈だ。畑や野原や海岸で実弾射撃を伴う隠れん坊か鬼ごっこをしているのだ。
 そんなところに電話を掛けたら危険なんじゃないか?
 テオは迷いながらもケツァル少佐の番号に掛けた。5回の呼び出し音の後、女性の声が聞こえた。

ーーミゲール少佐の電話でーーす!

 え? とテオはびっくりした。思わず声の主の名前を呼んだ。

「マハルダ?」
ーースィ! 

 マハルダ・デネロス少尉の元気な声が応答した。

ーーテオ? ブエノス・タルデス!
「ブエノス・タルデス。 今、演習中じゃないのか?」
ーースィ、演習中ですけど、私、捕まってます。

 テオは吹き出してしまった。どんな鬼ごっこか知らないが、デネロスは捕虜になったのだ。多分、荷物置き場にいるのだろう。少佐の電話が鳴ったので彼女が出たのだ。

「演習中だったら、少佐は電話に出られないんだろうな?」
ーー無理ですね。小屋の外で私を救出にやって来る中尉を返り討ちにしようと待ち構えています。

 すると男の声が聞こえた。

ーーこっちの作戦をベラベラ喋るな、捕虜。

 アスルの声だ。テオは楽しそうな演習だと思った。実弾を使用しているから油断禁物だろうけど。デネロスが声のトーンを落とした。

ーー何か御用ですか? 伝言承りますけど。
「少佐でなくても良いんだ。オルガ・グランデの北にあるサン・ホアン村近くにある遺跡を知っているかい?」

 デネロスは知らなかった。同じ質問をアスルに訊いてくれたが、アスルも知らなかった。だからテオは簡単に告げた。

「遺跡荒らしがあったと、親父がオルガ・グランデ警察から聞いたんだ。そのサン・ホアン村の占い師が殺された可能性があって、笛の持ち主らしい、と少佐に伝えてくれ。多分、彼女はそれでわかると思う。」
ーー遺跡荒らしに殺人ですか? 承知しました。

 その時、遠くで銃声が聞こえた。デネロスが「あーあ」と呟いたので、ロホが少佐に返り討ちにされたと察しがついた。


2021/08/27

第2部 節穴  5

  昼間の西館は無警護だ。時々歩哨が回って来るだけで、大統領警護隊は建物の中で来館者の警戒の方に重点を置く。ギャラガとステファン大尉は問題の茂みに近づいた。セルバ共和国なら何処にでもある普通のハイビスカスの茂みだ。赤い花が咲き乱れていた。ギャラガが示すと大尉が周囲を一周した。ギャラガの所に戻ると彼は囁いた。

「馬鹿にしているよ、全く。」

 ギャラガはその意味を推し量った。

「何もないってことですか?」
「何もないから、異変があるのさ。」

 大尉が彼を壁の際に連れて行った。大統領夫人の部屋の一番大きな窓の真下に彼を立たせ、赤い花の中で一番大きな物を指差した。

「そこに空間の歪みがあるのが見えるか?」

 ギャラガは目を凝らして見たが、何も見えなかった。彼は正直に告白した。

「私には見えません。一族の能力は何もないのです。」
「そう思い込んでいるんだな。」

 大尉は言った。

「目で見ようとするな。」

 彼はとても簡単なように言い放って、花のそばに行った。

「これは小さい穴だが、元からここにあったとは思えない。」

 彼は片手を前へ出し、指を花に向かって突き出した。花の10センチ程手前で彼の指が空中に消えた。ギャラガはびっくりした。純血種のブーカ族の成人は時々異次元空間通路を利用して遠い場所へ出かける。大統領警護隊も遠距離へ出兵する時は空間通路を使う。純血種のブーカ族は大人になれば普通に通路の”入り口”を見つけられるのだと言うが、ギャラガは見えない。他の部族は厳しい修行をして習得すると言うが、ギャラガはその修行も出来ない。どんなことをするのかさえ分からないのだ。しかし彼と幾らも年齢に差がないステファン大尉は鼠の穴でも見つけるみたいに空間の歪みを発見した。おまけに指まで突っ込んだのだ。

「これ以上大きくならない。こっちは”出口”で向こうが”入り口”だ。」

 大尉は指を出して腰を屈めた。花を観察するみたいに空中をじっと見つめ、やがてギャラガを振り返った。

「覗いてみろ。君にも向こう側が見える筈だ。」

 立ち位置を交換した。ギャラガは半信半疑だったが、大尉の真似をして虚空を見つめた。深紅の花の真ん中にポツンと異質の物が見えた。針の穴の向こうみたいな大きさだ。目を凝らして、それが灰色の石の表面らしいと彼は思った。試しに指を入れてみると、本当に彼の指も消えた。指先に何かが触れる感触はない。

「何が見えるか私は訊かない。」

と大尉が言った。

「互いの言葉に影響されたくない。君は君が見た物をしっかり記憶しておけ。これからそれが何なのか知っていそうな人に会いに行こう。私服に着替えて半時間後に本部通用門で落ち合おう。」


第2部 節穴  4

 トーコ副司令官は中佐だ。ブーカ族とマスケゴ族のハーフで、純血の”ヴェルデ・シエロ”とも言えるが、純血のブーカ族でも純血のマスケゴ族でもないので、大統領警護隊の外の純血至上主義者と仲が悪いと言う評判だった。大統領警護隊の隊員達は司令官のエステベス大佐と会ったことがなくてもトーコ中佐とはよく顔を合わせる機会があった。怒らせると怖いが普段は優しい上官だから若者達から好かれていた。ステファン大尉がドアをノックして、ギャラガを先に入れた。ギャラガは室内に入ると直ぐに副司令官の正面の位置を大尉に譲って傍に立った。大尉が声をかけた。

「ステファン、ギャラガ、出頭しました。」

 トーコは書類に目を通していた。警備班の勤務報告書だ。

「大尉、君は東館の警備を担当しているのだな?」
「スィ。警備第2班です。」
「西館の噂を知っているか?」

 ギャラガはドキンと胸が鳴るのを感じた。今朝の報告がもう副司令に渡ったのか。ステファン大尉は「ノ」と答え、チラリとギャラガを見た。ギャラガはここで言うべきだろうかと迷った。”ヴェルデ・シエロ”ならここで大尉の目を見て、一瞬で副司令官への報告内容を大尉に伝えられるのだが。 トーコもチラリとギャラガを見た。そして言った。

「ステファンに教えてやれ、ギャラガ少尉。」

 それでギャラガは大統領夫人の部屋の外にあるハイビスカスの茂みから感じる謎の視線の話を語った。

「警備第4班の11人全員が毎晩同じ体験をしました。今朝、班長が確認したら、少なくとも16日前から始まっていた様です。」

 トーコが頷いた。報告書の通りだ。

「16夜も奇妙な視線を感じながら、初めての報告が今朝なのだな?」

 ギャラガは頬が熱くなった。責められているのは彼だけではなく残りの10人も同じなのだが、代表で叱られている気分だった。これは班長の役目ではないのか? とちょっぴり不満を感じた。班長は中尉だ。まさか格下に損な役割を押し付けたのでもあるまいが。
 ステファン大尉は宙を見て、考える素振りを見せた。

「実体のない視線ですか。」

と彼は呟いた。トーコ中佐が尋ねた。

「原因に思い当たることはないか?」
「ノ。現場へ行って見てみなければ、なんとも言えません。」

 中佐と大尉が目を見合わせた。何か会話をしたとギャラガは分かったが、どんな話し合いをしたのか彼にはわからなかった。
 大尉がちょっと悩ましげな顔をした。

「私に出来るでしょうか?」

と彼は副司令官に尋ねた。トーコ中佐は頷いて見せた。

「良いからやってみな。これも修行だ。」

 何のことだろうとギャラガが思っていると、トーコが書類に署名をした。

「正式に辞令を与える。カルロ・ステファン大尉、西館庭園の視線の謎を解き、隊員達の不安を払え。期限は5日。助手にアンドレ・ギャラガ少尉を使え。」

 ギャラガは大尉が一瞬「え?」と言う顔をしたのを見逃さなかった。きっと”心話”も使えない似非”ヴェルデ・シエロ”なんか使えない、と思ったに違いない。しかしステファン大尉は上官に一切口答えせずに敬礼して命令を承った。ギャラガはボーッとしてしまい、大尉に横から足を蹴られて、慌てて敬礼したのだった。


第2部 節穴  3

  大統領警護隊の大統領府西館警備担当班の間で、大統領夫人の部屋の外にある茂みから視線を感じると言う噂が流れるのにそんなに時間はかからなかった。噂話をマナー違反とするセルバ人にしては珍しい現象だ。誰もいない空間から視線を浴びる。超能力を持つ”ヴェルデ・シエロ”にとって、これは酷く屈辱的な現象で薄気味悪いことだったのだ。どの隊員も茂みの中を探って見たが誰もいないのだ。臭いも残っていない。危害を加えられた報告もない。しかし立ち番をしている間中視線を浴びるのは気持ちの良いことではない。常に観光客の目に曝されている正面玄関やピラミッドの儀仗兵とは違うのだ。ギャラガは初めて同僚達からこの現象に関する質問を受け、仲間の感想に同意した。2度目の不愉快な感触を体験した後だ。初めて仲間の雑談の輪に加えられ、班代表が報告書に正式にその体験を記述することに同意した。警備第4班全員からの報告として、班長は司令部に提出した。
 翌朝、点呼とシャワーと朝食を終えて大部屋に帰ると、隣の大尉が本を読んでいる場面に再び出くわした。今度も考古学の本で、分厚い表紙で装丁された高価そうな本だった。よく見ると裏表紙に国会図書館のスタンプが押されていた。自費で購入したのではなく、借りているのだ。しかし破損すれば自腹で弁償しなければならないから、又貸しで注意するのは当たり前だ。セルバ共和国の図書館は又貸しが横行している。紛失が多いので、文化・教育省では大統領警護隊に図書館監視部を設立してくれと言っていると言う冗談まで巷で流れている。隣のベッドの大尉も平気で又貸しをする様だ。だが借りた方が本を損壊すると、とことん追求してくるだろう。
 ギャラガは同僚から初めて仲間扱いされて機嫌が良かったので、気軽な感じで大尉に声をかけた。

「考古学がお好きなんですね、大尉。」

 大尉は顔を上げずに答えた。

「私は警備第30班にいたんだ。」

 ギャラガは揶揄われたと思った。大統領警護隊警備班は15までしかない。彼が黙り込んでしまったので、大尉がやっと顔を上げた。

「外郭団体ってことだ。私は文化保護担当部にいた。」

 ギャラガにはそれがどんな部署なのかわからなかった。仲間との情報のやり取りがない悲しさだ。大尉は彼が反応しなかったので、説明する気がなくなったのか、読書に戻った。ギャラガもベッドに座った。その直後、部屋の入り口で呼び声がした。

「ステファン大尉! ギャラガ少尉!」

 ギャラガが答えるより早く大尉が怒鳴った。

「ここだ。ステファン、ギャラガ、2名共ここにいる。」

 どこかの班の少尉がやって来た。ベッドの上に横たわったままの大尉の側に立ち、敬礼した。

「トーコ副司令がお呼びです。」

 大尉が頷き、ベッドから降りた。Tシャツの上に上着を羽織りながら少尉に「5分後に出頭する」と返事をした。彼はギャラガを振り返り、「何かな?」と呟いた。ギャラガも見当が付かなかったので肩をすくめた。急いで身支度して、2人は副司令官室へ向かった。

2021/08/26

第2部 節穴  2

  アンドレ・ギャラガは勤務を終え、官舎に戻った。まだ少尉だから大部屋だ。20人が広い大きな部屋で寝起きしている。所属班がバラバラなので常時半数は不在だ。ギャラガは冷たい水のシャワーを浴びて、食堂へ行った。決まった時間に一斉に食べるのではなく、勤務が終わる順番に食べるのだ。煮豆にトーストに野菜スープ、コーヒーのシンプルな食事だ。肉が出るのは勤務の途中の中食だけだ。食事は階級に関係なく同じだ。だからたまに食堂で少佐や中佐級の偉いさんを見かけるが、その日上級将校はいなかった。質素だが量だけはしっかりある食事を終えると、大部屋に戻って寝るだけだ。
 ギャラガは友人がいないので、仲間が集まってカード遊びをしたり、運動施設へ出かけたりするのに加わらなかった。個人のスペースはベッドだけだ。そこに座って棚からラジオを出した。私物は少なく、置けるスペースも狭いので、彼の全財産はそこにある物だけだった。故郷もないし、実家もない。兵士としての自信はあるが、”ヴェルデ・シエロ”ではない落ちこぼれがこのままここにいて良いのだろうか。
 イヤフォンを付けようとして、隣のベッドの男が目に入った。警備2班の大尉だ。向こうは東館の担当で、2時間前に勤務が終わった。寛いでいるらしい。大尉は読書中だった。ギャラガは彼と話をしたことがない。勤務時間が微妙にずれているので、彼が戻ると大概向こうは寝てしまっていた。彼が起きれば既に勤務に就いていた。この日は珍しく起きていて読書をしていたのだ。
 普通中尉になれば大部屋を出て5人部屋へ移る。大尉は2人部屋の筈だ。しかし半年前に転属して来たその大尉は何故か大部屋で寝起きしていた。ってか、転属って何処からだ? 大統領警護隊は必ず少尉から始めるのだ。将校の中途採用はない。階級が高いので、他の少尉達は遠慮して彼に話しかけない。彼も別に誰かと仲良くしようと言う気はないらしい。
 ギャラガがその大尉の存在を気にしたのは、向こうも白人の血を引いていたからだ。明らかにヨーロッパ系の血が入った顔立ちで、ゲバラ髭を生やしている。軍人は髭を剃るのが決まりだが司令部は彼に対して何も言わないようだ。抑制タバコを火を点けずに咥えて、彼はセルバ考古学の論文集を読んでいた。山賊の様なワイルドな雰囲気の風貌なのに、インテリジェントな趣味を持っている様だ。
 ギャラガが考古学の本が珍しくて表紙を眺めていると、視線を感じて大尉が目線を上げた。

「何かな、少尉?」
「あ、いや・・・何もないです。」

 上官に絡まれると碌なことがない。ギャラガは慌てた。大尉は彼をジロジロ眺め、不思議なことを言った。

「私を監視するなら、もう少し上手くやれよ。」
「?」

 ギャラガが彼の言葉の意味を理解できずに見返すと、大尉は目線を再び本に戻した。どう言うことだ? 売られた喧嘩は買う主義だった子供時代の気分が蘇った。ギャラガはベッドを降りて相手のそばへ行った。

「私が貴方を監視しているなんて、どうして思われるのです、大尉?」

 大尉が本を見たまま答えた。

「私を見ていたからさ。」
「私は貴方の本を見ていたのです。貴方を見たのではありません。」

 すると大尉はパタンと本を閉じた。そしてギャラガに差し出した。

「貸してやろう。読んだら必ず返してくれ。安くないんだから。」

 ギャラガは本を見つめた。これは新手の嫌がらせだろうか? 自分がこの大尉に何をしたと言うのだ? 彼は言った。

「考古学が珍しくて本の表紙を見ていたのです。読みたい訳ではありません。読んでも私には難しくて理解出来ないでしょう。」
「考古学は難しい学問じゃない。私にだって少しはわかるんだから。」

 そう言って大尉が微笑した。意外に人懐っこい笑顔だった。ギャラガも釣られて笑ってしまった。

「私は学がないので読み書きが苦手なんです。」
「私だってまともな教育を受けていない。警護隊に入って初めて教育らしい教育を受けた。」

 大尉は本をベッドの枕元の小さな棚に置いた。

「白人の血が入っている様だな。部族は何だい?」
「ブーカです。4分の1だけですが・・・警護隊に入隊して初めて自分が何族なのか知りました。」

 大尉が小さく頷いた。”ヴェルデ・シエロ”の多くがブーカ族の血筋だ。”ヴェルデ・シエロ”に分類される先住民は7部族あるが、ブーカ族はその中で最多の人口を持っている。そして大統領警護隊の徽章をもらえる能力を持っているのもブーカ族が殆どだ。他の部族は人口が極端に少ないか、能力が長い時間の中で弱まってしまった。しかし”出来損ない”で落ちこぼれのギャラガは胸を張ってブーカだと言えなかった。

「ブーカですが、ナワルを使えません。”心話”も出来ません。」

 彼は大尉が驚くのがわかった。”心話”が出来ない”ヴェルデ・シエロ”なんて存在しない。ギャラガは大尉に目を覗かれたが、何も伝えられなかった。大尉が呟いた。

「まだ目覚めていないだけだろう。」

 ギャラガは同意することが出来なかった。大尉はタバコをゴミ箱に投げ入れた。

「私だって1年前に目覚めたばかりだ。」

 しかし大尉の髪は真っ黒で肌もメスティーソらしく浅黒い。”ヴェルデ・シエロ”の血が優っている様だ。”心話”は生まれつき使えただろう。

「貴方もブーカですか、大尉?」

 何となく相手の気に違和感を覚えて、ギャラガは訊いてみた。この大尉から漂ってくる気配は他の隊員達と違う。大尉が寝るために姿勢を変えながら答えた。

「ブーカの血も流れているが、半分はグラダだ。」

 
 

第2部 節穴  1

  セルバ共和国大統領警護隊、通称ロス・パハロス・ヴェルデス(緑の鳥)は一般市民にとって憧れと畏怖の対象だが、実は”ヴェルデ・シエロ”だけで構成されている軍隊であることは全く知られていない。そもそもこの種族の名前を知っているのは考古学者と人類学者、そして政府の要職についている一部の人々だけだ。5千年以上昔に絶滅したと言われている古代の神様の名前で、その後に台頭した部族が残した遺跡の彫刻や壁画で知られる伝説の部族と考えられている。「頭に翼を持つ神」として知られ、半身がジャガーの彫像もある。しかし、”ヴェルデ・シエロ”は実在した。そして今も実在する。セルバ人はその名を知っているが口に出さないだけなのだ。うっかり噂話などして神様の耳に入りご機嫌を損なうと大変だから。ロス・パハロス・ヴェルデスが畏怖の対象となっているのは、彼等が神様と会話出来ると信じられているからだ。神様そのものだなんて市民は誰も想像していない。警護隊のご機嫌を損ねて神様に告げ口されてはたまらない、と思っているのだ。
 大統領警護隊が警護するのは大統領と政府高官、国賓、セルバ共和国の精神的シンボル”曙のピラミッド”に座す巫女ママコナだ。そして市民は知らないが、国全体を彼等は守っている。小さな貧しいセルバ共和国が、飢えもせず大規模な飢饉に遭いもせず、疫病とも縁が薄いのは、彼等が守っているからだ。
 アンドレ・ギャラガは半分白人の血が流れている。他のメスティーソより肌が白く髪も赤い。”ヴェルデ・シエロ”の血は4分の1だけだ。だから”曙のピラミッド”から語りかけるママコナの声を聞けない。頭の奥で蜂がブンブン唸っている様に感じるだけだ。アメリカ人だった父親は彼が5歳の時に病死して、彼は貧しい生活の中で育った。母親も半分だけの”ヴェルデ・シエロ”で超能力をうまく使えなかった。彼女は街で体を売り、病気で彼が10歳になる前に亡くなった。ギャラガは食べる為に年齢を偽って軍隊に入った。15歳の時に陸軍の特殊部隊に入れられた。荒くれた兵士の中で揉まれて一人前に喧嘩の上手い男になった。そして1年後に大統領警護隊に採用された。
 正直なところ、何故己がそんなエリート部隊に採用されたのか、ギャラガは理解出来なかった。周囲は、”ヴェルデ・シエロ”ばかりだったのだ。彼等は目と目を見合わせるだけで一瞬にして情報交換や会話が出来る”心話”を使う。だがギャラガはそれが出来なかった。”心話”が出来ることが”ヴェルデ・シエロ”の条件である筈なのに、出来ないギャラガが大統領警護隊にいる。ギャラガ自身、己が”ヴェルデ・シエロ”だと言う自覚がなかったので、大いに当惑した。僚友達は皆”心話”を使える。”ヴェルデ・シエロ”と”ヴェルデ・ティエラ”のミックス達だ。見た目は純血先住民で白人の血が混じるギャラガとは外観が異なる。勿論、白人とのミックスであるメスティーソもいる。彼等は”出来損ない”と侮蔑の呼称を与えられているが、それでも”心話”を使えるし、ある程度の超能力を使う。そしてナワルも使えるのだ。
 ナワルはジャガーに変身する能力だ。能力の弱い者はジャガーより小さめのマーゲイやオセロットに変身する。しかしギャラガは当然それも出来ない。それより僚友がナワルを使うのを見て、仰天して気絶してしまったのだ。”出来損ない”の”落ちこぼれ”のアンドレ。気がつくと友人は出来ず、誰もが彼と組んで警備についたり訓練するのを敬遠していた。能力のない者と組めば危険だ。それが彼等の考え方だった。

 ギャラガが配置されている大統領警護隊警備第4班は、大統領府西館の夜間警備と”曙のピラミッド”の日中警備を担当していた。火曜日の夜、ギャラガは西館の大統領夫人の部屋の外で立ち番をしていた。一人だ。”ヴェルデ・シエロ”は能力をもっているので、基本的に単独行動する。一人になると彼はホッとした。他人を気にせずにいられる。軍隊はプライバシーのない世界だし、”ヴェルデ・シエロ”同士では秘密を持つことが難しい。この立ち番の時間だけが、彼の心が自由になれる時だった。
 乾季の夕刻。短いスコールが過ぎ去って涼しい風が彼の頬を撫でた。まもなく満天の星空になるだろう。工業があまり盛んでない貧しい国だからこそ、空気が澄んでいる。ギャラガは壁にもたれかかり、抑制タバコを咥えた。強い能力を持つ純血種や気の制御が下手なミックスに軍から支給される、特殊な薬効を持つ植物から作られるタバコだ。ギャラガは能力がないので支給対象外だが、官舎の仲間がたまに分けてくれた。好意より厚意だ。ギャラガは遠慮せずにもらうことにしていた。国民の税金で作られるタバコだ。もらって何が悪い?
 安物のライターでタバコに火を点けた時、正面のハイビスカスの茂みで人の気配があった。彼はタバコを投げ捨て、アサルトライフルを構えた。

「誰だ?!」

 返事はなかった。しかし確かに誰かいる。彼は何者かの視線を浴びている感触を拭えなかった。冷たい視線がこちらを向いている。彼の能力の大きさを測るような酷く冷静な目。彼は姿が見えない相手を睨みつけた。下手に動くと攻撃されそうな気がした。侵入者なのか? 彼はもう一度声をかけてみた。

「出て来い! ここは立ち入り禁止区域だぞ!」

 やはり返事はなく、誰も出て来ない。彼は意を決して一歩前に出た。向こうは動かない。彼はもう一歩前に踏み出した。それでも反応なし。彼の胸中に疑問が湧いた。本当に茂みの中に誰かいるのだろうか。
 彼はタバコを踏み消して、隙を作って見せた。それでも相手は動かなかった。誰もいないのだ。彼は確認の為に茂みに近づいた。銃口を向けたまま茂みを覗いた。
 誰もいなかった。彼は周囲を見回した。気配は確かにあったのに、実体がなかった。

第2部 バナナ畑  9

  その夜、テオはエル・ティティのゴンザレス署長のところへ電話をかけた。笛からわかったことを報告すると署長は喜んだ。

「やっぱりお前は頼りになる息子だ!」
「まだ喜ぶのは早いぜ、父さん。死体が誰なのかわかっていないんだから。場所の見当がついたってだけのことさ。空振りかもしれないし。」
「そうだとしても、俺はがっかりせんよ。あの死体も気にしてくれる人がいて嬉しかっただろうさ。ちっとは安心出来るんじゃないかな。誰にも思い出してもらえないなんて、辛いからな。」

 それはテオが一番身に染みてわかっていた。バス事故で記憶を失って2ヶ月、誰も彼を探しに来なかったのだ。自分は何処の誰なのか、探す価値もない人間なのか。犯罪者だったのかも知れない。天涯孤独の身の上だったのか?
 結局、彼が生まれ育った国立遺伝病理学研究所は、グラダ・シティとオルガ・グランデしか探していなかったのだ。2つの都市を結ぶ田舎の幹線道路で交通事故があって、テオがそれに巻き込まれたなどと想像すらしていなかった。テオは偶々事故を起こしたバスに乗っていた可能性が考えられた犯罪者を追跡してやって来たケツァル少佐と出会い、彼女に誘導されるままオルガ・グランデに行って研究所の科学者と遭遇した。しかしバナナ畑の死体はもう動けない。

「オルガ・グランデ警察には俺から連絡を入れておく。」

とゴンザレスが言った。

「その笛を使うシャーマンがいた村がオルガ・グランデ警察の管轄なのかどうか、知らんがな。」

 テオは大統領警護隊も少し協力してくれたと言えば?と言おうとして止めた。ロス・パハロス・ヴェルデスの名を出せばオルガ・グランデ警察は動くだろうが、それではケツァル少佐に迷惑がかかるかも知れない。大統領警護隊文化保護担当部は、西部の遺跡監視の時陸軍のオルガ・グランデ基地をベースに活動するからだ。
 結局彼が出来たことはそこまでだったので、その件は終了したと終われた。

第2部 バナナ畑  8

  木材の DNA抽出は素材が小さ過ぎて無理っぽく思えた。カラカラに乾燥しており心材はくり抜かれていたので、細胞採取は不可能だった。それでテオはシエスタが終わると考古学部へ出かけた。午後は授業がない。
 正直なところ彼は考古学部の人類学教授ファルゴ・デ・ムリリョが苦手だった。気難しく白人嫌いで定評がある先住民の老人だ。セルバ国立民族博物館の館長でもあり、”ヴェルデ・シエロ”の長老会の会員だ。マスケゴ族の長老でもあり、族長でもあったが、同時に純血至上主義者で”砂の民”でもあった。”砂の民”は”ヴェルデ・シエロ”の影の仕事をしている役職で、一族の安全を脅かす存在であると長老会が認定した人間を抹殺する役目を負っていた。本当なら、テオは白人でアメリカ政府の機関の人間だったから、”ヴェルデ・シエロ”の秘密を知った時点で消された可能性があったのだ。彼が無事に今の生活を手に入れたのは、大統領警護隊文化保護担当部のメンバー全員と友人になれたからだ。そして彼自身もちょっぴりだがセルバ共和国の国家的危機を救ったお陰だ。
 純血種のセルバ先住民と話をする時は、色々と作法があって、テオはまだ全部覚えきれていない。先ず、初対面の相手とは直接会話をしてはならない。目上の方が許可する迄は、目下の人間は紹介してくれた人を介して話をするのだ。そして目上の人は、目下の人を頻繁に無視する。(とテオは感じている。確証はない。)用件に直接入る前に長々と関係なさそうな話をする。(ただの世間話に聞こえる。)相手の目を見てはいけない。これはセルバ人全体の作法でもある。他所の家の女性とその家の家族がいない場所で言葉を交わしてはいけない。等々。もっともこれらの作法は若いセルバ人も覚えきれないようで、街でも大学でも年長者に叱られている若者をたまに見かけた。この作法は”ヴェルデ・シエロ”も”ヴェルデ・ティエラ”も関係ないようだ。
 その日、幸運にもムリリョ博士は不在だった。考古学部の事務員が教授はペルーへ出張ですと教えてくれた。それでケサダ教授の都合を尋ねると、フィデル・ケサダは学部のサロンで休憩中とのことだった。早速押しかけてみると、ケサダはコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。サロンは開放空間で窓が全開になっており、テラス通路から心地よい風が入ってきていた。生物学部より環境が良さそうだ。予約なしで訪問したので機嫌を損ねはしないかと心配しながら「こんにちは」と近づくと、ケサダは新聞から顔を上げて挨拶を返してくれた。
 ケサダもマスケゴ族だ。テオは尋ねたことはなかったが、恐らくこの男も”砂の民”だろうと思っていた。ずっと以前、まだテオが”ヴェルデ・シエロ”の存在をようやく知りかけた頃に、グラダ大学考古学部で客員教授をしていたイタリア人が急死したことがあった。彼はジャングルの奥で消えた村の存在を聞きつけ、調査に乗り出して、「消された」のだ。誰が手を下したのかわからない。だがテオはムリリョとケサダでないことを願っていた。この2人には色々と世話になっている。死んだイタリア人も知り合いだった。考古学部内で「粛清」が行われたと思いたくなかった。
 ケサダ教授はムリリョ博士の弟子だ。先住民らしく愛想が良いとは言えないが優しいので学生達に人気がある。テオも彼とは話がし易かった。同席許可を求めると快く正面の席を手で指してくれた。

「少しだけお時間を頂けますか?」
「スィ。何でしょう?」

 それでテオはビニルバッグを出して笛をテーブルの上に転がした。前もって笛の出処を説明した。ケサダもケツァル少佐同様死体が身に付けていたと聞いても驚かなかった。

「古い物じゃないと思います。最近の物で何処かの村人が手作りした物でしょう。俺が知りたいのは、この笛を使用する地域が何処かと言うことです。ケツァル少佐に見せたのですが、彼女は遺跡の出土品でなければわからないと言いました。でも考古学では現代に残っている文化と古代の文化を比較して調査することもありますよね? こんな笛をご覧になられたことはありませんか?」

 ケサダは笛を手に取ることもなく、見ただけで言った。

「”雨を呼ぶ笛”ですね。」

 テオがびっくりしているのも気にせずに彼は続けた。

「オルガ・グランデの北になる乾燥地帯で見たことがあります。痩せた土地でトウモロコシを栽培して暮らしている村があります。そこのシャーマンが身に付けていました。雨乞いの笛ですが、雨は降る時は降るし、降らない時は降りません。」

 つまり、その村は”ヴェルデ・シエロ”ではなく”ヴェルデ・ティエラ”の村なのだ。”ヴェルデ・シエロ”はちょっと狡いところがある種族で、自分達の超能力でカバー出来ない自然現象等で名声を失いたくないのだろう、雨乞いやハリケーンを防ぐような祈祷はやらない。そう言う生活に密着した呪いの類は”ティエラ”の祈祷師に押し付けてきた。農村部で見かけるシャーマンは皆”ヴェルデ・ティエラ”、つまり普通の人類なのだ。

「すると、この笛をもっていた人はシャーマンだった可能性があるのですね?」
「盗んでも価値のない物ですから、この笛を身に付けていた人が正当な持ち主なのでしょう。」

 そしてケサダは呟いた。

「シャーマンを殺すなど、罰当たりも良いところだ。」



第2部 バナナ畑  7

  テオはビニルバッグから例の笛を出した。ケツァル少佐は興味なさそうに視線を向けた。

「ケ・エス・エスト?」(何ですか?)
「笛だと言われている。」

 少佐がその汚い物体を素手で掴み上げた。色々な方向から眺めて鑑定結果を出した。

「新しい年代の物ですね。」

 勿論テオはそれが遺跡の出土物だとは考えていなかった。木製の物は腐ってしまって残らないことが多い。セルバの古代文明の遺物は石や粘土で作られた物が殆どだった。

「そいつはね、先週エル・ティティのバナナ畑で発見された身元不明の死体が身に付けていた物なんだ。」

 普通、そんなことを聞かされたら女性はキャアっとか何とか叫んで物を放り出してしまいそうだが、ケツァル少佐はテオの期待を裏切らず、笛を顔に近づけてますますじっくりと観察した。そして指摘した。

「これは半分欠けていますよ。」
「欠けているって?」

 彼女が笛の紐が付いていない方の端を示した。

「木の切り口がもう片方より不規則で鋭利でしょう。この笛はもう少し大きかった筈です。割れてしまったのでしょう。中にピーがあった筈ですが、失われています。楽器として作られたと言うより、ただのホイッスルの様な役目の笛だったと思います。」

 そしてテオの顔を見た。

「貴方がその死体の身元探しを引き受けたのですか?」

 物好きですね、と言う響きがあった。この男はどうしていつも他人の厄介ごとに首を突っ込むのだろう、と彼女は思ったに違いない。

「好きで引き受けた訳じゃない。」

とテオは言い訳した。

「エル・ティティの神父が俺に協力を求めてきた。俺もかつては身元不明者だったし、誰かに恩返しをしてみたい。それに自分の地元で見つかった身元不明の死体が誰なのか解明したいじゃないか。」

 少佐が笛を彼の方へ差し出した。

「残念ですが協力は出来ません。この笛が古代の遺物だったら私の知識も多少の役に立つでしょうが、新しい物は何もわかりません。それにこれは素人の手作りと見ました。製造者を探すのは無理です。」

 しかし、彼女はいつも他人を突き放してから、一言助言をくれる。

「材質のDNAを調べてみては? 或いはムリリョ博士にお見せするとか?」

 今回は二言くれた。


第2部 バナナ畑  6

  カルロ・ステファン大尉は本部に召喚される少し前に、故郷オルガ・グランデから母親と妹を呼び寄せた。小さな家を買って3人で住むつもりだったのだが、実際に親子3人水入らずで住んだのはほんの一月程で、今は警護隊の官舎に入っている。母親と妹はがっかりしただろうが、慣れない都会暮らしをケツァル少佐と文化保護担当部の仲間達が助けているので、大尉が出向の任務が明けて戻って来る迄我慢しているのだ。カルロが入隊して彼女達をグラダ・シティに呼び寄せる迄一度も帰郷したことがなかったことを思えば、ほんの1年や2年我慢出来ると母親のカタリナは言った。
 カルロが戸建ての家に引っ越す迄住んでいたアパートと中古のビートルはロホが受け継いだ。官舎に住んでいた彼はカルロと交替で外に出たのだ。カルロの分も仕事が増えて残業する日が増えたこともあったが、相変わらず根無草の様に友人宅を泊まり歩く部下のアスルを引き留める目的もあった。アスルは少尉のままが良いのか、安定した住所を持って中尉になろうと言う気配がない。普段の態度を見ていると彼はテオを嫌っている風にも見えるのだが、時々テオの家にも泊まりにやって来る。テオが、アリアナが戻ってきた時の為に空けてある寝室の一つに半分住み着いているのだ。汚さないし、住み着いている痕跡もないので、テオは好きにさせている。もしかすると、アスルは「通い猫」の気があるジャガーなのかも知れない。
 マハルダ・デネロス少尉は文化保護担当部の「兄貴」が一人減ってしまったので、当初沈んでいた。しかしカルロの妹グラシエラがグラダ大学の入試を受けると聞くと張り切って家庭教師を買って出た。デネロスの方が1歳年下だが、大学生としては立派な先輩だ。但し彼女は通信制だったので、考古学部以外の教授のことはそれほど知らなかった。だからセルバ流にコネを使って情報収集を行い、試験の傾向と対策を練ってグラシエラを無事に合格させた。
 多分、カルロがいなくなって一番寂しい思いをしているのはケツァル少佐だ、とテオは確信していた。少佐はカルロとロホと3人で文化保護担当部を創り上げたのだ。少佐の左右にいつもいた2人のうちの一人がいなくなってしまった。カルロが使っていた机はまだそのままで、書類や備品の物置になっている。つまり、少佐は誰にもその机を使わせたくない訳だ。カルロは彼女の頼れる副官で、大事な部下で、(彼女は否定するだろうが)可愛い弟なのだ。そして、遺伝子学者としてテオはどうしても許せないが、彼女はカルロを男性として愛している。口に出して言わないが、態度で出ている。やはり男性として、テオはそれも許せない。
 テオに対する少佐の態度が変化したことを彼は気づいていたが、言葉に出して言わなかった。以前の少佐は彼に愚痴をこぼしたり不要な世間話をしなかった。しかしこの日は違った。前夜の電話では渋々承諾したかの様なランチデイトだったのに、当日になると彼女が一方的に喋って彼は聞き役に回っていた。ストレス解消の相手だったカルロの代わりだとわかっていたが、それでも彼女が胸の内を明かしてくれるのが嬉しかった。
 やがて一通り喋り尽くすと、ケツァル少佐は突然いつもの彼女に戻った。文字通り「豹変」した。

「で? 用件とは? 用があるから私を呼んだのでしょう?」

 テオは笑いが込み上げてきて我慢した。人間の膝の上でゴロゴロ喉を鳴らして甘えていた猫が突然不機嫌になって噛みつく、そんな感じだ。仕方がない、彼女達”ヴェルデ・シエロ”はジャガーなのだから。
 彼は空になった皿を脇に押しやって、ビニルバッグを取り出した。

「君に見てもらいたい物がある。」


 

2021/08/25

第2部 バナナ畑  5

  翌日、グラダ大学生物学部の発生遺伝学教室の受講生達はアルスト先生の早口の講義と難解なリポートの宿題に迷惑を被った。しかしこれが初めてと言う訳ではなかったので、アルスト先生はまた珍しい遺伝子を探す旅行に出るつもりなんだな、と諦めた。学生に宿題をさせている間にテオはしばしば2、3週間首都を留守にすることがあった。そして戻って来るとジャングルで採取した昆虫や植物を分析しているのだ。何か新しいことを探しているんだな、と学生達は思った。
 実のところテオは何も探していなかった。全くの私用で休講するのを誤魔化す為に研究しているだけだ。そしてその日はただのランチデイトだった。彼が遅れるとひどく機嫌が悪くなる大事な女性とのデイトだ。
 食べるための教職をこなして、昼食を食べる為にテオはカフェテリアに直行した。
 彼女は既に到着していて、壁に近いテーブルに席を取っていた。若い男子学生達が振り返る。年上でも知的な美人は気になるのだ。テオが歩いて行くと、プレイボーイで名高い法学部の教授が早速彼女にアタックを試みていた。ケツァル少佐はグラダ大学の卒業生だから古くからいる教職員の間では有名なのだが、この教授は新入りだ。自分のトレイをテーブルに置いて彼女の正面の席に座ろうとした。しかし彼が座ってしまう前に彼女が身分証を出した。プラスティックカードケースに入った緑色の鳥の形の徽章が陽光でキラリと輝いた。教授がギョッとして身を引いた。

「ペルドネーメ、少佐。」(失礼しました)

 教授は離れて行った。テオはニヤリと笑った。大統領警護隊、通称ロス・パハロス・ヴェルデス(緑の鳥)は少しも怖くないのに。しかしセルバ共和国のエリート部隊は国民から一目置かれているのだ。

「コモ・テ・バ? 少佐!」(元気?)

とテオは勢いよく挨拶した。さっきの法学の教授が振り向いた。ちょっとびっくりしている。テオは優越感を感じながら少佐のそばに行った。ケツァル少佐が座ったままで彼と握手した。大統領警護隊が市民と握手するなんて滅多にないことだ。先住民に握手の習慣はないし、敵味方の判断がつかない他人に素手を差し出したりしない。女性の先住民は尚更だ。親族の男性でなければ手を触れさせない。だから少佐が握手に応じてくれると、テオは己が彼女にとって特別なんだと思えて嬉しくなる。彼女が「コモ・テ・バ?」ではなく「コモ・エスタ?」(ご機嫌如何?)と堅苦しく言っても気にならない。寧ろ彼女が挨拶してくれること自体光栄だ。仕事で必要な場合を除いて、少佐は気に入らない相手には失礼な態度を平気で取る人だからだ。
 テオはテーブルにトレイを置いた。少佐の前には山盛りの料理を載せたトレイが置かれている。ケツァル少佐は美しい外観に似合わず大食漢だった。これには理由があった。少佐はグラダ族と言う”ヴェルデ・シエロ”の中でも最強と言われる部族の唯一の純血種だ。グラダ族は正に神と呼ばれるに相応しい強大な超能力を持つが、その分消費エネルギーも半端でない。特に力を使った後は極端な空腹を感じるらしい。少佐はその日午前中のオフィスワークでエネルギーを使ったのか、大きな肉団子を3個も食べた。食べ方は上品だが、スピードがあるのであっという間に皿が空になった。野菜もモリモリ食べてしまう。テオは内心「これで割り勘かよ?」と疑問を感じたが黙っていた。
 ある程度お腹が満たされると彼女は食べるスピードを緩め、最近の彼女のオフィスの話を始めた。副官のカルロ・ステファン大尉が本部に逆出向していなくなったので、大尉がしていた予算計上の仕事を中尉のロホが行っている。ロホは遺跡発掘隊の警護をする陸軍の人員や兵備の規模を考える仕事もしているので、今は多忙で遊ぶ暇がないし、好きなサッカーの練習も出来ないでいる。ケツァル少佐は、本部は大尉を取ったのだから人員を一人文化保護担当部に回して欲しい、と司令官に要求しているのだが、なかなか通らないのだと愚痴った。
 ステファン大尉が文化保護担当部からいなくなったのは、テオも寂しかった。生死を賭けた冒険を1度ならず3度も共にした仲だ。7歳年下だが対等に話が出来た。そして同じ女性を愛するライバルでもあるのだ。
 大統領警護隊本部がステファン大尉を本部に召喚したのは、ある2つの目的があったからだ。一つは大尉のグラダ族としての能力を更に開発させる為の訓練だ。ステファンは白人と普通の先住民”ヴェルデ・ティエラ”の血が混じるミックスの”ヴェルデ・シエロ”だ。しかも”ヴェルデ・シエロ”の部分もグラダ族とブーカ族が混ざっているので、純血種であるケツァル少佐みたいに生まれつき自然に能力を使いこなすことが出来ない。下手をすると感情に流されて能力を暴走させる恐れがあるので、司令官は彼を教育し直すことに決めたのだ。これはテオも無理からぬことだと納得した。ステファンは能力を使いこなせずに少年時代からずっと苦しんできたのだから、ここで修行し直して自信をつけることが重要だと思えた。
 もう一つの目的がテオには教えられていなかった。少佐は知っている様だが、他の部下達は知らないようで、テオと共にステファンが滅多に警護隊の基地から出てこない理由がわからず寂しがっていた。修行だけなら休暇をもらえそうなものだが。

第2部 バナナ畑  4

  テオはグラダ・シティ郊外の平均的な庶民の住宅街に家を持っていた。亡命した当初はセルバ共和国政府が用意した高級住宅地の戸建て住宅にアリアナと2人で住んでいたが、アリアナが”ヴェルデ・シエロ”の内紛に巻き込まれて誘拐されたり、警備に人件費がかかったりで、結局彼は独り身になったのを機会に内務省に頼んで小さい家に引っ越すことを承諾してもらった。6軒の家族が長方形の建物を分割して住んでいる形で、真ん中に共有スペースとして小さな庭がある。テオは昼間働いているので、夜しかいないのだが、近所の人々は皆気さくで人懐っこい。庭にどの家族かが小さい畑を作っており、テオが月曜日の夜遅くにエル・ティティから帰宅すると中庭に面した掃き出し窓の外に瓜が1個置かれていた。テオは窓を開けて瓜を拾い上げ、大きな声で「グラシャス!」と言った。どこからか、「いいってことよ!」と返事が来た。
 テオは窓を開けたまま網戸だけ閉めた。暑くて空気を入れ替える必要があった。エアコンは昼間しか使わない。玄関も網戸だけにしておけば夜間は風が通るので、エアコンは必要なかった。近所の家々から話し声やテレビの音が聞こえてくるが、セルバでは騒音問題で諍いが起きることは滅多にない。静かな場所が必要な人は、近所が煩ければすぐ引っ越してしまう。都会の住人はそう言う文化を築いていた。農村へ行けば逆になる。五月蝿い人間は近所の住人達から放逐されてしまう。実力行使されるのだ。「出て行け」と言う通告を受けたら、即刻退去しないと、家財道具一切合切と共に村の外へ放り出されてしまう。テオはエル・ティティでその現場を見たし、学生達から話も聞いた。騒音に悩んで銃をぶっ放すどこかの国とは大違いだ、と思った。
 荷物を寝室に置いて、彼は狭いリビングの長椅子に座った。携帯電話を取り出し、ケツァル少佐のアパートに電話を掛けた。携帯には掛けない。彼は一応仕事のつもりだったから。少佐は今週オフィスにいる予定だ。発掘現場の監視はスケジュールに入っていないと言っていた。だから夜は自宅にいる筈だ。
 呼び出し音5回の後で彼女の声が聞こえた。

「ミゲール・・・」

 成熟した大人の女性らしい低い声を聞いて、テオはゾクゾクした。今夜彼女は一人だろうか? 

「ブエナス・ノチェス、テオドール・アルストだ。」

 彼が名乗ると彼女は特に喜んだ様子もなく、

「何か御用ですか?」

と尋ねた。愛想がないのは相変わらずだ。無駄な世間話は絶対にしない。常に他人と距離を置きたがる様に見えるが、突然人懐っこくなったりする気まぐれな女性だ。ツンデレ度100パーセント。誇り高い性格は猫科の動物そのもの、彼女は密林の女王ジャガーだった。
 テオはいきなり死体の話を持ち出すのを避けた。そんなことをすれば、彼女は即行で電話を切ってしまう。それでなくても彼女は常に山のような業務上の難問を抱えているのだ。テオは目的を隠して話しかけた。

「久しぶりに2人で食事でもしないか?」
「そちらの奢りですか?」

 彼女は倹約家だ。実家は富豪だし、少佐の給料はそれなりに高給だが、高級アパートの家賃やメイドの給金を自腹で払っているので贅沢はそれ以上しない。養父母の財産を食い潰す親不孝もしない。彼女自身から食事しようと言い出す場合以外は自腹を切らない。
 テオは苦笑した。

「大学のカフェテリアでランチしないか?」

 テオだって高級取りと言えない。大学職員の給料は高くない。彼は教授ではないのだ。准教授だ。しかも正規職員となってまだ半年だ。

「結構。では、割り勘にしましょう。」

 めっちゃドライな女だ。時間を決めた。セルバ人は一般に時間にルーズだが、軍人は別だ。彼女は厳格に時間を守る。テオの方が時間通りに講義を終えられるか心配だった。

「要件はそれだけですか?」

 就寝時間を守りたい軍人が質問した。暗に電話を切れと催促している。テオはもっと話したかったが楽しみは明日にとっておこうと我慢した。それにあまり喋ると近所に相手の正体がバレてしまう恐れもあった。庶民は大統領警護隊を尊敬し頼りにしているが、同時に恐れてもいる。古代の神様”ヴェルデ・シエロ”と会話出来る人々、と言う認識だ。ご機嫌を損なうと神様に告げ口されると信じている。大統領警護隊そのものが”ヴェルデ・シエロ”の軍隊だとは知らないのだ。大統領警護隊と友達だと知られると、近所の人々との親密な近所付き合いに支障が出る恐れがあった。

「それだけだよ。明日が楽しみだ。アスタ・ラ・ヴィスタ。」
「ブエナス・ノチェス。」

 少佐はテオが切る前に電話を切った。

2021/08/24

第2部 バナナ畑  3

  エル・ティティ警察署には署長以下4人の巡査がいた。テオには兄貴みたいな連中だ。年下の巡査もここでは先輩なのだ。彼が身元不明の遺体の遺留品を見たいと言うと保管庫に案内してくれた。面倒な手続きはない代わりに、セキュリティ対策は皆無と言って良い程、簡単に保管用箱を見つけることが出来た。段ボール箱に遺体の発見年月日と場所、「身元不明」の文字が書かれているだけだ。テオは保管庫の入り口近くに置かれている机の上に箱を置いて、中身を出して見た。ボロボロの布の切れっ端はかつて白かったのだろう。不快な黄ばんだ色になっていた。服としての原型を留めておらず、死体の体に貼り付いていたので服だろうと考えられている。靴や帽子などはなかった。唯一テオの注意を曳いたのは木製の小さな物体で筒状になっており千切れた紐で死体の首に掛けられていたと言う。テオは箱の側面に「服と笛」と書かれている文字を発見した。ゴンザレス署長の筆跡だ。もう一度木の破片みたいなのを見ると、確かに中がくり抜かれていた。彼は案内役の巡査を振り返った。

「これは笛なのか?」
「笛にしか見えないだろう? この保管庫は身元不明者の遺留品でいっぱいだ。これっきりにして欲しいね。」

 テオはその返答を聞いて、ちょっと複雑な気分になった。2年近く前アメリカに一時帰国していた時期があった。エル・ティティでバス事故に遭って記憶喪失になっていた時期だ。事故から2ヶ月も経ってから身元が判明して、彼は生まれ育った国立遺伝病理学研究所へ連れ戻された。しかし秘密の多い研究所に過去を失った彼はどうしても馴染めず、エル・ティティに帰りたいと強く願うようになっていった。そんな時、一人だけ彼に親切にしてくれた研究員がいた。デイヴィッド・ジョーンズと言うその研究員はテオを励まそうと地元にあった中米の考古学博物館へ連れて行ってくれた。その時ジョーンズは売店で土産物の土笛を購入したのだが、その笛はインディオの呪いがかけられた笛だった。笛を吹いたジョーンズは呪いで精神に異常を来たし、傷害事件を起こしてしまったのだ。テオは大統領警護隊の友人に助けを求め、ジョーンズにかけられた呪いを解いてもらったが、ジョーンズの研究者生命は絶たれてしまった。アメリカを逃げ出してセルバ共和国に亡命した今は、ジョーンズの消息を知る術もない。
 巡査はテオが沈黙してしまったのは、保管庫にある他の遺留品の箱のせいだと誤解した。テオが記憶を失いゴンザレス署長の家で世話になるきっかけとなったバス事故の犠牲者の遺留品だ。山道から深い谷間に転落して焼けたバスの乗員乗客達の引き取り手のない遺留品だ。犠牲者の多くは焼け焦げ、身元の判別が出来ない為に街の共同墓地にまとめて葬られた。遺族が見つからなかった者もまだいたのだ。引き取り手のない焼け焦げた鞄や靴やなんだかわからない物がまとめて箱に仕舞われていた。テオは過去の記憶が戻った今も事故当時のことだけは思い出せない。どうしても思い出せない。だから犠牲者達を思い出してやることも出来ない。

「まだ6人残っているんだ。」

 巡査が言った6人は身元が判明しない犠牲者だ。判明しても遺体がどれだかわからない人の場合は墓標に名前が書かれていたが、その6人は名前すらわからないのだ。恐らく永久にわからないだろうとテオも巡査も予感していた。
 テオはバナナ畑の死体が持っていたと言う笛を手に取った。

「これを借りて行っていいかな?」
「スィ、君なら何を持って行っても良いさ。」

 テオは預かり証に名前を書いた。その笛は呪いの笛と違ってひどく粗末でありふれた物に見えたが、死体の身元を探るにはそれしか手がかりがなかった。
 ゴンザレスはテオが笛を借りたと告げると、物好きだなぁと言いたげな顔をしたが、特にコメントはなかった。テオは笛をビニルバッグに入れて、月曜日の朝一番のバスに乗った。


第2部 バナナ畑  2

 「多分殺されたんだろうって言うだけさ。死因も名前もわからん。性別だって男物の服を着ていたから男だとわかっただけだ。」
「検死しなかったのかい?」

 テオは時々アメリカのテレビドラマみたいなことを言う。ゴンザレスは早くこの話題を終わらせたかった。

「ドクトル・ウナヴェルトが診てくれた。」
「それでも死因はわからないのかい?」

 ドクトル・アルストはご不満らしい。エル・ティティの町医者がミイラの解剖なんて出来る筈がないじゃないか。ウナヴェルトは外科医で内科医で産科医でもあるが、法医学者ではないし、白骨同然のミイラの解剖をする程暇じゃない。

「興味があるなら、お前が調べるこったな。墓の発掘許可ぐらいなら出してやるぞ。大統領警護隊文化保護担当部に申請しなくても、俺が出してやる。」

 皮肉を言ったのは、流石にそこまでやらないだろうとたかを括ったからだ。テオは意外に繊細な男だ。死体を見るのは好きでない。ゴンザレスはそれを承知していた。果たして、義理の息子はそれ以上死体の話題に突っ込まずに、新学期の大学の話へ方向転換した。親友で大統領警護隊のカルロ・ステファン大尉が文化保護担当部から警護隊本隊へ逆出向になったこと、カルロの妹のグラシエラがグラダ大学の文学部に入学したこと、彼女が美人なので忽ち男子学生達の間で話題になっていること、テオの妹になるアリアナ・オズボーンが出向先のメキシコ、カンクンの病院で新しい研究に取り組んでいること等。それでゴンザレスは死体のことを忘れてしまった。
 翌朝日曜日の礼拝を終えた神父がテオを訪ねて来た。テオはクリスチャンではないので教会の礼拝に行ったことがない。ゴンザレスも妻子を亡くしてから教会から足が遠のいていたので、神父がゴンザレス家の分厚い木製のドアをノックした時、義理の父子はやっと起きて遅い朝食をとっているところだった。缶詰の煮豆と乾いた硬いパンとホットチョコレートの朝食だ。
 扉を開ければいきなり居間兼食堂だ。出迎えたゴンザレスと挨拶を交わし、神父がテオに少し話があるのだがと切り出した。テオは立ち上がって神父を席へ案内した。ゴンザレスが食べ終わった食器を片付け、神父にコーヒーは如何ですかと尋ねた。神父が喜んで戴きますと言った。
 テオはまだ煮豆を食べていた。缶詰の煮豆はそれなりに美味しいが、彼はもっと美味しく豆を煮込める人を知っていた。また彼女のアパートに泊まりに行きたいなぁと思った。それも寝るのは客間ではなく・・・。
 神父は暫くゴンザレスと世間話をしていた。テオの食事が終わるのを待ってくれていたのだ。喋りながら神父は室内を見回した。飾り気のなかった男鰥のゴンザレスの家が少しだけ華やいで見えた。花を飾っているとか、絵画を壁にかけているとか、そんなことではない。テオドール・アルストと言う若者が華やいだ美形の容姿を持っているのだ。下手をすると初老の男が若い同性の愛人を家に置いていると思われそうだが、ゴンザレスの人柄を知っている街の住人達はそんな失礼な想像をしたことがなかった。テオが例え若い娘であっても、絶対にそんな想像はしないだろう。それに住人達はテオが異性愛者であることも知っていた。街の若い娘達に誘われるとそれなりに鼻の下を伸ばして遊びに行くのだ。彼が現れる前のゴンザレスの寂しい生活を知っていた神父は、テオは神様が警察署長を救うために遣わした天使かも知れないと思った。その天使に、神父は生臭い話題を出した。

「バナナ畑の気の毒な男の話を聞いたかね?」

 テオが頷いた。

「身元不明だそうですね。」
「そうだ。私も彼の為に何か役立とうと、礼拝の時に信者に心当たりはないかと尋ねてみるのだが、未だに反応がない。教区の人々の知らない人間らしい。しかし家族にも会えず見知らぬ土地で葬られた男が私には哀れに思えてならない。彼の身元を探す手がかりが欲しい。」

 神父にじっと見つめられて、テオは相手が何を言わんとしているのか想像がついた。

「死体のDNAを調べろと仰るのですか?」
「スィ。」

 神父がニッコリした。テオは首を振った。

「駄目ですよ、神父さん。DNA鑑定による身元確認は、比較対象が必要です。行方不明者として届出がある人の細胞や、血縁者の細胞が手に入らないと、死体のDNAだけでは誰なのかわからないのです。」

 田舎司祭は最先端技術が決して万能ではないことを知った。がっかりした表情でコーヒーを啜った。

「先ず行方不明者の届出があるか調べなければならないのだね?」
「スィ。お役に立てなくて残念ですが・・・」

 正直なところテオは残念でもなんでもなかった。ミイラを掘り出して解剖するなんてご免だった。そんなことはムリリョ博士でもやらないだろう。
 ・・・ってか、その死体は”ヴェルデ・シエロ”じゃないだろう? ”ティエラ”のメスティーソだろうけど・・・
 確率的に考えれば、古代先住民の子孫である筈がない。”ヴェルデ・シエロ”に何か災難があればグラダ・シティに聳え立つ”曙のピラミッド”におわします偉大な巫女ママコナが察知する。或いは同じ部族の長老達が何かを感じる。そして捜査機関を水面下から動かして調査させるだろう。だが彼等は普通の人間の事件には首を突っ込まない。
 神父がコーヒーの礼を言って帰って行くと、テオはテーブルの上を片付け、食器を洗った。ゴンザレスは着替えて休日の楽しみである近所の雑貨店の親父達とのお喋りクラブに出かける準備をしていた。幼友達のオヤジ達が集まってカード遊びをしたり、ボードゲームをしたりして遊ぶのだ。テオは己も歳を取ったら飲み友達とそうやって日々を過ごすのかなと想像して可笑しくなった。オヤジになった己がちょっと想像つかない。
 バナナ畑で死んでいた男もいつかオヤジになってのんびり過ごしたかったんじゃないのか?
 テオは少しだけ死体の身元を調べて見ようと思った。ゴンザレスに声をかけた。

「ちょっと警察署に行ってくる。例の身元不明者の遺留品はまだ保管されているよね?」

第2部 バナナ畑  1

  その死体は長い間誰にも気づかれずにそこにあった。

 バナナ畑の所有者がもう少し畑を拡張しようと、東の藪を刈っていて見つけたのだ。エル・ティティ警察の署長アントニオ・ゴンザレスが通報を受けて駆けつけた時、死体は半ばミイラ化していた。ゴンザレスは物盗りの犯行だろうと思った。エル・ティティで住民の誰かが行方不明になったと言う届出は絶えて久しく無く、死体は他所者だろうと警察は考えた。物盗りならこの小さな寂れた田舎町にだっていくらでもいたし、乱暴な奴もいた。ゴンザレスは死体は男だろうと見当をつけた。街の唯一の医者ドクトル・ウナヴェルトも同意見だった。何故なら死体は男物の衣服を身につけていたからだ。身分証はなかった。財布ごと盗られたのだろう。死体は近隣の農民と思われ、そうなら普段身分証など持ち歩かなかったかも知れない。身元が判明しない死体はすぐに忘れ去られる。事件は未解決のまま有耶無耶になろうとしていた。エル・ティティでは・・・否、このセルバ共和国では珍しいことではなかった。警察は泥棒や交通違反の取り締まりに忙しく、身元不明者の捜査などしている暇はない。それに他人の過去を詮索しないと言うこの国に古くからある習慣も捜査のネックになった。市民は警察に期待しないし、警察だって期待されるのは迷惑だ。だから死体が街の共同墓地に埋葬されてしまうと、ゴンザレスはそいつのことをすぐに忘れかけた。
 死体が発見されて5日後に、首都グラダ・シティからゴンザレスの息子のテオドール・アルスト・ゴンザレスが週末の帰省をした。テオはゴンザレスの養子だ。本来はアメリカ合衆国の人間だった。DNAの研究をしていた偉い科学者だったのだ。それなのに田舎警察のウダツの上がらぬ署長の養子になってくれた。これには複雑な事情があって、ゴンザレスは今でも時々夢を見ているような気分になる。家族と死別した初老の警察官と、生まれた時から家族がいなかった若者、孤独な魂同士が惹かれあって親子になったのだ。正式に養子縁組をして家族になってからまだ半年だった。
 テオは国立グラダ大学生物学部で遺伝子の研究をしている。発生遺伝学とか進化発生遺伝学とか、ゴンザレスには理解出来ない難しい学問だ。テオは研究をしながら学生の講義も担当している。立派な大学の先生なのだ。まだ教授じゃないよ、と彼は言うが、ゴンザレスは他人に自慢する時は息子は教授だと言っていた。
 自慢の息子が土曜日のお昼にバスに乗って帰って来た。前日金曜日の深夜に夜行バスに乗ってグラダ・シティを出発して、昼前にエル・ティティに到着だ。エル・ティティの平均的庶民の家と同じ、土煉瓦に漆喰を塗ったゴンザレスの家に入り、男所帯の家の掃除をして溜まった汚れ物を洗濯して彼は午後を過ごす。夕方ゴンザレスが帰宅すると夕食が出来上がっていて、2人でビールを飲みながらのんびりと楽しい夜を迎えるのだ。週末に休日を入れるのは署長の特権だ。ゴンザレスはセルバ的な習慣を遠慮なく使って、数年ぶりの家族団欒を楽しんだ。
 テオは留守の間にエル・ティティで起きたことを知りたがる。養父の職務が危険と隣り合わせであることを十分承知していたからだ。警察官はどこの国でも危険で厳しい仕事だ。セルバ共和国は決して極貧ではないが、裕福でもない。富と繁栄は東海岸の首都グラダ・シティと西の高地の鉱山街オルガ・グランデに集中し、国民の多くは昔ながらの農耕や漁で暮らしている。或いは鉱山で危険な採掘現場の労働をして稼ぐのだ。この国の不満分子は反政府ゲリラか強盗団になる。ゴンザレスの仕事はそいつらがエル・ティティの住民に危害を加えぬよう警戒することだ。悪党と戦うのは政府軍の憲兵隊や陸軍特殊部隊の仕事だが、警察は権力者の「手先」なので、見せしめに狙われたりすることも往々にある。だからテオは不安なのだ。治安の良いグラダ・シティに養父を呼び寄せて暮らしたいのだが、ゴンザレスは故郷を離れたがらない。失った家族の墓も守らねばならない。だからテオは街の出来事を彼なりに分析して、ゴンザレスに危険が近づいていないか確かめようとしていた。

「殺人事件があったそうだね?」

 テオは流暢にセルバ共和国公用スペイン語を話す。恐らくネイティヴのゴンザレスより正しい文法と発音で話せる筈だ。しかしゴンザレスの前ではティティ方言と呼ばれるティティオワ山周辺で話されている方言を使う。まるでここで生まれ育ったかのように自然に喋る。それが彼の才能の一つだ。彼は一度耳にした言語を3日もあれば覚えてしまう。彼のDNAがそうなっているのだ。彼、テオドール・アルスト、英語名シオドア・ハーストは、遺伝子操作されて生まれた人間だった。

「殺人事件だなんて、誰が言ったんだ?」

 ゴンザレスは不機嫌な顔で尋ねた。家で仕事の話をしたくなかった。退屈な街の警察業務なんて退屈でしかないし、食事時に死体の話は全く相応しくない。彼はグラダ・シティの噂話の方が面白そうだと思った。しかしテオは反対の意見を持っていた。

「男が物盗りに殺されたって聞いたけど?」

 きっとバスの中で誰かが喋ったのだ。話題が少ないから、身元不明の死体の話を誰かがいかにも自分が見てきたかのように喋ったのだろう。
 

番外編 1 雨の日 3

  ケツァル少佐はロビーの窓から外に駐機しているプロペラ機を見た。

「無事に降りたので、私は用がないですね。では仕事に戻ります・・・」
「待って下さい。」

 ステファンは慌てて彼女を引き留めようとした。

「母が貴女に会いたがっています。」

 ケツァル少佐は手に視線を落とした。ステファンはうっかり彼女の手を掴んでしまっていた。慌てて手を離した。

「失礼しました。」

 少佐は小さな溜め息をついた。彼女も落ち着かないのだろう、と彼は思った。
 カタリナ・ステファンとグラシエラがトイレの方角から歩いて戻って来るのが見えた。精一杯おめかししているが、お上りさん感は誤魔化せない。母親は伝統的な民族衣装に似せた他所行きの服を着て、妹は新しいカットソーのチュニックとジーンズだ。オルガ・グランデでは普通に見られるファッションだが、グラダ・シティでは浮いて見える。もっとも国内線空港ロビーはお上りさんでいっぱいだから、ここではまだマシだ。カルロは休暇をとっているので私服だった。襟付きのシャツにジャケット(勿論拳銃ホルダーを隠すためだ)、ジーンズだ。 そしてケツァル少佐は仕事中に抜けて来た。但し、いつもの軽装ではなく正装と言うか、平時の軍服だった。ファッションは関係ないので、お上りさんの父の家族に気まずい思いをさせないで済む。しかし、目立っていた。市民は軍人だと気がついても普通は気にしないのだが、胸に緑色の徽章が輝いているとなると別物だ。しかも少佐はカタリナ母娘がすぐに息子を見つけられるように、緑色のベレー帽を出して被った。

 ラ・パハロ・ヴェルデ以外の何者でもない!

 果たしてグラシエラが先に彼女を見つけて、母を促し足早に戻って来た。兄に似て少し丸みがかった輪郭、キラキラ輝く目のセルバ美人だ。一瞬ステファンは思った。

 (少佐 + マハルダ) ÷ 2

 彼の耳にだけ聞こえる声で少佐が囁いた。

「紹介しなさい。」

 ステファンは母が正面に来たので、素早く紹介した。

「母のカタリナ・ステファンと妹のグラシエラ・ステファンです。」

 そして母達にも言った。

「大統領警護隊文化保護担当部指揮官シータ・ケツァル・ミゲール少佐であられる。」

 改まった言い方に少佐が吹き出しそうになるのを耐え、それからカタリナの額に視線を向けて、姿勢を正し敬礼して見せた。

「ミゲールです。グラダ・シティにようこそ。」

 グラシエラが目を見張った。

「本物のラ・パハロ・ヴェルデなんですね!」
「失礼ですよ、グラシエラ。」

 カタリナが控えめな声で娘を叱った。ケツァル少佐は微笑んで異母妹を見た。

「貴女のお兄さんも本物のエル・パハロ・ヴェルデでしょ?」

 グラシエラは頬を赤く染めて頷いた。少佐に初めましてと挨拶してから、兄に飛びついた。

「カルロ! 大きくなっちゃったね!」

 まるで母親の台詞だ。カルロが妹のキス攻撃に苦戦している間に、カタリナ・ステファンが少佐の前に来た。

「初めまして。」

と彼女が挨拶した。少佐も彼女に向き直った。右手を左胸に当てて「初めまして」と一族の伝統的な作法で挨拶した。一瞬目と目が合った。少佐の目に涙が浮かび、彼女は慌ててベレー帽を脱いで目に当てた。カタリナが優しく彼女を見つめた。

「グラシャス、セニョーラ・ステファン」

と少佐が囁いた。

「初めて父を見ました。」

 カタリナ・ステファンがケツァル少佐を抱きしめたので、カルロは妹を抱きしめたままびっくりして2人の女性を見つめた。




2021/08/23

番外編 1 雨の日 2

 「どっちが良いと思います?」

 ケツァル少佐が2つのチョコレートの箱を掲げて尋ねた。アーモンドチョコレートとマカデミアナッツチョコレートだ。どっちでも良いと思ったカルロ・ステファンは答えた。

「どっちも彼女は好きですよ。」

 少佐が怪訝な顔をした。

「彼女?」

 一瞬気まずい空気が空港ロビーに流れた様な気がした。カルロはしくじったと悟った。少佐は誰かにあげるのではなく、己のおやつを買っていたのだ。少佐も彼の勘違いに気がついた。低く「ああ・・・」と呟いて、2つの箱を眺め、両方をレジへ持って行った。
 余計な金を使わせてしまった、と彼は反省した。少佐は金持ちだが無駄遣いは決してしない。
 セルバ航空の緑色にペイントされたプロペラ機が降りて来た。セルバは「森」と言う意味だ。国の色も緑だ。国土の4分の3は森林だが、カルロの故郷オルガ・グランデは砂漠の入り口にある乾燥した台地だった。そこから母と妹がやって来た。2人共オルガ・グランデを出たのは初めてだ。飛行機も初めてだ。大きな荷物を載せたカートを引きずって2人がゲートから出て来た。国内線は搭乗する時は荷物の検査が厳しいが、降りる時は自由だ。カルロは懐かしい家族の顔が見えた瞬間、足早にそちらへ向かった。少佐を売店に置いて来てしまったが、迷子になったりしないだろう。

「カルロ!」

 母親が名を叫んだ。彼は最後はダッシュで母と妹に駆け寄った。母がカートを彼の方へ押した。

「ちょっと見張ってて!」

 ハグする間もなく、母と妹は空港のトイレにダッシュした。彼が呆気に取られてカートの取っ手を握って立っているところへ少佐がやって来た。トイレに駆け込んでいく母と娘をチラリと見て、呟いた。

「気の毒に、ずっと我慢していたのですね。」

 セルバ航空国内線の揺れはハンパではない。


番外編 1 雨の日 1

  小雨が降っていた。国内線の到着フロアの窓から外を眺めているカルロ・ステファン大尉は落ち着かなかった。雨は穏やかで風も吹いていない。セルバ航空の国内線旅客機がどんなにオンボロでも飛行に支障はない。彼が落ち着かないのは、フライト状況が心配なのではなく、これからやって来る人々と近くの売店でお菓子を物色している上官との対面の方が無事に済むか否か不安だったからだ。正直なところ、彼女を連れて来たのが正しい判断だったのか、彼は今迷っていた。
 この日、彼の母親カタリナと妹のグラシエラがグラダ・シティにやって来る。彼が貯金をはたいて購入した小さな家に引っ越して来るのだ。彼と友人達で考え抜いて選んだ家だ。きっと気に入ってもらえると自信はあった。オルガ・グランデの貧しい家から持ち出して来る物は殆どなくて、母も妹もそれぞれ鞄一つずつに詰め込めるだけ詰め込んだ衣料品だけが、引っ越し荷物なのだ。家具は購入した中古物件に付いている。もし気に入らなければ少しずつ買い替えていけば良い。交通費はステファンが出した。母親は旅費が安く済むバスで行くと言ったが、彼は飛行機の方が安全だと主張して、航空券を送ったのだ。セルバ航空は定刻に飛んだ試しがなかったが、今のところ無事故なのだ。パイロットが”ヴェルデ・シエロ”の守護を受けているのだと言う都市伝説があるが、多分それは真実なのだろうとカルロは思った。
 グラダ・シティに家を買ったから引っ越して来いと言ったら、母親は躊躇った。都会で暮らしたことがないと電話口で尻込みした。オルガ・グランデだってセルバ第二の都市だ、貧民街だって田舎の農村より垢抜けしていると言って説得した。妹に大学教育を受けさせたい、母を一人にしたくない、だからグラダ・シティに越して来て欲しいと訴えたのだ。結局、グラシエラが兄と同じ家に住んで大学へ行きたいと言ったので、母親は折れた。そして、カタリナは息子をドキリとさせることを言った。

「お前の上官に会わせてくれるのよね?」

 そうだ、大統領警護隊にスカウトされ、文化保護担当部に配属された時、カルロは嬉しくて母に電話で伝えた。新しい上官の名前はシータ・ケツァルだと。女性の少佐なんだよ、と。無邪気に電話の向こうで喋る息子の言葉を、母親はどんな気持ちで聞いていたのだろう、とカルロは今思っていた。母は父の正妻だ。しかし父には母と出会う前に愛した女性がいた。母はそれを父から聞いた。”心話”は嘘をつけないから、全て教えられた筈だ。父を夫として選ばなかったにも関わらず、父の子だけを望んだウナガン・ケツァルが、命と引き換えにこの世に残した娘の名がシータなのだと。あの時カルロはまだ父の本当の人生を知らなかった。父がどう言う生まれでどんな育ち方をして母とどうやって知り合って、どうして死んだのか。
 カルロは電話口で、母にやっとの思いで言った。

「彼女も最近迄何も知らなかったんだ。」

 母はそれ以上何も言わなかった。
 母と妹が引っ越して来るので空港へ向かえに行きたいと休暇を願い出ると、ケツァル少佐は平素の顔で許可をくれた。カルロは、母と妹が新居で落ち着いてから対面させようと思った。ところが、前日の夜になって雨が降り出したので、少佐が言ったのだ。

「天候が良くないので、私も空港へ行きましょう。パイロットの腕を疑う訳ではありませんが、着陸を見たいのです。」

 つまり、飛行機を守護したいと言ったのだ。少佐にとっては、最近迄名前すら知らなかった父親の、正妻と異母妹がやって来るのだ。それとも、ドライに部下の家族を出迎えてくれるだけのつもりなのか? 
 カルロは売店を振り返った。ケツァル少佐はアーモンドのチョコレートとマカデミアナッツのチョコレートを手に取って迷っていた。
 彼女は食べ物以外に悩むことがあるのだろうか・・・?


2021/08/22

星の鯨  16

  翌朝、シオドアはケツァル少佐の「起床!」と言う声で起こされた。バスルームへ行くと、彼の服は乾燥機の中で皺だらけになっていた。仕方がないので、少佐が豆を煮込んだり果物を切ったりしている間にアイロン掛けをした。そしてロホを虜にした煮豆をたっぷり食べて、少佐のベンツで大学迄送ってもらった。
 午前中の授業が終わり、彼が研究室に戻ると、客がいた。ステファン大尉だ。彼と大学で会うのは初めてだったので、ちょっと驚いた。

「いつ来たんだい?」
「8分前です。」
「生物学に興味でもあるのかな? それとも任務?」

 ステファンは躊躇した。シオドアはコーヒーを淹れる準備を始めた。客の為と言うより己の為だ。砂糖壺とミルクを先に机の上に置いた。ステファンはTシャツの上にジャケット、下はジーンズだ。多分、いつも通り拳銃を装備している。シオドアは彼が昨晩アリアナを病院職員寮へ送って行ったことを思い出した。彼女と何かあったのだろうか? と思った時、ステファンがやっと言った。

「昨日、アリアナから言われたのです。その・・・少佐との・・・ことを応援すると・・・」

 ひどく言いにくそうに打ち明けた。シオドアは黙ってカップにコーヒーを注ぎ、彼の前に置いた。ステファンがハッとして彼を見上げた。

「昨晩、少佐のアパートに泊まったのですか?」

 後ろめたいことは何もしていないので、シオドアは素直に認めた。

「スィ。帰ろうにも足がなかったし、少佐は運転する気分じゃなかったから、泊まって行けと言ってくれた。」
「それだけ?」
「それだけじゃないな・・・客間でぐっすり寝かせてもらった。朝飯をご馳走になった。車で大学迄送ってもらった。」

 シオドアはステファンの嫉妬を感じて、ちょっぴり愉快な気分になった。だけど、どうしてバレたんだ? 彼は後学の為に質問した。

「どうしてわかった? 新しい能力を開発したのか?」

 ステファンがぶすっとした顔で答えた。

「貴方から少佐と同じ石鹸の香りがします。」

 シオドアは思わず声を立てて笑ってしまった。

「彼女に石鹸のブランドを訊いておこう。寮でも使ってみる。」
「揶揄わないで下さい。」

 ステファンが拗ねた顔でコーヒーに砂糖を入れてやや乱暴にかき混ぜた。

「私は貴方に宣戦布告に来たのです。」
「宣戦布告?」
「スィ。私は、まだ彼女を諦めていません。」

 シオドアは溜め息をついた。彼は前日考古学のケサダ教授に同父異母兄弟姉妹の婚姻について質問したばかりだった。ケサダは、セルバ共和国の法律では全血半血に限らず兄弟姉妹間の婚姻は禁止だと答えた。但し、と彼は言った。

「先住民に限り、同父異母兄弟姉妹間の婚姻は認められています。この場合の先住民は”ティエラ”も”シエロ”も一緒です。法律を作った人間が何者か考えれば、不思議ではありませんがね。」

 カルロ・ステファンは純血種ではないし、白人の血が入っているが、メスティーソが先住民でないとは言い切れない。父親は正真正銘の純血の先住民だったのだ。

「法律がどうあれ、俺は遺伝子学者として君の主張を認めたくないな。」

とシオドアは言った。

「それに、俺も彼女が好きだ。」

 遂に言ってしまった。勿論、大統領警護隊文化保護担当部の隊員達は全員承知のことだろうけど。
 ステファン大尉は彼をじっと見つめた。しかし怒っていない、とシオドアは気がついた。

「俺と闘うつもりかい?」
「貴方が望むなら・・・」

 ステファンが微かに微笑んだ。

「我々はハンデがあります。私は彼女の”出来損ない”の弟だし、貴方は白人だ。双方とも一族の頭の硬い連中には、彼女に相応しくないと断じられるでしょう。」
「そうだな。ロホやアスルの方が遥かに彼女に相応しいだろうし。」
「ロホは最強のライバルですが、アスルは考えなくて良いです。アイツは彼女を慕っていますが、我々とは少しレベルが違います。」
「姉さんの様に慕っている?」
「スィ。」

 シオドアは吹き出した。

「昨夜、少佐が言ったんだ。複数の女性達が、君と俺を取り合っていると。」
「え?」
「争奪戦の参加者を訊いたが教えてくれなかった。彼女は恋人争奪戦のゲームだと言った。」
「アリアナは私に恋愛ゲームを仕掛けないと言いました。」
「それは君を忘れたいと言う意味だ。」

 シオドアはコーヒーを飲んだ。

「君達の恋愛観はよくわからない。と言うより、俺自身がまともな恋愛の経験がないだけで、大人の恋愛がどんなものかわかっていないのかも知れないな。本当に好きなら、血の濃さも関係なくなるのかも知れない。」

 その時、ステファンの携帯電話が鳴った。彼がポケットから出して見ると、かけてきたのはケツァル少佐だった。彼が出るなり、不機嫌な声が聞こえた。

ーー何処をほっつき歩いているのです? 4階から2階へ行くのに1時間もかかるのですか?

 ステファン大尉が情けない顔をした。

「申し訳ありません、ちょっと野暮用で外出しています・・・」
ーー早く戻って来なさい! さっさと報告書を上げる!

 シオドアは声を立てずに笑うと言う困難な技を習得する必要がある、と思った。


星の鯨  15

  部下達とアリアナが去って、ケツァル少佐のアパートは静かになった。食器洗いは部下達がやってくれたし、椅子やテーブルも元に戻して帰ったので、少佐はのんびりソファに座って、シオドアが掃除機を床にかけるのを眺めていた。家事はあまりやらない主義だ。実家も自宅もメイドがいるし、家事らしきことをしたのは大統領警護隊の訓練生だった時くらいだ。金持ちが家事をやらないのは、メイドの仕事を取ってしまわないための心得だ。少佐が怠け者なのではない。それにその日は長い話を語ったので、彼女は疲れていた。元気な時ならワインかブランデーでも一杯やって寝るのだが、心臓の傷を気遣って彼女は我慢していた。だがシオドアには礼を言いたかったので、彼が掃除機を片付けてリビングに戻るとテーブルの上にブランデーの瓶とグラスを用意していた。

「メイドの仕事を取ってしまったお仕置きに、一杯召し上がって下さい。」
「そんな罰があるかい?」

 シオドアは笑いながら彼女の隣に座った。少佐が彼の前にブランデーを、彼女自身には水を入れたグラスを置いた。

「本当にアリアナがカンクンに行くことを知らなかったのですか?」
「知らなかった。」

 シオドアはグラスに酒を注ぎ入れた。少佐がつまらなそうな顔をした。

「やっと心が繋がりかけたのに・・・」
「そこで切れたりしないさ。電話でもメールでもしてやってくれよ。きっと喜ぶさ。」
「近くにいてくれた方が嬉しいのですけど・・・シーロも意地悪です。」

 少佐は同僚の愚痴をこぼした。シオドアは何となくロペス少佐がアリアナを国外へ行かせる理由に心当たりがあった。

「アリアナは少し異性関係にだらしないところがあった。カルロにもシャベス軍曹にも簡単に手を出した。今度の事件でスワレにそれを利用され付け込まれた。ロペス少佐はわかっていた様だ。放置しておいたら、”砂の民”を動かすことになってしまう。ロペス少佐は彼女を守るために、メキシコ行きを勧めてくれた。俺はそう信じる。」

 ケツァル少佐が水を一口飲んだ。

「ことは恋愛問題だけに収まらないと言うことなのですね。そう・・・”砂の民”が介入してきたら、ゲームも何もあったものではありませんから。」
「ゲーム?」

 シオドアが怪訝な顔をしたので、彼女はけろりとした顔で言った。

「恋人の争奪戦です。誰がカルロを取って、誰が貴方を取るか。」
「はぁ?」

 シオドアは彼女に向き直った。

「誰と誰が、カルロと俺を取り合っているんだ?」
「気になります?」
「気になる。」
「教えません。」

 少佐は立ち上がった。

「選択肢はもっと多いです。参加者も増えていきますからね。」

 訳のわからないことを言って、彼女はバスルームに向かって歩き出した。

「今夜は泊まって行かれます?」
「いや・・・寮に戻らないと、またロペスに叱られる。」
「でも、カルロは自宅に直帰です。私は今夜車を運転したくありません。帰りの足はありませんよ。」
「歩いて帰るさ。」

 少佐が足を止めて振り返った。見つめられてシオドアはドキドキした。

「ここから寮迄の距離を歩いて行かれるのですか?」
「・・・」
「路上強盗と言う言葉をご存知?」
「・・・」
「タクシーもこの時間はありませんよ。」
「少佐・・・」
「何です?」
「俺に泊まって欲しいのか?」

 暫く彼は少佐と目を見つめ合った。”心話”は通じなかった。彼は普通の男として、女の気持ちを考えなければならなかった。少佐は先住民で、先住民は単刀直入な物言いをしない。しかし、彼女はちゃんと意思表示をしたのだ。「今夜は泊まって行かれます?」と。
 シオドアは折れた。

「わかった・・・申し訳ないが、泊めてくれないかな・・・」

 入浴の支度をしてもらって、シオドアは風呂に入った。着替えはなかったが、乾燥機付き洗濯機があったので、そこに服を入れて洗濯した。バスローブだけ身につけてリビングに戻ると、少佐が客間を準備してくれていた。彼女の寝室ではないのだ。思い起こせば、以前泊まった時も彼は客間でロホはリビングだった。アメリカのセルバ大使館、ミゲール大使の私邸でも、彼女はステファンを彼女の部屋に入れたが、ステファンは彼女のベッドで彼女自身はハンモックだったのだ。
 少佐はアリアナではない。 シオドアは己の心に言い聞かせた。
 ベッドに入り、目を閉じた。アリアナとステファンは何事もなくそれぞれ帰宅したのだろうか。アリアナは己がメキシコへ行くことになった原因を理解した様だった。それなら今夜は何事もなく別れただろう。ステファンも彼女の誘惑に負けることはない筈だ。今以上に事態をややこしくしたくないだろうから。
 ブランデーが効いて彼は眠りに落ちた。 

星の鯨  14

  ロホとアスルはデネロスが運転する軍用ジープで大統領警護隊の官舎に帰って行った。アリアナはステファン大尉が病院職員寮へビートルで送ると言った。アリアナは躊躇したが、少佐がそうしなさいと勧めたので、素直に従った。シオドアは少し心配だったが、アリアナが大丈夫と目で言ったので、彼女を大尉に任せることにした。

「カンクンへ行く日が決まったら、必ず連絡しろよ。」

と彼は念を押して彼女を送った。
 ビートルの助手席に座ると、走り出して間もなく、大尉が彼女に話しかけた。

「向こうに行ったら、アメリカ人に気をつけて下さい。遺伝病理学研究所と繋がりがあるかも知れません。向こうはまだ貴女を諦めていない可能性もあります。」
「ロペス少佐はそれも考慮に入れて下調べをして下さった筈よ。」

 アリアナは前を向いたまま言った。

「私もいつまでも人に頼ってばかりじゃ駄目なのよ。自分で自分の身を守れるようにならないと。」
「頑張り過ぎても良くありません。」
「まだ頑張る入り口にいるのに、そんなことを言わないで。」

 彼女は笑った。そして、思い切って胸の内を打ち明けた。今言わなくて、何時言えるのだ?

「知っていると思うけど、私、貴方のことが本当に好きなの。今も好き。だけど、貴方が誰を愛しているか知っている。テオは貴方の恋に批判的だけど、私は・・・貴方が彼女を諦めきれない気持ちがわかる。だから、貴方の邪魔をしたくないの。」
「邪魔とは・・・?」
「貴方に恋愛ゲームを仕掛けたりしないってこと。」

 アリアナは運転席の方を向いた。ステファンは前を向いたままだ。

「テオによく叱られるけど、私は時々自分を抑えられなくなる。多分、本当の恋愛をしていないからだと思うの。このまま貴方のそばにいたら、私はまたゲームを始めてしまう。貴方に少佐と私を選ばせようとするでしょう。負けるとわかっていてもね。そして貴方には気まずい思いをさせてしまうに決まっている。私はまた別の男性を摘み食いしてしまうわ。シャベス軍曹みたいな若い人を誘惑してしまうでしょう。」

 彼女も前を向いた。

「貴方とロホが、私のことをアスルが気に入っていると言ってくれたわね。私には彼はまだ子供に見えるの。だけど、今日、私は彼をもう少しで誘惑しそうになった。」
「そうは聞こえませんでしたが・・・」
「本当に誘いをかけようとしてしまったのよ。テオは気がついているわ。後で聞いてごらんなさい。」
「アスルにも経験は必要です。」
「でも貴方の代わりに、と言うのは良くないわ。だから、私はロペス少佐の提案を聞いた時に、貴方達と距離を置く良い機会だと思ったの。でもね、少佐とマハルダから離れるのは寂しいの。洞窟の中で少佐の手術を任された時、彼女が私を心から信頼してくれていることがわかって、本当に嬉しかった。だから、私は彼女が貴方を選んだら、絶対に応援する。テオが反対しても私は味方するわ。」

 ステファン大尉が小さく溜め息をついた。

「彼女が私を選んでくれるかどうか、私には自信がありません。今まで彼女が私に対して親しげに振る舞っていたのは、同じグラダ族の血が流れていたからだと、今回の事件で思い知りました。男としての信頼は、私よりロホの方へ置かれています。そして人として彼女はテオを信用しています。洞窟で敵に襲われた時、彼女はテオの背中に隠れたのです。私だったら、絶対に彼女はそんなことをしない。逆に私を守ろうとしたでしょう。男として屈辱です。」
「諦めちゃ駄目よ!」

 アリアナが力強く言ったので、彼はびっくりした。

「彼女はどんなことでも貴方に関することは細やかに気をつけて行動しているわ。貴方との本当の関係がわかる前から・・・彼女は貴方を愛している。彼女を信じてあげて。」

 ステファン大尉が苦笑した。

「遺伝子学者が、近親婚を奨励するのですか?」
「心の繋がりは誰にも邪魔出来ないのよ。」

 アリアナは心の中で呟いた。

 私は繋がりたい人が増えてしまったの・・・

星の鯨  13

 「明日からはまた普通の業務に戻るんですか?」

とマハルダ・デネロス少尉が尋ねた。 ケツァル少佐が頷いた。

「スィ。但し、アスルはまだ足が不自由ですから・・・」
「もう歩けます!」

 アスルが主張したが、少佐は無視した。

「アスルがしていた仕事をデネロス、貴女がして下さい。」

 え? と全員がちょっと驚いた。アスルは確実にショックを受けた。仕事を後輩に取られるなんて屈辱ではないか? シオドアは彼が可哀想に思ってしまった。しかし少佐は部下の抗議を受け付けなかった。

「短期間の業務内容の交換です。軍の警備隊の手配を承認が通った申請書に従ってデネロスが行います。アスルはデネロスがしていた申請書のチェックとデータ入力です。誰もが最初に行う業務ですから、まだ覚えているでしょう?」
「そうですが・・・」
「デネロスにも現場へ出る準備が必要です。彼女が手配した警備隊の最終確認はアスルがしなさい。」
「承知しました。」

 下っ端の仕事と指南役を命じられて、アスルは渋々承知したのだ。文化・教育省はエレベーターがない。脚を折ったアスルを4階まで何度も往復させまいと少佐なりの気遣いなのだろうけれど、その気になれば直ぐに傷を治せる”ヴェルデ・シエロ”にとっては却って嫌がらせだ。もっとも・・・

「私もまだ本調子ではないので、大臣や他のセクションとの会議には、ステファン大尉に出席を命じます。」

 少佐もまだ階段の登り降りを頻繁にするのは辛いのだ。会議の席が苦手なステファン大尉が不承不精承った。恐らくロホに代わってもらいたいだろう。そのロホは発掘調査隊監視のスケジュールがぎっしり詰まっていた。少佐が駄目、アスルも駄目、ステファンも忙しいとなると、中間の彼が全部負うことになる。
 大統領警護隊文化保護担当部の業務打ち合わせが終わったと思われた時、アリアナが、「私も・・・」と声を出した。シオドアが振り返ると、彼女が遠慮がちに話し出した。

「私も職場を変わることになったの・・・」
「はぁ?」

 シオドアは思わず声を上げた。全然そんな話を聞いていない。と言うか、事件の後、亡命観察期間の住居に戻るのを拒否したら、シオドアとアリアナは別々の住まいに移されてしまい、あまり顔を合わせていなかったのだ。シオドアは送迎の必要がない大学の寮に入居させられ、アリアナは大学病院の職員寮に移された。互いの仕事に変更があれば連絡を取れば良いではないか、とシーロ・ロペス少佐に言われた。しかしアリアナは仕事に変更がある話をシオドアにしていなかった。

「変わるって、何処へ?」
「カンクンよ。」
「カンクン?!」

 メキシコだ。少佐とロホが顔を見合わせた。デネロスとステファンも戸惑った。

「セルバから出るの?」

とデネロスが不安そうな声で尋ねた。 アリアナはちょっと笑おうとして、おかしな表情になった。きっと彼女も涙が出そうになったのだ。

「国籍はセルバ共和国なの。カンクンの遺伝病研究施設へ出向になるのよ。半年の予定で、次のクリスマス迄には帰って来られるって、ロペス少佐が言うの。」
「シーロがね・・・」

と少佐がちょっと不機嫌な声を出した。誘拐事件の渦中にあったアリアナをスキャンダルから遠ざける為に考え出した策だろうが、彼女一人だけを遠ざけるのは最善策と思えなかったのだ。
 アリアナが無理に笑おうとした。

「ロペス少佐が意地悪をしたんじゃないのよ。内務大臣の弟の建設大臣のところの・・・」
「シショカ?」

とシオドアが名前を出した。”ヴェルデ・シエロ”達が彼を見た。アリアナが頷いた。

「そう、秘書のシショカって人が、私があまりにも事件の細部に入り込み過ぎたって言ったんですって。」

 シショカは”砂の民”だ。”ヴェルデ・シエロ”の秘密を知ろうとする外国人やセルバ共和国の国益に反することをする市民の抹殺を行う役目を負う人間だ。ステファン大尉がアリアナに優しく言った。

「ロペス少佐は貴女をシショカから守りたいと思っている訳ですね。」
「スィ。」

 アリアナがやっと微笑みらしい微笑を浮かべた。

「”ヴェルデ・シエロ”がいない国で、私が言語に不自由しなくて、出来るだけセルバ共和国に近くて、私の知識が活かせる職場を探して、カンクンの病院を見つけてくれたの。そこなら、私がもし何かの弾みにこの国の秘密を口走っても誰も気にしないだろうって。半年も経てばセルバ人は事件を忘れてしまうし、過去の詮索をしないマナーで噂も消えてしまうから、また帰って来なさいって・・・」
「何故君だけなんだ? 俺は放置しても平気だって思われているのか?」

とシオドア。

「貴方は大丈夫でしょう。シショカも寄り付かない。」

と少佐がぶっきらぼうに言った。なんで? とシオドアが問いかけるのを無視して、彼女はアリアナの手を取った。

「半年の我慢なのですね? 電話やネットでお話しするのは構わないでしょう?」
「ええ!」

 アリアナが頷くと、デネロスも尋ねた。

「私達が出張で訪ねても良いんですよね?」
「その筈・・・」

 出張? と少佐がデネロスを睨んだので、アリアナは思わず笑いそうになった。
 シオドアはアスルが静かなのに気がついた。アスルは黙ってアリアナを見ていた。

 コイツ、本当にアリアナのことが好きなのか?

 アリアナがシオドアの視線の先に気がついた。ちょっと躊躇ってから、アスルに目を合わせた。

「もし、機会があれば遊びに来て・・・一緒にメキシコの遺跡巡りとか出来れば良いわね。」

するとアスルは精一杯無愛想に言った。

「俺と一緒に歩くなら、サッカー場巡りになりますよ。」

 ロホが彼の後頭部をペンっと叩いた。しかしアリアナは笑ってアスルに言った。

「サッカー場の方が私の性に合っているかもね。」




 

2021/08/14

星の鯨  12

  シオドア達がいなくなると、メナクはシャベス軍曹を連れて神殿へ入った。神殿は汚れていなかったが、血の匂いで満ちていた。それはケツァル少佐が決して万全の体調でないことを彼に伝えた。彼等は遠くへ行けない。そう踏んだメナクが神殿で休んでいると、声が壁の向こうから聞こえてきた。驚いた。シオドア達は、禁断の聖地を発見した様子だった。神殿の仕組みがどの様になっているのかわからなかった。もっとよく聞こうと壁に近づいて歩いていると、”入り口”を見つけた。巧妙に隠された様な狭い”入り口”だったが、メナクはシャベス軍曹を連れて通った。
 ”出口”から出たメナクはその場所のあまりの美しさと異様さに暫く動けなかった。その場所が何なのか理解出来なかった。キラキラ光る小さな点、金色に輝く湖、光に包まれた巨大な鯨型の島・・・正に、太陽の野に星の鯨が眠っている・・・風景だった。
 湖の畔でシオドアとケツァル少佐が何かをしていた。ステファン大尉の姿は見えなかった。やがてシオドアと少佐が荷物を置いた場所に戻った。”出口”の近くだ。動くものを見つけたシャベス軍曹が、地面に置かれたアサルトライフルを拾い上げた。女が先に気がついて動きを止めた。メナクの期待に反して彼女は声を出さずにシオドアに警告を発した。気を発して気温を下げたのだ。そしてシオドアは異変に気付いて振り返り、シャベスを見つけた。
 シオドア・ハーストはメナクの思惑に反して、シャベスの名を呼ばなかった。”操心”にかけられたシャベス軍曹を動かすキーワードは何かと考えたのだ。フリーズした様に見えた彼は、その時必死で難局打開を考えていた。先にケツァル少佐が行動を起こした。シャベス軍曹の目がシオドアを捉えていると判断すると、荷物の中から掴み取った使い捨てカイロを軍曹に投げつけた。シャベスがそれを撃った瞬間、シオドアが飛びかかった。シャベスは仰向けに倒れ頭部を岩盤に打ちつけてしまった。
 シャベス軍曹が動かなくなったので、メナクは軍曹は死んだと思った。手駒が無くなった彼は、自ら敵の前へ出て行った。相手は”ヴェルデ・ティエラ”の白人学者と手負の女だ。純血のグラダは油断禁物だが、彼女は白人の背後に隠れてしまった。”ヴェルデ・ティエラ”に守ってもらわなければならない状態だ。勝てるとメナクは確信した。
 ケツァルを渡せと言うメナクの要求を、シオドアが拒絶した。彼はメナクとスワレが同じ肉体を共有していたと知ると、シュカワラスキ・マナとエルネンツォ・スワレの死の真相を察した。誰が本当の殺人犯か分かったのだ。メナクはシオドアの喉を締め上げ、シュカワラスキと同じ方法で殺そうと試みた。
 突然、彼の背後から黒いジャガーが襲いかかってきた。湖の探索に一人で出かけたカルロ・ステファンのナワルだった。ステファンは島の反対側から戻ろうとした時に、岸辺でシオドアと少佐が何者かに襲われていることを知った。彼は咄嗟に水の流れに乗って下流へ流れ、岩伝いに水に入った場所へ戻った。変身は速やかに終了した。泳ぐために裸になっていたのでスムーズに出来た。メナクの背後から忍び寄って行くとシオドアが気がついたが、知らぬ顔をしてくれた。メナクがシオドアの首を締めにかかった時に、彼は襲いかかった。
 メナクは完全にパニックに陥った。彼が知っている黒いジャガーはシュカワラスキ・マナだった。彼は死者の魂が集まっている聖地に現れたカルロ・ステファンのナワルをシュカワラスキ・マナだと勘違いしたのだ。抵抗する気力が一瞬で消え失せ、噛みつこうとする牙から頭部を守ることで精一杯だった。シオドアと少佐がジャガーを制止しなければ、腕を噛み砕かれ、喉を裂かれて殺されていただろう。
 ジャガーは少佐の命令で動きを止めた。そして現れた長老会の命令でやっとメナクから離れた。メナクは恐怖で動けなかった。ジャガーの唸り声が続いており、シュカワラスキ・マナが怒っていると思うと、顔を上げる勇気もなかった。長老達と少佐とシオドアが話しているのが聞こえたが、彼の頭は理解する余裕がなかった。やがて女の手で縛り上げられ、長老の一人が薄刃のナイフで彼の目の下を切った。目を封じて技を使えなくしたのだ。
 メナクはグラダ・シティに連行され、ピラミッドの神殿で長老会の裁判にかけられた。”ヴェルデ・シエロ”の裁判は欧米的なものではない。弁護人はつかない。長老達が”心話”で被告人の罪状に対する情報を交換し合う沈黙の裁判だ。弁護は被告人が口頭で行うだけだ。メナクは多くを語らなかった。ただこう言った。

「お前達が儂の親兄弟を殺したから、こう言うことになった。」

 誰も同情しなかった。メナクにはその場で酒が与えられた。彼の親兄弟を死に至らしめた遅効性の毒が入った酒だった。

***********

「それで、イェンテ・グラダ村で生まれた人々は全てこの世から去りました。」

とケツァル少佐が締めくくった。
 アリアナが尋ねた。

「シャベス軍曹は助かったの?」
「スィ。」

 少佐がちょっとだけ笑って見せた。

「少し記憶障害が残っていますが、手術を受けて意識を取り戻しました。生命の危機を脱したので、来週には一般病棟に移れるそうです。」
「良かった・・・」

とシオドアが真っ先に言った。

「俺は人殺しになるところだった。」
「正当防衛でしょ。」

とデネロス少尉が言った。

「素手でアサルトライフル持った軍人に立ち向かったんですよ。罪になんか問われません。」
「法律じゃなくて、気持ちの問題だよ、マハルダ。」

 そうかなぁと言うデネロスはまだ若いのだ。生きるか死ぬかの体験をしたことがない。その証拠に、話題をすぐに変えた。

「太陽の野は死者の場所なんですね? 少佐と大尉はお父さんとお母さんに会えたんですか?」
「ノ。」

と少佐と大尉が同時に答えた。一瞬目を合わせてから、少佐が言った。

「多分、あの場所は英雄だけが休むことを許される場所だと思うのです。だからとても美しく心休まる空間です。」
「グリュイエがいたんですね。」

とアスルが言った。彼はまだ松葉杖を使っている。その気になれば少佐の心臓の様にスピード回復させられるのだが、司令官から普通の人間並の回復を求められているので、ギプスが取れないのだ。大尉が頷いた。

「いた。何だかのんびり空中を漂っていた。」
「そうですか・・・」

 アスルはちょっぴり感慨深そうな表情を見せた。若くして非業の死を遂げた後輩が、美しい地下の世界でのんびり漂っている。想像しただけで涙が出そうになった。デネロスがグリュイエって誰?と訊きたそうな顔をしたが、アスルの表情を見て質問を呑み込んだ。きっと尋ねてはいけないことなのだと彼女なりに理解したのだ。

星の鯨  11

  スワレ=メナクはブーカ族の名家の家長として、また長老会の重鎮として権力を欲しいままにしていたが、1人の体に2人の魂は時に厄介でもあった。スワレはブーカ族だから、己の一族が可愛い。しかしメナクにとっては親を殺した人々の身内だ。2人はしばしば対立することがあった。陰の気だ。それは肉体を蝕むことになった。スワレはメナクの消滅を願うようになったが、メナクに知られた。同じ体にいるのだから当然だ。メナクはスワレの肉体を己一人のものにしたかったが、もしスワレを消したら肉体も死ぬのではないかと心配だった。
 そのうちに、大統領警護隊のカルロ・ステファンが大尉に昇進した。敵が近づいて来ると彼等は焦った。もう一度手を結び、彼等は陸軍兵士カメル軍曹に”操心”をかけた。北米の博物館から中南米の古美術品を盗み出す任務に彼を参加させたのは、陸軍に顔が利くスワレだった。盗むべき美術品のリストを手に入れ、メルカトル博物館のオパールの仮面に目を付けた。ステファンが仮面を手に取った時、背後から心臓を刺して殺す。それが命令だった。心臓を汚して甦るのを妨げる古代の呪法だ。
 しかし、カメルは失敗した。彼は非業の死を遂げ、ステファンは思いがけず”ヴェルデ・シエロ”の能力を目覚めさせてしまったのだ。無事にセルバ共和国に帰国したステファンをスワレ=メナクは脅威と看做すしかなかった。しかし打つ手が見つからず、2人の魂は再び肉体の中で諍いを持つようになった。そんな時に思いがけない事件が起きた。美術品密売人ロザナ・ロハスの要塞を政府軍が攻撃した際、大統領警護隊文化保護担当部に反政府ゲリラだった従兄弟を殺された憲兵が逆恨みでステファンを狙い、それを庇ったケツァル少佐を撃ってしまったのだ。少佐はそれをステファン暗殺未遂事件と結びつけて考えてしまった。そしてその考えを打ち明けられたシオドア・ハーストがムリリョ博士に純血至上主義者の犯行ではないかと果敢に詰め寄り、ムリリョの古い記憶を呼び覚ましてしまった。正に寝た子を起こしてしまったのだ。
 ムリリョはシュカワラスキ・マナが空間通路での移送で死んだことを疑っていた。強大な力を持つ純血種のグラダが移送事故で死ぬ筈がないと考えた。そして兄をマナに殺されたトゥパルが事故を装って殺害したに違いないと推測したのだ。実際、そうだった。メナクは己の計画を蹴って逃げた裏切り者のマナを憎んでいたが、同じグラダだ、殺すつもりはその時まだなかったのだ。マナから空気を奪い殺害したのはスワレだった。スワレはムリリョに疑われていることに気づかず、ステファン暗殺だけに執着した。
 一方、メナクはスワレの肉体が老齢で体調も良くないことが気になっていた。新しい肉体が必要だと感じていたが、スワレにそれを告げることは出来なかった。メナクが欲したのは、限りなく純血種に近いグラダ系の体だった。但し、白人の血が混ざった体はごめんだった。彼の身近で一番条件に当てはまったのが、ケツァル少佐だった。女性だが我慢するしかない、と彼は思った。
 シュカワラスキ・マナの2人の子供を同時に誘い出し、1人を殺し1人の肉体を盗む。但し、肉体強奪はメナク一人の企みでスワレには内緒だった。彼等はケツァル少佐とステファン大尉の親しい友人となったシオドア・ハーストとアリアナ・オズボーンの家を襲撃した。高齢者と言えども”ヴェルデ・シエロ”だ。普通の人間の特殊部隊など赤子と同じだった。警護のシャベス軍曹はあっさり”操心”にかかった。シオドアが留守だったので、アリアナを攫った。
バスルームの鏡に暗がりの神殿の呪い文を書いたのは、地下の神殿がマナの子供を殺す絶好の場所だと思ったからだ。メナクもスワレも、その神殿の奥にある本当の聖地をその時点で知らなかった。
 オルガ・グランデの鉱山へは空間通路を使った。スワレがブーカ族だったので、これは簡単だった。だが高齢のスワレの体は、”ヴェルデ・ティエラ”を2人運ぶことでかなり消耗してしまった。暗闇の空間で彼等は獲物が来るのを待ち続けた。そのうちに彼等は面白いことを知った。”操心”にかけられていても人間は日常の会話や生活が出来る。攫われてきた2人の男女は暗闇の恐怖の中でも励まし合っていた。その内容からスワレはアリアナがステファンを好いていることを知った。だから”操心”をかけた。カルロ・ステファンに出会ったら彼の心臓を刺す、と言うものだった。そして遂にシュカワラスキ・マナの子供達が坑道へやって来た。
 スワレはアリアナを解放した。彼女は夢見心地で暗闇を歩いて行った。やがて彼等はロホの叫び声を耳にした。

「カルロ・ステファンが死んだ! シュカワラスキ・マナの息子が殺されたぞ!」

 長年の怨念が晴らされた。スワレは感激した。感激して、興奮して、彼の魂は消えて行った。
 メナクはスワレの死を感じ、慌てた。しかし幸いなことにメナク自身は消えなかった。スワレの肉体が遂に彼一人のものになったのだ。但し、老いさらばえ、ポンコツになった肉体だった。メナクはケツァル少佐の肉体を手に入れるべく、神殿に近づいたが、様子が変だと気がついた。
 神殿はロホの結界で守られており、近づくことすら出来なかった。そして殺された筈のカルロ・ステファンが生きて動き回っていた。倒れていたのは、ケツァル少佐の方だった。ステファンと白人のシオドアが彼女の手当てに奔走していた。
 スワレは失敗したのだ。ブーカの若造に欺かれ、メナクの大事な新しい肉体を傷つけられたのだ。怒りに駆られたが、メナクはそこで純血のグラダの恐るべき能力を目の当たりにすることとなった。心臓を刺されたシータ・ケツァルは死んでおらず、自らの力で治療に専念していた。そして半分グラダの腹違いの弟が姉の心臓から刃物を少しずつ引き抜く繊細な技に挑戦していた。メナクは彼等の能力に賭けることにした。新しい肉体を手に入れる為に、しかもそれは彼が愛したウナガンとよく似た女だった。
 メナクは一旦隠れていた坑道に戻った。シャベス軍曹に新しい”操心”をかけた。誰かがシャベスの名を呼んだら、そいつを撃つ、と言う簡単なものだ。”操心”の上の”操心”の上書きだ。それが限界だった。
 敵が疲弊するのを待っていると、かなり長い時間が経った。大統領警護隊は優秀な軍人達だ。疲れても一度に全員が休憩することはなかったし、結界は張られたままだった。最初にブーカの若造を始末するべきかと迷っていると、ケツァル少佐が復活してしまった。手負であるにも関わらず、彼女はロホを休ませ、仲間にも気づかれぬうちに結界を張った。
 メナクは自分達がとんでもない者を相手にしているのだと気が付き始めた。純血種のグラダは彼の様な混血には決して追いつけない途方もなく大きな力を持っているのだ。メナクは作戦を変えるべきか、続行すべきかと迷った。迷っているうちに、大統領警護隊は2手に分かれた。ロホと”操心”が解けて少佐の手当てに活躍したアリアナが救援要請と報告の為に神殿から出た。メナクには、彼等をもう一度襲って捕虜を得る余力も、ブーカ族の若者と戦って勝つ気力もあまり残っていなかった。メナクは彼等を見逃した。長老会がこの場所へ来る迄に、女を手に入れることが先決だと思ったのだ。
 ケツァル少佐はステファン大尉とシオドアを連れて神殿の奥へと歩き始めた。何処へ行くのか、メナクには見当がつかなかった。

第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...