その日の夕方、勤務を終えて庁舎から外へ出たケツァル少佐は、アンドレ・ギャラガ少尉が階段の下で彼女を待っていたので、少し驚いた。夕食を共にする約束をしていなかったし、仕事中彼から何も意思表示がなかったので、部下が待っていると予想していなかった。
「少しお時間を頂けますか?」
とギャラガが遠慮勝ちに声を掛けてきた。彼女は他の部下達が既に銘々帰宅にかかっていることを確認した。これはギャラガ単独の誘いだ。彼女は無言で頷くと、カフェ・デ・オラスを顎で指した。
「そこで良いですか?」
「スィ。」
2人はカフェに入った。夕食時間までにはまだ早く、お茶の時間はとっくに過ぎている。カフェはそろそろバルが開くのを待つ客が増える時間だった。テーブルに着くと、少佐がコーヒーを2人前注文した。部下の希望は聞かなかった。ギャラガも特に希望を言わなかった。
「それで?」
と少佐が声をかけた。ギャラガは率直に相談を始めた。
「クワコ中尉が、私に官舎を出てマカレオ通りの家で同居しないかと言って下さいました。」
少佐が尋ねた。
「何か問題でもあるのですか?」
ギャラガは躊躇った。
「私は普通の家に住んだことがありません。」
少佐は数十秒間彼を見つめ、やがてプッと吹き出した。
「普通の家に住むのが不安なのですか?」
「不安ではありません。」
ギャラガはちょっと赤くなった。意気地なしと思われたくなった。
「ただ・・・規律がない場所で寝起きする習慣がないので・・・監視業務や出張の時は時間を守ることや、面会する人との約束がありますから、行動の目的があります。官舎の様に食事や入浴や清掃や運動の時間が決まっています・・・」
「アスルと同居すれば、掃除や入浴の順番があるでしょう。炊事は彼が独占するでしょうけど。」
「でも、自由時間があり過ぎるでしょう?」
ケツァル少佐は目の前の男がまだ本当に自由に生きることを知らないのだと気がついた。幼少期、彼は唯一の肉親だった母親に育児放棄されて一人で物乞いをして生きていた。やがて生きるために(誰かの入れ知恵で)年齢を偽って軍隊に入り、ずっと軍律の下で成長してきた。休暇を与えられても何をして良いのかわからず、一人海岸で海を眺めて過ごすことしか知らなかったのだ。
「自由時間は好きに過ごすものです。貴方は大学の勉強があるでしょう。アスルとサッカーの練習にも行くでしょう。それが官舎の門限や時間割に煩わされることなく出来るのです。」
彼女はキッパリと言った。
「上からの指図に従って生きるのではなく、自分のことを自分の責任で決めて行動することを学びなさい。そのためにアスルは貴方を誘っているのです。」
ギャラガはハッとして上官を見た。アスルが同居を提案したのは、彼を教育するため? 彼に独立心を養わせるためなのか?
「私は・・・」
ギャラガは言葉を探した。
「これから門限に縛られることなく任務に励むことが許される・・・と考えてよろしいのですか?」
少佐が天井へ顔を向けた。
「貴方は、仕事のことしか考えられないのですか?」
「今の私には、仕事が一番の大事です。」
「よろしい。」
少佐は彼に視線を戻して溜め息をついた。
「それなら当分は、好きなだけ仕事をする時間が得られると考えて、官舎の外で暮らしなさい。そのうちに自分でやりたいことが出来る時間を手に入れたのだと思える様になるでしょう。」
ギャラガが座ったまま敬礼した。アスルの提案を受け入れる意思表示だ。少佐は別の大事なことを思い出した。
「ところで、アスルは現在家主であるテオに家賃を払っています。貴方が同居するなら、家賃を折半するのかどうか、アスルと相談する必要があります。今のままだとテオと契約しているのはアスルだけですからね。」