2022/04/29

番外編 2   引っ越し 2

  テオは鞄一つ持って、西サン・ペドロ通りの高級コンドミニアムに到着した。ケツァル少佐にあらかじめ教えられた場所に車を駐車すると、周囲は高級車ばかりで、己の中古の日本車が見窄らしく見えた。しかし性能は高級車並みだ、と胸を張ることにした。
 前日にセキュリティ登録されていたので、顔認証と暗証番号で第1ドアを通り、次のドアも第2暗証番号で入った。エレベーターに乗り、目的のフロアに到着した。慣れた場所で、少佐の部屋のチャイムを鳴らすと、少佐が数秒後にドアを開けた。

「部屋を間違えています。」
「はぁ?!」

 思わず声を上げてしまったテオに、少佐は隣のドアを指差した。

「貴方はあっちです。」
「だが、同居するんじゃ・・・」

 戸惑うテオを少佐は無視して通路に出て来た。隣のドアの暗証番号を入れて、ドアを開いた。

「こちらの部屋も私の部屋なのです。」
「何時から?」
「ここに入居した時から。」
「・・・知らなかった・・・」
「女の家と男の家に別れて住むのです。正式に結婚する迄の習慣です。行き来は自由です。」

 テオは初めての部屋に入った。がらんとした空間で、6人掛けのテーブルと椅子がダイニングにあるだけだ。テオは鞄をリビングの真ん中にぽつんと置かれていた古いソファの上に投げ出し、寝室を見に行った。客間は空っぽで、奥の寝室だけは真新しいベッドと寝具が置かれていた。それだけだ。
 暫く呆然と立ち尽くすテオの後ろで少佐が説明した。

「貴方も大学の学生達を家に呼んだりすることがあるでしょう? 自宅の研究室も必要ではありませんか? この部屋は貴方が自由に使える空間です。食事や普段の寛ぎの場所は私の部屋を自由に使って頂いて結構です。文化保護担当部の会合は貴方もいつも参加されていますから、公私混同されても誰も気にしません。でも貴方のお仕事は私達には難しいし、邪魔をしてはいけない慎重を要するものだと、私達は理解しているつもりです。一旦通路に出るのが面倒ですが、仕切りは必要だと思うのです。」

 テオは少佐を振り返った。目の奥に熱いものが込み上げてきた。

「グラシャス、少佐。だけど、俺はこの部屋の家賃をまだ払えない・・・」
「貴方が教授に昇進する迄、私の父が払ってくれます。私の持参金の代わりです。」
「持参金?」
「女が結婚する時に親が持たせるお金です。残念ながら私は結婚資金を貯金すると言う考えがなかったので・・・」

 少佐が子供の様に舌を出して見せた。テオは笑い出し、彼女を抱き締めた。

「君は結婚すら考えなかったんだろ?」
「ずっと先の話だと思っていました。」

 少佐も彼の体に腕を回した。

「一族は私がグラダの血を残すことを期待すると同時に、グラダの人口が増えることを危惧してもいます。私はどの部族と結婚しても、その一族の期待がついて回ることを想像して嫌だったのです。」
「白人の俺が君と結婚したら、一族は失望するんじゃないのか?」
「でも私の子供達は、お陰で大神官やママコナの候補者争いから外れますよ。」

 彼女が彼を見上げて、ニンマリ笑った。テオも笑顔のまま返した。

「わかった、俺の遺伝子を存分に利用してくれ。」


2022/04/28

番外編 2   引っ越し 1

  テオはケツァル少佐のコンドミニアムへ運ぶ荷物の整理をしていた。衣料品と研究資料だけだ。鞄に詰め込むと、自分がどれだけ物を持っていないか実感した。書籍が一番重量がある荷物だが、最近はネットで資料を検索するし、大学へ行けば研究室や図書館でいくらでも本を読める。結局自宅にある本は彼が気に入った小説のペーパーバックや古書店で発掘した自然科学関係の希少本ぐらいだ。室内装飾も殆どない家だから、絵画や彫刻なんて芸術品はないし、食器は全部置いて行く。それに慌てて全部持って行く必要もない。まだ鍵は持っているし、新しい家主になるアスルは、「俺は管理人になるだけで、家主は飽く迄あんただ。」と言った。要するに、テオに家賃を払えと言っているのだ。アスルはこれ迄通り部屋代しか払わない魂胆だ。テオも好きな時に寛げる空間があれば良いと思ったので、家の名義はそのままにしておいた。正直なところ、女性と暮らした経験が一度もない。試験管で生まれたので、母親と言う存在がなかった人間だ。だから、もしケツァル少佐との同居が彼自身の負担に感じることがあれば、逃げ場が必要だ、と彼は同居を始める前から対策を考えてしまった。

「アスル、車はどうするんだ? ロホの送迎に頼るのか?」

と足のことを心配してやると、アスルはこともなげに言った。

「自転車を買う。」

 マカレオ通りは坂道の街だ。外出は楽だろうが、帰路は疲れるだろう。しかし若い軍人は苦にならないのかも知れない。それに今迄もアスルは徒歩で出かけたり、徒歩で帰宅していた。テオの過保護は迷惑なのだ。

「君の手料理が懐かしくなったら、いつでも戻って来る。」

と言ったら、アスルは「ふん」と鼻先で笑った。

「カーラの飯の方が美味いに決まっているさ。」

 ケツァル少佐が雇っている家政婦のカーラは料理名人だ。アスルは彼女の手伝いをしながら料理を教わることが多い。荷造りするテオを手伝わずに、アスルは居間のソファに横になったまま背伸びした。

「もしかすると、アンドレを住まわせるかも知れないぞ。」

 アンドレ・ギャラガはまだ本部の官舎住まいだ。官舎住まいだと徹夜の勤務や出張の度に上官へ届け出なければならないので、はっきり言って手間だ。ギャラガに言わせれば、直属の上官はケツァル少佐なのだから、少佐の命令に従って勤務するのに、何故官舎を管理する警備班の上官の許可が必要なのかわからない、となる。警備班は宿舎の秩序を守る為に利用者にルールを守らせているだけなのだが。

「アンドレが住み着いても構わないさ。」

 テオは、恐らく普通の家庭を知らずに育ったギャラガがこの家に来て、近所付き合いを始めたら、きっと素晴らしい体験をすることになるだろうとワクワクした。
 するとアスルはまた言った。

「もしかすると、マーゲイが住み着くかもな。」

 グワマナ族の大統領警護隊遊撃班隊員エミリオ・デルガド少尉のことだ。アスルはあの後輩も密かに気に入っているらしい。デルガド少尉は任務の途中で休憩したくなると勝手にやって来て、勝手に家に入り込み、寝ていくことがある。昔のアスルと同じだ。アスルはデルガドに己と同じ匂いを嗅ぎ取っているのだろうか。

「カルロが来ても構わないぞ。」

とテオは言ってみた。やはり遊撃班のカルロ・ステファン大尉は、”指導師の試し”と呼ばれる試験に合格し、最終修行の厨房勤務を終えた。隊員の健康を守り、病気や怪我を癒す方法を学ぶ修行を終えたのだ。遊撃班指揮官のセプルベダ少佐の副官となって、これから多忙になる。息抜きに、マカレオ通りに来てもらっても構わなかった。ステファンには実家があるが、恐らく彼は母親と妹の世話焼きを好まないだろう。
 アスルはぶっきらぼうに言った。

「カルロはロホのアパートに行くさ。」

 そう言えば、ロホが現在住んでいるアパートは、元々ステファンが住んでいたのだ。ロホとステファンは入隊以来の仲良しで、ステファンは官舎へ戻る際にアパートをロホに譲り、ロホが妹グラシエラ・ステファンと交際することも許した。
 アスルはロホ、ステファン、どちらの先輩も尊敬し、愛している。だがステファンが文化保護担当部に戻って来ることはないと理解もしていた。ステファンが目指しているのは少佐の位で、文化保護担当部に少佐は2人も必要がない。アスルはケツァル少佐以外の指揮官を求めていない。

「誰だって構わないさ。」

とテオは笑顔で言った。

「君がこの家に入れるのは、味方だけだと知っているから。」
「当たり前だ。」

 アスルはツンとした。その時、中庭に面した掃き出し窓の窓枠をコンコン叩く音がした。テオとアスルが同時に振り返ると、隣家の子供がサッカーボールを抱えて立っていた。

「アスル、ゴールキーパーやってよ!」
「えー、またか?」

と言いつつ、アスルは体を起こした。口では文句を言いつつ、顔は嬉しそうだ。アスルは近所の子供達とサッカーをすることが楽しみになっていた。彼自身はプロ級の腕前なのだが、子供達とワイワイ言いながら走り回るのはストレス解消になるのだろう。

「ガキどもと走って来る。鍵は掛けて行けよ。」

 鍵がなくても開けられる彼はそう言って、窓から出て行った。
 テオはこれからも毎日出会う筈なのに、ちょっぴり寂しく感じてしまった。


2022/04/27

第6部  虹の波      18

  ガルソン中尉とパエス少尉が去った後、テオは残った仕事を手早く片付けた。そしてケツァル少佐にメールを送った。

ーー今夜は空いてるか?

 少佐は5分後に返信してきた。

ーースィ。
ーー夕食を一緒にどう?
ーー私が家まで迎えに行きます。

 つまり店まで少佐主導と言うことか。いつものパターンにテオは苦笑した。早く自分がリード出来るデートにしたいものだ、と思った。店を予約して支払いも自分でして・・・。
 休暇中の出勤だから定刻迄大学にいる必要はない。元から定刻などない筈だが、グラダ大学の教授達は午後6時迄は学内にいることが習慣になっていた。それより早く帰ってしまうのは、考古学部主任教授のムリリョ博士ぐらいだ。テオは大学を出て、自宅へ帰った。何時にと言う約束はなかったが、後2時間は彼女は来ない。彼はシャワーを浴び、服を着替えた。どんな店に行くのかわからないが、取り敢えずきちんとした服装を選んだ。白い襟付きのシャツに濃紺のジャケットだ。タイは付けなかった。もし必要なら少佐が車に乗せてくれる前に要求してくるだろう。
 少佐はパエス少尉の活躍や昇給を知っているだろうか。少なくともパエス少尉が国境検問所の仲間と打ち解け合いそうな雰囲気になったことを聞けば、安堵するだろう。上官に尽くすつもりでしたことが、反逆罪に問われそうになって処罰された為に、パエスは卑屈になっていたのだ。しかし国民の危機を救う大役を与えられ、見事にやり遂げたことで自信を取り戻した。もしかするとガルソン中尉は彼をキロス中佐に面会させたのかも知れない。キロス中佐はパエスに頑なな態度を取ることは一生を無駄にしてしまうと説いたのかも知れない。
 テオは憶測だけでものを言うのは止めようと己に言い聞かせた。少佐に伝えるのは、パエスが活躍したことだけで良い。彼の家族のことや給料の件はパエス個人の話だ。
 家の外でクラクションが鳴った。気がつくと午後6時半になっていた。テオは急いで財布をポケットに入れて外に出た。出てから、アスルに何も連絡していないことに気がついた。少佐と職場が同じだから、アスルはデートのことを知っているだろうが・・・。
 ベンツの中は少佐だけで、テオは助手席に座った。少佐は彼がドアを閉めると直ぐに車を出した。

「アスルには何も言っていなかったが、良かったかな?」

と念の為に言うと、少佐が「大丈夫」と答えた。どこの店へ行くのかと尋ねたが彼女は教えてくれなかった。間もなく見覚えのある道路を走り、見覚えのある店の駐車場に少佐のベンツは滑り込んだ。フランス料理店フラウ・ルージュだった。テオはちょっと躊躇った。

「俺はこんな高い店の料金は払えないぞ。」
「私も払いません。」

 まさか、また接待か? テオはがっかりした。2人きりでデート出来るのは何時のことだ? いや、少佐は「空いている」と言ったのではなかったか?
 レセプションで少佐は名乗った。

「ミゲール。」

 直ぐに支配人が現れて、平服の2人は奥の個室に案内された。部屋に入るなり、テオは緊張した。そこで彼等を待っていたのは、フェルナンド・フアン・ミゲール駐米セルバ大使とその愛妻マリア・アルダ・ミゲールだった。つまり、少佐は親に彼氏を紹介しようとしているのだ、とテオが悟った時は、既に大使夫妻が立ち上がって彼の手を順番に握って挨拶した後だった。

「娘がいつも貴方を困らせているそうで、申し訳ない。」

と大使が言った。テオは慌てて否定した。

「いいえ、いつも俺が彼女に助けられてばかりいるんです。」

 マリア・アルダとは初対面だったが、著名な宝飾デザイナーは満面の笑みで彼を見つめた。軍人でなければ誰でも良いわ、と言うことだ、とテオはうっすらと感じた。富豪夫妻は変わり者の養女が同じ裕福な家庭の男を恋人に選ぶとは思っていないのだ。社会常識がない、暴力性の、浪費家の男でなければ、彼等は拒否しない。勿論娘がそんな男を選ぶとは思っていないだろうが。

「やっとシータが男友達を紹介してくれて、一安心です。」

とマリア・アルダが言った。

「このまま軍隊と結婚すると言ったら、どうしようかと夫といつも話していましたの。」
「ママ!」

と少佐が養母を睨んだが、その表情はいつもより子供っぽく見えた。テオは可愛いと思った。いつもの勇ましい少佐の別の顔だ。

「俺は大学の准教授の給料だけで暮らしている人間です。彼女の様に強くないし、世間知らずのことも多いです。でも、彼女と一緒にいる時は最高の人生だなといつも感じています。出来ればずっとこのまま彼女と生きて行きたいです。」

 言ってしまってから、これは「お嬢さんを私に下さい」と言っているのと同じじゃないか、とテオは気がついた。頬が熱くなった。まだ乾杯もしていないのに。マリア・アルダが夫の顔を見た。彼女が少し不安そうな顔をしたので、テオも不安になった。ここで大使を怒らせてしまうのか?
 ミゲール大使が微笑んだ。その場の雰囲気が急激に和らいだ。

「私達の娘と一生付き合うとなると、大変ですぞ。」

と大使が言った。テオは彼に微笑み返し、それから少佐を見た。少佐は黙って彼を見返した。彼は尋ねた。

「これからも愉快な体験を一緒にしてくれるかな?」
「愉快なことばかりではありませんよ。」

といつもの口調で少佐が言った。マリア・アルダが眉を顰めた。

「シータ・・・」

 少佐は母親を無視して平然とした態度で言った。

「大家に彼女が出来たと知れば、アスルは出て行ってしまいますよ。」
「アスルにあの家をやるよ。」

とテオは言った。

「俺は新しい家を探す。」
「だったら娘の家へ行って!」

とマリア・アルダ。少佐が母親を見た。

「ママ、そんなに私達をくっつけたいの?」
「だって、貴女が初めて紹介してくれた男の人じゃないの。逃しては駄目よ。」

 まるでケツァル少佐が過去に全然モテなかった様な言種だ。ミゲール大使が収拾に取り掛かった。

「ドクトル・アルスト、娘の家に引っ越してもらえるかな?」

 こんな場合、なんと言えば良いのか? テオは仕方なくと言う表情になっていないだろうな、と己の態度を気にしながら答えた。

「スィ。勿論です。彼女さえ良ければ・・・」

 ケツァル少佐が「仕方なく」と言う顔で言った。

「試験期間と言うことでいかがです?」


第6部  虹の波      17

  次の日のニュースで、セルバ共和国の国民は、大統領警護隊と憲兵隊の合同捜査の結果レグレシオンが仕掛けた新たな爆弾3発がアスクラカンのメルカド(市場)で発見されたことを知った。更に2番目の爆弾製造所も既に逮捕されていたメンバーの1人が所有する別荘にあったことが判明した。国民達は「”ヴェルデ・シエロ”の加護のお陰だ」、「日頃から教会で祈っていた御利益だ」、「そうではない、我が国の捜査機関が優秀だからだ」と職場やバルで論じ合った。
 テオは過激派達が捕まったので、雨季休暇の残りを再びエル・ティティに戻って過ごそうか、それともこのままグラダ・シティに残ろうか、と迷った。ゴンザレス署長に電話を掛けると、署長は今回の一連の事件にテオや大統領警護隊文化保護担当部が活躍したことが表に出ないのは悔しいと言った。テオは名声など誰も望んでいないし、悪者が捕まったから、友人達はそれで十分満足していると、養父を宥めた。それで再び帰省するべきか否か意見を聞くのを忘れてしまった。
 もしかすると、ゴンザレスはもうテオが同じ屋根の下にいなくても平気なのかも知れない。新しい恋人と上手くやっている様子だし、テオが毎週末必ず帰るとは限らなくても電話を欠かさず掛けるので、それで満足しているらしい。テレビ電話を始めてからは、特にその傾向が見られた。

 俺が親離れ出来ていないだけなのか・・・

 テオは苦笑した。
 レグレシオンの大摘発で世間が騒いだ日から3日経った。新学期の準備の為にグラダ大学へ出勤したテオの元に客が来た。1人は私服でテオは誰なのか直ぐにはわからず、ホセ・ガルソン中尉だと相手が名乗って、ちょっと慌てた。

「すみません、私服姿の貴方を見たのは初めてだったので。」

 ガルソンも苦笑した。

「制服の時しかお会いしたことがありませんでしたからな。今日は非番なのでこんな格好です。ところで・・・」

 彼は後ろにいる連れを振り返った。

「彼が挨拶をしたいと言うので連れて来ました。」

 そちらの男は大統領警護隊の制服を着ていた。ルカ・パエス少尉だった。テオは彼が本部に召喚されたことをケツァル少佐から聞いていたが、まだグラダ・シティに居たのかと意外に思った。役目を終えたらさっさとクエバ・ネグラに戻ったと思っていたのだ。テオの頭の中が読めるかの様に、ガルソンが笑った。

「まだこいつがグラダ・シティに居たのかと思われたでしょう?」
「いや・・・その・・・」
「本人も直ぐに帰還するつもりだった様ですが・・・」

 ガルソンに振り返られ、パエス少尉が渋々理由を語った。

「”名を秘めた女性”と共に爆弾を探す任務を仰せつかり、なんとかご期待に添えるお勤めを果たしました。それが・・・」

 彼が言い淀んだので、ガルソンが言葉を継いだ。

「セルバ国内を隈なく心で見ると言うことは決して簡単なことではありません。パエスは見事にお役目を果たした後、2日間眠り続けていました。」
「つまり、半端なく消耗したってことですね? 凄いな、命懸けで国を守ったんだ、パエス少尉!」

 テオは感心してパエス少尉を見た。パエスは照れ臭いのか、逆にむっつりした表情で目を逸らし、ガルソンに「失礼だぞ」と注意された。それでパエスは仕方なく言った。

「私と共に爆弾の在処をご覧になったセプルベダ少佐は、祈りの部屋から出られると直ぐに部下を招集して出動されました。あの少佐も私と同様に消耗されていた筈です。しかし、平然と過激派を捕まえに出かけて行かれました。それなのに私は歩くのがやっとで・・・」
「セプルベダ少佐は指導師だ。我々と違って心身の制御能力に遥かに優れておられる。その様な上官と我々の様な下位の者を比べてはならん。」

 ガルソンはパエスを励ましたつもりだろうが、叱っている様に聞こえた。だからテオは急いで言葉を添えた。

「指導師ではないパエス少尉がセルバ全土を覗いて爆弾を見つけられたのでしょう? 少尉はご自分を誇りに思わなくてはいけませんよ。ガルソン中尉もそのつもりで仰ったんだ。」

 パエス少尉が始めて頬を赤く染めた。

「私は・・・他人に誇れるような人間ではありません。小さなことにこだわって、大事な時間を無駄に過ごしてしまうところを、貴方やガルソン中尉、ケツァル少佐に救われたのです。」

 テオが戸惑ってガルソン中尉を見ると、ガルソンが頷いた。

「貴方がケツァル少佐にパエスが機械いじりが得意だと教えて下さったのでしょう?」

 テオは考えた。そう言えば、キロス中佐の事件の後、ガルソンが本部警備班車両部、パエスが国境警備隊に転属になったと聞き、パエスは機械いじりが得意だと、彼はケツァル少佐に何気なく言ったことがあった。少佐はその世間話を覚えていた。そして考えたのだ。
 ある分野で才能を発揮する人の中には、物の精霊が発する気が見えている者がいる、と言う古い言い伝えを思い出した彼女は、ガルソンに訊いてみた。パエスは機械の精霊が見えるのではないですか、と。するとガルソンも昔パエス自身から聞いていた話を覚えていた。故障した機械に向き合うと、修理すべき場所が淀んで見える。そこを触れば機械は何が必要か教えてくれる、と。
 過激派が作る爆弾は、小さな起爆装置が付いている。単純な作りでも、機械は機械だ。パエスの様な精霊が見える人には、機械でない物の中にある機械の存在がわかる。その機械に製造者の悪き心が宿っていれば、その機械は邪悪な気を放っている。パエスは祈りの部屋でママコナが送り出す虹色の光に心を乗せてセルバの国内を飛び回った。虹の波の中でぽつんと見えた淀んだ不潔な光。それが爆弾だった。

「”名を秘めた女性”は女官を通して仰ったそうです。パエスと旅をして楽しかった、と。」

 テオがパエスを見ると、パエスはまた頬を赤くした。

「私には任務でしたが、あの御方は楽しんでいらっしゃいました。ですから、私も案外気楽に探索が出来ました。あの御方のお力がなければ私はグラダ・シティを見るだけで果てていたでしょう。」

 テオには想像がつかない現象だが、”ヴェルデ・シエロ”にはまだ彼が知らない能力が色々あるのだと言うことはわかった。

「これからクエバ・ネグラへ戻られるのですか?」
「スィ。仲間が待っていますから。」

 パエスが同僚達をサラリと「仲間」と呼んだ。するとガルソンが「家族もだろう」と言った。

「パエスは国を救いました。その手柄で、昇給になったんです。彼はサン・セレスト村に残してきた奥さんの子供達をクエバ・ネグラに呼び寄せることに決めたんですよ。」
「中尉、そんなことまで言わなくても・・・」

 パエスは耳まで真っ赤になりながら慌てた。テオは思わず笑ってしまい、ガルソンも笑った。最後にはパエスまで声を立てないまでも笑ってしまった。


2022/04/26

第6部  虹の波      16

  ルカ・パエス少尉はセプルベダ少佐と共に地下神殿に降り、そこで蒸し風呂で1時間潔斎した。身体を清め、精神を落ち着かせ、褌1丁だけの姿になった。
 セプルベダ少佐が説明した。

「これから祈りの部屋に入る。承知している筈だが、我々が”名を秘めた女性”のご尊顔を拝することは許されていない。」
「スィ。」
「祈りの部屋の中では好きな場所に座って良い。体を横たえても良い。そこで瞑想に入る。”名を秘めた女性”がグラダ・シティを地域毎に区切って君に見せて下さる。どんな形で見せて下さるのか、私にはわからぬ。君が見て、そこから爆弾を探せ。恐らく、悪き者が物体に残した悪き心が君に見えるだろう。君はその場所が何処か考える。」
「私はグラダ・シティに詳しくありません。」
「地名は考えなくて良い。”名を秘めた女性”に現代人が付けた地名など意味がない。君はその場所の特徴を見るのだ。私は君の横にいて、君が目的の場所が何処か分かれば感じる。もしグラダ・シティに何もなければ、”名を秘めた女性”はセルバ全土にヴィジョンを拡げられる。君はかなり消耗するだろう。もし耐えられなくなったら、我慢せずに”名を秘めた女性”に申し上げろ。君が我慢すれば、”名を秘めた女性”も消耗なさるからだ。」

 パエスは意見を述べてみた。

「もし私が、グラダ・シティで爆弾を見つけ、まだ他の土地にもあるかも知れないと思ったら、探索を続けてよろしいのですか?」

 セプルベダ少佐が厳しい顔に微笑を浮かべた。

「勿論だとも! これはかなり体力と気力を要する任務だが、君はそれを敢えて恐れずに請けてくれるのだな?」

 パエス少尉は右手を左胸に当てて、一族へ忠誠を誓う言葉を呟いた。

「我等が空の為に。我等が守る地の為に。」

 セプルベダ少佐がそれを賞賛する言葉を囁いた。

「太陽の野に星の鯨が眠っている。汝が星の一つとなることを願わん。」

 即ち、いつの日にか貴方がこの世から去る時に、英雄として讃えられることを願っていると言う意味だ。それは”ヴェルデ・シエロ”の戦士にとって最高の戦意高揚の言葉だった。
 パエス少尉は、若者の様に、大声を腹の底から発した。

「ほーーーーい! いやぁは!」

 セプルベダ少尉も同じ言葉を発した。

「ほーーーーい! いやぁは!」

 戦士達が敵陣へ乗り込む時に互いに掛け合う激励の声だった。
 パエスは理解していた。彼がママコナの結界の元で爆弾探索をしている間、彼の隣に座ってひたすら瞑想するセプルベダもかなりの消耗を強いられるのだと言うことを。
 既に壮年に入っている2人のエル・パハロス・ヴェルデスは祈りの部屋の重い扉を一緒に押し開いた。小さな入り口の奥は、広い空間があった。太い7本の柱に囲まれて中央に高い台座があり、そこに白い影が立っていた。パエスとセプルベダは顔を伏せ、中に入った。冷たい印象の石の床だったが、実際は人間の体温に近い温かさだった。パエスは無言で歩いて行き、やがて彼の本能が「ここ」と示した場所で腰を下ろした。あぐらをかいて座ると、横にセプルベダも無言で座った。
 パエスは目を閉じ、深呼吸した。頭の中に虹色の光が流れ込んで来る様な錯覚に襲われた。脳の中を掻き回される? 目を閉じているのに目眩がした。苦しい、と感じ掛けたその瞬間、彼は脳に直接呼びかける声を聞いた。彼の真の名前を呼ばれた。途端に苦しさは消え去り、彼は心地良い感覚に全身を包まれた。虹が波の様に彼に押し寄せ続けたが、目眩は止んだ。そして虹の波の中に、”曙のピラミッド”が一瞬見えて、それからいきなり俗世が現れた。一番最初は、グラダ・シティ国際空港だった。


第6部  虹の波      15

  次の日の午後、グラダ・シティにある大統領警護隊本部に1台のタクシーが到着した。タクシーは1人の軍人を下ろすと、そそくさと逃げるかの様に本部敷地から出て行こうとした。ゲイトで止められた時は不安に満ちた顔のドライバーだったが、「忘れ物だ」と料金を渡され、気絶しそうな程安堵の表情になった。国境の町クエバ・ネグラからの往復の運賃をもらい、ドライバーはロス・パハロス・ヴェルデスは想像したより怖くない人々なんだな、と思った。
 タクシーから降りた軍人の方も緊張の面持ちで早朝に指示された司令部の建物へ向かった。訪問者用入口でI Dを提示して名乗った。

「北部国境警備隊クエバ・ネグラ検問所警備班、ルカ・パエス少尉です。副司令のご指示で出頭しました。」

 彼を呼んだのはエルドラン中佐だったが、もし勤務交代の時間が過ぎていればトーコ中佐が副司令官室にいる。パエス少尉はどちらの中佐に会えば良いのか少し戸惑っていた。勤務交代すれば非番になったどちらの中佐も官舎へ入ってしまうのだと知っていた。受付の警備班将校は彼に副司令官室へ行くよう告げただけで、どちらの副司令官がいるのか情報をくれなかった。
 パエス少尉は緊張したまま通路を歩いた。太平洋警備室から国境警備隊への転属を命じられた時は、リモートによる指令で、サン・セレスト村から直接新しい任地へ赴いた。グラダ・シティに行くことはなかった。本部帰還は太平洋警備室に配属された若き日以来だ。だが訓練施設も警備班の宿舎も神殿の礼拝広間も全て鮮明に記憶に残っていた。

 あれから20年近く経っているのに、ここは全く変わっていない・・・

 彼はすれ違う事務官と何度か敬礼を交わし、副司令官室の前に立った。軍服の埃を払い、皺を伸ばし、背筋を伸ばしてからドアをノックした。「入れ」と低い声が聞こえた。
 パエス少尉が入室すると、そこにエルドラン中佐とパエスが知らないずんぐりとした将校がいた。ずんぐりした将校の肩章は少佐だ。中佐は座ったままだったが、少佐が立ち上がって自己紹介した。

「遊撃班指揮のセプルベダ少佐だ。楽にして座りたまえ。」

 パエス少尉は敬礼して、指された椅子に座った。エルドラン中佐が声を掛けた。

「遠路遥々来させてしまい、ご苦労だった。申し訳ないが、ゆっくり近況を聞く時間があまりない。レグレシオンを知っているな?」

 パエス少尉は頷いた。

「スィ。武器の密輸を行う恐れがあるグループの一つとして警戒しております。」
「そのレグレシオンが国内で爆弾を製造し、公共施設に仕掛けた恐れがある。既にシティ・ホールで7個回収したが、逮捕者達はまだ残っているのか、もうないのか、口を割らない。”操心”で自白させた爆弾がシティ・ホールのものだけだった。しかしまだ逮捕されていないメンバーもいる。」

 パエスは上官が彼に何を求めているのか理解出来ず、ただ無言で中佐の額を見つめた。

「君は機械いじりが得意だそうだな?」
「恐縮です。得意と申しますか、機械の方から私にどうすべきか伝えてくれる様な気分で触っています。現在の任務ではあまり使う機会がありませんが・・・」
「要するに、君は機械の光が見える訳だ。」

 エルドラン中佐の言葉にパエス少尉は黙り込んだ。”ヴェルデ・シエロ”に伝わる古い言葉で、「・・・の光が見える」と言うフレーズがある。ある特定の分野に秀でた人間は、その分野に関係する物質が発する光を見分けられると言うものだ。”ヴェルデ・シエロ”なら誰でも、と言うことではない。本当に名人級の職人でしか見えない、尊敬を込めた言葉だ。そして実際にその名人は光が見えるのだと言う。
 パエスがやがて尋ねた。

「私に爆弾を探せと?」

 エルドランは次に彼が言うであろう言葉を察していたので、先にそれを遮った。

「現場に君が行く必要はない。何処にあるのか、存在するのかわからぬ物を実際に出かけて行って探す必要はない。」
「では?」
「神殿の祈りの間で、探せ。」

 セプルベダ少佐が言葉を添えた。

「”名を秘めた女性”がお手伝いして下さる。」

 パエスは新たな緊張を覚え、全身に震えが来そうになって必死で耐えた。

「私に出来るでしょうか?」
「試してみなければわからぬ。だが、ケツァルとガルソンが、君なら出来ると推薦している。」

 パエス少尉は眉を上げた。驚いたのだ。

「ケツァル少佐とガルソン大尉・・・いや、ガルソン中尉が?!」

 既にセプルベダ少佐はドアまで歩いていた。

「直ぐに神殿へ行こう。”名を秘めた女性”がお待ちかねだ。」


 

2022/04/25

第6部  虹の波      14

  レストラン、フラウ・ルージュを出ると、テオと3人の大統領警護隊隊員はケツァル少佐のベンツの中に入った。しかし少佐はすぐにエンジンをかけることはせず、暫く座席の背もたれに体重を預け、ぼんやりフロントガラスの向こうの夜景を眺めていた。後部席に座ったアスルとテオも眠くなって、そのまま目を閉じたら落ちてしまいそうだ。ロホだけが腕組みをして何か考え事をしている風に助手席に座っていた。
 数分後にロホが口を開いた。

「私は建築学の勉強をしていないので、当てずっぽうで意見を言います。」

 少佐が囁いた。

「どうぞ。」

 テオは聞き耳を立てた。アスルは目を閉じたままだ。ロホはいつもの静かな口調で語り出した。

「古代神殿の七柱は崩壊の為に立てられたのではなく、神殿を支えるのが本来の目的だった筈です。だから、崩壊させなければならない事態に陥った時でなければ倒れない様に立てられていた。倒すためには、柱が倒れる順番が決まっていて、その順番通りに倒さなければならない。ただ7本全部を倒しただけでは神殿は崩れなかった。順番を守らずに倒して崩れなければ、他の柱も全て倒さなければならなかったのです。ですから、現在遺跡となっている神殿跡を見ても、七柱の仕組みを用いて崩壊させたのか、地震や故意に破壊して柱を無闇矢鱈折った結果崩壊したのか、判明しないのです。恐らく建設したマスケゴ族の技術を伝承された者にしか見分けがつかないでしょう。雑誌記者や過激派が遺跡を見ても七柱の仕組みなど解明出来ないのです。
 しかしレグレシオンは破棄工作に自信を持っていた様です。恐らく現代建築工学の観点から爆弾を仕掛ける場所を計算で出したのでしょう。我が国の憲兵隊は優秀です。”シエロ”でなくても仕事は完徹させます。彼等は昨日グラダ・シティ・ホールに仕掛けられた7個の爆弾を発見、解除しました。」

 え? とテオは驚いた。そんなニュースは聞いていなかった。その証拠にケツァル少佐が首を動かして部下を見た。

「私は知りませんでしたよ。」
「私も1時間前迄知りませんでした。」

とロホはケロリとして応じた。

「カサンドラ・シメネスが”心話”で教えてくれたのです。」

 へぇ、と寝ていた筈のアスルが声を出した。

「女性にモテるお方は得だね。」
「アスル!」

 ロホが後部席を振り返って睨みつけた。少佐が咳払いしたので、彼は慌てて前へ向き直った。

「レグレシオンは他にも爆弾を仕掛ける計画だった様ですが、憲兵隊の動きが早かったので、彼等のアジトで未完成の爆弾や材料を押収した様です。勿論、何処かに仕掛けられた物がないか、現在も逮捕者を追及中です。捜査もしています。」
「1個でも残っていれば大変です。」

 ケツァル少佐が考え込んだ。レグレシオンのメンバー全員を逮捕出来た訳ではないだろう。明確な組織構成を持たない過激派だ。取り逃したヤツもいると考えた方が無難だ。あんな得体の知れぬ敵を相手にする時、”ヴェルデ・シエロ”はどんな対抗策を用いるのだ?
 テオが思考の森に入りかけた時、少佐が何かを思いついた。

「そうだ、彼がいるではありませんか!」


第6部  虹の波      13

「次に、オルガ・グランデの男について話さなければなりません。」

とアブラーン・シメネス・デ・ムリリョは言った。ベンハミン・カージョのことだ。

「あの男は占い師として日銭を稼いでいた様ですが、他人の未来を占うことも見ることも出来ない筈です。未来を見ることを許されているのは、ママコナだけですから。占いも詐欺まがいの行為だったのでしょう。所謂、”出来損ない”ですから、”シエロ”ではなく”ティエラ”として真っ当に働いて生きる方が楽な人間です。しかし、”シエロ”の血にしがみついている。 」
「しかし・・・」

 またテオはうっかり口を挟んでしまった。アブラーンが睨んだが、彼は構わず喋った。

「カージョは一族にも”ティエラ”の社会にも不満と不審を抱いている様子でした。自分が何者なのか、決めかねているのでしょう。」
「彼の年齢にもなって決めかねると言うのは意思が薄弱な証拠です。」

とアスルがボソッと言った。ロホが苦笑の笑みを浮かべたが何もコメントしなかった。ケツァル少佐が連れの男達の余計な口出しを謝罪し、続けて下さいとアブラーンを促した。アブラーンも「話が長くなって申し訳ない」と謝ってから、話を再開した。

「カージョがレンドイロ記者とネット上で古代神殿の建築方法について議論したのは、特にこれと言った目的があった訳ではなかったのでしょう。しかしレグレシオンが彼等の会話を見つけてしまい、彼等が興味を抱いていたことと同じテーマだったので、接触を図ったのです。カージョは、彼と会う約束をしていたレンドイロが行方不明になった後でしたから、警戒して姿を隠しました。だからレグレシオンは彼のルームメイトを拷問して彼の居場所を聞き出そうとし、死なせてしまいました。
 同じ頃、アメリカから、古代の民族が核爆弾を開発したと言う妄想に囚われた男がやって来ました。」
「マックス・マンセル」

 テオが名前を出すと、アブラーンは仕方なく頷いた。

「そのマンセルと言う男はレグレシオンとどんな関係にあったのか知りませんが、オルガ・グランデに現れ、古い坑道を探し始めました。恐らく町に古くから伝わる”暗がりの神殿”、一般に”太陽神殿”の名で知られている場所を探していたのでしょう。私は”砂の民”ではありませんが、彼等が仕事をすればその結果を知ることが出来る立場にいます。オルガ・グランデの”砂の民”達はマンセルの行動を疎ましく感じたのです。だから、マンセルを排除する為に、カージョを探していたレグレシオンにマンセルの存在を教えました。」

 テオは、”砂の民”が過激派組織にマンセルを粛清させたのだと気がついた。いつものことながら、彼等の仕事は耳にして気持ちの良いものではない。その時、ロホが初めて口を挟んだ。

「”砂の民”の仕事に文句をつけるつもりはありませんが、レグレシオンはマンセルをオエステ・ブーカ族の村の川で殺害しました。結果、川が死の穢れを被ってしまい、私は祓いをしなければなりませんでした。オルガ・グランデで仕事をされた方に直接申し上げることは出来ませんし、今この部屋の中にいる方々にも関係ないことではありますが、粛清の結果、不都合が起きることもあると、心に留めて頂きたいです。」

 アブラーンが厳粛な表情で大きく頷き、それを了解したことを態度で告げた。

「長老会に伝えておきましょう。」

 カサンドラが言った。

「カージョが今何処でどうしているか、私達にはわかりません。彼は私達には直接の害がない人間ですが、マスコミに捕まったら何を喋るか予想がつきません。恐らく、”砂の民”も同じ様に考えていることでしょう。」

 テオは新たな不安を感じた。

「彼を粛清すると言うのですか?」
「今すぐではないと思いますが、監視をつけていると思います。」

 アブラーンが溜め息をついた。

「我が家系は純血至上主義で知られています。ただ、子孫を保つ為に”シエロ”は純血ではいられない、それは理解しているつもりです。純血種と”出来損ない”の扱いの差が、カージョの様な不穏分子を生み出すのです。もう少し風通しの良い一族とならなければなりません。私も含めて、年寄りは反省すべきです。」

 まだ中年のアブラーンがそう言うので、誰もが苦笑するしかなかった。
 アブラーンはこの会食のまとめにかかった。

「我が家系、我が部族は古代の秘密を守る為に現代の人間を害したりしません。考古学者が何を見つけようと、それが現代社会に影響を及ぼす恐れはないからです。ですから、文化保護担当部はこれからも学術的研究に協力してやって頂きたい。我々は妨害しません。それを理解して頂きたい、それだけです。」



2022/04/24

第6部  虹の波      12

 「我が一族の当主のみに伝えられる建築工法の秘密について、”ティエラ”達が興味を抱き始めたのは、この一年程のことです。」

とアブラーン・シメネス・デ・ムリリョは始めた。

「当初は考古学関係の連中が最も古い神殿のいくつかに、他より太い柱の跡が必ず7つあると言う事実に気が付きました。彼等はその7つの柱がある神殿こそ”ヴェルデ・シエロ”が建設したもので、伝説の神々の痕跡だと学会で論じ合った様です。我等が長老会は、この件に関しては放置していました。古代の建築が研究されたからと言って、現代に生きる我々の存在が世間に知られる恐れはないと考えられたからです。
 ところが、考古学会で報告されたその研究が外国でも物好き達の注目を集めた様です。文化保護担当部の皆さんがご存じの様に、アメリカ合衆国からおかしな方向に考えを発展させた連中がやって来て、カラコル遺跡の撮影やら、古代の核爆弾探しやら、奇妙な競争を始めました。彼等はサン・レオカディオ大学の考古学教授リカルド・モンタルボがカラコル水中遺跡の発掘許可を申請したと知ると、それに便乗して海に潜ろうとしました。私は遺跡がどの程度露出しているのか知りたく思い、モンタルボ教授の資料を盗ませましたが、それは杞憂で、文化保護担当部に余計な仕事を作らせてしまい申し訳なく思っています。」

 ケツァル少佐が肩をすくめた。

「偶には出張も気晴らしで良かったですよ。」

 カサンドラ・シメネスが苦笑とも受け取れる微笑を浮かべた。アブラーンは軽く頭を下げ、話を続けた。

「厄介なのは、外国人ではなく、セルバ国民です。殆どの国民は考古学にあまり興味を抱かず、祟りを恐れて遺跡に近づきません。敢えて立ち入るのは盗掘者か、祈祷を行う者です。しかし、オルガ・グランデに住む占い師ベンハミン・カージョがインターネットで余計な投稿をしました。オエステ・ブーカ族の末裔で、”心話”と夜目程度の能力しか持たない男ですが、先祖から伝わるカラコル崩壊の物語を知っていた様です。彼は、”シエロ”の遺跡の共通項は7つの太い柱の跡であると書き、それに考古学の記事を書いていた雑誌記者ベアトリス・レンドイロが食いつきました。2人はネット上で遺跡の形状に関して多くの意見を交換し合い、七柱の跡がある神殿は全て崩壊していること、七柱跡がない神殿は柱が残っていることもあるのに、”シエロ”のものと思われる遺跡は全て崩壊している謎について考えを述べ合ったのです。我々は彼等がどんな結論を導きだそうが構わなかったのですが、興味がない訳ではなかったので、見ていました。」

 テオはアンゲルス鉱石のアントニオ・バルデスに頼んで調べてもらったカージョとレンドイロのフォロワーを思い出してみた。バルデスの会社のI T分析者が見つけたフォロワー6人のうち、レグレシオンと思われる人間が3人いた。残りは普通の市民だったと言うことだが、ロカ・エテルナ社の社員が含まれるのだろう。その社員もきっと”ヴェルデ・シエロ”だ。

「レンドイロがカージョと実際に会って意見交換しようと言う約束を交わした時、私は部下に彼女を尾行するよう指示を出しました。彼女を見張ると言うことではなく、カージョと言う人物を特定したかったからです。雑誌記者と違って、彼は一族の末裔です。何をどこまで知っているのか、確認したかった。ネット上の暴露の度が過ぎると、彼も記者も”砂の民”に粛清されます。2人だけなら良いが、粛清の範囲が広がれば収拾がつかなくなる恐れもありました。
 ところがアスクラカンでバスが休憩停車した時に彼女はバスから降り、そのまま子供に誘われてバスターミナルを離れました。部下が尾行すると彼女は農地の外れで一人の男に会い、森へ入って行きました。」

 テオはレンドイロやペドロ・ウェルタから聞いた話とアブラーンの話に矛盾がないか注意して聞いていた。当事者であったレンドイロは疲労と恐怖で少し記憶が混乱していただろうし、ウェルタは”操心”での自白なので訊かれたことの返答しか語っていなかった。ウェルタが見た「レグレシオンの男を襲ったジャガー」は何者だったのか。
 アブラーンが酒を一口飲んで休憩した。礼儀としてケツァル少佐もロホもアスルも黙って彼が話を再開するのを待っていた。テオは焦ったかったが、ここで”ヴェルデ・シエロ”達の機嫌を損ねたくなかったで我慢した。カサンドラが気を利かせて冷たいソフトドリンクを注文した。飲み物が来て、給仕が個室を出て行くと、やっとアブラーンが話の続きを始めた。

「アスクラカンの森には、地元民がクアラと呼ぶ遺跡があります。ケツァル少佐とドクトル・アルストは実際に行かれたので説明を省きますが、一族の祖先が築いた町の遺跡です。男はレンドイロをそこへ連れて行って七柱を用いた建造物崩壊の仕組みを語らせようとしたのです。つまり、その男は、レグレシオンと呼ばれる反政府過激派組織の一員でした。レンドイロを尾行していた私の部下は先回りして、クアラの番を先祖代々しているウェルタと言う”ティエラ”の男に女を奪えと命じました。ウェルタは命令通り過激派の男から女を逃がしましたが、部下が過激派の後始末をしている間に女を見失いました。」
「後始末って・・・」

 テオはうっかり口を挟んでしまった。ウェルタが自白させられた時に「レグレシオンの男はジャガーに殺された」と言ったことを思い出したのだ。”ヴェルデ・シエロ”は滅多にナワルの状態で人を殺さない筈だが。
 アブラーンが溜め息をついた。白人は礼儀を守らないなぁと諦めた顔だ。彼は説明した。

「部下はジャガーを召喚したのです。動物のジャガーです。一族のナワルではありません。」

 テオは思わずケツァル少佐を見た。”ヴェルデ・シエロ”は一族の人間だけでなく動物も呼べるのか? 少佐は彼の視線を無視した。ロホもアスルも何もコメントしなかった。

「ウェルタは部下に女を見失ったと報告し、部下は森で彼女を捜索することを諦めました。過激派の男の血で汚された森の浄化に気を使い果たしたからです。そして我々はベアトリス・レンドイロは森で迷って命を失ったのだろうと考え、女の件はそこで終わったと判断しました。まさかウェルタが彼女をクアラの生贄の部屋で監禁していたとは想像していませんでした。」
「我々は遺跡の番人とは殆ど接触しませんから。」

とカサンドラが言い訳した。その時、初めてアスルが発言した。

「マスケゴの方々は、どこの遺跡にも番人を置かれているのですか?」

 カサンドラとアブラーンが同時に首を振った。

「若きオクターリャ、そこまで我々は手を回せないのです。はっきりムリリョ家が建設に携わった場所にのみ番人を置いています。他のマスケゴの家が建てた場所まで我々は世話をする余裕がない。過激派がクアラに目を付けたことは、レンドイロにとって幸運だったと思って欲しいぐらいです。他の家が建設した遺跡へ誘い出されていたら、彼女は既に生きていなかったでしょう。」
「ウェルタはあなた方に女の行方に関して嘘をついた訳ですね。」

とケツァル少佐が初めて口を挟んだ。カサンドラが悔しそうな表情で頷いた。

「少佐があの男を捕縛されたそうですが、記者を監禁した件に関してどんな言い訳をしていましたか?」
「ジャガーへの生贄のために捕まえていたと言いました。レンドイロに対して性的虐待をした形跡はなく、彼女もそれに関しては言及していません。」
「確かに、あの場所は生贄を祭祀の時まで留めおく部屋でした。しかし本来の期間は2日か3日です。1ヶ月も監禁する場所ではありません。長期の監禁場所は地上で、神殿から離れた所に牢獄があった筈です。あまりに時が長く、番人にも正確な建物の役割が伝わっていなかった。それにウェルタは生贄を扱う資格を持っていません。”ティエラ”の番人でしかないのですから。」

 アブラーンが呟いた。

「あの男の件は父の耳に入っています。マスケゴの長老として父がどう判断するか、我々の口出し出来る段階ではなくなりました。」

 テオはアブラーンもカサンドラも父親が”砂の民”であることを知っているのだろうか、と疑問を感じた。”砂の民”は家族にもその役割を教えないと言う。子供達は父親のナワルがピューマであることを知らないのか? しかし、ムリリョ家の養い子であるフィデル・ケサダは養父の正体を知っている。いや、ムリリョ博士が自ら彼に明かしたのだ。フィデルの出自を教えた時に。
 クアラ遺跡の番人ペドロ・ウェルタは「行き過ぎた」行為をしてしまった。ムリリョ博士や長老会のメンバー達は彼にどんな判決を下すのだろう。ウェルタは誘拐犯として憲兵隊に逮捕され、今は裁判を待つ身だ。

第6部  虹の波      11

 レストランはテオも教授会のパーティで利用したことがある高級フランス料理店フラウ・ルージュだった。正装しないと入れないドレスコードのある店だが、テオも大統領警護隊の友人達も普段着だった。しかしロホがレセプションで「ミゲール少佐と彼女の連れ」と名乗ると、丁寧な物腰で案内された。恐らく”幻視”で正装している様に店内の人間達には見えているのだろう。案内されたのは奥の個室だった。V I Pルームだ。そこにアブラーン・シメネス・デ・ムリリョと妹のカサンドラ・シメネス・デ・ムリリョがいた。2人のシメネス・デ・ムリリョは招待客が入室すると立ち上がって迎えた。

「呼び立ててしまい、申し訳ありませんでした。」

とカサンドラが挨拶した。ケツァル少佐がそれに対して、

「こちらからお訊きしたいこともありましたので、お招きに喜んで応じさせて頂きました。」

と返した。アブラーンが一同に着席を促した。

「先ず食事をしましょう。それから話をお聞き下さい。」

 料理が運ばれて来た。アスルがちょっと冷めた目でそれを眺めた。テオが尋ねた。

「フランス料理は馴染めないのか?」
「そうではない。カーラが同じ物を作ってくれたことがある。彼女の方が美味かった。」

 それはシェフの腕と言うより、舌に馴染んだ味付けになっていたのだろう、とテオは思ったが口に出さなかった。流石にこのお高く留まった店では、アスルも厨房を覗くことをしなかった。同じ物を作る気にもならないのだろう。テオも作って欲しいと思わなかった。高級フレンチは高級な店で食べるに限る。自宅で作ってもらうなら、セルバ料理で十分幸せ感を味わえる。焼きそばでも構わない。
 カサンドラが少佐に、養父のフェルナンド・フアン・ミゲール大使はサンシエラ財団の後継争いに無関係なのか、と尋ねた。テオはサスコシ系の富豪家族に3人の後継者候補がいることをニュースで聞いたことがあった。少佐は笑って、フェルナンドは支流の息子なので財団の経営から遠い位置にいます、と答えた。駐米大使として政治活動はしているが、財団の当主が誰になろうとセルバ共和国政府の対北米外交に変化がなければ、フェルナンドはこれまで通りのままです、と。 カサンドラは頷いた。跡目相続に巻き込まれなければ大使の外交に影響が出ない、と言うことはムリリョ家にとっても有り難い、北米に進出を考えている子会社の援助をしやすくなる、と言った。
 妹が熱心に仕事の話をするので、ロホとアスルを相手にサッカーの話をしていたアブラーンが注意した。

「食事中に政治や商売の話は良くない、カサンドラ。」
「スポーツの話も良くありませんわ、アブラーン。」

 兄妹で互いを注意し合ったので、客達は苦笑した。どちらも「良くない」話に付き合ってしまったのだから。
 食事が終わり、コーヒーと食後酒を楽しむ時間になって、やっとアブラーンが、「さて」と始めた。

「我等が祖先の遺跡を見て、テロリズムに利用出来ると考えた馬鹿どもを摘発するきっかけを作って頂いた大統領警護隊とドクトル・アルストに感謝します。」

 礼儀として大統領警護隊の隊員達が軽く頭を下げたので、テオも真似た。アブラーンは客達を見回し、何から話すべきだったかな、と呟いた。カサンドラが苦笑した。

「予習したんじゃなかったんですか、アブラーン。」



2022/04/23

第6部  虹の波      10

  どのくらいの時間眠ったのか定かでない。目が覚めたのは、上掛けが重たくて寝返りを打てなかったからだ。寝返りを打てない・・・?
 テオは目を開き、顔を上げた。彼の胸あたり、隣に頭を置いてケツァル少佐が寝ていた。テオは一瞬自分達は何処にいるのだろうと考えてしまった。首を動かし、自宅の己の寝室だと確認した。室内は暗かったが、住み慣れた部屋の様子はわかった。彼は体を横にずらし、なんとか上掛けから出た。寝るときに上掛けを被った記憶がなかったので、少佐かアスルが掛けてくれたのだろう。しかし、何故少佐がここで寝ているんだ?
 ケツァル少佐は仕事帰りなのかTシャツにデニムボトムだった。テオの靴が脱がされていたように、少佐も素足だった。穏やかな表情で眠っていたので起こすのは可哀想に思えたが、この現状を理解したかったので、テオは彼女の肩を軽く叩いた。

「少佐、起きてくれ。」

 うーん、と小さく声を立てて、少佐が目を開いた。滅多に見せない寝起きの表情だ。ぼーっと布団の表面を眺め、それからガバッと上体を起こした。

「今、何時ですか?」

 テオは照明を点けた。壁の時計を見た。

「午後8時17分? かな・・・」
「ああ、良かった。夜が明けたかと思いました。」

 テオは彼女を繁々と眺めた。

「君がそんなに眠り込むなんて珍しいな。」
「油断しました。」

 ケツァル少佐はベッドから降りた。テオのベッドで彼の隣で寝た言い訳をしないで部屋から出て行こうとしたので、テオは声をかけた。

「何か用があったんじゃないのか?」

 彼女が足を止めた。

「用がないと来てはいけないのですか?」
「それは・・・」

 テオは返事に窮した。交際しているのなら兎も角、まだそんな仲では・・・そんな仲になっているのか?
 彼が返事を躊躇っていると、少佐は髪を手で整えながら、廊下に出た。

「晩御飯に行きましょう。アスル、起きなさい!」

 アスルも寝ていたのか・・・。すると寝ていたのはほんの1時間程度だ。テオが帰宅した時、アスルは食事の支度をしないでテレビを見ていた。テオは、彼はもう夕食を済ませたのだと思っていたのだ。
 家の外にケツァル少佐のベンツが駐車していた。まだ疲れた顔をしていると自覚があるテオと、昼寝ならぬ夕寝を邪魔された、ちょっぴり不機嫌なアスルを後部席に乗せて、ケツァル少佐はベンツの運転席に座った。
 彼女は真っ直ぐ市街地に行かず、坂道をちょっと登り、そこでロホを拾った。助手席に座ったロホは後ろを振り返り、「お帰りなさい」とテオに挨拶してくれた。
 走行中、車内が静かだったので、テオは我慢出来ずに誰にともなく質問をしてみた。

「この夕食は計画的なものかい?」

 アスルは答えず、ロホはちょっと間を置いて「スィ」と答えた。それから解説した。

「当初は少佐と私だけで、ある人と面会する予定でした。けれど貴方が帰宅されたとアスルから連絡をもらったので、少佐に報告すると、少佐が面会相手に貴方の同席を打診されたのです。結局貴方とアスルも加えて食事をしようと言う話になりました。」
「すると、もう1人店で合流するんだな?」
「1人なのか、2人なのか、わかりません。」

と少佐が言った。

「先方は『私達』と言われたので。」

 テオは現在進行形の事柄を考え、なんとなくこれから会食する相手の正体に見当がついた。

「マスケゴ族の人だな?」

 彼が呟くと、少佐が首を振った。

2022/04/22

第6部  虹の波      9

  往路より復路の方が時間がかかった。1ヶ月間鎖で繋がれて体力のない女性と、捕虜を連れているのだ。デルガド少尉はペドロ・ウェルタを監視しながら後ろについていた。テオはベアトリス・レンドイロの補助と世話だ。ケツァル少佐は彼女から先刻のウェルタの尋問の記憶を消し去った。ウェルタはそのことに気がつかないが、レンドイロが彼の罪が重くなるような証言をしなければ余計なことを言わない筈だ。彼は大統領警護隊の2人が普通の人間でないことを勘付いていた。だから少佐と目が合いそうになると慌てて視線を逸らせたし、デルガドの手が彼の体に何かの弾みで触れた時は、ビクッと跳び上がった。レンドイロは彼の怯え方を、彼女を誘拐した罪の重さを心配しているのだろうと思っただろう。
 携帯電話の電波が届く場所まで来ると、ケツァル少佐はアスクラカンの憲兵隊に電話をかけた。だから森から出て出発地点に辿り着くと、憲兵隊の車両と救急車が待機していたので、テオはホッとして気が抜けそうになった。ベアトリス・レンドイロは彼と大統領警護隊に感謝して、救急車に乗せられ運ばれて行った。ペドロ・ウェルタは憲兵隊に引き渡された。それらの様子は耳聡いマスコミに撮影されたが、セルバ共和国のメディア関係者達は大統領警護隊を撮影してはいけないことを知っている。だからテオばかりがカメラに追いかけられることになった。
 何故グラダ大学の生物学部遺伝子工学科の准教授が遺跡で行方不明だった雑誌記者を救出したのか? それに関してテオは、「バスの中で出会ったすぐ後で行方不明になった知人が気になった。しかし遺跡に行ったのは、新種の生物を探す目的で、捜索活動をしていた大統領警護隊の友人について行っただけだ。」と語った。ケツァル少佐からペドロ・ウェルタの証言に関する記憶を抜かれているレンドイロは、救出された時の様子を語ったが、彼女自身実際に当時混乱していたので証言が二転三転し、状況がはっきりしなかった。
 テオはすぐに憲兵隊の事情聴取から解放され、ケツァル少佐とデルガド少尉に別れを告げてエル・ティティに戻った。帰宅した時は疲れていたので、家に入るなりシャワーに直行して、それからベッドに倒れ込み、すぐに睡魔の虜になった。
 目が覚めると朝が来ており、彼は一躍エル・ティティの英雄になっていた。テレビのニュースを見た住民達が続々とお祝いに訪れ、彼はゴンザレスや警察署に迷惑をかけては行けないと考え、結局教会で講演会を開き、彼が語ることが許される範囲で冒険談を語った。
 エル・ティティの騒ぎは3日もすれば沈静化したが、その間テオはテレビやネットのニュースでグラダ・シティでレグレシオンの本拠地が憲兵隊の奇襲に遭い、多くの逮捕者が出たと知った。テロを行った事実はなくても、準備していたら犯罪になる。憲兵隊はレグレシオンが製造していた時限爆弾やその材料、シティ・ホールや市役所、放送局の設計図を押収した。オルガ・グランデでは殺人罪で数人の学生や元学識者のホームレスが逮捕された。アメリカ人占い師と、セルバ人の男性を殺害した容疑だ。誰が実行者かなど憲兵隊は問題にしなかった。関わった全員が犯罪者だ。テオは中米のこの無茶振りを時々「行き過ぎだ」と感じるが、テロリストが相手の時は、問題にしないことにした。彼等は性別年齢貧富の差を考えずに市民を殺傷することしか考えていない悪魔だ。テオはそう割り切ることに決めていた。テロリストがそんな行動や思想を抱くに至った過程など問題ではない。そんなことを考えること自体が問題なのだ。
 ゴンザレスは義理の息子が有名になったことを心配していた。テオ自身がテロや誘拐の標的にされることを心配したのだ。

「俺のことは心配しなくて良い。お前はグラダ・シティで”シエロ”の友人達の近くにいろ。ここへは休暇で帰って来てくれるだけで十分、俺は幸せだよ。お前がここにいる方が、俺は却って心配なんだ。」

 テオもゴンザレスやエル・ティティの住民が気掛かりだった。迷惑をかけてはいけない。彼はゴンザレスの厚意を受け容れることにした。
 新学期までまだ1ヶ月以上残っていたが、テオはグラダ・シティに帰った。予定より早い主人の帰宅に、留守宅で一人暢んびり夜を過ごしていたアスルはちょっぴりふくれっ面をしたが、腹を立てることはなかった。テオの自宅の中は綺麗に片付いていて、まるで誰も住んでいないみたいに見えた。元々アスルは物を持たない男だったし、散らかしたり家具を動かすこともしない。
 テオは荷物を寝室の床に置くと、ベッドの上に服を着たまま寝転がり、そのまま眠りに落ちた。


2022/04/21

第6部  虹の波      8

「貴方が知っている”ヴェルデ・シエロ”とは、誰です?」

 ケツァル少佐が落ち着いた声で尋ねた。テオは彼女が最前から”操心”を使っていることを知っていた。ペドロ・ウエルタと名乗った男は少佐に逆らえない。彼女の質問に対して嘘で答えたり、沈黙することは出来ない。ウエルタは目に薄っすらと涙を浮かべて答えた。

「ムリリョ・・・我が神の名前はムリリョだ・・・」

 テオはびっくりしたが、デルガドも目を見開いた。しかし彼等よりもベアトリス・レンドイロの驚きの方が大きかった。

「ムリリョ? まさか、あの考古学のムリリョ博士?」
「セニョリータ・・・」

とデルガドが彼女を呼んだ。レンドイロが彼を見て、視線を合わせた。テオはいきなり彼女がガクンと膝を折り、全体重を彼に掛けてきたので慌てた。デルガドが彼女を眠らせたのだ。
 ケツァル少佐はそんな小さな騒動など目に入らぬ様に、ウエルタに質問を続けた。

「ムリリョが貴方にレグレシオンのことを教えたのは、貴方がレンドイロを捕まえる前でしたか、後でしたか?」
「前だ。遺跡のことを調べに来る他所者がいたら知らせろと命じられた。特にレグレシオンと言う悪い連中は七柱のことを知りたがるから、警戒しろと言われた。七柱のことを調べている女記者や占い師が来たら遺跡に近づかせるなとも言われた。」
「その女記者をレグレシオンが誘き出したので、貴方が横取りしたのですね?」
「スィ。」
「彼女を奪われたレグレシオンの男はどうしました?」
「死んだ。」

 ウエルタは平然と答えた。”操心”に掛けられているとは言え、あっさりし過ぎている、とテオは感じたが黙っていた。支えているレンドイロの体が重たくなってきた。

「貴方が殺したのですか?」
「ジャガーに一撃された。俺はやっていない。」

 そのジャガーは誰かのナワルなのか、それとも野生のジャガーなのか。テオは野生のジャガーならタイミングが良すぎる、と思った。”ヴェルデ・シエロ”のナワルだ。ベアトリス・レンドイロを尾行していたのか、それともレグレシオンの男が尾行されていたのかわからないが、恐らくその”ヴェルデ・シエロ”は”砂の民”なのだろう、と彼は思った。だがムリリョ博士ではない、とテオは確信した。博士が変身して過激派の血で己の牙を汚すだろうか。それに博士はジャガーではなくピューマだ。ではウエルタが見たジャガーは? 
 ジャガーの詳細を聞きたかったが、少佐の”操心”術の邪魔をする訳にいかない。テオは我慢して彼女の質問を聞いていた。

「殺された男の死体はどうしました?」
「森の中に埋めた。」
「では、レグレシオンから助けたレンドイロを何故遺跡に監禁したのです。」

 ウエルタはテオが仰天するような返答をした。

「ジャガーに捧げるためだ。ジャガーが戻って来たら、彼女を生贄に差し出すつもりだった。」

 だがジャガーは戻って来なかった。だからレンドイロは殺されもせず、1ヶ月も鎖に繋がれていたのだ。
 ケツァル少佐がハァッと息を吐いた。ペドロ・ウエルタはハッと夢から覚めたかの様な顔をした。そして不安気に大統領警護隊の緑色に輝く徽章を胸に付けた男女の軍人を見比べた。”ヴェルデ・シエロ”と会話が出来ると言う大統領警護隊だ。
 少佐がレンドイロを振り返った。

「この女性をジャガーの生贄にするつもりだったのですか?」

 ウエルタは己が何を喋ったのか記憶にないのだろう、顔が土色になった。

「俺は何を喋ったんだ?」

 少佐がテオに尋ねた。

「この男をどうすべきですか? 誘拐と監禁の罪で憲兵隊に引き渡すことは出来ます。」
「”ヴェルデ・シエロ”の僕として遺跡の番人をしていたんだな? 口は固いと思う。神の話を他人にすればテメェの命がなくなるってことは理解しているだろう。」

 テオはウエルタに尋ねた。

「君はこの女性を誘拐したのか?」

 ウエルタはテオが支えているレンドイロを見た。ぐったりしている彼女を暫く眺め、それからテオや大統領警護隊を見ないように努めながら言った。

「そうだ。彼女が悪い奴に騙されて森に連れて来られたのを助けた。だけど美人だったので、俺の女にしようと思って閉じ込めていた。」

 簡潔な、しかし憲兵隊が納得する説明だ。嘘の説明だが、世間は信じるだろう。ウエルタは己の名誉が地に落ちても主人である”ヴェルデ・シエロ”の命令を守り抜くのだ。
 ケツァル少佐がレンドイロを見て、それからデルガド少尉を見た。

「少尉、彼女を起こしなさい。テオに担がせて行くつもりですか?」
「申し訳ありません、尋問を聞かれたくなかったので。」

 デルガド少尉はレンドイロの額に右人差し指を当てて、「起きろ」と囁いた。



第6部  虹の波      7

  ジャングルの夜は蒸し暑く、雨季らしくジメジメしていた。その日は雨が降らず、夜は冷え込まなかった。蚊に刺されるかと心配したが、2人の”ヴェルデ・シエロ”が故意に無防備に気を放出して寝たので、虫は寄って来なかった。ある意味、それは危険行為で、同じ”ヴェルデ・シエロ”の敵がいれば存在を察知されてしまうのだ。しかしケツァル少佐とデルガド少尉は2人の守るべき”ティエラ”を抱えていたので、敢えて「気を緩ませて」一夜を過ごした。
 朝は霧が出ていた。テオは太陽がどこにあるのかと天空を見上げ、微かに白い円形の光を霧の膜の向こうに見つけた。あっちが東なのか、と思った。彼の感覚では現場はアスクラカンの街より南だ。北へ歩いて行かねばならない。
 少佐が上の枝から手を伸ばしてアーモンド味のクランチバーをくれた。水分も欲しかったが、それはテオのリュックの中に入っているペットボトルの中に4分の1程残っているだけだった。
 地面に降りると、テオはデルガドの助けで降りて来たベアトリス・レンドイロに肩を貸し、アスクラカンへ戻り始めた。前夜勢いよく誘拐された過程を語った雑誌記者は、朝になると疲れがさらに酷くなっていた。デルガドが歩きながら見つけた木の葉を搾って苦そうな液体を彼女に飲ませた。すると彼女は少しだけ元気を取り戻して足を前に出して歩いた。

「薬草かい?」

 テオがそっとケツァル少佐に訊くと、少佐が彼にだけわかるようにドイツ語で答えた。

「麻薬成分を含む植物です。」

 レンドイロの疲労や苦痛を和らげるだけのものだ。
 小一時間歩いて、少佐が足を止めた。片手を挙げたので、テオとデルガドも止まった。テオは背後でデルガドがアサルトライフルを構え直す微かな音を耳にした。少佐が石像の様に固まったので、少尉も動かない。テオも息を潜めた。レンドイロだけがぼんやりと彼の体に腕を回し、もたれかかって立っていた。
 数分後に、やっとテオの耳にも足音が聞こえて来た。下草を踏み、木の枝を動かさぬ様砕心して歩いているが、ジャガーやマーゲイの耳には十分聞こえるのだろう。そして通常の人間より聴力の良いテオにも聞き取れた。不自然な音だ。樹上にいる猿や鳥が立てる音ではない。
 足音は片足を少し引きずった感じだった。怪我で足に多少の障害が残ったのか、引きずる癖があるのか定かでないが、特徴がある音だった。さあ来い、とばかりに少佐がライフルを音源の方向に向けた。
 レンドイロがやっと音を聞き分けたのか、テオの背中に回した手に力を入れた。微かな震えが伝わって来たので、テオは空いた手で彼女の手を軽く叩いて励ました。ここで怯えてパニックになってくれるな、と願いながら。
 戦闘態勢に入った2人の”ヴェルデ・シエロ”は完全に気配を消していた。目の前にいるのに人間が存在する気配がない。
 足音がすぐそこまで近づいた時、頭上で猿が吠えた。接近者に驚いたのだ。接近者が逆にそれに驚いて足を止めた。いきなり膠着状態に陥った。接近者も警戒して動くのを止めた。少佐とデルガドには相手の位置がわかったのだろう、彼等は焦らず、空気の一部になって向こうが動き出すのを待った。レンドイロもテオも息を止めてしまった。
 接近者が動いた瞬間、ケツァル少佐がクッと喉の奥で音を発した。テオはレンドイロを抱えて地面に伏せた。少佐も伏せ、最後尾のデルガドが3人を飛び越えて薮の中に踊り込んだ。
男の「わーっ!」と言う叫び声が上がると同時に、少佐が跳ね起き、彼女も藪に飛び込んだ。

「助けてくれ!」

 聞き覚えのない男の声が叫んだ。テオはレンドイロを助けながら起き上がり、泥を落として、ゆっくり藪へ歩いて行った。薮は激しく揺れていたが、テオとレンドイロが到着すると静かになっていた。
 無精髭の農民の姿の男が跪いていた。後ろ手に手錠をかけられている。デルガドの見事な捕縛術だった。男は顔は手入れをしていなかったが、服装はデルガドと格闘した際の汚れ程度で、荒んだ感じはなかった。少佐がライフルの銃先で男の顎を持ち上げて顔を見た。

「何者です?」

 男より先にレンドイロが震える声で言った。

「私を捕まえていた人です。」

 少佐は彼女を振り返らずに男の目を見つめた。

「名乗りなさい。」
「ペドロ・ウエルタ・・・」
「何処に住んでいますか?」

 男はアスクラカンの南の地区の名を告げた。低所得者が住む農村だ。所謂小作農が住む地区だった。

「貴方はベアトリス・レンドイロを誘拐しましたね?」
「・・・助けた。レグレシオンから・・・」

 テオは思わず少佐を見たが彼女は振り返らなかった。それで彼はデルガドを見た。デルガドは彼を見返し、それからまた少佐に視線を戻した。レンドイロを見ると、彼女はレグレシオンを知っているが、何故あの過激組織の名がここで出てくるのかわからない、そんな表情だった。

「彼女を最初に誘拐した男はレグレシオンの構成員ですか?」
「スィ。・・・彼女から七柱の仕組みを聞き出そうとして、彼女を誘き出した。」
「貴方はどうやってそのことを知ったのです?」
「村の古老に遺跡の場所を訊きに来た男がいた。遺跡に七柱があるか、まだ崩れずに残っているかと訊いてきた。古老は怪しんで答えなかった。後で俺に男のことを教えてくれた。」
「何故古老は貴方にレグレシオンのことを教えたのです?」
「俺が遺跡の管理者だから。」
「管理者?」
「ずっと昔から、俺の家は遺跡を管理してきた。ずっとずっと昔からだ。”ヴェルデ・シエロ”が去る時に、俺の先祖にそうしろと命じたからだ。」
「遺跡のことを訊いてきた男がレグレシオンだ、とどうして貴方は知っているのです?」
「”ヴェルデ・シエロ”がそう教えてくれた。」

 デルガド少尉がテオを見た。テオも彼を見た。レンドイロが呟いた。

「いるの? ”ヴェルデ・シエロ”が?」



2022/04/20

第6部  虹の波      6

  川と呼ぶには浅い流れだったが、水流を見つけて、そこで休憩を取った。レンドイロはそこで体を洗い、少佐が持ってきていたシャツと短パンに着替えた。ジャングルを歩くには不向きな服装だが、他に衣類がないので仕方がない。レンドイロの身支度が終わってから、遅い昼食とも早い夕食とも区別がつかない食事を取った。レンドイロは空腹だったに違いないが、飢餓の後でいきなり食事を取るのは危険だと知っていたらしく、少量の乾パンを水で浸して舐めるようにして食べた。
 テオが質問した。

「バスの中で俺と出会ったことは覚えていますか?」
「スィ。アスクラカンで下車する迄、ご一緒しました。」
「バスを下車してから、どうされたのです? 貴女がバスに戻って来なかったので、俺は何か用事でも出来たのかと思いました。貴女が行方不明になっていると、少佐から連絡をもらったのは10日も後でした。」

 レンドイロがケツァル少佐を振り返った。

「誰が貴女に私のことを通報してくれたのです?」
「貴女が消息を絶って8日後に貴女の会社が騒ぎ出し、貴女が取材予定だったンゲマ准教授に問い合わせがありました。ンゲマ准教授は貴女が遺跡の下見にでも行ってゲリラか何かに誘拐されたのではないかと心配し、文化保護担当部に相談して来たのです。」

 この段階では、まだオルガ・グランデで起きたことを少佐は雑誌記者に伝えなかった。レンドイロの身に起きたことだけを今は知る必要があった。

「きっと家族や友人を巻き込んで心配をかけてしまったのでしょうね。」

 雑誌記者はしょんぼりして言った。

「私の愚かさが招いたことです。バスから降りてお手洗いに行きました。出てきたところで、子供に声をかけられたのです。その男の子は私の会社の雑誌を持っていて、私の写真入りの記事を広げて見せ、私であることを確認して来ました。私がそうだと答えると、誰も知らない遺跡を知っている、柱が7本あった遺跡だ、とその子は言いました。」
「信じたのですか?」
「子供がジャングルの奥へ行けると思いませんでした。だから、お父さんか叔父さんが見つけたのかと訊いたんです。子供はそうだと答え、叔父さんと言う男性のところまで連れて行ってくれました。お駄賃は要求されましたけど。農地の外れでした。泥棒避けの監視カメラがありました。」
「叔父さんと言う人はどんな人でした?」
「普通の農民に見えました。言葉で遺跡の場所を説明しようとしたので、地図を出して見せたら、地図は読めないと言いました。それで、監視カメラにも私達の姿が写っているので、油断してしまい、男について森に入りました。」

 監視カメラは二日おきに上書きされて何も記録が残っていない。しかし、それもここでは彼女に伝えなかった。

「森の中に入って、1時間ばかり歩いたところで、騙されているのではないかと不安になりました。それで、携帯を出して位置を確かめようとしたら、男が私の行動に気づいて電話を取り上げようとしました。私が声を上げた時、別の男が現れたのです。」
「別の男ですか?」
「スィ。彼は子供の叔父と名乗った最初の男を殴りつけ、男達はその場で争いになりました。私は怖くなり、逃げました。来た道を逃げたつもりだったのですが、方角を間違えて、迷ってしまいました。森の中で遭難してしまったのだと絶望しかけた時に、2人目の男が私を追って来ました。彼が敵なのか味方なのか、私は判断出来ず、彼に導かれるままにあの遺跡へ行きました。」
「その男はあの遺跡を知っていたのですね?」
「スィ。迷わずあの場所へ案内されました。」
「どんな男でした?」
「服装は最初の男と変わらない、農夫の姿をしていました。農作業をする作業服を着ていたと言う意味です。人種は私と同じメスティーソでした。年齢は30歳前後? 細身で左頬に白い傷跡がありました。」

 レンドイロは指で傷をなぞるような仕草をした。ケツァル少佐とデルガド少尉は心当たりがないのか、反応しなかった。

「男は遺跡に関して何か言いましたか?」
「私が探している”ヴェルデ・シエロ”の遺跡だと言いました。太い柱の跡も7つありました。私が遺跡の名前を尋ねると、クァラと答えました。」

 テオは少佐を見た。少佐が言った。

「クァラは古い言葉で、『ない』と言う意味です。」

 遺跡に名前が付いていないと言う意味なのか、それとも本当にそんな名前の場所だったのか。男が古い言葉を知っているらしいことについては、少佐もデルガド少尉も驚くことではなかった様だ。地方によっては古語が残っているのだ。

「私が、そこに案内してくれた理由を尋ねると、彼はあの穴へ私を案内しました。そして私に穴の底へ降りるよう言いました。正直なところ、私は降りたくありませんでした。何とかして彼に町へ案内してもらおうと説得にかかったのですが、彼は降りろの一点張りで、怖くなった私は仕方なく彼に従いました。そして、貴方達に発見されるまで、あの暗闇の中で監禁されていたのです。」
「彼は監禁した理由を言いましたか?」

 テオは彼女が性的乱暴を受けていないことを雰囲気で感じ取っていた。レンドイロは疲弊しきっていたし、体調も良くなさそうだったが、気力はまだ残っていたし、テオとデルガドの手が触れても怖がらなかった。だから、却って彼女が監禁された理由がわからなかった。
 レンドイロは首を振った。

「私にはわかりません。私を鎖で繋ぐ理由を尋ねましたが、彼は答えてくれませんでした。食べ物と水だけくれて、一日に一回だけ用足しにあの部屋へ連れて行かれました。それ以外は話もせず、穴の外へ出て行き、戻りませんでした。私は地下で飼われていただけだったのです。」
「貴女を最初に森に連れ込んだ男がどうなったのか、尋ねてみませんでしたか?」
「そんな心の余裕はありませんでした。あの男と仲間なのかと一度だけ尋ねましたが、返事はありませんでした。」

 レンドイロは喋り疲れて、大きな溜め息をついた。デルガド少尉が木の上に寝床を作り、彼女をその上へ押し上げた。
 空は既に薄暗くなりかけていた。今夜は野営だ。”ヴェルデ・シエロ”は焚き火を必要としない。ケツァル少佐が別の木の上に足場を作り、テオを上げてくれた。デルガドもレンドイロが休む木の上の枝に居場所を作った。テオが少佐に囁きかけた。

「レンドイロを捕まえた男は明日も来ると思うかい?」
「わかりません。私達が遺跡に近づいた気配を感じ取って戻らない可能性もあります。」
「何者だろう?」

 少佐は肩をすくめただけだった。



第6部  虹の波      5

  洞窟探検の装備はして来なかったが、夜間行動の可能性はあったので、テオはヘッドライトを持っていた。ヘルメットなしで直接頭にベルトで固定した。ケツァル少佐は最初から軍用ヘルメットを被っていた。彼女のサイズではテオの頭部には小さ過ぎた。彼はデルガド少尉から借りることは考えなかった。少尉のヘルメットは少尉を守るための物だ。
 少佐が先に鉄棒の梯子を降りて行き、底に到着すると安全を確認してから、テオに合図を送った。テオも梯子を降りて行った。3年前、オルガ・グランデの廃坑にあったエレベーター用竪穴を降りたことがあった。あの時より明るく、距離も短かったが、石組は2000年以上前の物だし、鉄棒が錆びて折れないかと心配だった。何とか底に足を置いた時は、まだ探検が始まったばかりだと言うのに、ホッとした。
 竪穴の底の出口は1箇所だけで、3方は塞がっていた。少佐が地面を指したので、テオはヘッドライトをそちらへ向けた。土ではなく石畳の上の土埃の上に足跡が残っていた。何度も往復した様子で一番新しいものは梯子に向かっていた。少佐が囁いた。

「成人の男性、履き物は古いスニーカー。踵部分がかなりすり減っています。右足を少し引きずり気味。」
「最後に通ったのは何時かわかるか?」

 少佐が屈み込み、足跡の臭いを確認した。彼女や仲間がこんな行動を取る時、”ヴェルデ・シエロ”にはジャガーの資質が強いんだな、といつもテオは感じる。一体どんな遺伝子的変化で人間とジャガーが入り混じってしまったのだろう。
 少佐が顔を上げた。

「恐らく、この足跡は今朝のものです。」
「そんな最近?」
「もしかすると、この穴の奥で誰か住んでいるのかも知れません。」

 2人は歩き始めた。テオは足音を立てまいと努力したが、どうしても洞窟の中で音が響いてしまった。しかし少佐は咎めなかった。”ティエラ”なら当然だと理解しているのだ。天井が低いのも少しテオの身長には辛かった。ヘルメットを被った少佐でギリギリの高さだったから、この石の地下通路は当時の人間の身長に合わせて造られたのだろう。
 微かな空気の流れと異臭を感じて、テオは足を止めた。少佐が振り返った。目で「わかった?」と同意を求めて来たと思ったので、彼は頷いて見せた。少佐はライフルを構えたまま、前進を続け、彼も続いた。
 異臭は、トイレの臭いに近かった。動物の排泄物の臭いだ。テオは大判のハンカチを出した。少佐がスカーフを顔に上げ、彼も鼻から下を覆った。アンモニア臭のする場所に、土を盛った地面が数カ所見受けられた。約10メートル四方の四角い空間だ。少佐が壁を見回し、低い声で呟いた。

「遺跡をトイレ代わりに使っているなんて・・・」

 対面に通路が続いており、その奥で何か気配がした。少佐は通路に向かって行き、テオも続いた。少し上り坂になり、それを登り切ると、先のトイレ空間より広い部屋に出た。仄暗い灯りが一つだけ灯っていた。蝋燭の灯りだった。そして、黒い影がその下で蹲っていた。テオのヘッドライトがその影の主を照らし出した。照らされた人は顔を覆い隠し、小さくなった。テオは女性だと思った。思わず声をかけた。

「ベアトリス・レンドイロ?」
「いや・・・来ないで・・・」

 女性の声がそう言った。ケツァル少佐が話しかけた。

「大統領警護隊です。」

 暫く沈黙があった。それから、その人は顔を上げた。肌は汚れていたし、髪も乱れていたが、テオが知っている女性の面影があった。彼女はテオを眩しそうに見た。テオはヘッドライトを頭部から外し、彼女を直接照らさないよう気遣った。そして彼女に見えるように、ケツァル少佐にライトを当て、それから自分の姿も見せた。女性が囁いた。

「もしかして、ケツァル少佐?」
「スィ。」
「・・・そして、ドクトル・アルスト?」
「スィ。」

 突然彼女がワッと泣き出したので、テオはびっくりした。少佐が彼女に近づいた。

「怖かったんですね?」

 珍しく少佐が優しい声で雑誌記者に声をかけた。レンドイロが泣きながら頷いた。少佐がさらに尋ねた。

「貴女一人ですか?」

 レンドイロが頷いた。それから、顔を上げ、急いで周囲を見回した。

「男が一人、毎日食べ物を持って来ます。今朝も来ました。」

 テオは室内をライトで照らした。生活臭はない空間だが、彼女の為に、その男が運んだのか、汚い毛布と水のペットボトルがあった。少佐が確認した。

「その男がここへ来るのは、一日一回きりですか?」
「スィ。」

 レンドイロは部屋の一角を指差した。

「あそこから外の光が差し込んで来ます。短い時間ですが、それで1日の始まりと終わりの目安にしていました。彼は一日一回だけ来ます。間違いありません。」

 賢い女性だ、とテオは思った。少佐が彼に彼女の腕をとるように、と言った。

「事情は後でお聞きします。今はこの人をここから出してあげましょう。」

 テオがレンドイロの手を取って立ち上がらせると、地面近くでジャラリと金属音が響いた。見ると、彼女の右足首に輪っかがはめられ、彼女は鎖で壁に繋がれていた。少佐が鎖を眺め、ライフルの台尻で輪っかに近い部分を叩いた。実際はそれだけで鎖が砕けると思えなかったが、砕けた。恐らく、叩くタイミングで爆裂波を放ったのだ、とテオは推測した。1ヶ月近く繋がれたままだったので、レンドイロは最初歩くのがおぼつかなかったが、トイレ空間を過ぎた頃に何とか歩く感覚を取り戻した。彼女はトイレ空間を通り抜ける時に、恥ずかしそうに俯いた。彼女自身の体からも異臭がしていた。「男」が来る時しか、トイレ空間を使わせてもらえなかったのだ。
 出口に近づくと、少佐が先に登って行き、デルガド少尉にレンドイロ発見と、周辺への警戒の必要性を伝えた。これは同時に若いデルガドに、”ヴェルデ・シエロ”らしさを隠すようにと言う注意を与えたのだった。
 レンドイロは残る力を振り絞って鉄棒の梯子を登り切った。暖炉型の小屋から出ると、彼女は思わず、

「地上だわ!」

と声を上げた。デルガド少尉が指を唇に当てて、静かに、と注意した。

 

2022/04/19

第6部  虹の波      4

 5分程だったが、テオには10分かかった様に感じられた。彼は息を潜めて森の中で動かずに立っていた。やがて不意に後ろでデルガド少尉が息を吐く気配がして、現実が戻って来た。デルガドが囁いた。

「少佐に呼ばれました。行きましょう。」

 ”感応”で呼ばれたのだ。こんな場合はすぐ反応しなければ、呼んだ方が心配する。テオは少佐が姿を消した薮に向かって歩き出した。顔の高さまで葉が茂る植物をかき分け、いきなり開けた場所に出た。
 崩れた石造物が森の中に横たわっていた。苔生してシダなども蔓延っていたが、建物らしき物が昔そこにあったのだろうと推測される地形だった。ケツァル少佐が少し高い岩の上に立っていた。岩ではなく、崩れて残った壁の一部だろう。草の蔓が側面を覆っていた。

「名も無い遺跡です。」

と彼女が言った。銃先で地面を指した。

「大きな柱の跡が7箇所、後は小さいですが、やはり柱の跡です。」

 テオとデルガドは見回した。言われなければ遺跡だと思わない。岩が多いから大きな植物が育たなかった、と思うだけだろう。

「神殿跡か?」
「恐らく。でも住民はもう少し離れた場所に住んでいたのでしょう。そこは既に森に飲み込まれて発見出来ないと思います。」

 デルガド少尉が両手を胸の前で組み、祖先への挨拶をしてから遺跡の中に足を踏み入れたので、テオも真似た。 足元は平坦に見えて、実際は崩壊した石が散乱しており、不安定だった。うっかりすると浮き石を踏んで転倒しかねない。砂漠の遺跡の方が歩き易い、と彼は思った。
 少佐と少尉は人が最近この遺跡を訪れた形跡がないか探していた。レンドイロが姿を消したのは1ヶ月前だ。あれから毎日スコールが降っている。前日に来ていても跡が残ることは稀だろう。テオは石材の残骸の上を歩くのが少し不安に思えたので、神殿跡と思われる場所から少し離れてみた。”ヴェルデ・シエロ”達から離れると、彼等の気の放出範囲から出てしまうので蛇や毒虫に対する警戒が必要になるが、少なくとも声が届く距離にいる限り、少佐は怒らない。彼は草木の中を用心深く歩いて行った。
 いきなり薮の中に石組の小屋の様な物を見つけた。ジャングルでなければ暖炉かな?と思えるようなアーチ型の窪みが作られた人工物で、しかも床に穴が口を開いていた。雨水が入らないように周囲が高くなっており、口の大きさは人間が楽に入れる程だ。テオは穴を覗き込んだ。石で壁が造られている。遺跡の一部なのか。彼は携帯を出して、中を照らしてみた。
そして石壁に鉄の棒が挿してあるのを発見した。ほぼ等間隔で互い違いに2列、下へ降っている。古代中南米に製鉄技術はなかったので、これは近代の物だ。そして穴の底に降りる目的で壁に打ち込まれた梯子代わりの物だ。
 テオは「小屋」から出て、ケツァル少佐を呼んだ。返事はなかったが、彼女自身が2分後には姿を現した。少し遅れてデルガドもやって来た。テオは「小屋」の床にある穴を指差した。

「穴の壁に鉄の棒を挿して梯子が作られている。近代の物だと思う。君達の祖先が製鉄技術を持っていたなら、話は別だが。」
「古代に製鉄技術があったとしても、この時代まで鉄がそのまま残っているとは思えません。」

 少佐は穴を覗き込み、テオの梯子説を認めた。

「上から見る限り、下に横穴がある様です。」

 彼女はデルガド少尉に命令した。

「ここで見張っていなさい。テオと私で降りてみます。1時間経っても戻らなければ、本部に連絡を入れること。」
「承知しました。」

 デルガドが敬礼した。テオが「気をつけろよ」と気遣うと、彼は微笑んで頷いた。

「貴方こそ注意して下さい。決して少佐から離れない様に。」


2022/04/18

第6部  虹の波      3

  森の中は下草が多かったが、明るく、歩きやすかった。それに”ヴェルデ・シエロ”と一緒なので蛇や毒虫も寄って来ない。少佐が先頭で、テオを挟んでデルガドが殿を務めた。テオは何故少佐のお供が文化保護担当部の隊員ではなく遊撃班のデルガド少尉なのか、理由がわからなかった。遊撃班は通常2人1組で行動する筈だ。それで歩きながらその疑問を口にすると、少佐が教えてくれた。

「文化保護担当部は申請書類が溜まって忙しいので、一番最終的な仕事をしている私が出張しているのです。」

 つまり、申請書審査を担当するギャラガ少尉やデネロス少尉は多忙だ。警護の規模を考えるアスルも多忙で、警護費用や申請者に請求する協力金を計算するロホも忙しい。最終審査をして署名する少佐が、一番時間の余裕があるので、出張って来たと言っている訳だ。きっと文化・教育省の会議に出席したくないのだろう。
 ケツァル少佐の短い説明が終わったので、デルガド少尉の番だ。

「遊撃班は指揮官のセプルベダ少佐を含めて26名ですが、まだステファン大尉が厨房勤務なので、1人余ります。セプルベダ少佐は今回のテロリスト捜査に2名ずつ振り分けて、私が残りました。私は憲兵隊からもたらされる情報を分析して同僚に伝える役目を仰せ使っていましたが、レンドイロ記者がアスクラカンの無名の遺跡に誘い出された可能性が出て来ました。セプルベダ少佐は私をテロリスト捜査から外し、記者の捜索へ配置変えしたのです。」
「君一人だけを?」
「私は以前アスクラカンでディンゴ・パジェの捜索と捕縛を行ったので、ここでの森の歩き方はわかるだろうと。それに文化保護担当部に遺跡での捜査を手伝っていただければ、双方から1名ずつ出すことになって、2人組みが出来ると少佐はお考えになったのです。」
「すると、ケツァル少佐が出張ったのは、セプルベダ少佐の要請があったからか?」

 少佐と少尉が同時に「スィ」と答えた。最強の”ヴェルデ・シエロ”グラダ族のケツァル少佐と、一番力は弱いが情報収集活動では優れた能力を発揮する”ヴェルデ・シエロ”グワマナ族のデルガド少尉のコンビだ。テオはあのずんぐりしたセプルベダ少佐の賢人の様な風貌を思い出し、案外最適コンビをセプルベダが最初から考えていたんじゃないか、と想像した。

「レンドイロを誘い出した男は何者だったんだろう? レグレシオンの仲間だろうか?」
「それはわかりません。彼女に遺跡を見せると言って誘い出したのか、それとも他にも仲間が隠れていて、彼女を拉致したのか。しかし彼女は考古学の研究を取材している雑誌記者で、建造物の構造や崩壊させる仕組みを調べる専門家ではありません。専門家の話を聞くのが仕事の記者に、どんな用件があったのでしょう。」

 仲間がテロリストを追っている時に、行方不明の雑誌記者の捜索を命じられたデルガドは、不満ではないのか、とテオはちょっぴり心配したが、デルガド少尉はそんな小さな悩みなどない様に、森の中に注意を払っていた。だから通り道から少し離れた所で落ちていた赤い紙の切れ端を見つけたのも彼だった。それは雨で何度も濡れて溶け掛けていたが、雑誌の一部に見えた。ケツァル少佐はそこで立ち止まり、周辺を見回した。そしてさらに数片の紙屑を見つけた。

「雑誌を破り捨てた様だな。」

とテオは呟いた。振り返ると、低木の森であったが、どの方向から来たのかわかりにくくなっていることに気がついた。もうアスクラカンの街並みも、農村地区の風景も見えない。ここで置き去りにされると町への方角がわからない。太陽はほぼ真上だ。
 少佐が進みましょう、と言った。デルガドが黙ってテオに水筒を渡してくれた。”ヴェルデ・シエロ”達は時々通り道の樹木の葉を噛んだりしている。それで水分を補給しているのだろう。テオに薦めないのは、植物に含まれる成分が”ティエラ”には有毒である場合もあるからだ。

「デルガドと私はレンドイロと面識がありません。」

と不意に少佐が歩きながら言った。

「もし彼女が無事なら、貴方は彼女と面識がありますから、彼女を安心させてあげて下さい。」

 その為だけに呼ばれたのか? テオは不思議に思った。少佐はレンドイロがまだ生きていると思っているのだろうか?

「今向かっている遺跡は、行ったことがあるのかい?」
「ムリリョ博士とケサダ教授は行かれたことがあります。私は”心話”で情報を頂きました。」
「ムリリョ博士とケサダ教授は行った?」
「スィ。お2人は”シエロ”の遺跡をチェックする仕事をされています。発掘されていなくても、荒らされていないか不定期に見回っておられるのです。教授はディンゴ・パジェがこの付近に逃亡した時も、来られていました。」

 すると突然、ピリッと空気が微かに震動した。ケツァル少佐が足を止め、テオも思わず後ろを振り返った。デルガド少尉が困惑した表情で立っていた。

「どうした、エミリオ?」
「何でもありません。」

 一瞬怯えた表情が浮かんだが、デルガドは直ぐに平静に戻った。テオは彼が何に反応したのか、思い当たって、ハッとした。前を振り向くと、ケツァル少佐が肩をすくめ、再び歩き出した。彼女も思い当たることがあったのだろう。だが言葉に出してはいけないことだ。デルガドも忘れたことを思い出してしまって後悔しているだけで、誰にも話すつもりはない。
 テオはデルガドが”見てはならぬ者”を見たと聞いた時、あの人がディンゴ・パジェを追っていたのだとばかり思っていた。あの人が”砂の民”だと思い込んでいたからだ。しかしケツァル少佐から思い違いだと言われて、あの人がアスクラカンにいた理由がわからなくなった。だが、今になって少佐が説明してくれた。あの人は犯罪者を追いかけていたのではなく、遺跡を見回りに来ていただけだ。そして偶々森に隠れていたパジェを見つけ、パジェを捜索していた大統領警護隊を見つけたに過ぎなかった。
 デルガド少尉は、”見てはならぬ者”が誰だったのか、推測出来た。だが決してそれを口に出してはならない。一緒に同じ者を目撃した同僚にすら告げてはならない。彼は十分に掟を理解していた。 
 3人はそれから半時間ばかり無言で歩き続けた。次第に樹木が高くなり、高い位置で茂る葉が日光を遮り、薄暗くなってきた。
 不意にケツァル少佐が足を止めた。テオは危うく彼女の背中に接近しそうになって、立ち止まった。少佐が片手を挙げて、後ろの2人に待機と合図した。テオは最後尾のデルガドが気配を消したことに気がついた。まるで一人で森の中に立っている気分だ。
 少佐がアサルトライフルを腰だめの位置に構えて静かに前の藪に入って行った。

第6部  虹の波      2

  アスクラカンへ行く足は、アントニオ・ゴンザレスに相談すると直ぐに解決した。朝野菜や果物をアスクラカンへ卸に行く農家にトラックに乗せてくれるよう頼んでくれたのだ。グラダ・シティよりエル・ティティの方が近いので、早朝に出発すれば日が昇り切った頃にアスクラカンに到着した。テオは養父が町中に顔が利く警察署長であることを誇りに思った。
 ドロテオ・タムードの家は初めてだったが、すぐに見つかった。富豪サンシエラの家系の支流だから、町の名士だ。タムードの名を出せば道行く人誰もが同じ方向を指差して教えてくれた。ハイウェイから横道に入り半時間走った所にあった。民家と畑が混在する平たい土地の中に建てられた大きめの家だった。大地主と言うより何処かの会社の重役と言った感じだ。農家のトラックはその門の前でテオを下ろすと、帰りの便の心配もせずに走り去った。テオも何時帰れるのか不明なので、それ以上農家の厚意に甘えられなかった。タムード家も農家だ。広い庭の端に大きなトラクターが格納された小屋が2棟も建っていた。
 門衛はおらず、門が開放されたままなのでテオが入って行くと、玄関からケツァル少佐が出て来た。半時間前にバスが着いたのだ。バスで来たから私服かと思えば、意外にも彼女は迷彩服を着用していた。しかもアサルトライフル迄持っていた。彼女はテオを見ると、挨拶もせずに、「その服装は駄目です」と言い、後ろを振り返った。彼女の後ろから出て来た軍人を見て、テオは驚き半分喜び半分で叫んだ。

「エミリオ! 久しぶりだな!」

 大統領警護隊遊撃班所属エミリオ・デルガド少尉が敬礼で挨拶に替えた。彼も迷彩服で武装していた。テオに手招きして、タムード家の屋内を指差した。

「中で着替えて下さい。これから森へ行きます。」

 軍服ではなかったが、迷彩柄のズボンとカーキ色の長袖シャツを着せられた。靴は野外用ブーツだ。タムード家は農地での作業で雇う作業員の為の着替えや備品をたくさん持っていたので、サイズもすぐに合うものが見つかった。脱いだ私服はテオ自身のリュックに入れた。靴は置いていかねばならなかった。
 何処へ何をしに行くのか説明がないまま、テオと2人の大統領警護隊隊員はタムードの息子が運転する車で耕地の外れまで送られた。主人のタムードにまだ会っていないな、とテオが思っている間に、メスティーソの息子は少佐に挨拶して車をUターンさせ、戻って行った。
 テオは周囲を見回した。果樹園だ。まだ若いマンゴーの実が目についた。完熟した実は朝早く収穫されてしまったようだ。果樹園の南側は森が広がっていた。野生動物避けのフェンスがあるが、フェンスと果樹の間は距離が開けてあり、車で通れる様になっている。フェンスと森の間も空間を設けてある。動物がフェンスに万が一挟まってもすぐに発見出来るようにしてあるのだ。監視カメラもあったが、それは人間用だろう。作動しているのかどうか、テオはわからなかったので、カメラの視界に入ったと思われる箇所で手を振って見た。彼が移動するとカメラが同じ方向に向いたので、作動しているとわかった。タムード家は果樹園の警備にお金を掛けられる農家なのだ。
 彼はケツァル少佐に尋ねた。

「これから何処へ行くんだ? レンドイロの行方について、何か手掛かりでも掴んだのか?」

 少佐がデルガド少尉を振り返った。ほっそりした長身の若者が説明した。

「例の雑誌記者がバスを降りた後、子供と接触したことがわかりました。」
「子供?」
「スィ。目撃者の証言では、10歳程度の男の子がバスターミナルの女性トイレの近くで彼女に話しかけ、雑誌を彼女に見せたそうです。そして彼女は子供に導かれてバスターミナルを離れました。」

 テオは少佐を見たが、少佐からは何の解説もなかった。デルガドは続けた。

「憲兵隊に所属する一族の者が地道に捜査を続けた結果、記者に話しかけた子供を発見することが出来ました。それが5日前のことです。」

 ベアトリス・レンドイロが行方不明になってやっと25日後に手掛かりが出て来た。

「子供はテレビで捜索願いが出されていた女性の事件と、彼が話しかけた女性を結びつけて考えていませんでした。ニュースに興味がなかったのでしょう。憲兵に質問されて、親に宥めすかされて、やっと見知らぬ男から記者を呼び出してくれと頼まれたと告白しました。お礼はキャンデー1袋だったそうです。」
「その見知らぬ男はレンドイロがアスクラカンに来ることを知っていた様だな。」
「そうですね。もしかするとグラダ・シティから尾行していたのかも知れません。同じバスに乗って。」
「レンドイロは子供と一緒に何処へ行ったんだ?」

 すると初めてケツァル少佐が言った。

「ここです。」
「はぁ?」

 テオは周辺を見回した。ただの果樹園だ。少佐がデルガドの説明の後を継いだ。

「子供は男に頼まれて、レンドイロが以前書いた写真入りの記事が載った雑誌を彼女に見せたのです。そして、『7つの柱の跡がある場所を知っている』と彼女に言いました。男にそう伝えろと言われたからです。」
「それでレンドイロはノコノコついて行ったのか?」
「朝で明るかったし、ここは集落から遠くありません。それに子供がお駄賃をくれるなら案内すると、自然なもの言いをしたので、彼女は怪しまなかったのでしょう。」

 デルガドが監視カメラを指差した。

「あのカメラは2日おきに記録が上書きされてしまい、彼女の姿を残すことがなかったのです。でも彼女は知らなかった。彼女がここでカメラに手を振った、と子供は覚えていました。きっと彼女は記録されていると信じてしまったのでしょう。」
「ここで彼女はどうなったんだ?」
「子供はここで彼女を、子供を雇った男に引き合わせました。そして子供は帰りました。」
「子供は彼女と男が争ったりするところは見ていないんだな?」
「見ていないそうです。」

 テオが何か言う前に、ケツァル少佐が森を指差した。

「この奥に、古い遺跡があります。」
「え? 遺跡は実在するのか?」
「スィ。”ヴェルデ・シエロ”の遺跡です。未調査ですが、ムリリョ博士の遺跡地図には記載されています。」
「彼女は男とそこへ行ったのか?」

 テオは森を見つめた。暗い密林と言うイメージはなく、背が低い樹木が密に生えている、そんな森だった。



2022/04/17

第6部  虹の波      1

  エル・ティティの雨季は午後スコールが来る程度で、グラダ・シティほど蒸し暑くない。他国ではエル・ティティに似た気候の高原に首都が設けられているのに、セルバ共和国はわざわざ雨が多い低地に築かれている。しかし他所の国のカリブ海岸に比べると豪雨の頻度は低く、実際に住んでみると暮らしやすい気温だ。住民達はそれは”曙のピラミッド”のお陰だと信じている。何人もその石を積み上げた建造物に近づくことも触れることも許されない。内部がどんな構造になっているのかもわからない謎の建造物だ。
 テオはエル・ティティの町からティティオワ山を見上げ、それが巨大なピラミッドの様に思えて仕方がなかった。綺麗な円錐形に見える。尤も南側や西側の一部は山頂が崩壊して違う姿をしているのだが。
 ベアトリス・レンドイロが姿を消して1ヶ月経った。もう彼女の家族も彼女が無事生還することを諦めたのか、テレビにも出なくなってしまった。噂話をしないセルバ人は彼女の事件を忘れたみたいに世間話にも出なくなった。テオはそれが哀しかった。よく知らない女性だが、このまま世間から忘れ去られていくのが哀れだと思えた。
 会計士ホセ・カルロスの事務所での仕事を片付け、彼が帰り支度をしていると、携帯に電話がかかって来た。見るとケツァル少佐からだった。彼は急いでボタンを押した。

「オーラ、少佐!」
ーーオーラ。お仕事は終わりましたか?
「スィ。これから家に帰って、一人寂しく晩飯を食う。」
ーー署長は?
「今夜は夜勤だ。ああ、晩飯は家で食って、また仕事に出るんだがね。」
ーーでは、貴方も寂しく一人で食べることはないでしょう?
「言葉の礼だよ。」

 少佐は時々気が向いた時に電話をくれるが、内容は殆ど反政府ゲリラの情報の問い合わせだったし、かけて来る時刻はもっと遅い時間だった。夕刻にかけて来るのは珍しい。

「今日はどう言う要件だい?」
ーー今夜、バスで西へ向かいます。明日の早朝にアスクラカンに着きます。

 そこで少佐が黙ったので、テオは次の言葉を待った。しかし1分待っても彼女が何も言わないので、こちらの反応を待っているのだと気がついた。

「俺にも来いって言ってるのか?」
ーー忙しければ結構です。

 いつも素直な物言いをしない女性だ。テオは苦笑した。

「こっちから同じ時刻にアスクラカンに着く様なバスのダイヤはないんだ。車を調達するか誰かに乗せてもらって行く。もしかすると待たせるかも知れない。何処で落ち合おう?」

 すると少佐は意外な場所を挙げた。

ーードロテオ・タムードの家へ行って下さい。叔父様には話をつけておきます。
「え? タムードって・・・サスコシ族の?」
ーー他にいますか?

 少佐は「では明日」と言って、さっさと電話を切った。テオはポカンとして電話を見つめた。少佐の誘いは決してデートではない。デートではないが、誘われて嬉しい。嬉しいが、問題が生じた。

 さて、どうやってアスクラカンへ行こうか?


第6部  赤い川     20

  セルバ人は噂話を流すことをタブーとしている。しかしそれは表向きで、裏では情報が拡散されるスピードが非常に早い。インターネットが普及するより早い時代から、中南米の先住民は情報伝達システムを発達させていた。インカ帝国は伝令システムを国家が整えていたそうだが、セルバでは”心話”と言う神の力がものを言った。能力を持たない”ヴェルデ・ティエラ”でさえ、緊急の要件を遠方に伝えたい時は、村に一人はいる祈祷師に頼んで”ヴェルデ・シエロ”に伝言してもらうのだ。
 アンゲルス鉱石社では緊急重役会議が開かれ、バルデス社長がレグレシオンの活動に関する情報がある、と一言発言した。内容はない。ただ、彼は文字通りそう言っただけだ。しかし重役達はすぐに社長が何を望んでいるか理解した。社長の希望は彼等の希望でもあった。会社に害を与える可能性があるものは即刻排除せよ。そう言うことだ。彼等は直ちに直接の配下に命令を下した。
 憲兵隊オルガ・グランデ基地では、指揮官がグラダ・シティの本部へ連絡を入れた。内容は暗号化されていたが、テロリストの活動が活発化してきたことへの警戒を促すものだった。連絡を終えると、指揮官は幹部クラスの部下を集め、捜査会議を開いた。
 オルガ・グランデからの情報を解読したグラダ・シティの憲兵隊本部は直ちにテロ対策班を招集した。これまで内偵を続けてきた不穏分子の現段階での状況を分析し、オルガ・グランデからの情報の信憑性が高いことを確信するに至った。彼等が捜査に入ったのは言うまでもない。
 そして憲兵隊の動きは瞬時に大統領警護隊にも伝えられた。司令部はテロリズムと言う国民に与える危機を憂慮し、遊撃班に情報収集と対処を命じた。本当に公共施設を崩壊させて国民を殺傷する計画があるのか、あるとすればどの場所なのか。
 この動きを”砂の民”が知らぬ筈もなく、闇の狩人達は首領からの指示を待つことなく標的を求めて動き出した。

 夕方、シエスタから目覚めたロホは、ケツァル少佐から電話をもらった。テオは彼が母語で喋るのをぼんやり聞いていた。ベンハミン・カージョをどうすれば保護出来るかとそればかり考えていたので、通話を終えたロホが「グラダ・シティに帰ります」と言った時は驚いた。

「レンドイロの行方はまだわかっていない。カージョも守らないと・・・」
「それは貴方の役目ではありませんよ、テオ。」

 ロホは軍人だ。命令を受けると心の切り替えが早い。

「貴方はエル・ティティのゴンザレス署長の所に帰って下さい。私はそこまで貴方を護衛します。」
「それじゃ、アスクラカンへ行く。」
「レンドイロ記者を探す目的で行くのは駄目です。」
「どうしてだ?」
「警察が捜しても見つからなかったんです。貴方一人で動いても無駄です。」

 はっきり無駄だと言われてしまった。テオは腹が立ったが、言い返せなかった。

「せめてカージョの保護を誰かに頼みたい。」
「その本人が保護を拒否して隠れているのです。彼が希望しない限り、憲兵隊も警察も動きません。」
「彼はオエステ・ブーカ族じゃないのか? 一族の人は彼を守らないのか?」
「それも心許ないです。彼は一族から離れています。S N Sの投稿内容を見ても、一族に歓迎される文章ではありません。寧ろ一族に近づく方が彼にとって危険ですよ。」

 ロホの言葉は冷たく聞こえたが、冷静に考えればそれが当然なのだ。”ヴェルデ・シエロ”は長い時の流れの中で血を絶やさぬために、一族の中の不穏分子を自分達で排除してきた。大きな超能力を持ちながらも、圧倒的多数の”ティエラ”に存在を知られることを何よりも恐れてきた民族なのだ。ベンハミン・カージョは、一族にとってベアトリス・レンドイロより危険で厄介な人物に違いない。ロホは、そんな人物にテオが親切心で近づいて巻き添えになることを心配してくれているのだった。
 テオは溜め息をついた。

「わかった。明日1番のバスでエル・ティティに帰る。だけど、俺がアスクラカンに買い物に出掛けることは止めないでくれよ。」




 

2022/04/15

第6部  赤い川     19

  テオはベンハミン・カージョに憲兵隊の保護を受けることを勧めたが、占い師は拒否した。仕方なくテオは連絡先を書いた名刺を彼に渡し、ロホと共に陸軍基地に戻った。ロホが憲兵隊基地へ向かうと言うので、テオも同行した。ロホは殺人事件の担当者ではなく、憲兵隊オルガ・グランデ基地の指揮官に面会し、反政府組織レグレシオンが2件の殺人事件に関与している疑いがあると告げた。反政府組織は憲兵隊にとって天敵の様な存在だ。レグレシオンの名を知らない憲兵隊員はいなかった。
 古代遺跡の構造から7本の柱を破壊するだけで大きな公共の建造物を崩壊させることが出来ると言う説を唱えた占い師と、そのS N S上の友人である雑誌記者がレグレシオンに目をつけられたらしいこと、古代の遺跡は核爆弾で破壊されたと主張していたアメリカ人が殺害されたこと、等をロホとテオは憲兵隊指揮官に説明した。

「もし真犯人が本当にレグレシオンなら、何処かの公共施設でテロを起こす可能性を考えなければならない。」

とテオが意見を述べると、指揮官も固い表情で頷いた。

「近頃街で若い連中が度々集会を開いていると情報が入っています。学校へ行かず、仕事もしない、普段どうやって食っているのかわからない連中です。監視をつけていますが、集まるメンバーが毎回違う顔なので、当方も困惑しているところでした。レグレシオンは明確なリーダーを持たない組織で、その時々の活動でリーダーが決められ、交替します。グラダ・シティに本拠地があると言われていますが、オルガ・グランデでも動きが見られるようになりました。監視体制を強化し、警戒を厳しくします。」

 ロホは頷き、大統領警護隊が訪問先の軍隊の指揮官にする挨拶の言葉を唱えた。

「貴官と貴官の軍にママコナのご加護がありますように。」

 憲兵隊の指揮官が敬礼した。
 憲兵隊基地から陸軍基地は車で10秒程の距離だが、陸軍基地は広いので、宿舎としている兵舎に戻るには2分ほどかかった。
 車を車両部に返し、テオとロホは遅めの昼食を取り、シエスタに入った。ベンハミン・カージョを逃すまいと広範囲の結界を張ったので疲れたのだろう、ロホはベッドに横になるとすぐに眠ってしまった。もしかすると、地下のカージョの隠れ家にいた時も結界を張っていたのかも知れない。テオは彼の隣のベッドで無防備に眠るロホを愛しい弟の様な気分で眺めた。陸軍基地の中だから安心しているのではなく、隣にいるのがテオだから、熟睡出来るのだ。
 電話が鳴ったので、急いで部屋の外に出た。ロホを起こしたくなかった。電話をかけて来たのは、アントニオ・バルデスだった。ベンハミン・カージョとベアトリス・レンドイロのS N S上での遣り取りを覗いていた人間、つまり2人のどちらかのページにアクセスした人物の特定が出来たのだ。アンゲルス鉱石社は、かなり優秀なI T技術者を抱えている様だ。テオはバルデスが順番に挙げる6人の氏名とアドレスを書き取った。そしてバルデスが「もう用件はないですか?」と尋ねた時、レグレシオンを知っているかと訊いた。反応があった。

ーー反政府組織ですな。反逆者ですよ。
「昨日起きた2件の殺人事件に関与している可能性がある。」
ーー2件の殺人?

 バルデスは少し考え、思い当たることがあった様子で、ああ、と声を出した。

ーーどちらも連中がやったと、ドクトルはお考えで?
「まだ断定出来ていないがね。」
ーーあまり深入りしないことですな。

と言ったすぐ後で、オルガ・グランデ政財界の実力者は携帯ではなく、遠くへ視線を向けて呟いた。

ーーこの街で我が物顔に振る舞って無事に済むと思うなよ・・・
「セニョール・バルデス!」

 テオは相手が何を考えているのかわかったので、つい叱責するような声を出してしまった。バルデスは薄笑いを浮かべ、「さようなら」と言って通話を終えた。
 テオは怒れる虎の前に狂犬を放った気分になった。バルデスは善人ではないが、愛国者だ。彼なりのルールを持っているが、社会の秩序を乱す者を憎む。テロリストは彼の会社の様に大きな企業も狙うだろう。だからバルデスにとって、レグレシオンは排除すべき相手だった。


第6部  赤い川     18

  ベンハミン・カージョの隠れ家はクーリア地区の古民家にあった。台所の床板を外すと、古い坑道に降りられたのだ。どこからか違法に引いた電線で、暗い電灯が一つだけ灯る空間があり、そこにカージョは寝袋と食料を置いていた。昔トロッコでも通ったのか、錆びたレールの残骸が床にあり、何処かへ通じる通路が暗闇の中へ消えていた。決して暖かい場所と言えなかった。

「ここじゃネットが使えない。だからアパートに戻ろうとした。」
「パソコンはなかったぞ。」

 テオが教えると、カージョは悔しそうな顔をした。

「アイツらの仕業だ!」
「アイツらって?」
「レグレシオンの連中だ。」

 ロホが、ハッとした表情になったので、テオは彼を見た。

「知っているのか?」
「話に聞いたことはあります。所謂インテリの反政府組織です。”ティエラ”の学生崩れ達が組織した団体で、政府高官の家に小型爆弾を送りつけて来たり、富裕層の家の子供を誘拐して洗脳して仲間に引き入れたりするのです。」
「大統領警護隊は直接関わらないからな、あの連中とは。」

とカージョがちょっと人を馬鹿にしたような口調で言った。

「あんた等は一族に害が及ばなければ、知らん顔をしているんだ。」
「国民に直接被害が出なければ動かないだけだ。」
「政府高官だって国民だぞ。」

 テオはロホとカージョが喧嘩を始める前に、割り込んだ。

「何故レグレシオンが犯人だと思うんだ?」
「半月前に新聞記者を装った男が取材だと言って、俺のアパートに来た。遺跡の7柱の仕組みについて、かなり熱心に質問してきた。だが俺は、一族の存亡に関わる情報は渡せないと承知している。だから適当に返事をしてはぐらかした。男は満足した様子じゃなかった。俺が何か重要なことを隠していると勘づいたんだな。俺は占い師で、建築の専門家でも考古学者でもないから、柱をどう破壊すれば建物全体が崩れるなんて、知らないって言って追い払った。」

 テオは嫌な想像をした。

「もしかして、シティ・ホールとか大きな施設でテロを起こすつもりじゃないだろうな?」

 カージョが暗がりの中で、顔を暗くした。

「その可能性はあるかもな・・・」
「貴方が出かけている間に彼等は再びアパートに来て、貴方が柱の仕組みをパソコンの中にでも隠していると考え、貴方のルームメイトを殺害してパソコンを盗んだんだな?」
「恐らくな・・・パソコンの中にはそんな情報は入れていない。占いの客の個人情報ばかりだ。」

 テロリストにとって無用な情報でも、それを掴んでいるのがテロリストだと考えただけでも嫌じゃないか、とテオは思った。

「貴方は、マックス・マンセルと言うアメリカ人を知っているかい?」
「マンセル? ああ・・・」

 セルバ人のインチキ占い師はアメリカ人のインチキ占い師を知っていた。

「俺のところへやって来て、古代の神殿が破壊されたのは、柱が折れたからじゃなくて、核爆弾が仕掛けてあったからだと言いやがった、頭のおかしな男だな?」
「実際に会ったのか?」
「スィ。アパートに来やがった。俺に考えを改めろと迫ったんだ。頭がおかしいとしか言いようがないだろ?」

 カージョの7柱の説は正しい。そしてカージョはそれを実際に現代使用する目的で建設された公共施設があると指摘した。それを誤っているとアメリカ人のマンセルが批判しに来た? マンセルはカージョの説の誤りを認めさせて己の名誉回復を図ろうとしたのか?
 もしかすると、とテオは呟いた。ロホが彼を見た。テオは頭の中の考えを言った。

「マンセルは核爆弾の話をテロリストに売り込んだのかも知れない。だがテロリストはカージョの説の方を支持した。マンセルはカージョに誤りだと認めさせようとして相手にされなかった。テロリストには、頭のおかしなマンセルは邪魔だ。だから処刑してしまった・・・」

 え?とカージョが声を上げた。

「あのアメリカ人は殺されたのか?」

 暗い隠れ家の中に沈黙が降りた。


第6部  赤い川     17

  アントニオ・バルデスはテオの厚かましいお願いを、顰めっ面しながらも引き受けてくれた。

「その行方不明になっている記者は、貴方の友人なのですか?」

と訊かれたので、テオは「ノ」と答えた。

「友人のところへ取材に来た記者だ。そのうち俺の研究も取り上げてもらおうと思っていた、その程度だ。彼女個人の連絡先も何も知らなかった。だが、彼女が行方不明になる直前に乗ったバスに、俺も乗り合わせていたんだよ。」

 バルデスが電話の画面の中で彼をじっと見つめた。

「またバスですか。貴方とバスは奇妙な組み合わせなのですな。」

 そしてベアトリス・レンドイロが行方不明になる前に彼女とベンハミン・カージョのネット上での会話を覗いていた人々を探してみると言って、通話を終了させた。
 横で聞いていたロホがフッと笑みを漏らした。

「彼は善人と言えない人間ですが、することは筋が通っています。貴方に協力すれば大統領警護隊文化保護担当部における彼と彼の会社の株が上がる。鉱山業務がやりやすくなると言う訳です。」
「つまり、俺も彼に利用されているんだな。」

 テオも笑った。
 陸軍基地内でウダウダしていても埒が開かないので、テオとロホは街へ出かけた。ベンハミン・カージョが住んでいたクーリア地区のアパートへ行ってみたら、既に規制線は外されていた。住民が邪魔だと言うので、切ってしまったのだ。警察も憲兵隊も文句を言わないから、黄色いテープの破片はそのまま千切れて小さくなるまで風にはためくことだろう。
 カージョの部屋は荒れていた。殺人者が荒らしたのか、警察が捜査の為に荒らしたのか、よくわからない。もしかすると以前から整頓されていない部屋だったのかも知れない。占い師だと聞いていたが、占いの道具と思われる物は見当たらなかった。パソコンもなかった。殺人者が奪ったのか、警察が押収したのか、それともカージョが持ち歩いているのか。
 床にチョークで死体があった型が描かれていた。血溜まりが黒くなって残っており、異臭がした。テオは耳を澄ませてみたが、アパートや通りの雑音や人の話声しか聞こえなかった。ロホを見ると、彼も特に死者の霊が見えている様子でなかった。
 生活の場であって、商売をする場所ではないのかも知れない、とテオは思った。占いを依頼する客はどこでカージョと会っていたのだろう。近所の人に聞き込みをしようと部屋の外に出た。
 廊下の向こうでチラリと人影が見えた。テオはその顔を見て、叫んだ。

「カージョ!」

 人影が壁の向こうに引っ込んだ。テオは走り出した。
 カージョが階段を駆け降りる音がして、彼も追いかけた。通りに出ると、カージョが左手へ走り去るのが見えた。テオが追いかけ、カージョが逃げる。カージョは地の利があるが、テオは足が早い。狭い住宅地の道を2人の男は全力で走った。
 カージョが6つ目の角を曲がった。テオもその角を曲がった。カージョが立ち止まっていた。前方を、いつ先回りしたのか、ロホが立ち塞がっていた。

「何故逃げる?」

とロホが尋ねた。テオはカージョの後ろに追いついた。息が弾んでまだ口を利けなかった。カージョもはぁはぁと息を肩で息をしていた。彼が苦しい息の下で悪態をついた。テオは顔を上げ、そこがカージョのアパートのそばだと気がついた。ぐるっと町内を一周しただけだ。いや、カージョはそうせざるを得なかったのだ。彼は”ヴェルデ・シエロ”の血を引いており、ロホが張った結界から出られないのだ、とテオはようやく気がついた。純血種で高度な技を習得しているロホが張った結界を無理に破ろうとすれば、”ヴェルデ・シエロ”は脳にダメージを受ける。”ティエラ”には無害な精神波のバリアーだが、一族には致命的だ。

「俺を捕まえに来たんだろ?」

とカージョが言った。

「俺をワニに食わせるために・・・」
「馬鹿な・・・」

 ロホが真面目な顔で言った。

「我々はお前が何をしたのかも把握していない。だからお前が何を心配しているのか、お前のルームメイトが何故殺されたのかもわかっていない。だから、お前の話を聞きに来たのだ。」
「それじゃ・・・」

 カージョはやっと上体を真っ直ぐに伸ばした。

「あんた達はレンドイロを捕まえたんじゃないのか?」
「ノ!」

 テオはやっと声が出せるようになったので、ロホより先に否定した。

「俺は彼女とアスクラカンへ向かうバスの中で言葉を交わした最後の人間だ。彼女はアスクラカンで下車してそれっきり戻らなかったが、そのまま行方不明になっていたことを知ったのは、つい最近だ。だから気になって、大統領警護隊の友人の協力で彼女の行方を探しているんだ。最初はアスクラカンへ行くつもりだったが、彼女が貴方とネット上で話をしていたと知って、貴方が何か手がかりを持っていないかと期待してここへ来た。そしたら殺人事件が起きていて、びっくりしたんだ。貴方とレンドイロが何に巻き込まれているのか、俺達は知りたいんだ。」

 一気に喋って、咳が出そうになった。彼が唾液を飲み込んで喉を休めている間に、ロホがカージョに近づいた。

「ここは安全とは言えない。もしお前が我々を信用してくれるなら、陸軍基地へ連れて行って保護するが、それが嫌だと言うなら、どこかお前が知っている場所へ案内してくれ。」

 カージョはテオとロホを交互に見比べた。白人と大統領警護隊を信用して良いものかと考えているのだ。
 数分間の沈黙の後、カージョは腕を振った。

「俺の隠れ場所へ案内する。逃げたりしないから、結界を解いてくれ。」


2022/04/14

第6部  赤い川     16

  オルガ・グランデの憲兵隊基地は陸軍基地内にある。グラダ・シティの様な独立した場所を持っていないのは、土地が限られているからだ。市街地は旧市街新市街どちらも家がびっしり建て込んでいるので、丘陵地しか空いていなかった。
 ロホは憲兵隊基地へ行くと、前日ベンハミン・カージョの家で起きた殺人事件の担当者を呼び出した。担当の曹長は、カージョのインチキ占いに腹を立てた客がカージョを襲うつもりで家に押し入り、ルームメイトの男を拷問した挙句死なせてしまったのだろうと言った。テレビで放映されたグラダ・シティの雑誌記者行方不明の事件と、カージョのルームメイト殺害事件を関連づけて考えていなかった。犯人の目撃はなく、怪しい人間や車を見た人もいなかった。いたかも知れないが、事件に関わりたくないので名乗り出ないだけとも考えられた。

「カージョの行方はわからないのですか?」

とテオが訊くと、曹長は肩をすくめた。わからないのだ。オルガ・グランデはグラダ・シティと比べて土地は狭いが、周囲は岩山や砂漠で、しかも街の地下は坑道が縦横無尽に掘られている。隠れ場所に不自由しない。20数年前、ケツァル少佐とカルロ・ステファンの父親シュカワラスキ・マナは2年間たった一人で一族と闘ったが、それは坑道と言う隠れ家があったからだ。
 憲兵隊があまり情報を持っていないとわかり、ロホが陸軍基地に戻りましょうと言った。テオは同意したが、ふともう一つの事件を思い出した。

「昨夜、農村で見つかった死体の身元はわかったんですか?」

 曹長は担当ではないので知らないと答えたが、すぐに大統領警護隊のロホがいることを思い出し、慌てて担当者に連絡を取ってくれた。暫く相手と話をしていたが、電話を終えるとテオに向き直った。

「アメリカ人のマクシミリアム・マンセルと言う人を知っていますか?」
「マクシミリアム・マンセル?」

 テオはどこかで聞いた記憶がある、と考えた。マクシミリアム・・・マックス・マンセル?

「マックス・マンセルか!」

 彼が叫んだので、ロホと曹長が驚いて彼を見た。

「お知り合いですか?」
「まさか!」

 テオは苦笑した。

「俺がまだアメリカ人だった頃に、テレビに出まくっていたインチキ占い師だ。預言者と称していたがね。話術が巧みで、結構騙された人が多かった。そのうちインチキだって訴えられて、行方を眩ませたんだ。俺が初めてセルバに来るより少し前だったから、覚えている。あのマックス・マンセルがどうかした?」
「昨晩の死体がパスポートを所持していました。名義がマクシミリアム・マンセルだったのです。」

 今度はテオが驚いた。詐欺師として悪名を得た男が、セルバ共和国の荒地で死んでいた? せいぜいメキシコ辺りに逃げたとばかり思っていたが。

「死因はわかったのかな?」
「後頭部を拳銃で撃たれていたそうです。後ろ手に縛られていたので、所謂処刑の形で殺されていました。」

 曹長の言葉に、実際に遺体を見たロホが頷いた。
 憲兵隊に礼を言って、テオとロホは陸軍基地に戻った。

「妙なことになってきた。」

とテオはベッドに腰を下ろしてから言った。

「カラコル遺跡の地下に核爆弾が仕組まれていたと、チャールズ・アンダーソンやアイヴァン・ロイドに嘘を吹き込んだのが、マックス・マンセルだったんだ。アンダーソンとロイドは本当の話だと信じ込んでしまい、モンタルボ教授の発掘調査に同行して核爆弾の痕跡を見つけようと考えたんだ。しかし実際は核爆弾なんてなかった。カラコルの街の大元を築いたマスケゴ族の先祖達は、7柱の仕組みで、いざとなった時に街を崩せるように細工したんだ。
 現代のマスケゴ族はその仕組みが”ティエラ”ではなく一族に知られるのを心配している様なんだ。先祖が一族と仲違いした時の用心に造ったものが残っていると後味が悪いのだろう。ところがそれをベンハミン・カージョが気がついて、ネット上でベアトリス・レンドイロに語ってしまった。カージョは中央の長老会や政府に不満を抱いている様子だったから、所謂先祖の秘密の暴露をしてやろうって魂胆だったのだろう。レンドイロ記者は純粋に考古学の謎を解く好奇心だったと思う。だけどネット上で彼等の会話を覗いた誰かが、気に入らないと感じたんだ。レンドイロがアスクラカンで襲われ、それからカージョが狙われた。マックス・マンセルも何らかの理由で存在を知られて殺されたんだと思う。」

 彼は一気に喋って口を閉じた。ロホは向かいのベッドに座って彼を見ていた。テオの話が終わると、彼は少し考え、質問した。

「一連の事件の犯人が同一人物だと仮定して、そいつは”シエロ”ですか、”ティエラ”ですか?」
「それが問題だ。殺害の手口は”ティエラ”としか思えない。だけど、”シエロ”の殺し屋が”ティエラ”の犯行と見せかけていたとしたら?」
「犯人が”シエロ”なら、川を死で汚さないと思いますが・・・」

 ロホは目を閉じてまた考えた。テオはふと思いついて、グラダ・シティのケツァル少佐にメールを打った。

ーーレンドイロの行方の手がかりはあったかい?

 ロホが目を開いた。

「取り敢えず、カージョと記者の遣り取りを覗いていた人々を特定しましょう。犯人はその中にいると思います。」

 テオも同意した。

「ネットの管理者にユーザーの特定をさせることは出来るのかな?」
「貴方はカージョをどうやって見つけたのです?」
「彼の場合はハンドルがわかっていたから、バルデスに頼んで彼の会社で調べてもらった。」
「では、またバルデスに頼みましょう。」

 ロホはオルガ・グランデの裏社会の帝王とも言える鉱山会社の経営者に対して強気だ。バルデスが前の経営者ミカエル・アンゲルスをネズミの神像で呪殺したことを知っているし、その神像の怒りを鎮めて然るべき処置を行ってバルデスと会社を救ってやったのもロホとケツァル少佐だ。
 テオが苦笑すると、携帯にメールが着信した。少佐からだった。

ーーなし。

 簡潔に明解に。


第6部  赤い川     15

 オルガ・グランデ陸軍基地に向かう車中で、ロホが疑問を呈した。

「族長のサラテもガルシアも、川の上流で死んでいた人の身元に関して何も言いませんでした。彼等が川を汚す筈がないので、あの死体をあの場所に放置したのは地元民ではありません。そして死んでいた人は村の住民でもない。では誰が誰を殺したのか? 何故あの場所なのか? 厄介なことです。」
「行き倒れじゃないよな?」
「村へ行くなら兎も角、こんな外れの道へ入る他所者はいないでしょう。」
「だが、死体を捨てるとなると、ガルシアさんの家の前を通る訳だろう? 見られずに通れるだろうか? ガルシアさん達は”ヴェルデ・シエロ”だ。夜中に通ったとしても、車の音が聞こえるだろうし、窓の外も見えるだろう?」
「確かに・・・」

 自分達が追っているベアトリス・レンドイロ記者行方不明事件と関係があるのかないのか、それすら不明だった。
 テオは満腹だったので欠伸が出た。

「君は俺の護衛で来てくれたのに、面倒な仕事を増やしちまってすまない。」
「何を言うやら・・・」

 ロホが苦笑した。

「最近少佐の代理でデスクワークばかりしていたので、羽根を伸ばせると嬉しかったんですよ。」

 自分で動くのが好きな指揮官の副官として働くと、時にオフィスの留守番ばかりになるのだ。ロホだってまだ若いし、外で活動するのが好きな性格だから、毎日書類を読んで署名するだけの仕事は飽きる。テオも大学で講義したり野外に学生を連れて動植物の細胞を採取する方が、職員会議や報告書作成や学生の論文チェックをするより好きだ。
 車がやっと凸凹道から舗装道路に出た。真っ暗で車のヘッドライトしか灯りがないが、ロホは対向車がいないので、スピードを上げて車を走らせた。

「カージョはまた君が呼べば出て来ると思うかい?」
「政府に不満を抱いているそうですから、2度目は無理でしょう。」
「”砂の民”を呼ぶのも無理だろうな?」

 ロホが運転しながら、チラリとテオを見た。

「向こうの名前がわからないと無理です。私はママコナじゃありませんからね。」

 テオは黙り込んだ。
 夜中近くに陸軍基地に戻った。大統領警護隊の控室は空気が冷え切っており、テオは数台置かれているベッドの毛布を集めて、ロホと分け合った。尤もロホは毛布を重ねると重たいと言って、敷布代わりにしてしまった。
 夜間の歩哨の声だけが響く静かな夜が更けていった。
 朝は起床ラッパの音で目が覚めた。ロホが綺麗好きなテオの為に風呂の順番を確保してくれた。2人で一緒に裸になって入浴した。ロホの左肩にうっすらと傷跡が残っていた。反政府ゲリラ、ディエゴ・カンパロに刺された跡だ。普通の人間なら後遺症が残る程の深傷だったが、”ヴェルデ・シエロ”は元通りの腕の機能を取り戻した。今では肌に僅かな白い跡が残っているだけだ。それでもテオはそれを見ると、いつも胸の奥が熱くなる。テオの命を、ロホが命懸けで救ってくれた証だ。ロホはすっかり忘れた様な顔で、汚れた衣類を洗濯に出すべきでしょうか、と惚けた質問をしてきた。テオは笑った。

「俺はエル・ティティでは洗濯屋のバイトもするんだ。朝飯の後でシャツを洗ってやるよ。」

 アパートで一人暮らしをしているロホは、汚れ物が溜まるとコインランドリーに行くのだと言った。基地にもコインランドリーがあったが、常に兵士達が使っていて、空いている時間がなかった。
 大勢の兵士達と一緒に朝食を取り、洗濯をした。空気が乾燥している土地なので、シャツ程度ならすぐに乾く。乾くのを待ちながら、テオとロホはその日の行動を相談した。
 ベンハミン・カージョのルームメイト殺害事件の捜査がどんな進み具合か知りたかったので、憲兵隊基地へ行くことに決めた。

   

2022/04/13

第6部  赤い川     14

  ガルシア家の食事は質素だった。煮豆に蒸した米、挽肉と玉葱をピリ辛のトマトソースで煮込んだものが1枚の皿に盛り付けられて配られた。「こんな物しかなくて申し訳ない」とガルシアの妻は謝ったが、ロホもテオも美味しいと応えた。

「陸軍基地の食事に比べれば、遥かにご馳走だ。」

とロホが言うと、ガルシアの息子が「そうなんですか?」とちょっぴりがっかりした口調で応じた。ひょっとすると入隊を考えていたのかも知れない。
 食事を終える頃になって、外で車のエンジン音が聞こえた。やっと憲兵隊のお出ましだ。テオとロホはガルシア家の人々に食事の礼を言って、席を立った。ガルシアも立ち上がったが、ロホが自分が憲兵隊を案内するから彼は休んで良いと言った。それでガルシアは族長を呼んでおきますと言った。
 夜間に郊外へ呼び出された憲兵隊は機嫌が悪そうだったが、現れたのが大統領警護隊だったので、文句を言わずに川の上流へ向かった。今度はテオも同行した。
 車のライトで光る川の水は細く、川と言うより水の流れとしか呼べない様なものだった。それでも乾燥した土地では貴重な水源なのだろう。余程の旱魃でもない限り、この流れは涸れずに畑を潤しているに違いない。だから、その川が汚されてしまうのは、農民にとって死活問題だった。
 道路状況は上流へ行くに従って酷くなって来た。凸凹道をゆっくり走り、車幅ギリギリの狭路を行くと、やがて広い川原に出た。ロホが車を停めると、憲兵隊の車両、司令車とトラック2台、計3台が横並びに川原に停まった。
 憲兵隊がライトを設置して地面に横たわる遺体を照らすと、各車両はライトを消した。ガルシアの家の庭で嗅いだ不快な臭いが強くなり、テオはハンカチで鼻を押さえた。遺体を見たくなかった。ロホはスカーフで顔を目の下から覆い、同様のスタイルになった憲兵達を遺体まで導いた。遺体の下から流れ出る液体が川へ流れ込んでいた。まるで遺体が川の源流みたいな細い流れだ。1キロ下流で川の水が赤くなって異臭がしたのも無理がない状態だ、とテオは感想を抱いた。憲兵隊の指揮者と少し話をしてから、ロホが車に戻って来た。

「彼等に後を任せました。除霊の必要はないと彼等は考えているので、私は口出ししません。帰りましょう。」

 テオはホッとした。ここで捜査に加われと言われたら、嫌だな、と思っていたからだ。
 車が動き出し、方向転換して来た道を戻り始めると、彼は尋ねた。

「死んでいたのは、男かい?」
「服装や体格から判断するに、男性でしょう。」
「死んでどのくらい時間が経っているんだ?」

 ちょっとベンハミン・カージョが心配になったので、そう尋ねた。ロホがちょっと考えた。

「腐敗の進み具合から考えて1日ですか・・・動物に荒らされた跡が少なかったので、2日は経っていないと思います。」
「村人は川が変化する迄、気がつかなかったのか?」
「死体がある場所は耕作地ではありません。この先の峠を越えたところに、古い鉱山跡があるそうです。今走っている道は旧道です。新しい道がもう少し戻ったところから分岐して、この村の一番民家が集まっている場所を通って隣村へ続いています。」

 ガルシアの家迄戻ると、族長のサラテが来ていた。ロホは車に乗ったまま、サラテと”心話”を交わした。恐らく憲兵隊とのやり取りを伝えたのだろう。サラテが頷いた。

「もし祈祷が必要なら、長老に相談します。」

と彼はロホに言った。別れの挨拶を交わし、テオとロホはオルガ・グランデ陸軍基地へと向かった。


第6部  赤い川     13

 ロホとマリア・ホセ・ガルシアが家の中に入ってきた。ロホがサラテに向かって言った。

「1キロ上流に人の死骸がある。憲兵隊に連絡を取ろうと思ったが、携帯の圏外だった。貴方でもガルシアでも、どちらでも良いから、ここから憲兵隊に通報して欲しい。」

 ロホは自分の電話を使いたくなさそうだ。本来の目的と離れた事件だった場合、それに巻き込まれて仕事を増やすのは御免なのだ。サラテが己の携帯電話を出した。

「貴方のお名前を出して構わないでしょうか?」
「それは構わない。ガルシアと私が死骸を見つけた。家に入る前に私はガルシアのお祓いをした。憲兵隊の捜査が終わる時に私がオルガ・グランデにまだ居れば、川のお祓いをするが、私が其れ迄に去れば、村の長老に頼むと宜しい。」

  ロホが大統領警護隊と言うより、祈祷師の本領を発揮する言葉で話すと、サラテは安心した表情で電話をかけた。
 テオはガルシアが青い顔をして椅子に座り込むのを見た。夜目が利くから、まともに遺体を見てしまったのだろう。テオは無断で良いのかと思いつつも、台所へ水を汲みに入った。そこにガルシアの妻が不安気に座っていた。彼女はテオが入って来ると、彼の顔を見た。居間の会話は聞こえているから、嫌な言葉も聞いてしまったのだろう。だからテオは微笑んで見せた。

「大尉は祈祷師でもあるから、旦那さんのお祓いをしてくれました。この家は安全です。」

 妻が心なし表情を和らげ、頷いた。テオが彼女の夫に水を与えたいと言うと、水道の蛇口からコップに水を汲んでくれた。ここは上水道が通っているのだ、とテオは安心した。少なくとも死体で汚された川の水を使わずに済んでいる。
 テオが水を運んで行くと、サラテは電話を終えていた。ロホがテオに言った。

「憲兵隊は1時間後に到着するでしょう。2時間後かも知れません。ここで待ちますか? それともセニョール・サラテに送らせましょうか? 陸軍基地に貴方が泊まることを連絡しておきますが?」
「俺もここで待つ。」

 テオは事件がどう展開するのか、ただ安全圏に留まって見ているのは嫌だった。ロホは頷き、サラテに帰宅を許し、ガルシアに庭を借りると言った。車の中で憲兵隊を待つつもりだった。しかし、ガルシアが立ち上がり、これから妻に食べ物を用意させるので居間にいてくれと言った。水を飲んで落ち着いた様だ。恐らく大統領警護隊が家の中にいれば悪霊が来ないと思ったのかも知れない。
 サラテは憲兵隊が来たら己もまた来ると言って、帰宅した。聞けば彼の自宅はガルシアの家から歩いて20分かかると言う。その距離を彼は車を使わずに来ていたのだ。
 食事の用意が出来る迄、テオはロホとガルシアと共に居間に座っていた。テオがサラテから聞いた若者の不満分子の話をすると、ガルシアが苦笑した。

「”出来損ない”の連中です。俺も”出来損ない”ですが、まだママコナの声は聞こえる。聞き取れないが、聞こえるレベルです。だが、全く声が届かない連中が、俺達や中央の尊い人々に不満を抱いている。搾取されている訳でもないのに、何が不満なのか、俺には理解出来ません。」
「彼等の生活水準は? 貴方は耕作地をお持ちだと思いますが、彼等は畑を持っていないのでは?」
「連中は畑どころか、仕事もありません。昼間っから酒を飲んだり、ギャンブルにのめり込んだり・・・貧困は自分達のせいなのに、他人のせいにする。」
「オルガ・グランデは仕事がないのでしょうか?」
「鉱山会社へ行けば、いくらでもあります。きつい仕事ですが、今は機械が導入されて昔に比べればかなり楽だし安全になったと聞いています。学校で勉強すれば、オフィスで仕事をもらえる。セルバ共和国は貧富の差が大きいですが、義務教育は無料なので、学校は誰でも行けるんです。奨学金だってもらえる。俺の上の息子も奨学金で大学に行ってます。下の息子は地元で農作物の改良を研究している会社で勉強しながら働いています。真面目に働けば、不満なんてない筈です。」

 ちょっと楽観主義的な発言だったが、ガルシアが若い不満分子を快く思っていないことを、テオとロホは理解した。

「ベンハミン・カージョも不満分子でしょうか?」
「ああ、あのインチキ占い師!」

 ガルシアは唾を吐きたそうな顔をして堪えた。

「神殿を冒涜するような文章をネットに書き込んでいたヤツです。だが本人は何か行動を起こす度胸はない。若い連中に中央の陰謀やら、外国の脅威やら、あることないこと嘘を吹聴して混乱させていました。村の年寄りの中には、闇の仕事をする人にあいつを引き渡そうと言う者もいましたよ。」

 物騒なことをガルシアは平気で言った。テオが白人だと言う認識が足りない。
 そこへ彼の妻が食事の支度が出来たので、台所へ来る様にと男達に告げた。

第6部  赤い川     12

 テオは石造の家にセフェリノ・サラテと共に入った。マリア・ホセ・ガルシアの妻と息子が中にいて、2人をテーブルに案内した。オルガ・グランデは高原の乾燥地帯だから、夜間は気温が低下する。ガルシアの家の中ではストーブが焚かれていたので、テオはちょっと驚いた。セルバ共和国に来てからストーブを見たのは初めてだ。エル・ティティも標高が高い町だが、ティティオワ山の東側なので湿度はオルガ・グランデより高く、気温の変化もそれほど大きくない。涼しくて心地良い土地だ。しかし、オエステ・ブーカ族の村の夜はどちらかと言えば寒い。同じ西部でも海辺のサン・セレスト村が暖かったので、余計にそう感じるのかも知れない。市街地が暖かく感じられたのは、都会の熱のせいだろう。
 ガルシアの妻がコーヒーを出してくれた。そして無言のまま息子と共に隣の部屋に引っ込んでしまった。
 サラテはそれまで黙っていたが、テオと2人きりになると、やっと話しかけてきた。

「貴方はマレンカの若と付き合いは長いのですか?」

 「若」と言う呼び方が、貴人の子息の名を直接呼ぶことを避けた言い方であると、テオは気がついた。ロホは自己紹介の時に己をアルフォンソ・マルティネス大尉だと名乗った。だがオエステ・ブーカ族の人々にとって、彼は都に住まう貴族の若君アラファット・マレンカなのだ。ロホ自身がどんなにその身分を嫌っても、恐らく一族の中で生きる限りは一生その肩書きが着いて回るのだろう。
 テオは敢えてロホの現在の名前を使って呼んだ。

「アルフォンソとは付き合って3年目です。彼と初めて出会ったのは、オルガ・グランデでした。彼は俺の命の恩人で、同様に彼も俺のことを命の恩人だと呼ぶでしょう。つまり、我々は互いに助け合い、信頼し合う仲です。大切な友人です。」

 サラテは暫く彼を眺めていた。礼儀として目を見ることはなかったが、テオの為人を見極めようとしているかの様だった。テオは己がどれだけ大統領警護隊の友人達から信用されているか、証明する為に言った。

「俺は大統領警護隊の友人達のナワルを見たことがあります。アルフォンソは美しい金色のジャガーです。カルロ・ステファンは見事なエル・ジャガー・ネグロです。2人共、俺の命を救う為に変身してくれたのです。変身が命懸けであることを俺は知っています。だから、俺も彼等の役に立ちたい。」

 サラテが硬い表情を崩して、フッと笑みを浮かべた。

「グラダに愛されている白人がいると聞いたことがありますが、貴方のことですね。」
「愛されていると言われると面映いですが、現在長老会が認めている全てのグラダ族の人々と仲良くさせてもらっています。」

 テオは長老会が認めていないグラダも知っているぞ、と内心得意に感じた。
 サラテがドアを見た。

「我がオエステ・ブーカはグラダ・シティの出来事とは縁遠い生活をしています。遠い祖先が政争に敗れてこちらへ移って来たと伝えられていますが、現在の農耕や近くの町での働きで十分生活出来ます。東への野心も恨みも妬みも何もない。その筈でした。しかし、最近はインターネットとやらで、世界中の情報が入って来ます。若い連中の中には、何故自分達が貧しいのかと疑問を抱く者も出て来ました。貧しいと思うのなら、自分で努力して稼げば良い。グラダ・シティやアスクラカンで成功している一族の者は、昔から努力して来たのです。何もしないで今日の繁栄を築いているのではない。しかし、それが分からない愚かな連中は、羨望ばかりを増幅させ、不満を募らせています。世の中は不公平だと勝手に思い込んでいるのです。」
「それは、どこの国でも同じです。」
「ホセ・ガルソンをご存知ですか?」

 いきなり知人の名前が出て、テオは不意打ちを喰らった気分で驚いた。

「スィ、知っています。少し前迄太平洋警備室にいた大統領警護隊の将校ですね。」
「スィ。彼は愚かな過ちを犯し、左遷されました。彼の部下達も同様でした。」
「確かに、上官を守ろうとして本部に嘘をついたことは、重大な過ちでした。彼等は信用を失い、代償を払うハメになりました。しかし、現在彼等は失った信用を取り戻そうと努力しています。決して失望していません。」

 サラテがテオを振り返った。少し驚いていた。

「彼等とも親しいのですか?」
「親しいと言える程ではありませんが、ガルソン中尉とはグラダ・シティでたまに出逢います。彼の家族の話など、勤務に関係ない世間話をする程度ですが。」
「家族の話をするなら、彼は貴方を信頼しているのでしょう。」

 サラテは何気ない風に言った。

「彼は私の甥なのです。大統領警護隊に入隊して、”ティエラ”の女性を妻に迎えてから、あまり我が家と交流しなくなりましたが、村の若者達の尊敬の的でした。それがあの失態です。若者達がどれだけ彼に失望したか、彼は想像すらしていないでしょう。」
「彼等は尊敬する上官を守ろうとした。その上官は任地の村人達や港の労働者達を長く守って来た人でした。本部はそう言った事情を理解してくれたので、彼等は降格と転属で済んだのです。彼等は決して反逆者ではなく、判断をミスしただけです。」

 サラテが溜め息をついた。

「若い連中の中には、ホセ・ガルソンより愚かな者もいます。ホセとルカ・パエスは東の連中に冷遇されたのだと本気で憤りを感じる者がいるのです。」

 テオはふとベンハミン・カージョはこの村の出身ではないのかと思い当たった。だから訊いてみた。

「付かぬことをお聞きしますが、ベンハミン・カージョと言う人をご存知ですか?」

 サラテが複雑な表情で頷いた。

「スィ。ここの出身です。かなり血が薄いが、まだ”シエロ”と呼ばれる力、”心話”や”感応”、夜目を使えます。だが本人は己が”シエロ”なのか”ティエラ”なのか気持ちの置き所が定まらず、常に苛立っていました。テレビを見た私の妻が、あの男が今朝の殺人事件や雑誌記者の行方不明に関わっているらしいと教えてくれましたが、本当でしょうか?」
「まだ彼がどんな事件に巻き込まれているのか、俺達にはわかりません。それを調べに俺達はグラダ・シティから来たのです。数時間前に彼と接触しました。彼は政府の手先が彼の友人を殺したと思い込んでいます。何故そんな考えを抱くのか、理由がわかりません。」

 サラテの顔が硬くなった。

「政府に対して疑いを抱いているのではなく、長老会に・・・」

 彼は話し相手が白人であることを思い出して口を閉じた。だからテオは言った。

「”砂の民”を長老会が動かしたと彼は考えたのでしょうか?」

 サラテがびっくりした表情で彼をまじまじと見た。”砂の民”の存在を知っている白人など過去にいなかったのだろう。テオは話を続けた。

「”砂の民”が人間をあんな風に殺したりする筈がありません。カージョのルームメイトは拷問されて殺害されたのです。それがメディアで報道された。あんな目立つやり方を、”砂の民”はしないし、長老会も望まないでしょう。」
「貴方は、本当に我々一族を知っているのですね。」

 サラテがやっと緊張を解いたように見えた。その時、ドアの外で人が近づく気配がした。彼はそちらへ顔を向け、呟いた。

「マリア・ホセとマレンカの若が戻ったようです。」


2022/04/12

第6部  赤い川     11

  呼び出しの内容はレンドイロ記者の行方不明ともカージョのルームメイト殺害とも関係ない話です、とロホは断った。

「私がオルガ・グランデに来ている情報は、この土地の”ヴェルデ・シエロ”社会に既に拡散されています。大統領警護隊が動くと少なくとも長老級の人々にはグラダ・シティから情報が飛ぶのです。自分達の部族の粗探しをされない為の、自衛手段です。」

 彼は車を市街地から郊外に向かって走らせた。日が落ちかけているので、街がシルエットになり、テオは家々の灯りが庶民の住宅から見えることに気がついた。オフィス街からも繁華街からも遠ざかりつつあった。

「大統領警護隊としての、仕事の依頼かい?」
「スィ、と言うより、私の実家の名前に対する依頼です。」

 テオはロホが宗教的な権威を持つ”ヴェルデ・シエロ”の旧家の出であったことを思い出した。

「祈祷かお祓いの依頼なのか?」
「スィ。電話ではよく事情が掴めませんが・・・貴方が同行することを言っていないので、私が紹介する迄、車の中にいて下さい。依頼者は”シエロ”であることを白人に知られたくないですから。」
「わかった。」

 道路の舗装が途切れ、土の上を走っている感触が伝わって来た。マジに郊外だ。車は緩やかに蛇行する道を走り、テオはヘッドライトの灯りの中に見える岩や、野生動物の光る目を眺めた。やがて平らな場所が見えてきた。

「トウモロコシ畑です。オエステ・ブーカ族の村ですよ。」

とロホが教えてくれた。彼は車を一軒の家の前に停めた。ヘッドライトの灯りの中に見えた家は、石の壁と薄い瓦葺の屋根の、そこそこ立派な家だった。男が2人外に立って、車を出迎えた。ロホがエンジンを止め、車外に出た。男達が彼に挨拶した。ロホが属する主流のブーカ族と、大昔に政争で敗れて西部へ移住したオエステ・ブーカ族はどちらが優位なのか、テオはわからなかった。目の前の光景を見る限りでは、出迎え側がロホを自分達より格上扱いしている風に思えた。ロホが自己紹介をして、また彼等は改まって礼儀作法に則った挨拶を繰り返し、やっとロホが車を振り返って、白人を連れていること、その白人は”ヴェルデ・シエロ”の大事な友人であることを紹介した。彼が手を振ったので、テオは許可が出たと判断して、車外に出て、彼等のそばへ行った。ロホが紹介してくれた。

「グラダ大学のアルスト准教授です。」
「アルストです。宜しく。」

 テオが作法通りに右手を左胸に当てて挨拶すると、向こうも同じ仕草をした。ロホが彼等を紹介した。

「族長のセフェリノ・サラテさんとこの家の主人のマリア・ホセ・ガルシアさんです。」

 サラテは60歳を過ぎていると思われる純血種で、ガルシアは40代半ばのメスティーソだった。メスティーソでも”ヴェルデ・シエロ”なのだ。
 テオは何となく生臭い臭いがすることに気がついた。金気臭い、胸が悪く様な臭いが風に乗って漂って来る。彼が風上に視線を向けると、サラテが尋ねた。

「貴方にも臭いがわかりますか?」
「スィ。」

 テオは頷いた。

「正直に言わせて頂きますが、胸が悪くなるような臭いが風に乗って来ます。」

 サラテとガルシアが頷いた。ロホも肯定した。そして呼ばれた理由を語った。

「この家の裏手に細い川が流れています。その川の水が今日の午後、赤くなり、不快な臭いが漂い始めたそうです。」
「川が赤くなった?」

 テオはギクリとした。この臭いは血の臭いなのか? サラテとガルシアは彼の想像を裏切らなかった。彼等は暗い空間に顔を向けた。

「上流で何かが死んでいます。川が汚されてしまった。」
「グラダ・シティからマレンカ家の御曹司が来られていると聞いて、長老に連絡を取って頂いたのです。」

 先刻の電話は、オエステ・ブーカ族の長老の一人から掛かって来たのか? するとロホがテオに分かりやすく説明した。

「この村の長老は私への連絡方法が分からなかったので、最初に憲兵隊に連絡を入れたのです。先住民の村で問題が発生した場合の担当公的機関は憲兵隊ですから、正しい処置でした。憲兵隊は大統領警護隊に連絡して欲しいと依頼され、陸軍オルガ・グランデ基地に連絡して、私の携帯電話の番号を知る基地司令官秘書が私に電話して来たのです。」

 長い説明だが、分かりやすかった。もしサラテかガルシアに語らせたら、周りくどい説明でややこしくなっただろう。

「ここの人達は、君にお祓いをして欲しいと願っているってことだね?」
「スィ。しかし、原因を突き止めないと、物理的に解決しません。」

 ロホは現実的だ。

「川を見てきます。貴方はここで待っていて下さい。」

 テオはついて行きたかったが、街灯も何もない場所だ。ロホもサラテもガルシアも”ヴェルデ・シエロ”だから、照明なしでも暗がりの中で目が見える。夜の屋外は危険だ。蠍や毒蛇に出くわす確率が高い。テオは素直に車の中で待つと応じた。するとサラテが言った。

「マリア・ホセに川筋を案内させます。私はアルスト准教授とここで待ちます。」

 ガルシアが自宅を指した。

「中でお待ち下さい。家の者に居間で接待させます。」


第6部  赤い川     10

  ベンハミン・カージョは逃げてしまった。彼がベアトリス・レンドイロ記者の行方を知っているとは思えなかったが、彼が何と戦っているのか、まだ掴めないでいた。古代の神殿建築の秘密を暴いたとして、それが現代にも用いられていると言う証明がない。その建築が建物を崩壊させることを前提に造られたと言う証明もない。だから、カージョやレンドイロがどんなに古代の秘密をネット上で騒ぎ立てても、”ヴェルデ・シエロ”には痛くも痒くもない筈だ。
 だが・・・
 テオは帰りの車の中でロホに言った。

「カラコルの海底遺跡で古代の7柱の秘密が暴かれないか、ロカ・エテルナ社は心配していた。いや、会社じゃないな、アブラーン・シメネス・デ・ムリリョが心配していたんだ。」
「アブラーンが心配したのは、その工法が現代人に知られることではないと思います。」

とロホは人混みの中を慎重に運転しながら言った。

「彼の先祖がその工法を使ったことを、一族の他の部族に知られたくなかったのでしょう。」
「どう言うことだ?」
「つまり、現代もその工法で建てられている施設が、”ヴェルデ・シエロ”社会にあると言うことです。」

 テオは考えた。

「つまり、”ヴェルデ・シエロ”の中で、部族間抗争が起きた場合に、マスケゴ族が相手を簡単に殺せる場所があるってことか?」
「スィ。私は見当がつきますが、言わないでおきます。貴方が知って得をすることではありません。」

 思わせぶりな言い方だが、テオはロホがどの場所のことを言っているのか、想像出来た。確かに、その場所が崩壊したら、恐ろしいことになるだろう。国中の”ヴェルデ・シエロ”は大混乱に陥るし、セルバ共和国も大きな衝撃を受ける。政治的ダメージを受ける人間も少なくない筈だ。

「アブラーンはその秘密を一子相伝の範囲に止め、未来永劫使用されないことを願っている筈です。だから、古代の建築法の秘密を暴いたと騒ぎ立てる”ティエラ”を殺して騒ぎを拡大させるとは思えません。カージョとレンドイロがS N S上で交わした会話は公開されているもので、誰でも見られますが、閲覧者が増えたのはレンドイロの行方不明がテレビで報じられてからです。それ迄は双方の友人や客が見ていただけで、4、5人程度でした。占い師と記者に興味はあっても、彼等2人の会話には興味を持たれなかったのです。閲覧が増えたのは、レンドイロの行方不明にカージョが関わっているのではないか、と憲兵隊が考えたからですね。」
「それじゃ、最初から彼等の会話を見ていた人物を特定出来れば良いんだな・・・。憲兵隊はサイバー分析の専門家を雇っているんだろうか?」
「どうでしょう・・・」

 ロホが苦笑した。

「そもそも、貴方は、何処からカージョの住所を突き止めたんです? 憲兵隊は公開していなかったと思いますが?」

 それでテオはアントニオ・バルデスにレンドイロのS N S上の会話相手を探してもらったと言った。ロホは溜め息をついた。

「バルデス社長はそう言うシステムや専門家を持っているんですね。」
「レンドイロの会話相手がカージョだと指摘したのは、ゴシップ誌”ティティオワの風”だった。あの雑誌は何処の町や村でも手に入るから、全国にカージョの名前は知れ渡っているだろう。」
「カージョのルームメイトを拷問して彼の居所を吐かせようとした人物は何者だと思います?」

 難しい質問だ。”砂の民”と言いたいが、”砂の民”は自分達の仕事を仕事だと知られないように標的を殺害する。それに彼等は”ティエラ”を拷問しない。目を見て”操心”で自白させる。
 夕暮れ時の街中を走っていると、ロホの携帯に電話が掛かってきた。ロホは堂々と道路のど真ん中で停車した。狭い道路だったから、路肩や駐車スペースなどない。道端に寄せても、車同士すれ違える幅がないので、ロホはそんな手間をかけなかった。
 彼が電話に「オーラ」と応えると、男の声で何か早口で喋るのがテオに聞こえた。ロホは表情を変えずに聞いていたが、やがて、返答した。

「了解。すぐにそちらへ向かう。」

 彼は電話を切ってポケットに仕舞うと、車を発車させた。軍用車両の後ろで辛抱強く待っていたドライバー達がホッとするのを、テオは背中で感じた。

「何か厄介事か?」
「スィ。」

 ロホが前方を見ながら囁いた。

「晩飯が遅くなるかも知れません。」



2022/04/11

第6部  赤い川     9

  ロホが近づいて来る男性の気配に気がついた。目で合図されて、テオも通路を振り返った。無精髭を生やした50代半と思われるメスティーソの男がゆっくりと歩いて来るところだった。服装は草臥れたチェックの襟付き綿シャツとデニムボトム、履き古したスニーカーだ。肩から斜めがけに大きめのショルダーバッグを提げていた。
 男はロホの大統領警護隊の制服を見て足を止めた。少し躊躇ってから声をかけて来た。

「呼びましたか?」
「スィ。」

 ロホは男の背後を見た。尾行されている様子は見られなかった。彼は男にそばに座れと手で合図した。男はまた躊躇したが、意を結した表情で長椅子のテオの隣に座った。
 テオが挨拶した。

「グラダ大学生物学部のテオドール・アルスト・ゴンザレス准教授です。」

 男が怪訝な顔をした。大学の先生が何の用事だ? しかも大統領警護隊を連れて?
 テオは彼を揶揄うつもりはなかったが、相手が名乗らないので、少し意地悪く言った。

「こちらの要件を貴方の占いで当てられませんか?」

 男が表情を硬らせた。彼はテオとロホを交互に見た。どちらを相手にすべきかと量っている。テオは腹の探り合いが得意でなかった。だから尋ねた。

「貴方のルームメイトが殺害されたことはご存じですね?」
「・・・スィ・・・」

 男はベンハミン・カージョであることを暗に認めた。

「犯人をご存知ですか?」

 カージョはロホを見た。彼はロホに尋ねた。

「殺人犯を捜査しているんですか? それとも私を捕まえに来たんですか?」
「捕まるようなことをしたのか?」

 ロホが高い階級の軍人の口調で訊き返した。カージョが首を振った。

「私は法律に触れることをしていない。私はただ我々の先祖が神話の中の存在ではなく、現実にいたのだと言うことを、ネット上で語っただけです。」
「シエンシア・ディアリア社のベアトリス・レンドイロ記者と語り合っていた、そうですね?」
「スィ。遺跡の形状の特徴を指摘して、ある時代からそれが造られなくなったことを考えると、それが”ヴェルデ・シエロ”の遺跡である可能性があると言う話を論じ合ったのです。」
「それが、何故『いる』と言う考えに繋がるのです? 『いた』のではないのですか?」

 カージョはまたロホをチラリと見た。大統領警護隊が伝説の神と話をすると言う迷信を信じているのか? しかし彼はロホの”感応”に応えたのだ。この男も”シエロ”だろう。或いはその子孫だ。彼は小さく息を吐いて、答えた。

「現在も同じ建築方法が使われていることに気がついたんです。」

 テオとロホが黙っているので、彼は説明を付け加えた。

「ある特定の建設会社が建てた公共施設がどれも同じ構造を取り入れてることに気がつきました。素人目には分かりません。プロの建築家でもわからないでしょう。でも、柱の配置が同じなんです、遺跡の崩壊した神殿跡の柱の痕跡と全く同じ配置なんです。」

 彼は全身を小さく震わせた。

「建物を支える主要な柱が必ず7箇所なのです。そしてそれらが折れると自然に建物全体が崩壊するようになっている。同一建設会社の建造物で、公共施設です。そこが重要なのです。個人の依頼による建物ではない、公共施設です。大勢が利用する建物です。」

 テオはそれに似たような話を聞いたような気がしたが、何処で聞いたのか、誰から聞いたのか、思い出せなかった。恐らく、軽く聞き流してしまったのだ。
 カージョが声を小さくした。元より小さい声だったので、聞き辛くなった。テオは彼に顔を近づけた。

「・・・逆らうと、罰として建物を崩壊させ、我々に見せしめる為のものではないかと思うのです。」

 とカージョが言った。ロホには最初から聞こえていたようだ。

「考え過ぎだ。」

と彼はカージョを遮った。

「政府が国民をそんな方法で罰する筈がない。古代の建築方法で建てたからと言って、その建設会社が古代の民族の流れを受け継いでいると言う考えも無理だ。そもそもセルバ人はその古代の民族の子孫ではないか。神殿の建築を真似てもおかしくない。」
「だが、現にホアンは殺された!」

 カージョが立ち上がった。

「ここに来たのが間違いだった。大統領警護隊は政府の機関だ。ホアンは政府の手先に殺されたんだ。建築方法の秘密を守るために・・・。」

 彼はクルリと向きを変え、聖堂の中を走り出した。テオは思わず立ち上がったが、追いかけなかった。聖堂内にはまだ数人見物人がいて、走って出ていくカージョを眺めていた。
 テオは座り直した。ロホを見ると、ロホがカージョの言葉を教えてくれた。

「彼は、セルバ政府が古代建築を真似て建てた公共施設を使って、政府の政策に反対する人々を罰しようとしている、と考えているのです。」
「はぁ?」
「例えば、シティ・ホールの様な大きな場所に反対派を入れ、柱を破壊して建物を崩壊させる、そして反対派を抹殺する・・・」
「馬鹿馬鹿しい!」

 テオは呆れた。

「政府の指導者達は富裕層が占めていることは知っている。だけど、彼等は選挙で与党が入れ替わる度に閣僚も変わっているじゃないか。そんな連中が、施設の崩壊で反対派を殺すなんて無理だろう。」

 しかしロホが意味深な微笑を浮かべたので、彼は口を閉じた。政府の構成員が入れ替わっても、本質の支配者は、地下に潜っている”ヴェルデ・シエロ”だ。もし”シエロ”に不都合なことが起きれば、反対派、この場合は”シエロ”に敵対する人間、を公共施設に集めて抹殺することは可能かも知れない。

「ロホ・・・」

 ロホが優しい笑みを彼に向けた。

「我々は守護者です。」

と彼は言った。

「政権の反対派など、問題ではありません。」


第6部  赤い川     8

  ベンハミン・カージョは「神託」によって占いをしていると客に語っていたそうだ。それは珍しいことではない。辺境の村で医者の代わりに仕事をしている祈祷師や占い師は、神霊の力によって病気の治療を施したり、未来の運命を告げたりするのだ。憲兵隊の捜査は、恐らくカージョのそんな商売が原因で客とトラブルになり、逃げたカージョの代わりにルームメイトが拷問され殺害されたのだろう、と言うことになった。そう言う状況も珍しいことではない。多くの祈祷師は住民から尊敬されているが、中にはその仕事ぶりに不満を抱く客もいるのだ。
 テオはオルガ・グランデ陸軍基地の大統領警護隊控え室で昼寝をしながら、携帯でネットニュースを眺めていた。ベアトリス・レンドイロの行方を知っているかも知れない男は、ロホの呼びかけに応えないかも知れない。占いで日銭を稼ぐなんて、”ヴェルデ・シエロ”のやることじゃない。”ティエラ”の占い師なのだろう、と彼は思った。
 シエスタが終わり、基地内が再び活気を取り戻したようになった。交代で勤務しているからシエスタの時間帯でも誰かが働いているのだが、やはり全員で活動している方が活気がある。
 テオとロホはオルガ・グランデ聖教会へ出かけた。まだ日は高いが、夕方の礼拝が始まる頃だ。陸軍から車を借りたが、運転手は付けなかった。オルガ・グランデ最大のキリスト教会は時間に関係なく誰かが出入りしている観光スポットでもあった。尤も、グラダ・シティから西部までやって来る外国人観光客は少ない。北側の隣国から西の太平洋岸へ来るのは鉱石を買うバイヤーばかりで、観光目的で来る人はいない。つまり、オルガ・グランデは”ティエラ”の町だが、セルバ人色が濃い場所でもあった。目に付くヨーロッパ系の人間は鉱山関係者ばかりだ。
 ロホは車を教会前の広場の隅に駐車した。そこは特に駐車場の表示がなかったが、多くの車が駐められていた。ロホは「大統領警護隊使用車」と書かれたプレートをフロントガラスの内側に置いた。車上狙い防止の処置だ。
 聖堂の中に入ると、陽光が遮られ、ステンドグラスを通った色が着いた光が差し込んで床に綺麗な模様が浮かんでいた。それを撮影しているアマチュアカメラマンを避けて歩き、祭壇の前まで行った。ヒヤリとした空気が気持ち良かった。ベンハミン・カージョは来るだろうか。テオとロホは長椅子に座った。何時間待てば良いのかわからない。
 暫く2人は黙って座り、それからどちらからともなく世間話を始めた。テオはロホとグラシエラ・ステファンの恋愛の進み具合が知りたかった。順調に愛を育んでいるのか、結婚する予定はあるのか、ロホの実家は彼女のことをどう考えているのか、等々。余計なお世話なのだろうが、セルバ人は案外この手の話をずけずけと他人に質問する。だからテオもセルバ流にやってみた。ロホは照れながらも、彼女と週末の軍事訓練の翌日にデートしていること、結婚は彼女が教師の資格を取得して何処かの学校に配属される迄考えられない(考えるのが難しい)こと、彼の実家は現在のところ彼が半グラダの女性と交際している事実に何も意見を言わないこと、などを語った。
 テオは周囲で耳を澄ませている人がいないか確認してから、尋ねた。

「君の両親は、純血種の家系に白人の血が入ることを反対しないのか?」
「私の両親は時代の変化と言うものを承知しています。純血にこだわれば近親婚が多くなってしまうことも理解しています。実際、一族と見做されている人々の4分の1は既に異種族の血が入っています。グラシエラを拒めば、それらの人々の存在さえ拒むことになるでしょう? 私の家系の偉い人々は、それをわかっています。現在のところ、彼女と私の交際を禁止する言葉は誰からも出ていません。」
「良かった。」

 テオは微笑んだ。グラシエラも兄のカルロもロホの実家マレンカ家に拒否されていないのだ、今のところは。
 質問される側にいるのが飽きたのか、ロホからも難問の質問が出された。

「貴方は、少佐とどこまで進んでいるんですか、テオ?」
「え?」

 テオは顔が熱くなった。薄暗いので赤面したのを気づかれずに済んだだろうか?

「どこまで、と訊かれてもなぁ。泊まりがけで出かけても、宿は別々の部屋だし、一つの部屋しかない場合も、何もない・・・」
「まさか・・・」

とロホが本気で驚いた。何を期待されているんだ? テオは躊躇してから言った。

「軽く挨拶程度のキスならしたことがある。彼女は・・・君も知っていると思うが、男性の部下の前で肌を露わにしても平気な女性だ。」
「まぁ・・・確かに・・・」

 ロホも上官の特異な性格を渋々認めた。

「だから、俺はどの段階で彼女が俺に誘いをかけているのか、判断出来ないんだ。判断を誤ってうっかり手を出したら張り倒されそうな気がする。」

 テオの告白を受けて、ロホは笑い声を忍ばせるのに必死だった。テオは彼が全身の震えを止める迄待った。やがてロホが目の涙を拭って顔を上げた。

「失礼しました。しかし、テオ、遠慮は無用だと思いますよ。少なくとも、彼女は嫌いな相手と同じ部屋で休まないだろうし、何処かへ出かける時は貴方を同行者に指名するし、本来なら部外者を参加させない会合や行事に貴方が加わることを許可しています。一度エル・ティティへ帰省する時に彼女を誘ってみては如何です?」

 和やかに恋愛談義をしていると、一人の男性が彼等に近づいて来た。


2022/04/08

第6部  赤い川     7

 オルガ・グランデ陸軍基地には基地を利用して活動する大統領警護隊の為の休憩室が設けられている。決して豪華でもなく、快適でもない、普通の兵士の大部屋と変わらない質素なベッドと机があるだけの殺風景な部屋だが、寝るだけに使うので、大統領警護隊から文句が出たことは一度もない。オルガ・グランデは砂漠に近い気候で、昼間は乾燥した空気が暑く熱中症の恐れがあるし、夜間は冷え切って下手をすると凍死することもある。 そんな厄介な土地だから、野宿より、質素でも無料で屋根のある場所で眠れる方が遥かにマシなのだ。
 テオがその部屋に入るのは3度目で、今回は宿泊するか否か予定も定まらなかった。ロホは慣れているから、基地司令に挨拶して部屋に戻ってくると、厨房でもらって来たチョコレートをテオにくれた。

「ベンハミン・カージョが何者か、知りたいですね。」

 ロホはベッドの上にあぐらをかいて座った。

「ちょっと呼びかけてみます。もし彼が”シエロ”なら、感応して動くでしょう。どこに呼び出しましょうか?」

 テオはちょっと考えて、オルガ・グランデ聖教会の名を言った。他に知っている場所はなかった。ロホは目を閉じた。テオは黙って彼を見ていた。ロホが何かをした気配も様子もなかったが、2分程経って、彼は目を開いた。

「呼びかけてみました。この力の欠点は、先方がこちらのメッセージを受け取ったか否か、こちらではわからないってことです。」
「何だい、それ?」

 テオは思わず呆れた。そんな一方通行のテレパシーって・・・あるか、あるだろうな。彼が育った国立遺伝病理学研究所でも、捕まって実験に協力させられていた人に、そう言う能力者がいた。他人の脳に話しかけられるが、相手の思考を読み取れない人や、相手の考えは読めるが自分の意思を伝えられない人がいたのだ。
 ”ヴェルデ・シエロ”は思考ではなく、ただ「呼ぶ」のだ。呼ばれた者は応答できない。呼ぶ側が受信出来ないからだ。だから呼ばれた者は呼んだ者を探しに来る。本来は親が子を呼び集める能力なのだとテオはケツァル少佐かデネロス少尉から聞いたことがあった。

「今夜、彼が教会に現れなければ、彼は”ティエラ”か、来る意志がないと判断しましょう。」

 ロホはゴロリとベッドに横になった。夜に活動するので今のうちに寝ておこうと言う、セルバ流の考えだ。余計な仕事はしない。
 テオは時計を見た。まだシエスタの時間迄1時間以上あった。彼はロホに声をかけた。

「車両部で知り合いのリコって奴に会って来る。」

 するとロホが体を起こした。

「私も行きます。」
「君は休んでいて良いさ。」
「そうは行きません。ここは陸軍基地です。貴方は民間人で、ビジターパスもない。荒くれ兵士に絡まれたら、外へ叩き出されます。」

 そう言われると仕方がない。それにシエスタの時間に寝れば良いのだ。テオはロホに連れられて車両部へ行った。
 リコはかつてアントニオ・バルデスの下で使いっ走りや用心棒みたいな仕事をしていた男だ。偶然テオと知り合って、ついでに大統領警護隊をアンゲルス前社長の家に引き入れる羽目になってしまい、彼はバルデスから制裁を受けるのではないかと恐怖した。実際のところバルデスはリコみたいなチンピラを歯牙にもかけておらず、すっかり忘れ去っているのだが、リコは身を守るためにケツァル少佐が世話してくれた陸軍基地での仕事に真面目に励んでいるのだった。そして彼はテオと大統領警護隊文化保護担当部を命の恩人と信じて止まなかった。
 大統領警護隊にも車両部はあるが、そこに属する隊員は車の点検、配備、運転を担当するだけで、実際にエンジンや部品を触って整備することはない。専属の業者に委託する。陸軍では、軍属の整備士達が車の部品を取り替えたり、修理している。リコは整備士の資格を取って、一人前に働いていた。たまには個人的用件で軍用車両を使うこともあるようだ。規則違反なのだが、車両部の指揮を取っている士官は目を瞑っている。セルバ共和国では、下の者が倫理違反や法律違反をしなければ、上の者は多少の規則違反を見逃してやるのだ。
 テオとロホが車両部の建物へ行くと、整備士達が固まってタバコを吸いながら休憩していた。そこへ大統領警護隊の制服を着た軍人と白人が現れたので、彼等は慌てて散開して仕事の続きを始めた。テオは周囲を見回し、リコがトラックの下に潜り込もうとしている現場を見つけた。名を呼ぶと、リコは叱られるものと覚悟して顔を出し、やっとテオを認めた。

「アルストの旦那!」

 己よりずっと年下のテオに、彼は腰を低くして応対した。テオだけの時はもう少しリラックスしているので、ロホに対して緊張を覚えているのだ、とテオは感じた。
 テオは「元気かい?」と声をかけ、近況を尋ねた。驚いたことに、リコは結婚していた。整備士仲間の妹を妻にしたのだと言う。テオが祝福すると、彼は照れた。

「ところで、今日も遺跡絡みのお仕事ですか?」

とリコがロホをチラリと見て尋ねた。彼が知っている大統領警護隊は文化保護担当部だけだ。他の隊員は陸軍基地を利用することはあっても、車両部まで来たりしない。軍属の労働者達にとって、大統領警護隊は雲の上の人々だった。

「遺跡絡みと言えばそうなるかなぁ・・・」

 テオは曖昧に答えた。

「最近テレビで捜索願いを出されていた行方不明の女性がいただろ?」
「ああ、新聞記者か何かでしたっけね。」
「雑誌記者だ。仕事で出会ったことがあった。知り合いと言える程会っていないがね。」
「そう言えば、オルガ・グランデに来る予定だったって言ってましたね。」
「ベンハミン・カージョって男と会う約束だったらしいんだ。」

 すると、思いがけず、リコの後ろにいた男が振り返った。

「ベンハミン・カージョ? ありゃ、インチキ占い師だ。」
「占い師?」

 テオが聞き返すと、ロホも耳をすませた。リコの同僚は頷いた。

「失せ物探しや、行方知れずの人を占いで探し当てるって評判だった。だけど、嘘っぱちさ。当たる時は当たるけど、当たらない時は全然当たらねぇ。当たる時は、誰も部屋に入れないんだそうだ。だから、誰かから情報を貰ってるんだよ。」


第11部  紅い水晶     9

 ”ヴェルデ・シエロ”と付き合うと、その物事への周りくどい対処の仕方や、やたらと遠回しな表現とかで苛々させられることが度々ある。ケツァル少佐は生粋の”ヴェルデ・シエロ”で、生まれながら大ピラミッドのママコナ(巫女)からテレパシーで一族の作法を教わったが、育て親は殆ど普通の人間に等...