2022/11/30

第9部 シャーガス病     9

  セルバ共和国の教育施設は午前10時頃に半時間のお茶の時間があり、正午または午後1時から午後4時または5時迄シエスタと呼ばれる昼寝の時間がある。授業は午後6時頃に終わるのだ。マイロが休憩時間にも仕事をしても良いのか、と尋ねると、それは自由だとチャパは答えた。

「だけど助手や学生に手伝わせることは出来ませんよ。」

とニヤニヤしながら言った。

「ドクトルは今日の午後、文化・教育省に各種の手続きに行かれると思いますが・・・」
「スィ、バルリエントス博士が案内してくれるそうだ。」
「役所は正午から午後2時迄シエスタです。但し、職員によってはもっと長く休憩している人もいるので、3時頃に行かれた方が無難ですよ。」
「バルリエントスも4時迄シエスタなんじゃないか?」
「役所は3時台が一番混まないんです。」

 地元民がそう言うのだから、正しいのだろう。チャパはマイロを医学部のカフェに案内してくれた。職員に混ざって車椅子の人もいたので、患者も利用するのだ。2人はコーヒーを買って、テーブルに着いた。

「君はシャーガス病について、どの程度知っている?」
「一応、ドクトルに着くようにと言われて急遽勉強したんです。サシガメ類の昆虫が人間の皮膚を刺して吸血します。その時に糞もする。その糞の中に微生物クルーズトリパノゾーマ原虫がいて、刺した傷などから人間の体内に侵入し、臓器を侵します。」

 チャパは症例を挙げたが、どれも文献による知識の枠を出なかった。彼はシャーガス病症例に実際に接した経験がないのだ。研究者としてでなく、患者の身近な人としての経験もなかった。

「君が知っている人で、シャーガス病の罹患者はいたかい?」
「あー・・・」

 チャパは考え込んだ。

「心筋炎や栄養失調や・・・そう言う患者はいたかも知れませんが、病気の名前を聞いたことはありません。」
「だが近隣諸国では発症例があることは知っている?」
「スィ。国外に出かける時は気をつけるように、と言われます。外国には”シエロ”はいないので。」

 マイロは一瞬キョトンとした。

「”空”(シエロ)がないって?」

 チャパが苦笑して見せた。

「セルバの昔話に出てくる守り神です。仲良くしていたら病気や怪我を防いでくれる神様です。」

 医学を勉強する人間にそぐわない発言だ。だがマイロは気にしなかった。英語にだって神を普通に会話に登場させる表現があるのだから。
 チャパが小さな声で囁いた。

「さっき目を見つめて人間を支配する神様の話をしたでしょう?」
「うん。」
「その神様が”ヴェルデ・シエロ”って言うんです。セルバ人の精神的な支えです。」
「そうなのか・・・でもどうして小声で話すんだ?」
「”シエロ”はその辺にいて、こちらの会話を聞いているんです。あまり自分のことを話題に出されるのを嫌うので、大きな声で呼んではいけないのです。」



 

第9部 シャーガス病     8

  微生物研究室は教授、准教授、助手を合わせて全部で17人だと言うことだった。クアドラードと呼ばれる休憩室にいた10人の他に、講義に出て来る准教授が1人、研究室にこもっている助手が2人、休んでいる准教授と助手が2人ずついた。バルリエントスは准教授だ。マイロは彼に充てがわれた研究室に案内された。誰かのお下がりの部屋と言う感じで、中古の電子顕微鏡や、質量分析器、パソコンなどが置かれている狭い部屋だった。もし助手を付けてもらっても、1人が精々だ。狭くて動きが取れなさそう、とマイロは思った。

「前の住人はどんな研究を?」

と訊くと、案内してくれた若い男性研究者が首を傾げた。

「僕が来た時にはここは既に空き部屋だったので、時々道具を使いに誰かが来る程度でした。」

 そして彼は言った。

「僕はまだ研究対象を明確にしていないので、暫くドクトルの下に着くよう言われています。」

 つまり、助手だ。確か、名前はホアン・チャパだったな、とマイロは思った。覚えやすい名前だ。

「院生かい?」
「スィ。実は遺伝病の先生の下に入ったのですが、その先生が子供を産むので休んじゃって、仕方なく微生物研究室へ鞍替えしたんです。」

 遺伝子の研究と微生物の研究か。マイロはチャパのクリッとした目を見た。チャパが慌てて目を逸らしたので、セルバのマナーを思い出し、マイロは謝った。

「すまない、目を見てはいけないんだったね。」
「心を盗まれないように、と言う昔からの作法です。」

とチャパが言った。

「古代の神様は人間の目を見つめて心を支配して言うことを聞かせた、と言い伝えられています。だから、現代でも礼儀作法として、他人の目をまともに見つめるのはタブーなんです。」
「わかった。心しておく。だけど、遺伝子と微生物の研究はかなり違うだろ?」
「微生物の遺伝子分析をするでしょう? だから僕はここで研究を続けられるだろうと、アグアージョ教授が仰って・・・」
「そうだね。これから、2人で頑張っていこう。」

 マイロが微笑んだ時、チャイムが鳴った。チャパが言った。

「お茶の時間です。」


第9部 シャーガス病     7

 マイロは微生物を探して野外活動することも多かったので、野営は慣れていた。大学の寮に戻ると、モンロイと別れ、自室に入った。まだ午後10時になっていなかったが、くたびれたので、荷物の中から寝袋を出し、ベッドのマットレスの上に広げて、その中で寝た。熱帯でも夜は冷え込むことがある。マイロはその点は経験があったので、用心を怠らなかった。
 翌朝、買ったばかりのポットで湯を沸かした。モンロイが寮の水は沸騰させれば安全だと言ったので、それに従ってコーヒーを淹れた。窓の外は霧が出ていた。湿度が高いので、夜間の気温低下と無風状態の結果だ。コーヒーとビスケットだけの軽い朝食を取り、それから廊下の突き当たりのバスルームに行った。モンロイが昨晩忠告してくれた通り、ちょっとした渋滞が起きていたが、お陰で同じ階の住人5人と挨拶が出来た。4人はモンロイを含めた若い研究者で、 1人だけ初老の准教授だった。准教授で寮生活なのか?と思ったが、気難しそうなその男は名前しか教えてくれなかった。医学部小児科のホアン・デル・カンポ博士だった。マイロが同じ医学部で働くと言っても、黙って頷いただけだった。モンロイ以外の3人の若い男達は、それぞれ文学部で教員を目指す学生達の指導を行なっている体育講師や、物理学の助手、考古学部の助手だった。カンポ博士は白人で残りはメスティーソだ。マイロの様なアフリカ系の人は2階にはいなかった。若い男達はモンロイ同様人懐こい風だったので、カンポ博士は黒人が嫌いなのかな、とマイロは勘ぐってしまった。
 イメルダ・バルリエントス博士は約束の9時を10分ほど遅れて迎えに来た。セルバでは10分は遅れたことに入らない、と堂々と言われて、マイロは改めて己が異国に来たのだと感じた。
 
「早速アダン・モンロイと仲良くなられたのですね。」

と医学部に向かって歩きながら、バルリエントスが微笑んだ。マイロが昨夜の夕食の話をした後だ。

「彼とお知り合いですか?」
「知り合いと言えば知り合いです。プンタ・マナ近辺で貝の寄生虫を研究した時に、少し協力してもらいました。この国の先住民達は都会の人間を警戒しますので、地元出身者の協力があると大変助かります。」
「プンタ・マナの先住民と言うのは、ガマナ族ですね?」
「スィ。アダンから聞かれたのですね?」
「スィ。これから僕はジャングルとかにも入ると思いますが、用心しなければならない先住民はいるのでしょうか?」

 すると彼女は笑った。

「もし、弓矢や吹き矢で攻撃してくる裸の人々を想像なさっているのでしたら、それは間違いです。セルバ共和国の先住民は既に文明化されています。ただ、土地を使う権利に煩いだけなのです。」
「では、土地に踏み込む許可をもらう必要があると?」
「そんなのはないです。個人の所有地でない限りは。」

 医学部の建物はグラダ大学の中で最も近代的だった。病院と隣り合わせで、中庭で散歩する患者が数人見えた。マイロはバルリエントスと共に病棟ではなく、学舎の入り口から中に入った。入り口で彼は職員証を渡された。

「これがなければ、学舎に入れませんから、絶対に紛失しないでください。」

 職員証は昔ながらのパスケースにプラスティックのカードを入れて、ストラップで首から下げる形式だった。裏面を学舎の入り口の壁に備え付けられているパネルにタッチすると、ドアが開く。

「他の学舎、文系や理系の学舎は日中の出入りが自由なのですが、医学部は研究対象の人間の個人情報や外部に持ち出されると困る微生物などの資料があるので、セキュリティを厳重にしています。」

 微生物研究室は2階にあった。ガラス張りの壁で仕切られ、階段を上り終えると、最初に職員全員が休憩出来る広いスペースがあった。そこに10人ばかりの男女がいて、マイロを見ると立ち上がった。バルリエントスが紹介した。

「アメリカから来られたアーノルド・マイロ博士です。」
「マイロです、よろしく。」

 マイロが挨拶すると、彼女が年配の男性を紹介した。

「微生物研究室の室長、ベンハミン・アグアージョ博士です。水中微生物の研究をされている、私の恩師でもあります。」

 アグアージョ博士は2メートル近い大男で、メスティーソであろうが白人に近い風貌だった。手を差し出して挨拶した。

「君のことは国立感染症センターから聞いている。セルバへようこそ!」

 その後、マイロはその場に居合わせた人々を順番に紹介された。どの人も人当たりの良さそうな笑みで迎えてくれた。それぞれの専門を聞けば、この研究室の主だった研究対象は水中微生物のようだ。飲料水による感染症が多いのだろう、とマイロは心の中で結論着けた。彼のように昆虫を媒介とする微生物感染症はそんなに研究されていない。少し奇異に感じたが、シャーガス病の発症例が殆どない国なので、関心を持たれていないのだろう。
 アグアージョも彼の心の中を見透かした様に言った。

「恐らく、もう察しておられるだろうが、ここには君と共同研究する研究者はいないのだ。シャーガス病が中南米では珍しくない感染症だと知っているが、セルバ共和国では珍しい病気となっている。もしかすると逆に多過ぎて誰も関心を持たないと言う可能性もあるがね。君に部屋を用意しているが、研究の手助けが必要な時は、生物学部を頼ると良い。あちらは昆虫の研究をしている准教授がいる。ええっと・・・」

 アグアージョがちょっと戸惑って、傍の若い男性を見た。若い研究者が囁いた。

「スニガ准教授。」
「スィ、スィ、マルク・スニガだ。彼に相談しなさい。昆虫の採取や分類など、喜んで協力してくれるだろう。」


2022/11/28

第9部 シャーガス病     6

 「兎に角、僕はセルバのサシガメと近隣諸国のサシガメにどんな違いがあるのか調べる。もしサシガメに差がなくて、人間の方に違いがあるなら、別の研究者の仕事になる。」

 マイロはビールをグッと飲んだ。セルバ共和国のビールは軽くてソフトドリンクの様だ。彼は話題の方向を相方に変更した。

「君はどんな詩を研究しているんだい?」
「ああ・・・」

 モンロイがポケットから携帯を出した。

「僕は現代詩。街中で庶民が即席で歌い踊る、その歌詞を拾って歩いている。そしてそれが古くからあるこの国の民族の文化とどう結びついているか、どれだけスペイン、キリスト教の影響を受けているかを分析しているんだ。世の中の人々には何の価値もない研究だけどね。」

 彼が携帯を操作すると、低い音量で音楽が流れてきた。画面を覗くと、どこかの街中の通りで、職人が道端にテーブルを置き、その上で何らかの部品を修理している場面だった。職人は歌を口ずさみながらテンポ良く作業しているのだ。音楽はラジオや媒体から流れているのではなく、彼が作業する金属が醸し出している音だった。マイロは思わず目を輝かせてそのシーンに見入った。

「へぇ! 凄いや、この人のオリジナルの歌だよね?」
「スィ、この人はいつもこんな調子で歌っている。テンポは同じなんだけど、歌詞は毎回違うんだ。彼の即興だからね。そして次の日には、もう彼はこの歌を忘れている。だけど、勿体無いと思わない?」
「思う!」
「僕が録音していると、物好きだね、って彼は笑ったけどね。」

彼は記録再生を止めて、携帯をポケットに入れた。

「僕の教室の学生達は少ない。でもみんな熱心なんだ。歌の中には社会への不満や家族への愛が込められている。それを彼等と一緒に僕は分析している。」

 そんな文学もあるのだ、とマイロは内心感心した。シェークスピアやイェーツやサリンジャーを分析するだけじゃなく、庶民の言葉を研究しているのか。

「君はグラダ・シティの出身?」
「ノ、プンタ・マナってぇ、南の漁師町で生まれ育ったんだ。」
「親御さんは漁師?」
「ノ、漁師になれるのは生粋のガマナだけで、僕等は船のメンテナンスをする仕事や、バナナ畑で作物の管理や収穫をしている。それか、観光客相手の土産物屋やガイドだな。僕の親は親父が小さな造船所の職人、お袋は畑で働いている。」

 マイロは聞き慣れない単語を聞いた気がした。

「ごめん、僕はまだスペイン語が堪能じゃないんだが、ガマナって何?」
「誰が君がスペイン語堪能じゃないって思うかな?」

と笑ってから、モンロイは教えてくれた。

「ガマナ族って言う先住民だ。昔からプンタ・マナに住んでいて、古い伝統や言葉を守っている。漁業権を持っていて、プンタ・マナで漁師をやりたければ、ガマナ族に許可をもらわなければならないんだ。政府の先住民保護政策もあるけど、昔からの慣習でもある。」
「許可を貰えば、ガマナ族でなくても漁師が出来るんだ?」
「建前はね・・・だけど権利を買う料金が結構高いし、漁師の集まりに参加してもガマナ語が理解出来なければ話し合いに入れない。で、結局権利を手放してしまうことになるから、他の部族や他所者は漁師にならない。漁をやりたければ、プンタ・マナより北へ行くべきさ。」
「ふーん・・・君はガマナ語はわかるの?」

 モンロイが苦笑した。

「まず、ガマナ族の家族でなけりゃわからないな。発音も文法も難しいし、言葉だけでなくボディランゲージも入るんだ。全部覚えなきゃいけない。」
「じゃ、君はガマナ族の詩の研究はやらないんだ。」
「しない。したくても、彼等は教えてくれないってウリベ教授が言ってる。」

 訊かれる前に彼は説明した。

「ウリベ教授って言うのは宗教学部の先生で、民間伝承の祈祷や呪いの研究をしている女性だ。」

 そして、マイロにとってとても耳寄りな情報をくれた。

「ウリベ教授は農村や狩猟民族の風土病などを治療する呪い師などとも交流があるんだ。だから、君が研究している病気のことも知っているかも知れないぜ。」


2022/11/26

第9部 シャーガス病     5

  アダン・モンロイは中古のドイツ製スポーツワゴンを持っていた。もし今夜学部に挨拶に行かないのなら、一緒に買い物と夕食に行こうと彼はマイロを誘った。もうマイロのことをアーンと呼んでいた。やたらと人懐っこいので、うざくなる程だったが、間も無くそれはこの国の人間なら普通の他人との接し方だとマイロは知った。部屋を出て、駐車場へ行く迄の間に出会った人々は皆モンロイと親しげに言葉を交わし、マイロにも挨拶してくれたが、半分は知らない人だとモンロイは説明した。

「基本的に、この国の人間は親切で陽気なんだ。ただ、先住民には気をつけた方が良い。彼等には部族毎に独特の風習や礼儀作法があるから、怒らせると一生口を利いてくれないこともある。」

 そう言ってモンロイは可笑しそうに笑ったので、冗談なのか本当のことなのかマイロは判断しかねた。
 車に乗り込むと、モンロイはマイロに買い物は現金かカードかと尋ねた。マイロがカードだと答えると、カードの種類を訊いて来た。

「使える店とそうでない店があるから。」

 それでマイロがカードの種類を言うと、大学から車で5分の所にあるスーパーマーケットの様な所に連れて行ってくれた。メルカドと呼ばれる集合市場の様な場所で、大きな建物の中に個人の店が入居しているのだ。

「もっと大きなメルカドもあるんだが、そこは基本的に現金だ。このメルカドはカードやスマートフォン決済が使える。」

 そしてモンロイはマイロが台所で使う小鍋やフライパンやケトル、食器を購入するのに値段交渉までしてくれた。余りに親切なので、何か裏があるのではないかと疑ってしまいそうだ。

「取り敢えず、今日は台所用品だけで良いだろう? 他の物は明日から、あんたが自分で揃えていけば良いさ。」
「有り難う・・・グラシャス、凄く助かるよ。」

 マイロが礼を言うと、モンロイはニヤッと笑った。

「僕は外国人と話をするのが好きなんだ。夕食に付き合ってくれよ。あんたの国の話やあんたの仕事の話を聞かせてくれ。その為に親切にしたんだぜ。」
「それじゃ・・・」

 マイロもニヤリと笑って見せた。

「君の話も聞かせてくれ。それから大学でのルールや教授達のこととか・・・」

 モンロイは一旦寮へ戻り、マイロの荷物を部屋へ運ぶのを手伝ってくれた。そして彼自身の部屋、廊下ではマイロの部屋の右隣の部屋の中を見せてくれた。広さはマイロと同じ、だが壁にラテンアメリカの有名芸能人のポスターやサッカー選手のポスターが貼られており、書棚には詩や文学系の書籍がぎっしり詰め込まれていた。パソコンも置かれていた。

「僕は講師だから、まだ研究室をもらえないんだ。だからこの部屋が僕の研究室。図書館が書斎だな。」
「授業は週に何回?」
「今期は3回。それだけじゃ食べていけないから、家庭教師とメルカドの売り子もやっている。あんたはラッキーだ。今夜は仕事がないんでね。」

 それはつまり、モンロイと出会う機会は週にそんなにないと言うことなのか? マイロはちょっと寂しく感じてしまい、少し自分で驚いた。いつの間にか、この人懐っこい男を頼りにしてしまいかけている。
 夕食には歩いて出かけた。グラダ大学と文化・教育省などがあった雑居ビルの通りの間には商店街が数本あり、飲食店が沢山あった。殆どの店の開店時間はもう少し後だと言いながら、モンロイは行きつけの早く店を開けるバルに入った。立ち飲みスタンドの様な店だが、早々と客が集まりかけていた。そこでモンロイはセルバ流の夕食の取り方を教えてくれた。先ずバルで軽いビールと数種の小皿料理を注文する。食前酒と前菜の様なものだ。その店で満腹になるまで居座っても良いし、別のバルに移動しても良い。さらに正式なディナーとしてちょっと値の張るリストランテに入っても良いのだ。マイロはバルの奥にテーブル席があるのを見つけて、そこへ移動しようとモンロイを誘った。話をするなら、ゆっくり座って食べたかった。
 モンロイはマイロにアメリカではどんな病院で働いていたのかと訊いた。医者だと名乗ったので、病院勤めだと思ったのだ。マイロが国立感染症センターで微生物感染症の研究をしていると言うと、目を丸くした。

「それじゃ、あんたはエリートなんだ!」
「びっくりする程偉くないけどね。」
「だって、国の機関なんだろ? そんな凄い所から、こんなちっぽけな国へ何を研究しに来たんだい?」
「シャーガス病の研究だよ。」
「シャーガス病?」
「サシガメ類の昆虫に刺されて感染する病気で・・・」

 そうか、セルバ人はシャーガス病を知らないんだ、とマイロは気がついた。シャーガス病の発症例がない国だから。しかしサシガメはいるのだ。イメルダ・バルリエントス博士は彼にサシガメや蠍に気をつけろと言ってくれたではないか。彼はモンロイにシャーガス病の説明を簡単にしてから、サシガメが寮にいるのかと尋ねた。モンロイはちょっと困った表情をした。

「僕等の部屋は2階だから、蠍はいない。サシガメも・・・地方へ行った時は見たことあるけど、寮じゃ見ない。グラダ・シティにいるかどうかも知らない。」
「確かに、ここは都会だよね。でも緑地も結構多いと思う。中南米では普通にいる昆虫なんだ。ただ、セルバではこの病気の発症例が報告されていないんだよ。だから、その謎を究明しようと僕が来た訳だ。病原となるクルーズトリパノゾーマがこの国に存在しないのだとしたら、その理由を突き止めて、中南米一帯の感染予防策に採用出来るだろう?」
「それじゃ、あんたは・・・」

 モンロイがマイロを眩しそうに見た。

「ラテンアメリカの人々の為に研究しているのか?」
「大袈裟だけど、確かにその通りだ。僕は誰かの役に立ちたいから、微生物の研究をしている。」

 モンロイはビールをグッと飲み干した。

「だけど難しいと思うな。だってそうだろ? 存在の証明は簡単だけど、不在証明は困難だって言うじゃないか。」


第9部 シャーガス病     4

  寮監の名前はカミロ・モンテスと言った。妻のマリアと2人で寮監をしているのだ。彼はマイロを2階の5号室に案内した。無口な男で、古風な鍵をマイロに渡し、シャワーとトイレは廊下の突き当たりだと教えて、さっさと去ってしまった。
 マイロは汗だくだった。エレベーターがないのでスーツケースを階段で運んだのだ。イメルダ・バルリエントス博士は寮の入り口までだった。入っていけないことはなかったが、彼女の役目はそこまでだったのだ。マイロに大学周辺の地図を手渡し、夕食を取れる店をいくつか印を入れてくれた。そして明朝9時に迎えに来ますと言って去った。
 マイロはスーツケースを床に置くと、まずベッドのマットレスの下を見た。それから壁に作り付けのクローゼットの中も見た。ワンルームの部屋で、奥に小さな簡易キッチンがあった。取り敢えず棚の中もチェックして、昆虫や昆虫の糞がないか調べた。作りは古いが清潔な寮な様だ。それでもスーツケースの中の衣料をクローゼットに仕舞い込む勇気が出ずに、彼は新しいシャツを出して、キッチンで水を出し、体を拭いた。
 着替えが済んだ時、ドアをノックする音がした。

「どなた?」

 スペイン語で尋ねると、スペイン語で返事があった。

「隣のアダン・モンロイ。」

 マイロはドアを開いた。顎髭を生やした30前後のメスティーソの男性が立っていた。頭髪はちょっと縮れて肩まで伸ばしていた。彼は手にしたコーラの瓶を見せた。

「新しい隣人が来ると聞いていたもんで、ちょっとご挨拶に来た。文学部で中米の詩や散文の講師をしている。もし良ければ、中に入っても良いかな?」

 マイロは部屋を振り返った。

「何もないけど、良ければどうぞ。」

 モンロイは遠慮なく入って来た。コーラの瓶を数少ない家具の一つである小さなテーブルの上に置いた。

「本当に何もないな。他の荷物は明日でも来るのかい?」
「え?」

 マイロはキョトンとした。

「これだけだが・・・」

 モンロイと目が合った。人懐っこいクリッとした目で、文学部講師と名乗る男は彼を見返したが、すぐに目を逸らした。

「それじゃ、生活に困るだろ? 鍋とかポットとか、カップとか、何もない?」
「・・ああ・・・何もない・・・」

 何故家財道具一切が揃っていると思い込んでいたのだろう、とマイロは自分で疑問に感じた。モンロイが彼をジロジロと眺めた。

「アメリカ人だと聞いていたけど・・・」
「イエス、スィ、そうだ。医学部の微生物研究室に来た。」
「じゃ、医者?」
「微生物に起因する感染症の研究をしている・・・医者と言えば医者だけど、臨床医じゃない。」
「そっか・・・」

 モンロイがいきなりコーラの瓶をテーブルに打ち付けたので、マイロはびっくりした。しかし、モンロイはテーブルの縁で瓶の栓を抜いただけだった。それをマイロに手渡し、彼は残った自分の分の栓を抜いた。

「それじゃ、買い物に行くかい? 少なくとも、明日の朝のコーヒーとか要るだろ?」

 このやたらと親切な歓迎振りは何なのだ? マイロは思わずモンロイを見つめた。すると、モンロイはまた目を逸らして、忠告した。

「セルバ人の目を見るな。正面から見つめると、礼儀作法に疎いと思われる。下手すると攻撃の意図ありと思われて、厄介な事態になるぜ。」

2022/11/25

第9部 シャーガス病     3

  やがて数分も経たぬうちに車は広い公園の様な場所に入った。

「グラダ大学の敷地内です。貴方のご要望はアパートだったのですが、手頃な物件が見つかりませんでしたので、暫く職員寮に入っていただけますか? 個室です。」

 マイロはそれで手を打つことにした。国立感染症センターから出してもらえる住居費の範囲で、大学への通勤時間が30分以内のアパートと言うのは難しいのだろう。車で来る道中に見たのは雑居ビルの上階がアパートになっている様な住宅ばかりだった。安いのかも知れないが、シャワーやトイレなどの衛生面が気になったし、セキュリティも万全と言えない筈だ。

「学生達は寮に入っているのですか?」
「学生寮は学生の実家の収入条件があります。出来るだけ貧しい家の子供から優先的に入れますので、恵まれた家庭の出身の学生は車で10分以上かかるサン・ペドロ教会周辺の住宅地にアパートを借ります。大学が指定した訳ではないのですが、家賃や生活環境が好ましいと判断されて、自然に学生達が集まったのです。」
「それじゃ、僕も移動手段を確保出来たら、そちらへ引っ越せば良いのですね?」
「スィ。大学と文化・教育省と保健省と外務省にお届け出さえ怠らなければ。」

 四箇所も届けを出さなければならないのか。マイロは内心げっそりした。するとそんな彼の心を見透かしたように、バルリエントスが笑った。

「貴方は永住なさる訳ではないので、手続きが多くなるのです。でもコネがあれば物事はスムーズに行きます。」
「コネ? 付け届けとか・・・」

 また彼女が笑った。

「付け届けを渡して動いてくれると信用する相手はまだいないでしょう? 私が言っているのは、職場に同じ様な経歴を持っている人を見つけると言うことです。」
「同じような経歴・・・?」
「スィ、アメリカから来られて大学で働いていらっしゃる博士達です。」

 バルリエントスは魅力的な大きな目を片方瞑ってウィンクした。
 やがて車が一棟の灰色のビルの前で停まった。

「着きました。職員寮です。」

 運転手が降りて、トランクに入れたマイロのスーツケースを出した。マイロとバルリエントスも降りた。運転手が英語でマイロに話しかけた。

「寮監を呼んで来ます。」

 そして足取りも軽く建物の中へ入って行った。マイロはビルを見上げた。3階建てで、壁面の汚れ具合から見るに、築10年は経っていそうだ。

「こちらは男女兼用です。」

とバルリエントスが言った。

「男が1階と2階、女が3階です。単身者用です。結婚している人は通常、寮には入りません。」
「だろうな・・・」

 見るからに新婚家庭を築きたくない雰囲気だ。

「買い物はキャンパス内と病院にコンビニが入っています。」
「病院?」
「大学病院です。医学部に併設されています。」
「ああ・・・」

 自分はこれからこの大学の医学部で働くのだ。マイロはキャンパス内を見回すように周囲に視線を向けた。寮はキャンパスの端にあるのだろう、大きな建物は植え込みの向こうにいくつか見えていたし、そちらの方から賑やかな人の声も聞こえていた。
 その時、バルリエントスが重要なことを言った。

「お部屋に入られたら、まずサシガメや蠍が物陰や物の下にいないか確認して下さい。」
「え?」

 思わずマイロは彼女を振り返った。

「サシガメがいるんですか?」
「いますよ。」

 バルリエントスはケロリとした表情で答えた。

「中南米ではどこにでもいます。セルバも例外ではありません。」
「でも、セルバでシャーガス病の発症例はないと聞きましたが・・・」
「ゼロではありません。ただ、セルバではセルバの神々が私達を守って下さるので、刺されても直ぐに処置を行えば助かります。」

 彼女はそれ以上のことは言わず、運転手と共にやって来る初老の男性に手を振った。

 


第9部 シャーガス病     2

  イメルダ・バルリエントス博士は運転手付きの車で迎えに来ていた。マイロは「こう言う貧しい国で大学で働くエリートは上流階級並の生活をしているのだな。」と思った。車は日本製のセダンで、少し狭かったがエアコンが効いていた。バルリエントスが尋ねた。

「先ず職場に行きますか、それとも宿舎へ行きますか?」

 マイロは汗で少し不快に感じていたので、シャワーを浴びたかった。

「宿舎へお願いします。」

 車が走り出した。その時になって、マイロはバルリエントスと英語で話していたのに、運転手が通訳なしで理解したことに気がついた。彼は彼女にスペイン語で言った。

「スペイン語を勉強してきましたから、日常会話なら大丈夫です。」

 バルリエントスがニッコリ笑った。魅力的な優しい笑だったが、残念なことに彼女の左手薬指には指輪が光っていた。
 グラダ・シティの大きな通りは渋滞していた。止まってしまうことはなかったが、車は歩いても同じではないかと思われるスピードで、ゆっくりと進んだ。

「シエスタが終わったところなので・・・」

とバルリエントスが言い訳した。ああ、とマイロは納得した。中南米ではシエスタと呼ばれる昼休みが重要だ。暑い国なので、涼しくなってから働くのだ。それまではゆっくりお昼ご飯を食べて昼寝をする。

「大学も夜働くのですか?」
「ノ、グラダ大学のシエスタは正午から午後4時迄です。終業は6時。」

 それじゃ午後は2時間しか働けないじゃないか、とマイロは驚いた。事務なら兎も角、実験や分析などの研究に2時間は少な過ぎる。

「研究時間が長引いた場合は?」
「部屋の使用責任者個人の責任で終日使用可能です。でも、それは医学部だけの話です。たまに生物学部でも徹夜することはあるそうですが。」

 生物学部が徹夜するなら有難い、とマイロは思った。原虫の分析を手伝ってもらえるかも知れない。
 シャーガス病のことを質問しようとした時、彼女が右前方を指差した。

「あれが我が国の精神的シンボル”曙のピラミッド”です。」

 ビルの並びが途切れ、空間が広がっていた。白っぽい大きな石を積み上げた四角錐の建造物が見えた。エジプトのギザのピラミッドに比べれば小さいが、それでも近づいて行くと迫力があった。ピラミッドの周囲は芝生になっていて、観光客が歩いていた。ピラミッド自体は立ち入り禁止なのだろう、登ったり触ったりする人はいない様子だった。

「いつ頃の物ですか?」
「文献となるものが残っていないのですが、言い伝えではセルバに最初の人間が現れた時に、あれも一緒に現れたそうです。」

 そしてバルリエントスは恥ずかしそうに言った。

「考古学に疎いので、その程度しかお伝え出来ません。」
「大丈夫です、僕も考古学や歴史には詳しくなくて・・・」

 マイロは彼女が彼の家族やアメリカでの仕事のことを尋ねないことに気がついた。彼女自身の紹介もない。身分証を見せてくれただけだ。これがセルバ文化の常識なのだろうか。
 ピラミッドの次は白亜の石造りの大きなコロニアル風の館が見えた。こちらはフェンスに囲まれ、かなり大きな敷地を取っていた。兵隊が門の両脇に立っており、観光客の興味の的になっている。

「大統領府です。」

とバルリエントスが説明した。

「大統領と家族が住んでいます。後ろの建物が国会議事堂です。ここから見るとくっついて見えますが、実際は大統領府と議事堂の間には道路があります。」

 大統領府は横長に見えた。まだずっとフェンスと建物が続いているのだ。

「こちら側は大統領警護隊の本部です。」

とバルリエントスが説明した。

「大統領や政府高官の護衛や国家レベルの犯罪・・・テロなどの取り締まりを行っている組織です。」
「建物が大統領府より大きいような・・・?」
「隊員の宿舎や訓練施設が併設されているからです。彼らの正門は別にあります。大統領府から警護隊の本部に入ることは出来ません。」

 車はセルバ共和国の政治の中枢部を離れ、本格的な市街地に入った。オフィスビルや商店が並ぶ賑やかな地区だ。車は少し走って、小綺麗な近代的ビルの前に来た。

「セルバ共和国保健省です。貴方がこの国の中で移動される時は、必ずこちらに行き先と滞在先、同行者、旅行の目的、滞在期間の届出が必要です。普通の外国人は外務省の管轄ですが、貴方は医療関係者ですから。」
「わかりました。」
「明日、正式にご案内します。」
「わかりました。」

 車は止まらず、商店街の中に入って行った。一棟の雑居ビルの前に来た。1階にカフェとブティック、小さなクリニックが入居している。上の階はアパートか?と思っていたら、バルリエントスが言った。

「文化・教育省です。グラダ大学はここの管轄ですから、明日からここで大学で働く諸手続きをして頂きます。」

 「明日」ではなく「明日から」だ。マイロは彼女を見た。中南米では役所仕事の速度が遅いと聞いたが・・・。


2022/11/24

第9部 シャーガス病     1

  国立感染症センターが微生物学者アーノルド・マイロをセルバ共和国に派遣したのは、シャーガス病の研究の為だった。シャーガス病は中南米の風土病で寄生性の原虫であるクルーズトリパノゾーマによる感染症である。人の住居に住み着くサシガメ類の昆虫の糞に含まれる原虫が原因で、原虫の侵入した部位の腫れや炎症、リンパ節腫腸で始まり、発熱、肝脾腫に進行し、一部の患者は急性心筋炎・髄膜脳炎で死亡することもある。さらに数年後、20~30%の患者に、慢性心筋炎、巨大食道、、巨大結腸などが起きることもあり、それらはやがて死に繋がる可能性が大きい。急性期に抗原虫薬による治療を開始しなければ完治は困難で、慢性期に移行してしまうと、薬物療法の効果はあまり期待できない。そのため、この病気は本当に感染しないことが重要で、サシガメ類の昆虫に刺されないことが予防方法としか言いようがない。
 だが、中南米で唯一箇所、この病気の発症例が認められない国がある。それが、セルバ共和国だった。マイロはサシガメ類昆虫がセルバ共和国に生息するにも関わらず、病気が発生しないことに興味を抱いた。セルバのサシガメにはクルーズトリパノゾーマが寄生しないのだろうか。他の中南米諸国のサシガメとセルバのサシガメはどう異なるのか、彼はそれを調査する為に派遣された。セルバ人の体質に原因がある可能性もあるのだが、それは万が一のこととして、先ずは昆虫の研究だ。
 マイロがグラダ・シティ国際空港に降り立ったのは、雨季明けの蒸し暑い晴れた日だった。晴れていたが、空の一部には分厚い雲が浮かんでいた。いつでもスコールが始まるよ、と言う雰囲気だ。空港は南国ムードいっぱいで、褐色の肌のメスティーソ達が荷物を運んだり、再会を喜び合ったり、足早に歩いていたりと賑やかだった。知名度の低い国だから、もっと田舎っぽいと想像していたマイロは、空港ビルを出て、近代的ビルが並ぶ方角を眺めた。高層ビルと言うものは見当たらなかった。どれも4、5階建てだ。予備知識では、セルバ共和国では首都にある”曙のピラミッド”を超える高さの建築物は禁止されているとあった。だが空港から見る限り、そのピラミッドは見当たらなかった。同じような高さのビル群に埋もれているのだろう。
 湿った生暖かい空気を吸い込んだ時、左脇から声をかけられた。

「ドクトル・ミロ?」

 マイロをミロと発音するのは、英米圏の外の人間だ。マイロはその程度の覚悟はしていた。振り向くと、1人の女性が立っていた。30歳前後と見える女性で、スマートな体型だが、これはこの国ではスリムな方になるのではないかな、と彼は勝手に思った。

「そうです、アーノルド・マイロです。微生物学者です。」

 女性は薄い赤系統の花柄ワンピースの胸元にぶら下がっていたI D証を提示した。

「グラダ大学医学部微生物研究所のドクトラ・イメルダ・バルリエントスです。貴方と同じ微生物学者です。」

 そして彼女は握手する前に言った。

「申し訳ありませんが、パスポートで確認させて頂きます。」

 それでマイロは慌ててパスポートを出した。アメリカを出る前に、煩く注意されたのだ。セルバ共和国では身分証を求められたら、必ず素直に見せること、と。
 ビザを取得する時に、セルバ共和国大使館で亡命・移民審査官と言う肩書きの男性と数回面接した。そのロペスと言う男は大使館職員かと思ったが、彼自ら出した身分証には、大統領警護隊司令部外交部少佐とスペイン語で書かれていた。ビザが降りる迄、何度も入国目的を尋ねられ、シャーガス病の講義を少佐に行う羽目になった。何らかのスパイ目的かと疑われているのかと当初は腹が立ったが、よく考えると、セルバ共和国にはシャーガス病が存在しないのだ。その原因を調べに行くのだから、シャーガス病を知らない人々に調査目的を理解してもらわねばならないのだ、と彼自身が理解した。
 パスポートと国立感染症センターのI Dをじっくり吟味してから、バルリエントス博士は彼に書類を返した。そしてやっとニッコリして手を差し出した。

「セルバ共和国にようこそ!」


2022/11/23

第8部 シュスとシショカ      20

  軍事演習は確かに生やさしいものではなかった。大統領警護隊文化保護担当部の部下達は遠慮容赦無く上官に攻撃を仕掛けてきた。テオにはペイントボールを当てなければならないから、邪魔なケツァル少佐の注意を逸らすのが目的だが、石が降ってくるわ、実弾で撃ってくれるわ、でテオは生きた心地がしなかった。少佐も時々彼を岩陰に隠すと、部下を狩りに出かけた。
 真っ先に倒されたのはアスルだった。ある意味猪突猛進型の彼は強い気を放ったので、少佐に位置を正確に補足され、奇襲された。テオは気絶したアスルが少佐に引き摺られて集合地点に運ばれるのを呆然と見ていた。
 次に降伏したのはギャラガだった。少佐とグラダ族同志の力の出し合いをして、砂嵐で競ったが、結局押し切られた。砂や小石で全身をズタズタにされる前に、彼は白旗を掲げ、降参した。少佐は彼にアスルの番を命じ、残る2人のブーカ族を探しながらテオを頂上へ導いた。
 もうすぐ頂上付近の池の縁に辿り着くと言う時に、拳大の石がバラバラと飛んで来た。少佐が石を気の力で砕き、テオに岩陰に身を伏せて置くようにと言いつけた。それから大きな気配を感じた地点へ走った。テオは彼女の後ろ姿を見送り、それから飛んで来た石を見た。少佐に砕かれた石の断面がきらりと輝いた。

 え? オパール?!

 石を拾うと腕を伸ばした時、視野の隅に小柄な綺麗な毛皮のネコ科の猛獣が入った。そのネコはボールを咥えていた。

 オセロット? 

 マハルダ・デネロスだ、と気がついた時は遅かった。オセロットはパッと跳躍して、彼の背中に跳びついて来た。テオは思わず「ワァッ」と叫び声を上げた。背中にペイントがベッタリと飛び散った。オセロットは彼の背中を蹴って、その勢いで大岩の向こうへ走り去った。
 テオの叫び声を聞きつけた少佐が戻って来た。そしてペイントで汚れたテオの合羽を見た。

「あーあ・・・」

 彼女は悔しげにアサルトライフルの台尻を地面に打ち付けた。テオは言い訳した。

「マハルダがナワルを使ったんだ。それってあり?」
「軍事訓練ですから、必要と判断すれば・・・」

 少佐が舌打ちした。

「彼女はずっと気配を消していました。男達は石や砂や銃で攻撃を仕掛けて来ました。彼等の気の力に私が注意を向けている間に、彼女は変身して貴方に近づいたのです。気の大きさでは彼女が一番弱いのですが、知恵は回りますからね。」

 彼女はライフルを空に向けて続け様に2発撃った。訓練終了の合図だ。 集合場所ではなかったが、池の縁の向こう側からロホが姿を現し、やって来た。ギャラガも目を覚ましたアスルと一緒に登って来た。

「マハルダ!」

 少佐が呼ぶと、少し離れた所で少尉は答えた。

「もう少ししたら行けます。」

 人間に戻って服を着ているのだ。
 テオはペイントでベトベトになった合羽を脱いだ。それから、光る断面の石を拾い上げた。ロホがそばに来たので、それを見せた。

「君が飛ばして来た石だ。光っているんだが・・・」

 ロホが眺めて、ニヤリと笑った。

「ラッキーですね! 見事なオパールの原石ですよ。」
「君が選んでくれたのか?」
「まさか! 私は鉱物師じゃありませんよ。」

 そこへケツァル少佐が近づいて来たので、テオは石をポケットに突っ込んだ。

「昼飯の前に終わったな。」

と言うと、彼女は苦笑した。

「オセロットにしてやられました。ところで、帰り道、あの子はきっと眠たくなるでしょうから、背負ってやって下さいね。」
「マハルダなら、喜んで・・・痛!」

 少佐はテオの足の甲を踏んづけて、アスルとギャラガの方へ行ってしまった。

2022/11/22

第8部 シュスとシショカ      19

  土曜日の朝、テオのアパートに泊まった大統領警護隊文化保護担当部の男達は、隣のケツァル少佐の部屋のダイニングで早い朝食を取り、同じく少佐のアパートに泊まったデネロス少尉と共に少佐に引き連れられて週末の「軍事訓練」に出かけた。テオも同伴させてもらったが、行き先は近所ではなかった。
 まだ薄暗い早朝の通りで、”ヴェルデ・シエロ”達は空間の歪み、彼等が「入り口」と呼んでいる場所を見つけ、1人ずつ入って行った。最初に入った者と同じ場所に出る練習だと言う。当然ながら最初に入ったのは大尉であるロホで、少し時間を置いてから、中尉のアスル、少尉のデネロス、ギャラガの順に「入り口」に入った。テオは最後にケツァル少佐に手を引かれて入った。少佐はあまり空間移動が得意でない。目的地へは間違いなく到着したが、「着地」は下手だ。テオは最後に入った筈なのに、先に出てしまい、少佐が彼の背中に乗っかる形で地面に押し付けられた。

「君はどうしていつもこうなんだ!」

 思わずテオが呻くと、少佐が反撃した。

「すぐに場所を空けてくれないからです。」

 先に到着していた部下達がクスクス笑って見ていた。
 少佐が立ち上がり、軍服の泥を落とさずに部下達を見た。

「全員揃っていますね。」

 そしてテオが立ち上がるのを横目で見た。

「手足も全部ついていますね、ドクトル?」
「バラバラになって移動するなんて聞いたことがないぞ。」

 テオは周囲を見回した。見覚えがある風景だった。地面が斜めになっていて、膝までの高さの草が生えている。斜面の下は森が広がっていた。斜面の上は砂利と岩の山の頂だ。

「ティティオワ山か・・・」

 少佐がテオに大きなサイズの合羽を手渡した。頭からフードですっぽり入る形だ。

「私とドクトルはこの山の山頂から今いる高度までの間をぐるりと散歩します。あなた方は、今朝アパートで渡したカラーペイントのボールをドクトルに投げて下さい。ボールは1人5個。ドクトルに当てられたら、今夜夕食でビールを2本追加してよろしい。」

 つまり、少佐がテオにボールが命中するのを妨害するので、彼女の隙をついてみろ、と言う訳だ。いかにも”ヴェルデ・シエロ”らしいゲームだが、ちょっと子供染みていないか? とテオは内心感じた。しかし黙っていた。部下達が真剣な表情になったからだ。これは、上位の超能力者と戦う時の訓練だ。
 少佐が時計を見た。

「今、0700です。1130迄、訓練時間とします。休憩は各自の判断で取ること。1130にここへ集合。では、散開!」

 部下達が一斉に散って行った。緊張と楽しげな雰囲気が混ざっている。文化保護担当部の軍事訓練はいつもこんな調子だ。他の部署の隊員達からは遊んでいる風に見えるらしい。だが他部署の指揮官達はケツァル少佐も部下達も真剣なのを知っている。
 部下達が見えなくなると、少佐はテオを振り返った。

「頂上へ行きましょう。」
「ただ歩くだけかい?」

 標的にされてテオはちょっと不満だったが、この山には忘れられない思い出がある。

「歩くだけですが・・・」

 少佐が岩場を指差した。

「部下達が私の隙を突くために、土砂崩れや落石で攻撃して来ますから、斜面の変化に注意を払って下さい。油断すると死にますよ。」


2022/11/21

第8部 シュスとシショカ      18

  久しぶりにテオはロホ、アスル、ギャラガとゆっくり世間話が出来た。全員で夕食の後片付けをして、テオの区画のリビングで男だけの寛ぎの時間を持ったのだ。ケツァル少佐は一向に気にせず、デネロスと女のお喋りを楽しんでいた。金曜日の夜だ。
 ロホとグラシエラ・ステファンの交際がどこまで進んだか、とか、アスルが昇級に再び無関心でサッカーに熱中するので、少佐がトーコ中佐からお小言をもらったとか、ギャラガが大学の論文大会に出場することになって、壇上に立って話す練習をしているとか、そんな他愛ない話だ。友人達を揶揄ったり、笑ったりしているテオに、アスルがいきなり反撃に転じた。

「そう言うドクトルは、いつ少佐と正式に結婚するんだ?」
「え・・・?」

 テオは固まってしまった。彼の顔を見つめ、ロホが吹き出した。

「一緒に住んでいるんでしょ? 結婚のお試し期間ってことなんだから、少佐のご両親も、ゴンザレス署長も早く結果を聞きたいと思いますよ。」
「そんなこと、言われても・・・」

 テオは撫然とした。

「俺1人で結論を出せる筈ないじゃないか。」
「でも少佐は出しておられる筈ですよ。」

 ロホがニヤリとした。

「女性が嫌だと言わないのは、O Kってことでしょ?」
「そ・・・そうなのか?」

 テオはアスルとギャラガを見た。2人とも澄ました顔で彼を見返した。ロホと違って女性との噂話が全くない2人だ。

「実を言うと、君達”ヴェルデ・シエロ”が求婚する時の作法を知らないんだ。」

 テオが白状すると、3人が笑った。

「古式床しいプロポーズの作法なんて今時流行りませんよ。」

とロホが言った。アスルが肩をすくめた。

「俺は習ったことがない。」
「私も作法なんて何も知りません。」

 ギャラガもあっけらかんと言い放った。

「軍隊ではそんな作法なんて教えてくれませんから。」
「知りたけりゃ、ケサダ教授に聞けば良いじゃん。ムリリョ博士の娘と結婚しているんだから、正しい礼儀作法で求婚したんじゃないか?」
「貴方の国のやり方で十分でしょう。」

 ロホが優しく言った。

「セニョール・ミゲールは奥様にスペイン流で求婚なさったのだと思いますよ。ゴンザレス署長だって、そうじゃなかったんですか? 少佐に限って言えば、どこの作法でも気になさらないでしょう。」

 それでテオは彼女の指のサイズを手を握って測ったことを告白した。3人の友人達は彼の才能を疑わなかった。

「それじゃ、石は何にするんだ?」
「ドクトル、ダイアモンドを買えるんですか?」
「ダイアモンドじゃなけりゃ、駄目なのか?」
「まさか!」

 するとロホが溜め息をついて教えてくれた。

「セルバでプロポーズに使う石は、オパールと言うのが定石ですよ。ティティオワ山の麓で算出する綺麗なヤツです。」



第8部 シュスとシショカ      17

  翌日、仕事を終えるとケツァル少佐は部下達を彼女のアパートに集めた。テオの帰宅を待ってから、カーラの美味しい手料理を味わい、それからアーバル・スァット盗難事件捜査の終結を宣言した。

「あなた方には中途半端な印象しか残らないでしょうが・・・」

 少佐は向かいに座っているテオにウィンクした。それでテオが言葉を継いだ。

「許される範囲で俺達・・・君達と俺が調べたことをまとめてみよう。事件の真相はかなり古くから根があって、それは君達の文化や掟の問題にも繋がるから、触れないことにする。
 簡単に言えば、シショカ・シュスと言う家族には2系統あって、昔から族長をどちらから出すか、どちらが主流になるかで争ってきたと言うこと。そして君達が突き止めたカスパル・シショカ・シュスと言う男性が、個人的な怨恨で恋人の実家であり、彼自身の近い親族であるシショカ・シュスを神像の呪いで殺害しようと考えたことだ。
 恋人の実家は、カスパルの恋人がカスパルを裏切って結婚した白人の家族を様々な卑怯な方法で殺害し、その家の財産を乗っ取っていた。カスパルがその家族を呪い殺そうと考えた原因は、財産乗っ取りでなく、ただ恋人を奪われた恨みだったらしいけどね。
 問題は彼の心の闇を、もう一つのシショカ・シュスの系統が何らかの形で知ったことだ。そっちの系統は、カスパルの恋人の実家を追い落とす機会を幾つかの世代を超えて狙っていた。だからカスパルに近づき、彼に神像を用いて報復する方法をそれとなく伝えたに違いない。
 カスパルはアルボレス・ロホス村の住民だったチクチャン兄妹を利用し、操って神像を盗んだ。2回盗んで、1回目は利用しようとしたロザナ・ロハスが想定外の行動を取った為に失敗し、2回目は遺跡の警備員を爆裂波で傷つけてしまった。何とか神像を建設省に送りつけたが、それは大臣を呪い殺すのが目的ではなく、セニョール・シショカに恋人の実家が犯した悪事を調べて欲しかったのだと、大統領警護隊の取り調べでパスカルは白状したそうだ。
 俺達から見れば随分ぶっ飛んだ方法と言うか、理屈だけど、カスパルはセニョール・シショカが神像を送りつけたのがチクチャン兄妹だと突き止めるだろうと予想した。兄妹の調査からアルボレス・ロホス村の不幸をシショカが知り、村に投資したマスケゴ族の家族、つまりカスパルの恋人の実家が投資に失敗して没落した筈なのに、直ぐに立ち直った理由を探るだろう、とそこまで考えたそうだ。つまり、シショカと言う家系の総帥であるセニョール・シショカを使って、恋人の実家に復讐しようとしたんだ。だが、君達文化保護担当部の捜査でカスパルの関与が判明し、彼は捕縛された。」

 テオは口を閉じた、一気に喋ったので、喉がカラカラだった。彼が水のグラスを手に取って、口に冷たい水を流し込むと、マハルダ・デネロス少尉が質問した。

「チクチャン兄妹はどうなりますか?」

 ケツァル少佐が溜め息をついた。

「難しい質問ですね。彼等は一族ではありません。遠い祖先に一族の血が入っていて、”心話”や”感応”受信を使えますが、一族とは認められないし、一族のことを何も知りません。ですから、大統領警護隊は彼等に接触した警護隊の隊員に関することを一切口外しないよう言い含めてから、グラダ・シティ警察に引き渡すことにしました。セルバ人ですから、大統領警護隊に逆らうとどうなるか、彼等は承知しているでしょう。」
「つまり、ただの遺跡泥棒と言うことですか?」
「スィ。あまり罪を増やすと、箝口令を守ってくれなくなる恐れがありますからね。刑期を終えたら社会に戻れると言う希望を与えてやります。」
「理解しました。」

 デネロスがホッと肩の力を抜いた。彼女はチクチャン兄妹と直接対峙したことがなかった。しかし彼等を追跡調査したので、ちょっと思い入れがあるのだろう。アンドレ・ギャラガ少尉は別の人間を心配した。

「カスパルに爆裂波を喰らった警備員は、元の体に戻れますか?」

 これにはロホが答えた。

「記憶障害と言語障害が少し残るが、体はもう大丈夫だそうだ。アンゲルス鉱石は彼に簡単な仕事を用意して、これからも雇用すると約束した。」

 セルバ共和国では珍しいことだが、労災があまり補償されない国でその待遇はラッキーだ。

「カスパルは大罪人だから、当然の処分が下されるでしょうね?」

とアスルが確認した。少佐が無言で頷いた。それから、ちょっと思い出したように言った。

「バスコ診療所でアラム・チクチャンを治療した代金を、大統領警護隊はカスパルの口座から引き出してピア・バスコ先生に支払いました。」

 思わず一同は笑ってしまった。司令部ではなく、ステファン大尉がそう判断したのだろう、とその場にいた誰もが確信した。

「騒動の大元の2つの家系の方は何か処分とかあるんですか?」

 デネロスが興味を抱いて尋ねた。ロホが彼女を嗜めた。

「それは長老会レベルの話だよ、マハルダ。マスケゴ族の部族政治に絡むから、私達他部族は触れてはいけないんだ。」
「俺はセニョール・シショカが何かするんじゃないかと、心配だよ。」

とテオが正直に言った。

「族長のムリリョ博士が彼を呼びつけていたけど、あのシショカのことだ、シショカ一族の総帥として、あるいは”砂の民”として、きっと動くだろう。」
「動いても、あの男の仕事だ、誰も不自然と感じない形で粛清が行われるに決まっている。」

とアスルが囁いた。
 暫く一同は黙っていた。それぞれコーヒーや軽くワインを口にして、それからギャラガが思い出して尋ねた。

「アーバル・スァット様を遺跡に戻すのは誰です? セニョール・シショカが持って行くのですか?」

 全員が不安そうに少佐を見た。シショカは神像の扱い方を知っているだろうが、悪霊祓いや封印に関して素人だ。大統領警護隊文化保護担当部はそれが心配なのだ、とテオは理解した。少佐が大きな溜め息をついた。

「私が持って行きましょう。」



2022/11/20

第8部 シュスとシショカ      16

  アブラーンの妻がテラスへ出る掃き出し窓からカサンドラを呼んだ。カサンドラが振り返ると、彼女は来客を告げた。

「チャクエク・シショカさんが来られました。」

 テオとケツァル少佐が驚いていると、ムリリョ博士が娘の代わりに返答した。

「こちらへ通せ。」
「承知しました。」

 テオは博士に尋ねた。

「セニョール・シショカも呼ばれたのですか?」
「シショカ・シュスの人々の代表としてな。」

 ムリリョ博士は族長の顔になっていた。そして娘に言った。

「客人達を中の部屋へご案内しろ。」

 つまり、テオとケツァル少佐には話を聞かせたくないと言うことだ。族長と家系の代表としてではなく、”砂の民”としての話し合いなのだろうとテオは見当をつけた。
 カサンドラが立ち上がったので、テオ達も席を立った。3人がリビングに入ると同時に、セニョール・シショカが反対側の入り口からリビングに入って来た。テオ達を見ても驚かなかったのは、車を見ていたからだろう。

「今晩は」

と彼はケツァル少佐とカサンドラに挨拶した。それから、テオにも不承不承会釈して、テラスに出て行った。その後ろ姿をカサンドラは無言で眺め、それからテオ達に向き直った。

「今夜はこれでお終いにしましょうか?」
「そうですね。」

と少佐が応じた。何も意見することはなかったし、出来ることもなかった。
 テオは気になることを尋ねた。

「カスパル・シショカ・シュスと言う男は、やはり大罪を犯したとして処罰されるのですか?」
「人間に対して爆裂波を使いましたからね。」

とカサンドラが冷ややかに答えた。ケツァル少佐も頷いた。

「彼の行動には、何一つ同情の余地はありません。遺跡の警備員とアラム・チクチャン、2人に対して爆裂波を使ったことは、被害者が生存していようがいまいが、大罪です。それに恋人の家族を呪い殺すつもりだったのでしょう?」
「そうだけど・・・」

 テオはケマ・シショカ・アラルカンの必死な表情を思い出した。

「甥っ子の助命嘆願は無駄なのか・・・」
「減刑の理由がありません。」

 カサンドラは硬い表情で言った。

「助命嘆願に来た若者の母方の叔父がカスパルでしたね。若者の家族はこれから針の筵に座る思いで一族の中で生きていかねばなりません。大罪を犯した事実は、一族全般に触れられますから。」
「”ティエラ”として生きていけば良いのです。」

とケツァル少佐が言った。

「私もそうやって成長して来ましたから。」

 少佐の産みの両親は大罪人だった。母親は死ぬ間際に減刑されたのだ。父親は汚名を着せられたまま殺害された。ケツァル少佐は殆ど白人同然の養父に預けられ、何も知らない白人の養母に育てられた。少佐は・・・幸福いっぱいに育った。
 カサンドラが少佐を見て微笑んだ。

「大人になってから”ティエラ”として生きるのも楽ではないと思いますが、その若者は既に社会に出ているのでしょう?」
「市の職員です。」

とテオが答えると、彼女は頷いた。

「それなら乗り越えられますよ。親戚付き合いをしなければ良いと言うだけです。理性的に振る舞って、真面目に生きていれば、早晩一族の社会に戻れます。」


第8部 シュスとシショカ      15

 「ファティマのシショカに勝つことを目標としてきた煉瓦工場のシショカ達は起死回生を図って、投資をしたのです。」
「アルボレス・ロホス村・・・」
「スィ。馬鹿な投資です。今時生ゴムなど企業を立て直せるようなお金になりません。しかし彼等は賭けたのです。そしてご存知のように、あの村は泥に埋まりました。煉瓦工場は殆ど倒産寸前となりました。一族は金銭的な援助をしません。異種族から攻撃を受けて困っていると言うなら助けますが、経済的な援助はしないのです。そして我々は経済的に困窮しても一族に助けを求めません。自力で切り抜けるしかありません。」

 カサンドラはそこで冷めたコーヒーを少し口に入れた。唇を湿らせてから、彼女は続けた。

「煉瓦工場が突然借金を完済した時、正直我々は驚きました。一族だけでなく、”ティエラ”の同業者や債権者も驚いたのです。彼等はどこからお金を調達したのかと。銀行からも見放されていた会社が生き返ったのですから無理もありません。アブラーンは私に調査を命じました。煉瓦工場のシショカ達が外国から資金を得たかも知れないと危惧したのです。外国人からお金を借りたら、外国人に会社を乗っ取られる恐れがあります。セルバ共和国の守護者を自負する我々にとって、それは憂うべき事態です。煉瓦工場への出資者が外国人であれば早急に手を打たねばなりませんでした。」
「でも、出資者はいなかった・・・」

 テオの言葉に、彼女は同意した。

「いませんでした。彼等は借り入れもしていませんでした。お金は奪ったものでしたから。」

 ケマ・シショカ・アラルカンがテオとムリリョ博士に語ったことは事実だったのだ。

「彼等は娘を金持ちの白人に嫁がせました。婿を操って財産の乗っ取りを企んだのです。しかし肝心の娘がお産に失敗して死んでしまいました。そこで彼等は暴挙に出たのです。」
「ケマ・シショカ・アラルカンが俺に言った、カスパルの言葉は真実だったと言うことですか?」

 すると初めてムリリョ博士が反応した。小さく頷き、吐き捨てるように言った。

「煉瓦工場の奴らは、白人の家族を事故や病気に見せかけて皆殺しにしたのだ。連中自身は娘の敵討ちだと自分達に言い訳してな。」
「勿論、我々は今までそんな悪事が行われていたことを知りませんでした。」

 カサンドラが言い訳した。

「私は彼等の取引先や銀行ばかり調べていました。姻戚関係となった白人の身元も調べましたが、スペイン系の金持ちだとわかった以外のことに、つまりその家族が次々と死んでいることに調査を及ばせることをしなかったのです。」

 ムリリョ博士はチラリと娘を冷たい目で見た。娘や息子の仕事が完璧でなかったことへの苛立ちだ。しかしカサンドラもアブラーンも”砂の民”ではない。父親の様に各地にスパイの様な手下を持っているのでもないのだ。会社の名前で動かせる人間はいるだろうが、”砂の民”の情報収集能力とは少し違うだろう。

「私達ロカ・エテルナ社にとって、件の煉瓦工場のシショカは無視出来る存在の筈でした。ですから私も真剣さが足りなかったのです。これは父に責められても仕方がありません。」

 この場合の「父」は”砂の民”ではなく”族長”だ。カサンドラは「しかし」と続けた。

「ロカ・エテルナ、或いはムリリョやシメネスにはどうでも良いことでも、別のシショカやシュスにとって、煉瓦工場の不思議な復活は重要でした。彼等の血族の中の主導権争いになりますから。だから、ファティマのシショカが動いたのです。彼等は煉瓦工場の死んだ娘の元の許婚だったカスパル・シショカ・シュスに接触して、彼女の死の真相を探れと持ちかけたのです。」

 だが、カスパルは恋人の死の責任は彼女の実家にあると信じ、白人の婚家の死人については重要視しなかった。ファティマのシショカが望んだ煉瓦工場の足を引っ張ることではなく、煉瓦工場の人々を呪い殺すことを思いついたのだ。呪いを使えば、己が大罪に問われることはない、と考えた訳だ。

「それでカスパルは、最も簡単に、最も早く呪いの効果が出せる方法を探り、アーバル・スァット様の神像を見つけたのですね?」

 ケツァル少佐の質問に、カサンドラは頷いた。

「アーバル・スァット様が非常に気難しく扱いにくい神様であることは、オスタカン族に神像を作って与えたブーカ族の氏族の間では今でも語り伝えられています。この氏族とシュスの家で配偶者のやり取りがありました。それでカスパルは遠い親戚であるブーカ族から神像の知識を得たのです。」
「彼はオスタカン族の子孫からも情報を集めたようです。そして恋人の実家が没落する原因となったアルボレス・ロホス村の元住民を利用したのですね?」
「スィ。用心深い男でした。」
「しかし間抜けだ。」

 とムリリョ博士が吐き捨てる様に言った。

「利用しようとした村人の遠い祖先に一族の血が流れていた。そしてマヤ人の血も流れていた。だから”操心”を完全に成し得なかった。己の力を過信して、誰でも操れると思い込んだのだ。」
「それでチクチャン兄妹に反抗された・・・」

 カサンドラが薄笑いを顔に浮かべた。

「ファティマのシショカ達が全てをカスパル・シショカ・シュスに任せた訳ではありません。彼等はずっとカスパルを監視していました。いつでも煉瓦工場のシショカ家族の足を引っ張る材料を見つけるためにです。だから2人のチクチャンからカスパルの不完全な”操心”を解くと言う妨害もしたのです。」
「それじゃ、チクチャン兄妹の反抗は・・・」
「ファティマのシショカの仕業です。カスパルが焦って恋人の家族に暴挙を仕掛けることを期待したのです。」

 少佐がテオに向かって言った。

「煉瓦工場の家族に騒ぎが生じれば、建設省の秘書が動きます。セニョール・シショカは送り付けられた神像と煉瓦工場の不祥事を結びつけ、煉瓦工場の家族に粛清を与える・・・そこまでファティマの連中は考えたのでしょう。」

 テオは頭をかいた。

「君達一族は人口が少ないじゃないか。それなのに身内でそんな蹴落とし合いをして、どうするんだ? 族長に選ばれる為に、もっと理性的に一族に尽くさなきゃいけないんじゃないのか?」
「私に言わないで下さい。」

 ケツァル少佐はそう言って、カサンドラにウィンクした。カサンドラが苦笑した。

「我が部族の女は投票権がありません。父は族長職を退くので、最後の同点の場合のみ投票します。ですから、今ここで話をしている4人は、投票をしない人間です。候補者がどんな人格なのか私は知りませんから、今した話が選挙に影響があることなのか否かもわかりません。ただ、長老会は部族に関係なく選挙が公明正大に行われたことを審査します。少しでも不正があると判断されたら、その疑われた人はもうお終いです。カスパルは大統領警護隊でどこまで喋るか知りませんが、煉瓦工場もファティマも良い結果を得られないでしょう。」


2022/11/17

第8部 シュスとシショカ      14

  ロカ・エテルナ社の副社長にしてファルゴ・デ・ムリリョ博士の長女カサンドラは、義理の姉にコーヒーをテラス迄運んでもらうと、当分の間そこに近づかないよう要請した。アブラーンの妻は黙って頷くと家の奥に去って行った。
 テラスは地面の上に露出した岩を削って作ったもので、4隅に篝火が焚かれていた。篝火は門の両脇にも置かれていたので、テオは客をもてなす一種の趣向だと思ったのだが、食事の時にケサダ教授が、あれは来客があると近所に伝えるものだと教えてくれた。大事な客だから、客が家にいる間は邪魔をしてくれるなと言う意思表示なのだと言う。しかしテラスの篝火は本当にただのもてなしの趣向だろう。”ヴェルデ・シエロ”は暗闇の中でも目が利くが、一般人のテオは明かりが必要だ。しかしライトの灯りでは無粋なので篝火を焚いてくれたのだ。それに”ヴェルデ・シエロ”が3人もいれば羽虫が寄って来ない。

「建設省のシショカの下に神像が送られてから、大統領警護隊が港の荷運び人のシショカ・シュスを確保する迄の、あなた方の調査の経緯と結果を、父から聞きました。」

とカサンドラが言った。

「そしてドクトル・アルストが大学で面会した文化センターの男の話も聞きました。同じ名前の人間が多い我が一族の欠点は、名前だけ聞いていると関係がよく理解出来ないことですね。」

 彼女はテオを見て苦笑した。ムリリョ博士は無言だ。無表情で娘を見ていた。

「現在、シショカを母姓に持つ家系は5つあります。全て同じ先祖を持ちます。シュスを母姓に持つ家系は7つです。こちらも同じ先祖を持っています。そしてシショカとシュスは互いに姻戚関係を結ぶ仲でもあります。」
「えっと・・・」

 思わずテオは口を挟んでしまった。悪い癖だが、疑問が頭に浮かべば質問せずにおれない性格だ。ムリリョ博士が睨んだが、彼は怯まなかった。

「アラルカンやシメネスやムリリョの家系は彼等と姻戚関係を持っていないのですか?」

 カサンドラは、恐らく会社の重役会議や商談会議で割り込みの質問に慣れているのだろう。父親の不機嫌を無視してテオの質問に答えてくれた。

「どうしてもと望まれぬ限りは、娘を馴染みの薄い家系に嫁がせることはしません。伝統的に子供達に幼い頃から交流を持たせ、成長するに従って互いを意識するように大人が段取りするのです。現代は女性の行動範囲が広がり自由に恋愛する人もいますが、私達が子供の頃はまだ結婚は親が決めるものでした。ですから、シメネスとシュスが交わることやショシカがムリリョと婚姻することはまずありませんでした。」
「アラルカンはどことペアになっていたんです? 昨日会ったケマと言う若者は、シショカ・アラルカンと名乗っていましたが・・・」

 カサンドラが薄い笑を浮かべた。

「アラルカンはシュスと婚姻を結びます。ですが普通はシショカと結婚しません。元は別の家系がペアだったのですが、その家系は死に絶えたのです。」
「死に絶えた?」

 するとムリリョ博士が珍しく皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。

「アラルカンはケサダとペアだったのだ。」
「えっ!」

 これにはテオのみならずケツァル少佐も驚いた。テオはずっと以前にフィデル・ケサダの出生の秘密を博士から聞かされた時のことを思い出した。フィデルの母親は息子の出自を隠す為に、既に死んでしまったマスケゴ族の男の名前を出生届に書いたのだ、と。だから、今生きているケサダを名乗る男は、実際はケサダではなく、マスケゴ族でもないのだ。そしてフィデル・ケサダはシメネス・ムリリョの娘と結婚した。2人の間の子供達は十中八九シメネスの名を受け継ぎ、ケサダの名はやがて消えるだろう。それを承知でフィデルの母親は息子に絶えた家系の名を名乗らせたのだ。
 カサンドラが笑った。

「フィデルがまだ独身だった頃に、アラルカンから彼を婿に迎えたいと言う申し出がありましたの。でも父は門前払いしました。養い子には既に許婚がいると言って。勿論、私の妹のコディアが先に父に彼との結婚を許して欲しいと申し出ておりましたが、父はまだその返事をしておりませんでした。」
「その門前払いがコディアさんへの返事になったのですね?」

 テオは思わず微笑んでしまった。カサンドラは愉快そうに笑った。

「父は優秀な養い子を他所の家に取られたくなかっただけですよ。」
「アラルカン如きにフィデルをやる訳にいかなかった。連中ではあの男を扱えぬ。」

 フィデル・ケサダは純血のグラダ族だ。それを知られては困る。そして、その秘密はカサンドラも知らないのだ。彼女は単に父が養子を愛していて、他家に譲りたくないだけだと思っている。
 
「話の腰を折って申し訳ありませんでした。」

とテオは話題を修正しようと努力した。

「シショカとシュスの家系のお話でしたね?」
「スィ。」

 カサンドラは頷いた。

「大統領警護隊が捕らえた神像泥棒の男は、この家の南にある家の家族で、煉瓦工場のシショカと呼ばれている家の者です。現在はタイルを作っていますが、昔は耐火煉瓦の大手製造業社でした。」

 マスケゴ族は建築関係で古代から生業を立てていた部族だ。大手ゼネコンと言える大企業に成長したロカ・エテルナ社だが、中小の同業者や同分野の業者の情報は漏れなく収集していると見て良いだろう。そしてその情報収集が社長のアブラーンではなく副社長のカサンドラの仕事なのだ、とテオは理解した。

「煉瓦工場のシショカは過去2世紀、家族の中から族長を出していません。候補に立つのですが、その度に他の家系に負けていました。他の家系と言うのは、別のシショカやシュス、アラルカン、シメネス、そしてムリリョです。特に、別のシショカの家系とはかなり熾烈な争いをしていました。」

 カサンドラは新素材の建築材を扱うファティマ工芸と言う会社のパンフレットをケツァル少佐に渡した。少佐はそれをテオにも見えるように広げた。

「煉瓦やタイルとは違う素材で壁を造る会社なのですね?」
「スィ。壁紙や擬似タイルも造っています。」
「つまり、煉瓦工場のライバル?」
「スィ。事業でも族長選挙でもライバルなのです。」
「でもずっとファティマのシショカが勝っていた・・・」
「スィ。煉瓦工場のシショカは焦っていたでしょうね。部族内での発言権が小さくなれば、婚姻にも支障が出ますし、仕事にも影響が出て来ます。勢いのある家族は白人社会にもメスティーソの社会にもどんどん入り込めますから。ところが・・・」

 カサンドラが顔から笑みを消した。


2022/11/16

第8部 シュスとシショカ      13

  玄関でテオとケツァル少佐を出迎えたのは、アブラーン・シメネス・デ・ムリリョの妻だった。テオ達はお招きに対する礼を述べ、土産を渡した。妻はにこやかに微笑みながら彼等をリビングへ案内した。そこにはムリリョ博士、アブラーン、博士の長女カサンドラ・シメネス・デ・ムリリョ、それにフィデル・ケサダ教授がいた。博士の次男が揃えばムリリョ家の代表者達が勢揃いになるのだろうが、次男はいなかった。
 形式通りの挨拶を交わし、少し世間話をしてからダイニングへ移動した。テオは出来るだけ室内をキョロキョロしないよう務めた。普通の家の普通の装飾だ。ミイラも遺跡からの出土品もない。落ち着いたスペイン風の陶器や絵画が飾られているだけだった。博士の個室はどんなだろうと想像したが、大学の研究室しか思い浮かばなかった。アブラーンの子供達は上の階にいるのだろう、声すら聞こえなかった。
 食前の挨拶を行ったのは、当主のアブラーンだった。

「正直なところ、父が客を招くのは滅多にないことで、本来は父が挨拶するべきですが、私にしろと命令が下ったので、僭越ながら挨拶をさせて頂きます。」

とアブラーンが茶目っ気たっぷりに喋り出した。恐らく取引先や重役達と会食する調子でしゃべっているのだ。テオはマスケゴ族の族長の家ではどんな会話が普段なされているのか想像出来なかった。だからアブラーンが普通に時候の挨拶をして、ちょっとした世間話をして場を和ませてから乾杯の音頭を取ったので、ちょっと肩透かしを食らった気分だった。そっとケサダ教授を見ると、教授も「なんで自分はここにいるのだろう」と言う顔をしていた。だがカサンドラは違った。冷ややかに兄を見て、それから少し緊張した面持ちで父親に視線を向けた。
 ムリリョ博士は口を利かなかった。食事が始まり、給仕の息子の妻や孫娘とちょっと言葉を交わしただけで、料理もあまり量を取らなかった。アブラーンが物音を立ててケサダ教授の注意を引いた。2人の義理の兄弟の間で”心話”が交わされるのをテオは見逃さなかった。微かに教授が肩をすくめた様で、アブラーンもがっかりした様子だ。

 もしかして、アブラーンと教授は何も知らされないまま、この食事会にいるのか?

 穏やかに食事が終わり、やっと博士が動いた。

「テラスでコーヒーでも如何かな、客人?」

 テオと少佐は同意した。彼等が立ち上がると、カサンドラも続いたが、アブラーンとケサダ教授は残った。驚いたことに、アブラーンが父親に苦情を言った。

「どうせ私とフィデルは除け者でしょう?」

 博士はジロリと息子を見た。

「お前達には関係ない話と言うだけのことだ。」

 するとケサダ教授が義兄に囁いた。

「選挙の話を他部族に解説するだけでしょう。」
「シュスとシショカの争いか?」

  博士がむっつりとした顔で言った。

「わかっておるなら、黙っておれ。」

 アブラーンも立ち上がると、教授に声をかけた。

「フィデル、上の階へ行こう。私達は向こうでコーヒーを飲むことにしよう。」
「良いですね。」

 教授は義兄に逆らいもせず、素直に立ち上がり、後について行った。テオはケツァル少佐を見た。てっきりアブラーンが博士の補佐を務めるかと思ったのに、その役目は娘のカサンドラが果たすようだ。


2022/11/15

第8部 シュスとシショカ      12

  帰宅して、ケツァル少佐の帰宅を待ってから2人は夕食を共にした。少佐がムリリョ博士の自宅訪問が明日の午後8時になったと告げた。

「夕食への招待と言う名目です。」
「じゃ、手土産が要るな。博士はワインなんて飲みそうに見えないけど・・・」
「博士は飲まれなくても、アブラーンは飲みますよ。」

 ムリリョ博士は長男アブラーンとその家族と同居しているのだ。テオはマスケゴ族の家庭に招待されたことがなかったので、ちょっと緊張を覚えた。だがよく考えると、親友のロホやアスルの家族が住む家にも招待されたことがないのだ。

「俺が招待されたことがあるのは、ロペス少佐の家とカルロの実家だけだ。君達の一族はどんな客のもてなしをするんだい?」

 少佐が肩をすくめた。

「特別な儀式などしませんよ。普通のセルバ人の家庭に招かれた時のことを思い出して下さい。料理も特別な物ではないでしょう。」

 それでテオはワインを、少佐は女性の家族の為に菓子を持って行くことにした。食事の準備をしてくれるアブラーンの妻や娘達へのお礼だ。アブラーン・シメネス・デ・ムリリョは娘2人と息子が2人いると言う話だった。全員ティーンエイジャーで一番上の娘は大学生だ。但し、グラダ大学でなく私立の医学系大学だった。
 おやすみのキスをする時、テオはそっと少佐の手を包み込んだ。一瞬少佐が怪訝そうな表情をしたが、テオは、

「銃を扱っているにしては可愛い優しい手だ。」

と言って誤魔化した。彼女の指のサイズを感覚で測ったとは言わなかった。
 翌日、2人は普段通りに仕事に行った。テオはちょっとウキウキしていた。ムリリョ博士から聞かされるのは物騒な話題だと承知していたが、少佐とお出かけはデートだ。目的がどんなに危険なことでも、彼には楽しみだった。
 シエスタの時間に、カフェでケサダ教授を見かけた。弟子のンゲマ准教授と数人の学生と一緒だった。教授はいつもと変わらず、今夜の食事に彼は呼ばれているのだろうか、とテオはふと思った。政治の話や犯罪の話に、博士は娘婿を巻き込みたくないだろう。それに息子のアブラーンも食事に同席してもその後の話し合いに加わると思えなかった。
 待ち遠しい夕方になると、テオはさっさと仕事を片付け、アパートに帰って着替えた。ケツァル少佐も帰って来て、お呼ばれにふさわしい服装に着替えた。家政婦のカーラは夕食を作る仕事がなかったが、主人カップルが脱いだ服を洗濯すると言ってアパートに残った。

「明日は息子の学校へ出かけるので、出勤が遅くなります。ですから、その分、今夜働きます。」

 仕事熱心な家政婦に、少佐はキスで応えた。
 午後7時にテオは自分の車に少佐を乗せて出かけた。マスケゴ族が多く住む区域は白人の金持ちも住んでいるから、きちんと交差点などには標識があったし信号が設置されているところもある。この斜面に住める人々は裕福なのだ。途中で少佐が窓越しに一軒の階段状の家を指差した。

「あの家は白人の住居です。マスケゴ風の家の形が気に入って真似ているのです。」
「へぇ、見ただけでわかるんだ?!」
「ノ、金持ちの住宅を紹介する雑誌に載っていました。」

 少佐がケロリと言い放ち、舌をペロリと出した。

「自宅を公開したがる人の気持ちがわかりません。強盗においでと言っているような物です。」

 階段状の家は各階に出入り口がある。警備が大変だ。マスケゴ族なら結界を張っているのだろうが、白人や普通のメスティーソは無理だ。セキュリティ会社と契約しているのだろう。
 やがてテオにも見覚えのある大きな家が見えてきた。

2022/11/13

第8部 シュスとシショカ      11

  それから木曜日迄、テオにも大統領警護隊文化保護担当部にも事件の真相解明において何の進展もなかった。退屈な書類審査と近場の遺跡の見回り程度でケツァル少佐と部下達は過ごし、テオは教室で学生達に講義を行った。彼は学部長にヨーロッパでの学会出席を断った。

「学会で発表するような研究も発見もしていないのに、国の金を使って旅行するなんて図々しいことは出来ませんよ。」

と彼は笑った。学部長は、それならアルストが熱心に分析している遺伝子は一体何なのかと疑問に思ったが、言葉に出さないでおいた。この亡命学者は、大統領警護隊と親密な関係にある。そして彼の亡命には大統領警護隊が深く関与している。だから、余計な追求をしてはいけない。
 テオが学部長に言った言い訳は本当だ。テオには世界中の同業者の前で発表するような研究成果を何一つ上げていない。彼が情熱を注いでいる遺伝子の分析は”ヴェルデ・シエロ”のものだ。これは絶対にセルバ国外に持ち出せない。そして、もう一つ理由があった。
 水曜日の夕方、行きつけのバルで偶然シーロ・ロペス少佐と出会ったのだ。少佐は部下と仕事を終えて帰宅前の一杯を楽しみに来ていた。そしてテオを見つけて彼の方から声をかけてくれた。

「学会出席を断られたそうですね?」

と話題を振ってきた。彼は外務省に勤めている亡命・移民審査官だ。テオとアリアナが亡命する時に審査して、本国に「亡命を受け入れて良ろしいかと思われる」と意見書を提出した。そして亡命した後のテオ達の安全を管理する役目も負った。当然、テオがヨーロッパに行くかも知れないと言う話を文化・教育省から聞かされた。そしてテオが学会出席を蹴ったことも知らされた。
 テオは苦笑した。

「学会で偉そうに講義出来ることなんて何もしてませんからね。それに、俺が国外に出る時は護衛が付くでしょう? 人件費とか考えたら、税金の無駄使いです。実績のない学者を守るのに国民の血税を使うことは許されません。」

 ロペス少佐も苦笑した。

「そんなお気遣いは無用です、と言いたいところですが、実際のところ助かりました。貴方を貴方の母国から守るのに何人の護衛が必要かと考えていましたのでね。」
「俺はセルバから出るのが不安なんです。臆病者です。この国で十分です。」

 テオはもう学会のことを考えたくなかった。これ以上喋ると未練がましいと思われると感じたので、話題を変えた。

「アリアナの調子はどうです? 彼女はそろそろ仕事を控えた方が良いと思いますが・・・」
「ご心配なく、来週からリモートで仕事をするそうです。患者のカルテを電子化して自宅で画像診断するそうですよ。私は彼女にもう少し出産準備のことに集中して欲しいのですが。」

 テオは苦笑いした。

「彼女も言い出したら聞かない性格ですから・・・でも子供のことを大切に考えていることは間違いないでしょうから、信じてやって下さい。」
「勿論です。」

 ロペス少佐が部下達の方へ視線を向けたので、テオは彼を仲間に返してやらねば、と思った。

「俺はもう少ししたら帰ります。貴方をお仲間のところへ返さないと・・・」
「では、おやすみなさい。」

とあっさり少佐は退いてくれたが、別れ際にこう言った。

「貴方も早く子供を持ちなさい。ケツァルもそんなに若くないですから。」

 ケツァル少佐が聞いたらアサルトライフルでロペス少佐を撃つんじゃないか、とテオは思い、心の中で苦笑した。


2022/11/12

第8部 シュスとシショカ      10

 「白人と結婚して亡くなった一族の女性ってわかるか?」

 テオが尋ねると、ケツァル少佐はちょっと考えてから、図書館へ行こうと提案した。それで2人で大学内の図書館へ行った。10年近く前の新聞を探した。データ化される前の新聞だから、何年の何月の記事なのかわからない。女性の実家がシショカ・シュスと名乗っていたことはわかっていたから、死亡記事だけを見ていった。
 半時間後に、少佐が一件の記事を見つけた。フェルナンド・ロヴァト・ゴンザレスと言う男性の妻のマリア・シショカ・シュスが亡くなったと言う短い記事で、葬儀日時の告知と共に数行だけ書かれているものだった。テオはタブレットでフェルナンド・ロヴァト・ゴンザレスを検索し、マリアの死後1年のうちにその男性の家が相次ぐ不審死で断絶してしまったことを知った。フェルナンドの遺産は妻の母親が相続し、それに異を唱えたロヴァト・ゴンザレス家が全員死んでしまったのだ。遺産を相続したシショカ・シュス家のことはデータでは追えなかった。恐らくシショカ・シュス家の人間達が記録に残されることを嫌ったのだ。

「シショカ・シュス家って、有名なのか?」

 テオの問いに、少佐は肩をすくめた。

「煉瓦工場を経営していました。煉瓦はあまり使われなくなったので、最近は装飾用タイルを作っています。」
「マスケゴ族だな?」
「スィ。古い家系です。」

 そして、皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「ムリリョ博士達が住んでいらっしゃる同じ谷に住居を構えていますよ。」

 テオは以前ロホ達に連れられて見学に行った斜面の住宅地を思い出した。樹木が多い、日当たりの良い斜面に階段状に造られた風変わりな住居が点在する区画だ。マスケゴ族のグラダ・シティでの集落だ。
 斜面が多い都市では低い位置に金持ちが住み、貧しくなると坂の上に住む傾向にある。坂の上は不便で交通の便も良くないからだ。しかしセルバでは、金持ちが坂の上に住む。低地は暴風雨の時に水没しやすく、敵は低い海岸から攻めてくるからだ。テオや少佐達が住んでいる東西サン・ペドロ通りやマカレオ通りも坂の上に行くほど高級住宅になる。マスケゴの集落も似ていた。少佐はグラダ・シティの地図をタブレットに出して、テオにムリリョ博士の自宅周辺を示した。

「ここが博士のお宅です。シショカ・シュス達はもう少し低い場所に住んでいます。財力の差ですね。でも族長選挙は人望がどれだけあるかを競う訳ですから、財産は関係ありません。」
「金のばら撒きはしないのか?」

 少佐がニヤリと笑った。

「一族は金では票を入れません。撒く人間も受け取る人間も軽蔑されますから。どれだけ一族の役に立てるかが争点です。勿論、お金を一族のために使うのであれば、それは得点を稼ぐことになります。」

 テオは煉瓦工場の経営者達と族長の座を争う人々は何を生業にしているのだろう、と思った。ムリリョ家とシメネス家は建設業者だが、今回候補を出していないと言う。
 ”ヴェルデ・シエロ”は人口が多いと言えない。その一部のマスケゴ族の中の選挙だ。有権者はメスティーソを入れてもそんなに多くない筈だ。

「少佐・・・もしかすると、マスケゴ族の選挙は、シショカ・シュス同士の対決になっているんじゃないか?」

 テオの考えに、少佐がビクッとした。それを思いつかなかったと言う表情だった。彼女は僅か数名しかいないグラダ族の族長で、選挙ではなく、彼女しか純血種がいないからだ。(この際フィデル・ケサダは数えない。)また、彼女が普段接する一族の多くは人口が多いブーカ族で、家系がたくさんある(らしい)。だから少佐も「選挙」と聞いて一般のセルバ社会の選挙の様に考えていたのだ。

「同族の相討ち選挙なのですね・・・」

 カスパル・シショカ・シュスは恋人の仇を討つ目的で神像を盗み、建設大臣を呪い殺そうと企んだ。そして恋人を死に追いやった恋人の実家にも復讐を果たそうとしていた。恋人の実家は彼の同族だ。しかしシショカ・シュス、或いはシュス・シショカの家は他にもあって、カスパルの恋人の実家から出る族長候補と対立しているのではないか。もしカスパルが大罪を犯したとわかれば、恋人の実家は大打撃を受ける。

「カスパル・シショカ・シュスは彼の独断で神像の呪いを利用しようと考えたのだろうか? 族長選挙で彼自身の家系のライバルとなる別の家が、彼を唆して復讐劇を行わせ、彼の家系を貶めようとしているんじゃないだろうか? それなら選挙が絡んでくると言う話に俺は納得出来る。こう言っちゃなんだが、君達の一族は周りくどい形で戦略を考える。自分達が大罪を犯す掟違反をしないよう、他人を動かすんだ。カスパルはチクチャン兄妹を唆して利用したが、カスパル自身も誰かに操られているんじゃないか?」

 テオが考えを打ち明けると、少佐は小さく頷いた。

「大統領警護隊司令部がカスパルに直ぐに裁定を下さないのは、彼の背後関係を調べているからですね・・・」



2022/11/05

第8部 シュスとシショカ      9

  テオはケツァル少佐に電話を掛けた。電話では言えない火急の要件があると言って、彼女に大学へ来てもらった。昼休みの大学は学生たちが自由に歩き回っている。自主的に研究している学生やボランティア活動に勤しむ学生、ただ休憩しているだけの学生。その中を普通の服装で、少佐は学生のふりをしてやって来た。彼女が研究室に入ると、テオはドアを施錠して、彼女にコーヒーを飲むかと尋ねた。彼女は要らない、と答えた。

「それで、要件とは?」

 テオは彼女を学生たちが座る椅子に座らせ、己の机の前に座った。そして、昼休みに現れたマスケゴ族の若者、ケマ・シショカ・アラルコンと、ムリリョ博士との3人の会話を語って聞かせた。
 少佐は話を黙って聞き、そして暫く考えた。

「要約して言えば・・・カスパル・シショカ・シュスの恋人が彼を裏切って白人と結婚して、お産に失敗して死んだ、カスパルはそれを恋人の家族と恋人の夫に責任があると逆恨みした。さらに恋人が彼を裏切った原因は生家の没落であり、その没落の原因はアルボレス・ロホス村が泥に埋もれてしまったから。だから彼はダム建設を推進した建設大臣も恨んだ。」
「スィ。」
「白人の家族は謎の死を遂げ、カスパルは恋人の家族と大臣にも復讐を企んでいる。そのために、アーバル・スァット様の石像をアルボレス・ロホス村の住人だったアラムとアウロラのチクチャン兄妹に盗ませ、建設省に送りつけようとした。しかし、1回目は盗みに利用したロザナ・ロハスが思った通りに動かず、ミカエル・アンゲルス暗殺に使ってしまい、石像は大統領警護隊に回収されてしまった。」
「スィ。」
「もう一度彼はチクチャン兄妹に改めて石像の呪いの使い方を学習させ、2度目の盗みを行った。その際、遺跡の警備員を爆裂波で傷つけてしまった。チクチャン兄妹は建設省に石像を届けたが、何も起こらない。そこでカスパルに利用されたと悟り、仲違いして、カスパルに殺されかけた・・・」
「概ね、そんなところだ。ムリリョ博士が何も言わないので、マスケゴ族の族長選挙とどう関わっているのかは、俺にはわからない。」
「私にもわかりません。」
「だが博士はカスパルの親戚、つまり恋人の実家に問題ありと睨んだようだ。それが選挙に影響するのか、それとも”砂の民”が動くのか、わからないが・・・」
「”砂の民”の粛清は個人に行なわれることが主です。一つの家族を対象とすると、長老会の審議に掛けられるでしょう。それより・・・」

 少佐が憂い顔で天井を見上げた。

「セニョール・シショカがどこまでこの件を掘り下げて調べたか、です。彼はフリーの”砂の民”です。掟の範囲で自由に行動します。カスパルの恋人の家族全員を粛清してしまう可能性もあります。」
「長老会の審議なしで、そんなことが出来るのか?」
「それをするから、一匹狼にならざるを得なかったのだと思いますよ。そして彼が一族の人々から恐れられる存在になった原因でもあります。長老会も彼が掟の範囲内で行動するので罰することが出来ないのです。」

 テオは溜め息をついた。

「ケマ・シショカ・アラルコンは、セニョール・シショカをシショカ一族の総元締程度にしか認識していないんだ。シショカに”砂の民”への仲介を頼もうとしている。あの若者は叔父のカスパルを死なせたくないと言っていた。父親同然の存在だったから。」
「シショカは・・・と言うより、良識ある我が一族の大人達は、大罪を犯した人間を温情で助けるなど、生やさしい扱いをしません。大罪は大罪です。減刑はありません。ただ、カスパルに襲われた警備員は命を取り留めました。その点は考慮してもらえるかも知れませんね。」

と言いはしたが、ケツァル少佐は、その「考慮」が生きたままワニの池に放り込まれるのではない、別の処刑方法になる、とは言わなかった。テオを悲しませたくなかった。


第11部  紅い水晶     8

 研究室に入るとテオはケツァル少佐に電話をかけてみた。少佐は彼からの電話とわかったので、すぐに出てくれた。バックで船の汽笛らしき音がして、彼女が港湾施設にいることがわかった。 「出かけている時に申し訳ない。」 とテオは切り出した。 「ケサダ教授から依頼されて、文化保護担当部の人に...