2021/06/30

アダの森 8

  今度はケツァル少佐が先頭に立った。3人のゲリラが歩いた後を追跡して行く。アサルトライフルは何時でも撃てる様に腰だめの状態だ。シオドアは最後尾にいた。ついて行くのがやっとだ。大統領警護隊の2人は殆ど駆け足だったが彼を置き去りにすることはなかった。シオドアの足音が少しでも遠ざかると歩調を落とし、追いつくのを待ってくれた。
 つとステファン中尉が足を止めた。ケツァル少佐も立ち止まって振り返った。中尉が言った。

「敵が近いです。私が一緒だと全員が見つかってしまいます。向こう側へ廻って囮になりますから、その間にロホを救出して下さい。」

 シオドアは彼の言葉の半分が理解出来なかった。何故中尉が一緒だと敵に見つかるんだ? しかし少佐は素直に部下の申し出を受け入れた。

「了解です。”入り口”で落ち合いましょう。」

 中尉がリュックを下ろし、シオドアに差し出した。シオドアがそれを受け取り背負ったところに、今度は拳銃を渡された。

「撃てますね?」

と訊かれた。シオドアは自信がなかったが、頷いた。遊びで射撃場に行ったことはある。記憶喪失になる前だったが、そんな気がした。拳銃をベルトに差すと、ずっしりと重たかった。リュックより重たい。

「躊躇わずに撃ちなさい。」

と中尉がアドバイスをくれた。

「連中は”砂の民”と同じで危険です。向こうは躊躇わずに撃ってきます。」

 少佐が囁いた。

「一緒に闘い一緒に帰る。」Peleemos juntos,  Vamos a ir juntos a casa. 

 中尉も同じ言葉を繰り返した。2人がこちらを見たので、シオドアも真似た。

「一緒に闘い一緒に帰る。」

  ステファン中尉は少佐とシオドアに敬礼すると、夕暮れが迫るジャングルの中に素早く消え去った。
 シオドアが中尉が去った方角を見ていると、少佐が歩き出した。彼は慌てて追いかけた。用心深く足元を確認しながら進んだ。森の中はすっかり暗くなった。空気が湿っていて重たい。雨季だが今年は雨が少ないとエル・ティティの住人達が空を心配していた。豪雨になったのはシオドアが田舎町に逃げてから最初の半月だけで、後は曇ったままで、たまに思い出したように降るだけだった。
 一度何気なく倒木を跨ぎ越える際に、危うく蛇を踏みつけるところだった。少佐!と彼が声を出さずに叫ぶと、ケツァル少佐が軍用ナイフで蛇の頭を刎ねた。ナイフを草で拭いて、彼女はちょっと言い訳っぽく言った。

「カルロがいればこんな苦労はしなくて済むのです。」

 ステファン中尉がなんだって? 
 暗闇でも目が見えるのはロホだけではないと言うことが証明された。少佐は昼間と同じスピードで歩いて行く。夜行性の昆虫の鳴き声が煩く、樹木の上で何かが動き、声を立てた。
 シオドアはその音や声が先刻までしなかったことに気がついた。今朝少佐達と合流してから、ずっと静かだったのだ。小さな生き物達が彼の周辺で動き出したのは、何時からだ? 
 木が燃える臭いがして来た。タバコの臭いもする。人の気配だ。少佐が立ち止まり、シオドアに姿勢を低く、と手で合図した。彼女も中腰で数メートル進んだ。
 キャンプがあった。シオドアが脱出した同じ場所とは思えなかった。テントは2つだけだ。その間に焚き火が作られている。夜間航空機を飛ばさないセルバ共和国だから、火を焚いても空から発見されないとたかを括っているのだ。
 焚き火のそばに杭が打たれ、そこに1人の男が縛り付けられ、地面に座り込んでいた。迷彩服の左肩の色が黒くなっている。血だ、とシオドアは察した。男は顔を俯けていたが、ロホに違いない。
 
 焚き火のそばに3人の男がいた。折り畳みの椅子に座って、鍋で煮込んだ肉を食べている。1人は向こうの方で立ち番をしている様だ。テントの一つからカンパロが出てきた。

「明日の夜明けにここを発つ。」

 彼の宣言に仲間達が顔を上げてボスを見た。

「明日の夜明け?」
「あの白人は探さないのか?」
「あいつはどうでも良い。」

  カンパロがロホの前で屈み込んだ。捕虜の顎を手で掴んで顔を自分の方へ向けさせた。

「思いがけない獲物が獲れた。こいつは高く売れる。」

 手下達からブーイングが聞こえた。

「インディヘナの男なんか買うヤツがいるもんか!」
「大統領警護隊が身代金を払うとは思えねぇな。」
「第一、へフェ、あんたがそいつを刺して弱らせちまった。明日になれば死んじまうぜ。」
「死ぬものか。」

 カンパロが手を離したので、ロホはまたぐったりと頭を垂れた。

「またジャガーに化けるとヤバいから、弱らせる為に刺したんだ。こいつ等は簡単には死なない。しぶとく生き延びてきた連中だからな。」

 シオドアは少佐を見た。彼女は目を閉じていた。ここで感情を昂らせまいと気を鎮めている様に思えた。カンパロはロホが再びジャガーに変身するのを恐れて刺したと言った。刺された時、ロホは既に縛られていた筈だ。無抵抗な人間を刺すカンパロの残虐性をシオドアは思い知らされた。自分が無事だったのが不思議なくらいだ。ロホは刺された時に心の中でケツァル少佐に助けを求めたに違いない。彼女はそれを確かに受信した。
 どうやってロホを助けようか? シオドアは”心話”を使えない己が歯痒かった。少佐と相談が出来ない。その時だった。
 キャンプの向こう端で見張りに当たっていた男が声を上げた。

「何かいるぞ!」

 ゲリラ達が一斉に手近の武器を手に取った。見張りがジャングルを指差した。

「虫の声が止んだ。」

 ガサガサと茂みが音を立てて、黒い影が走り去った。見張りが発砲しながらそちらへ走った。焚き火のそばにいた1人が火の付いた棒を掴んだ。

「アメリカ人だ。捕まえろ!」



アダの森 7

  太陽がジャングルの木々の向こうにある。木漏れ日はあまり差し込まない。ステファン中尉が先頭に立ち、シオドア、ケツァル少佐の順番で3人は森の中を歩いた。オクタカス遺跡のメサを軽々と下りて行った時の様に、ステファン中尉はまるで道があるかの様に迷うことなく進んで行く。足元の枝や草を踏んで音を立てることもない。シオドアは彼が足を置いた通りに歩いた。後ろの少佐も音を立てないので、時々彼女が遅れずについて来ているのか心配になる程だ。
 突然、中尉がクッと喉を鳴らし、前に倒れ込んだ。シオドアは仰天する前に、後ろから少佐に地面に押さえ込まれた。危うく声を出しそうになって自制した。中尉は倒れたのではなく、伏せたのだ。アサルトライフルを構え、そのまま固まっている。シオドアは背中に少佐の体重をかけられたまま、息を殺した。不謹慎だが、彼女の胸の感触が心地よい・・・。
 数メートル前方でガサガサと草をかき分ける音がした。タバコの臭いがした。人間が歩いている。

「あの白人、なまっちょろいから遠くへは行っていないと思うがなぁ。」
「どこかに隠れているんだ。」
「まさか、”死者の村”じゃないよな?」
「ロス・パハロス・ヴェルデスでも近づかない場所だ。」
「白人なら入るかも知れないぜ。」

  男が3人。そのうちの1人の声は聞き覚えがある。ムカデを取ってくれた男だ。シオドアは誘拐された時、ゲリラは全部で5人だったと記憶していた。カンパロの声は今聞こえない。もう1人いた筈だ。

「昨日の昼に捕まえたエル・パハロ・ヴェルデの兵隊・・・」

 え? シオドアはピクリと体を動かしてしまい、少佐に頭を思い切り押さえつけられた。

「へフェ(ボス)がえらくご執心じゃないか。」
「あいつが俺を殴り倒したジャガーだって、ふざけたことを言ってやがるぜ。」
「ジャガーに化けるのは”ヴェルデ・シエロ”だろ? 大統領警護隊はそのお遣いに過ぎないって言うのによ。」
「大体、お前、本当にジャガーに殴られたのか? ジャガーは一撃でお前の首を跳ばせるんだぜ。」
「本当にジャガーを見たんだ。テントから出たら、目の前にいやがった。跳びつかれて、あっと言う間に気を失っちまったんだ。」

 彼等は喋りながら遠ざかって行く。ステファン中尉がそーっと体を起こした。ケツァル少佐もシオドアの背中から静かに離れた。シオドアは彼女が完全に彼から降りる迄伏せたままだった。
 3人は静かにゲリラ達の後ろをつけて行った。まるで獲物に忍び寄るジャガーそのものだ、とステファン中尉の後ろを歩きながら、シオドアはそんな感想を抱いた。
 ロホはやっぱり捕まったのだ。酷く消耗していたから、ゲリラ達に追いつかれたのだ。戦わずに捕まったのか? 戦える力は残っていなかったのか? 
 カンパロは手下を襲ったジャガーがロホだとわかったのだ。あの男はメスティーソだが、”ヴェルデ・シエロ”の存在を知っている。彼の先住民の血は、古代の一族のものなのかも知れない。しかし彼の手下共は”ヴェルデ・シエロ”は昔話の神様と言う程度の認識だ。人間がジャガーに変身するなど、信じられないのだ。
 
 それが一般常識ってもんだ。

 カンパロともう1人の手下はキャンプでロホを見張っているに違いない。ひょっとすると、彼を拷問している可能性もある。シオドアは焦燥感に襲われた。もしロホが殺されたら、それは俺のせいだ。
 つい足速になってしまい、靴の下でパキッと音がした。3人共に同時にフリーズした。シオドアを怒るよりも、ステファン中尉は前方を行くゲリラの動向を伺った。男達はジャングルに人間の敵はいないと考えているのか、喋りながら物音を立てて歩き続けた。
 ゲリラ3人の姿が見えなくなった。 ステファン中尉が背筋を伸ばしたので、シオドアも肩の力を抜き、ごめん、と謝った。少佐が彼の横に来た。

「連中は足跡を残してくれました。距離を空けて追跡出来ます。」
「ロホは捕まったんだね。」
「山から幹線道路に出てしまう前に力尽きたのでしょう。道路に出られさえすれば救援を求めることも出来た筈です。」

 彼女はシオドアを見た。

「カンパロはロホが貴方を逃したジャガーだとわかった様です。」
「うん。 あいつはタダのゲリラじゃなさそうだ。」

 その時、ケツァル少佐は一瞬ビクッと体を震わせ、顔色を変えた。彼女の気配の変化にステファン中尉が気付いて振り返った。

「どうしました?」

 ケツァル少佐は硬い表情でゲリラ達が消えた方角を見つめた。睨みつけたと言っても良い。

「今、ロホが私を呼びました。早く行きましょう。」


 

 
 

アダの森 6

 斜面を登るケツァル少佐の足取りが重たかったので、シオドアは足を止めて彼女を待った。

「幽霊が見えているのかい?」
「明瞭に見えている訳ではありません。白い人影があちらこちらに浮かんでいるのです。」

 シオドアは周囲を見回した。霧が漂っているだけだ。まさかこの霧が幽霊と言う訳でもあるまい。

「俺には霧にしか見えない。だけど、昨夜は声を聞いた。」

 先を登っていたステファン中尉がチラッと振り返り、また前を向いた。シオドアは昨夜耳にした不思議な声の説明をした。

「楽しそうな感じだった。きっと誰かを呪ったり恨んだりはしていないよ。生きていて楽しかった日々を思い出して語り合っていたに違いない。」

 少佐が彼の横に並んだ。しげしげと彼を眺めた。

「貴方は本当に不思議な人ですね、ドクトル。私達は亡者を見たり感じたりしますが、声は聞こえないのです。貴方に彼等の言葉が理解出来たら、簡単に済む物事もあるでしょうね。」

 幽霊の声が理解出来たら皆んなで祓い屋でもするかな、とシオドアは冗談を言った。大統領警護隊は多分、そう言う能力を持つ人々なのだ。しかし職業にはしていない。”ヴェルデ・ティエラ”の拝み屋はいても”ヴェルデ・シエロ”の祈祷師はいないのだ。正体を隠しているから。

「今朝、俺が目を覚ましたのは、空気がビリリと振動したからなんだ。あれも幽霊の仕業かい?」

 するとステファン中尉が足を止めて振り返った。少佐がまたシオドアをじっくりと見つめた。

「あれを感じたのですか?」
「スィ。君達も感じたのかい?」

 すると彼女が、

「あれは私です。」

と言った。

「ロホを心の力で呼んだのです。でも彼は応えてくれません。」

 シオドアは彼女が死者の村へ行きたがらない理由を突然悟った。彼女はもしロホが亡者の群れの中にいたらと不安なのだ。彼は彼女を励まそうと言った。

「ロホは本当に疲れているんだよ。変身後は2日程寝込むと言っていたから、今頃何処か安全な場所で休んでいるに違いない。」
「早く安全な場所で休憩しましょう。」

とステファン中尉が少し苛っとして言った。それで3人は再び歩き始め、シオドアが隠れていた小屋に辿り着いた。中の安全を確認して、中尉はシオドアと少佐を中に入れ、彼自身は外の草の中に座った。見張りながらの休憩だ。彼が背負っていたリュックを少佐が受け取り、中から携行食を出してシオドアに食べさせてくれた。シオドアは母国の軍事食糧を試食したことがあるが、セルバ共和国の物は超シンプルだと思った。ロホにもらった干し肉もそうだったが、少佐とステファン中尉が持って来たのはパサパサに乾燥させたジャガイモと硬いチーズだけだった。もっとも彼等は短期の活動を想定しているのであって、長期戦をするつもりはないのだ。真空パックに入ったオレンジジュースが一番美味しかった。

「ディエゴ・カンパロと言う男なのだが・・・」

とシオドアはお腹が落ち着くと、誘拐されている間に得られた情報を出した。

「アメリカ政府がCIAを使って俺を探していると言っていた。普通のセルバ人がそんなことをどうやって知る? 口から出まかせなのか、それとも彼に情報を流している人間が政府関係者の中にいるってことだ。そう思わないか?」
「お金で繋がっている政治家とゲリラは珍しくありません。」

 少佐が溜息をついた。

「セルバ人は天使ではないし、聖人でもありません。私達の一族にもお金を稼ぐのに夢中で優しい心を忘れた人は大勢います。」
「そりゃ、人間だもの、欲はあるさ。だけど、俺が北米政府のお尋ね者で、エル・ティティに隠れているってカンパロに教えたヤツがいるらしいんだ。」
「私のチームにとってカンパロと”赤い森”は天敵です。遺跡発掘調査団を狙う不埒な連中ですから、繋がりを持つことはありません。」
「わかってる。多分、俺はグラダ・シティから脱出する時に誰かに見られたんだ。大学関係者に知り合いが多かったからね。友達じゃなくても、北から来た講師って言うので注目を集めたことは確かだ。その目撃者がアメリカ大使館の動きを知っていて、カンパロと繋がりを持っている。」

 シオドアは食べた後のゴミを小さくまとめた。遺跡に残さないように、袋に入れてリュックに仕舞った。

「出かけるかい? ”赤い森”がキャンプを移動させていなければ、俺も何となく位置がわかる。逃げたのが夜中だったから、方角にちょっと自信がないけど。」

 しかし少佐はもう少し休みましょう、と言った。

「闇雲にジャングルの中を歩いても消耗するだけです。午後迄休憩です。」
「ロホと何処かで行き違いになった可能性もあるしね。」



2021/06/29

アダの森 5

  待つ身は辛い。狭い隠れ場所から出るのは用を足す時だけ。水場はゲリラに見張られている可能性があるので近づかないように、とロホから釘を刺されていた。小さな水筒の水を大切に、口の中を湿らせる程度に飲み、干し肉を齧ると言うよりしゃぶった。退屈を紛らわせるのは、遺伝子マップだった。石の上に石で図を描いていった。ジャガーに変身する遺伝子とは、どんなものだ? サンプル”7438・F・24・セルバ”の情報は、これも含んでいるのか? 過去に捨てた筈の遺伝子分析が退屈凌ぎに役立った。
 2度目の夜は寒かった。標高がそこそこあるので夜間は気温が下がる。石の床が冷たかった。昔の人はここにハンモックをぶら下げたのか? この天井の高さでは無理だろう。きっと木でベッドを作ったに違いない。
 眠れないでいると、小屋の外で人の話し声が聞こえた。追手か? シオドアは壁に身を寄せ入り口から覗かれてもすぐには見られない様に試みた。話し声は次第に大きくなってきた。大勢がてんで勝手に喋っている様だ。男の声、女の声、子供らしい甲高い声もする。何だか楽しそうだ。棄てられた村で真夜中に人が集まるのか?
 シオドアは不思議に思い、そっと小屋から顔を出してみた。誰もいなかった。声はパタリと止み、それっきり聞こえなくなった。風が草の上を吹き抜け、ザワザワと葉が鳴っただけだ。
 シオドアは空を見上げた。雨季の空は雲に覆われ星は見えなかった。さっきの賑やかな声は何だったのだろう。幽霊なのか? 
 小屋に戻り、寒さに震えながら再び声が聞こえて来るのを待つ内に、いつの間にか膝を抱えて座ったまま眠りに落ちた。
 

 ビリリっと空気が震えた感触がして、シオドアは飛び起きた。危うく低い天井に頭をぶつけるところだった。床の一角に太陽の光が当たっていた。朝が来ていた。
 シオドアは小屋から顔を出した。雲が去って青空が見えていた。空気が冷たく肌に気持ちが良かったが、空腹で喉も渇いていた。
 さっきの空気の震えは何だったのだろう? 幽霊の悪戯か? シオドアは用心深く外に出た。死者の村の周辺には誰もいない様だ。水を探しに行こう、と思った。まだロホも少佐も来ないだろう。ゲリラに見つかりさえしなければ、少しの間留守にしても大丈夫だ。彼は身を低くして斜面を歩いた。沢が出来る地形を考え、滑らないように足元に注意しながら森へ近づいて行った。
 茂みの中から水音が聞こえた。水が流れている。シオドアは嬉しくなり、一瞬注意が散漫になった。低木を押し分けた途端、目の前に迷彩色の服が見えた。
 カンパロだ!
 固まってしまったシオドアに、向こうも咄嗟に腰だめでアサルトライフルを向けた。迷彩色のヘルメットの下は、ちょっと丸味のある顔にゲバラ髭、目元に傷はない。5秒後、同時に相手が誰だかわかった。
 シオドアは全身の力が抜けて、その場にヘナヘナとしゃがみ込んだ。

「ステファン中尉・・・君にここで出会うとは・・・」

 向こうも銃口を下に向けた。息を吐いて囁いた。

「ドクトル、もう少しで撃つところでした。」

 ステファン中尉の背後から音を立てずにケツァル少佐が姿を現した。彼女も迷彩服で同色のヘルメットを被っていた。アサルトライフルを持っている姿は初見だ。シオドアを眺め、それから周囲を見た。低い声で尋ねた。

「ドクトル、ロホと出会いませんでしたか?」
「会ったよ。彼が俺をゲリラのキャンプから助け出してくれたんだ。」

 少佐がステファン中尉と目を合わせた。そして直ぐにシオドアに向き直った。

「何時のことです?」
「2日前の夜。俺がカンパロに捕まったその夜さ。」

シオドアは斜面の上の方を振り返って指差した。

「あの上に棄てられた古い村の跡があって、そこに案内された。俺は彼の言いつけを守って昨日1日村の跡に隠れていたんだ。彼はオルガ・グランデ基地へ向かった。君と合流するつもりだった筈だけど・・・」

 物凄く嫌な予感がした。その予感が的中したことを、少佐が教えてくれた。

「彼は基地に戻っていません。貴方が誘拐されたとゴンザレス署長から連絡を受けて、私は電話で彼に現地の偵察を命じました。本来なら、昨日の昼迄に戻っている筈でした。」
「俺のせいだ。」

 シオドアは泣きたくなった。あの優しい若者の身に良くないことが起きたのは明白だ。

「彼はジャガーに変身して偵察に来たんだ。そして偶然俺を見つけて、敵の隙を突いて助け出してくれた。変身したら酷く疲れると言っていたんだ。だから俺は足手まといにならないよう、ここに残って、彼は基地へ報告の為に戻ると言って、隠れ家から出て行った。まだ基地に戻っていないのだとしたら・・・」

 少佐が溜息をついた。

「変身する必要があったとは思えません。ナワルは無闇に使うものではないのです。ロホはナワルを使う方が効率が良いと考えたのでしょうが、それなら基地に帰り着く迄そのままの姿を保っていれば良かったのです。」
「ジャガーの姿では俺と話せないだろう?」

 多分、ケツァル少佐もステファン中尉もジャガーに変身出来るんだ、とシオドアは確信した。少なくとも少佐は変身が自分達の体にどんな影響を与えるか理解している。

「君達はロホが戻らないから探しに来たのかい?」
「スィ。」
「勿論貴方の救出も目的です。」

 少佐の相変わらずの愛想なしの返事を、中尉が慌ててフォローした。そして少佐に提案した。

「少し休憩しましょう。ドクトルが隠れていた村の跡へ行きませんか。」

 ケツァル少佐は斜面を見上げて、不満そうな顔をした。

「あそこへ行くのですか?」

 シオドアは彼女が嫌そうに呟くのを聞いた。

「亡者がいっぱいいますよ。」

 ステファン中尉がシオドアの目を見た。 え? シオドアはびっくりした。今、俺に何か言おうとしたのかい? 中尉が頬をぽりぽりと掻いた。

「ドクトルが平気なのですから、大丈夫ですよ。」

 もしかして、少佐は幽霊が見えているのか? 彼女は幽霊が怖い? 悪霊は平気なのに? ステファン中尉はちょっと焦れた。 シオドアに手を差し出して立たせると、少佐に手を振って、来いと合図した。シオドアは少佐の為に少しだけ時間稼ぎをすることにした。

「実は水汲みに来たんだ。近くに水場はないかな?」

 

アダの森 4

  鳥の囀りでシオドアは目が覚めた。朝だ。狭い窓から朝日が差し込んでいる。彼は体を起こした。四角い石に囲まれた空間だった。屋根がある。下は石畳だ。壁を形成している石はきちんと四角く整えられていた。出口は小さいが縦長の長方形だ。牢獄ではなさそうだ。シオドアは引っ掻き傷だらけの自身の腕や脚を見た。シャツの前は開いており、ボタンがなくなっている。胸にも枝で付いた傷があった。
 昨夜の出来事は夢ではなかった。彼はジャガーに導かれ、急斜面を上り、ジャングルの中の廃墟に隠れたのだ。ジャガーは石の小屋の前で立ち止まり、彼の顔を見て、小屋を見た。入れと言われている、と感じたシオドアは素直に小屋に入った。それっきりジャガーを見ていない。疲れていたシオドアはそのまま眠ってしまったのだ。
 喉が渇いていたので、シオドアは小屋から出た。昨夜は暗かったので、どんな場所だかわからなかったが、石で出来た建造物が深い草に覆われた斜面にポツポツと顔を出しているのが見えた。遺跡だ。神殿や道路の様な物は見当たらなかった。シオドアが寝ていた小屋と同規模の同型の物が10ばかりあるだけだ。下の方にはテラス状の土地が数段あり、その下にジャングルが広がっていた。昔の村の跡地か?遺跡は白い霧で包まれていたが、斜面の下の風景は見ることが出来た。 
 ふと横を見ると、迷彩服の男が1人近づいて来るところだった。アサルトライフルを腰だめで撃てる形に持って草の中を足音を立てずに歩いていた。胸に緑色の徽章が光った。シオドアは一気に緊張を解き、石壁にもたれかかった。

「ブエノス・ディアス、ロホ。」

 シオドアが挨拶すると、向こうも挨拶を返してくれた。

「ブエノス・ディアス、テオ。」

 そばに来ると、ロホが腰から小さな水筒を外して渡した。シオドアは夢中で中の水を飲んだ。ロホが彼の全身を眺めた。

「昨夜は無理をさせてしまいましたね。しかし、あのまま貴方をあそこに置きたくなかったのです。」

 シオドアはびっくりして水筒を持つ手を下げた。

「何のことを言ってるんだ? 俺はジャガーに助けられて・・・」

 彼はそこで言葉に詰まった。彼を見つめているロホの目がいつもと違っていた。金色の眼球に細い縦長の瞳孔。白目の部分がない。まるで猫の目みたいだ。
 ロホがそばの壁にもたれかかった。疲れ切っている。それでも彼はシオドアに言った。

「ここはまだ奴等に知られていません。知っていても近づくのを嫌がる筈です。」
「遺跡だからかい?」
「遺跡と言うより、棄てられた死者の村です。疫病が流行ったので、住人が村を捨てて他所へ引っ越したのです。」
「君はここを知っていたんだね。」
「この山の反対側にあるディエロマ遺跡調査隊の護衛を指揮したことがあります。その時に山の周辺を調べたのです。」
「この山はティティオワ山だよね?」
「南斜面です。北側にディエロマ、東にエル・ティティ、西の斜面を降ればオルガ・グランデです。」
「君は何処から来たの? まさか、1人で俺の救助に来た訳じゃないよね?」

 ロホは困ったと言う表情をした。

「オルガ・グランデ基地で司令達と雨季明けの発掘調査の護衛隊を編成する相談をしていました。そこへケツァル少佐から、貴方がカンパロに誘拐されたと連絡が入りました。」

 少佐から? シオドアは一瞬心が弾んだ。彼が洗濯場所に置いた手紙を、ゴンザレス署長は正しく解釈して、政府軍ではなく、州警察本部でもなく、大統領警護隊文化保護担当部に連絡してくれたのだ。

「少佐が君に俺の救出を命じてくれたんだ!」
「ノ、違います。」

 ロホは申し訳なさそうに説明した。

「少佐は、昨夜グラダ・シティを発たれました。私は貴方が連れて行かれた場所を特定せよと命じられただけです。」
「つまり・・・救助の下見?」
「そうです。」
「もしかして、彼女はまだ車の中・・・とか?」
「スィ。」

 セルバ共和国では夜間航空機を飛ばさない。山が高く乱気流が発生しやすい地形と、古い航空機の性能の脆弱さ故だ。外国から来る航空機は海側から来る。国土上空を横断するのは昼間だけだ。
 シオドアは頭を掻いた。

「救助の下見に来て、うっかり救助しちゃった訳だ・・・」
「スィ。」
「有り難う。」

 ロホの肩に手を置いた。振り返ったロホの目は黒い人間の目になっていた。

「昨夜のジャガーは君だったんだね?」

 スィ、と答えてしまってロホはちょっと狼狽えた。

「信じられないでしょう?」
「信じるさ。」

 シオドアは微笑んで見せた。

「だって、あのジャガーは人間みたいな行動を取ったんだ。それにさっきの君の目はジャガーの目だった。」

 ロホが慌てて手で目を覆った。その仕草が可愛らしかったので、シオドアは笑った。

「もう人間の目に戻っているよ。」
「貴方は本当に不思議な人です。」

 ロホが彼らしい優しい表情で彼を見た。

「我々を怖がる人の多くは、ジャガーに食い殺されないかと心配するのです。我々のナワルがジャガーであると言い伝えが残っているからです。でも貴方はジャガーを見ても怖がらなかった。」
「否、十分怖かった。悲鳴を上げようと思ったけど、声が出せなかった。それだけ恐ろしかったんだ。刺激しないように、ひたすら無抵抗で動かずにいた。」
「怖がらせてしまってすみません。お陰でゲリラに見つからずに貴方を助け出せた。」

 シオドアとロホは笑い合った。
 ところで、とロホが言った。

「これからオルガ・グランデ基地に行かなければなりません。エル・ティティへ行く経路はゲリラが抑えているでしょうから、西へ行きます。しかし・・・」

 彼は疲れた顔でシオドアを見た。

「ご覧の通り、私は疲れています。ジャガーに変身するとエネルギーを恐ろしく消耗するので、普段2日程寝込むんです。 私1人なら今日中に基地迄帰れますが、貴方を連れて行くのは難しいです。」
「俺はジャングル歩きに慣れていない普通の人間だからね。」
「悪く思わないで下さい。ゲリラに追跡されたら、貴方を守りきれません。少佐が来られる迄、ここで隠れていて下さい。食料はこれしかありませんが。」

 ロホが迷彩服のポケットから紙で包んだ一握りの大きさの物を出した。干し肉だった。


アダの森 3

  ”赤い森”はかつて小作農民や低所得層労働者が支配階級に抵抗し、人権救済を求めて組織した政治団体だった。だがまとまりの悪い組織で、結成されて数年も経たぬうちにゴロツキの集団と化した。銀行強盗、トラック襲撃、外国人誘拐で資金を集め、民衆の支持を失い、革命思想から頓挫した。今は市民から忌み嫌われる存在だ。セルバ共和国政府軍は彼等を何度か追跡し、アジトを襲撃したが、いつも幹部に逃げられた。巷の噂では、”ヴェルデ・シエロ”の血を引くメンバーがいるのではないかと囁かれていた。ジャングルの中を縦横無尽に移動し、神出鬼没のゲリラ活動に、官憲は手を焼いていたのだ。しかし国防大臣は大統領警護隊に協力を求めなかった。協力を要請しても拒否されることはわかっていた。”国家の存亡に関わる問題”ではないからだ。
 シオドアは頭から目隠しの袋を被されて森の中を歩かされ、”赤い森”のキャンプに連れて行かれた。感覚では半日歩いた気分だった。色々と障害物を迂回したり坂を上がったり下ったりしたので、時間がかかったのだ。川を2回渡ったが、同じ川なのか川が2本あるのか不明だった。
 テントの中で袋を外された。縛られたまま箱の上に座らされ、写真を撮られた。身代金要求に使うのだ。蒸した芋と水だけの食事の間だけ、手を縛っている縄を解いてもらった。ゲリラ達はシオドアの前に来る時はスカーフで顔半分を覆っていた。カンパロだけが顔を曝していたのは、本人も有名だとわかっていたからだろう。特徴である目の下の傷痕はスカーフでは隠せない位置だ。
 日が落ちてからカンパロがシオドアが軟禁されているテントに来た。

「アメリカ政府と交渉する。」

とゲリラの頭目が言ったので、シオドアは笑った。

「無駄だよ、連中は俺なんぞに身代金を払ったりしない。」

 シオドアは政府が作った人間だ。いなくなっても悲しむ親族はいないし、救出を求める友人もいない。第一、俺がいなくなってもアメリカ国民は誰も気が付かない。俺は普通の市民ではなかったから。アメリカ政府は俺を使い捨て出来るんだ。

「お前を探してアメリカ政府のスパイどもがグラダ・シティの中を探っているそうじゃないか。」

 とカンパロが言ったので、

「誰からそんな話を聞いたんだ?」

と尋ねてみた。カンパロがニヤリと笑った。

「お前のことを教えてくれた人さ。」
「だから、誰なんだ?」

 カンパロはククッと喉の奥で笑ってテントから出て行った。
 ジャングルの奥で盗賊紛いの行いをしている連中が、どうしてCIAが俺を探しているって知っているんだ? シオドアは木箱の上に座ったまま眠る訳にいかないので地面に腰を下ろした。土の上に直に座るのは嫌だったし、毒のある生き物に噛まれたり刺されたりする危険があったが、体を休めるには地面に座って木箱にもたれかかるしかなかった。
 カンパロは外務省の人間や政府軍の幹部と繋がりでも持っているのか? それを考えて、シオドアはゾッとした。それなら”赤い森”の幹部が捕まらない理由がわかる。誘拐した外国人の身代金を交渉する窓口を何処かに持っているのだ。窓口の人間が上手く立ち回らなければ、身代金を取っても人質を殺害してしまう。窓口の人間の正体を人質が知ってしまったから? 
 ”赤い森”のメンバーに”ヴェルデ・シエロ”の血を引く者がいると言う噂は本当だろうか。カンパロのあの自信に満ちた態度は、超能力を持っているからか? 大統領警護隊文化保護担当部の隊員達からは感じ取れなかったが、”ヴェルデ・シエロ”は他人の心を読めるのではないのか? それなら”赤い森”のメンバーがCIAの情報を得られることも考えられる。まさかカンパロがその能力を持っているんじゃないだろうな。しかし、あの男はメスティーソだ。ステファン中尉が言っていた、純血至上主義者が呼ぶところの”出来損ない”だ。メスティーソに人間の心を読む力があるのか?
 シオドアは体に何かモゾモゾとした気色の悪い感触を覚えた。暗くて見えないが、何かが服の中に入って来た様だ。彼は叫んだ。

「毒虫だ、助けてくれ!」

 テントの入り口が揺れた。誰かが怒鳴った。

「静かにしろ!」
「体の上を何か這っているんだ。取ってくれ、早く!」

 シオドアの悲痛な声に、男が1人入ってきた。時代がかった石油ランプを木箱に置いて、シオドアの上体を起こした。シオドアは胸の上だと訴えた。男が乱暴に彼のシャツの前を開いた。ボタンが千切れて飛んだ。シオドアは男が大きなムカデを指で摘んで捕まえるのを呆然と眺めた。

「そんな物がテントに入って来るのか?」
「何故俺達セルバ人がハンモックで寝るのかわかっただろう。」

 男はムカデをシオドアの顔にわざと近づけ、彼が怯えるのを見て笑った。そして片手にムカデ、片手にランプを持ってテントから出て行った。
 ドサっと大きな物が倒れる音がした。何だろう? シオドアはテントの出入り口を見て、次の瞬間凍りついた。
 大きな獣が見えた。黒い影がテントに入って来た。シオドアは口を開けたが悲鳴は出なかった。上げたかったが声が出なかった。必死で頭を回転させた。動かない方が良い、じっとしていろ、シオドア・・・
 獣が足音もなくテントの中を歩き、シオドアの横に来た。シオドアは目だけ動かしてその動物を見た。大きな頭、小さな耳、半開きの口から見える鋭い牙・・・獣が前足を上げてシオドアの背中を押した。シオドアは無言のまま体を折り曲げた。どうするつもりだ? 手に硬い物が触れてそれが牙だと悟った時は、また悲鳴を上げそうになった。手首が引っ張られた。獣は彼の手首ではなく、縛っている縄を引っ張ったのだ。ググッと2度3度引っ張られ、突然両手が自由になった。
 獣は直ぐに彼から離れ、テントの出口へ向かった。外を伺い、振り返った。

 「来い」と言っているのか?

 シオドアは立ち上がった。獣は彼がそばに来ると、一気にテントの外へ走り出した。シオドアも後に続いた。テントのすぐ脇で男が1人倒れていた。地面に転がったランプから漏れた油に火が点いている。もう直ぐテントに油が流れ着く。
 シオドアは獣の後をついてジャングルの中に走り込んだ。背後のキャンプで人の声が聞こえたが、振り返らなかったし、立ち止まらなかった。脚を木に引っ掛け、枝で額を打ったが、ひたすら走った。獣はしなやかに夜の闇の中を走って行く。途中で立ち止まる時は、彼がちゃんとついて来れているか確認している様子だった。
 これは虎か? 否、違う、斑紋が月明かりで見えた。豹? 南米の豹? 
 シオドアは目の前を走る美しい獣に魅了された。これはジャガーだ。太古からこの地で神と崇められてきたジャガーだ。

 俺は今、神に導かれている。


2021/06/28

アダの森 2

  夕刻、セルバ共和国の首都グラダ・シティにある雑居ビルに入っている文化・教育省の4階の電話が鳴った。職員はほとんど退庁しており、最後迄残っていた男性職員と大統領警護隊文化保護担当部の指揮官ケツァル少佐の2人が帰宅しようと立ち上がったところだった。男性職員は一瞬少佐を見たが、目を合わせる前に慌てて電話に出た。

「文化・教育省・文化財・遺跡担当課・・・」

 ケツァル少佐はショルダーバッグを肩に掛けた。どうか電話がこっちへ回って来ませんように。

「スィ、私がミゲールです。え? 女性のミゲール?」

 少佐は早く帰ろうと歩きかけた。ミゲール氏が彼女の机の上のネームプレートを見た。彼女とは決して目を合わさない。大統領警護隊との付き合い方ルールその1だ。

「文化財・遺跡担当課に女性のミゲールはいません。」

 頼むから、こっちへ回してくれるな、と少佐は心の中で願った。私の目を見ろ。私はいない。
 ミゲール氏は彼女を見ない様に努力しながら言った。

「大統領警護隊文化保護担当部のミゲール少佐ならおられますが?」

 馬鹿者! なんでそれを言うかな? 

 ミゲール氏が電話の転送ボタンに指を置いた。

「ケツァル少佐、5番にお電話です。」

  少佐の机の電話が鳴った。ケツァル少佐はバッグを机の上に置いて、電話に出た。

「大統領警護隊文化保護担当部、ミゲール少佐・・・」
ーーセニョリータ、ラ・パハロ・ヴェルデの少佐?

 中年の男の声が聞こえた。ケツァル少佐は声の主を思い出せなかったが、向こうは安堵した様子だった。

ーーやっと捕まった! もう半時間も電話をたらい回しされたんだ。
「何方様?」
ーーエル・ティティ警察署長のゴンザレスです。

 少佐は小さな田舎町を直ぐには思い出せなかった。遺跡があれば忘れないのだが。ちょっと沈黙していたら、ゴンザレス署長が早口で言った。

ーー助けて欲しい。テオがゲリラに攫われちまった!
「テオ?」
ーーテオドール・アルスト、貴女がエル・ティティに来られた時は、ミカエル・アンゲルスって名乗ってた。

 ああ、とやっと思い出した。一月以上前に、アメリカ政府を怒らせ、一族の長老達を怒らせ、セルバ共和国の裏の世界を引っ掻き回して行方をくらませた男だ。本人が望み、大統領警護隊文化保護担当部の隊員達も身の安全の為に、その存在を忘れた男だ。本人の希望通りにエル・ティティに行ったのか。ゴンザレスと再会出来たのか。しかし・・・なんですって?

「ドクトル・アルストがゲリラに攫われたと仰いました?」
ーースィ、セニョリータ。今朝、川に洗濯に行ったきり帰らないんで、巡査を迎えに遣ったら、洗濯物と手紙が残っていた。ミゲールに連絡を、って書いてあった。だから、貴女を探していた。貴女が私にくれた名刺に、ミゲールって書いてあっただろ?

 ケツァル少佐は溜息をついた。あのアメリカ人は何処まで騒動を引き起こすのだ?

「ゲリラは政府軍の担当です。オルガ・グランデ基地に連絡なさっては?」
ーーそんなことをしたら、テオがここにいることがアメリカ政府に知られてしまう。

 つまり、エル・ティティ警察は首都警察が全国に手配した行方不明のアメリカ人を隠していた訳だ。
 ゴンザレスが訴えた。

ーーテオは、大学の仕事をほっぽり出して私の所へ来てくれた。息子同然なんだ。カンパロなんぞに殺させたくないんだ。

 ケツァル少佐の頭の中で警鐘が鳴った。 カンパロ?

「今、貴方はカンパロと言いました?」
ーースィ。ティティオワ山周辺を縄張りにしている反政府ゲリラだ。実態はただの誘拐ビジネスで稼ぐ山賊だがね!
「ゲリラの頭目は、ディエゴ・カンパロなのですね?」
ーースィ、セニョリータ。テオを助けてやってくれるか?
「努力します。通報を有り難う。」

 ケツァル少佐は電話を切った。既にミゲール氏は帰宅していた。
 少佐は数秒間考え、携帯電話を出した。部下の携帯にかける。相手はまだ運転中なのか、すぐには出なかった。彼女が一旦切ると、5秒後に相手からかかってきた。少佐は直ぐに出た。

「ケツァルです。」
ーーステファンです。何か?
「ティティオワ山へ行きます。同行を命じます。」
ーー今夜ですか?
「スィ。」
ーー1時間後に本部へお迎えに上がります。
「よろしく。」


 

アダの森 1

 エル・ティティの町はテオドール・アルストを歓迎してくれた。代書屋が戻って来てくれたのだ。”ミカエル・アンゲルス”が町から出て行って以来口数が減っていたゴンザレス署長が元気を取り戻した。町の若者達が毎晩の様に誘いに来て、シオドアと一緒にバルで飲んだ。女性達が畑で穫れた野菜を持って家に訪ねて来た。巡査達は首都から回って来た行方不明のアメリカ人の手配書を黙って破り捨てた。
 シオドアの頭から方程式も遺伝子解析も組み替えも、全て消え去った。毎朝ゴンザレスと自分の朝食を作り、掃除をして洗濯をして、シエスタの準備をする。ゴンザレスや巡査達とお昼を食べて、軽く昼寝をしてから、会計士事務所へ出勤し、仕事を手伝う。誰かが代書が必要な文書を置いていたら、それをパソコンで清書して印刷しておく。いつの間にかそれは消えていて、代わりに野菜や僅かばかりの現金が置いてある。
 シオドアの居場所がそこにあった。必要とされ、自分も必要としている。誰も命令しない。付き纏わない。

「だが、運転免許証や病院に掛かる時の身分証はいつか作らねばなるまいよ。」

とゴンザレスが心配した。なんとかするよ、とシオドアは言った。大統領警護隊にこれ以上頼る訳に行かないので、本当になんとかしようと考えるのが、日課の一つになった。正式な市民権を取得するには、どうすれば良いのだろう。今のままでは不法滞在になる。
 エル・ティティに戻って37日目。彼は川で洗濯をしていた。ゴンザレスと彼自身の物に加えて独身の巡査の衣服も洗ってやっていた。代書屋に加えて洗濯屋もしようかな、と思った。エル・ティティには以前洗濯屋がいたのだ。歳を取って引退してしまい、後継者がいない。働く時間は十分ある。元洗濯屋の爺さんに道具を借りて商売を始めようか、と思った。

「グラダ・シティとその周辺でCIAが血眼になってアンタを探してるって言うのに、当の本人は川で洗濯かい? いい気なもんだぜ。」

 対岸で男がそう言った。シオドアが顔を上げると、男が1人、AKを抱えて立っていた。迷彩服を着ているが、セルバ共和国政府軍の徽章は何処にもない。大統領警護隊の緑の鳥の徽章もない。
 もしかして、コイツ、やばいヤツじゃないか?
 シオドアは男に言い返した。

「CIA相手に隠れん坊している覚えはないがね。」

 彼は最後の濯ぎを終えたシャツを絞った。洗濯籠に放り込むと、男をもう一度見た。髭面で四角い顔の、よく見るタイプのメスティーソだ。日焼けして、左目の下に横一文字の白い傷痕がある。警察署に手配書が回って来ていた。

「反政府ゲリラの”赤い森”のリーダー、ディエゴ・カンパロだな?」

 フンっとカンパロが笑った。

「署長の家の居候のことはある。手配書を見たんだな。」
「町の至る所にコピーを貼り出してあるさ。何か用か?」

 カンパロはCIAが俺を探していると言った。反政府ゲリラがなんでそんな情報を持っているんだ? コイツらこそアメリカの敵じゃないか。麻薬を売った金で武器を買い、外国人を誘拐しては身代金を要求する。身代金を受け取ったら人質を解放するかと思えば、必ずしもそうではない。3人に1人は殺害されている。逃げようとして、あるいは拘束中に抵抗したり、見張りの機嫌を損なって。
 気がつくと、川のこちら側にもゲリラが居た。シオドアは5丁の銃に囲まれていた。

「アンタを捕まえたら、北の国の政府はいくら払ってくれるかなぁ。」
「無駄だ。特殊部隊を送り込まれて、君達は全滅する。」
「アンタも道連れにされるぜ。」
「どうかな? 一応、俺が生きていることが、彼等にとっては重要なんだよ。面子があるからね。」

 カンパロはシオドアとの言葉のやり取りに早くも飽きた。仲間に合図を送った。

「縛り上げて連れて行け。」

 シオドアは銃を見た。”風の刃”から逃げるより難しそうだ。

「わかった。大人しくついて行く。だけど、署長に手紙を書かせてくれ。CIAに連絡してくれるだろう。」


はざま 13

  マハルダ・デネロス少尉にエレベーターに押し込まれたシュライプマイヤーが閉じかけた扉を押し開き、辛うじて脱出した時、デネロスはその真横に立っていた。大柄なアメリカ人が拳銃を片手に廊下を走ってトイレに入った時も、そこで動かずに立っていた。ボディガードがトイレを点検している間もじっと立っていた。彼がトイレから出て、歩いてアリアナ・オズボーンの部屋に戻り、ドアを閉じると、もう1度エレベーターのボタンを押した。扉が開いた箱の中に入り、下へ降りた。深夜にも関わらず人が出入りしている高級ホテルのロビーをTシャツとジーンズ、スニーカーの姿で堂々と歩いて横断し、正面玄関から出た。
 彼女が住んでいる官舎に向かって歩いていると、後ろからベンツのSUVが近づいてきた。運転席の女性が声を掛けた。

「良かったらお乗りなさいな、セニョリータ。」

 デネロスの笑顔が返事だった。彼女はサッと助手席側に回って、中に滑り込んだ。

「任務を半分完了しました!」

と報告した。ハンドルを握るケツァル少佐が半分?と尋ねた。デネロスは申し訳なさそうに答えた。

「ファイルとUSBは焼き捨てましたが、ドクトラの護衛は中途半端で放棄して来ました。」
「許します。」

 少佐がクスッと笑った。

「ファイルを焼いたのでは、残って護衛をするのは不可能です。」
「ファイルを外に持ち出そうかと思ったのですが、ドクトラの用心棒が2人いて、交替で廊下で見張っていましたので、キッチンで焼きました。」
「火災報知器はどうしました?」
「スキレットとミルクパンを重ねて煙が出ないように蒸し焼きにしました。でもU SBが弾けちゃって、ドクトラを起こしてしまいました。」
「まぁ、初めてにしては上出来です。」

 デネロスは遠ざかって行く高層ホテルの建物を振り返った。ちょっぴり悲しげに彼女が言った。

「ドクトラには優しくしてもらったのに、裏切る形になって申し訳ないです。」
「貴女は任務を遂行しただけです。」
 
 ケツァル少佐は若い部下が納得出来る説明をさらりとした。

「あのファイルが北米の人間の手に渡れば、全ての”ツィンル”の安全が脅かされることになっていたでしょう。あのファイルを作成したドクトル・アルストがそう言ったのです。ファイルの破壊はドクトル自身の希望でもありました。貴女は一族を救ったのです。」
「そうなんですか!」

 さっきまでしょげていたのが嘘みたいに、デネロスの目が輝いた。思わず運転中の上官の頬にキスをした。

「有り難うございます、少佐! 私、ちょっと自信がつきました。明日からもお仕事頑張ります!!」

 ケツァル少佐は微笑んだ。そして心の中で呟いた。

 これで貴女を”出来損ない”などと呼ばせない。

 半時間後、マハルダ・デネロス少尉を大統領警護隊官舎に送り届けた少佐は、車内からステファン中尉の携帯電話に掛けた。

「デネロス少尉は任務を完了しました。ドクトル・アルストに伝えなさい、明日の午前中に好きな所へ行って下さいと。」


 

はざま 12

  グランド・ナショナル・ホテルのスィートルームで、アリアナ・オズボーンは寝る支度をしていた。バスローブから寝間着に着替え、眠前の化粧水を顔にかけたところで喉の渇きを覚えた。居間スペースに出ると、ソファに横になっていたマハルダ・デネロス少尉が顔を上げた。護衛の役に就いているので、彼女は昼間の服装のままだ。明日の朝、着替えを買ってあげようとアリアナは思った。
 明るくて素直な女の子だ。アリアナはシュライプマイヤー達がいることを理由に、辞退する彼女を半ば強引に夕食に同席させた。そして彼女の仕事について訊いてみた。デネロスは大統領警護隊文化保護担当部の士官として配属されてからまだ7ヶ月しか経っていないと言った。初めての野外任務は、少佐以下3名の先輩士官と共に隣国の遺跡保護活動の視察だった。とても楽しかった、とデネロスは言った。休憩時間に皆んなで隠れん坊したり、記念の写真撮影をしたり、マーケットで買い物をしたり、と普通の学生の遠足みたいな体験をしたそうだ。
 アリアナは聞いていて羨ましく感じた。彼女は一緒に育った研究所の2人の仲間、シオドアとエルネストとそんな風に遠くへ出かけて遊んだ経験がなかった。遠出の時は大人達が一緒で、護衛がしっかり見張っていた。それにシオドアもエルネストも意地悪だった。彼女の物を隠したり、壊したり、取り上げた。成長すればどっちが彼女と寝るかで揉めた。彼女の意思は無視だった。外の家庭に引き取られた遺伝子組み替え子達とも友達になれなかった。全員が、ワイズマン所長のお気に入りになろうと蹴落とし合うライバルだった。
 デネロスがナプキンで簡単な人形を作って指で動かして見せた時、彼女はふと思った。こんな娘が妹だったらなぁ・・・と。

「寝てて良いのよ。ちょっと喉が渇いただけ。」

 アリアナが囁くと、デネロスは頭を枕に戻した。その時、デネロスの携帯電話にメッセージの着信があった。少尉は素早く画面を見た。緑色の猫のアイコン・・・ケツァル少佐だ。

ーードクトラが持っているドクトルのファイルとUSBを破棄せよ。

 デネロスは枕に頭を置いたまま、冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取り出すアリアナの背中を見た。上官に了解と返事を送り、直ぐに既読になったことを確認して受信メッセージを削除した。
 アリアナが水を飲んで寝室に戻る迄目を閉じていた。ドアが閉まると、デネロスはソファから下りて忍足で寝室の前へ行った。ドアの向こうの気配を伺い、アリアナが寝たと確信すると、居間に置かれたアリアナの私物を順番にチェックした。ファイルとUSBは昼間アリアナが文化保護担当部を訪問した時、ケツァル少佐が手渡したものだ、とわかっていた。ホテルの部屋に入ってから、アリアナはずっとファイルに目を通していた。夕食の為に最上階のレストランへ行く際に、彼女は居間にある金庫にそれらの書類を入れた。部屋に戻ってからは、デネロス相手にお喋りをするのに忙しくて、金庫を開けていない。
 デネロスは金庫の扉を見た時、どうやって解錠しようかと悩んだ。A4ファイルが入る大きさで、難しい物ではないが、開けるには部屋の電子キーカードが必要だ。部屋のカードは何処? と室内を探し回ったのだ。
 居間になければ寝室だ。アリアナのハンドバッグの中が一番怪しい。そっとドアノブを回して寝室のドアを開いた。アリアナは寝息を立てて眠っていた。ハンドバッグは窓際の机の上だ。デネロスはしなやかに室内に入り込み、机のそばへ行った。バッグの中を漁るのは泥棒になった気分だった。バッグ内のポケットからカードを引っ張り出した時は、ちょっと汗をかいていた。
 少佐だったらドクトラの目を見つめて、「金庫を開けて下さい」と命令して終わりなのになぁ・・・
 まだ修行中の身の彼女は静かに寝室を出て、ドアを閉め、金庫に向かった。タッチパネルにカードを当てると、扉がカチッと音を立てて開いた。デネロスは書類を出した。USBもあった。トイレで流すには枚数が多過ぎる。スィートルームには簡易キッチンがあった。客がたまに出張シェフを呼んで、料理の最終行程をさせる場所だ。デネロスはそんな贅沢に縁がない育ちだったが、キッチンのコンロを見て、シンクの下を覗いた。ミルクパンとスキレットがあった。
 パチっと言う音でアリアナが目覚めた時、微かに焦げ臭い匂いがすると感じた。彼女は体を起こした。暫くぼんやりベッドの上に座っていた。生まれてからこの日迄万全を期したセキュリティ体制の元で育って来たので、非常事態を判別する人間の能力が少々劣っていた。
 焦げ臭い。
 突然、嫌な予感に襲われ、彼女はベッドを飛び出した。寝室から居間に通じるドアを開けた。居間に何かが焦げる匂いが漂っていた。彼女は寝室に引き返し、ハンドバッグから携帯電話を出した。ワンタッチでシュライプマイヤーに掛けた。

「ケビン、来て、火事よ!」

 彼女の視野に、キッチンで動くものが入った。電話を持ったままアリアナはキッチンへ向かった。カウンターの向こうにデネロスが立っていた。アリアナを見て、苦笑した。

「起こしてしまいました?」

 アリアナはコンロに載っている不思議な物を見た。スキレットの上に逆さまになったミルクパンが載っかっている。2つの鍋の隙間から煙が漏れていた。

「何をしているの?」

 その時、ドアチャイムが鳴った。シュライプマイヤーだ。アリアナはドアへ行った。ドアを開けると消化器を持ったもう1人のボディガード(クルーニーとか言ったっけ?)と拳銃を持ったシュライプマイヤーが入って来た。

「火事は?」
「キッチンで・・・」

 アリアナはキッチンを振り返り、そこに誰もいないことに気がついた。デネロスは何処へ行った? クルーニーが照明を点けた。スィートルームの空気が微かに澱んでいた。シュライプマイヤーはキッチンに行き、コンロの上のスキレットに被さっていたミルクパンを退けた。黒くなった灰の塊があった。彼が片手でそばにあったスプーンで突っつくと、灰の塊は脆くも崩れ去った。その中に溶けかけたプラスティックの破片があった。
 クルーニーが室内を見回し、アリアナに尋ねた。

「セルバ人の女は何処です?」

 シュライプマイヤーは居間を振り返った。彼等が入室した時点で、室内にアリアナの姿しかなかった。あのセルバ人は寝室に隠れたのか? アリアナがキョロキョロと室内を見回し、不意に重大な発見をした。

「金庫が開いているわ!」

 3人のアメリカ人の注意が開け放たれた金庫に向けられた時、玄関ドアの前にいきなりデネロスが出現した。シュライプマイヤーがドアの開く気配で振り返ると、彼女は既に部屋から出て行くところだった。

「待て!」

 彼は駆け出した。デネロスが全力疾走でエレベーターホールに走り、ボタンを手当たり次第叩いた。シュライプマイヤーが追い着いた時、エレベーターの一基がドアを開いた。彼は女を捕まえようとした。デネロスがするりと身を交わし、彼をエレベーターの中に押し込み、走り去った。シュライプマイヤーは閉じかけたドアから無理やり体を出して、再び彼女を追いかけた。デネロスは廊下の突き当たりのトイレに駆け込んだ。
 女性用トイレだ。シュライプマイヤーは躊躇せずに中へ入った。個室は全部開いていた。何処にもデネロスの姿はなかった。
 ここは18階だ。
 シュライプマイヤーはトイレから出て、アリアナの部屋に戻った。相棒が無言で守備を問うてきた。シュライプマイヤーは首を振った。そしてアリアナに何を盗られたのか尋ねた。

「書類よ。それにUSB。 今朝、ケツァル少佐がくれたの。」
「それなら・・・」

とクルーニーがキッチンを指差した。

2021/06/27

はざま 11

「誤解がない様に申し上げておきますが、私達は能力で人を殺害したりしません。」

と少佐がシオドアに無用な警戒心を持たれまいと言い訳した。

「人間の体に直接力を加えて怪我をさせたり死なせたりするのは大罪です。リオッタ教授は上の階から落ちて来た植木鉢に当たって階段から落ちたのです。それが目撃者の証言です。」
「植木鉢を落とした人間がいるのだろう?」
「それは証言の中にありません。」
「過去に飛んで現場を見ることは出来ないのか?」
「見てどうするのです?」

 そうだ、どうなるのだ? 犯人は捕まらない。犯人が直接植木鉢を落としたとしても、証拠も目撃者もいない。もし念力の様な力で植木鉢を落としたのなら尚更だ。

「君はその暗殺者から俺を守る為に、過去の村へ俺を飛ばしたのか? 研究所から隠す目的の他に?」
「スィ。彼等は貴方がリオッタ教授と親しかったことで貴方を警戒していました。」
「その暗殺者は大勢いるのかな?」
「多くはありません。一族に害を為す者を排除することに特化された集団で、”砂の民”と呼ばれます。普段は一般の人に紛れて暮らしています。出身部族は様々です。」

 シオドアはひどく疲れを感じた。朝から太陽を背負って歩き続け、夜は”ヴェルデ・シエロ”の説明を受けた。3日程眠りたい気分だった。

「そいつらに気に入られなければ、俺はセルバ共和国で暮らせないんだな?」
「貴方が過去を全て捨てる覚悟がおありなら、彼等も考えるでしょう。」
「俺の過去を全て? 記憶だけでなく?」
「遺伝子の研究・・・」
「それは捨てた。」
「でも北米から女性の博士が貴方を探しに来ています。」
 
 またダブスンだ、と思った。しかし、少佐は別の人を示唆した。

「若くて綺麗な方ですよ。スペイン語はお得意ではない様ですが。」
「まさか・・・アリアナ?」
「スィ、今日の午後文化保護担当部に来られました。」
「1人で?」
「スィ、お一人で。」
「俺を探しに?」
「そう仰っていました。大使館に貴方の捜索願いを出されたそうです。」

 チェッ、余計なことを、とシオドアは舌打ちした。捜索などされたら、また目立ってしまう。

「他には何か言ってなかったか、彼女?」
「ノ。でも直ぐに帰国されるでしょう。貴国の大使館は我が国の警察も軍隊も動かせません。」
「だが、世界的に有名な情報局はある。」

 ステファン中尉が鼻先でフンと笑った。CIAがなんぼのもんだ、と言う笑いだ。
 少佐が何かを思い出した様に言った。

「大学の貴方の研究室からファイルとUSBを少し持ち出しておいたのですが、それを彼女に預けました。”砂の民”が破壊する前に貴方に返そうと思ったのです。いけなかったでしょうか?」
「どんなファイル・・・って遺伝子の分析ファイルだな・・・」

 本国から重要なファイルは持って来なかった。だがこっちで考えた理論や計算式が書き留めてある。研究所の連中に見られたくなかった。

「少佐、一つ頼まれてくれないか? これ以上の我儘は2度と言わないから。」

 彼は決心したことを言葉に出した。

「アリアナに渡したファイルとUSBを破棄してくれ。跡形もなく消してくれ。あれには”ヴェルデ・シエロ”の1人だと思われるサンプル”7438・F・24・セルバ”に関する俺の推論と遺伝子分析図が入っている。あれを研究所の連中に見られたくない。」


はざま 10

 「貴方をこの国に住まわせて良いものかどうか、判断するのは私達ではありません。」

と少佐が申し訳なさそうに言った。

「部族の長老達が決めることです。」
「年寄りが決めるのか・・・」

 何となく理解した。研究所でも研究の方針を決めていたのは、ワイズマン所長やライアン博士、ホープ将軍などの上層部、ずっと年長の人々だった。シオドアやエルネスト、アリアナ達は彼等が許可しなければ好きなことが出来なかった。興味を抱くものを見つけたら、それが他の研究にどんなメリットがあるのか、実験や方程式で証明して見せなければならなかった。
 ステファン中尉が躊躇しながら口を挟んだ。

「貴方は目立っていましたから、許可をもらえるのは難しいかと・・・」
「俺が目立った?」
「スィ。”曙のピラミッド”に近づきました。」

 何だか遠い昔の話の様に思えた。まだ一月も経っていないじゃないか。

「ピラミッドに近づくことがタブーだと言うことは聞いた。だけど、そんなに大事かい?」
「タブーを犯したこと自体は、もう時効です。貴方はタブーをご存知なかっただけですから。しかし、ある御方が貴方に興味を抱いてしまわれたのです。」
「ある御方?」

 少佐と中尉が目を合わせた。今度は、誰が言うか押し付け合っている様に思えた。やがて少佐が溜息をついて打ち明けた。

「ピラミッドに住まうママコナです。」

 伝説の巫女だ。シオドアは巫女が実在するのかと驚いた。

「ママコナが何故俺に興味を抱くんだ?」
「貴方が彼女の結界を破ってピラミッドに近づけたからです。貴方は何者かと彼女が私達に問いかけて来ました。」

 ステファン中尉が苦笑した。

「私は白人の血が入っているので、ママコナの声は聞こえても言葉を聞き取れません。頭の奥で何か蜂がブンブン唸っている感じで、煩いだけなのですが、少佐やロホやアスルの様な純血種の人々は言葉が理解出来るだけに却ってウザイらしいです。」
「それはテレパシー?」
「多分、そうでしょう。ママコナだけが使えるのです。」

 一瞬少佐と中尉が目で会話した。何か相談したのか、とシオドアは思った。まだ彼等は隠していることがいっぱいあるのだ。何処までシオドアに打ち明けるべきか話し合っているのだろう。少佐が2本目のビールを半分まで空けて、ママコナに言及した。

「現在のママコナはまだ子供です。だから好奇心が強く、何でも知りたがります。彼女の教育は長老達の役目ですが、街中で起きること、貴方がピラミッドの結界を破ったような不測の事態に彼女が興味を持っても長老達は応えられません。彼女は在野の一族に質問の答えを得られる迄何度も問いかけて来ます。」
「それは迷惑な巫女様だな。」
「今回は、私が貴方は偶然入り込んだ観光客に過ぎないと誤魔化しました。ママコナはそれで満足して問いかけを止めましたが、長老の中に貴方を警戒する動きが見られました。」

 シオドアはハッとした。それで少佐は俺をオクタカス遺跡へ行かせたのか。俺が4日間グラダ・シティを離れていれば、ママコナは俺を完全に忘れ去り、長老も忘れるだろうと踏んだのか。ステファン中尉は本当に俺を護衛していたのだ。

「もう俺は巫女様から忘れられたのだろう?」
「それが、もっと厄介なことが起きてしまいました。」

 少佐がステファン中尉を見た。中尉がシオドアに説明した。

「オクタカス遺跡で、消えた村の話が出ましたね。覚えておられますね?」
「スィ。ボラーチョ村だったね。」
「グラダ大学のイタリア人が興味を抱きました。」
「リオッタ教授だ。うん、何だか知らないけど、ご執心だった。」
「あの人は村の情報を集めようと熱心過ぎました。」

 シオドアはリオッタ教授を国立民族博物館の前で見かけたことを思い出した。あの時は考古学の先生だから博物館を訪問するのは当たり前だと思った。

「消えた村は実在しました。」

と中尉が言った。

「我々が生まれる前の出来事なので、私は詳細を知りません。私が生まれた街に、その村から出稼ぎに来ていた人々がいました。彼等は故郷が消えてしまったことを知っていました。悲しんでいましたが、村の話を家族以外に話すことはタブーになっていました。」
「待てよ・・・」

 シオドアは中尉を見つめた。

「それを知っているってことは、君の家族も消えた村の出稼ぎ組だった訳だ?」
「スィ。母方の祖父でした。」
「まさか・・・その消えた村は”ヴェルデ・シエロ”の村?」
「スィ。村に何が起きたのか、祖父は知りませんでした。年末の休暇に同郷の人数人で帰省したら、村がなかったと言っていました。」
「集団移住したのかな?」

 シオドアは少佐を振り返った。少佐は肩をすくめた。彼女にも知らないことはあるのだ、と言いた気だった。兎に角、と中尉が話を元に戻した。

「リオッタ教授は消えた村を調査しようと躍起になりました。遺跡の言い伝えなどを知りたいと、村の住人の行方を探していたのです。当然、彼の活動の様子は我々の長老達の耳に入りました。」

 突然、シオドアは嫌な予感がした。”ヴェルデ・シエロ”の村を表立って調査なんかされたら、それまで静かに能力を封印して生きてきた多くの”ヴェルデ・シエロ”が迷惑する。危険に曝される。

「まさか、リオッタ教授は・・・」

 少佐が目を伏せた。

「残念ながら、貴方が私の家に来られた夜に、お亡くなりになりました。」
「・・・」
「彼は文化保護担当部に、村の消失事件を問い合わせて来ました。それで私は初めて、彼が遺跡から戻ってから何をしていたのか知りました。その直後に、長老の1人から連絡が入りました。蠅を1匹叩く、と。」
「蠅だと?!」

 シオドアは思わず立ち上がった。

「リオッタ教授を蠅だと言ったのか?」
「ドクトル、落ち着いて下さい。」

 ステファン中尉が声をかけた。

「純血至上主義者は冷酷な言葉で人々を呼びます。私の様なメスティーソを”出来損ない”と呼ぶのです。彼等にとって人間は純血の”ヴェルデ・シエロ”だけなのです。」
「古代の神様の中にもファシストがいるんだな。」

 シオドアは精一杯皮肉を言った。
 少佐が顔を上げた。

「私は数日の猶予を願いました。仕事柄、教授が悪い人ではないと知っていましたから、助けたかったのです。しかし、長老は、私が目を瞑らなければ、私の”出来損ない”の部下を殺すと脅して来ました。」

 え?とシオドアはステファン中尉を見た。中尉が言った。

「私は自分で身を守れます。しかし、デネロス少尉はまだ現場に出たことがなく、実戦経験がありません。少佐は彼女を守る為に、リオッタ教授に警告のメールを送られました。即刻国外退去せよと。」
「リオッタは従わなかった・・・」
「理由がわからないのですから、無理もありません。ただの嫌がらせと受け取ったのでしょう。」
「俺が少佐のアパートでご馳走を食って、アスルに眠らされている間に教授は・・・」
「アパートの階段から落ちたそうです。」

 落とされたのだ。シオドアは目を閉じた。


 

はざま 9

 「ほらね」

とケツァル少佐がステファン中尉に話しかけた。

「この人は、常識では考えられないことが目の前で起こっても、ちっとも驚かないでしょう?」

 中尉が頷いた。

「ちょっと異常です。」
「俺が異常なら、君達は何なんだい?」

 シオドアは不機嫌になって、大きな口を開けてタコスにかぶりついた。チリコンカンは完食していた。少佐と中尉はタコスを食べ終えようとしていた。軍人達は食べるのが早かった。訓練されているのだろう。中尉がビールを一口飲んでから反論した。

「私達は常識で考えられないものを見たら、驚きます。」
「君達の常識の範囲がわからないね。」
「生まれた時から見聞きしてきたものです。」

 シオドアはタコスを皿に置いた。

「何を見聞きして来たんだ? 悪霊の煙か? 不快な臭い? 一晩で消えた村? ケネディがまだ生きている時代か?」

 少佐が溜息をついた。

「ドクトル、私達の一族は、あなた方白人がこの土地に来る前から、ここにいました。」
「知ってる。」
「あなた方が理解出来ない、理解しようとしない宗教を持っていましたし、今もカトリックの信仰の陰でそれは活きています。」
「それも知っている。」
「あなた方はキリスト教や科学の知識でものを考えます。でも私達はそうではありません。古代の宗教でものを考えます。」
「古代の宗教を信じているから悪霊や呪いが見えたり聞こえたりするって言いたいのか? そんな筈はない。俺は見えるし、嗅げるし、聞けるんだ。」

 シオドアは彼女の目を見つめて訴えた。

「俺は君達の遺伝子とよく似た構造の遺伝子を持っているんだ。北米の研究所へ戻っても、誰も同じ人間はいない。独りぼっちだ。だから、この国で暮らしたい。しかし、この国の人は外国人に対して壁を作っている。俺を仲間に入れてくれない。
今朝まで俺がいた村・・・俺がケネディが半世紀前に死んだと言ったら、未来の話をする人間は置いておけないと言われた。半世紀前の事件が、未来の出来事なんだぜ。俺は現代のセルバにもアメリカにも、過去のセルバにも居場所がないのか? 君達の仲間って、どんな人々なんだ? 俺とどう違うんだ? 教えてくれよ。」

 少佐がステファン中尉の目を見た、中尉も彼女の目を見返した。これだ! とシオドアは思った。

「君達、お互いの目を見るだけで意思疎通が出来るんだろう? 今、君達は話し合ったんだろう? 俺に何処まで真実を話そうかって・・・」
「違います。」

 少佐が苦笑した。

「貴方がどうやって半世紀前の村から戻って来られたのだろうと、話していたのです。」

 シオドアは彼女を見て、中尉を見た。

「やっと認めた・・・」
「貴方もしぶとい人ですね。」
「先に村を脱出した手段を教えて下さい。後学の為に。」

 それでシオドアは太陽を背中に背負う形を保ってひたすら歩けと教えられたことを語った。ニートの名前は伏せた。村人の話し合いで決まったことだから、伏せる必要はなかっただろうが、万が一のことを考えた。ニートはJ・F・ケネディが暗殺されることを知ってしまったのだから。少佐も中尉も尋ねなかった。互いに余計な情報を得ないこと、それが暗黙の了解なのだろう。
 シオドアが語り終わると、少佐は温くなったビールを飲み干した。ステファン中尉はタバコを出したが、少佐の視線に気がついてポケットに仕舞った。彼の家なのだから遠慮せずに吸えば良いのに、とシオドアは思った。

「簡単そうで難しい方法ですね。」

と少佐が感想を述べた。中尉が相槌を打った。次は君達の番だ、とシオドアは彼等を見た。少佐が外国へ行くみたいに言った。

「異なる時間へ行き来するのは難しいのです。出来るようになるまで、かなりの修行が必要です。過去へ行くのは簡単ですがルールを守らないと命を縮めます。未来へ行くのはエネルギーの消耗が激しいのです。だから過去へ行った人が元の時間に戻るのは命懸けです。そして元の時間から未来へ行くことは固く禁じられています。破ると死が待っています。」
「村人は、俺をあの村へ連れて行ったのは、アスルだと言った。」
「アスルはオクターリャ族の戦士の家の生まれですから、時間を跳ぶのは私達より上手です。それに、私達は普通心だけを飛ばします。体は元の時間に置いたままです。オクターリャ族は体も飛ばせます。ですから、気絶した貴方を連れて行ったのです。違う時間帯なら、貴方が言う研究所も貴方を見つけられないでしょう?」

 確かにそうだ。誰がタイムトラベルなど信じるか。

「目を見合わせて話すのは? テレパシーなんだろ?」
「あなた方の言葉ではそう表現するのでしょう。私達は”心話”と呼びます。これは生まれつき出来るので、私達には当たり前のことです。大昔に敵に聞かれないように会話する方法として発達させたのだと考えられています。”心話”は互いの目が見える範囲で行われます。遠くに離れると使えません。ですから、あなた方が言うテレパシーとは違います。」
「それでも十分凄いさ。」

 シオドアはステファン中尉が何か言いたそうな顔をしたことに気がついたが、少佐は構わずに話し続けた。

「私達にとって目は大切な伝達手段であり、武器でもあります。貴方を気絶させたのも、貴方がアスルの目を見たからです。相手を傷つけずに動けなくする手段として、目を合わせて眠らせます。でも、貴方にはなかなかそれが効かなかったので、部下達が困っていました。」
「つまり、俺が悪霊を見たりするのを防ぎたかったけど、上手く行かなかった?」
「そうです。」

 少佐はキッチンを振り返った。彼女が言いたいことが、目を見なくても伝わったのだろう、ステファン中尉が席を立って、新しいビールを取ってきた。テーブルの角で栓を開けて、少佐はビールを飲んだ。

「私達は一般の人々に彼等と違うところを見られたくありません。ですから、出来るだけ力を使わない様にしていますし、使った後は痕跡を消します。下手を打つと一族が危険に曝されますから、痕跡の始末が悪いと制裁を受けます。」

 それじゃ・・・とシオドアは考えた。

「俺が君達の力を見てしまって、言葉にしてしまうと、君達に迷惑がかかる?」
「スィ。」
「だけど、大統領警護隊を恐れている人々って結構多くない? 彼等は君達の力を知っているんだろ?」
「一般人は、大統領警護隊が”ヴェルデ・シエロ”と話が出来ると信じています。古代の神々です。だから、大統領警護隊に逆らわない。」

 シオドアは、可笑しくなった。少佐とステファン中尉を交互に見て、ズバリ言ってみた。

「大統領警護隊は”ヴェルデ・シエロ”と話が出来るんじゃない、”ヴェルデ・シエロ”そのものなんじゃないのかい? セルバ人は常識としてそれを知っているんだ。国全体を挙げてデカイ秘密を抱えているんだよ。」

 少佐、とステファン中尉が上官を呼んだ。

「この男を食ってしまいましょうか?」
「出来っこないことを言うのではありません。」

 シオドアは優しい神々を眺めた。そして右手を掲げた。

「君達の秘密を言葉に出して言わないと誓う。遺伝子の研究も止めた。だから、この国に留まらせて欲しい。駄目かな?」



 

はざま 8

  大学の門前に来て、シオドアは立ち止まった。今は西暦何年何月何日なのか、確認した方が良いんじゃないか? それに・・・手を己の顔に当てて見た。髭面で泥だらけで、血も付いている。服は汚れてボロボロだ。グラダ・シティのスラム街でもこんなボロボロの人はいない。ホームレスだってもっとましな格好をしている。空腹で喉も乾いていた。アパートに帰るべきか? しかしシュライプマイヤー達がいるだろう。またアメリカに連れ戻されたら、2度とセルバ共和国に戻って来られない。
 通りをトボトボと歩いていた。すれ違う人々が胡散臭そうに彼を振り返って見ている。警察に通報されるかも知れない。夕暮れ時だった。飲食店から美味そうな匂いが漂ってくる。アメリカに戻される前に空腹で野垂れ死ぬかも知れないな、と思った時、一台のビートルが横を通った。ビートルは数10メートル先で停止した。シオドアがゆっくり近づいて来るのを待つが如く、停止灯を点滅させていた。シオドアは博物館に展示されていそうな古い車をぼんやり眺めながら近くまで歩いて行った。
 運転席側のドアが開き、男が1人降りて来た。腕組みをして立つと、シオドアを眺めていた。街頭の薄灯で、シオドアはやっと彼が知り合いだと気がついた。

「ヤァ、ステファン中尉、久しぶり・・・」

 軍服を着ていない中尉を見るのは初めてだったが、ゲバラ髭を生やした虎の様な顔はステファンに間違いなかった。

「そんな格好で、何処から来たんです?」

とステファン中尉が尋ねたので、シオドアは思わず噛み付いた。

「何処から? 知っているくせに! 俺は今朝まで・・・」

 空腹だったので力が入らなかった。怒鳴った為にエネルギーを使い果たしたようだ。彼はよろめいて、中尉に抱き止められた。

「俺は1960年代のジャングルにいたんだ。」
「ああ、そうですか。」

 ステファン中尉は、そんなのどうでも良い、と言う口調で聞き流し、シオドアを車の反対側まで誘導して、助手席に押し込んだ。周囲を素早く見回し、運転席に乗り込むと発車させた。シオドアは車内に残るタバコの匂いを嗅いだ。ジャングルで嗅いだ匂いだ。なんて言う銘柄だろう。
 ビートルは首都の交通量の多い道路を走り、やがて大きなロータリーで方向を90度変えて、静かな区画へ入った。角をいくつか曲がると次第に建物の様子が変化して、近代的大都市から植民地時代の影響が残る旧市街地の住宅地へと入った。
 石造の建物の前でステファン中尉はビートルを駐めた。着きました、と言われてシオドアは車から降りた。中尉に導かれるまま階段を登った。手摺りが付いているのが嬉しかった。古い商社か何かの建物をアパートに転用した感じで、階段は中央にあり、各階毎に部屋が左右に2つずつあった。ステファン中尉の部屋は3階だった。ドアを開けると、階段にいた猫達がシオドアより先に部屋に入って行った。最後にシオドアが入ると、中尉は廊下が無人であることを確認してドアを閉め施錠した。
 シオドアはひどくくたびれていたが、中尉がシャワーを浴びて下さいと言った。キッチンの横にバスルームがあり、こんな古いアパートにしては珍しくお湯のシャワーだった。シオドアはバスルームで体に食らい付いていた虫を引き剥がし、血を洗い流した。泥も取って、石鹸で体をこすり、髪も洗った。生き返った気分で、いつの間にか中尉が用意してくれていたシャツと短パンに着替えた。体格が似ていたので、新しい服を手に入れる迄は何とかなりそうだ。
 床の上で猫達が餌をもらって食べていた。ステファン中尉はキッチンで缶詰のチリコンカンを温め、パンを切って夕食の支度をしていた。家政婦の賄い付きのケツァル少佐のアパートとは大きな差だ。
 壁にセルバ共和国の地図が3枚貼ってあった。1枚にはピンがいっぱい刺してあり、どうやら遺跡の場所らしい。もう1枚は別の色のピンで、何の場所なのかわからないが、主に山岳地帯に刺してある。最後の1枚も違う色のピンでジャングルや山岳地帯に刺してあるが、シオドアはその位置に覚えがあった。エル・ティティ警察にも似たような箇所に印を付けた地図があったのだ。これは反政府ゲリラの出没地点だ。
 隣の部屋にベッドがあり、その横の壁は写真がいっぱいだった。シオドアはプライベイトな空間を覗くのは失礼だと思いつつ、その写真に目を遣った。若い男女が写っている写真ばかりだ。私服姿も軍服姿もあるが、写っていたのはシオドアも知っている人々だった。ロホにアスルにケツァル少佐、ステファン中尉に、初めて見る若い女の子。整列してたり、何処かの遺跡で壁の上に座っていたり、ふざけているのかスーパーマンの様なポーズを取っていたり・・・学生の記念写真みたいだ。
 食事の用意が出来たと告げられて、シオドアはテーブルに着いた。形ばかりのお祈りを捧げ、やっと食べ物にありつけた。シオドアは夢中でガツガツ食べた。まるで2日間何も食べなかった様にお腹が空いていた。ステファン中尉が愉快そうに眺めていた。

「まるで何日も食べていなかったみたいですね。」
「今朝食べたっきりだったからね。君も早く食べなよ。」
「私は少佐を待っています。」

 シオドアは手を止めた。ケツァル少佐がここへ来るのか? 嬉しいような怖いような気がした。彼女がアスルに命じてあのジャングルに彼を閉じ込めたのだ。ここにいて良いのだろうか。

「ステファン中尉、今日は何月何日だ?」

 中尉の返事を聞いて、シオドアは混乱しそうになった。彼はジャングルの村に13日いて、14日目の朝に太陽を背に脱出したのだ。しかし、ステファン中尉が言った日付は、彼がケツァル少佐のアパートで食事をした日から4日目だった。
 その時、ドアをノックする音が聞こえた。中尉がシオドアに手でそのままと合図して静かにドアへ歩み寄った。

「何方?」

 女性の声が応えた。

「ジョ。(私)」

 中尉は解錠し、ドアを半分だけ開いた。ケツァル少佐が滑り込んで来た。中尉はドアを閉め、再び施錠した。
 シオドアはお茶代わりに出してもらっていたビールで口の中の物を流し込み、ヤァと言った。少佐は頷き、持って来た2つの包みをステファン中尉に渡した。中尉は大きい方を隣の部屋へ持って行き、ベッドの上に投げ置いた。小さい方はテーブルの上で、良い匂いがしたので、シオドアは勝手に開いた。タコスが入っていた。

「食べて良いですよ。」

と少佐が言った。彼女は空いている席に腰を落ち着けた。

「でも、私はカルロの為に買って来たんです。それを忘れないで。」

 しかしタコスはしっかり3人分だった。ステファン中尉が席に着くと軍人達は食事を始めた。シオドアは少佐に話しかけた。

「俺はジャングルの奥の村で14日いたんだが、中尉に今日の日付を訊いたら、俺が君の家でご馳走になってから4日しか経っていないそうだよ。」
「そうですか。」
「俺を隠してくれたことは有り難いと思っている。だけど、過去に飛ばすのは、ちょっとやり過ぎじゃないか?」
「他に隠す場所を思いつかなかっただけです。」

 ケツァル少佐は手を伸ばしてステファン中尉の口元に付いたサルサソースを指で取り、ペロリと舐めた。シオドアは上官が部下に対して取るには親密すぎるその行為にびっくりした。ステファン中尉も心なしか薄暗い照明の下で赤くなった。
 シオドアは何だか自分が照れ臭くなったので、急いで言った。

「アスルは時間を跳躍出来るのか?」

 

はざま 7

 シオドアはジャングルの中を歩いていた。常に背中に太陽を、とアドバイスされたが、これがなかなか難しい。樹木が茂り、空が見えない深い森だ。それに虫が多かった。ヒルも樹上から落ちてくる。ニートに教えてもらった虫除けの草がいつも生えているとも限らないし、瓢箪の水筒に入れた飲水は残りが少ない。だが彼は歩き続けなければならなかった。
 シオドアが村に来て13日目に、ニートが小屋へ訪ねてきた。

「大人達と話し合った。 」

と彼は切り出した。

「貴方は、遠い未来から来た。貴方が未来のことを何も話さなければ、ここで暮らしても構わなかった。だが、貴方はケネディが死んだと言った。」

 シオドアは彼が何を言わんとしているか察しが付いた。

「俺がここにいると歴史が変わるんだな?」

 ニートが悲しそうに頷いた。

「ここは貴方の世界からは絶対に見えないし、誰も来られない。しかし貴方は時間の掟を破った。これは無知では済まされない問題だ。」
「俺が言ったことを他の人に君は伝えた?」
「ノ。俺はただ大人達に、貴方が未来の出来事を喋ったと伝えた。彼等は俺に口を閉じているよう命じた。」
「君の安全のために。」
「スィ。そして村の安全の為に。」
「そして、俺をこれ以上村に置いておけないと結論を出したんだね。」
「スィ。」

 ニートはシオドアを見つめた。

「皆んな貴方が好きだ。だから、貴方を元の世界に戻した方が良いと考えている。貴方が危険から逃れる為にここへ連れてこられたことは、知っている。でも時間の掟を破れば、恐ろしい罰を受ける。」
「わかった。元の世界に帰る。方法を教えてくれ。」

 夜明けに太陽を背中に負う形で村を出るように、と言われた。常に背中に太陽を背負って歩く。立ち止まっても良いが、振り返ってはいけない。ひたすら歩け。
 村を出る前に、シオドアは最後の質問をした。

「誰が俺をここへ連れて来たんだい?」

 ニートがニッコリ笑って教えてくれた。

「キナだ。オクターリャ族の英雄、キナ・クワコだ。」

 アスルが本当は何歳なのか、考えるのは止そう。あの男は時空を飛んで俺を過去のジャングルへ運んだのだ。1960年代のセルバ共和国だ。本当にそうなのか? ニートは芝居をしていて、村人が俺を養うことに疲れて追い払ったのではないのか?
 時計を持っていなかったので、何時間歩いたのかわからなかった。太陽を背中に、は随分と難しい課題だ。太陽は東から上って西へ沈む。だから彼は西へ向かい、北を向いて、東へ歩く筈だ。夜はどうすれば良い? 何時日が沈む? 
 ニートがくれた干し肉を食べ尽くした。水筒は空っぽだ。水を汲みたいが、水場を探せば「太陽を常に背に」を守れなくなる。暑いし、痒いし、痛い。
 あと半時間歩いたらぶっ倒れてしまう、と思った時、前方に明るい光が見えた。文明の灯りか? 彼は走り出した。最後の気力だ。背中に太陽がいるのかどうか、確認もしなかった。足がもつれて、前のめりに転倒した。
 目の前を大きなトラックのタイヤが通り過ぎた。クラクションが鳴り響き、彼は熱いアスファルトの路面に倒れていた。慌てて身を起こしたら、いきなり後ろから服を掴まれて引き摺られた。

「危ないじゃないか!」

 スペイン語で誰かが怒鳴った。振り返ると、大勢の通行人が彼を取り囲む様に見ていた。シオドアは周囲を見た。見覚えのある風景だ。向こうに見えているのは、グラダ大学の正門じゃないか!

「戻った・・・」

 彼は呟いた。

「俺は戻ったんだ・・・」


 

はざま 6

  エステベス大佐の部屋にエステベス大佐はいなかった。それどころか、がらんとした小部屋にあるのは、何も載っていない折り畳みの机とパイプ椅子が数脚だけだった。少佐が書類とUSBを机の上に置き、アリアナに尋ねた。

「ドアを閉めますか、開放しておきますか?」
「閉めます。」

 アリアナは自分でドアを閉じ、パイプ椅子を開いて座った。机の反対側に少佐が座った。そしてやっと自己紹介した。

「初めまして。シータ・ケツァル・ミゲール、大統領警護隊文化保護担当部の指揮官少佐です。公式にはミゲール少佐ですが、ケツァルで通ります。」
「アリアナ・オズボーンです。アメリカ政府管理の国立遺伝病理学研究所で遺伝子の研究をしています。」
「今日はどの様なご用件でしょう?」

 アリアナは単刀直入に用件に入った。

「今朝、シオドア・ハーストの行方不明の件でケビン・シュライプマイヤーと言う男性が貴女を訪ねて来ましたね。私の用件も同じです。ハーストの行方を探しています。彼が何処にいるのか、ご存知ありませんか?」

 すると少佐は彼女が意外に思う質問で返してきた。

「どうしてあなた方は彼を探しているのですか?」
「どうして?」

 アリアナはちょっと腹が立った。

「彼は私と同じ研究所で生まれ、育ちました。兄妹の様なものです。行方がわからない兄妹を探すのは当たり前でしょう?」
「兄妹なら、彼が今何処にいるのかわかるのではないですか?」
「はぁ?」

 アリアナは相手の言葉が理解出来なかった。この人は何を言っているのだ? するとケツァル少佐がフッと溜息を付いた。

「普通の人なんですね。」

と呟いた。

「どう言う意味ですか?」

 すると少佐はアリアナがびっくり仰天する様なことを言った。

「ハースト博士は、彼と貴女が遺伝子組み替えで生まれた人工の人間だと言いましたよ。」
「彼がそんなことを?!」

 ショックだった。シオドアは国家機密を外国の軍人に喋ってしまったのか? 考古学関係の事務仕事をしていても、この女性は軍人だ。狼狽えたアリアナは必死で言い訳を考えた。

「彼は事故に遭って頭が少し混乱しているのです。確かに私達は遺伝子組み替えを行っていますが、微生物のDNA研究で、ワクチンなどの開発をしているだけです。人間の遺伝子を組み替えるなんて、倫理に反したことをする筈がないじゃないですか!」
「そうだとよろしいのですが。」

 ケツァル少佐が薄笑いを浮かべた。

「我々インディヘナも古代からジャガイモやトウモロコシの遺伝子組み替えを行って作物の品種改良をして来ましたからね。」

 彼女は机の上に置いた書類とUSBをアリアナの方へ押し出した。

「ハースト博士はセルバ人労働者の血液サンプルから奇妙なものを見つけたと仰っていました。何かご存知ですか?」
「”7438・F・
24・セルバ”のことですか?」


 言ってから、アリアナはしまったと思った。シオドアはあの血液サンプルの提供者を探しに行って災難に遭った。2度目もあったのかも知れない。自分達の遺伝子がアメリカの国家機密ならば、あの血液サンプルはセルバ共和国の国家機密であってもおかしくない。シオドアがそれに触れてしまい、セルバ共和国政府の怒りを買ったのなら? ケツァル少佐がその始末をする人だったら?
 アリアナの恐怖を感じ取ったのか、少佐が椅子の背にもたれかかって、リラックスした態度を見せた。

「私も部下達も彼の講義は難しくて理解出来ません。しかし彼の研究にあまり良い印象を抱かない人もいます。彼が彼等を怒らせた可能性もあります。彼はもう遺伝子に興味がないと言っていました。その言葉を信じない人々が彼の研究を妨害しようとした可能性も考えられます。」
「では、彼はもう・・・?」
「何処かに隠れているか、あるいは・・・」

 それ以上は言わずに、ケツァル少佐は書類をアリアナの前に更に押し出した。

「大学の彼の研究所にあったものです。私には古代文字の解読より難しい。貴女に持っていて頂いた方が、彼も喜ぶでしょう。」

 アリアナは書類をパラパラとめくって見た。塩基配列の図や計算式がぎっしり書き込まれていた。何のことか判読するのは時間がかかりそうだ。

「ハースト博士の捜索願いは出されましたか?」
「大使館に行方不明届けを出しました。」
「私から内務省にも働きかけておきましょう。全国の警察に手配をかけてもらいます。」
「有り難う。」

 もしかして、ケツァル少佐は良い人? アリアナは少し希望を持てた気になった。

「大統領警護隊と言うのは、どの省庁の管轄ですか?」

 ちょっとした質問だ。少佐が立ち上がってドアまで行った。

「大統領直轄の軍隊です。国防省と関係はありませんが、3軍の指揮権を場合によっては任せてもらえます。希望はしません。そんなことがあれば、国家の危機ですからね。ところで、帰国される迄貴女に護衛を付けたいと思いますが、よろしいですか?」

 アリアナは戸惑った。

「ハーストの護衛をしていた男性達がいますが・・・」
「ああ・・・」

 ケツァル少佐はシュライプマイヤーを思い出したらしく、鼻先で笑った。

「あの人では貴女を守りきれません。」

 それはどう言う意味か、と訊く前に少佐がドアを開いて、「マハルダ!」と外に声を掛けた。はい!と元気良い声が応えて、部屋の前に若い女性が駆け寄った。先刻は室内にいなかった女性だ。ケツァル少佐より若く、綺麗な黒髪をポニーテールにして後ろに垂らしている。彼女もカーキ色のTシャツにジーンズだった。キラキラ輝く陽気な目をしていた。少佐が紹介した。

「マハルダ・デネロス少尉です。少尉、こちらはアリアナ・オズボーン博士です。アメリカへお帰りになる迄護衛を命じます。」
「ウン プラセール コノセールテ!」(よろしく!)

と言って、デネロス少尉が手を差し出したので、アリアナは立ち上がって彼女の手を握り返した。何だか安心出来る暖かな手だった。


 

はざま 5

  アリアナ・オズボーンは自国の役所も外国の役所も彼女自ら出かけたことがない。だから雑居ビルの前にシュライプマイヤーが停車して、ここが文化・教育省です、と言った時は冗談かと思った。ボディガードの説明に従って入り口にいる女性軍曹にパスポートを提示し、リストに名前を記入した。軍曹がラップトップに彼女の氏名を入力し、入館パスを発行してくれた。シュライプマイヤーが彼女に続こうとすると、軍曹は彼を引き留めた。

「身分証。」
「今朝も来たじゃないか。」
「身分証。」

 顔パスは通じない様だ。アリアナは早く目的の人物に会いたかったので、彼に外で待機してくれと頼んだ。シュライプマイヤーは仕方なく承知し、少佐は4階です、と教えた。
 階段を上りながら、アリアナはケツァル少佐はどんな女性だろうと想像してみた。シオドアが女友達のことを話すような感じで彼女を語ったことはなかった。何か世話になった人、頼りになる人、と言う口振りだった。きっと大柄でどっしりとした体格の南米女だろう、と彼女は想像した。シオドアが惹かれるタイプではない筈だ。彼は細身でキリリっとした顔立ちでロングヘアの女性が好みだった。私みたいに・・・。
 3階と4階の中間の階段が折れ曲がったところにトイレがあった。トイレであることは分かった。壁の表示は M と H、一文字ずつだった。アリアナは立ち止まり、考えた。女性用はどっち?  そこへ下から上がって来た男性が彼女をチラリと見て、H のドアの向こうへ消えた。 そうか、hombre (男性)とmujer (女性)か! 空港のトイレ表示と違っていたので、迷ってしまったのだ。空港では caballero (紳士)と dama(淑女)だった。彼女は女性用に入った。昂った気分を鎮めるために化粧直しをしたかった。
 トイレの中は清潔だった。掃除が行き届いており、開発途上国のトイレは汚いと言う彼女の偏見を払拭してくれた。綺麗な鏡の前に立った時、後ろの個室から水を流す音が聞こえた。先客がいた。アリアナがパフで顔を軽く叩いていると、個室から若い女性が出て来た。細身でキリリっとした顔立ちの先住民で、黒いロングヘアは艶々だった。背はアリアナほど高くなかったが、アメリカ女性の平均身長より低くもない。カーキ色のTシャツとジーンズ姿で、アリアナの隣に立って手を洗った。ラフな服装だが、職員だろうか、客だろうか、と彼女はぼんやり考えた。綺麗な人だわ。

「何でしょうか?」

 突然女性の方から声をかけて来て、彼女はびっくりした。ドキドキした。向こうは直接こっちを見ている。アリアナはハンサムな男性に声を掛けられた様な気分で、狼狽えた。思わず英語で応じた。

「考え事をしていました。貴女を見ていたのではありません。」
「遠くから来られたのですか?」

 アリアナは気が動転していたので、相手が英語に切り替えたことに気づかなかった。

「ええ・・・あの、ケツァル少佐に面会に来ました。彼女は席にいますか?」
「今は席にいません。」

と女性。

「戻られるまで待ちます。」
「アポは取っておられますか?」
「いいえ、今日、この国に来たばかりです。」

 アリアナはパスポートを出した。目の前の女性はこの役所の職員だろうと見当が付いた。女性は彼女のパスポートを開いて眺め、直ぐに返してくれた。

「4階は考古学関係の部課です。遺跡発掘の申請ですか、それとも見学ですか?」
「違います。」

 アリアナは本当の用件を無関係の人間に言いたくなかった。少し迷ってから、研究所のI Dを出した。

「これをご覧になれば、少佐は私に会って下さる筈です。」

 女性は関心なさそうに彼女の身分証を見て、それから手を振った。

「ご案内します。ついて来なさい。」

 トイレから出て4階へ上がると、広い空間で大勢の職員が事務仕事をしていた。大声で電話相手に怒鳴っている男性や、カウンターで職員相手に喋りまくっている女性、旧式のタイプライターを叩いている初老の職員、その横のパソコンで何やらCGを用いて遺跡の立体地図を表示して数人に見せている女性・・・。 想像したより賑やかな場所だった。
 アリアナを案内してくれた女性は、カウンターの奥に目を遣り、すぐにアリアナに向き直った。

「アンティオワカ遺跡は既に受付が終了しています。見学だけでしたら、グラダ大学考古学部に申し込めばすぐに許可が下りるでしょう。こちらから連絡を取りましょうか?」

 何のことだろう? アリアナは一瞬ぽかんとした。意味がわからない。しかし、女性がウィンクした。イエスと言え、と言われた気がした。彼女は言った。

「ええ、お願いします。」

 女性はアリアナをカウンターの中に招き入れ、一番奥の区画へ案内した。書類が山積みされた机が5つ集まっており、男が3人いた。
 1人は女性と同じカーキ色のTシャツにジーンズ姿の若い男性で、まだ幼く見える顔立ちだった。もう1人はベージュの開襟シャツにジーンズで、火が点いていないタバコを咥えていた。ゲバラみたいな髭を生やしているが、これも若い。この2人はパソコンで作業中だった。最後の男は、ちょっと異なる雰囲気を漂わせていた。黒いTシャツの上に白い麻のジャケットを着込み、白い麻のズボンを履いている。靴も白い革靴だ。この中年の男性と若い男は先住民の顔立ちだった。髭面はセルバ人の平均的な人種メスティーソだろう。白人の要素が濃い顔立ちだ。
 ジャケット姿の男が近づく2人の女性を見て、椅子から立ち上がった。右手を左胸の心臓のあたりに置いて、頭を下げた。

「今日もご機嫌麗しく・・・」

 アリアナは彼のスペイン語を全部は理解出来なかった。ただ、最後に彼がケツァル少佐と言ったのは聞き取れた。
 え? と彼女は案内してくれた女性を見た。女性は、男の挨拶に返礼することもなく、”S ・Q・ミゲール”とネームプレートが置かれた机の前に座った。彼女は敢えて英語で言った。

「今日は何の御用です、セニョール・シショカ。私はお客様をお待たせしたくありません。1分以内に用件を言わないと、中尉にカウンターの外へ叩き出させますよ。」
 
 アリアナは、男が自分の方を見たので、ドキッとした。男の目は黒く冷たかった。初対面なのに憎悪さえ感じられた。何なの、この男? 気持ちが悪い・・・。
 男が、女性に向き直った。相手の意を汲んだのか、これも英語で答えた。

「オクタカス遺跡の事故の件についての報告を、建設大臣が詳しくお聞きしたいと仰っています。」

 女性が髭面の男性を見たので、髭面の男性が答えた。これも英語だ。

「事故報告はエステベス大佐に提出済みです。大臣は大佐からお聞きになればよろしいかと。」
「大臣は少佐から直接お聞きしたいのだ。」
「私は忙しいのです。」

 少佐と呼ばれた女性は机の上の書類の束とUSBを手に取った。

「見ていない現場の話を大臣に語る暇はありません。語って大臣に理解出来るとも思えない。」

 尊大な態度で彼女は言って、中尉と呼ばれた髭面の男に声をかけた。

「セニョール・シショカがお帰りですよ、中尉。」

 髭面中尉が立ち上がったので、シショカと呼ばれた男も渋々歩き出した。男性2人がカウンターの向こうへ出て行き、階段を下りて姿を消す迄、少佐はその後ろ姿をじっと見つめ、若い男性は全く無関心を装って仕事を続けていた。アリアナはどうして良いのかわからず、その場に立ち尽くしていた。
 少佐が書類とU S Bを持ったまま立ち上がった。

「お待たせしました、こちらへどうぞ。」

 彼女が指したのは、”エステベス大佐”と書かれたプレートが付いたドアだった。


2021/06/26

はざま 4

  その日の午後、北米の国立遺伝病理学研究所からアリアナ・オズボーンがやって来た。メアリー・スー・ダブスンが来ると思っていたシュライプマイヤーはがっかりした。ダブスン博士のことは好きでなかったが、彼女は推しが強い。シオドア・ハーストの捜索に力を入れるよう、セルバの役所に交渉してくれることを期待していたのだ。しかし来たのはアリアナだった。ヨーロッパでの学会には何度も出席しているが、中南米へ来るのは初めての、スペイン語も碌に出来ない箱入り娘だ。

「メアリー・スーは駄目なの。テオが嫌っているから、彼女が来たら絶対に出て来ないわ。」
「すると、貴女はハースト博士が自分の意思で身を隠したとお考えですか?」
「可能性はあるわ。彼は記憶を失ってから、ずっとセルバの話ばかりしていたから。」

 連絡を受けて空港に彼女を迎えに行ったシュライプマイヤーは、最初に駐セルバ・アメリカ大使館へ行った。アメリカ大使は隣国との兼任で、この日は不在だった。書記官にアメリカ市民の行方不明と捜索願を届け出た。シオドアが行方をくらませた当時の状況を説明すると、書記官が顔を曇らせた。

「本件は大統領警護隊が絡んでいるのですか?」
「どんな形で関係しているのか不明ですが、ハースト博士が最後に会った人物が大統領警護隊の少佐なのです。」

 書記官は考え込み、それからセルバ政府の関係当局に捜索を依頼しておきます、と言った。
 次にグラダ大学へ行った。アリアナがシオドアの研究の進み具合を見たいと言ったからだ。大学は部外者を入れたがらなかったが、アリアナ・オズボーン博士の名前を知っている研究者が彼女を歓迎して案内してくれた。施錠されていたシオドアの研究室に入った彼等は、シオドアが何かのサンプルを分析していたらしい形跡を認めた。しかしコンピューターを立ち上げてもパスワードがわからない。ファイルやノートをめくってみても何もなかった。誰かがページを破り取っており、部屋の隅に灰の塊が見つかった。アリアナがシオドアの他に誰がこの部屋に入れるのかと尋ねると、医学部の教職員なら誰でも入れると言う呆れた返事だった。
 アリアナはシオドアが遺伝子分析の研究に情熱を持てなくなったことをぼんやりと察していた。記憶喪失だけが原因とは思えなかった。彼はセルバ共和国で何か強く心惹かれるモノを見つけてしまったのだ。生まれ育った環境に疑問を抱き、それ迄好きだったことに嫌悪感を抱き、恵まれた生活を捨ててしまう程に惹きつけられる何かを。
 大学を出ると、車に乗り込むなり、彼女はシュライプマイヤーに要求した。

「テオは少佐と言う人の話をしたことがあったわ。貴方もさっき大使館でその名を言ったわね。」

 シュライプマイヤーは嫌な予感がした。大統領警護隊のあの女性少佐に今朝会ったばかりだ。大勢の前で不快な目に遭わせてくれた、あの先住民の女に、また会いに行けと言うのか? 

「ケツァル少佐は大変忙しい人なんですよ。」

 それは事実だ。今朝、彼は少佐に詰め寄った後、実に不愉快な目に遭った。彼がハースト博士の居所をなおも問いかけようとした時、カウンターの彼の側にいた男達が彼に近寄って来たのだ。彼等は地方から出て来た農民や学校関係者、また考古学関係の研究者やメディア関連の人間だった。彼等は口々にシュライプマイヤーに苦情を言い立てた。

「大統領警護隊文化保護担当部に面倒を持ち込むな!」
「ここの連中は忙しいのだ!」
「ロス・パハロス・ヴェルデスの仕事が10分遅れたら、私達の申請が通るのが1週間遅れる。」
「お前のせいで、私の時間が1時間無駄になるぞ。」
「アメリカ人はすっこんでろ!」

 スペイン語でがなり立てられて、ほうほうの体で退散したのだ。そこへまた行けと言うのか?
 アリアナは研究所で可愛がられ大切にされてきた。ボディガードの事情など知る由もない。

「私はその人に会いたいわ。英語は通じるでしょ?」


はざま 3

 事態はシュライプマイヤーが最も恐れていた方向へ向かっていた。彼と相棒は当初、シオドア・ハーストがグラダ・シティの高級コンドミニアムに入ったきり出て来ないのはケツァル少佐の家に入り浸っているからだろうと軽く考えていた。彼女とシオドアがコンドミニアムに入って直ぐ後に来た若い先住民の男も、建物に入ったきり出て来なかった。午後9時半に、何処かの家の家政婦と思える女性が建物から出て来て、迎えに来たタクシーで去って行った。
 翌朝、ケツァル少佐が午前8時過ぎに出て来て、自分でベンツのSUVを運転して職場へ出勤して行った。午前10時に前夜見かけた女性が誰かの車に送られてやって来た。シュライプマイヤーは相棒と交代で休憩を取り、コンドミニアムを見張った。夕方、午後6時半に少佐が帰宅した。1人だった。ボディガード達は、シオドアが美人の家に居座っているものと思っていた。彼が彼女にご執心なのは薄々勘づいていた。北米にいる時も、ふとした会話で彼女の名前が出ていたのだ。我儘博士が女性を口説いて部屋に篭っている、と思っていたのだ。
 ところが3日目の午後に、北米の研究所から電話がかかってきた。グラダ大学がハースト博士の無断欠勤を研究所に連絡したのだ。大学もシオドアの動向を見張るようにと依頼されていたのだから、無理もない。シュライプマイヤーは相棒にコンドミニアムの監視を任せ、シオドアのアパートへ行ってみた。彼等もそこで寝起きしているのだから、入るのは問題なかった。シオドアが戻った気配はなかった。何処かへお泊まりで出かけた様子もなかった。
 シュライプマイヤーは文化・教育省へ行ってみた。すると雑居ビルの前でアスルを見かけた。シュライプマイヤーはコンドミニアムを見張っている相棒に電話をかけて、アスルは何時少佐の家があるアパートから出たのかと訊いた。返事は「出ていない」だった。シュライプマイヤーは慌てた。相棒に、コンドミニアムに裏口がないか調べろと命じた。非常口があったが、そこの防犯カメラを見せてもらいたいと要請したら、警察を通せと管理人に言われた。
 4日目の朝、少佐がいつもの様に出勤した後で、シュライプマイヤーは警察官と一緒に防犯カメラを見せてもらった。誰も映っていなかった。コンドミニアムの住人達は表から堂々と出入りしている。裏口を使った人はいなかった。
 シュライプマイヤーは腹を決めて文化・教育省を訪ねた。入り口の軍曹に拳銃を預け、入館パスをもらった。ケツァル少佐は何処にいるのかと尋ねたら、一言4階と答えが返ってきた。
 大統領警護隊文化保護担当部は、他の部署と変わらない事務職の部課に見えた。書類が積まれた机の前に座った若い私服姿の男女がパソコンの画面を眺めたり、キーボードを叩いて書類を作成したりしている。だが3人の男達は全員シュライプマイヤーが知っている人物だった。軍服を着ていないだけだ。火が点いていないタバコを咥えて書類作成をしている髭面の男はステファン中尉で、電話でずっと喋っている背が高いイケメンはマルティネスと名札が置かれているが、シオドアがロホと呼んでいたもう1人の中尉だ。パソコン画面と書類を交互に睨んで顰めっつらしている一番若いのが、何時の間にかコンドミニアムから出ていたヤツだ。
 メスティーソの若い女は見覚えがなかった。黒いサラサラの髪の毛をポニーテールにして、青いビーズの髪留めでまとめている。彼女は隣の部署の男性と書類を一緒に眺めながら話し合っているところだ。
 一番奥の机のケツァル少佐は書類に目を通して署名し、目を通して署名し、を繰り返していた。
 軍人なら事務仕事の時も軍服を着用すべきだ、と元海兵隊員のシュライプマイヤーは思いながら、秘書はいるのだろうか、と目で探した。するとポニーテールの女性が彼に気がついた。

「何か御用ですか?」

 市場で果物や野菜を売っていそうな健康的な艶のある肌、人懐っこい目をした丸顔の娘だった。いかついシュライプマイヤーにも優しく微笑みかけている。彼は奥の机を手で指した。

「ケビン・シュライプマイヤーと言います。 ケツァル少佐と話がしたい。」

 ステファンとロホがチラリと彼を見た。アスルは無視した。女性が躊躇なく上官に呼びかけた。

「少佐、お客さんです!」

 ケツァル少佐が書類から目を上げてこちらを見たので、シュライプマイヤーは片手を上げて挨拶の代わりにした。彼女はシオドアと一緒にいる彼を何度か見ているから、用件はわかっている筈だと思った。しかし、少佐は部下に言った。

「陳情の内容を聞いて、該当する申請書を提出してもらいなさい。」

 それで、シュライプマイヤーは意地悪く言ってみた。

「貴女のアパートに篭っている男の件で来ました。」
「失礼な!」

と声を張り上げたのはステファンだった。しかし少佐に睨まれ、口を閉じた。少佐がシュライプマイヤーに顔を向けた。

「私の家に男が篭っていると仰いました?」

 シュライプマイヤーは4階のフロアにいる全員が自分を見つめていることに気がついた。後には退けない。彼はそうですと答えた。

「グラダ大学医学部で講師をしているアメリカ人、ハースト博士です。」
「それは一大事・・・」

 ケツァル少佐は携帯電話を出して、何処かにかけた。何をしているのかと彼が訝しんでいると、電話の相手が出た。少佐が喋った。

「カーラ? シータ・ケツァルです。貴女の他に誰かうちにいますか?」
ーーノ、ラ・コマンダンテ、私1人だけです。

 少佐がわざわざスピーカーで通話を聴かせた。

「誰か訪ねて来ました?」
ーーノ。今日はどなたも来られていません。

 シュライプマイヤーは怒鳴った。

「今週の月曜の夜だ!」

 少佐は平然と電話に言った。

「月曜の夜ですって。」
ーークワコ少尉が来られましたね。私のお料理を褒めて下さいました。
「覚えています。あれは美味しかった。また作って下さいね。」
ーー何時でもお申し付け下さい。御用はそれだけでしょうか? 

 少佐がシュライプマイヤーに尋ねた。

「何か彼女に訊いておくことがありますか?」
「少尉の他にもう1人いただろう?」
「カーラ、クワコの他にもう1人客がいました?」
ーーノ。 どうしてそんなことをお訊きになるのです? 

 家政婦が電話の向こうでクスクス笑った。

ーーラ・コマンダンテ、何かのゲームですか、これ?

 シュライプマイヤーはイラッときたが、我慢した。

「少尉は何時帰ったのかな?」

 すると本人が答えた。

「2200前。危うくサッカーの試合を見逃すところだった。」

 少佐が電話の向こうの家政婦に「有り難う」と言って通話を終えた。そしてボディガードに言った。

「貴方が仰っているハースト博士を存じ上げていますが、私の家には来られていません。」
「しかし、彼は月曜日の夜、貴女と食事の約束をしていた。」
「約束はしましたが、彼は来ませんでした。」
「嘘だ! 私は貴女の車に彼が乗り込んで、貴女のアパートに入るのを見た。」

 少佐がフロアを見回した。職員達は仕事に戻っていた。

「困りました。人間が1人消えてしまった様ですね。」

と彼女が言った。


はざま 2

  エル・ティティの町より質素な生活。10日目に子供達が朝早く何処かに出かけた。夕方帰ってきた彼等が麻の袋の中にノートと鉛筆を入れているのをシオドアは目撃した。学校へ行ったのか? スペイン語がわかるのか? 
 シオドアは余計な質問を控えた。子供達は村の北の方角から戻って来た。北へ行けば村か町があるに違いない。
 翌日、畑へ向かう女達の後ろをついて行き、途中で横道へ入った。北に向かって走った。木の枝や草で手足を傷つけたが、夢中で走った。後ろから追いかけて来る人がいるのではないか、矢で射られるのではないか、と不安だったが、誰も追いかけて来なかった。
 何時間走ったかわからなかった。喉がカラカラになり、体はヘトヘトだった。前方で人の話し声が聞こえた。誰かいる! 助かった!
 シオドアは茂みから開けた場所へ飛び出した。
 そこは、朝までいた村だった。樹木の中から飛び出した彼を、村人達が不思議そうに見た。決まり悪さと腹立たしさで、彼は充てがわれた小屋に入り、水瓶の水を瓢箪の柄杓でゴクゴク飲んだ。
 入り口に誰かが立った。振り向くと少年がいた。確かニートと呼ばれていたな、とシオドアは思い出した。年齢は14、5歳だろうか。この村では大人として扱われる年頃だ。青いサッカー用のTシャツと白い短パン姿で、ほっそりとした手足が長く見えた。ヤァ、と声をかけると、ニートが初めてスペイン語を喋った。

「畑に来なかったので、女達が心配していた。」

 訛りのない、綺麗なセルバ標準語だ。言葉が通じるんだ。 シオドアは力が抜けて、その場にヘナヘナとしゃがみ込んだ。

「済まない・・・町へ行きたかった。」

 正直に言った。ニートがそばへ来た。シオドアの横にしゃがんで、同じ目の高さで話しかけてきた。

「貴方はここにいる。ここにいれば安全だ。」
「安全?」

 シオドアは顔を上げてニートを見た。

「それは、アメリカ政府から俺を隠してくれているってことか?」

 ニートが肩をすくめた。

「わからない。俺は外の世界のことを知らない。」

 そして彼はシオドアが首を傾げるような質問をした。

「次のアメリカの大統領選に、ケネディは出馬するのか?」
「ケネディ? 彼は半世紀も前に死んだ。」

  小屋の中を暫し沈黙が支配した。ニートが少しずつ彼から遠ざかり、立ち上がって小屋から出て行く迄、互いに見つめ合っていた。
 シオドアは1人になると、ハンモックに寝転がった。体に震えが来た。

 ここは何処なんだ? 何時の時代なんだ?


はざま 1

  シオドアはジャングルの中にいた。木の枝と葉っぱで造られた簡素な小屋が彼の空間だった。同じ様な造りでもう少し大きな小屋が10ばかり集まっている小さな集落だ。住民は50人程。純粋な先住民で老若男女入り混ざっている。裸ではなく、Tシャツやジーンズを着ているし、キャップを被っている人もいる。足元はスニーカーを履いていたり、サンダルだったり、素足だったり様々だ。集落から少し行った所に畑があって芋とトウモロコシを栽培している。成人した男達は全員よく切れそうな山刀を持っており、たまに弓矢を持って森に出かけて行った。
 シオドアは彼の小屋で目覚めて以来、村人達から親切にしてもらっていた。女達は蒸した芋やトウモロコシを持って来てくれたし、子供達は水を瓶に汲んできてくれた。男は肉が焼けると分けてくれた。一つ困ったことは、言葉が全く通じないことだ。少なくとも、シオドアは彼等が話す言葉を理解出来ない。完全に未知の言語だ。耳を澄ませて聞いていても、文法がさっぱりわからない。だが向こうは、彼が手振り身振りを交えながら話すと、大体言いたいことを理解してくれた。彼の名前がテオだとわかってくれた。
 ここは、オクタカスから消えたボラーチョ村なのだろうか。シオドアは身振りを入れながら尋ねたが、住民達はポカンとした表情で彼を見ているだけだった。
 目覚める前の記憶はちゃんとあった。ケツァル少佐のアパートで、少佐とアスルと3人で食事をして、彼自身の身の上話をした。セルバ共和国で暮らしたいと少佐に訴えかけた。そして、アスルに名前を呼ばれ・・・
 少佐とアスルが俺に何かをしたのだ。そしてこんなジャングルの奥地に置き去りにした。何の為に? 俺が人為的に遺伝子操作された人間だから、捨てたのか? 俺は見捨てられたのか?
 少佐に会って話を聞かなければ。それにはジャングルから出なければ。
 食事時間は、村の広場で全員一緒だった。男も女も年寄りも子供も一緒だ。焚き火を囲んで、彼等はシオドアが理解出来ない言葉でペチャクチャ喋っている。楽しい家族団欒の時間。シオドアが見た限りでは、彼等は4家族だった。家は2軒ずつ持っているのか、何か空間を分けるルールがあるのかわからない。自由に出入りしているから、あまりプライバシーの保守は関係ないようだ。シオドアは食べ物を皆んなと平等に分配してもらったが、彼に話しかけてくれる人はいなかった。話しかけても言葉がわからないと思われている節もあった。
 学習すればすぐに話せる自信があったので、シオドアは彼の方から話しかけてみた。村人達は当惑した表情で互いに見合った。

 目で会話している!

 シオドアは心臓が高鳴った。ここはやはり少佐達の部族の村なのだ。彼等は部外者がいない場所では声で会話する。しかし部外者に聞かれて困る内容は目で伝え合うのだ。
 シオドアは彼等をあまり刺激しないことに決めた。警戒されるとジャングルから出られなくなる。
 村に来てから8日目に男達が狩に出かけたので、彼はついて行った。男達は初めは彼がついて来ることに戸惑って何度か振り返って様子を見ていた。しかし彼が静かに歩き、狩の邪魔をせずに見守っているだけだと知ると、自分達の仕事に専念した。その日は太った野豚が獲れた。その場で解体する。血を流さず、皮、肉、内臓、骨と分けて、それぞれが葉っぱや持参した麻袋に入れて村へ運んだ。シオドアも臓物を運ばされた。生温かい荷物は、臭いがしなかった。包装に使用された葉っぱに秘密があるようだ、とシオドアは思い、植物の遺伝子を調べたいと思い、何を馬鹿なことを考えているんだ、と思った。
 1頭の野豚は均等に分けられ、各家族に配分された。男の1人がシオドアを指差して何かを語ると、女性達が笑顔で彼を見た。きっと狩に協力したと言ってもらえたのだろう。少し村人達の警戒が緩んだ。
 次の日は畑で女性達と一緒に芋を掘った。男女の役割が分かれているので敬遠されるかと思ったが、女性達は彼を歓迎し、芋を運ばせた。
 夜、焚き火の周囲で食事をして寛いでいると、年寄りがタバコを吸い出した。葉っぱを巻いただけの簡単なものだ。爽やかな香りがした。シオドアの記憶にある香りだった。
 ステファンが吸っていたタバコと同じ匂いだ!
 だがタバコ畑は何処にもない。彼等は葉っぱを買っているのだろうか。Tシャツやパンツや、家の中で見かける小さなプラスティックの生活用品、洗面器や子供用の腰掛け、女性が耳に付けている綺麗なピアス・・・ここの人々は決して外界から孤立していない。何処かで外の世界と接触しているのだ。


2021/06/25

風の刃 22

 「俺に協力出来ないってことか?」

 シオドアは2人のセルバ人を見比べた。アスルが4杯目のワインをつごうとしたので、少佐が彼の名を呼んで止めた。

「飲み過ぎです。」
「すみません。」

 アスルが素直に手を引っ込めた。少佐がテーブルの上で手を組んだ。

「サンプルの話を研究所に話さなければ、ことはもっと簡単だったのですが、貴方は情報を拡散させてしまいました。」
「それはどう言う・・・」
「貴方に消えてもらいましょう。」

 シオドアは彼女の言葉の意味を推し測りかねて、見つめた。すると横からアスルが彼を呼んだ。

「シオドア・ハースト。」
「うん?」

 振り返ったシオドアは、彼と真面に目を合わせてしまった。

 こいつの目はなんて深い・・・なんて深遠な・・・

 それが彼が意識を失う直前に頭で思った言葉だった。
 ダイニングテーブルから崩れ落ちたシオドアを、席を立った少佐が眺めた。アスルが額の汗を拭った。メイドに聞こえない低い声で話した。

「不意打ちで何とか仕留めました。こいつ、ロホもカルロも歯が立たなかったんですよ。」
「脳の組織が”ヴェルデ・ティエラ”とは異なっているからでしょう。」
「しかし、我ら”ツインル”と同類と言う考えは持てません。」
「当然、”ツィンル”ではない。人造の人間です。でも、我々に救いを求めて来ました。」
「助けてやるのですか?」
「貴方は、手元に飛び込んで来た小鳥を鷹の前に放り出せますか?」

 アスルは溜息をついた。

「俺なら、小鳥を食っちまいますがね。」

 そしてキッチンに行った。メイドがデザートのタイミングを待ちながら雑誌を読んでいた。アスルは、カーラ、と彼女の名を呼び、振り返った彼女の目を見た。倒れかかった彼女を椅子から落ちないように支えてやり、楽な姿勢で壁にもたれかけさせた。

「少し休憩していてくれ。あの白人を隠さねばならん。」


風の刃 21

 シオドアが今夜はケツァル少佐の家に招かれていると言うと、シュライプマイヤーがあからさまな嫌な顔をした。彼はセルバ人が嫌いだった。感情を表に出さない先住民のセルバ人はもっと嫌いだった。それが軍服を着ていたりすると、本当に嫌いだった。しかしシオドア・ハーストは記憶を失う前同様にボディガードの意見を無視して、ワインと花束を買って、午後6時に文化・教育省の前に立った。ボディガードの2人は車で待機だ。
 時間にルーズなセルバ人も仕事終わりの時間はしっかり守る。午後6時になると、雑居ビルから職員達が一斉に帰宅するために出てきた。4階の人々も少し時間差を置いて出て来た。ケツァル少佐とアスルことクワコ少尉も出入り口の番をしている軍曹に敬礼で挨拶をして出て来た。シオドアがカフェの入り口近くで立っているのを見て、少佐がポケットから鍵を出してアスルに渡した。アスルが雑居ビルの間の路地へ走って行った。
 自宅に帰るだけの少佐はお洒落をしていなかった。通りの向こう側に駐車しているボディガードの車を見て、

「彼等の食事は用意していませんよ。」

と冷たく言った。シオドアは構わないよ、と言った。どうせそんなことだろうと思ったので、シュライプマイヤーに夕食は自分達で何とかしろよと言ってあった。
 アスルがベンツを運転して戻って来た。GクラスのSUVだ。シオドアは後部席に乗った。少佐が隣に乗ってくれるかと思いきや、彼女は助手席に座った。
 少佐のアパートは職場と大統領府を挟んだ反対側で、車で10分ばかり走った住宅地にある高級コンドミニアムだった。車寄せにベンツを乗り入れたアスルは、少佐とシオドアが降車すると地下の駐車場へ走り去った。シオドアは夕暮れ時の高層ビルを見上げた。

「一戸建てに住んでいると思った。」
「軍の給料では買えません。」
「ここの家賃も馬鹿にならないだろう?」

 少佐は意味深な微笑みを浮かべただけだった。キーボードパネルでガラス扉を開き、2人は中に入った。アスルは暗証番号を知っている筈だが、シュライプマイヤー達は入って来られない。
 2人はエレベーターで7階迄上がった。メスティーソのメイドが出迎え、シオドアは綺麗なダイニングルームに案内された。シェリー酒を出されたところで、ドアチャイムが鳴り、メイドに案内されてアスルが入室した。
 料理は セビーチェ で始まった。中南米の生魚料理だ。アスルは好物なのか、機嫌が良かった。シオドアは赤ワインを土産に持って来たので、魚を見た時にしくじったかなと思ったが、次の皿はコシードで、豚肉の塊を切り分ける役目をもらった。

「腕の良いコックを雇っているんだね。」

とシオドアが褒めると、少佐が、カーラに伝えておきます、と応じた。アスルが口元を拭いながら言った。

「貴方のお陰だ、ドクトル。普段は煮豆しか出ない。」
「お黙り、アスル。」

 シオドアは笑った。

「オクタカスのベースキャンプでも毎日豆だったよ。でも、研究所で食べた食事よりずっと美味かった。」

 2人のセルバ人の視線に気がついて、彼は腹を決めた。

「俺の本当の身の上を話すよ。まだ記憶が戻らないし、一般の人には俄かに信じられない内容だけど、俺は実際に向こうで見たし、聞かされた。俺は、複数の人間の遺伝子を分解して組み替えて創られた人間なんだ。場所は・・・ミゲール大使が知っている。陸軍基地の中にある国立遺伝病理学研究所で、優秀な頭脳を持つ人間や、強靭な肉体を持つ人間の開発をしている所だ。俺はそこで生まれた20人ばかりの子供の1人だ。20人の中の3人だけが残されて研究所で特別教育を受けて、次世代の遺伝子組み替え研究をする為の科学者として育てられた。」

 一気に喋った。まるで映画や小説の中の話だ。だが、不思議と彼には確信があった。このセルバ人達は俺の言葉を信じる。何故なら、彼等自身が常識では考えられない人々である可能性があるから。

「俺が何をしにセルバ共和国に来て、バス事故に遭ったのか、誰にもわからない。俺はある日突然何かを探しに出かけたそうだ。アンゲルスの邸から米軍のヘリコプターで研究所に連れ戻されてから、俺は俺が何者なのか探っていた。だけど、何もわからない。記憶を失った俺を警戒して研究所が何か重要なことを隠した可能性もあるし、俺が他人に自分の研究を見せたくなくて隠した可能性もあるんだ。俺は研究所に馴染めなかった。生まれ育った場所だと言われたが、記憶喪失の俺にはどうしても好きになれない場所なんだ。セルバに戻りたくて、セルバに来た理由を探していたら、資料の中である遺伝子情報を見つけた。」

 シオドアは、オルガ・グランデのアンゲルス鉱石が健康診断と称して従業員から採取した血液を研究所に売却していたことを語った。そのサンプルの一つ、「7438・F・24・セルバ」の遺伝子情報の特異性も語った。

「脳を形成する時の情報だけど、俺にはその遺伝子を持っている人間が、他の人間とどう違うのか想像がつかなかった。今でもつかない。だから、昔の俺は、それを確かめに、”7438・F・24・セルバ”の遺伝子の持ち主を探しに行ったのだと思う。」
「探して、どうするつもりだった?」

とアスルが尋ねた。彼はシオドアの手土産のワインが気に入ったらしく、3杯もお代わりしていた。未成年じゃないのか、こいつ・・・?
 シオドアは彼に殴られるかも知れないと思いつつ、真実を明かした。

「試しに、俺自身の遺伝子と比較したんだ。そうしたら、2人の遺伝子はよく似ていた。」

 少佐がグラスを取って、残っていたワインを飲み干した。

「貴方とそのサンプルの人は同類だと?」
「わからない。だが、俺のオリジナルの遺伝子を提供した人々が誰なのか、俺は資料を持っていない。見ることを禁じられているんだ。だから・・・もしかすると、俺はそのサンプルの人が親の1人、又はその親族かも知れないと思って会いに行ったのかも知れない。」
「まさか、俺達に、その人物を探せと言うんじゃないだろうな?」

 アスルの言葉に、シオドアははっきりと首を振った。

「そんなつもりで来たんじゃない。さっきも言った通り、俺は研究所が嫌いなんだ。連中は人間をモノ扱いしている。俺は兵器ではないし、人間兵器を作る気もない。だが、これは国家機密の研究だ。わかるだろう?」

 少佐とアスルが互いの目を見合った。まただ、とシオドアは思った。彼等は目で会話をしている。彼は今夜相談したい核心にやっと入った。

「研究所は、俺が死なない限り、俺を自由にはしてくれない。だけど、俺はエル・ティティの町で暢んびりと代書屋をしていたいんだ。ゴンザレスと一緒に暮らしたいんだ。だから、研究所に、”7438・F・24・セルバ”を探しに行くと行って、今回のグラダ大学の職を世話してもらった。本当は、サンプルの人はもうどうでも良い。俺はこの国の人間になりたい。どうすれば良い?」

 少佐が彼を見た。

「貴方は、そのサンプルの情報を研究所に話したのですね?」
「スィ。だけど、誰もその遺伝子情報が何を意味するのか、わかっていない。だから俺に、サンプル提供者を探して来いと渡航許可をくれたんだ。」
「貴方が政府機関の研究所で創られた人間であるならば・・・」

 少佐が冷めた目をした。

「アメリカ政府はどんな手段を使ってでも、貴方を取り戻そうとするでしょうね。」


風の刃 20

  シオドアはそれから1週間大学で真面目に講師業に勤しんだ。オクタカスで採取した人間のサンプルは高温と多湿で駄目になっていたが、植物標本は無事だったのでそれを使って学生達に都市部で見られる同種の物とのDNA比較をやらせた。考古学関係の人々からの接触はなかった。オクタカス遺跡の発掘を行なっていたフランス隊はグラダ大学に出土品を預け、フランスへ一時帰国してしまった。負傷者を出したので、本国の大学やスポンサーに説明しなければならないのだろう。
 リオッタ教授からも連絡がなかった。一度セルバ国立民族博物館の近くで彼を見かけたが、声をかける前に教授は博物館に入ってしまった。
 講義がひと段落ついた日、シオドアは文化・教育省を訪問した。シュライプマイヤーがついて来たが、入り口の女性兵士は拳銃を持っているボディガードの入庁を拒否した。

「1階のカフェで待っていてくれ。役所の中に暴漢がいるとは思えないから。」

 シオドアはボディガードを宥めて、雑居ビルのお役所に入った。提出日が過ぎていたが、首都から出た外出届けを出すと受理された。いかにもセルバ的ルーズさだ、と思ったが黙っていた。必要な用事が5分で終了したので、彼は4階の文化保護担当部へ上がってみた。
 ケツァル少佐の姿は見えなかった。アスルが1人で机に向かい、パソコンのキーを叩いていた。シオドアは大学の職員証を近くの職員に提示し、カウンターの中に入った。深いグリーンのTシャツにジーンズ姿のアスルはシオドアの教え子達と変わらない若さだった。軍服を着ると大人びて見えるのにな、と思った。視線を感じて、アスルが顔を上げた。シオドアは挨拶した。

「コモ エスタ?」

 アスルは返事をしてくれたことがなかった。しかし、この日は違った。

「ビエン。」

と短く答えて、再び仕事に戻った。シオドアは A・マルティネスのプレートが載った机の椅子に座った。ロホの席だ。机の上は書類が山積みだった。首を回して横を見ると、C・ステファンの机も発掘作業が必要な程書類に埋もれていた。こ綺麗に整頓されたM・デネロスの机は小さな花を生けた花瓶が載っていた。デネロスは女性だな、と気がついた。ロホが言っていた大学生の少尉はこの机の主のことに違いない。
 少佐の机も書類が積まれていたが、空きスペースに湯気が立つコーヒーカップが載っていた。少佐はいるのだ。シオドアは思い切ってアスルに声をかけた。

「少佐はすぐ戻るのかな?」

 アスルは答えずに、キーボードを叩きながら首を傾げた。忙しいのか口を利きたくないのか、どっちだろう。その時、奥のエステベス大佐とプレートが掲げられているドアが開いた。書類バサミを抱えたケツァル少佐が出て来た。ドアを淑女らしからず足で閉めると、自分の机の前に腰を下ろし、書類を机の上に投げ出した。フーッと息を吐いて、カップを手に取った。そしてシオドアと目が合った。彼が先に声をかけた。

「コモ エスタ?」
「ビエン。」

 少佐はコーヒーを口に入れた。何用かと訊かない。そのまま書類に目を落とした。シオドアは無視されることに慣れていない。立ち上がって彼女の前に行った。

「挨拶が遅れたけど、面白い旅をプレゼントしてくれて有り難う。遺跡の発掘に立ち会ったのは初めての経験だったし、”サラの審判”もマジ迫力ある体験だった。」

 先に反応したのは、少佐ではなくアスルの方だった。キーボードから顔を上げてシオドアを見た。少し遅れて少佐が呟いた。

「間違っています。”風の刃の審判”です。」
「え? 何?」

 少佐がそれ以上言わないので、アスルが解説した。

「サラは裁判を行う場所だ。貴方が言ったものは、場所ではなく、起きたことだろう?」
「スィ。爆風みたいな現象に出くわした。」
「天井から落とした岩の欠片がどっちへ跳ぶかで、有罪無罪を決めたのだ。昔の人はそれを風が判定すると考えた。だから、”風の刃の審判”と言う。」

 ああ、そうなのか、とシオドアは素直に納得した。アスルにグラシャスと言うと、若い少尉は無言でまた仕事に戻った。
 シオドアは主人がいない机を見た。

「ロホとステファンの2人の中尉はまだ戻らないのかい?」
「後片付けがありますから。」

 やっと少佐が彼を見てくれた。

「何の御用です?」

 シオドアは躊躇った。プライベートな要求を相談に来たのだ。文化保護担当部の横には、文化・教育省の職員達が大勢いて仕事をしている。

「個人的な相談をしたい。力になってくれないか? 図々しいとは思う。だけど、君しかこの国で頼りになってくれそうな人はいないんだ。」
「をい・・・」

 とアスルが手を止めて声をかけて来た。シオドアの図々しさに明らかに気分を害したのだ。椅子から腰を浮かしかけたのは、シオドアをカウンターの外に叩き出そうと思ったからに違いない。しかし、ケツァル少佐が暢んびりと言ったので、腰を下ろした。

「個人的なお話はオフの時間にお聞きします。今夜は空いていますか?」

 またデートだ! シオドアは相談内容は別として、このお誘いに心が弾んだ。

「空いている。何時に何処で?」
「1800にこの下で。」

 彼女は部下に顔を向けた。

「アスル、貴方も空いていますか?」
「スィ。」
「では、私のアパートで一緒に食べましょう。」

 デートだと思っただろ? そうは問屋が卸さないぞ、と言いたげなアスルの目に、シオドアは内心チェっと舌打ちしていた。



2021/06/24

風の刃 19

 火曜日、シオドアはボディガードのシュライプマイヤーとリオッタ教授と共にオクタカスを出発し、来た道を逆に辿ってグラダ・シティに帰った。到着した時は夕方で、大学は既に閉まっていた。彼は教授と別れ、ボディガードを連れてアパートに帰った。もう1人のボディガードは1人でお気楽な週末を過ごしたらしい。シオドアは散らかった室内を見回し、家政婦が来るのは何曜日だったかな?と考えた。結局リビングと己の寝室だけは片付けることにした。
 前日から片付けばかりしているな、と思いつつ、 彼は床に掃除機をかけた。シュライプマイヤーは早めに休ませ、夕食は冷凍食品を温めて済ませた。シャワーを浴びて、寝室に入ると、ベッドに寝転び、直ぐに眠りに落ちた。
 翌朝、シオドアは朝食を取ると直ぐに大学へ出かけた。研究室の遺伝子分析装置の中に入れておいた紙ナプキンの破片を取り出し、分析結果を見た。画面は真っ白だった。装置が壊れたのかと慌てた。スイッチを入れ直してみたり、己の髪の毛を置いてみたりした。装置は正常に動いた。ケツァル少佐が使った紙ナプキンの分析だけが失敗していたのだ。
 それならば、と彼はオクタカスで採取した物を出した。作業員達のタバコの吸い殻や、鼻をかんだ紙屑やらだ。平均的なセルバ人のDNAがわかるだろうと期待したが、これも分析出来なかった。気温と湿度でDNAが破壊されていた。冷蔵庫を使えなかったのが敗因だ。
 セルバ共和国は意地悪だ。
 彼はそう感じて、自嘲した。俺はこの国に何をしに来たのだ? 鉱山労働者のDNAを採取すると言う目的は、母国から出る口実に過ぎない。俺はこの国に住むための手段を探しに来ているのじゃないのか?
 シオドアは電話を出した。迷ってから、エル・ティティ警察署にかけた。聞き覚えのある声が聞こえた。若い巡査だ。シオドアが退院して署長の家に引き取られた時、毎日やって来て、リハビリの散歩に付き合ってくれた。

「ヤァ、ホアン!」

 名前を呼ぶと、向こうは、何方? と尋ねた。

「テオドール・アルストと言います。以前は、ミカエル・アンゲルスと呼ばれていました。」

 全部言う前に、ホアンが叫んだ。

ーーミカエル?! 君か? 元気だったか?
「スィ、元気です。君も元気そうですね。」
ーー署の連中は皆んな元気さ。会計士も元気だよ。
「署長は・・・」
ーー代わるから、待って!

 シオドアは胸がドキドキして倒れそうな気分になった。この国に住む権利を獲得してから電話しようと思っていたが、もう我慢の限界だった。
 電話の向こうから太い声が聞こえてきた。

ーーゴンザレスだ。
「親父さん・・・」

 精一杯勇気を振り絞って声を出した。ゴンザレスが一瞬息を呑んだ気配がした。

ーーミカエル?
「スィ、本当の名前はテオドール・アルストって言います。」
ーーテオドール・アルスト・・・
「テオでいいです。子供の時からそう呼ばれていたみたいだから・・・。」
ーー家族が見つかったのか・・・
「家族なんていませんでした。」

 ゴンザレスが沈黙した。シオドアは本当のことはまだ言えないと気がついた。己は今厄介な立場にいる。エル・ティティの人々を巻き込んではいけない。

「今は詳しいことを言えません。だけど、必ずエル・ティティに帰ります。」
ーー今、何処にいるんだ?
「グラダ・シティです。国籍はUSAです。1年間の契約で、グラダ大学で働いていますが、北米での問題を片付けたら、必ずセルバ共和国に戻って来ます。だから、もう少し待っていて下さい。恩返しさせて下さい。」

 ゴンザレスが深い息を吐き出す音が聞こえた。

ーー俺はお前が元気でいてくれたら良いんだ。
「北米に俺を待っている人なんていなかったんです。俺はエル・ティティが故郷だと思っています。」
ーーテオって言うんだな?
「スィ。テオです。」
ーー待っている。いつでも気軽に帰って来い、テオ。

 通話が切れた。シオドアは携帯電話を抱きしめた。どうすれば、研究所と縁が切れる? どうすればこの国の市民権を取れる? 

風の刃 18

  どんな裁判の仕組みなのか、と興味を抱くリオッタ教授をウザイと感じたのだろう、一緒に乗っていた兵士の1人が説明した。

「洞窟の奥に丸い部屋があって、そこに罪人を立たせる。天井から石を落として、罪人が無事なら無罪、死んだり怪我をしたら有罪。簡単な裁判だ。」
「そんな裁判の方法があるのか? 初耳だ。」

 興奮しかけるリオッタ教授に、兵士が面倒臭そうに言った。

「言い伝えだ。そんなやり方で実際に裁判をした話を聞いたことがない。」
「だが、遺跡があったんだな?」
「裁きの部屋、サラが崩れた状態の遺跡ならいっぱいある。」
「オクタカスは完璧な状態で残っていた稀有な場所だった訳だ!」

 教授がトラックの荷台から名残惜しそうに遠ざかる遺跡を眺めた。
 ベースキャンプに到着すると、先に戻った作業員達が昼からの仕事に出かけようとしていた。昼食を済ませたステファン中尉とロホも再び出ようとしていた。シュライプマイヤーが先手を打って、シオドアより先に2人に声をかけた。

「ハースト博士は午後は出かけずにキャンプに残る。」

 シオドアが文句を言う前に、ロホが片手を挙げて了承を伝えた。ステファン中尉はシオドアを警護するのも仕事だ。彼はボディガードをジロリと見て命令口調で言った。

「ドクトルが勝手に出かけないよう、しっかり見張っててくれ。」
「わかっている。」

 シュライプマイヤーは怒鳴った。シオドアは彼が口の中で「若造めが」と呟くのを聞いた。
 集合棟で食事をしている間、リオッタ教授はタブレットに何かをせっせと書き込んでいた。きっとサラの言い伝えを記録しているのだ。食事を終えると、作業員達のテーブルに行って、遺跡の情報を聞き込み出した。
 シュライプマイヤーが「考古学馬鹿だ」と評した。専門家だから仕方がないさ、とシオドアは軽く受け流した。夕方迄することがなかったので、出土品の荷造りを手伝った。そのうちに撤収作業が終わったらしく、フランス人達が戻って来だした。シオドアはリオッタ教授が彼等にサラの情報を分けるのかと思ったが、意外にもイタリア人はフランス隊には話しかけなかった。自分の発見にしたいのだ、とシオドアは気がついた。現地採用の作業員達から話を聞いて回ったリオッタ教授は、最終のグループが戻って来てベースキャンプがごった返している頃に、やっとシオドア達の元へ戻って来た。

「ちょっと耳寄りな話を聞きました。」

 貴方だから言います、と彼はシオドアに英語で囁いた。

「村から働きに来ている男達の中で年寄りが1人いるんですが、彼はボラーチョ村へ幼い頃に行ったことがあるそうです。」
「実際にあったんですね、その村は。」
「イエス。普通の農村だったそうですが、人付き合いの悪い村だったと。でもその村から何人かは出稼ぎに出ていたそうで、今でも子孫が国内の何処かにいるんじゃないかって。」
「雲を掴むような話です。」
「その出稼ぎに出た人に、話を聞けたら良いんですがね。」


風の刃 17

  岩山から下りると、ステファン中尉が警護隊の小隊長を呼んだ。小隊長はメスティーソだが、先住民の血が優っている顔付きだった。中尉に「古代のサラを知っているな?」と訊かれ、スィと答えた。中尉が岩山を指した。

「あの山の下がサラになっている。」

 小隊長が岩山を見た。そして洞窟の方を覗き込む様に首を伸ばした。

「昨日の事故は、サラでの”審判”でしたか。」

 セルバ人には古代の裁判の話は珍しくないようだ。小隊長に驚いた気配はなかった。視線を中尉とロホに向けた。

「すると、天井が崩落したのでありますね?」
「スィ。古いし、木の根が張っているから岩が脆くなっている。雨季が来たら一気に崩れる恐れがある。」

 シオドアは中尉が天井の補強を小隊に命じるのかと思ったが、そうではなかった。ステファン中尉は、考古学者が近くにいないことをサッと目で確認してから、小隊長に命じた。

「調査隊がベースキャンプから出たら、直ぐに岩山の上を爆破しろ。ダイナマイトの2、3本で足りるだろう。仕掛けたら、山の反対側へ降りろ。こちら側は危険だからな。」

 小隊長が頭の中でシミュレーションを行った様だ。少し間を置いてから、彼は言った。

「内側へ崩れる様に、ダイナマイトを仕掛けます。」
「任せる。行ってよろしい。」

 小隊長は敬礼して、仲間の方へ戻って行った。
 シオドアは遺跡の入り口付近で発掘装備を片付けている調査隊や作業員を見た。

「彼等が苦労して発掘した物を、爆破するのか?」
「この遺跡を爆破するのではありません。さっき見たサラだけを壊すのです。」
「まだ調査していないだろう? あれだって、君達が守る遺跡の筈だ。」

 するとロホがステファン中尉に助け舟を出した。

「崩すのは屋根だけで、壁は残ります。発掘はこれから先数年かかるのですから、崩れた岩石を取り除いて壁を調査すれば良いのです。」
「しかし、屋根だって遺跡だろう?」
「爆破しなくても、雨季が来たら崩れます。数百年使われなかったサラの屋根は脆くなっている上に、真ん中が開いてしまったので、
雨に耐えられません。」
「崩れない可能性もあるだろう? わざわざ急いで壊さなくても・・・」

 ステファン中尉が笑った。

「天井の穴から洞窟内に雨が降り込んだら、何が起きると思います、ドクトル?」
「何が起きるって・・・」

 洞窟内の風景を思い出してみた。コウモリ、コウモリの排泄物、埃、岩石・・・ステファン中尉が吐き捨てる様に答えを言った。

「コウモリの糞の土石流です。」

 洞窟に入っていないシュライプマイヤーが、「ゲッ」と呟いた。ロホが遺跡をライフルの先端でぐるりと指した。

「折角調査隊が掘り出した遺物が、次に戻って来た時にはコウモリの糞で埋もれてしまっているってことになりかねません。」

 彼等は歩き出した。シエスタの為にベースキャンプに帰るトラックが待っていた。フランス人達は片付けの時間が惜しいのか、なかなか乗らないので、運転手が苛立っている。シオドア達もフランス人を待つことになった。ステファン中尉とロホは中尉のジープでさっさとベースキャンプへ昼食を取りに行ってしまった。ジープには中尉のキャンプ道具が積まれているので、2人しか乗れなかった。
 トラックにもたれかかって、シュライプマイヤーが珍しく世間話を仕掛けてきた。

「博士は、さっきのセルバ人達と親しいのですか?」
「親しいと言えるほどじゃない。ロホは、俺が記憶を失って2ヶ月ほどしてから知り合った。だが友達じゃない。ステファンはここへ来て初めて会った。」
「しかし、貴方は彼等の扱いをわかっている様に見えます。」
「わかっているんじゃない、わかろうとしているんだ。彼等の上官のケツァル少佐を含めて、なんだか不思議な印象を与える人々だから。」

 すると、シュライプマイヤーが呟いた。

「私は、彼等のそばにいると落ち着かないんです。」
「どんな風に?」
「私はアフガンで戦闘を体験して来ました。敵を殺したこともあります。嫌な経験ですが、味方と私自身を守るために必要なことでした。」
「うん、わかるよ。」
「戦場ではいつも緊張の連続です。だが、仲間と一緒にいる安心感もありました。しかし、あのセルバ人達は違う。」
「敵か?」

 ボディガードは言葉を探した、困った表情で顔を顰めた。

「敵に対する感覚ではないです。なんと言うか・・・彼等とは通じ合えないものがある様な・・・」
「文化の違いだろう?」
「それなら、こんな不安は感じません。博士、貴方は虎が隣にいたら安心して昼寝が出来ますか?」

 奇妙な質問だ、とシオドアが思った時、リオッタ教授がやって来た。警護の兵士も一緒だ。教授が待たせたことを詫びた。やっと昼食にありつける。彼等はトラックの荷台に乗り込んだ。
 トラックが走り出して間もなく、リオッタ教授が朝のお喋りの続きを始めた。

「消えた村の名前を思い出しました。ボラーチョ村です。」

 シオドアはシュライプマイヤーに単語の意味を教えてやった。

「”酔っ払い村”だってさ。」

 リオッタ教授が頷いた。

「なんでも、村人達は昼間っから酔っ払って寝てばかりいたそうです。で、こっちの村の住民とは農作物の取引程度の付き合いで、外の世界との接触はほとんどなかったそうです。」
「それは、村の名前が”酔っ払い”だから、住民は酔っ払っていたのかい? それとも、住民が酔っ払っていることが多かったから、他の村からそう呼ばれていたのかな?」
「そこまでは、私も聞いていませんがね。だけど、ある日、隣村の人が頼まれていた買い物を運んで行ったら、ボラーチョ村は無人になっていた。次の日に行っても、やっぱり誰もいない。それで軍に通報したそうですが、軍は取り合わなかったと言ってました。」

 リオッタ教授は消えた村に関心を抱いた様子だ。

「ボラーチョ村の人が、あのオクタカス遺跡の伝説とか何か知っていたんじゃないかなぁ。何処かに子孫がいれば、話を聞いてみたいものだ。」

 するとシュライプマイヤーが彼に話しかけた。

「洞窟が古代の裁判所だって話を聞きましたか、教授?」
「え?」

 リオッタ教授がこっちを見たので、シオドアは内心舌打ちした。大統領警護隊も警護小隊も、遺跡に関する情報を持ちながら発掘調査隊には教えていないのだ。教えたくないのだ。天井をこれから爆破するから。
 シュライプマイヤーは流石に爆破計画までは言わなかったが、洞窟に古代の裁判所が設けられていた様だ、と考古学教授に伝えた。リオッタ教授は当然ながら強い興味を示した。

「誰からその話を聞いたんです?」

 シュライプマイヤーは、きっと大統領警護隊が嫌いなのだろう。あっさり情報を流した。

「あの、虎みたいな顔の中尉からです。」

 シオドアは慌ててフォローと言うより弁解した。

「セルバ人なら普通に知っている古代の仕組みの様だよ。」





2021/06/23

風の刃 16

  洞窟を出たシオドア、ロホ、ステファン中尉は、シュライプマイヤーも加えて遺跡の背後に聳え立つ岩山へ登った。ステファン中尉がキャンプしていたメサより高く、車で上がれなかったが、ステファン中尉がまるで土地勘があるかの様に樹木の中に道筋を見つけて登って行くので、その後ろを忠実に辿った。太陽が樹木に隠れている間は暑さをあまり感じなかった。蒸し暑いが、虫は寄ってこなかったし、ヒルや蛇にも襲われなかった。尾根の上に出た時は昼になっていた。
 ロホが最後尾でシュライプマイヤーの背中を押す感じで歩いていた。静かなので、時々ボディガードは後ろを振り返り、先住民の中尉がちゃんとついて来ていることを何度か確認した。
 岩山の上は低木がまばらに生えているだけだった。ステファン中尉が脚を止め、シオドアに手で止まれと合図した。だからシオドアも後ろの2人に止まれと合図を送った。地表が平らになっている場所が目の前にあった。円形だ。そして中央に穴があった。
 ステファン中尉が用心深く足を前へ踏み出した。あの石組の天井の上だ。そっと歩いて行く彼を見て、洞窟の中に入っていないシュライプマイヤーが不思議に思ったのだろう、シオドアに中尉は何をしているのかと尋ねた。

「古代の裁判の仕組みを確認しているんだよ。」

 ステファン中尉が開口部の縁から下を覗き込んだ。セルバ人にあまり良い印象を持っていないシュライプマイヤーが英語で呟いた。

「少なくとも、彼は高所恐怖症ではない訳だ。」

 中尉が戻って来た。シオドアとロホに向かって言った。

「このサラが使われなくなって、誰かが穴を塞いだ筈だ。それが何時頃のことかわからないが、昨日、蓋の部分が落ちた。高度があるから、落ちた時の衝撃で砕けた岩が飛び散り、偶然来合わせた調査隊に被害が出た。」
「偶然の不幸か。」

とシオドアは言ったが、内心は納得出来なかった。岩が落ちただけで、あんな爆風みたいな衝撃波が生じるだろうか。爆弾でも仕掛けられていたのではないか。遺跡を神聖視する過激派が発掘に反対してテロを行ったとか。それとも反政府ゲリラが共和国の威信を貶める為に仕掛けたとか。大統領警護隊なら、それぐらいのことは想像出来るだろうに。
 ロホが崖っぷちに立って遺跡を見下ろした。何か考え込んでいた。シュライプマイヤーは早く下りたいのだろう、山の周辺を見渡した。英語で呟いた。

「こうやって見ると、本当に何もないジャングルだなぁ。イタリア人が言っていた消えた村って言うのは、何処にあったんですかね、博士?」

 ステファン中尉が、そしてロホが、初めて彼をまともに見た。

「消えた村?」

 ステファン中尉がシュライプマイヤーに近づいて来た。英語で彼は話しかけた。

「今、消えた村と言ったか?」

 シュライプマイヤーは、この時改めて2人の大統領警護隊の隊員が英語を解することを知った。聞かれてマズイことを言った訳ではない。だが、彼は不意打ちをくらった気分でちょっと狼狽えた。

「今朝、トラックの上で、イタリア人の学者が村人から聞いた話を喋ったんだ。この近くで40年か50年かそこらへんの昔の話だと・・・村人全員が消えてしまった村があったそうだ。 S Fだろう?」

 シオドアは、また2人の中尉が目と目を合わせるのを目撃した。ふと疑念が湧いた。
 こいつら、目を合わせるだけで会話出来るんじゃないか?

「S Fだな。」

とステファン中尉が言った。ロホも頷いた。

「『Xーファイル』でも見たのでしょう。」

そして大きく腕を振って撤退の合図をした。

「下へ降りましょう。昼食の時間です。」

風の刃 15

  洞窟内は前日同様臭かった。3人はスカーフで顔の下半分を覆っていた。携行ライトで照らされた床はコウモリの糞に混ざってコウモリの死骸が散乱していた。小石も飛び散っている。ステファン中尉が先頭を歩いていたが、やがて足を止めた。

「昨日はここで”あれ”に遭った。」

 シオドアはもっと奥に入った所だと思ったが、振り返ると明るい入り口が案外近くに見えた。前日は初めて入洞したし、考古学者達が先に歩いていた。彼等は壁のレリーフや壁画を探していたので、歩みが遅かったのだ。それを思い出していたら、前の日に疑問に思ったことも思い出した。

「ステファン中尉、君はここで俺の肩を掴んで止めたよね。あれはどうして?」

 ステファン中尉が彼を振り返った。

「洞窟の奥で音がしたからです。」
「音?」
「スィ。物が崩れる音です。」

 どんな?と重ねて尋ねようとしたが、中尉は直ぐに歩き出した。
 足元に落ちている石が大きくなってきた。マーベリック達考古学博士達は、この石にまともにぶつかったのだ。拳大の石に躓きそうになったシオドアは、これが頭に当たっていたらと想像し、ゾッとした。
 頭上でコウモリが騒ぎ出した。昼間だと言うのに飛び回り出したのだ。外へ出て行く群れもいた。ロホが暢んびりと言った。

「コウモリを脅かすなよ、カルロ。」

 カルロ? ああ、C・ステファンのネームプレートのCか、とシオドアはぼんやりと思った。ステファン中尉がチェっと舌打ちするのが聞こえた。彼は歩きながら、負傷した学者達がどの位置にいたか説明した。ライトを持たずに入ったのに、どうして誰がどの位置にいたのかわかるのだろう、とシオドアは不思議で堪らなかった。それに今歩いている時も、ステファン中尉もロホも足元ではなく壁や天井に光を当てていた。
 先頭のマーベリック博士が災難に遭った場所から5分ほど進んで、ステファン中尉が立ち止まった。

「サラだ。」

 シオドアは彼の横に立った。不思議な光景が目の前に遭った。かなり高い天井の真ん中から光が差し込んでいた。一条の光は少し斜めに床に当たり、そこに積もったコウモリの排泄物や死骸や石やゴミを照らしていた。シオドアはライトの光をぼんやりと明るい空間の壁に沿って移動させた。直径50メートル近い完全な円形の空間だ。壁は手掘りではなく、石が綺麗に組まれている。祭壇や棚の類は一切なく、シオドア達が立っている洞窟だけが通路になっている。シオドアは天井を見上げた。高さが30メートルもある。だが天井は天然の岩の様だ。岩を組み合わせている。その中央に、これもほぼ正円の小さな開口部があり、そこから光が差し込んでいるのだ。穴の真下の床に窪みが開いて、その周囲は岩石とコウモリの死骸と土砂と樹木が積み重なって円形の山になっていた。土や植物の状態を見ると、ごく最近落ちたと思われた。

「この部分の天井が落ちて、その衝撃波が昨日の爆風ってことか?」

 シオドアが咄嗟に頭に浮かんだことを口に出すと、ステファン中尉が振り向き彼を見て、それからロホを見た。目と目を合わせる。数秒後、ロホが答えた。

「恐らく、そう言うことでしょう。」

 なんだ、さっきの間は? ロホが空間の中央に開いたクレーター状の窪みのそばへ歩いて行った。静かに歩いたが、埃が舞い上がった。恐らく何十年、何百年とコウモリの棲家となり、排泄物が堆積しているのだ。シオドアが後に続こうとすると、ステファン中尉に留められた。

「埃を吸い込むと、後で碌なことになりません。目にも入ります。」
「わかった。忠告有り難う。ところで、ここはどんな用途があった場所だろう? さっき君は”サラ”と言ったけど?」
「英語で言えば、法廷です。」
「古代の裁判所?」

 ロホがクレーターの周囲をゆっくりと回り始めるのを見ながら、ステファン中尉が解説してくれた。

「罪に問われた人間を、あの天井の開口部の下に立たせます。正確には真下ではなく、今ロホが歩いている様に少し外側になります。開口部の外に神官がいて、穴から物を落とし、下に立たせた人間が無事ならば無罪、怪我をしたり死んだりすれば有罪としたのです。」
「無茶苦茶だなぁ。」

 シオドアは現代人の感覚でそう評した。

「これは、”ヴェルデ・シエロ”の審判なのかい?」

 何気なく、そう言った。セルバ共和国 →  古代人 →  ”翼ある頭”  →  ”空の緑” と言う図式が彼の頭の中に出来上がっていた。ところが、大統領警護隊の2人の中尉が意外な反応をした。ロホが振り向き、シオドアを見てステファン中尉を見た。直ぐに彼等は口々にシオドアの言葉を否定しにかかったのだ。

「違います、ここは”ヴェルデ・ティエラ”の遺跡です。」
「オクタカスは遺跡としては新しいのです。」
「”ヴェルデ・シエロ”は太古に絶滅しました。」
「この遺跡は”ヴェルデ・シエロ”とは無関係です。」
「太古の人々がこんな方法で裁判をする筈がありません。」
「地下を血で汚すなど、もってのほかです!」

 シオドアは2人を見比べた。高い天井から差し込む僅かな光の中で、2人の中尉の目がキラキラと輝いていた。ロホの目は金色に、ステファン中尉の目は緑色に。
 シオドアは両手を上げて、降参、と言った。

「わかった、俺は考古学には全く無知だと認める。北米の俺が育った場所の近くに、中南米の遺跡から出土した物を集めている小さな博物館があるんだ。そこのセルバ共和国のコーナーにある説明板の内容しか、俺には知識がないんだ。」
「その説明に、”ヴェルデ・シエロ”の記述があるのですか?」

とロホが用心深く尋ねた。スィ、とシオドアは答えた。

「現代のセルバ人は”ヴェルデ・ティエラ”族とその血を引く人々で、今も”ヴェルデ・シエロ”と呼ばれる古代の神様を信仰していると書かれていた。その神様は頭に翼がある姿や、半人半獣の姿で壁画や彫刻に残されているって。」

 ステファン中尉が肩をすくめた。ロホが穏やかな口調で言った。

「我が国はカトリックです。古代からの土着信仰が生活の中に残っていることは否定しませんが、発掘調査が行われる遺跡のほぼ99パーセントは現代のセルバ人の祖先のものです。”ヴェルデ・シエロ”の遺跡が出たら、セルバ中の考古学者が殺到しますよ。」

 発掘調査が行われていない遺跡はどうなんだい? とシオドアは心の中で尋ねたが、声には出さなかった。


風の刃 14

 オクタカス遺跡へ向かうトラックは5台、シオドアは先頭車両の荷台にリオッタ教授、シュライプマイヤーと陸軍兵士2名と共に乗った。教授は調査隊撤収の手伝いに行くのだ。兵士の1人はシオドアと顔馴染みになった男だが、この日は大人しかった。ロホが同じトラックの助手席にいて、周辺の景色を眺めていた。

「昨日、 救護の手伝いに来た村の人から、面白い話を聞きましたよ。」

といきなりリオッタ教授が喋り始めた。

「ベースキャンプと遺跡を挟んだ反対側のジャングルの中に、昔小さな村があったそうです。村の名前は・・・ええっと教えてくれたんですが、思い出せないな。兎に角、その村がね、今から50年近く前に、ある日忽然と消えてしまったそうです。」

 シオドアはそんな話を子供の時に聞いた様な気がした。兵士達が興味深そうに見たので、教授は気を良くした。

「47人、年寄りも子供も含めていつの間にかいなくなってしまって・・・」
「どこかに引っ越したんだろ?」

とシュライプマイヤー。教授は手を振って否定した。

「食事の支度や家事を途中で放り出して引っ越しですか? 有り得ない!」
「オエル・ベルディだ!」

 不意にシオドアと顔見知りの兵士が声を上げた。

「昔、ブラジルであった事件でしょ?」

 シオドアも頷いた。

「うん、俺も子供の時に本で読んだ。村人が大勢消えてしまったんだ。」
「S Fですか?」

とシュライプマイヤー。リオッタ教授は首を振った。

「そうじゃない、この遺跡の向こうに実際にあった村だ。」

 そして彼が村の名前を思い出した時、遺跡の入り口に到着した。シオドアは教授が「ボラーチョ」と呟くのを聞いたが、気に留めずにトラックから降りた。
 遺跡の入り口にステファン中尉がジープを駐めて待っていた。メサのキャンプを撤収したらしく、ジープの後部席は荷物でいっぱいだった。発掘調査が中止になったので、彼も帰るのだろう。トラックの助手席から出たロホが彼に近づいて行った。シオドアは2人の大統領警護隊文化保護担当部の中尉が互いに敬礼を交わし合い、それから皆んなに背中を向けるのを見ていた。何か話し合っていたが、そのうちロホが片腕をステファン中尉の背中に回し、自分の体に引き寄せた。内緒話をしているのか、それとも事故に遭って任務遂行が上手く果たせなかった同僚を励ましているのか。

「あの2人は仲が良いのですね。」

とシオドアはそばに来たリオッタ教授に話しかけた。教授が笑った。

「文化保護担当部の将校達は家族みたいに仲良しです。結束が固い。だから1人を怒らせると、全員を敵にする覚悟でいなければいけません。まぁ、一番とっつきやすいのが、マルティネス中尉ですがね。」

 ロホとステファンの両中尉が離れ、今度は並んで調査隊のメンバーの所にやって来た。ロホがマーベリック博士の代理リーダーとなったフランス人学者に言った。

「撤収の作業を始めてもらって結構です。出来れば今日の夕方迄にここを封鎖したい。ステファンと私は事故が起きた洞窟を調べます。ライトを貸してもらえますか。」

 本当はライトなんて必要ないんじゃないか、とシオドアは内心思った。ロホは暗がりで本を読めるし、ステファン中尉も前日はライトなしで洞窟内を歩いていた。
 こいつら、どこか変だ。ケツァル少佐も2人の中尉もアスルも・・・。
 考古学者達が遺跡に入り出したので、シオドアはロホに声をかけた。

「俺は君達と一緒に洞窟に入りたい。出土品の整理なんて、何をして良いかわからないし、昨日何が起きたのか確かめてみたいんだ。」

 ロホがステファンを振り返った。2人が目と目を見合わせた。数秒後にロホはシオドアに向き直り、O Kと言った。

「ライトをもう一つ借りましょう。そちらの人は・・・」

 シュライプマイヤーを見たので、シオドアはボディガードが何か言う前に素早く予防線を張った。

「ケビンは洞窟の入り口で待機だ。また何か起きたら、すぐに小隊長に知らせてくれ。」




第11部  紅い水晶     8

 研究室に入るとテオはケツァル少佐に電話をかけてみた。少佐は彼からの電話とわかったので、すぐに出てくれた。バックで船の汽笛らしき音がして、彼女が港湾施設にいることがわかった。 「出かけている時に申し訳ない。」 とテオは切り出した。 「ケサダ教授から依頼されて、文化保護担当部の人に...