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2021/09/07

第2部 地下水路  12

  お昼ご飯は大学のカフェだった。テオもギャラガもステファンも空腹だったが、相変わらずのケツァル少佐の食欲には及ばなかった。テオとギャラガは下水の臭いが微かに残る財布の中身を早く使ってしまいたかったので、少佐の分も支払った。ステファン大尉は財布をラス・ラグナスで置いてきたので文無しだった。当然彼の分も支払った。

「財布を買い換えないとな。」

 テオはテーブルに着くとそう言った。ギャラガは一つしか持っていない財布を眺め、溜め息をついた。するとテオが尋ねた。

「誕生日は何時だい? 財布をプレゼントする。」
「それはいけません。」
「否、俺が君を下水に突き落としたも同然だから。誕生日を教えないと言うなら、クリスマスに贈る。」

 それで仕方なく誕生日を告げた。そこへ少佐とステファンが食べ物を持って戻ってきた。食べ始めて間もなく彼女がギャラガに尋ねた。

「ゲンテデマと言う言葉をよく知っていましたね。」

 ギャラガは恥ずかしく思いながら言った。

「休日は1人で海へ出かけて浜辺で過ごすのです。街で遊ぶのに慣れていないし、友達もいないので。通りかかる漁師の会話を聞くともなしに聞いて耳に覚えのある単語だなと思ったのです。」
「泳ぎは得意ですか?」
「多少は・・・」
「よく行く浜辺はどの辺りですか?」
「グラダ・シティの南の方です。」
「ガマナ族を知っていますか?」
「スィ。」

 ギャラガは一瞬”心話”を使おうかと思ったが、テオがいるので言葉に出した。

「グワマナ族のことですね? ”ティエラ”はガマナと発音しますが。」

 テオが驚いて彼を見た。グワマナ族は”ヴェルデ・シエロ”だ。普通他部族は一般人に混ざって暮らしているが、グワマナ族は集団で生活しているのか? それも普通の人間のふりをして? 
 テオの驚きを感じて少佐が彼を見た。

「グワマナは大人しい部族で、現代も昔のしきたりを守って暮らしています。気の力も弱いので周囲に溶け込めるのです。国の南部で漁業や農業をして静かに暮らしていますよ。」
「だが、例の男はガマナ族の疑いがあるんだな?」
「確かめないといけませんが・・・」

 テオは先刻からステファン大尉が大人しいことが気になった。

「カルロ、まだ頭が痛むのか?」
「ノ・・・」

 大尉は物思いから覚めた様な顔をした。

「あの連中が誰を呪っているのだろうと気になったのです。呪いは相手を倒すだけではありません。呪った方も犠牲を強いられます。相手の命を奪うと自分も死ぬのです。」
「え? そうなのか?」

 テオはびっくりした。人を呪わば穴二つ。余程の覚悟がなければ他人を呪うことをしてはいけないのだ。これは神様を怒らせて呪われるのとは次元が違う。

「コンドルの目と人形の呪いは関係があるのかな?」
「同じ人間の仕業なら関係あるのでしょう。」

 少佐がギャラガをチラリと見た。

「でも今日の捜査はここで一旦休みにしましょう。少尉も貴方もシエスタが必要な顔ですよ。」

 確かにテオもギャラガも昨夜から一睡もしていなかった。睡眠だけはたっぷり取ったステファン大尉が申し訳なさそうな顔をした。

 

第2部 地下水路  11

 グラダ大学のメインキャンパスに到着した時、既にお昼前だった。早めに講義が終わった学生や、屋外で教師を囲んで授業をしているグループなど、敷地内は明るく華やかな賑わいを見せていた。ギャラガは生まれて初めて大学と言う場所に来て、緊張した。彼の様な貧しい生まれの人間には遠い世界だと思っていた。しかし周囲を歩き回っている学生達はきちんとした服装の者がいると思えば、ホームレス顔負けの見窄らしい身なりの者もいた。若い人も年寄りもいた。だがくたびれた雰囲気はどこにもなかった。どの人も活き活きとして見えた。
 ギャラガがケツァル少佐に買ってもらった古着は、大学では少しも古く見えなかった。同じようなファッションの人が多かったのだ。だからギャラガは気後せずにテオ達について行った。テオがグラダ大学の先生だと言うのは本当らしい。時たま学生が声をかけて来るのを、彼は「また明日な!」と言ってやり過ごした。
 やがて一行は博物館並みに重厚な石造の建物にやって来た。表示が出ていて、建物の右翼が文学部・言語学・哲学で左翼が考古学部・史学部・宗教学部だった。 建物自体の入り口の上には大きく「人文学」とあった。外観は植民地時代のものだが、中は改装されてかなり近代的だ。入ったところのロビーの突き当たりに本日の講義予定と在室の教授・教官達の名前が掲示されていた。電光掲示板だったので、ギャラガはちょっと驚いた。空港みたいだと思った。テオは考古学部にムリリョ博士の名前がなかったので、内心ホッとした。あの長老は嫌いではないが苦手だ。ケサダ教授は在室だと思ったが、少佐は宗教学部に向かった。
 目的の教授はノエミ・トロ・ウリベと言う女性だった。典型的な古典的セルバ美人で膨よかな体型で肌は艶々だが髪はシルバーだった。少佐がドアをノックすると1分ほどしてからドアを開けた。

「あら! シータ、久しぶり! 元気だった?」

 ケツァル少佐はウリベ教授の太い腕でギュッと抱擁された。少佐が息が詰まりそうな声で挨拶していると、ステファン大尉がこそっとその場を離れようとした。ウリベ教授は見逃さなかった。少佐を解放すると、すぐに「カルロ!」と叫んだ。ステファン大尉が固まり、彼も抱擁された。テオは人文学の建物にいる教授達とはあまり馴染みがなかったが、白人の教官はそれなりに目立つ。ステファンの次は彼だった。万力の様に締め付けられ、ステファンが逃げ出そうとした理由がわかった。

「ドクトル・アルスト、一度はお話したかったですわ!」
「光栄・・・です・・・ウリベ教授・・・」

 多分、誰も紹介も何もしていないのだが、ウリベ教授はお構いなしだ。初対面のギャラガ少尉まで犠牲になった。

「新しい学生かしら? よろしくね!」

 ギャラガは言うべき言葉を失して目を白黒させた。
 熱烈歓迎を受けた4人の訪問者は教授の部屋に招き入れられた。不思議な空間だった。アメリカ大陸南北から集められた土着信仰に使用される人形が所狭しと置かれていた。蝋燭や、祭祀の様子を撮影した写真を貼ったパネルや、書物や薬品の様な物が入った容器がそこかしこに置かれ、整理整頓されているのかいないのかわからない。奥に机と椅子があったが、教授は床に広げられたラグの上に座り込み、少佐も座ったので男達もそれにならった。
 ウリベ教授は”シエロ”なのだろうか”ティエラ”なのだろうか、とテオは様子を伺ったが、判別出来なかった。彼女は純血の先住民だ、それだけわかった。

「今日はお客さんが朝から多いわね。」

と教授がお茶をポットからカップに入れながら言った。

「朝一番にキナが来たわよ。それからアルフォンソ。次はシータとカルロが揃って来たのね。午後はマハルダが来るのかしら?」

 どうやらこの先生は大統領警護隊文化保護担当部の頼れる先生の様だ。少佐はアスル(キナ)もロホ(アルフォンソ)も命令を受けて真っ先にこの教授を頼ったことに、少し苦笑した。彼等がどんなことを聞いたかは尋ねずに、すぐに用件に入った。

「粘土の人形を使う呪術なのですが、鶏の頭とコカの葉っぱを使い、ジャガーの心臓を生贄に要するものは何を目的とするのでしょう?」
「ジャガーの心臓?」

 教授がカップのお茶を啜って、少佐を見た。

「写真ある?」

 少佐は空き家で男達がステファンを見つけた間に撮影した携帯の写真を見せた。それでウリベ教授は”ティエラ”だとテオはわかった。写真を拡大して教授は細部を眺め、やがて首を振って携帯を少佐に返した。

「嫌な図柄ね。儀式を中断してアイテムをかき回しているわ。何が目的かわからない様にしてある。」
「駄目ですか?」
「人殺しよ、それは間違いない。」
「このアイテムで準備は揃ったのでしょうか?」
「この儀式にジャガーは必要ありません。後は標的の持ち物か体の一部、髪の毛や爪を人形に埋め込んで、3日3晩呪文を唱え続ける。勿論、唱えるのはシャーマンでなければ効果はないわ。」
「一般的な儀式ですか?」
「呪いの儀式に一般的も何もないわね。でもこれは・・・」

 もう一度教授は少佐の携帯を受け取り、写真を拡大して隅々をじっくり再見した。そしてテーブルの角を指差した。

「これに気がついた、シータ?」

 少佐が携帯を覗き込んだ。そして素直に見落としを認めた。

「ノ、今ご指摘で気がつきました。」
「見せてもらって良いかな?」

 テオが好奇心で声をかけると、ウリベ教授は愛想良く見せてくれた。空き家のテーブルの角に光る小さな物がくっついていた。この形は・・・。

「魚の鱗ですね、ウリベ教授?」
「スィ、流石に生物学部の先生ね。これは鱗だわ。鶏の頭に加えて魚も贄にしたのね。」
「魚が加わると儀式の意味が違って来ますか?」
「違いはしませんが、シャーマンの出身がわかります。」

 テオは今朝見かけた2人の男を思い出してみた。ばっちり見えた訳ではないが、どちらも純血種の先住民に見えた。老人は口元に痣の様な物があった。あれは痣か? そうではなくて、もしや・・・? 彼がそれを言おうとすると少佐も口を開きかけた。2人同時に言った。

「口元に刺青・・・」

 互いに顔を見合った。少佐が先に尋ねた。

「老人の方にありましたね?」
「スィ。皺で痣みたいに見えたが、青黒い模様だと思われる。」

 ウリベ教授が立ち上がり、棚から本を一冊抜き取って戻った。パラパラとページをめくり、写真を客に見せた。

「こんな模様?」

 それは先住民の男の写真で、口の両端に青黒い波模様の刺青が入れられていた。隣のページは似たような民族衣装を着た男で、少し異なるがやはり波模様の刺青を口元に施していた。

「これは、ゲンテデマよ。」

と教授が言った。テオはケツァル少佐が「はぁ?」と言う表情をするのを初めて見た。

「それは部族名ですか?」
 
 すると予想外の方向から返事が来た。

「漁師です。」

 少佐とテオは後ろを振り返った。ステファン大尉は隣を見た。ウリベ教授がにこやかにギャラガ少尉を見た。ギャラガは赤くなって目を伏せた。教授が優しく頷いてから、説明した。

「スィ、漁師です。ゲンテ・デル・マール(海の民)のことよ、シータ。東海岸の漁師達は気取って自分達のことをそう呼ぶの。この刺青を施している漁師は、南の方のガマナ族ね。でも最近は顔に波模様を入れる人は少ないわ。野暮ったく見えるから、若者は腕や背中に入れたがるの。漁師もやらないからね。観光業に力を入れているわ。」
「では、この写真のテーブルの儀式を行っていたのは、ガマナ族の元漁師でシャーマンをしている人ですか?」
「しているのか、していたのかわからないけど、そんなところでしょうね。」

 

 

第2部 地下水路  10

  テーブルの上には粘土の他に蝋燭の燃え残りが5個、干からびた鶏の頭部3個、萎びた植物の葉の束が残っていた。

「心臓はコンドルの神様への生贄でしょう。」

とケツァル少佐が言った。

「ロホがそのコンドルの神様がどう言う力を持つ精霊なのか調べてくれています。」

 テオはステファン大尉が不満そうな表情になったのを見逃さなかった。これは彼の任務なのだ。しかし完全に大統領警護隊文化保護担当部にお株を奪われている。それは彼が望んだことではなかった。古巣の文化保護担当部に介入を許してしまったのは、彼自身の失敗に原因がある。彼は悔しいのだ。些細なミスで敵に捕虜にされて元上官に助けられる羽目になったことが、口惜しいのだ。それに彼はその元上官を超えたくて修行に励んでいると言うのに。
 少佐がギャラガに命じた。

「家の中を詳細に調べて犯人の身元特定の糸口を探しなさい。」

 ギャラガがキビキビと動き始めた。テオも一緒になって屋内のガラクタを調べ出した。少佐がステファンに尋ねた。

「敵はどうして急に撤収したのです? 貴方が電話をかけたからですか?」
「スィ。爺さんが私が放った微細な気を感じ取ったのです。電話の電波が結界を破ったとかなんとか言っていました。」
「結界を破った? 電波で破られる結界ですか?」

 少佐が髪を掻き上げた。考え込む時の彼女のポーズだ。

「結界は我々一族が互いに争うのを防ぐ為の防壁です。人(この場合は”ヴェルデ・シエロ”限定)や石や矢の投擲は防げますが、電波は防げないでしょう。」
「”ティエラ”が作る物は結界を通りますよね?」
「通ります。こちらが意識して破壊しない限りは弾丸でもミサイルでもなんでも通ります。」
「彼は私が電話をかけたので、私の気が彼の結界を破ったのだと勘違いしたのでしょう。」

 少佐は頭から手を下ろした。

「結界を張って呪い人形を使う儀式をしていた・・・その年寄りはシャーマンですね。」
「ブーカのマレンカ家の様な?」
「ノ、マレンカの一族は神に仕える神聖な家柄です。他人に呪詛をかけるような下品なことはしません。」

 テオが戻って来た。

「何にもない家だ。空き家に勝手に入り込んで寝グラにしていたんだろう。」

 ギャラガも居間に戻って来た。

「ほんの2、3日の滞在だった様です。儀式を行う場所としてここを見つけていたのでしょう。住んでいた形跡はありません。」

 そうなるとケツァル少佐の次の決断は早かった。

「グラダ大学へ行きましょう。」

 テオは目的の人物に当たりがついた。

「ケサダ教授かムリリョ博士を訪ねるんだな?」

 少佐がニッコリしたので、またステファン大尉が不満げな顔をしたが、テオは敢えて無視した。君は彼女がどれだけ君のことを心配していたか知らないだろう、と彼は心の中で呟いた。



2021/09/06

第2部 地下水路  9

  水で湿らせた古いタオルでステファン大尉の頭髪を拭うと、ドキッとする程血で汚れた。しかし当の傷の方は既に治りかけていて、頭皮に赤い線状の傷口が見えただけだった。気絶していた途中で苦い液体を飲まされたと彼が言うと、少佐がそれは麻酔効果がある薬草の汁だろうと言った。捕虜を眠らせて逃亡を防ぐのが目的で与えたのだろうが、眠ったお陰でステファンの頭部の傷の治りが早くなったのだ。
 何か覚えていることはないか、とテオが尋ねると、大尉は考えてからこう言った。

「若い男は魚臭かったです。」

 魚? テオと少佐は顔を見合った。ギャラガは遺留品のタバコの吸い殻を見た。ラス・ラグナス遺跡に落ちていた抑制タバコではなく、セルバ共和国なら何処ででも手に入る安物の既製品紙巻きタバコだ。

「遺跡に来た人物と同一でしょうか?」

 彼が呟くと、大尉が頷いた。

「同じ人物だ。私は君とデネロスと別れてドクトルが吸い殻を拾った場所へ行った。そこで人の気配を感じた。恐らく、私が近づいたので、先にそこにいたヤツが”入り口”に飛び込んだのだ。私は”入り口”を見つけ、うっかり手を中へ入れてしまった。先に入ったヤツが”通路”を閉じようとしたので、吸い込まれてしまったらしい。咄嗟に警報を発するのが精一杯だった。」
「それと財布のばら撒きとね。」

とテオが口を挟んだ。

「何か見つけたら声を出して構わないって言ったのは、何処のどなただったかな?」
「虐めないで下さい、テオ・・・」

 ステファン大尉が情けない顔をした。怖くて少佐の目を見られない様だ。

「目隠しされて、頭は痛いし、で暫く気を発すのを控えていました。それにあの爺さん・・・だと思いますが、年嵩の方が、やたらと私の心臓を欲しがるので、ナワルを使えない”出来損ない”だと思わせる為に出来るだけ力を使わないようにしていました。」
「どうしてあの年寄りは大尉の心臓を欲しがったのです?」

 ギャラガの質問にケツァル少佐が答えた。

「儀式に使う生贄が欲しかったのです。」

 彼女が茶色の塊をテーブルの上に転がした。土の塊に見えた。テオはそれを遠慮なく摘んで見た。

「粘土の塊に見える。」
「スィ。粘土で人形を作っていたのです。」
「人形を使う儀式と言えば・・・」

 大尉が考え込んだ。テオが先に思いついた。

「呪いだね?」
「スィ。それもただの呪いではありません。生贄を要求している儀式ですから、目的は呪殺でしょう。」

 少佐が不潔な物を見るように粘土の塊を見るので、テオはテーブルに置いた。ちょっと指を洗いたくなった。

「粘土の人形の中に心臓を入れるのか?」
「ノ。人形の中に入れるのは、殺したい相手の持ち物や髪の毛です。儀式を行って、最後に人形の頭を叩き潰す、或いは胸に釘を打つ、首をへし折る・・・」
「わかった。」

 テオは少佐を遮った。ギャラガはびっくりした。上官が話している時に遮ると懲罰ものだ。しかしテオは民間人で白人だった。軍隊の規則も”ヴェルデ・シエロ”の作法も無関係の人だ。平気で少佐を遮り、また質問した。

「それじゃ、生贄はどこで使うんだ? それにコンドルの神様の目玉はどこなんだ?」


第2部 地下水路  8

  歩きながらケツァル少佐が説明した。

「先刻感じていた気の放出が、金属音が聞こえる直前に途切れたのです。恐らく、ドアを開けた人物が放っていたのでしょう。」
「”ヴェルデ・シエロ”か?」
「スィ。 喋っていた言葉も一族の言語です。」
「なんて言っていたんだ?」

 するとギャラガが翻訳した。

「自信はありませんが、『心臓をくれ、ジャガーよ』と言っていたと思います。ちょっと地方の訛りがあるような・・・。」
「はぁ?」

 テオは少佐を見た。少佐が頷いた。

「その通りです。生贄の要求です。ですが、彼は後から来た男に叱られました。」
「叱られた?」
「”出来損ない”に構うな、と2人目の男は言ったのです。」
「すると敵は少なくとも2人、カルロを”出来損ない”の”ヴェルデ・シエロ”と看做して捕まえているんだな?」
「1人目は年配の様な気がします。恐らくカルロがナワルを使えるとわかっています。2人目はカルロの力を見くびっているか、あるいは庇っています。」

 突然、少佐は立ち止まり、片手を上げて男達を足止めした。家の角から向こう側をそっと覗き見た。テオも気になって身を屈め、彼女の脇から角の向こうを見た。
 薄汚れた古いワゴン車が路地に停車していた。横の家屋から老人と若い男が出てきた。老人は白髪頭で長髪だ。顔の皺が深いが、口元に青黒い痣が見えた。くたびれた服装で、擦り切れた革の鞄を大事そうに抱えていた。若者は現代風の髪型で、服装も小ざっぱりしていた。老人を先住民言語で宥めているのか叱っているのか、何か言いながらワゴン車の助手席に押し込めた。急いで運転席に回って車に乗り込むとエンジンをかけた。ワゴン車は古いがエンジンは快調な様で、すぐに動き出した。彼が車に乗り込む際に周囲を警戒して見回したので、少佐とテオは顔を引っ込めた。車が走り出すと、角から曲がって、車番を見た。泥だらけだが、何とか読めた。
 ワゴン車が次の角を曲がって去ると、テオとギャラガは男達が出てきた家の中へ駆け込んだ。入り口は無施錠で、中に入ると元から空き家だったのか、生活臭がなかった。最近の物と思われるテイクアウトの食べ物のゴミとビールの空き缶が床に散乱していた。テーブルだけが綺麗で、しかし上に何か訳のわからない物が載っていた。
 テオとギャラガは人間の気配を感じなかったので、不安に襲われながらも声をかけた。

「カルロ!」
「ステファン大尉!」

 隣の部屋でドタドタと床を蹴る音がした。2人はドアを押し開け、そこで縛られて転がされているステファン大尉を発見した。大尉の近くに携帯電話が転がっていた。
 テオはステファンに駆け寄ると上体を起こした。すぐに目隠しと猿轡を取ってやった。

「大丈夫か?」
「水・・・」

とステファンが囁いた。

「水を下さい。口の中が苦い・・・」
「待ってろ!」

 テオは元の部屋に戻った。少佐がテーブルの上の物を検めながら彼に苦情を呈した。

「安全確認もせずに家の中に突入するものではありません!」
「カルロが心配だったんだよ。それより水だ。」

 別のドアがあり、そちらは少佐が安全確認で開いたのだろう、開放されたままだった。テオはそちらへ入り、台所だと判断した。食器はあったが水道は出なかった。中庭へ出るドアがあったので、外に出ると井戸があり、ポンプで水が出た。ポンプは使われているのだろう、水は綺麗だったので、台所からコップを持って行き、洗ってから水を入れた。
 屋内で銃声が聞こえた。彼は慌てて走った。しかし少佐は平然と居間におり、駆け込んで来たテオを見て、ちょっと笑った。

「ギャラガ少尉がカルロを縛っている革紐を銃で撃っただけです。」
「どうして?」
「ナイフを持っていなかったので。」

 脱力した。そこへギャラガと共にステファン大尉が現れた。足元はしっかりしている様だ。彼は少佐がいるのを見て、罰が悪そうな顔をした。

「ご心配おかけしました。」
「その通りです。」

 少佐は部下の失態には冷たい。特に、将来を期待している部下には。彼女は椅子を指さした。

「頭を見せなさい。傷を診ます。」

 椅子に腰を下ろしながら、ステファンが尋ねた。

「何故頭を殴られたとご存知なのです?」
「頭痛で気を使えなかったのでしょう?」
「そうです・・・」

 少佐はギャラガの目を見た。恐らくさっきのテオと同じ内容の叱責が伝えられたのだろう、若い少尉がしゅんとなった。テオは急いで水を汲みに戻った。

2021/09/05

第2部 地下水路  7

  少佐のベンツでテオとギャラガが”着地”した下水道が通る地区へ行った。途中でベンツが進入するには困難な道幅となり、少佐は男2人を降ろして大胆にもかなりのスピードで後退して行った。こんな狭い道をよく速度を落とさずにバック出来るものだと男達は感心した。

「普通、女性はバックが苦手だと思っていましたが・・・」

とギャラガが呟くと、テオが面白そうな顔をした。

「大統領警護隊の女性隊員もかい?」
「スィ。たまに他の車両にぶっつける隊員がいます。」
「それは男女の脳の違いなんだが・・・」

 テオはもう少しで生物学の講義を始めてしまいそうになって自重した。ギャラガは興味ないだろうし、遺伝子の知識も細胞の知識もない若者を混乱させても意味がない。

「ケツァル少佐を他の女性と同等に考えることが根本的に間違っていると思う。ただ、ちゃんと男女の差も見える時があるがね。」
「どんな時です?」
「彼女は広範囲に長時間結界を張れる。」

 ああ、とギャラガはそれだけでテオが言いたいことを理解した。

「女性は守護の力に優れています。男性は攻撃的な面に力を使いますから。」
「スィ。普通の人間も同じだ。男女の能力は守るか攻めるかで得手不得手が現れる。だから文化保護担当部の男達は少佐の承認下で働く時に安心出来るのか、能力を存分に発揮する。彼女に内緒で活動すると失敗が多いんだ。」

 彼等は口をつぐんだ。住民が通り過ぎて行った。入れ違う様に少佐が歩いて戻って来た。服装は民間人だが背筋をピンと伸ばして颯爽と歩く姿は軍人だ。拳銃ホルダーが見えないが、恐らく足首に装着しているのだろう。
 テオとギャラガのそばに来ると、彼女が尋ねた。

「何か感じませんか?」
「何かって何を?」

とテオは訊き返したが、ギャラガは産毛が逆立つような感覚を覚えた。

「何処かで誰かが気を放っていますね?」
「スィ。弱いですが、長い時間持続している様です。」
「大尉でしょうか?」
「ノ。これはカルロではありません。」

 ケツァル少佐は部下達の気の波動を判別する。誰がどんな状況で放ったか感覚でわかるのだ。ギャラガは知らないだろうが、彼の気も既に彼女に覚えられている。
 テオは”ヴェルデ・シエロ”達のアンテナに任せることにして、邪魔をしないように黙って立っていた。
 沈黙して立っている少佐を見て、ギャラガも息を整えて心を空白にした。なんだか気持ちの悪い波動だ、と思った時、テオの携帯電話が鳴った。少佐に睨まれて、テオは慌てて電話を出した。誰だ、こんな大事な時に・・・。

「未登録番号だ・・・待てよ、この番号は・・・」

 ギャラガが横から覗き込んだ。

「それは、土曜日に購入した大尉のプリペイド携帯です!」
「確かか?」
「スィ!」

 彼の自信のある声を聞いて、テオはボタンを押した。

「カルロ?」

 返事はなかった。ケツァル少佐もそばに来た。電話は繋がっている。何か物音が聞こえた。人間の呻き声? テオはもう一度呼びかけた。

「カルロ、君か?」

 また呻き声が聞こえた。こちら側の3人は互いの顔を見合わせた。ギャラガが呟いた。

「大尉が気の力で電話をかけて来ているんです。」

 その時、呻き声が止んだ。金属が軋む音が聞こえた。物音が聞こえた。不明瞭で何の音かわからないが足音だろうか。やがてボソボソと男の声が聞こえた。テオには理解出来なかったが、ギャラガは怪訝な表情になり、少佐は硬い表情をした。テオは「ヤグァ」と聞こえた様な気がした。
 また別の男の声が聞こえた。腹を立てている様だ。最初の男と口論になった、とテオは感じた。ちょっとドタバタと音がして、突然スペイン語が聞こえた。

ーーお前、電話をかけたのか?!

 プツン、と電話が切れた。
 ケツァル少佐が顔を上げた。

「面白い!」

と彼女が言った。そして南の路地を指差した。

「あっちです。」


2021/09/04

第2部 地下水路  6

 ケツァル少佐は5杯目のコーヒーを注文し、3皿目のトーストを食べた。周囲のテーブルの客は既に5回転ほどしている様な気がした。テオが「今日は火曜日だな」と呟いたので、ギャラガは頷いた。捜査期限は明日だ。2日でコンドルの目を取り返して元の位置に戻せるだろうか。否、その前にカルロ・ステファン大尉を見つけ出して無事に救出出来るだろうか。
 視線を感じて顔を上げると、ケツァル少佐の後ろのテーブルにロホとアスルが座っていた。思わず先輩に敬礼すると、テオが気づいて後ろを振り返った。

「ヤァ、ブエノス・ディアス!」

 彼が陽気に挨拶すると、ロホが微笑み、アスルはフンと言った。

「駐車場にベンツがあるのに開庁時間になっても少佐が来られないから、様子を見にきたら、ここで油を売っておられる。」

 アスルが皮肉を言った。少佐が地図を見たまま応えた。

「誰が油を売っているんです?」

 ロホがアスルの顳顬をピンっと指で弾いた。

「代理でお仕置きをしておきました。」
「よろしい。」

 少佐は電話を出して何処かに掛けた。暫く呼び出し音を聞いてから、電話に出た相手に名乗った。

「大統領警護隊文化保護担当部指揮官ミゲールです。」

 相手の挨拶を聞いてから、彼女は尋ねた。

「ラ・コンキスタ通りとメルカトール通りの交差点広場の下水道はどんなルートで何処へ流れていますか?」

 また数分間待ってから、彼女は「ではよろしく」と言って電話を切った。電話をテーブルの上に置いて、後ろのテーブルを振り返った。

「今日の申請は多いですか?」
「どうでしょう、まだ1日が始まったばかりですから。」

 いかにもセルバ的な返事をしたロホは己の携帯を出して何かを調べた。

「ホルフェからのメールでは3件だそうです。」
「では明日に延ばしなさい。」

 文化保護担当部の業務内容を決定するのは指揮官だ。

「アスルはラス・ラグナスの遺跡に関する情報を収集しなさい。未調査の遺跡ですから、資料は少ないです。飛ぶことを許可しますが、くれぐれも無理をせずに慎重になさい。」
「承知。」

 アスルが立ち上がって店から出て行った。ギャラガは「飛ぶ」の意味がわからず、テオを見た。テオは何か知っていそうな表情だったが言葉に出さなかった。店内の客層が変化していた。早朝は互いに顔馴染みの感じだったが、時間がたつと見知らぬ者同士になってきたみたいだ。
 少佐は次の命令を出した。

「ロホはコンドルの神様に関して情報を収集しなさい。怒りの鎮め方を必ず調べるように。」
「承知しました。」

 ロホも静かに立ち上がって店から出て行った。
 少佐の電話にメールが着信した。画面を見た少佐はそれをテオに見せた。テオが画面を見て頷いた。そしてギャラガに回してくれた。グラダ・シティの下水道配置図だった。紙の地図を撮影したもので、少佐が質問した下水の流れが赤いペンで強調されていた。それはギャラガとテオが歩いたルートで、少佐が黙って指先である一点を指した。2人が”着地”したポイントだ。その近辺にカルロ・ステファン大尉はいるに違いなかった。

 

  

第2部 地下水路  5

  カルロ・ステファンは”出口”から出た途端に後頭部に打撃を受けて昏倒した。一度目が覚めたが、目を開けないうちに口の中に苦い液体を流し込まれ、また意識を失った。
 2度目に目が覚めた時は、縛られていた。猿轡を噛まされ、目隠しをされ、後ろ手に縛られ、足首もご丁寧に縛られていた。硬い床の上に転がされていた。後頭部がズキズキ傷んだが、手を縛られているので傷の確認が出来ない。
 目隠しされていると言うことは、敵は私が何者かわかっているに違いない。
 手を縛っている物を切ろうとしたが、切れなかった。金属なら簡単に砕けるが、革紐はいけない。もがくと却って皮膚に食い込んだ。ロープだったら良かったのに、と思った。気を放とうとすると頭部の傷がズキリと痛んだ。傷が治るのを待つしかない。
 遠くで人の話し声が聞こえていたが、言葉を聞き取れない。ボソボソと聞こえるだけだ。男が2人、と彼は数えた。言い争っている様にも聞こえた。
 ここは何処なんだ? オルガ・グランデか? それとも何処か地方の村か? ラス・ラグナスの”入り口”に吸い込まれてから何時間経った? 
 声が止んだ。床の微かな振動で人が近づいて来るのがわかった。床は木製だ。じっとしていると錆びた蝶番が軋む音がして、冷たい空気が流れて来た。ドアが開けられたのだ。人の気配があった。戸口で立ち止まってこちらの様子を眺めているのだ。タバコの臭いがした。抑制タバコではない、普通のタバコだ。安物の紙巻きタバコだ。男だ。戸口に1人、向こうの部屋にもう1人。
 戸口の男が近づいて来た。ドアを閉めて、さらに近づいて来た。タバコの臭いは少し薄れた。喫煙者は隣の部屋の男だ。入って来た男がステファンの側で立ち止まり、かがみ込んだ。

「目が覚めたか?」

と若い男の声がした。

「まさか一族の者があの遺跡に行くとは予想外だった。しかも”入り口”を見つけて追いかけて来るとはな!」

 金属音が聞こえた。ステファンは、その余りに聴き慣れた音にドキリとした。彼自身の拳銃の安全装置を外す音だった。銃を奪われたのだ。考えれば当然だった。右腕を吸い込まれ、左手で辛うじてポケットの中の財布やパスケースを地面に落として”入り口”の場所を仲間に教える目印にするのがやっとだった。ホルダーの拳銃を出す余裕がなかった。

「政府支給品の印が付いている。」

と男が言った。

「お前、何者だ? 警察官か? 憲兵か?」

 メスティーソが大統領警護隊だとは思い付かない様だ。ステファンはいきなり冷たく硬い物で頬を軽く叩かれた。拳銃の先で突かれたのだ。

「大人しくここで寝ていろ。そうすれば殺さない。するべきことが終わったら釈放してやる。」

 男が立ち上がり、戸口へ行った。ドアを開ける音がして、タバコ臭い空気が入ってきた。もう1人の男の声が聞こえた。年配の嗄れた声で、”シエロ”の言語で言った。

「ジャガーを生贄に使わせろ。」

 若い方が言った。

「何度言えばわかる、あれはジャガーではない。”出来損ない”だ。ナワルを使えない。」

 ドアが閉じられた。
 ステファンは己がミックスであることに感謝した。



第2部 地下水路  4

  次にケツァル少佐がテオとギャラガを連れて行ったのは、テオには余りにも馴染み深い店だった。セルバ共和国文化・教育省が入居している雑居ビルの1階にあるカフェだ。彼女も朝食はまだだったので、そこで朝ご飯を3人で食べた。正直に言えば、ギャラガにはファストフードの店での食事は初めてだった。ちょっとした弾みで少佐と目が合ってしまった。

ーー何から何まで貴方は初めてなのですね。

と少佐が”心話”で語りかけてきた。

ーー良いことではありません。早いうちに本部から出なさい。

 ギャラガは慌てて目を伏せた。”心話”の拒否は目上の人に対して失礼な態度を取ることになるが、彼は心を読まれたくなかった。テオが提案してくれた文化保護担当部に入れてもらう話を少佐に知られたくなかった。もしここで少佐に拒否されたら、将来が閉ざされた気分になってしまいそうだった。
 テオがカフェの入り口に置かれている無料配布の観光マップを持って来た。グラダ・シティの観光マップだ。

「下水道は描かれていないが、今朝俺達がラス・ラグナスから到着したのはこの辺りじゃないかな。」

 彼は街の一角を指で押さえた。ラ・コンキスタ通りをずっと南下した辺りだ。ギャラガはグラダ・シティっ子なのにグラダ・シティのことをよく知らない。思わず、どんな場所ですか、と尋ねてしまった。少佐が遠慮なく答えた。

「低所得者層の住居が集まっている地区です。スラムではありません。」

 つまり、先刻蒸し風呂に入れてもらった薬屋の様な家屋が密集している地区だ。路地があり、増改築を繰り返した複雑な家があり、中庭があり、迷路の様に入り組んだ道路があり・・・。

「俺達はカルロを追いかけて”入り口”に入った。恐らく彼も俺達が出た場所の近くに出た筈なんだ。」
「下水道か地上かの差でしょう。」

と少佐が意見を述べた。

「それなら、消えてから5時間・・・否、もう6時間以上経っている。何らかの連絡を寄越しても良さそうなものだ。」

 テオの言葉を聞いて、ギャラガはうっかり考えを口に出した。

「気絶しているのかも知れません。」

 少佐が彼を見たので、彼はまた目を伏せた。彼女が溜め息をついた。心を開かない若者にちょっとうんざりした様だ。彼女はテオに話し掛けた。

「遺跡で抑制タバコの吸殻を拾ったそうですね。」
「スィ。カルロとアンドレの意見では、手製だそうだ。」
「遺跡荒らしは一族の者でしょう。カルロは捕まって正体がバレたのだと思います。」
「身分証は置いて行ったぞ。」
「でも通路を通った。だからバレたのです。電話を使えない状態ですが、生きているのでしょう。」

 淡々とした物言いだ。ケツァル少佐にとってカルロ・ステファンは他の男達とは違う存在だ。大事な部下で、可愛い弟で、愛しい男・・・。しかし彼が危機に陥っても彼女は決して慌てない。否、一度慌てて彼女自身が撃たれると言う失態を演じてしまった。だから彼女は今冷静でいる。焦ってもカルロを見つけられないとわかっているからだ。
 テオが小声で尋ねた。

「”離魂”でも探せないか?」
「気絶している間は無理です。彼が私を呼んでくれれば行けますが。」

 り・・・離魂?! ギャラガはびっくりした。そんな長老級の技を”心話”並みの気軽さで口に出すこの2人は・・・? 
 少佐がギャラガを見た。

「ギャラガ少尉、こっちを見なさい。」

 ギャラガはビクッとして上官を見た。少佐が命令した。

「もう一度、今朝歩いた下水道を思い出しなさい。他のことは考えなくてよろしい。」

 あんなトンネルを思い出して何になるのだろうと思ったら、少佐が眉を寄せた。やばい、「聞かれた」。深呼吸して下水道だけを思い出した。カーブや曲がり角や支流管や壁の様子・・・。梯子まで思い出すと、少佐が「グラシャス」と言った。そして彼女は目を閉じた。少し考え込む様子だった。少佐の電話に着信があった。彼女は電話を出すと、見もしないでテオに渡した。テオが見ると、画面に「マハルダ」と出ていた。彼は代理で出た。

「ケツァル少佐の電話だ。」
ーーテオ!

 デネロスが大きな声で叫んだので、テオは電話を耳から遠ざけた。

ーー無事に”着地”したんですね!
「ああ、無事に着いた。グラダ・シティだ。」
ーー良かった! 
「だが、まだカルロは見つからない。現在捜査中だ。」

 テオは少佐を見た。少佐は特にデネロスと話をしたい気配がなかった。目を開いて地図を睨んでいた。それで彼女に尋ねた。

「マハルダを撤収させて良いか?」

 少佐が無言で頷いた。彼は電話に向かって言った。

「少佐が帰って来いってさ。」
ーー承知しました。
「チコとパブロによろしく言っておいてくれ。」
ーーあ・・・

 デネロスが申し訳なさそうに言った。

ーーあの2人はもうあなた方のことを忘れました。


第2部 地下水路  3

  広場から徒歩15分、入り組んだ路地の奥に奇妙な家があった。入り口に獣の頭蓋骨が飾ってある。牛なのか鹿なのか、よくわからない。中に入ると薄暗く、薬の匂いがした。ケツァル少佐が「オーラ!」と声をかけると、先住民の男が現れた。くたびれたTシャツに短パンの軽装で、頭髪は短く刈り上げている。年齢は40絡みか? 少佐が先住民の言葉で話しかけると、向こうも同じ言語で答えた。テオが通訳を求めてギャラガを見たが、ギャラガにも理解出来ない言語だった。”シエロ”の言葉なら大統領警護隊に入隊してから習ったので話すのはイマイチだが聞き取りは出来る。だが、これは未知の言語だ。つまり、”ティエラ”先住民の言語に違いない。絶滅したと考えられている種族の言語を知っていて、現代も生きている言語を理解出来ないなんて奇妙だが、それが”ヴェルデ・シエロ”なのだ。
 少佐が振り返って、ドブ臭い男達を家の主人に紹介した。そしてやっとテオとギャラガに主人を紹介した。

「薬屋のカダイ師です。体を洗ってくれます。1時間後に迎えに来ますから、ここで綺麗にしてもらって下さい。」

 そしてさっさと家から出て行った。呆気に取られている2人にカダイ師が来いと合図した。ついて行くと中庭に出た。石造りの小屋があり、薬の匂いはそこから漂っていた。カダイ師が服を脱げと身振りで命じた。どうやらスペイン語は話さないようだ。2人が服を脱ぐと、小屋の入り口を開けて、中に入れと言われた。
 蒸し風呂だった。入り口に香油が入った瓶が置かれていて、全身に塗るようにと命じられた。ミント系の匂いがする香油を塗りたくり、木製のベンチに座って、そこで蒸された。空腹に高温が辛くなったので、途中で戸を開くと、カダイ師は何かを燃やしていた。水を要求すると、家の中から水の瓶を持ってきてくれた。

「エル・ティティの家も週末は街の共同浴場で蒸し風呂を使うんだ。」

と言うと、ギャラガが微笑んだ。

「大統領警護隊も週に一回蒸し風呂の日があります。」
「やっぱり蒸されるのか。」
「スィ。この地方の伝統です。」
「北米でも先住民の文化にある。医療行為だったり、社交だったり、宗教的意味合いがあったり、色々だね。」

 素っ裸で話をした。テオは遺伝子学者だと言い、バス事故で記憶喪失になったことでセルバ共和国と大統領警護隊文化保護担当部と繋がりが出来たのだと言った。詳細を語らなかったが、母国を捨ててセルバ共和国の国籍を取得し、やっと1年半経ったと言った。

「亡命当初は内務省の監視がついていたけど、やっと自由になれたんだ。今はセルバ国内、何処でも好きな場所に行ける。国外に出る許可をもらえるのはまだ半年かかるらしいが、今のところ外国に用事はないしね。」
「国内何処でも自由に行けるんですか・・・羨ましいです。」
「君も休暇は外出出来るんだろ?」
「そうですが、外に知り合いも友人もいませんし、何処に行けば良いのかわからないので、1人で海岸で海を眺めるか、官舎か訓練施設で過ごします。」
「その若さで籠っているのか?」

 テオが呆れた顔をした。

「それじゃ、次の休暇は俺のところに来いよ。」
「え?」
「大学で学生達と過ごすなり、俺の家で寝泊まりして昼間は何処かへ遊びに行けば良いさ。週末は俺と一緒にエル・ティティに行こう。親父は警察署長で、若い巡査が4人いる。彼等と過ごしても面白いぜ。田舎の警察は市民が職務にくっついて来ても平気だから、警察業務の見物も出来る。」

 ギャラガは何と答えて良いかわからなかった。黙っていると、テオが肩をポンと叩いた。

「兎に角、今はカルロを探し出して、コンドルの目の謎を解くのが先決だな。」

 小屋の戸が開いて、カダイ師が外に出ろと合図した。庭に出ると中年の先住民の女性がいた。素っ裸だったので赤面したが、彼女は一向に気にせずに2人に水を掛け、石鹸を手渡し、香油を洗い流すようスペイン語で命じた。頭のてっぺんから足の爪先まで綺麗になり、臭いも取れた。タオルを手渡され、体を拭いていると、女性が衣服を持ってきた。古着だがサイズは2人それぞれにぴったりだった。靴もあった。

「俺たちの元の衣服と靴は?」

とテオが尋ねると、女性は素っ気なく答えた。

「燃やした。」

 庭の隅の黒い灰の塊を見て、それ以上言うべきことはなかった。所持品を返してもらい、紛失した物がないか調べた。どうやら無事だ。
「店」に戻ると、ケツァル少佐が待っていた。恐らく少佐が衣料品を購入してくれたのだ、とテオには見当がついた。彼女はカダイ師に料金を支払い、しっかり領収書を取った。

「誰に請求するんだ?」

とテオが尋ねると、少佐は領収書をポケットに仕舞いながら答えた。

「本部です。これは捜査の必要経費です。」

第2部 地下水路  2

  どれだけ歩いたのかわからなかった。時計では午前5時だ。8時間も歩いたのか? テオは空腹を感じた。ギャラガも同じだろう。しかしこの悪臭と汚物まみれの世界で食べ物の想像をしたくなかった。本当にカルロ・ステファンはこの下水道へ来たのだろうか。全く見当外れの場所に来てしまったのではないのか?
  疑問に思ううちにいきなり行き止まりになった。細い支流が集まって主管になっているのだった。歩道も行き止まりで、支流は人間が立って歩ける高さではない。その代わり天井から鉄梯子が下りているのがギャラガにはわかった。

「行き止まりです。しかし鉄梯子があるので、上に出られます。」

 テオも微かに上から光が差し込んでいる様な気がした。梯子がぼんやり見えた。

「取り敢えず上に上がろう。ここが何処か確認しなければ。グラダ・シティだったら、一旦ケツァル少佐に連絡を取って、俺の家に送ってもらう。見知らぬ場所でも電話が通じれば、何とかなるさ。」

 楽観的なテオの意見にギャラガはもう驚かなくなっていた。この人は落ち込むことがないのだろうか。いつも前向きで、だから大統領警護隊文化保護担当部はこの人を守り神だと位置付けているのか。彼等は梯子を上っていった。
 グラダ・シティは複雑な街だ。古代都市の上に先住民の町が出来て、そこにスペイン人が植民地を築いた。独立してから近代化が進み、高層ビルが海岸線に並び、オフィス街はピラミッドを超えない高さのビルがひしめき合い、植民地時代の建物を利用した官庁街、商店街、平屋の家屋が建ち並ぶ庶民層の住宅街、瀟洒なコンドミニアムが点在する高級住宅地、それにスラム街もある。
 ギャラガが押し上げるとマンホールの蓋は簡単に開いた。幸い朝が早いので車の通りは少なく、石畳の広場に出た。まだ店開きする前の屋台がシートを被って並んでいた。低い家屋の向こうにグラダ大聖堂の尖塔が見えて、グラダ・シティにいるのだとわかった。ギャラガはテオが這い出すのに手を貸した。

「おめでとうございます。グラダ・シティです。」

 思わず冗談が出た。テオが苦笑して周囲を見回した。何処だか見当がついた。ポケットから電話を出すと、アンテナが立ったのでケツァル少佐にかけた。午前6時前だった。少佐は起床している筈だ。
 5回の呼び出し音の後で、彼女の不機嫌な声が聞こえた。

「ミゲール・・・」
「アルストだ。」
「何か御用ですか?」

 当然少佐はテオがラス・ラグナスにいると思っている筈だ。まだデネロスはオルガ・グランデ基地に戻っていないだろう。テオは言った。

「今、ラ・コンキスタ通りとメルカトール通りの交差点広場にいる。アンドレ・ギャラガと2人だ。迎えを頼む。」

 少佐が30秒沈黙した。いる筈のない場所から電話をかけて来た彼の、そこにいる理由を考えたに違いない。そして言った。

「部下を迎えに遣ります。」

 テオはビニルシートを用意しろと言おうと思ったが、その前にせっかちな少佐は電話を切ってしまった。
 泥だらけで立っている2人の男を、街行く人々が胡散臭そうに見ながら通り過ぎた。何処かで体を洗わなければ、とテオは思った。

「水が使える場所が近くにないかな?」

 ギャラガが通りの向こうを指差した。

「噴水があります。」

 2人は急いで噴水の池に走った。水浴びをしていると警察が近づいて来た。ギャラガは咄嗟に緑の鳥の徽章を取り出して見せた。警察官は、なんで白人が持っているんだ? と言いたげな顔をしたが、君子危うきに近寄らずを決め込み、立ち去った。
 泥を落とせたが、臭いは残っていた。日が上って服が乾くのを待っていると、やっと見覚えのあるベンツがやって来た。テオの顔が綻んだ。

「ヤァ、少佐自らお出ましだ。」

 え? とギャラガは仰天した。
 少佐のSUVが目の前に停車した。出勤前のジーンズにTシャツ姿のケツァル少佐が下りて来た。テオが彼女に駆け寄ろうとすると、彼女が両手を前に突き出して制止した。

「来ないで下さい。あなた方臭いですよ。」
「洗ったんだが、まだ臭うか・・・」

 テオは自分の腕を嗅いでみた。ギャラガが少佐の顔を見た。彼の動きに気がついて、少佐が彼の目を見た。ギャラガは昨晩の出来事から噴水で体を洗うまでのことを思い起こした。一瞬と言う訳ではなかったが、状況を彼女に伝えることに成功した。そして彼の頭に少佐の声が聞こえた。「わかった」と。彼は敬礼した。少佐が頷いた。
 彼女は携帯を出して何処かに電話をかけた。テオはロホにかけたのかと思ったが、違った。彼女は先住民言語で早口に何かを誰かに伝え、それから電話を切ると、男達について来いと手で合図した。
 

 


第2部 地下水路  1

  空間通路を通ったのは、アンドレ・ギャラガにとって初めての体験だった。ほんの一瞬だったが、アンドロメダ星雲と色々な惑星や恒星が見えた・・・と思った。
 いきなり悪臭の中に出た。知っている臭いだ。これは!
 1秒後に後ろに出現したテオドール・アルストに、と言うか、テオの出現によって、彼は前方に突き飛ばされ、汚水の中に落ちた。足元の地面が30センチあるかないかの幅だったのだ。ドボンっと言う水音と、ギャラガの「バスタルド!」と言う叫び声を耳にして、テオは自分がマズイことをやってしまったと知った。
 鼻が曲がりそうな悪臭だ。真っ暗だが、どんな場所なのか彼もわかった。

「大丈夫か、アンドレ?」

 ギャラガは立ち上がった。水は深くない。膝より下だが、まともに顔から落ちたので、全身ずぶ濡れ、汚物まみれだった。

「大丈夫じゃないです。ここは下水道だ!」

 彼の目には石組の長い水路が見えていた。天井が高い。幅もある。セルバ共和国でこんな立派な下水道があるのはグラダ・シティしか考えられない。セルバ共和国だったら、の話だが。
 彼は腕を振って汚物と水を払った。ザブザブ歩いてテオの横に上がった。テオがハンカチを出して、見えないまま彼に向かって差し出した。

「すまん! 横に出れば良かったが、君の真後ろに出てしまったようだ。」
「どんな出方をするのか、その時でないとわかりませんから、貴方が謝ることじゃないです。」

 まるで経験者の様なことをギャラガは言ってしまい、赤面したが、テオには見えなかった。 

「何処かの下水道の様だな。」
「セルバ共和国で下水道設備があるのはグラダ・シティとオルガ・グランデだけだと聞いています。この立派な施設はグラダ・シティでしょう。」
「ここがセルバだったら、だね。ウィーンだったらどうしよう。」
「ウィーンがどうかしましたか?」
「『第三の男』と言う映画を知らないか?」
「ノ。」
「じゃぁ、今の言葉は忘れてくれ。」

 ギャラガは所持品のチェックをした。拳銃が濡れてしまった。身分証は無事だ。セルバ共和国は奇妙なことにパスケースや書類入れなど文具は防水仕様が多い。恐らくバケツをひっくり返した様に雨が塊になって降るスコールや、地図にない場所に突然川が出来たり池が現れたりする土地柄だからだろう。拳銃ホルダーも防水にして欲しかった、と無理な願いを抱きながら、彼はパスケースの水を払った。
 テオが尋ねた。

「カルロか遺跡荒らしがいた形跡はあるかい?」

 ギャラガは左右を見た。石組のトンネルが延々と伸びているのが見えた。天井はアーチ型で、人間が一人やっと通れる歩道らしきものが片側だけ造られていて、彼等はたまたまそこに出たのだ。

「人がいる気配はありません。」

 彼は上着を脱いだ。臭くて着ていられなかった。ジーンズと靴も脱ぎたかったが、これは我慢するしかない。気配でテオが彼が服を脱いだことを知った。

「ここがグラダ・シティなら、後で俺の家に行こう。突き飛ばしたお詫びに、服を進呈する。兎に角、外へ出よう。」

 闇の中では何も見えないテオはギャラガの肩に手を置いて、彼等は歩くことにした。上流へ行くか下流へ行くかと相談していると、上流の方が騒がしくなった。

「何だろう?」

 テオの問いにギャラガは耳を澄ました。

「多分、ネズミでしょう。群れで騒いでいる様です。」
「連中の巣穴に何かが侵入したってことか?」

 テオはステファン大尉に小動物が寄り付かないことを思い出した。

「上流へ行こう。ネズミが騒ぐ場所へ行って見るんだ。」

 ギャラガもその理由を悟った。立ち位置を入れ替わるために彼はもう一度汚水の中に下りて、テオの前に移動した。テオが「グラシャス」と礼を言った。
 水が流れて来る方角へ向かって歩いた。ギャラガの靴の中で水がジクジクと音を立てた。足元がぬるぬるで滑らないよう神経を使わなければならない。所々で細い送水管から地上の汚水が流れ込み、滝になっている場所では飛沫が飛び散っていた。テオもすぐに綺麗な状態でなくなった。壁に体を擦り付けるのも原因だった。

「警護隊の仕事は楽しいかい?」

とテオが話しかけてきた。真っ暗な悪臭の世界にいるので、黙っていると気が滅入るのだ。臭いは多少鼻の感覚が麻痺してきたが、暗闇は目が順応しない。光がないから彼には何も見えない。身軽にと思って携帯ライトをラス・ラグナス遺跡に置いてきてしまったのを彼は悔やんだ。ギャラガは適当に答えた。

「脱走を考えなくて済む程度です。」
「つまらないんだ。」
「そう言う訳じゃなくて・・・」
「文化保護担当部に空きがあるぜ。カルロが抜けたので、人手不足なんだ。」

 それはケツァル少佐の直属の部下になると言う意味だ。そうなれたら光栄だが、絶対に無理だ。

「私は考古学の知識がありませんし、本部の外で暮らした経験もありません。それに能力だって・・・」
「カルロの経験を聞かなかったのか?」
「聞きました。でも私はやっと3日前に”心話”が出来る様になったばかりです。」
「だが、いきなり”通路”で先導をやってのけたじゃないか。立派だぞ。」

 テオの声は耳に心地良かった。

「考古学だって、文化保護担当部の連中は少佐も含めて部を設置してから大学で学んだんだ。通信制で働きながら勉強したんだよ。君だって出来るさ。」
「出来ますか?」
「出来る。俺はグラダ大学の生物学部で働いている。わからないことがあればいつでも来いよ。マハルダだってそうしている。彼女は考古学部を卒業して、今は現代人類学を履修しているんだ。勉強家だよ。」

 テオはグラダ大学の先生なんだ! ギャラガはびっくりした。セルバ共和国の最高学府の先生と一緒に下水道を歩いているのだ。

「ケツァル少佐はこの半年間人手が足りないから補充人員を寄越せと本部へ陳情しているそうだ。だけどカルロが修行を終えたら戻るつもりでいるらしいから、司令部がなかなか新しい人を寄越してくれないと、少佐が俺にこぼすんだよ。」
「貴方は少佐と親しいのですね?」
「まぁ、腐れ縁ってやつだけど・・・俺は一応彼女を口説いているつもりなんだが、彼女はツンデレ女王だから、俺に甘えてくると思ったら冷たくなるし、なかなか落とせないんだ。」

 これまたびっくりだ。伝説のケツァル少佐に白人が求愛している。テオは誰に憚ることもなく堂々と明かしているのだ。

「もし、私が文化保護担当部に入ったら、ステファン大尉が戻る場所がなくなりはしませんか?」
「大丈夫だ。机を置くスペースは余っている。」
「そう言う問題ではなくて・・・」

 突然対岸で汚水の滝の水量が増して、飛沫が飛んできた。テオが英語で「シット!」と叫んだ。正に糞だ。

「ここを出たら、真っ先に熱いシャワーを浴びようぜ!」

 テオが怒鳴ったので、ギャラガは思わず反論した。

「お湯のシャワーがそんなに良いですか?」

 お湯が出るシャワーは金持ちの特権だ。だから、ロホの古いアパートでシャワーからお湯が出た時、ギャラガはびっくりしたのだ。お湯が出るシャワーは常夏の国では必需品ではない。少なくともグラダ・シティや東海岸地方では無用の長物だ。それが一般のセルバ庶民の感覚だった。テオは北の国から来たので、時々お湯のお風呂が欲しくなる。エル・ティティの家は水のシャワーしかない。その代わり町には共同浴場がある。伝統的な蒸し風呂の浴場だ。だからエル・ティティの暮らしに満足している。蒸し風呂がなければゴンザレスをグラダ・シティに引きずって来たかも知れない。

「この汚水はお湯で洗った方が綺麗になるんだぜ。家に帰ったらバスタブにお湯を張って、最初に君を入れてあげるよ。」

  

第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...