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2023/02/26

第9部 セルバのアメリカ人      12

  マイロがカフェ・デ・オラスを出て間も無く携帯に電話がかかって来た。画面を見るとアダン・モンロイだった。

ーー今何処にいる?
「文化・教育省の前だ。」
ーー予定がなければ、今夜一緒に飯を食わないか?

 有り難かった。孤独感を覚えかけていたマイロはそのお誘いに乗った。モンロイはマイロが何度か連れて行かれたバルを指定し、半時間後に2人はそこのカウンターで出会った。
 ビールで乾杯して、モンロイは役所に何の用事があったのかと尋ねた。

「役所じゃないんだ、下のカフェで生物学部のドクトル・アルストと会っていた。」
「研究の話かい?」
「ノ、今朝初めて会って、ランチに誘われたんだが、僕はすっぽかしてしまって。」

 あれ?とマイロは思った。どうしてすっぽかしてしまったのだろう。理由を思い出そうとしたが、思い出せなかった。モンロイがのんびり尋ねた。

「ランチって、キャンパス内のカフェで?」
「スィ。彼は学生達と野外活動した後で・・・」

 モンロイが朗らかに笑った。

「それじゃ、別にすっぽかしても誰も怒らない。教授同士のランチだったら、失礼になるだろうけど、学生達と教師が一緒のランチは誰でも参加OK、勝手にドタキャンOKさ。君が参加しようがしまいが、アルストは気がつかなかっただろうし。」
「そんなものなのか?」
「そんなもの、セルバ流だ。」
「だが、アルストはアメリカ人だ。」
「元、だよ、彼は僕等以上にセルバ人になりきっている。」

 モンロイは愉快そうだ。

「それで、さっき彼に謝っていたのか?」
「そうなんだ・・・」

 謝罪の他にも何か喋った様な気がするのだが、マイロはそれも思い出せなかった。モンロイがチラリとバルの壁の時計を見た。

「この時刻だったら、役所は閉庁だな。ドクトル・アルストは1人だったかい?」
「スィ、彼は1人だった。」

 他に誰かいたっけ?マイロは何か記憶の一部が欠落している感が拭えなかったが、やはり思い出せなかった。モンロイは彼に視線を戻した。

「閉庁時間にあの店にいたんだったら、ドクトルはロス・パハロス・ヴェルデスと一緒だったと思うがな?」
「ノ、誰も来なかったぞ。」

 僕はずっとドクトル・アルストと2人で喋っていた。マイロはそう信じていた。モンロイはそれ以上突っ込まなかった。彼が店を変えようと提案したので、マイロはその前にトイレを借りると言って、店の奥に向かった。モンロイは携帯を取り出し、メールを打った。

ーー彼は全て忘れている。

 速攻で返信が来た。

ーー了解。

 モンロイはその遣り取りを削除した。

 行きつけのバルに入った大統領警護隊文化保護担当部の隊員達とテオドール・アルストはテーブル席に陣取った。ロホの携帯にメールが着信したので、ロホは素早く返信して、その遣り取りを削除した。そして上官に報告した。

「彼は忘れたそうです。」
「何を?」

とテオが無邪気に質問した。少佐が彼に説明した。

「貴方が通話をオンにしてさっきの男性との会話を私に聞かせてくれたでしょう?」
「スィ。彼の方から俺に面会を求めて来たので、どんな内容なのか不安になってね。案の定彼は大使館の人間に接触されていた。」
「ダニエル・ウィルソンに関しては、遊撃班が対処してくれます。私はカフェで彼が私達と会ったことを忘れさせたのです。大使館が彼に接触しなければ、放置出来たのですけど。」
「俺はウィルソンとやらが彼に言ったことを不愉快に感じたけど、彼も俺の過去に不審を抱いただろうからな・・・忘れてくれた方が、今後も彼と話を交わしやすいよ。」

 テオはロホを見た。

「彼の周囲に監視を置いているのかい?」
「特に彼を対象にしている訳ではありません。”砂の民”に情報収集係として仕える古の子孫がいるように、我が警護隊にもそう言う役目の人がいます。何か一族に関わることがあれば細やかに報告してくれる奇特なボランティアです。そのうちの1人がたまたま彼と友達になったと言うだけです。」
「細やかに?」
「スィ。彼が普段と違う行動を取ったら、教えてくれる。そして、これもたまたまですが、その人の窓口が私なのです。」

 すると、アスルが言った。

「アメリカの政府機関から来た医者だからな、遊撃班も監視している。マーゲイは彼にナワルを見られたらしい。ロホの情報提供者が野良猫だと誤魔化してくれたそうだが。」
「もしかして、マイロがオルガ・グランデから帰る道中に車に乗せた太平洋警備室の隊員も、彼を監視するのが役目だった?」
「恐らく本部からの指示でしょう。だから航空機を飛べなくしたのも太平洋警備室の仕事ですよ。ただあの監視はマイロを警戒すると言うより強盗や山賊から警護する意味もあったでしょうね。」
「あの人は良い人です。楽しい思い出だけを持って帰国して欲しいです。」

とアンドレ・ギャラガが言って微笑んだ。




2023/02/25

第9部 セルバのアメリカ人      11

  大統領警護隊の隊員達が全員立ち上がった。テオドール・アルストも立ち上がった。マイロは入り口の方向を見て、やはり立ち上がった。近づいて来るのが上官だからではなく、先住民の美女だったからだ。先に来ていた4人の隊員より年長だろうがまだ若い。そして歩き方が堂々として力と自信に満ち溢れているように見えた。まるで雌のライオンが近づいて来る様だ。否、ここは中米だ。彼女は雌のジャガーだ。
 部下達が敬礼で迎え、彼女も敬礼で返した。ほんの一瞬だ。他の客が気付く暇もない程に。アルストは優しい笑みで彼女を迎えた。

「お疲れ!」
「グラシャス。」

 彼はマイロを手で指して彼女に紹介した。

「グラダ大学医学部微生物研究室のアーノルド・マイロ博士だ。ドクトル、こちらは大統領警護隊文化保護担当部指揮官ミゲール少佐です。」
「初めまして。」
「初めまして。」

 少佐も握手をしてくれなかった。彼女はアルストの隣に座り、彼女が座ったので隣のテーブルの部下達も座った。

「彼はシャーガス病の予防を研究しているんだ。」

とアルストが彼女に説明した。

「俺は今朝初めて彼に会ったんだが、その時にうっかり彼の専門を無視して治療薬の開発をしてくれと的外れな要求をして、彼を困らせてしまった。」
「いいえ、困ってなどいませんよ。」

 マイロは苦笑した。

「ただ現場が求めていることに僕の研究がすぐに役に立てないのがもどかしいと言うだけです。」
「私には科学の難しい話は分かりません。」

と少佐が言った。

「でも時間がかかると言うことは知っています。貴方の研究がいつか実を結ぶ日が来ることを願っています。」

 隣のテーブルで2人の先住民の部下達が相談を始めた。夕食をどの店で取ろうかと言う内容だ。魚が良いとか、カーラが休みとか、そんな言葉が聞こえたが、マイロを誘う提案は出なかった。
 マイロはそろそろ退散した方が良さそうだと感じた。相手は軍人で、先住民で、そこにアメリカ政府から良くない心象を持たれている元アメリカ人が加わったグループだ。
 マイロは腰を上げた。

「僕は寮へ帰ります。」
「そうですか、お気をつけて・・・」

 アルストが立ち上がって握手してくれたが、引き留めなかった。マイロは座ったままの女性軍人を見た。彼女が顔を上げて彼の目を見た。


第9部 セルバのアメリカ人      10

  大統領警護隊と名乗ったからには、彼等は全員軍人なのだ。しかしマイロの目の前にいる若者達はTシャツにデニムパンツと言うラフな姿だった。ただ庶民と違うのは、彼等は薄手であるがジャケットを着ており、その下にホルダーに収まった拳銃を装備していたことだ。
 セルバの軍人らしく彼等はマイロと握手してくれなかった。そして隣のテーブルに腰を落ち着けた。彼等が注文を始めたので、マイロは仕方なく席に腰を下ろした。アルストがクスッと笑った。

「まだセルバの習慣に慣れていないんでしょう?」
「そうです。助手から度々注意されますが、どうしても挨拶に握手をするものだと体が動いてしまう・・・」
「親しくなれば握手してもらえます。」

 ギャラガと目が合った。少尉が質問してきた。

「もう強盗事件のショックは無くなりましたか?」
「有り難う、山の様な報告書と事情説明と電話でくたびれましたがね。」

 だが別のショックを今経験したところだ。

「君は軍人だったんですね。てっきり学生かと思って・・・」
「学生です。通信制ですが。軍人と二足草鞋と言うより、軍務に必要なので勉強しています。」
「文化保護担当部は考古学の履修が必要なんですよ。」

とデネロス少尉が教えてくれた。

「私達は、我が国の文化遺産を守ることが任務です。遺跡発掘申請の審査や盗掘から遺跡を守る仕事をしています。だから普段はこんな格好でオフィスにいます。」

 彼女は楽しそうに笑った。彼女の2人の上官はマイロに関心なさそうで、それぞれ携帯の画面を眺めていた。

「普段着で勤務出来るんですね。」

とマイロはオルガ・グランデから帰る時に同乗させた若い軍人を思い出して言った。

「西からこちらへ帰って来る時に、頼まれて大統領警護隊の隊員を1人車に乗せました。彼は軍服を着ていたなぁ。」

 へぇっとアルストが反応した。

「頼まれて?」
「スィ、太平洋警備室とか言う部署から本部へ出かけるとか何とかで、その時に飛行機が飛べなかったんです。それでホテルを出る時に声をかけて来て・・・」

 そこで初めてマイロは重大な謎に気がついた。

「どうして彼は僕がグラダ・シティに帰るって知ったんだろう? ホテルの前で待っていたかの様な・・・」

 彼はドキリとした。カフェ・デ・オラスにいる4人の大統領警護隊の隊員達が無言で彼を見たからだ。
 テオドール・アルストがその沈黙を破った。

「その隊員の名前は?」
「ブラス・オルニト少尉。」
「誰か知ってるか?」

 アルストの問いに、クワコ中尉が頷いた。

「アスクラカン出身の警備班のヤツだ。以前時々サッカーの練習に来ていたが、最近顔を見ないと思ったら、太平洋警備室に転属していたのか。」
「良い人ですね。アスクラカンで実家に泊めてくれました。強盗に僕は所持金を盗られたので、助かりましたよ。」
「ガソリン代は出さなかったでしょ? その代わりの親切よ。」

とデネロス少尉が笑った。
 するとマルティネス大尉が入り口に目を遣って呟いた。

「おっ、やっと指揮官殿がお出ましだ。」


第9部 セルバのアメリカ人      9

  そのまま時間が経つのを忘れてマイロはアルストと互いの研究の話を語り合った。話しながら、マイロはアルストが非常に頭脳明晰だと気がついた。専門用語は殆ど説明が不要なのだ。医学の知識はあまりないと言いながら、アルストは一度聞いたことを忘れないし、聞き返しもしない。マイロが行った実験や分析もその工程や目的を忽ち理解した。そして何が問題点なのかも聞くだけで分析して指摘してくれた。マイロは説明していたつもりが、いつの間にか教わる立場になっている己に気がついた。

 この人は本当に政府の重要な研究機関に居たに違いない。だから外国人と恋愛して外国に移住することを政府は警戒し、阻止しようとしたのだろう。そして今も警戒されているんだ。

 原虫の遺伝子の話を終える頃に、アルストが視線を店の入り口へ向け、ニッコリした。

「やっと俺の連れ達が勤務を終えた様です。」

 マイロが振り返ると、若い男女が店に入って来るところだった。その一人は彼が知っている顔だった。

「あの彼は、考古学の学生のアンドレ・ギャラガ君じゃなかったですか?」
「スィ、俺の友人のアンドレです。」
「オルガ・グランデで僕が強盗に遭った時に、助けてくれた考古学者のチームにいましたよ。彼にも世話になりました。」
「存じています。彼から聞きました。」

 新しい客の一団はアルストを見つけると近づいて来た。先住民の男性2名とメスティーソの女性1名、それに白人に見えるギャラガだ。アルストが片手を挙げて、「ヤァ」と挨拶した。女性が足早に近寄って来た。

「今日は、テオ。どうしたんです、今日は素敵な連れがいるんですね!」

 陽気に目を輝かせて視線を向けて来たので、マイロはドキドキした。すごく可愛い女性だ。彼は思わず立ち上がった。

「アーノルド・マイロ、グラダ大学医学部微生物研究室で研究しています。アメリカの国立感染症センターから出向して来ています。専門はシャーガス病の予防対策の研究です。」
「お医者さんですか?」
「医師免許を持っていますが、臨床医ではありません。研究専門です。」

 女性の後ろで一番身長が高い男性が咳払いした。とても綺麗な顔立ちの先住民の男だ。女性がペロッと舌を出した。

「いけない! あの、こちらは・・・」

 彼女が後ろを振り返った。

「上官のマルティネス大尉です。それから・・・」

 マルティネス中尉の隣の少し背が低い男性を指して、

「上官のクワコ中尉、それからこっちは・・・」

 ギャラガを指した。

「後輩のギャラガ少尉です。私はデネロス少尉です。よろしく!」

 アルストが笑った。

「マハルダ、何か忘れているぞ。」
「え? あ!」

 デネロス少尉はそそっかしいのだろう、バツが悪そうに言い足した。

「私達は、大統領警護隊文化保護担当部です。それでぇ・・・指揮官は後から来ます。」


 

2023/02/22

第9部 セルバのアメリカ人      8

  テオドール・アルストはカフェ・デ・オラスのテーブル席でグラスに入った冷たいグァバジュースを前に本を広げていた。かなり前に着いた様だ。マイロが声をかけると、座ったままで向かいの席を手で示した。

「昼間はランチに行けなくて申し訳ありませんでした。」

とマイロは謝罪した。アルストは肩をすくめた。

「こちらがいつもの作業の流れに貴方を誘っただけです、気になさらぬよう。」
「実は、この店でランチを食べたんです。」

 マイロは昼間の不愉快な体験を思い出しながら言った。

「正直に申せば、今朝貴方にシャーガス病の治療法を研究して欲しいと言われて動揺しました。僕の専門は防疫の方なので・・・」
「ああ・・・」

 アルストが申し訳なさそうな表情になった。

「すると俺は貴方に的外れな要求をしてしまった訳ですね。」
「お互いに初対面でしたから、僕の専門分野が何なのか貴方がご存知なかったのは、仕方がありません。ただ、その時はちょっとモヤモヤした気分になって、貴方のお誘いを蹴ってしまったんです。だが・・・」

 マイロはちょっと急いだ。今の会見がその件に関することだと誤解されたくなかった。目的は別にあるのだ。

「僕が貴方にもう一度お会いしたいと思ったのは、その件ではないんです。」

 彼は無意識にテーブルの周囲に目を配った。店内の客は昼時と違って、早い時間に仕事を終えてのんびりしている年配者が多かった。オフィス街のカフェの多くは夕刻には閉まるので、その日最後のお茶を楽しんでいる雰囲気が漂っていた。

「昼飯を食べる店を探して歩いている時に、アメリカ大使館の人間に声をかけられて、この店に誘われたんです。」
「大使館の人間?」
「ダニエル・ウィルソンと名乗り、身分証も見せられました。」

 マイロはアルストの表情を伺ったが、相手は聞き覚えのない名前を聞いたと言う顔をしただけだった。

「最初は、僕が先日オルガ・グランデで強盗被害に遭った件で声をかけて来たのかと思いました。しかし道で偶然出会ってそんな話をする筈はないでしょう。」
「偶然ではなかったのですか。」
「多分、大学から尾行して来たのだと思われます。彼は僕が貴方に会ったことを確認して来ました。」

 アルストの顔から人懐こい表情が消えた。真面目な顔で彼はマイロを見た。

「俺はあまり本国の政府から好かれていないんです。理由は言えない。申し訳ないが、理由を聞けば貴方も本国に帰れなくなる可能性があります。」

 マイロは戸惑った。

「それはどう言う・・・」
「医学部で俺の話をどうお聞きになったか知りませんが、俺はアメリカからの留学生や客員講師達から出来るだけ距離を置いています。彼等に迷惑をかけたくないのでね。」
「何故です?」

 マイロはテーブルの上に身を傾けた。

「ウィルソンは、貴方が僕にセルバへの帰化を誘っても話に乗るなと言いましたが・・・」

 アルストがクスッと笑った。

「そんなことを言いましたか、アイツらは・・・」
「アイツら?」
「俺が怒らせた連中です。俺がセルバに帰化したのは、愛する人々と一緒に暮らしたかったと言うだけの理由です。しかし、連中はそう受け取らなかった。俺が祖国を裏切って祖国に不利な情報をセルバ政府に流したと思い込んでいるんですよ。」

 マイロは暫くアルストの顔を見つめた。遺伝子分析に非常に優秀な才能を持っているのに無名の学者・・・もしかすると、政府関連の施設で働いていて、国家機密を扱う仕事をしていたにも関わらず、外国人と恋に落ちて国外に出てしまったと言うことなのか? 
 そう言えば、アルストの助手が言っていたな、「奥様が軍人なので」と。アルストは国家機密を扱える部署にいたが、セルバ共和国の軍人と恋に堕ちて亡命したのか?

「安心して下さい、俺は貴方を誘うと言う気はありません。貴方が勝手にセルバを気に入って、住み着きたいと思われるのは勝手ですけどね。」

 アルストがウィンクした。マイロは思った。恐らくアルストに近づくアメリカ人は大使館から似たような忠告を受けているのだろう。祖国を裏切った男と親しくするな、と。
 マイロはアルストに尋ねた。

「ドクトル、貴方は今幸せですか?」

 アルストが微笑んだ。そして力強く答えた。

「スィ!」


第9部 セルバのアメリカ人      7

  マイロは学舎の建物から出る途中、生物学部の受付事務所を見つけた。目立たないドアの部屋だが、内と外に向けた窓があり、中で事務員が2人、午後の休憩をしているのが見えた。一人はイヤフォンを付けて音楽を聴きながら雑誌を読み、もう1人はパソコンで何かの動画を見ていた。マイロが窓枠を叩くと、パソコンの前の事務員が顔を上げた。

「シエスタですよ。」
「知ってる、申し訳ない。ドクトル・アルストの携帯電話の番号を教えてもらえないだろうか?」

 マイロは己のI Dカードを提示して大学職員であることを示した。事務員がチラッとそれを見た。

「お急ぎですか?」
「面会を希望なんだ。出来れば早いうちに・・・」

 すると事務員が己の携帯を出して何かを打ち込んだ。そしてマイロに顔を向けた。

「メールを入れておきました。あの先生は数分後には返事をくれます。その辺でお待ち下さい。」

 かなり長閑な対応だ。仕方なくマイロは反対側の壁にもたれかかり、携帯で学内ニュースを眺めた。殆どが講義の予定変更や休講のお知らせだった。大学内で大きな事件があった様子はない。考古学関係では、カブラロカ遺跡発掘チームが来週半ばにグラダ・シティに帰って来る予定、とだけあった。何処のどんな遺跡なのかマイロには想像もつかなかった。頭に浮かんだのは、真っ暗な地下墓地のミイラ・・・彼は頭を振った。あんな物は早く忘れてしまおう。
 ピロンっと可愛らしいメロディが聞こえ、事務員が携帯を覗いた。彼がこちらを振り向いたので、マイロは窓に近づいた。事務員が言った。

「午後4時にカフェ・デ・オラスに行けますか?」
「大丈夫です。」
「では、そう返信しておきます。」

 アルストのメアドや電話番号を教えてくれる気配はなかった。
 マイロは礼を言って、医学部へ戻った。自身の研究室に入ると、ホアン・チャパの書き置きが机の上にあった。急用が出来たので早退する、とあった。ふと気がついて携帯を見ると、同じ内容のメールが入っていた。マイロから返事がなかったので、置き手紙だ。何となくチャパの急用の中身に察しがついた。あの若者は今恋愛中で、オルガ・グランデ旅行の間メールも電話もしなかったので、彼女がむくれてしまい、現在彼は彼女の機嫌取りに忙しいのだ。彼女から勉強を教えてくれとか、食事に行こうと誘いがあると、慌てて出かけてしまう。医者になりたいのか、彼女と一緒にいたいだけなのか、どっちなんだとマイロは呆れていた。
 仕事をする気分になれず、マイロは寮に戻った。シャワーを浴び、服を着替えた。それで時間を潰し、そろそろ出かけようと思って部屋から出ると、アダン・モンロイと出会った。向こうは帰って来たところだった。

「出かけるのかい?」
「スィ。ちょっと人と会う。仕事の話だ。」

 言い訳しなくても良いのに、そう言った。チャパの影響か? モンロイが「また虫か?」と聞いたので、笑って返した。

「ノ、これから会う人は昼間カエルを獲っていた。」
「へ?」

 キョトンとするモンロイの肩を叩いて、マイロは寮を出た。


2023/02/21

第9部 セルバのアメリカ人      6

  マイロは何だか不愉快な気分になった。カフェ・デ・オラスを出ると、通りを見回した。ダニエル・ウィルソンの姿はどこにもなかった。マイロは大学に戻った。しかし医学部には行かずに、生物学部の学舎に向かった。テオドール・アルストの研究室は2階にあり、ドアの間隔から想像すると、他の部屋より面積が広そうだった。もうアルストは部屋に戻っているだろうか、それともキャンパスのカフェでまだ学生達と喋っているのだろうか。マイロはドアをノックした。男の声が応えた。

「誰方?」
「医学部のマイロです。」

 ドアが開かれた。鍵は掛かっていなかった様だ。ドアを開けたのは、メスティーソの若い男だった。彼はマイロより背が低かったので、ちょっと見上げる感じで言った。

「ドクトル・アルストに面会でしたら、先生は帰られました。」
「帰った?」
「スィ。今日は午後の講義がないので。元々今日は先生の出勤日じゃないんです。スニガ准教授の代理で出て来られただけですから。言伝がありましたら、僕が承っておきます。」

 彼はそこでやっと自己紹介した。

「院生のアーロン・カタラーニです。宜しく。」
「あ・・・医学部微生物研究室のアーノルド・マイロ、アメリカから出向して来ています。」
「存じ上げてます。外国から来られる先生は学内報で紹介されますから。」

 カタラーニが人懐っこい笑を浮かべた。

「写真より実物の方がいい男ですね。」

 マイロはどう返して良いのかわからず、仕方なく尋ねた。

「ドクトル・アルストに話があるのですが、どこへ行けば会えますか?」
「んーー」

 カタラーニが考え込むふりをした。

「多分、ご自宅だと思います。先生は自宅に個人の研究室をお持ちなので、そこで個人的に依頼を受けた遺伝子分析をなさっています。所謂副業ってヤツですよ。だから、もし面会を希望されるなら事前に約束された方が良いです。大学の講義より熱心に研究されているんで、電話を掛けてもお手伝いさんが取り次いでくれない時もあるのでね。それに・・・」

 彼が、「ここが肝心」と言いたげに指を振った。

「奥様が軍人なので、滅多に客を家に入れないんです。客に会う時は、外で会われます。カフェ・デ・オラスって店で、文化・教育省のビルの1階にありますよ。」


 

第9部 セルバのアメリカ人      5

  ダメージを受けた細胞を修復するにはiPS細胞の研究が有望だろう、とアルストは言った。マイロの専門ではない。マイロは予防の観点から研究をしているのであって、治療は別の分野だ。彼は黙り込み、そのまま歩いて大学の駐車場に到着した。アルストは中古の日本車から着替えが入っているらしいバッグを取り出した。

「研究室で着替えてきます。キャンパス内のカフェでランチにするので、良ければ来て下さい。生物学部の他の教室の学生達も集まって来ますよ。」

 虫の研究者もいると言うことだったので、マイロは再会を約束して一旦アルストと別れた。医学部迄距離があるので、図書館で時間を潰した。スニガ准教授の「セルバの森の妖精達」とロマンティックな題名の書籍を見つけた。棚から取り出して開いて見ると、トカゲ類と両生類の写真集だった。昆虫に関する書籍もあったが、原虫はなかった。防疫学は医学部の図書館の方へ行った方がありそうだ。
 結局昼食会はパスしてしまった。スペイン語は堪能だが、現地の若い子達が繰り出す早口の現代語にはついていけない。
 ふと思いついて考古学部のケサダ教授の研究室へ電話をかけてみた。助けてくれたお礼がまだだった。しかし電話に出たのは秘書と名乗る男性で、教授はまだオルガ・グランデにいると言うことだった。
 仕方なく、一人で食事する場所を探して大学の外の商店街を歩いていると、一人の開襟シャツを着た中年男性が後ろから近づいて来た。マイロの横に並ぶと、「ハロー」と声をかけて来た。

「国立感染症センターから出向しているマイロ博士ですね?」
「そうですが、貴方は?」
「アメリカ大使館の職員のダニエル・ウィルソンと言います。」

 歩きながら彼はポケットから財布を出し、名刺を取り出した。

「お昼はもう済まさせれましたか?」
「いえ、まだ・・・」
「良ければ、あの店で一緒にいかがです?」

 男性が指差したのは「カフェ・デ・オラス」と書かれた看板の店だった。マイロが知っているビルの1階に構える店だ。文化・教育省が上階にあり、職員食堂みたいに昼間は賑わっている。勿論一般の客も気軽に入れるし、マイロも既に何度か利用していた。タコスが美味い店だ。
 店内に入ると、お昼の混雑時だったが、運よくテーブルが一つ空いたところだった。そこに席を取って、タコスとコーヒーを注文した。向いに座ったウィルソンを改めて見ると、よく日焼けした南欧系白人で、団子鼻はボクシングで打たれたのか、少し歪んで見えた。微かに傷跡があった。それでマイロは尋ねた。

「失礼を承知でお尋ねしますが、その鼻はボクシングで? それとも喧嘩ですか?」

 ウィルソンがニヤッと笑った。

「流石にお医者さんだ、イエス、これはボクシングです。骨を折られまして・・・それでも綺麗に治った方ですよ、なかなか気づく人はいません。」
「それで・・・どんな御用件です?」

 強盗被害に遭った報告を大使館にしておいたが、そんな用件に見えなかった。第一街中で偶然見かけて声をかけてくるような案件ではない。

「用ですか? そうですね・・・」

 ウィルソンは席の周囲に目を配った。

「貴方は最近、生物学部の遺伝子学者テオドール・アルストにお会いになりましたか?」
「最近、ええ、1時間前に会いました。東パスカル公園の池で。」
「池?」
「彼は学生達とカエルの捕獲をしていたんです。」

 ほうっとウィルソンが言った。

「カエルの捕獲ね・・・」
「同僚の別の准教授の代理だったようです。」
「何か言葉を交わされました?」
「僕の研究に遺伝子分析を使わせてもらおうと声をかけたのですが、やんわりと断られました。僕は防疫の研究をしていますが、彼は治療方法の研究を僕に期待したんです。でもそれは僕の専門分野ではない・・・」
「研究の話だけですか?」
「他に何か話すことがありますか? 僕は彼のことを知らないし、彼も僕のことを知らない。趣味の話なんて出来やしませんよ。」

 注文した料理が運ばれて来て、2人は暫く黙って食べた。ウィルソンは食べるのが早かった。マイロがまだ半分食べないうちに、平らげた。彼は口元と指を紙ナプキンで拭ってから、マイロに言った。

「もし、アルストがセルバへの帰化を誘っても話に乗らないで下さい。」
「どうして彼がそんな誘いを僕にかけるのです?」

 マイロが面食らうと、ウィルソンは「気にしないで」と言い、テーブルの上に2人分の代金を置いて、「ではさようなら」と言い、店から出て行った。

2023/02/20

第9部 セルバのアメリカ人      4

  亀の噛みつき騒ぎが収まると、アルスト准教授は学生達に撤収を命じた。学生達は全員男性で、半分はアルストの、残りの半分はスニガ准教授の教室の学生だと言うことだった。女性達はカエルの捕獲に参加しなかったので、アルストが自分の教室の学生を助っ人に連れて来ていたのだ。だから捕まえたカエルは全部スニガ准教授の学生達が大学へ持ち帰った。アルスト組は公園から出ると、近くの水場で泥を落とした。グラダ・シティには街角のあちらこちらに自由に水を使える水場が設けられていて、市民はそこで洗濯をしたり、物を洗浄するのに水を使っていた。飲料水ではないので、飲むことは出来ない。少なくとも、マイロは道端の水場で喉を潤す市民を見たことがなかった。衛生教育をしっかりしている街なのだ。
 アルストが大学のカフェに集合して昼食にしようと提案すると、学生達は大喜びで銘々好きな方角へ散って行った。衣服を着替えて長靴を片付けてくるのだ。
 マイロは大学の方向へ向かって歩き出したアルストを追いかけた。

「貴方はどこへ?」
「大学の駐車場。車の中に着替えを常備しているんです。」

 野外活動が好きらしいアルストと並んでマイロは歩いた。

「実は、シャーガス病の病原であるトリパノソーマ・クルージの遺伝子を分析して、あいつらを撲滅する薬剤とか開発出来ないかな、と思っているんですが・・・」

と話しかけると、アルストは肩をすくめた。

「遺伝子から弱点を見つけるのは、すぐに出来ることじゃないですね。」
「ええ、わかっています。」
「俺なら、原虫にやられた臓器を回復させる薬剤を作る方を選択しますよ。」
「それは・・・」

 まだ開発されていない。トリパノソーマ・クルージからダメージを受けた臓器は細胞が破壊され、修復不可能なのだ。しかしアルストは言った。

「細胞を蘇生させる、あるいは修復させる為の研究をされているんじゃないんですか?」
「僕は予防法を探っていて・・・」
「自然界の昆虫の体内から原虫を殺してしまうなんて不可能です。人間に出来ることは、せいぜい虫が我々の生活圏に入って来ないようにするだけですよ。」

 アルストはマイロを見た。

「貴方が所属される国立感染症センターは高度な技術と知識の塊の様な場所でしょう。俺達在野の研究者にとっては手の届かない高い所にある城みたいなもんです。どうかそこで病人が元の生活に戻れる様な治療法を早く見つけて下さい。待っています。」

 

2023/02/19

第9部 セルバのアメリカ人      3

  東パスカル公園はグラダ大学から歩いて20分ほどの距離にある住宅地の中の緑地だった。そんなに広くなく、芝生の中に花壇がいくつか造られており、真ん中に池があるのだ。池は多分天然のものだろう。コンクリートやブロックで護岸されているのでなく、草が生えた土の土手で囲まれていた。水深もなくて、行政は安全柵を設けてもいない。そこに学生が10人ばかり長靴を履き、ゴム手袋と泥除け用にゴーグルを装着して歩き回っていた。カエルを捕まえると岸辺に置かれたバケツに入れていく。
 麦わら帽子を被った白人の男が学生が捕まえたカエルに標識を取り付けていた。彼も丈の長いゴム手袋を装着し、ゴーグルをかけていた。
 マイロは白人の男に近づき、声をかけた。

「ドクトル・アルストですか?」

 男が顔を上げた。眩しそうに目を細めたのは、マイロが逆光の中にいたからだ。

「スィ。貴方は?」

 マイロは立ち位置をずらして自分の顔を見せた。

「アーノルド・マイロ、医学部微生物研究室の客員研究者です。」

 ああ、とアルストが頷いた。彼は英語に切り替えた。

「アメリカ国立感染症センターから来られた方ですね。」

 彼は立ち上がった。身長はマイロほどある。背が高いし、スリムで、そして若い。彼はゴム手袋を右手から抜き取り、ゴーグルも取った。綺麗な青い目をした北欧系と思われる顔だ。

「テオドール・アルスト・ゴンザレスです。世間ではアルストで通っています。アメリカではシオドア・ハーストと言う名前でした。」

 手を差し出され、マイロは握手に応じた。彼も英語で話した。

「カエルを集めているのですか?」
「ええ・・・」

 アルストはバケツの中を見せた。毒々しい色をした美しいカエルが数匹入っていた。

「先日、ここで遊んでいた近所の子供がカエルの毒で重体に陥った事故がありました。今までにない事故だったので、市当局が事態を重く見て、この池にヤドクガエルが棲息していないか調査するよう依頼して来たんですよ。本来は小動物の研究をしているスニガ准教授の仕事になるのですが、彼は今スペインへ出張中で、俺が代理で学生達と資料集めをしているところです。似たような色合いのカエルが住んでいますが、こいつらは昔からこの池にいるそうで、毒なんてないって地元民が言うんです。もしかすると誰かが毒ガエルを持ち込んで交雑したのかも知れないと思い、これから大学へ持ち帰って遺伝子分析します。」

 一気に喋ってから、アルストはマイロをジロリと見た。

「ところで、何か御用ですか?」

 マイロは笑いそうになった。アルストはすっかりセルバ人のペースで行動している。准教授なら学生にさせて自分は研究室で待っていれば良いだろうに、と思った。尤もマイロだってサシガメを求めて太平洋岸まで行った人間だ。自分で行動しなければ気が済まない口だった。

「僕の研究テーマをご存知ですか?」

 アルストはこちらに関心ないだろうと思っての質問だったが、意外にも相手は頷いた。

「シャーガス病の予防策を研究されているのでしたね。」

 向こうにはこちらの予備知識がある。マイロは少し緊張した。

「そうです。アメリカにいる時に、セルバ共和国ではシャーガス病の発症例がないと聞いて、どんな予防対策を講じているのか、或いはセルバ人に原虫への耐性があるのかと、調べに来ました。しかし・・・」

 彼はちょっと肩の力を抜いた。

「開発途上国だと思って上から目線で見ていたようです。この国では都市部で住居の消毒などの対策を取っているのですね。セルバ人が特別丈夫な様でもない様だし・・・」

 アルストが口元に小さく笑いを浮かべた。

「まあね、シャーガス病対策と言うより、マラリアや他の病気の予防対策に保健省が市民の家を消毒して回っていることは事実です。地区毎に分けて2、3年の周期で行っています。それに地方では民間信仰で使用されるお香が消毒薬と似たような効果を出しているみたいです。」

 突然池の中で大声で喚きだした学生がいた。マイロとアルストが振り向くと、一人の学生の袖に大きな亀が食らいついていた。アルストがマイロを置いて池の中へ駆け込んだ。

「ハイメ、腕を噛まれていないか?」
「ノ、服だけです。買って間なしのパーカーですよ! こら、亀、放しやがれ!」
「脱げ、ハイメ! 亀に触るんじゃない!」


2023/02/17

第9部 セルバのアメリカ人      2

  マイロは微生物研究室の人々に、シャーガス病に感染した臓器を回復させる薬を研究している人はいないか期待して、セルバ共和国へ来た。しかしセルバ共和国には感染症例が極めて少なく、病気の研究者そのものがいなかった。僻地では患者がいたのだが、報告されていないのだ。グラダ大学で研究を続けても無駄だと感じた。家屋を消毒してサシガメの侵入を阻止するだけしか予防策がない。トリパノソーマ・クルージを殺す薬剤はある。高価なので開発途上国の庶民にはなかなか手が出ない。

 僕の仕事は、安価な薬の開発に繋がる原虫の研究だな・・・

 国立感染症センターに戻って研究を続けよう、と決心した。本国にその旨を伝えると、大学の次の学期が始まる迄待てと言われた。大学との契約があるのだ。
 それなら待ち時間を利用してトリパノソーマ・クルージの遺伝子分析をもう一度じっくり勉強しようと思った。そして、グラダ大学生物学部遺伝子工学科のテオドール・アルストのことを調べてみた。だがどうにもよくわからない人物だと言う印象をネットデータから得ただけだった。
 テオドール・アルストは5年前に突然アメリカから移住して来た。移住や帰化した理由は一切ネットでは拾えなかった。いきなりグラダ大学の生物学部に採用され、遺伝子学者として講師から准教授へと進んだ。遺伝子マップの解析に非常に優秀だと言う話だが、何か大きな発見をした訳ではない。ただ何百年も経ったミイラの遺伝子を分析して、性別のみならず出身部族まで読み解いてしまうところは、他の遺伝子学者には出来ない芸当だった。さらに遺伝子からその人物や生物の個体が持つ特徴、個性まで分析してしまえるのだ。
 こんな才能を持ちながら、何故この准教授は無名なのだろう。
 マイロは大学の内線電話の番号を押してみた。

ーー准教授テオドール・アルスト・ゴンザレスの研究室です。

 若い女性の声が聞こえた。多分秘書か助手だ。マイロは名乗り、准教授と面会したいと伝えた。すると女性が言った。

ーードクトル・アルストは、今日朝から東パスカル公園の池に学生達と共に蛙を捕まえに行っています。帰りは未定です。

 マイロは時計を見た。

「昼には戻られますか?」
ーー午後には戻られるでしょうが・・・

 女性はのんびりと言った。

ーー多分どこかで泥を落として食事をされてシエスタになさる筈ですから、もしかするとそのまま帰宅されるかも知れません。

 悠長だな、とマイロは思った。アルストはアメリカ人じゃなくセルバ人になりきっている。

「君はそこで留守番しているの? 夕方迄?」
ーー私は定時になれば帰ります。

 そして女性はマイロにアドバイスした。

ーー東パスカル公園に行かれたら、ドクトル・アルストに会えますよ。アポなしでも大丈夫です。公園ですから、誰でも行きます。


2023/02/16

第9部 セルバのアメリカ人      1

 グラダ大学に戻ると、マイロは忙しかった。先ず、旅行のレポートを医学部微生物研究室の室長ベンハミン・アグアージョ博士に提出しなければならなかった。さらに文化・教育省にも国内旅行が終了した報告を怠る訳にいかなかった。その前に、盗まれたクレジットカードの処理をカード会社に連絡し、新しいカードを作ってもらう手続きをしなければならなかった。パスポートは戻って来たが、もしかするとコピーされて悪用されるかも知れない。アメリカ大使館にも連絡を入れておいた。銀行にアクセス出来るようになると、真っ先にホアン・チャパに立て替えてもらった旅行費用を返済した。大学から一部の費用は出る筈だが、それがいつになるか見当がつかなかったので、チャパには出してもらった全額を返したのだ。
 寮友のアダン・モンロイにお守りを返して、役に立ったと告げると、モンロイは真面目な顔で話を聞いてくれた。

「僕の先祖は大昔に神と友達になったそうだ。その神がこの世から去って行く時に、僕の先祖にこの牙をくれたんだと、と言う話が家に伝わっている。」
「君の先祖はジャガーと友達だったのかい?」
「神様はジャガーなんだ。」

 モンロイはマイロの狭い部屋で、彼のベッドに腰掛けてビールを飲んでいた。ビールは彼の差し入れだ。

「この国では、森に住んでいるジャガーやマーゲイやオセロットは神様なんだ。ピューマも神様だけど、ピューマは恐ろしい神で、審判を行うと言われている。彼等を怒らせちゃいけない。」
「よその国の伝説や神話を馬鹿にするつもりはない。」

 とマイロは言った。

「でも呪いを信じて、防疫を疎かにするとシャーガス病などの厄介な病気に罹る。君も気をつけろよ。」

 すると、モンロイが首を傾げた。

「同じアメリカ人でも、君とドクトル・アルストは正反対だな。」
「ドクトル・アルスト?」

 名を口にしてから、マイロは思い出した。生物学部で遺伝子工学を教えている准教授だ。確かアメリカから帰化したと誰かが言っていたな。モンロイが窓の外に目を向けた。文化系や理系の、医学部以外の学部がある方角だ。

「アルストはセルバ人の信仰を迷信と片付けずに、真面目に受け容れるそうだ。それに彼はロス・パハロス・ヴェルデスと友達だからな、神様に守られている人って先住民の学生達は呼んでいる。」



第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...