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2021/07/27

博物館  17

  シオドアはデネロス少尉が大統領警護隊文化保護担当部に配属されてまだ1年経つか経たないかと言うことを思い出した。時期的に考えると、彼がバス事故に遭った時期より2、3ヶ月早かった。あの当時、ケツァル少佐は、盗掘美術品を密売している女性犯罪者ロザナ・ロハスを追跡中だった。ロホは悪霊祓いが得意だから、ロハスが盗んだネズミの神像を追いかける任務に欠かせない相棒として少佐と行動を共にしていたのだろう。アスルとステファンはきっと交代で運転手をしたり、発掘隊の警護に就いたりしていたのだ。だから彼等は文化・教育省のオフィスを殆ど留守にしていたのだ。全員が出動している日に、デネロスは初出勤したのだ。

「書類だらけの机を前にして突っ立っていたら、隣の部署の人が『少佐から電話だよ』って言ったんです。それで出たら、挨拶なしでいきなり『机の上の書類のデータをパソコンに入力しておきなさい』って命令されて、お終い。」

 アリアナが唖然とした。シオドアは少佐らしいと思った。デネロスはアリアナの表情がおかしかったのか、笑い出すのを抑えながら続けた。

「M・デネロスって名札が置いてある机があって、私の机なんだ! って嬉しかったです。ちゃんとパソコンのパスワードもファイルの名前もデータの入れ方も説明が置いてあって、感激でした。簡単な仕事だったので、ちゃっちゃと片付けて、時間が余ったので他の人の机の書類も片付けちゃいました。」
「他人の書類を勝手に入力して大丈夫だったの?」
「スィ、全然問題なかったのです。1800にまた少佐から電話がかかってきて、定刻だから帰りなさいって。だから、マルティネスさんとステファンさんの書類もデータ入力しておきましたって報告したら、電話の向こうで笑って『今から張り切ると、後で皆んなから当てにされて大変な目に遭うから、適当に手を抜きなさい』って仰って。」
「きっと少佐も同じ経験をしたのよ。」
「そうだと思います。本物の少佐と対面出来たのは、それから2週間後でした。私が定刻に出勤したら、その日は全員席にいて、仕事しながら自己紹介してくれました。」
「彼等はどんな印象だった? 優しい先輩かい?」
「全然・・・厳しかったですよ。暫くはパシリでしたもん。省庁内で書類配達ばっかりだったし、外出の時は運転手だったし、野外訓練で扱かれるし・・・カルロは髭生やしてるから恐い顔に見えたし、ロホは優等生なので他の人も出来て当たり前だって思ってるし、アスルなんてそれ迄一番下っ端だったものだから、子分が出来たって大喜びで。」
「だけど、彼はオクターリャの英雄だろ?」

 アリアナがシオドアを振り返った。

「何のこと?」

 しまった、あれは言って良いことなのか、悪いことなのか? シオドアが迷っていると、デネロスが上手に説明した。

「アスルは12歳の時に伝染病で苦しむ村に薬を届けて救ったんです。」
「へぇ! 凄いわね! お料理も上手よね、彼・・・」
「そうなんですか?」
「美味しい朝ご飯を作ってくれたわよ。」
「へぇ・・・私も今度作ってもらおう。」

 デネロスは時計を見て立ち上がった。

「そろそろオフィスに帰りますね。遅くなると叱られますから。」
「私達が引き留めたのだから言い訳に使ってくれて結構よ。」

 アリアナも立ち上がり、彼女を優しく抱き締めた。シオドアも握手した。多分ハグしてもデネロスは拒まないだろうが、キャンパスの何処に純血至上主義者がいるかわからない。ステファン暗殺未遂事件が解決する迄は安心出来ないと彼は思っていた。デネロスが白人男性と親しくしている姿をあまり見せない方が良いだろう。
 デネロスが去って行くと、アリアナがシオドアを振り返った。

「密売ルートの捜査って危険なの?」

 ステファン大尉のことが心配なのだろう。シオドアはわからないと正直に答えた。

「学生達にそれとなく話を聞いたことがあるんだが、マフィアみたいな組織らしい。多分、麻薬シンジケートの副業なんじゃないかな。」



2021/07/26

博物館  16

  ムリリョ博士からシオドアへ何も連絡はなかった。しかしシオドアの銀行口座には働いた時間分の給金が振り込まれていた。振り込み元名義はセルバ国立民族博物館だった。これなら亡命者を監視している内務省も文句を言うまい。
 大統領警護隊文化保護担当部は発掘シーズンが始まって忙しいのだろう、生物学部のシオドアと医学部のアリアナは彼等と出会う機会が少なくなって、ちょっと寂しかった。たまにマハルダ・デネロス少尉が英語の校正を依頼すると言う口実で、アリアナと大学で接触する程度だ。それでシオドアはアリアナにデネロスと出会う時に彼にも声をかけてくれと頼んでおいた。
 博物館のバイトから10日程経ってから、やっとシオドアの時間の都合がついて、アリアナとデネロスの勉強会に参加が叶った。場所はキャンパスのカフェだ。彼が現場に行くと、既に女性2人で始めていた。コーヒーを飲みながら聞いていると、勉強しているのか雑談しているのかわからない。アリアナにとってもデネロスにとっても息抜きなのだ。アリアナが「これで終わり」と言ったので、やっと彼にも口出しするタイミングが回ってきた。

「文化保護担当部の仕事は忙しいのかい?」
「スィ。」

 デネロスがニッコリして頷いた。

「ちょっと遺跡監視とは違うのですけど、文化財保護に重要な任務を遂行中です。」
「それじゃ、ジャングルには行っていないの?」

とアリアナ。行ってません、とデネロスが答えた。

「発掘隊の監視はまだ始まっていないんです。今季のイタリアの発掘隊はまだ準備中でセルバ人が苛つく程遅いんです。」

 シオドアとアリアナは笑ってしまった。

「それでアスルは警備隊の訓練を指導して、ロホとカルロの手伝いです。」
「ロホとカルロは何をしているの?」

 アリアナがステファン大尉やマルティネス中尉と呼ぶのを止めたことにシオドアは気がついた。デネロスは少し真面目な表情を作った。

「国家機密です。」

そしてケラケラ笑った。シオドアはちょっと不安になった。

「また外国へ行って盗掘品回収をしているんじゃないだろうな?」
「ノ、2人ともグラダ・シティにいます。でも盗掘品は良い線行ってます。」

 シオドアは何となく察しがついた。

「密売ルートを探っているんだな?」

 シーっとデネロスは指を口元に当てた。誰も彼等の会話に聞き耳など立てていなかったが。アリアナは単純に驚いた。

「警察みたいな仕事もするの?」
「たまには。」

とデネロス。彼女はまだ修行中なので、恐らくオフィスの留守番なのだ。先輩達が羨ましいのだろう。ちょっと拗ねて見せた。

「警察の人がオフィスに来たり、こっちから出かけたり、出入りが激しいんです。」
「貴女は何かに関わっているの、マハルダ?」
「私はイタリア発掘隊の申請書の整理ばっかりですよ。」

 仲間はずれなんです、と彼女はブツブツ言った。彼女のナワルはオセロットだとケツァル少佐が言っていた。獰猛だが小さい獣だ。多分、デネロスの超能力は威力がそんなに大きくないのだ。だからケツァル少佐は出来るだけ彼女を危険な現場から遠ざけている。修行中と言う名目で。彼女の得意なデータ処理や情報整理を担当させているのも、出来るだけ彼女を戦闘から遠ざけたいと言う少佐の親心だ。若いデネロスは、多分それを理解しているものの、やっぱり物足りないのだろう。

「マハルダ、君の兄弟も皆んな君と同じ能力を持っているのかい?」

 デネロスの不満を紛らわせてやろうとシオドアは質問した。デネロスが首を振った。

「ノ、私には3人の兄と2人の姉がいますが、皆んな”心話”しか出来ません。ナワルも持っていません。」
「それじゃ、兄弟姉妹の中で君が一番能力が強いんだ。」
「スィ。でも小さい時はそれで寂しい思いもしました。友達がなかなか出来なかったんです。近所の子供は私を怖がっていました。きっと気の抑制が上手く出来ていなかったのでしょう。早く大きくなった兄が、色々学んで私に教えてくれましたので、何とか普通に学校へは行けました。両親も私を普通の子供として育てようと努力してくれました。でも、成長するとだんだん手に負えなくなったようです。」

 語るデネロスに暗い過去を持つ印象は全く見えなかった。きっと家族から愛され大事に育てられたのだ。

「長兄が軍隊に入ることを勧めてくれました。上手くいけば大統領警護隊にスカウトされるかも知れない、そうすれば良いお給料をもらえるし、高等教育も受けられるし、能力の上手な使い方を教えてもらえて友達もいっぱい出来るだろうって。」
「素敵なお兄さんね!」
「スィ! 大好きな兄です。今でも官舎に畑の野菜を送ってくれるんですよ。」

 デネロスの実家は近郊で農業をしているのだ。そう言えば、先日アスルが酔っ払った時に彼女を「野菜畑の姫」と呼んでいたなぁ、とシオドアは思い出した。あの時は意味も何も考えなくて、ただ変なことを言うなぁと思っただけだった。

「お兄さんは先見の明があったのね。貴女は大統領警護隊にスカウトされたじゃない。」

 エヘヘ、とデネロスが照れ笑いした。

「士官学校へ入る方が大変でした。うちは兄弟が多いので学費を払うのも苦労だったと思うのですが、両親は文句一つ言わずに仕送りしてくれました。だから私も頑張って、スカウトが来た時に、思い切り”心話”でアピールしました。私を採用しないと損ですよって。」
「きっとそのスカウトも貴女が気に入ったのよ。」
「文化保護担当部に採用されたのは、ケツァル少佐に目をかけてもらったからかい?」

 デネロスは採用された当時のことを思い出して、ウフフと小さく笑った。

「大統領警護隊は女性が少ないんです。一族の女性達は軍隊より企業のオフィスで働く方が好みなんですよ。大統領警護隊でも女性は事務方への配属を好む人ばかりです。政府高官の側近や外交官になったりするんです。でも私はそんなに頭は良くないし、どっちかと言えばジャングルや砂漠で仕事をしたかったんです。それで野戦要員を希望したのですが、大統領警護隊の野戦要員って、要するに大統領官邸や高官の警護や式典の儀仗兵なんです。」
「つまらないわね。」

 アリアナが素直に感想を述べると、デネロスがうんうんと頷いた。

「つまらないんです。出会いの場も少ないでしょ? そしたらトーコ副司令官に呼び出されて、考古学に興味があるかと訊かれたんです。ないことはないですと答えたら、文化・教育省にオフィスを置いている大統領警護隊文化保護担当部に空きがあるので、そこで働いてみないかって勧められました。びっくりしました。だって、文化保護担当部って、名前こそ事務方ですけど、陸軍の分隊を指揮して遺跡発掘隊や調査団の警護をしたり、盗掘団や反政府ゲリラと戦闘をやるエリート集団ですからね。警護隊の憧れなんですよ。」
「指揮官も有名だね?」
「スィ!」

 デネロスが嬉しそうに目を輝かせた。

「ケツァル少佐は大統領警護隊の憧れなんです。気の大きさが半端ないし、使い方も上手だし、美人だし、お金持ちのお嬢さんなのに全然そんな素振りを見せないし、考古学の成績も優秀だし、強いし、そしてちょっと恐い・・・」

 まるでヒーローを語るような口ぶりだ。放っておくとまだ賞賛の言葉が続きそうだったので、シオドアは口を挟んだ。

「それであっさり採用されたのかい?」
「副司令が推薦状を書いて下さいました。だけど、その後が大変で・・・」

 デネロスの表情が初めて微かに曇った。シオドアは何となくその理由がわかった。

「純血種の隊員達が、文化保護担当部に推薦された君をやっかんだんだね?」

 アリアナがびっくりして彼を見た。

「そんなことがあったの? だって、マハルダは優秀じゃないの?」
「彼女が優秀だから、純血種達は悔しいんだよ。メスティーソの”ヴェルデ・シエロ”に出世で追い越されたんだから。」
「それじゃ、貴女は虐めに遭ったの、マハルダ?」
「虐められはしませんでしたけど・・・意地悪はされました。でもそう言うのは小学校で経験済みでしたから、正式採用されるまで我慢しました。それに通信制の大学に入学して考古学を始めたので忙しくて、意地悪な連中の相手をする暇もありませんでした。」
「貴女は偉いわ、マハルダ。」
「そうですか?」

 またエヘヘとデネロスが照れ笑いした。

「初めて文化保護担当部に正式に配属された日って覚えてる?」
「勿論です! あのオフィスに初めて入った時・・・」

 彼女はクスッと笑った。

「誰もいなかったんです。」


2021/07/25

博物館  15

  マハルダ・デネロスが目を覚ましてくれたお陰で、3人でミイラの保管室を歩き回り幽霊を追いかけることが出来た。”ヴェルデ・シエロ”と思われる幽霊は確かに3人だけ、と少佐とデネロスの証言が一致した。かなり古い神官の服装をしている男性だと言う。幽霊達は特に目的もなく室内を漂っていた。時々”ヴェルデ・ティエラ”のミイラから亡者が出て来かけたことがあったが、その度に少佐が弱いながらも気を放ち、ミイラの中へ押し戻した。デネロスは1人の神官がよく動き回るので追いかけていた。現生の3人は辛抱強く3人の亡者がミイラへ戻るのを待ち、明け方近くに”ヴェルデ・シエロ”のミイラを梱包用の箱に移動させた。
 シオドアはノートを破ってそこに「神官3名」と書き記し、箱の蓋の上に載せておいた。保管室を出て扉を閉じ、寝袋を片付けた。
 少佐が時計を見て、シオドアに尋ねた。

「ドクトル、今日の予定は?」
「午前中に講義が一つ・・・」

 欠伸が出た。

「何時から?」
「10時。俺は定刻に講義を開始するので有名だから。」

 デネロスが笑った。少佐が言った。

「まだ5時間あります。何処かで休みましょう。」

 その「何処か」は結局少佐のアパートだった。彼女のベンツで到着すると、シオドアは一度来たことがある建物に入り、ちょっと感慨深い物を感じた。あの時は故国から逃げて、アスルの手で過去の村に隠してもらった。今は「見習いセルバ市民」だ。
 少佐の部屋は高級アパートだけあってバスルームが2箇所あった。一人暮らしの女性の部屋にバスルームが2箇所だ。シオドアとデネロスがそれぞれ別のバスルームでシャワーを浴びて体を洗った。着替えは出勤前に自宅へ立ち寄らなければならない。風呂から出ると、ダイニングに少佐が簡単な朝食を用意してくれていた。トーストと卵料理と果物だ。彼女がシャワーを浴びている間に食事を済ませた。デネロスも少し遅れて風呂を上がり、朝食の席に加わった。上官を待ったりしない。時間に制限がある時は効率よく動くのだ。シオドアはリビングのソファで寝ることにして、デネロスに客間を譲った。寝る前にふと思いついてアリアナに電話をかけた。まだ6時半で彼女はベッドの中にいて、電話で起こされたことに文句を言ったが、シオドアがシャツの着替えを大学へ持って来るよう依頼すると引き受けてくれた。
 バイトは上手くいったらしい。ムリリョ博士から連絡はなく、シオドアはエアコンが効いた室内で短時間だがぐっすり眠れた。
 8時過ぎに少佐が何処かに電話をかける声が聞こえた。シオドアは彼女の声が楽しそうだったので、安心してまた眠り、9時に起こされた。
 起きるとデネロス少尉はいなかった。少佐がコーヒーを淹れてくれながら説明した。

「ロホに指揮代行を頼みました。ついでにマハルダを拾って先に出勤してもらいました。」
「君が電話をかけていた相手はロホだったのか。」
「誰だと思ったのです?」
「ムリリョ博士に仕事の結果報告でもしているのかと思った。」
「その必要はありません。貴方が残したメモで彼はわかります。」

 シオドアは熱いコーヒーを啜った。生き返った気分だ。

「昨夜、君は心を何処かに飛ばしていたね。ステファンに何かあったのかい?」
「彼が大きな気を放ったので、何かあったのかと思って様子を見に行ったのです。」
「ムリリョとマハルダは感じなかったみたいだね。」
「部族が違いますから。」

 少佐もコーヒーを一口飲んだ。

「何もなかったので安堵しました。少し相手が悪かったのです。」
「ムリリョと同じ部族の人か?」
「スィ。マスケゴ族の男で、シショカと言います。建設大臣の秘書をしていますが、純血至上主義者で”砂の民”です。」
「ムリリョの手下?」
「ノ。”砂の民”ですが、単独で長老会の指図でのみ動く男です。ムリリョ博士の指図で動く組織には入っていません。ですが、マスケゴ族の長老としてのムリリョ博士の指図には従います。」

 ”ヴェルデ・シエロ”が一枚岩でないことをシオドアは知っている。そして、ややこしい掟も存在するのだ。

「殺し屋だね? 殺し屋がステファンに何かしようとしたのか?」
「まだカルロと話をしていないので詳細がわかりませんが、襲撃したのではなさそうです。何らかの理由で出会って、売り言葉に買い言葉で口論でもしたのではありませんか。」
「それでステファンが腹を立てて気を放ったのか・・・」

 シオドアはアメリカの遺伝病理学研究所がステファンを拉致・監禁した時のことを思い出した。シオドアの義理の弟エルネスト・ゲイルがステファンを怒らせ、医療検査機器を破壊させてしまったのだ。
 少佐がカップをテーブルに置いた。

「そろそろ大学へ行きましょう。カップはそのままで良いですよ。メイドが後から来ますから。」


博物館  14

 シオドアはうとうとしかけた時に、扉の向こうの声を再び聞いた。耳を澄ましてもはっきり聞こえない。隣のデネロスを見ると、少尉は寝ていた。彼は懐中電灯でタブレットを照らし、聞こえる音を文字に置き換えようとした。しかし耳に入ると言うより脳に直接来る声は文字に置き換え辛かった。子音ばかりを打って、欠伸が出た。こんなこと、毎晩やってられるか!
  扉の向こうでは相変わらず10人だか20人だかザワザワと声がしている。シオドアは寝袋から這い出した。扉ににじり寄り、耳をくっつけたが、それでも言葉らしきものは聞き取れない。声が聞こえるだけだ。俺に巫女の才能なんかないのに、無理だろう。
 顔を扉から離したら、すぐ隣でケツァル少佐も耳を扉に付けていたので、びっくりした。危うく声を出しそうになって口を自分で抑えた。タブレットにメッセを打ち込んだ。

ーーなにやってんだ?

 少佐が顔を扉から離した。シオドアのタブレットにメッセを書き込んだ。

ーー聞こうとしていました。
ーー君は聞けないだろう!

 その時、デネロスがうーんと声を出した。扉の向こうが静かになった。少佐が開き直って声を出した。

「解決策を考えないと、明日もまたここで寝る羽目になります。」
「君が付き合うことはないさ。俺が引き受けたんだから。」
「貴方を一人でこんな場所に置いておきたくありません。」
「それって、俺を心配してくれている訳?」

 暗闇の中で少佐がぷいと横を向いた。きっと赤くなっている、とシオドアは勝手に決めつけた。

「言葉が伝えられないのなら、何か身体的な差があれば良いんだがなぁ。ミイラではそれも無理か・・・そもそも生きている”シエロ”と”ティエラ”の身体的差もないもんなぁ。」

 2人は暫く黙って座っていた。後ろでデネロス少尉がスースーと寝息を立てていた。自分で志願しておきながら、先に寝落ちしてしまっているのだ。少佐は怒る気力がないらしい。ここで眠らせておかないと次の日の業務に支障が出るのは目に見えていた。
 シオドアは記録した子音だけのメモを眺めた。ムリリョは”ヴェルデ・シエロ”のミイラを入れると”ヴェルデ・ティエラ”のミイラ達が穏やかに眠れないと言った。それは亡者、幽霊達も同じではないのか? 生きている”ヴェルデ・シエロ”が地下保管室に入った時、幽霊達はどんな反応をしているのだ? シオドアには幽霊の姿が見えない。だから彼等がムリリョやケツァル少佐が入室した時に示す反応が見えない。”ヴェルデ・ティエラ”の幽霊は生きている”ヴェルデ・シエロ”には平気なのか? それとも敬遠するのか? 

「少佐、君は昨日ここへ来た時、幽霊を見たんだろ?」

 少佐がこっくり頷いた。彼が何を言い出すのか推し測ろうとしているのか、ちょっと不安げな雰囲気だ。

「何人いた? 君が見た幽霊は何人だった?」

 すると彼女は小さな声で答えた。

「3人でした。」
「俺が聞く声はいつも10人とか20人だ。」
「だから?」
「喋っている幽霊は”ヴェルデ・シエロ”も”ヴェルデ・ティエラ”も入り混じっているに違いない。だけど、俺達が入った時、”ヴェルデ・ティエラ”は隠れた筈だ。生きている”ヴェルデ・シエロ”が2人に増えたからだ。ムリリョ博士は毎日ここにいるから連中は平気なんだろうけど、新顔で能力が強い君が加わったので、”ヴェルデ・ティエラ”の幽霊は体に戻った。残ったのが”ヴェルデ・シエロ”だ。その3人がどのミイラのものか、確認するんだ。」
「私が?!」
「俺には見えないから。」
 
 シオドアが立ち上がって扉に手をかけたので、ケツァル少佐が焦った。階段の照明が灯った。

「うん?」

 明るくなったために、デネロスが目を覚ました。眩しそうに目を細めて、シオドアと少佐を見上げた。

「もう朝ですか?」

 少佐が何か言う前に、シオドアは素早く話しかけた。

「まだ夜中だよ。これから中に入る。一緒に来るかい?」


博物館  13

  階段を下りて行く間、ケツァル少佐は無言だった。シオドアは下りた突き当たりの扉の向こうからコソコソヒソヒソ話し声がして来るのを早速聞き取った。「ほら」と囁くと、途端に声が止んだ。

「連中は邪魔が入るとすぐ沈黙するんだ。」

 デネロス少尉が耳を澄まして聞く素振りをした。

「さっきまで、何か喋ってましたね。」
「聞こえるのかい?」

 少佐が足を止め、シオドアも彼女を振り返った。デネロスが肩をすくめた。

「聞こえると言うか、何か感じました。」
「この子はブーカですから・・・」

と少佐が囁いた。

「霊感は鋭い方だと思いますよ。過去に似た体験をしたことはありますか?」
「うーん・・・」

 デネロスはあまりお化けの存在を気にしない子供だったらしい。

「お墓とか、交通事故の現場とかでそれらしきものを見たことはあります。でもあっちが話すのは聞いたことがありません。」
「君が聞き取れたら、俺のバイトは楽なんだけどな。」

 シオドアは階段を下り切ると、そこに荷物を置いた。狭いが3人の寝袋を何とか広げられそうだ。デネロスが眉を上げた。

「中に入らないんですか?」
「俺が中に入ると亡者は沈黙してしまうんだ。だから、今夜はここで寝転んで彼等の話し声を聞いてやろうと思う。」
「えー・・・」

 デネロスはミイラに囲まれて寝たいのだろうか? 不満顔になったので、少佐が寝袋を広げながら言った。

「貴女一人であっちへ行きますか?」

 恐らく絶対にあっちへ行きたくない人であるに違いない少佐が、部下に意地悪をしている。デネロスは扉を見た。ミイラに囲まれてみたいと言う好奇心と、一人で行くのは嫌だと言う素直な感情が彼女の中で戦っている、とシオドアは察した。彼はデネロスに声をかけた。

「俺は声が聞こえたら音だけでも拾ってアルファベットで書き留めていく。君も聞こえたらそうしてくれないかな? 2人で照合しよう。」
「そうなさい、マハルダ。」

 ケツァル少佐は意地悪を言ってみたものの、やっぱり部下を一人で怖い場所へ行かせたくないのだ。万が一のことがあれば助けに行かねばならない。彼女自身行きたくないし、部下を怖い目に遭わせるのは彼女のプライドが許さない。例え訓練だとしても、話が通じない亡者の相手をさせたくなかった。これが弱小の悪霊なら何とか出来るのだが。
 デネロス少尉もシオドアの提案を受け容れた。
 隙間なく置かれた寝袋を階段の最後の段から見て、シオドアが尋ねた。

「誰がどこに寝るんだ?」

 両側に女性がいてくれたら嬉しいのだが、少佐が真ん中を指差して、デネロス、と言った。左がシオドアで彼女は右だ。

「え? 俺が端っこ?」
「一番若い子を真ん中に置いて守ります。」

 少佐が横目で彼を見た。

「マハルダに変なことをしたら、銃殺です。」
「しないよ!」

  水とトイレは修復ラボの入り口にあった。シオドアはタブレットとノートを準備した。少佐とデネロスは上着だけ脱いでTシャツ姿で寝袋に入った。シオドアも体を押し込んだ。セルバのミイラはみんな膝を抱えた三角座りのポーズだが、寝袋に入るとエジプトのミイラになった気分だ。デネロスが囁いた。

「照明消します?」
「消した方が亡者が出やすいかも・・・」

シオドアが言い終わらぬうちに照明が消えた。デネロスが気で壁のスイッチを押したのだ。真っ暗になった。タブレットもノートも見えない。鼻を摘まれてもわからない程真っ暗だ。シオドアは懐中電灯を探して持参したリュックの中に手を入れた。

「うわっ!」

 いきなり冷たい物が頬に当たって、彼は思わず声を上げた。照明が灯った。ケツァル少佐が点けたのだ。

「マハルダ!」

 少佐の抑えた怒声が狭い空間に響いた。デネロスがリンゴをシオドアの顔のすぐそばに差し出したポーズで固まった。頬に触れた冷たい物の正体はリンゴだった。

「ええっと・・・あの・・・」

 デネロスが手を引っ込めながら言い訳を試みた。

「夜中にみんなで食べようと思って、リンゴとビスケットを持って来たんですけどぉ・・・」
「ピクニックではありません。」

 少佐が怒っているのは、部下が食べ物を持ち込んだからではない。暗闇でも目が利く”ヴェルデ・シエロ”が、暗闇の中では何も見えない普通の人であるシオドアを脅かしたからだ。

「ここがどんな場所か考えて行動なさい。ドクトルに謝るのです。」

 まるで子供を叱るママだ。デネロスがシオドアに「ごめんなさい」と言った。

「あんなに驚くとは思わなかったので・・・」
「俺は君みたいには闇の中で目が利かないんだよ。マジ、びっくりした。だけど、もう大丈夫だから、気にするな。」

 シオドアは少佐にも声をかけた。

「君も俺の声でびっくりしたんだろ? ごめんよ。」

 少佐は彼女の部族の言葉で何やらブツブツ言いながら寝袋の中に戻った。
 シオドアは懐中電灯を灯し、デネロスが照明を消した。それから彼女はシオドアのタブレットにメッセージを打ち込んだ。

ーー少佐が私達のことを、ガキ呼ばわりしていました。
ーー俺もガキに入れられたのかな?
ーーリンゴで悲鳴を上げたから、そうじゃないですか。

 そして彼女がリンゴを差し出したので、シオドアは有り難く受け取った。


2021/07/24

博物館  12

 1930、即ち午後7時半、シオドアはセルバ国立民族博物館の玄関でケツァル少佐とデネロス少尉と落ち合った。こんな場合、友人が時間に正確な軍人であることは喜ばしい。2人の女性は寝袋を持参していた。シオドアが仕事をする間に寝る魂胆だ。一応彼の分も持って来てくれてはいたが。
 ムリリョ博士はシオドアが一人で来るものと思っていたので、女性が2人もやって来てむっつり顔がさらに硬くなった。しかも一人はメスティーソだ。

「儂は子供を雇った覚えはないぞ、ケツァル。」

 少佐が言い訳した。

「デネロス少尉に発掘現場へ出る訓練を受けさせます。今夜はそのリハーサルです。」

 デネロスは作法を守って黙っていた。シオドアは博士が彼の方を向いたので、ドキリとした。ミイラや亡者を怖がって女性に助っ人を頼んだのではないかと疑われた様な気がした。シオドアは直接話しかけて良いのだろうかと一瞬迷った。しかしもう初対面の段階は過ぎていた。彼は言った。

「遺跡の中での野営を想定した訓練だそうです。」

 ムリリョ博士は何も言わずに視線をデネロスに戻した。ジロジロと眺め、それからケツァル少佐に向き直った。

「何処の娘だ?」
「ワタンカフラのブーカ族です。」

 デネロス自身が説明を追加した。

「8分の1ブーカです。後は”ティエラ”とスペインが半々・・・」

 勝手に喋るなっつうの! ケツァル少佐が苦い顔をした。しかし、ムリリョ博士はこう言った。

「お前の部下は面白い連中ばかりだな、”ラ・パンテラ・ヴェルデ”。」

 部下って? シオドアはムッとした。俺は少佐の友達であって部下じゃない。それに”ラ・パンテラ・ヴェルデ”って? ”緑の豹”?
 ムリリョは若い娘に興味津々だった。今度は直接デネロスに質問した。

「お前は”ツィンル”か? ナワルは何だ?」
「スィ、私は”ツィンル”です。ナワルはちっちゃいんですけど、オセロットです。」

 怖いもの知らずで、デネロスがハキハキと答えた。シオドアはムリリョの表情が和らいだのでびっくりした。 老博士が呟いた。

「美しく獰猛な精霊よ。ケツァル・・・」

 返事がなかった。シオドアは少佐を振り返った。ムリリョとデネロスも少佐を見た。 ケツァル少佐は壁にもたれかかって空を見ていた。目を開けたまま気絶しているのか? シオドアが声をかけようとすると、ムリリョが制した。

「心を飛ばしている。邪魔をするな。」

 ケツァル少佐が瞬きした。そして3人が彼女を見つめていることに気がついた。

「失礼しました。」

と少佐が謝った。ムリリョが尋ねた。

「誰かに呼ばれたのか?」
「呼ばれたのではありません。大きな気の放出を感じたので様子を見に行っただけです。」

 少佐は博士を見つめた。

「私の部下にあの建設省の犬を近づけないで下さい。」

 誰のことを言っているのだろう? シオドアはデネロスを見た。デネロスは心当たりがあるようで、不安げな顔をした。ムリリョが半眼で少佐を見た。

「お前の部下? あの半分だけのグラダか? あの男に儂の身内が近づいたと言うのか?」
 
 半分だけのグラダ? ステファン大尉のことだ。シオドアは不安に襲われた。また大尉が狙われたのだろうか。しかし少佐はそう言うことには言及しなかった。

「貴方の身内は不用意に何かを言って、私の部下を怒らせたようです。言動に注意を払うよう躾けておいて下さい。次に彼を怒らせたら、命の保証はありません。まだあの子は抑制が効かないのですから。」

 離れた場所にいるケツァル少佐にわかる程ステファン大尉が怒りの気を放出したのか。シオドアは、「建設省の犬」と呼ばれた人物が一体何を言ったのだろうと思った。きっと純血至上主義者がメスティーソを侮辱したのだろう。
 ムリリョ博士が溜め息をついた。

「あれには手を出すなと配下に言ってある。言葉のやり取りで問題があったのだろう。後で問い質しておく。」

 そして彼は地下室へ降りる階段を振り返った。

「では、ミイラ共をよろしく頼む。」


博物館  11

  夕方、アリアナはエウセビーオ・シャベスが運転する車で帰宅した。シオドアは泊まりなので明け方迄帰らない。恐らくケツァル少佐に送ってもらうから迎えは良いよ、と言われたシャベスは少し不満そうに見えた。

 「送迎する人数が減るとお給料に影響するのかしら?」

 アリアナが心配すると、シャベスは給料は問題ではありませんと言った。

「私はあなた方が大統領警護隊と仲良くしておられることが心配なのです。」
「どうして?」
「彼等が何者かご存知なのでしょう?」

 訊かれて彼女は返事に困った。シャベスは”ロス・パハロス・ヴェルデス”の正体を知っている。だがこの国でその事実を知っていると他人に話すのはタブーなのだ。彼女は用心深く答えた。

「彼等は友人よ。」

 シャベスが少し悲しげに彼女を見つめた。アリアナはドキリとした。彼はメスティーソだが、ステファンとは違ったタイプの魅力的な顔をしていた。

「彼等は私達とは違う人々です。」

とシャベスが囁いた。

「この国を陰で操って支配している真の実力者達です。私達のことを本気で友人などとは思っていません。家の庭で遊ばせている犬や猫の様に考えているのです。いざとなれば、彼等は我々を平気で切り捨てます。信用し過ぎると痛い目に遭います。」

 友人を貶された気分で、アリアナは不機嫌になった。

「私は彼等ほどには貴方のことを知らないわ。お願いだから、私の前で彼等の話をしないで下さる?」
「申し訳ありません。」

 シャベスは謝って、交替の警備兵に引き継ぎの為に通用口脇にある小部屋へ去った。アリアナは携帯電話をバッグから出した。大統領警護隊の友人達の電話番号が登録されていた。メアドも入っている。彼等は普通の人々だ、と彼女は信じた。友達を見捨てたりしない。
 それから1時間後、行きつけの店で夕食を簡単に済ませたステファン大尉が自宅アパート前に帰って来た。車を降りてドアをロックし、キーをポケットに入れてから彼は近くの家の横手にある暗がりに向かって声をかけた。

「用事があるなら、さっさと出てきては如何です?」

 暗がりの中から、男が一人現れた。黒いTシャツの上に白い麻のジャケットを着込み、白い麻のズボンを履いている。靴も白い革靴だ。顔は純血の先住民だった。彼は車の向こうで立ち止まり、ステファンに声をかけた。

「ケツァル少佐と亡命アメリカ人が国立民族博物館へ夜になってから出かけるのは、どう言う理由かな?」

 ステファンは答えずに相手の目を睨みつけた。白いジャケットの中年男が睨み返した。

「”出来損ない”がこの私に”心話”を要求するのか、無礼だろう。」

 ステファンは言い返した。

「一族の者なら”心話”を拒否するのは非礼だとわかるでしょう。」
「笑止! ”出来損ない”に礼儀を教わる義理などない。一族呼ばわりされる覚えもない。」

 一瞬周辺の空気が帯電したかの様な異様な感覚を中年男に与えた。街頭の照明や道路両側の家々の照明が点滅した。庭木の枝で休んでいた鳥類が鳴き声を上げて夜空に舞い上がった。中年男は両手をギュッと握り締め、両足を踏ん張って立っていた。
 ステファン大尉はポケットからタバコの箱を出し、1本咥えた。相手を見ながらライターでタバコに火を点けた。

「失礼、今吸わないと、この区画を停電させかねないので。」

と彼は煙を吐き出して言った。空気が静まった。中年男は肩の力を抜いた。

「私を脅したつもりか、ステファン。たった1回ナワルを使えただけでいい気になるな。」
「脅したなど・・・私はちょっと腹が立っただけです。貴方の言い方にね。」

 ステファン大尉は彼がちょっと気を放っただけで相手がビビったことを気配で察していた。相手の男、シショカは純血至上主義者だ。何故か白人の政治家の秘書として働いているが、国政にはかなり影響力を持っている。彼が仕えている建設大臣マリオ・イグレシアスを”ヴェルデ・シエロ”に都合良く操縦していると言われていた。ケツァル少佐は常々彼が混血の”ヴェルデ・シエロ”に対して発する差別発言に不快感を示しており、同時に彼が彼女の大切な部下達に危害を加えるのではないかと危惧していた。最年少のマハルダ・デネロス少尉は決して一人で建設省に行かせて貰えないし、ステファンも少尉の頃は同様だった。
 だが、今シショカはステファン大尉が放った気の大きさに怯んでいた。もうこんなヤツ、恐くない。ステファンは自信がついてきた己に少し驚いていた。気のコントロールが出来ている。
 シショカは大尉が気を緩めたことに気がついていた。この甘さは若さ故に来ていると彼は知っていた。まだ完全に目覚めておらぬ、と長老達が言っていた。無理に刺激すれば暴走する。”出来損ない”だがこの世で唯一人のエル・ジャガー・ネグロだ、慎重に扱わねばならぬと。それは純血至上主義者達にとって耐え難い意見だった。我々には、純血種の女”ラ・パンテラ・ヴェルデ”がいるではないか! 彼女に純血種の男の子を産ませれば良い、”出来損ない”の男は要らぬ。
 だがシショカは攻撃しなかった。ここでステファンを殺しても意味がない。第一長老が許可していない。今迄一度も、どの長老もこの”出来損ない”を処分せよと言ったことがない。
 ステファン大尉がタバコの灰を落とした。

「少佐とアメリカ人はムリリョ博士の要請で徹夜の仕事に行かれたのです。それ以上のことをお知りになりたいのなら、博士に直接お訊きになるとよろしい。」

 シショカの一族の長老の名前を出すと、政府高官に仕える殺し屋が沈黙した。
 ステファン大尉は「おやすみ」と言った。そして相手にクルリと背中を向け、アパートの階段を上って行った。


博物館  10

  昼食の場所に指定されたカフェにシオドアが到着すると、既にケツァル少佐と2人の部下、それにアリアナがテーブルに着いて待っていた。アリアナがいたのでシオドアはびっくりした。彼女が文化保護担当部を訪問するとは聞いていなかった。しかもステファン大尉の向かいの席だ。大尉の隣は当然ながらケツァル少佐で、メニューを見ることもなく、アリアナに苦手な食べ物はありませんかと訊いているところだった。少佐の向かいでアリアナの隣に座っているデネロス少尉がシオドアに気が付いて手を振ってくれた。シオドアはアリアナの隣に座った。彼が来たので、女性3人に押され気味だったステファン大尉がホッとした表情で微笑みかけてきた。

「ムリリョ博士のアルバイトを引き受けられたそうで?」
「スィ。それで悩んでいる。」

 するとデネロスがニッコリして言った。

「このお店は何を喋っても大丈夫、店の人も客も口が固いから。」

 シオドアは店内を見まわした。従業員も客も普通の人々に見えた。どこにでもいる善良な市民だ。客は商社関係か省庁関係の人間ばかりだ。のんびりお昼休みを過ごしている人がいれば、書類を間に置いて商談している風の人もいる。パソコンを置いて仕事中の女性は通りかかったウェイターにコーヒーのお代わりを頼んだ。
 少佐が早口で数種類の料理を頼んだ。何を頼んだのか分からなかったが、ステファン大尉もデネロス少尉も異を唱えなかったので、無難なものだろうとシオドアは思った。
 デネロスがシオドアが受けたバイトの内容に興味を抱いて質問してきたので、シオドアは朝アリアナにした説明をもう少し詳しく話した。

「セルバ国立民族博物館が建て替えられるので、その間所蔵品を別の場所に保管するんだ。地下室に保存されているミイラも引っ越しさせるんだが、その時に部族毎に分けたいと館長が希望している。」
「DNA鑑定をするの?」

とアリアナが至極当然の様に尋ねた。

「ノ。ミイラを傷つけるなと言う館長の厳命だ。だから困っている。」
「見て分からないの? 例えば出土場所で分けるとか、埋葬方法の違いで分けるとか?」

 彼女の質問はもっともだ。他所の国の博物館はそうやってミイラを分けている。その問いにステファン大尉がデネロス少尉を見て目で何か伝えた。デネロス少尉が文化保護担当部を代表して答えた。

「ミイラの出土場所は多くありません。何故なら、違う時代の遺体が同じ場所に埋葬されたからです。国立博物館で保存されている遺体の多くは、今から15世紀以上昔のものです。一番古いものは紀元前3世紀半ばのものと考えられています。つまり、凡そ800年間、同じ場所が墓所として使用され、使った部族も時代毎に変化しています。一方、遺体は古い者から順番に安置されたとは考えられにくく、隙間に適当に入れられた感があります。副葬品を置く風習が当時なかったので、遺体だけで時代や部族を特定するのは難しいのであります。」

 多分、教科書のまる覚えだ、とシオドアは思った。少佐と大尉が顔を見合わせ、肩をすくめ合った。大体合っている、と大尉が先輩らしく頷いた。そこへ料理が続々と運ばれてきた。今夜の夕食を簡単に済ませなければならないシオドアの為に、少佐が色々と注文してくれたのだが、支払いは誰がするのだろうか? 
 アリアナが科学者らしくさらに質問を続けた。

「毛髪 の 炭素・窒素安定同位体比 や 放射性炭素年代測定とかは?」
「それじゃ出身部族の特定は難しいよ、アリアナ。時代毎に部族が入れ替わった訳じゃないだろう?」
「それに、 炭素・窒素安定同位体比 や 放射性炭素年代測定は外国の調査機関に依頼しなければなりません。我が国にそんな設備はないのです。」

と少佐。兎に角、とシオドアは投げ槍な気分で言った。

「館長は、俺に亡者の声を聞けと言うんだ。」
「亡者?」

 アリアナが怪訝な表情で一同を見た。

「ミイラが喋るの?」

 馬鹿馬鹿しい、と彼女は笑い、”ヴェルデ・シエロ”達も笑ったのでシオドアはそれ以上説明しなかった。デネロスが無邪気に上官に尋ねた。

「少佐もそのバイトに付き合われるのですか?」

 少佐の笑顔が固まった。ステファン大尉が口に入れたスープに異物でも入っていたのか、ナプキンで口元を抑えた。多分、吹き出しそうになったのだ。シオドアは故意に優しく少佐に言ったみた。

「無理に付き合ってもらわなくて良いんだ、少佐。俺は大勢の亡者に囲まれて朝まで気絶して過ごすから。」

 昨夜彼の手をギュッと握ってきた彼女の手の感触が蘇った。女性に頼られるって良いもんだ。
 デネロスが体を乗り出した。

「私も行って良いですか?」

 え? と残りの4人全員で彼女を見た。銘々が咎める口調で言った。

「遊びに行くんじゃないぞ。」
「夜中の博物館よ、マハルダ。」
「ミイラの山だぞ!」
「まだ修行中でしょ!」

 しかしマハルダ・デネロス少尉はケロッとした顔で言った。

「だって、ミイラは動かないし、悪さしないし、棚の上で座っているだけじゃないですか。」
「そうだけど・・・」
「現場に行ってみたら、何か分別方法が思い浮かぶかも知れません。」

 彼女は期待を込めて上官を見た。シオドアも少佐を見た。ステファンは上官を見ないようにして、豆のペーストを焼いたパンに塗り始めた。アリアナは事態がどう動くのかとテーブルの同席者達を見比べた。
 ケツァル少佐が脱力した。

「わかりました。デネロスが行くなら私も行きます。1930に博物館の玄関に集合。但し、バイト代をもらえるのは、ドクトルだけですよ。」
「承知しましたぁ!」

 デネロスが座ったまま敬礼したので、上官2人は苦笑いするしかなかった。ステファンが豆ペーストを塗ったトーストをアリアナと少佐に分けた。デネロスは部下なので貰えない。女性達が料理の食べ方をアリアナにレクチャー始めた隙に、ステファンがシオドアに目配せして席を立った。シオドアは彼が話があると言った様な気がして、席を立って着いて行った。
ウォーターサーバーでグラスに水を汲みながらステファンはシオドアに囁いた。

「少佐の苦手なものをご存知ですか?」

 シオドアはニヤッと笑ってしまった。

「無害な幽霊だね?」
「スィ。何もしないでただそこにいるだけの亡者が、彼女は大嫌いなのです。戦えないし、蹴散らせない、文句も言えない、そんな相手が彼女は一番怖いんです。」
「大丈夫、マハルダにバレない様に、少佐を守ってやるよ。」
「お願いします。」

 抑えた、しかし切実な声に、シオドアは苦笑した。そして思った。君は本当に彼女をよく理解しているんだなぁ、と。

博物館  9

  次の日の朝、シオドアとアリアナは通常通り大学へ出勤した。アリアナにバイトの話をしなかったのは、まだ具体的に博物館で何をするか決めていなかったからだ。だから、国立民族博物館に用事があるので帰りが遅くなる可能性があるとだけ伝えておいた。彼女が大統領警護隊文化保護担当部と関係があるのかと尋ねたので、肯定はしておいた。

「多分、ミイラのDNA鑑定が必要になると思うんだ。」

と言うと、彼女はそれ以上突っ込まなかった。
 大学の研究室に入ったシオドアは午後の授業の準備に没頭した。シエスタの時間を長く取りたかったので、早く準備を終わらせる必要があった。
 アリアナは医学部の研究室が少し暇になったので、先週末にマハルダ・デネロス少尉から頼まれた英語で書いた論文の校正した原稿を届けに出かけた。監視役の運転手を電話で呼ぶと、彼は大学の近くにいて、すぐ来てくれた。メスティーソの若い男性でエウセビーオ・シャベスと言う名前だ。内務省の職員かと思ったが、陸軍の軍曹だと言った。だから大学の側にある陸軍士官学校で送迎の時刻まで待機しているのだと説明した。大統領警護隊の隊員も陸軍士官学校からスカウトされるので、アリアナはなんとなく親しみを感じてしまった。シオドアから監視役とは個人的に親しくなるなと言われていた。彼等の任務の障害になるから、と言う理由だ。シャベスは普通の”ヴェルデ・ティエラ”のメスティーソで、大統領警護隊とはお近づきになれても友達になりたくない様子だった。彼の同級生で警護隊にスカウトされた人がいないのも理由の一つであるかも知れなかった。

「ドクトル・アルストから夜の迎えは暫く必要ないと言われましたが、”ロス・パハロス・ヴェルデス”と何かなさっているのでしょうか?」
「知らないわ。博物館で何か仕事を依頼されたみたいだけど。」
「博物館? セルバ国立民族博物館ですか? それともグラダ・シティ近代科学博物館?」
「ミイラがいる所よ。」

 アリアナの答えに、彼は「ああ」と呟き、それ以上は訊いて来なかった。
 文化・教育省の入り口で、いつもの愛想のない女性軍曹にI D確認をしてもらい、入館パスをもらってアリアナは4階へ上がった。階段からフロアに入って、しまった!と後悔した。デネロスの都合を先に確認するべきだった。これ迄彼女が大統領警護隊文化保護担当部を訪問した時、必ずと言って良いほどマハルダ・デネロス少尉は在席だった。しかし、この日彼女は不在で、文化保護担当部の場所にいたのはカルロ・ステファン大尉一人だけだった。ケツァル少佐もロホもアスルもいなかった。ステファンは火が点いていないタバコを咥えて、面白くなさそうな顔でパソコン作業をしていた。服装はカーキ色のTシャツとジーンズだ。パンツが迷彩服の時はいつでも遺跡へ出動出来る体勢で、ジーンズの時は一日中事務仕事の日、と以前デネロスが教えてくれていた。ステファンは本日留守番の当番なのだ。
 彼しかいないのだと分かったので、アリアナは出直そうと思った。しかし、他の部署の職員に気づかれてしまった。誰かが声を上げた。

「ステファン大尉、お客さんですよ!」

 すっかり顔を覚えられてしまった。ステファン大尉が顔を上げてこちらを見たので、仕方なく彼女はデネロスの論文が入った封筒を掲げて、訪問の目的を告げようとした。封筒を誰かに預けて帰るつもりだったが、ステファン大尉が手を振って、入って来いと合図をした。アリアナはカウンターの内側へ入った。文化保護担当部の区画へ行くと、大尉が視線をキーボードに戻して言った。

「デネロスは10分か20分程で戻って来ます。」

 封筒を預かってやろうと言わない。彼女がデネロスを待つものと決め込んでいる。しかしこれはセルバ流だ。1時間や2時間市民を待たせることをセルバ共和国のお役人はなんとも思わないのだ。アリアナは仕方なくデネロスの椅子に座った。気まずい沈黙が訪れた。何か彼と話をしたいが話題が思いつかない。仕事の邪魔をしたくない。だが黙っていると息が詰まる。彼女は大尉をそっと見た。先週末、彼はまたゲバラ髭になっていたが、この朝はまた髭がない。タバコを咥えた少年の様に見える。彼女は思い切って話しかけてみた。

「髭を剃ったのは任務で必要だからかしら?」
「なんです?」

 よく聞こえなかったのか、ステファンが顔を上げた。アリアナはちょっと緊張しながら繰り返した。

「貴方が髭を剃ったのは、仕事で剃る必要があったからですか?」

 多分スペイン語の文法を間違えずに言えた筈だ。ステファンが顎を手で擦った。彼女の為に英語で語ってくれた。

「ああ・・・これは・・・夕べ、下士官達とポーカーをして負けたからです。」
「?」
「金のやり取りがあると軍律違反になるので、勝ったヤツの言いなりになるんです。昨夜は負けたら剃刀を一回ずつ髭に当てることになっていました。」
「負けた人、全員?」
「スィ。しかし、中途半端で終わるとみっともない顔になるので、最後は全員で剃りましたがね。」

 アリアナは思わず笑ってしまった。そこへマハルダ・デネロスが戻って来た。アリアナが笑っている理由をすぐ悟った。

「髭がない大尉って、可愛いでしょ?」

と彼女も笑いながら話しかけてきた。

「この顔で遺跡荒らしを追いかけても、怖がる人はいませんよ。男の人って馬鹿でしょ?」

 ステファン大尉はムッとして、エステベス大佐の札が下がったドアを指差した。

「ドクトラに論文の指導をしていただくのだろう? 時間を無駄にするな。」

 デネロスは舌をペロッと出して、部屋の準備をする為に大佐の部屋へ向かった。その隙にステファン大尉がアリアナに声をかけた。

「金曜日の夜は酔った勢いで失礼なことをしてしまい、申し訳ありませんでした。」

 アリアナは彼の逞しい腕に抱き抱えられたことを思い出した。胸がドキドキした。

「気にしないで・・・私も酔っていたから・・・」
「つい妹と戯れている様な気分になって・・・怖がらせてしまって、済みませんでした。」

 私に対する彼の認識は女ではなく妹のレベルなのか、とアリアナは思った。胸の動悸が鎮まり、赤面せずに済んだ様だ。なんとか誤魔化す為に言った。

「少佐も妹に見えた? 彼女と私の間に強引に座ったけど?」

 大尉が赤面した。

「どうか忘れて下さい。少佐が手を上げなかったのが奇跡なんです。」
「誰が手を上げるって?」

 ケツァル少佐の声がして、ステファン大尉が固まった。いつの間にか少佐がカウンターの内側にいた。

「素面の私が酔っ払いを殴るとでも?」

アリアナは素直に笑えた。


2021/07/23

博物館  8

  博物館から出て、ケツァル少佐はシオドアを本当の夕食に連れて行った。午後10時を過ぎていたが、南国の夜は暑くまだ賑やかだった。月曜日だと言うのにセルバ人は平気で夜更かしする。

「臨時収入は嬉しいが、ミイラの鑑定なんて、どうすりゃ良いんだろ。」

 シオドアは火曜日の夜からのバイトを考えると憂鬱になった。一人であんな場所で何をすれば良いのか。それに、彼が少佐について博物館に行ったのには、別に目的があったからだ。それが思いがけないバイトの話で話題に出しそびれてしまった。
 少佐も無言で食べながら考えていた。亡者は危険ではないが、バイトの成績いかんではムリリョの機嫌を損ねる恐れがある。彼女自身はムリリョが怖い訳ではない。シオドアの身の安全を考慮しなければならないのだ。

「君は亡者を見ることが出来るんだろ?」
「スィ。」
「でも声は聞こえない。」
「聞けません。」
「俺は亡者を見ることは出来ない。でも声は聞こえる。」
「でも話は聞き取れないでしょう。」
「そうなんだ。それに、もし言葉がわかったとしても、俺が話しかけて彼等が聞いてくれるかどうかもわからない。」

 ふと思いついてシオドアは提案してみた。

「ロホはどうだろ? 悪霊祓いの家の息子なんだろ?」

 少佐が首を振った。

「悪霊と亡者は違います。悪霊は神様が間違った祀られ方をして歪んでしまった姿です。正しい儀式をして清めれば正しい姿に戻ります。」
「セルバの悪霊は素直なんだな。キリスト教世界の悪魔は一筋縄ではいかないぞ。」
「話を逸らさないで下さい。」
「ごめん。亡者は悪霊とどう違うんだ?」
「亡者は目的がありません。」
「はぁ?」
「死んだ人の魂が行くべき世界に行かずに、ただそこにいるだけなのです。」
「それって、この世に何か未練があって・・・」
「そんなことで残ったりしません。亡くなる時や葬儀の時に神父が祈りを捧げてくれます。それでも残るのが悪霊ですから、拝み屋が処理します。拝み屋の手に負えないものは、悪霊祓いの家の仕事になります。」

 拝み屋と悪霊祓い屋は別物らしい、とシオドアはセルバ文化独特の分業を習った。拝み屋はきっと”ヴェルデ・ティエラ”の霊能者で、悪霊祓い屋は”ヴェルデ・シエロ”の職人なのだ。

「つまり、ただそこにいるだけの亡者に、ロホは何も出来ないってことか?」
「悪霊祓い屋は悪霊と話をするのではありません。悪霊を封じ込めて、正しい祀り方で鎮めてしまうのです。でも亡者は何もしないので、封じ込められないし、鎮める必要もありません。あちらの世界に行きそびれただけですから、私達が何かするのはお節介なだけです。時間が経って自然に行ってしまうのを待つだけです。」
「それにしては、あのミイラ達は古そうだったぞ。随分長い間こっちへ居残っているんだな。」

 少佐はこの疑問をさらりと片付けた。

「人ぞれぞれですから。」
「それを言うなら、亡者それぞれだろう?」

 シオドアは近くのテーブルの客がこっちを見ていることに気がついた。亡者だの悪霊だのと喋っているので、気になったのだろう。彼は使った単語の中に聞かれてマズイものが入っていなかったか、記憶を整理してみた。”ヴェルデ・シエロ”とか”ティエラ”とかは言っていない。このまま喋っていてもオカルトマニアだと思われて済ませられるだろう。

「兎に角、俺は死人が話しかけて来ても、向こうが言いたいことを理解出来ないから。」
「・・・」
「それに俺の方から話しかけることも出来ないし。」
「仕事を依頼されたのは貴方ですよ。」

 少佐はずる賢く話を変えた。

「貴方はどんな理由で私について来られたのです?」
「それは・・・」

 ここでは言えない、とシオドアは思った。”砂の民”のムリリョにカルロ・ステファン大尉が狙われなければならない理由を聞き糺そうと思ったのだ。ケツァル少佐は、”砂の民”は一族の秘密を守るのが役目で個人的な恨みが理由の暗殺はしない、と言った。それなら純血至上主義者の立場からのムリリョの意見を聞かせて欲しかった。

「この場では言えない。人が多過ぎるから。」

 シオドアも話題を変えてみた。

「あの教授はずっと俺を無視していたなぁ。」

 すると少佐は問題ないと言う顔をした。

「先住民のマナーです。初対面の人同士が仲介人を通して話をすると言う昔ながらの習慣です。仲介人がいない場合は構いませんが、あの場での仲介人である私を通さずに直接貴方と教授が話をするのはマナー違反なのです。」
「そんなマナーを聞いたのは初めてだ。」
「あの人の主義を思い出して下さい。」

 純血至上主義だ。 ああ、とシオドアは納得した。それに、と少佐が付け加えた。

「人類学者でもありますから、部族の古い習慣を守っているのです。」
「それじゃ、俺が途中で口を出したので、怒っていただろうな。」
「それはバイトを引き受けてくれる人が見つかったので、帳消しになっています。」

 また話がバイトに戻って来た。しかしケツァル少佐はセルバ人らしくまとめた。

「明日、考えましょう。」



博物館  7

  ムリリョはシオドアに目を向けながらも、話しかける相手は必ずケツァル少佐だった。

「グラダはやっぱり私が何を希望しているかわかるのだな。」

 少佐は無表情だが、老博士の言葉の意味を測りかねているのがシオドアにはわかった。ムリリョはまだ彼女を呼び出した用件を教えてくれないのだ。シオドアは試しに老人に質問してみた。

「俺が亡霊の声を聞けることに何か思うところでもあるのですか?」

 ムリリョが棚のミイラを一体取り出した。成人のものらしいミイラは、大人の男性の腕でも一抱えはある大きさだ。彼はそれをケツァル少佐の前に持って近づいた。

「これは”ヴェルデ・シエロ”か”ヴェルデ・ティエラ”か、どっちだと思う?」

 少佐が脱力した。

「そんなこと、私にはわかりません。この遺体からは何も感じない。遺体が語りかけてこない限り、私にはこの人が何者なのか判別出来ません。」
「細胞を・・・」

 シオドアはDNAを分析すれば遺伝子レベルで判別出来ると言いかけた。しかし、少佐が片手を上げて彼を制した。それ以上勝手に喋ってくれるな、と言うことだ。
 ムリリョがミイラを元の位置に戻した。

「お前はグラダだ、亡者が見えるのだろう?」
「見えても話は出来ません。亡者とは”心話”が出来ないのです。」
「だが、この白人は声を聞けると言ったぞ。」

 ムリリョがシオドアを見ずに指だけ指した。全く失礼な爺様だ、とシオドアは思った。彼はまた我慢出来ずに言った。

「俺は声を聞けるが、言葉を聞き取れない。君達の先祖の言語を知らないし、亡霊の言葉は不明瞭で単語として聞き取れないんだ。それに俺が部屋に入ったり、外へ顔を出したりして彼等の姿を見ようとしたら、声は止んでしまうんだ。」

 ムリリョが黙り込んだ。シオドアは室内のミイラを見た。

「要するに、ムリリョ博士はここのミイラを”ヴェルデ・シエロ”と”ヴェルデ・ティエラ”に分別したいと希望されている訳ですね?」
「遺体に傷を付けることは許さぬ。」

 初めてムリリョが彼をまともに見た。

「”シエロ”であろうが”ティエラ”であろうが、セルバ人の祖先の遺体を傷つけてはならぬ。」
「しかし、表面の細胞は乾燥で破壊されているので、骨周辺か骨の組織を採取しないと、分析に掛けられないし、これだけの数を処理しようとなるとかなりの時間がかかるし、グラダ大学の設備で間に合うかどうか・・・」
「時間がない。」

 ムリリョはキッパリと言った。

「博物館の建物は老朽化している。この地は地震が多い。政府に数年前から最新の耐震構造で博物館を建て替える要求を出していたが、遂に予算が通った。来月から仮保管所へ所蔵品の移転を開始する。しかしミイラは所蔵場所が足りないので”忘却の谷”へ持って行く。」

 ああ・・・と少佐が顔を顰めた。シオドアが怪訝な表情をしたので、彼女が素早く説明した。

「”ヴェルデ・ティエラ”の昔からの墓所です。遺跡なのですが、ミイラ専用の保管施設があり、そこにここのミイラを一時保管すると言う計画です・・・よね?」

 最後はムリリョに自説の正しさを確認するトーンだった。ムリリョが弟子をジロリと見て、徐ろに頷いた。

「”忘却の谷”の亡者どもが、ここの”ヴェルデ・シエロ”の遺体を移すことで眠りを妨げられるのは心苦しい。だから”シエロ”のものだけ別に部屋を設けて入れる。そのために、ここで分けておきたい。」

 科学的なのか非科学的なのかよくわからないが、そう言うことか。
 少佐が不満顔になった。

「私はミイラと睨めっこして分別している時間などありません。発掘の季節が始まるのです。超忙しいことは教授が一番ご存知の筈です。」
「だから、他に適任者がいないか相談する為に、お前を呼んだ。そしてお前はこの白人を連れて来た。珍しく気が利くではないか。」

 皮肉なのか褒めているのかよくわからない。シオドアは純血至上主義者のムリリョ博士が何故”心話”でケツァル少佐と話そうとしないのか、不思議に感じた。それにムリリョは少佐がグラダ族だから亡者を見ることが出来ると言う意味のことを言った。ムリリョは何族だったっけ? グラダ族でなければ霊は見えないのか? ロホは見えていた様だが?
 気がつくと、少佐とムリリョがシオドアを見ていた。

「ドクトル・アルスト・・・」

 ケツァル少佐はシオドアが何回頼んでも、テオと呼んでくれない。

「貴方は夜間暇ですね?」
「暇・・・だけど、夜間の外出は内務省の許可が要るし、今日は君が同伴だから無許可でここへ来ているだけで・・・」
「許可申請は儂が出しておく。」

とムリリョが言った。そりゃ、純血至上主義者で”砂の民”の爺様からの申請だったら通るだろうけど、とシオドアは思った。ちょっと強引じゃないか?

「期限は来月の10日迄、夜の8時から明け方5時迄、ここで分別をすること。」
「ちょっと待ってくれよ、俺の睡眠時間は・・・」
「シエスタの時間に寝れば良い。」
「大学のシエスタは2時間しかないぞ。」
「午後からの仕事が多いのか?」

 シオドアは返答に詰まった。午後の授業があるのは火曜日だけだった。残りの曜日は研究室で学生に出す課題の準備研究をしていたのだ。ムリリョは勝手に話を進めた。

「食べ物の持ち込みは許可しない。食事は上の事務室で取ること。ラボも飲食禁止だ。」
「もしかして、タダ働き?」
「ノ。要した時間の分だけ支払う。」

 ムリリョは”心話”で少佐に何か伝えた。少佐が表情を崩した。

「安い! そんな時給でバイトを雇えるとお思いですか?」
「予算ギリギリだ。」

 とても”神様”の会話とは思えなかった。



2021/07/22

博物館  6

 シオドアはティティオワ山の”死者の村”で聞いた亡者のお喋りに似た話し声をセルバ国立民族博物館の地下で聞いた。話し声は”死者の村”同様、彼が階段を降りた突き当たりのドアを開けた瞬間に聞こえなくなった。しかしそんなことはどうでも良かった。シオドアは目の前にずらりと並ぶ棚に置かれた物を目にして呆然と立ち尽くした。階段を吹き上がっていた黴臭い風の原因がわかったのだ。

「これ・・・全部ミイラ?」

膝を抱えたポーズで座る何十体と言う干からびた人間の遺体が棚をぎっしりと占めていた。

「スィ、セルバ人の祖先達です。」

 地下の部屋に入った途端に元気を取り戻したケツァル少佐は、シオドアの手を離し、室内に呼びかけた。

「ドクトル・ムリリョ、ケツァルです。呼び出しに応じて来ました。」

 シオドアは少佐から紹介があるまで口を利くなと言われていたので黙っていた。少佐が声をかけてからたっぷり2分も経ってから、棚の向こうから一人の高齢の男性が姿を現した。すっと背筋の伸びた背が高い純血種の先住民だ。日焼けした皮膚はなめし皮の様で、頭も眉毛も真っ白だった。鼻は高く目が鋭い。真一文字に結ばれた薄い唇は薄情そうに見えた。 服装は普通にノータイのワイシャツにコットンパンツだ。シオドアがミイラが服を着て歩いて来たのかと思ったほど痩身だった。何歳なのだろう。

「よく来た。」

とムリリョが低い声で言った。

「昼間、ケサダがお前が怒っていると言ったので、来ないかと思っていた。」
「人を呼び出しておいて場所も時間も告げないから、文句を言った迄です。」
「グラダなら、私が何処にいるかわかるだろうに。」
「私はママコナではありません。」

 少佐がミイラの棚にもたれかかった。

「ご用件は?」

 それ迄老人はシオドアを全く無視していた。そしてこの時、初めて彼を見た。

「この白人は何者だ?」
「グラダ大学の教授ともあろうお方が、彼を知らないのですか?」

  ケツァル少佐は恩師に対してかなり失礼な態度を取った。シオドアは老人が怒り出さないかと心配になった。だからつい言いつけを破って、自己紹介してしまった。

「生物学部で遺伝子工学の講師をしているテオドール・アルストです。」

 少佐が睨んだ。勝手に喋るなと言ったでしょ! と言われた気がした。ムリリョが首を傾げた。

「この白人は無礼だな。何故彼を連れて来た?」

 ケツァル少佐は投げ槍に答えた。

「彼自身にお訊き下さい。」

 シオドアも先住民流の直ぐに用件に入らない”ヴェルデ・シエロ”同士の会話にうんざりしたので、頭に浮かんだことを言った。

「女性を夜に呼び出すには似つかわしくない場所じゃないですか。彼女を呼んだ理由をさっさと説明なさっては如何です? まさかミイラや亡霊達に囲まれた黴臭い部屋で彼女を口説こうってんじゃないでしょうね。」

 あちゃーっと言いたげに少佐が顔に手を当てて下を向いた。失敗したかな?とシオドアは心配になった。”砂の民”で純血至上主義者を怒らせた?
 ファルゴ・デ・ムリリョがケツァル少佐を見た。深い皺を額に寄せたが、それは驚きの表情で眉を上げたからだった。

「ケツァルよ。」

と彼が少佐に呼びかけた。

「この白人は亡霊を見ることが出来るのか?」
「ノ! 見えません!」

 シオドアは慌てて否定した。

「幽霊なんて見たことありません。声が聞こえるだけです。」

 ムリリョがまた少佐に声をかけた。

「ケツァル、この白人が言ったことは本当か?」

 ケツァル少佐は正直に答えた。

「私は亡者の声を聞けませんので、彼が何を聞いているのか私にはお答え出来ません。」

 ムリリョがシオドアに顔を向けた。シオドアは彼が口角を上げるのを見た。


博物館  5

  セルバ国立民族博物館は午後7時閉館だ。午前9時に開館し、正午にシエスタで閉まり、午後2時に再開する。正面玄関を入ったところに巨大な壁画が展示されている。頭部に翼がある神やジャガーの上半身に人間の下半身を持つ神、槍を持った兵士の軍団、月や星を操る女性達、トカゲやワニや鹿の様な動物・・・シオドアが眺めていると、少し遅れてケツァル少佐が入ってきた。文化・教育省は午後6時に閉庁するので、彼女は多分何か軽く食べて来たのだろう。シオドアは自分も何か食べてくれば良かったと後悔した。アリアナは医学部の新しい友人の家に招かれて泊まりになるのだ。運転手は先に帰らせた。メイドは夕食の準備を終えたら帰らせる様に運転手に指図し、シオドア自身はタクシーで帰宅するつもりだ。
 少佐が壁画の前で足を止めた。

「これは本物です。」

と聞かれもしないのに彼女が説明した。

「遺跡に置いたままにしておくと崩壊が進むばかりだったので、分割してここへ運び、修復しました。10年かかりました。描かれた当時の絵の具を再現するのに時間がかかったのです。」
「職人技だね。元の絵が素晴らしいのは勿論だけど、それを現代に蘇らせる技術を持つ人々も凄い。」

 シオドアが賞賛すると、少佐は自分が褒められたみたいにちょっと頬を赤らめた。

「コンピューターで再現映像を作りましたが、実際に石に塗ってみると色調などが微妙に異なるので、皆んな苦労した様です。」
「君達の先祖だね。」

 シオドアは中央に大きく描かれている頭部に翼がある神を指差した。少佐が苦笑した。

「そんな頭をした人間がいたら、私は神様どころか化け物だと思いますけど。」

 子孫にそんなことを言われては神様は立つ瀬がないだろう。
 閉館を告げるチャイムが鳴り、玄関の扉が自動的に閉じられた。ガチャリと施錠される音が響いた。これから朝まで、中の人間は裏の通用口しか使えない。館内の照明が順番に消されていく。少佐がシオドアについて来いと合図した。
 現代のセルバ共和国で生産されている工業製品や農作物の標本が並ぶケースの間を通り、奥の「関係者以外立ち入り禁止」のドアを2人は潜った。ドアの向こうは職員や学芸員達の事務所で、帰り支度をしている人々の間を通り抜けた。ケツァル少佐は博物館関係者と顔馴染みなので簡単な挨拶だけで立ち止まらずに歩き続けた。シオドアもビジターのプレートを入り口で少佐にもらったので、彼女の真似をして「オーラ」だけで通した。職員の多くはメスティーソで白人もいた。館長が純血至上主義者の”砂の民”とは信じられない構成だ。
 事務室の奥にあるドアを抜けると、今度はラボだった。遺跡から運ばれた出土品の修復作業をする場所で、そこではまだ数人の職人が働いていた。作業に一区切りつけないと帰れない心境なのだろう、とシオドアは思った。
 ラボから更にドアを通り抜けた。階段だった。下から埃の様な黴臭い風が緩々と吹いていた。ケツァル少佐が足を止めた。

「いつもながら、ここを降りるのは嫌いです。」

と彼女が囁いた。シオドアは彼女の横に立って、階下を見下ろした。階段は途中に踊り場があって、180度ターンしていた。降りた先は見えなかったが、人の話し声が聞こえた。ザワザワと、不明瞭で大勢がてんでバラバラに喋っている。

「地下室だね。大勢いるみたいだが?」

 すると少佐が彼を振り返った。

「聞こえるのですか?」
「何を? 人の話し声かい? スペイン語じゃないと思うけど、10人かそこらの人数が話をしているみたいだ。」

 シオドアは何処かで同じような物を聞いたことがあると思ったが、思い出せなかった。少佐が階段をゆっくり降り始めた。彼は彼女の後ろに着いた。すると少佐が囁いた。

「後ろではなく隣にいて下さい。」
「良いけど?」

 心なしか彼女の勢いが落ちた感じがしたと思ったら、シオドアは彼女に手を握られて驚いた。それもただ握ったのではない、彼女は彼の手をギュッと力を入れて握りしめた。まさか? シオドアは新しい発見をした思いだった。

「少佐、ここの地下が怖いのか?」
「怖くなどありません。」

 少佐が強がって言った。

「足元が滑らないよう、用心しているだけです。」

 シオドアは階段の人感センサーが作動して照明が灯るのを見ながら、ケツァル少佐の弱点発見にちょっとホッとするものを感じていた。オールマイティの”ヴェルデ・シエロ”の女性は、悪霊や反政府ゲリラは平気なのに亡者が苦手なのだ。

博物館  4

  週明け、シオドアは大学で偶然ケツァル少佐を見つけた。少佐はキャンパスの中庭でベンチに座り、タブレットに何か打ち込んでいた。学生達が彼女に気づいて振り返る。特に男子学生は興味津々だ。無理もない、ミリタリールックの先住民美女は人目に付く。セルバ人なら彼女が何者か見当がつくだろう。武器を持っていなくても、彼女の身分はわかる。セルバの若者の憧れと畏怖の対象、大統領警護隊だ。
 シオドアが彼女に近づいていくと、数人の学生が足を止めて彼女に話しかけた。少佐が顔を上げ、彼等の質問に答えた様だ。学生達は喜んで彼女を囲む半円を築き、シオドアは少佐が見えなくなってちょっとがっかりした。授業が始まる。歩調を早めてベンチの近くを通ると、学生達が古代遺跡の話をしているのがチラッと耳に入った。考古学部の学生達が、文化保護担当部に質問をしている。全く自然なことだった。発掘の相談でもしているのだろう。
 午前中の授業をこなすと、大学は2時間のシエスタに入った。企業が4時間のシエスタを取るのと違って学生にはちょっと厳しい。教授達にも厳しい。冬とは言え南国の太陽は容赦無く照りつけていた。シオドアは大学のカフェへ昼食を取りに行った。この日アリアナは医学部の教授達と付属の病院へ実際の患者を見に出かけており、彼は一人だった。医学部にはアメリカ人の教授がいるし、病院にもアメリカ人の医師が働いているとかで、アリアナは居心地が良いらしい。
 ビュッフェ形式のカフェでポージョエンセボジャードとご飯を取って、シオドアは木陰のテーブルを探した。良い場所は殆ど先客がいたが、4人がけのテーブルを一人で占領している人がいた。シオドアは邪魔が入らぬうちに急いでそこへ行った。

「同席を願います、ケツァル少佐。」

 彼と同じポージョエンセボジャードの皿とご飯、フライドチキンをテーブルに置いたケツァル少佐がテーブルの残りに広げていた新聞を仕方なく畳んだ。同席を許可する言葉はなかったが、こんにちはと言ってくれた。シオドアはトレイを置いて、椅子に座った。

「金曜日の夜、ロホとマハルダは門限に間に合ったかい?」
「辛うじて。営倉に入れられずに今朝出勤していたので、セイフだったのでしょう。」
「カルロはアパートに帰ったのか?」
「他に何処へ帰るのです?」

 まだステファン暗殺未遂事件は解決していないだろうと、シオドアは言いたかったが控えた。ステファン大尉は自分で自分の身を守れる、と少佐は言いそうだった。

「アスルがお世話になったそうで、礼を言います。」

と少佐が話の方向を変えた。アスルは結局あのままシオドアの寝室の床で朝まで爆睡していた。シオドアは彼の頭の下に枕を置いてやり、毛布をかけてやったのだ。土曜日の朝、彼とアリアナはアスル特製の美味しい朝食にありつけた。ペピアンの爽やかな味に感動した。アスルは週末はメイドが休みなのを知っていて、夕食の下拵えまでして置き去りになっていたステファン大尉のビートルで帰って行った。

「アスルがあんなに料理上手だとは知らなかった。」
「では、コックの友達の家に寝泊まりしているのでしょう。」

 愛想が悪い男だが、アスルは意外に交友関係が広い様だ。少佐が次の野外業務に彼を同伴させようと呟いた。竈門の前で鍋のお守りに明け暮れるアスルを想像して、シオドアは笑った。

「カルロは虫除けで、アスルは料理番なんだな。ロホは運転手だったっけ?」
「本人の前でそんなことを言わない様に。転職されると困ります。」

 少佐も笑いながら言った。シオドアは彼女の大学での用事が気になった。

「今日は考古学関係の用事でここへ来たのかい?」
「スィ・・・ノ・・・」

 少佐はちょっと視線を周囲に巡らせた。他人に聞かれたくない用件なのか? 

「考古学部の教授に会いに来たのですが、なかなか掴まらないのです。」
「考古学部の教授達から、なかなか掴まらない、と言われている君が掴まえられない人なのか?」

 ちょっと驚きだ。余程多忙なのか、それとも余程人嫌いなのか? 

「私の考古学の担当教授だった方で、マハルダの担当教授をしているフィデル・ケサダの先生でもある人です。」

と言われても、シオドアはフィデル・ケサダ教授を知らない。しかし大統領警護隊の隊員を教えるのだから、恐らくその教授もケサダ教授も”ヴェルデ・シエロ”なのだろう。 少佐が言葉を足した。

「亡くなったリオッタ教授も彼に教授を受けていました。」
「それは・・・」

 複雑な心境になった。リオッタ教授は”ヴェルデ・シエロ”に興味を持ち、消えた村を探ろうとして純血至上主義者の怒りを買ったのだ。そして事故死させられた。”ヴェルデ・シエロ”は超能力を使って直接人間を殺害したりしない。どうやらそれは厳しく掟で禁止されているらしい。だが、物に何らかの力を与えて落ちたり転がる勢いを増加させ、標的の人間を事故で死なせることをやってのけるのだ。リオッタ教授は調査しようとしていた”ヴェルデ・シエロ”が目の前にいる恩師だと気付かなかったのだ。

「その教授の教授というのは?」
「ファルゴ・デ・ムリリョ、人類学者でセルバ国立民族博物館の館長でもあります。」

 シオドアは声を低めた。

「もしかして、”ツィンル”?」
「スィ。」

 ケツァル少佐も声を低めた。

「ガッチガチの堅物です。 白人嫌い、黒人も嫌い、若い者も嫌い。」
「そんな人に用事って、仕事だろうな、やっぱり。」
「そうなのですが、呼んだのは私ではなく、向こうなのです。」

 その時、少佐は誰かを発見した。立ち上がって手を振り、相手を呼んだ。

「フィデル! こっちへ来て!」

 シオドアが後ろを振り返ると、想像したより若い男が立っており、ケツァル少佐に気がついて向きを変えてやって来るところだった。ロホと良い勝負の純血種の先住民イケメンだ。大学の教授らしく服装は上品に襟付きのニットシャツ、下はコットンパンツでベルトも締めている。片手で大きな書物を2冊抱えていた。
 シオドアも少佐に倣って立ち上がって彼を迎えた。フィデル・ケサダ教授はシオドアが知らない言語でケツァル少佐に挨拶をした。シオドアは悟った。この男は純血至上主義者だ。少佐が敢えてスペイン語で挨拶を返した。

「久しぶり。今日は貴方の師匠を探しています。何処にいらっしゃるかご存知ですか?」

 ケサダは直ぐに答えず、シオドアを見た。英語で尋ねた。

「アメリカから亡命してきた遺伝子学者と言うのは貴方か?」

 シオドアはスペイン語で返した。

「そうです。教師としての教育を受けていないので、生物学部で講師として雇われました。テオドール・アルスト、以後お見知り置きを。」

 ケサダが小さく頷いた。スペイン語に切り替えた。

「考古学部のフィデル・ケサダです。大統領警護隊文化保護担当部の若い連中が世話になったとか・・・?」
「俺が彼等を助けた以上に、彼等は俺を助けてくれました。感謝しているし、尊敬もしています。彼等は俺の大切な友人です。」

 シオドアはケサダが彼の目を見つめ、何か読み取ろうと試みたことを感じた。一般のセルバ人はマナーとして相手の目を見ることを失礼なことと位置付けている。だが本当は”ヴェルデ・シエロ”に心を支配されない為の普通の人間”ヴェルデ・ティエラ”の知恵なのだ。堂々と相手の目を見るのは”ヴェルデ・シエロ”である証拠だ。そして目を合わせた相手に支配されないのも”ヴェルデ・シエロ”なのだ。
 ケサダがシオドアから目を逸らした。彼はケツァル少佐を振り返った。

「少佐、貴方のお友達はなかなかのものだ。」

とケサダが言ったので、シオドアは「勝った!」と思った。少佐はいつものポーカーフェイスで、「そう?」と言った。そして

「この人を甘く見ると後悔しますよ。」

とも言った。ケサダは肩をすくめ、やっと彼女の質問に答えた。

「ムリリョ博士は今朝から博物館の方に籠っておられる。調べ物の邪魔をすると叱られるぞ。」
「私は博士に呼ばれたのです。人を呼び出すのなら、ちゃんと場所と時間を指定して頂きたい。私は午前中を潰してしまった。」

 遠慮なく文句を言うケツァル少佐に、ケサダが苦笑した。

「これだから、大統領警護隊は固くていかん。」
「しかし、彼女が言うことは尤もです。」

とシオドアはうっかり口を挟んでしまった。ケサダが怒るかと思えば、意に反して考古学教授が笑ったので、彼はちょっとびっくりした。ケサダが頷いて見せた。

「確かに、セニョール・アルストの言う通りだ。我が師は誰もが自分の言うことに従うと思い込む癖がある。」

 彼は時計を見た。

「博士に、グラダが腹を立てていると言っておこう。都合の良い時間をお聞きして、貴女の携帯に連絡する。それでよろしいか?」
「ブエノ。」

 少佐が椅子に腰を下ろした。ケサダ教授は小さく手を振って別れの挨拶をした。そして学生達の群れの中へ姿を消した。
 シオドアは座り直した。

「彼は何族?」
「マスケゴ族です。」
「あまり聞かないなぁ。純血至上主義かい?」

 少佐がほぐした鶏肉をスプーンで口元に運びかけて手を止めた。

「何故そう思うのです?」
「教授が君に君達の言葉で挨拶したからさ。」
「純血至上主義者なら”心話”で挨拶します。」

 少佐はパクリとチキンを口に入れた。口の中の物を飲み込んでから言った。

「ケサダは純血種ですが、至上主義者ではありません。マスケゴ族の多くは混血が進んで”ヴェルデ・ティエラ”の中に溶け込んで暮らしています。ですから、大統領警護隊の中にマスケゴ族の隊員は少ないし、政府の中に入り込んでいる人もあまりいません。彼等は”街の人”なのです。」
「それにしては、俺のことをケサダ教授はよく知っていたみたいだが?」

 少佐はシオドアがご飯を食べるのを暫く眺めていた。彼がミネラルウォーターで口の中を一度綺麗にした時、彼女は徐ろに言った。

「貴方は混同している様ですが、純血至上主義者と”砂の民”は別物ですよ。」

 シオドアは顔を上げて彼女を見た。ケツァル少佐は言った。

「純血至上主義者は本当に単独部族の純血種だけを人間だと信じ、他の存在を疎ましく思うファシストです。”砂の民”はそれとは違います。一族に害を為す者を排除することに特化された集団です。普段は一般の人に紛れて暮らしています。出身部族は様々ですし、複数部族の混血もいます。ファシスト達は組織だった集団ではなく、それぞれの思惑で動きます。”砂の民”は厳しい規則で動く組織を持ちます。警護隊が士官学校の生徒から隊員をスカウトするのと同じ様に、”砂の民”は市井で暮らす”ヴェルデ・シエロ”から仲間をスカウトします。ファシストが親から子に思想を繋げるのとは違います。」

 そしてこうも言った。

「ムリリョ博士は、純血至上主義者で、”砂の民”です。」


2021/07/21

博物館  3

  ロホの行きつけのバルのテイクアウト料理はとても美味しかった。ワインやシェリー酒、ビールと度数は高くないが酒の種類も多く、シオドアもアリアナも久しぶりに食事とアルコールに堪能した。アスルは意外にお酒に弱いのか、満腹になるとあまり時間が経たないうちに居眠りを始めた。

「ここにアルコールで堕落したインディヘナがいるぞ。」

ご機嫌のステファンがアスルを見て呟き、ロホが

「酔っ払いは留置場へ入れないと・・・」

と言った。シオドアが自分の寝室を指差した。

「俺の部屋で良ければ、彼をぶち込んでおけば?」
「そうしよう。」
「床に転がしておこう。後で踏まない様に気をつけて。」

 大尉と中尉が両側から少尉を支え、半ば引きずってシオドアの寝室へ連れて行った。それを見ながらケツァル少佐はソファの上であぐらをかいて、抱えたサラダのボウルから野菜や豆を摘んでいた。シオドアは彼女だけが飲んでいないことに気がついた。男達はあれだけ相談したにも関わらず、全員が飲んでしまっていたのだ。シオドアは彼女の隣に座った。

「君も飲みたかったんじゃないの?」
「部下達に先を超されました。」
「飲めば? 泊まっていけば良いさ。明日は休日だろう?」
「私が飲めば全員がここに泊まることになりますよ。」

 床のカーペットの上に座り込んだアリアナとデネロスが、何が可笑しいのか、ケラケラ笑いながらスナック菓子を食べていた。シオドアは言った。

「いいさ、全員泊まって行けよ。まさか、ママに叱られるって訳じゃないだろう?」
「大統領警護隊の官舎には門限と言うものがあります。」

 少佐が顎でデネロスを指した。

「マハルダとロホは官舎に住んでいます。」
「アスルは?」
「商店街に下宿があります。彼は士官学校時代に知り合った歯科医とルームシェアをして住んでいるのです。シェア友が頻繁に女友達を取り替えるので、うんざりしてあまり帰りませんが。」
「それじゃ、彼は普段は何処で寝泊まりしているんだ?」
「本人に訊いて下さい。」

 その時、デネロスがシオドアを呼んだ。シオドアが2人の女性のそばに行くと、デネロスがキャベツの形をしたクッキーの様なお菓子を見せた。それから人の顔をしたお菓子を見せて、最後に蒸した貝のお摘みを差し出した。意味が分からなくてシオドアがキョトンとしていると、アリアナが笑った。

「足し算ね。」
「スィ。」

 ますます意味が分からなくてシオドアが頭を抱えていると、寝室からステファンが出てきた。彼はまだご機嫌で、リビングに入るといきなりアリアナを抱え上げたので、彼女はびっくりして声を出せなかった。シオドアも唖然として彼を見上げた。ステファンは彼女をソファの上に投げ出す様に座らせ、彼女と少佐の間に自分の体を押し込めた。デネロスが彼を揶揄った。

「両手に花ね、カルロ。」
「君も膝に来るかい?」
「それって、セクハラよ。少佐が怒り出す前に、席を移動しなさい。」

 何故か一番若いデネロスが一番アルコールに強い様だ。互いに名前で呼び合っているのに、少佐だけは少佐なんだ、とシオドアは思った。
 ステファンが少佐を見た。

「怒ってます?」

 少佐が豆を口に入れてポリポリと音を立てて食べてから言った。

「ドクトラを怖がらせましたね。」

 実際、アリアナはちょっと怖かった。湖の岸辺で見つけた黒い猫は衰弱して寒さと傷の痛みで震えていた。しかし、今彼女の隣に座っているのは、力強い軍人で酔っ払っていた。
 シオドアはステファンがちょっと縮こまった様に思えた。急激に酔いが醒めたと言うべきか? ステファンがソファから離れた。

「すみません。浮かれてしまいました。」

 ちょっと罰が悪そうだ。少佐が時計を見た。

「そろそろお暇しましょう。門限迄にロホとマハルダを送らなければなりません。」
「アスルは置いて行って良いぞ。」

とシオドアは言って、寝室の方を見た。ロホはどうしたんだ? 彼の疑問に答えるかの様にステファンが少佐に言った。

「ロホも寝てしまいました。」

 少佐がボウルから顔を上げた。そして一言、誰に言うでもなく命令した。

「起こせ!」


博物館  2

  スペインではバルが開く迄まだ2時間程あるに違いないのだが、セルバ共和国ではまだ日が沈む前から酒類を提供する店が営業を始める。シオドア達の監視役である運転手は、大統領警護隊文化保護担当部が責任を持つと言うステファン大尉の言葉に、素直に先に帰ってしまった。アリアナは夜遊びの服装に着替えたかったが、ケツァル少佐もデネロス少尉も昼間のままの服装だったので、気にしないことにした。恐らく彼女達がアリアナに合わせてくれているのだろうと想像はついたが。ステファン、ロホ、アスルの3人が額を寄せ合って相談していたので、シオドアが仲間に入ろうとすると、駄目だと言われた。

「俺は除け者かい?」

とシオドアが抗議すると、アスルがぶっきらぼうに応えた。

「車を持っていないからだ。」

 つまり、誰が飲まずに我慢するかの相談だったのだ。シオドアは一同を見て首を傾げた。

「7人だぞ。1台で足りるのか?」
「足りますよ。」

と少佐が言った。

「貴方の家で飲むのですから。」
「はぁ?」

 シオドアの間が抜けた声に、アリアナが笑い出した。ロホが買い出しを担当するので先に行ってくれと言い、デネロスがついて行くと言い出した。

「男の人に買い物を任せたら、甘い物を忘れるんだもの。」
「それじゃ、私の車を使え。バイクじゃ2人乗りに荷物を抱えては危ない。」

 ステファンが車のキーをロホに投げ渡した。
 結局ケツァル少佐のベンツにシオドア、アリアナ、アスル、少佐が乗り込んでステファン大尉が運転してシオドア達の家に向かった。少佐がアリアナに助手席に座って下さいと言ったので、アリアナは一瞬何か裏でもあるのかと勘繰ってしまった。しかし少佐はただ彼女に家迄のナビを頼んだだけだった。ちょっとドキドキしながら助手席に座ったアリアナにステファンが尋ねた。

「自宅迄の道順を覚えておられますか?」
「大丈夫、運転手任せでぼーっと座っている訳じゃないのよ。」

 アリアナは普通に話せて、自分でホッとした。後部席ではシオドアが少佐とアスルに挟まれて窮屈な思いをしていた。少佐は彼女の車なので態度がでかい。シオドアはアスルにくっつく位置で座らねばならなかった。もし少佐に体を寄せようものなら、アスルに噛みつかれるのではないかと思った。
 運転手付きの車は門扉のリモコンを装備しているが、少佐のベンツにはない。シオドアが携帯電話を出したので、アスルが尋ねた。

「中から開けてもらうつもりか?」
「否、携帯でリモコンを使える様に、自分で設定したんだ。」
「・・・なら良い。」

 多分、アスルはミカエル・アンゲルス邸の門で見せた念力に似た力を使うつもりだったのだろう、とシオドアは思った。
 小さな家の狭い庭にベンツが乗り入れた。先に帰宅していた運転手が驚いて外へ出て来た。最初に車から降りたアスルが彼に声を掛けた。

「夜は君が警護に当たるのか?」
「ノ、私は車を車庫に入れたところでした。メイドも今夜は早めに帰しました。夜間の警護は後1時間で来ます。私と交替です。」

 運転手は相手が”エル・パハロ・ヴェルデ”だと気が付いて、緊張した面持ちだった。だからシオドアに続いてケツァル少佐が、アリアナとステファン大尉が降車したので、さらにびっくりした様子だ。

「今夜は我々がいる。交替を待つ必要はない。帰ってよろしい。」

 ステファン大尉に2回も同じことを言われて、運転手は慌てて家から鞄を取って来た。そして自転車に乗ると急いで帰って行った。
 アリアナが最初に家に入り、照明を点けた。

「いつも貴女が最初に家に入るのですか?」

 いつの間にかステファンが横にいたので、彼女はもう少しで跳び上がりそうになった。

「いいえ、いつもはメイドがいます。今日は早く帰ってもらったから・・・」
「中が暗い時は、ドクトルに先に入ってもらいなさい。」

 彼の気遣いに彼女はまた胸がときめいてしまった。照れ隠しに彼女は言った。

「もうドクトルやドクトラは止して、ステファン大尉。テオとアリアナで良いわ。」
「では、私もカルロと呼んで下さい。文化保護担当部では、オフの時間は皆んな階級に関係なく名前で呼び合っていますから。」

 アリアナは頬が赤くなっていないか心配しながら、「わかったわ」と呟いた。
 ケツァル少佐は早速他人の家の中を探検し始めた。リビングをぐるりと一周して、キッチン、メイドの休憩室、シオドアとアリアナのそれぞれの寝室、書斎、バスルーム、物置代わりのロフト、最後に地下室まで覗いた。シオドアは彼女について歩きながら、彼女が何をしているのかわかったので、黙っていた。
 2人がリビングに戻ると、アリアナがステファン大尉に手伝わせて飲み会の準備をしていた。テーブルの上にグラスと小皿を運び、椅子を集めて来た。買い出し班がまだ現れないので、彼女は冷蔵庫からワインの瓶を持ってきた。シオドアがその栓を抜いた時、アスルが入って来た。少佐と目と目を見合わせて何か話し合った。それでシオドアは何故彼等がこの家で飲み会をするのか理解した。政府の役人が用意した家のセキュリティの完成度を測っているのだ。果たして、少佐がリビングの壁のコンセントから盗聴器を一つ取り出した。機械に向かって囁いた。

「この家に誰が客として招かれるのか、承知の上でやっているのですか?」

 そして床に盗聴器を落とすと踏み潰した。アリアナがびっくりしてシオドアを見た。

「ここでも盗聴されていたの?」
「うん。でも、エルネストじゃないことは確かだ。」
「内務大臣のパルトロメ・イグレシアスだ。」

とアスルが言った。

「スパイの疑いがある難民がいるキャンプや、セルバ共和国にあまり友好的でない国の要人訪問時の宿舎に盗聴器を仕掛けるのが好きな男だ。庭の植え込みにも、道路ではなくこの家の庭だけを撮影しているCCTVがあった。」

 アリアナが溜め息をついた。少佐が彼女を慰めた。

「庭のカメラは我慢して下さい。防犯に役立ちますから。」
「グラシャス。」

 ステファン大尉がシオドアに囁いた。

「内務大臣の弟は建設大臣のマリオ・イグレシアスです。弟が難民キャンプを設営したり、要人宿舎の防犯設備の検査を役人にさせます。その時に兄の部下が盗聴器や監視カメラを仕掛けるのです。」
「仲が良い兄弟なんだな。」

 シオドアが皮肉を言ったら、それが気に入ったのか、アスルがニヤッと笑った。
 そこへ、ロホとデネロスがステファン大尉のビートルで買い出しから戻って来た。

博物館  1

  冬の休暇が終わり、大学に学生達が戻ってくると一度に賑やかになった。シオドアとアリアナの新しい仕事もやっと本格的に始動だ。大学事務局は2人に文化・教育省へ行って所定の職員採用に関する手続きをしてくるようにと言い渡した。シオドアは一度経験していたので、アリアナの都合に合わせて出かけた。彼女が文化・教育省と聞いてちょっと尻込みした。大統領警護隊文化保護担当部があるからだ。しかし手続きは本人が行わなければならないものもあるので、結局彼女は渋々ながら出かけた。
 事務手続きは相変わらずセルバ流で、少し書類を書くと、続きは次の日に来いと言われる、行けば別の窓口へ回される、その繰り返しだ。やる気があるのかないのかわからない役人の仕事ぶりに、仕舞いにはアリアナも「何なの、ここは?」と呆れて笑い出してしまった。必要な手続きが終わるのに5日もかかった。1週間を自宅と大学と文化・教育省の間をグルグル回って過ごした様なものだ。
 金曜日の午後シエスタの後で、やっと全部終了した。シオドアはアリアナの手続きが終わるのを待ってから、大統領警護隊のオフィスへ行こうと誘った。彼女が躊躇ったが、シオドアはここで避けて通れない問題をクリアしておきたかった。ステファンと普通の友人として同席することに慣れてくれ。
 4階に上がると、幸いにもケツァル少佐が机の前に座って書類の山と格闘しているのが見えた。彼女の前の机では、ステファン大尉とロホがそれぞれの机に向かいパソコン画面と睨めっこしていた。アスルはカウンターの外側で数人の職員と何かガラクタの様な物を点検していた。デネロス少尉は隣の部署の職員とお喋りに忙しそうだ。いや、仕事上の相談だろう。
 ロホの元気そうな姿を見て、シオドアは思わず笑が溢れた。反政府ゲリラから逃げ延びて、医療班に託した時のロホは殆ど意識がなかった。左腕は動かせなかった。
 今、シオドアの目の前で、ロホは普通に左腕を動かし、キーボードを叩いていた。
 文化保護担当部のカウンター前に列がなかったので、シオドアはカウンターにもたれかかって、「オーラ!」と声をかけてみた。驚いたことに、少佐以外の全員が反応してくれた。顔を上げ、手を止め、振り返ってくれたのだ。以前は完全に無視してくれていたのに?!
 デネロスがキャー!と声を上げてカウンターの内側から出て来た。アリアナの手を取って、

「やっと来てくれましたね! 今週中には絶対に来てくれるって、私、賭けてたんです。」

 彼女はアスルに向かって勝ち誇った様に言った。

「クワコ少尉、今夜はビール5本、お願いします!」
「けっ!」

 アスルがまたガラクタの山へ向き直った。シオドアは吹き出した。

「俺達は賭けの対象かい? 軍の規律違反じゃないのか?」

 4階の職員達が聞こえないふりをして仕事を再開した。シオドアがアリアナを振り返ると、彼女はデネロスに手を握られたまま、笑いだすのを必死で耐えていた。彼女の脳も遺伝子組み替えで生み出された優秀なものだ。既にスペイン語は何とか聞き取れる様になっていたし、この場での事態も理解出来た。
 ロホが席を立ってカウンターの側に来た。

「お久しぶりです、ドクトル。」
「テオって呼んでくれよ。アリアナもドクトラじゃなくアリアナで良い。」
「こんにちは、テオ、アリアナ。」

 イケメンのロホに笑顔で挨拶されて、アリアナが頬を赤く染めて挨拶を返した。

「初めまして、アリアナ・オズボーンです。オスボーネの方が良いかしら?」
「貴女のお望みの発音でお呼びしますよ。」

 ロホはいつも紳士だ。自己紹介した。

「アルフォンソ・マルティネスです。中尉です。ロホと呼ばれていますので、貴女からもロホと呼んでいただけると嬉しいです。」

 彼はアスルを呼んだ。上官に呼ばれたので、アスルは仕方なくシオドアの横に来た。

「彼はキナ・クワコ、少尉です。アスルと呼ばれています。愛想のない男ですが、気は優しい良いヤツなんで、遠慮なく話しかけてやって下さい。」

 アスルはツンとして、アリアナに一言「よろしく」とだけ言い、またガラクタの山へ戻った。いつもと変わらない態度にシオドアが苦笑してその背を見たので、アリアナは安心を覚えた。確かに何も説明がなければ、アスルの態度は嫌われていると言う印象を他人に与えかねなかった。

「マハルダ・デネロス少尉は既にお馴染みの様ですね。」
「ええ、休暇前に大学で出会いました。その前も・・・」

 この人達は皆んな”ヴェルデ・シエロ”なのだ、とアリアナは自身の心に言い聞かせた。不思議な力を持ち、優しくて、でも彼女の手が届かないところに心がある人々。
 ロホがごく自然にステファンを振り返った。

「彼もご存知ですね。私の上官のカルロ・ステファン大尉です。ほんの半年前までは私と同じ中尉だったのですが、私がミスして彼は手柄をたて、先に出世してしまった。」

 ロホが愉快そうに笑った。ステファンが彼を見て顔を顰めた。

「笑い事じゃないだろ、ロホ。ちゃんとドクトルに助けていただいた礼を言ったのか?」

 ロホが舌を出し、シオドアに向き直った。

「失礼しました! 貴方が来て下さってあまりにも嬉しかったので、お礼を申し上げるのを忘れていました。ティティオワ山で助けていただいて、有り難うございました。心からお礼申し上げます。」

 改まった物言いに、シオドアは苦笑した。

「助けられたのは俺の方だよ。もう怪我はすっかり良くなったんだね?」
「スィ。以前と変わりなく動けます。ただ、まだ現場へ行かせてもらえないので、事務仕事で毎日過ごしています。」

 すると、思いがけず一般職員からチャチャ入れがあった。

「ロホ中尉、肝心のお方の紹介を忘れているぞ。」
「ああ、しまった!」

 ロホが真っ赤になり、4階の職員一同からドッと笑い声が起こった。忘れられた指揮官、ケツァル少佐がアサルトライフルを取り出す前に、シオドアは素早く言った。

「少佐はもう何度もお会いしているから、大丈夫だ。アリアナもすっかり顔馴染みだし。」

 アリアナも笑いながら、そっとステファン大尉を見た。ステファンは御大のご機嫌を伺うかの様に、少佐の表情を覗いていた。そのケツァル少佐はペンを机の上に投げ出し、時計を見た。そして宣言した。

「5分早いが、終業とする。」

 4階の職員全員から歓声が上がったのは言うまでもない。


 

第11部  紅い水晶     8

 研究室に入るとテオはケツァル少佐に電話をかけてみた。少佐は彼からの電話とわかったので、すぐに出てくれた。バックで船の汽笛らしき音がして、彼女が港湾施設にいることがわかった。 「出かけている時に申し訳ない。」 とテオは切り出した。 「ケサダ教授から依頼されて、文化保護担当部の人に...