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2021/11/30

第4部 嵐の後で     12

 「本気で言ってるんですか、少佐?」

とテオは尋ねた。シーロ・ロペス少佐が他人を揶揄って喜ぶ人でないことは知っている。しかし、これは余りにも唐突過ぎる。さっき文化・教育省でベンツに乗り込む時、そばにアリアナ・オズボーンがいたじゃないか。2人揃ってあの場で言ってくれた方が衝撃が少なくて済んだのに。

「私は本気です。」

とロペス少佐が言った。

「そして彼女も本気です。」

 テオは深呼吸した。水が欲しかったが、道路側で路駐している車の中だ。ケツァル少佐が非常用の水を車中に常備しているとも思えない。彼はカラカラになった喉を堪えて尋ねた。

「何時からあなた方は交際していたんです?」
「何時からと訊かれましても・・・」

 ロペス少佐はきっと困った表情をしているに違いない。暗いのでテオには見えなかったが。

「彼女がメキシコに行った最初の半年は折に触れて様子を伺いに、私はカンクンに通っていました。彼女には会わずに、彼女の安全を確認するだけの出張でした。」
「ご存じかどうか知りませんが・・・」

 テオは妹の悪口を言いたくなかったが、後でアリアナの不利になる事態を避けたかったので、ここで言ってしまう決心をした。

「彼女は男性との交際が派手です。アメリカ時代も男友達が大勢いましたし、セルバでも・・・」

 彼は勇気を振り絞って言った。

「彼女はカルロ・ステファン大尉やシャベス軍曹と関係を持ちました。この俺も、血が繋がっていませんから、アメリカ時代には関係を持ったことがあります。」
「知っています。」

とロペス少佐が遮った。

「私が結婚を申し込んだ時に、彼女が全て話してくれました。」
「それでも?」
「それでも、私は一向に構いません。メキシコへ行ってからの彼女は、貴方が先刻仰った様な生活をしていたとは信じられない程真面目で身持ちが固かったのです。私は最初の半年、彼女に見つからない様に観察していました。彼女の生活態度が真面目で仕事も熱心に取り組んでいたので、次の半年の勤務延長をメキシコ側から要請された時に、許可を出しました。その時点で彼女は正式にセルバ国籍を取得しました。私が彼女の前に出て、隠れて観察していたことを打ち明けても彼女は怒りませんでした。それから私は一月に一回の割合で彼女の様子を見にメキシコへ通いました。彼女は生活と勤務のリポートを書いて提出しました。それから半年後の最後の延長手続きの後、私達は一緒に食事をしたり仕事の後の時間を過ごす様になりました。
 アリアナ・オスボーネは貴方が知っている昔のアリアナ・オズボーンとは違うのです。」

 テオが黙り込んだ。ケツァル少佐が車を再び動かした。外はもう真っ暗だ。
 テオは一般人がいる場所では話せない問題をぶつけてみた。

「アリアナと俺は人工的に遺伝子操作されて生まれた人間であることは、話しましたね。俺達と普通の人間の間に子供を作れるのかどうかわかりません。作れたとして、どんな子供が生まれてくるのか、それもわかりません。ましてや・・・」
「ましてや”ツィンル”との間に生まれる子供は想像つかないと?」

 ロペス少佐は己のことを”ヴェルデ・シエロ”とは呼ばずに”ツィンル”と敢えて呼んだ。ナワルを使って動物に変身する”ヴェルデ・シエロ”のことだ。変身出来ない”ヴェルデ・シエロ”は含まれない。ロペス少佐は決してミックスを”出来損ない”とは考えていない、と以前テオはケツァル少佐から聞かされたことがある。ミックスが失敗して正体を一般人に知られそうになるのを心配しているだけだ、と。もしそうなったら、そのミックスは”砂の民”に抹殺されてしまうからだ。”ツィンル”は普通の人間とは遺伝子的に離れているのだろう。だから、テオは人工的に遺伝子操作された自分達と”ツインル”の間に子供が出来ることを心配している。
 テオは首を振った。ロペス少佐は楽観主義者に見えなかったが、こう言った。

「子供が生まれてみないとわからないことでしょう。」

 彼はテオから目を逸らした、とテオは思った。金色の光が前を向いたのだ。ロペス少佐は囁くような低い声で言った。

「あなた方”ティエラ”から見れば、現在の我々だって十分怪物ですよ。」

 テオはハッとした。”ヴェルデ・シエロ”だって人類だ。非常に稀な遺伝子を持ち、非常に稀な能力を持った、非常に極少数の現存数しかいない一つの人種だ。彼等は絶滅すまいと大昔から必死で種を守ってきたに過ぎない。

 決して特別な存在ではないのだ

 ロペス少佐はそう言いたいのだ。アリアナもテオも特別な存在ではない、地球上に住んでいる人間の1人に過ぎない、と。考えれば、一番最初に”ヴェルデ・シエロ”との間に子供を作った人は、難しいことなど考えなかっただろう。自然に愛の営みを行なって、子供を生んだのだ。

「俺が間違っていました。」

とテオは言った。

「アリアナは幸せになる権利を持っています。それは貴方も同じだ。」

 彼は手を少佐に差し出した。

「どうか幸せになって下さい。もし・・・」

 彼はちょっと相手を揶揄いたくなった。

「彼女の扱いに困ったら、何時でも相談して下さい。アリアナ・オズボーンの対策法を伝授しますよ。」
「グラシャス!」

 いきなりロペス少佐の手が彼の手を掴み、力強く揺さぶった。事務方にしては力の強い手で、やっぱり軍人だ、とテオは感心した。

 

第4部 嵐の後で     11

  テオはてっきり大統領府の近くの国防省ビルへ行くのかと思ったが、ケツァル少佐のベンツは大通りを走り、そのまま南へ向かって走り出した。

「ええっと・・・何処へ向かっているのか、訊いても良いかな?」

と声をかけると、ケツァル少佐が運転しながら答えた。

「ロカ・ブランカです。」

 グラダ・シティとプンタ・マナの中間地点よりややグラダ・シティ寄りのビーチだ。テオの知識では観光客向けと言うより寧ろ地元民向けの海水浴場がある村だった筈だ。綺麗な砂浜があるが、飲食店やシャワーの設備はない、着替えの為の小屋だけが貸し出されている浜辺だ。泳いだ人は、体を洗わずに服を着て帰る。水着の上にそのまま服を着て帰る人もいる。遠方からの客はいないから、それで良いのだ。荷物の管理は自分でしなければならないし、ビーチの監視員もいないから、外国からの観光客は滅多に来ない。偶に白人や外国人らしき人を見かけても、大概は地元に住み着いている人だった。白い大きな岩がビーチから100メートル程沖にあり、それが地名になっていた。その岩も日が暮れた後に行けば見えないだろう。
 
「ロカ・ブランカに病院も憲兵隊の駐屯地もなかったよな?」

とテオが確かめると、ロペス少佐が前を向いたまま首を振った。

「ありません。しかし警察署はあります。」

 どうでも良いけど、とテオは胸の内で呟いた。晩飯はどうするんだ?
 軍人2人はそんな彼の心配など思いつかない様子で、全く別の話を始めた。ケツァル少佐が最初に質問した。

「式は何時挙げるのです?」
「雨季が明けたら。」

とロペス少佐が答えた。

「教会で?」
「スィ。その方が彼女も喜ぶ。伝統的な部族の結婚式は馴染まないだろうから。」
「貴方の親族はそれで納得しているのですか?」
「私の親族は父が残っているだけだ。広い意味での親族を考えればキリがない。それに彼女の方の親族も1人だけだ。」

 彼はケツァル少佐に顔を向けた。

「立会人になってくれるかと言う依頼の返事をまだもらっていないが?」

 ああ、とケツァル少佐が曖昧な返事をした。そして言った。

「彼女の親族の了承を得ないと、返事を差し上げにくいです。」

 ロペス少佐は結婚するのか、とテオは思った。既婚者だとばかり思い込んでいたが、独身だったのだ。それで、彼は声をかけた。

「ロペス少佐、結婚されるのですね。おめでとうございます。」

 少し奇妙な間を置いて、ロペス少佐が前を向いたまま、グラシャスと返事をした。するとケツァル少佐が彼に言った。

「ここで了承を得ておきなさいよ。」
「ここで?」

 とテオとロペスが同時に声を発した。しかしニュアンスは全く違った。ロペス少佐は「こんな場所と場合に?」だったし、テオは「何故ここで彼が婚約者の親族に了承を得なければならないんだ?」と思ったのだ。
 ケツァル少佐がベンツを道端に寄せて停めた。そして助手席のもう1人の少佐に言った。

「早く!」

 訳がわからないテオは、ロペス少佐が車外に出るのを眺めた。そして、少佐が後部席に入ってきたので、驚いた。
 シーロ・ロペス少佐はネクタイを直し、軽く咳払いして、テオに向かい合った。そして言った。

「私とアリアナ・オズボーンとの結婚を了承して頂きたい。」
「え?」

 テオは直ぐに理解出来なかった。暗い車内で、金色に光る”ヴェルデ・シエロ”の目を見つめた。そして、徐々に事態を理解した。彼は大声を出した。

「ええっ!!」



第4部 嵐の後で     10

  店の外に出ると、ロホとギャラガが待っていた。テオに夕刻の挨拶をしてから、ロホはアリアナには「お帰りなさい」と言った。そして直ぐにケツァル少佐からの指示を伝えた。

「ちょっと国防省からテオに仕事の依頼が入りました。それで少佐が案内されます。」

 彼はアリアナに顔を向けた。

「貴女は私が少佐のアパートまでお送りします。今日の午後から家政婦が出て来ているので、お食事の心配はありません。」
「俺の車は?」

とテオが尋ねた。

「少佐の車で俺は国防省へ行くのだと思うが・・・」

 するとアスルが口を挟んだ。

「俺があんたの車で帰る。」

 デネロスとギャラガは普段通りバスで大統領警護隊本部へ帰るのだ。テオは素直にアスルに車のキーを渡した。キーがなくても彼等はエンジンぐらいかけられるが、ここは普通にキーを使って欲しかった。アリアナはギャラガとは初対面だった。ロホが2人を紹介して、挨拶の遣り取りが始まった。
 そこへ少佐がベンツを運転して路地から出てきた。停車したベンツを見て、テオは「あれ?」と思った。助手席に男性が乗っていた。アスルが先刻言及した「客」だが、テオがよく知っている男だった。

「ロペス少佐じゃないか。」

え?とアリアナも振り返った。彼女の顔に当惑の色が浮かんだが、すかさずデネロスが彼女に囁いた。

「ロペス少佐も国防省からお呼びがかかってます。呼ばれているのは、ロペス少佐とテオの2人なんです。」

 大統領警護隊の隊員で外務省で移民・亡命審査官として勤務しているシーロ・ロペス少佐は事務方でずっと働いてきた人だ。ケツァル少佐が、「彼は随分長い間銃を扱ったことがないのではないか」と揶揄した程、ビジネススーツとアタッシュケースが似合う男性だ。純血種の”ヴェルデ・シエロ”で、テオは彼がどの部族なのか聞いたことはないが、恐らくブーカ族だろう。一族の中で一番人口が多く、大統領警護隊の隊員の多くは純血種、メスティーソを含めて殆どがブーカ族だ。つまり、ロペス少佐は戦闘から遠い場所で働いているが、超能力はかなり強いのだ。とても落ち着いて見えるし、真面目な人なので年嵩に思えたが、デネロスから聞いた話ではまだ30代前半だそうだ。
 テオは亡命して最初の1年間観察期間に置かれていた。度々文化保護担当部の友人達と事件に巻き込まれたり、遊びに行ったりして羽目を外し、ロペス少佐から叱られたことがよくあった。だから、観察期間を満了させて晴れてセルバ市民になった今でも、この男性少佐がちょっと苦手だ。
 クラクションが鳴り響き、テオは我に帰った。運転席のケツァル少佐が、早く乗車しろと鳴らしたのだ。彼は慌ててロホや他の友人達に「また明日!」と挨拶して車に向かって走った。
 助手席が塞がっているから、後部席だ。車内に入ってドアを閉めると、直ぐにケツァル少佐はベンツを出した。
 テオは前を向いたままのロペス少佐に後ろから声をかけた。

「ブエナス・ノチェス、ロペス少佐。」

 ロペス少佐は挨拶を返してくれたが、振り返らなかった。典型的な”ヴェルデ・シエロ”の神様態度なので、テオは気にせずに質問した。

「国防省の仕事って何です?」
「わかりません。」

と素気なく答えてから、それはやはり失礼だろうと思い直したのか、ロペス少佐は前を向いたまま言った。

「ハリケーンで遭難した船の乗員の身元調査に関する事案だと思います。」

 ああ、とテオは少しだけ理解した。

「俺はD N A鑑定でも依頼されるんだな。だけど、移民や亡命者の審査をする貴方がどうして呼ばれるんです?」

 ロペス少佐は直ぐに答えなかった。するとケツァル少佐が彼に尋ねた。

「遭難者は密入国者の疑いがあるのでしょう?」

 ロペス少佐が溜め息をつく音が聞こえた。

「この事案が国防に関することなのか、治安に関する外務の仕事なのか、まだ上は判断つけかねている様だ。」
「遭難船は何処の船です?」

 テオの質問に、初めてロペス少佐が振り返った。

「どの国籍の船か手がかりになるものが一つもない。故に憲兵隊はスパイ活動か犯罪を試みた組織ではないかと疑っている。」
「乗員は生きているんですか、それとも・・・」
「船と言うか、救命筏ですが、中に死者が1名、生存者2名がいました。生存者の1名は低体温症で救助後に死亡、1名はまだ意識が戻りません。ですが・・・」

 彼は前に向き直った。

「生きている男は白人です。」



2021/11/29

第4部 嵐の後で     9

  民間企業などは午後7時まで仕事をしている国だが、省庁は6時で閉庁になる。カフェで時間を潰しているテオとアリアナの所へ最初に現れたのはアスルとデネロス少尉だった。デネロスはアリアナと仲が良い。アリアナが初めてセルバ共和国に来た時以来の付き合いだ。それにデネロスの英語の論文指導をしたのもアリアナだったので、この2人は師弟関係でもあった。既にアリアナの帰国を知っていたデネロスは(女性達はメールや電話で常に情報交換していたのだ。)、テオ達のテーブルに真っ直ぐやって来た。アリアナが立ち上がって彼女を迎えると、2人はハグし合った。テオはデネロスの後ろからゆっくりやって来るアスルを見た。
 以前アスルはアリアナに片思いしていると文化保護担当部の仲間内では噂になっていた。”ヴェルデ・シエロ”達は仕事やプライベイトで”心話”を使うことが多いが、この超能力はちょっと厄介な問題があって、個人的な思考も相手に伝えてしまうことが偶にあるのだ。使い手は幼少期に親から情報をセーブすることを教えられるのだが、精神的に弱っていたり、酒に酔ったりした時にうっかり心の底にしまってある私的感情を他人に伝えてしまう「事故」だ。アスルは普段は寡黙な男なのだが、アルコールに弱い。飲み会でうっかり先輩達に初恋を読まれてしまったのだ。揶揄われたりしていたが、結局アスルが自分から告白することはなく、アリアナはメキシコで働くためにセルバを離れた。あれから一年半経った。
 前夜、テオはアスルにアリアナの帰国を伝えた。アスルは反応しなかった。ふーんと言った感じで、何もコメントしなかった。もう恋の熱は冷めたのか、とテオはちょっぴり安堵した。アリアナはアスルより9歳年上だ。それに遺伝子操作されて生まれた人間だ。テオは彼女と超能力を持つ”ヴェルデ・シエロ”の間に子供が出来る場合を想像すると、不安を感じざるを得なかった。普通の人間と”ヴェルデ・シエロ”との間のミックスの子供達は、親に負けない強さの超能力を持って生まれてくる。だが彼等は純血種と違って親に教わらなければ超能力を使いこなせない。純血種の様に生まれながらに自由に使える訳ではないのだ。
 自分達の様な遺伝子操作された人間と”ヴェルデ・シエロ”の間に生まれる子供は、どんな能力を持って来るのだろう。自分達親は子供を上手く教えることが出来るのだろうか。
 テオはそれを考えると、ケツァル少佐に愛の告白をするのを躊躇ってしまう。少佐も何か不安を感じているのか、彼に親しい振る舞いをしても一線を越えようとはしない。
 もし、アスルがアリアナへの恋を過去のものにしてしまったのであれば、それはそれで良い、とテオは思うのだ。アスルには彼女よりもっとふさわしい女性がいくらでもいる。
 ハリケーン接近時のフライトはどうだったと尋ねるデネロスの横をアスルは通って、テオのそばに来た。そしていつものぶっきらぼうな口調で言った。

「あんたに客が来ている。」
「客?」
「もうすぐ上官達が連れてくる。」

と言ってから、彼は付け足した。

「客も上官だ。」

 つまり、大統領警護隊の隊員だ。アスルは少尉だから、「上官」は中尉以上の将校だ。一瞬カルロ・ステファン大尉かと思ったが、それならアスルははっきり名前を言う。ステファンは元文化保護担当部所属でケツァル少佐の副官だったのだ。
 店の入り口に、文化保護担当部の末席にいるアンドレ・ギャラガ少尉が現れた。テオが彼に気づくと、ギャラガが腕を振って、来いと合図した。目上の人に対して失礼な振る舞いだが、店内は賑わっており、大声を出す訳にもいかないのだ。テオはアリアナやデネロス、アスルに声をかけた。

「店から出ろってさ。少佐の命令だな。」


第4部 嵐の後で     8

  セルバ人はハリケーンに慣れている。次の日には電力問題もすっかり解消されて、グラダ・シティは日常を取り戻していた。海がまだ荒れているので漁業の方はまだ数日お休みになるだろう。テオはグワマナ族のデルガド少尉の実家は大丈夫だろうかと心配した。ゲンテデマと呼ばれる漁師だったら、暫く仕事が出来ないだろうと言うと、アスルは心配ないと言った。

「あいつは泳ぎは得意だが、漁師の子供ではない。俺の記憶が正しければ、あいつは土産物屋の子だ。」

 それはまた意外だった。精悍な顔つきと敏捷な身のこなし、己より強い力を持つ敵に怯まず対峙する勇敢な若者エミリオ・デルガドが、土産物屋の息子? テオはもう少しで笑いそうになって慎んだ。土産物屋だって立派な職業だ。欧米の観光客は人形などの民芸品や伝統工芸品を喜んで購入する。南の楽園セルバ共和国のリゾートの記念として。しかし、デルガド少尉が土産物を白人相手に売っている姿をどうしても想像出来なかった。
 大学に学生達が戻って来て、新学期がまだ始まっていないのに活気が蘇った。進級が決まった学生達は熱心で次の教室や研究に移動する準備を始めたし、落第した学生は敗者復活戦になる次の試験期間に向けて既に勉強を始めていた。セルバ人で真面目なのは、子供や若者達だ。この情熱を大人になっても失わないで欲しい、とテオは願った。
 アリアナ・オズボーンは医学部に帰国報告に行った。テオは彼女がグラダ大学の医学部で研究者として働くものと思っていたが、その日の夕刻に出会った時、彼女は大学病院の小児科病棟で医師として実務に抵ると告げた。メキシコでの実績を買われて正式にセルバ共和国の医師免許を取得したと言う。テオは彼女に関して彼が知らないところで物事がどんどん進んでいるような気がした。

「それで? 今夜も少佐のアパートに泊まるのか?」
「スィ。でも明日は出て行くわ。大学の職員寮に空き部屋があると聞いたので、今日早速手続きして来たの。」
「セキュリティは良くないぞ、職員寮は出入りが自由だ。」
「私は大丈夫よ。それにまたすぐに別の場所へ移る予定だから。」

 彼等は文化・教育省が入っている雑居ビルの1階にあるカフェテリア・デ・オラスにいた。アリアナはケツァル少佐を、テオはアスルを待っていた。アスルが必ずしも彼の家に帰るとは限らないが、一応省庁が業務を終える時刻に来て10分だけ待つと言う約束ができていたのだ。アスルは車もバイクも持っていない。テオの車に乗らなければ、彼なりの方法で帰って来るだけだ。

「別の場所って?」

 テオはアリアナが昨日出会った時から奥歯に物が挟まった様な話し方をすることが気になった。何か隠しているのか? 
 アリアナがミルクラテのカップを持ち上げて一口飲んでから、言った。

「本当に鈍感なのね、貴方は。」
「はぁ?」

 彼女はカップを置き、左手の甲を彼の方に向けて掲げた。薬指に金色の指輪が光った。石は付いていない。しかし、指輪が持つ意味はテオに伝わった。彼はぽかんと口を開け、それから我に帰って尋ねた。

「婚約指輪?」
「スィ。」
「相手は?」

 アリアナはフフっと笑った。

「貴方が知っている人。」


2021/11/28

第4部 嵐の後で     7

  セルバには、欧米のようなスーパーマーケットはないが、大きな建物の中にいろいろな店舗が入っているメルカド(市場)がある。テオは研究室の片付けを終えると、大学のカフェがまだ休業していたので、街に出た。一番近いメルカドへ行き、入り口でカートを調達すると、それを押しながら中を歩いた。ハリケーンの影響で海鮮を売っている店は閉まっていたが、八百屋や精肉店は既に店を開けていた。馴染みの店で値段交渉をして、揚げパン屋で昼食を済ませた。その日の夕食の食材を調達した。アスルが作るか彼自身が作るか、それは関係ない。その日食べる物を買うだけだ。支払いを済ませた商品をカートに入れて行く。未払いの物はカートに入れてはいけない。それがセルバのルールだ。
 3軒ある果物屋の中で一番大きな店の前で、アリアナ・オズボーンとバッタリ出会った。正直なところ、テオは驚いた。

「帰国は明日じゃなかったか、アリアナ?」

 アリアナがちょっと顔を顰めた。

「会うなり最初の言葉がそれ?」

 そして説明した。

「カンクンのアパートを引き払って飛行機に乗るまでホテルに泊まるつもりだったの。でもハリケーンが来るって言うので、満室になってしまったのよ。途方に暮れかけたら、今度はキャンセル待ちを入れておいた二日早い便に空席が出来たって航空会社から連絡が入ったの。乗らないとハリケーンが来てしまうでしょ? 泊まる所もないのに。だから乗っちゃいました。」
「すると、グラダ空港に着いたのは昨日か?」

 テオは呆れた。一番風雨が強かった時ではないのか? 

「風が出る直前に到着したのよ。」

とアリアナがちょっぴり自慢げに言った。

「でも雨がひどくなって、タクシーも来ないし、こっちのホテルも塞がってしまったから、どうしようかとターミナルビルの出口で迷っていたら、女神様が通りかかったの。」

 テオは黙って彼女の顔を見つめた。気のせいか、アリアナは彼が最後に彼女を見た時より逞しく見えた。以前は不安と不満に苛まれて頼りない雰囲気だった。孤独感と焦燥感で心から疲弊して見えた。しかし、一年半のメキシコでの一人暮らしで、彼女は強くなって戻ってきた感じだ。
 テオが黙っているので、彼女は種明かしをした。

「ケツァル少佐が仕事を早退きして、市内を巡回していたの。何処かに守護の不具合が出ていないかチェックしていたんですって。彼女が先に私を見つけて、車を止めてくれたの。貴方と同じように、帰国は2日後の筈では?って聞かれたので、さっきの説明をしたら、うちに来なさいって言ってくれたの。それで彼女の車に乗せてもらって、市内巡察を付き合って、そのまま彼女のアパートへ行って、泊めてもらった訳。」
「俺に連絡をくれれば、迎えに行ったのに。」

とテオは言ったが、内心は少佐に感謝していた。彼の家にはアスルとデルガドがいたのだ。アリアナの場所がない訳ではなかったが、狭い家に4人でハリケーンをやり過ごすのはそれなりに気苦労があったかも知れない。第一アリアナとデルガドはまだ会ったことがないし、アスルは以前アリアナに片思いをしていた。(今はどうなのか、不明だが。)
 アリアナは肩をすくめた。

「懐かしくて、2人でお喋りに夢中になって忘れたのよ。」

 彼女はテオのカートを見た。

「たくさん買うのね。」
「同居人の分も買ったからね。」

 ああ、とアリアナは以前電話で聞いたアスルの下宿の件を思い出した。

「要するに、私の居場所がない訳ね。」
「済まない。君の新しいアパートを探すつもりでいたら、ハリケーンが来たんで忘れてしまった・・・」

 テオもアリアナのカートの中身を見た。大量の野菜と果物と肉の包みが入っていた。これは現在の「家主」の食べる分だろう。

「今夜も少佐のアパートに泊まるのかい?」
「スィ。まだ家政婦さんは来られないのよ。子供の学校が再開されるまで家にいるのですって。だから、私が家事を引き受けたの、宿泊費の代わりにね。」
「少佐は、今・・・」
「今日は一日寝ているわ。昨夜祈祷して疲れたんですって。大統領警護隊って、自然災害の時は祈祷も任務になっているのね。」

 アリアナが遠くを見る目になった。テオは彼女がカルロ・ステファンを思い出したのかと思ったが、実際はそうではなかったと後で知らされることになる。


 

2021/11/27

第4部 嵐の後で     6

  暢んびりした朝食を済ませた後、後片付けをした。その頃にやっと停電が解消した。首都なので、電力会社が大急ぎで電線を復旧させたのだ。少なくとも、国の経済を動かしているセレブが多く住む西サン・ペドロ通りの電力を復旧させれば、電線がつながっている隣の東サン・ペドロ通りもテオの家があるマカレオ通りもその恩恵に預かれるのだ。
 テオは身支度をして、車にアスルとデルガドを乗せて家を出た。同じマカレオ通りの北地区に住むロホのアパートは電力が復活しただろうかと思いながら、車を走らせた。
 路上にはいろいろな物が落ちていた。住民が後片付けをしたり、電力会社の工事車両が点検に回っているのを見ながら、ゆっくりと市街地に入った。
 冠水していた幹線道路も水が引いた。テオは文化・教育省が入居している雑居ビルの前に車を停めた。アスルとデルガドが降りた。デルガドが「グラシャス」と挨拶して、バスターミナルの方向へ歩き出した。アスルは文化・教育省へ入って行った。入り口の番をしている女性軍曹は今朝も出勤済みだ。彼女はどこに住んでいるのだろう、とテオはふと気になった。軍人だから基地で寝起きしている筈だが。
 車を出して、大学へ行った。大学の門は開いていた。暴風雨の後片づけに来た職員の車が駐車場に数台停まっていた。まだ多くの教室は休みを決め込んでいるようだ。テオの研究室は、窓ガラスは無事だったが、隙間から水が侵入していた。壁に滲みがあり、窓際の机には水溜りができていた。テオは拭き掃除で午前中を潰した。

 エミリオ・デルガド少尉はバスターミナルで小一時間待ってから、プンタ・マナ行きのバスに乗車出来た。バスは案外混んでいて、彼はリュックサックを前に抱え込んだ。鮨詰めのバスや列車は中南米では珍しくない。いつもの帰省で彼は慣れていたので、出来るだけ窓が開いた場所に立ち、座っている人の存在を無視して通路を塞ぐ群れに加わった。そして立ったまま目を閉じた。
 バスは南へ向かう基幹道路を走った。路面の汚れは都市部よりマシだった。飛んで来る物が少なかったのだろう。バスの車内はお喋りの声で賑やかだった。この分だと昼過ぎにはプンタ・マナに到着するだろうと、誰もが思っていると、バスの速度が落ちた。
 デルガドは後方からサイレンの音が近づいて来ることに気がついた。バスや周囲の車が速度を落とし始めたのは、緊急車両に左端の車線を譲るためだ。軽い渋滞が発生し始めた。
 デルガドは窓の外をパトカーや陸軍の憲兵隊車両が走って行くのを見た。救急車も走って行った。
 事故か?
 バスの乗客達の中に不安が広がった。道路の先で事故が発生していたら、そのうち車の流れが止まってしまうだろう。そうなったら、この蒸し暑い鮨詰めのバスの中で封鎖が解けるまで待たねばならない。デルガドは実家へ夕刻までに着かないのではないかと心配になった。野宿は構わないが、このバスの中で立ったまま一晩寝るのはごめんだ。そうでなくても昨夜は徹夜で祈って、ナワルも使って疲れているのだ。
 幸い、バスは停止することなく、低速で進み続けた。
 道路が海岸に最も近づく地区に入り、そこで乗客達は緊急車両の目的地が砂浜だと知った。道路から脇道に入り、ビーチに降りられる場所がいくつかあるのだが、その内の1箇所に先ほどのパトカーや憲兵隊車両や救急車が集結していた。地元の人々も集まっているのが見えた。
 なんだろう?と乗客達の視線が海岸に注がれた。誰かが声を上げた。

「難破船だ!」

 大型船舶の姿は見えなかった。バスからは波打ち際に集まって何かを引き上げる警察官や地元民の姿が見えただけだった。ハリケーンに巻き込まれて遭難し、浜に打ち上げられた人がいるのか、とデルガドは思った。セルバの漁師はハリケーンが近づいている時に出漁したりしない。外国船だろう、と彼は思った。

2021/11/24

第4部 嵐の後で     5

 ハリケーンが過ぎ去った後の朝は清々しい・・・ものではない。空気は湿気を持ち去られてサラッとしていたが、地表はゴミや木の枝や飛んできた得体の知れない物で汚れていた。
 テオは掃き出し窓の鎧戸を取り外し、朝日を室内に入れた。風を家の中に通した。
床のカーペットの上で横になっていたアスルとデルガド少尉が起き上がった。何故か2人とも上半身に何も着ていなかった。アスルが顔を手で擦りながら言った。

「少し太ったんじゃないか、マーゲイ?」
「そんなことはない。」

 デルガドは傷ついた様な表情になった。
 テオは朝食の支度をするためにキッチンに入った。電気はまだ復旧しておらず、冷蔵庫の中の傷みやすい食材で急拵えのごった煮スープを作った。 いつも彼より早く起きて朝食の支度をしている筈のアスルが、窓を開ける迄寝ていたのが意外だった。まさか徹夜でチェッカーをした筈はないだろうし。
 鍋を見ていると、アスルがまだ喋っていた。

「昨夜の君のマーゲイは以前より大きくなっている様に見えた。」
「そんなことを言われたのは初めてだ。」
「普段はナワルを使わないから、誰もわからないんだ。君の能力が増大している証拠だ。」
「増大するとどうなるんだ?」

 デルガドの声に不安の響きが入った。テオも気になって耳を澄ませてしまった。
 アスルがしたり顔で言った。

「そのうち太ったマーゲイになる。」

 おい、止めろ、とアスルが怒鳴ったので、きっとデルガドにクッションで叩かれたのだろう。テオはじゃれあっている2人の少尉に、朝飯だよ、と声をかけた。
 テーブルに着いた2人の前に置いた皿に、テオは急拵えのスープを配った。パンとスープとコーヒーだけだったが、誰も文句を言わずによく食べてくれた。テオはアスルに尋ねた。

「昨夜、変身したのか?」

 アスルが「スィ」と答えた。

「任務で祈った。暴風雨を收める時は、祈りの最中にナワルを使う時がある。使わずに済めば良いが、昨日のハリケーンみたいなのは、必要だ。」
「”ヴェルデ・シエロ”全員が変身するのか? それとも大統領警護隊だけか?」
「全員じゃない、風の神の心に同調出来る者だけだ。祈らない者もいるし、祈っても同調出来ない者もいる。風に心を合わせて、鎮めていくんだ。」

 よくわからないが、それが”ヴェルデ・シエロ”の本領発揮なのだろう、とテオは思った。セルバと言う国の国土を守る仕事を彼等は昨夜徹夜でしていたのだ。だから朝だというのに、2人の少尉は憔悴した表情なのだ。

「お疲れ様、”ヴェルデ・シエロ”。」

とテオは言った。

「もう一晩泊まっても良いんだよ、エミリオ。」

 と言ったが、デルガドは首を振った。

「バスの運行が再開次第、故郷に帰ります。あっちの被害も気になりますから。それに、バスの中で眠ります。」

 テオは頷いて、アスルを見た。アスルは言った。

「俺は、ハリケーン休暇だ、と言いたいが、恐らく少佐も中尉もデネロスもギャラガも出勤しないだろうから、俺がオフィスに出る。」
「少佐達は・・・」
「少佐とロホは能力が強い。だから昨夜の祈りに使った体力も半端じゃない。今日は疲れて仕事を休まれる。ギャラガも今年からグラダとして祈祷に入っただろうから、ステファン大尉と一緒にピラミッドの地下で寝てるだろう。エル・ジャガー・ネグロとして、首都防御にエネルギーを使い果たした筈だ。デネロスは、祈りの部屋で雑魚寝しているか、寝た連中の世話で奔走しているか、どっちかだ。ハリケーンがセルバへ来ると、いつもそうなる。」

 デルガドが説明した。

「今年はエル・ジャガー・ネグロが2頭いたから、私達は力の消耗をセイブ出来ました。だから、今こうして貴方と食事をして喋っていられる。」
「つまり・・・グラダの男性が2人いたから、君達は力を使い切らずに済んだってことだね? それじゃ、女性のグラダは・・・」
「少佐は首都ではなく、国全体を守っていた。」

 え? とテオは手からスプーンを落としそうになった。

「国全体?」
「女は、広範囲を守るんだ。だから、デネロスも、特殊部隊の巨乳のお姉さんも、国全体の守護を祈った筈だ。広く、緩やかに・・・首都や町だけ守っても、上流で大雨が降れば下流で洪水が起きるだろ? 女達は国全体に降る雨を多過ぎないように、国全体に吹き荒れる風が強過ぎないように、祈っていた。だから、一族が住んでいない土地でも、そんなに被害は出ていない。」

 テオは、己の親友達が、神々なのだと、改めて感じ入った。




2021/11/22

第4部 嵐の後で     4

  大統領警護隊本部の祈りの部屋にアンドレ・ギャラガ少尉が入ると、既に室内は非番の警備班隊員や遊撃班隊員で鮨詰め状態になっていた。男女入り混じっており、皆床の上に直に座って目を閉じ、瞑想状態に入っているのだった。静かだ。そして空気が冷たい。
 ギャラガは戸口で隙間を探して室内を見回した。突然、後ろから何者かに襟首を捕まれ、引っ張られた。驚いて振り返ると、仮面を被った長老だった。誰なのかは不明だ。長老は仮面を被ると決して己の身元を明かしたりしない。
 仮面のせいで聞き取りにくい低い声が囁いた。

「グラダはこっちだ。」

 長老が襟首から手を離したので、ギャラガはホッとした。そして貫頭衣を着用した長老の後ろをついて行った。
 ハリケーンがセルバ共和国を直撃する時、必ず大統領警護隊は守護任務として国家安泰を祈る。風と雨の神に鎮まっていただくようお願いするのだ。ハリケーンの規模によるが、今回は「手が空いている者は祈れ」のお達しが出ていた。場所は特に言及されていなかったが、居室ではなく祈りの部屋に多くの隊員達は集まった。居室で祈ると休憩を取らなければならないルーティンの隊員に迷惑をかける。やたらと勢力の大きなハリケーンの場合は、全員に集合が掛けられ、祈る場所も地下神殿の大広間になる。ギャラガは幸いなことにまだ全員集合を経験したことがなかった。今回も「手が空いている者は祈れ」の規模だ。
 しかし、グラダ族としてハリケーンを迎えるのは初めてだった。つまり、グラダとして認定されて初めてのハリケーンだ。グラダと他の部族で祈りの場所が違うのか、と未知の体験に彼は緊張した。
 長老は彼を地下へ導いた。地下へ降りるのは入隊式以来だ。普段は佐官以上の階級の者しか降りられない場所だ。尉官の隊員が降りる時は上官の許可をもらうか、よほどの理由がなければ立ち入りを許されない。
 大広間では火が焚かれていた。山羊の匂いがした。ギャラガの血が騒いだ。気が動いたのだろう、長老が振り返った。

「まだだ。」

と長老に制された。大広間を縦断し、奥の扉の前に立った。ギャラガにとって未知の場所だ。長老が扉を押した。冷たい空気が流れ出て来た。山羊の匂いが強くなり、不快なほどだ。
 扉の向こうは、さらに広い空間が広がっていた。沢山の篝火が焚かれ、山羊の脂の匂いが充満していた。 中央に祭壇があり、そこに白い人影が見えた。

ーー見てはならぬ

 脳の奥で声が聞こえた様な気がした。ギャラガは慌てて目を伏せた。

 名を秘めた女の人だ

 入り口から入って10メートルほどのところの床に、裸の男が座っていた。その体格に見覚えがあった。エル・ジャガー・ネグロ、すなわちカルロ・ステファンだ。彼はギャラガが入室しても振り返らなかった。既に瞑想に入っているようだ。
 ギャラガは後ろで扉が閉まるのを感じ、そっと振り返った。長老は姿を消しており、扉の横にきちんと畳まれたステファン大尉の軍服と軍靴が置かれているのが目に入った。
 ギャラガは何をすべきか悟った。すぐに彼も服を脱いで畳み、靴も脱いで、ステファンの衣類の横に置いた。生まれたままの姿になると、先輩の隣に座った。

 

 ケツァル少佐はアリアナ・オズボーンが客間のベッドで眠りについたことを確かめると、静かにアパートの部屋を出た。エレベーターはいつ止まっても不思議ではない夜だ。彼女は階段を登り、屋上へ出る扉がついた最上階の小部屋に到着した。誰も付けて来ていないと確信する迄少し時間を置き、それから彼女は着衣を脱いだ。


 グラダ・シティの地表温度が10度低下し、周辺の東海岸地方のそれも3度から6度ほど一気に低下した、と某国の気象衛星は観測した。急激な地表温度低下によって、ハリケーンの勢力がやや削がれたことは、観測史上の大きな謎だった。どのハリケーンもセルバ共和国に接近すると勢力が衰えるのが常だった。


第4部 嵐の後で     3

  大きな開放的な窓の向こうは真っ黒な雲に覆われ、視界がほとんどなかった。時々稲妻が走るのが見えた。ケツァル少佐はブラインドを閉めた。閉めても閉めなくても部屋の中は暗い。
バスルームからTシャツと短パンの上にバスローブを羽織ったアリアナ・オズボーンが現れた。髪がまだ湿っていた。

「シャワーのおかげで生き返った気分よ、グラシャス、シータ。」

 少佐がソファにクッションを並べた。

「今夜はカーラが来られないから、私が夕食を作りました。味はあまり期待しないで下さい。」
「貴女の煮豆は世界一だって、皆が言ってるわ。」

 アリアナはソファに腰を下ろした。テーブルの上には既に料理が並んでいた。煮豆に焼いたチキンと焼いた野菜の盛り合わせ、トルティージャ。

「私もセルバ料理を本格的に習わなきゃ。」
「メキシコ料理は作れるのでしょう? それで十分じゃないですか?」
「でもセルバ人なんだから、セルバ料理は作れなきゃ。」

 アリアナ・オズボーンは一年半のメキシコでの病院勤務を終えて帰国したばかりだった。当初は半年の予定でカンクンの病院に出向したのだ。しかし、出向先の病院でよく働いたので、「あと半年」「もう半年」と先方の要請で結局一年半も経ってしまった。流石に本人はセルバ共和国の国民として来ているのに、セルバの市民権を取ってセルバに住んだのが半年しかないと言うことが気になってきた。アメリカ合衆国から亡命したのに、すぐ隣にいると言うのも気掛かりだった。セルバ共和国の方が彼女には安全なのだ。それに・・・

「本当に、彼と結婚するのですか?」

 少佐がまだ信じられないと言った表情で、彼女の向かいに座った。アリアナははにかんだ笑みを浮かべた。

「私、異性関係が派手だったから、自分でも信じられないんだけど、でも彼とのことは真剣です。」

 彼女は薬指にはめた指輪を少佐に見せた。

「私がちゃんとセルバの秘密を守って真面目に勤務しているかどうか、彼は月に1回カンクンに通って監視していたんですよ。」
「本当に監視していたのですか?」

 少佐が揶揄い半分で尋ねた。アリアナが笑った。

「真面目な人だから、彼を揶揄わないでね、私は良いけど。」

 そしてフッと心配気な表情になった。

「テオもきっと信じないわよねぇ・・・」
「心配ですか?」

 少佐が彼女の顔を覗き込んだ。アリアナは苦笑した。

「彼、私がまだカルロを思っていると信じているのよ。だから私が新しい恋をしても、彼への片思いを誤魔化すためだと思っている。私だって前に進んでいるってことを、考えつかないのね。確かに、今の彼氏はカルロに比べるとパンチが弱いかも知れないけど、私の仕事を理解してくれるし、私の気持ちもわかってくれる。」
「スィ、彼は紳士です。私は受け合いますよ。」
「それに、別のことでテオは反対するかも知れない。」

 アリアナは少佐の目を見た。

「彼は、私が人工の遺伝子組み換えで生まれた人間だから、”ヴェルデ・シエロ”との間に子供を産むべきじゃないって思っている。」

 少佐の表情が曇ったので、彼女は思わずテーブルの上に手を伸ばして、少佐の手を掴んだ。

「そんなこと、産まなきゃわからないわよね? 絶対に普通の子供が生まれるわ。普通の”ヴェルデ・シエロ”と白人のハーフが生まれるわよ。そうよね?」

 少佐が彼女の手を握り返した。

「私もそう信じます。」

 その時、室内が真っ暗闇に陥った。アリアナが息を呑んだ。少佐が言った。

「停電ですね。すぐにアパートの自家発電に切り替わりますよ。」

 彼女の言葉通り、1分も経たないうちに照明が生き返った。
 少佐が、フォークを持ち直した。

「自家発電は12時で消灯です。早く食べてしまいましょう!」





2021/11/19

第4部 嵐の後で     2

  自宅前の駐車スペースに車を停めると、テオは大事なことを思い出した。

「少し前から、我が家にアスルが下宿しているんだ。キナ・クワコ少尉、知ってるよな?」
「スィ。」

 デルガド少尉が微笑した。

「大統領警護隊で彼を知らなければ、モグリですよ。」
「客間は彼の部屋になっている。君は今夜俺の部屋で寝てくれ。俺はソファで寝るから。」
「お気遣いなく。私は何処でも眠れます。」

 豪雨の中を車外に出て、家の中に駆け込んだ。鍵を開ける手間は不要だった。車の音を聞いたのだろう、アスルが中から開けてくれた。薄暗い屋内にテオとデルガドが入ると、アスルはドアを閉めてから、客を見た。デルガドが敬礼したので、彼も返礼した。アスルが尋ねた。

「遊撃班のデルガドだよな?」
「スィ。バスに乗り損ねた。」

 テオは彼等を置いて急いで寝室に入り、着替えを取るとバスルームへ向かった。濡れた服を早く着替えたかった。家の中はチキンスープの良い匂いが漂っていた。

「最終バスに間に合ったとしてもプンタ・マナ迄は行けなかっただろう。」

とアスルが言っていた。

「途中で運行停止になっている筈だ。バスの中で一夜を過ごすより、ここの方がましだ。あまり娯楽設備は整っていないが・・・」

 下宿人のくせに贅沢を言っている。
 中庭に面した掃き出し窓は外から鎧戸を閉めてあった。長屋の住民総出で昨日の午後に取り付けたのだ。乾季は共同物置に仕舞い込んであるが、雨季は大活躍の鎧戸だった。お陰で部屋の中は暗かった。鎧戸がガタガタ鳴っているのも五月蝿かったが、窓ガラスが飛んで来る物で割れるよりましだ。
 テオがリビングに行くと、アスルはキッチンに入っていた。早々と夕食の支度に取り掛かっているのは、停電する前に料理をしておこうと言う魂胆だ。”ヴェルデ・シエロ”の彼は夜目が効くが、家主のテオはそうはいかないので、気を利かせてくれているのだ。
 デルガドはソファではなく床の上に直に座って瞑想のポーズになっていた。しかしテオがソファに座ると目を開いた。無言だが、話しかけても構いませんよ、と言う意思表示だ、とテオは受け取った。だから尋ねた。

「休暇と任務だと言っていたが、どう言う意味だい?」
「休暇は休暇です。以前から決まっていました。今日から2ヶ月仕事を休みます。」

 そう言えば軍隊の休暇は長い。勤務期間は休みがないから当然だ。

「任務とは? 休暇だろ?」
「そうですが、ハリケーンが来ましたから、その時にいる場所で国の無事を祈るのが任務です。」

 ああ、とテオは納得した。”ヴェルデ・シエロ”はセルバと言う小さな国を古代から守ってきた神様なのだ。知らない人が見れば、彼等は天の神様に救いを求めて祈っているように見えるだろう。しかし、セルバでは彼等自身が神様で、祈ることで暴風雨から本当に国土を守っているのだ。先刻テオの車が一時的に暴風雨から守られたように。もしかすると、デルガドはテオが声をかけなかったら、あのままバスターミナルで祈っていたのかも知れない。
 テオはデルガドの祈りを邪魔しないように、静かに読書をすることにした。テレビは点けない。点けても天気予報しか放送していない。エル・ティティにいれば雨風も東海岸地方ほども大したことはないだろうが、テオは研究室のハリケーン対策が気になってグラダ・シティに戻って来たのだ。家の方はアスルがいるので任せていたが。
 チキンスープが完成した。アスルが「飯だ!」と怒鳴ったので、テオとデルガドは素直に食卓に着いた。デルガドにとって、初めてのアスルの手料理だ。しっかり煮込まれた鶏肉と玉ねぎとジャガイモのスープにクラッカーで3人は黙々と夕食を取った。雨に濡れた後の温かい食事は有り難かった。

「美味い料理だ。」

とテオが呟くと、デルガドが同意した。そしてアスルを見た。

「厨房班へ転属する気はないか?」
「冗談ぬかせ。」

とアスルがいつもの不機嫌そうな顔で言った。

「料理は趣味だ。仕事ではない。」

 デルガドはテオを見て、肩をすくめて見せた。テオはクスッと笑った。アスルは腹を立てたのではない。褒められて照れくさいだけだ。それが彼等にはわかっていた。

「皿洗いは俺がするよ。」

とテオが言った直後に室内が真っ暗になった。停電だ。テオが懐中電灯を取りに行こうと椅子をひきかけると、アスルが止めた。

「座っていろ。俺が取ってくる。」

 暗闇の中で、テオはデルガドが食事を続けている気配を感じた。もしかして、大統領警護隊本部の食堂って普段から真っ暗じゃないのか? と彼は余計な想像をしてしまった。
 懐中電灯の灯りの中で食事の続きをして、懐中電灯の灯りの中で食器を洗った。読書は出来ないしテレビもインターネットも使えないので、テオは早く寝ることにした。彼が水仕事を終えてリビングに戻ると、2人の少尉は暗闇の中でチェッカーをしていた。こんな停電の夜は夜目が効く連中が羨ましかった。

 ってか、こいつら、お祈りをサボってるんじゃないのか?


2021/11/18

第4部 嵐の後で     1

  ハリケーンが近づいていた。今年で4つ目のハリケーンだ。先の3つは東へ行ってくれたのでセルバ共和国に被害をもたらさなかったが、今回は来なくても良いのに西へ迂回してやって来る。グラダ・シティは商店街も官公庁も商社も教育機関も全て閉じられ、公共交通機関も運休となった。
 テオはハリケーンが上陸する前に急いで大学の研究室へ行き、窓の戸締りを確認した。万が一窓ガラスが割れた時の用心に濡れて困る物は全部窓から遠ざけた。作業は2時間ばかりかかった。平時なら学生に手伝わせるが、外出に危険を伴う天候だ。学生達に出て来いと言えなかった。学舎ではいくつかの部屋で職員達が対策を講じているらしく、照明が点いていた。もしかすると自宅より学舎の方が安全だと考えて泊まり込んでいる人もいるのかも知れない。
 テオは強風と叩きつけるような雨の中を走って駐車場へ辿り着き、運転席に飛び込んだ。すっかり衣服がびしょ濡れになった。レインコートも役に立たない。
 テオの自宅は古い住宅だ。風に吹き飛ばされるのではないかと心配したが、隣人達は意外に呑気だった。

「マリア様と”ヴェルデ・シエロ”が守ってくるよ。」

とキリスト教の聖母と古代の神様の名前を言った。
 実際、気象の歴史を見ると、セルバ共和国は毎年ハリケーンの被害を受けているが、近隣諸国に比べると軽度で済んでいる。洪水に悩まされることも、高潮の被害を受けることも、強風で家屋が飛ばされることも、土砂崩れで集落が飲み込まれることもなかった。風で物が飛んできて当たって怪我をしたとか、増水した川に落ちて流されたとか、そう言う人間の不注意と自然の猛威がぶつかり合った結果の損害は多かったが、所謂国土が暴風雨の被害を受けたと言う記録はないのだ。
 テオは車を駐車場から出した。がらんとした幹線道路を低速で走った。スピードを出すと風に煽られて車が転覆しそうだ。洪水とはいかないまでも路面は冠水している。水飛沫を上げながら彼は車を進めた。
 中央バスターミナルに差し掛かると、バス停に人影が見えた。こんな天候でバスが運行している筈がない。だがその人は強風で破れそうなテント張りのバス停で立っていた。男性だ。ほっそりした、若い・・・
 見覚えがある様な気がして、テオは車を近づけた。向こうも近づくヘッドライトに気がついてこちらを見た。雨の中で見えづらかったが、テオは知り合いだと認識した。だからターミナルの中に入り、バス停の前に車を停めた。窓を開けると忽ち雨が降り込みかけた。

「エミリオ、エミリオじゃないか!」

 大声で怒鳴ったのは、風で声をかき消されそうになったからだ。男が近づいてきた。車内を覗き込み、精悍な顎の細い顔に笑みを浮かべた。

「ドクトル・アルスト、こんな天気にどこへお出かけです?」
「それはこっちの台詞だ。バスは運休しているぞ。兎に角、車の中に入れ!」

 一瞬雨風が止んだ。否、テオの車の周囲だけ、エミリオ・デルガド少尉が風雨を追い払ったのだ。そして、助手席のドアが開き、デルガドが入ってきた。彼がドアを閉め、窓を閉じると、忽ち車は暴風雨に襲われた。

「ハリケーンの最中に、バス停で何をしているんだ?」

 すると若い少尉が頭を掻いた。

「正直に報告しますと、バスに乗り遅れました。」
「乗り遅れた?」
「任務と休暇を兼ねて、プンタ・マナへ帰ろうとしたのですが・・・」

と言いかけて、彼はテオを見た。

「ドクトルはどちらへ?」
「家に帰るんだよ。君をうちに連れて帰って良いかな? プンタ・マナ迄は無理だから。」
「どうぞ・・・助かります。」

 あれほどの悪天候の中にいたにも関わらず、エミリオ・デルガドは濡れていなかった。軍服もリュックサックも靴も乾いていた。

「任務と休暇って?」

 と尋ねてから、テオは別のことを思い出して、デルガドを見た。

「もう怪我は治ったんだね? 体調は良いのかい?」
「グラシャス、すっかり治りました。」

 デルガドは前を向いて、ヘッドライトに照らされていない前方を見通そうとしていた。

「角に看板が落ちています。気をつけて。」
「グラシャス。」

 結局、世間話はお預けにして、テオはデルガドの助けを借りながら自宅まで運転した。一度などは、道路脇の木の枝が折れてフロントガラス目掛けて飛んできたが、デルガドが気で弾き飛ばしてくれた。
 普段なら10分ほどで帰れる道のりを、彼等は30分かけてテオの自宅に辿り着いたのだった。


第11部  紅い水晶     8

 研究室に入るとテオはケツァル少佐に電話をかけてみた。少佐は彼からの電話とわかったので、すぐに出てくれた。バックで船の汽笛らしき音がして、彼女が港湾施設にいることがわかった。 「出かけている時に申し訳ない。」 とテオは切り出した。 「ケサダ教授から依頼されて、文化保護担当部の人に...