2022/10/29

第8部 シュスとシショカ      8

  ファルゴ・デ・ムリリョ博士はテオに向かって言った。

「神像を盗み汚そうとした男は、今大統領警護隊の手の中にいる。誰も彼に手を出せないし、彼に裁きを与えるのは大統領警護隊と長老会だけだ。
 しかし、彼が結婚を望んでいた女の家族が実際に何をしたのか、そこまで大統領警護隊はまだ解明させていない。」

 それ以上博士は言及しなかったが、テオにはその先が分かった。”砂の民”の調査が早ければ、そしてカスパル・シショカ・シュスの考えが正しければ、早晩その家族は粛清を受ける。大統領警護隊の手が届く前に。ケマ・シショカ・アラルカンはセニョール・シショカの裏の顔を知らない。シショカ一族の長だと言う認識しかない。セニョール・シショカに頼んで”砂の民”に叔父カスパルの命乞いをしようと思っているのだ。セニョール・シショカが大統領警護隊の間では有名な”砂の民”であることも、目の前にいるムリリョ博士が”砂の民”の首領であることも知らないのだった。
 テオにはムリリョ博士が実際はどこまで事実を掴んでいるのか分からなかった。訊いても答えてくれないだろう。
 テオはケマにこう言うしかなかった。

「残念ながら、俺達は君の叔父さんを助ける手助けになりません。一般の法律が及ばないところの出来事に、俺達は手を出せないし、恐らくセニョール・シショカも動けないでしょう。」

 ケマ・シショカ・アラルコンは黙って立ち上がった。そして両手を組んで顔の高さに上げ、顔をやや俯き加減にして別れの挨拶をすると、くるりと向きを変え、カフェから出て行った。
 テオはその後ろ姿が人混みの中に消えるのを見送り、それから博士に向き直った。博士が言った。

「またお前は我々の厄介ごとに首を突っ込んでおるようだな。」

 テオは肩をすくめた。

「大統領警護隊の少佐と同居しているんですよ。友人も大統領警護隊です。嫌でも何かしらの情報が聞こえてきます。」
「ケツァルとその子分どもは結果を知らされずに事が済まされることに不満だろうな。」
「ある程度割り切っているようですが・・・俺の方が不満かも知れません。」

 博士が時計を見た。カフェの天井に近い位置に設置された大時計はまだ午後の休憩時間であることを示していた。

「先刻の会話は、儂の結界内で行われた。外の人間には聞こえておらぬ。もし何か知りたい事があれば、木曜日の夜に儂の家に来ると良い。但し、お前とケツァルだけだ。」

 思いがけない自宅への招待だ。テオはびっくりした。

「では、彼女と相談してから、お電話します。」

 木曜日まで2日だ。その間に”砂の民”は何らかの結論を出すのだろう、とテオは予想した。

2022/10/28

第8部 シュスとシショカ      7

  ムリリョ博士が突然囁いた。

「女は白人に嫁いだのか?」

 テオは博士を振り返り、ハッとした。ムリリョ博士は純血至上主義者だ。同じマスケゴ族の旧家の娘が白人と婚姻するのを良かれとは思わない。
 ケマ・シショカ・アラルコンが俯いた。

「スィ・・・彼女は一族の秘密を守ると家族に固い約束をして、白人の妻になりました。しかし、家族の半数は納得しなかったのです。」

 ムリリョ博士の顔に「当たり前だ」と書かれているのをテオは見た。ケマは辛そうな顔になった。

「彼女は身籠もり、出産直前に突然亡くなりました。お産の為に実家に帰れと家族は言ったのですが、夫が承知せず、彼女を病院に入れました。しかしそこで彼女は死んでしまったのです。そして・・・」

 ケマは声を震わせた。

「彼女の家族は、彼女の死を悲しまなかった・・・遺体を引き取ることもなく、彼女は夫の家族の墓地に葬られました。カスパル叔父は彼女を引き取るように家族に訴えたのですが・・・」

 テオは疑念を抱いた。彼女の死因は何だったのだろう。”砂の民”に粛清されたのか? それとも彼女は秘密を守れなくなることを恐れた家族の誰かに抹殺されたのか? 
 ケマはさらに恐ろしい話を始め、テオを驚かせた。

「白人の夫もそれから半年後に事故で亡くなりました。その時、彼の遺産が全て妻の母親に相続されるように遺言状に書かれていることが判明しました。」
「白人の親族は反対しただろう?」
「それが当然だと思われたのですが、誰からも異議が出なかったのです。だから遺産は全て私の母方の祖母の姉妹の子供達が相続しました。そして家族は破産から免れたのです。」

 テオは背筋が寒くなった。それって、”ヴェルデ・シエロ”の超能力を使った犯罪ではないのか? 彼はムリリョ博士を見た。そしてムリリョ家の繁栄の歴史を思い出した。ムリリョ博士の伯父になる人はセルバ共和国独立の時、白人の建設会社の経営権を白人から譲られたと言っていた。そこに何も超能力は使われなかったのだろうか。いや、この際ムリリョ家のことは置いておこう。シショカ・シュスの一家の話だ。

「カスパル叔父は、家族が娘を殺し、娘の夫を殺し、その親族を”操心”で動かして財産を乗っ取ったのだと考えました。だから、族長選挙で・・・」

 突然ムリリョ博士が咳払いして、ケマがハッとした表情で口を閉じた。部族の族長選挙の話は”ヴェルデ・シエロ”同士でも他部族に口外してはならないのだ。ましてやテオは白人だ。
 ケマは言葉を探し、何とか説明を続けた。

「叔父は死んだ恋人の家族を部族の政治から締め出そうと運動しました。しかし勢いを盛り返した家族には歯が立たなかった。叔父は禁断の手段を用いて復讐を果たそうとしたのです。」
「それで建設省にアーバル・スァットの神像を送りつけたのか?」

 酷く的外れな感じがした。恋人を死なせたのは母親の従兄弟の家族で、イグレシアス大臣もセニョール・シショカも関係ないだろう。

「叔父がどんな思考回路で動いているのか、私にはわかりません。」

 ケマが苦しそうに言った。

「私は、シショカの元締め様にお会いして、何が起きているのかを説明して、叔父を死刑から救って欲しい、それだけです。」

 するとムリリョ博士がテオに顔を向けた。

「チャクエクと会うことがあるか?」
「残念ながら3回しか会ったことがありません。どちらも彼は不機嫌でした。俺の仲介で人に会うとは思えません。」

 ムリリョ博士はまともにケマ・シショカ・アラルカンを見た。

「チャクエク・シショカは正しい処分しか行わぬ。彼は既に調査に入っているだろう。お前は何もしない方が身のためだ。」
「叔父は・・・」
「大罪を犯したかも知れません。」

とテオが言い、ケマは彼を振り返った、目に涙が溜まっていた。叔父が好きで心配で堪らないのだろう。

「どんな大罪です?」

 若者の質問に、ムリリョ博士が答えた。

「カスパルが殺したいと思っている人間達が白人の家族に対して行ったのと同じ罪だ。」


第8部 シュスとシショカ      6

 「つまり、大統領警護隊に捕まっているカスパル・シショカ・アラルコンは君の母方の叔父さんに当たる訳ですね?」

 テオは慎重に尋ねた。セルバ先住民にとって親戚関係の順位は重要だ。それは”ヴェルデ・シエロ”でも”ヴェルデ・ティエラ”でも同様だった。子供にとって母方の叔父は父親と同等の関係になる。ケマは頷いた。

「叔父は若い頃から一族の習慣に従わず、殆ど実家に帰らない人でした。しかし、私には時々会ってくれて、遊んでくれる優しい叔父だったのです。その叔父は実家とは疎遠になっていましたが、シュスの家族とは親しくしていました。つまり、私の母方の祖父の家ですが・・・」

 最後の説明はテオの為だろう。テオは頭の中に家系図を描かなければならなかった。そして妙なことに気がついた。

「君の両親は同母姉妹の子供で従兄妹同士だと言いましたね? それなら父方のお祖母さんはシショカの名前を継いでいる筈ですが、アラルコンを名乗っていたのは何故です?」

 するとムリリョ博士がぶっきらぼうに言った。

「アラルコンの養女になったからだ。尤も父親がアラルコンだからな。同母姉妹はどちらもシュスの男と結婚した。シショカの家の伝統だ。そしてペドロに姉妹がいれば、その姉妹がアラルコンを継ぐ。」
「スィ、仰せの通りです。」

 ケマはちょっと溜め息をついた。

「私には父方の叔母が3人いました。2人は子供の頃に亡くなっていますが、1人残っていて、その人がアラルコンを継いでいます。ああ、すみません、本題から逸れています。私が相談したいのは、母方の親族のことなのです。」
「シショカ・シュス?」
「スィ。母方の祖母には同母同父の姉がいて、その人に子供が4人います。男が3人、女が1人、母の従兄弟達です。彼等が10年以上前に、ある政府の事業に投資しました。森林の奥地を開墾して農場を造るプロジェクトで、軌道に乗ればそこにゴム園を造ることになっていました。ところがその企画が頓挫してしまいました。開墾地が泥に埋まって・・・」
「もしかして、アルボレス・ロホス村?」

 テオの言葉に、ケマが目を見開いた。

「ご存知なのですか?!」

 テオはムリリョ博士をチラリと見た。博士は無表情でケマを見ているだけだった。テオは言った。

「知っている。だけど説明は後でします。先に君の話を聞きましょう。」

 その方がムリリョ博士を苛つかせずに済む。ケマは頷いた。

「母の従兄弟達は開墾地が泥に埋まった原因を、川に建設された低いダムのせいだとして、訴えを起こしたのですが、裁判所は受け付けてくれず、一家は大損をしたまま、悔し涙を飲みました。私の叔父のカスパルは母の従兄弟の一家と懇意にしており、一家の娘の1人と婚約もしていました。しかし一家が没落すると、その彼女は家を出てしまい、白人の男と付き合うようになりました。彼女にとって家族を救うために金のある白人を夫に選ぶ方が、金のないカスパル叔父との結婚より大事だったのです。」

 なんだか聞いた話と違うぞ、と言うのがテオの正直な感想だった。カスパル・シショカ・シュスは族長選挙に絡んで何かを企んでいたのではないのか? だが”ヴェルデ・シエロ”を含めたセルバ人は結構周りくどい言い方で物事を説明する。彼は我慢して聴くことにした。

 

2022/10/26

第8部 シュスとシショカ      5

  ケマ・シショカ・アラルコンは、右手を左胸に当てて、もう一度挨拶した。

「ケマ・シショカ・アラルコン、父はペドロ・アラルコン・シュス、母はロセ・シショカ・シュス、グラダ・シティ西文化センターで職員をしています。」

 グラダ・シティの「文化センター」と言うのは、低所得者層対象のカルチャー教室や庶民のスポーツ団体などが安価で事務所や部屋を借りられる施設だ。大きな体育館か倉庫の様な建物で、内部に利用料金に合わせた広さのスペースがいくつか仕切られている。曜日によって仕切りの位置が変わることもあるので、入り口の事務所で利用者はその日自分達のグループの場所を確認する。そこの職員と言うことは、その事務所で働いていて、スペースの調整や料金の算定、徴収をしている市の職員と言う意味だ。

 ケマ・シショカ・アラルコンはゆっくりとデニムのポケットから財布を出し、身分証を出してテーブルの上に置いた。テオはそれを見たが、ムリリョ博士が見たかどうかはわからなかった。
 ややこしいが、ケマはシショカと名乗っているが、シュスの子孫だ。父系の先祖がシュスと言うべきか。
 テオはムリリョ博士に説明した。

「俺が博士をお呼びした要件はさっきの件でした。こちらの人は、俺に用事があって来たと言っていました。チャクエク・シショカに会いたいそうです。でも俺はセニョール・シショカの友人でも知人でもありません、と彼に告げたところでした。」

 ケマがムリリョ博士に頭を下げて言った。

「突然の訪問の無礼をお許し下さい。私はどうしてもチャクエク・シショカに会わなければならないのです。私の家族の命が掛かっています。」

 テオは思わずムリリョ博士を見た。ムリリョ博士も珍しくテオを見た。テオは博士から「お前に任せる」と言われた様な気がした。だからケマに質問した。

「君の家族は何か一族に反逆するようなことをしたのですか?」

 ケマがパッとテオを振り返った。明らかに驚愕していた。白人が一族に関する秘密を知っている様なことを言ったからだ。テオはさらに質問した。

「もしかすると、現在大統領警護隊に捕まっている3人と関係あるのでしょうか?」

 ケマ・シショカ・アラルコンの顔が気の毒な程白くなった。恐怖に襲われている。このまま倒れるのではないか、とテオは心配になった。彼は空いている椅子を指した。

「そこに座りなさい。落ち着いて説明して下さい。博士も俺も怒っていませんから。少なくとも、君に対して怒りを覚えることはまだ何も聞いていないし、君の家族の説明も何も聞いていません。」

 テオは自分の水のグラスをケマの前に置いた。ムリリョ博士が目で飲めと合図したので、ケマはそれを手に取り、グイッと水を仰ぎ飲んだ。
 飲み干すと深呼吸して、若者は2人の年長者を見た。

「申し訳ありません、緊張して・・・」

 彼はもう一度深呼吸した。

「私の両親は同じ女性を母に持つ異父姉妹から生まれた従兄妹同士です。」

 テオはムリリョ博士がムッとするのを感じた。異父姉妹と言うのは同母姉妹であるから、”ヴェルデ・シエロ”社会ではその子供同士も同母兄弟姉妹扱いされるのだ。つまり、近親婚と見做されるカップルの子供が、ケマと言うことになる。だが近親婚は”砂の民”の粛清の対象にならない。だからケマは恐縮する必要がないし、現代社会で蔑まれることもない。しかし、テオはケマの母親の名前を思い出した。

「君の母親は、今大統領警護隊に捕まっている男と近い血縁関係にあるのか?」

 ケマが目を伏せた。

「母と同母の弟です。」

 その時、ムリリョ博士がテオに囁いた。

「チャクエクは、シショカを名乗る全てのマスケゴの総元締めなのだ。シショカ達は祖先を辿ると全員がチャクエクの直系の祖先に行き着く。」



2022/10/23

第8部 シュスとシショカ      4

  目上の人の目の前で逃げ出すと言うのは、大変失礼なことだ。そしてそんな振る舞いを一度でもしてしまうと、以降の部族社会では決して尊重してもらえなくなる。ケマ・シショカ・アラルコンはその場に立ち竦んだまま、ムリリョ博士が近づいて来るのを待った。テオは口元を紙ナプキンで拭って立ち上がった。そして博士がテーブルに十分近づいた頃合いを測って、右手を左胸に当てて挨拶した。

「突然のお呼び出しと言う無礼をお許し下さい。」
「いつものことだろう。」

 ムリリョ博士は怒っている風に見えなかった。ケマ・シショカ・アラルコンを無視して、若者が直前迄座っていた席に腰を降ろした。まだケマ・シショカ・アラルコンが突っ立ったままだったので、テオは仕方なく紹介した。

「ご存知かも知れませんが、ケマ・シショカ・アラルコンです。俺とは今日が初対面です。」

 ムリリョ博士が目下の人間を無視するのはいつものことだ。若者に一瞥さえくれずに、テオを真っ直ぐに見た。

「要件は何だ?」
「この場所で話すべきではないと思うのですが・・・」
「構わぬ、誰も聞き耳など立てておらぬ。」

 ムリリョ博士はいつも強気だ。仕方なくテオは語り始めた。

「一昨日から昨夜にかけて、大統領警護隊文化保護担当部が、ピソム・カッカァ遺跡からアーバル・スァットの神像を盗み出したアラムとアウロラのチクチャン兄妹を本部へ保護しました。彼等の証言から、彼等を唆して神像を盗ませ、建設省に送りつけさせた男を遊撃班が確保して、これも本部に捕まえています。勿論、この話は全て貴方はご存知でしょう。遊撃班が捕まえた男は、貴方の部族の族長選挙に何らかの介入を試みたのだと思います。
 部外者が貴方の部族の中の政治に口出し出来ないことは知っています。しかし民間人が1人重傷を負わされています。他部族の人にも迷惑を掛けた様です。彼等に何らかの償いをしてもらえるのでしょうか? 遊撃班が捕まえた男は『大罪人』だと言われています。処罰は貴方方社会の中で行われ、迷惑を掛けられた民間人には何もないと言うのは、俺には納得いきません。それは文化保護担当部も、診療所の医師も同じだと思います。」

 ムリリョ博士が白く長い眉毛の下からテオを見ていた。

「爆裂波を喰らって頭を怪我した遺跡の警備員は、ブーカ族の長老の力で一命を取り留めたと聞きました。しかし完全に元の体に戻ることは難しいでしょう。彼には家族がいる筈です・・・」
「襲われた者は気の毒だった。」

と博士が囁くように言った。

「しかし、我々には白人社会の様な賠償責任や補償と言ったしきたりも慣習もない。だから罪人に襲われた男に償う機会を罪人に与えることはない。」
「それでは・・・」
「聞け。」

 ピシャリと言われて、テオは口を閉じた。長老の話を遮ってはいけないのだ。そしてこの場面では、テオの不作法を取りなしてくれるケツァル少佐はいないのだった。
 ムリリョ博士が続けた。

「襲われた男を雇ったのは、オルガ・グランデのアントニオ・バルデスだ。バルデスの会社は金を持っている。バルデスの会社は遺跡の警備員の安全に責任がある。だから、アンゲルス鉱石が男の面倒を見る。」

 アントニオ・バルデスの義務の話をしているのではない。ムリリョ博士は、バルデスに警備員のこれからの生活の補償をさせると言っているのだ。それが”ヴェルデ・シエロ”流の賠償責任の取り方だった。オルガ・グランデにはマスケゴ系のメスティーソが多い。彼等はグラダ・シティに移住した主流派のマスケゴ族達に現在でも忠誠を誓っている。一般人が”ヴェルデ・シエロ”に歯向かうなら、彼等が動くのだ。だからオルガ・グランデでは首都よりも”ヴェルデ・シエロ”を恐れる人が多い。どこで誰が耳をそば立てているかわからないから。
 テオは「グラシャス」と言った。族長が交代しても、今の族長の命令は生き続ける。それが彼等の掟だ。

「バスコ診療所がアラム・チクチャンの手当をした治療費は・・・」
「それはチクチャンが払うべきだ。」

 そう言ったのは、ケマ・シショカ・アラルコンだった。彼の存在を忘れていたテオはびっくりして、テーブルのそばに立っている若者を見上げた。ケマ・シショカ・アラルコンは頬を赤く染めた。

「不作法な真似をしました。申し訳ありません。」

 彼はムリリョ博士に謝罪した。博士が初めて彼に気がついたかの様に、上から下まで彼をジロリと見た。

「何者か?」

 そうだ、このケマ・シショカ・アラルコンは何者なのだ? テオも知らなかった。



第8部 シュスとシショカ      3

  テオがテーブルに着くと、男も対面に座った。テオは右手を己の左胸に当てて挨拶して見た。

「テオドール・アルスト・ゴンザレスです。貴方のお名前を伺ってもよろしいですか?」

 すると男も同じ動作をして、少しタバコで掠れた様な声で挨拶した。

「ケマ・シショカ・アラルコン、ここの学生ではありません。」

 しかし彼の手は綺麗で肉体労働者の手に見えなかった。何か事務系の仕事をしているのだろうか。テオはそっと尋ねてみた。

「シショカと言う名を名乗られていると言うことは、マスケゴ族ですね?」
「スィ。」

 ケマ・シショカ・アラルコンは頷いた。

「どんな御用件ですか?」

 テオは食べ始めた。出来るだけリラックスして応対していたかった。食べながら対応するのは相手に失礼だと思ったが、彼の方が年上だと思われたし、ここはテオのテリトリーだ。セルバ人の男性は見知らぬ相手と対峙する場合、出来るだけ己の方が優位に立っていると思わせたがる。シショカ・アラルコンも教室で彼を見つめて無言の圧を掛けたのだ。しかしテオにまともに目を見つめられ、思わず視線を逸らしてしまったことで、テオに優位に立たれてしまった。
 シショカ・アラルコンは1分程黙っていたが、やがて口を開いた。

「チャクエク・シショカに会わせてください。」

 テオはフォークを持つ手を止めた。思わず尋ねた。

「誰?」
「チャクエク・シショカ・・・」
「聞こえた。それは誰なんです?」

 ケマ・シショカ・アラルコンは彼の手元を見つめた。アメリカ人なら目を見つめたのかも知れない。若者が辛抱強く言った。

「貴方がご存知のシショカです。」
「俺が知っているシショカは建設大臣の私設秘書の・・・」

 言いかけて、テオは気がついた。セニョール・シショカの本名なのか? ケマ・シショカ・アラルコンはテオの言葉を否定せず、黙って見返しただけだった。テオはフォークを皿に置いた。

「参ったな・・・俺は彼が働いている場所を知っているが、彼個人とは知り合いじゃないんですよ。」

 恐らく、あのシショカの友人なんていないだろう。ムリリョ博士やケサダ教授ならセニョール・シショカの私生活を少しは知っているだろうが、彼等がこの若者の要求に応えると思えなかった。

「俺が建設省に行っても、貴方がそこに行くのと同じ対応しかしてもらえないでしょう。否、貴方なら会ってもらえるかも知れないが、俺は無理ですよ、行政上の用事がない限りは。」

 ケマ・シショカ・アラルコンが悲しそうな表情になったので、テオはちょっと考えた。

「俺は貴方の部族の族長に面会を求めていて、もしかするとこのシエスタの時間に彼から連絡が入るかも知れません。其れ迄ここで待ちますか?」

 すると、ケマ・シショカ・アラルコンは慌てて立ち上がった。

「否、それは・・・」

 彼はふと顔をカフェの入り口へ向けた。そして顔面蒼白になった。フリーズしてしまった若者を見て、テオはその視線を辿った。丁度カフェの中へファルゴ・デ・ムリリョ博士がゆっくりと入って来るところだった。



2022/10/22

第8部 シュスとシショカ      2

  テオはアパートのバルコニーでフェンスにもたれかかって夜風に当たっていた。グラダ・シティの夜は遅くまで賑わうと言っても、最近は電力事情もあって早く消灯される。明るい場所は少なくなっていた。尤も”ヴェルデ・シエロ”の血を持つ人々は夜目が利くので余り問題ないだろう。
 ケツァル少佐は遅く帰って来たが、夕食は一緒に取った。そして短く彼に捜査状況を話してくれた。

「神像を盗んだ連中は全員捕まりました。後は事件の背景を司令部が調査します。」
「それじゃ、君達はもうお役御免なのか?」
「そう言うことになるでしょう。」

 彼女がその状況に満足していないことを、雰囲気でテオは悟った。恐らく文化保護担当部の友人達全員が満足していない。だが彼等は軍人で、上から「ここで終わり」と言われれば従うしかない。それなら・・・
 テオは携帯電話を出した。彼からかけても決して出てくれない人物の番号にメッセージを送った。お会いしたい、と。
 その夜は何も返信がなかった。少佐が寝室に去ったので、彼も自室に戻り、ベッドに入った。族長選挙に絡む部族内の内輪揉めが彼の生活に影響すると思えない。しかしムリリョ家やケサダ家が無事に過ごせる確信がなければ、彼は安心出来なかった。ただのお節介だろうけど。
 翌朝、まるで何事もなかったかの様に、普通に起床したケツァル少佐は、普通に朝食を作ってテオを起こした。

「今朝は俺が朝食当番じゃなかったか?」

 テオが指摘すると、逆に朝寝坊を指摘されてしまった。彼が食べている間に身支度を済ませた彼女はいつもの時間に出勤して行った。
 テオは授業が始まる半時間前に大学に出た。研究室で素早く準備して、教室に行くと、学生達の中に見慣れぬ顔の男がいた。たまに医師や別の学校の研究者などが聴講生として来るので気にせずに講義をして、午前中のスケジュールを終えた。
 講義が終わると熱心な学生にいつもの如く取り囲まれ、質疑応答の時間を持った。テオにとって、少々煩わしいが楽しい時間だ。好きな遺伝子分析の話を思い切り出来るのだから。喋り疲れた頃に昼休みになった。学生達が去って行く後ろで、先刻の見知らぬ男がまだ座っているのが見えた。先住民だ。テオはドキリとした。マスケゴ族だろうか。
 男は学生といくらも変わらない年齢に見えた。ラフなTシャツにデニムのボトム姿だ。足にはスニーカー。学生だろうか? それにしてはノートもタブレットも持っていない。
 テオは敢えて相手の目を見た。セルバでは目を見るのは不作法とされている。だが本当は「神」である”ヴェルデ・シエロ”に心を支配されないための防衛策だと、テオは解釈していた。そして”ヴェルデ・シエロ”の立場から言えば、相手の目を見ることは攻撃を意味していた。
 果たして、男は一瞬ギョッとして目を逸らせた。テオは声を掛けた。

「何か御用ですか?」

 男は躊躇った。学生達がまだ数人教室の中にいたからだ。テオは書籍やノートを鞄に仕舞い、ラップトップも仕舞い込んだ。そして余裕を持っているふりをして言った。

「これから昼食です。話があればカフェで聞きますよ。」

 彼が出口に向かって歩き出すと、男はゆっくりと立ち上がった。そして少し距離を開けてついて来た。大学内のカフェは学生や職員で賑わっていた。テオはテラス席に空席を見つけ、椅子の上に職員証を置いた。これで学生達に席を横取りされずに済む。それから配膳カウンターへ行った。男は彼が確保したテーブルのそばに立っていた。
 テオが周辺を見たところ、考古学部の学生も職員も見当たらなかった。恐らくまだ講義が終わっていないか、外へ実習に出掛けているのだ。初対面の男とトラブルになった時は独力で対処しなければならない、と彼は覚悟を決めた。

 

2022/10/19

第8部 シュスとシショカ      1


  大統領警護隊遊撃班はグラダ東港で荷運び人夫の元締めをしていたカスパル・シショカ・シュスを囲い込んで生け捕った。”ヴェルデ・シエロ”を捕らえるのは”ヴェルデ・シエロ”にとっても危険行為だ。特に人間に対して爆裂波を使用した経験がある人間は用心しなければならない。遊撃班はカスパルを追い詰めると抑制タバコの吸引を強いた。ある種の植物から製造された抑制タバコは”ヴェルデ・シエロ”の脳波を鈍らせ、一時的に超能力を使えなくしてしまう。カスパルは逃げられないと悟るとタバコを一気に吸い込み、意識朦朧となった。そして大統領警護隊本部の地下にある「留め置き場」の一つに軟禁されていた。

 司令部ではカスパル・シショカ・シュスの犯行を、個人的なものか、組織的なものか、感情的なものか、政治的なものかと判断を話し合った。アラム・チクチャンとアウロラ・チクチャンの証言を照らし合わせると、チクチャン兄妹はただ感情的に、ダム建設で故郷を追われ肉親を失った悲しみで、「建設大臣」を恨んでいたと思って良さそうだ。そこにカスパルが付け入った訳だが、それが彼単独の考えなのか、それとも誰かと共謀したことなのか、尋問の必要があった。
 目下の問題は、抑制タバコの影響が消える迄、尋問側は何も出来ないと言うことだ。
 セプルベダ少佐は司令部に行って、戻って来ない。副指揮官のステファン大尉は部下達に夜の休憩を取るよう指示を与え、囚人の見張りを警備班に任せて彼も官舎へ戻った。大尉なので個室だ。入隊以来ずっと大部屋で暮らし、文化保護担当部に配属されて初めて隊の外に出て、アパートを借りた。お陰で1人部屋に慣れた。そしてふとつまらないことを思った。後輩達は昇級や退官後、1人で眠れるだろうか?と。
 カルロ・ステファンの後輩で同じく官舎に住んでいるマハルダ・デネロス少尉は眠らなければならない時刻になっても目が冴えてしまって、食堂へ行った。食事は無料だが、間食は有料で1日1回と制限がある。空腹でなく喉が渇いたのだ。水なら好きなだけ飲ませてもらえる。
 厨房の配膳カウンター横に給水器が設置されている。正しくは給水場で、地下水が絶えず小さな穴から流れ出ているのだ。だから水は無料なのだった。備え付けのアルミのカップに水を汲んで喉を潤した。今回の事件捜査の流れに彼女は満足していなかった。折角デランテロ・オクタカス迄行って調査したのに、神像窃盗犯は自らバスコ診療所に現れて、あっさり捕まった。彼女の活躍する場面はなく、男達だけが関わった感じで、彼女は置いてきぼりを食った思いだった。

 確かに私は力が弱いし、実戦経験もない。だけど物事が動く時はどうして除け者なの?

 空になったカップを食器返却棚に置いた時、後ろから声をかけられた。

「眠れないのか、少尉?」

 振り返ると、遊撃班のファビオ・キロス中尉が立っていた。普段顔を合わせることがない男だが、たまに通路などで出会うと優しい目で黙礼してくれたり、食堂の列で順番を譲ってくれたりする。彼女が兄の様に慕っているカルロ・ステファンとよく行動を共にしているそうだし、文化保護担当部に度々助っ人に来るエミリオ・デルガド少尉ともコンビを組むことも多いらしい。だが個人的に言葉を交わしたことはなかった。大統領警護隊の中では、”ヴェルデ・シエロ”の男女間の礼儀作法と言うものは殆ど簡略化されているか無視されているのだが、部署が異なれば同じ大部屋にいても言葉を交わさない。大統領警護隊に女性用の部屋はなく、大部屋で男女一緒に生活している。但し、女性は部屋の中の一角に固まって寝起きするスペースを与えられていた。
 相手が中尉なので、デネロスは丁寧に答えた。

「喉が渇いたのです。すぐに部屋に戻ります。」

 ところがキロス中尉は食堂の窓がある壁を顎で指した。

「今夜は月が綺麗だ。少し見ていかないか?」

 デネロスは時刻を考え、「10分ほどでしたら」と答えた。キロスが微かに苦笑した。
 2人は窓枠に少し間隔を空けて並びもたれかかった。確かに満月が明るく空に浮かんでいた。デネロスはキロスが誘った真意を計りかねて、無難な話題を出してみた。

「今日捕まえた男は、やっぱりピソム・カッカァ遺跡で警備員に爆裂波を食らわせた大罪人ですか?」
「先に捕まえた兄妹の『心』の中にあった顔と同じだから、間違いないだろう。」

 キロスはグラダ東港での捕物に参加したのだ。

「抵抗しました?」
「ノ、私達が取り囲んだら、観念してあっさり拘束された。腕力はありそうだが、爆裂波の強さでは我々の方が上だからな。」

 彼は純血のブーカ族だ。軍人を代々輩出している家系の出だった。だからデネロスには彼が常に自信に満ちている様に聞こえた。

「私の様なミックスでは敵わなかったでしょうね。」

 彼女が自嘲気味に呟くと、彼が振り返った。

「そうか? 力の使い方次第では、君だってあいつと互角に戦える筈だ。あいつは素人で、君はプロの軍人じゃないか。」

 デネロスは頬が熱くなるのを感じた。そんな風に言われたことは今までなかった。

「実戦経験がないのです。」
「ケツァル少佐は毎週軍事訓練を行なっておられるだろう?」
「そうですけど・・・私はまだ命懸けの場面を体験したことがありませんので。」

 大統領警護隊の訓練は実弾射撃を伴うのが常だが、”ヴェルデ・シエロ”にとって、それはまだ遊びのレベルなのだ。キロス中尉が声を立てずに笑った。

「命懸けの場面に遭遇せずに済めば、それに越したことはないさ。誰もそんな体験をしないまま退役年齢に達したいと思っている。」

 デネロスはちょっとびっくりした。そして軍人の家系の出の男を見た。

「キロス家の様な名門の方でもそうお考えなのですか?」
「デネロス家もキロス家も変わりないさ。」

 目が合った。彼女は頬が熱くなるどころか、全身がカッとなる程緊張を覚えた。この感覚は何だろう?
 食堂の入り口の向こうから人の話し声が聞こえてきた。当番が終了した警備班の隊員達がやって来るのだ。

「そろそろ撤収しようか?」

とキロス中尉が残念そうに提案した。デネロスも小さく頷いた。

「そうしましょう、中尉。」

 壁から離れてから、キロスが囁いた。

「またこんな風に話が出来たらいいな。」

 え? とデネロスが改めて彼を見ると、中尉が「おやすみ」と敬礼してくれた。



2022/10/18

第8部 チクチャン     27

 チクチャンは、マヤ文明で使われていたツォルキン(暦)の第5番目の日。キチェ語でKan。黄色の地平線、尊敬、英知、周期、権威、正義、真実の象徴。宇宙の力の象徴。クック・クマツ(Q'uq' kumatz)が地平線に現れ、「天の心(Corazón del Cielo)」と「地の心(Corazón de la Tierra)」の存在を表明しながら地と天を結びつけた。チクチャンとは運動、宇宙の創造主、人間の進化、精神的成長、正義、真実、知性、そして平和のことである。

「こんな素晴らしい名前を持っていながら、何故古い神像の祟りを利用して政治家の殺害を図ったのか?」
「名前の由来なんか知らない。俺達の親も祖父母もただの農民だった。泥で畑が駄目になる迄は、幸せだったんだ。」

 アラム・チクチャンは本部の地下にある「留め置き場」即ち留置所の粗末なベッドの上に起き上がってセプルベダ少佐とステファン大尉から事情聴取を受けていた。大統領警護隊は既に彼と妹のアウロラから「心を盗み」、情報を得ていたが、改めて彼等自身の口から彼等の気持ちも含めて聞き取りを行っていた。ことは微妙だった。チクチャン兄妹の復讐劇なら話は単純だ。しかし、シショカ・シュスの家が絡んでいる。シショカとシュスはマスケゴ族の旧家だ。ムリリョ家とシメネス家に引けを取らない名門だ。だが現実社会に置いて、建設業で大成功を収めたムリリョ家や、その姻戚でムリリョ家と長い時代を娘や婿の遣り取りをしてきたシメネス家に比べると勢いが弱く、マスケゴ系列のミックス達にもあまり影響力がない。
 次の族長選挙はシショカ家にもシュス家にも起死回生のチャンスだった。ムリリョ家から候補者が出ていない。シメネス家は現在女性ばかりで、族長は伝統的に男性とされているマスケゴ族の慣習を崩すつもりはない。そして、現在のシショカ家はシュス家とあまり仲が良いと言えなかった。複雑な婚姻関係が存在するので、一概に誰がどこの家系とは言えないのが”ヴェルデ・シエロ”なのだが、シショカ・ムリリョやシショカ・シュス、シュス・シショカやムリリョ・シュス、シメネス・シショカ、シメネス・シュス、そんな名前が混在するマスケゴ族の族長選挙は混戦状態だった。勿論4つの大きな家系以外にもマスケゴ族はいるのだが、政治力や経済力を持たないので「有権者」であっても「候補者」にはならなかった。
 大統領警護隊は現族長ファルゴ・デ・ムリリョに候補者の氏名を訊いてみた。ムリリョ博士は機嫌が悪かった。部族内の抗争が大統領警護隊に知れ渡ってしまったのだから仕方がない。候補者は3名と彼は長老会に申告した。

「だが名を明かすことは現段階では出来ぬ。それは他の部族でも同じであろう。族長が決定する迄は、周知のことに出来ぬのだ。」

 それでは、と長老会の代表は言った。

「大統領警護隊が誰を逮捕しようと、マスケゴ族が苦情を申し立てることは許されぬ。それでよろしいか?」
「一族の秩序を保つためだ、仕方あるまい。」

 そして”砂の民”の首領でもある彼はこうも言った。

「我が朋輩が誰を罰しようと、大統領警護隊は目を瞑るべし。」

 だから、大統領警護隊遊撃班は、チクチャン兄妹を操ったカスパル・シショカ・シュスの背後に誰がいるのか、”砂の民”より先に突き止めたかった。アーバル・スァットの神像を送り付けられた建設大臣の私設秘書セニョール・シショカが”砂の民”の本領を発揮して首謀者を闇に葬ってしまわないうちに。

 

2022/10/17

第8部 チクチャン     26

「アラムは今、大統領警護隊の本部で治療を受け、取り調べを受けている。警備員をもし殺していたら、『大罪』を犯したことになるが、君と彼の証言から、警備員を負傷させたのはカスパル・シショカ・シュスに間違いないだろう。神様の像を呪いに使った罪があるが、人間に対する傷害などの罪は軽く済むかも知れない。これから本部へ君を連行するが、構わないな?」

 ロホの言葉にアウロラ・チクチャンは頷いた。

「私は兄を刺した・・・きっと私がやったに違いない。でも兄に会いたい。監獄にぶち込まれる前に、アラムに一眼会わせて頂戴!」

 それは、とアスルが言いかけたが、ロホが制した。

「確約出来ないが、上官に掛け合ってみよう。君達が一族の範疇に入るのかどうかもまだ未定だからな。」
「一族?」

 キョトンとするアウロラの顔を見て、ギャラガが肩をすくめた。 アスルが誤魔化した。

「古い民族の血を引いている人々と言う意味さ。」

 フワッと風が彼等の頬を撫でた。ロホは本部の建物の方を見た。軍服姿の男が2人やって来るのが見えた。1人は遊撃班の副指揮官カルロ・ステファン大尉だ。文化保護担当部の3人が固まっているのだ。本部の人間達がその存在に気がつかない筈がなかった。アウロラ・チクチャンの尋問はここまでだった。
 遊撃班がそばへ来たので、ロホ、アスル、ギャラガは彼等に向き直り、敬礼した。遊撃班も立ち止まって敬礼を返した。訊かれる前にロホが報告した。

「この女性はアウロラ・チクチャン、自ら出頭した。」

 アウロラが彼を見上げ、それから軍服姿の男達を見上げた。ステファン大尉がロホに尋ねた。

「尋問したのか?」
「彼女が進んで自供した。そちらで抑えている彼女の兄に面会を許可すると言う条件だ。」
「勝手なことを・・・」

と言いはしたが、ステファンは怒らなかった。いかにもロホらしい条件の出し方だ、と思った。アスルが言った。

「この女は”感応”に応えた。遊撃班のではなく、我々のだ。」

 お前達の呼びかけ方が悪い、と暗に言った。ステファン大尉が苦笑し、部下はムッとした。大尉が大尉に言った。

「情報を分けてもらえるか?」
「スィ。」

 ロホとステファンは互いの目を見つめ合った。一瞬で情報が伝えられた。ステファンは頷き、アウロラに話しかけた。

「アラム・チクチャンに面会を許可する。だから君は我々に協力するのだ。」

 嫌だと言わせない勢いがあった。アウロラは頷き、立ち上がった。彼女を2人の遊撃班が挟んで立った。ロホが彼等に声を掛けた。

「我々は撤収する。ギャラガ少尉は官舎へ帰らせる。」
「ご苦労。」

 彼等は再び敬礼を交わし合い、ステファン大尉がギャラガを見た。ギャラガは文化保護担当部の先輩達に声を掛けた。

「おやすみなさい。」
「おやすみ。」
「ゆっくり眠れ。」

 既に歩き始めた遊撃班とアウロラ・チクチャンの後ろを彼はついて行った。アスルがロホに囁き掛けた。

「そろそろアンドレも外で暮らした方が良いんじゃないか? 外の生活に慣れさせなきゃ。」
「それじゃ、お前の家に入れてやれよ。部屋はあるだろ?」
「あるが・・・」

 テオの寝室が空いているのだ。大家の部屋だ。しかしテオはもうケツァル少佐のアパートの住人になった。空いたスペースに誰が入っても構わないと彼はアスルに言ったのだ。

「アンドレが俺と同居でも構わないって言うなら、誘ってみる。」

 彼等はふとマハルダ・デネロス少尉はいつまで官舎暮らしを続けるのだろう、と思った。


第8部 チクチャン     25

  1回目の神像窃盗は複数の犠牲者を出してしまったにも関わらず、肝心の政治家達には呪いが届かなかった。チクチャン兄妹とカスパル・シショカ・シュスはロザナ・ロハスが神像をどうしたのか知る由もなかったが、西のオルガ・グランデの大きな鉱山会社の経営者が謎の死を遂げ、呪いで殺されたと言う噂が立つと、文化・教育省の大統領警護隊の動きに注意を払った。大統領警護隊の女性少佐と部下達はグラダ・シティを離れて何処かに出張していた。そして噂がまだ消えないうちに戻って来た。
 カスパルがピソム・カッカァ遺跡を見に行って、神像が戻されていることを確認した。呪いで鉱山会社の経営者が死んだと言う噂が真実であれば、あの神像は本物だ。あれなら、両親を死なせた政治家どもを地獄に送ってやれる。イキリ立つ兄妹をカスパルが宥めた。盗難から戻ったばかりの神像を再び盗めば大統領警護隊の警戒レベルが上がってしまう。ほとぼりが冷める迄待つべきだ、と。
 チクチャン兄妹は指図されるまま、大人しく日々を過ごした。その間に祖父は亡くなり、政権が代替わりして、マリオ・イグレシアスが建設大臣に就任した。アラムは先代の建設大臣を追跡してみたが、先代は大臣職を離任して間もなく病死した。呪いとは関係なく・・・。
 チクチャン兄妹は憎悪の標的を失ってしまった。無気力になりかけた2人にカスパルが囁きかけた。
ーーイグレシアスを次の標的にしよう。政治家は皆同じだ。
 アラムは違うと言ったが、アウロラは生き甲斐が欲しかった。顔も碌に覚えていない父親の仇を討ちたかった。母を失った悲しみをぶつけたかった。
 今度は他人を利用せずに自分達で神像を盗み出し、大臣に送りつけよう。兄妹は遺跡の近くでオスタカン族の末裔を見つけ出し、神像の正しい扱い方を教わることにした。カスパルも一緒に来て、質問した相手の記憶を消して兄妹の痕跡を消す手助けをしてくれた。アウロラはそんなカスパルを頼もしく感じ、好意を抱くようになった。だがアラムはカスパルにあまり懐いておらず、時々それは兄妹喧嘩の種になった。
 アーバル・スァットの神像を盗む決行日、思いがけない事故が起きた。遺跡にはオルガ・グランデのアンゲルス鉱石が雇った警備員がいたのだ。アラムが神像を慎重に抱えた時に、警備員に見つかった。咄嗟にアウロラがナイフを出すと、カスパルが止めた。そして警備員が突然倒れた。何が起きたのか、兄妹にはわからなかったが、カスパルは「呪いだ」と言った。
 警備員は気絶しただけだとカスパルは言い、彼等は遺跡から逃走した。
 アーバル・スァット神像は粗末に扱うとその周囲の人間に無差別に呪いを振り撒く。アウロラはグラダ・シティに向かう車の中で毛布にくるんだ神像を大切に抱きかかえた。グラダ・シティの外れにあるアパートに帰ると、そこで神像を箱に詰めた。カスパルはそれを建設省に運ぶと言った。砂防ダム建設を推進したのは前大臣だから、今の建設大臣は無関係ではないかとアラムが意見すると、カスパルはイグレシアスは前大臣の子分だったから、悪党と同じなのだと言った。アウロラは運送屋の配達員を装ったアラムとカスパルが出かけるのをアパートで見送った。
 2人は建設省の受付に箱を渡して戻って来た。そして大臣が亡くなるのを待ったが、メディアは何も報じなかった。カスパルは港の仕事に戻ってしまい、チクチャン兄妹も働かねばならなかった。呪いはどうなったのか。神像は働いてくれないのか。兄妹は落ち着かなかった。
 もう一度建設省に行って、神像を取り返そうと兄妹は話し合った。カスパルが「見えなくなる」術を使えるのだから、忍び込むのは簡単だと思ったのだ。しかしカスパルは「うん」と言わなかった。
ーー大統領警護隊が動き出した。今俺達が動くのは拙い。
 そして彼はこうも言った。
ーー俺は目的を果たした。大臣の秘書は神像を盗んだ犯人を探している。今は選挙どころじゃない。だから、このまま彼を足止め出来れば良いんだ。
 チクチャン兄妹には彼の言葉の意味が理解出来なかった。”ヴェルデ・シエロ”として育ったのではない。古代の神様の子孫達の裏社会の事情など知る由もない。ただ、アラムはカスパルが本当はダムのことなんてどうでも良いのだと言うことを察した。
ーー俺達はあいつに利用されただけかも知れない。
 アラムは遺跡で倒れた警備員が気になって、調べてみた。すると警備員は死ぬ一歩手前で奇跡的に回復したと知った。病院では大変驚いて騒いでいたが、彼等は「”シエロ”が助けてくれたのだ」と囁いていた。アラムはカスパルが本当は警備員を殺すつもりだったのではないかと思った。それを”ヴェルデ・シエロ”が警備員を助けた。
ーー俺達はとんでもない間違いをしているのかも知れない。
 アラムは妹を連れてカスパルを訪ねた。そして警備員に何をしたのか、自分達は「神」を間違ったことに利用しているのではないのか、と詰め寄った。

「そこで、私の記憶は途切れた。」

とアウロラはベンチに座ったまま、目に涙を浮かべた。

「直前にカスパルと目が合った・・・と思う。思い出せるのはそれだけ。気が付いたら、カスパルはもういなくて、私は血まみれのナイフを手にして、目の前に血まみれのアラムが倒れていた。頭が真っ白になったけど、アラムはまだ意識があったの。私に医者へ連れて行けと言ったわ。どこの医者って・・・ドクトラ・バスコしか知らなかったから・・・貧しい人でも診てくれる先生って、あの夫婦しかいないでしょ?」
「それで、あの診療所にアラムを預けて、君は逃げたんだな?」

 アスルの問いに、彼女はコックリ頷いた。

「カスパルがまた襲ってくると思ったから、自分達のアパートに帰れずに、スラムに身を隠していた。他に行くところがなくて・・・それにアラムを置いて遠くへ行けない。」


2022/10/16

第8部 チクチャン     24

  大統領警護隊の屋外運動場は金網を張ったフェンスに囲まれた、ごく普通の運動場だった。他の運動場と違うのは、その金網に結界が常時張られていることだった。一般人は金網に手を引っ掛けて運動場でサッカーの練習をしたり持久走訓練を行なっている隊員達を見物出来るが、隊員と同じ”ヴェルデ・シエロ”には手を触れるだけでピリリと来るし、乗り越えることは出来ない。その事実を考えると、”ヴェルデ・シエロ”の敵は同じ”ヴェルデ・シエロ”なのだと思える。大統領警護隊は一般人を恐れてなどいないのだから。
 フェンスの中の駐車場に車を乗り入れたロホは、ドアを開いて車から降りた。ギャラガも降車して、座席の背もたれを倒し、後部席のアスルとアウロラ・チクチャンを降ろした。運動場では警備班の非番組がサッカーをしていた。休憩をしなければならないのだが、息抜きも必要だ。最長2時間と言う制限があるが、彼等にとっては貴重なリクリエーションだ。ロホもアスルもサッカーが趣味だし、ギャラガもアスルに誘われて習い始め、今ではかなりのレベルに上達していた。3人の姿に気づいた何人かの隊員が手招きしたが、アスルが「仕事だ」と手振りで応えた。
 アウロラをベンチに座らせ、彼女の横にアスル、前にロホ、後ろにギャラガが立った。ロホが彼女に水を飲まないかと尋ねたが、彼女は首を横に振っただけだった。

「それでは・・・」

 ロホは警備班の隊員達がサッカーに興じているのをチラリと見た。頼むからこちらに気がつかないでくれ、と思った。女の気を散らして欲しくなかった。

「まず、君達、君とアラムの身の上とカスパル・シショカ・シュスとの関係から話してもらおう。」

 チクチャン兄妹の身の上は、ケツァル少佐がアラム・チクチャンから「心を盗んだ」内容とほぼ同じだった。兄妹が物心つく頃に一家はアルボレス・ロホス村に入植し、他の村人達と共に畑を耕していた。細い川が流れており、乾季は良い畑だったが、雨季になると川が増水して度々畑が水に浸かった。だから村は貧しいままだったが、食べるには困らなかった。下流に砂防ダムが建設された時は男達も女達も日雇いで働いて一時的に村は潤った。しかし、そのダムが土を堰き止めるようになると、畑に泥が溜まっていくようになった。それはじわじわと下流から上流へと上がって来た。雨が降り、増水する度に作物が泥に埋もれていく。村人達は行政に訴えたが、打つ手なしと言われた。村人達は一旦アスクラカン市街地に引っ越したが、耕作地と村を諦めきれなかった。チクチャンの父親と村の男達数名はダムの堰堤を破壊しようとして、警察に見つかった。彼等は酷い暴行を受け、留置所に数日間入れられた。戻ってきたチクチャンの父親は寝込んでしまい、やがて亡くなった。夫を失った母親も苦労続きで、無理をした挙句、仕事中の事故で死んでしまった。
 兄妹は祖父に育てられたが、遠縁の者だと言う男が現れた。それがカスパル・シショカ・シュスだった。祖父の姓がシュスだったので、祖父の母方の親族である男の息子と言うことになる。カスパル・シュスは兄妹に親切だった。兄妹が義務教育を終える迄面倒を見てくれ、仕事も見つけてくれた。彼自身はグラダ東港で荷運び人夫の元締めをしていた。兄のアラム・チクチャンは車の運転免許を取り、港でトラックの運転手として働いた。アウロラ・チクチャンは港の食堂で給仕の仕事をした。
 アラムは両親が死んだ原因となった砂防ダムの建設を決めた政治家達が許せないでいた。だが国の指導者達のところに殴り込みに行っても、相手に手が届くことはない。アラムは兄の様に慕うカスパルに相談した。

「カスパルは復讐に乗り気でなかったの。でも止めることはなかった。」

 カスパル・シュスは呪いを使うことを提案したのだと言う。
 ロホとアスル、ギャラガの3人は顔を見合わせた。カスパル・シショカ・シュスは”ヴェルデ・シエロ”だ。呪いを使わなくても、手を汚さずに敵を倒す方法ならいくらでも知っているだろう。だが彼はチクチャン兄妹に復讐させたかった。だから、能力を殆ど持たない兄妹に呪いの使用を持ちかけたのだ。アラムとアウロラは呪いの使用を勉強した。修道女に化けて国立博物館に勉強にも行った。そして、アーバル・スァットと言うピソム・カッカァ遺跡に祀られる古いジャガーの神像に行き着いた。
 一度目は欲深い白人の麻薬密輸業者の女に盗ませた。女を操るのはカスパルが担当した。彼が何故直接兄妹に盗ませなかったのか、その時兄妹は理由がわからなかった。だから悪党の女ロザナ・ロハスがしくじって別の標的に神像を送りつけてしまった時は、がっかりした。だがカスパルは慌てなかった。成り行きを見守れ、と兄妹に言った。

「カスパル・シショカ・シュスはアーバル・スァットの呪いの力を試したんだ。」

とアスルが呟いた。ギャラガも頷いた。

「そうだと思います。どう扱えば、自分達は安全か、あの神像がどれほど強い祟りをするのか、そして大統領警護隊があの神様を制御出来るかどうか・・・制御出来ない神様は危険極まりないですから、もし文化保護担当部の手に負えなければ、あの神像を諦めるつもりだったのでしょう。」



2022/10/13

第8部 チクチャン     23

「カスパル? 誰だ、そりゃ?」

 アスルが尋ねた。そこへロホが来た。

「マスケゴ族のカスパル・シショカ・シュスのことか?」

 アスルがアウロラ・チクチャンの腕を掴んだまま彼を見た。

「シショカ・シュス? ああ・・・煉瓦工場の・・・」

 アウロラが怯えた眼差しで2人の男を見比べているので、ロホが柔らかな口調で説明した。

「私達は大統領警護隊だ。建設大臣マリオ・イグレシアスの所に強い呪いの力を持つ神像が送り付けられた事案を調べている。」

 アスルは手の中のアウロラの腕が緊張したのを感じた。彼女は心当たりがあるのだ。
 ギャラガがそばに来たので、ロホは提案した。

「車でもっと安全な場所へ移動しよう。君も来なさい、アウロラ・チクチャン。」

 名前を呼ばれて、彼女は目に涙を浮かべながら診療所を見た。アスルが言った。

「アラムは大統領警護隊が保護した。診療所では守れないからな。それに何かあれば他の患者に迷惑だ。」
「何処へ行きます?」

とギャラガが助手席のドアを開けて尋ねた。アスルが女を捕まえたままなので、このペアを後部席に乗せて、自分は助手席に座るつもりだ。車はロホのビートルなので、後部席からは逃げられない。ロホがアスルを見た。アスルが提案した。

「本部の屋外運動場ではどうだ? 俺達はまだこの女性を逮捕していないから、本部内に連行出来ない。」

 逮捕などいつでも出来るのだが、アウロラを安心させるための言葉だ。ロホは頷いた。

「そこが良いだろう。指揮官のアパートに連れて行ったら叱られる。運動場なら本部が隣にあるから、カスパル・シショカ・シュスも手が出せない。」

 ギャラガが座席の背もたれを倒して、後部席に乗るよう、女に合図した。

「押し込めたくないので、自分で乗ってくれないか?」

 無骨だが紳士的な3人の男を見比べ、やがてアウロラ・チクチャンは素直にビートルの後部席に入った。アスルが素早くその隣に入り、ギャラガが座席の背もたれを直した。
 ロホが運転席に座り、車が動き出すと、アスルはアウロラに言った。

「お前の兄貴の怪我はバスコ医師と俺達の上官の力で治した。もう命の危険はない。ただ、お前達が何をしたのか、元気になれば本部で尋問を受けることになる。」

 既に尋問は受けたのだ。と言うより上級の能力使用者によって記憶を読まれたと想像出来た。本部はアラム・チクチャンからどんな情報を引き出したのか、文化保護担当部に教えてくれないだろう。政治が絡めば尚更だ。だから文化保護担当部はアウロラから事情を聞きたかった。何故神像を盗んだのか。何故建設大臣の所に神像を送りつけたのか。どこでカスパル・シショカ・シュスと出会い、どんな形で利用されることになったのか。遺跡の警備員を爆裂波で傷つけたのは誰か。

「ちょっと気になるんですが・・・」

と助手席でギャラガがロホに尋ねた。

「カスパル・シショカ・シュスって、セニョール・シショカの親戚ですか?」

 ロホはちょっと考えてから、「スィ」と答えた。

「セニョール・シショカの母方の親族だ。どちらもシショカを名乗っているからな。詳しいことは私もよく知らないが、セニョール・シショカは親族と交流を絶っていると聞いている。」


第8部 チクチャン     22

  ケツァル少佐がアラム・チクチャンから「心を盗み」、アウロラ・チクチャンの顔、容姿に関する情報は大統領警護隊文化保護担当部内で共有されていた。バスコ診療所のそばに現れた若い女は確かにアウロラ・チクチャンだった。普通の若い女性だ。Tシャツに草臥れたコットンパンツ、古いスニーカー。髪型は伸ばしている髪を頭の上でお団子に結っていた。暗い診療所と灯りが灯っている医師の自宅を眺めて立っていた。
 ロホ、アスル、ギャラガは車から出た。役割はそれぞれ既に決めてあった。ロホがそれとなくアウロラの背後から自分達の位置を含めて次の角まで結界を張り、ギャラガがその結界内にいる通行人の中に怪しい人物がいないか確認する。そしてアスルがアウロラに近づいて行った。

「この近所の人?」

と彼は声をかけた。アウロラが彼を振り返った。ノ、と彼女は首を振った。

「ちょっとそこのお医者さんに用事があって来たの。」
「もう閉まっている。」
「スィ。だから、どうしようかな、と迷っている。」

 アスルは女を警戒させない距離を保って足を止めた。

「俺も医者に用事があって来た。兄貴が腹を壊して・・・」

 彼はチラッと車のそばに立っているロホを振り返って見せたが、彼女を視野に入れておくことを怠らなかった。ロホは車にもたれかかっていたが、苦しそうではなかった。いきなり芝居をしても怪しまれるだけだ。彼はアスルに言った。

「閉まっているなら、どこか薬屋に行こう。昼に食べた物が悪かっただけだ。」
「こんな時間に開いている薬屋があるもんか。」

 アウロラは同じ車から出て通りの向こうへ歩いて行くギャラガを見た。

「あの人は・・・」
「他に医者の家がないか見るって・・・無駄だよな。」

 アスルはちょっと笑って見せた。小柄で少し童顔なので、女性は大概彼の笑顔に油断する。アウロラもちょっと苦笑した。

「ここしかないから、私も来たの。」

 ギャラガが離れた位置から怒鳴った。

「誰もいない!」

 つまり、他の”ヴェルデ・シエロ”はいないと言う意味だ。アスルがチェッと舌打ちした。

「仕方がないなぁ・・・」

 彼がアウロラに向き直った途端、彼女がパッと身を翻して走りかけた。男達の正体を悟ったのではなく、不良から逃げようと言う、そんな行動だった。しかし、アスルは素早く動いた。彼女に2歩で接近すると彼女の腕を掴んだ。

「逃げるな、結界を張っている。突っ込むと脳を破壊されるぞ。」

 アウロラ・チクチャンがフリーズした。アスルの言葉の意味を正確に理解したのだ。

「”ヴェルデ・シエロ”なの?」

 ”ヴェルデ・シエロ”が”ヴェルデ・シエロ”に向かって、”ヴェルデ・シエロ”かと尋ねることは、普通あり得ない。普通は、「どの部族か?」と訊くものだ。ミックスでも”シエロ”の自覚がある者はそう言う。アスルは彼女を自分に引き寄せ、正面を向かせた。

「どの部族だ?」

 目を合わせようとすると、彼女は下を向いた。ロホが近づいて来た。ギャラガも戻って来る気配がした。ロホは結界を維持したままだ。チクチャン兄妹を操った人物を警戒していた。そいつは、爆裂波で人間を傷つける大罪人だ。警戒しなければならない。
 アスルが囁いた。

「答えないなら、こちらが先に名乗る。そちらの男はブーカ族だ。こちらへ戻って来る赤毛は白人に見えるがグラダ族だ。そして俺はオクターリャ族だ。」

 アウロラが顔を上げた。怯えた目でアスルを見た。

「カスパルの仲間じゃないの?」


2022/10/12

第8部 チクチャン     21

  ピア・バスコ医師の診療所が見える位置に車を駐車したロホ、アスル、ギャラガは車内で軽食を取った。付近は路駐が多く、屋台も出ているので彼等がそこにいても誰も怪しまない。不審者がいると通報する人間もいない。だが夜が更ける前に仕事を完了したいのは3人共に同じだった。

「遊撃班はアウロラ・チクチャンにどんな呼びかけをしたんだ?」

とアスルが往来を眺めながら呟いた。ロホが肩をすくめた。

「ただ、出て来い、と言ったんだろ?」
「それじゃ誰も出て来ませんよ。」

とギャラガが口元に付いたケチャップを指で拭き取りながら言った。アスルが黙って紙ナプキンを彼に渡した。

「遊撃班の半数が一斉に『出て来い』なんて念を送ったら、受けた方は腰を抜かします。」
「それじゃ、俺達は何て念じる?」
「『直ぐに来てくれ』で良いんじゃないか?」

とロホ。

「単純な方が良い。恐らく”感応”を使い慣れていない連中だ。どの部族にもチクチャンと名乗る家族がいないと言うことは、逸れ者家族だってことだ。」
 
 アスルが軽く咳払いした。ロホは彼を見て、それから、ハッとギャラガを見た。

「すまん、君のことを逸れ者と思ったことがなかったので・・・」
「平気です。」

 ギャラガは苦笑した。

「私の名前は母親が勝手に名乗ったんです。母親の本当の名前すら私は知りませんから、逸れ者で結構ですよ。」
「ほら、拗ねちゃったじゃないか。」

とアスルがロホを揶揄った。ロホがまたギャラガに謝り、ギャラガも恐縮して焦った。そしてアスルに「拗ねてなんかいませんから!」と怒って見せた。部族も年齢も育ちも階級も全く違う3人の大統領警護隊の隊員が兄弟の様に狭い空間でワイワイやっていると、診療所の建物から看護師達が出て来た。待合室の灯りが消えて、業務が終了したことが外部にもわかった。
 バスコの家の個人住居の部分に灯りが灯った。ロホが部下達に声をかけた。

「そろそろ始めるぞ、最初に私が送ってみる。」

 ギャラガにはロホが何もしていない様に見えた。それほど”感応”は”ヴェルデ・シエロ”にとっては微細な力しか要しない軽度の能力なのだ。少し前まで力まなければ使えなかったギャラガは、先輩の表情を見て、自分はどうなのだろうとちょっと気になった。
 アスルが尋ねた。

「どれほど待つ?」
「10分かな? 直ぐ、と言うから、その程度で次の念を送ろう。」

 3人は自然な風を装って車内で世間話をしながら診療所の様子を伺った。ピア・バスコと伴侶は夕食の席に着いたのか、一つの部屋からなかなか移動しなかった。ギャラガがあることに気がついた。

「入院患者がいるなら、別の部屋にも灯りが点いていますよね?」

 ロホとアスルは顔を見合わせた。言われてみればそうだ。アラム・チクチャンが入院していることになっているなら、診療所の方の「休養室」に寝ている筈だ。しかし、彼は大統領警護隊に連行されてしまい、診療所は真っ暗だった。
 「まずったかな」とアスルが呟いた時、ロホの視野の隅に1人の女が入った。通りを早足でやって来て、診療所が見える角で立ち止まった。暗い窓を見て、ちょっと考え込んだ様子だ。ロホは囁いた。

「来たぞ。」



2022/10/11

第8部 チクチャン     20

  グラダ東港は貨物専用スペースだ。コンテナが並ぶ広大なスペースと貨物船に荷積するフォークリフトやクレーンが動き回る埠頭、倉庫群を見ると、捜査する人間は溜め息をつく。ケツァル少佐はステファン大尉を顔見知りの遊撃班隊員が立っていた車の横にドロップすると、すぐにそこからUターンして走り去った。
 遊撃班指揮官セプルベダ少佐からの要請には応じるが、副指揮官ステファン大尉の甘えには応じられない。以前アスルから「弟に厳しすぎませんか」と言われたことがあったが、少佐は「過ぎる」とは思わなかった。カルロは部下達の命を守る指揮官の修行中だ。結界を満足に張れない指揮官など要らない。部下を危険に曝すだけだ。死ぬ気で部下を守れ。
 遊撃班は昨夜アラム・チクチャンから謎の男の顔や声の記憶を引き出した筈だ。それを隊員達が共有して、捜査に当たっている。もし謎の男がマスケゴ族なら、ブーカ族やその系列の血筋が多い隊員達なら十分に対処出来る。ステファン大尉が恐れているのは、取り逃すことだ。
 ケツァル少佐は文化・教育省のオフィスへ出勤した。部下達と挨拶を交わし、「エステベス大佐」の部屋に彼等を集めた。遺跡・文化財担当課の職員達は、彼等が打ち合わせをしているとしか思わない。実際、打ち合わせなのだから。
 アラム・チクチャンがピア・バスコ医師の診療所に現れたことは部下達を驚かせた。しかし、チクチャンと妹アウロラ、そして謎の人物が仲間割れしたことには驚かなかった。

「アウロラを確保しないといけません。」

とデネロス少尉が言った。

「暴走するかも知れないし、謎の男の仲間がいる可能性もあるので、保護が必要です。」
「その通りです。」

 ケツァル少佐はロホを見た。

「カルロは遊撃班が”感応”で彼女を呼んだが反応がなかった、と言いました。でも、”感応”でなければ彼女と接触する方法はないと私は思います。」

 ロホは少し考えてから意見を述べた。

「普通の”感応”は、呼びかけられた人間は呼びかけた人が誰なのかわかりません。だから、アウロラ・チクチャンは恐れて出て来られないのです。でも、少佐、貴女は私達部下が危機に陥って貴女に助けを求めた時、誰が呼んだかお分かりになるのでしょう?」
「その時に危機に陥っている可能性が高い部下が誰だか知っているからですよ。」

 するとアスルが提案した。

「バスコの診療所から念を送りませんか? ひたすら来て欲しいと伝えるだけです。アウロラは兄の呼びかけだと思うかも知れません。」
「それなら、男性がやるべきだわ。」

とデネロスが言った。

「”感応”は性別は関係ないと思われていますけど、私は、兄や姉から呼ばれたら、男女の違いを感じます。上手く説明出来ませんけど・・・」
「遊撃班はみんな男だろ?・・・いや、1人だけ女がいるけど・・・」
「でも、診療所から念を送ったのではないでしょ? それに助けを求めた訳でもないと思う。」
「つまり・・・」

 ギャラガが言った。

「私達にアラムのフリをしろと?」
「スィ。」

 デネロスは男性隊員達を見回した。

「お芝居じゃない、ただ助けて、と念じるだけですよ。彼女に来て欲しいと思うだけです。だから嘘をつくのじゃなくて・・・」
「わかった。」

とロホが頷いた。彼は少佐を見た。

「3人で交代にやってみます。」


第8部 チクチャン     19

  睡眠時間は短かったが、シエスタの習慣がある国の人間は夜更かしをあまり気にしない。翌朝、テオとケツァル少佐はいつもの時刻に目覚め、一緒に朝食を取り、それぞれの仕事の開始時間に合わせて家を出た。
 少佐はテオより早く自宅を出たが、車で角を一つ曲がったところで、カルロ・ステファン大尉に呼び止められた。大尉は道端に立って、彼女の車が見えると片手を挙げて止まれと合図したのだ。彼女が停車すると、彼は素早く助手席に回って車に乗り込んだ。

「グラダ東港へ行って下さい。」

と彼は元上官であり、異母姉に要請した。少佐は車を発車させてから文句を言った。

「私は貴方の運転手ではありませんよ。どうして公用車を使わないのです?」
「昨夜貴女がアラム・チクチャンを確保して我々に引き渡された後、我々は彼の妹の捜索をしていたのです。」
「”感応”を使ってみましたか?」
「しました。しかし、彼女は応えない。それで、兄妹を操ったと思われる男が働いていると言う東港に、捜索に出ている隊員が集まることにしました。」
「私を使う理由はなんです?」

 ステファンはちょっと躊躇った。出来れば朝から姉を怒らせたくなかった。しかし正直に言わなければ彼女はもっと怒るだろう。

「東港を結界で覆って頂きたい。容疑者を我々が確保する迄の間、逃さないように港湾施設を囲って欲しいのです。広範囲なので、ブーカ族や、ミックスの隊員では手に負えません。純血種のグラダである貴女にしか頼めません。」

 少佐はハンドルを切って、職場オフィスとは反対方向へ車を向けた。

「それは貴方の考えですか? それともセプルベダ少佐の・・・」
「私の一存です。」

 少佐が溜め息をついた。

「カルロ、貴方は他部族を過小評価しているのではありませんか?」
「過小評価?」
「もっと部下達を信頼しなさい。」
「しかし、ブーカ族でも結界を張れる範囲は狭いです。」
「狭くても、複数を適所に配置してカバーし合えば十分守備を固めることが出来るでしょう。貴方は、あの”暗がりの神殿”でロホを信じて守りを任せた。現在の部下達もロホと同じように力を出せますよ。」

 少佐は路肩に車を寄せて停止させた。そして携帯電話を出した。ロホの番号にかけたのをステファン大尉は横目で見た。ロホが直ぐに出た。

ーーマルティネスです。
「ブエノス・ディアス、ケツァルです。少し遅れますから、業務の指示をお願いします。」
ーー承知しました。

 それだけだった。ステファン大尉は不満気に少佐を見た。

「すぐに終わるとは思えませんが?」
「当然でしょう。私は貴方を港に下ろしたら、すぐ帰ります。」
「少佐・・・」
「貴方もグラダ族なのです、港全体を覆う結界ぐらい張りなさい! 都市全体ではないのですよ。」

 姉に叱られて、ステファン大尉はムスッとした表情で前を向いた。
 少佐はかなり乱暴な運転でグラダ東港に向かった。


2022/10/07

第8部 チクチャン     18

  大統領警護隊司令部からの指図通り、ケツァル少佐は本部に連絡を取り、1時間後に遊撃班の隊員達が軍用車両で現れた。彼等はアラム・チクチャンを車に乗せ、本部へ運び去った。残った少佐はピア・バスコ医師に告げた。

「あの男の妹もしくは知り合いだと言う人物が来ても、決して家の中に入れないように。アラムは大統領警護隊に保護されたとだけ、事実を伝えて下さい。あの男の記憶を共有したことは絶対に喋ってはいけません。」
「わかっています。」

とバスコ医師は、患者の情報を守る医師の守秘義務を思い出して頷いた。少佐は彼女が心細いかも知れないと思い、提案してみた。

「もし宜しければ、ビダルをこちらへ寄越してもらうよう、警備班に掛け合いますが・・・」
「大丈夫です。」

 バスコ医師も伊達に町医者を20年以上やってきた訳ではない。様々な危険な状況に面して、それを切り抜けて来た女性だった。

「”出来損ない”の私が言うのもなんですが、中途半端な力を使って他人を脅して生活しているチンピラの”出来損ない”の患者を多く手がけて来ました。自宅の守備ぐらいは1人でも出来ます。」
「失礼しました。」

 ケツァル少佐が素直に謝ると、彼女は微笑んだ。

「でも、『心を盗む』技は、流石に使えませんけどね。」
「あんな技は使わずに済む方が良いのです。」

 少佐と医師はハグを交わして別れた。
 車に乗って少佐が帰宅した時は午後の10時近くになっていた。テオはまだ夕食を食べずに待っていた。家政婦のカーラは帰した後で、少佐が部屋に入ってくると、彼が料理を温め直し、準備してくれた。2人はキスとハグを交わし、それから食卓に向かい合うと、少佐が食べながらアラム・チクチャンの話を語った。一般人のテオを巻き込むべきでないと理解していたが、彼女は彼が何も知らずにいることに我慢出来ない人だとも解っていた。

「チクチャン兄妹を操った男が何者かが、問題だな。」

とテオが感想を述べた。少佐は「スィ」と答えた。

「マスケゴ族の族長選挙が絡んでいるとすると、選挙運動はかなり早くから行われるのかい?」
「族長が決まれば、すぐに次になりたい人が運動を始めますね。なりたい人は野心家ですから。でも人望がなければ、票は入りません。」
「呪いでライバルに妨害をかける人間は人望なんてないだろう。だけど、どうして建設大臣が狙われるんだ? 大臣は昔も今も”ティエラ”じゃないのか?」
「ティエラです。遠い祖先に”シエロ”がいる人がいたかも知れませんが、少なくとも、今狙われているイグレシアスは混じりっけなしの白人です。」
「イグレシアスを狙っていると見せかけて、シショカにフェイントをかけているのかな?」
「有り得ることです。シショカは族長になるつもりがないと言っていますが、本心は分かりませんし、立候補しなくても票が集まる人はいるのです。人望があればね。ムリリョ博士も候補に立たなかったのに族長になられたのです。」
「それじゃ、ケサダ教授も族長になる可能性があるのか?」
「ないとは言い切れません。」

 しかしケツァル少佐は恩師のことは心配していない風だった。ムリリョ博士と違ってケサダ教授は経済界に知られていない。ムリリョ博士の時は、大企業の経営者だった叔父の後継者になるやも知れぬと噂が立ったのだ。マスケゴ族だけでなく、一般のセルバ国民の注目を集めた。それだけ有名企業だったのだ。考古学者として有名になる前に、ムリリョ博士は家族が経営する会社の経営者候補として有名になってしまった。だから、彼が族長に推挙された時、息子のアブラーンが票の取りまとめをしてしまったのだ。
 心配するなら、ケサダ教授ではなく、アブラーン・シメネス・デ・ムリリョの方だ。

 

2022/10/06

第8部 チクチャン     17

 ケツァル少佐はベッドの上に横たわる男に声を掛けた。 

「私は貴方の傷を治す力を持っている。だがその前に私の質問に正直に答えて欲しい。一つでも嘘をつくと、私は貴方を助けない。承知するか?」

 男は小さく頷いた。額に脂汗を浮かべていた。かなり辛いのだ。
 少佐はバスコ医師が横にいることを気にせずに質問を開始した。

「貴方の名前を名乗れ」
「・・・ア・・・アラム・・・チクチャン・・・」
「アラム・チクチャン、ピソム・カッカァの遺跡からアーバル・スァットの神像を盗んだのは貴方か?」

 男は目を天井に向けた。少佐が黙って待っていると、彼は苦痛に顔を歪め、やがて声を出した。

「スィ。」
「アルボレス・ロホス村がダム建設で泥に埋もれた仕返しを目論んだのか?」

 男は小さく溜め息をつき、そしてまた顔を歪めた。脇腹の傷はかなり重症の様だ。

「警備員を爆裂波で襲ったのは貴方か?」

 すると、男は大きく首を横に振った。

「ノ!」

 少佐は彼の脇腹を見た。

「貴方を襲った人間と警備員を襲った人間は同一人物か?」
「スィ!」

 男は初めて首を動かして少佐をまともに見た。

「妹を助けてくれ! あいつは妹も殺すつもりだ。」

 少佐と男の目が合った。少佐は男に己の情報を一切与えなかったが、男の記憶を引き出した。つまり、「心を盗んだ」のだ。


 アラム・チクチャンと妹のアウロラは両親と共にアルボレス・ロホス村で貧しいながらも幸せな暮らしを送っていた。しかし、ダムが下流に出来て泥が畑を覆い始めると、貧困の度合いが酷くなり、村は離散せざるを得なくなった。チクチャン家はアスクラカン市街地に引っ越したが、仕事が見つからず、貧乏のどん底に陥った。父親は無理が祟って病死した。母親は力仕事に出ていたが、事故で亡くなった。まだ10代だったチクチャン兄妹は同じ村出身の老人と3人でなんとか生きた。その老人がある男と知り合った。男は彼に遺跡にある神像を使って呪いをかける方法を教えた。老人はピソム・カッカァ遺跡からネズミ型神像を盗み出し、ダム建設を指図した建設大臣に送りつけようとした。だが手違いから神像を実際に盗んだのは、老人から呪いの話を聞かされた白人の女だった。白人の女は神像を大臣ではなく別の人間に送りつけてしまった。
 チクチャン兄妹は老人が失意の中で亡くなるのを見守るしかなかった。貧困の中で、それでも懸命に生きていた彼等は、ある男から接触された。老人に神像の呪いを教えた男だった。彼はアラムにもう一度建設大臣への復讐を持ちかけた。大臣憎しの気持ちで、アラムは大臣が代替わりしていることを全く気にしていなかった。だから、妹と共に遺跡へ行き、神像を盗み出した。その時に同行していた件の男が、盗難に気づいて追ってきた警備員を、「手を触れずに」倒した。驚いているアラムとアウロラに、男は神像の扱い方を教え、グラダ・シティへ運ばせた。建設省に持ち込む時もそばに一緒にいた。不思議なことに周囲の人間には男の姿は見えなかった様だ。
 建設省に神像を置いて来たが、大臣が病気になったり死んだりしたと言うニュースはなかった。それどころか、イグレシアス大臣は元気でゴルフをしたり、各地の有力政治家と会合を開いたりして活発に活動していた。
 チクチャン兄妹は呪いの効果を疑い、いっそのこと直接大臣を襲撃することを計画した。しかし、それには件の男が反対した。意見の対立で、アラムは男を刺そうとしたが、何故かアウロラが兄に襲いかかってきた。アラムが必死に防御した結果、彼女は突然正気に帰り、兄を車に乗せて診療所へ運んだ。

 ケツァル少佐は大凡の経過を知った。チクチャン兄妹は貧しさ故に憎しみを建設大臣(誰でも良かったのだ)にぶつけようとした。彼等の面倒を見ていた老人も兄妹も、謎の男に唆され、神像の呪いを利用して大臣を亡き者にしようとした。謎の男は呪いで大臣(この男も大臣が誰でも良かったのか?)暗殺を企んだが、直接の殺傷は好まなかったのかも知れない。アウロラ・チクチャンは”操心”で動かされ、兄を殺害しようとして、男も爆裂波でアラムを殺そうとした。(あるいは、アウロラは爆裂波を使えるのか?)正気に帰ったアウロラが兄をバスコの診療所に運んで置き去った。アラムは男が妹を殺すのではないかと心配している。
 ケツァル少佐はアラムの記憶の中の男の顔に見覚えがなかった。そこで仕方なく、ピア・バスコに情報共有した。”心話”は一瞬で全て伝わる。ピア・バスコ医師の表情が強張った。

「随分嫌な話ですね。」

と医師が囁いた。少佐も同意した。バスコ医師は少し考えてから、少佐に告げた。

「患者の記憶している男の顔に、私も見覚えがあります。グラダ東港の荷運び労働者の元締めをしている男に似ています。名前は知りませんが、一度仕事中に怪我をした部下に付き添っていました。往診してくれる医者が見つからないとか言って、私が呼ばれたのです。あの時は一族の人間だとは知りませんでした。向こうも色々な医者に電話して最後に私を捕まえた様でしたから、私の正体は知らないかも・・・」
「ですが、アウロラは兄をここへ連れて来ましたよ。」
「患者にお金がなくても、夫は断らずに診療する主義です。この辺りでは、うちは案外有名なのです。」

 バスコ医師はちょっと苦笑した。
 それで、ケツァル少佐はアラム・チクチャンの治療を行うことにした。心を「盗まれた」アラム・チクチャンは気絶していた。

「これからこの人の患部に念を送ります。数秒ですが、私は無防備になります。」

 バスコ医師は彼女が求めていることを理解した。

「わかりました。私は微力ですが、この部屋に結界を張ります。」

 


2022/10/05

第8部 チクチャン     16

  ”ヴェルデ・シエロ”が「電話では伝えられない」と言う場合は、十中八九”ヴェルデ・シエロ”に関係している事案だ。ケツァル少佐は二つ返事で、「行きます」と答え、電話を切った。そしてフロアに残っている職員達に「また明日!」と声をかけて階段を駆け降りた。駐車場に着いて、車に乗り込んでから、思い出してテオにメールを入れておいた。

ーーバスコの診療所に呼ばれました。

 それだけだ。そして車を出した。バスコ医師と”ヴェルデ・ティエラ”の夫が経営する診療所はグラダ・シティの庶民が暮らす住宅地の中にある。大きな病院に行けない患者の為に簡単な手術もやってのけるクリニックだ。少佐が駐車場に車を乗り付けると、その日の診療は終わったばかりで、最後の患者が数人出て来た。看護師はまだ中にいるのだろう。少佐は医師が「すぐ」と言ったので、待たずに中へ入った。客が来ることを教えられていたのか、受付の女性が奥に向かって声を掛けた。

「ドクトラ、お客さんです!」

 パタパタと足音がして、白衣のままのピア・バスコが出て来た。考古学教授フィデル・ケサダと同級生だった筈だが、苦労が多い人生を送ったせいで、ケサダ教授より老けて見える。彼女は双子の息子の1人を酷い形で失ったので、尚更老け込んで見えた。しかし、その目はまだ彼女のこの世での役割をこなしていこうとする力を失っておらず、輝いて見えた。

「よく来てくださいました!」

 ピア・バスコはケツァル少佐の手を両手で握った。一族の正式な挨拶を忘れている様だ。少佐は気にしなかった。視線が合った。バスコが伝えてきた。

ーー怪我人です。一族の者ですが、訳ありらしく、他の病院へ行けないらしいのです。

 怪我の手当てだけなら、バスコ1人で解決出来ただろう。しかし、訳あり患者は何か外に出られない理由があるのだ。そして診療所には、バスコの一般人の夫や家政婦や、看護師がいる。入院が必要な患者も1人抱えていた。バスコは彼等を彼女1人で訳あり患者から守る自信がなくて、ケツァル少佐を呼んだのだ。息子ビダル・バスコ少尉は本部勤務があるから来てくれない。
 ケツァル少佐は言葉で尋ねた。

「怪我人に面会出来ますか?」
「スィ。」

 バスコ医師は受付の女性と看護師に「片付けが終わったら帰りなさい」と言いつけて、それからケツァル少佐を奥の処置室へ案内した。バスコ医師の夫(正式には結婚していない)がベッドに横たわった男性の体に薄い上掛けを掛けてやるところだった。彼は優しく患者に話しかけた。

「今夜はここで泊まっていきなさい。後は妻が見てくれるから。」

 彼は外傷の縫合を行った様だ。ケツァル少佐は男の腕に巻かれた包帯を見た。それから上掛けで隠れてしまった胴体に視線を移した。さっきチラリと見えたのは、爆裂波の傷ではないだろうか? バスコの夫は妻が連れて来た女性に気が付かずにベッドから離れた。バスコ医師は夫に”幻視”を掛けて少佐が見えない様に思わせたのだ。彼は妻に軽くキスをして、

「君も患者が落ち着いたら休みなさいよ。」

と優しく声を掛けて出て行った。ドアが閉まると、バスコ医師が静かにドアに施錠した。

「両腕に刃物傷、防御創です。」

 彼女は両腕を己の顔の前に上げて見せた。そして脇腹を顎で指した。

「爆裂波による内臓損傷です。傷は私の力で治せましたが、呪いを祓うことが出来ません。」

 ケツァル少佐は頷いた。”ヴェルデ・シエロ”の爆裂波による傷は細胞の損傷を完全に治すことが難しい。特殊な技術を習得した指導師と呼ばれる有資格者でなければ、崩れた細胞の修復は不可能だった。
 バスコ医師が上掛けをめくって、患者の患部を見せた。右脇腹が腫れ上がっていた。肝臓のあたりだ。恐らく部分的に肝臓の細胞を破壊されたのだろう。放置すれば2、3日の内に死に至る。
 患者は若い男だった。年齢は20そこそこと見えた。土色の顔をして浅い呼吸をしていたが、意識はあるようだ。ケツァル少佐がそばに行くと、目を少しだけ開いて、彼女を見た。しかし彼女の目は見なかった。

「聞こえるか?」

と少佐が尋ねると、わずかに首を動かして、肯定した。

「一族の者か?」

 今度は首を左右に小さく振った。しかしバスコ医師が囁いた。

「彼は”心話”を使いました。私に傷の位置を教えてくれたのです。」

 若者は先住民に見えた。一族でないと言いながら”心話”を使ったのであれば、一族の血を引く異種族ミックスだ。かなり血の薄い・・・。少佐は試しに訊いてみた。

「チクチャンか?」

 若者が目を見張った。図星か、と少佐は思った。


 

第8部 チクチャン     15

  その日の夕方、ケツァル少佐は胸の内のモヤモヤ感を拭えないまま帰り支度をしていた。朝業務を始めて直ぐに司令部から呼び出しがあった。急いで本部に出頭すると、副司令官の1人エステバン中佐から、アーバル・スァットの盗難捜査はどの程度進んでいるのかと訊かれた。素直に進捗状況を口頭で報告すると、中佐は申し訳なさそうな顔をして言ったのだ。

「盗難の実行犯を逮捕したら、直ぐに本部へ引き渡せ。それ以上の追求は文化保護担当部の管轄から離れる。」

 少佐はムッとして、上官に逆らうのは御法度なのだが、思わず質問した。

「理由をお聞かせ願えないでしょうか?」

 それに対して、中佐は彼女の目を真っ直ぐ見て答えた。

「ある部族の政治の問題だ。彼等自身で解決させなければならない。他部族の介入は許されぬ。但し、他所に飛び火したり、一族の秘密に関わる様な大事になりそうな場合は、大統領警護隊が動かねばならぬ。」

 それ以上は決して教えてくれない。少佐は理解して、了承した。敬礼して本部を後にしたのだった。 
 オフィスでの業務は普段通りだった。カルロ・ステファン大尉がいなくなったので、隣の遺跡・文化財担当課の職員達ががっかりしていたが、昼前にはもういつもの生活に戻っていた。デネロス少尉とギャラガ少尉が申請書を整理して審査し、アスルが警備の規模を想定し、ロホが予算を組む。少佐がそれを承認
するのだ。事務仕事をしながらも、銘々が盗難捜査のことを心のどこかで考えていることを少佐は気がついていた。彼等に司令部が介入してきたことを告げるのは気が重かった。昼休みに思い切って打ち明けると、予想通り、アスルとデネロスが露骨に不満を漏らした。ただの神様の盗難でないことを知っているから、尚更だ。事件の根底を調べたいのに、それは駄目だと言われたのだ。

「要するに、ただのダム建設に関する恨みじゃなかったってことですね?」
「関係者が多いってことですか?」
「一族の偉いさんも関わっているんですね?」

 少佐はノーコメントで押し通した。ロホが同情的な眼差しで見ているのを感じたが、彼女は”心話”を避けた。今”心話”を許可したら、司令部に対する不満までぶちまけそうだ。
 ギャラガがのんびりと呟いた。

「でも、例の警備員が回復に向かっていることは救いですよ。」

 それで、やっと部下達の関心が、ロホの身内が行った施術に方向転換され、少佐は救われた気分になった。
 なんとか一日を乗り切り、少佐は帰り支度をしているのだ。デネロス少尉はお使いに出てそのまま官舎へ帰還すると言って少し前にオフィスを出た。ギャラガ少尉とアスルは久しぶりにサッカーの練習場へ行く約束を交わし、早めの夕食の為にさっさと退勤した。ロホは財務課へ出かけていた。そのまま退勤する筈だから、オフィスに最後まで残ったのは少佐だけだった。彼女が鞄を手にした時、オフィスの電話が鳴った。遺跡・文化財担当課の職員が電話に出て、それから少佐を振り返った。

「少佐、お電話です。医者のバスコさんと言う方から・・・」
「バスコ?」

 少佐は少し考え、大統領警護隊警備班の若者の顔を思い出した。職員に「グラシャス」と声をかけて、電話に出た。

「ケツァル・ミゲール少佐・・・」
ーーピア・バスコです。

 女性の声が聞こえた。バスコ少尉の母親で町医者をしているアフリカ系の”ヴェルデ・シエロ”の女性だ。

「ドクトラ・バスコ、お元気ですか?」

 形通りの挨拶をすると、医者は答えずに直ぐに要件に入った。

ーーもし宜しければ、診療所にすぐきていただけますか? 電話では伝えられない事態です。


2022/10/04

第8部 チクチャン     14

 「ムリリョ博士が他の”砂の民”同様に手下を国中に配していることはわかります。彼はそう言う手下達から情報を集めるのでしょう。でも、貴方はどうして色々なことをご存知なのです? 貴方も手下をお持ちなのですか?」

 テオが疑問をぶつけると、ケサダ教授はコーヒーを飲み干してから、彼を見た。

「私は”砂の民”ではありませんし、そんな手下を持つ様な地位にもいません。ただ、教え子は結構な人数です。彼等は少しでも考古学に関係しそうな物を見つけると、直ぐに互いに連絡を取り合います。当然ながら私にも知らせてくれます。彼等の中には”シエロ”もいます。その子達は、一族の安全に関わることだと判断すれば、私を含めた同胞全体に注意喚起を行なってくれます。私の義父が何者かなんて若い子達は知りません。ただ、一族の中の暗黙の了解で、誰かに注意喚起すれば、必ずどこかで長老や族長に伝わるだろうと言う考えがあるのです。ですから、嘘、デマは厳禁です。教え子でなくても、私は発掘や調査で全国に出張しますし、滞在先で知り合いや友人が出来ます。その中にも一族の人がいます。ですから、私が今回のことを知っていても、仲間は不思議に思わないのですよ。」

 テオは、彼が教授がマスケゴ族の選挙のことを知っている理由を考えた時に、ケツァル少佐が「聞こえてしまったのでしょう」と言ったことを思い出した。あの時は意味がわからなかったが、そう言うことだったのか。

「選挙の件はまだ他の部族には知られていないのですよね?」
「まだ知られていませんね。だから大統領警護隊に知って欲しかったのです。呪術を悪用して選挙活動を有利に進めようと画策している派閥がいることや、一般人を爆裂波で傷つけた大罪を犯した人間がいることや、”砂の民”達が動き出したことを、エステベス大佐に知らせておくべきだと思いました。」

 テオはとても懐かしい名前を聞いた気がした。

「エステベス大佐?」
「大統領警護隊の総司令官です。」

とケサダ教授は答えて、それからフッと小さく笑った。

「副司令官以外の隊員は誰も面会したことがないので有名ですがね。」
「誰も会ったことがないのですか?」
「どこかで会っているのかも知れませんが・・・」

 教授は壁の古い掛け時計をチラリと見た。そろそろ午後の授業が始まる時間だった。

「大統領警護隊の直接の司令業務は全て2人の副司令官によって出されるのです。ああ・・・」

 彼は苦笑した。

「これは、私がケツァルやステファン達教え子から聞いた話ですよ。一般の”シエロ”は大統領警護隊の司令官や副司令官の名前も顔も知りませんからね。」

 テオは長老会の幹部達に会った時のことを思い出した。老人達は男女関係なくお揃いの衣装を身に纏い、仮面を被って顔を隠していた。

「長老会の偉い人達は会っているんじゃないですか?」
「義父からは聞いたこともありません。」

と教授は惚けた。

「それに上のことを知ると、後がややこしいですからね。私は地面を掘って、昔の壁や祭壇を見つめて、古代に何が行われたのか、何が起きたのか考えるだけです。」

 テオは、大人しく顕微鏡を眺めていろと言われた様な気がした。

「因みに、選挙で候補を立てているのは何家族ですか?」

 訊いて良いのかどうかわからないが、訊いてみた。教授は肩をすくめただけだった。

 

第8部 チクチャン     13

  考古学部は静かだ。学生達はそれぞれの研究テーマに沿ってグラダ・シティ近郊の遺跡や資料館、博物館へ出かけていることが多い。学内にいる時も図書館にいる。教室に出ているのは新入生ぐらいだ。教授陣もどこにいるのか所在を掴めないことが多い。テオは現在ンゲマ准教授が遺跡にいるのか学内にいるのかさえ知らなかった。その師であるケサダ教授は昨夜西サン・ペドロ通りに出没したが、今日はどうだろう?
 テオは人文学舎の入り口でケサダ教授に電話をかけてみた。教授は直ぐに出てくれた。研究室にいると言うので、面会を求めると二つ返事で許可してくれた。テオが来ることを予想していたのかも知れない。テオは手土産がなかったので、コーヒーを2つ買って持って行った。
 ケサダ教授は部屋の中に折り畳みビーチチェアを広げて、その上で寛いでいた。テオがシエスタの邪魔をしたことを詫びると、笑った。

「あまり長い時間昼寝をすると、起きるのが億劫になるので、ちょうど良いタイミングで起こして頂いたんですよ。」

 多分、自宅では赤ん坊が泣いて、安眠が難しいのかも知れない。テオが持ってきたコーヒーに感謝して、彼は上体を起こした。そしてコーヒーを一口啜ってから言った。

「昨夜のことを話しにこられたのでしょう?」
「スィ。カルロが司令部に伝えて、司令部がケツァル少佐に何か指示したらしく、彼女が不機嫌になって俺に電話して来ました。しかし、俺は何も答えられない。何も知りませんから。」

 教授がニヤッと笑った。

「本当に何もご存じない?」
「・・・と仰ると?」
「今朝、マスケゴにお会いになったでしょう?」

 全く油断も隙もない。この教授はどんな情報網を持っているのだ、とテオは呆れた。

「建設省に手下でもお持ちですか?」

とかまをかけると、教授は頷いた。

「教え子が職員の中にいますから、時々私に面白い情報を提供してくれます。教え子も大臣の私設秘書が一族の人間だと知っていますからね。あの男は有名人です。」
「では・・・」

 テオは苦笑した。

「有名過ぎるので、対立候補が彼に支持されると自分達に勝ち目がないと考えた人が、彼の注意を神像盗難に向けておきたくて、アーバル・スァット様を彼に送りつけたと?」
「私はそう考えています。だが、その行為は”砂の民”を刺激する。現にシショカは動き出したし、ムリリョ博士も部下に指図を出しました。貴方とデネロスが彼を訪問したでしょう?」
「ああ・・・」

 テオは”ヴェルデ・シエロ”達が神像を邪な考えで利用した不届き者を探し始めているのだと悟った。捜索者は文化保護担当部だけでなくなっていたのだ。だから、教授はステファンに警告を与えた。下手に文化保護担当部が動くと”砂の民”とぶつかる恐れがあると。それ故に大統領警護隊司令部に動いて欲しい、と。

「ケツァルは上官から説得されたか、あるいは指示内容に納得いかずにこれから司令部に押しかけるか、どちらかでしょう。今夕、貴方と会う時に、彼女がどんな考えを持っているか、知りたいものです。」

 テオはケサダ教授も案外好奇心の強い人だ、と思った。



2022/10/03

第8部 チクチャン     12

  昼食を学内のカフェで済ませたテオが、シエスタの為に大学の中庭の木陰で芝生の上にスペースを見つけ、寝転がっていると、ケツァル少佐から電話がかかって来た。彼が出るなり、彼女が厳しい口調で質問して来た。

ーー昨夜、カルロからケサダ教授の情報の内容を聞きましたか?

 恐らく司令部から神像盗難の調査について何らかの命令が下ったのだ。少佐はそれに不満で、彼女の様子を見たデネロス少尉かギャラガ少尉が、車に乗る前にカルロ・ステファン大尉がケサダ教授に待ち伏せされたことを告げたに違いない。ステファンは情報の内容を誰にも教えなかったが、嬉しい知らせを受けた訳ではない、と少尉達は感じた。そして大統領警護隊本部の通用門で少尉達が降車した後、ステファンは直ぐに続いたのでなかった。テオと何か話をしていたことを彼等は知っていた。
 テオは溜め息をついた。

「司令部から君に指示が下る迄、何も言うなとカルロに言われたんだ。指示が出たんだね?」

 少佐は直ぐには答えなかった。テオは彼女に内緒にしていたことを、彼女が怒ったのだと思った。

「少佐?」
ーー貴方を巻き込みたくありません。

と少佐が言った。

ーーだから、本当はカルロが貴方に情報を告げたのは間違いです。

 少佐はマスケゴ族の選挙の情報を司令部から聞かされたのだ。だから、テオがその政争に巻き込まれはしないかと心配していた。だが、テオはもうその政争の端っこに足を踏み入れてしまった。

「カルロを責めないでくれ。彼はほんのちょっぴり喋っただけだ。選挙があるってだけだよ。それで捜査権が文化保護担当部から他所の部署に移るかも知れないって、それだけ教えてくれたんだ。」

 また数秒間黙ってから、少佐が尋ねた。

ーー本当にそれだけですか?
「誓って、それだけだ。」
ーー人の名前とか、組織の名前とか聞いていませんか?
「聞いていない。」

 微かに安堵の溜め息が聞こえた。だから、テオは緊張を和らげる為に言った。

「カルロだってそんなに口が軽い訳じゃない。遊撃班の副指揮官なんだから。」
ーー彼は貴方を信頼していますから・・・

 少佐がちょっぴり嫉妬の響きを声に混ぜて言った。ステファンがテオに告げて彼女に黙っていたことが許せないのだろう。それを言うなら・・・

「元凶はケサダ教授だ。彼がカルロではなく君に伝えてくれたら良かったんだ。」
ーー男性が夜に女性の家を訪ねる訳にいかないでしょう。

 時々”ヴェルデ・シエロ”は変に礼儀作法にこだわる。

「それじゃ、彼はカルロじゃなくロホやアスルでも良かったってか?」
ーー恐らく。

 少佐は怒りが収まって来たのか、声のトーンが下がって来た。

ーーもしあの場でデネロスか私しかいなければ、女性でも良かったかも知れませんけど。
「だけど、ムリリョ家やシメネス家が関わっていないなら、どうして彼が首を突っ込むんだ?」
ーーそれは・・・

 少佐がフッと笑った。

ーー聞こえてしまったからでしょう。本人に訊いてみてはいかがです?

 そして彼女は話題を変えた。

ーー今夜は普段通りに帰ります。貴方は?
「俺も普通に帰るが・・・?」
ーーでは、今夜。

 少佐は唐突に電話を終えた。
 テオは携帯電話を眺め、それから人文学舎を見た。ケサダ教授とじっくり話し合ってみたかった。

第11部  紅い水晶     9

 ”ヴェルデ・シエロ”と付き合うと、その物事への周りくどい対処の仕方や、やたらと遠回しな表現とかで苛々させられることが度々ある。ケツァル少佐は生粋の”ヴェルデ・シエロ”で、生まれながら大ピラミッドのママコナ(巫女)からテレパシーで一族の作法を教わったが、育て親は殆ど普通の人間に等...