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2021/06/16

記憶喪失の男 20

  ミカエルは引き止めようとしたダブスンを振り切って別館の外へ駆け出した。

「少佐!!」

 大声で叫びながら走った。本館の2階、庭に面した一角の窓が吹き飛んでガラスが地面に散乱していた。カーテンが引きちぎれた状態で風にたなびき、すぐ後で気がついたが1階ホールの窓のカーテンも全部風で揺れていた。
 庭にいたアンゲルス邸の私兵達が腰を抜かした状態で地面に這いつくばっている中を、彼は全力疾走した。
 玄関に駆け込むと、中央階段をロホがゆっくりと降りて来るところだった。両手で大きな麻袋を支えながら、先住民の言葉で何やらブツブツ言っていた。麻袋の口は紐でしっかりと縛られており、袋は中に何か生き物が入っているらしく、膨らんでいて、ピクピク動いていた。
 ミカエルは階段の下で立ち止まり、2階を見上げた。

「ロホ中尉、少佐は・・・」
「すぐに降りて来られる。」

 ホールの中に風が吹いていた。あんなに重苦しかった空気が清浄になり、気持ちが悪かった雰囲気が消えていた。建物の中が明るくなった感じだ。
 階段の上にケツァル少佐が姿を現した。片手に石像を掴み、少し疲れた表情で降りてきた。ミカエルは石像を見た。ネズミには見えなかった。背中に小さな突起がある動物の様な形の何かだ。

「それが、神様?」

 ミカエルの質問に、少佐が小さく頷いた。

「スィ。雨を降らせて下さる有り難い神様です。」

 それなのに、彼女は無造作に神像を片手で掴んでいるだけだった。ミカエルはロホが持っている麻袋を見た。袋の中の物がピクピク動いている。

「それは?」
「神様の荒魂。」

 ケツァル少佐はそれ以上口を利くのが億劫な感じで、建物の外に出た。そのままジープに向かって歩く。別館から出ていたアスルが素早くジープへ駆け寄り、ドアを開けて上官を迎えた。少佐は大儀そうにジープに乗り込んだ。ロホが彼女の横に麻袋を置いた。彼も疲れているのか、アスルにジープのキーを投げ渡した。ミカエルがジープに近づくと、ダブスンがテオと呼んだ。

「何処へ行くの? 貴方は家に帰るのよ!」

 少佐が彼を見たので、彼は言った。

「あんな女、知らない。」

 ところが、少佐はこう言った。

「家に帰りなさい。」
「嫌だ。」
「我々はこれからネズミの神様を元の遺跡に返しに行きます。外国人を連れて行く訳にはいきません。」
「俺は、エル・ティティに帰る。」
「その前に、やるべきことがあるでしょう。ご自分が何者なのか、はっきりさせて、それでもこの国を選ぶ覚悟がおありなら、戻って来ればよろしい。」

 アスルがジープのエンジンをかけた。少佐が言った。

「アスタ・ルエゴ。」(またね)

 ロホも言った。

「ケ・テ・バジャ・ムイ・ビエン。」(貴方に良いことがありますように)

 アスルがクラクションを鳴らし、ジープはアンゲルス邸から走り去った。
 遠ざかって行く砂埃の塊を、ミカエルは呆然と見つめていた。

記憶喪失の男 19

  ミカエルとアスルがバルデスに案内されて別館に入ると、ホールの奥で立っている女性がいた。ブルネットの髪の少し太り気味の白人で、高級なスーツを着ていた。彼女はミカエルを見るなり、非難めいた口調で話しかけて来た。

「今迄何処に隠れていたのよ! 皆んなにどれだけ心配かけたか、わからないの!」

 英語だ。英語は理解出来た。理解出来ないのは、彼女が喋っている内容だ。ミカエルは困惑してバルデスを見た。バルデスが説明した。

「昨日、あんたがロス・パハロス・ヴェルデスと一緒に行ってしまった後で、ドクトラ・ダブスンに連絡を入れたんだ。また逃げられちゃ困るからな。朝一番に米軍のヘリでやって来たよ。」

 ミカエルはドクトラ・ダブスンなる人物を眺めた。金持ちらしいが、医者には見えない。ダブスンが近づいてきた。

「さぁ、一緒に帰るのよ。」
「何処へ?」

 ミカエルは本能的に彼女と行くのは嫌だと感じた。俺はこの女が嫌いだ。この女と一緒にしていたことも嫌いだ。この女と一緒に働いていた場所も嫌いだ。そこにいる”人々”も嫌いだ。ダブスンが苛々した表情で言った。

「家に帰るの! 貴方が生まれた研究所よ!」
「研究所?」
「そうよ。貴方はアメリカ政府が開発した組み替え遺伝子の・・・」

 ダブスンはそこで不意に言語を別のものに切り替えた。

「組み替え遺伝子の研究所の主要研究者なのよ。勝手な行動は国家反逆罪に問われるわ。既に2ヶ月も研究を放置したまま行方を晦ませて、上の方から怪しまれているの。貴方が反米国家に寝返ったのかと。」

 彼女はドイツ語で喋っている、とミカエルはぼんやり思った。俺はドイツ語も出来るんだ。北米の人間だったら、母語は英語だ。だけどスペイン語だって普通に話せる。
 バルデスとアスルを見ると、2人は彼とダブスンのやりとりを興味津々で見物していた。バルデスがアスルに尋ねた。

「何語を喋っているか、わかりますか?」
「海の向こうの言葉だろう。」

とアスル。

「あの女は彼の親族か?」
「違いますよ。所謂ビジネスパートナーってヤツです。」
「随分偉そうに喋っている。」
「彼女はいつもあんな調子です。ドクトル・アルストが逃げ出したくなるのもわかる。」
「ドクトル・アルスト?」
「貴方がたが、ミカエル・アンゲルスって呼んでいる、その男の名前です。テオドール・アルスト、英語じゃシオドア・ハーストです。ご存知なかったんで?」
「彼は思い出を忘れたと言っている。」

 バルデスがアスルを振り返った。その表情を見て、彼の驚きが本物だとアスルは知った。バルデスが確認した。

「本当に記憶喪失なんですか?」
「彼がそう言っている。」

 ミカエルはダブスンとのズレた会話に嫌気がさしてきた。ダブスンはしきりと彼がアメリカ政府お抱えの遺伝子学者で、軍の機密に関係する研究をしている重要人物だから早く帰国して仕事の続きに取り掛かるべきだと主張していた。ミカエルが2ヶ月間行方不明になっていた理由も、元気にしていたのかと案じることも、何一つ個人的なことは訊かなかった。ミカエルも彼女にエル・ティティの町の親切な人々の話を聞かせたくなかった。
 本名と職業はわかった。お尋ね者ではないらしいが、探している人間はいた。この女は俺を北の国へ連れて帰ろうとしている。しかし、俺は嫌だ。

「もう黙ってくれないか!」

 ミカエルは思わずダブスンに怒鳴りつけた。

「俺はこの国での暮らしが好きなんだ。ここへ何をしに来たのか、思い出せないが、ここに今の俺の暮らしがあるんだ。あんたなんか知らないし、遺伝子とか、研究とか、機密事項とか、そんなの知ったこっちゃないんだ。俺はここに残る。ほっといてくれ!」

 興奮していたのか、ドイツ語から英語、スペイン語を使っていた。自分では気づかなかった。ダブスンは、スペイン語が苦手らしかった。

「何? 今なんて言ったの、テオ。英語で言いなさい!」

 その時、本館の方角から物凄い爆発音が響いた。


記憶喪失の男 18

  ケツァル少佐と中尉のロホは本館に入った。ホールの全ての窓が開放されているにも関わらず、屋内の空気は全く動かず、酷く重たく肌にまとわりつく感じがした。少佐は前日に入っているが、ロホは初めてだ。彼はライフルを持っておらず、拳銃と軍用ナイフを装備していたが、実際に手に持っているのは大きな麻袋1つだけだった。少佐も武器はロホと同じだったが、こちらは手ぶらだった。2人は迷わずに真っ直ぐホール中央の階段を駆け上がった。
 2階の半円形の回廊はホール側の壁がないにも関わらず、空気の重たさが1階以上で、ロホが一瞬戸惑うかの様に足を止めた。少佐は気に留めずに、回廊の反対側に並ぶ扉を一枚ずつ眺めながら、慎重に歩を進めた。ロホは遅れまいと彼女に続いた。
 一番立派な装飾を施した木製の扉の前で少佐が足を止めた。そっと手を伸ばして扉に触れ、急いで引っ込めた。
 ここだ。
 無言の了解が2人の間で交わされた。少佐が少し退がり、ロホが扉の前に立った。前を向いたまま、後ろの少佐に麻袋を預けた。両手を広げて前に突き出し、深く息を吸い込み、一気に吐き出した。
 扉が勢いよく内側に開いた。ドッと風が吹き出し、再び閉じられようとする扉を、ケツァル少佐が跳び込んで止めた。ロホが室内に入ろうとしたが、彼の体は何かグニャグニャしたものに阻まれ、廊下から中へ一歩も進めなかった。ロホが少佐に彼等の先祖の言葉で言った。

「進めません。」

 少佐が彼に麻袋を投げて返した。麻袋は部屋の中から吹く風に吹き飛ばされる様に空中を流れ、ロホの手に捕まえられた。ロホは袋の口を部屋に向けて開き、少佐に問いかけた。

「追えますか?」
「やってみます。」

 少佐は扉に手を掛け、一言「動くな」と言った。扉は風に逆らいながら開いたままだ。扉が動かないことを確認して、少佐は部屋の中央に置かれた豪華なベッドに向かって歩き始めた。ベッドサイドの棚に小さな石の塊が立っている。風はそこから吹いていた。気を緩めると吹き倒されそうな勢いだ。少佐の一歩は慎重だった。獲物に忍び寄るジャガーの様に、相手の出方を伺いながら一歩ずつ前進した。
 突然石像から顔が浮かび上がった。目を吊り上げ、牙のある口を大きく開いて彼女に向かってきた。シャーッと少佐がジャガーが敵を威嚇する様な声を上げた。石像から飛び出した顔は、また石像に引っ込んだ。だが風はまだ吹いている。少佐がちょっと顔を顰めた。さっきのヤツは石像に追い込んではいけないのだ。神様の怒りの部分は追い出さなければ、石像を回収出来ない。
 ロホは少佐が拳銃のホルスターを外し、ベルトを外し始めたので、困った。見てはいけないことを彼女は始めようとしている。しかし、彼はこの場から視線を逸らすことを許されていない。少佐が軍の認識票を首から外したので、彼女がこれからすることはもう間違いない、と彼は観念した。
 彼は確実に獲物が入るよう、袋の口をネズミの神像に向けて全身全霊で身構えた。

記憶喪失の男 17

  夢を見た。広い部屋、窓のない部屋に机が並び、それぞれにデスクトップのコンピューターが載っている。机の前に子供達が座ってキーボードを叩いている。その中に彼もいる。画面には文字がぎっしり映し出されている。彼はそれに手を加えて別のコマンドを作成している。隣の席の女の子が彼の画面を横から眺め囁いた。

「・・・を構築したらどうかな?」

 何を構築するって? 尋ねようとしてそこで目が覚めた。ミカエルの頭から部屋の詳細が消え去った。残ったのは、大勢の子供とコンピューターと・・・隣は誰だっけ?
 ミカエルは共同トイレに行って冷たい水で顔を洗い、口をゆすいだ。昨晩洗っておいたシャツはなんとか乾いていたので、それを着ると少し冷んやりした。階下へ降りた。リコはもういない。あんまりバルデスの報復を恐れるので、昨夜ケツァル少佐に彼の保護を頼んだら、基地の下働きでもさせようとジープに乗せて連れて行ってしまった。リコ本人は大統領警護隊と並んで座ることも怖がっていたが。
 ホテルの部屋の鍵を返して、近所の早起きのパン屋で揚げパンを買って朝食にした。街は既に活動を始めていて、通りは賑やかだ。大統領警護隊のジープがやって来たので、ミカエルは昨日同様少佐の隣に座った。彼の朝の挨拶に対し、ロホは返してくれたが、アスルは無視した。昨夜のご馳走の礼を言っても少佐は頷いただけだ。リコはどうなったかと尋ねたら、アスルが少佐の代わりに答えた。

「今朝は兵舎の清掃をしていた。」

 早速こき使われているらしい。ミカエル・アンゲルスの組織がどこまでオルガ・グランデの街に支配力を持っているか知らないが、大統領警護隊が基地に保護した男に手を出す馬鹿な真似はしないだろう。まともな仕事をして来なかったリコが、基地で規則正しく働いて少額と言えども給料をもらえるのだ。寝る場所も食べ物も与えられる。基地から出ない限り、あの男は安全だ、とミカエルは信じることにした。
 アンゲルスの屋敷の門は閉じられていた。昨日同様門衛が小屋から出て来た。アスルが片手を前に突き出すと、彼等は大人しく銃を下げ、門扉を開いた。ジープが屋敷内に進入すると、当然ながらアンゲルスの私兵達が別館から出てきた。やっぱり本館には誰も入らないのだ、とミカエルは確信した。
 本館の玄関前に停車したジープの側へアントニオ・バルデスが近付いて来た。

「ブエノス・ディアス、ドクトル。」

 バルデスが失礼なことに少佐を無視してミカエルに挨拶した。そしてアスルにも言った。

「ブエノス・ディアス、少尉。」

 アスルが降車したので、ミカエルも続いた。少佐と運転席のロホは動かない。
 ミカエルは朝の挨拶を返してから、バルデスの注意を惹きつける言葉を探した。

「昨日、お宅の女中を見舞ったんだ。」
「ほう?」

 アスルがミカエルに別館へ歩けと手で合図した。ミカエルが歩き出すと、バルデスもボディガード達も歩き始めた。アスルはミカエルを挟んでバルデスの反対側に位置を取った。
 ミカエルは背後で少佐とロホがジープから出るのを感じたが、バルデス達はそちらに注意を向けようともしない。ミカエルは話を続けた。

「マリア・アルメイダはインフルエンザが重症化しかけていた。でもケツァル少佐が紹介してくれた医者に抗生剤を打ってもらったし、薬も飲ませたから、数日経てば元気を取り戻す筈だ。その時は、また雇ってやってくれないか?」
「勿論です。」

 と答え、バルデスは疑い深い目でミカエルを見た。

「彼女はインフルエンザだったのですな?」
「スィ。なんとか子供に移さずに済んで良かったよ。年寄りのお母さんもいるしね。職場で他に罹った人はいるかい?」
「ノ・・・私は聞いてませんな。」

 バルデスは怖いものを見る目でミカエルの向こう側を歩いているアスルをそっと見遣った。ミカエルはリコにそうしてやった様に、マリア・アルメイダの安全保障もしておくことにした。

「ケツァル少佐は助けた女中の今後が気になる様だから、これからちょくちょく様子を伺いに来るかも知れないね。彼女がまた病気になったり怪我をしたら、きっと悲しむだろう。」
「当家では使用人の健康管理に気をつけています。アルメイダは元気になったら別館の担当に替えて、子供の養育手当も付けましょう。」

 バルデスが保証した。それで良いか、とアスルをそっと見る。ミカエルはアスルが鼻先で微かに笑うのを見たが、見なかったふりをした。

「朝食の用意をさせましょう。それまで、カード遊びでも如何です?」

 すると今迄無口だったアスルが初めてバルデスに顔を向けた。

「誰に向かって言っている? 俺は勤務中だぞ。」
「しかし・・・」

 バルデスがハンカチを出して額を拭った。

「基地にいらっしゃる将校さん達はお好きですよ。」

 ミカエルはアスルが舌打ちするのを聞いて、ちょっと可笑しく感じた。バルデスが慌てて言い足した。

「誰でも息抜きは必要です、少尉。基地の方は非番の日に街のカジノで遊んでおられるだけです。」

 そのカジノは誰の経営なんだ? とミカエルは心の中で呟いた。

2021/06/15

記憶喪失の男 16

 「貴方は不思議な人ですね、セニョール。」

とケツァル少佐が言った。

「普通の人はアルメイダの様に生気を吸い取られて体の不調を訴えるか、バルデスの様に邪気を感じて本能的に近づかないものです。でも彼等は石像を見ているだけで、神様の力は見えません。ところが、貴方はネズミの邪気が見えた。アルメイダのそばに寄っても平気だった。」

 彼女が尋ねた。

「貴方は何者ですか?」
「それは俺も知りたい。」

 そして、君達こそ何者なんだい? とミカエルは心の中で尋ねた。一見只の兵士の様に見えて、住民達から畏敬の念を持って見られている。軍人がどうして悪霊祓いなんかしているんだ? それも軍務なのか? 
 少佐がウェイターを呼んだ。

「お勘定。」

 ウェイターが頷いてカウンターへ向かった。ミカエルはちょっと申し訳ない気分になった。

「本当は男の俺が払うべきだろうな。」
「気にしないで下さい。私は文無しから奢ってもらおうなどと考えておりません。」

 ウェイターが伝票を持って戻ってきた。少佐がカードを出すとウェイターも携帯チェッカーを出して支払いが行われた。少佐はカードを小さなポシェットに仕舞い、ウェイターにチップを渡した。
 ミカエルと少佐はレストランを出た。出入り口に立っていたアスルが2人の背からついて来た。食事中もずっと立ち番をしていたのだ。仕事とは言え、ご苦労なことだ、とミカエルは思った。多分、昔もこう言う護衛が付いていた。護衛が何時間でも待っているのが当然だと思っていた。労ってやったことなど一度もなかった。
 3人が駐車場に行くと、ロホが読んでいた雑誌をダッシュボードに仕舞い込んだ。ミカエルはそれを見て、思わず駐車場の街灯を探した。街灯は場外の道路より短い間隔で設置されており、明るかったが、雑誌や新聞の文字を読めるほどの明るさではなかった。だが、ロホは確かに読んでいた。
 見えるのか? この暗い場所で?
 アスルが先回りして少佐の為に車のドアを開けた。彼女が礼を言って乗り込み、ミカエルは反対側に回って自分でドアを開けて乗り込んだ。ロホがジープのエンジンをかけると、少佐が言った。

「明日の朝、もう一度アンゲルス邸に行きます。セニョール、貴方も来て下さい。」
「俺の仕事があるのかい?」
「バルデスは貴方を知っています。彼と話をして彼の注意を惹きつけておいて下さい。その間にロホと私は本館の2階へ行きます。」

 アスルが尋ねた。

「私はどうしましょうか。」
「貴方はこのセニョールと一緒にバルデスを見張っていなさい。バルデスの手下が2階に上がって来ない様に見張るのです。あのネズミの神様は相当お怒りの様です。ロホと私の2人がかりでも持て余すかも知れません。第3者を守る余裕はないでしょう。邪魔をされたくありません。」
「了解しました。」

 夜風が頬を撫でて気持ちが良い。ミカエルはほろ酔い気分もあって、少し踏み込んだ質問をした。

「あのネズミの神様は、いつも人を呪っていたのかな。そんな怖い神様をどうして古代の人々は祀っていたんだろう。」

 するとロホが運転しながら答えた。

「元は呪う神様ではなかったのです。正しい場所から盗まれて邪な人間の手から手へ売り渡されてお怒りなだけです。正しい場所へお戻しすればお怒りは鎮まります。」

 アスルが呟いた。呟き声だったが、ミカエルには聞こえた。

「白人がそんな話を信じる訳がない。」


記憶喪失の男 15

「あれは5ヶ月前のことです。」

とデザートを食べ終えた少佐が言った。

「南東部のジャングルの中にある、まだ未調査の遺跡が荒らされました。正式な調査がなされていなかったので、通報を受けた我々には、遺跡から何が盗まれたのかわかりませんでした。しかし、いくつかの石像物がなくなっていることは痕跡から明らかでした。」
「大統領警護隊がどうして遺跡荒らしを担当するんだい?」
「私は大統領警護隊文化保護担当部に所属しているからです。私の部署の仕事は、遺跡と文化財の保護、考古学者達をゲリラや盗賊から保護することです。文化財の窃盗があれば追跡して盗難品を回収します。」
「犯人も逮捕するんだね。」
「スィ。」
「その遺跡を荒らしたのが、例の写真の女?」
「ノ。荒らしたのは地元の人間でした。通報して来た男です。」
「はぁ? 自首したのか?」
「自首と言うより、救援を求めて来たのです。」

 少佐はウェイターを呼び止めて、コーヒーのお代わりを要求した。ミカエルは考えた。

「救援って・・・遺跡荒らしが何か困ったことに巻き込まれたのか?」
「今朝、アルメイダを見たでしょう。」

 少佐は自明のことを訊くなと言う風に言った。ミカエルはハンモックに横たわって今にも死にそうな衰弱した女を思い起こした。

「遺跡を荒らしたヤツも彼女と同じ目に遭ったのか?」
「即効で。アルメイダはそばを歩いただけだったので症状が悪化するのに一月かかりましたが、遺跡泥棒は1週間で倒れました。彼の村の呪い師が古の神の呪いだと気がついて、大統領警護隊に連絡を遣したのです。」
「ちょっと待って・・・」

 ミカエルは頭が混乱しそうになった。

「古の神の呪い? 呪い師って?」
「この国では今でも原因不明の病気は古い神様の呪いだと信じられています。それを治したり占ったりする仕事をする呪い師が、大抵の村や小さな町にいます。」

 ミカエルは人類学者ではないと言う意識があったが、それでも現代に呪い師が生き残っていることは感覚として理解出来た。医者に懸かるにはお金が懸かるのだ。現金がなくても手に入る現物でお礼が出来れば、呪い師に頼る庶民は多いだろう。

「その呪い師が、手に負えないと思って君に連絡して来たってことか?」
「正確には、呪い師はママコナに助けてもらいたいと大統領警護隊に請願したのです。」
「ママコナって?」

 前にも耳にした単語だ。ケツァル少佐は辛抱強く説明した。

「セルバ共和国の国民だったら誰でも知っていますが、首都グラダ・シティにある”曙のピラミッド”で国家的祭祀を執り行う役目を担っている巫女です。」
「つまり、偉い巫女さんに助けて欲しいと呪い師が言って来たんだね。」

 ミカエルがあっさりと説明を呑んでくれたので、少佐は頷いた。

「スィ。でもママコナはローカルな厄介事の面倒は見ません。」
「ローカルな厄介事を引き受けるのが、君達文化保護担当部な訳だ。」
「まぁ、そう言うことです。」

 少佐は2杯目のコーヒーも飲んでしまった。

「私達は悪魔祓いの様な仕事を専門にしている訳ではありません。仕事の中心は盗まれた文化財を取り戻し、修復保護する事です。泥棒に何を盗んだのか、盗んだ物をどの様に扱ったのか訊く必要がありました。ですから、彼の病気を治してやるのを条件に詳細を聞き出しました。」
「ネックレスで治してやった?」
「彼の場合はロホが作った泥人形に病の元を乗り移らせて砕きました。」
「ロホが泥人形を作った?」
「彼は、呪術師の家系の出です。」

 アサルトライフルを担いだ大統領警護隊の精鋭と呪術師のイメージがミスマッチだ。少佐はそんなことを考えたこともないのだろう。話を続けた。

「泥棒が自供した盗品は、小さな女神像3体とネズミの神像1体でした。彼は盗み出して直ぐにそれらを近くの町の故買屋に売り払っていました。」
「まさか、その故買屋も病気になったんじゃ・・・」

 その答えはケツァル少佐のうんざりした表情を見れば訊くまでもなかった。

「すると、君達は神様の呪いで病気になった連中を辿って、あの写真の女に行き着いたのか。」
「スィ。ロザナ・ロハスはこの国の美術品密輸グループの元締めの1人と言われている女です。」
「彼女も病気になった?」
「その情報はありません。彼女が直接盗品に接触しなければ、彼女自身は無事なのです。恐らくメールやネットで商品を確認して販売しています。だから今回のネズミの神像を彼女は直接触れずにアンゲルスかバルデスに売り払った。」

 少佐はウェイターを呼び、水を注文した。ミカエルもミネラルウォーターを頼んだ。

「ロハスらしき女がオルガ・グランデ行きのバスに乗ったと言う情報を得て追跡したら、エル・ティティの事故で足跡が途絶えました。彼女があの事故で死んだのか、乗らずにまだ生きているのか、今もわかりません。ですが、彼女の口座にお金を振り込んだのがオルガ・グランデのミカエル・アンゲルスであったことは判明しました。それで、彼の名を名乗っている貴方に会いに行ったのですが、貴方は実物より遥かに若いし、記憶を失っている。神像の手がかりは持っていませんでした。」

 ミカエルは運ばれてきた水を飲んで喉を潤した。

「アンゲルスの邸に行ったら、物凄く気持ち悪い感じがした。ネズミの神様があそこにいるんだな。」
「恐らく2、3ヶ月前に郵便か何かでロハスが送ったのでしょう。アルメイダの前任者は気の毒に生気を奪われてしまったと思われます。」
「それじゃ、アンゲルスは? リコから聞いた話では最近は誰も彼を見ていないそうだが・・・」
「恐らく、もうこの世にいないのでしょう。バルデスは組織をまとめる為に彼が生きているかの様に振る舞っていますが、屋敷の2階に上がるのは怖い様です。」
「こうも考えられないか? ネズミの神像の呪いを知ったバルデスが、主人を暗殺して組織の実権を奪う目的で神像をロハスから買い取った。暗殺は成功したが、呪いの力が強過ぎて神像の処分に困っている・・・」

 少佐がミカエルの目を見て、初めて微笑んだ。

「それが正解かも知れませんね。」


記憶喪失の男 14

 ミカエルはシャワーを浴びて全身の汚れを洗い落とした。砂埃を落とすと体が軽くなった気分だ。エル・ティティの町は貧しいが、ゴンザレス署長の小さな家にはお湯が出るシャワーがあったし、町には共同浴場があった。石で出来た蒸し風呂と水の浴槽だ。オルガ・グランデのホテル住まいより清潔でいられた。ミカエルは早くもホームシックになりそうな気がした。このまま身元が判明しないでエル・ティティに帰ることになっても良いや、と言う思いと、否、やっぱり全てはっきりさせて心配することがない状態でエル・ティティに帰るべきだと言う考えが彼の胸を交錯した。
 午後5時きっかりに中尉がジープでやって来た。彼も新しい軍服に着替えているが、野戦服だ。彼はまだベレー帽を被っている。

「お昼のことはすみませんでした。」

と礼儀正しく中尉が急停止を謝った。ミカエルは手を振った。

「いいよ、怪我しなかったんだから。だけど、君は何に驚いたんだい?」

 ハンサムな先住民の若者が、困ったと言いたげな表情をした。

「貴方に”あれ”が見えたからですよ。」
「”あれ”?」

 しかし彼はそれ以上説明してくれなかった。

「少佐がお待ちです。乗って下さい。」

 ミカエルは彼が後部席を指したので、仕方なくルーフレスのジープの後部席に座った。

「君達は何処から来ているんだ?」
「オルガ・グランデ基地です。」
「基地があるのか・・・」
「街からは見えません。西のメサ(丘)の向こうです。飛行場もありますよ。」
「空軍?」
「陸軍と空軍兼用です。北米に比べればチャチな基地ですけどね。」

 中南米の人々は北米を単純に「アメリカ」と呼ぶことを好まない。中南米だって「アメリカ」なのだ。だから、北の国を指す時は必ず「北」を付ける。そして中尉が言った北米は、アメリカ合衆国とカナダを意味するのだろう。

「大統領警護隊は陸軍に属するのかな。」
「陸軍でも空軍でもありません。海軍でもない。」
「独立部隊か。」
「でもいざとなれば3軍を指揮出来ます。」

 へぇ! とミカエルが感心しているうちにジープは、恐らくオルガ・グランデで一番大きなホテルの駐車場へ入った。田舎に不似合いな高級車が並ぶ一角に、ジープが停車した。中尉が何処へ行くべきか教えてくれたので、ミカエルは礼を言って降車した。こんな場合、チップは必要だろうか。しかし中尉は車内でリラックスした姿勢を取り掛けていて、ミカエルがそのまま歩き去っても気にしない様子だ。
 歩きかけてミカエルは振り返った。

「君の名前を教えてもらって良いかな?」

 中尉が雑誌を出して広げながら言った。

「ロホ(赤)と呼んで下さい。相棒はアスル(青)です。」

 勿論本名ではない。だがミカエルも本名ではない。だからミカエルはそれで満足することにした。
 ホテルの野外レストランに歩いて行くと、入り口にアスルと呼ばれた少尉が立っていた。流石にアサルトライフルは持っていなかったが、拳銃を装備していた。近づいて来るミカエルを嫌そうに見て、それからレストランの人間を呼んだ。やって来たウェイターに、ミカエルを少佐のテーブルに案内するよう言いつけた。ミカエルに挨拶をしてくれなかった。それでもミカエルは「ヤァ」と声をかけて、ウェイターに誘導され、店内に入った。
 松明と地面に置かれたライトでムードアップされた店で、プールと植え込みがインテリア代わりになっていた。ケツァル少佐は肌の露出が少ないイブニングドレスを着ていた。それでも胸の豊かさは隠せないな、とミカエルは嬉しかった。化粧も綺麗にしているし、髪も邪魔にならないよう結っている。アクセサリーは小さな耳ピアスだけだった。
 ミカエルは席に着くと、メニューを渡された。エル・ティティでは食べられない高価な料理だが、何を選ぶべきか何となくわかった。ワインも彼の選択を少佐が喜んでくれた。多分、記憶を失う前の俺はこう言う店に頻繁に通っていたんだ、と彼は感じた。

「何か思い出せましたか?」

と少佐が尋ねた。

「ノ。多分、俺はこんな店に行き慣れているとか、あれは食べたことがある、とかそんなどうでも良いことは思い出せるけど、肝心の俺は誰か、何をしていたのか、そう言うことは全くなんだ。」
「焦らずにゆっくり思い出すことです。」
「俺のことよりも・・・」

 ミカエルは用心深く切り出した。

「今朝、俺がアルメイダの家で見たものは何だったんだ?」
「何を見たのです?」

 またはぐらかすつもりなのか。

「俺があれを見たと言ったから、ロホが急ブレーキをかけたんだろ?」
「犬でも跳び出したんじゃないですか。」
「ロホは素直に言ったぜ。俺が”あれ”を見たと言ったから驚いたって。」

 少佐が口の中で「あの正直者」と呟いた。ミカエルが重ねて訊いた。

「あれは何だったんだ? アンゲルスの屋敷の、あの気持ちの悪い空気と関係しているのか?」

 少佐はワインを飲み干してしまい、ウェイターにお代わりを頼んだ。そしてミカエルの目を見た。ミカエルは彼女の美しい黒い瞳を見返した。

「君の目は黒い宝石みたいに綺麗だね。」

 チッと少佐が淑女らしくない舌打ちをして、視線を逸らせた。運ばれてきたワインをまた一口飲んで、彼女は彼に頼んだ。

「これから話すことを口外しないでいただけますか?」
「いいよ。そのつもりで質問しているんだから。」
「では・・・」

 少佐が肉にナイフを入れた。

「先に食べてしまいましょう。軍人は食べられる時に食べておく。」


 
 



 


記憶喪失の男 13

  帰りの車中は静かだった。勿論往路だって静かだったが、帰路は野次馬がついてこなかった。急な下り坂を降りて行くジープにぶつかるまいと人々が跳び退く様をミカエルはぼんやりと見ていた。路面の古い石畳は凹凸が激しく、往路よりも車は大きくバウンドし続けた。しかしハンドルを握る中尉は速度を落とすことなく、一定のスピードで運転を続けた。ミカエルはケツァル少佐に質問したいことがあったが、うっかり口を動かすと舌を噛みそうなので黙っていた。
 少しずつ道路両側の家々が大きくなって、地面が平になる頃に、少佐がベレー帽を取って上着のポケットに押し込めた。それでミカエルはやっと言葉を発した。

「次は何処?」

 少佐が振り向かずに答えた。

「セラードホテル。」
「え? 俺は用済み?」
「何か出来ることでもあるのですか?」

 そう言われると、何も思いつかない。だから別の質問に切り替えた。

「さっきの女性は本当に病気だったのかい? 君がネックレスを掴ませたら、彼女から煙が出て行った様に見えたけど。」

 いきなりジープが停止したので、ミカエルは危うく前の運転席の中尉に頭をぶつけるところだった。同じく助手席の少尉にぶつかりそうになって、少佐が怒鳴った。

「テン・キダード!」(気をつけろ!)
「ロ・シエント!」(すみませんでした!)

 運転席の中尉が前を向いたままで謝った。少尉も彼に苦情を言ったが、ミカエルの知らない言語だった。だが怒っていることは、はっきりわかった。背後でクラクションが聞こえた。ミカエルが振り返ると、背後に数台が急停止していた。これが都会並みに交通量があれば確実に二重三重の追突事故になっていただろう。
 出せと言われる前に、中尉はジープを発進させた。少佐がミカエルに尋ねた。

「首は大丈夫ですか?」
「うん、どうにか無事だ。一体、どうしたんだ?」

 後半は中尉に尋ねたのだが、少佐が答えてくれた。

「貴方が、マリア・アルメイダの体から煙が出るのを見たからです。」
「はぁ?」

 それが何か、と尋ねる前にホテルの前に到着した。少佐が言った。

「今夜、お食事を一緒にいかがですか。」

 ちょっとびっくりだ。愛想のないケツァル少佐がデートに誘ってくれている。ミカエルは、スィ と答えてから、ある問題に気がついた。

「俺はこの服しか持っていない。君が何処へ連れて行ってくれるのか知らないが、女性と一緒に出かけるのにふさわしい服装は無理だ。それに今夜の宿代もないし。」

 少佐が溜息をついてポケットから紙幣を数枚出した。この女性は財布を持っていないのか? ミカエルは彼女が紙幣を数えるのを眺めながら、何となく常識とズレている軍人達は本当は何者なのだろうと考えた。
 少佐からお金を受け取ったミカエルがジープから降りると、彼女は「では1700時に」と言い置いて、部下達と共に走り去った。
 ミカエルは紙幣をポケットに押し込み、一旦ホテルに入った。フロント係は彼を覚えていて、前払いすると昨晩と同じ部屋の鍵を渡してくれた。それからホールの片隅を顎で指した。

「あいつはどうなさるんです?」

 ミカエルがそちらを見ると、リコが小さくなって床に座り込んでいた。捨てられた犬みたいに情けない表情でこちらを見ているのだ。ミカエルがついて来いと合図すると立ち上がってやって来た。

「セニョール・バルデスに会ったんですか?」
「スィ。朝飯をご馳走になった。」
「前からのお知り合いで?」
「まぁ・・・そうだな。」

 昼休みに入る前の店でジャケットと新しいシャツとパンツを買った。リコが値引き交渉してくれたので、所持金が少し残り、それでリコと2人で昼食を取った。食べながら、旦那ことミカエル・アンゲルスに会ったことがあるかと尋ねると、リコは遠くからなら見かけたことがあると答えた。

「だけど、半年前だったし、それっきりでさぁ。今じゃバルデスが屋敷も会社も仕切ってるって話です。」

 リコはテーブル越しに顔を近づけて囁いた。

「噂じゃ、アンゲルスの旦那はもう生きちゃいねぇかもって・・・」

 ミカエルはアンゲルス邸で感じたあの嫌な感覚を思い出した。そして奇妙な病気に罹っていた女中のマリア。あの屋敷には何か禍々しいものが存在する。
 
「なぁ、リコ、今日は耳慣れない言葉をいくつか聞いたんだが、意味を教えてくれないか。ママコナとか、”空の緑”とか・・・」
「しっ!」

 いきなりリコが怖い顔になって、口の前で両手の人差し指を交差させた。

「白人のあんたがそんな言葉を口にしちゃいけねぇ。」
「しかし・・・」
「セルバではタブーの言葉がある。知っててもこんな大勢の人がいる場所で言っちゃ駄目だ。」

 彼は周囲を警戒するように見回した。

「バルデスやアンゲルスの旦那達よりおっかねぇ連中が、この国にはいるんだよ。」


2021/06/14

記憶喪失の男 12

 マリア・アルメイダの家がある地区はオルガ・グランデの街でも低所得層が住む所だった。市街地を挟んで富裕層の地区と向かい合うように山の斜面にへばりついている。対面の斜面より勾配がきつく、どの家も小さく、煉瓦で造られている家はまだマシで、板を並べているだけの家や遺跡の様な石を積み上げて板の屋根を載せただけの家などが並んでいた。
 大統領警護隊のジープは狭い九十九折の坂道を排気ガスを吐きながら上って行った。ミカエルは、少佐以下2人の兵士が市街地に入る頃から野戦帽をベレー帽に換えたことに気がついた。深い緑色のベレー帽だ。セルバ共和国陸軍の将校である印だ。前部席の2人はやはり将校だった。星の数から推測するに、運転席の男が中尉で助手席の年下の方が少尉だろう。緑のベレー帽にはそれなりの権威があるようだ。市街地でもスラムでも、対向車の運転手はジープの上の兵士が何者か直ぐわかるらしく、車を脇に寄せて道を譲った。歩行者もラバに引かれた荷車も慌てて道を譲る。ジープは殆ど停車することなく市街地を横断し、貧しい家が並ぶ斜面の区画へ入って行ったのだった。
 ジープが通り過ぎると人々がその後ろをついてきた。好奇心だ。噂でしか聞いたことがなかった大統領警護隊がやって来た。何をしに来たのだろう。誰の所へ行くのだろう。そんな好奇心だ。仕事がないから、ジープの後ろをついて歩いても文句は言われない。
 何処にも番地など表示されていなかったが、ジープはあるカーブを曲がった所で停止した。助手席の少尉が見物人に尋ねた。

「マリア・アルメイダの家は何処だ。」

 数人が近くの小屋を指さした。軍人は素直に「グラシャス」と礼を言った。
 少佐が降車したので、ミカエルも続いた。少尉も降りて2人の後に続き、中尉は外に出たものの車から離れずに残った。
 アンゲルス邸で女中をしているマリア・アルメイダの家は周囲の家と同様に石壁に板屋根を載っけた簡単な造りだった。冬は寒いだろうとミカエルは想像した。燃料になる樹木など生えない土地だ。化石燃料だって値が張るだろうし、だからこの地方の人々は厚着だ。アルメイダの家から赤ん坊を抱いた年配の女性が出てきた。既に住民の誰かが来客を告げたのだ。皺の深い彼女の顔を見て、ミカエルは女中奉公をしているのはこの人じゃないと思った。赤ん坊は孫なのだろう。女性が少佐におずおずと挨拶した。

「ブエノス・ディアス。」

 少佐が丁寧に挨拶を返した。

「ブエノス・ディアス、セニョーラ。マリア・アルメイダに会わせていただけますか。」

 年配の女性は困ったと言う表情を見せた。

「娘は昨日から病気で臥せっています。」
「彼女からお伺いしたいことがあります。病気は重いのですか。」
「熱が下がりません。明日も下がらなければ呪い師を呼ぼうかと思っています。」

 医者に懸かるお金がないのだ。ミカエルはアンゲルスが使用人にちゃんと給料を支払っているのかと疑問を感じた。
 ケツァル少佐が女性に顔を近づけて囁いた。

「マリアに会わせて下さい。病気は治ります。」

 何を言っているんだ? ミカエルが訝しげに少佐を見ると、女性は驚いた様に少佐を見つめ、それから彼女を小屋へ誘った。ミカエルもついて入った。小屋の入り口に少尉が立ったが、中には入らず、外の住民達の方を向いた。中を覗くな、と無言で周囲に伝えた。住民達が小屋から離れ、道の反対側で成り行きを見守る様に立った。
 ミカエルは、もしドクトルが医学博士の意味なら己も少しは役に立つだろうと思った。しかしハンモックの上で荒い息をしながら目を閉じている痩せた女を見ても、何をどうして良いのかわからなかった。少佐が病人の上に体を屈み込み、様子を伺った。そして母親に言った。

「外へ出て下さい。直ぐに終わりますから。」

 赤ん坊を抱いた女性は言われた通りに小屋から出て行った。
 ミカエルは病人を眺めた。

「伝染病じゃないだろうな?」
「違います。」

 ケツァル少佐が自分の服の胸元に手を入れ、黒いビーズのネックレスを引き出した。軍人がそんな装飾品を身につけていることにミカエルは驚いた。十字架だったら違和感がないのだが・・・。
 少佐がネックレスを外して、マリア・アルメイダの手に握らせた。気のせいだろうか、ミカエルはマリアの体からモヤモヤとした煙の様なものが立ち昇るのを目撃した。煙は白かったが、濁った感じで、直ぐに空中に溶けて見えなくなった。
 マリアが大きく息を吸い、目を開いた。少佐が優しく話しかけた。

「マリア、私はケツァルと言う者です。今の気分は如何ですか?」
「苦しかったのが、楽になりました。何だか悪い夢を見ていた様な・・・」
「いつからああなりました?」
「初めて旦那様のお部屋に入った時からです。」
「それは何時のことでしたか?」
「一月前・・・」

 マリアがゆっくりと体を起こした。ハンモックから降りるのを、ミカエルは手を貸してやり、椅子に座らせた。少佐が土間の隅にあった水瓶から水をコップに汲んで彼女に与えた。マリアが喉を潤すと、少佐の質問が再開された。

「貴女はアンゲルスの部屋の担当なのですね。」
「スィ。」
「何時雇われました?」
「一月前です。」
「アンゲルスに会ったことはありますか。」
「ノ。一度もありません。」
「他の使用人はどうです?」
「旦那様のお話は禁じられていました。でも・・・」

 マリアは戸口をそっと伺ってから、囁いた。

「2ヶ月前から誰も旦那様を見かけたことはないそうです。」

 2ヶ月前だって? ミカエルはドキリとした。バス事故と何か関係があるのか?
少佐が質問の中心を変えた。

「アンゲルスの部屋にネズミの石像がありませんでしたか?」

 彼女は石像の大きさを手で示した。

「大きさはこれぐらい、灰色の石で出来ていて、背中に翼があります。風化してただの石に見えるかも知れませんが。」
「ありました。」

 マリアが身震いした。

「旦那様のお部屋の机の上にありました。ネズミには見えませんでしたが、人形の様な石の塊でしたら、確かにありました。何か・・・肉が腐った様な嫌な臭いがして気持ちが悪かったので、旦那様のお部屋のお掃除は出来るだけ早く済ませる様にしてました。あの・・・」

 彼女が怯えた目で少佐を見た。

「悪魔でしょうか? 私の前にいた女中は亡くなったと聞いています。私は呪われたのでしょうか?」

 ミカエルは、初めて少佐が優しく微笑むのを見た。とても美しい微笑みだった。作り笑いでなく、心からマリア・アルメイダを労って微笑んだのだ。

「呪いは解けました、マリア・アルメイダ。でも、その黒いネックレスはこれから3日間、必ず身につけていなさい。4日目の朝に火に焼べて燃やしてしまうのです。必ず言いつけを守って下さい。わかりましたね?」
「スィー! 言いつけを守ります。」

 マリア・アルメイダは少佐の手を取って甲に口付けした。

「グラシャス、セニョーラ・ケツァル。」
「セニョーラではなく、少佐です。」
「グラシャス、少佐。グラシャス、ヴェルデ・シエロ。」

 ミカエルはハッとしてマリアを見つめた。ヴェルデ・シエロ? ”空の緑”?
 少佐がマリアに言い含める様に囁いた。

「私に礼を言うのは筋違いです。ネックレスを作ったのは、ママコナです。」

 マリアが黒いネックレスを胸元に推し抱いた。

「心からママコナに感謝します。」

 何だろう? これは芝居か? それとも俺は本当に奇跡を見たのか? ミカエルは戸惑いながら小屋の中の光景を見つめていた。
 少佐が小屋から出て行こうとして、何かを思い出した。振り返ってマリアに言った。

「アンゲルスの屋敷で見た物を語ってはいけません。誰かに語れば災いが降りかかりますよ。」
「わかっています。」

 まだマリアは感激で目を潤ませていた。

「旦那様のお部屋の話も、ネックレスのことも、貴女が助けて下さったことも、誰にも話しません。セルバの掟を守ります。」

 少佐が頷き、ミカエルに出ろと手で合図した。

記憶喪失の男 11

 ミカエルが大統領警護隊のジープに乗って屋敷を出るのを、バルデスは引き留めなかった。 ミカエルは車が屋敷から遠ざかると気持ち悪さが軽くなった気分になり、バルデスから聞いた話をケツァル少佐に話そうかと考えた。しかし横を見ると彼女は前を向いたまま腕組みして何か深い考え事をしている様子だった。盗掘品密売をしている女の行方を考えているのだろうか。それともアンゲルス邸の2階に件の女が隠れていると疑っているのだろうか。それから彼自身のことに思考を戻した。バルデスからドクトルと呼ばれる俺は医者なのだろうか。それとも何か別の研究者なのか。先住民に興味を抱いていると言うことは、人類学者なのか。”空の緑”って何だ。
 前部席の年少の兵士が不意に溜息をついた。運転席の兵士がチラリと助手席を見た。

「ケ パサ?」(どうかしましたか)

 少佐が誰にともなく質問した。助手席の兵士が答えた。

「彼の思考が読めません。」

 彼? 俺のことか? ミカエルが後ろから見つめると、助手席で舌打ちする音が聞こえた。運転席の兵士が囁いた。

「落ち着け。」

 ケツァル少佐がミカエルに顔を向けた。

「バルデスは貴方の身元がわかる様なことを言いましたか。」

 ミカエルは正直に話すことにした。己の正体が何なのかまだ不明だが、常識で考えればバルデスより大統領警護隊の方が「正義」だ。

「バルデスは俺をドクトルと呼んだ。医者なのか、何かの研究者なのか、それは判らない。名前は言わなかったので、まだ俺はミカエルのままだ。俺は2ヶ月前に行方不明になったそうだ。それはバス事故の時期と合うから、本当だろう。ドクトラ・ダブスンと呼ばれる女性が俺を探して大使館に届けを出したらしいが、見つからなかった。ダブスンは北米の人間だ。俺は・・・」

 ミカエルはちょっと迷ったが、少佐がまだ見つめているので正直に語った。

「純血の先住民を欲しがっていた、とバルデスが言うんだ。彼は貴女が本物の”空の緑”だったら俺が食われちまうと心配していた。」

 まだ少佐が見つめているので、彼は笑って見せた。

「笑っちまうよね。どうして俺がインディオを欲しがるんだろう。その辺に大勢いるじゃん? それに”空の緑”って何? インディオの部族名だと思うけど、俺にはさっぱり判らないんだ。どうして君が俺を食っちまうんだ?」

 ケツァル少佐が溜息をついてへ向き直った。ミカエルは彼女もバルデス同様何か彼の正体について知っているのではないかと思った。少なくとも、何か手がかりに心当たりがあるのではないか。

「俺は何者なんだ、少佐、知っているんだろう? 教えてくれよ。俺は君達の敵か? それとも味方か? 犯罪者か? それとも唯のバカな旅行者か?」
「停めなさい。」

 少佐が運転手に命令した。ジープが砂埃の中で停車した。少佐がまた彼に向き直り、その日初めてまともに彼の目を見た。

「どうして私が貴方の正体を知っているのです。私はエル・ティティで初めて貴方の存在を知ったのです。貴方が敵か味方かなんて知りません。」
「だけど・・・」
「約束通りに貴方がネズミの神像を探す手伝いをしてくれたら、私は貴方の身元を調査するつもりでした。けれど、バルデスは貴方のことをよく知っている様です。今なら歩いて屋敷に戻れます。ここで降りて下さい。」

 ミカエルは、あの屋敷の気持ち悪さを思い出した。いくら身元判明の手掛かりがあっても、あの場所に戻りたくなかった。彼は前部席の兵士達を見た。彼等は味方してくれない。それどころか、少佐の命令一つで彼を砂漠の中に放り出すだろう。

「俺はあの屋敷に戻りたくないんだ。あそこは気持ち悪いんだよ。だから、君達に俺の身元調査を頼みたい。バルデスは信用出来ない気がするんだ。頼むよ。」

 心からそう言った。必死の思いで言った。
 少佐は前に向き直った。そして運転席に声をかけた。

「アルメイダの家へ。」


2021/06/13

記憶喪失の男 10

「一体どう言うつもりなんだ、ドクトル?」

 バルデスが遠ざかって行くケツァル少佐を見ながら囁いた。3枚目のパンケーキを食べていたミカエルは、最初彼が誰に話しかけているのかわからなかった。だが食堂内にいるのは、彼とバルデスだけだ。俺のことか? ドクトルって、俺は医者か?
 バルデスが続けた。

「2ヶ月も姿を消して、皆んなを散々心配させた後で、ロス・パハロス・ヴェルデスの少佐なんぞ連れてひょっこり現れるなんて、冗談きついぜ。」

 ミカエルはドキっとした。バルデスは彼の正体を知っているのだ。だが知らないフリをしていた。彼の正体をケツァル少佐に知られると困ると言うことなのか? ミカエルは何とかしてバルデスの口から彼の本名を引き出そうと試みることにした。

「ちょっと道草を食っていたんだ。皆んなが俺を心配していたって?」

 誰も探しに来なかったじゃないか、とミカエルは内心苦々しい思いで言った。ゴンザレス署長は新聞広告まで出してくれたのだ。
 バルデスはまだ庭を見ながら言った。

「ドクトラ・ダブスンは大使館に届けを出してあんたを探してもらったんだ。だが、あんたも知っての通り、この国じゃ外国人が行方不明になっても警察は真剣に探さない。大統領警護隊を動かさないことには、警察も軍隊も捜索してくれないんだ。だが、あんたの研究は"空の緑”に知られちゃマズイ。だから私は組織を動かせなかった。ドクトラにはできる限り手を尽くすと言い含めて北へ帰ってもらった。それなのに、あんたと来たら、警護隊の少佐なんぞと一緒に暢気に朝飯食いにやって来やがって!」

 バルデスはミカエルの本名を言わなかった。だが、ミカエルは、彼が何か物凄く重要な言葉を口に出したような気がした。
 ドクトラ・ダブスン? 誰? 大使館? 違う。大統領警護隊でもない。”空の緑”・・・何だ、それは・・・?
 一瞬、何かが彼の記憶の底にあるものを突きかけた気がした。

「”空の緑”に知られないよう、行動していたんだ。」
「冗談だろう。あんたが連れてきた少佐は”ラ・パンテラ・ヴェルダ”の異名を持つ。”空の緑”だ!」

 緑の雌豹 だって? ミカエルは頭がこんがらがってくる気分だ。しかしまだバルデスは彼の本名を教えてくれない。彼は粘った。

「彼女は素敵じゃないか。先住民の美女だ!」
「確かにあんたが欲しがっていた純血種の先住民だ。だが、本物の”空の緑”だったら、あんたが食われちまうぜ。」

 俺が何を欲しがっていたって? 何故俺がインディオを欲しがるんだ? だから、”空の緑”って何なんだ? 俺は人身売買でもしていたのか?
 ミカエルは食欲が失せた。喉が乾いたのでオレンジジュースをがぶ飲みした。
 バルデスがミカエルの本名を口にする前にケツァル少佐が戻って来た。テーブルのそばに来るなり、要請した。

「2階に立ち入る許可をもらっている使用人がいる筈です。会わせて下さい。」

 何故2階にこだわるのだろう。バルデスは苦虫を潰した様な顔になり、給仕を呼んだ。やって来た給仕に何やら囁くと、給仕も彼に囁き返した。バルデスが頷くと、給仕はそそくさと壁際へ身を退いた。バルデスが少佐に向き直った。

「マリア・アルメイダと言う女が2階の係ですが、昨日から休んでいます。」
「通いですか。」
「スィ。」
「何処に住んでいますか。」
「会われるつもりですか?」
「スィ。ここを出ると直ぐに行きます。」

 バルデスが溜息をつき、再び給仕を呼んだ。女中の住所を調べろと命じられ、給仕は足早に厨房へ消えた。
 少佐が椅子に座ったので、バルデスが改めてコーヒーを勧め、彼女はやっとそれに応じた。つまり、ここでの仕事は一旦終わりなのだ、とミカエルは悟った。彼は少佐に尋ねた。

「朝飯は食わないのか?」

 少佐がアホなことを訊くなと言いたげな顔をして答えた。

「軍隊の朝は早いのです。」


記憶喪失の男 9

  ホールは100人でパーティーを開ける広さがあった。吹き抜けの天井、それを囲む円形の回廊、中央に階段、2階の部屋は回廊の半分を囲む様に並んでいる。ホールの庭に面した大きな窓は全て開放されていた。空は雲ひとつなく晴れ渡り、太陽が眩しい。それなのにホール内は冷りとして、ジメジメした空気が満ちていた。薄暗く澱んだ空気だ。ミカエルは屋内に入って1分も経たぬうちに外へ出たくなった。落ち着かない。頭の上から踏んづけられているような圧迫感。窓の外の薔薇の植え込みで花が風に揺れているのに、ホールには風がない。喉を締め付けられるような感覚までしてきた。息が苦しい。
 少佐を見ると、彼女は2階の回廊を眺めていた。2階に何かあるのか? アンゲルスがいるのか? 

「離れに朝食を用意しています。ご案内しましょう。」

 バルデスの声でミカエルは我に帰った。振り向くと、驚いたことにバルデスの額に汗が浮かんでいた。唯1人彼について入って来ていたボディガードも真っ青な顔をしていた。この屋敷の人間もこの場所に居心地の悪さを感じているのか。
 少佐だけが何も感じないのか、平気な顔をしてバルデスに話しかけた。

「立派な家ですね。2階も見たいのですが、上がってよろしいですか?」

 バルデスが強い勢いで首を振った。

「いけません。上階は主人の個人的なスペースです。許可なく客を入れることは許されておりません。」

 すると少佐はそれ以上我を通さずに素直に彼の誘いを受け入れた。
 母屋から外に出て直ぐにミカエルの呼吸は楽になった。乾いた風が心地よく、気分も良くなった。
 アンゲルス邸の別館は母屋の半分の大きさで、やはり白亜の建物だった。こちらは食堂に観葉植物がたくさん置かれ、リラックス出来る空間だ。テーブルの上に豪華な朝食が用意されていた。

「セニョール・アンゲルスのご家族は何処にいらっしゃるのですか?」

 引かれた椅子に座りながらケツァル少佐が尋ねた。バルデスが、主人は独身です、と答えた。彼は少佐の向かいに座り、ミカエルは丸テーブルの少佐の左側に座った。正面が空いているが、ボディガードが座る筈がなく、空席となった。ミカエルは、リコを連れてきて食べさせてやれば良かったな、とぼんやり思った。もっとも、あの男はバルデスにビビって座りもしないだろうけど。
 ミカエルはゴンザレスがしていた様に食前のお祈りをした。バルデスも体裁があるのか、一緒に祈るふりをしたが、少佐は知らん顔だ。お祈りが終わるまで待ってくれていたのかと思ったら、終わった後も食事には手をつけなかった。ミカエルは遠慮なく食べることにした。バルデスは毒なんか入っていないとアピールする目的で、卵料理やコーヒーに手をつけた。
 少佐がここへ来た目的の用件に入った。

「セニョール・アンゲルスは骨董品収集の趣味をお持ちですか。」
「ノ。主人は古いレコードを収集していましたが、貴女が守ろうとされる古代美術品の類に興味は持っていませんでした。」

 ミカエルはパンケーキを食べながら思った。何故過去形で喋るんだ?
 少佐が質問を続けた。

「貴方は? セニョール・バルデス。」
「私は芸術より株の方が面白い。」

 少佐が写真を出した。エル・ティティの町でミカエルやゴンザレスに見せた女の写真だ。

「この女性と面識がありますか。」

 ミカエルは我慢出来ずに口を挟んだ。

「俺も訊かれたけど、この人は誰なんだ?」
「ロザナ・ロハス。」

とバルデスが答えた。

「闇取引が主な仕事の古美術商。主に遺跡の盗掘品を金持ち相手に売り捌く女だ。」

 彼は少佐にちょっと微笑みかけた。

「貴女の天敵ですな、少佐。」
「ロハスを知っているってことは、あんたは彼女と面識があるんだな。」

 バルデスがミカエルをジロリと睨んだ。ケツァル少佐が咳払いして、2人の男の注意を自分に向けさせた。バルデスが彼女に言い訳した。

「ロハスは、私に客を紹介してくれと言って来たんです。最初はまともな画商のフリをしてね。」
「品物を見せましたか。」
「私が絵なのか彫刻なのかと尋ねたら言葉を濁したので、ヤバい品物だなと感じました。品物は見ていません。」
「彼女を誰かに紹介しましたか。」
「ノ。」
「彼女が他の人と接触した噂は聞いていませんか。」
「ノ。」
「貴方が彼女と会ったのは何時のことですか。」
「はっきり覚えていないが、半年前かな。」
「セニョール・アンゲルスは彼女に会いましたか。」
「私は会わせた記憶がないが、私の知らない場所で会ったかも知れない。会ったと言う話を主人から聞いたことはありません。」

 少佐がいきなり立ち上がったので、男達はびっくりした。彼女はテラスへ出る掃き出し窓まで歩いて行った。

「庭が素晴らしいので見学させて下さい。」
「構いませんが・・・」

 明らかにバルデスは当惑していた。このオルガ・グランデの実力者は他人のペースに乗せられることに慣れていないのだ。彼女がミカエルを振り返って、ごゆっくり、と言って外へ出て行った。バルデスが慌ててボディガードに命じた。

「少佐から離れるな。」


記憶喪失の男 8

 オルガ・グランデの鉱山王ミカエル・アンゲルスの屋敷は街郊外の丘の上にあった。周囲を高い白い塀で囲み、門にはカービン銃を装備した門衛が小屋に詰めていた。塀の上には恐らく高圧電流が流れている電線が張られているのだろう。
 ミカエルが乗った大統領警護隊のジープは速度を落としたものの、停止せずに門まで走った。門衛が出て来て銃を向けた時、ミカエルは撃ち合いになるかと危惧したが、軍人達は表情一つ変えずに前進を続けた。助手席の兵士が片手を前へ突き出した。待てと言う具合に手のひらを前に向けた。門衛達は大人しく銃を下に向け、門扉を開いた。ジープはそのまま停まらずに敷地内に進入した。
 ミカエルがホッと肩の力を抜くと、隣の少佐がチラリと彼を見た。彼女は何も言わなかったが、鼻先で笑ったような気配だった。
 屋敷の玄関先まで1分かかった。広い庭は芝生が張られ、ゴルフ場の様だ。乾燥した土地で水をふんだんに庭に撒けるのだから、確かに金持ちだな、とミカエルは思った。 玄関前の車寄せに背の高いスーツ姿の男が数人のボディガードを従えて立っていた。玄関の扉は大きく開かれている。口髭を生やした目つきの鋭いスーツ姿の男の前にジープが停まった。ケツァル少佐が彼に声を掛けた。

「セニョール・バルデス?」
「スィ、少佐。」

 助手席の兵士が素早く車外に出て、少佐の側のドアを開けた。ミカエルは大人しく彼女の後について降りた。バルデスが挨拶をしようと手を差し出したが、少佐はそれに応じなかった。ジープの運転席の兵士は降りないで上官とミカエル、バルデスとボディガード達を眺めていた。
 
「貴女のお噂はかねがね耳に入れておりました。」

とバルデスが少々戸惑いながら挨拶した。少佐が彼を無視して屋敷の建物を見上げた。スパニッシュ・コロニアル様式の家だ。ミカエルも見上げた。白くて明るい外観だが、何だか嫌な感じがした。動物的な感覚で、近づきたくない場所と頭の奥で警鐘が鳴った気がした。

「どんな噂ですか。」

 ケツァル少佐がバルデスに目を向けずに尋ねた。建物の右から左へと視線を動かしている。そんな彼女をバルデスは見つめている。

「貴女が登場すると、国の事業でも工事がストップする。国賓の接待よりも遺跡保護を重視される方だと・・・」
「自国の文化を軽んじる国家は滅びますよ。」
「どうして大統領警護隊が遺跡保護に口出しするんだい?」

 ミカエルが口を挟んだので、初めてバルデスが彼に目を向けた。

「こちらは?」

 ミカエルは自己紹介した。

「ミカエル・アンゲルス。冗談で名乗っているんじゃない。今のところ、この名前しか手がかりがないんだ。」

 彼はポケットに手を入れた。当然の様にボディガード達が反応しかけたが、少佐がジロリと一瞥すると彼等は上着の内側に手を入れかけたまま固まった。バルデスが少佐に謝った。

「失礼しました、彼等はこれが仕事なので・・・」

 少佐が頷くと、ボディガード達は手を下ろした。ミカエルはシワクチャの名刺を出してバルデスに渡した。カードを手に取ったバルデスの目が険しくなった。

「主人の名刺です。失礼だが、セニョール、何処でこれを?」
「それを知る為にここへ来たんだ。俺は2ヶ月前に事故に遭って、記憶がない。」

 しかしバルデスの顔からは警戒心しか読み取れなかった。名刺と少佐とミカエルを何度も見比べる。少佐が尋ねた。

「セニョール・アンゲルスはご在宅ですか?」

 少し苛立ちを声に滲ませて、彼女が畳みかけた。

「私の相手はNo.2で十分だと思われているのですか?」
「滅相もない!」

 バルデスが強く首を振った。

「主人は旅行中なのです。」

 ”旦那”より力がある、とリコが評していた男が、少し慌てた。

「それに貴女が協力を要請された相手は主人ではなく私だと思いましたが。」

 ケツァル少佐は頷いて見せた。

「どっちでも良いのです。実力のある方でしたら。」

 彼女の言葉にバルデスが少々怯んだ様に、ミカエルには思えた。少佐が建物の中へ歩き始めたので、彼はついて行った。バルデスがボディガード達にその場で待機を命じ、2人の後に続いた。ジープに残った2人の兵士は一瞬互いの目を合わせ、それから車外の若い方が建物の右翼を、運転席の兵士が建物の左翼を見た。彼等は自分達を見張るボディガードには目もくれず、2階にアサルトライフルを向けた。

2021/06/12

記憶喪失の男 7

  ミカエルは少佐から同行を要請されなかったし、彼も要求しなかった。しかし朝になると彼は身支度をして部屋を出た。ホテルのシャワーは午前中水しか出ないので、素早く埃を流しただけで、体を洗うほども浴びられなかった。服は洗濯出来ないので昨日のままだ。朝食抜きでホテルから出ると、まるで打ち合わせたかの様にケツァル少佐が昨晩の2人の兵士と共にルーフ無しのジープに乗って現れた。運転しているのは整った顔立ちの若い男で、助手席にいるのは彼よりさらに若い、少年の様な男だ。どちらも純粋な先住民の顔だった。ミカエルはセルバ共和国軍の階級章の見分け方を知らなかったが、運転席の兵士の徽章が星2つで、助手席の兵士が1つなのを見て、上官が運転しているのか、と思った。少佐は星1つだが、2人のものに比べると大きな星で形も異なっていた。この日は3人共野戦用の軍服を着ていた。
 ジープがホテルの前で停車したので、ミカエルは少佐の反対側へ回った。少佐がおはようの代わりに言った。

「連れて行くとは言ってません。」
「だけど、迎えに来てくれたじゃないか。」

 ミカエルは勝手にドアを開けて少佐の隣に座った。助手席の兵士がチラリと彼を見た。ちょっと怒っている? 

「生きているか、確認に来ただけです。」

 そう言って、少佐が道路の反対側を顎で指した。

「彼。」

 ミカエルがそちらを見ると、物陰に隠れるようにリコが立っていた。行き場のない野良犬の様な目でこちらを見ていた。彼はアンゲルスの組織に制裁を受けるかも知れないと心配しているのだ。ミカエルはポケットを探った。辛うじてコインが2枚残っていた。コーヒー代にはなるだろう。彼はそれをリコに向けて投げた。

「俺達が戻る迄、ホテルで待ってろ。」

 びっくりしているリコを置いて、ジープが走り出した。走り出して5分もすると、少佐が腕組みして言った。

「あれは私が渡したお金ですか?」
「その残金だね。」
「国民の税金です。」
「リコも国民の1人だろう?」
「彼が税金を払っているとは思えません。」
「この国は税金を払えない貧民を守れないのか?」
「彼に払う能力がないとも思えません。」

 ミカエルがリコにお金を与えたことが気に入らないのか。それとも勝手に車に同乗したことに怒っているのか。今朝の少佐はご機嫌斜めだった。ミカエルも少し不愉快になった。空腹だから、なおさらだ。

「俺を連れて行きたくないんだったら、ここで下せ。」
「車を止めるとガソリンの無駄です。降りたいのなら、勝手に降りなさい。」

 腹が立つが、己の身元を知りたいミカエルは、それ以上彼女に逆らうのを止めて黙り込んだ。


記憶喪失の男 6

  真夜中に2回も叩き起こされたセラードホテルのフロント係は迷惑そうだった。ホテルの入り口には、いつからそこにいるのか、2人の迷彩服を着た兵士が2人、門番の様に立っており、ミカエルがリコを引きずる様にホテルに入るのを黙って見ていたが、ミカエルの後ろから続いたケツァル少佐には敬礼した。少佐も敬礼を返しホテルに入ると、眠たそうな顔でカウンターの向こうに立っているフロント係に一言、電話、と言った。ミカエルは彼女をチラリと見た。携帯電話を持っていないのか? エル・ティティの様な田舎町でも警察官や会計士は携帯電話を持っていたぞ。
 フロント係が電話を押し出した。ミカエルはリコに送話器を差し出した。

「セニョール・バルデスとやらにかけてくれ。」

 リコが怯えた表情で首を振った。恐れている。アンゲルス達に裏切り者と看做されて制裁を受けることを恐れている。ミカエルはリコを挟んで反対側に立っているケツァル少佐に声をかけた。

「何か保障してやれ。」

 少佐が小さな溜息をついて、リコに言った。

「本件の方が付く迄、大統領警護隊がお前を保護します。」
「信じられねぇ。」

 リコが泣きそうな声で抗議した。

「俺みたいなもんを、あんたが真剣に警護してくれる筈がねぇ!」

 すると少佐は言った。

「ここには、ロス・パハロス・ヴェルデスが3人います。」

 リコが黙り込んだので、ミカエルはちょっと驚いた。”緑の鳥”が3人って? ”緑の鳥”って何だ? ミカエルはホテルの出入り口に立っている2人の兵士を見やった。彼等も大統領警護隊なのか? アサルトライフルを所持しているが、リコの話ではミカエル・アンゲルスは私設軍隊の様なものを持っているそうだ。たった3人で武装軍団から1人のチンピラを守れるのか?
 だがリコは電話のダイヤルを回し始めていた。アナログな世界だな、とミカエルはぼんやりと思った。俺はもっと最新設備の情報世界で生きていた筈だ。
 長い呼び出し音の後で、誰かが電話の向こうで答えた。リコが舌で唇を舐めてから話しかけた。

「リコだ。セニョール・バルデスに繋いでくれ。」
ーー今、何時だと思ってるんだ!

 電話の向こうの男が怒鳴った。リコは切られてしまわないよう、早口で喋った。

「大至急報告することがある。早く繋いでくれ!さもなきゃ、お前が後悔するぜ!」

 電話の向こうの男が悪態をついた。保留の音楽が聞こえ、リコはミカエルを見た。

「セニョール・バルデスは旦那より恐ろしい人だ。あんたも俺も生きてこの街を出られるとは思えねぇ。ロス・パハロス・ヴェルデスは用件が済めば、さっさと飛んで行っちまうさ。」

 ミカエルには街の実力者の恐ろしさがわからない。旦那と呼ばれるミカエル・アンゲルスがマフィア的な組織のボスなのだろうと想像はつく。その旦那が記憶を失っている彼の身元を知る手がかりを持っているかも知れないのだ。ここで引き下がる訳にいかなかった。バルデスと言う男はアンゲルスの腹心で、執事なのだとリコは言っていた。組織の実権を握っているのは、そちらの方かも知れない。
 ミカエルがケツァル少佐を見ると、少佐は黙ってリコを眺めているだけだった。リコは彼女を見たくないようだ。先住民の美女をどう言う訳か非常に怖がっている。
 保留音楽が途切れた。よく透る男の声が聞こえた。

ーーバルデスだ。何の用だ。

 リコが口を開きかけたが、ケツァル少佐が送話器をひったくった。

「大統領警護隊文化保護担当部のミゲール少佐です。緊急に会見したい用件があります。」

 一瞬間が空いてから、電話の向こうの男が怒鳴った。

ーー何の冗談だ、リコ!

 リコが薄暗い照明の下でもわかるほど青くなって叫んだ。

「本物なんです、セニョール、信じて下さい。ロス・パハロス・ヴェルデスがここにいるんです!」

 電話の向こうが沈黙した。ミカエルは電話を切られたのかと心配になった。リコが恐る恐る電話に呼びかけた。

「セニョール?」

 電話の向こうの男が質問してきた。

ーー大統領警護隊が俺に何の用だ?

 少佐が答えた。

「公務です。」
ーーこんな夜中に?
「我々の任務に時刻は関係ありません。お宅へ伺います。」
ーー今は困る。
「では、明朝10:00に。」

 相手は10秒ほど黙ってから、了承を伝えた。少佐は電話を切り、ミカエルとリコを見た。

「おやすみ。」

 彼女はそう言い残して、さっさとホテルから出て行った。

 

記憶喪失の男 5

  セラードホテルは中心街から数分歩いたリオ・ブランカ通りにあった。ミカエルは1泊分の料金を前払いして4階の狭い部屋に入った。古い宿だ。トイレは共同でシャワーは一つしかない。ルームサービスなどあろうはずがなく、電話だけがベッドサイドに据え付けられていた。旧式のダイヤル電話だ。ミカエルは窓際の壁にもたれかかって通りを走る車のヘッドライトを眺めていた。
 俺は外国人だ。この国の言葉を流暢に話し、この国の人間の行動パターンを何となく理解しているが、異邦人だ。多分、世界中の何処へ行っても同じ様に出来る。そう設計されている。
 頭痛がして来たので、彼はそれ以上考えるのを止めてベッドに入った。
 どれほど眠っただろうか。けたたましい旧式電話の音で目が覚めた。出るとフロント係が階下に客が来ていると告げた。無愛想な声なのは、フロント係が仮眠を邪魔されて腹を立てている証拠だ。ミカエルは礼を言って、ベッドから出た。荷物はないし、服を着たままで寝たので身支度の必要はなく、部屋の鍵も掛けずに外へ出た。
 少佐が来たのかと思ったが、待っていたのはバルで声をかけて来た男だった。

「仕事を探すには遅い時間じゃないか。」

 ミカエルが文句を言うと、男が愛想笑いをした。

「良い報せは早い方が良いと思ってね・・・」

 彼はついて来いと身振りしてホテルから出て行った。ミカエルはカウンターを見た。フロント係はもういなかった。彼はカウンターに部屋の鍵を置いて男の後を追った。
 男の後をのこのこついて行くことになるが、他に何が出来るだろう。恐らく碌でもないことが待っている予感がしたが武器も何も持っていない。盗られる物も持っていない。もう所持金はなかった。バルとホテル代で使い果たしていた。盗られるとしたら命だけだ。
 闇に包まれた路地を男とミカエルは歩いて行った。車も人も通らない。街灯もない区画だ。旧市街地だろうか。石の壁が両側に続いて、逃げ場のない裏道だ。
 風が冷たいな、と思う頃に、男が立ち止まった。そこに複数の人影があった。ミカエルも立ち止まった。相手は6人、と暗闇で数えた。恐怖は感じなかった。人影の一つがミカエルを案内した男に尋ねた。

「この男か、リコ?」
「スィ、旦那の名刺を持ってやがるんだ。」
「旦那はこんな白人なんぞ知らねぇって仰る。」

 暗がりから1人の体格の良い男が前に進み出てきた。ミカエルと同じぐらいの身長だ。喧嘩慣れしている雰囲気だ。そいつがミカエルに尋ねた。

「お前、何処で旦那の名刺を手に入れた? ホテルのヤツに聞いたところでは、お前は旦那の名前を騙って泊まっているそうじゃないか。」

 ミカエルは、あはは、と笑った。笑うしかなかった。

「どうして俺が旦那の名刺を持っているかって? それは旦那の方が知っている筈だ。」

 彼の態度を抵抗と看做したのだろう。男達が殴りかかってきた。統制が取れた団体行動ではなかった。ミカエルは軽やかに身をかわし、身近なヤツから順に叩きのめしていった。自然と体が動いた。慣れていると言うより、勝手に体が反応している。刃物を出した奴もいたが、簡単に奪い取って道端の溝に投げ捨てた。
 10分後には6人全員が路上に倒れ込み、呻いていた。ミカエルがホッと気を抜きかけた時、リコと呼ばれたバルの男が大きなナイフを抜いて突進して来た。ミカエルは際どくかわしてナイフを叩き落とし、リコの顔を2、3発殴った。石壁に体を叩きつけ、さらに頭を打ち付けようとしたところで、手が何かに抑えられた様に動かなくなった。

「それ以上やると、死なせてしまいますよ。」

 リコを壁に押し付けたまま、ミカエルは声がした方へ顔を向けた。
 暗がりの中に小柄な影が立っていた。声に聞き覚えがあったので、彼は応えた。

「殺すつもりはないよ、少佐。」

 彼は言い訳した。

「ミカエル・アンゲルスが何者なのか、知りたいだけなんだ。」
「冗談・・・」

とリコが呻いた。

「アンゲルスの旦那を知らないだなんて・・・」

 ケツァル少佐が近づいて来た。ミカエルは彼女の背後を見た。誰もいない。こんな物騒な地区に、こんな夜更けに、女性1人で来たのか? 
 路面に転がっている男の1人が起き上がろうとした。少佐がそちらへ顔を向けて言った。

「寝ていなさい。」

 男が暗がりの中でまた横になった。リコが彼女に「誰だ?」と訊いた。少佐が彼の真横に来て、彼女のカードケースをチラリと見せた。ミカエルに抑えられたまま、リコが息を呑んだ。ミカエルは彼が呟くのを聞いた。

「ラ・パハロ・ヴェルデ(緑の鳥)」

 ケツァル少佐がリコに囁いた。

「私はアンゲルスを知っている。だが、この男性は本当に知らない。教えてあげなさい。」

 優しい言い方だが、逆らえない何かが声の響きの中にあった。ミカエルは背筋がぞくぞくした。リコが顔を壁に向けて言った。

「旦那はこの街の支配者だ。鉱山主だ。この街で旦那に逆らえば生きていけねぇ。市長でさえも・・・」
「その旦那は今何処にいますか?」
「知らねぇ。」

 すると少佐がリコから少し離れて、ミカエルに言った。

「1発殴っても良いですよ。」

 ミカエルが拳を上げると、リコが喚いた。

「本当に、俺は知らねぇんだ! 旦那が俺みたいなチンピラに会って下さる訳がねぇ。」
「では、そこにいる連中に訊きましょう。」
「そいつらだって知らねぇよ。俺がセニョール・バルデスに命じられて集めた連中なんだ。」

 今度はミカエルが尋ねた。

「バルデスって誰だ?」

記憶喪失の男 4

 オルガ・グランデはエル・ティティの西、山脈を越えた盆地にある地方都市で、セルバ共和国第2の”大都市”だった。しかしミカエルは、「大きめの田舎町」だと思った。もっと大きな、”本物の”大都市を見たことがある、と感じた。摩天楼や高速道路や大きな通りや高層アパート群・・・それが何処だったのか思い出せなかった。
 バスターミナルでバスを降り、大きな広場に面したオルガ・グランデ聖教会へ向かった。ケツァル少佐から教会の名を聞かされなかったが、オルガ・グランデの町の名はこの教会が来ているので、疑いもせずに聖教会に入った。
 聖堂の扉を押し開くと夕刻の礼拝が行われていた。セルバ共和国は中南米の国らしくカトリックの国だ。先住民の古い信仰が地下に潜って生き残っているが、表立って出てこない。お祭りなどでヨーロッパのキリスト教と違う飾り付けや風習が見られるので、「融合している」と人類学者達は考えている。 薄暗い聖堂の中に並ぶ木製のベンチに信者達がぽつりぽつりと座っていた。日曜日の朝のミサほどには人が集まらない様だ。
 ミカエルは堂内を見回してみたが、少佐らしき人が見当たらなかったので、最後列のベンチに座った。丸一日バスに揺られて疲れた。空腹だった。今夜はここに泊めてもらえるだろうか。野宿でも構わないが、高地なので夜間の屋外は冷える。ゴンザレスから寝袋なしで外で寝るなと言われていた。明日少佐に出会わなければ、仕事を探そう。脚が治ったから力仕事も出来るだろう。代書屋で稼いだ所持金はバス代で使い果たしてしまった。この町の宿代はいくらするのだろう。
 背後で扉が開き、足音もなくケツァル少佐が入ってきて、彼の隣に座った。ミカエルはホッとして、声をかけようとした。彼女の方が先に口を開いた。

「リオ・ブランカ通りのセラードホテルに泊まりなさい。」

 彼の手に数枚の紙幣が押し込まれた。ミカエルはそれを確認した。地図が一枚紙幣の上にあった。上着のポケットに入れると、彼女は立ち上がり、静かに聖堂から出て行った。
 礼拝が終わってからミカエルは外に出た。日が暮れても街は活気があった。エル・ティティと違って街灯が明るく、(と言うか、街灯がある!)人々は大通りに面したバルで一日の締めくくりの食事と酒を楽しんでいる。彼等の服装は軽装ではあるがビジネススーツだったり、ジャケット姿だったり、ドレス姿の女性もいて、スペインの街角に似た雰囲気だった。湿気が多い山脈の東側と違って、ここは乾いていて夜風が心地よかった。
 ミカエルが事故に遭ったバスは、山脈の東のアスクラカンと言う地方都市を出発して、エル・ティティを経由し、ティティオワ山を越えて、オルガ・グランデを終点とするルートを運行していた。記憶を失う前のミカエルは、最終目的地なのか通過地点なのか知らないが、兎に角一応はこのオルガ・グランデを目指していたのだ。
 俺は何処へ行くつもりだったのだ? 何をしに行こうとしていたのか?
 大通りに沿って歩いて行くと、抵抗し難い良い匂いが漂ってきた。空腹をあらためて感じた彼は少し横道に入り、匂いの元の店の扉を開いた。繁盛しているバルだった。オリーブオイルの香り、タバコの煙、肉が焼ける匂い、労働者達の話声、女性の笑い声、グラスの打ち合わされる音・・・ミカエルは一つだけ空いていたカウンター席に座り、ひよこ豆とチーズのバネッレ、ハム、ポヴェレッロを注文した。酒を頼まないので奇異に感じられた様だが、無視した。夢中で食べて、食事が終わる頃に少佐にもらった地図でホテルの位置を確認していると、脇に1人の男が立った。視線を向けると、髭面のメスティーソの男で、服装は悪くなかったが上等とは言い難かった。ミカエルが彼の存在に気づいたと見るや、その男が声をかけて来た。

「タバコを1本分けてくれ、セニョール。」

 ミカエルは首を振った。

「持っていないんだ。吸わないんだよ。」

 男は肩をすくめたが、立ち去ろうとはしなかった。

「旅行者か?」
「仕事を探している。」

 もっともミカエルはこの男に仕事を紹介してもらえるなんて思わなかった。男自身が仕事を探していそうな雰囲気だったし、よしんば男が仕事を紹介してやると言っても、合法的なものとは思えなかっただろう。

「この町で仕事を探すなら、」

とその男が言った。

「アンゲルスの旦那に頼むこった。」
「えっ!」

 ミカエルはびっくりして男の顔を見た。男はカウンターの奥を見ていた。ミカエルは尋ねた。

「その人には何処へ行けば会えるんだ?」

 男は答えずにカウンターから目を逸らし、テーブル席で酒を楽しんでいる人々を眺めた。ミカエルは店員に声をかけた。

「こちらのセニョールにビールを一杯。」

 男がミカエルを振り返った。

「セニョール・アンゲルスは他所者にはお会いにならねぇ。」
「君になら会うのか?」

 男がニヤッと笑った。

「あんた次第だな。」

 ビールではなくお金か、とミカエルは思った。こんなことに使えるお金はない。こんな男の情報には。彼はポケットに手を入れ、事故前の唯一の手がかりであるしわくちゃの名刺を出した。”ミカエル・アンゲルス”と印刷されたカードだ。それを男に見せると、男の顔色が変わった。ニヤニヤ笑いが消え、目付きが険しくなった。

「あんた、そいつを誰から・・・」

 男が手を伸ばして来たので、ミカエルはカードをポケットに仕舞った。店員がビールを出した。落ち着きを失った男はそれをゴクゴクと喉に流し込んだ。髭に付いた泡を手で拭って言った。

「あんた、何処を寝ぐらにしているんだ?」
「セラードホテル。明日はわからない。」
「後で連絡する。」

 男はビールの礼も言わずに店の外へ出て行った。
 ミカエルはもう一度名刺を出して眺めた。ミカエル・アンゲルスなんて冗談みたいな名前だが、この町ではある種の効力を持っているらしい。セニョール・アンゲルスは俺を知っているのだろうか。少佐は彼を知っているだろうか。


2021/06/11

記憶喪失の男 3

  ミカエルは面会者と聞いた時、己の身元が判明するのかと期待した。だから見知らぬ女性から見覚えのない女性を知っているかと尋ねられて、がっかりした。

「思い出せるのは炎だけなんだ。」

 彼等は会計士カルロスの事務所で、擦り切れた布張りの肘掛け椅子にそれぞれ向かい合って座っていた。彼は少佐を見た時、心の中で、「あっ! インディオだ!」と思った。下宿の大家ゴンザレスも雇い主のカルロスも、エル・ティティの住民の殆どが先住民の血を引くメスティーソだから、先住民を見て驚くことはない筈だった。しかし彼はこの時、純血の先住民を見たのは初めてだ、と言う気持ちがした。セルバ共和国の国民だったらそんな気分になる訳がないのだが。
 少佐はミカエルが返した写真を手に取って暫く眺めていた。写真の女性が何処にいるのか、死んでしまったのか、と考えているのだろう。ミカエルはそんな彼女を眺めていた。純血のインディオなのに西洋的な洗練された雰囲気がある。首都に行った記憶がないにも関わらず、彼は彼女がグラダ大学の学生より垢抜けている、と思った。留学経験があるのだろうか。北米で? それともロンドンとかパリとかマドリード? 彼は尋ねてみた。

「君は外国で生活していたみたいだね。」

 ゴンザレスを相手にした時同様、彼女は己に関する質問に一切答えなかった。写真から視線を外して、ミカエルの脚を見た。

「骨折したと聞きましたが、もう治ったのですか?」
「スィ、走ることも飛び跳ねることも出来る。痛みも全くないよ。」
「事故からまだ40日しか経っていません。」
「早過ぎるかな? でも本当に治ったんだ。レントゲンで確認した訳じゃないけど、多分、骨は完全にくっついている。」

 救出された時、折れた骨が皮膚を突き破っていた。医者は松葉杖なしで歩けるようになる迄二月はかかるだろうと言った。しかし、彼は1週間でベッドを出て自力で伝い歩き、2週間で退院した。3週目に杖は不要となった。医者は彼を「神に守られている男」と称したが、それ以上関心を示さなかった。ゴンザレスも彼の治癒速度の速さに言及しなかったし、町の住民も特に驚いた様子がなかった。しかしケツァル少佐は彼の脚に興味を持った。

「手を触れて良いですか?」
「どうぞ。」

 物好きだなと思いつつ、ミカエルは脚を差し出した。短パンの外に出ている部分を自分の指で押さえて見せた。

「折れたのはこの辺りだった。」

 少佐が席を立ち、すっと彼の前に来た。床に片膝を突いて、彼が手で押さえた部分に自分の手を当てた。冷たい手だったが、ミカエルは心地よく感じた。彼女がその手で2回彼の脚を撫でた。

「傷跡もないのですね。」
「治りが早い体質らしいな。」

 ミカエルはそう言ってから、以前にも誰かが同じことを言いながら彼の体に手を触れたことがあった様な気がした。俺は他人より怪我の治りが早い? それは珍しいことなのか? しかし町の住民は気にしていない。否、そうだろうか? 敢えて気にしないことにしているのでは? 
 少佐が立ち上がった。 膝の埃を落とそうともせずに、彼に言った。

「記憶を失っているのでは、仕方がありません。」

 彼女がカルロスの事務所を出て行きそうな気配だったので、ミカエルは引き留めようとした。何となく彼女が彼の身元を知る手がかりを持っていそうな気がした。だから質問した。

「君が探している女は君の友達かい? それとも身内かい?」

 身内の筈はないだろう。写真の女性は白人で、少佐は先住民だ。
 彼女が振り返って初めて彼の質問に答えた。

「私が探しているのは、この女ではありません。」
「それじゃ、どうして彼女の写真を持ち歩いて、尋ねて回っているんだい?」
「この女が持っていた筈の物を探しているのです。」

 少佐が「この女」と発音する時、微かに憎々しげな響があった。

「値打ち物なのか?」
「好きな人には値打ちがあるでしょう。そうでない人には、只の石です。」

 少佐は元の席に戻って座った。

「私が探しているのは、翼を持つネズミの石像、大きさは・・・」

 彼女が手でテーブルから20センチほどの高さを示した。

「灰色の砂岩で、見た目は古い石の塊です。しかし・・・」

 彼女は初めて声に力を入れた。

「我が国の貴重な文化遺産です。」

 何故そんな物を彼女が探しているのだろう。ゴンザレスが彼女を紹介した時、大統領警護隊の少佐だ、と言ったが、警護隊なら大統領府で大統領を守るのが仕事の筈だ。
 ミカエルの疑問を彼女は察したのだろう。声のトーンを元に戻して簡単に説明した。

「写真の女が盗んだのです。」
「それで女を探しているのか・・・見た目が只の石ころなら、事故現場に落ちているんじゃないか?」
「ノ。あそこに行ってみましたが、ありませんでした。」

 少佐が立ち上がった。

「この町に”あれ”はありません。だから彼女はバスの中に”あれ”を持ち込まなかったか、彼女自身がバスに乗らなかったか、なのでしょう。何処かに”あれ”を隠しているのです。私は彼女の立ち寄り先を判明している限り全て調べましたが、何処にもありません。もう売り払ってしまったのかも知れない。或いは誰かに預けたのか。貴方が彼女に出会って彼女の行き先を聞いていたかも知れないと期待したのですが。」
「何も思い出せなくてごめんよ。」

 ミカエルは彼女を見送るつもりで一緒に事務所の出口へ向かった。このまま彼女を去らせたくない、と思った。何故だかわからないが、ひどく懐かしい気持ちがする。このインディオは俺の身元の手がかりを知っているんじゃないか?
 ドアノブに手を掛けて、彼は彼女を振り返った。

「もし俺が石像を探す手伝いをして見つけ出せたら、俺の身元を調べてくれないか?」
「何故私が?」
「君は何か俺のことを知っていそうな気がする。」
「今日が初対面ですよ。」

と言ってから、少佐はちょっと考え込んだ。

「ミカエル・アンゲルスと言いましたね?」
「スィ、俺が所持していた名刺にそう書いてあるんだ。」

 ミカエルが後生大事に持っているしわくちゃの名刺を出して見せると、少佐はそれを手にとろうともせずに、彼の頭から爪先までざっと見た。そして頷いた。

「2日後の夕刻に、オルガ・グランデの教会に来なさい。」

 それだけ告げると、彼女は右手を自身の胸元へ上げた。ミカエルは手を押さえられた様な感じがして、ドアを開けた。少佐がゆっくりと事務所から出て行った。


 ミカエルがエル・ティティを出て行くと言った時、ゴンザレスは黙って頷いただけだった。いつかはいなくなる人間だ。引き止める権利はなかった。何か気の利いた別れの言葉を出せれば良いのだが、口を開けたら悔やみごとしか言えない気がして黙っていた。

「自分が誰なのか確かめに行くんだよ。」

とミカエルは言い訳した。

「貴方と暮らしても恥ずかしくない人間だとわかれば、また戻って来るから。俺は貴方とこの町が好きだから。」

 ゴンザレスは心にもないことを言った。

「こんな田舎に好き好んで戻ることはないさ。」

そして夕方の町にパトロールに出て行った。


記憶喪失の男 2

  ゴンザレスの警察署に1人の女が訪ねてきた。その時ゴンザレスは、反政府ゲリラの移動を封じる道路封鎖に部下を1人出すよう、州警察から難問を与えられて頭を悩ませていた。エル・ティティはバナナ泥棒退治に追われており、ゲリラどころではないのだった。ゴンザレス署長を含めた4人の警察官の勤務シフト表を前に腕組みをしている彼の前に、若い女性が立った。高価なブランド物のスニーカーを見て、ジーンズパンツを見て、垢抜けたシンプルなデザインのシャツを見たゴンザレスは、時々田舎にやって来る物好きな北米のバックパッカーかと思った。しかし顔を見て驚いた。彼女は白人ではなく、生粋の先住民だった。無表情で、しかし目は鋭い光を放っていた。鼻筋の整った美人だが、ちょっと痩せている・・・

「誰だ?」

 問いかけるゴンザレスの目の前に彼女は小さなカードケースを出して開いた。鮮やかな緑色の鳥が見えた。ゴンザレスは息を呑んだ。彼が瞬きをした直後、彼女はケースを閉じてジーンズの尻ポケットに仕舞い込んだ。彼の目を真っ直ぐに見た。セルバ人のマナーとして他人の目を見ることは失礼に当たる。特に先住民が他人の目をそんな風に見ることは滅多にない。魂を奪われると恐るからだ。しかし彼女はゴンザレスの目を正面から見下ろした。彼が彼女の身分を確認したと自信がある目付きだ。
 まさか・・・とゴンザレスは心の中で呟いた。この女性は”ヴェルデ・シエロ”なのか? 大統領警護隊の隊員がこんな所に来るなんて。まさか隊員に女性がいるなんて。まさかこの俺に会いに来るなんて。

「シータ・ケツァル・ミゲール」

と彼女が名乗った。彼女はゴンザレスの自己紹介を必要としておらず、彼に時間を与えずに己の用件に入った。

「40日前のバス転落事故で生存者がいると聞きました。本当ですか?」

 目を直視されているゴンザレスはこっくりと頷いた。ミカエルを探しに来たのだろうか。あの若者を連れて行ってしまうのか? 彼は不安を感じつつも、嘘をつけなかった。彼女がさらに尋ねた。

「生存者に会いたいのですが、現在何処にいるかご存知ですか。」

 彼女は軍人らしくない丁寧な言葉遣いで彼に尋ねた。

「彼は私の家にいる。行く所がないから・・・」

 ゴンザレスは答えて、彼女の目に失望の色が浮かぶのを見た。彼女が独り言の様に呟いた。

「生存者は男ですか・・・」

 彼女はミカエルを探しに来たのではなかった。ゴンザレスは若者の身元がわかるかも知れないと言う希望が失われたことを残念がるよりも、安堵を覚えた。すると少し女性の訪問目的に興味が湧いた。

「女性をお探しか、セニョリータ?」

 彼女が少しムッとした声で言った。

「セニョリータではなく、少佐です。スィ、私は女性を探しています。」

 彼女は質問した。

「生存者は1人だけですね?」
「スィ、他の37人は全員死んじまってた。」
「即死?」
「多分。 爆発音が聞こえて、町の住民達が山の方を見たら、火が上がっていた。バスが山道を上がって行ったことは皆んな知っていたから、車を動かせる者は殆ど全員ですっ飛んで行った。だが、現場に着く迄に半時間はかかった。着いた頃にはバスは燃え尽きかけていたよ。原型を留めていなかった。車内に残ったモノは人も荷物も全部灰になっていた。ああ・・・骨は多少残っていたかな。外へ投げ出された連中は無惨だった。岩に打ち付けられたり、吹き飛ばされて体が千切れていたり。ミカエルも酷い重傷だった。左脚が折れていたし、全身創痍だった。頭を打って、今もって何も思い出せない。」
「記憶喪失?」

 彼女は少し興味を抱いた。

「本当に何も思い出せないのですか?」
「私はそう言っただろう。ミカエルって名も、便宜上私が付けてやったんだ。」

 彼女が彼から視線を外し、窓の外に目を向けた。外の風景は埃っぽい煉瓦造の壁と乾いた地面と、買い物に行く女性や年寄りが歩いている、セルバ共和国の平凡な田舎町のものだった。彼女は何か考え込んでいた。ゴンザレスは質問される側にいることが不満だったので、彼の方からも尋ねてみた。

「バスに貴女の知り合いでも乗っていたのかね?」

 彼女が彼に視線を戻した。感情を表さない黒い先住民の目で再び彼の目を見た。彼の質問に答えず、再び自分の質問をした。

「死亡者の身元は全員判明したのですか?」
「いや・・・」

 ゴンザレスは少し躊躇った。犠牲者の半分は焼死体で、親が見ても判別出来ない程に痛みが激しかった。焼け残った荷物や車外に放り出された物も彼等の身元確認の手助けにならなかった。行商人や近隣の住民ばかりだったのだ。身元を示す決定的な物証は何もなかった。遺体の引き取り手があったのは、外に投げ出されていた人達10人ばかりで、残りは町の共同墓地に葬られた。引き取り手のない遺品・遺物は警察が保管している。ゴンザレスは少佐に言わなかったが、遺物で金目のものは救援活動の時に、どさくさに紛れて捜索者の誰かが持って帰ってしまっただろう。もしそれが身元確認に役立つ情報だったとしても、持ち帰った者は気にしない筈だ。
 ゴンザレスは机の引き出しからノートを出した。

「バスに乗っていたと思われる人間の名前を書き留めてある。線で消してあるのは、バスに乗らなかったと後日判明した人。赤丸が付けてあるのは、身元が判明して遺族が引き取った人。さて、この中に貴女が探している女性はいるかな?」

 ケツァル少佐はまだ立ったままだった。ゴンザレスは彼女に椅子を勧めるのを忘れていたのだ。しかし彼女は一向に気にせず、ノートを引き寄せ、机の上に置いたまま、片手でページをめくった。ゴンザレスの殴り書きにさっと目を通す。
 バスの乗員乗客は全部で38名。ノートの中の名前はそれより多い63名。線で消されているのは45名。赤丸は11名。残りの7名にも彼女が探している名前はなかったようだ。
 彼女はノートを閉じると、ゴンザレスに押し返した。それからシャツの胸ポケットから一枚の写真を出した。

「屍人の中に、この写真の女性はいませんでしたか?」

 ゴンザレスはシワだらけの写真を眺めた。若い白人の女性で、高そうなスーツを着ている。金髪で意志が強そうなキツい目で正面を向いている。しかし美人とは言い難い。

「皆んな、殆ど灰になってたからなぁ・・・」

 ゴンザレスは写真を少佐に返した。焼死体を思い出したくなかった。

「共同墓地を掘り返して歯型でも調べるかね? 私等は近隣の歯医者に懸かった人しか調べていない。グラダ・シティ(首都)までは調べられないから。どうしても掘り返したいって言うんなら、許可するぞ。」

 それには答えないで、少佐は写真をポケットに仕舞い、こう言った。

「生存者に会わせて下さい。」



2021/06/10

記憶喪失の男 1

 彼の名前を誰も知らなかった。どこから来たのか、何の仕事をしていたのか、そこから何処へ行くつもりだったのか、知っている者は1人もいなかった。彼は、ルート43号線がティティオワ山を上って行く中程の崖から転落したバスの乗員乗客38名の中の、唯1人の生存者だった。左大腿骨骨折と全身打撲、無数の挫創を負っていたが、彼は奇跡的に生き残り、救助された翌日には意識を取り戻した。しかし、彼の記憶は失われていた。
 彼の所持品はバスと共に焼けてしまっていた。彼のボロボロになった衣服には、彼の身元を示す物が何一つなかった。身分証、運転免許証、パスポート、診察券、彼の名を知る手がかりは一つもなかった。唯一、彼のズボンの尻ポケットに入っていたシワクチャの名刺らしき紙片には、”ミカエル・アンゲルス”と印刷されていた。地元警察は彼の顔写真と名刺を新聞に掲載してみたが、彼の身元を判明させる有力な情報は一つも得られなかった。
 エル・ティティ警察の署長アントニオ・ゴンザレスは彼に”ミカエル・アンゲルス”と仮の名を与え、傷が癒えた彼を自宅へ連れ帰った。ゴンザレスは2年前に妻子を流行病で亡くし、一人暮らしだった。ミカエルは通人よりも早く回復して、ゴンザレスの家の家事を手伝い始めた。エル・ティティの住民は多くが先住民の血を引くメスティーソだったが、ミカエルは白人だった。ゴンザレスの勘では北の国から来た人間だろうと思われたが、ミカエルは流暢にスペイン語を話し、読み書きも出来た。仕事は真面目で丁寧、性格は明るく素直で、ゴンザレスはこの若者がすぐに好きになった。病気で亡くなった息子が帰って来たような気がした。彼の孤独で味気なかった生活に小さな灯りが灯った様だった。
 ゴンザレス家は決して大きくない。10分もあれば掃除は完了する。掃除の後は洗濯で、手洗いだが男2人の服など量が知れているから、これも大して時間はかからない。ミカエルは川で洗濯をして、庭に衣服を干したら直ぐに暇になった。脚が完治するまで何もしなくて良い、とゴンザレスは言ってくれたが、己の食費ぐらいは己で稼ごうと彼は思った。それで街に出かけた。
 エル・ティティは小さな町だ。ティティオワ山のなだらかな斜面にへばり付いている貧しい町だ。主力産業はバナナ栽培、狭い耕地に芋やトウモロコシを栽培して細々と暮らしている。この町が抱える最大の社会問題は仕事がないことだった。だから他所者に働く場はないと思われたが、ミカエルは算術も読み書きも出来た。それで町で唯1人の会計士ホセ・カルロスの助手になった。難解な文章を作成することも、パソコンを使うことも、客に法律を解説することも出来たので、カルロスに重宝がられた。町長までが彼に書簡の代筆を頼みに来たので、気がつくとミカエルは町の代書屋になっていた。病院から退院して一月経つ頃には、彼は何人か顧客を持っていた。収入は現金より農作物や生活用品などの現物が多かったが、ゴンザレスは満足し、良い拾い物をした気分になっていた。ミカエルには内緒だが、このまま彼の記憶が戻らず、身元不明のまま、この街にいてくれたらなぁと思い始めていた。このまま2人で暮らして、ミカエルを養子にして、嫁を迎えてやって・・・と彼は勝手な夢を抱くようになった。
 しかし、ミカエル・アンゲルスは決して現状に満足していなかった。エル・ティティでの生活は楽しかったが、己の身元が不明なままと言う状況は彼を不安にさせた。全てが明らかになった上でこの町で暮らせたら、どんなに心がスッキリするだろうか。身元判明の手がかりが一切ないこと、誰も彼を探しに来ないことが、彼を落ち着かせなかった。自分は親兄弟も友人もいない人間だったのだろうか。犯罪者ではなかったのか。ここにいることが、ゴンザレスや、仲良くしてくれる町の住民達に災難をもたらしはしないだろうか。
 そしてある日、彼の下に訪問者があった。

第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...