ミカエルは面会者と聞いた時、己の身元が判明するのかと期待した。だから見知らぬ女性から見覚えのない女性を知っているかと尋ねられて、がっかりした。
「思い出せるのは炎だけなんだ。」
彼等は会計士カルロスの事務所で、擦り切れた布張りの肘掛け椅子にそれぞれ向かい合って座っていた。彼は少佐を見た時、心の中で、「あっ! インディオだ!」と思った。下宿の大家ゴンザレスも雇い主のカルロスも、エル・ティティの住民の殆どが先住民の血を引くメスティーソだから、先住民を見て驚くことはない筈だった。しかし彼はこの時、純血の先住民を見たのは初めてだ、と言う気持ちがした。セルバ共和国の国民だったらそんな気分になる訳がないのだが。
少佐はミカエルが返した写真を手に取って暫く眺めていた。写真の女性が何処にいるのか、死んでしまったのか、と考えているのだろう。ミカエルはそんな彼女を眺めていた。純血のインディオなのに西洋的な洗練された雰囲気がある。首都に行った記憶がないにも関わらず、彼は彼女がグラダ大学の学生より垢抜けている、と思った。留学経験があるのだろうか。北米で? それともロンドンとかパリとかマドリード? 彼は尋ねてみた。
「君は外国で生活していたみたいだね。」
ゴンザレスを相手にした時同様、彼女は己に関する質問に一切答えなかった。写真から視線を外して、ミカエルの脚を見た。
「骨折したと聞きましたが、もう治ったのですか?」
「スィ、走ることも飛び跳ねることも出来る。痛みも全くないよ。」
「事故からまだ40日しか経っていません。」
「早過ぎるかな? でも本当に治ったんだ。レントゲンで確認した訳じゃないけど、多分、骨は完全にくっついている。」
救出された時、折れた骨が皮膚を突き破っていた。医者は松葉杖なしで歩けるようになる迄二月はかかるだろうと言った。しかし、彼は1週間でベッドを出て自力で伝い歩き、2週間で退院した。3週目に杖は不要となった。医者は彼を「神に守られている男」と称したが、それ以上関心を示さなかった。ゴンザレスも彼の治癒速度の速さに言及しなかったし、町の住民も特に驚いた様子がなかった。しかしケツァル少佐は彼の脚に興味を持った。
「手を触れて良いですか?」
「どうぞ。」
物好きだなと思いつつ、ミカエルは脚を差し出した。短パンの外に出ている部分を自分の指で押さえて見せた。
「折れたのはこの辺りだった。」
少佐が席を立ち、すっと彼の前に来た。床に片膝を突いて、彼が手で押さえた部分に自分の手を当てた。冷たい手だったが、ミカエルは心地よく感じた。彼女がその手で2回彼の脚を撫でた。
「傷跡もないのですね。」
「治りが早い体質らしいな。」
ミカエルはそう言ってから、以前にも誰かが同じことを言いながら彼の体に手を触れたことがあった様な気がした。俺は他人より怪我の治りが早い? それは珍しいことなのか? しかし町の住民は気にしていない。否、そうだろうか? 敢えて気にしないことにしているのでは?
少佐が立ち上がった。 膝の埃を落とそうともせずに、彼に言った。
「記憶を失っているのでは、仕方がありません。」
彼女がカルロスの事務所を出て行きそうな気配だったので、ミカエルは引き留めようとした。何となく彼女が彼の身元を知る手がかりを持っていそうな気がした。だから質問した。
「君が探している女は君の友達かい? それとも身内かい?」
身内の筈はないだろう。写真の女性は白人で、少佐は先住民だ。
彼女が振り返って初めて彼の質問に答えた。
「私が探しているのは、この女ではありません。」
「それじゃ、どうして彼女の写真を持ち歩いて、尋ねて回っているんだい?」
「この女が持っていた筈の物を探しているのです。」
少佐が「この女」と発音する時、微かに憎々しげな響があった。
「値打ち物なのか?」
「好きな人には値打ちがあるでしょう。そうでない人には、只の石です。」
少佐は元の席に戻って座った。
「私が探しているのは、翼を持つネズミの石像、大きさは・・・」
彼女が手でテーブルから20センチほどの高さを示した。
「灰色の砂岩で、見た目は古い石の塊です。しかし・・・」
彼女は初めて声に力を入れた。
「我が国の貴重な文化遺産です。」
何故そんな物を彼女が探しているのだろう。ゴンザレスが彼女を紹介した時、大統領警護隊の少佐だ、と言ったが、警護隊なら大統領府で大統領を守るのが仕事の筈だ。
ミカエルの疑問を彼女は察したのだろう。声のトーンを元に戻して簡単に説明した。
「写真の女が盗んだのです。」
「それで女を探しているのか・・・見た目が只の石ころなら、事故現場に落ちているんじゃないか?」
「ノ。あそこに行ってみましたが、ありませんでした。」
少佐が立ち上がった。
「この町に”あれ”はありません。だから彼女はバスの中に”あれ”を持ち込まなかったか、彼女自身がバスに乗らなかったか、なのでしょう。何処かに”あれ”を隠しているのです。私は彼女の立ち寄り先を判明している限り全て調べましたが、何処にもありません。もう売り払ってしまったのかも知れない。或いは誰かに預けたのか。貴方が彼女に出会って彼女の行き先を聞いていたかも知れないと期待したのですが。」
「何も思い出せなくてごめんよ。」
ミカエルは彼女を見送るつもりで一緒に事務所の出口へ向かった。このまま彼女を去らせたくない、と思った。何故だかわからないが、ひどく懐かしい気持ちがする。このインディオは俺の身元の手がかりを知っているんじゃないか?
ドアノブに手を掛けて、彼は彼女を振り返った。
「もし俺が石像を探す手伝いをして見つけ出せたら、俺の身元を調べてくれないか?」
「何故私が?」
「君は何か俺のことを知っていそうな気がする。」
「今日が初対面ですよ。」
と言ってから、少佐はちょっと考え込んだ。
「ミカエル・アンゲルスと言いましたね?」
「スィ、俺が所持していた名刺にそう書いてあるんだ。」
ミカエルが後生大事に持っているしわくちゃの名刺を出して見せると、少佐はそれを手にとろうともせずに、彼の頭から爪先までざっと見た。そして頷いた。
「2日後の夕刻に、オルガ・グランデの教会に来なさい。」
それだけ告げると、彼女は右手を自身の胸元へ上げた。ミカエルは手を押さえられた様な感じがして、ドアを開けた。少佐がゆっくりと事務所から出て行った。
ミカエルがエル・ティティを出て行くと言った時、ゴンザレスは黙って頷いただけだった。いつかはいなくなる人間だ。引き止める権利はなかった。何か気の利いた別れの言葉を出せれば良いのだが、口を開けたら悔やみごとしか言えない気がして黙っていた。
「自分が誰なのか確かめに行くんだよ。」
とミカエルは言い訳した。
「貴方と暮らしても恥ずかしくない人間だとわかれば、また戻って来るから。俺は貴方とこの町が好きだから。」
ゴンザレスは心にもないことを言った。
「こんな田舎に好き好んで戻ることはないさ。」
そして夕方の町にパトロールに出て行った。