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2022/01/01

第4部 牙の祭り     33

  結局フィデル・ケサダ教授がセニョール・シショカの”砂の民”としての仕事に干渉した理由は、彼が息子の1人を失ったピア・バスコ医師に同情したからだと言う結論に至った。
 グラダ大聖堂を出たテオとケツァル少佐はムリリョ博士と別れ、ピア・バスコ医師の家に行った。まだ通夜は続いており、遺族は忙しさに哀しみから少し解放された様子だった。アスルはリビングの隅っこに座って、ビダル・バスコ少尉と時々話をしていた。ビダルは本部へ所持品を取り戻した報告をして、新しい制服を着て戻っていた。ケツァル少佐が入って行くと、2人が立ち上がって迎えた。少佐がビダルに外へと合図した。
 テオは車の中で待っていた。少佐がビダルを暗がりの中へ連れて行き、目を合わせた。ほんの一瞬だったが、情報は伝わった。ビダルは弟が不毛な恋をした挙句、道を踏み外してしまい、”砂の民”の制裁を受けたこと、恋敵に刺されて致命傷を負ったこと、その恋敵は”砂の民”に粛清されたことを伝えられた。真実は残酷だったが、ビダルは健気に受け止めた。
 少佐が優しい表情で彼に何か言った。きっと「泣いても良い」と言ったのだろう、とテオは想像した。しかしビダル・バスコ少尉は顔をきっと上げ、真っ直ぐ少佐を見て敬礼した。そして家の中に戻って行った。
 少佐が家の中をそっと覗き込み、部下に撤収の合図を送った。アスルが出てきた。ベンツで市内を走り、閉店迄まだ時間があるセルド・アマリージョに行った。店内は賑わっていた。ウェイトレスが3人忙しげに歩き回っていた。グラシエラ・ステファンはこの夜がバイトの最終日だ。いつもより多めに笑顔を振る舞っているかの様に見えた。ロホはカウンターの奥の端っこでビールをちびちび飲んでいたが、入り口に上官とアスル、テオが現れたので、飲みかけの瓶を持って彼等のテーブルへ移動した。

「解決しましたか?」
「無事にしました。」

 少佐がロホ、アスルの順で情報を”心話”で伝えた。

「あのおっさんが絡んでいたのか。」

とアスルが嫌そうに呟いた。「あのおっさん」とはセニョール・シショカのことだ。純血種のアスルはシショカの意地悪の対象から外れているのだが、建設大臣が少佐をデートに誘いたいと希望する度に文化保護担当部へやって来る私設秘書殿にうんざりしているのだった。勿論、シショカの人柄も好きでない。メスティーソの仲間を見るシショカの視線が大嫌いなのだ。カルロ・ステファンがいなくなった今、アスルはマハルダ・デネロス少尉とアンドレ・ギャラガ少尉を己が守らなければと意気込んでいた。
 ロホは報われない恋にがむしゃらに突き進んでしまった若者の末路を哀れに思った。きっと大統領警護隊のスカウトから漏れた時点で、ビト・バスコには兄に対する劣等感が生まれてしまったのだ。そうでなければ、憲兵が駄目なら大統領警護隊で、と言う発想は生まれない。憲兵だって市民から畏敬の目で見られている筈だから。

「スカウトも罪な人選をしたもんだ。」

とロホは呟いた。テオが囁いた。

「どうして、1人しか選ばなかったのだろう?」
「それは・・・」

 ケツァル少佐が小さく溜め息をついた。

「母親の為です。息子2人共を大統領警護隊に採ってしまったら、家族全員が揃うことは息子が引退する年齢になる迄ありませんから。」
「それじゃ、ビダルが憲兵でビトが警護隊と言う可能性もあったんだ・・・」
「恐らく、スカウトが目を見た時に、ビダルの方が警護隊への適性が高いと判定されたのでしょう。実際、先刻捜査結果を教えた時、ビダルは感情を昂らせたものの、自力で制御しました。弟が行方不明の時の探し方も冷静でした。常に庶民と接する憲兵隊にあの冷静さは時に障害となりますが、大統領警護隊では必要不可欠です。反対にどんな手段を用いてでも困っている人を助けようとしたビトの情熱は、市井で警備に当たる憲兵隊に必要でした。」
「ビト・バスコ曹長は運が悪かったんだな。相手があの男で、女性も彼にふさわしくなかった。」

 少佐がグラシエラを呼び、ウィスキーのグラス4つを注文した。お酒が来ると、彼等はそれぞれの手にグラスを持った。少佐がグラスを掲げた。

「ビト・バスコ曹長に。」

男達が声を合わせた。

「ビト・バスコ曹長に。」


第4部 牙の祭り     32

 「え? どう言うことだ?」

 テオはちょっと混乱しそうになった。
 フィデル・ケサダが純血種のグラダ族の男なら、ナワルは黒いジャガーでなければならない。しかし彼は”砂の民”となった。だからナワルはピューマだ。この世に有り得ない黒いピューマならば、大神官の素質がある。しかし、ムリリョは言った。ケサダのナワルは「黒くない」と。

「普通のピューマだったってことか?」
「ノ。」

 意味がわからずテオは助けを求めてケツァル少佐を見た。少佐がグッと考えて、それから顔を上げた。

「見てはいけないものと私が言った時、貴方は私に記憶を見せまいと目を閉じられました。そして黒いピューマの話をされました。黒いピューマの伝説なら私も聞いたことがあります。貴方が私に記憶を読ませまいとなさっても、私は想像出来ます。貴方がご覧になったのは、伝説にないものですね?」
「伝説にないもの?」

 テオの質問に少佐が彼を振り返った。

「伝説にはありませんが、実在は確認されているものです。」
「ケツァル・・・」

とムリリョ博士が哀願する目で彼女を見た。しかし少佐はテオに言った。

「大神官になるに十分な能力を持ちながらも、大神官になることを許されないグラダの男性がいるのです。古代では、生贄に選ばれていました。”ヴェルデ・シエロ”だけでなく、”ティエラ”でも、鹿でも鳥でも猿でも、同じ色のものは生贄の対象でした。」
「同じ色のもの?」

 ムリリョが呟いた。

「白だ。」

 テオはぽかんとした。自然界では十分あり得る存在なのに、今まで”ヴェルデ・シエロ”の世界で彼は想像すらしたことがなかった。殆ど外観が白人のアンドレ・ギャラガでさえ、そのナワルは薄いけれど黒いジャガーなのだ。

「そう言えば・・・」

 彼は頭を掻いた。

「白いライオン、白い虎、白い豹、白い猫は見たことがある。だが、白いジャガーや白いマーゲイ、白いピューマは聞いたことがない。旧大陸のネコ科の動物に白変種は出現するが、新大陸は黒変種だ。但し、ピューマは実例が1件もないがね。白いピューマはブラジルで撮影された写真がS N Sで公開されて話題になったことがある。」

 彼はムリリョ博士を見た。

「フィデル・ケサダは白いピューマに変身するのですね? 勿論現代のあなた方は生贄などなさらないでしょうけど、彼は一族にも自分のナワルを知られたくない。ピューマはジャガーに存在を知られたくないし、白い毛皮も目立ち過ぎて彼の目立たずに生きる主義に反する。そうですね?」

 ムリリョが首を振った。

「あれの人柄や能力の高さを称賛して、彼を次の族長にと言ってくれるマスケゴ族の有力者達は多い。儂も儂自身の子供達より彼の方が族長にふさわしいと信じている。しかし、どんなに隠してもあれはグラダなのだ。あれの子供達も半分グラダだ。儂は正しい能力の使い方をあれとあれの家族に教えてくれる人を探したが、未だに見つからぬ。」
「それなら・・・」

 ケツァル少佐が微笑んだ。

「一緒に勉強して自分達で習得していきましょう。大統領警護隊の3人とケサダ家の人々で互いに学び合います。カルロ・ステファンとアンドレ・ギャラガは軍人ですから攻撃に用いる力の使い方を知っています。フィデルは考古学者ですから伝統的な祈りや守護の為に用いる力に熟知している筈です。考古学の特別ゼミでもフィデルに開いてもらって、カルロとアンドレに受講させてはどうでしょう? たまには課外学習などで・・・」
「軍事訓練とか?」

 とテオが言うと、ムリリョ博士が初めて笑った。

「フィデルの子供は全員娘だぞ、ケツァル。彼女達と一緒にお前も神殿での作法を習うか?」
「そ・・・それは・・・」

 少佐が焦ってテオを見た。そんな目で見られても助け舟は出せないぜ、テオは肩をすくめて見せた。



第4部 牙の祭り     31

 「ムリリョ博士、」

とテオは話しかけた。

「フィデル・ケサダ教授の出身地はオルガ・グランデだと聞きました。もしかして、彼の母親はマレシュ・ケツァル、改名してマルシオ・ケサダと言う女性ではありませんか?」

 ムリリョ博士がジロリと彼を見て、それから視線をケツァル少佐に移した。

「イェンテ・グラダ村での話をこの男に語ったのか、ケツァル?」
「何のことでしょう?」

と少佐は惚けてみせたが、そんな小芝居が通じる相手でないことは承知していた。

「村跡で聞いたり見たりした話はしていません。ただ、私がとても興味を抱いたことを、彼に言ったまでです。現在、グラダ族はカルロ・ステファンとアンドレ・ギャラガ、そして私だけです。カタリナ・ステファンと娘のグラシエラは能力を封印されているのでグラダとは認めてもらえません。私は純血種ですが女です。男の能力の使い方を完全には理解していません。もし他にグラダの男性がいるなら、カルロとアンドレの指導をお願いしたいと思うのです。」

 ムリリョ博士が天井へ顔を向けた。悩んでいるのか? テオは、その態度は少佐の考えを認めたことだ、と思った。

「もし、力の正しい使い方を知るグラダの男がいるなら・・・」

とムリリョ博士が囁く様に言った。

「この儂が頼みたい。フィデルにその使い方を教えてやってくれ、と。」

 彼はケツァル少佐に視線を戻した。

「お前が睨んだ通り、確かにあの男はグラダだ。紛れもなく純血のグラダの男だ。」

 テオは息を呑んだが、ケツァル少佐も目を見張った。

「マレシュはあれの父親が誰なのか明かさなかった。父親である男にも明かさなかった。だが、エウリオ・メナクかヘロニモ・クチャのどちらかだ。グラダの女らしくと言うか、イェンテ・グラダ村の風習に従って複数の男と関係を持ったのだ。生まれた赤ん坊はそれまで誰も感じたことがない強い気を放っていた。シュカワラスキ・マナに匹敵する強さだった。エウリオ、ヘロニモ、そしてマレシュはイェンテ・グラダ村が一族によって滅ぼされたことを知っていた。3人の幼子がグラダ・シティに連れて行かれたことも知っていた。オルガ・グランデに住み着いた3人のグラダの血を引く者達は自分達の赤ん坊を守る為に、子供の父親を偽って届け出た。オルガ・グランデ生まれでグラダ・シティに引っ越したマスケゴ族の男の名前を借りたのだ。だから役所に出されたフィデルの出生届の父親の欄には、母親が会ったこともない男の名前が書かれている。
 儂はシュカワラスキ・マナがオルガ・グランデに逃亡する前に、オルガ・グランデ周辺の遺跡調査の為に彼の地にいた。そして3人のイェンテ・グラダの生き残りと知り合った。彼等は儂が”砂の民”とは知る筈もなく、ただ一族の考古学者だと言う認識だった。儂の方は彼等が滅びた村の生き残りと知って心の中で仰天していたのだがな。その時、エウリオは既にメスティーソの女と結婚して娘がいた。ヘロニモは独り身だった。マレシュは男のふりをして生きていた。身を守るためだ。だから彼女が女であることを知ったのは、かなり後のことだ。マレシュの家に若い男が1人いた。儂が出会った時、まだ少年だった。3人の生き残り達は儂にその子をグラダ・シティへ連れて行ってくれと頼んできた。教育を受けさせ、マスケゴ族として相応に仕込んでくれと。儂はまだその頃は族長でも長老でもなかった。だが、そんな子供が部族の中にいるとは知らなかったので驚いた。誰の子かと訊いても書類通りの答えしか返って来なかった。」

 少佐が尋ねた。

「フィデルは父親が誰かは知らない。でも母親は知っているのでしょう?」
「2人きりの時のマレシュは女に戻っていたからな。彼女はフィデルに言い聞かせ、儂についてグラダ・シティに行くことを承知させた。まだ10代になったばかりの子供だ。心細かっただろう。必ず後から行くと言う母親の言葉を信じて、彼は儂と共にグラダ・シティに来て、儂の家でそのまま育った。やがてオルガ・グランデの戦いが始まり、儂は役目を果たさねばならなくなった。フィデルは儂の妻が養育を続けた。徹底してマスケゴの男らしく、目立たず誇りを保ち、気高く生きろと。戦いが終わり、儂が3人のイェンテ・グラダの生き残り達と別れて家に戻った時、フィデルは成年式を迎えようとしていた。マスケゴの族長と長老達、養い親の前で彼は変身して見せた。」

 そこでムリリョは黙り込んだ。テオは待った。ケツァル少佐も待った。
 グラダ族の男性のナワルは黒いジャガーだ。”砂の民”のナワルはピューマだ。そして、人間が知る限り、自然界でも飼育下でも、黒いピューマの存在が確認されたことは一度もない。
 博士が口を開きそうにないので、ケツァル少佐が思い切って言った。

「貴方は、見てはいけないものをご覧になったのですね?」

 テオは彼女を見た。少佐はそれ以上言ってくれなさそうだ。ムリリョを見ると、こちらは目を閉じた。見たものを瞼の内側でもう一度見ているのかも知れない。ムリリョ博士が微かに身震いした。

「古代の大神官のナワルを見ることを許されるのは、ママコナだけなのだ。」

と彼は囁いた。

「大神官?」

 テオは思わず呟いてしまった。
 シュカワラスキ・マナは大神官に仕込まれようとして、修行を嫌い、自由を求めて逃亡した。純血種の黒いジャガーだったから。それが純血種の黒いピューマだったら、どうなるのだ?

「グラダ族から過去にピューマを出したことはなかったのか?」
「グラダは古代に滅びたことになっていた。混血が進んだからだ。だが言い伝えは残っている。大神官に選ばれるグラダの男は黒いピューマが優先されると。それだけ、古代でも珍しい存在だったのだろう。」
「それじゃ、ケサダ教授は大神官になれる人なのか?」
「ノ!」

 ムリリョ博士がはっきり否定した。

「大神官の修行は幼少期から始めねばならぬ。フィデルは成年式で何者か判明した。修行を始めるのは手遅れだったし、本人も望んでおらぬ。彼は母親の希望を尊重しマスケゴ族として生きる道を選んだ。」
「でも、力は誰よりも大きい・・・」

 少佐の言葉に博士は大きく頷いた。

「恐らく、現在生きているどの”ヴェルデ・シエロ”より彼は大きな力を持っておる。それに、彼のナワルは黒くないのだ。」


2021/12/31

第4部 牙の祭り     30

「バスコ兄弟はピア・バスコの息子だったのか。」

とムリリョ博士は呟いた。博士もあのアフリカ系の医師を知っているのだ。年齢的にピア・バスコ医師とフィデル・ケサダ教授は同じ時期に大学生活を送ったと思われた。もしかするとキャンパス内で何度も出会っていたかも知れない。ムリリョ博士も当時は現在よりも大学で仕事をする時間が長かっただろう。
 ケツァル少佐は全く別のことを疑問に感じた様だ。彼女が質問した。

「セニョール・シショカはどうしてフィデル・ケサダの要求をあっさり呑んで、ビダル・バスコの所持品を彼に渡したのです? 後で貴方に苦情を言い立てたのですから、不本意だったのでしょう?」

 ムリリョ博士が口元に微かに苦笑を浮かべた。

「シショカはフィデルを怒らせたくなかったのだ。」
「何故?」

とテオが尋ねると、少佐が答えを思いついて言った。

「フィデルの方がシショカより強いからでしょう?」

 ムリリョ博士がまた微笑を浮かべたが、今度は苦笑ではなかった。 テオはちょっと意外な気がした。”砂の民”は”ヴェルデ・シエロ”のどの部族からも選ばれると言う。選考条件はピューマのナワルを持っていることだ。(それを考慮するとマーゲイのナワルを持つグワマナ族から”砂の民”は出ていなさそうだ。)偶然だろうが、テオが知っている”砂の民”の3人は全員純血種のマスケゴ族だ。ムリリョ博士、ケサダ教授、セニョール・シショカ。年齢や経験の長さ、多さはあるだろうが、能力の強さは同じではないのか?
 そして、彼はケツァル少佐がケサダ教授の出生に疑惑を抱いていることを思い出した。少佐の疑念が正しければ、ケサダ教授はマスケゴ族ではなくグラダ族だ。少なくともグラダ族の血を濃く受け継ぐ部族ミックスの純血種だ。白人の血を引くミックスのカルロ・ステファンは黒いジャガーに変身する。エル・ジャガー・ネグロとしてグラダ族に認定されている。そしてロホが言っていた。まともに対決すればマスケゴ族のシショカはステファンの力の前ではひとたまりもないだろうと。フィデル・ケサダは、きっとピューマに変身するグラダ族なのだ。黒いジャガーではないから、誰も彼がグラダ族だと気がつかない。ムリリョ博士を除いて。セニョール・シショカは本能的にケサダが己より強い力を持っていると感じるのだろう。だから、ケサダ教授からビダル・バスコの所持品を渡せと要求され、渋々従った。

「フィデルはセニョール・シショカがビダルを罰するためにビダルの所持品を持っていると知ったのです。そして彼はそれを『やり過ぎ』だと感じた。だからシショカの屋敷に乗り込んでビダルの所持品を没収したのです。ビダル・バスコを罰するのは、大統領警護隊の彼の上官の役目であって、シショカの仕事ではないとフィデルは考えたのです。違いますか?」

 ケツァル少佐の言葉に、ムリリョ博士が初めて頷いた。

「確かに、その通りだ。儂もシショカにビダルの所持品を何故すぐに本人に返さなかったと訊いた。あいつは”出来損ない”に未熟さを自覚させる為だと言った。それは大統領警護隊におけるバスコの上官の仕事だと儂は言い、ケサダには他人の仕事に干渉するなと言い含めておくと言って、シショカを退がらせた。」
「博士はまだ教授に会われていないのですか?」

 テオの質問に、ムリリョ博士がニヤリと笑った。

「あいつは今日の午後2時過ぎのバスで北部の遺跡へ行った。クイのミイラを探しに行くと言っていた。シショカが苦情を言いに来たのはその後だ。」
「そう言えば、先週考古学部から申請が出ていました。監視不要の遺跡なので即日許可を出した場所です。」


第4部 牙の祭り     29 

  ムリリョ博士は語り続けた。

「ビト・バスコ曹長を追い出した後、暫くしてモントージャが娘が家からいなくなっていることに気がついた。アンパロは主人と父親が憲兵に気を取られている間に逃げ出したのだ。モントージャとしては主人に娘を探してくれとは言えない。だが彼は娘は憲兵と一緒に逃げたと思った。時間的にそう言うタイミングだったのだ。それでモントージャは主人にこう言ったそうだ。『偽の大統領警護隊隊員からI Dを回収なさらなくてもよろしいのですか?』と。シショカはI Dの写真からビトにはビダルと言う双子の兄弟がいると悟っていた。黒い肌の双子の”出来損ない”がいると言う噂を知っていた。放置してもビトはビダルにI Dを返すだろうと思ったが、”出来損ない”の分際で彼の屋敷に入り込んだ事実には、腹が立った。夜だった。
 シショカはナワルを使い、ビトを追跡した。道で若造に追いつき、襲いかかった。シショカは儂に言った。若造は襲われた理由を悟ったと。ビトは噛まれながら言ったそうだ。2度としません、と。シショカは制服を引き裂いた。そうすればビトが真っ直ぐ兄の下へ帰るだろうと思ったからだ。全身傷だらけになり、ビトは逃げ去った。彼が走って行った方向に、その日”入り口”ができていることをシショカは知っていた。だから彼はそれ以上若造を追わなかった。」

 ムリリョ博士はそこで一息ついた。テオとケツァル少佐は黙って彼が話を再開するのを待った。まだ半分だ。ミレレスがトラックに轢き逃げされた過程を知らなければならない。そしてシショカがビダルのI D等を手に入れた過程も。
 テオはふと気がついた。

「何か飲む物を買ってこようか?」

 しかしムリリョは首を振った。

「観光客が多い。」

 そして彼は続きを始めた。

「夜更けにアンパロが屋敷に戻って来た。小娘は震えていた。恐ろしいものを見たのだ。彼女はシショカの屋敷を抜け出した後、ミレレスと落ち合った。2人でペロ・ロホの本拠地へ行こうとした時、全身傷だらけのビトと出会った。ビトは一緒にいる2人を見て、利用されたことを悟ったのだ。だが彼が拳銃を抜くより早くミレレスが彼を刺した。ビトは一度倒れた。ミレレスは彼が死んだものと思い、彼から財布や拳銃、IDカードを奪い取った。しかしビトはまだ生きていた。彼は最後の力を振り絞り、そばにあった”入り口”に飛び込んだ。
 人間が空中で消えるのを、アンパロとミレレスは見てしまったのだ。アンパロは大統領警護隊の制服を着た人間を刺したミレレスを置いて逃げ帰った。恐怖に駆られたのだ。
 モントージャは娘からその話を聞き、主人に告げた。」

 テオとケツァル少佐は一瞬息を止めてしまった。テオは気温が1度下がった様な気がした。
”ヴェルデ・シエロ”が空間通路に消える現場を目撃してしまったアンパロ・モントージャとぺぺ・ミレレス、そしてその話を聞いた父親のモントージャ。

「セニョール・シショカは忙しくなったのですね。」

とケツァル少佐が皮肉を言った。ムリリョ博士がフンっと言った。

「笑い事ではないぞ、ケツァル。」

 テオはアンパロと父親の現況を案じた。彼等は生きているのだろうか。その答えをムリリョ博士は知っていた。

「シショカはモントージャ父娘から記憶を抜いた。そして直ちにぺぺ・ミレレスの追跡を始めた。ミレレスは己が目撃したものが何か完全に理解していなかったが、見てはならないものだとわかっていた。そして己が刺した男が普通の人間でないことも悟った。普通なら、セルバ人はこんな場合大統領警護隊に救いを求める。だが彼が刺した憲兵は大統領警護隊の制服を着ていた。身内にロス・パハロス・ヴェルデスがいることは間違いない。彼は頼れる者を探して街を彷徨った。ペロ・ロホは頼りにならない。警察も駄目だ。憲兵隊は当然駄目だ。刺した男は憲兵なのだ。
 シショカは肌が黒い”出来損ない”の憲兵が死んだと言う話を彼の情報屋から聞いた。公には病死となっているが、刺殺されたことは間違いない。”出来損ない”だが”ヴェルデ・シエロ”の1人だ。シショカにとって、これは一族の恥であり、侮辱だった。」
「だから、ミレレスは記憶を消されずに命を消された・・・」

 テオの言葉に、ムリリョは否定も肯定もしなかった。この人が沈黙で答える時は肯定なのだ。

「シショカはミレレスがビト・バスコから奪った物を回収した。彼はそれをビダル・バスコに返す時に、弟に大事な物を盗まれるような間抜けに制裁を加えるつもりだったのだ。」
「しかし、そこへフィデル・ケサダが干渉してきた・・・」

 ムリリョ博士が溜め息をついた。

「フィデルはシショカの書斎にいきなり現れたそうだ。勿論正面玄関から入ったのだろうが、使用人の取次を通さなかった。」
「それは彼らしくもない振る舞いです。」

とケツァル少佐が憂いを込めた目で呟いた。ムリリョ博士は彼女のコメントに同意を示さなかったが反論もしなかった。

「フィデルはシショカに言ったそうだ。 『これ以上彼女を悲しませないでくれ』と。」

 テオは昨日のケサダ教授の部屋での会話を思い起こしてみた。ケサダ教授はバスコ兄弟のことはテオの口から双子のサンボだと聞かされる迄誰だか知らなかった。しかし、母親のことは知っていた。ピア・バスコを尊敬している口ぶりだった。

「ケサダ教授は、バスコ兄弟の母親のことを知っていた。もしかすると個人的な知り合いなのかも知れない。彼は俺の話を聞いて、ビトを刺殺したのは”ティエラ”で、咬み傷や引っ掻き傷を与えたのは”砂の民”だと知ったんだ。そしてサンボの”シエロ”に手酷い制裁を与える様な人間はシショカぐらいだろうと見当をつけたに違いない。シショカに傷を負わされなければ、ビト・バスコはミレレスごときチンピラに殺される様なヘマはしなかっただろう。だからケサダ教授はビトの為ではなく、ピア・バスコの為にシショカの所に出向いて、シショカが回収したビダルの持ち物を取り上げたんだ。」

 一気に考えたことを喋って、テオは少佐と博士を見比べた。

「俺の推理は間違っているかな?」


第4部 牙の祭り     28

 「礼儀知らずは怖いもの知らずだな。」

とムリリョ博士は言った。彼は椅子に腰を下ろし、テオとケツァル少佐にも座るよう促した。腰を下ろしてから、テオが説明した。

「俺達が知っているのは、ビト・バスコ憲兵隊曹長が、レストランで働いているアンパロと言う女性に片思いをしたこと、彼女にはペロ・ロホと言うギャング団のメンバー、ぺぺ・ミレレスと言う恋人がいて、ビトを疎ましく思っていたこと、ビトが兄のビダルに大統領警護隊の制服と憲兵隊の制服の交換を持ちかけ拒否されたこと、その夜にビトが勝手に兄の制服とIDその他を持ち出したこと、ビダルが翌日、つまり水曜日ですが、終日ビトを探し回って見つからなかったこと、そして木曜日の朝ビダルが自宅へ戻ってビトが亡くなっているのを見つけたことです。木曜日の夜に、ビダルが俺達に、つまりケツァル少佐に助けを求めて来ました。徽章以外のIDがビトの遺体に残っていなかったので、本部に戻れなかったのです。
 俺がビトの遺体からサンプルを採って分析し、制服に付着した体毛がピューマのもので、咬み傷周辺の唾液の主と遺体の爪の間に入っていた人間の皮膚片とは別人のものであるとわかりました。ビトは全身をピューマに噛まれたり引っ掻かれていましたが、致命傷は肝臓を刃物で刺されたものでした。俺達はアンパロが何か知っていると思って、彼女の居場所を探したのですがバイト先の店でも手がかりがなく、彼女の恋人のミレレスを探しました。ところが彼は昨日街中でトラックに轢き逃げされて死んでいました。警察に道端の公園に死体があると匿名の電話がかかってきて、その後の捜査でミレレスがトラックに轢かれるのを目撃した人はいたのですが、電話をかけた人は現れない。最初に死体に触った人がいたらしいが、その人の人相風態を覚えている人が誰もいない。」
「アンパロ・モントージャは・・・」

とムリリョ博士が話しだした。

「シショカの家の使用人の娘だ。」
「え?!」

 テオもケツァル少佐もびっくりだ。

「使用人の娘の素行など雇主が気にすることはない。シショカはメスティーソの使用人の家族の内訳も気にしなかった。あの男らしいがな。だからモントージャから娘のことで相談を受けた時、正直、彼は困ったのだ。娘が質の悪い連中と交際しており、おまけに憲兵にも言い寄られていると。シショカは娘を家に閉じ込めておけと言ったそうだ。」

 それは無理、とテオは思った。娘はもう大人だろう。シショカは使用人の相談に真面目に取り合わなかったのだ。

「父親は娘を家に監禁した。モントージャの一家はシショカの屋敷に住み込みで暮らしておる。当然ながら、アンパロが閉じ込められたのは、シショカの屋敷の一角と言うことになる。アンパロは外へ出たい。だが父親の監視の目が厳しく出られない。だから彼女は最初に不良の恋人に助けを求めた。街のチンピラごときがシショカの屋敷に入れる訳がない。」
「そうですね。」

とテオは相槌を打った。なんとなく、その後の展開が読めてきた気がするが、ムリリョの邪魔をすると後が怖いので、それ以上は言わなかった。

「彼女は次に自分に言い寄る憲兵に電話をかけた。ビト・バスコはシショカが建設大臣の私設秘書であることを知っていた。だが一族の者であることは知らなかった。彼は愚かにも、政治家の秘書に憲兵の威力は効かないが大統領警護隊なら従わせることが出来ると考えた。彼は兄のビダルの制服とI Dを盗み、シショカの屋敷を訪問したのだ。」
「シショカはビトに会ったのですか?」
「その時、シショカは仕事で家にいなかった。応対したのはアンパロの父親のモントージャだ。モントージャは大統領警護隊に娘を監禁から解放しろと言われて、慌てた。彼は主人に電話をかけ、大統領警護隊が娘を監禁した件で来ていると告げた。シショカは電話の内容に怪しんで、モントージャに訪問した隊員のI Dを確認しろと命じた。」

 セニョール・シショカは馬鹿ではない。それにいちいち使用人の娘の素行問題で仕事を中断して帰宅することもない。だが・・・。

「モントージャに身分証の提示を求められたビト・バスコはI Dカードを出したが、徽章を出さなかった。モントージャが徽章の提示を求めると、彼は拒んだ。モントージャはシショカに再び電話をかけ、隊員はカードを出したが徽章は出さなかったと告げた。」
「シショカは隊員が偽物だと悟ったのですね。」
「大統領警護隊の偽物が現れたことは由々しき問題だ。シショカはモントージャに隊員を足止めするよう命じて、職場から家に帰った。」

 ビト・バスコは不幸だった、とテオは思った。彼を愛する意思がない女性に恋をして、利用されようとして、純血至上主義者の”砂の民”の自宅へ無断拝借した兄の制服とI Dで乗り込んでしまったのだ。シショカは、彼が嫌いなミックスの、それも肌の色が他のミックスとは異なる”出来損ない”の若者が、栄光ある大統領警護隊のフリをしているのを見て、激怒したに違いない。

「シショカはビト・バスコにビダルの服を着てビダルのI Dを所持している説明をさせた。ビトは説明し、無断借用を認めたが、アンパロを連れて帰ると言い張った。だから、シショカは若造を屋敷から追い出した。」


   

第4部 牙の祭り     27

 「あー、それは・・・多分、俺に責任があります。」

とテオは言った。ケツァル少佐とムリリョ博士が彼を見た。少佐が何か言いかけたが、彼は片手を上げて彼女を制し、博士に語った。

「金曜日のお昼に、偶然ケサダ教授と大学のカフェで出会って一緒にお昼を食べたんです。その時点で既にビト・バスコ少尉が殺害時に着ていた兄の制服に付着していた動物の毛がピューマの体毛だと判明していました。だから、俺は教授が何かご存知かも知れないと勝手な期待を抱いてしまい、事件の話を教授に聞かせてしまったのです。」

 ムリリョ博士は一つだけ質問した。

「大学のカフェでか?」

 テオは博士が話を学生達に聞かれたのではないかと心配していると感じた。

「多分、教授は結界を張られていたと思います。俺はわからなかったけれど。それに途中で場所を教授の研究室へ移動させたんです。教授は事件の発生をご存知なくて、とても驚いていました。」
「我らは国家の存亡に関わる事案でなければ長老会の審理に測ることはない。個別の細やかな事案は気がついた者が独断で処理する。憲兵が犯した違反をシショカが見つけて処罰したとして、それをフィデルが知ることはない。ましてや干渉するなど・・・」
「私達も教授が動かれるとは予想だにしませんでした。」

とケツァル少佐が素早く割り込んだ。テオがケサダ教授を唆したと博士に思われたくないのだ。ムリリョが他人の話に割り込んだ彼女を睨みつけたので、テオも慌てて言った。

「教授は俺が事件の概要を話すと、行くところがあると言って、突然俺を部屋から追い出してしまいました。それっきり彼と会っていませんでした。今日のお昼迄は・・・」
「今日の昼?」
「カフェで俺達がランチを取っているところへ突然教授が現れて、奪われて不明だったビダル・バスコ少尉のI Dカードや拳銃などを俺達のテーブルに置いて、何も言わずに店から出て行ったのです。」

 ムリリョ博士が沈黙した。ケサダ教授の行動の意味を考えているのだろう、とテオは思った。彼がケツァル少佐を見ると、彼女も考え事をしている表情だったが、ふっと目を現実に戻して博士を見た。

「博士、シショカは貴方に何か訴えて来たのですか?」

 ムリリョ博士はいつも不愉快そうな顔をしている人だが、この時は一層不愉快な表情になった。

「『愛弟子だからと言って、好き勝手をさせるな』と言いおった。」
「電話で?」

とテオが思わず質問すると、博士がギロリと彼を横目で見た。

「あの男は礼儀を弁えておる。必ず直接会いに来る。」

 するとシショカはこの滅多に居場所を掴めない長老の居場所がわかるのか、とテオはどうでも良いことを思った。そして事前に電話で確かめれば不思議ではない、と思い直した。ケツァル少佐が尋ねた。

「当然、貴方はどんな好き勝手なのかとお訊きになったのでしょう?」

 テオは周りくどい会話をする”ヴェルデ・シエロ”達の会話にうんざりした。だから彼女の質問が終わると、続けてズバリと言った。

「俺たちはまだ実際に何が起きたのか掴めていないのです。貴方はいつも俺たちに何が事実なのか説明して下さる。今日もそのご親切を頂きたい。」

 少佐の目が「呆れた!」と言っていたが、彼は真っ直ぐムリリョを見つめた。
 


2021/12/30

第4部 牙の祭り     26

  ファルゴ・デ・ムリリョ博士はグラダ大学考古学部の主任教授で、セルバ国立民族博物館の館長で、マスケゴ族の族長で、長老で、”砂の民”のリーダーだ。そしてケツァル少佐の考古学の恩師で、カルロ・ステファンもロホもアスルもマハルダ・デネロスも彼の教え子で、アンドレ・ギャラガは現役の生徒になる。さらにフィデル・ケサダ教授の師匠でもあるのだ。
 ケツァル少佐はペロ・ロホの代表ラファエルに教えられた人物の家に直ぐにでも行かねばならなかったのだが、長老の「来い」と言う言葉に逆らえなかった。テオドール・アルストも同伴しますと彼女が言うと、博士は「早く来い」とだけ言った。

「何方へ行けば良いですか?」
ーーグラダ大聖堂だ。

 それだけ言うと、博士は電話を切った。テオが声をかけた。

「行くか?」
「行かねば、後がややこしいでしょう。」

 2人共漠然と博士の要件がわかっていた。今関わっている件に厄介な人が首を突っ込んで来たのだ。それとも救世主になるのだろうか?
 テオは交差点で当初の目的地への方向と反対側へハンドルを切った。
 土曜日のグラダ大聖堂は一般観光客へ開放されている。宗教施設なので中は静かだが、聖堂前の大広場は土産物屋や食べ物の屋台が出て賑やかだ。テオは駐車スペースにベンツを停めた。まだ明るいがそろそろ西の空に太陽が傾きかけていた。夕刻の礼拝が始まる前だ。
 少佐とテオは聖堂に向かって歩き始めた。

「何故博士はキリスト教の教会を会談の場所に指定したがるんだろう?」

とテオが単純な質問をすると、少佐が肩をすくめた。

「純血至上主義者は教会に寄り付かないからです。立ち聞きされるリスクが少ないのでしょう。」

 聖堂の中に入ると夕刻の礼拝を見ようと集まっている観光客の後ろを通り、エクスカリバー礼拝堂へ行った。静かに扉を開くと、ムリリョ博士が祭壇の前に座っているのが見えた。テオを先に入れ、少佐は外に目を配って誰も彼等に関心を抱いていないことを確認した。扉を閉めると中から施錠した。
 テオと少佐は博士のそばへ行き、挨拶した。博士が立ち上がった。彼等を振り返り、ジロリと見た。

「儂は我が部族の中で不協和音が起きることを好まぬ。」

と彼は言った。少佐とテオは顔を見合わせた。ムリリョ博士の言葉の意味を考えた。テオが尋ねた。

「マスケゴ族の中で諍いでも?」
「諍いではない。」

 ムリリョ博士は珍しく彼の質問にまともに答えた。

「1人が仕事をした。もう1人がそれに干渉した。仲間の仕事に干渉することは許されぬ。しかし、干渉される理由はあった。」

 ケツァル少佐が彼の言葉を「解読」した。

「ビダル・バスコの大統領警護隊のI Dを無断で持ち出したビト・バスコにセニョール・シショカが制裁を与えた。それにフィデル・ケサダが干渉し、シショカが回収したビダルのI Dや拳銃を取り上げた・・・」

 ムリリョ博士は彼女を見た。

「そう言うことだ。だが何故フィデルが動いた? あれには全く無関係な事案だった筈だ。」




第4部 牙の祭り     25

  アンパロと言う女性の親の名はテオもケツァル少佐も知らなかったが、彼女の一家が住み込みで働いている家の主人の名前は知っていた。思わずテオは少佐を見て、少佐も彼を見た。少佐がラファエルの襟首から手を離した。

「長生きをしたければ、今回の出来事は忘れろ。」

と彼女はペロ・ロホの代表に命令した。ラファエルは答えなかった。だから少佐は囁いた。

「ぺぺ・ミレレスは”ヴェルデ・シエロ”を怒らせた。憲兵も”ヴェルデ・シエロ”を怒らせた。だから、あなた方はこれ以上この件に関わるな。」

 ラファエルがごくりと喉を動かした。その顔に血の気がなかった。ケツァル少佐の言葉がただの脅しでないことを理解したのだ。少佐が念を押した。

「わかったな?」
「スィ、スィ。」

 ラファエルは怯えた目で彼女とテオを見た。
 少佐がテオに目で「出よう」と合図したので、テオは出口に向かって歩き出した。少佐も歩きかけると、ラファエルが「少佐」と呼びかけた。少佐が背を向けたまま、「何?」と訊いた。彼が尋ねた。

「アンパロは生きていますか?」
「知らない。」

 と少佐は答えた。

「大統領警護隊の手に余る事案であると答えておこう。」

 雑居ビルから出て、少佐のベンツの運転席に座って、やっとテオは深呼吸した。助手席に座ったケツァル少佐が電話を出した。小さな溜め息をついてから、彼女は電話をかけた。相手は直ぐに出た。

ーーマルティネスです。
「ロホ、今何処にいますか?」
ーーもう直ぐバスコの家に到着します。
「先刻アスルに託けた貴方への命令を撤回します。バスコを自宅に届けたら、貴方はセルド・アマリージョへ行きなさい。そこでアンパロと言う女性がウェイトレスとして働いていますが、2日前から欠勤しています。もし今日店に現れたら、見張りなさい。彼女の顔はグラシエラが知っています。」
ーー承知しました。
「彼女が店から移動するようであれば尾行し監視しなさい。行き先がわかれば、テオに連絡しなさい。」
ーー承知しました。

 少佐が電話を切った。テオはこの日がグラシエラ・ステファンのバイトの最終日だったなと思い出した。ロホはアンパロが現れる迄彼女と一緒にいるのだろうか。
 少佐はまた溜め息をついた。テオが尋ねた。

「あの男に会うつもりか?」
「少なくとも、何が起きたのかビダル・バスコ少尉には説明が必要でしょう。会いたくない人物ですが、会って話を聞かなければなりません。」
「それじゃ、行こうか。」

 テオがベンツのエンジンをかけた。車が動き出した。その時、少佐の電話が鳴った。少佐が電話を出して、画面を見た。彼女がかけてきた相手の名前を見て、その日一番大きな溜め息をついた。彼女がテオに囁いた。

「ムリリョ博士です。」


第4部 牙の祭り     24

  まだ日が高い時刻にプールバーに行くと、営業前だった。ケツァル少佐は勝手に解錠して中に入った。入り口カウンターの上に置かれているベルを叩くと、奥から男が1人出て来た。テオも少佐も彼に見覚えがなかったが、向こうは覚えていたらしく、こちらの顔を見ると慌てて奥へ引っ込んだ。
 奥へは行かず、少佐が壁にかけられていたキューを手に取り、眺めた。テオも1本手に取った。玉を出して台に置くと、代表が現れた。少佐がチラリと彼を見て、言った。

「1回だけ遊ばせろ。」

 代表が頷き、彼は部屋の隅の椅子に座った。
 テオは少佐からビリヤードの手解きを受けた。元から理解と身体能力は高い。直ぐに要領を覚えた。もう1回だけ遊ばせろと、テオが要求すると、代表が少佐を見た。少佐が代表に言った。

「貴方が相手をしてあげろ。」

 代表が舌打ちして立ち上がった。
 勝負は愉快だった。テオは病みつきになるかも、と心の内で危惧した。流石に相手はプロ級の腕前で、テオは負けた。

「君の名前は何て言うんだ?」
「ラファエル。」
「ラファエル、次に会う時は勝たせてもらうぞ。」

 彼の言葉に代表はフンと鼻先で笑っただけだった。そしてケツァル少佐を見た。

「ラ・パハロ・ヴェルデの少佐、今日は何の御用ですか? ぺぺを殺ったヤツの名前でも教えに来てくれたんですか?」
「教えてどうなると言うのか?」

 少佐が何か言いかけたが、テオが遮った。

「ぺぺの彼女のアンパロは今何処にいるんだ? 彼女も狙われるかも知れないぞ。」

 ラファエルは彼と少佐を交互に眺めた。

「まだ犯人を掴めていないんだな。」

と彼は呟いた。少佐が言った。

「見当はついている。」

 彼女は台の上に球を全部戻した。手を使わずに。

「貴方はぺぺが何故死んだのか理由を知っているのか?」
「あいつは・・・」

 ラファエルがちょっと言い淀んだ。しかし少佐と目が合いそうになり、慌てて顔を背けた。

「アンパロにつきまとっていた憲兵と話をつけると言って出かけて、それっきりだった。俺達は憲兵があいつを殺ったと思っていた。だが・・・」
「バスコ曹長も死んでいたので、困惑しているのだな。」
「スィ。」
「アンパロは何処にいる?」

 黙り込むラファエルにケツァル少佐は言った。

「憲兵はアンパロに好意を持っていた。しかし彼女はぺぺを選んだ。ぺぺは殺され、憲兵も死んだ。アンパロが無事で済むと思っているのか?」
「彼女は・・・。」

 ラファエルは少佐を避けてテオを見た。

「あの女はいつも自慢してました。彼女の家族は”シエロ”に守られてるって・・・」

 テオは少佐を見た。ケツァル少佐が「ほう」と言いたげな顔をした。

「アンパロの家族は”シエロ”に守られていると言ったのか?」
「スィ。それが彼女の自慢でした。だからぺぺ以外の男は彼女に手を出さなかった。それが、あの憲兵は無視したんです。」

 少佐がラファエルの襟首を掴んだので、テオはびっくりした。ギャング団の代表が青ざめた。

「アンパロは先住民か?」
「ノ。俺達と同じメスティーソです。」
「親は?」
「親もメスティーソです。あの・・・政府の偉いさんの家で働いている使用人です。」
「その偉いさんとは、誰だ?」



第4部 牙の祭り     23

  もしビト・バスコ曹長が双子の兄弟が大統領警護隊で勤務していると憲兵隊の同僚に話していたら、彼は死なずに済んだかも知れない、とケツァル少佐は言った。

「彼は彼なりに兄に引け目を感じてしまっていたのでしょう。何故兄が選ばれて彼は選ばれなかったのか、彼はきっと悩んだに違いありません。それに大統領警護隊に入ると言うことは、一般の軍人に兄弟が特殊な能力を持っていると教えることになります。双子ですから、選ばれなくても同じ力を持っていると思われる。ビトは友人を失いたくなかったでしょうし、兄より劣っていると思われたくもなかった。だからビダルの勤務先を秘密にしていたに違いありません。」
「だけど、何らかの理由で大統領警護隊のふりをする必要が生じた?」
「ビトにとって必要だったのでしょう。でも理由を兄に言いたくなかった。」
「極めて個人的理由だな。」

 テオは考えて、若者の頭の中を想像した。

「アンパロと言う女性に片思いしたことが関係していると思う。」

 アンパロは陸軍基地の兵士達が多い地区の飲食店で働いている。憲兵も当然客として通う。ビトは彼女に恋をした。しかし彼女にはぺぺ・ミレレスと言うヤクザの恋人がいた。彼女はビトに興味がなくて追い払おうとした。憲兵隊の曹長ごときでは靡かないと言う態度を示した。それで、ビトはビダルと帰省が同じになった時、兄の制服とIDを持ち出した。兄のふりをして、大統領警護隊なら彼女の気を引けると思ったか?
 テオはこの考えを少佐に語り、それから別の考えも披露した。
 アンパロはビトにぺぺと別れたいと言った。彼女は店のスタッフ達にぺぺと別れたいと言っていないから、勿論嘘だ。ビトとぺぺを対決させてぺぺにビトを追い払わせようとした。ビトは憲兵としてぺぺにアンパロと別れろと言ったが、効果がなかった。ヤクザは階級が低い憲兵の若造を相手にしなかった。それでビトはビダルのふりをしてもう一度ぺぺと対決しようとした。大統領警護隊ならヤクザも退くからだ。
 それから3つ目の考えを語った。
 アンパロが振り向いてくれないので、ビトは兄が大統領警護隊にいると彼女に明かした。それで彼女の気を引こうとした。彼女が証拠を見せろと言った。だからビトは一晩だけのつもりで兄の制服とI Dを持ち出した。
 ケツァル少佐が考え込んだ。テオが出した3つの説はありそうでなさそうだ。

「やはりアンパロを探し出さないことには、ビトがビダルの制服を持ち出した理由がわかりませんね。」
「アンパロはまだ姿を現さないのだろうか? ケサダ教授にビダルのIDカードなどを誰から受け取ったのか聞きたいが、あの人は語ってくれそうにないだろう?」

 少佐が家の外に出ようと合図した。
 外はまだ明るく、太陽が照りつけていた。日陰に入り、少佐が電話をかけた。相手はアスルだった。

「状況は?」
ーーバスコ少尉が警備班の指揮官と共に副司令官のところへ行っています。
「ロホは?」
ーーカルロの試しが始まったので、ちょっと覗き見に行ってます。上官に見つかるとやばいですが・・・
 
 テオは笑いそうになって我慢した。ロホは親友が難関試験を乗り越えられるか心配なのだ。カルロ・ステファンは1ヶ月間太陽を見られない地下神殿で修行をする。どれだけ緊張しているか、ロホは気になったのだろう。

「覗き見は良い趣味ではありませんね。」

と少佐が言った。

「ところで、こちらへバスコ少尉を連れて戻ったら、どちらか1人が彼に付いていて下さい。彼は葬儀が終わる迄は母親のそばにいるでしょうけど、埋葬が済んだら何を仕出かすかわかりません。」
ーー私が付きます。
「ではお願いします。それでは、ロホはケサダ教授のところへ行って、先刻の封筒の中身を誰から手に入れたのか聞いて来るように。」

 電話の向こうでアスルがちょっと笑った。

ーーバスコを選んで良かったです。

 少佐も苦笑した。

「フィデル・ケサダは手強いですよ。くれぐれも怒らせるなとロホに伝えなさい。今期アンドレが人質になっていますからね。」
ーーアンドレの担当教官はムリリョ博士でしょう?
「実際に教授するのはケサダですよ。」

 少佐はこれからギャング団のペロ・ロホのところへ行くとアスルに告げて電話を終えた。テオが尋ねた。

「アンパロの居場所をギャングに訊きに行くのか?」

 少佐が頷いた。



第4部 牙の祭り     22

  ランチを済ませると全員でジープに乗ってピア・バスコの診療所兼住居に行った。診療所は休業しており、住宅の方では早くも弔問客が来ていた。ロホとアスルを車に残し、ケツァル少佐とテオは家の中に入った。リビングで遺族に挨拶していたのは、殆どが近所の住民だ。双子の兄弟が幼い頃から知っている人々や、母親が開業してから世話をしてきた患者やその家族だろう。ピアと同居している恋人が客の応対をしていた。恋人の男は白髪混じりの男性で、やはり医師だと言うビダルの証言を裏切らず、しっかりした様子でピアを支えていた。
 ビダルは部屋の隅に座っていたが、テオと少佐を見ると立ち上がった。少佐が”心話”で何かを伝えると、彼は身振りで別室を差した。
 案内された部屋はユーティリティルームで、恐らくお手伝いを雇っているのだろうが、その人は弔問客に出す飲み物や軽食の準備で忙しく、キッチンの方にいた。ビダルはドアを閉め、テオと少佐を見た。

「何か分かりましたか?」

 少佐が茶封筒を出した。

「中身を確認して下さい。」

 ずっしり重量がある紙袋を受け取って、ビダルはハッとした表情を見せた。馴染みのある重量だ。彼はそばの家事台の上に袋の中身を広げた。IDカードが入ったパスケース、財布、その中の運転免許証、拳銃、そして弟の携帯電話。現金がなくなっていることは気にならないようだ。そんなことを気にする次元の話ではないからだ。テオが尋ねた。

「君の物で間違いないな?」
「スィ、私のI Dカードと拳銃、免許証です。そしてビトの携帯・・・」

 ビダルは拳銃を手にして、中の弾倉を開けた。そして少佐に顔を向けた。

「弾は私が装填した時のままです。」

 少佐が頷いた。少なくとも拳銃が何らかの犯罪に使用された形跡はない訳だ。

「これは何処で? 誰が持っていたんですか?」

 当然の質問が来た。テオが答えた。

「それは言えないんだ。俺たちも知らない。ある人がさっき持って来てくれたんだ。その人も多分、遣いだと思う。昨日の午後まで事件のことを何も知らない人だったから。」

 ビダルが何か言いたそうにしたが、少佐が遮った。

「事件の真相はまだ捜査しなければなりません。ただ貴方の所持品は戻りました。出来れば今すぐにこれらの物を持って、本部へ帰還し、指揮官に報告しなさい。貴方がどう行動すべきかは、貴方の上官が指図します。」

 テオは言い添えた。

「警察でも憲兵隊でも、被害者の身内は捜査に参加出来ないからな。」
「承知しています。」

 ビダルは何かを耐える声で応えた。

「しかし、私は母を1人にしたくない・・・」
「まだ休暇中ですね。上官に奪われた物を回収した報告をして、母親に付き添う旨を申し出なさい。大統領警護隊は不幸に見舞われた隊員に勤務を強制するような酷いところではありません。」

 ケツァル少佐にキッパリ言われて、ビダル・バスコ少尉は敬礼した。そして喪服の上着の下に拳銃を隠し、その他の小物も内ポケットに入れると、再び敬礼して居間へ出て行った。テオと少佐も小部屋から出た。ビダルが母親に”心話”で何か伝え、それから彼女をハグし、母親の恋人に何か言ってから、テオ達の方を見た。少佐がテオに言った。

「ここにいて下さい。すぐに戻ります。」

 彼女はビダルを連れて外へ出た。数分後に戻って来たので、ロホ達のジープに彼を乗せたのだとわかった。ロホとアスルはビダルを本部へ連れて行き、また連れ戻って来る予定なのだ。
 テオはお手伝いさんと思われる女性からトレイを差し出され、カクテルの様な飲み物を2つ取った。そばに来た少佐に一つ渡し、室内を見回した。居間は花が飾られ、奥に棺がある。母親と恋人はその棺の前に座って弔問を受けているのだ。近所の世話焼きおばさん達がお手伝いさんを手伝って働いていたり、客の相手もしている。見る限り怪しい人物はいない。死んだぺぺ・ミレレスが本当に刺殺犯なのか否か、まだ不明だ。ミレレスの遺体からサンプルが採れれば良いのだが。
 客達がざわついた。家の入り口を見ると、憲兵が2人入って来た。若い隊員だ。ピアが立ち上がり、彼等を迎えた。憲兵達は弔問の言葉を述べ、1人がピアをハグした。もう1人はピアの恋人に頼んで棺の中を見せてもらった。顔を検めたのだ。遺体の顔はピアが化粧して傷を隠している筈だ。憲兵を誤魔化せるだろうか。
 棺の中を見た憲兵は、棺に向かって敬礼した。母親をハグした同僚と交代し、彼もピアをハグした。
 少佐がテオに囁いた。

「ビトと仲が良かった同僚達です。きっと巡回勤務の途中ですね。正式の弔問ではない筈です。」

 2人の憲兵は改めて敬礼して、外へ出て行った。テオは呟いた。

「ビダルがいなくて良かったな。」

 少佐が彼を振り返った。

「そう言えば、ビトは双子の兄弟が大統領警護隊にいることを僚友に教えていませんでしたね。もしビダルがここにいたら、彼等はどんな反応をしたでしょう。」



2021/12/29

第4部 牙の祭り     21

  何気なくカフェの出入り口の方へ視線を向けたアスルが、「え?」と言う表情をした。彼が驚く顔を見せるのは滅多にないので、テオもケツァル少佐もロホも、同じ方向を見た。そして全員が「え?」と思った。
 滅多に見せない普段着姿でグラダ大学考古学部教授フィデル・ケサダが店に入ってきた。彼は店内を見回し、テオと文化保護担当部の3人を見つけると、まっすぐやって来た。4人用のテーブルだ。一番階級が低いアスルが素早く立ち上がった。しかし教授は手で「座れ」と合図して、テーブルの横に立つと、ケツァル少佐の前に茶色の大判封筒を置いた。ゴツンと鈍い音がした。中に硬い物が入っているのだ。少佐が彼を見上げると、教授は目を逸らし、くるりと体の向きを変えて歩き去った。テオ達は無言で、彼の後ろ姿を彼が店から出て見えなくなる迄見つめていた。
 やがて、彼等の視線はテーブルの上の茶封筒に注がれた。少佐が封筒を掴み、そこそこ重量がありそうなそれを逆様にした。封をしていない封筒から、プラスティックのパスケースに入ったI Dカード、使い込まれた革財布、携帯電話、拳銃が出て来た。ロホが素早く拳銃を掴み、軍服のベルトに差した。少なくとも、座っている間は他の客や店のスタッフに見えない。少佐がパスケースを掴み、中のI Dカードを見た。そしてテーブルの上に置いた。ビダル・バスコ少尉の顔写真が印刷されていた。テオは財布を手に取り、中を検めた。現金は小銭しかなかったが、ビダル・バスコ少尉の運転免許証が入っていた。アスルは携帯電話を掴み、パスワードを2、3試し、ロック解除した。

「ビトの携帯電話です。」

 彼の囁きに、彼等はまた互いの顔を見合わせた。何故、ケサダ教授がこんな物を持って来たのだ?
 ロホが囁いた。

「教授は犯人をご存知ですね。ピューマも刺殺犯人も。」

 テオが追加した。

「きっとミレレスを轢き逃げさせた人も誰だか知っていると思う。」

 少佐が彼に確認した。

「ケサダは、貴方が事件の話を大学で彼に話す迄、何も知らなかったのですよね?」
「うん、驚いていたから、絶対にあの時迄何も知らなかった筈だ。だが、俺と話をしている時に、急用を思いついて俺を部屋から追い出した。」
「その時、犯人に心当たりがあったんだろう。」

とアスルが呟いた。

「あの先生は、よくわからん。俺は一度も”心話”を許してもらったことがない。」
「私はある。だが、常に情報をセイブされて必要なことしか教えて下さらない。」

 ロホもケサダ教授がガードの固い人である意見に同意した。ケツァル少佐はまだI Dカードを眺めていた。テオが仲間が忘れている人物を思い出した。

「ミレレスの彼女、アンパロはどうしたんだろ?」


第4部 牙の祭り     20

  なんとなく衣服が汗でベチャベチャな感触で気持ちが良いと言えなかったが、時間がないので着替えに帰宅出来ない。テオは”ヴェルデ・シエロ”達がいつも平然としていられるのが羨ましい。アスルは暑いと言わないが暑い筈で、彼等だって汗をかくのだ。平然としていられる訓練も受けるのだろうか。ケツァル少佐は汗すらかかないかの様に泰然として、グラダ・シティ警察東署の前へ車を運んだ。
 驚いたことに、ロホとアスルが軍服で大統領警護隊のジープで来ていた。訓練だから、それなりの装備だ。ジープは本部から持ち出したとしか思えない。正規の任務でもないのに、と思い、テオは思い直した。文化保護担当部が指揮官の命令ですることは全部正規任務なのだ。
 ケツァル少佐は車から降りてジープの助手席のロホのところへ行った。”心話”で情報を与え、無言で意見交換を行い、5分で戻って来た。

「私達は一旦帰りましょう。警察での捜査はアスルが行います。」
「ロホは?」
「車の番。」

 つまり上官なのでロホは部下の仕事を監視するのだ。テオは納得して、ベンツを西サン・ペドロ通りへ向けた。
 少佐をアパートで下ろし、彼は自分の車に乗って帰宅した。彼女から連絡がある迄休憩だ。シャワーを浴び、着替えてリビングのソファに横になって遺伝子マップを眺めた。彼の才能は遺伝子マップの解析能力だ。普通の遺伝子学者達が数日かかる分析を半日あればやってしまう。驚異的なスピードで2つのマップを対比しながら見ていった。
 ケツァル少佐から電話がかかって来た時、彼は既に2つのサンプルの人間が別人であることを判定していた。

ーーお休みでしたか?
「ノ、遺伝子マップを解析していた。ビト・バスコを襲ったピューマと、彼を刺し殺した人間は別人だ。殺人犯は”ティエラ”だ。」
ーー間違いありませんか?
「ない。」
ーーでは、これからランチしながら報告会としましょう。来られますか?
「スィ。」
ーーでは、カフェ・デ・オラスに行くので、私が貴方を拾います。

 文化・教育省が入っている雑居ビル1階のカフェだ。日曜日以外は営業している、文化・教育省の職員食堂扱いされているカフェだが、実際は普通の民間の店だ。ここのスタッフは客が何者であろうと気にしない。文教大臣が秘書と政策に関する相談をしても無視しているし、田舎から陳情に出て来た先住民がテーブルで奇妙な儀式みたいな行動を取っても見ぬふりをする。当然文化保護担当部が任務の話をしても聞いていない・・・ふりをしている。
 この店が特別なのではない。セルバ人は他人のプライバシーに踏み込まないのだ。逆に言うと、助けて欲しい時ははっきり助けを求めないと無視される。
 テオは少佐のベンツに同乗して文化・教育省の駐車場へ行った。大統領警護隊のジープが駐車していた。他の車も数台駐車していたが、見慣れない車ばかりだったので、職員ではなく無関係な人が休日の空いている場所に車を停めただけだ。
 ロホとアスルは先にテーブルを確保していた。店内は予想以上に混雑していた。雨季明けで田舎から都会へ出て来た人が多いのだろう。
 料理を注文してから、ロホがアスルに「報告」と命じた。隊員だけなら”心話”だけで済むが、テオがいるので言葉が必要だ。アスルは特に嫌がる様子もなく、警察でわかったことを報告した。
 ぺぺ・ミレレスは東署管内の緑地帯で死体になって発見された。道路横を細長く伸びている植え込みや芝生のベルト状公園だ。そこで彼は昨日の午後4時頃に死んで転がっていた。傷の状態から判断して、警察では交通事故で車に轢き逃げされたと結論づけた。所持品はぺぺ自身の運転免許証、携帯電話と財布だけだった。何者かに奪われたビダル・バスコのI Dカード、財布、拳銃は所持していなかった。ビト・バスコの携帯電話も持っていなかった。

「ただ、彼の死体があることを通報する電話が警察にかかってきたのですが、誰がかけたのかは不明です。ミレレスの電話が使われたからです。」
「それ自体は別に怪しくない。」

とロホが言った。しかしアスルは不思議なことを言った。

「ミレレスがトラックに撥ねられるのを目撃した通行人は数人いました。彼等はトラックの特徴を覚えていました。だが、彼の死体に近づいて彼の携帯電話に触った人間の風態を覚えている人が1人もいない。」

 1分程テーブルを沈黙が支配し、それからテオが尋ねた。

「通報した人は、救急車を呼ばなかったんだな?」
「呼んでいない。ミレレスが死んだことを確認したのだろう。」

 少佐が呟いた。

「”シエロ”ですね。」

 テオは”心話”が出来ないが、この時3人の大統領警護隊隊員の考えが理解出来た。ミレレスは、消されたのだ。彼の体に直接触れることなく、何らかの気の作用でトラックを操作して彼を轢かせた。
 ロホがアスルの捜査中に独自に電話やネットで調査した結果を報告した。

「ピア・バスコ医師が、昨日の午後憲兵隊本部に息子のビトが病死したと届けを出しました。」
「病死・・・」
「ピューマに襲われた上に、刺されて死んだなんて、不名誉な事実を公にしたくなかったのでしょう。彼女は医者ですから、検死報告も提出しました。本部は隊員の突然の死去にショックを受けています。今夜通夜を行い、明日葬儀です。公務での死去ではないので、公葬ではありません。」
「葬儀はビダルも出ますね?」
「出ます。大統領警護隊は隊員の家族の死去なので、花を贈ります。」

 ビダルはまだ弟に盗まれた物を取り返していない。きっと針の筵に座っている気分だろう。



 

 

 

2021/12/28

第4部 牙の祭り     19

  土曜日の朝は、金曜日の夜の繁華な雰囲気がまだ残っていた。ぐずぐずと店仕舞いを遅らせている屋台に、夜の仕事が終わった人々が集まって何か食べていた。もしかすると、そう言う客を相手にしている早朝営業の屋台かも知れない。

「何か食うか?」

とテオが車を停めると、少佐がさっさと降りて屋台へ行ってしまった。駐車場所がないので、仕方なく車中で待っていると、彼女が湯気の立つピタパンのサンドウィッチとカップ入りのコーヒーを2人分持って戻って来た。店がちゃんとテイクアウト用にカップを運ぶ紙のトレイを用意していたので、1人でも運べたのだ。少し行くと、小さな教会と広場があったので、そこで駐車して朝食を取った。
 食べる量は足りているのだろうか? と少佐を横目で見ると、彼女は既に食事を終えて、コーヒーを飲みながら考え込んでいた。
 テオの携帯にメールが着信した。見るとロホからだった。

ーー起きていますか?

とあった。テオは返信した。

ーー起きて朝飯を食ったところだ。

 その返事は来なかった。と思ったら、少佐の携帯に電話がかかって来た。少佐が画面を見て、電話に出た。

「ブエノス・ディアス。」

と彼女が機嫌良く出たので、ロホからだとわかった。彼女とロホは暫く先住民の言葉で話していた。テオに内緒にしなければならない内容なのかと思っていると、少佐がスペイン語で言った。

「では、800にグラダ市警東署の前で。」

 そして電話を終えて、テオを振り返った。

「これから土曜日の軍事訓練をします。」
「え?」
「今日は諜報活動の練習です。」

 つまり、捜査の応援が加わると言うことだ。

「何人が参加するんだ?」
「今日は2人です。ロホとアスルのみ。学生達は休ませます。今日で終わる訓練とは限りませんから。」
「さっきの電話はその相談?」
「スィ。」

 少佐はちょっと遠くを見る様な目をした。

「今日からカルロが指導師の試しに入ります。デネロスとギャラガは官舎組ですから、”見送り”の儀式をします。大層なものではありません。指導師の試しを受ける人を廊下に並んで見送るだけです。」
「君もやった? その、試しとか見送りとか・・・」
「スィ。ロホも経験しています。シーロも済ませています。少佐以上の階級は全員経験済みですし、ロホの様な優秀な人は中尉でも受けられます。」
「アスルは? 彼も経験していそうだが・・・」

 少佐がクスッと笑った。

「住所不定だったので、受けさせてもらえなかったのです。でも貴方の家で下宿を始めたので、もう少しすればお声がかかるでしょうね。」

第4部 牙の祭り     18

  グラダ・シティ・ホールの広い駐車場の片隅に駐車して仮眠を取った。ここは警察が頻繁にパトロールで回ってくるので犯罪が少ない。とは言うものの車上狙いなどは発生するので、夜間に駐車して休む場合は窓を閉めた方が良い。しかしケツァル少佐はジャングルモードに入っているらしく、窓を全開して寝ていた。羽虫が寄って来ないから、弱い気を放っているのだろう。”ヴェルデ・シエロ”が気を放って休んでいる時は、一般人は近寄り難い気分になるらしく、そばに来ない。少佐の眠りは浅いとテオは判断した。彼女が安心して熟睡出来るのは、やっぱりカルロ・ステファンがそばにいる時だ、とちょっと悔しく思う。その時、彼女が手を伸ばしてきて、彼の手を握った。驚いて振り向くと、彼女はまだ眠ったままだった。だが彼は彼女に声をかけられたような気がした。安心して、信用しているから、と。
 テオも眠りに落ち、次に目が覚めた時もまだ暗かった。少佐に片手を握られているので、空いている手で携帯を出して時間を見た。午前4時半だ。約束は5時だったな。彼は隣に声をかけた。

「少佐、そろそろ行くぞ。」

 彼女が目を開いたので、彼はエンジンをかけた。助手席で彼女が伸びをした。

「お腹空きません?」
「食べてる暇はないだろう。」

 セルバ人でも軍人は時間厳守だ。少佐は自分の携帯の時刻を見て、寝過ごした、とブツブツ呟いた。
 東の空の下の方が明るくなりかけていた。夜中に訪問したプールバーはまだ営業していた。何時もそうなのか、週末だから終夜営業しているのか不明だが、再び階段を降りて行くと、取次の下っ端が2人を見て、すぐに奥へ入って行った。それから代表を連れて来ると、彼等は奥へ来て欲しいと言った。客の面子が変わっていて、騒ぎを大きくしたくないと言うのが彼等の気持ちらしい。それでも先住民の美女と白人男のカップルが堂々と歩いて店奥に入って行くのを男達が好奇心で眺めるのをテオは全身で感じた。
 事務室は、一応経営者の部屋と言う体だった。机の上にパソコンがあるし、店の様子を見る監視カメラのモニターもある。金庫や書類棚もあった。
 代表は椅子を勧めたが、少佐もテオも座らなかった。逆に少佐が相手に座れと言った。

「ぺぺ・ミレレスを見つけたのか?」
「見つけましたが、連れて来れません。」
「何故?」

 代表が眉を八の字に下げた。

「あいつ、警察の死体置き場にいたんで・・・」

 室内の気温が1度ばかり下がった感触だった。少佐が気分を害したのだ。

「何処の警察だ?」
「グラダ市警の東署です。詳細は不明です。そこまで調べる時間がなくて。兎に角、奴は昨日の夕方、東署の管内の公園で死体になってるのを発見されて収容されたんです。俺達がそれを知ったのは、ほんの2時間前で・・・」
「女は?」
「行方不明です。」
「ぺぺはメスティーソか?」
「スィ。先住民だったら、憲兵隊が出しゃばってきますが、警察しか動いていないんで・・・」
「わかった。」

 少佐は素直に退いた。

「手をかけさせて悪かった。」

 体の向きを変えかけると、代表が、「あの・・・」と声をかけた。テオが言った。

「彼女は少佐だ。」
「少佐、もしぺぺの奴を殺ったヤツがわかったら、教えてもらえませんか?」

 テオは思わず言った。

「仕返しを考えているなら、止した方が良い。」
「だが、俺達にも面子がある。」

 少佐が「勝手になさい」と言い、テオに出ようと合図した。

2021/12/27

第4部 牙の祭り     17

  不良グループ、ペロ・ロホの溜り場は古いビルの地下だった。プールバーがあり、テオはケツァル少佐と共にそこへ降りて行った。ドアを開けると広い室内はタバコの煙で霞んでいた。入り口横のデスクにいた男が、新顔の訪問者に警戒心をむき出しにして声をかけようとした。少佐がジロリと見ると、男は大人しく座り直した。室内は音楽がガンガン鳴っていた。
 少佐が「ヘイ!」と声をかけたが、台の周りにいる男達には聞こえていなかった。少佐はテオに「後ろにいて」と言い、パスケースを出し、もう片方の手に拳銃を握って、天井に向かって一発撃った。その場を静かにさせる彼女のいつもの手段だ。きっとこのやり方が好きなのだろう。
 場内が静まり返った。少佐が緑の鳥の徽章が入ったパスケースを前へ突き出して言った。

「大統領警護隊だ。ぺぺ・ミレレスを探している。」

 1分ほど沈黙があった。それから、1人の男が前に出て来た。身なりは良かった。スーツを着ていないが、値が張るジャケットとパンツを身につけていた。靴もピカピカの革靴だ。

「ぺぺは昨日からここに来ていません。彼に何の御用です?」
「彼と彼が交際している女性に聞きたいことがある。」

 男達が顔を見合わせた。居場所を知っているが、教えて良いものか、と言う戸惑いだ。だがセルバ人は相手が何者かわかっている。逆らうと拙い相手だ。代表らしい先刻の男が言った。

「俺達が彼をここへ連れて来ます。」
「何時?」

 相手が答えを躊躇った。するとビリヤード台の上にあった球が突然勝手に転がり出した。飛び跳ねたり、転がったりして、やがて三角形に綺麗に並んだ。
 男達から緊張が漂ってきた。目の前の女は本物の大統領警護隊だ、と悟ったのだ。マジ、やばいじゃん、と言う思いをテオは感じた。
 少佐が時計を見た。そして代表の男に視線を戻した。

「500にここへ連れて来い。もう一度来る。」
「午前5時って意味だ。」

とテオは急いで「通訳」した。ギャングの中には軍人上がりもいるだろうが、一応庶民にわかりやすい言葉に直した方が良い。代表が尋ねた。

「生死問わずですか?」
「生きたままで。」

 少佐は台に視線を向けた。手玉が勝手に三角形に並んだ的球に向かって滑るように転がった。かなりの速度だったので、三角形に集まっていた15個の的球は勢いよく弾かれ、次々と互いにぶつかったり、スカートで跳ね返ったりして、最終的に6つのポケットに全部落ちた。彼女は男達を見回した。

「ぺぺ・ミレレスと彼の女友達を殺さずに連れて来い。これは公務である。」

 彼女が体の向きを変えたので、テオは慌てて道を開けようとした。少佐が目で「先に行け」と合図した。
 ビルから出てベンツに乗り込み、車を出した。角を曲がってビルが見えなくなると、テオは一先ず安堵した。

「あいつら、君が球を動かしただけでビビっていたぞ。」

 ちょっとだけ愉快な気分になった。少佐は反省モードになっていた。

「ちょっと遊んでしまいました。ビリヤードは好きな遊びなので。」
「君とプレイして勝てる人がいるのか?」
「キューを使う時は力を使いません。それにビリヤードは本部で許可されている数少ない娯楽の一つです。屋内競技ですから。」
「それじゃ、俺も何処かで習おうかな。」

 ギャング達は本当にぺぺ・ミレレスとアンパロを連れて来るだろうか。

 

第4部 牙の祭り     16

  ケツァル少佐がこれからヤクザのぺぺ・ミレレスを探しに行くと言うので、テオは思わず「俺も行く」と言ってしまった。少佐が横目で彼を見た。彼は慌てて言った。

「足手まといにはならないから。」

 少佐は溜め息をつき、寝室に行って拳銃を1丁持って来た。彼女自身は常に装備しているから、これは予備の拳銃だ。銃弾の装填を確認して、安全装置を掛け、彼に渡した。車のキーも渡して、ベンツの運転手を彼に無言で命じた。
 外に出て車に乗り込んでから、テオは重大な忘れ物を思い出した。

「ああ、しまった!」
「どうしました?」
「今日は金曜日だ。俺はエル・ティティに帰るつもりだった。」

 少佐が言った。

「電話しなさい。」
「はい。」

 どうせバスの時間には間に合わない。テオはゴンザレス署長の電話に掛けた。大統領警護隊と一緒に緊急の仕事に協力しなければならない、と言うと、署長は「仕方がない」と理解する言葉を言った。だが、

ーーもしかして、お前、今から女房の尻に敷かれているんじゃないだろうな?
「はぁ?」
ーーラ・パハロ・ヴェルデの少佐だよ。付き合ってるんだろ?

 静かなので、少佐に筒抜けに聞こえる。テオは恐る恐る少佐の横顔を伺って見た。少佐は微かに口元に微笑を浮かべていた。「女房」とか「付き合っている」とか言われても腹は立たないようだ。

「まだ正式に交際を申し込んでいないんだ。」
ーーさっさと申込め! あんな良い女、他にはいないぞ。お前を本当に大事にしてくれてるじゃないか。

 テオは返答に困って、強引に電話を終えることにした。

「その話はまた後日。兎に角、今週は帰れなくてごめん。」

 電話を切って、少佐を振り返ると、少佐は前を向いたまま、考え事をしている目だった。テオはなんと言って良いのかわからず、一言、ごめんよ、と言った。

「何を謝っているのです?」
「親父が勝手に俺達のことを誤解して・・・」
「貴方は望んでいるのではないのですか?」
「う・・・」

 否定出来ない。でも肯定する勇気が出ない。彼女が彼の拳銃で膨らんでいるポケットを見た。

「嫌いなら、そんな武器を預けたりしません。」

 テオはその言葉にやっと応えた。

「グラシャス。俺も君を守らなきゃな。」

 彼は車のエンジンをかけ、道路に出た。

「何処へ行けば良い?」

 少佐は市街地の古いブロックの名を2、3挙げた。法律スレスレの仕事をしている人々が多く住んでいる、または出没する地区で、夜になると他の地区に住むまともな市民は近づかない。勿論、それらの場所の多くの住民はまともなのだろうけど。”ティエラ”ならベンツで行くような場所ではない。しかし、いつでも強気のケツァル少佐はお構いなしに、その近辺を目的地に選んだ。
 週末の夜だ。街は遅くまで賑やかで明るかった。所謂「無法地帯」も人通りが残っていた。道を通る高級車に無関心なふりをしながら、通り過ぎてしまうと振り返って見ている。
 1軒のバルの前で少佐が停車を命じた。そしてテオに車内に残るよう言いつけ、1人で降りた。店の入り口へ行き、中を覗き込んだ。暫くして彼女は外の壁にもたれかかり、数分後に男が1人出てきた。周囲を見回し、彼女と少し話した。彼女は彼に礼を言ったようだ。男はすぐに店に戻り、少佐も車に戻って来た。

「ぺぺ・ミレレスの所属するグループがわかりました。」

と彼女が報告したのは3軒目のバル訪問の後だった。ペロ・ロホ(赤い犬)と言う不良少年グループがそのまま年を取ったようなギャング団だと言う。テオはアンパロと言う女性が厄介な男と交際し、その彼女にゾッコンになったビト・バスコ曹長がトラブルに巻き込まれたのだと言う考えに至った。
 バスコ兄弟が”ティエラ”なら、大統領警護隊はこの段階で必要な情報を憲兵隊にそれとなく伝えて手を引くのだろう。しかし、兄弟は”ヴェルデ・シエロ”で、奪われたのは大統領警護隊のI Dカードと政府支給の拳銃だ。ケツァル少佐はビト・バスコの命を奪った人間を突き止め、奪われた物を取り返す使命を副司令官から与えられている。本来は遊撃班がこの類の任務に就くのだが、事件の当事者の1人であるビダル・バスコが頼ったのがケツァル少佐だったから、副司令官は彼女に託したのだ。少佐はこの勅命を受けたのが彼女だけなので、部下を巻き込まない。事件が解決する迄文化保護担当部はロホが指揮官となる。

 グラシエラ、当分デートはお預けだぞ

とテオは心の中で呟いた。


2021/12/26

第4部 牙の祭り     15 

  ケツァル少佐は最初にビト・バスコが勤務していた憲兵隊グラダ・シティ本部ではなく、南基地へ行き、顔見知りになったムンギア中尉を呼び出した。そしてアフリカ系の憲兵を知っているかと尋ねてみた。ムンギア中尉は、直接の知り合いではないが、と前置きして、本部にバスコ曹長と言う若い憲兵がいると答えた。評判を訊いてみると、真面目な男だと聞いていると中尉は言った。真面目だが陽気で仲間に好かれているのではないか、と言うのがムンギア中尉の感想だった。これと言った悪い噂はないし、本部で人種差別や虐めがあった話も聞かないと言うことだった。ケツァル少佐は礼を言ってから、ムンギア中尉からこの会見の記憶を消した。
 次に本部へ行き、バスコ曹長と同じ班の憲兵を数名見つけ出し、バスコ曹長の評判を訊いてみた。やはりビト・バスコの評判は良かった。純血種が威張っている大統領警護隊と違い、ミックスの隊員が多い”ティエラ”の軍隊では、黒い肌は問題でなかった。ただ、バスコ曹長は”ヴェルデ・シエロ”なので家族の話を同僚にすることが殆どなく、仲が良い人でさえ彼に双子の兄弟がいて、大統領警護隊で勤務していることも、母親が医師をしていることも知らなかった。
 それで少佐がビトには恋人がいるのかと訊いてみると、初めて手応えがあった。

ーービトはレストランで働いている女性にゾッコンだった。
ーー勤務では冷静な男なのに、彼女のことになると情熱的になって、他のことが目に入らなくなった。
ーー女の方はそんなに彼のことを大事に思っていない風だった。どちらかと言えば、我儘を聞いてくれる都合の良い男扱いをしていた。
ーーあの女は質が悪いから止めろと言ったが、ビトは聞き入れず、逆ギレされたことがある。

 少佐は女の名前や居場所を訊いてみたが、アンパロと言う名前で陸軍基地周辺にあるレストランのウェイトレスだとしかわからなかった。店の名前はセルド・アマリージョ。

「セルド・アマリージョ?」

 思わずテオは叫んでしまった。

「グラシエラがバイトしている店じゃないか!」
「スィ。私も驚きました。それで、憲兵達から記憶を消した後で、あの店に行ってみたのですが・・・」
「彼女は無断欠勤していた。」

 少佐が彼を見つめた。

「何故知っているのです?」
「今日、グラシエラと大学の駐車場で会ったんだ。ここへ来る直前だよ。」

 テオはグラシエラから聞かされたウェイトレスの無断欠勤の件を話した。少佐は少し考え、時計を見てから電話を出した。彼女がかけた相手は、異母妹だった。グラシエラは姉からかかってきた電話にちょっと驚いた様子だった。辞めると言ったバイトを続けていることを、兄に知られたのかと心配した。兄から姉に何か言ってきたのかと危惧したのだ。

「カルロは関係ありません。貴女の無断欠勤している同僚のことです。」
ーーアンパロがどうかしたの?
「彼女はまだ来ていませんね?」
ーー来ていないわ。
「彼女の彼氏の名前を知っていますか?」
ーー彼氏? ちょっと待って、ブルノに訊いてみるわ。

 ブルノ?とテオが訊くと、少佐がバーテンダーだと答えた。電話の向こうで言葉の遣り取りが聞こえ、やがてグラシエラが電話口に戻った。

ーー彼女の彼氏の名前はぺぺよ。ぺぺ・ミレレス。

 ケツァル少佐が眉を顰めた。

「その男は憲兵ですか?」
ーーノ。

 グラシエラが電話口で笑った。

ーーうちの店を出禁になったヤクザよ。ブルノがずっと別れろって言い続けているわ。今日の無断欠勤もきっとぺぺと遊び呆けているんだって、ブルノが言ってる。
「憲兵が彼女の元に来ることはなかったのですか?」
ーー来てたかも。私は土曜日しか働いていなかったから。しつこく付き纏う男がいるってアンパロが文句を言ってたことはあったわ。
「わかりました。グラシャス。早く帰りなさいね。」

 少佐が電話を終えて、テオを見た。テオは彼女と同じことを考えていた。ビト・バスコ曹長はアンパロと言う女性に片思いをした。そして彼女のヤクザな彼氏を彼女から追い払おうと考えたのではないか。しかしヤクザに憲兵の威力は伝わらない。それなら大統領警護隊の威を借りよう、とビトは思い付いたのでは?

第4部 牙の祭り     14

  夕食は魚介類のスープ、バナナチップス、黒豆にライスだった。スープにはエビや貝や白身魚がたっぷり入っていた。飲み物はさっぱり味のフルーツビール。
 テオと少佐はまず食べることを優先した。宴会でない場合は真面目に食べて、家政婦のカーラを早く解放してあげるのだ。彼女は時給ではなく日給で、勤務時間が短くなっても仕事をきちんとしさえすれば少佐は文句を言わない。寧ろ彼女が早く帰宅すれば家族も安心出来るだろうと、考えて家事を言いつける。それにカーラが余計な心配をしないように、彼女がいる間は仕事の話を出来るだけ控えた。
 食事を終えると、テオが先にゲノム解析の話をした。これならカーラに聞かれても大丈夫だ。普通の人が聞いてもチンプンカンプンな内容だからだ。少佐も理解出来ないのでふんふんとわかるふりをして、最後の結論だけ聞いた。

「恐らく、犯人は2人以上だ。刺した人間と爪や牙を使ったヤツは別人だ。」

 テオがそう言った。キッチンの入り口にカーラが姿を現した。コーヒーのお代わりは要りますかと訊いたので、少佐が後は自分でするので帰りなさい、と命じた。カーラは決して雇い主に逆らわない。彼女の主人は軍人で大統領警護隊だ。国家機密を扱う地位の人だから、家政婦が耳にしてはいけない話も多い。だから彼女は少佐が帰りなさいと言った時は素直に帰る。
 テオはアパートの下迄彼女を送り、彼女がタクシーに乗るのを見届けた。普段はそこまで少佐はしないのだが、男性の客達はみんなそうするのが習慣になっていた。
 テオが部屋に戻ると、少佐が実際にコーヒーのお代わりを作っていた。

「今日、ケサダ教授と大学のカフェで出会ったので、俺が大統領警護隊の隊員の兄弟が殺害されたと言ったら、彼はひどく驚いていた。」
「フィデルは事件を知らなかったのですか。」

 少佐はカップにコーヒーを注ぎながら、意外そうに言った。

「俺がビダルとビトがサンボだと言う迄、どの隊員かも知らなかった。母親のことは知っていた様子だったが。」
「それで、ピューマの体毛のことも彼に言いましたか?」
「言った。彼は、ビト・バスコが兄の制服を無断使用した為に、それを知った”砂の民”に警告を含めた制裁を受けたのだろうと言った。」
「つまり、牙や爪の傷をビトに与えたのは、”砂の民”だと彼は考えたのですね。」
「スィ。だが警告だから、殺さない筈だとも言った。少なくとも警告を与えた相手の様子を数日間は観察するだろうって。」
「するとフィデルの考えでは、ビトは”砂の民”から警告を受けた後で、別の人間に刺殺された、と言うことですか。」
「財布と拳銃がなくなっていたから、強盗かも知れない。あれだけの怪我をしていたら、”シエロ”と言えども武器を持った”ティエラ”相手に闘うのは難しかっただろう。」
「奪われたのは財布や拳銃だけではありません。I Dカードも失くなっています。」
「そうだった。だけど、どうして徽章は置いて行ったんだろう。」

 すると少佐は自分の徽章が入ったパスケースをポケットから出して、差し出した。

「触ってみて下さい。」

 テオはケースを受け取り、中から徽章を摘み出そうとした。指先が徽章に触れた瞬間、チクッと指先に痛みが走り、彼は指を退いた。

「なんだ?」

 思わず声を出すと、少佐が微笑してパスケースを彼から受け取った。

「所有者以外の人間には触れないのです。私の徽章にはロホもアスルも触れないし、カルロも触れません。同様に私は彼等それぞれの徽章に触れません。貴方は私達とよく似た脳をお持ちのようですから、徽章に直接触れた時だけ痛みを感じるのです。でも”ティエラ”はこのパスケースそのものにも触れない人がいます。程度は人それぞれですが、針で刺した様な痛みを覚えるのです。」
「参ったな、そんな仕掛けがあるのか、この緑の鳥は。するとビダルの徽章はパスケースに入ったまま残っていたから、I Dカードを盗んだヤツは”ティエラ”である可能性が高いってことだな。」
「ビトはパスケースを触れたので、制服と共に無断借用したのでしょう。」
「兄貴に化けて何をするつもりだったのかな、憲兵君は・・・」

 今度は少佐が自分が調べてきたことを報告する番だ。


第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...