2021/11/30

第4部 嵐の後で     12

 「本気で言ってるんですか、少佐?」

とテオは尋ねた。シーロ・ロペス少佐が他人を揶揄って喜ぶ人でないことは知っている。しかし、これは余りにも唐突過ぎる。さっき文化・教育省でベンツに乗り込む時、そばにアリアナ・オズボーンがいたじゃないか。2人揃ってあの場で言ってくれた方が衝撃が少なくて済んだのに。

「私は本気です。」

とロペス少佐が言った。

「そして彼女も本気です。」

 テオは深呼吸した。水が欲しかったが、道路側で路駐している車の中だ。ケツァル少佐が非常用の水を車中に常備しているとも思えない。彼はカラカラになった喉を堪えて尋ねた。

「何時からあなた方は交際していたんです?」
「何時からと訊かれましても・・・」

 ロペス少佐はきっと困った表情をしているに違いない。暗いのでテオには見えなかったが。

「彼女がメキシコに行った最初の半年は折に触れて様子を伺いに、私はカンクンに通っていました。彼女には会わずに、彼女の安全を確認するだけの出張でした。」
「ご存じかどうか知りませんが・・・」

 テオは妹の悪口を言いたくなかったが、後でアリアナの不利になる事態を避けたかったので、ここで言ってしまう決心をした。

「彼女は男性との交際が派手です。アメリカ時代も男友達が大勢いましたし、セルバでも・・・」

 彼は勇気を振り絞って言った。

「彼女はカルロ・ステファン大尉やシャベス軍曹と関係を持ちました。この俺も、血が繋がっていませんから、アメリカ時代には関係を持ったことがあります。」
「知っています。」

とロペス少佐が遮った。

「私が結婚を申し込んだ時に、彼女が全て話してくれました。」
「それでも?」
「それでも、私は一向に構いません。メキシコへ行ってからの彼女は、貴方が先刻仰った様な生活をしていたとは信じられない程真面目で身持ちが固かったのです。私は最初の半年、彼女に見つからない様に観察していました。彼女の生活態度が真面目で仕事も熱心に取り組んでいたので、次の半年の勤務延長をメキシコ側から要請された時に、許可を出しました。その時点で彼女は正式にセルバ国籍を取得しました。私が彼女の前に出て、隠れて観察していたことを打ち明けても彼女は怒りませんでした。それから私は一月に一回の割合で彼女の様子を見にメキシコへ通いました。彼女は生活と勤務のリポートを書いて提出しました。それから半年後の最後の延長手続きの後、私達は一緒に食事をしたり仕事の後の時間を過ごす様になりました。
 アリアナ・オスボーネは貴方が知っている昔のアリアナ・オズボーンとは違うのです。」

 テオが黙り込んだ。ケツァル少佐が車を再び動かした。外はもう真っ暗だ。
 テオは一般人がいる場所では話せない問題をぶつけてみた。

「アリアナと俺は人工的に遺伝子操作されて生まれた人間であることは、話しましたね。俺達と普通の人間の間に子供を作れるのかどうかわかりません。作れたとして、どんな子供が生まれてくるのか、それもわかりません。ましてや・・・」
「ましてや”ツィンル”との間に生まれる子供は想像つかないと?」

 ロペス少佐は己のことを”ヴェルデ・シエロ”とは呼ばずに”ツィンル”と敢えて呼んだ。ナワルを使って動物に変身する”ヴェルデ・シエロ”のことだ。変身出来ない”ヴェルデ・シエロ”は含まれない。ロペス少佐は決してミックスを”出来損ない”とは考えていない、と以前テオはケツァル少佐から聞かされたことがある。ミックスが失敗して正体を一般人に知られそうになるのを心配しているだけだ、と。もしそうなったら、そのミックスは”砂の民”に抹殺されてしまうからだ。”ツィンル”は普通の人間とは遺伝子的に離れているのだろう。だから、テオは人工的に遺伝子操作された自分達と”ツインル”の間に子供が出来ることを心配している。
 テオは首を振った。ロペス少佐は楽観主義者に見えなかったが、こう言った。

「子供が生まれてみないとわからないことでしょう。」

 彼はテオから目を逸らした、とテオは思った。金色の光が前を向いたのだ。ロペス少佐は囁くような低い声で言った。

「あなた方”ティエラ”から見れば、現在の我々だって十分怪物ですよ。」

 テオはハッとした。”ヴェルデ・シエロ”だって人類だ。非常に稀な遺伝子を持ち、非常に稀な能力を持った、非常に極少数の現存数しかいない一つの人種だ。彼等は絶滅すまいと大昔から必死で種を守ってきたに過ぎない。

 決して特別な存在ではないのだ

 ロペス少佐はそう言いたいのだ。アリアナもテオも特別な存在ではない、地球上に住んでいる人間の1人に過ぎない、と。考えれば、一番最初に”ヴェルデ・シエロ”との間に子供を作った人は、難しいことなど考えなかっただろう。自然に愛の営みを行なって、子供を生んだのだ。

「俺が間違っていました。」

とテオは言った。

「アリアナは幸せになる権利を持っています。それは貴方も同じだ。」

 彼は手を少佐に差し出した。

「どうか幸せになって下さい。もし・・・」

 彼はちょっと相手を揶揄いたくなった。

「彼女の扱いに困ったら、何時でも相談して下さい。アリアナ・オズボーンの対策法を伝授しますよ。」
「グラシャス!」

 いきなりロペス少佐の手が彼の手を掴み、力強く揺さぶった。事務方にしては力の強い手で、やっぱり軍人だ、とテオは感心した。

 

第4部 嵐の後で     11

  テオはてっきり大統領府の近くの国防省ビルへ行くのかと思ったが、ケツァル少佐のベンツは大通りを走り、そのまま南へ向かって走り出した。

「ええっと・・・何処へ向かっているのか、訊いても良いかな?」

と声をかけると、ケツァル少佐が運転しながら答えた。

「ロカ・ブランカです。」

 グラダ・シティとプンタ・マナの中間地点よりややグラダ・シティ寄りのビーチだ。テオの知識では観光客向けと言うより寧ろ地元民向けの海水浴場がある村だった筈だ。綺麗な砂浜があるが、飲食店やシャワーの設備はない、着替えの為の小屋だけが貸し出されている浜辺だ。泳いだ人は、体を洗わずに服を着て帰る。水着の上にそのまま服を着て帰る人もいる。遠方からの客はいないから、それで良いのだ。荷物の管理は自分でしなければならないし、ビーチの監視員もいないから、外国からの観光客は滅多に来ない。偶に白人や外国人らしき人を見かけても、大概は地元に住み着いている人だった。白い大きな岩がビーチから100メートル程沖にあり、それが地名になっていた。その岩も日が暮れた後に行けば見えないだろう。
 
「ロカ・ブランカに病院も憲兵隊の駐屯地もなかったよな?」

とテオが確かめると、ロペス少佐が前を向いたまま首を振った。

「ありません。しかし警察署はあります。」

 どうでも良いけど、とテオは胸の内で呟いた。晩飯はどうするんだ?
 軍人2人はそんな彼の心配など思いつかない様子で、全く別の話を始めた。ケツァル少佐が最初に質問した。

「式は何時挙げるのです?」
「雨季が明けたら。」

とロペス少佐が答えた。

「教会で?」
「スィ。その方が彼女も喜ぶ。伝統的な部族の結婚式は馴染まないだろうから。」
「貴方の親族はそれで納得しているのですか?」
「私の親族は父が残っているだけだ。広い意味での親族を考えればキリがない。それに彼女の方の親族も1人だけだ。」

 彼はケツァル少佐に顔を向けた。

「立会人になってくれるかと言う依頼の返事をまだもらっていないが?」

 ああ、とケツァル少佐が曖昧な返事をした。そして言った。

「彼女の親族の了承を得ないと、返事を差し上げにくいです。」

 ロペス少佐は結婚するのか、とテオは思った。既婚者だとばかり思い込んでいたが、独身だったのだ。それで、彼は声をかけた。

「ロペス少佐、結婚されるのですね。おめでとうございます。」

 少し奇妙な間を置いて、ロペス少佐が前を向いたまま、グラシャスと返事をした。するとケツァル少佐が彼に言った。

「ここで了承を得ておきなさいよ。」
「ここで?」

 とテオとロペスが同時に声を発した。しかしニュアンスは全く違った。ロペス少佐は「こんな場所と場合に?」だったし、テオは「何故ここで彼が婚約者の親族に了承を得なければならないんだ?」と思ったのだ。
 ケツァル少佐がベンツを道端に寄せて停めた。そして助手席のもう1人の少佐に言った。

「早く!」

 訳がわからないテオは、ロペス少佐が車外に出るのを眺めた。そして、少佐が後部席に入ってきたので、驚いた。
 シーロ・ロペス少佐はネクタイを直し、軽く咳払いして、テオに向かい合った。そして言った。

「私とアリアナ・オズボーンとの結婚を了承して頂きたい。」
「え?」

 テオは直ぐに理解出来なかった。暗い車内で、金色に光る”ヴェルデ・シエロ”の目を見つめた。そして、徐々に事態を理解した。彼は大声を出した。

「ええっ!!」



第4部 嵐の後で     10

  店の外に出ると、ロホとギャラガが待っていた。テオに夕刻の挨拶をしてから、ロホはアリアナには「お帰りなさい」と言った。そして直ぐにケツァル少佐からの指示を伝えた。

「ちょっと国防省からテオに仕事の依頼が入りました。それで少佐が案内されます。」

 彼はアリアナに顔を向けた。

「貴女は私が少佐のアパートまでお送りします。今日の午後から家政婦が出て来ているので、お食事の心配はありません。」
「俺の車は?」

とテオが尋ねた。

「少佐の車で俺は国防省へ行くのだと思うが・・・」

 するとアスルが口を挟んだ。

「俺があんたの車で帰る。」

 デネロスとギャラガは普段通りバスで大統領警護隊本部へ帰るのだ。テオは素直にアスルに車のキーを渡した。キーがなくても彼等はエンジンぐらいかけられるが、ここは普通にキーを使って欲しかった。アリアナはギャラガとは初対面だった。ロホが2人を紹介して、挨拶の遣り取りが始まった。
 そこへ少佐がベンツを運転して路地から出てきた。停車したベンツを見て、テオは「あれ?」と思った。助手席に男性が乗っていた。アスルが先刻言及した「客」だが、テオがよく知っている男だった。

「ロペス少佐じゃないか。」

え?とアリアナも振り返った。彼女の顔に当惑の色が浮かんだが、すかさずデネロスが彼女に囁いた。

「ロペス少佐も国防省からお呼びがかかってます。呼ばれているのは、ロペス少佐とテオの2人なんです。」

 大統領警護隊の隊員で外務省で移民・亡命審査官として勤務しているシーロ・ロペス少佐は事務方でずっと働いてきた人だ。ケツァル少佐が、「彼は随分長い間銃を扱ったことがないのではないか」と揶揄した程、ビジネススーツとアタッシュケースが似合う男性だ。純血種の”ヴェルデ・シエロ”で、テオは彼がどの部族なのか聞いたことはないが、恐らくブーカ族だろう。一族の中で一番人口が多く、大統領警護隊の隊員の多くは純血種、メスティーソを含めて殆どがブーカ族だ。つまり、ロペス少佐は戦闘から遠い場所で働いているが、超能力はかなり強いのだ。とても落ち着いて見えるし、真面目な人なので年嵩に思えたが、デネロスから聞いた話ではまだ30代前半だそうだ。
 テオは亡命して最初の1年間観察期間に置かれていた。度々文化保護担当部の友人達と事件に巻き込まれたり、遊びに行ったりして羽目を外し、ロペス少佐から叱られたことがよくあった。だから、観察期間を満了させて晴れてセルバ市民になった今でも、この男性少佐がちょっと苦手だ。
 クラクションが鳴り響き、テオは我に帰った。運転席のケツァル少佐が、早く乗車しろと鳴らしたのだ。彼は慌ててロホや他の友人達に「また明日!」と挨拶して車に向かって走った。
 助手席が塞がっているから、後部席だ。車内に入ってドアを閉めると、直ぐにケツァル少佐はベンツを出した。
 テオは前を向いたままのロペス少佐に後ろから声をかけた。

「ブエナス・ノチェス、ロペス少佐。」

 ロペス少佐は挨拶を返してくれたが、振り返らなかった。典型的な”ヴェルデ・シエロ”の神様態度なので、テオは気にせずに質問した。

「国防省の仕事って何です?」
「わかりません。」

と素気なく答えてから、それはやはり失礼だろうと思い直したのか、ロペス少佐は前を向いたまま言った。

「ハリケーンで遭難した船の乗員の身元調査に関する事案だと思います。」

 ああ、とテオは少しだけ理解した。

「俺はD N A鑑定でも依頼されるんだな。だけど、移民や亡命者の審査をする貴方がどうして呼ばれるんです?」

 ロペス少佐は直ぐに答えなかった。するとケツァル少佐が彼に尋ねた。

「遭難者は密入国者の疑いがあるのでしょう?」

 ロペス少佐が溜め息をつく音が聞こえた。

「この事案が国防に関することなのか、治安に関する外務の仕事なのか、まだ上は判断つけかねている様だ。」
「遭難船は何処の船です?」

 テオの質問に、初めてロペス少佐が振り返った。

「どの国籍の船か手がかりになるものが一つもない。故に憲兵隊はスパイ活動か犯罪を試みた組織ではないかと疑っている。」
「乗員は生きているんですか、それとも・・・」
「船と言うか、救命筏ですが、中に死者が1名、生存者2名がいました。生存者の1名は低体温症で救助後に死亡、1名はまだ意識が戻りません。ですが・・・」

 彼は前に向き直った。

「生きている男は白人です。」



2021/11/29

第4部 嵐の後で     9

  民間企業などは午後7時まで仕事をしている国だが、省庁は6時で閉庁になる。カフェで時間を潰しているテオとアリアナの所へ最初に現れたのはアスルとデネロス少尉だった。デネロスはアリアナと仲が良い。アリアナが初めてセルバ共和国に来た時以来の付き合いだ。それにデネロスの英語の論文指導をしたのもアリアナだったので、この2人は師弟関係でもあった。既にアリアナの帰国を知っていたデネロスは(女性達はメールや電話で常に情報交換していたのだ。)、テオ達のテーブルに真っ直ぐやって来た。アリアナが立ち上がって彼女を迎えると、2人はハグし合った。テオはデネロスの後ろからゆっくりやって来るアスルを見た。
 以前アスルはアリアナに片思いしていると文化保護担当部の仲間内では噂になっていた。”ヴェルデ・シエロ”達は仕事やプライベイトで”心話”を使うことが多いが、この超能力はちょっと厄介な問題があって、個人的な思考も相手に伝えてしまうことが偶にあるのだ。使い手は幼少期に親から情報をセーブすることを教えられるのだが、精神的に弱っていたり、酒に酔ったりした時にうっかり心の底にしまってある私的感情を他人に伝えてしまう「事故」だ。アスルは普段は寡黙な男なのだが、アルコールに弱い。飲み会でうっかり先輩達に初恋を読まれてしまったのだ。揶揄われたりしていたが、結局アスルが自分から告白することはなく、アリアナはメキシコで働くためにセルバを離れた。あれから一年半経った。
 前夜、テオはアスルにアリアナの帰国を伝えた。アスルは反応しなかった。ふーんと言った感じで、何もコメントしなかった。もう恋の熱は冷めたのか、とテオはちょっぴり安堵した。アリアナはアスルより9歳年上だ。それに遺伝子操作されて生まれた人間だ。テオは彼女と超能力を持つ”ヴェルデ・シエロ”の間に子供が出来る場合を想像すると、不安を感じざるを得なかった。普通の人間と”ヴェルデ・シエロ”との間のミックスの子供達は、親に負けない強さの超能力を持って生まれてくる。だが彼等は純血種と違って親に教わらなければ超能力を使いこなせない。純血種の様に生まれながらに自由に使える訳ではないのだ。
 自分達の様な遺伝子操作された人間と”ヴェルデ・シエロ”の間に生まれる子供は、どんな能力を持って来るのだろう。自分達親は子供を上手く教えることが出来るのだろうか。
 テオはそれを考えると、ケツァル少佐に愛の告白をするのを躊躇ってしまう。少佐も何か不安を感じているのか、彼に親しい振る舞いをしても一線を越えようとはしない。
 もし、アスルがアリアナへの恋を過去のものにしてしまったのであれば、それはそれで良い、とテオは思うのだ。アスルには彼女よりもっとふさわしい女性がいくらでもいる。
 ハリケーン接近時のフライトはどうだったと尋ねるデネロスの横をアスルは通って、テオのそばに来た。そしていつものぶっきらぼうな口調で言った。

「あんたに客が来ている。」
「客?」
「もうすぐ上官達が連れてくる。」

と言ってから、彼は付け足した。

「客も上官だ。」

 つまり、大統領警護隊の隊員だ。アスルは少尉だから、「上官」は中尉以上の将校だ。一瞬カルロ・ステファン大尉かと思ったが、それならアスルははっきり名前を言う。ステファンは元文化保護担当部所属でケツァル少佐の副官だったのだ。
 店の入り口に、文化保護担当部の末席にいるアンドレ・ギャラガ少尉が現れた。テオが彼に気づくと、ギャラガが腕を振って、来いと合図した。目上の人に対して失礼な振る舞いだが、店内は賑わっており、大声を出す訳にもいかないのだ。テオはアリアナやデネロス、アスルに声をかけた。

「店から出ろってさ。少佐の命令だな。」


第4部 嵐の後で     8

  セルバ人はハリケーンに慣れている。次の日には電力問題もすっかり解消されて、グラダ・シティは日常を取り戻していた。海がまだ荒れているので漁業の方はまだ数日お休みになるだろう。テオはグワマナ族のデルガド少尉の実家は大丈夫だろうかと心配した。ゲンテデマと呼ばれる漁師だったら、暫く仕事が出来ないだろうと言うと、アスルは心配ないと言った。

「あいつは泳ぎは得意だが、漁師の子供ではない。俺の記憶が正しければ、あいつは土産物屋の子だ。」

 それはまた意外だった。精悍な顔つきと敏捷な身のこなし、己より強い力を持つ敵に怯まず対峙する勇敢な若者エミリオ・デルガドが、土産物屋の息子? テオはもう少しで笑いそうになって慎んだ。土産物屋だって立派な職業だ。欧米の観光客は人形などの民芸品や伝統工芸品を喜んで購入する。南の楽園セルバ共和国のリゾートの記念として。しかし、デルガド少尉が土産物を白人相手に売っている姿をどうしても想像出来なかった。
 大学に学生達が戻って来て、新学期がまだ始まっていないのに活気が蘇った。進級が決まった学生達は熱心で次の教室や研究に移動する準備を始めたし、落第した学生は敗者復活戦になる次の試験期間に向けて既に勉強を始めていた。セルバ人で真面目なのは、子供や若者達だ。この情熱を大人になっても失わないで欲しい、とテオは願った。
 アリアナ・オズボーンは医学部に帰国報告に行った。テオは彼女がグラダ大学の医学部で研究者として働くものと思っていたが、その日の夕刻に出会った時、彼女は大学病院の小児科病棟で医師として実務に抵ると告げた。メキシコでの実績を買われて正式にセルバ共和国の医師免許を取得したと言う。テオは彼女に関して彼が知らないところで物事がどんどん進んでいるような気がした。

「それで? 今夜も少佐のアパートに泊まるのか?」
「スィ。でも明日は出て行くわ。大学の職員寮に空き部屋があると聞いたので、今日早速手続きして来たの。」
「セキュリティは良くないぞ、職員寮は出入りが自由だ。」
「私は大丈夫よ。それにまたすぐに別の場所へ移る予定だから。」

 彼等は文化・教育省が入っている雑居ビルの1階にあるカフェテリア・デ・オラスにいた。アリアナはケツァル少佐を、テオはアスルを待っていた。アスルが必ずしも彼の家に帰るとは限らないが、一応省庁が業務を終える時刻に来て10分だけ待つと言う約束ができていたのだ。アスルは車もバイクも持っていない。テオの車に乗らなければ、彼なりの方法で帰って来るだけだ。

「別の場所って?」

 テオはアリアナが昨日出会った時から奥歯に物が挟まった様な話し方をすることが気になった。何か隠しているのか? 
 アリアナがミルクラテのカップを持ち上げて一口飲んでから、言った。

「本当に鈍感なのね、貴方は。」
「はぁ?」

 彼女はカップを置き、左手の甲を彼の方に向けて掲げた。薬指に金色の指輪が光った。石は付いていない。しかし、指輪が持つ意味はテオに伝わった。彼はぽかんと口を開け、それから我に帰って尋ねた。

「婚約指輪?」
「スィ。」
「相手は?」

 アリアナはフフっと笑った。

「貴方が知っている人。」


2021/11/28

第4部 嵐の後で     7

  セルバには、欧米のようなスーパーマーケットはないが、大きな建物の中にいろいろな店舗が入っているメルカド(市場)がある。テオは研究室の片付けを終えると、大学のカフェがまだ休業していたので、街に出た。一番近いメルカドへ行き、入り口でカートを調達すると、それを押しながら中を歩いた。ハリケーンの影響で海鮮を売っている店は閉まっていたが、八百屋や精肉店は既に店を開けていた。馴染みの店で値段交渉をして、揚げパン屋で昼食を済ませた。その日の夕食の食材を調達した。アスルが作るか彼自身が作るか、それは関係ない。その日食べる物を買うだけだ。支払いを済ませた商品をカートに入れて行く。未払いの物はカートに入れてはいけない。それがセルバのルールだ。
 3軒ある果物屋の中で一番大きな店の前で、アリアナ・オズボーンとバッタリ出会った。正直なところ、テオは驚いた。

「帰国は明日じゃなかったか、アリアナ?」

 アリアナがちょっと顔を顰めた。

「会うなり最初の言葉がそれ?」

 そして説明した。

「カンクンのアパートを引き払って飛行機に乗るまでホテルに泊まるつもりだったの。でもハリケーンが来るって言うので、満室になってしまったのよ。途方に暮れかけたら、今度はキャンセル待ちを入れておいた二日早い便に空席が出来たって航空会社から連絡が入ったの。乗らないとハリケーンが来てしまうでしょ? 泊まる所もないのに。だから乗っちゃいました。」
「すると、グラダ空港に着いたのは昨日か?」

 テオは呆れた。一番風雨が強かった時ではないのか? 

「風が出る直前に到着したのよ。」

とアリアナがちょっぴり自慢げに言った。

「でも雨がひどくなって、タクシーも来ないし、こっちのホテルも塞がってしまったから、どうしようかとターミナルビルの出口で迷っていたら、女神様が通りかかったの。」

 テオは黙って彼女の顔を見つめた。気のせいか、アリアナは彼が最後に彼女を見た時より逞しく見えた。以前は不安と不満に苛まれて頼りない雰囲気だった。孤独感と焦燥感で心から疲弊して見えた。しかし、一年半のメキシコでの一人暮らしで、彼女は強くなって戻ってきた感じだ。
 テオが黙っているので、彼女は種明かしをした。

「ケツァル少佐が仕事を早退きして、市内を巡回していたの。何処かに守護の不具合が出ていないかチェックしていたんですって。彼女が先に私を見つけて、車を止めてくれたの。貴方と同じように、帰国は2日後の筈では?って聞かれたので、さっきの説明をしたら、うちに来なさいって言ってくれたの。それで彼女の車に乗せてもらって、市内巡察を付き合って、そのまま彼女のアパートへ行って、泊めてもらった訳。」
「俺に連絡をくれれば、迎えに行ったのに。」

とテオは言ったが、内心は少佐に感謝していた。彼の家にはアスルとデルガドがいたのだ。アリアナの場所がない訳ではなかったが、狭い家に4人でハリケーンをやり過ごすのはそれなりに気苦労があったかも知れない。第一アリアナとデルガドはまだ会ったことがないし、アスルは以前アリアナに片思いをしていた。(今はどうなのか、不明だが。)
 アリアナは肩をすくめた。

「懐かしくて、2人でお喋りに夢中になって忘れたのよ。」

 彼女はテオのカートを見た。

「たくさん買うのね。」
「同居人の分も買ったからね。」

 ああ、とアリアナは以前電話で聞いたアスルの下宿の件を思い出した。

「要するに、私の居場所がない訳ね。」
「済まない。君の新しいアパートを探すつもりでいたら、ハリケーンが来たんで忘れてしまった・・・」

 テオもアリアナのカートの中身を見た。大量の野菜と果物と肉の包みが入っていた。これは現在の「家主」の食べる分だろう。

「今夜も少佐のアパートに泊まるのかい?」
「スィ。まだ家政婦さんは来られないのよ。子供の学校が再開されるまで家にいるのですって。だから、私が家事を引き受けたの、宿泊費の代わりにね。」
「少佐は、今・・・」
「今日は一日寝ているわ。昨夜祈祷して疲れたんですって。大統領警護隊って、自然災害の時は祈祷も任務になっているのね。」

 アリアナが遠くを見る目になった。テオは彼女がカルロ・ステファンを思い出したのかと思ったが、実際はそうではなかったと後で知らされることになる。


 

2021/11/27

第4部 嵐の後で     6

  暢んびりした朝食を済ませた後、後片付けをした。その頃にやっと停電が解消した。首都なので、電力会社が大急ぎで電線を復旧させたのだ。少なくとも、国の経済を動かしているセレブが多く住む西サン・ペドロ通りの電力を復旧させれば、電線がつながっている隣の東サン・ペドロ通りもテオの家があるマカレオ通りもその恩恵に預かれるのだ。
 テオは身支度をして、車にアスルとデルガドを乗せて家を出た。同じマカレオ通りの北地区に住むロホのアパートは電力が復活しただろうかと思いながら、車を走らせた。
 路上にはいろいろな物が落ちていた。住民が後片付けをしたり、電力会社の工事車両が点検に回っているのを見ながら、ゆっくりと市街地に入った。
 冠水していた幹線道路も水が引いた。テオは文化・教育省が入居している雑居ビルの前に車を停めた。アスルとデルガドが降りた。デルガドが「グラシャス」と挨拶して、バスターミナルの方向へ歩き出した。アスルは文化・教育省へ入って行った。入り口の番をしている女性軍曹は今朝も出勤済みだ。彼女はどこに住んでいるのだろう、とテオはふと気になった。軍人だから基地で寝起きしている筈だが。
 車を出して、大学へ行った。大学の門は開いていた。暴風雨の後片づけに来た職員の車が駐車場に数台停まっていた。まだ多くの教室は休みを決め込んでいるようだ。テオの研究室は、窓ガラスは無事だったが、隙間から水が侵入していた。壁に滲みがあり、窓際の机には水溜りができていた。テオは拭き掃除で午前中を潰した。

 エミリオ・デルガド少尉はバスターミナルで小一時間待ってから、プンタ・マナ行きのバスに乗車出来た。バスは案外混んでいて、彼はリュックサックを前に抱え込んだ。鮨詰めのバスや列車は中南米では珍しくない。いつもの帰省で彼は慣れていたので、出来るだけ窓が開いた場所に立ち、座っている人の存在を無視して通路を塞ぐ群れに加わった。そして立ったまま目を閉じた。
 バスは南へ向かう基幹道路を走った。路面の汚れは都市部よりマシだった。飛んで来る物が少なかったのだろう。バスの車内はお喋りの声で賑やかだった。この分だと昼過ぎにはプンタ・マナに到着するだろうと、誰もが思っていると、バスの速度が落ちた。
 デルガドは後方からサイレンの音が近づいて来ることに気がついた。バスや周囲の車が速度を落とし始めたのは、緊急車両に左端の車線を譲るためだ。軽い渋滞が発生し始めた。
 デルガドは窓の外をパトカーや陸軍の憲兵隊車両が走って行くのを見た。救急車も走って行った。
 事故か?
 バスの乗客達の中に不安が広がった。道路の先で事故が発生していたら、そのうち車の流れが止まってしまうだろう。そうなったら、この蒸し暑い鮨詰めのバスの中で封鎖が解けるまで待たねばならない。デルガドは実家へ夕刻までに着かないのではないかと心配になった。野宿は構わないが、このバスの中で立ったまま一晩寝るのはごめんだ。そうでなくても昨夜は徹夜で祈って、ナワルも使って疲れているのだ。
 幸い、バスは停止することなく、低速で進み続けた。
 道路が海岸に最も近づく地区に入り、そこで乗客達は緊急車両の目的地が砂浜だと知った。道路から脇道に入り、ビーチに降りられる場所がいくつかあるのだが、その内の1箇所に先ほどのパトカーや憲兵隊車両や救急車が集結していた。地元の人々も集まっているのが見えた。
 なんだろう?と乗客達の視線が海岸に注がれた。誰かが声を上げた。

「難破船だ!」

 大型船舶の姿は見えなかった。バスからは波打ち際に集まって何かを引き上げる警察官や地元民の姿が見えただけだった。ハリケーンに巻き込まれて遭難し、浜に打ち上げられた人がいるのか、とデルガドは思った。セルバの漁師はハリケーンが近づいている時に出漁したりしない。外国船だろう、と彼は思った。

2021/11/24

第4部 嵐の後で     5

 ハリケーンが過ぎ去った後の朝は清々しい・・・ものではない。空気は湿気を持ち去られてサラッとしていたが、地表はゴミや木の枝や飛んできた得体の知れない物で汚れていた。
 テオは掃き出し窓の鎧戸を取り外し、朝日を室内に入れた。風を家の中に通した。
床のカーペットの上で横になっていたアスルとデルガド少尉が起き上がった。何故か2人とも上半身に何も着ていなかった。アスルが顔を手で擦りながら言った。

「少し太ったんじゃないか、マーゲイ?」
「そんなことはない。」

 デルガドは傷ついた様な表情になった。
 テオは朝食の支度をするためにキッチンに入った。電気はまだ復旧しておらず、冷蔵庫の中の傷みやすい食材で急拵えのごった煮スープを作った。 いつも彼より早く起きて朝食の支度をしている筈のアスルが、窓を開ける迄寝ていたのが意外だった。まさか徹夜でチェッカーをした筈はないだろうし。
 鍋を見ていると、アスルがまだ喋っていた。

「昨夜の君のマーゲイは以前より大きくなっている様に見えた。」
「そんなことを言われたのは初めてだ。」
「普段はナワルを使わないから、誰もわからないんだ。君の能力が増大している証拠だ。」
「増大するとどうなるんだ?」

 デルガドの声に不安の響きが入った。テオも気になって耳を澄ませてしまった。
 アスルがしたり顔で言った。

「そのうち太ったマーゲイになる。」

 おい、止めろ、とアスルが怒鳴ったので、きっとデルガドにクッションで叩かれたのだろう。テオはじゃれあっている2人の少尉に、朝飯だよ、と声をかけた。
 テーブルに着いた2人の前に置いた皿に、テオは急拵えのスープを配った。パンとスープとコーヒーだけだったが、誰も文句を言わずによく食べてくれた。テオはアスルに尋ねた。

「昨夜、変身したのか?」

 アスルが「スィ」と答えた。

「任務で祈った。暴風雨を收める時は、祈りの最中にナワルを使う時がある。使わずに済めば良いが、昨日のハリケーンみたいなのは、必要だ。」
「”ヴェルデ・シエロ”全員が変身するのか? それとも大統領警護隊だけか?」
「全員じゃない、風の神の心に同調出来る者だけだ。祈らない者もいるし、祈っても同調出来ない者もいる。風に心を合わせて、鎮めていくんだ。」

 よくわからないが、それが”ヴェルデ・シエロ”の本領発揮なのだろう、とテオは思った。セルバと言う国の国土を守る仕事を彼等は昨夜徹夜でしていたのだ。だから朝だというのに、2人の少尉は憔悴した表情なのだ。

「お疲れ様、”ヴェルデ・シエロ”。」

とテオは言った。

「もう一晩泊まっても良いんだよ、エミリオ。」

 と言ったが、デルガドは首を振った。

「バスの運行が再開次第、故郷に帰ります。あっちの被害も気になりますから。それに、バスの中で眠ります。」

 テオは頷いて、アスルを見た。アスルは言った。

「俺は、ハリケーン休暇だ、と言いたいが、恐らく少佐も中尉もデネロスもギャラガも出勤しないだろうから、俺がオフィスに出る。」
「少佐達は・・・」
「少佐とロホは能力が強い。だから昨夜の祈りに使った体力も半端じゃない。今日は疲れて仕事を休まれる。ギャラガも今年からグラダとして祈祷に入っただろうから、ステファン大尉と一緒にピラミッドの地下で寝てるだろう。エル・ジャガー・ネグロとして、首都防御にエネルギーを使い果たした筈だ。デネロスは、祈りの部屋で雑魚寝しているか、寝た連中の世話で奔走しているか、どっちかだ。ハリケーンがセルバへ来ると、いつもそうなる。」

 デルガドが説明した。

「今年はエル・ジャガー・ネグロが2頭いたから、私達は力の消耗をセイブ出来ました。だから、今こうして貴方と食事をして喋っていられる。」
「つまり・・・グラダの男性が2人いたから、君達は力を使い切らずに済んだってことだね? それじゃ、女性のグラダは・・・」
「少佐は首都ではなく、国全体を守っていた。」

 え? とテオは手からスプーンを落としそうになった。

「国全体?」
「女は、広範囲を守るんだ。だから、デネロスも、特殊部隊の巨乳のお姉さんも、国全体の守護を祈った筈だ。広く、緩やかに・・・首都や町だけ守っても、上流で大雨が降れば下流で洪水が起きるだろ? 女達は国全体に降る雨を多過ぎないように、国全体に吹き荒れる風が強過ぎないように、祈っていた。だから、一族が住んでいない土地でも、そんなに被害は出ていない。」

 テオは、己の親友達が、神々なのだと、改めて感じ入った。




2021/11/22

第4部 嵐の後で     4

  大統領警護隊本部の祈りの部屋にアンドレ・ギャラガ少尉が入ると、既に室内は非番の警備班隊員や遊撃班隊員で鮨詰め状態になっていた。男女入り混じっており、皆床の上に直に座って目を閉じ、瞑想状態に入っているのだった。静かだ。そして空気が冷たい。
 ギャラガは戸口で隙間を探して室内を見回した。突然、後ろから何者かに襟首を捕まれ、引っ張られた。驚いて振り返ると、仮面を被った長老だった。誰なのかは不明だ。長老は仮面を被ると決して己の身元を明かしたりしない。
 仮面のせいで聞き取りにくい低い声が囁いた。

「グラダはこっちだ。」

 長老が襟首から手を離したので、ギャラガはホッとした。そして貫頭衣を着用した長老の後ろをついて行った。
 ハリケーンがセルバ共和国を直撃する時、必ず大統領警護隊は守護任務として国家安泰を祈る。風と雨の神に鎮まっていただくようお願いするのだ。ハリケーンの規模によるが、今回は「手が空いている者は祈れ」のお達しが出ていた。場所は特に言及されていなかったが、居室ではなく祈りの部屋に多くの隊員達は集まった。居室で祈ると休憩を取らなければならないルーティンの隊員に迷惑をかける。やたらと勢力の大きなハリケーンの場合は、全員に集合が掛けられ、祈る場所も地下神殿の大広間になる。ギャラガは幸いなことにまだ全員集合を経験したことがなかった。今回も「手が空いている者は祈れ」の規模だ。
 しかし、グラダ族としてハリケーンを迎えるのは初めてだった。つまり、グラダとして認定されて初めてのハリケーンだ。グラダと他の部族で祈りの場所が違うのか、と未知の体験に彼は緊張した。
 長老は彼を地下へ導いた。地下へ降りるのは入隊式以来だ。普段は佐官以上の階級の者しか降りられない場所だ。尉官の隊員が降りる時は上官の許可をもらうか、よほどの理由がなければ立ち入りを許されない。
 大広間では火が焚かれていた。山羊の匂いがした。ギャラガの血が騒いだ。気が動いたのだろう、長老が振り返った。

「まだだ。」

と長老に制された。大広間を縦断し、奥の扉の前に立った。ギャラガにとって未知の場所だ。長老が扉を押した。冷たい空気が流れ出て来た。山羊の匂いが強くなり、不快なほどだ。
 扉の向こうは、さらに広い空間が広がっていた。沢山の篝火が焚かれ、山羊の脂の匂いが充満していた。 中央に祭壇があり、そこに白い人影が見えた。

ーー見てはならぬ

 脳の奥で声が聞こえた様な気がした。ギャラガは慌てて目を伏せた。

 名を秘めた女の人だ

 入り口から入って10メートルほどのところの床に、裸の男が座っていた。その体格に見覚えがあった。エル・ジャガー・ネグロ、すなわちカルロ・ステファンだ。彼はギャラガが入室しても振り返らなかった。既に瞑想に入っているようだ。
 ギャラガは後ろで扉が閉まるのを感じ、そっと振り返った。長老は姿を消しており、扉の横にきちんと畳まれたステファン大尉の軍服と軍靴が置かれているのが目に入った。
 ギャラガは何をすべきか悟った。すぐに彼も服を脱いで畳み、靴も脱いで、ステファンの衣類の横に置いた。生まれたままの姿になると、先輩の隣に座った。

 

 ケツァル少佐はアリアナ・オズボーンが客間のベッドで眠りについたことを確かめると、静かにアパートの部屋を出た。エレベーターはいつ止まっても不思議ではない夜だ。彼女は階段を登り、屋上へ出る扉がついた最上階の小部屋に到着した。誰も付けて来ていないと確信する迄少し時間を置き、それから彼女は着衣を脱いだ。


 グラダ・シティの地表温度が10度低下し、周辺の東海岸地方のそれも3度から6度ほど一気に低下した、と某国の気象衛星は観測した。急激な地表温度低下によって、ハリケーンの勢力がやや削がれたことは、観測史上の大きな謎だった。どのハリケーンもセルバ共和国に接近すると勢力が衰えるのが常だった。


第4部 嵐の後で     3

  大きな開放的な窓の向こうは真っ黒な雲に覆われ、視界がほとんどなかった。時々稲妻が走るのが見えた。ケツァル少佐はブラインドを閉めた。閉めても閉めなくても部屋の中は暗い。
バスルームからTシャツと短パンの上にバスローブを羽織ったアリアナ・オズボーンが現れた。髪がまだ湿っていた。

「シャワーのおかげで生き返った気分よ、グラシャス、シータ。」

 少佐がソファにクッションを並べた。

「今夜はカーラが来られないから、私が夕食を作りました。味はあまり期待しないで下さい。」
「貴女の煮豆は世界一だって、皆が言ってるわ。」

 アリアナはソファに腰を下ろした。テーブルの上には既に料理が並んでいた。煮豆に焼いたチキンと焼いた野菜の盛り合わせ、トルティージャ。

「私もセルバ料理を本格的に習わなきゃ。」
「メキシコ料理は作れるのでしょう? それで十分じゃないですか?」
「でもセルバ人なんだから、セルバ料理は作れなきゃ。」

 アリアナ・オズボーンは一年半のメキシコでの病院勤務を終えて帰国したばかりだった。当初は半年の予定でカンクンの病院に出向したのだ。しかし、出向先の病院でよく働いたので、「あと半年」「もう半年」と先方の要請で結局一年半も経ってしまった。流石に本人はセルバ共和国の国民として来ているのに、セルバの市民権を取ってセルバに住んだのが半年しかないと言うことが気になってきた。アメリカ合衆国から亡命したのに、すぐ隣にいると言うのも気掛かりだった。セルバ共和国の方が彼女には安全なのだ。それに・・・

「本当に、彼と結婚するのですか?」

 少佐がまだ信じられないと言った表情で、彼女の向かいに座った。アリアナははにかんだ笑みを浮かべた。

「私、異性関係が派手だったから、自分でも信じられないんだけど、でも彼とのことは真剣です。」

 彼女は薬指にはめた指輪を少佐に見せた。

「私がちゃんとセルバの秘密を守って真面目に勤務しているかどうか、彼は月に1回カンクンに通って監視していたんですよ。」
「本当に監視していたのですか?」

 少佐が揶揄い半分で尋ねた。アリアナが笑った。

「真面目な人だから、彼を揶揄わないでね、私は良いけど。」

 そしてフッと心配気な表情になった。

「テオもきっと信じないわよねぇ・・・」
「心配ですか?」

 少佐が彼女の顔を覗き込んだ。アリアナは苦笑した。

「彼、私がまだカルロを思っていると信じているのよ。だから私が新しい恋をしても、彼への片思いを誤魔化すためだと思っている。私だって前に進んでいるってことを、考えつかないのね。確かに、今の彼氏はカルロに比べるとパンチが弱いかも知れないけど、私の仕事を理解してくれるし、私の気持ちもわかってくれる。」
「スィ、彼は紳士です。私は受け合いますよ。」
「それに、別のことでテオは反対するかも知れない。」

 アリアナは少佐の目を見た。

「彼は、私が人工の遺伝子組み換えで生まれた人間だから、”ヴェルデ・シエロ”との間に子供を産むべきじゃないって思っている。」

 少佐の表情が曇ったので、彼女は思わずテーブルの上に手を伸ばして、少佐の手を掴んだ。

「そんなこと、産まなきゃわからないわよね? 絶対に普通の子供が生まれるわ。普通の”ヴェルデ・シエロ”と白人のハーフが生まれるわよ。そうよね?」

 少佐が彼女の手を握り返した。

「私もそう信じます。」

 その時、室内が真っ暗闇に陥った。アリアナが息を呑んだ。少佐が言った。

「停電ですね。すぐにアパートの自家発電に切り替わりますよ。」

 彼女の言葉通り、1分も経たないうちに照明が生き返った。
 少佐が、フォークを持ち直した。

「自家発電は12時で消灯です。早く食べてしまいましょう!」





2021/11/19

第4部 嵐の後で     2

  自宅前の駐車スペースに車を停めると、テオは大事なことを思い出した。

「少し前から、我が家にアスルが下宿しているんだ。キナ・クワコ少尉、知ってるよな?」
「スィ。」

 デルガド少尉が微笑した。

「大統領警護隊で彼を知らなければ、モグリですよ。」
「客間は彼の部屋になっている。君は今夜俺の部屋で寝てくれ。俺はソファで寝るから。」
「お気遣いなく。私は何処でも眠れます。」

 豪雨の中を車外に出て、家の中に駆け込んだ。鍵を開ける手間は不要だった。車の音を聞いたのだろう、アスルが中から開けてくれた。薄暗い屋内にテオとデルガドが入ると、アスルはドアを閉めてから、客を見た。デルガドが敬礼したので、彼も返礼した。アスルが尋ねた。

「遊撃班のデルガドだよな?」
「スィ。バスに乗り損ねた。」

 テオは彼等を置いて急いで寝室に入り、着替えを取るとバスルームへ向かった。濡れた服を早く着替えたかった。家の中はチキンスープの良い匂いが漂っていた。

「最終バスに間に合ったとしてもプンタ・マナ迄は行けなかっただろう。」

とアスルが言っていた。

「途中で運行停止になっている筈だ。バスの中で一夜を過ごすより、ここの方がましだ。あまり娯楽設備は整っていないが・・・」

 下宿人のくせに贅沢を言っている。
 中庭に面した掃き出し窓は外から鎧戸を閉めてあった。長屋の住民総出で昨日の午後に取り付けたのだ。乾季は共同物置に仕舞い込んであるが、雨季は大活躍の鎧戸だった。お陰で部屋の中は暗かった。鎧戸がガタガタ鳴っているのも五月蝿かったが、窓ガラスが飛んで来る物で割れるよりましだ。
 テオがリビングに行くと、アスルはキッチンに入っていた。早々と夕食の支度に取り掛かっているのは、停電する前に料理をしておこうと言う魂胆だ。”ヴェルデ・シエロ”の彼は夜目が効くが、家主のテオはそうはいかないので、気を利かせてくれているのだ。
 デルガドはソファではなく床の上に直に座って瞑想のポーズになっていた。しかしテオがソファに座ると目を開いた。無言だが、話しかけても構いませんよ、と言う意思表示だ、とテオは受け取った。だから尋ねた。

「休暇と任務だと言っていたが、どう言う意味だい?」
「休暇は休暇です。以前から決まっていました。今日から2ヶ月仕事を休みます。」

 そう言えば軍隊の休暇は長い。勤務期間は休みがないから当然だ。

「任務とは? 休暇だろ?」
「そうですが、ハリケーンが来ましたから、その時にいる場所で国の無事を祈るのが任務です。」

 ああ、とテオは納得した。”ヴェルデ・シエロ”はセルバと言う小さな国を古代から守ってきた神様なのだ。知らない人が見れば、彼等は天の神様に救いを求めて祈っているように見えるだろう。しかし、セルバでは彼等自身が神様で、祈ることで暴風雨から本当に国土を守っているのだ。先刻テオの車が一時的に暴風雨から守られたように。もしかすると、デルガドはテオが声をかけなかったら、あのままバスターミナルで祈っていたのかも知れない。
 テオはデルガドの祈りを邪魔しないように、静かに読書をすることにした。テレビは点けない。点けても天気予報しか放送していない。エル・ティティにいれば雨風も東海岸地方ほども大したことはないだろうが、テオは研究室のハリケーン対策が気になってグラダ・シティに戻って来たのだ。家の方はアスルがいるので任せていたが。
 チキンスープが完成した。アスルが「飯だ!」と怒鳴ったので、テオとデルガドは素直に食卓に着いた。デルガドにとって、初めてのアスルの手料理だ。しっかり煮込まれた鶏肉と玉ねぎとジャガイモのスープにクラッカーで3人は黙々と夕食を取った。雨に濡れた後の温かい食事は有り難かった。

「美味い料理だ。」

とテオが呟くと、デルガドが同意した。そしてアスルを見た。

「厨房班へ転属する気はないか?」
「冗談ぬかせ。」

とアスルがいつもの不機嫌そうな顔で言った。

「料理は趣味だ。仕事ではない。」

 デルガドはテオを見て、肩をすくめて見せた。テオはクスッと笑った。アスルは腹を立てたのではない。褒められて照れくさいだけだ。それが彼等にはわかっていた。

「皿洗いは俺がするよ。」

とテオが言った直後に室内が真っ暗になった。停電だ。テオが懐中電灯を取りに行こうと椅子をひきかけると、アスルが止めた。

「座っていろ。俺が取ってくる。」

 暗闇の中で、テオはデルガドが食事を続けている気配を感じた。もしかして、大統領警護隊本部の食堂って普段から真っ暗じゃないのか? と彼は余計な想像をしてしまった。
 懐中電灯の灯りの中で食事の続きをして、懐中電灯の灯りの中で食器を洗った。読書は出来ないしテレビもインターネットも使えないので、テオは早く寝ることにした。彼が水仕事を終えてリビングに戻ると、2人の少尉は暗闇の中でチェッカーをしていた。こんな停電の夜は夜目が効く連中が羨ましかった。

 ってか、こいつら、お祈りをサボってるんじゃないのか?


2021/11/18

第4部 嵐の後で     1

  ハリケーンが近づいていた。今年で4つ目のハリケーンだ。先の3つは東へ行ってくれたのでセルバ共和国に被害をもたらさなかったが、今回は来なくても良いのに西へ迂回してやって来る。グラダ・シティは商店街も官公庁も商社も教育機関も全て閉じられ、公共交通機関も運休となった。
 テオはハリケーンが上陸する前に急いで大学の研究室へ行き、窓の戸締りを確認した。万が一窓ガラスが割れた時の用心に濡れて困る物は全部窓から遠ざけた。作業は2時間ばかりかかった。平時なら学生に手伝わせるが、外出に危険を伴う天候だ。学生達に出て来いと言えなかった。学舎ではいくつかの部屋で職員達が対策を講じているらしく、照明が点いていた。もしかすると自宅より学舎の方が安全だと考えて泊まり込んでいる人もいるのかも知れない。
 テオは強風と叩きつけるような雨の中を走って駐車場へ辿り着き、運転席に飛び込んだ。すっかり衣服がびしょ濡れになった。レインコートも役に立たない。
 テオの自宅は古い住宅だ。風に吹き飛ばされるのではないかと心配したが、隣人達は意外に呑気だった。

「マリア様と”ヴェルデ・シエロ”が守ってくるよ。」

とキリスト教の聖母と古代の神様の名前を言った。
 実際、気象の歴史を見ると、セルバ共和国は毎年ハリケーンの被害を受けているが、近隣諸国に比べると軽度で済んでいる。洪水に悩まされることも、高潮の被害を受けることも、強風で家屋が飛ばされることも、土砂崩れで集落が飲み込まれることもなかった。風で物が飛んできて当たって怪我をしたとか、増水した川に落ちて流されたとか、そう言う人間の不注意と自然の猛威がぶつかり合った結果の損害は多かったが、所謂国土が暴風雨の被害を受けたと言う記録はないのだ。
 テオは車を駐車場から出した。がらんとした幹線道路を低速で走った。スピードを出すと風に煽られて車が転覆しそうだ。洪水とはいかないまでも路面は冠水している。水飛沫を上げながら彼は車を進めた。
 中央バスターミナルに差し掛かると、バス停に人影が見えた。こんな天候でバスが運行している筈がない。だがその人は強風で破れそうなテント張りのバス停で立っていた。男性だ。ほっそりした、若い・・・
 見覚えがある様な気がして、テオは車を近づけた。向こうも近づくヘッドライトに気がついてこちらを見た。雨の中で見えづらかったが、テオは知り合いだと認識した。だからターミナルの中に入り、バス停の前に車を停めた。窓を開けると忽ち雨が降り込みかけた。

「エミリオ、エミリオじゃないか!」

 大声で怒鳴ったのは、風で声をかき消されそうになったからだ。男が近づいてきた。車内を覗き込み、精悍な顎の細い顔に笑みを浮かべた。

「ドクトル・アルスト、こんな天気にどこへお出かけです?」
「それはこっちの台詞だ。バスは運休しているぞ。兎に角、車の中に入れ!」

 一瞬雨風が止んだ。否、テオの車の周囲だけ、エミリオ・デルガド少尉が風雨を追い払ったのだ。そして、助手席のドアが開き、デルガドが入ってきた。彼がドアを閉め、窓を閉じると、忽ち車は暴風雨に襲われた。

「ハリケーンの最中に、バス停で何をしているんだ?」

 すると若い少尉が頭を掻いた。

「正直に報告しますと、バスに乗り遅れました。」
「乗り遅れた?」
「任務と休暇を兼ねて、プンタ・マナへ帰ろうとしたのですが・・・」

と言いかけて、彼はテオを見た。

「ドクトルはどちらへ?」
「家に帰るんだよ。君をうちに連れて帰って良いかな? プンタ・マナ迄は無理だから。」
「どうぞ・・・助かります。」

 あれほどの悪天候の中にいたにも関わらず、エミリオ・デルガドは濡れていなかった。軍服もリュックサックも靴も乾いていた。

「任務と休暇って?」

 と尋ねてから、テオは別のことを思い出して、デルガドを見た。

「もう怪我は治ったんだね? 体調は良いのかい?」
「グラシャス、すっかり治りました。」

 デルガドは前を向いて、ヘッドライトに照らされていない前方を見通そうとしていた。

「角に看板が落ちています。気をつけて。」
「グラシャス。」

 結局、世間話はお預けにして、テオはデルガドの助けを借りながら自宅まで運転した。一度などは、道路脇の木の枝が折れてフロントガラス目掛けて飛んできたが、デルガドが気で弾き飛ばしてくれた。
 普段なら10分ほどで帰れる道のりを、彼等は30分かけてテオの自宅に辿り着いたのだった。


2021/11/14

第3部 終楽章  13

  ケツァル少佐は暫く考え込んだ。そして、彼女なりの見解を引き出した。

「ビアンカ・オルトは私達が知らない間に、既に長老会で問題になっていたのではないですか? ムリリョ博士は誰か配下の人に彼女の追跡を命じられたのでしょう。でも、その命じられた人はケサダ教授ではない。命令を受けた”砂の民”はオルトを探して、彼女がグラダ大学で貴方と接触したことを掴み、博士に報告した。大学は博士にとって大事な職場であり、学生達は博士が守っている大事な国民です。それに・・・」

 少佐はチラリとステファンを見たが、言葉に出さなかった。

 博士の大事な女性の息子である貴方に、逸れピューマが接触したことは許し難い屈辱だったでしょう。

「博士はその時点ではまだオルトの処分を決めかねていたのかも知れません。女のピューマは非常に稀ですからね。ケサダ教授は四六時中大学を守っている訳にいきませんから、博士の叱責に戸惑われたことでしょう。ですから、貴方がテオに連れられて再び大学に現れた時、教授は貴方からオルトの情報を盗んだのです。どんな人物を相手にしているのか、知りたかったに違いありません。
 一方、オルトは”砂の民”が彼女を追いかけているのではなく、サイスのジャガーを探していると思い込みました。」
「私がそんなことを彼女に言ったからですね?」
「そうですね、彼女は貴方に嘘をつきましたが、反対に貴方の間違った情報で彼女自身も振り回されたのかも知れません。彼女はサイスを狙うのを先延ばしして、麻薬運搬の方を優先させようとアンティオワカへ行き、アスルと遭遇したのです。アスルに撃たれて、グラダ・シティのアパートに戻り、傷が癒えるのを待つつもりでいたところへ、私と貴方が迫ったので、彼女は逃亡しようとした。デルガド少尉は災難でした。彼女にもう少し理性があれば、彼は怪我をせずに済み、彼女もまだ生きていたでしょう。少なくとも・・・」

 彼女は小さな声で囁いた。

「生きながらワニの池に放り込まれる迄は。」
「ワニぐらい倒せますよ。」

 イキがって言う弟に、彼女は顔を顰めて見せた。

「ナワルを使って、でしょ!」

 そして、少しだけ悲しそうに付け加えた。

「異種族の血が入っていても弟は可愛いのに、あの女はそれを知らずに死にました。」

 弟・・・ステファンが心の中でその言葉を呟いた時、シータ! とケツァル少佐を呼ぶ女性の声が聞こえた。少佐が立ち上がった。
 上等のスーツを着こなした中年のスペイン女性が足速に近づいて来るのが見えた。

「ごめんなさい、待たせちゃったわね!」

 カルロ・ステファンも立ち上がった。ここは退散した方が良さそうだ、と判断した彼が立ち去ろうとすると、少佐が養母を見つめたまま、彼の手を掴んだ。驚いた彼が足を止めると、そこへマリア・アルダ・ミゲールがやって来た。彼女は目敏く娘がハンサムなメスティーソの若い男と手を繋いでいるのを見つけた。

「シータ、その人はどなた? ボーイフレンド?」

 何故だかもの凄い期待感で、セニョーラ・ミゲールがステファンを見つめたので、彼は赤くなった。ケツァル少佐が「ノ」と強く否定した。

「ママ、紹介するわ。この前、話したでしょう? 私の弟のカルロよ。」


 

 

第3部 終楽章  12

  グラダ・シティ最大のショッピングモールは、地方から出てきた人間には迷宮の様に思える。大勢の人間、煌びやかな装飾、豪華な建物、多種多様な商品、店舗・・・。
 カルロ・ステファンは吹き抜けのある噴水広場で、ベンチに座っているケツァル少佐を見つけた。見たところ彼女は1人の様だ。私服姿で携帯の画面を眺めている様子に見えたが、恐らくフリだけだ、と彼は思った。彼女はこんな賑やかな場所でぼんやり時間を過ごす人ではないのだ。
 ブエノス・タルデス、と声をかけると、彼女は振り返り、ニコッと笑って返事をしてくれた。そして目で隣を示したので、彼は遠慮なく腰を下ろした。

「貴方がここにいるなんて、珍しいですね。」

と彼女の方が先に言った。ステファンは肩をすくめた。

「休暇を与えられたので、実家に帰っているのです。今日で2日目です。」
「でも、貴方が暇を潰す場所とは思えませんが?」
「今日は母と妹の荷物持ちです。女達が買い物をしている間、ここで待機を命じられました。」

 軍隊的な物言いに、少佐が笑った。カルロ・ステファンは15歳でセルバ共和国陸軍に入隊してから大統領警護隊に引き抜かれ今日迄、休暇を与えられても実家に帰ったことがなかった。自分で何かしら言い訳を作り、どこかで時間を潰していたのだ。しかし、母親と妹を故郷のオルガ・グランデからグラダ・シティに呼び寄せたのは彼自身だ。ちゃんと彼女達の相手をしてやれと、ケツァル少佐からもテオドール・アルストからも、ロホやアスルからもせっつかれ、その上大学の恩師ファルゴ・デ・ムリリョや副司令官トーコ中佐からも煩く言われたので、今回初めて休暇を実家で過ごすことにしたのだ。だが、今ショッピングモールで何をして良いのかわからず、ベンチで座っているだけだ。少佐に出会えたのがもっけの幸いと言った風で、少佐は少し呆れていた。

「待機ですか・・・何時から?」
「今、彼女達と別れたところです。」
「では、2、3時間はかかりますよ。」

 恐らく、カタリナ・ステファンも立派な大人になった息子をショッピングに連れ出したものの、どう扱って良いのかわからないのだ。
 ステファンは己のことばかり話題にされるのも癪なので、少佐に質問した。

「貴女こそ、ここで何をなさっておられるのです?」
「私も待機です。」

 少佐がけろりとして答えた。

「母が新しい店を出すので、今建築家と打ち合わせ中です。北ウィングに空きスペースができたので、そこを改装して宝飾店にします。セキュリティやら内装やらで打ち合わせが長引きそうです。」
「それで、ただ座っておられるのですか?」
「通行人を見ています。何人の”シエロ”が通るか数えていました。貴方が邪魔したので、6人目でわからなくなりましたけど。」
「それは失礼しました。」

 これだけ人間が通っていて、たったの6人か、とステファンは思った。多分、少佐が数えたのはメスティーソが殆どだ。それも”心話”しか出来ない「ほぼ”ティエラ”」の”シエロ”だろう。
 2人で3分ほど黙って人通りを眺めていた。
 不意に、少佐が呟いた。

「あのサスコシの女のことですけど・・・」

 ステファンは無視しようかと思ったが、思い直した。

「オルトですか?」
「スィ。彼女は本当に弟を殺すつもりだったのでしょうか。」
「わかりません。」

 彼は正直に言った。

「ただ、逮捕したバンドリーダーの証言によれば、サイスが変身したドラッグパーティーを提案したのは、彼女だったそうです。バンドリーダーは隠れ蓑に使っているサイスやバンドのメンバーをドラッグで潰したくなかった。だから、ちょっと騒ぐ程度で止めさせるつもりだったのですが、オルトが濃度の高いドラッグを連中に飲ませた。だから彼等は意識を失ってサイスが変身するところを見ていません。オルトは麻薬密売組織に雇われていた運び屋です。仲間のバンドリーダーやマネージャーのマグダスを危険な目に遭わせてでも、あの時にあのパーティーを行わなければならない理由があったのでしょう。」
「サイスの能力を目覚めさせることですか?」
「スィ。しかし、彼女は純血至上主義者です。サイスを家族として歓迎したとは到底思えません。彼女は死ぬ間際迄、私を”出来損ない”と蔑んでいました。そして純血種でも力の弱いグワマナ族を侮っていました。ですから・・・」

 ステファンは少し躊躇ってから、打ち明けた。

「昨日、実家に帰る前に、グラダ大学に立ち寄って、ケサダ教授に意見を伺ってみました。」
「任務のことを話したのですか?」
「規律違反であることは承知しています。しかし教授は勝手に私の心を盗みましたからね、全てご存じでした。」
「教授にどんなことを訊いたのです?」

 少佐が興味を抱いて彼を見た。ステファンは溜め息をついた。

「聞けば胸が悪くなりますよ。」
「言いなさい。」
「オルトはサイスを変身させ、彼が街へ飛び出すのを止めなかった。止めようとしたと証言したのは嘘で、故意に外へ出したのだ、と教授は見解を語られました。ドラッグで理性を失ったジャガーのサイスが、警察に撃ち殺されるのを期待したのだろう、と。」

 ケツァル少佐が顔を前へ向けた。片手で口元を抑え、気分が悪い、と言うジェスチャーをした。勿論、ケサダ教授が考えた内容に対しての感情だ。
 ステファンは暫く黙った。少佐が口を開くのを待っていた。
 やがて、少佐が囁いた。

「オルトは”砂の民”ではなかった・・・”砂の民”なら、そんな方法は使いません。ジャガーは死んだら人間に戻ります。」
「スィ。教授もそう仰いました。オルトはピューマでしたが、他のピューマから受け容れられていなかったのです。彼女の思想はあまりに過激で、却って危険だったのです。教授はムリリョ博士から、逸れピューマを大学に入れたと叱責を受けられたそうです。」

 少佐が振り向いたので、ステファンは補足した。

「オルトがオルティスと名乗って、大学へ来て私に嘘の証言をした時のことです。」
「博士はその当時大学内にいらっしゃらなかったのでしょう?」
「私は存じませんが、きっとお2人の恩師達の間で彼女が大学に侵入したことが問題になったのでしょう。」


 

 


2021/11/10

第3部 終楽章  11

  雨季休暇が始まった。テオは次期も准教授として大学で勤務出来る確約を取り付け、やっと一安心出来る状態になってエル・ティティに「里帰り」した。9月迄はゴンザレスの家で代書屋をするのだ。グラダ・シティの家と車は休暇中の3ヶ月間アスルが使用する。その間は家の管理人として給料を払う代わりに家賃を免除、車もガソリン代をアスルが払うので使用料免除、と言う契約で話がまとまった。留守中にアスルが友達を招こうが、誰かを車に乗せようが、アスルの自由にさせる。もしかすると文化保護担当部の溜まり場になってしまうかも知れないが。
 平和な日々の間に、テオは買い物ついでにアスクラカンの町へ何度か行ってみた。ロレンシオ・サイスはシプリアーノ・アラゴの敷地内の、空き家になっていた小さな家に住んでいて、昼間はアラゴやタムードの畑を手伝い、夜は近所の裕福な家にピアノの家庭教師として雇われると言う生活を楽しんでいた。田舎町では彼の名声もそれほど浸透していなくて、北米から来たピアノの先生、と言う住民の認識だった。畑仕事の間にアラゴとタムードが彼に気の抑制の仕方や”心話”を教えていた。彼が”心話”以外の力の使用を望んでいないと知ると、アラゴは我慢を教えるだけで済むと言って笑ったそうだ。
 ビアンカ・オルトの遺体は実家に戻された。大統領警護隊が十分に検分したあとだ。サイスのマネージャー、ロバート(ボブ)・マグダスとバンドのリーダーは麻薬をセルバから北米へ密輸する仕事を請け負っていた。他のメンバーとサイスは隠れ蓑に使われていたのだ。オルトはアンティオワカとバンドの間の麻薬の運搬を担当していた。”ティエラ”のマグダスとリーダーには明かしていなかったが、彼女は空間通路を用いて麻薬を運んでいたので、警察にも憲兵隊にも見つからずに仕事が出来たのだろう、と警護隊は考えている。
   彼女がサイスに麻薬を与えたのは、本当にただパーティーでの遊びだったようだ。彼女は能力を使えない異母弟を軽蔑していたので、彼がジャガーに変身して、慌てた。大統領警護隊がすぐに捜査を始めたと知ると大学迄ステファンを尾行して嘘の情報を与えた。結果的に疑われる逆効果を与えてしまったのだが。
   彼女がデルガド少尉を襲った真意は不明だ。ステファンの背後で気配を消していたデルガドは、ステファンが彼女の前に移動したことで彼女に存在を察知された。2人の隊員に挟まれたオルトは逃げられないと悟るべきだった。しかし、グワマナ族のデルガド少尉の力が、グラダ族のステファンの力より弱いことは歴然としていた。オルトは敏感に少尉の力がサスコシ族より弱いと察知し、恐らく「”出来損ない”の大尉の部下も”出来損ない”に違いない」と誤判断したのだ。だから、デルガドを倒せば、逃げられると咄嗟に思ったのだろう。ステファンは倒された部下を見捨てはしない、と。時間を稼げる、と。しかしデルガドは弱いと言っても純血種だ。彼女の気の爆裂に辛うじて耐えた。肋骨3本の骨折で、胸を押し潰されるのを自分で防いだ。そしてステファンは部下を傷つける者に容赦しなかった。デルガドを守る為に彼は彼女を殺すことを選択した。

 オルトの実家は、娘の罪を長老と大統領警護隊司令部から告げられ、娘の遺体を部族の墓所に入れることを拒否した。一族の恥晒しとして、一般の墓地に彼女を葬った。母親は家に閉じ籠り、娘の葬儀以来外に出て来ないと言う。彼女の家族は彼女を外に出さないよう見張っている。この純血至上主義者の家族は、サイスがアスクラカンにいることを知らされていない。サイスと言う名はロレンシオの母方の姓だし、サイスも父親の親族に会うつもりはなかった。ただ1回だけ、こっそりセルソ・タムードに付き添われて父親の墓に参った。
 
 のんびり休暇を過ごしているテオのところに、アンドレ・ギャラガ少尉が立ち寄ったのは7月の終わりだった。オルガ・グランデへ出張へ行く途中だと言った。

「みんなから、貴方がお元気か見てこいと言われまして・・・」

と言い訳したが、恐らく長距離バスの座席に疲れたのだ。出張は空軍に運んでもらうのが一番一般的なのだが、ギャラガは飛行機が嫌いなのだ。空間通路は使うなとケツァル少佐に言われているので、どうしてもバス使用となる。 
 テオは彼に一夜の宿を提供してやり、ゴンザレスが夜勤だったので2人でのんびり夕食を楽しんだ。

「俺はいつでも元気だよ。病気知らずだからね。」
「それを聞いて安心しました。」

 ギャラガは微笑んだ。

「お家の方も大丈夫ですよ、アスル先輩は掃除も得意ですから。」
「あいつ、きっと良い奥さんになるよ。」

 2人は大笑いした。それから、とギャラガはつけくわえた。

「早く戻って下さいね。貴方がいらっしゃらないと、少佐のご機嫌が悪いんですよ。」


2021/11/09

第3部 終楽章  10

「つまり、そのピアニストは・・・」

 エル・ティティ警察の署長アントニオ・ゴンザレスは、スパイシーに煮込んだ豆を蒸した米の上に載せて混ぜ合わせながら言った。

「普通の人間になる為に、神様の修行をしに行ったんだな?」
「神様の修行ではなくて、力を使わないようにする訓練だよ。」
「同じことだ。」

 テオも同じ料理を食べながら、2週間分の出来事を養父に説明していた。ゴンザレスはジャガー騒動には興味を示さなかったが、ミーヤ遺跡での偽チュパカブラ騒動は面白がって聞いていた。そしてジャガー騒動とチュパカブラ騒動が麻薬と言う単語で繋がっていたことを知ると、不愉快そうな顔をした。警察官なら当然の反応だった。 

「この国では麻薬関係の犯罪を犯すと、最短でも10年以上の懲役刑だ。国内で麻薬を売れば最悪死刑判決が出ることもある。お前達が関わったビアンカ・オルトと言う女性が本当に麻薬売買に関係していたのなら、ステファン大尉に殺されても彼女は文句を言えない。お前の話を聞く限りでは、彼女は実際に関わっていた様子だがな。問題は、ピアニストだ。そいつは本当に麻薬密売に関係していないのか? その嘘つきの女の弟だろう?」
「彼の護衛に当たった大統領警護隊の隊員達が交代で彼の家の中を捜索したけど、何も出てこなかったそうだ。」
「ピアニストは”シエロ”だろう?」
「警護隊も”シエロ”だよ。それに彼等は一族の人間が”ティエラ”のふりをしてもすぐに見破ってしまえる。」

 ゴンザレスはそれ以上”ヴェルデ・シエロ”の話題を続けることを避けた。セルバ人としての暗黙のルールだ。古代の神様の子孫達を噂のネタにしてはいけない。

「ピアニストは今、アスクラカンにいるんだな? 父親の純血至上主義者の親族に出会ったりしないのか?」
「彼の世話をしている人々がそんなことにならないよう、見張っているさ。」

 テオはふとあることに興味が湧いた。

「親父、アスクラカンのミゲール家って知ってるかい?」

 ゴンザレスがちょっと笑った。

「サンシエラ農園の所有者のミゲールのことか? 知らなかったからこの州ではモグリだな。」
「サンシエラ農園って、シエラ・コーヒーの? あれは東海岸の農園じゃなかった?」
「アスクラカンがあの農園の発祥の地だ。昔植民地時代にサンシエラと言うスペイン人がプランテーションを築いた。サンシエラは本国に奥方がいたが、セルバでも女をこしらえた。その女が”シエロ”の血を引く先住民だったそうだ。子供が何人か生まれて、スペイン人の主人は裕福な暮らしをしていたが、セルバが独立運動を始めると早々に本国へ逃げて行った。その時、彼は現地妻と子供達にミゲールと言うスペイン臭い名前と農園を与えたんだ。それであの家族は農園に始業者の名前サンシエラを付けて、残された農園を上手く経営し、莫大な財産を築いたって話だ。恐らく”シエロ”の血を引いているから、神様の加護があったんだろうって噂だよ。今、駐米大使をしているミゲールはサンシエラの曾孫だな。他にも手広く事業を展開している孫や曾孫達がいる。アスクラカンのガソリンスタンドの9割はサンシエラの系列だよ。スーペルメルカド(スーパーマーケット)だって、社長はサンシエラの孫だ。」

 そう言ってから、ふとゴンザレスはあることに気づいた。

「お前が付き合っている警護隊の少佐はミゲールだったな?」
「付き合ってると言えるかどうか・・・」

 テオは苦笑した。

「大事な親友だ。うん、彼女は駐米大使ミゲールの養女だ。」

 ゴンザレスが難しい顔をした。

「そんな金持ちの家の娘と付き合っているのか?」
「だから、付き合っているって程じゃ・・・」

 付き合っているのだろうか? テオは考えてしまった。ケツァル少佐は最近彼を名前で呼んでくれる。キスもしてくれるし、デートの誘いも彼からするより彼女からかけてくる方が多くなった。これは、交際していると言って良いのだろうか? 手を繋いで歩いたこともあるし・・・。

「あんな富豪の娘が、この家に嫁に来るとは思えんな。」

とゴンザレスが言った。だからテオは言った。

「それより以前に、彼女が誰かの妻になるって考えられないよ。彼女は家庭に入るタイプじゃないからね。」

 早く嫁に行け、とミゲール大使に言われた時の、ケツァル少佐の反発顔を思い出しながらテオは呟いた。


2021/11/08

第3部 終楽章  9

  金曜日の朝、グラダ大学の事務局が始業する頃合いを見計らってテオは電話をかけ、芸術学部のピアノ科のピアノ室を午後の2、3時間使用させてもらえないか、と尋ねてみた。生物学部の准教授がピアノにどんな用事があるのかと訊かれて、テオは「ここだけの話にしてくれないか」と断ってから、病気療養するピアニストが、静養地へ旅立つ前にピアノを弾いておきたいと言っている、テオが付き添って最終のオルガ・グランデ行きのバスに同乗するので、バスの時間迄の繋ぎだ、と説明した。事務員は、病気療養するピアニスト、と聞いて、何かピンとくるものがあった様だ。ピアノ科の教授と連絡を取るので、半時間待つように、と言って電話を切った。大学からの返事を待つ間、テオは己とサイスの旅行の準備をした。と言っても、サイスは自宅から逃げてきた時のままの鞄を持って行くだけだったが。先方へは大統領警護隊から既に話を通してあるので、手土産は不要だと言われていた。
 テオはビアンカ・オルトの死亡の知らせがアスクラカンに届いているのではないかと、ちょっと不安を感じたが、サイスには黙っていた。
 半時間経たないうちに大学から返事があり、ピアニストがピアノ室を使っても良い、と許可が出た。但し、と事務員が言った。

「混乱を避けるために、ピアニストには身元がわからないよう配慮してもらって下さい。」

 大学側は、ピアニストが誰なのか予想した様だ。果たして、昼過ぎにテオがサングラスと帽子とマスクで顔を隠したサイスを連れて大学に行くと、芸術学部が入った人文学の学舎の入り口にピアノ科の教授2名と学生10名が待ち構えており、学生達にピアノ演奏を聞かせて欲しいと言った。それでサイスがピアノ室を使う条件になるのだ。サイスは喜んで学生達と学舎の中へ消えていった。
 それから夕方迄テオは退屈な会議を切り抜け、なんとか定刻に解放された。芸術学部にサイスを迎えに行くと、彼は学生達に指導をしていた。弾きっぱなしでは疲れるだろうから、彼が自らインストラクターを務めていたのだ。
 大学当局に礼を言うと、ピアノ科の教授から、病気が治ったら大学でコンサートを開いて欲しいと言われ、サイスは笑顔で承諾した。
 テオの車は文化・教育省の、「いつも空いている」スペースに置いて、バスターミナルまではロホが送ってくれた。

「ロレンシオがこれから世話になる人はシプリアーノ・アラゴと言う人です。サスコシ族の族長です。リベラルな人ですが、族長ですから一応こちらからも礼儀を予習しておいた方が良いです。幸い、少佐の父君の遠縁の叔父さんにあたる人が、教えてくれます。アスクラカンのバスターミナルに迎えにきてくれるのは、その叔父さんの息子で、セルソ・タムードと言う人です。セルソはメスティーソで、気の良い男ですから、ロレンシオに必要なことを色々教えてくれる筈です。それから、もし困ったことがあれば・・・例えば、純血至上主義者に絡まれたりしたら、この名刺を見せて下さい。」

 ロホはケツァル少佐と彼自身の名刺をサイスに渡した。どちらも緑色の鳥の絵が描かれていた。サイスはそれを大切に胸ポケットに入れた。

「グラシャス、中尉。少佐とステファン大尉、それにデルガド少尉によろしくお伝え下さい。」

 サイスは握手しようと手を差し出して、ロホが純血の”ヴェルデ・シエロ”だと思い出した。しかしロホは優しく微笑んで彼の手を掴んだ。
 サイスが先にバスに乗り込むと、ロホはテオとも握手した。

「族長の家まで行ってやりたいけど・・・」

とテオは笑いながら言った。

「そこまで過保護にされると、彼も嫌だよね、きっと。」

 ロホは黙って笑っただけだった。
 そしてオルガ・グランデ行きのバスはターミナルをゆっくりと出て行った。


第3部 終楽章  8

  バルコニーに出ると、外気は湿気を帯びてムッとしていた。テオは空気が乾いているエル・ティティに逃げる季節だな、と思った。大学が夏季休暇(雨季休暇とも言う)に入ったら、エル・ティティに避難するつもりだった。エル・ティティでも雨季は雨が多いが、空気の湿度はグラダ・シティや東海岸地方ほどではない。
 フェンスにもたれてケツァル少佐が彼を見た。

「昨夜、私は貴方を家に送り届けた後で、オルトのアパートへ行きました。」
「カルロから聞いた。彼女とどんな話をしたんだい?」

 ロホはバルコニーに置かれた椅子に座って2人を眺めた。少佐がワインを一口飲んでから言った。

「大統領警護隊に出頭しなさいと言ったのです。彼女はアスルが撃った銃弾をまだ脇腹に抱えたままでした。麻薬密売組織が使っていた遺跡に近づこうとしたのですから、その理由を説明してもらわねばなりません。銃弾の摘出も必要でした。」
「彼女は出頭を承知したのか?」
「彼女の裁量に任せて私は帰りました。それ以降のことは関知しません。」

 次は貴方の番ですよ、と少佐の目が言っていた。テオは、ステファンから聞いた話だと前置きした。

「君が張った結界が消えたと知ったオルトは、裏の非常階段を使ってアパートから逃げようとしたらしい。それに気がついたカルロとエミリオが追いかけた。彼等が追いつきかけると、彼女は気の爆裂を放って来た。カルロは風が到達する前に押し返した。オルトは自分が放った気をくらって転び、立ち上がって逃げようとした。それでカルロは止まらなければ脚を砕くと警告した。オルトは立ち止まったそうだ。カルロとエミリオは彼女に近づいた。彼女の目を塞ぐためにカルロが彼女の前へ回った時、彼女がいきなり後ろのエミリオに体を向けた。咄嗟にカルロは彼女の首に一撃を与えたが、間に合わなかったんだ。」

 少佐もロホも反応しなかった。テオは彼等の冷静さに妙に感心しながら、続けた。

「オルトは即死だ。エミリオは肋骨を3本折られて倒れたが、幸い命は取り留めた。カルロは直ちに本部に連絡を取って救護を要請した。遊撃班の仲間がすぐに駆けつけてくれたみたいだ。」
「あの女は自分より力が弱いと踏んでグワマナ族のデルガドを攻撃したのですね。」

とロホが呟いた。

「麻薬の違法所持程度の罪なら処罰もそれほど厳しくない筈なのに、何故命の危険を冒して逃げようとしたのでしょう。気の爆裂を押し返された時点で彼女はカルロに勝てないと悟ったのです。彼に刃向かえば殺されることぐらいわかっていたでしょうに。」

 少佐はグラスの中の赤い液体を眺めていたが、視線をテオに戻した。

「麻薬の違法所持以上の罪を犯していたのではありませんか。」
「違法所持以上の罪?」

 テオが聞き返したので、彼女は言った。

「例えば、彼女自身が麻薬密売に関わっていた・・・」
「そう言えば・・・」

 とテオは考えた。

「彼女はサイスにドラッグを与えたのはバンド仲間の誰かだと言ったが、彼女自身だった可能性があるな。ミーヤ遺跡に彼女が現れたのも、麻薬を買うつもりだったと自分で言っていたんだろ?」

 すると少佐が種明かしをした。

「昨日の朝、アスルがグラダ・シティに中間報告のために戻ったことはご存じですね?」
「スィ。うちで朝飯作ってくれたから、知ってる。」
「彼の報告の内容は聞いていないでしょう?」
「任務の詳細を教えてくれるようなヤツじゃない。それに軍人がベラベラ喋るわけじゃないし。」
「彼の報告は、アンティオワカ遺跡を使っていた麻薬密売組織に関する憲兵隊の捜査状況でした。」

 セルバ共和国陸軍憲兵隊は、決してボンクラではない。彼等の多くは普通の人間”ティエラ”だが、共和国軍のエリート集団だ。仕事はしっかりやっていた。

「コロンビアから運ばれてきた麻薬やドラッグは、アンティオワカ遺跡に一旦隠され、そこからグラダ・シティに運ばれ、さらに別の運び屋の手で北米に流れていました。船での輸送路は先日の港で摘発しましたが、他にもルートがいくつかありました。その一つが、ジャズバンドです。」

え? とテオは驚いた。思わず室内にいるサイスの方を見た。ロレンシオ・サイスはデネロスとギャラガ相手にまだ歓談中だった。
 ロホが説明した。

「サイスは何も知らないと思います。彼はいくつかのバンドと契約して、その時々にセッションをするピアニストです。彼の楽器は常に現地にあります。ピアノを持ち歩くなんて出来ませんからね。しかし、管楽器やドラムは持ち運べます。ギターも持って行ける。そう言う楽器の中に麻薬を隠して運んでいたのです。」

 テオはショックだった。あの素敵な演奏をしていたバンドが、麻薬の運び屋?
 少佐が残念そうに言った。

「容疑が固まり次第、憲兵隊がバンドの家宅捜査に入ります。サイスは調べを免れます。彼の持ち物に何も隠されていないことを遊撃班が調べて確認しているからです。護衛の時にこっそり捜査していました。勿論、カルロも承知しています。彼の担当は街中に出没したジャガーでしたが、サイスがドラッグ使用が原因で変身したとわかって、麻薬密売に関係している可能性もあると疑っていたのです。だから、彼はオルトをどうしても逮捕したかった。アンティオワカとグラダ・シティの間の運び屋をやっていたのが、オルトだと見当をつけていたからです。」
「だけど、自供させる前に殺してしまった・・・」
「部下を守るために仕方がなかったのでしょう。でも任務として失敗です。」

 だからステファン大尉は鬱になっていたのか、とテオは漸く得心した。

「オルトは血の繋がりを全く無視してロレンシオに近づいたのかな?」
「興味はあったでしょうね。父親の愛情を奪った”出来損ない”の弟がどんな人物なのか、知りたかったのでしょう。でも彼女が麻薬密売に関係していたとするなら、マネージャーやバンドと取引をする目的もあった筈です。」
「あのマネージャーも一味か?」
「マネージャーを蚊帳の外に置いて麻薬を楽器に隠すのは難しいでしょう。」

 マネージャーがサイスの休業にあれほど執拗に反対したのは、麻薬の運送ルート確保の隠れ蓑を失うのを恐れたためだったのか。
 その時、ギャラガが席を立ってバルコニーに顔を出した。

「少佐、お話中すみません。そろそろ終バスの時間なので、デネロスと私は官舎へ帰ろうと思います。」
「私が送って行くよ。」

とロホが言うと、彼は笑って首を振った。

「中尉は飲んでおられるでしょ? バスで帰りますよ。」
「それじゃ、俺もロレンシオを連れて帰るかな・・・」

 テオは当初の目的を思い出した。

「少佐、明日のロレンシオの居場所なんだが・・・」

 少佐がちょっと考えてから、彼に尋ねた。

「明日の午後の大学は授業があるのですか?」
「ない。」
「音楽室は誰か使いますか?」
「教授会で進級に関して話し合う間は、学生は学舎に入れない。」
「ピアノ室は防音ですね?」

 テオはやっと少佐が言いたいことを理解した。

「そうか! ロレンシオに夕刻までそこでピアノを弾かせておけば良いんだな? 彼も練習は欠かしたくないだろうし、彼を2、3時間置くだけなら事務局も承諾してくれるだろう。」
「説得が難しければ、私も行きますよ。」

 と少佐が悪戯好きな顔で言った。


 

2021/11/07

第3部 終楽章  7

  夜、テオはケツァル少佐から電話をもらった。少佐はステファン大尉がまだ彼の家にいるのかと尋ね、ステファンではなくロレンシオ・サイスがいると聞いて、2人で少佐のアパートに食事に来ないかと誘ってくれた。
 外出と聞いて、サイスは興味を抱いた。何処へ行くのかと訊くので、テオが友人のアパートだと答えると、花やワインを持って行かなくて良いのか、と言った。

「花は要らないと思うが、ワインは持って行った方が良いな。」

 テオはサイスを車に乗せて最寄りの店で赤ワインを1本仕入れた。高いものには手が出なかったが、サングラスで顔を隠したサイスが、安くても美味しいものがある、と選んでくれた。それを持って約束の時間に彼女のアパートを訪問した。
 予想した通り、少佐のアパートには文化保護担当部の面々が集まっていた。アスルがいないだけだ。なんの予備知識もなかったロレンシオ・サイスだったが、出迎えに玄関に現れたデネロスと目が合って、思わず”心話”で「わっ! 可愛い!」と呟いたら、「有り難う」と脳の中に返事をもらって狼狽えた。
 家政婦のカーラが作った料理が並ぶテーブルを囲むと、ロホがグラスを掴んで差し上げた。

「まず、マハルダの試験が無事に終わったことへ、乾杯!」

 乾杯!と一同が声を上げた。そしてデネロスが続けた。

「アンドレの入試申請が無事終了したことに乾杯!」

 乾杯!と一同が声を上げた。次に少佐が言った。

「ミーヤ遺跡の今季発掘が無事終了したことに、乾杯!」

 乾杯!と一同が声を上げた。ギャラガが言った。

「雨季のボーナスに乾杯!」

 乾杯!と一同が笑いながら言った。テオも何か言わなければ、と焦って言った。

「ロレンシオがここにいることに乾杯!」

 乾杯!と文化保護担当部の一同がサイスに向かって言った。だから、ロレンシオ・サイスも言った。

「私が何者か教えてくれた人々に乾杯!」

 乾杯!と全員が叫び、やっとグラスのワインが飲み干された。
 料理を食べ、和やかに会話が交わされた。サイスはデネロスとギャラガから演奏旅行の話をせがまれ、過去の体験の中から楽しかった話題を思い出しながら語った。少佐とロホはステファン大尉が今朝早くビアンカ・オルトとの間に何かやらかしたと思っているので、テオから話を聞きたくてウズウズしているのが、テオにはわかった。

「明日の夜は、エル・ティティに帰省されるのですか?」

とロホが訊いてきた。テオは頷いた。

「スィ。教授会が終わったらすぐに・・・終わらなくても時間が来たら、夜行バスに乗るつもりだ。」

 そして彼は大事な要件を思い出した。少佐に頼み事があったのだ。

「ロレンシオをアスクラカン迄一緒に連れて行く予定になっているんだ。だけど、彼を人前に出せないから、バスの時間迄何処かに彼を居させてもらえないかな? 午前中は俺の家に居るんだが、教授会の間に彼が居る場所が必要だ。」
「貴方の研究室は駄目なのですか?」
「俺の部屋は学生達がしょっちゅう出入りしているから、ロレンシオを見つけたら大騒ぎするだろう。」
「バスの時刻は何時です?」
「時刻表通りなら、いつもと同じ、午後8時ピラミッド前のバスターミナルを出発だ。」
「カルロはもう彼を放置ですか?」
「カルロだって忙しいんだよ。今朝のことがあるし・・・」

 少佐とロホに見つめられて、テオは彼等が何も知らないのだと気がついた。
 突然、ロホがグラスを持って、バルコニーの方を向いた。

「暑くないですか? ちょっとバルコニーで大人の話でもしませんか?」

 少佐もグラスを掴んだので、テオも立ち上がった。デネロスが振り向いた。

「どうしたんです?」
「大人の話をしに行くのです。」

 少佐が目で彼女に何か言った。デネロスはそれ以上突っ込まなかった。


第3部 終楽章  6

  司令部の待機室でカルロ・ステファンは2時間ほど黙って座っていた。エミリオ・デルガド少尉の救護に当たった遊撃班の同僚達の聞き取りが、デルガド自身からの聞き取りの後で行われたので、長時間待たされた。

 事件現場は本部から近かった。だからステファンの通報から救護部隊が駆けつけたのは、彼が電話をかけてから15分後だった。ジープ3台と救急車1台。それ迄の間、ステファンはデルガドの手を握って言葉をかけ続けた。気絶させる訳にいかなかった。普通の負傷と違って”ヴェルデ・シエロ”の気の爆裂をまともに食らったのだ。”呪い”をかけられたも同じだった。指導師に診てもらわなければならない。気絶してしまえばお祓いを受けられない。
 指導師の資格を持つ遊撃班指揮官と同僚達が到着すると、彼等は直ちにその現場である裏道を封鎖した。未明で人通りがないと言っても、いつ誰かが通りかかって大統領警護隊の行動を目撃するかわからない。目撃されるだけなら良い、市民は、何か良くないことが起きてロス・パハロス・ヴェルデスが後処理をしている、と思ってくれる。実際そうなのだ。しかしその処理の最中に大きな声や音を立てられて、指導師の祈祷や救護者の処置の妨害になると困るのだ。デルガドの命に関わることだから。
 部下達に見張りと警護を命じると、指揮官はデルガドが倒れているところに来た。ビアンカ・オルトが死亡していることを確認し、それからステファンから”心話”で状況報告を得ると、彼は一旦ステファンを含めた部下全員をデルガドのそばから追い払った。
 5分後、ステファンは3名の同僚と共にデルガドのそばへ呼ばれた。

「搬送するための前処置として、デルガドの折れた骨を繋ぐ。眠らせるが、それでも骨繋ぎの際に苦痛で暴れるので、君等で彼を押さえつけておくように。」

 指揮官は麻酔の錠剤を出し、デルガドに飲ませた。1分後にデルガドは意識朦朧となり、指揮官は己のスカーフを外して彼に噛ませた。舌を噛むのを防ぐためだ。ステファンと3名の同僚達はデルガドの両肩と両脚を抑えた。指揮官は両手を重ね合わせ、デルガドの陥没しかけた胸の上に翳した。一瞬彼は全身に力を入れ、ステファンと同僚達は空気が凍りついたような感覚を体験した。デルガドの体がビクンと跳ね上がりそうになり、彼等は満身の力を込めて彼を路面に押さえつけた。時間はほんの3秒程だった筈だが、彼等には数分に思えた。
 指揮官がいっぺんに老け込んだ様に見えた。疲弊して彼は路面に尻もちをついた。

「デルガドを救急車へ・・・」

と彼は命令した。

「国防省病院へ搬送しろ。骨がくっつくまで、寝かせてやれ。」

 仲間が担架にデルガドを載せて運んで行く間に、ステファンは指揮官の手を取って立ち上がるのに手を貸した。指揮官が苦笑した。

「君はケツァル少佐の心臓からナイフを抜き取るのに5時間も頑張ったそうだな。普通の隊員では到底無理な時間だ。ほんの数秒で私など、ふらふらだ。」
「しかし、私は祓いが出来ませんでした。だから少佐をあの後半月以上苦しめる結果になりました。」
「祓いの方法は教えてやる。指揮官になる者には必要な知識だ。」

 指揮官はオルトの遺骸を見下ろした。

「恐らく、”砂の民”の名簿にこの女は入っていない筈だ。誰の弟子でもないのだろう。」
「独断でピアニストの命を狙ったと?」
「この女がどんな考えで行動していたのか、それを調べろ。死者の考えを辿るのは難しい仕事だがな。」


 ステファンは、文化保護担当部には永久に戻れない、と悟った。それをテオドール・アルストに告げる勇気がなかった。


第3部 終楽章  5

 その日の夕方、セルバ共和国のメディアは人気上昇中のピアニスト、ロレンシオ・サイスが体調不良のために半年間休業することを発表した、と報道した。言うことを聞いてくれないマネージャーに愛想を尽かしたサイスが、自ら報道各社にメールで己の決意を伝えたのだ。記者達がマカレオ通りの彼の自宅に押しかけた時、既に彼はいなかった。怒り心頭のマネージャーが駆けつけたが、彼は忽ちマスコミの餌食になった。サイスはどんな病気なのか? どこに行ったのか? キャンセルされる演奏スケジュールはどうなるのか? 
 実のところサイスはまだマカレオ通りにいた。アスクラカンへ行く決心がついた、とカルロ・ステファン大尉に連絡を入れたら、10分後には大尉自ら迎えに来た。そして彼をテオドール・アルストの自宅に連れて行ったのだ。

「狭い家だが、明日の夕方迄我慢してくれ。」

とテオが言った。

「俺は金曜日の夕方の夜行バスに乗って、エル・ティティと言う町へ行く。親父が住んでいるんだ。アスクラカンはそのバスが立ち寄るところだ。日によっては乗り換えもある。だから、君は俺と一緒にバスでアスクラカン迄行く。バスターミナルには、君の出自のことをよく知っている人が迎えに来る手筈になっている。君はその人と一緒にサスコシ族の族長の家に行く。
 こう言う段取りだが、承知してくれるかな?」

 サイスはステファン大尉を見た。一緒に来てくるのではないのか?と目で問うた。その切ない視線にステファンが微かに微笑んだ。

「セニョール・サイス、貴方は今”心話”を使いました。意識していますか?」
「え?」

 サイスがキョトンとした。テオも微笑した。

「無意識に使えるんだ、訓練を受ければすぐに普通の”ヴェルデ・シエロ”並に使えるさ。」

 サイスが戸惑った。目だけで会話する、と言うのがどう言うものなのか、まだ得心出来ないのだ。ステファンが言った。

「無防備に”心話”を使うと、貴方の過去も心の底で思っている他人に知られたくない気持ちも全部伝わってしまいます。”心話”は嘘をつけないが、相手に渡す情報をセイブすることは出来ます。それを学んで下さい。”心話”が使えるようになれば、他の力の制御も簡単になります。仲間がどう脳を使えば良いか、”心話”で教えてくれるからです。言葉で表現することが難しいのですが、脳に直接伝えれば理解出来ます。」

 そして彼はサイスの質問にやっと答えた。

「私は貴方を護衛してアスクラカンに行くつもりでした。しかし、その必要がなくなり、私には別の仕事が入りました。これから本部へ戻らねばなりません。
 貴方はご自分でアスクラカンへ行く決定をすることが出来ました。1人でも大丈夫です、上手く能力を制御出来るようになって、早くピアノに戻って下さい。」

 サイスが頷いた。

「有り難う、助けてくれたあなた方の為にも、修行に励んできます。」

 サイスを客間に案内すると、テオは本部に帰ると言うステファンを玄関迄送った。

「サイスだけでなく、君も元気になって安心した。」

とテオが言うと、ステファンが意外そうな顔をした。

「私はそんなに憔悴して見えましたか?」
「スィ。オルトを死なせて後悔しているのかと思った。」

 ステファンが傷ついたふりをした。

「私は敵を倒して後悔なんかしません。」
「わかってる。エミリオを怪我させたことを悔やんでいたんだよな。」

 ステファンが時計を見た。

「そろそろエミリオの麻酔が切れる頃です。状況の聞き取りは、階級が低い者から先に行われます。司令部は、私が部下の安全管理に手を抜かなかったか、私がオルトの命を奪ったのが適正だったか、エミリオの証言を聞いて考えるでしょう。それから私の聞き取りがあります。」
「エミリオが君の立場を悪くするようなことは言わないと思うが・・・」
「聞き取りは”心話”で行うのですよ。」

とステファンは苦笑した。

「防犯カメラの映像を見るのと同じです。エミリオが見て聞いたことを、司令部がどう判断するか、です。事は数秒で起きました。彼がどの程度記憶しているか、誰にもわかりません。」

 そして彼は、「では、また」と言って家から出て行った。

 

  

2021/11/05

第3部 終楽章  4

  テオが帰宅すると、リビングのソファでステファン大尉が寝ていた。客間で寝れば良いのに、と思いつつ、テオは寝室で着替えてからキッチンでコーヒーを淹れた。芳しい香りでステファンが目を覚ました。家の主人が帰宅しているのに気がついて、彼は体を起こした。無言のまま彼はソファを離れ、ダイニングのテーブルに来た。
 2人は黙って昼食を取った。ステファンはタコス1個では物足りないのではと心配したテオは、冷蔵庫からマカロニチーズを出して温めて出した。それもステファンは無言で食べてしまった。食欲が無さそうに見えて、かなりの量を食べている。超能力を使ったのだ、とテオにはわかった。姉のケツァル少佐が能力を使った後に異常な量の食事を取るのと同じだ。
 ステファン大尉が落ち着いてきた様子だったので、テオは自然な風を装って会話を始めた。

「昨日の朝、アスルがここへ来て、ミーヤ遺跡で不審な女と出会して銃撃したが逃げられたと教えてくれたんだ。勿論彼は少佐に電話で報告済みだったろうけど。それで夕方、ロホとマハルダとアンドレがオフィスでの仕事が終わった後で向こうへ行った。アスルは遺跡を離れられないから、彼等が女の痕跡を追ったら、マカレオ通りに出たそうだ。アスルが使った”通路”の近所だろうね。そこで女の痕跡を追うのが困難になったので、彼等は追跡を諦めて解散したんだろう。」

 流石に少佐とディナーデイトして自宅まで送ってもらったとは言えなかった。彼が、これで終わり、と仕草で表現すると、ステファンがそれに続ける様に語り出した。

「オルトは最近迄住んでいたアパートに戻っていました。血の臭いを辿って突き止めました。アパートに踏み込もうとしたら、少佐が一足先に来て結界を張っていたので、私は入れなかった。」
「結界? どうして少佐が・・・」
「オルトと話がしたかったのでしょう。」

 俺の知ったこっちゃないよ、と言いたげに、ステファンはそれ以上の説明はしなかった。

「アパートから出て来た少佐は、オルトに大統領警護隊に出頭するよう言った、と言いましたが、私はオルトを信じられませんでした。勿論少佐もあの女を信用していた訳ではありません。後は私の仕事だと言って少佐は帰りました。
 私はデルガド少尉を呼んで、アパートに踏み込むつもりでした。すると結界が消えたことを確認したオルトがアパートから出たのです。」
「逃げたのか?」
「逃げようとしたのです。私達が追いかけると、彼女は気の爆裂を放って来ました。私は風が私に到達する前に押し返しました。オルトは自分が放った気をくらって転び、立ち上がって逃げようとしたので、私は止まらなければ脚を砕いてやると警告しました。」
「彼女は止まった?」
「スィ。立ち止まったので、私は彼女の目を塞ごうとしました。その時、デルガドが彼女の手を後ろで拘束しようとしました。」

 テオはドキリとした。嫌な予感がした。

「君が目を塞ぐ前に、エミリオは彼女に触れたのか?」
「スィ・・・そう言うタイミングでした。オルトがいきなりエミリオに向かって振り返ったのです。私は咄嗟に彼女の首を殴りました。」

 ジャガーの一撃だ。一突きで殺すもの、それがジャガーの語源とも言われている。そしてジャガーはピューマより強いことが動物学者によって確認されている。だがマーゲイはジャガーよりもピューマよりも小さい。テオは不安に襲われて尋ねた。

「エミリオは・・・?」
「肋骨を3本折られました。オルトは私に立ち向かっても叶わないと悟って、エミリオを攻撃したのです。ただ、先に己が放った気の爆裂を私に跳ね返されて自分でくらってしまっていたので、力の全開は出来なかった。だからエミリオは命拾いしました。」
「そして、オルトは・・・死んだのか・・・」

 ステファンが溜め息をついた。

「少佐と出会った時に、エミリオにまともにオルトの相手をさせるなと注意されていたのです。私は彼女に、部下を危険に曝したりしないと見栄を切ってしまいましたが、結局失敗しました。オルトは”出来損ない”のグラダより純血種のグワマナを相手にした。私とエミリオが互いに離れた瞬間に、彼女は2人の力の差を測りとったのです。そう言うことが出来る人間が敵なのだと、私は考慮すべきだったのです。」

 ステファン大尉の気鬱は、オルトを死なせてしまったことではなく、部下を守りきれなかった後悔だった。テオは微笑んで見せた。

「だけど、エミリオは生きているんだろ? 君がオルトの首を折らなければ、彼は殺されていたんだ。君はエミリオを守ったんだ。彼もきっとわかっているさ。」

 ステファン大尉は床に視線を向けた。

「それでも・・・少佐に叱られます。」


第3部 終楽章  3

 金曜日の午後は学部毎の教授会があって、進級させる学生や落第させる学生を決める。だから木曜日の最終試験の監督を務めたテオは、お昼になるとランチも取らずに大学を出た。文化・教育省の駐車場に行くと、ケツァル少佐のベンツとロホのビートルが所定の場所に駐車されていたので、彼は雑居ビル1階のカフェ・デ・オラスへ行った。少佐、ロホ、デネロス、そしてギャラガが揃ってランチをしているのを見て、彼は店に入る前にステファンの携帯に電話をかけてみた。1回の呼び出し音の後ですぐにステファン大尉が出た。

「アルストだ。もう本部に帰ったのかい?」
ーーノ・・・お言葉に甘えて貴方の家にいます。

 気のせいか、やっぱり元気がない声だ。テオは気がつかないふりをして言った。

「昼飯を仕入れて帰るから、待っててくれ。」
ーー承知しました。

 電話を切ってテオは店内に入った。カウンターへ行き、持ち帰りのタコスを2人前頼んだ。それから、文化保護担当部の隊員達が座っているテーブルに近づいた。

「ヤァ、今日は全員揃ってるんだな。」

 少佐以外の3人が振り返った。デネロスがニコッと笑いかけてくれた。

「アルスト先生も試験が終わったんですね?」
「スィ。明日の昼迄休めるんだ。」

 ギャラガがびっくりした様な顔をした。

「明日は午後から仕事なのですか?」
「スィ。教授会がある。誰を進級させて誰を落第させるか話し合うんだ。」
「魔の会議ですね。」

  学生のデネロスが身震いのふりをして、仲間を笑わせた。少佐がチラリとテオを見上げた。

「ランチは持ち帰りですか?」

 つまり、一緒に食べないのか、と訊いているのだ。テオは仕方なく頷いた。

「スィ。家で待っているヤツがいるからね。」
「誰? アスル?」

とデネロスが無邪気に尋ねた。まさか、とテオは笑った。

「黒いヤツだよ。」

 4人の隊員全員が彼を見つめた。何故ステファン大尉がテオの家にいるのか?と問いたげな表情だった。デネロスが小さな声で尋ねた。

「今日の未明に、ピューマを捕まえたんじゃないんですか?」

 テオがすぐに返事をしなかったので、彼女はさらに言った。

「報告書の作成やら取り調べで大尉は忙しい筈ですけど・・・」

 それでもテオが返事出来ずにいると、ギャラガが言った。

「私達は昨夜ミーヤ遺跡に行ったんです。 アスル先輩が不審な女を銃撃したと聞いたので、女を追跡しました。そしたら、マカレオ通りに出たんです。」
「アスルもあの辺りに”通路”があると言っていたな。」
「私達はそこで追跡を諦めたのですが、未明に町が慌ただしくなりました。日が昇る頃に官舎に帰ったら、遊撃班が外へ出て行ったと聞いたので、ステファン大尉の応援に行ったのだと思いました。」

 大統領警護隊は部署が異なると互いに何をしているのか知らないのだろう。大きな出来事なら情報が拡散するのだろうが。
 少佐がテオに尋ねた。

「カルロは貴方の家で何をしているのです?」
「知らない。」

とテオは正直に答えた。

「今朝は試験の監督しか仕事がなかったから、遅い時間に家を出たんだ。そしたら家の前にカルロがやって来た。疲れている様に見えたから、俺の家で休むように言った。」

 その時、カウンターで彼を呼ぶ声がした。テイクアウトの用意が出来たのだ。テオは友人達に、またな、と言ってテーブルから離れた。

第3部 終楽章  2

  サイスの家を出たステファン大尉は、本部へ帰るべきか、文化保護担当部に明け方の出来事を報告すべきかと少し迷った。迷いつつ運転していたので、気がつくとテオドール・アルストの家の前に来ていた。テオの車がまだそこにあり、丁度テオ本人が鞄を持って出て来たところだった。車に乗り込もうとして、彼は道に大統領警護隊のジープが停まっているのに気がついた。

「ブエノス・ディアス!」

 いつも優しい声をかけてくれる人だ。人1人の命を奪った直後のステファンは、なんだか泣きたくなった。窓を開けて挨拶を返して、彼はわかりきったことを尋ねた。

「お仕事なんですね。」

 テオがジープのそばへやって来た。

「スィ。何か急ぎの用かい?」

 そう言ってからテオはステファンの顔が、朝だというのに憔悴した印象を与えることに気がついた。それに相棒のデルガドはジープに乗っていない。
 テオは家をちょっと顎で指した。

「疲れているなら、中に入って休め。俺は午前中仕事だが、午後は調整すれば何時にでも帰って来られる。帰る時は電話を入れる。」

 彼は時計を見て、それじゃ、と車に戻りかけた。ステファンがその背中に声をかけた。

「彼女は死にました。」

 テオが一瞬足を止めた。そして彼は詳細を知らなくても、その意味は理解した。
 
 カルロはそうしなければならなかったんだ・・・

 彼は努めて明るい声で言った。

「それじゃ、ロレンシオはもう安全だね。」

 彼は車に乗り込み、エンジンをかけた。ジープはまだそこにいた。彼は車を出した。

2021/11/04

第3部 終楽章  1

  木曜日の朝、ロレンシオ・サイスは疲れた顔でテーブルの前に座っていた。テーブルの上には朝食のコーヒー、トースト、オムレツ、サラダ、果物が並んでいたが食欲がなかった。彼は火曜日にステファン大尉から己の出自の秘密を伝えられ、超能力の訓練を受けることを勧められた。その翌日からマネージャーのボブ・マグダスと引退するしないで口論していたのだ。マグダスは既に半年先迄彼の演奏旅行のスケジュールを立ててしまっていた。今ここでサイスに引退されると莫大な損害を出してしまう。サイスが貯金を全て彼にやると言っても容認出来なかった。今迄仲良くやってきたバンド仲間からも我が儘だと責められた。しかし、引退の本当の理由を伝える訳にいかないのだ。彼等はサイスが”ヴェルデ・シエロ”だと言っても信じないだろうし、もしジャガーに変身して証明などしたら、撃ち殺されるに決まっている。
 このまま黙ってグラダ・シティを出て行こうか、と思った時、玄関のチャイムが鳴った。家政婦が応対に出て行き、すぐに客を連れて戻って来た。

「セニョール、エル・パハロ・ヴェルデです。」

 護衛のロス・パハロス・ヴェルデスの2人は台所で朝食を取っている筈だし、交代要員が来るにはまだ早い時刻だった。サイスは顔を上げた。軍服姿のカルロ・ステファン大尉が立っていた。火曜日に会った時は、大尉は私服姿だったので、サイスの目に彼は眩しく映った。

「ブエノス・ディアス。」

と挨拶して、ステファン大尉はサイスの顔を眺めた。

「あまりよく眠れていない様ですね。」
「マネージャーと口論しているので・・・」

 口論の内容は、警護についている少尉達から報告が上がっていたので、ステファンは敢えて訊かなかった。彼は一つだけ朗報を持って来ていた。

「貴方の命を狙っている女性がいると言いましたね? 彼女は大統領警護隊に処罰されました。もう貴方の安全を脅かすことはありません。」

 サイスが彼を見つめた。目が明るくなった。

「本当ですか?!」
「スィ。ですが、貴方は超能力の使い方を年長者から教わる必要があります。」

 サイスがまた沈んだ顔になった。ステファンがリビングのピアノを振り返った。

「ピアノを止める必要はないでしょう。体調が悪いと言って暫く休養を取ることにしては如何です? その間にアスクラカンへ行って、サスコシの族長の家で基礎的なことを学ぶのです。」
「つまり・・・休業宣言するってことですか?」
「出来ますか?」

 サイスは考えた。

「僕がどの程度学べるのかわかりませんが、超能力を使わない訓練でしょう? やってみます。マネージャーを説得して半年間の休業期間をもらえるよう頼んでみます。」

 彼は己の手を見た。

「僕の手はピアノを弾くためのものです。地面を四つん這いになって歩くためのものじゃない。」

 そして彼はハッとして大尉を見た。

「すみません、貴方も変身なさるのでしたね。決して馬鹿にした訳じゃありません。」
「構いません、私も変身した後は酷く疲れるので、あの力は好きではありません。」

 ステファン大尉は台所の方を見た。

「護衛を引き揚げさせます。グラダ・シティにいる限りは必要ないでしょう。休業出来るとわかれば連絡を下さい。族長の家にご案内します。”ヴェルデ・シエロ”に限ったことではありませんが、この国の先住民にはややこしい作法があります。アスクラカンへ旅立つ前に最初にそれを教授します。」

 するとサイスがその日初めて笑った。

「北米の先住民にもややこしいマナーがあります。母方の一族にもありました。ですから、心配ご無用です。僕は喜んで学びます。」

 それから彼は大尉の背後を覗く仕草をした。

「今日は少尉は来られていないのですか?」

 ステファンは表情を変えずに答えた。

「ええ、彼は今朝忙しいのです。処罰された女性に関する報告などもありますから。」





第3部 狩る  15

  エミリオ・デルガド少尉がやって来たので、ステファン大尉はアパートの3階の窓を指差した。

「女はあの部屋に戻っている。文化保護担当部からの情報によれば、彼女は南部国境近くの遺跡で文化保護担当部のクワコ少尉から職質を受け、答えずに逃げたので銃で撃たれた。脇腹を負傷したらしいが、どの程度治っているのか不明だ。これから私は彼女の部屋へ行って彼女を捕まえる。逮捕容疑は違法ドラッグの使用だ。君は私の後ろでフォローしろ。彼女の目を塞がねばならん。私が彼女の目を塞いだら、彼女の手を拘束しろ。もし少しでも攻撃の気を感じたら、容赦無く撃て。相手はピューマだ。油断禁物だぞ。」
「承知。」

 デルガドはホルダーの銃の弾倉を確認した。カルロ・ステファンは知っている。大統領警護隊の隊員達は皆優秀な軍人だ。しかし実際に敵と対峙して、命の遣り取りを経験した隊員は少ない。遊撃班でさえ人を殺した経験を持つ隊員は数人しかいないのだ。デルガドはまだ20歳になったばかりだ。南部の穏やかなグワマナ族の漁村で生まれ育った。詳しい経歴を聞いたことはないが、他人の命を奪う過酷な体験はしたことがないだろう。
 ステファンとデルガドがアパートの入り口へ向かおうとした時、3階から物音が聞こえた。2人は咄嗟に隣のアパートの影に入った。3階のBの部屋の窓から人の頭が突き出された。オルトがケツァル少佐の結界が消えたことを確認しているのだ、とステファンはわかった。

「出て来るぞ。」

 彼等はアパートの出入り口に左右に別れて立った。数分後、やや足を引きずった感じの音が階段を降りて来た。右脚を動かすと脇腹が痛むのか。アパートの階段から見て右側に立っているデルガドは完全に気配を消していた。獲物が通るのを待っているマーゲイだ。ステファンも石になった。音だけを聞いていた。
 女が建物から出て来た。その横顔のシルエットを見た瞬間、ステファンはデルガドに怒鳴った。

「エミリオ、東の非常階段だ!」

 2人は建物と建物の隙間へ入った。物がごちゃごちゃ置いてあるので邪魔だった。デルガドが身軽に障害物を乗り越えて行く。ステファンは彼を先に隙間に入らせてしまったことを後悔した。しかし隙間の幅では彼を追い越せない。だから、隙間の出口に達した時、ステファンは喉の奥を鳴らした。

クッ!

 デルガドがマニュアル通りのお手本見たいに地面に身を投げ出した。ステファンは彼の体を飛び越して、裏路地に出た。風が彼に向かって吹いてきた、と感じる前に、彼はそれを押し返した。キャッと女の声が上がり、路地の向こうの非常階段の下に人間が転がった。ステファンがそちらへ走ると、女は立ち上がり、よろめきながら走り出した。

「止まれ!」

 ステファンは怒鳴った。

「止まらんと脚を砕くぞ !

 女が動きを止めた。

「”出来損ない”が私に命令するのか!」

と彼女が前を向いたままで怒鳴った。

「さっき来た女は、日没迄待つと言ったわ!」
「彼女と私の所属部署は違う。正規のお前の担当者は私だ。」

 ステファンは彼女にゆっくりと近づいて行った。後ろから命令通りデルガドが手に拳銃を射撃の構えで握り、彼と同じ歩調でついて来た。ステファンの呼吸に合わせて、女にそこにいるのはステファン1人だと思わせている。
 近づくと血の臭いがした。女の傷は治っていない。体内に弾丸が残っているのだ。

「大人しく捕縛されて手当てを受けろ。君の容疑は違法ドラッグの使用だ。素直に捕まって自供すれば罪は軽微で済む。」

 ステファンは彼女の前へ回り込んだ。デルガドが拳銃をホルダーに収め、彼女の両手を掴み、後ろで拘束しようとした。いきなり女が体を反転させた。ステファンは咄嗟に彼女の首を横から打った。
 路上にデルガドが倒れ、その上に女も倒れた。

「エミリオ! しっかりしろ!」

 ステファンは女の体を押し退け、デルガドに声をかけた。デルガドが目を開けた。顔が苦痛で歪んだ。彼が消え入りそうな声を出した。

「大尉・・・すみません、貴方が彼女の目を塞ぐ前に・・・」
「喋るな。すぐに救援を呼ぶ。」

 動かなくなった女をチラリと見て、ステファンは携帯を出した、本部へ電話をかけた。呼び出しが鳴る数秒間に、デルガドの体をサッと透視した。本部が応答した。ステファンは早口で喋った。

「遊撃班ステファン大尉だ。デルガド少尉がピューマの気の”爆裂”にやられた。肋骨が3本折れている。動かすと肺を傷つけるので、大至急救護を要請する。場所は西サン・ペドロ通り7丁目と第7筋の交差点から西へ2軒目のアパートの裏路地だ。」

 本部が、すぐにそちらへ救護へ向かうと告げた。ステファンは急いで付け足した。

「アパートの表に”操心”にかけられた”ティエラ”の女性がいる。保護をお願いする。」

 電話を終えると、ステファンはビアンカ・オルトに近づいた。オルトは死んでいた。ステファンのジャガーの一撃で頚骨が砕かれたのだ。

「お前が悪いんだ。」

とステファンは言った。

「私の部下に手を出したから。」




第3部 狩る  14

  学生アパートから道路に出たケツァル少佐は、歩道の暗がりに身を潜めている人物の気配に気がついた。

「貴方もここだと見当をつけたのですね。」

と囁くと、暗がりからカルロ・ステファンが姿を現した。彼は溜め息をついてアパートを見上げた。

「誰かさんが結界など張るから、入れなかったのですよ。」

 彼は視線を少佐に戻した。

「貴女が強いことは承知しています。しかし、1人で危険人物と対峙するのは止めて頂きたい。」

 少佐は肩をすくめて彼の目を見た。”心話”で忽ち情報共有が行われた。ステファンは少佐と交わしたビアンカ・オルトの言葉に納得しなかった。彼は腕組みして言った。

「アスクラカンでの彼女の評価は酷いものでした。人間性に欠陥があると現地では見做されていました。それに麻薬を手に入れようとした理由も明確ではない。彼女は貴女から逃げる為に虚偽の言い訳をしたとしか思えません。」
「私も彼女が素直に警護隊に出頭すると思っていません。」

 少佐は異母弟を悪戯っぽい目で見上げた。

「彼女に誰に追われているかを教えてやりました。あの女はロレンシオ・サイスを狙いつつ、貴方を警戒するでしょう。ことによると、サイスより先に貴方を片付けようと思うかも知れません。エル・ジャガー・ネグロに興味を抱いた様子でしたから。」
「故意に私を狙わせるのですか?」

 ステファン大尉が特に腹を立てた様子はなかった。ケツァル少佐は時々この手の遣り方で部下の教育を行う。部下と同等もしくは少し上の力を持った敵と戦わせる。

「今踏み込んでも構いませんよ。」

 少佐はアパートを見た。

「でも、”ティエラ”達がいることを忘れないで下さい。それから、デルガド少尉はまともに相手にさせないように。どんなに賢いマーゲイも、ピューマの一撃には耐えられません。」
「心得ています。部下を危険に曝したりしません。貴女の教えです。」

 少佐は「おやすみ」と言って、自宅に向かって歩き去った。残ったステファン大尉は暫くアパートを見上げていた。ビアンカ・オルトが眠れない夜を部屋で過ごすつもりはないだろう。彼はアスルが彼女に手傷を負わせたことを、ちょっと腹立たしく思った。撃つなら確実に仕留めろ、と実戦のプロは思った。
 カルロ・ステファンは今捜査員と言うより狩人の心境だった。ミックスの弟の存在を否定するピューマを仕留めたかった。
 あの女はゲームをしている。サイスの”シエロ”としての本能をドラッグで目覚めさせて、己と戦える状態に仕上げようとしている。彼女はジャガーと戦って、己のピューマの力を確認したいのだ。
 彼はデルガドに電話をかけた。少尉はすぐに出た。

「今、何処にいる?」
ーーエンリケ通りの、女がバイトをしていた居酒屋のそばです。
「彼女は西サン・ペドロのアパートに戻っている。すぐにこっちへ来い。」
ーー承知!

 エンリケ通りは人間の足で走って10分足らずの距離だ。ステファンは物陰に隠れてタバコを咥えた。火を点けずに気分を落ち着かせる為に香りを吸い込んだ。高揚すると相手に気取られる。オルトはケツァル少佐が本当に帰ったと確信する迄部屋から出ない筈だ。
 少佐がオルトの部屋ではなくアパート全体を結界で包んだ理由を彼はわかっていた。少佐はオルトとの面会の間、ステファンが介入してくるのを拒否したのだ。”出来損ない”の弟が来れば純血至上主義のオルトを刺激するからだ。少佐がミックス達を”出来損ない”などと考えていないことは、彼が一番よく知っている。彼女がオルトとの面会でその言葉を使ったのは、オルトの心を揺らすためだ。”出来損ない”でも一人前になり得る。”出来損ない”でも愛し合える。少佐はそう訴えたかった。それがオルトの心にどう響いたのか、それはこれから彼が彼女に対峙すればわかる。

 

2021/11/03

第3部 狩る  13

 右の寝室は静かなままだった。ケツァル少佐は静かに待っていた。待つのは慣れている。遺跡発掘隊の監視はひたすら作業行程を眺めているだけの仕事だ。ドアの向こうの気配が動いたのは6分後だった。瞬間に彼女はアパート全体の結界を張った。物音が響き、続いて「キャッ」と声がした。少佐は寝室のドアを開いた。
 窓の近くにベッドがあり、その上で若い女性が蹲っていた。Tシャツとコットンパンツ姿だ。頭を抱えているのは、窓から外に出ようとして、少佐の結界にぶつかったせいだ。”ティエラ”なら問題なく通り抜けられる結界は、同族の”ヴェルデ・シエロ”にはガラスの壁の様に硬い。無理に突破しようとすれば脳にダメージを受ける。

「話があると言った筈です。何故逃げるのです?」

 少佐は後ろ手で寝室のドアを閉めた。女が右脇腹に片手を当てた。

「大統領警護隊は私を撃った。殺されるかも知れないのだから、逃げるのは当たり前でしょう。」

 成る程、と少佐は頷いて見せた。

「何故、貴女は撃たれたのでしょう?」
「知らないわ。いきなり向こうが撃って来たのよ。それも後ろから!」

 暗がりの中で女の目が光った。少佐は”心話”を拒否した。信用出来る相手としか”心話”はしない。それが常識だ。

「貴女を撃った男は、オクターリャ族です。私達を連れて過去に飛んで銃撃現場を見せることが出来ます。検証を望みますか?」

 ”操心”が効かない相手だと悟った女は、脱力した。

「わかった・・・正直に言うわ。アンティオワカ遺跡にコロンビアから密輸した麻薬やドラッグを隠している組織がいると聞いたのよ。それで確かめに行ったの。もし本当にそんな悪いことをしているヤツがいるなら、粛清しなきゃ。この国の害になるからね。」
「貴女1人で麻薬組織を撲滅出来ると思って行ったのですか?」
「操れるでしょ? 1人を操れば、そいつが連中の輪を乱す。自滅させるのよ。」
「それが目的なら、大統領警護隊が職質をかけた時に、そう言えば良かったのです。」
「信じてくれたかしら?」
「彼は言いませんでしたか? 遺跡は警察が封鎖している、と。」
「覚えていないわ。」
「貴女はこう答えました。クスリを分けてくれるって聞いたから、買いに行こうとしていた、と。それも忘れましたか?」

 女が微笑んだ。

「私はジャンキーなんかじゃない。でも、クスリが必要だったのよ。」

 彼女は少佐を見上げた。

「ねぇ、もし突然、貴女に弟がいて、その弟が”ティエラ”が産んだ”出来損ない”で、それなのに父親が貴女よりその子を可愛がっていたと知ったら、貴女、我慢出来る?」

 少佐はニコリともせずに答えた。

「私は、突然弟の存在を知らされたことがありますよ。」
「え・・・?」
「その弟は”出来損ない”の女から生まれた”出来損ない”です。そして私は父と全く接点がありませんでしたが、弟は父に名前をもらい、愛されました。」
「それで?」

 女の声が微かに震えた。

「貴女はその弟をどうしたの?」

 少佐は彼女の目を見つめて言った。

「”シエロ”として生きる為に手を貸してやっています。彼は努力の人です。私は彼を愛しています。」
「貴女のお父さんは・・・」
「父は弟が2歳の時に死にました。私は一度も父に会ったことはありませんが、弟は微かに記憶があるそうです。」
「貴女のお母さんは、その”出来損ない”の弟のことをどう思っているの?」
「母は私を産んですぐに死にました。父の妻は弟の母親で、私の母ではありませんでした。」

 女が沈黙した。
 少佐がドアを手を触れずに開いた。

「私は帰ります。貴女が大統領警護隊の本部へ出頭してミーヤ遺跡での出来事を説明すれば、我々は貴女を追いません。貴女はロレンシオ・サイスのことを忘れて故郷に帰るとよろしい。」

 ハッと女が目を見張った。

「ロレンシオのことを知っているの?」
「我々は知っています。」

 少佐は「我々」と言う単語に力を込めた。ロレンシオ・サイスがミックスの”ヴェルデ・シエロ”であることを、大統領警護隊は承知していると言う意味だ。つまり、サイスが不審な死を遂げれば、お前を真っ先に疑うぞ、と言う警告だった。
 女が独り言のように言った。

「あの”出来損ない”の隊員が報告したのね。」
「あの”出来損ない”の隊員は、貴女より能力が強く、優秀ですよ。エル・ジャガー・ネグロですからね。」

 女が息を呑んだ。黒いジャガーは、グラダ族の男性だけが使えるナワルだ。グラダ族はどの部族よりも強く、使える能力の種類も多い。サスコシ族がまともに戦って勝てる相手でないことを、女は知っていた。

「そんなに強いヤツに見えなかった・・・」

 おやおや、と少佐は心の中で呟いた。カルロも見くびられたものだ。

「彼は気を上手く抑制しているだけです。純血種並みに。貴女が能力の使い方に自信があるなら、”出来損ない”の弟を上手に指導してあげることです。」
「出来ません。」

 と女は俯いた。

「父の愛を奪った男を弟と認めることも、指導することも、私には出来ません。」
「それなら、ロレンシオのことは忘れるのです。血族と思わなければ、彼が存在していても気にならないでしょう。」

 彼女が涙を流すのを少佐は感じた。この女は、ロレンシオ・サイスを愛してしまったのだ、と少佐は気がついた。弟としてではなく、男性として。

「夜が明けたら、出頭なさい。」

と少佐は言った。

「今日の日暮れ迄に出頭しなければ、”砂の民”が貴女を追いますよ。麻薬組織に近づこうとした、それだけで彼等は貴女を不穏分子と見做します。」



2021/11/02

第3部 狩る  12

  一方通行の道路が交互に東西に伸びているマカレオ通りから東サン・ペドロ通りを通り、西サン・ペドロ通りの筋を北上して、ケツァル少佐は自宅の高級アパートの駐車場に車を入れた。厳重なセキュリティーのドアを2か所通り、エレベーターで自室があるフロア迄上がった。自宅に入ると、彼女はバッグをソファの上に投げ出し、バルコニーに出た。高台の一等地だ。グラダ・シティの市街地が一望出来る。雨季が近いので商店街は消灯が乾季より早い。それに平日だから日付が変わる頃になるとポツポツと灯りが消えていくのが見えた。
 少佐は目を閉じて暫く風を感じていた。それから室内に戻ると、足首の拳銃とは別に肩から吊るすホルダーを装着した。こちらの拳銃は標準サイズで大きめだ。弾倉に弾が込められていることを確認して、彼女は携帯電話以外何も持たずに外へ出た。
 少佐は西サン・ペドロ通り第7筋を南下して、7丁目との交差点まで歩いた。学生用アパートが並んでいる通りだ。彼女は通りをゆっくりと歩き出した。ステファン大尉とデルガド少尉の報告にあった建物の前に立つと3階の窓を見上げた。どの部屋も照明は消えている。グラダ大学だけでなく、どの学校も今は期末試験の期間で試験で実力を出し切った学生達は疲れて眠っているのだ。
 通りを走って来た車が遠ざかる迄待って、少佐はそのアパートの中に入った。階段の壁に微かに血の臭いが残っていた。撃たれた傷の傷口は塞がったかも知れないが、アスルが撃った弾丸がもし体内に残っていれば、サスコシ族の能力では自力で弾丸を体外に出せない。女は手術を必要とした筈だ。自分で摘出出来るか、それとも誰かにやらせるか? 女は先週の土曜日迄、つまり5日前迄このアパートに住んでいた。土曜日の午後にテオとステファンに住まいを突き止められて逃げたが、火曜日に撃たれていきなり傷の手当てをする場所を確保出来たと思えなかった。隠れるなら、ここだ。
 3階まで上がって、少佐はBのドアの前に立った。血痕はそこで終わっていた。少佐はドアに耳を当てて中の気配を伺った。2人いる、と彼女の本能が告げた。1人はオルトのルームメイトだろう。ここで踏み込んでオルトを捕まえるのは難しい。ルームメイトの女性は”ティエラ”の筈だ。人質に取られる恐れがある。一番簡単なのは、中に踏み込むと同時に気を爆発させてオルトを叩きのめす方法だ。しかし、それでは他の部屋の住民に損害を与える。ルームメイトにも怪我をさせる恐れがある。何よりもオルトを審判にかける前に死なせてしまう。
 少佐はドアノブに手を翳した。鍵が開いた。カチッと言う音がして、彼女は暫く動きを止めた。部屋の中は静かだ。中の人間は眠っている。しかし銃創を負った人が熟睡出来るだろうか。ケツァル少佐は撃たれた経験があった。右胸を撃たれた。すぐに軍医による手術を受けたが、その夜は傷が疼いてよく眠れなかった。”ヴェルデ・シエロ”は傷を負うと眠って治癒を促す。それでも体にメスを入れられると、自然の治癒より早くなる分痛みが酷くなる。
 オルトは今動ける状態なのだろうか。
 少佐はドアを静かに開いた。入ってすぐに狭いキッチンとバスルームがあり、奥に狭いリビングルームがあった。寝室は左右にドアが一つずつ。彼女はキッチンのシンクの縁に懸かっていた布巾を取り、ドアの下にストッパーの代わりに挟んだ。音を立てずにドアを閉め、最後に布巾を抜き取って施錠した。その動作の後、再び静かに動きを止めて様子を伺った。5分も待ってから中へ移動した。バスルームの前を通った時、血の臭いを嗅いだ。傷の手当てをした痕跡だ。少佐はリビングの中央に立った。左右のドアを見比べた。
 右のドア・・・彼女は当たりをつけた。低い声で呼びかけた。

「サスコシのビアンカ・オルト、話がある。私は大統領警護隊シータ・ケツァル・ミゲールだ。」



第3部 狩る  11

  ケツァル少佐はマカレオ通りの「筋」を南下し、途中で歩いている軍服姿の3人の若者を発見した。車を近づけて減速すると、向こうも気がついて立ち止まった。彼女が窓を開けると、3人は敬礼した。

「少佐、今お帰りですか?」
「スィ。」

 少佐が目を見たので、ロホは”心話”で報告を行った。少佐が頷いた。

「アスルが使う”入り口”の近くにあなた方は出た訳ですね。」
「恐らくミーヤ遺跡とこの近辺の”空間通路”が繋がりやすくなっているのでしょう。新月が来ればまた変化すると思いますが。アスルが撃った女はグラダ・シティに逃げ帰ったものと思われます。残念ながら、既に24時間以上経っていますから、こちらへ来てから女の匂いも痕跡も発見しておりません。」

 それを聞いてケツァル少佐は考え込んだ。それからふと顔を上げて、ロホに言った。

「これからあなたのアパートに3人は行くのですね?」

 え? とデネロスが驚いた表情をした。

「追跡はもう終了ですか?」
「南部にいれば追跡続行ですが、あなた方はここへ帰って来ました。街中でアサルトライフルをぶっ放す訳にいかないでしょう。今夜はこれで撤収して休みなさい。明日は2時間の繰り下げ出勤を認めます。」

 デネロスはまだ何か言いたそうだったが、ロホとギャラガが敬礼して承知を示したので、彼女も敬礼した。そして、少佐は「おやすみ」と言って、3人を残して走り去った。
 ロホは2人の部下を見た。

「少佐の命令だ。今夜は私のアパートで休んで、明日はオフィスに出勤だぞ。」

 デネロスは背中のリュックに着替えを入れておいて良かった、と思った。靴は泥だらけの軍靴のままだったが。
 歩き出してから、ロホがギャラガに囁いた。

「少佐は何処から帰るところだったと思う?」
「サイスの家からですか?」
「サイスの家はあっちの方角だ。」

 ロホはベンツが来た方角と反対の方を指した。

「ええっと、それじゃ、今僕達が向かっている方向から来られたと言うことは・・・」
「ドクトルの家からだろう。」

 ギャラガはコメントを避けた。そして心の中で、ステファン大尉がまたヤキモチを焼くだろうな、と思った。


第3部 狩る  10

  テオの家の来客用駐車スペースでケツァル少佐はベンツを駐めて運転席の背もたれに体を預け目を閉じていた。助手席ではテオが同様のポーズでやはり目を閉じていた。先に寝落ちしたのは彼だ。走行中に寝てしまった。自宅前に到着して、少佐が声をかけても目覚めなかった。だから彼女は彼が目を覚ます迄寝ているのだ。空にはようやく下弦の月が出て来たところだった。
 東側の通り2本南あたりで犬が突然激しく吠え始めた。犬の興奮がゆっくりと拡散する前に、少佐は背もたれから体を起こした。耳を澄まし、犬が恐怖に駆られていることを感じ取った。彼女は体を捻ってテオにキスをした。

「起きて下さい。」

 テオは寝入ったばかりだ。すぐに目覚めなかった。彼女は彼の頬を叩いた。

「起きて、テオ!」

 彼がうーんと声を上げかけた。少佐は躊躇わずに頬を平手で殴った。

「さっさと起きる!」

 テオが目を開けた。何? と呟いたので、彼女は言った。

「車から降りて家で寝なさい。」

 テオは外を見て、自宅だと気がついた。

「ごめん、寝てしまった・・・」

 彼はドアを開けた。そして犬の吠え声に気がついた。彼がまだ車内にいるにも関わらず、少佐が車のエンジンをかけた。彼は降りずにドアを閉めた。

「犬の所へ行くのか?」
「通ってみるだけです。降りないの? 今夜はもう送りませんよ。」

 テオは渋々外へ出た。
 ドアが閉まるや否や少佐のベンツは走り去った。ガソリンスタンドの方向だ、と気がついたのは、家の中に入った後だった。アスルが”入り口”があると言っていた付近だ。”入り口”があれば近くに”出口”もある。誰かが出て来たのか?
 行くべきだろうか? しかし、いつまでも相手はそこに留まっていないだろう。
 彼は寝室に入った。そしてベッドの上に体を投げ出すと、目を閉じた。


第3部 狩る  9

  暗闇は”ヴェルデ・シエロ”にとって色彩がないだけで見えない世界などではない。戦闘服に身を包んだロホ、ギャラガ、そしてデネロスはアサルトライフルをいつでも撃てる体勢で森の中を歩いていた。木の葉に付着している血痕が白く光って見えた。
 国境検問所の近くにある”出口”から出た時、電話連絡を受けていたアスルが出迎えた。ロホが2人の後輩少尉を連れていたので、彼は「狩の練習か?」と尋ねた。ロホは真面目に「スィ」と答えた。アスルが出迎えたのは、同僚達が”出口”から出て来るところを無関係な”ティエラ”に目撃されない為の用心だった。”出口”から出る時、外の世界がどんな様子なのか”通路”にいる人間にはわからない。敵が待ち構えて襲って来る可能性は十分あるのだ。
 アスルはこの夜の追跡に加わらなかった。彼には彼の任務がある。遺跡発掘隊が完全に撤収する迄警護と監視をするのだ。セルバ共和国での考古学調査は発掘許可をもらうのが大変難しいが、一度認可されると帰国する迄しっかり守ってもらえる、それが諸外国の研究機関に人気がある理由だ。アスルはミーヤ遺跡の発掘隊を守る仕事をしている最中だ。だからロホは、女を撃った本人に女の捜索を手伝えと言わなかった。

「あの女は俺が声をかけたら、家長や族長を通せと、俺のマナー違反を咎めやがった。俺が守っている土地に無断で入り込む方がマナー違反だろうが!」

 アスルがぼやくのを年長のロホは聞き流し、「こちら側」で女を捕まえたら引き渡しを要求するか、と尋ねた。アスルはちょっと考えた。

「麻薬密売組織と関係があるのなら、憲兵隊に引き渡すのが筋だが、”シエロ”ならそうはいかないだろう。本部へ連行してくれないか。」
「承知した。」

 少尉のアスルが中尉のロホにタメ口で仕事の話をするのを、もし本隊の隊員達が耳にすればアスルを咎めるだろうが、文化保護担当部では誰も気にしない。ロホとアスルは兄弟同然の仲だ。そしてサッカーチームのライバル同士だ。ギャラガにはアスルはちょっと怖い先輩だが、気後れせずに言葉を挟んだ。

「捕まえたら必ず連絡を入れます。」

 アスルはチラッと彼を見て、ぶっきらぼうに言った。

「電話が通じる場所だったらな。後日報告で構わない。」

 それで、ロホ、ギャラガ、デネロスは3人で真夜中のジャングルを歩いていた。気を放出すれば虫や蛇を防げるが、逃亡者にこちらの存在を教えてしまう。いるのかいないのかわからない逃亡者に気取られぬよう、彼等は気を抑制して歩いていた。ジャングルに慣れていないデネロスは虫が煩わしいのだが、これしきのことで音を上げたりすれば次の派遣は砂漠ばかりになってしまうので我慢していた。都会育ちのギャラガにしても本格的な深夜の森の中での捜索は初めてだ。何処かで物音がする度に、ギクリとしてそちらへ銃口を向けるので、ロホに「落ち着け」と叱られた。
 1時間ほど歩いた頃、風が生臭い臭いを運んで来た。ジャガーに変身して嗅げば「美味しそうな匂い」だが、人間の鼻だと「不快極まる臭い」だ。ギャラガが真っ先に断じた。

「何かがこの先で死んでいます。」

 ロホは頷いた。静かに近づいて行くと獣の唸り声が聞こえた。イヌ科の動物の声だ。薮から出ると、そこに凄惨なシーンがあった。
 地面に無残に引き裂かれたコヨーテの死骸が転がっていた。別のコヨーテが5頭でそれを貪っていたのだが、死んだコヨーテも1頭ではなく2頭だった。コヨーテがコヨーテを襲うとは思えない。
 ロホはその場に出て行き、ジャガーの気を放った。コヨーテ達が恐れをなして逃げ去った。ギャラガが死骸のそばに行くと、ロホはしゃがみ込んで死骸の検分をしていた。

「食い荒らされているから断言は出来ないが、このコヨーテは骨を砕かれて死んだ。」

 首の辺りを銃の先で指して、彼は言った。

「銃や刃物ではなく?」
「一撃だ。だが撲殺ではない。」

 もう1頭の死骸も検めて、ロホは立ち上がった。

「こっちは背骨を砕かれている。」

 ギャラガはそんな方法でコヨーテを殺した犯人に当たりがついた。

「”シエロ”の仕業ですね。」
「スィ。」

 ロホはデネロスの姿が見えないことに気がついた。一瞬焦ったが、すぐに彼女が薮から姿を現したので安堵した。

「私達が追跡していた血痕がここまで続いていました。」

とデネロスは、男達が死臭を嗅ぎ取ってから観察し忘れたことを指摘した。

「きっと血の臭いを嗅いでコヨーテが女を襲ったのだと思います。彼女が返り討ちにしたのでしょう。」

 ギャラガは死骸を眺めた。

「腐敗の進行状況から判断して、24時間以上経っていると思います。」
「まるで検視官ね。」

 ロホが周囲を見回した。そして自分達が来た道筋から90度左へ曲がった方角を指した。

「向こうに血痕がある。」


2021/11/01

第3部 狩る  8

  雨季が近いので風が少し湿り気を帯びていた。降らない雨季は困るが激しく降る雨季も困る。今季は軽く済んで欲しい、とセルバ人は願う。ほろ酔い気分でテオと少佐はレストランを出て、文化・教育省の駐車場へ向かって歩いていた。少佐はショルダーバッグを肩にかけているので、両手が塞がるのを嫌ってテオと手を繋いでくれない。テオは彼女のバッグを守るように間に挟む形で並んで歩いた。

「君とカルロ、ビアンカとロレンシオ、なんだか対照的な姉弟だなぁ。」

 少佐が応えないので、彼は1人で喋り続けた。

「姉が純血種で、弟がミックスだ。姉は生まれつき自然に超能力を使えるが、弟は教わらないと使えない。カルロもロレンシオも子供時代に教えてくれる人がいなかった。ただ、カルロは自分が”シエロ”だと知っていたし、能力が強いことは周囲にもわかっていた。そして姉さんは彼が一人前の”シエロ”になると信じて積極的に教育してくれた。一方ロレンシオは本当に最近まで自分が何者か知らなかったし、能力が何かも知っていなかった。彼の姉さんは最悪だ。純血至上主義者で弟の存在を認めない。拒否するだけでなく、命を狙っている可能性すらある。姉さんに拒絶されたと知って、彼はどんなに哀しかっただろうな・・・」

 少佐が肩をすくめた。

「オルトが何を考えているのか、彼女を捕まえて訊いてみなければわかりません。彼女はサイスを殺そうと考えているのではなく、ただ能力の強さを確認しただけなのかも知れません。ピューマが必ずしも”砂の民”になるとは限らない。彼女は周囲から浮いて案外孤独に苦しんでいるのかも知れませんよ。」

 彼女の口調が淡々としていたので、本気でそう思っているように聞こえなかった。テオは苦笑した。

「君の説は俺がそうあって欲しいと願っている内容だ。だけど彼女の言動は嘘ばかりだ。彼女の師匠が誰なのか知らないが、俺には真っ当な人とは思えない。だってそうだろう? 俺が知っているピューマは・・・ピューマなのかどうか知らないけど、社会的に真面目に働いている人々ばかりだ。博物館の館長や、大学の教授や、政治家の秘書だ。弟子に嘘ばかり付かせて教育する人達じゃないと信じる。」
「”砂の民”を信用するとは、珍しい人ですね。」

 少佐が囁くように言った。

「貴方が知っている人々は、当然私も知っています。個人的にお互い知り合っているから、彼等は優しいのです。敵と見做したら、その瞬間から彼等は冷酷になれます。現にカルロはシショカを今でも警戒しています。私もシショカをマハルダとアンドレには近づかせません。純血至上主義者は実際、残酷な仕打ちをミックス達に平気でします。」
「ムリリョ博士も純血至上主義者だよな?」
「あの方は人格者ですから。」

 少佐が苦笑した。

「ミックスを殺したりしません。寄せ付けないだけです。ミックスの若者達が無防備に放出する気が煩わしいと感じていらっしゃるのです。」
「彼は今でもカルロを”黒猫”って呼んでいる。軽蔑じゃなく、愛情を籠めて呼んでいるように俺には聞こえるんだ。」

 テオの言葉に少佐がニッコリ笑った。

「カルロが生まれる前からカタリナ・ステファンを守っていた人ですからね、カタリナの子供達は特別なのでしょう。」

 テオが以前から考えていたことを、少佐も同様に感じていたのか。テオは嬉しく思った。
 文化・教育省の駐車場に着いた。少佐のベンツに近づくと、彼女が車の安全確認をした。そして彼を振り返った。

「どっちが運転します?」


第3部 狩る  7

 結局、アスルが遭遇した怪しい女の正体について論じることもなく、テオは少佐と別れて大学に戻った。スニガ准教授に大統領警護隊がGCMSの使用料金を支払う意思がないことを告げるのは気が重かったが、先延ばしするとますます事態が悪くなることは目に見えていたので、スニガの部屋に言って直接告げた。スニガは不愉快そうな顔をしたが、しかし腹は立てなかった。腹を立てても相手が悪いとわかっているのだ。大統領警護隊に不服を申し立てる勇気があるセルバ人は殆どいない。代わりにテオに向かって言った。

「答案の採点を手伝ってくれるか?」

 それでその日の午後いっぱい夕方迄テオは他人のクラスの答案を読んで過ごした。 作業が終わる頃にスニガの機嫌は直っており、これからは正式な申請をもらってから検査を行う約束をした。
 日が暮れる頃にテオが大学の駐車場へ行くと、電話がかかってきた。またケツァル少佐だ。

ーー夕食のご予定は?

ときた。テオが彼女の要請を断るとは思っていない。テオはちょっと腹が立ったが、予定はなかったし、例の女の話をしたかったので、「ない」と返事した。少佐はよく利用するバルの名を告げて、時刻は言わずに電話を切った。彼が来る迄待っていると言う意味だ。テオは少し考えてから、一旦自宅まで帰った。そして車を置くと大きな通りまで出てタクシーを拾った。
 バルには少佐が1人でいてビールを飲んでいた。テオもビールを注文して彼女の隣に立った。

「1人とは珍しいな。」

と声をかけると、彼女が微笑した。

「ロホはギャラガとデネロスを連れてミーヤ遺跡へ行きました。」
「アスルの応援かい?」
「撤収の見学です。」

 ミーヤ遺跡は小さいが、撤収段取りを規則通りに行う日本隊がいる。監視役初心者には良いお手本になるだろう。しかしテオはやはり裏の目的があると睨んだ。

「ジャングルの中で女の痕跡を追うんだろ?」

 少佐がグラスを持ったままニヤリと笑った。

「もうあの近辺にいないと思いますが、逃げた”入り口”を見つけることを期待しています。」

 真夜中にジャングルの中で追跡を行うのだ。テオはロホとギャラガには心配しなかったが、デネロスはちょっと気遣った。彼女は女性だし、ナワルも一番小さなオセロットだ。それに農村育ちでジャングルでの活動は余り経験がない。テオが知っているだけでも、彼女の現場派遣は主にグラダ・シティ近郊か西部のオルガ・グランデ近辺の砂漠地帯だ。

「まさか分散して捜索させるんじゃないだろうな?」
「ノ。標的は1人ですから、3人一緒に行動するよう、ロホに命じてあります。相手が手負いのピューマである可能性がありますからね。」

 テオは溜め息をついた。

「もしその女がビアンカ・オルトだとしたら、彼女がアンティオワカへ行った目的はなんだろう? 」
「やはりドラッグでしょう。アンティオワカの業者が捕まって、グラダ・シティへ入荷がなくなったので、こちらの売人が値を釣り上げた。それで彼女は直接買い付けに行ったのではありませんか?」
「彼女が自分で使うのか?」
「貴方が彼女に会った時、薬物使用の常習者に見えましたか?」
「ノ・・・彼女はまともだった。まともでなきゃ、あんな手が込んだ誤魔化し方は出来ないだろう。」
「彼女がサイスを変身させたドラッグをパーティーに持ち込んだと疑われますから、何か利用方法を考えているのでしょう。」
「サイスを狙って来るかな?」
「一度標的と定めた相手を必ず仕留めないと、”砂の民”の入門試験に通りませんからね。」

 少佐の声が小さくなった。

「ピアニストは今どうしているんだい?」
「ギャラガが本部でそれとなく聞き込んで来た遊撃班の情報によりますと・・・」

 ギャラガは身内をスパイしているのだ。

「遊撃班では若い少尉達の訓練も兼ねて交替でサイスの護衛を行っているそうです。ステファンとデルガドはビアンカ・オルトの捜索に専念していると思われます。」

 大統領警護隊が本腰を上げてロレンシオ・サイスの護衛をしてくれているなら安心だ、とテオは安堵した。

「サイスはこれからどうするつもりかな?」
「これもギャラガが聞いてきた話ですが・・・」

 少佐はギャラガを上手く使っている。

「サイスは引退を言い出してマネージャーとバンドが意思撤回させようと連日話し合っているそうです。警護隊は口出し出来ません。」


第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...