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2021/06/19

笛の音 14

  翌日、シオドアは再び所長執務室に呼ばれた。今度はホープ将軍ではなく別の軍人が研究所の高位にいる科学者達と待ち構えていた。軍人はヒッコリー大佐と名乗った。机の上に、前日ジョーンズの意識を混濁から呼び戻した土笛が置かれていた。

「説明してくれないか、シオドア。」

とエルネスト・ゲイルが言った。

「デイヴィッド・ジョーンズが正気を取り戻した。この笛を吹いたからだと看護師が言うのだが、本当かい? 君が持ってきたと彼は言っていた。」

 誤魔化すと却って面倒なのでシオドアは正直に語ることにした。信じる信じないは彼等の勝手だ。

「そうだよ。ジョーンズは博物館で買った笛を吹いて狂気に陥った。だから俺は呪いだの呪術だのと言った中米の文化に詳しい知人に協力を求めた。博物館で買った笛を遺跡から持ち出された文化財だと言って、セルバ大使に持って行ってもらった。セルバ大使はメキシコの知人に渡すと言っていた。そして昨日、メキシコからそこにある別の笛が送られて来た。ジョーンズに吹かせろと指示が同封されていたから、病院へ行って、彼に吹かせたら、正気に帰ったんだよ。以上だ。」

 エルネストがワイズマンを見た。ワイズマンはヒッコリー大佐と顔を見合わせた。エルネストがシオドアに向き直った。

「ふざけるなよ。笛で人間が発狂したり、正気に帰ったりするものか!」
「俺に怒るなよ。俺だってそれ以上のことはわからないんだから。」

 シオドアは笛を指差して科学者らしい見解を述べた。

「その笛から出る音波がジョーンズの脳に何らかの影響を与えて、正常に戻したのじゃないのか?」
「笛の音波?」

 馬鹿にされる前にシオドアは続けた。

「メキシコに持ち去られた笛も奇妙な空気穴が作られていた。俺は音を聞いていないから、何とも言えないがね。犬笛みたいな物じゃないか? 」
「シオドア、笛の音で人間の脳を狂わせることが出来れば、それは兵器になるぞ。」

 ヒッコリー大佐の言葉に、シオドアはギクリとした。そうだ、ここは軍事基地の中の研究所だ。何を研究しているんだ? 兵器じゃないのか? 俺達遺伝子組み替え人間は、兵器として開発されたんじゃないのか? 
 彼は作り笑を大佐に向けた。

「それじゃ、その笛を分析されては如何です? 俺は遺伝子学者だ。物理学の分析はご免被ります。」

 なんで遺伝子研究を軍事施設でしているんだ? 人間を兵器に改造するのか? それとも生物兵器の研究か?
 シオドア、とまたヒッコリー大佐が呼んだ。どうしてこいつらは俺をハーストと呼ばないんだ。ファーストネームを呼んで優位を示しているつもりか。

「君はセルバ共和国へ行った目的をまだ思い出せないのか?」
「まだです。」
「だが、ジョーンズの笛をセルバ人に相談した・・・」
「セルバ共和国で呪い師を見たんです。だから知人に訊いてみた。」
「セルバ人はジョーンズを正常に戻す方法を知っていた。」
「否、笛はメキシコの農村で作られた物です。新しい笛を送って来たのも、メキシコ人です。俺の知らない人です。」
 
 その時、それまで黙っていたダブスンが口を開いた。

「テオは最近ある特定の被験者の遺伝子情報を繰り返し閲覧しています。彼は同じものを行方不明になる前も何度も見ていました。セルバ共和国のエンジェル鉱石から提供された血液サンプルの一つです。」

 他人のアクセスログを見張っているのか。シオドアはこの監視だらけの施設が心底嫌に思った。ダブスンがシオドアに尋ねた。

「セルバ人の遺伝子に何があるの?」
「わからない。」

 シオドアは正直に打ち明けた。

「わからないから、提供者本人と実際に面会しようと出かけたんだ。それ以外に考えられない。あんな砂漠しかない街へ・・・」

 彼はワイズマンとヒッコリー大佐に訴えかけた。

「俺をもう一度セルバ共和国へ行かせて下さい。謎の遺伝子の正体を見極めたいんです。」
「どんな遺伝子だ?」
「脳に関係するものです。」

 シオドアは自分の額を指差した。

「前頭葉の形成情報が普通の人と違う。微妙に違う人がいます。それが人間にどんな効果を与えているのか、見たいんです。きっと記憶を失う前の俺も同じ思いだった筈です。だから、あんな遠くまで出かけて行ったんです。」
「行っても無駄よ。」

 ダブスンが薄ら笑った。

「私は彼の捜索に空軍の協力を得て空路でオルガ・グランデに行きました。エンジェル鉱石の鉱山がある街です。馬鹿みたいに閉鎖的な街です。他所者はいつも誰かに見られているし、私もシオドアを探すついでに血液提供者の身元を尋ねてみました。彼がその人を訪ねたかも知れないと思ったので。でも誰も教えてくれませんでした。」
「当たり前だろう。」

 シオドアも笑った。

「血液提供者の氏名をこっちは持っていないんだ。被験者7438・F・24・セルバなんて訊いても、誰も知らないさ。それとも君は知っていたのかい?」

 ダブスンの顔が赤くなった。シオドアは彼の指摘が図星だったので逆に驚いた。彼女は人探しをするのに標本番号だけで探したのか?
 科学者の1人が言った。

「セルバ共和国は首都や東海岸の工場地帯なら外国人も自由に滞在出来ますが、都市部から外へ出ると閉鎖的で、遺跡などは立ち入り申請を出してもなかなか許可が下りないと聞きます。オルガ・グランデは山間部で、鉱山はセルバ共和国の数少ない外貨獲得の手段です。簡単に外国人が入れると思えません。ダブスンが行けたのは、アンゲルス社主がまだ生きていた時です。彼はこの研究所に協力的でした。しかし彼が亡くなった今、ハーストがあの街に入るのは難しいでしょう。」
「オルガ・グランデが難しいのなら、首都から攻めます。」

とシオドアは言った。

「首都で何かの仕事をして信用を掴んでから、オルガ・グランデの鉱山へ行きます。時間はかかりますが、研究の仕事はインターネットで出来るでしょう?」



笛の音 13

  アリアナとエルネストはシオドアがセルバ共和国大使と会ったと聞かされると、馬鹿だなと言う顔をした。

「僕等は年寄り達の言うことに従っていれば良いんだ。余計なことをして怒らせるのは得策と言えない。基地の外へ追い出されたら、僕等は生きていけないぜ。」

 籠の中しか知らない遺伝子組み替え人間の意見だ。シオドアは笑った。

「エルネスト、人間はどんな場所でも生きていけるんだ。森で芋を掘ったり、町で代書屋をしたり、居酒屋で床掃除して稼いでいけるんだよ。」
「そんなことを、この僕に出来る筈ないじゃないか!」

 アリアナが悲しそうな目でシオドアを見た。

「テオ、貴方はセルバのジャングルに心を置いてきてしまったのね。」

 シオドアは彼女のロマンチックな表現に何の感動も覚えなかった。冷たく「そうかもね」と答えただけだった。
 セルバ共和国のジャングルに行った記憶はなかった。エル・ティティは山裾の乾燥地域だったし、オルガ・グランデも高原で密林はなかった。事故に遭ったバスはグラダ・シティを出発した。グラダ・シティは都会で、大きな港と空港がある。恐らく記憶を失う前のセルバ旅行の出発地点はグラダ・シティだ。バスが走るルートはジャングル地帯に建設されたハイウェイで、乾燥地帯に入り、山を越えて太平洋岸へ抜けるのだ。だがその道中の記憶はなかった。
 2週間後、メキシコからシオドアに宅配便が届いた。小さな箱の荷物はX線検査を通され、一旦開封されて調べられ只の民芸品だと確認された。シオドアの部屋に配達されたのは次の日だった。見覚えのない差出人の名前を見て、シオドアはちょっと緊張の面持ちでパッケージを開いた。中身は綺麗な彩色を施されたジャガーを象った土笛だった。手紙が一枚笛の下に入っていた。それも読まれたであろうが、意味がわかった人間はいなかった筈だ。英語で書かれた手紙にはこう書かれていた。

ーー被害者にこの笛を吹いてもらって下さい。

 シオドアはそれを病院に持って行った。ジョーンズへの見舞いだと告げると、看護師立ち合いの元で渡すよう言われた。
 ジョーンズはパジャマ姿でベッドの上に座っていた。痩せ衰えた姿に、シオドアは涙が出そうになった。研究所で一番親切にしてくれた人だ。助手より友人だ。何としてでも助けたかった。

「デイヴ、シオドア・ハーストだ。わかるかい?」

 声をかけてみたが、ジョーンズは空の彼方を見つめていた。シオドアは笛を出した。

「メキシコの知人が送ってくれたんだ。君に吹いて欲しいってさ。」

 しかしジョーンズの手は笛を握ろうともしない。シオドアは笛を彼の口元に持っていった。半開きの口元にそっと笛の先を押し当てた。ジョーンズの呼気が入るように支えた。
 ヒューっと音がした。シオドアは優しく囁いた。

「もっと強く吹くんだ。」

 ヒュー・・・ヒュー・・・。 看護師は何を奇妙なことをしているのだ、と問いた気に見ていた。
 ヒュー・・・ヒュー・・・と鈍い音が少しずつ大きくなってきた。シオドアはジョーンズが瞬きをするのを見た。いきなり笛の音が高く鳴った。

ピーッ!

 ハァっとジョーンズが息を呑んだ。びっくりした表情で手前に立っている看護師を見て、それから横に寄り添っているシオドアを見た。

「デイヴ・・・」
「テオ?」

 看護師が困惑した表情になり、それから携帯電話を出した。医者を呼ぶ声を聞きながら、シオドアはジョーンズの手を握った。涙が出たが拭えなかった。

「お帰り、デイヴ。良かった。戻ってきてくれて嬉しいよ。」

 ジョーンズが状況を理解出来ずに部屋を見回した。

「ここは何処なんです?」



笛の音 12

 ワイズマンに呼ばれて所長執務室に行くと、見知らぬ軍服姿の男が所長と一緒に待っていた。肩章は陸軍大将だ。ダブスンが度々名を挙げていたホープ将軍と言う人だろうと、シオドアは見当をつけた。この研究所の最高責任者だ。
 果たして、ワイズマンは軍人をホープ将軍と紹介し、将軍がシオドアに尋ねた。

「気分はどうだ? 少しは何か思い出したか?」

と尋ねた。シオドアは「いいえ」と短く答えた。将軍は恐らく昔の彼と顔馴染みなのだろうが、今の彼には初対面の人だ。話すことは何もなかった。
 将軍がワイズマンに目で合図した。 ワイズマンが机の上のパソコンのスクリーンをシオドアの方へ向けた。

「今日の昼前にカフェで会っていた人物だが、誰だかわかっているか?」

 セキュリティカメラに、笛の包みをテーブルに置いて話をしているシオドアとミゲール大使が映っていた。ここは軍事基地だ。訪問者は全てチェックされているのだ。シオドアに客の名を訊いたが、多分既に身元照会も済んでいるに違いない。シオドアは正直に答えた。

「セルバ共和国の大使ミゲール氏です。」
「君に何の用があって大使がここへ来たのだ?」
「俺が呼んで来てもらったのです。」

 シオドアは本当のことを言っても頭がおかしいと思われるだろうと思いつつ、 それでも本当のことを言った。

「助手のジョーンズを助ける方法を考えて、彼がおかしくなる直前に博物館で買った笛が原因じゃないかと思ったんです。博物館のオーナーが中米の遺跡で買ったと言っていたので、セルバ共和国の友人に相談したら、友人の遣いの人が笛を引き取りに来たんです。」

 彼は大袈裟に頭を掻いてみせた。

「いやぁ、驚いたなぁ、まさか大使が来るとは思わなかった!」
「テオ。」

 ワイズマンが顔を顰めた。この男は俺が何か言うと直ぐこんな表情をするな、とシオドアは思った。

「大使は本当はどんな用件で来たんだ?」
「だから言ったじゃないですか。ジョーンズの笛を引き取りに来たんですよ。あれは呪いの笛なんです。大使はメキシコの知り合いにあの笛を見せて呪いを解いてもらうと言ってくれたんです。」
「そんな話を誰が信じる?」
「嘘だと思うなら、ミゲール大使に訊いて下さい。」

 シオドアは「麻薬じゃないです。」と言い添えた。ワイズマンとホープ将軍が疑っているのは、麻薬の売買でないことはわかっていた。シオドアが研究所から何か研究データを盗み出して外国に売り渡したと疑っているのだ。
 その時、ホープ将軍の携帯電話に着信があった。将軍がワイズマンに断らずに電話に出た。誰かと暫く話をしていたが、やがて

「本当に彼はそう言ったのですな?」

と念を押した。そして「わかりました」と言って通話を終えた。
 シオドアは将軍が怖い顔をしてこちらを見たので、電話の相手は外交関係の人間だろうと推測した。将軍がワイズマンに言った。

「国務長官がミゲール大使と話したそうだ。」
「大使は何と?」

 将軍が憎々しげに言った。

「この研究所の職員が博物館で買った土笛は密輸品の疑いがあるそうだ。アメリカ政府の正規職員が、外国の遺跡から違法に持ち出された文化財を所持するのは拙いだろうと、ハースト博士が気を利かせて通報してくれたから、引き取りに行った、と大使は言ったそうだ。」

 ワイズマンがシオドアを見たので、シオドアは大使に話を合わせた。

「つまり・・・ジョーンズが密輸品を買ったって公になったら、研究所としても拙いじゃないですか。だから呪いの品ってことにして誤魔化そうとしたんですが・・・」
「科学者の端くれが、呪いなんか持ち出すか!」

 ワイズマンは仏頂面だ。ホープ将軍はまだ疑わしげにシオドアを見ていた。

「笛にデータを仕込んで渡したと言うことはないだろうな?」
「何のデータです?」

 シオドアも苛々してきた。

「俺はここへ帰って来てから書類整理や他人の研究のデータ入力ばっかりしているんです。遺伝子マップを解析したり、分子構造を確認したりしてますが、それが何に応用されているのか、誰も教えてくれない。それらの価値もわからない。どうして外国に売り渡せるんです?」
「お前の頭脳の優秀さはよくわかっている。」

 将軍が冷たい目で言った。

「お前は馬鹿のフリも上手くやってのけるだろう。」
「フリ?」

 シオドアはカッとなった。思わず将軍に詰め寄った。

「俺の記憶喪失がフリだって言うのか!!」

 テオ!と叫びながらワイズマンが机の向こうから出てきた。シオドアの腕を掴んで引き戻した。

「落ち着け! 君は病気だ。まだ完全じゃない。それは皆んな知っている。」

 シオドアは将軍を指挿して怒鳴った。

「こいつは俺を嘘つき呼ばわりしたんだぞ!」
「テオ、静かにしなさい! 鎮静剤を打たれたいのか?」

 体に力を入れたまま、シオドアは動きを止めた。注射で意識混濁にされたくなかった。将軍が鼻先で笑った。

「生意気なところは、ちっとも変わらんな。ワイズマン君、しっかり躾直しておけ。」

 そして部屋から出て行った。



笛の音 11

 デイヴィッド・ジョーンズは精神疾患が原因で傷害事件に及んだ、と言う司法判断が下された。随分判決が出るのが早い、とシオドアは感じたが、政府のお抱え科学者だったジョーンズの事件を、上層部は早く闇に葬りたいのだ。被害者にはジョーンズの親が治療費を払うことで解決したとワイズマン所長が職員を集めて説明した。ジョーンズ家は納得したのだろうか。ジョーンズは軍の病院で死ぬ迄監禁されるのだろうか。
 シオドアには酷く長い時間に感じられたが、ケツァル少佐の”遣いの者”は彼女の最後の電話から2日後にやって来た。基地の敷地でも自由に外部の人間が出入り出来る居住区画にて、客はカフェで待っていた。シオドアは「少佐の遣い」としか聞いていなかったので、スーツ姿の南欧系白人の男性が近づく彼に片手を上げて合図を送ってきた時、軽い調子で、「ハロー!」と声をかけた。 50代中盤と思えるその男性は立ち上がって、彼を迎えた。

「ハースト博士ですね?」
「そうです。貴方は・・・」
「フェルナンド・ファン・ミゲール、駐米セルバ共和国大使です。」

 え? と言う驚きがシオドアの正直な感想だった。大統領警護隊の遣いが、大使?
逆じゃないのか、普通・・・。
 ミゲール大使は周囲を見回した。

「基地と聞いていましたが、普通の街角と変わりませんね。」
「ええ・・・ここは居住区ですから。」

 門を通らずに入れる区画で良かった、とシオドアは思った。セルバ共和国の名前など出したら、軍は大使を通してくれなかっただろう。外交問題が絡んでくるかも知れない。だが、今回はプライベートな問題なのだ。大使がすぐに用件に入った。

「笛をお持ちいただけましたか?」
「はい、これです。」

 シオドアはポケットから破り取った雑誌で包んだ笛を出した。大使が受け取り、カフェのテーブルの上に置いた。

「中を確認させてもらってよろしいですか?」
「どうぞ。でも直接手で触れない方が良いかも知れません。」

 大使が土笛をじっくりと眺めている間、シオドアは彼を観察していた。大使はどう見ても白人に見える。しかしケツァル少佐から笛の説明を受けたと思われる行動だ。呪いを信じたのか? セルバ共和国の国民だから、そう言う不可思議な現象を信じられるのか? 
 大使が顔を上げた。

「確かに、これは我が国の文化とは異なるものですね。」
「やっぱりこの犬の笛は・・・」
「これは犬ではなく、ジャガーです。」
「ジャガー?」
「中南米では、ジャガーは神様です。色々な土器や建築物のモチーフとして使われます。」
「でも、これは土産物屋で売られていた玩具ですよ。」
「知っています。遺跡の出土物の模造品を作って、観光客に売る連中がいます。観光客も模造品と承知の上で買います。特に問題ではありません。しかし、これは・・・」

 大使が眉を顰めた。

「これは良くない。」
「やっぱり臭いですか?」

 シオドアの質問に、大使は驚いて彼の顔を見た。

「臭い? 貴方にはこの笛の臭いを嗅げるのですか?」

 逆にシオドアが驚いた。大使はこの笛を良くない物と認めたが、臭いは嗅げないのか。

「魚が腐った様な臭いを俺は嗅ぎ取っていますが、他の人は臭いなどしないと言うのです。大使、貴方はこの笛の何が良くないと仰ったのですか?」

 大使が笛を手に取り、シオドアに空気が通る穴を見せた。

「玩具の笛は玩具なりに音が出るように作られています。しかしこの笛の穴は、人間の聴覚では聞こえない音波が出る様に彫られています。儀式用です。」
「儀式?」
「マヤの儀式は専門外なので、私にもどんな儀式なのかわかりません。しかし、貴方の助手が人を刺したのですから、恐らく生贄に関するものでしょう。」
「では、この笛は本物?」
「と言うより、本物を精巧に模したものです。高度な技術が必要な品物を玩具として売るのですから、明確な悪意を含む意図的犯行です。」

 大使は素早く、丁寧に笛を包み直した。そして鞄に仕舞い込んだ。

「メキシコの知人に頼んで調査してもらいます。」
「助手が正気に戻る可能性はあるでしょうか?」
「保証できかねますが、努力します。」

 南の大陸では「努力する」は「しない」と同じだとエルネスト・ゲイルが言っていた。シオドアはそんなことをチラリと思い出したが、グラシャス、と礼を言った。大使が笑顔で別れの挨拶をして、路駐していた彼の車に向かって歩き出した。外交官が呪いだの儀式だの、真面目に取り扱うものなのか? シオドアはセルバ共和国の不思議な社会に想いを馳せていた。

笛の音 10

  シオドアがメキシコに行きたいと言ったら、周囲の人間は猛反対した。無理もない。中米で行方不明になって2ヶ月、やっと戻って来れば記憶喪失で研究が進まない。サポート役の助手が傷害事件を起こして逮捕された。それも原因不詳だが中米が関わっている様だ。

「私はセルバもメキシコも耳に入れたくない!」

とワイズマン所長が怒鳴った。役員会の席上だ。シオドアも記憶が戻らぬまま出席させられていた。その席で申請を出したら即決で却下されたのだ。

「まだ旅行出来る状態じゃないでしょ。」

とアリアナ・オズボーンが言った。どこが?とシオドアは思った。健康状態は全く問題がない。この研究所での過去の記憶が戻らないだけだ。社会常識はあるつもりだ。

「じゃぁ、いいです。申請を取り下げます。」

 シオドアはあっさり引き下がり、会議は次の月初めから開始される実験へと議題が移った。陸軍の兵士20名ばかりに薬剤を与えて効果を見る、と言うものだ。何の為にする実験なのかシオドアは分からなかったし、興味がなかった。
 午後、陸軍の犯罪捜査局からジョーンズに会って欲しいと連絡があった。ジョーンズは基地内の病院に収容されていた。護衛のシュライプマイヤーと一緒に面会室で会ったが、ジョーンズは顔見知りのボディガードも上司のシオドアも認識出来なかった。捜査官は面会によってジョーンズに何か変化が起きるかと期待したらしい。シオドアが「ドラッグですか」と尋ねたら、「精神疾患でしょう」と応えた。

「英語を喋らないので、ヒスパニック系の職員に通訳させようと思ったのですが、スペイン語でもない。それで、例の博物館のオーナーにジョーンズの言葉を聞かせたら、マヤ語で笛が鳴っていると呟き続けているそうです。」
「マヤ語・・・」

 夕方、アパートに帰って机の引き出しに入れた土笛を出してじっくり眺めてみた。まだ臭い。臭いが、笛だ。ジョーンズはこれを吹いたのだろうか。これに何か未知の麻薬でも入っているのでは?
 電話がかかって来た。アリアナ・オズボーンから夕食の誘いだった。彼は笛を引き出しに仕舞い、彼女とのデートに出かけた。
 同じ卵子提供者を持つ”妹”と言っても、D N Aを分析すれば従姉妹ほどの繋がりもなかった。ワイズマンもライアンも人間のD N Aを徹底的に分解して組み直したのだ。生命への冒涜だな、とシオドアは思った。多分、記憶を失う前はそんなことを考えなかっただろう。言われた通りに研究して、期待される成果を上げ、思い通りに結果が出なければ助手に当たり散らす。そんな人間だったのだ、俺は。
 アリアナと食事をして、アパートに戻ってベッドで過ごした。愛がなくても欲求があれば女性とすることをする。アリアナも同じだろうと思った。2人は以前もこんな関係だったのだ。他に友達がいないし、研究所も咎めない。もしかすると、遺伝子組み替え人間同士の子供が出来ることを期待しているのかも知れない。
 こんな生活から早く逃げ出したい。
 隣で疲れて眠っているアリアナの寝顔を眺めながら、シオドアは遠い国を思っていた。
 いつの間にか寝落ちしていた。だから電話が鳴った時、びっくりして跳ね起きた。その動きでアリアナも目を覚ました。

「こんな時間に誰なの?」

 彼女が不満気に呟いた。シオドアは電話を取った。ケツァル少佐だ。

「オラ!」
ーーブエナス・ノチェス。
「ブエナス・ノチェス、少佐。」

 声が弾んでしまった。アリアナが枕の上から訝しげに見上げた。
 少佐は特に声を弾ませることもなく、いつもの口調で質問してきた。

ーー昨晩聞き忘れましたが、笛はどうなりました?
「俺の部屋に保管している。臭いから紙で包んで引き出しに入れてあるよ。」
ーー一つだけですか?
「スィ。他に同じ型のものが売店に残っていたけど、臭わないんだ。売店の店員に聞いたら、売れたのはその臭い笛1個だけだって。」
ーーそんなに臭いのですか?
「魚が腐ったような臭いだよ。何か麻薬でも土に混ぜているんだろうか?」
ーーそんな臭いがする麻薬など聞いたことがありません。

 ちょっと間を置いてから、彼女が言った。

ーーまさか、吹いたりしていないでしょうね。
「吹かないよ、臭いんだから。」
ーー絶対に吹かないで下さい。

 ジョーンズは笛の音が聞こえると言っていた。彼は吹いてしまったのか。それで呪われた? 
 少佐はもう一度「吹いては駄目」と念を押し、それから彼を安心させることを言った。

ーー誰かをそちらに遣ります。笛を渡して下さい。
「呪いを解いてくれるのか?」
ーー私の専門外です。外国の笛ですから、あっちの国の人に任せます。

 先住民のシャーマンのネットワークみたいなものがあるのだろうか。シオドアがそんなことを考えているうちに、少佐は「おやすみ」と言って電話を切ってしまった。
 シオドアが携帯電話を持ったまま、ぼーっとしていると、アリアナが話しかけてきた。

「さっきの電話は女の人ね。スペイン語で喋っていたけど、セルバ人なの?」

 シオドアは電話を棚に置いた。

「否・・・ジョーンズを正気に返す相談をしたセラピストだ。ジョーンズがマヤの儀式みたいなことをして少年を刺したから、マヤに詳しい人を探していたんだよ。」
「じゃ、メキシコ人なのね?」
「うん。」

 アリアナはそれ以上追求せずに寝返りを打って向こうを向いた。


2021/06/18

笛の音 9

  シオドアは忘れていたが、彼の想い女は他人の都合を考えないところが多々あった。否、シオドアが忘れていたのだ。彼の現在地とセルバ共和国の間には2時間の時差があることを。
 ベッドに入った彼が寝入った半時間後に、彼女が電話を掛けてきた。シオドアは彼女からの電話だとは思わなかった。ダブスンが早退した彼に嫌がらせをしたかと思ったのだ。悪態をつきながら携帯電話を掴み、思い切り不機嫌な声で「ハロー」と応えた。

「ハーストだ。」

 相手は少し躊躇ったかの様に数秒間黙って、それからひどく遠くから話しかけて来た。

ーーミゲールです。

 シオドアは一気に覚醒した。ベッドの上に起き上がった。

「少佐! 君の声を聞けて嬉しいよ! 元気かい?」

 手を振るとベッドサイドの照明が点いた。ケツァル少佐は彼ほども嬉しくなさそうな声で、

ーーご用件は?

と尋ねた。その無愛想なトーンにシオドアは苦笑した。正にケツァル少佐だ。電話を切られる前に用件を伝えなければ。

「俺の助手がマヤだかアステカだかの呪いにかけられたらしいんだ。」

 少佐は黙っている。シオドアは少し早口になった。

「日曜日に助手と近所の博物館に行ったんだ。マヤとかインカとかの遺跡から出た彫像や石像を集めている個人経営の小さな博物館だ。セルバ共和国のコーナーもある。」

 少佐が興味を示した気配はない。

「帰りに助手が売店で土を焼いて作った動物の形の笛を買った。何だか嫌な臭いがする笛だ。博物館の経営者に聞いたんだが、ティオティワカンの近くの露店で買わされた物だそうだ。」

 シオドアは電話の向こうがあまりにも静かなので心配になった。

「少佐、聞いてるかい?」
ーースィ。続けて下さい。
「それじゃ・・・日曜日の夜に助手が人を刺した。シーツを頭から被り、アルミフォイルの冠を被って、顔を白く塗りたくって。刺されたのは少年で、ゲームに勝って騒いでいるところに、ジョーンズが、つまり件の助手が来て、胸をナイフで刺した。目撃者の証言では、刺した時ジョーンズは『勝者の心臓を捧げよ』と叫んだと言う・・・」
ーーそれで?
「だから・・・彼には精神疾患もドラッグをやった形跡もない。真面目な男で、私生活に問題もない。突然暴力的になった。今も何か呟きながら体を揺すっている。何が彼を変えたのか、わからない。思いつくのは、彼が博物館で買った臭い笛だけなんだ。」

 電話の向こうで少佐が溜息をつく気配がした。

ーー私にどうしろと?
「ジョーンズを助けてやってくれ。マリア・アルメイダを助けたみたいに・・・」
ーー私にそんな能力はありません。
「マリアの病気を治したじゃないか!」
ーー彼女は邪気に触れただけで、呪いをかけられたのではありません。

 シオドアは腹が立った。電話に怒鳴った。

「ネズミの神様を封じたじゃないか!」

 ケツァル少佐は動じなかった。

ーー神様を鎮めるのと、呪いを解くのは違います。呪いはかけた本人にしか解けません。
「ジョーンズは邪気に触れただけかも知れない。」
ーー邪気に触れただけで気が振れることはありません。
「誰が買うかわからない笛に呪いをかけるヤツなんているかい?」

 すると少佐はショッキングなことを言った。

ーー白人が笛を買ったのでしょう。白人を呪っているのです。
「それじゃ、無差別テロと同じじゃないか。」
ーースィ、テロです。酷く幼稚な手段ですが。

 シオドアは脱力した。

「それじゃ、ジョーンズを助けられないのか・・・」

 しかし少佐は最初から変わらないトーンで言った。

ーー私では駄目だと言ったのです。
「それじゃ・・・」
ーー笛はティオティワカンの近くで買われたと言いましたね?
「スィ。」
ーー心当たりを探ってみます。
「それじゃ!」
ーーブエナス・ノチェス。(おやすみ)

 少佐はかけてきた時と同じぐらいに突然電話を切った。

笛の音 8

   デイヴィッド・ジョーンズに胸を刺された少年は何とか保ち直したと連絡が入った。火曜日になっていた。シオドアは一先ず安堵した。ワイズマン所長も研究室の仲間も、取り敢えずは一安心だ。後はジョーンズに正気に返ってもらうだけだ。
 午後、シオドアは休暇届けを出した。休暇を取っても基地から出なければ監視の目が届くと思われているのだろう、護衛は付かなかった。彼は昼食を研究所の食堂で取ってから、ジョーンズのアパートへ行った。研究所の職員の住居は皆同じ区画に集まっていた。一戸建ての家族用から集合住宅形式の独身者用まで様々だ。シオドアも集合住宅に住んでいるが、部屋は家族用並に広い。部屋数も多い。ジョーンズの部屋はそれより少し狭かった。犯罪現場ではないので、シオドアがジョーンズの上司であることを知っている管理人が中に入れてくれた。
 独身の男の部屋だ。それに前日警察がドラッグの類を探したので、室内は荒れていた。シオドアは研究資料には目もくれないで、ジョーンズの趣味の品々と思われる小物類が飾られた棚を眺めた。そこも荒れていたが、土笛はあった。ジョーンズは、博物館の存在を教えてくれた友人に会いに行ったらしいが、笛を手土産にしたのではなかった。ジョーンズの友人がどんな話をしたのか、シオドアは聞かされていない。だがその友人もジョーンズの異常行動の原因を知らないだろう。
 シオドアは猫なのか犬なのか判別困難な不細工な土笛に近づいた。オルガ・グランデのアンゲルス邸で見たネズミの神像みたいな不快な雰囲気は感じなかったが、異臭は嗅ぎとれた。魚が腐ったような生臭い臭いだ。この部屋を捜査した捜査官達はこの臭いを嗅げただろうか。
 シオドアは素手で笛を触りたくなかったので、床に散らばっていた雑誌を拾い上げ、数ページ破り取った。それで笛を包んだ。
 そばの椅子に腰掛けて携帯電話を出した。セルバ共和国駐米大使館の番号を事前に調べてあったので、掛けてみた。呼び出しが5回鳴って、女性の声が応答した。

ーーセルバ共和国駐米大使館・・・
「ハーストと申します。大使とお話がしたい。」

 多分、断れるだろう。ダメ元だったが、相手は「ご用件は?」と尋ねてきた。シオドアはちょっと出鱈目を言った。

「遺跡の発掘調査について、申請を出したい。」

 すると相手はあっさりと「お待ち下さい」と言い、すぐに保留のメロディが流れて来た。バナナと観光しか資源がない国だ。発掘調査の申請受付ぐらいしか仕事がないのではないか、とシオドアは思った。
 保留メロディが途切れた。よく透る男性の声が聞こえた。

ーー大使のフェルナンド・ファン・ミゲールです。

 ミゲール? 最近耳にした名前だが、誰だったっけ? シオドアは名乗った。

「国立遺伝病学理研究所のシオドア・ハーストと申します。」
ーー遺伝病理学研究所? 遺跡の発掘申請ではないのですか?
「申し訳ありません。貴方とお話しする理由がややこしくて、嘘をつきました。」

 シオドアは正直に言った。

「実は、大統領警護隊の人と連絡を取りたいのですが、方法が思いつきません。遺跡絡みの用件には違いないのです。」

 土笛は民芸品で遺跡とは関係ないのだが、こうでも言わないと大使は話を聞いてくれないだろうと彼は思った。大使が確認するかの様に繰り返した。

ーー遺跡絡みの用件で大統領警護隊と連絡を取りたいと仰るのですか?
「そうです。最近迄私はセルバ共和国に滞在したことがあります。その時に、大統領警護隊の少佐とお近づきになりました。彼女に教えてもらいことがあるのです。」

 すると大使が尋ねた。

ーーシータ・ケツァルとお知り合いですか?
「スィ、彼女です!」

 嬉しさのあまり、シオドアはスペイン語で叫んでいた。

「ケツァル少佐と彼女の2人の部下の将校と一緒にオルガ・グランデで数日いました。その折、私はミカエル・アンゲルスと名乗っていました。」

 大使が数秒間黙ってから、成る程、と呟いた。

ーー要するに、文化保護担当部に用事があるのですね?
「スィ、セニョール。」
ーーグラダ・シティのオフィスに彼等が戻っていれば連絡が付きます。番号は今お使いのものでよろしいですか?
「この番号でお願いします。私用ですから、研究所の電話には掛けないで下さい。それから、少佐には、ミカエルの本名はシオドア・ハーストだとお伝え下さい。」
ーー了解しました。 

 電話を切ってから、シオドアは興奮を鎮めようと大きく息をした。ケツァル少佐とまた会話出来る。電話越しでも、セルバ共和国と繋がりが持てる。
 ゴンザレス署長にも電話を掛けなくちゃなぁ、と思った。だがまだ何か重要なことに決着をつけていない気がする。それが終わらないと、エル・ティティに戻れない。

笛の音 7

 デイヴィッド・ジョーンズは軍のお抱え科学者なので市警察から基地へ護送されて来た。シオドアは面会を希望し、ガラス越しに観察することを許可された。ジョーンズはベッドの上に膝を抱えて座っていた。顔のペイントは拭われていたし、着衣はスエットスーツに着替えさせられていた。事件を起こした時に身につけていた物は全て鑑識の方へ回されたのだ。不安そうに足元のシーツを見つめ、体を左右にゆっくりと揺らしている姿は正常ではなかった。
 一緒に眺めていたエルネスト・ゲイルが囁いた。

「犯行時に心身喪失状態だったと主張出来るかも知れないな。」
「当たり前だろう。まともな意識があって暴力を振る様な男じゃない。」

 シオドアがそう言うと、彼は驚いた表情で振り返った。

「君が他人を弁護するなんて、驚きだなぁ。」

 どうせ俺は嫌な男だったんだろ。シオドアはそれ以上エルネストと一緒にいたくなかったので病棟を出て、ボディガードのシュライプマイヤーに電話をかけた。日曜日に出かけた博物館に行くので運転を頼むと告げた。本当は1人で行きたかったが、単独行動を取って研究所から文句を言われるのはゴメンだった。
 博物館は午後5時前だと言うのに早々と閉館準備をしていた。シオドアは切符売り場の人に頼み込んだ。

「売店の笛が欲しいんだ。入れてくれないかな?」
「笛?」
「土を焼いて作った猫みたいな形の笛。1個2ドルで売ってるヤツ。」
「入館料は5ドル。」

 がめついなぁと思いつつ、チケットを買って中に入った。シュライプマイヤーの分は買わなかったので、用心棒は入り口に立って彼の行方を見ていた。
 シオドアは売店に直行した。例の笛はまだあった。前日はジョーンズが1個買って3個残った。まだ3個あった。3個ともレジに持って行った。

「昨日、俺の友達が1個買ったんだけど、あれから誰かこの笛を買った?」

 売店の女性はフンと鼻で笑った。

「買う人なんていないわ。昨日売れてびっくりしたぐらいよ。」
「これは、何処で仕入れたの?」
「さぁ・・・随分前の物だから・・・」
「この博物館は何時できた?」
「5年前よ。金持ちの道楽でしょ。」

 女性はただそこで働いているだけだ。学芸員でも考古学者でも何でもない。

「仕入れ担当の人を教えてくれないか?」
「そんな人いない。オーナーが時々旅行土産を持って来て置いて行くのよ。」
「オーナーと連絡を取る方法は?」
「知らない。ジョーに訊いてよ。切符売り場にいるから。」

 シオドアは土笛を嗅いでみた。どれも臭くない。ジョーンズが買った笛は異様に臭かった。そして、ジョーンズは何故かその笛だけにこだわった。シオドアは10ドル札を出した。

「笛はいい。お釣りもいい。取っといてくれ。」

 すると女性がオーナーの著書を手に取って、裏表紙を開いた。

「オーナーの連絡先はここに書いてあるのよ。」

 博物館のオーナーは、私立の大学で考古学教授をしているヘイズと言う男性だった。シオドアが売店で売られている土笛のことを訊きたいと言うと、彼は電話の向こうで耳障りな声を立てて笑った。

ーーあれは出土品ではなく、土産物屋で売られている玩具ですよ。
「玩具?」
ーーそう。現地の主婦とか子供が作って売ってる安物です。
「何処で買い求められたんです?」

 セルバ共和国かと思ったが、ヘイズはメキシコだと答えた。

ーーティオティワカンの遺跡の近所でしたね。道端でしつこく声を掛けてくるお婆さんがいたので買ってあげたんです。だが所詮玩具ですから、全部売店に置きました。
「全部で何個ありましたか?」
ーー覚えてないなぁ・・・4個か5個か・・・3個だったかも知れない。

 ヘイズ教授は紛い物の出土品に興味がなかった。シオドアはそれ以上笛に関する情報が得られないと知ると礼を告げて電話を切ろうとしたが、ふと別のことを思いついた。

「教授、貴方はセルバ共和国の出土品も展示されておられますが、あれはどんなルートで手に入れられました?」
ーーどんなルート?

 急にヘイズ教授の声が警戒心を帯びた。

ーーセルバ共和国は非常に閉鎖的な国なんです。考古学者の立ち入りが難しいことで知られています。私は、あの国が独立する前に近隣諸国に持ち出された物を集めたんです。個人が所有していた品物を、ちゃんとお金を払って買いましたよ。
「そうですか。お気を悪くなさらないで下さい。私は最近、あの国へ出かけて風変わりな神像の写真を見せてもらったんです。実物を見たいと思っていますが、遺跡の場所が分からなくて。」
ーー見学だけなら、何とかなるかも知れません。

 ヘイズ教授はシオドアを考古学者だと勘違いしたのかも知れない。

ーーセルバ共和国で遺跡に入りたい時は、文化教育省に申し込むんです。でも期待しないで下さい。あの国の事務手続きは時間がかかるんです。私も2回ほど見学に行きましたが、申請を出して許可が下りるのに3ヶ月かかりましたよ。
「そんなに?」
ーー南の大陸では、コネか金が物を言います。
「私は貧乏ですから・・・」
ーーそれじゃ、コネですな。外交官にお知り合いがいたら、駐米セルバ共和国大使に頼み込むんです。



笛の音 6

 軍の犯罪捜査部がデイヴィッド・ジョーンズのアパートを捜査していた。恐らくドラッグを探しているのだろう。本来ならシオドアが立ち会うべきなのだが記憶喪失なので、ダブスンが代理で研究に関係があるものを捜査官が勝手に持ち出さないよう見張っていた。 
 シオドアは別の捜査官から日曜日に出かけた博物館のことを訊かれた。そこでドラッグを購入したのではないかと疑っているのだ。シオドアは2人ずっと一緒にいた訳ではないと言った。自分はセルバ共和国のコーナーで長居していたので、ジョーンズが2階の展示室で何を見たのか、誰かと接触したのか知らなかった。

「だが、これだけは言える。あのシケた博物館の客はデイヴィッドと俺の2人だけだった。あそこで出会ったのは、チケット売り場の人と売店の女性だけだ。」

 ハンバーガー屋でも店員以外の第3者と接触した覚えはなかった。捜査官はシオドアと別れた後のジョーンズの足取りを調べると言って、彼を開放した。
 研究室に戻ると、助手達が数人ずつ集まってヒソヒソと喋っていた。シオドアが入室すると振り返って無言で尋ねた。ジョーンズに何が起きたのか、と。シオドアは肩をすくめて見せただけだった。
 席に着いてパソコンを開いたが、仕事が手に付かない。助手達の中で一番親身になって接してくれた男に、俺は何もしてやれないのか?
 ジョーンズの不可解な行動は、まるで何かに取り憑かれたみたいだ。夕方になって、シオドア、アリシア、エルネストの親代わりだと言うライアン博士が部屋へやって来た。

「ワイズマンは不機嫌だ。」

と年老いた博士が言った。助手達も政府機関の研究所で働く以上、雇用の際にしっかりと身元調査されている筈だ。デイヴィッド・ジョーンズは親子3代の軍人の家庭で1人だけ科学の道に進んだ頭脳エリートだった。ライアン博士の教え子でもあったのだ。

「テオ、どうして君達は中南米関係の博物館などへ行ったのだ?」
「デイヴィッドの友人が、面白い物が展示されていると彼に教えたそうです。それで、デイヴィッドが俺を誘ったのは、多分、展示物を見せたら俺が何か過去を思い出すのでは、と期待したんじゃないですか。」
「初めて行った場所だな?」
「彼も俺も初めて・・・だと思います。」
「何か思い出したか?」
「いいえ。」

 ライアン博士はじっとシオドアの目を覗き込んでいたが、諦めた様に視線を逸らして部屋から出て行った。親代わりと言うが、愛情を感じられない目だな、とシオドアは思った。
 部屋の何処かでヒソヒソ声が聞こえた。

「デイヴィッドは美術品なんかに興味あった?」
「否、彼は宇宙人が好きよ。」
「ナスカの地上絵とか好きよね。」
「博物館で変な物を触ったんじゃない?」
「呪いの絵とか?」

 シオドアはそちらを振り返った。女性が5人ばかり集まっていた。彼の視線に気がついて、彼女達は決まり悪そうに解散した。シオドアはパソコンに向き直った。
 呪いの絵? 壁画なんてあったっけ? そんな物を遺跡から持ち出したら、国際問題だろう。セルバ共和国だったら大統領警護隊文化保護担当部がすっ飛んで来る。
 懐かしいセルバ人達を思い出したシオドアの胸に、何かが引っかかった。
 ジョーンズは、博物館で何に触れた? 展示物に無闇に触れるような無神経な男じゃない筈だ。彼が触れたのは、売店の・・・
 シオドアはいきなり立ち上がった。



笛の音 5

  月曜日の朝、デイヴィッド・ジョーンズは出勤して来なかった。シオドアは昼休みに電話をしてやろうと思いつつ、深く考えないで助手達の研究の手伝いをいつも通りにした。助手仲間も、ジョーンズが無断欠勤するのは珍しいね、と言いつつ、その時点では寝過ごしたのではないか、とか風邪でもひいたのでは、と軽く考えていた。
 午前11時頃になって、所長のワイズマンがシオドアの研究室を訪れた。

「テオ、ちょっと来てくれないか。」

 なんだか怖い顔をしていたので、シオドアは日曜日に護衛を付けずに外出したことを叱られるのかと思いながら、彼について所長室に行った。秘書がいる小部屋を通り、奥の執務室に入ると、ワイズマンは自分でドアを閉めた。机の向こう側に座って、開口一番、こう言った。

「デイヴィッド・ジョーンズが傷害事件を起こした。」
「えっ!」

 シオドアはびっくりした。温和な人柄の遺伝子学者と暴力沙汰が頭の中で結びつかない。

「何時です? 何処で?」

 前日、博物館を出てお昼を一緒に食べてから別れて、それっきりジョーンズと会っていない。ワイズマンが彼の目を探るように見た。

「基地の守衛が言うには、君とジョーンズは昨日の朝、一緒に出かけたそうだね。」
「はい。ジョーンズが面白い博物館を友人から教わったので見学に行こうと誘ってくれたんです。基地の近くなので護衛の必要はないと思い、ジョーンズの車で出かけました。」
「帰りは?」
「博物館を出て、近所のハンバーガー屋で昼食を取り、別れました。俺はタクシーで帰りました。」
「君の帰還は守衛が証言している。ジョーンズは帰らなかった。何処へ行ったか知らないか? 行き先を思い当たらないか?」
「いいえ・・・彼は博物館を教えてくれた友人の家に立ち寄ると言いましたが、それが何処かは聞いていません。」

 シオドアはふと疑問を感じた。こう言う時は、警察が先に質問するだろう。ワイズマンは警察をこの研究所に入れたくないのだ。軍の施設だから市警は入って来られない。軍の憲兵とか、その手の司法を扱う部署が来ても良さそうなものだが、ワイズマンはそれも好まないのだ。ここは国家機密を扱う研究施設だ。だからシオドアと口裏を合わせておこうと事前に所長自ら質問しているに違いない。

「デイヴィッドはどんな事件を起こしたんです?」

 シオドアの質問に、ワイズマンが妙な表情になった。

「私にも訳がわからんのだ。」

 彼は警察が軍を通して寄越した情報だ、と前置きして語った。
 デイヴィッド・ジョーンズは昨夜8時頃、基地から車で1時間ほどの街にあるゲームセンターに現れた。真ん中をくり抜いた白いシーツを頭からすっぽり被って身にまとい、頭にアルミフォイルで作った冠を被っていた。顔は真っ白に絵の具を塗りたくっていたので、ゲームセンターで遊んでいた若者達は「変なおっさんが来た」と思ったそうだ。ジョーンズはそれから小一時間ほど店内を彷徨いていた。店の用心棒が観察していたが、特にドラッグでラリっている様に見えず、酔っ払っている様にも見えなかった。しっかりした足取りで歩いて、ゲームに興じる少年達を眺めて回っていた。それでもシーツの下に何か物騒な物を隠しているかも知れないと、用心棒は少し距離を置いて彼の後ろをついて歩いた。
 ハンマーゲームをしている少年のグループの近くにジョーンズが来た時、少年の1人が高得点を叩き出した。少年達が騒いでいると、ジョーンズが話しかけ、いきなり勝者の胸にナイフを突き刺したと言う。

「どうして?」

 思わずシオドアはワイズマンに問いかけた。ワイズマンも答えを知らない。彼は肩をすくめた。

「警察が目撃者達から集めた証言によると、ジョーンズは『勝者の心臓を捧げよ』と叫んでいたそうだ。」

 シオドアは頭を抱えた。それは何処かで読んだことがあるぞ。昨日・・・。
 彼は顔を上げてワイズマンを見た。

「マヤの儀式です。」
「はぁ?」
「昨日、ジョーンズと中南米の美術品を展示する博物館に行ったんです。マヤ遺跡のコーナーで、説明板にその様なことが書いてありました。古代のマヤでは、サッカーの試合をして、勝者が名誉として心臓を神に捧げ、豊穣を祈願したと。」

 ワイズマンはポカンと口を開けてシオドアを見返した。シオドアもそれ以上何も考えられなかった。ジョーンズが古代の儀式を再現したくなったとも思えない。あの温和な男に一体何が起こったのだ?

「それで・・・刺された少年の容体は?」
「良くない。集中治療室で加療中だが、心臓付近を刺されているから・・・」

 ワイズマンは机の面を見ながら呟いた。

「ドラッグだろうな・・・南米が絡むと碌なことが起きん。」


笛の音 4

 「テオ、今日は遊びに行きましょう。」

 ある日曜日、朝食を取りに出かけたカフェで出会ったデイヴィッド・ジョーンズがシオドアに誘いをかけた。

「何処へ?」
「博物館です。友達が中南米の古美術を収集している私立の小さな博物館を見つけたんです。それが結構珍しい物を展示しているって言うんで、見に行こうと思うんです。」

 シオドアは古美術に興味がなかったが、基地の外に出られるのだと思い直し、ジョーンズの誘いに乗った。彼にはケビン・シュライプマイヤーと言う屈強なボディガードが付けられていたが、近場の外出なら届けは不要だとジョーンズが言ったので、朝食が終わると2人はそのままジョーンズの車で出かけた。
 メルカトル博物館は平凡な鉄筋コンクリートのビルだった。入り口でチケットを買い、その場で半券を切られた。中は薄暗く、ガラスケースや剥き出しのテーブルの上に本物なのか偽物なのかわからない石像や焼き物の壺、人型、石盤などが無秩序に並べられていた。それでも体裁は整っていて、出土した国別に展示されているのだった。
 シオドアとジョーンズはそれぞれの興味の度合いで見て歩く速度が違い、ちょっとずつ離れた。ジョーンズがメキシコのアステカ文明の遺物と表示された陶器類を眺めている間に、シオドアはセルバ共和国のコーナーを発見した。北米では殆ど知られていない小国だ。無視されていると言っても過言ではない。だからと言う訳ではないが、博物館の創設者はコーナーの入り口にセルバ共和国の説明をそこそこ詳細に書いたプレートを設置していた。
 説明書の前半は、現在のセルバ共和国の人口や産業、宗教はほぼ100パーセントの国民がカトリックで、東海岸地帯と西部の山岳地帯・太平洋岸地域で貧富の差が大きいことが書かれていた。ところが、後半の文化の箇所になると、ちょっと不思議なことが記述されていた。
 ほぼ100パーセントの国民がカトリックを信仰していると前半に書いておきながら、この説明書の作者は、後半で多くの国民が古代からの土着信仰を今も生活の基盤にしていると言うのだった。

ーーセルバ共和国の住民の97パーセントは先住民”ヴェルデ・ティエラ(地の緑)”族、またはヴェルデ・ティエラと白人のメスティーソである。残りの3パーセントはアフリカ系の混血と白人からなる。ヴェルデ・ティエラ族には”ヴェルデ・シエロ”と言う古代の神々を崇拝する信仰が現代も残っており、生活の中にいくつかの儀式や禁忌が見られる。首都グラダ・シティの中央に聳え立つ”曙のピラミッド”は”ヴェルデ・シエロ”が築いたと伝えられるもので、建造年は不詳。前述の”ヴェルデ・シエロ”信仰の為に現在も外国人の立ち入りが禁じられている為に学術的調査は未だされていない。ママコナと呼ばれる女性が巫女として祭祀を執り行うと言われているが、それを神官以外の人間が実際に見ることも禁じられている。”ヴェルデ・シエロ”はセルバ共和国の密林地帯や西部の乾燥地帯に残されている遺跡で神像の形で祀られている。その姿は人間だが頭部に翼がある奇妙な形状をしている。また半人半獣の姿の彫像なども見受けられる。この神様は中米の他の国では見られない大変珍しいものだが、未だ生きている土着信仰故に考古学的研究も手付かずである。

 頭部に翼だって? シオドアはもう一度説明板を読み返した。そして展示されている土人形の様な神像を眺めた。風化して鮮明ではないが目鼻口がある頭部の左右両側に小さい翼状の突起がある。ギリシア神話の翼付き兜を被った神様の様だ。
 普通でない前頭葉形成の遺伝子情報。シオドアは想像してみた。頭から羽根が生えた人々が暮らしている古代の町。
 ダメだ、想像出来ない。頭に翼がある意味はなんだ? そんな物が頭に生えていたら邪魔なだけじゃないか。だが・・・待てよ。
 ”翼”が羽根ではなく、超能力を表しているのだとしたら? 或いは優れた計算能力を持つ頭脳とか。これは、被験者7438・F・24・セルバと同じ遺伝子を持っている人間を表すとしたら?
 シオドアは首を振った。違う。俺は超能力者じゃない。普通の人間より頭が良いと言うだけだ。”ヴェルデ・シエロ”だってそうだったんじゃないか? 優れた知恵と計算能力で天文学知識を高め、住民に神様の宣託を行ったり、医術を施していたのだ。尊敬を集め、当時は神様の様に崇められたのだろう。
 シオドアはロビーに出た。長椅子に座って休憩していると、2階のインカを中心としたアンデス地方のコーナーを見学していたジョーンズが階段を下りてきた。

「疲れたんですか、テオ?」

 気遣ってくれる。シオドアも笑顔で首を振った。

「否、古代の神様ってどんな人々だったのかなぁって考えていたんだよ。」
「宇宙から来たエイリアンとか、地底から上がってきた異人類とか・・・」

 ジョーンズが可笑しそうに笑った。実際、そんな風な方向へ持っていく研究者もいるのだ。だから考古学は面白いんです、と遺伝子学者らしくないコメントをジョーンズは言った。
 シオドアはふと思いついて、彼をセルバ共和国のコーナーへ引っ張って行き、例の説明板を見せた。ジョーンズは興味深げに読んでいたが、シオドアほどの興奮を得た様子はなかった。被験者7438・F・24・セルバの遺伝子情報を見ていないのだから、当たり前だ。

「きっとセルバ共和国の神様は頭がずば抜けて良かったんでしょうね。」

とジョーンズは単純な感想を述べたに過ぎなかった。
 帰りかけて、2人はロビーの隅に売店を見つけた。博物館の所有者が書いた著書や、遺跡の写真集の他に現地で買い集めた小物類、旅行社のパンフレットなどが置かれた簡単な店だ。売れているように思えなかったが、ジョーンズが動物を象った土笛を1個購入した。マヤの遺物コーナーにあったものと似ていたが、シオドアはお金を出して買う価値があるとも思えなかった。それに、その笛は不快な臭いを放っていた。彼は同じ型の笛を手にとって見た。それは臭わない。ジョーンズが選んだものだけが、嫌な臭いがする。

「こっちにすれば?」
「否、これが良いです。」

 ジョーンズには臭わないのだろうか。たった2ドルの土の笛だ、とシオドアもそれにこだわるのを止めた。


 

2021/06/17

笛の音 3

  パソコンデータの中には、彼が最後に見たものが入っていた。出かける前にロックした筈だったが、彼の行方不明が騒動になった時に、研究所が強引に解除したのだ。そして今はダブスンが設定したパスワードで開く。アクセスログを見たら、直近の1ヶ月は誰も見ていなかったので、シオドアはもう彼女には用がないだろうと判断した。自分で新たなパスワードを設定した。
 血液のD N Aデータは243人分あった。エンジェル鉱石は張り切って労働者の血液を販売したのだ。健康診断の結果はとっくに出ているだろうから、シオドアは病歴などは飛ばした。過去の彼が一番多く見ていたのは、7438・F・24・セルバ とタグを付けられた血液だった。セルバ共和国の女性で24歳、識別番号7438と言うことか、と彼はタグを読んだ。この女性のDN Aの何処が彼の興味を引いたのか。彼はゲノム表を読み始めた。彼女はセルバ共和国の先住民で、髪は黒、目も黒、肌は赤銅色、身長はそんなに高くない。D N Aしかないので測定出来ないが、長身になる因子ではなく、小柄で、太ってもいない。鉱山で働くには丁度良い体格なのだろうとシオドアは思った。筋肉もしっかり成長する因子を持っている。少しばかり脊椎に歪みがある。そう言う遺伝子だ。実際はどの程度症状が出ているのか不明。鉱山の労働に支障がない程度なのだろう。
 ここまでは至って普通の人間だった。だが、脳の形成に関する部分まで解析して、シオドアは画面をじっと見つめてしまった。前頭葉の組織を作る情報が、何か違う。彼は他の被験者のD N Aを数件出して比較した。被験者7438・F・24・セルバは他の労働者と脳の組織構造が違うことになっている。脳の病気なのか? それとも何か想像つかないことがあるのか? 彼は試しに彼自身のD N Aを出してみた。前頭葉形成の情報を呼び出して、現れた結果に愕然とした。
 シオドア・ハーストの前頭葉形成情報を表すD N Aは、被験者7438・F・24・セルバと極似していた。
 シオドアは画面から目を逸らし、暫く空を眺めた。ダブスンもエルネストも、彼は遺伝子組み替えで作られた人間だと言った。普通の人間よりも遥かに優秀な頭脳を持って生まれたのだ、と。それがこのことだろうか? 
 彼はアリアナ・オズボーンとエルネスト・ゲイルのD N Aも引っ張り出した。彼等のものは、少し違っていた。優秀な脳と言う点ではほぼ同じだ。しかし、この前頭葉の異質な情報は、アリアナにもエルネストにもなかった。これは何だ? この被験者の女性は、他の人間とどう違うんだ? 
 シオドアは、ふと気がついた。俺はこの人を探しに行ったに違いない。実物を見たいと思ったから? 否、そうじゃない。俺は・・・俺のルーツになるかも知れない遺伝子を持っている人に会いたかったんだ・・・。
 エルネストは、自分達の遺伝子はアメリカの大学で学ぶ優秀な学生達から集められたものだ、と言った。シオドアはそれらの遺伝子提供者に会いたいなどと思ったことがなかった。何処にでもいる天才達にわざわざ会いに行く必要などない。彼等は学会の情報機関誌やテレビや企業のウェブサイトに写真が出ている。プロフィールも公開されているもので十分だ。親と思ったことは一度もない。アリアナだってエルネストだって同じ思いだろう。
 だが、この中米の鉱山で働いている女性は、多分俺の”材料”なんかじゃない。だけど同じ遺伝子を持っているんだ。
 記憶を失う前のシオドア・ハーストが誰にも中米旅行の目的を言わなかったのは、彼の極めてプライベイトな行動だったからだ。仲間を見つけた気分を、研究所の人々は決して理解してくれなかっただろう。
 この特異な遺伝子は、セルバ人にしかないものなのか? セルバ人にはどんな特徴がある? ゴンザレスもリコもエル・ティティの住民も、皆んな普通の人間じゃないか。風変わりだったのは・・・
 シオドアは3人の大統領警護隊の将校を脳裏に浮かべた。リコが怖がっていた。バルデスも逆らわなかった。アンゲルス邸の私兵達も彼等の行動に何の疑問も抱かずに従っていた。純粋の血を持つセルバ先住民? 呪いで病気になった女性を助けたケツァル少佐。暗がりで読書をしていたロホ中尉。彼は”神様の荒魂”を麻袋に入れて歩いていたっけ。アスルは片手を前に出して門衛を従わせた。あれは、従えと言う合図ではなく、従わせるための動作そのものだったのでは?
 もう一度セルバ共和国に行って、被験者7438・F・24・セルバを探さなければ。
 ドアのブザーが鳴った。助手の1人が応対に出た。ダブスンだ。他人の研究室には博士と言えども中の人間に開けてもらわなければ入れない。その隙にシオドアはセルバ人のファイルを素早く閉じて別のファイルにすり替えた。

「今日は喧嘩をしに来たんじゃないわ。」

とダブスンが言った。彼女は新聞をシオドアの机の上に投げ出した。ヒシパニック系の新聞で、スペイン語で書かれている。

「私のスペイン語が出来る助手が教えてくれたのよ。セルバ共和国のエンジェル鉱石の経営者が交代したそうよ。ミカエル・アンゲルスが亡くなって、No.2のアントニオ・バルデスが経営権と会社の所有権を引き継いだ。今迄はスペイン系のアンゲルスが色々と研究材料の調達に便宜を図ってくれたけど、バルデスは現地の人間だから、交渉が厄介になるかもね。」

 現地の人間か。ダブスンが部屋から出ていくと、シオドアは新聞を手に取った。バルデスは大統領警護隊を警戒していた。セルバ先住民を恐れている様子だった。バルデスだってメスティーソだ。セルバ人に変わりない。だが純血種には何かがあるのだ。彼の主人だったアンゲルスは健康診断に託けて労働者の血液を北米の研究所に売っていた。自国の秘密を知っているバルデスにとって、それは許し難い行為ではなかったか。下手をすれば自滅しかねない自国の先祖への冒涜と思えた筈だ。だからバルデスは、故美術品密売組織のロザナ・ロハスからネズミの神像を買い取って、主人の寝室に置いたのだ。神様を汚せば呪いが降りかかると知っていた。彼の企は成功してアンゲルスは死んだ。恐らく、マリア・アルメイダが雇われる前に死んでいた。だがバルデスはネズミの神像の威力に恐怖し、回収出来なかった。主人の遺骸も運び出せないから、主人の死亡を公表して財産と実権を乗っ取ることも出来ない。困り果てていたところに、運よく記憶喪失の男が大統領警護隊と共にやって来た。バルデスは愛想良くケツァル少佐を邸に招き、まんまとお祓いと神像回収をさせたのだ。
 俺達は利用されたんだ。シオドアはいきなり笑い出し、研究室の助手達を不安にさせた。



笛の音 2

  翌週からエルネストに連れられてシオドアは”研究所”へ通った。”研究所”は大きな軍事基地の敷地内にあり、軍関係者の住宅地やショッピングモールや娯楽施設も合ったので一つの町の様だ。シオドアやアリアナ、エルネストが住むアパートもその中に建っているのだ。ひょっとすると、とシオドアは思った。俺は本当の外の世界を知らないで生きてきたんじゃないのか? 同じ様に遺伝子組み替えで生まれた研究者達もこの中で暮らしているのだ。外の大学や企業に雇われた連中の方が幸せな筈だ、と彼は思った。自由だから、好きなことをして生きていける。彼等が実際は常に監視されていることを知ったのはずっと後のことだった。
 ”研究所”でシオドアは彼の研究室に案内され、助手達に紹介された。皆んな「ハースト博士は事故に遭って記憶喪失だ」と説明を受けており、同情の目で彼を見た。何を思い出せる訳でもなかったが、残されていた研究資料を見たら、内容は理解出来た。ゲノムの解析で頭を抱えている助手の後ろを通りかかった彼が、スラスラと問題点を指摘して解決法を教えると、彼等は一瞬彼が元に戻ったかと喜んだ。しかし、シオドアには「わかった」だけで、それを何の為にしているのか、何をどうしようとしているのか、研究の未来に関してはわからなかった。だから・・・
 シオドア・ハーストは、彼の研究室で彼の助手達の助手をして日々を過ごした。
 共同研究者だと言うメアリー・スー・ダブスンが頻繁にやって来て、彼にゲノムの解析やら数式の構築やら解析やらをやらせたが、シオドア自身の現状に変化を与えることは出来なかった。ダブスンは彼のそんな状況に苛立って、記憶喪失は我儘から来ているのではないか、と言い、シオドアは彼女と激しい口論になってしまった。
 助手達に引き離され、ダブスンは彼女の研究室へ引き揚げて行った。シオドアが彼の席に戻り、溜息をついていると、デイヴィッド・ジョーンズと言う助手がコーヒーを淹れて持って来てくれた。この男は気の良い男で、細かいところに心配りが出来る優しい人間だった。他の助手達からも好かれており、シオドアも少しだけ彼に気を許せた。

「貴方とダブスンの仲は、貴方が記憶を失う前とちっとも変わりませんね。」

と言ってジョーンズが笑った。シオドアはコーヒーを啜って、砂糖やミルクの量が彼の好みの具合であることに感心しながら尋ねた。

「俺は昔も彼女と喧嘩していたのかい?」
「ええ、毎日でしたよ。根っから馬が合わないって、貴方は仰ってました。」

 ジョーンズはシオドアより5歳年上だが、タメ口は利かなかった。

「俺は我儘だって、顔を合わせる度にダブスンが言ってるが、そうだったの?」

 助手達が顔を見合わせた。その意味を敏感にシオドアは感じ取った。

「そうだったんだね。怒らないから、正直に言ってくれないか。記憶を失う前の俺はどんな人間だった? エルネストみたいに天才風を吹かせる鼻持ちならない嫌な若造だったんじゃない? 気に入らないことがあったら、さっさと逃げ出して自分で解決策を講じようともしない卑怯者だったとか。誰かを好きになったことがなくて、だけど世界中が自分に平伏して言うことを聞くと信じる大馬鹿者だったとか。他人を思い遣ることもなくて、尽くしてもらうことが当たり前だと考えていた最低なヤツだったんだろ?」

 反論も否定もなかった。シオドアはコーヒーカップを机に置いて、頭を抱えて俯いた。

「そうだったんだ。だから、誰も探しに来なかったんだ。俺なんか死んじまった方が良いって思ってた人がいたんだ。」
「そんなことはないですよ!」

 ジョーンズが怒鳴った。 助手達も首を振った。

「貴方はこの研究所では最重要事項の研究者でした。上層部は必死で貴方を探していました。」
「私も中米の友人達からアメリカ人旅行者が関係する情報を可能な限り集めました。」
「ワイズマン所長もライアン博士も、何度も政府の外交筋に働きかけていました。」

 でも・・・と1人が呟いた。

「セルバ共和国政府は動いてくれなかったんです。」
「どうして?」
「わかりません。」
「貴方のあの国への渡航理由が不明瞭だと言う理由で、犯罪に関係しているのではないかと言いがかりをつけられたとか・・・」

 シオドアは顔を上げて助手達を見た。

「渡航理由? 俺は何をしにセルバ共和国へ行ったんだ?」

 助手達が互いの目を見交わした。だが、これは大統領警護隊の隊員達が目を見合わせた時と全く雰囲気が違った。警護隊の連中は互いの任務の確認を目でしていた。シオドアにはそう見えた。彼の助手達は、誰が話をするか、役目を押し付け合っていた。
 結局、ジョーンズがその役目を引き受けた。

「僕達は・・・貴方も含めて、この部屋の科学者達は、中南米のインディオのD N Aを分析していました。奥地の部族には他の村との婚姻が少なくて古代からの遺伝子情報が残っている事例が多くあります。人類の原型みたいなものです。それと、ダブスン博士が開発する能力発展促進剤を投与した人のD N Aがどう異なるかを比較していました。」

 シオドアの脳裏に、アントニオ・バルデスの声が蘇った。純血種のインディオを欲しがっている。 そう言うことなのか? 

「その、研究に使ったインディオのD N Aってのは、どうやって集めたんだ?」
「簡単ですよ。大企業で現地に鉱山なんかの地下資源の採掘場や農園を持っている会社に依頼するんです。そしたら企業の方で、従業員の健康診断をやってくれます。採血もしますから、それを買い取るんです。ちゃんと従業員の健康管理にもなります。合法に買い取っているんです。密輸ではありません。」
「鉱山って・・・」

 シオドアは試しに訊いてみた。

「セルバ共和国のオルガ・グランデも?」
「エンジェル鉱石って会社ですね。エンジェルは、スペイン語ではアンゲルスって発音でしたっけ。」
「それで、俺はわざわざその鉱山へ出かけて行ったのか?」

 ジョーンズも他の助手達も困った顔をした。

「貴方は何処へ行くとは告げていませんでした。エンジェル鉱石から買い取った血液サンプルをいくつか分析しているうちに、何故か大興奮して、血液の所有者の人間に会いたいと言い出したんです。」
「貴方はエンジェル鉱石に電話をかけて、労働者をアメリカへ寄越して欲しいと要請しました。」
「それは・・・」

 シオドアは苦笑した。

「我儘もいいところだな。」
「エンジェル鉱石からの回答は、血液採取した労働者は下請けの人間で、身元を調べるのに時間がかかるとのことでした。」
「あっちの国の”時間がかかる”は”やらない”と同じ意味です。」

 助手達の間で失笑が漏れた。シオドアも理解した。実直なゴンザレス署長だって面倒なことを頼まれたら、「時間がかかる」と断っていた。

「それで、俺は自分でその労働者を探しに行ったんだな?」
「そうです。この部屋の外には理由を言うな、と仰って。」
「ダブスンにも?」
「彼女には絶対に言うな、と。」

 研究を盗まれると思ったのかな、とシオドアは自分で呟いた。気がつくと、助手達が優しい眼差しで彼を見ていた。

「貴方が向こうでどんな目に遭われたのか、わかりませんが、無事に帰ってこられて良かったです。」
「こんなことを言うのは失礼だと承知の上で言わせてもらいます。貴方は人が変わった。すごく感じの良い人になって戻ってきた。」

 彼等は口々に「お帰り、テオ。」と言って彼の肩に手を載せたり、座っている彼を屈んでハグしたりして、やがてそれぞれの研究に戻って行った。
 シオドアは自分のパソコンを見た。彼を興奮させたセルバ人労働者のD N Aデータは、この中に入っているのだろうか。

 


 

笛の音 1

 彼はシオドア・ハーストに戻った。彼がダブスンに連れられて研究所に帰ると、既に知らせを受けていた人々が温かく出迎えてくれた。記憶喪失の彼をまるで腫れ物に触るように優しく労ってくれた。エルネスト・ゲイルと名乗る、色白でぽっちゃりした体型の眼鏡をかけた若い男が、彼の”弟”だと名乗った。

「弟と言っても、基礎の卵細胞が同じ女性のものだったと言うだけなんだよ。 僕等はここで優秀な頭脳を持つ選ばれた人々の遺伝子を抽出して組み合わせて生まれた特別な人間なんだ。超が付く特別優秀な脳の持ち主なんだよ。」

 エルネストはシオドアを住居だった豪華なアパートに案内して、記憶を失う前の彼がどんな育ち方をしたのか、どのように生活していたのかを説明した。シオドアは指紋登録された鍵や、手を振るだけで点灯する照明や、一人暮らしなのにキングサイズのベッドや、住宅展示場のモデルルームみたいにピカピカに掃除が行き届いたキッチンやバスルームを眺めた。何も思い出せなかった。クローゼットの中の衣装も靴も、書棚の書籍類も心に響かない。だが、少し気になることを見つけた。

「書類棚を誰かが触った跡があるな。」
「ああ・・・」

 エルネストが意味深に微笑んだ。

「君の不在が長かったので、君が研究していた資料を研究所に移動させたんだよ。不用心だからね。2、3日すれば職場へ君を連れて行く。そこで何か思い出してくれたら良いけど。」
「俺は何を研究していたんだ?」
「人間の遺伝子だ。潜在能力を引き出す為に眠っている遺伝子の活性化を促進させる薬剤などの研究だ。」
「君も同じ仕事をしていた?」
「うん。僕は君が作り出す薬の実用化の研究だ。」
「潜在能力と言うのは、つまり・・・」

 シオドアは考えた。何も浮かんでこない。

「アスリートの能力ってことかな? それとも芸術家?」
「そんなところかな。」

 エルネストが曖昧に笑った。何か重要なことをはぐらかされている感じで、シオドアはこの男に好感が持てなかった。
 女性が1人部屋にやって来た。若くて少し赤みがかったブロンドの綺麗な人だった。彼女はシオドアをハグして頬にキスをしてくれたが、やはり思い出せなかった。

「アリアナ・オズボーン。僕らの”妹”。」
「すると、この人も遺伝子組み替え人間?」

 アリアナがちょっと顔を曇らせた。多分、そんな風に言われるのが嫌なのだ、とシオドアは感じた。しかし彼女は否定出来ない。事実なのだろう。エルネストが説明を続けた。

「僕等の仲間は20人ほどいるんだ。でも優秀なのは、今ここにいる3人だけ。他の子供は皆んな幼稚園の頃になると科学者達の家庭に養子に出された。教育は僕等と一緒に受けたけど、研究所で仕事を貰えたのは数人だ。あとは大学や外の機関で働いている。」
「俺達は誰かの養子じゃないの?」
「僕等は研究所の子供だ。」

 エルネストが胸を張った。アリアナが言った。

「強いて言えば、ジョゼフ・ライアン博士が私達の父親代わりね。彼が私達をどう教育するか、何をさせるかを決めたのよ。」

 父親代わり? シオドアの脳裏に浮かんだのは、ゴンザレス署長の豪快な笑顔だった。見ず知らずの男を自宅で世話をして、部下達と一緒に汗水流して小さな町の治安の為に昼夜働いているあの男。
 涙が出そうになって、シオドアは慌てて話題を変えた。

「アリアナ、君は何をしているの?」
「私は遺伝病の研究よ。病気の因子は発見されているけれど、それがどうして病気を引き起こす因子になるのか、そう言うことを研究しているの。」
「治療の為だね?」
「・・・ええ。」

 少し間があった。それもシオドアは気に入らなかった。恐らく以前の俺は全て知っていた。だが思い出したくないことなんだ。凄く嫌なこと。だから、コイツらも現在の俺には言わないんだ。
 浮かない顔をしていることは、エルネストにもアリアナにもわかった。

「君は病気なんだよ。」

とエルネストが優しく言った。

「行方不明になっていた間のことを聞かせてくれないかな。どんな人達と暮らしていたんだい?」

 コイツらには言いたくない。突然、シオドアはそう感じた。大切な思い出を汚されるんじゃないか、そんな考えが頭を掠めた。研究所の人々に、セルバ共和国で会った人々、見たこと聞いたこと、一切合切喋ってはならない。
 シオドアは寝室に歩き出した。

「くたびれたから、もう寝るよ。」

 エルネストとアリアナが顔を見合わせた。どちらともなく肩をすくめ合った。

「愛想がないところは、昔のまんまね。」

とアリアナが言った。シオドアは振り返らずにドアを閉めた。


第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...