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2021/10/11

第3部 潜む者  19

  その日が金曜日だと思い出したのは、車がそろそろグラダ・シティへ入ろうとする頃だった。既に夕食時間になっていた。そしてエル・ティティへ行くバスの時間も迫っていた。これは乗れそうにないと判断したテオは、ケツァル少佐がギャラガ少尉に休憩の為にドライブインに入るよう指示した時に、決意した。車がドライブインの駐車場で止まると、彼は降りる前にゴンザレスに電話をかけた。
 週明けの試験のための問題がまだ出来上がっていないこと、臨時の急用で国の南部へ出かけていたこと、バスに乗り遅れたことを正直に話し、今週末は帰れないと告げた。ゴンザレスはちょっとがっかりした様だが、了承してくれた。そしてテオが「ちょっと珍しい体験をした」と言うと、次回の帰省の時に聞かせてくれることを楽しみにしている、と言った。
 電話を終えると、車外で待っていた少佐が署長には悪いことをしたと言った。テオに謝ったのではなく、ゴンザレスに謝罪を述べたのだ。
 ドライブインで簡単な夕食を済ませ、最後はテオが運転した。門限までまだ時間はあったが、一番最初にギャラガを大統領警護隊本部前で下ろした。

「明日は軍事訓練ですから、いつもの時間にいつもの場所に集合です。」

 少佐は出張で疲れている部下に情け容赦なく翌日の予定を告げた。テオが彼女に確認した。

「土曜日の軍事訓練は任意の参加だったよな?」
「そうですが、それが何か?」

 彼はギャラガに声をかけた。

「疲れが残っていたら休んでも良い筈だ。」

 ギャラガが少佐を見た。少佐は肩をすくめてテオに言った。

「参加するか休むかはアンドレの自由です。」
「明日の訓練は何処でするんだ?」
「明日決めます。」

 彼女はギャラガを振り返った。

「昨日と今日の報告書は週明けに提出しなさい。期日は月曜日の1600です。」
「承知しました。お休みなさい。」

 ギャラガは敬礼して本部の通用門へ走り去った。
 テオはゆっくりと車を出した。

「君をアパートに届けて俺は歩いて帰る。歩きながら試験問題を考えるよ。」
「駄目です。」

と少佐がキッパリと言った。

「考え事をしながら夜道を歩くものではありません。貴方の家の前まで運転して下さい。そこから私は自分で運転して帰ります。」
「じゃぁ、そうする。」

 大統領警護隊本部からテオが住むマカレオ通りを通って少佐が住む西サン・ペドロ通りへ行くにはちょっと遠回りになる。しかし少佐は常にテオや部下の安全を第一に考えるのだ。彼はその心遣いを嬉しく思った。
 走り慣れた道を通り住宅地に入った。週末なので庭で宴会をしている家があったりして、夜遅くなっても賑やかだ。これなら不良ジャガーも出て来ないな、とテオは思った。
 自宅前に来ると、文化・教育省の職員駐車場に駐めておいた筈のテオの車が玄関前の駐車スペースに駐まっていた。テオは念のためにポケットを探った。

「家の鍵も車の鍵も俺のポケットにあるんだが・・・」
「そうですか、不思議ですね。」

と少佐が人ごとみたいに言った。テオは車を停めて、車外に出た。後部席から荷物を下ろしていると、少佐も降りてきた。

「今回は急な協力要請に応じていただいて、感謝します。」

と彼女が業務の終了として挨拶した。テオは微笑んだ。

「俺は滅多にない面白い体験をさせてもらって、感謝している。アスルと連絡が取れたら、俺が家賃を取ることにしたと伝えてくれないか。どうしても彼と同居したい訳じゃないが、彼が中尉に昇級する価値がある仕事をしていると認めている、と言ってくれ。」

 少佐が笑った。

「承知しました。彼も内心は喜んでいますよ。」

 彼女はテオの唇に「おやすみなさい」のキスをして車に乗り込んだ。

2021/10/10

第3部 潜む者  18

  ミーヤ遺跡とアンティオワカ遺跡の2箇所を任されてアスルは荷が重くないのだろうか? とテオは少し心配したが、本人は気にしていない様子だった。それによく考えたら、広いアンティオワカ遺跡に陸軍の警備兵だけが付いていて大統領警護隊がいないと言うのは可笑しいのだ。フランス隊に油断させておいて、実際はアスルがこっそり様子を伺っていたに違いない。
  少佐のベンツに荷物を積んでから、テオはアスルに昨夜の礼を言った。アスルは「仕事だ」といつもの様に無愛想に言ったが、きっと照れ臭かったに違いない。テオは予てから考えていたことを提案してみた。

「大統領警護隊の本部が君を中尉に引き上げたいと思っているのに君に固定の住所がないと言う理由で実現出来ていないと聞いたことがある。もし良ければ、登録の住所だけでも俺の家にしておかないか?」

 アスルが怪訝な表情で彼を見た。何か裏があるのかと疑っている様な目つきだったので、テオは苦笑した。

「家賃の請求なんてしないし、部屋が空いている。俺が予想するに、アリアナはセルバに戻って来るとしても、今の俺の家には住まない。セキュリティが甘いだろう? 彼女は一度恐ろしい目に遭っている。現在のカンクンのアパートも少佐の家並みの強力なセキュリティが売りなんだ。それに兄妹と言っても彼女と俺は血縁関係がない。同居しなきゃいけない理由がない。だから俺は居住場所に関して、彼女の自由にさせようと思っている。だから彼女の部屋は空いているんだ。君に自由に使って欲しい。もし誰かを泊めることになれば、君が使わなくても俺は君に必ずお伺いを立てる。」

 アスルはツンと顔を背けた。

「どこに住所を置こうが俺の勝手だ。」
「無理にとは言わないさ。君の自由だから。でも考えておいてくれ。」

 テオは車に乗り込んだ。帰りも後部席だった。少佐が運転席でギャラガが助手席だ。敬礼で見送るアスルと警備兵を後にして、ベンツは小道を走り、すぐにハイウェイに乗った。
 先刻の話を聞いていたのだろう、少佐が運転しながら尋ねた。

「アスルは貴方の家に今も泊まりに来るのですか?」
「スィ。10日程連泊することもあれば、今のように出張で数ヶ月来ない時もあるがね。朝飯作ってすぐ仕事に行くから、会話をする訳じゃない。」
「家賃を取りなさい。」
「しかし・・・」
「無料だと言ったら、却って寄り付かなくなりますよ。」
「そうか?」
「住所を置くと言うことは、そこに生活の基盤を置くと言う意味です。タダで住めるのはスラムか親の家だけです。家賃を払えと言えば、アスルはちゃんと貴方の家に住み着きますよ。」
「・・・変なヤツだな・・・」

 助手席でギャラガがクスクス笑った。子供時代をホームレスかスラムで暮らした男だ。

「クワコ少尉はプライドが高いんです、ドクトル。無料で住めと言われたら、逃げてしまいます。朝食の支度をするのは、家賃代わりですよ。」

 テオは少佐が彼の言葉を聞いてクスッと笑うのを見た。

「どうも俺はアスルの扱い方を間違えた様だ。」

と彼はぼやいた。前の席でガサガサと音がした。ギャラガが少佐に尋ねた。

「スルメを食べても良いですか? 一袋だけ開けて、3人で食べると言うのはどうです?」

 上官がすぐに返事をしなかったので、彼は言い訳した。

「この干したイカはガムみたいに噛むんです。眠気覚ましになります。」

 数秒間をおいて少佐が「許可します」と呟いた。ギャラガはグラシャスと言い、袋を開いた。後部席に体を向けて、テオに袋を差し出した。

「一つかみどうぞ。ただ指先がちょっと汚れるので気をつけて下さい。」
「グラシャス。」

 テオは初体験の食べ物を掴み取った。確かに指先に何か付着した様な感触があったが、目で見ても何もなかった。1本だけ口に入れてみた。想像したより硬かった。硬いので噛むと甘辛い味がした。焼いたイカの香ばしい味もした。

「あまり一度にたくさん食べないように。」

と少佐が注意した。

「人間には害はありませんが、ジャガーになった時は食べてはいけません。」
「それって・・・」

 テオは記憶を探った。

「生の頭足類だろう? これは加熱してあるし、ちょっと口が寂しい時にかじる程度だ。美味いぞ。」

 すると少佐がちょっとイラッとした声で言った。

「美味しいのは知っています。」

 彼女は前を向いたまま、ボソッと呟いた。

「食べ出すと止まらないのです。」


2021/10/09

第3部 潜む者  17

  昼前にアンティオワカ遺跡からケツァル少佐とギャラガ少尉が引き揚げてきた。憲兵隊はまだ奥地にいる様だ。少佐はアスルからチュパカブラ騒動の顛末の報告を受けると、彼女の方もアンティオワカでの成果を伝えた。フランス隊の盗掘は学者の犯行ではなく、彼等がヨーロッパから連れて来た学生の仕業だった。そして麻薬の方は作業員に混ざっていた密入国者のコロンビア人だった。
 テオとギャラガはテントの下で大人しく彼等の会話を聞いていた。実を言うと2人共寝不足で意識がぼんやりしてきていたのだ。それに気づいた少佐が時間制限を設けて早めのシエスタを宣言した。携行食で簡単な昼食を取って、彼等は1時間ばかり眠った。
 まだ太陽が中空にあるうちにシエスタは終了し、少佐はアスルにアンティオワカ遺跡発掘の中止命令が守られることを監視するよう命じた。

「学者達には気の毒ですが、1人でも不届き者が出ればその時点で発掘を中止させると言うのが我が国の法律ですから。」

と少佐がテオに説明した。テオは近くで彼女の言葉を殊勝な顔で聞いている日本人学者に気がついた。こんにちは、と知っている数少ない日本語で挨拶すると、向こうもこんにちはと返してくれた。

「当方の作業員からもチュパカブラ騒動の関係者が出ました。我々も中止しなければならないのでしょうか?」

 テオはケツァル少佐を見た。少佐が何か言う前に彼は弁護してみた。

「ミーヤ遺跡では盗掘はないよな? 麻薬組織の人間はいたが、作業員に紛れ込んでいただけだろう? 遺跡そのものを傷つけた訳じゃないと思うが?」

 少佐が何か言う前に、ギャラガが鼻をひくつかせた。

「何だろう? 良い匂いがする・・・」
「これかな?」

 とアスルがテーブルの上に置いてあったスルメの袋を手に取った。
 少佐が何か言う前に、ギャラガが叫んだ。

「あー、それ、知ってます! 美味しいヤツだ!」
「スルーメだってさ。」

とテオが言った。少佐が何か言う前に、日本人が言った。

「まだあります。差し上げますよ。」

 素早く自分達のテントへ立ち去ったので、少佐が首を振った。

「賄賂の要求に聞こえましたが・・・」
「そんなつもりは毛頭ない!」

とテオは言った。

「俺はまだそのスルーメを食べたことがないんだ。」
「スルーメじゃなくてスルメだ。」

とアスルが発音を訂正した。ギャラガはかつて陸軍にいた頃に先輩から分けてもらったことがあったので、味を知っていた。

「確か、干した魚でしたよね?」
「干したイカだ。」
「だから魚でしょ?」
「イカは魚類ではない。」

 そう言えばアスルは魚介類が好物なのだ、とテオは思い出した。
 日本人が新しいスルメの袋を4つ持って来た。最初にレディファーストで少佐に手渡された。少佐は気が進まなさそうな顔で受け取った。テオとアスルはその日2つ目のスルメをもらい、ギャラガは数年ぶりに干したスルメイカを手にした。

「発掘の件ですが・・・」

と少佐がやっと口に出した。その場にいた全員が彼女を見た。

「ミーヤ遺跡では盗掘の事実は確認出来ていませんし、チュパカブラ騒動に関わった人間は臨時雇用の作業員でした。従って、ミーヤ遺跡の発掘は続行許可します。」

 小さな遺跡の中に歓声が上がった。  

第3部 潜む者  16

  ミーヤ遺跡は本当にハイウェイから近かった。テオは鞄を担いで徒歩でアスルについて遺跡迄歩いた。アスルは朝食に食べたファストフード店のハッシュドポテトの油が古かったとブツブツ文句を言い、道中草むらの中に入って草をむしり食べたので、テオはちょっと驚いた。言葉に出さずに済んだが、内心「猫草じゃないのか?」と呟いてしまった。流石に猫草の様な効果はなく、アスルの腹具合が少しマシになっただけだった。
 半時間歩いて遺跡が見えて来た。確かに車があれば5分で来れただろう距離だ。遺跡の外に立っているテントも宿泊用と言うより休憩用の簡単な物で、作業員は近隣の村から来るバイトだった。陸軍の警備兵が5人いると聞いていたが、出迎えたのは2人だった。

「1時間前に憲兵隊が来て、3人を連れてアンティオワカへ行きました。」

と1人が報告した。アスルは頷いて了承を示し、来ている作業員と発掘隊を集めるようにと命じた。テオが何処の発掘隊かと尋ねると、日本だと言う答えだった。

「アンティオワカへ行きたかったらしいが、協力を申し込んだフランス隊に断られたんだと言っていた。フランス隊が断った理由はわかる。テメェらの悪行を日本人に見られたくなかったんだろ。」

 アスルがちょっと笑った。

「こっちも日本人を人質に取られずに済んで助かった。」

 テオは前日の大学駐車場での車上荒らしを思い出した。携帯電話を無造作に車の中に置きっ放しに出来る国があるのか、と思ったが、後で日系の学生に聞くと、日本でも車上荒らしはあるし、スマホを剥き出しで放置するなんてバカだ、と返された。
 時間に正確な国民性で、発掘隊と作業員は10分もしないうちに警備兵のテント前に集合した。彼等を前にして、アスルがチュパカブラ騒動の真相を語った。テオも体毛の検査結果をプリントアウトしたものを日本人の考古学者に見せた。彼等はグラフを見て、英語とスペイン語で書かれた解説を読んで納得した。通訳が作業員にもその用紙を回覧させた。
 コロンビア人のエド・ゴンボは知り合いが何人かいたが、彼等はゴンボの裏の顔を知らなかったと言った。真実なのか否か不明だが、作業員達は発掘作業を再開することに同意した。
 アスルが警備兵達と打ち合わせを始めたので、テオはテントの下に座って結果をグラダ・シティのロホに電話で伝えた。

ーーコロンビア人の麻薬密輸と繋がっていたんですか。

 電話の向こうでロホが呆れた様な声を出した。きっとアスルと少佐の作戦を知っていて、わざと驚いているのだ。テオは追及しないことにした。軍人に向かって民間人が作戦を前もって教えろと言う訳にいかない。

「ジャガーの方は進展があったかい?」
ーーノ、何も聞いていません。

 これも怪しいが、カルロ・ステファン大尉は古巣の友人に何もかも喋ったりしないだろう。

ーー今日帰れますか?
「そのつもりだが、何か用かい?」
ーー用事はありません。ただ皆出かけているので、寂しいだけですよ。

と言ってロホは笑った。

「アスルと一緒に帰るのは無理だろうけど、少佐が戻って来たら、拾ってもらうよ。」

 電話を終えてふと顔を上げると、アスルがそばに立っていた。テオに黄色い筋状の物体が詰まった袋を差し出した。何やら海の匂いがしたので海産物だろうと見当がついた。

「なんだい?」
「日本人がくれた。スルメだ。」
「はぁ?」
「干したイカだ。」

 アスルはボソッと呟いた。

「これは旨いんだ。」

 テオは有り難くいただいて、袋を鞄にしまった。アスルは彼用にもう一袋もらっているようだ。

「ジャガーがどうした?」

と彼が尋ねた。テオは彼にジャガー騒動を誰も話していないのだと気がついた。

「3日前に住宅街でジャガーが目撃されて、ちょっとした騒ぎになったんだ。大統領警護隊が遊撃班を出してジャガーの行方を探しているところさ。恐らくマナーを知らないヤツが変身したんだろうってカルロは考えている。」
「ステファン大尉が捜査責任者か?」
「スィ。デルガド少尉と2人で足跡や臭いを辿っているんだが、どうも俺の家の近所で消えたみたいなんだ。だから俺も気になっている。」

 アスルはちょっと考え込んだ。彼が慕っている先輩の相棒には特に関心はないようだ。

「騒ぎになっていると言うことは、世間に知られていると言う意味だな?」
「スィ。警察も探しているし、大学でも学生達は知っていた。実は少佐も散歩中に気配の接近を感じたそうだ。目で見た訳ではないがね。」

 アスルが唇を噛み締めて遠くを見る表情になった。彼の考えていることはわかった。世間に知られてしまったと言うことは、一族を危険に曝していると言う意味だ。”砂の民”が必ず動く。マナー違反のジャガーを何処かで密かに殺害してしまうだろう。

「俺たちは関わらない。貴方も絶対にそいつと接触するな。そいつの存在は、チュパカブラより危険だ。」


第3部 潜む者  15

 大統領警護隊からの通報を受けて国境警備に配備されているセルバ共和国陸軍の憲兵隊がホテルにやって来たのは明け方だった。早朝の出動に機嫌が悪かったので、憲兵達はコロンビア人のゴンボを手荒に扱った。テオがゴンボの牙型の槍の穂先に古い血液が付着しているのを見つけて、採取した。

「血液のDNAを分析したら、こいつが発掘作業員を刺した犯人だってわかる。」

と彼が言うと、憲兵達は喜んで任せてくれた。
 憲兵と話をしていたアスルが戻って来たので、テオは訊いてみた。

「盗掘だけでこんな手の込んだ犯行をするとは信じられない。何か他に目的があるんじゃないのか?」

 アスルが頷いた。

「盗掘はフランス人が行ったことだ。コロンビア人はコカインを密輸している。アンティオワカ遺跡の盗掘が発覚して大統領警護隊が発掘を中止させると、遺跡は立ち入り禁止区域になる。」
「そこに麻薬を隠して配送センター代わりに使うってか?」
「遺跡管理の仕事を請け負う業者がコロンビア人の仲間だ。」

 アスルは憲兵隊をチラリと見た。

「後は彼等の仕事だ。大統領警護隊は遺跡に戻る。これから作業員達に働けと言わねばならない。」
「アンティオワカ遺跡の方は?」
「既に憲兵隊が向かった。少佐が発掘隊を制圧しているだろう。誰も逃亡していない筈だ。」

 ケツァル少佐は遺跡を一つ丸ごと結界の中に入れ、発掘隊に”操心”をかけて逃げないよう大人しくさせているのだろう。恐らくギャラガは遺跡の中の証拠物件を探している筈だ。
 テオは荷物を鞄に仕舞いながら、ふと気になることがあったので、また質問してしまった。

「あのコロンビア人は、この部屋をどうして知ったんだろう?」

 そんなの問題ない、とアスルは言いた気に肩をすくめた。

「俺がフロントに客が来たら教えてやれと言っておいた。」

 つまり”操心”をかけたのだ。真夜中の客など滅多にいない。アスルはミーヤ遺跡から町までゴンボが尾行していることに気づいていたのだ。ゴンボはレストランの外でアスルが出て来るのを待ち、ホテルまでつけた。ケツァル少佐とギャラガが車でどこへ向かったのか知らなかった筈だ。知っていればアスル暗殺など後回しでアンティオワカの仲間に知らせようと走っただろう。
 テオはアスルが1人で戦うのをまだ見たことがない。以前要塞みたいな麻薬シンジケートのアジトにアスルとステファン大尉が2人だけで突入したことがあった。アスルが素手で10人と格闘して倒したと言う武勇伝が生まれた。だが目撃したのは麻薬シンジケートの連中とステファン大尉だけだ。セルバの刑務所の受刑者達はアスルを「ペケニョ・エロエ(小さな英雄)」と呼んでいるらしい。ゴンボの誤算は、外国人故にアスルを軽く見たことだ。

「君の活躍を動画に撮っておけば良かった。」

と冗談を言うと、アスルはまた「けっ」と言った。

2021/10/08

第3部 潜む者  14

  夜が更けた。テオは往路の車中でたっぷり昼寝してしまったので、明け方前に目が覚めた。枕の下に入れておいた携帯電話の時刻を見ると午前4時前だった。アスルはまだ眠っている様だ。照明を点けて起こしてしまうのも可哀想なので、テオはベッドに横たわったまま試験問題を考え始めた。恐らく半時間も経たないうちに二度寝するだろうと思っていたら、ドアの外で微かにカリカリと音がした。気のせいかと思ったが、音は再び聞こえてきた。ドアノブ辺りから聞こえた。誰かがピッキングしている、と感じた。ケツァル少佐が拳銃を貸してくれたが、アスルがいるからと思って鞄の中に入れてしまっていた。アスルはドアの音が聞こえているだろうか。狭い部屋なので声を立てられなかった。
 カチッと音がして解錠された気配がした。テオはわざとウーンと声をたてて寝返りを打って、入り口の方へ体を向けてみた。外の音が止んだ。アスルは静かだ。そのまま長い時間が経った。恐らく実際は4、5分だ。眠っているふりをしていると、ドアが動く気配がした。空気が僅かに動いた。誰かが室内に入って来た。恐ろしいほどの相手の緊張感をテオは感じた。
 これは「殺気」と言うものか?
 侵入者が体を大きく動かした。いきなり、怒号が聞こえた。

「何ヤツだ?!」

 照明が点き、テオは跳ね起きた。アスルが1人の男を後ろから羽交締めにしていた。男は手に短い槍の様な物を握っていた。槍の先端はフォークの様に2本に分かれており、鋭い刃物が付いていた。
 テオはベッドから飛び降り、男の胴に一発お見舞いした。男が怯んだ隙に槍を取り上げた。男は槍を持ち替えようとしていたが、テオに奪われてアスルを振り払うことに総力を上げることにしたらしい。だがテオが男から奪った槍を喉元に突きつけると大人しくなった。男が脱力した隙にアスルが彼を床に押し付け、膝まづかせた。腕を後ろへ回させ、手錠をかけた。テオは大統領警護隊が手錠を装備しているのを知っていたが、実際に使用するのを見たのは初めてだった。

「こいつ、犬臭い。」

とアスルが囁いた。テオは槍の先端を見た。

「コヨーテの牙みたいに見えるな。」
「こいつがチュパカブラか?」
「きっと君が俺から検査結果を受け取ると誰かから聞いて追って来たんだろう。ここで君と俺を殺害してチュパカブラの仕業に見せかけようとしたんだ。」
「大統領警護隊を何だと思ってやがる!」

 男は黙っていた。アスルが彼の上体を引き起こし、正面に回った。男の服装は普通の労働者風だ。農民かも知れない。人種はその辺にいるメスティーソだ。よく見ると全身を微かに震わせていた。大統領警護隊が恐いのだ。恐いのに、そのすぐそばでチュパカブラ騒動を起こしていたと言うのだろうか。
 アスルは男の服を探り、財布や身分証の類、その他の武器などを所持していないか探った。擦り切れた財布と折り畳みナイフが出てきた。それ以外は持っていなかった。アスルはそれをテオに渡した。
 アスルが男の顔を顎を掴んで持ち上げた。男は目を逸らそうとしたが遅かった。彼はアスルの目から視線を外せなくなった。アスルが尋ねた。

「お前は誰だ?」

 男が小さな声で答えた。

「エド・ゴンボ・・・」

 テオは財布の中から運転免許証を見つけ出した。

「エドアルド・ゴンボ・・・コロンビア人だ。」
「ほう・・・パスポートは?」
「ないなぁ。これだけだろ、ポケットの中は?」
「何処に住んでいる?」

 ゴンボはミーヤ・チウダの町の中の地区名らしき名前を口にした。本人は言いたくないだろうが、アスルの目の力に逆らえない。

「ミーヤ遺跡に出没したチュパカブラはお前の仕業か?」

 ゴンボが「スィ」と答えた。テオは槍を見た。こんな物で刺して相手が死んだらどうするつもりだ、と思った。

「仲間はいるのか?」

 ゴンボが数人の名前を挙げた。アスルの表情が硬くなった。彼はテオに告げた。

「最初の被害者2名の名前が入っている。」
「それじゃ・・・」

 テオもアスルが思ったことに気がついた。

「被害者もやっぱりグルだったんだな?」
「目的は何だ?」

 ゴンボは恐怖で泣きそうになった。アスルから逃れたいのに体が動かない。目すら動かせない。そして口が勝手に動いた。

「お前の目をアンティオワカから逸らしておくことだ。」

 アスルは「けっ」と言ってゴンボから手を離した。そう言えば、とテオは今更ながら疑問を感じた。ミーヤ遺跡は小さいと聞いているが、アスルは大きなアンティオワカ遺跡ではなくミーヤ遺跡の方を見張っている。ミーヤ遺跡はグーグルのストリートビューで見てもアスルが直々に見張るような重要性がある場所に思えなかった。

「わざとアンティオワカから副葬品を盗ませたんだ。あのフランス隊はペルー政府からもチリ政府からも要注意の勧告が出ていたからな。」

 アスルがゴンボにそう言うのを聞いて、テオはケツァル少佐がアンティオワカ遺跡へ行ったのは偶然盗掘品が発見されたからではなかったと悟った。わざと餌を撒いて盗掘者が引っかかったので、早速釣り上げに行ったのだ。そうとは知らない盗掘者達は、チュパカブラ騒動をでっち上げ、アンティオワカの近くにいる大統領警護隊の注意をミーヤ遺跡に向けさせようとしたのだった。アスルはそれに載せられたふりをして、グラダ・シティから専門家を呼ぶと作業員達に伝えた。それで盗掘者達はチュパカブラ騒動を起こしているゴンボを暗殺者として送り込んだ。アスルやテオを殺せなくても大怪我をさせれば、警察も大統領警護隊もミーヤ遺跡に集中するだろうと読んだのだ。しかしアスルはテオを餌にしてゴンボをホテルの狭い部屋に誘い込んだのだった。ゴンボはセルバ人から大統領警護隊の隊員の目を見るなと言われていたが、外国人なのでその意味を深く考えていなかった。捕まった時に目を閉じていれば良かったのだが、アスルの目を見てしまった。
 テオは餌に使われたと知ったが、腹は立たなかった。アスルはちゃんと彼をドアから遠いベッドに寝かせて自分は床で寝た。テオが目を覚ますより先に廊下の足音を聞いて起きていた。ドアの陰になる位置で立って待ち構えていたのだ。

 


2021/10/07

第3部 潜む者  13

  アンティオワカ遺跡はミーヤ遺跡から車で半時間ジャングルを走った奥にあると言う。そちらはミーヤ遺跡の3倍の面積で、フランス隊が発掘している。だから盗掘品は、フランス隊の中の誰かが盗み出した可能性があった。ケツァル少佐とギャラガ少尉はその犯人を調べに行くのだ。盗掘品が麻薬密売組織の荷の中にあったことも気になる事実だった。
 アンティオワカ遺跡に行くと言う少佐と少尉をテオはホテルの前で見送った。夜中でも”ヴェルデ・シエロ”は関係なく活動する。夜中のうちに現場検証をしてしまおうと言う腹だ。ミーヤ遺跡は携帯が使えるが、アンティオワカは使えないので、暫く互いに音信不通になってしまう。テオはちょっぴり寂しかった。しかし不安はなかった。ツンデレだが、アスルは十分頼りになる。
 ホテルの部屋に客を呼び込むことは歓迎されないが、緑の鳥の徽章を付けた軍人は特別だ。ホテルの支配人もフロント係も何も言わずにアスルがテオについて階上へ行くのを見送った。
部屋に入ると、アスルはドアの鍵をちょっと弄ってみた。それからテオに訊いた。

「今夜ここに泊まって良いか? 床で構わないから。」
「構わない。俺が床に寝ても良い。寝袋を持っているから。」
「ノ、貴方はベッドだ。」

 彼は目でドアを指した。

「鍵が良くない。」

 つまり、鍵の構造が簡単なので、直ぐに破られると言うことだ。アスルはテオの用心棒として泊まってくれるのだ。テオは2人部屋に移ろうかと提案したが、アスルは狭くても平気だと言った。アスルの荷物は大統領警護隊のリュックとアサルトライフルだけだった。
 テオはベッドに座ると、床に座り込んだアスルに尋ねた。

「チュパカブラは出没する場所が決まっているのか?」
「決まってはいないが、俺や警備兵がいる所に出て来ない。1人になった作業員が襲われているが、これは特におかしいことじゃない。」
「そうだな、病気のコヨーテなら、1人でいる人間しか襲わないだろう。」
「今日の怪我人は腕を噛まれたが、前の2人は首だった。否、正確には首の付け根辺りだ。」
「血を吸われたって?」
「被害者がそう言っているだけだ。俺が見たところでは、ただの咬み傷だった。」

 アスルは最初から事件は作業員の狂言ではないかと疑っている口ぶりだ。

「傷は深かったのか?」
「噛まれた場所が場所だけに出血が多くて本人が騒いだ。しかし深い傷には見えなかった。」
「彼等はまだ病院にいるのか?」
「ノ、金がかかるから家に帰った。連中はこの近くの村の農民だ。」

 テオは取り敢えず謎の動物の体毛の分析結果をアスルに渡した。前日にロホに渡したのと同じ内容だ。

「犬かコヨーテだとしても・・・」

とテオは疑問点を呟いた。

「人間の首に噛みつこうとしたら、ジャンプしなきゃいけないな?」
「確かに2人連続で首を狙って攻撃して来るのは不自然だ。いかにもチュパカブラらしく見せる演出に思える。」

 そこで会話が途切れた。窓の外から聞こえたどこかの店の音楽も既に止んでいた。時計を見ると12時前だった。テオは試験問題を考えるのを諦めて、アスルに寝ろと言った。

 

第3部 潜む者  12

  ミーヤ・チウダに到着したのは暗くなってからだった。少佐は真っ先にテオが宿泊するホテルを抑えてくれた。狭い部屋でバスルームはなかったが、一応共同のシャワーとトイレが同じフロアにあった。ハイウェイが近くを通っているので、町はそれなりに賑わっており、テオ達は食事の為にホテルで教えられた店へ行った。
 潜入捜査でないし、地元でもないので、少佐とギャラガ少尉は胸に緑の鳥の徽章を付け、自分たちが何者かしっかりアピールした。店長が挨拶にテーブルまでやって来て、お勧め料理を色々と紹介した。
 テオは店内の客の様子を眺めた。ホテルが紹介するだけあって、高級ではないがそれなりに経済的に余裕のある層が利用する店の様だ。女性客も多かった。軽快な音楽が流れ、国境が近い町らしく検問所が開くのを待って町に宿泊する旅行客や貿易業者が主な客筋の様だ。
 テオはそっと少佐に尋ねた。

「港で盗掘品が見つかったそうだが、国境を越えて南の国から船に乗せた方が早くないか?」

 少佐も小声で答えた。

「ここの国境検問所は厳しいので有名です。」
「夜は閉まるのか?」
「運送業者以外は通れません。」

 少佐は言わないが、恐らく国境警備に大統領警護隊が働いているに違いない。だから町の人々は少佐とギャラガを珍しがらないのだ。ロス・パハロス・ヴェルデスを見慣れているのだ。
 料理が出てくる頃にアスルが現れた。かなり久しぶりだったので、テオは思わず立ち上がってハグしようとした。アスルは当然拒否だ。テーブルのかなり手前で立ち止まって、少佐に敬礼した。ギャラガが立ち上がり、先輩に敬礼で挨拶した。少佐は座ったままで、アスルに座れと手で合図した。テオとギャラガも腰を下ろした。座ったアスルがテオを見ないで言った。

「わざわざ来て頂いて申し訳ない。」

 いつものアスルだ。テオは気にしなかった。

「検査結果だけ持って来たが、それで事足りるだろうか?」
「わからない。」

 アスルは不機嫌だ。少佐が小声で尋ねた。”心話”を使わないのは、テオに聞かせたいからだ。

「今日襲われた人はどんな状態です?」
「怪我で済みました。腕を噛まれたのです。」
「噛んだモノについて何か言ってましたか?」
「同じですよ、チュパカブラです。」

 小さな声で会話していたにも関わらず、近くのテーブルの客がこちらを見た。エル・パハロ・ヴェルデが警護している遺跡発掘隊がチュパカブラに襲われたと言う噂は既に町に広まっているのだ。テオはこの場で話すべきではないと判断した。

「時間があれば、後で話そう。今は食うことに集中しよう。」


第3部 潜む者  11

  テオはいつも自分の車に2泊程度の旅が出来るよう荷物を積んでいた。着替えと歯ブラシだけだが、綺麗好きの人間には必要だ。この荷物は別に大統領警護隊と旅に出ることを期待して積んでいるのではない。彼は時々研究用の検体採取に郊外へ出かける。ジャングルに行くこともある。そんな場合は大概学生達も一緒だ。朝の授業や研究室でのお喋りで急に調べたい遺伝子とかが出てくると、「行こうか?」と話がすぐまとまって、出かけるのだ。だからアルスト先生の教室は人気があった。事務局の話では来期の受講希望者の倍率が今年度の3倍になっていると言うことだ。テオ自身はピクニック講座を開いているつもりはなかった。
 着替えの鞄と研究室から持って来た検体採取キットをケツァル少佐のベンツに積み替えた。アンドレ・ギャラガも大統領警護隊の緑の鳥のマークが入った迷彩柄リュックを持っていた。これは文化保護担当部の必需品だ。着替えの下着とシャツの他に携行食料や水の容器が入っているし、医療キットもある。
 車が走り出してすぐに、テオは疑問を口にした。

「チュパカブラにロス・パハロス・ヴェルデスが3人かい?」

 するとギャラガが答えた。

「私は別件です。昨日の盗掘品の出処の調査を担当します。」
「すると盗掘はミーヤ遺跡?」
「ノ。ミーヤは小さいし、アスル先輩が見張っておられます。今回の盗掘被害はアンティオワカ遺跡です。」

 テオが知らない遺跡だ。だがギャラガが一緒に行くのだから、ミーヤ遺跡に近いのだろう。少佐も恐らくアンティオワカが目的地なのだ、と見当がついた。
 ギャラガは助手席に座っていたが、後部席のテオに見せるために写真を手渡してくれた。遺跡ではWi-Fiがないので、タブレットより写真なのだろう。テオは港の倉庫で見つかった石像や陶器類の写真を眺めた。ブルーシートの上に並べられ、まるでフリーマーケットの商品みたいだ。全てに番号札が付けられていた。「証拠物件1番」とか、そんな札だ。テオは考古学に詳しくないが、大統領警護隊文化保護担当部との付き合いは2年以上になるので、なんとなくそれらの物件の年代がわかった。

「12世紀頃かなぁ? 明らかに”ティエラ”の物だね?」
「スィ。流石ですね!」

 ギャラガが素直に感心してくれた。こちらは考古学の学生を目指して勉強中だが、まだ半年だ。
 運転しながら少佐が少尉に声をかけた。

「アンドレ、お昼寝しなさい。後で運転を交替してもらいます。」
「わかりました。」

 ギャラガはテオにウィンクして前へ向き直った。少しだけ背もたれを後ろへ傾斜させた。
テオが写真を揃えてクリアファイルに入れていると、少佐が彼にも声をかけて来た。

「試験問題を作らないのですか?」
「車の中で文章を眺めていると酔うから、頭の中で考えるだけにしておく。問題はホテルで作る。」

 そしてテオも寝落ちした。
 3人を乗せたベンツはセルバ共和国東海岸を南北に通る快適なハイウェイを軽快に飛ばして南に向かった。腰に装備した携帯電話が振動したので、彼女はナビの通話ボタンを押した。

「ミゲール・・・」
ーークワコです。

とアスルの声が聞こえた。

ーーもうグラダ・シティを出られましたか?
「スィ。後半時間でプンタ・マナを通過します。」
ーードクトルも一緒ですね?
「スィ。」
ーードクトルに銃を持たせて下さい。

 部下から物騒な要請が出されたので、ケツァル少佐は前方を見たまま眉を寄せた。

「何か起きたのですか?」
ーー何が起きているのか私にはわかりませんが、また1人襲われました。
「貴方は獣を見ていないのですね?」
ーー私がいる場所には出ません。少なくとも、警備兵のいる場所には一度も出ていません。
「わかりました。予定通り私はギャラガとアンティオワカへ行きますが、用があればいつでも連絡しなさい。」
ーー承知しました。以上。

 通話が終了した。ケツァル少佐はチラリと助手席に視線を遣った。アンドレ・ギャラガは命令に従って昼寝中だった。少佐とアスルの会話が聞こえたかどうか、少佐はわからなかった。ギャラガは目が覚めても呼吸を変化させない特技がある。狸寝入りが実に上手いのだ。
 ルームミラーを見ると、テオもしっかり眠っていた。こちらはスペースがあるので体を横に倒して本当に寝ていた。急停止すれば座席から転げ落ちるだろう。時計を見ると、部下のシエスタの時間はまだ15分残っていた。

第3部 潜む者  10

  昼間なのでデルガド少尉は家にいるだろうと思って携帯に電話をかけると、彼は3回目の呼び出し音の後で出てくれたが、バックが騒がしかった。何処にいるのかと訊くと、マカレオ通りの東区域にある自動車修理工の工場前だと言う返事だった。

「そんな所で何をしているんだ?」
ーーここからピアニストの家がよく見えるのです。

 ピアニストをジャガーだと疑っているのか? テオは詳細を尋ねることは止しておこうと思った。向こうも捜査中のことを根掘り葉掘り訊かれたくないだろう。

「俺は今夜帰れない。急に仕事の変更があって、南部へ出かけることになった。アスルの所だと言えば、カルロはわかるだろう。家の中の物を自由に使ってもらって構わないが、外出時の施錠だけはしっかり頼む。」
ーー承知しています。

 ”ヴェルデ・シエロ”は鍵がなくても施錠出来るし解錠も出来る。鍵の使い方を知らないんじゃないかと思う程だ。

「冷蔵庫の中の物も食って良い。」
ーーご心配なく、買い物をする金と時間はあります。
「多分、明日の午後には帰る。それまでに事件が解決していると良いな。」

 それじゃまた、と言って電話を切った。
 テオはまだ正式な助手を雇っていなかったが、助手を引き受けてくれる学生が数人いた。彼等の中から2人選んで電話をかけ、翌日の午前中の授業を休むと告げた。教科書代わりに使っている専門書の章を挙げ、そこを読んでおくように学生達に伝えてくれと頼んだ。「試験に出す項目だから」と言うと、臨時助手達は気持ちよく引き受けてくれた。恐らく試験対策の勉強会になるだろう。テオは試験問題を3問作るつもりだったので、1問ぐらいおまけにしてやろうと思った。
 研究室に戻ると大急ぎで部屋を片付け、大学を出たのは12時半だった。既に警察は駐車場から引き上げており、隣の車も姿を消していた。割れたガラスが落ちているだけだった。
テオは大学から徒歩で10分の文化・教育省へ向かった。職員駐車場に駐車して、ケツァル少佐のベンツとロホのビートルがあるのを確認した。
 いつもの雑居ビル1階にあるカフェ、カフェテリア・デ・オラスに行くと、アスル以外の大統領警護隊文化保護担当部の面子が全員揃って昼食を取っていた。既に12時半を過ぎていたが、セルバ人は昼食に時間をかける。遅れて来たテオにもまだ時間に余裕があった。

「アスルは口下手なので作業員達を納得させられない様です。」

と上官のロホが突然の出張の言い訳をした。デネロス少尉が真面目な顔で言った。

「作業員のリーダーが何か悪意でも持っているんじゃないですか? 発掘を遅らせたいか、止めさせたいか、きっと意図があってごねているんですよ。」
「体毛の成分分析で納得してくれるのかなぁ・・・」

 テオはちょっと弱気になった。ジャガーの血液分析と違って、体毛の成分分析だけでは説得力が弱い。本物のチュパカブラの体毛と比較して見せて、「ほら、こんなに違うだろ!」と言えれば良いのだが。
 ケツァル少佐は黙って食べていた。普段の大食らいをしないのは、運転中に睡魔に襲われない用心だろう。ギャラガ少尉がファイルを広げて何かチェックしていたが、食べることを思い出したのか、急いでファイルを閉じて鞄に仕舞った。そしてテオに尋ねた。

「南部地方へ行かれたことはありますか?」
「植物採取で何度か・・・遺跡はまだないな。立ち入り申請を出しても許可が出るのに時間がかかるから。」

と答えると、一同が苦笑した。
 少佐が取ってつけた様に言った。

「アンドレも行きますからね。」

 やっぱりデートではないのだ。テオは内心がっかりしたが、顔で笑って了承を伝えた。

 

2021/10/06

第3部 潜む者  9

  グラダ大学の駐車場は一応職員用と学生・訪問者用に分けられていたが、明確な仕切りがある訳でなく、学生用が満車に近ければ職員用スペースに平気で駐車する者もいた。職員用にも特にどこが誰の場所と決められていなかったが、大概はお気に入りの場所があって、他の人は遠慮してそこに駐めないと言う暗黙のルールが存在していた。
 テオが出勤すると、彼の場所の隣に見慣れない車が駐められていた。そこは化学の先生の場所だったが、その先生が車を買い替えたとも思えなかった。車内には助手席に衣類やタオルが乱雑に置かれ、さらにスマートフォンも放置されていた。これでは盗んでくれと言っているようなものじゃないか、と思いつつ、テオは自分の車を施錠して鞄を持って理系の学舎へ向かった。
 午前中の授業が終わる頃、外がちょっとだけ騒がしくなった。警察のパトカーがサイレンを鳴らしてやって来たのだ。早速物見高い学生達がパトカーが向かった駐車場へ集まり出した。テオは無視しようと思ったが、職員用の駐車場へパトカーが入ったので、自分の車が気になってそちらへ向かった。同様に他の職員も部屋から出て来た。

「何ですか?」
「車上荒らしのようですな。」

 テオの車の周囲に人集りができたので、彼は学生達を掻き分けて近づいた。被害に遭ったのは、テオの隣に車を駐めた日本人だった。誰かを訪問して来たのだが、スマホを車内に忘れたので取りに戻ったら、窓を破られて携帯電話を盗まれた後だった。英語とスペイン語を交えて喚いていたので、英語が出来る警察官が彼を宥め、英語で聞き取りしてスペイン語で同僚に伝えていた。
 テオは自分の車に被害がないことを確認すると、研究室に戻り始めた。治安の良い国から来た人は隙だらけだから、と話している学生達の声を聞きながら歩いていると、彼の携帯が鳴った。ケツァル少佐からだったので、急いで出た。

「アルストだ。ブエノス・ディアス、少佐!」
ーーブエノス・ディアス。今日はお時間ありますか?
「すまない、来週の試験に向けて問題を作っている最中なんだ。ランチぐらいなら付き合えるけど・・・」
ーーその試験問題は車の中で考えられますか?

 ケツァル少佐は相変わらず強引だ。テオは意地悪するつもりはなかったが、言った。

「Wi-Fiを使える場所なら大丈夫だが・・・」
ーー宿舎は貴方だけホテルにします。ミーヤ遺跡に行っていただきたいのですが。

 アスルがチュパカブラ問題で悩まされている発掘現場だ。テオは嫌な予感がした。一泊二日で帰るのは無理ではないか?

「明日の昼に帰って来られると言う保証があれば・・・」
ーー努力します。

 セルバ共和国の「努力します」は「無理じゃない?」と言う意味だ。しかしケツァル少佐は約束を守る稀なセルバ人だ。

「運転は誰がしてくれるんだ? それに俺は何をしに行くんだ?」
ーー運転は私がします。
「ビエン!」
ーー貴方は動物の体毛を調べるふりをして下さい。
「ふり?」
ーー発掘現場の作業員を説得する役目です。

 やっと話が見えてきた。謎の動物に噛まれた作業員の衣服に付着していた動物の体毛がコヨーテのものだと電話で言っても、納得しない人がいるのだ。だから、大学の「偉い学者」が自ら出向いて解説すると言う筋書きだ。
 テオは言った。

「明日の昼までだけだぞ。俺もボランティアばかりやってられないからな。」

今夜、デルガド少尉は留守番だ。


2021/10/05

第3部 潜む者  8

  カルロ・ステファンに声をかけた長老は女性だった。ステファンは彼女の声を以前にも聞いたことがあった。審判の時ではなく、それより前、彼が黒いジャガーに変身して大罪人を押さえ込んだ時だ。父親の仇を噛み殺そうとした彼を、彼女が宥めて制止してくれたのだ。あの時はケツァル少佐もテオドール・アルストも同じように彼を止めようと怒鳴っていたが、興奮した彼を完全に止めるには至らなかった。この女性の長老の穏やかな波長の声が、彼の怒りを鎮めてくれたのだ。
 ステファンは長老達の前に立つと、右手を左胸に当ててお辞儀をした。長老達は同じように右手を左胸に当てて返礼してくれたが、頭を下げたりしなかった。
 長老から声をかけられることはなかった。沈黙が彼に語れと命じていた。それで、彼は質問した。

「2日前の夜、サン・ペドロ教会界隈でジャガーを目撃したと言う市民からの通報が数件グラダ・シティ警察に寄せられました。お耳に入っておりますでしょうか?」

 男性の声が「知らぬ」と答え、残りの男女が「聞いている」と答えた。
 ステファンは続けた。

「警察から大統領警護隊にジャガーの捜索要請が来ましたので、司令部から遊撃班に命令が下され、エミリオ・デルガド少尉と私カルロ・ステファンが役目を与えられました。目撃者の証言を集め、ジャガーが移動した道筋を辿って行くうちに、体毛と血液を手に入れました。ジャガーは有刺鉄線で怪我をした模様です。手に入れた体毛と血液をグラダ大学生物学部の遺伝子学者テオドール・アルスト博士に分析してもらいました。」

 彼は封筒から分析検査結果を出して、長老達の方へ差し出した。女性の長老が受け取ってくれた。ステファンは説明を続けた。

「アルスト博士の分析では、その血液はジャガーそのものではないジャガーだと言うことでした。」
「どう言う意味だ?」

 「知らぬ」と答えた男性が尋ね、もう1人の男性が答えた。

「ツィンルだと言うことだ。」

 ”ヴェルデ・シエロ”はナワルを使える一族の者をツィンルと呼ぶ。彼等自身の言語で「人間」と言う意味だ。つまり、ナワルを使えない者は人間以下の存在と見なす古代の神の驕りだ。

「教えていただきたいのですが・・・」

とステファンは続けた。

「世間を騒がせているジャガーが一族の者であると断定しましたが、東西サン・ペドロ通り界隈に住むツィンルは何人いるのでしょうか? 私個人が知る限りでは、我がグラダの族長シータ・ケツァルと、マカレオ通り北に住む我が同僚アルファット・マレンカ(ロホの本名)の2人だけです。他に誰かいますか?」

 3人の長老達が互いの仮面の目を覗き合う素振りを見せた。この中の誰かがあの界隈に住んでいると言うのか? 
 ジャガー騒動を聞いたと言う男性の長老が答えた。

「誰が住んでいるか、お前に教える必要はない。我等が知るツィンルは皆掟を守り礼儀を心得ておる。お前が追いかけているジャガーは、未承認者だ。」
「どなたかのお子さんと言うことは考えられませんか? 成年式を迎える前にナワルを使ってしまったとか・・・」
「子の変幻に親が気付かぬ筈がない。」
「では、私の様に”出来損ない”で、ある日突然変身してしまった可能性は考えられますね?」

 一瞬長老達の間に硬い緊張した空気が感じられた。カルロ・ステファンの最初の変身は、彼が命の危険に曝された時に起きた。本人には変身した自覚がなかった。

「お前が追っているジャガーは、何か危険に曝されていたのか?」
「私は目撃したのではありませんから、お答え出来ません。しかし、ケツァルは家並みを隔てて接近したそうです。彼女はただ何かが近づいて来るのを感じ、その気配に怯えた犬達が騒いだので犬を気を放って鎮めたそうです。するとその接近者も彼女の気を感じて立ち止まったと言っていました。」
「ケツァルは相手を見ていないのですね?」

 女性が尋ねた。ステファンは「見ていません」と答えた。

「その者は西から東へ移動していました。ケツァルの気を感じて一旦立ち止まりましたが、彼女が立ち去ると再び東へ向かって移動を再開していました。ですから、何かの危険から逃れようとしていた様子でなかったと私は思います。」

 最初の質問で「知らぬ」と答えた男性が言った。

「我々は”出来損ない”までは把握しておらぬ。少なくとも、ナワルを使えると判明した者しかツィンルと認めておらぬ。だが、”出来損ない”がある日突然変身するには、何か大きな原因がある筈だ。変身の経験がない”出来損ない”にとってナワルは使おうと思って使えるものではない。それはお前が一番良く理解しておろう。」
「だがドクトル・アルストはそのジャガーを”シエロ”だと判定したのだろう?」

ともう1人の男性が言った。

「ツィンルと認められていない者がナワルを使って世間の前に姿を曝すのは由々しき問題だ。掟を知らぬのであろう。」
「”砂の民”が知れば動きますよ。」

 女性がステファンが最も恐れていることを言葉に出した。

「掟を知らぬのなら、教えなければなりません。」

と彼は長老達に訴えかけた。

「ジャガーの痕跡はマカレオ通りの3丁目第3筋まで辿れました。その辺りにツィンルはいませんか?」
「ツィンルはおらぬ。」

と「知らぬ」と答えた男性がイラッとした声で言った。しかし、女性がこう言った。

「ツィンルはいませんが、ツィンルが産ませた子がおります。」

 男達全員、ステファンも含めて、彼女を見た。彼女が言った。

「ロレンシオ・サイス、ピアノ弾きです。」


第3部 潜む者  7

  大統領警護隊の「官舎の門限」は、官舎で居住する隊員が基地外で活動する場合に設定されている規則で、隊員が無事に一日を過ごしたことを確認するためのものだ。門限を破ると事故か事件に巻き込まれた恐れありと看做されて捜索対象にされるので、隊員達は外で活動する時は必ず門限を守って帰還する。不名誉な脱走疑惑をかけられでもしたら、大変だ。
 門限の他に「消灯時間」と言うものもある。大統領警護隊は24時間稼働の軍隊だから、別に一定の時刻になったら部屋の照明を落としてしまう、と言う訳ではない。そもそも暗闇でも目が見える”ヴェルデ・シエロ”と言う種族の軍隊だから照明の有無は関係ない。世間体で午後11時になると宿舎の照明を落としてしまうだけのことだ。ただ、この照明を落とす時刻に居室にいなければならない当番がいる。規則に従って休憩を取らなければならないのだ。これは規則正しくルーティンに従って勤務する警備班のためのもので、遊撃班や外で仕事をする外郭団体所属の隊員には関係ない。
 ステファン大尉は遺伝子分析結果が入った封筒を持って宿舎から本部棟へ移動した。少し躊躇ってからエレベーターではなく階段を使って地下へ降りた。エレベーターを使うと、たまに扉が開いた時に上層部の人間と鉢合わせする恐れがあった。敬礼だけですれ違ってくれる上官なら良いが、中にはどんな用事があって地下へ来るのかと問い質して来る人もいる。ステファン大尉は直属の上官以外に任務の話をしたくなかった。それに直属の上官はこの時刻に地下にはいない筈だ。
 階段の壁が手掘りの岩盤になった。古代の神殿跡だ。普通の隊員は地下へ来ない。地下と言っても、普通のビルの地下の様な深さではなく、オルガ・グランデの金鉱山の坑道並に深く造られていた。ステファンが地下の通路の道順を知っているのは、以前に来たことがあったからだ。己の兄を殺害し、罪を彼の父になすりつける為に無関係な”砂の民”を4人も殺し、彼の父も殺し、彼自身も殺害しようとした、一族の大罪人を裁く審判の場に証人として召喚された時だ。尉官の隊員が地下に降りることを許されるのは、長老に呼ばれた時だけだった。
 だから、神殿の大扉前の衛兵の前に来た時、彼は緊張していた。背筋を伸ばして衛兵達の前に立つと敬礼した。

「遊撃班所属、カルロ・ステファン大尉です。長老会のお方がいらっしゃれば、御目通りを願いたい。」

 上官をすっ飛ばしての面会を許可されることは滅多にないが、決して隊律違反ではない。勿論、長老が面会理由の適正を承認してくれればの話だ。
 衛兵は2人いたが、1人が彼をじろりと眺めた。

「どの長老に面会を希望するのか?」
「申し訳ありません、私にもわかりません。未承認のナワル使用者についてお尋ねしたき儀があって参りました。」

 すると、もう1人の衛兵が声をかけて来た。

「君はグラダのステファンだな?」
「スィ。グラダの族長の身内の者です。」

 グラダ族長はケツァル少佐だ。この世で生きている唯一人の純血種のグラダ族だ。そして、グラダを名乗ることを許されている人間はあと2人だけ、どちらもメスティーソのカルロ・ステファンとアンドレ・ギャラガだけだった。グラダの男性として認定されると言うことは、ナワルが黒いジャガーであると言うことだ。
 最初の衛兵が「待っていろ」と言い残して、扉を微かに開き、隙間から滑り込むように中へ消えた。ステファンは背筋を伸ばして立っていた。残った衛兵は彼に話しかけず、通路の向こうを見つめた。まるでステファンがそばにいることを忘れた様な気配だ。実際は5、6分だったが、ステファンには10分以上もかかったような気がした。ようやく、最初の衛兵が戻ってきた。彼は片側だけ扉を少し開いて、目で入れと命じた。ステファンは敬礼して、中に足を踏み入れた。
 扉の内側は以前に来た時と同じく、広い空間だった。岩の柱が周囲を取り囲むように立ち、その向こうにいくつか扉があるが、何の部屋なのか彼は知らなかった。
 広間の向こうの端に火が焚かれており、それを囲んで3人の仮面を被った人物が立っていた。長老の中の長老、長老会のメンバーだ。仮面は”心話”を禁じるものだ。この空間においては、プライバシーを守ることが困難な”心話”は、裁判や会議の時の情報交換でしか使用されない。長老会のメンバーは互いが誰なのか知らない・・・ことになっていた。
 長老の1人が、入ってきた若者に顔を向けた。仮面で明瞭さを欠く声でその人が言った。

「グラダのステファン、こちらへ来なさい。」


第3部 潜む者  6

  カルロ・ステファン大尉はテオドール・アルストの家を出ると、少し離れた場所に駐車しておいた大統領警護隊のジープに戻った。車に異常がないことを確認して乗り込み、静かに車を出した。ピアニストのロレンシオ・サイスの家の前を通り、坂道を下って次の角で西へ向かって曲がった。西サン・ペドロ通りへ走り、ビアンカ・オルティスが住んでいると思われる学生向け住宅の並びを抜け、市街地の大通りに出た。住宅地ではあまり歩行者を見かけなかったが、市街地はまだ人通りが多かった。
 大統領府に向かって走って行くと、歩道を走っている男が見えた。片方の肩に鞄を背負うようにして、大統領府の方向へ走って行く。足取りは決して重たくないが、軽快とも言い難い。ステファンは声を立てずに笑って、ジープを歩道に寄せた。速度を落として開放した窓から声をかけた。

「よう、少尉、乗って行くか?」

 赤毛のアンドレ・ギャラガ少尉が振り向いた。おうっと声を上げ、ギャラガが窓から鞄を投げ込み、走りながらドアに飛びついた。通行人達が驚いて振り返るのも気にせずに、彼は窓から車内に滑り込んで来た。
 ステファンは車のスピードを上げた。ギャラガが座席に座らぬうちに話しかけた。

「門限を忘れて仕事をしていたのか?」
「ノ、さっきオフィスに戻ったばかりです。」

 ギャラガは息を整えながら喋った。

「直帰すべきか迷いましたが、鞄を置いたままだったので、少佐にオフィス前で落としてもらいました。」
「少佐と一緒に出張したのか。」
「スィ。グラダ港のコンテナバースへ出張っていました。麻薬のガサ入れをした警察が盗掘品の密輸も発見したので、連絡して来たのです。明日、また警察へ行って美術品を調べないと・・・」

 すっかり文化保護担当部の隊員らしい口ぶりになっている後輩に、ステファン大尉はちょびっとジェラシーを覚えた。本来なら彼が港へ行って捜査すべき仕事だった筈だ。
 ギャラガが後部席をチラリと見た。

「大尉はお一人ですか?」
「今はな。相棒はまだ仕事中だ。」

 それ以上の説明はしなかった。
 文化保護担当部に転属命令が出た時、ギャラガはステファン大尉に挨拶しに来た。本来ならステファン大尉が戻るべき場所に己が配属される。なんだか申し訳ない気持ちになったのだ。しかし、大尉は彼が転属すると告げると、笑って言った。

「気を引き締めて働けよ。ケツァル少佐は仕事にはマジで厳しいからな。」

 転属した直後に、ギャラガは大尉も警備班から遊撃班へ転属になったと聞いた。本隊では最も厳しいエリート集団だ。司令部はステファン大尉を少佐か中佐に昇級させる迄手放しはしないだろう、とギャラガは予想した。
 大統領府が見えてきた。大統領警護隊はその敷地内に本部と訓練施設を置いている。通用門は大統領府とは別にあった。広い敷地の外周を半分ほど回ってから警護隊本部に入った。ステファン大尉はギャラガ少尉を先に落としてやり、官舎の門限に遅れないよう走らせた。彼自身は車を所定の場所に駐め、勤務終了のチェックをしてから大尉専用の部屋に戻った。2人部屋だが、同居人はいなかった。最初にその部屋に入った時、先住の大尉がいたのだが、外交官の試験に通って少佐になり、何処かの国の大使館付き武官として出向して行った。ステファンも警備班の少尉だった頃に、武官のファルコ少佐から引き抜かれかけたことがあった。彼の出世を妬んだ同僚の告げ口で不良少年時代の過去を暴かれ、エリート街道に乗ることを閉ざされたのだが、司令部は再び彼にもう一度チャンスを与えようとしていた。しかし、正直なところステファンは外交官になるより文化保護担当部でジャングルや砂漠を走り回っていたかった。何にも制約されずに自分を解放出来る空間に戻りたかった。
 彼は制服を脱いで、シャツ一枚でベッドに転がった。
 住宅街を徘徊したジャガーも、何かから解放されたかったのではないだろうか。もしかすると唯一度の変身だったかも知れない。世間が大騒ぎを始めたので、もうナワルを使わないかも知れない。
 彼は体を起こした。脱いだ制服を再び着ると、きちんと身だしなみを整えた。そしてテオドール・アルストからもらった血液検査結果の報告書を持って、部屋の外に出た。


2021/10/04

第3部 潜む者  5

  テオの遺伝子分析結果を見たステファン大尉は、捜査の進捗状況を教えてくれた。

「ジャガーは西から東へ、このマカレオ通りの中央辺りまで来ていました。そこから東へは行っていません。少なくとも目撃証言はありません。北にも南にも行っていない。ジャガーの姿で行っていないだけかも知れませんが。」

 テオはチラリとデルガド少尉を見た。

「足跡や臭いの追跡でも辿り着けないのか?」

 返事がないので、彼はさらに畳み掛けてみた。

「ロホが目撃したんだよ、マーゲイを。」

 デルガドが溜め息をつき、ステファン大尉は渋い顔をした。

「すると少佐に伝わっていますね?」
「スィ。同じ車に乗っていたからね。」
「ああ・・・あの時でしたか・・・」

 デルガド少尉はナワルを知っている白人のテオに打ち明けて良いのかと上官に目で問いかけた。ステファン大尉は頷いて許可を与えた。デルガドはテオに向き直った。

「マーゲイは家猫のでかいのとよく間違えられるので、それを利用して、民家の庭伝いにジャガーの臭いを追跡してみました。このマカレオ通り3丁目の第3筋にセレブの家があるのですが、ご存知ですか?」
「セレブ?」
「ピアニストのロレンシオ・サイスが住んでいるんです。」

 テオは頭を掻いた。

「ピアノはあまり興味がないなぁ・・・俺はフォルクローレの方が好きなんだ。ごめん、知らない。」
「そうですか・・・テレビとかにも出ている有名人です。ジャズが主なんですけどね。そのサイスの家周辺でジャガーの臭いが途絶えているんです。」

 ステファン大尉が携帯電話をいじってロレンシオ・サイスと言うピアニストの写真を検索して表示した。見せてもらっても、やはりテオは知らなかった。

「サイスは”ヴェルデ・シエロ”なのかい?」
「そんな話は聞いたことがありません。」

 写真で見るロレンシオ・サイスは純血種の顔をした先住民だ。その顔でジャズを弾けば、ちょっと異色な印象をジャズファンに与えるだろう。
 それでお願いがあります、とステファン大尉が切り出した。

「暫くこのデルガドをこちらに置かせてもらえませんか? サイスの家の周辺を見張らせたいのです。 休憩場所として使わせていただいて、食費などは支払います。ナワルは毎日使える訳ではないので昼間出かけたり、夜出かけたりと煩いかも知れませんが・・・」
「俺は構わないよ。」

 テオは”ヴェルデ・シエロ”が家にいれば蠍などの毒虫が屋内に入って来ないことを知っていた。ジャガーでもマーゲイでも、力の大小はあっても”ヴェルデ・シエロ”だ。居てくれるだけでも大いに役に立つ。

「客間を使ってくれて構わない。アリアナの部屋として空けてあるんだが、もっぱらアスルが寝泊まりに使っている。」
「アスルが?」

 ステファン大尉が驚いた顔をした。アスルがテオに対して余所余所しい態度を取っていたことが印象深いので、あのツンデレ少尉がこの家に泊まりに来ることが意外だったのだ。
 テオは頷いた。

「いつも知らない間に入り込んで寝ているよ。朝ごはんを作ってくれるから、俺は大歓迎だけどね。そうそう、以前ゲンテデマの事件で君とアンドレが捜査していた時、アンドレを客間で昼寝させたら、アスルがやって来て拗ねていたな。」
「アスルは今でも来るんですか?」
「来るけど、今はミーヤ遺跡と言う所で発掘隊の監視をしているから、暫く戻っていない。」

 ミーヤ遺跡にチュパカブラ騒動が起きている話を語り合おうかとも思ったが、テオは思い止まった。ジャガー騒動で働いている大統領警護隊遊撃班に、大統領警護隊文化保護担当部が抱えている問題を語っても何にもならない。

「だから、デルガド少尉は安心してこの家を使ってくれて構わない。ところで、カルロ、君はどうするんだ?」
「私は本部に戻ります。ジャガーが誰かのナワルであることは貴方の分析結果で証明されたので、上に報告します。」
「毎日通える距離だから、いつでも様子を見に来れるしな。」

 もし本部に戻らずにどこかに泊まるとステファンが言えば、テオは彼の実家に行けと言うつもりだった。任務遂行中とは言え、息子が寝泊まりすれば、カタリナ・ステファンは喜ぶだろうに。

2021/10/03

第3部 潜む者  4

 夕方、テオは研究室を片付け、施錠した。鍵を事務局に預けて駐車場に向かうと、数人の学生達に声をかけられた。大学ではテオが大統領警護隊文化保護担当部の隊員達と親しいことが知られている。声をかけて来た学生達は、例のジャガー出没事件を知っており、大統領警護隊遊撃班がジャガーの捜索をしている噂も耳にしていた。だから、テオに何か進展がありましたかと尋ねてきた。テオは何も聞いていないと答えた。

「俺の友人は文化保護担当部の人々だ。遊撃班は知り合いが1人いると言うだけだから、情報は入って来ない。第一、彼等は友人だからと言って気安く情報を外に流したりしないさ。」

 がっかりした様子の学生達に、彼は警察に訊いた方が早いぞと言っておいた。
 車に乗って走り、メルカドで食材を購入して帰宅した。家の中に灯りが点いていた。時計を見ると午後7時過ぎだった。なんとなく誰が家の中にいるのかわかった。彼は鞄と食材が入った紙袋を持ち、車を施錠して家の玄関のドアを開けた。鍵は開いていた。リビングでテレビが点いており、ソファに大統領警護隊遊撃班のデルガド少尉が座っていた。彼はテオが家の中に入って来ると立ち上がり、敬礼して迎えた。

「大統領警護隊遊撃班、エミリオ・デルガド少尉であります。」
「テオドール・アルストだ。テオと呼んでくれて良い。」

 テオは無断で他人の家に入って来る”ヴェルデ・シエロ”に慣れっこになっている己が少し可笑しく思えた。普通のセルバ人は絶対に慣れていない筈だ。だって、勝手に家に入って来られたら、それは泥棒じゃないか。果たして、デルガド少尉が荷物をテーブルに置いて食品を袋から出し始めたテオを不思議そうに眺めた。

「私がここにいることに驚かれないのですね?」
「君達の図々しさには慣れているから。」

と言ってから、彼はデルガドを振り返って笑いかけた。

「失礼なことを言ってごめんよ。だけど、この家にはステファンもアスルもアンドレも平気で出入りしているからね。」

 デルガド少尉は頭を掻いた。警護隊の制服を着ているが、武器は体から外してソファに置いてあった。この家は安全圏だとステファン大尉に言われたのだろう。純粋な先住民の顔つきをした若者だ。恐らくステファンより年下で20歳前後だろう。身長はあるが全体的にほっそりしていた。いかにもマーゲイに変身しそうだ。

「ステファンは何処かへ行ったのか?」
「食糧の調達に行かれました。貴方に負担をおかけする訳にいきませんので。」
「気にしなくても良いのに。」

 恐らくステファン大尉は近所の屋台かメルカドで買い物をして来るのだろう。部下に買い物をさせないのは、恐らくデルガド少尉が最近ナワルを使って疲れているからだ。テオはデルガド少尉に座ってテレビを見ているようにと言い、キッチンに入った。野菜とチキンの煮込みが出来上がる頃に、ステファン大尉が帰って来た。無断で家に入ったことを詫び、彼は買ってきたソーセージやタコスを食卓に提供した。
 1人で食事するより3人で食べた方が楽しいに決まっている。テオは彼等の捜査の進展が気になったが、向こうから言い出さないうちは黙っていた。代わりに、先日の尻尾を切られたらどうなるかの話の続きを話した。お尻の怪我の話を聞いて、デルガド少尉がいかにも痛そうな顔をしたのが愉快だった。そう言えばマーゲイは尻尾が長いんだ、とテオは思い出した。

「ナワルを使う儀式は多分広い場所で行うから心配ないと思うけど、外で捜査や戦闘で変身する時は気をつけた方が良いぞ。尻尾はピンと立てて歩けよ。」
「敵に忍び寄る時は立てられませんよ。」

とステファンが笑った。  デルガドも少し遠慮がちに会話に加わってきた。

「尻尾を立てて歩くと、出くわす相手に偉ぶっていると見なされます。」
「相手が上官だとマズイか?」
「上官ならまだマシです。長老だったらそれこそ尻尾を咬まれます。」
「俺は尻尾がなくて良かったよ。よく教授達に意見して睨まれるから。」

 3人は笑った。それからテオは思い出して鞄からジャガーの毛と血痕の分析結果を出した。

「ジャガーの毛に違いない。だけど血液は擬似ジャガーだ。間違いなく”ヴェルデ・シエロ”だ。」

 分析結果のDNA対批表を眺めたステファン大尉は、人間のゲノムと謎の血液のそれが同じ配列であることを認めた。それをデルガド少尉にも回してやった。デルガドが科学が得意かどうかわからないが、若者もそれをじっと見つめた。そして呟いた。

「やっぱり我々も人間なんですね。」
「当たり前だろ。」

 テオは微笑んで見せた。

「喜怒哀楽があるのは人間の証拠だよ。」



2021/09/25

第3部 潜む者  3

  テオはブリーフケースを引っ込めた。真っ昼間、大学でこの老人、ムリリョ博士と出会うのは初めてだ。マスケゴ族の族長で長老で”ヴェルデ・シエロ”の長老会の重鎮で、”砂の民”のリーダー的存在が真の姿だが、表の顔はグラダ大学考古学部の主任教授でセルバ国立民族博物館の館長、考古学者であり、人類学者だ。テオは彼といつも博物館や、少し意外な場所で出会うことが多かったが、職場で会うのは本当に初めてだった。ムリリョ博士は滅多に大学に来ないのだ。ただ現在のところ、セルバ国立民族博物館は老朽化を理由に建て替え工事をしており、所蔵している民具や伝統的芸術品などは各地に分散して保管されている。少しずつ地方で一般公開して、グラダ・シティに来られない国民に自国の宝物を見せて回る巡回展示が行われているが、それは本部の博物館が休館している間の学芸員達の仕事だ。ムリリョ博士は所蔵品の保管所の管理を主に行っていた。
 ムリリョ博士が大学に来る用件は何だろう?とテオは考えた。大学の考古学部と博物館は経営が別物だ。どちらも国の機関だし、文化・教育省の管轄だが、責任者は異なる。博物館の館長は大学では主任教授で、学長でも学部長でもない。それに今日は教授会議の日でもなかった。考えられるのは、ムリリョ博士はケサダ教授に面会に来たのだろうと言うことだ。フィデル・ケサダはマスケゴ族で考古学教授、ムリリョの弟子だ。そして同じく”砂の民”だろう。(テオはまだ確認出来ていない。)
 テオは声を低めて断言した。

「あのジャガーはやっぱり誰かのナワルです。」

 ムリリョが白い眉毛の下の黒い瞳を彼に向けた。テオは続けた。

「大統領警護隊が捜査中です。出来るだけ早く捕まえて正しいルールを教えなければなりません。」

 さもないと、貴方はそいつを殺してしまうだろう、と彼は心の中で言った。それが”砂の民”の仕事なのだ。”ヴェルデ・シエロ”の存在を世間に曝してしまう様な愚行を為す者を、”砂の民”は抹殺して一族を守る。
 ムリリョ博士が不機嫌な声で呟いた。

「お前が心配することではない。」

 そして彼は歩き去った。きっと、黒猫の仕事が遅いと胸中で文句を言っているだろうな、とテオは想像した。ムリリョ博士は、黒いジャガーに変身するカルロ・ステファンを「黒猫」と呼ぶ。以前は蔑みで呼んでいたが、ステファンが気のコントロールを上達させて来ると、今は愛情を込めて呼んでいる様にテオには聞こえた。カルロが生まれる前から彼の母親のカタリナ・ステファンを見守ってきた老人にとって、「黒猫」はきっと「出来が悪いが可愛い孫」みたいな存在なのだろうと容易に想像出来た。
 ステファン大尉とデルガド少尉のコンビは”砂の民”より先にジャガーを見つけなければならない。
 テオはムリリョ博士にもケサダ教授にも同胞の粛清をさせたくなかった。

2021/09/24

第3部 潜む者  2

  昼食をゆっくり食べたいセルバ人は、急ぎの用事がなければファストフード店を利用しない。職場に近いレストランでテオはロホとデネロスと3人で楽しい昼食を取った。食事中は仕事の話をしないルールだが、テオはデネロスが出席した会議がどんな様子だったのか気になった。デネロスも、恐らく初めての体験だったのだろう、役人達が堂々巡りの話し合いをして少しも議事が進まなかったことを面白おかしく語った。

「あんな退屈な仕事を少佐は2日に一度はされているんですね!」
「私だって時々しているぞ。」

とロホがアピールした。

「アスルにもやらせようと思うのに、アイツはいつも肝心な時にいないんだ。」

 テオは笑った。

「大学の教授会議だって似たようなものさ。研究費のもぎ取りが懸かっている学科の先生達だけが必死なんだ。皆カツカツだけど、なんとかやっていけてる先生は黙って見ているか、居眠りしているね。」
「テオの研究室は余裕なんですか?」
「余裕がある訳ないだろ! 研究費の不足は世界的な問題なんだ。」

 満腹になって、彼等が店を出たのは午後2時前だった。大学も文化・教育省もシエスタは午後2時迄だ。しかしテオの研究室はもう誰もいないだろう。午後は授業がなかったし、学生達のレポートを読んで、来週の試験問題を考える仕事があるだけだ。
 大統領警護隊の友人達と別れて、彼は大学へ歩いて戻った。正門から入ってキャンパス内を横切り理系の学舎へ向かって歩いていると、人文学の学舎から1人の背が高い高齢男性が出て来た。髪は真っ白で、痩せた顔には鋭く光る目がある。純血種の”ヴェルデ・シエロ”だ。テオが苦手とする人物だった。
 テオは彼と目を合わせないように心がけながら、軽く頭を下げてすれ違おうとした。挨拶の言葉をかけても返事はないのだから、黙って通り過ぎようとした。それがこの人物に対するマナーなのだ。
 最接近した時、老人が囁きかけて来たので、テオは驚いた。向こうから声をかけて来たのは初めての様な気がした。

「昨日、黒猫がお前を訪ねて来たそうだな。」

 テオは肩の力を抜いた。言葉を交わすと何故か気が楽になる。彼は答えた。

「スィ。今彼が捜査中の事案について協力を求めてきたのです。」

 老人が黙って彼を見るので、テオはブリーフケースを前に出した。

「彼とデルガド少尉が採取した動物の体毛を遺伝子分析してみました。ご覧になりますか?」

 老人が無表情にブリーフケースを見た。短く「ノ」と言った。

第3部 潜む者  1

  お昼前にテオは大統領警護隊文化保護担当部に出かけた。研究室の学生達には、夕方4時迄に戻るが、もし戻らなければ鍵をかけて事務局に預けること、といつもの指示を出しておいた。未来の予定をはっきりさせないのがセルバ流だ。学生達も心得ており、恐らく彼等は昼食を終えるとシエスタに入り、そのまま次の別の教授の授業へ行く筈だから、研究室はお昼に施錠されてしまうだろう。
 文化・教育省までは徒歩10分だ。まだ昼休み前で、テオはいつもの手続きをして中に入った。朝送り届けたケツァル少佐は姿が見えず、2人の少尉もいなかった。ロホが1人でパソコン相手に仕事をしていたので、声をかけると、カウンターの中へ来いと手で合図してくれた。
 テオがそばへ行くと、質問される前にロホが説明した。

「少佐とアンドレは港へ出かけています。警察が麻薬関係のガサ入れをしたら遺跡からの盗掘品が一緒に出て来たので、連絡して来たのです。」
「それで少佐が出張ったんだな。アンドレはアッシー君か。」
「それもありますし、現場の勉強もさせる目的でしょう。」

 女性のマハルダ・デネロス少尉の時と違ってアンドレ・ギャラガ少尉はどんどん外へ出してもらっている様だ。警備班勤務の時に遊撃班と同様の仕事をさせられて荒っぽい体験をしたので、彼ならいきなり現場へ出しても大丈夫だとケツァル少佐は判断したのだろう。

「マハルダは?」
「彼女は2階で会議に出ています。」

 デネロス少尉は口が達者なので、そっちの方で鍛えられるのか、とテオは可笑しく感じた。適材適所と言えばその通りだ。

「マハルダの様な若い子が相手にしてもらえるのか?」
「どうせ予算の取り合いで学校部門と芸術推奨部門で喧嘩する会議ですから、彼女は座って聞いているだけですよ。もっとも彼女の性格だと、どこかで口出ししそうですがね。」

と言ってロホは笑った。
 テオはブリーフケースから「チュパカブラの体毛分析結果」の書類を出した。

「細胞がないので、DNAは取れなかった。成分分析だけだ。俺の分析と動物学のスニガ准教授の分析結果だ。どちらも同じ結果だから間違いはないと思う。」
「グラシャス。 直ぐにアスルに届けてやりたいのですが、アンドレが少佐のお伴で出かけてしまったので、明日になるかなぁ。」

 と言いつつ、ロホは横目でテオをチラッと見た。この「チラッと」は用心しなければならない。

「来週は今期の試験があるから、今日は早めに帰って試験問題を考えなきゃいけない。これでも俺は准教授だから。」

 と素早く予防線を張った。さもないと、ロホは「行ってくれませんか?」と言うに決まっている。果たして、中尉が「チェッ」と言いたそうな表情をしたので、テオは可笑しく思った。

「電話で結果を伝えてやれよ。それから書類を送れば良いさ。」
「そうします。」

 ロホは時計を見た。正午迄後10分だ。デネロス少尉がそろそろ戻って来るだろう。ランチタイムを潰してまで会議をする程の根性は、セルバ人の役人にないのだ。
 テオはもう一種の書類の存在を思い出した。

「カルロから預かった体毛の検査結果も出たんだが、どこに送れば良いかな?」
「持ち歩いていたら、そのうち出会うんじゃないですか?」

 これもセルバ的な返事だ。大統領警護隊遊撃班が探しているのは、ジャガーの居場所であって、ジャガーの遺伝子分析結果ではない。ジャガーが人間のナワルだろうが、本物のパンテラ・オンカであろうが関係ない。ジャガーの所在を突き止めて、市民に危害を加えないよう処理するのが仕事だ。
 テオは人間のナワルと動物とでは潜む場所が違うだろうと言いたかったが、黙っていた。ロホが自分の書類を片付けるのを待っていると、デネロス少尉が戻って来た。テオは歓迎の挨拶を受け、彼女が机の上を片付けてランチに出かける準備をするのを眺めた。

「友達とランチかい?」
「スィ。でも、その友達は貴方ですよ、テオ。」

と言って彼女は朗らかに笑った。ロホがパソコンを閉じながら、

「私も入れてくれよ。」

と言った。彼女が親指を上に向けてグーを出したので、和やかな雰囲気で彼等は昼食に出かけた。


第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...