ガルソン中尉とパエス少尉が去った後、テオは残った仕事を手早く片付けた。そしてケツァル少佐にメールを送った。
ーー今夜は空いてるか?
少佐は5分後に返信してきた。
ーースィ。
ーー夕食を一緒にどう?
ーー私が家まで迎えに行きます。
つまり店まで少佐主導と言うことか。いつものパターンにテオは苦笑した。早く自分がリード出来るデートにしたいものだ、と思った。店を予約して支払いも自分でして・・・。
休暇中の出勤だから定刻迄大学にいる必要はない。元から定刻などない筈だが、グラダ大学の教授達は午後6時迄は学内にいることが習慣になっていた。それより早く帰ってしまうのは、考古学部主任教授のムリリョ博士ぐらいだ。テオは大学を出て、自宅へ帰った。何時にと言う約束はなかったが、後2時間は彼女は来ない。彼はシャワーを浴び、服を着替えた。どんな店に行くのかわからないが、取り敢えずきちんとした服装を選んだ。白い襟付きのシャツに濃紺のジャケットだ。タイは付けなかった。もし必要なら少佐が車に乗せてくれる前に要求してくるだろう。
少佐はパエス少尉の活躍や昇給を知っているだろうか。少なくともパエス少尉が国境検問所の仲間と打ち解け合いそうな雰囲気になったことを聞けば、安堵するだろう。上官に尽くすつもりでしたことが、反逆罪に問われそうになって処罰された為に、パエスは卑屈になっていたのだ。しかし国民の危機を救う大役を与えられ、見事にやり遂げたことで自信を取り戻した。もしかするとガルソン中尉は彼をキロス中佐に面会させたのかも知れない。キロス中佐はパエスに頑なな態度を取ることは一生を無駄にしてしまうと説いたのかも知れない。
テオは憶測だけでものを言うのは止めようと己に言い聞かせた。少佐に伝えるのは、パエスが活躍したことだけで良い。彼の家族のことや給料の件はパエス個人の話だ。
家の外でクラクションが鳴った。気がつくと午後6時半になっていた。テオは急いで財布をポケットに入れて外に出た。出てから、アスルに何も連絡していないことに気がついた。少佐と職場が同じだから、アスルはデートのことを知っているだろうが・・・。
ベンツの中は少佐だけで、テオは助手席に座った。少佐は彼がドアを閉めると直ぐに車を出した。
「アスルには何も言っていなかったが、良かったかな?」
と念の為に言うと、少佐が「大丈夫」と答えた。どこの店へ行くのかと尋ねたが彼女は教えてくれなかった。間もなく見覚えのある道路を走り、見覚えのある店の駐車場に少佐のベンツは滑り込んだ。フランス料理店フラウ・ルージュだった。テオはちょっと躊躇った。
「俺はこんな高い店の料金は払えないぞ。」
「私も払いません。」
まさか、また接待か? テオはがっかりした。2人きりでデート出来るのは何時のことだ? いや、少佐は「空いている」と言ったのではなかったか?
レセプションで少佐は名乗った。
「ミゲール。」
直ぐに支配人が現れて、平服の2人は奥の個室に案内された。部屋に入るなり、テオは緊張した。そこで彼等を待っていたのは、フェルナンド・フアン・ミゲール駐米セルバ大使とその愛妻マリア・アルダ・ミゲールだった。つまり、少佐は親に彼氏を紹介しようとしているのだ、とテオが悟った時は、既に大使夫妻が立ち上がって彼の手を順番に握って挨拶した後だった。
「娘がいつも貴方を困らせているそうで、申し訳ない。」
と大使が言った。テオは慌てて否定した。
「いいえ、いつも俺が彼女に助けられてばかりいるんです。」
マリア・アルダとは初対面だったが、著名な宝飾デザイナーは満面の笑みで彼を見つめた。軍人でなければ誰でも良いわ、と言うことだ、とテオはうっすらと感じた。富豪夫妻は変わり者の養女が同じ裕福な家庭の男を恋人に選ぶとは思っていないのだ。社会常識がない、暴力性の、浪費家の男でなければ、彼等は拒否しない。勿論娘がそんな男を選ぶとは思っていないだろうが。
「やっとシータが男友達を紹介してくれて、一安心です。」
とマリア・アルダが言った。
「このまま軍隊と結婚すると言ったら、どうしようかと夫といつも話していましたの。」
「ママ!」
と少佐が養母を睨んだが、その表情はいつもより子供っぽく見えた。テオは可愛いと思った。いつもの勇ましい少佐の別の顔だ。
「俺は大学の准教授の給料だけで暮らしている人間です。彼女の様に強くないし、世間知らずのことも多いです。でも、彼女と一緒にいる時は最高の人生だなといつも感じています。出来ればずっとこのまま彼女と生きて行きたいです。」
言ってしまってから、これは「お嬢さんを私に下さい」と言っているのと同じじゃないか、とテオは気がついた。頬が熱くなった。まだ乾杯もしていないのに。マリア・アルダが夫の顔を見た。彼女が少し不安そうな顔をしたので、テオも不安になった。ここで大使を怒らせてしまうのか?
ミゲール大使が微笑んだ。その場の雰囲気が急激に和らいだ。
「私達の娘と一生付き合うとなると、大変ですぞ。」
と大使が言った。テオは彼に微笑み返し、それから少佐を見た。少佐は黙って彼を見返した。彼は尋ねた。
「これからも愉快な体験を一緒にしてくれるかな?」
「愉快なことばかりではありませんよ。」
といつもの口調で少佐が言った。マリア・アルダが眉を顰めた。
「シータ・・・」
少佐は母親を無視して平然とした態度で言った。
「大家に彼女が出来たと知れば、アスルは出て行ってしまいますよ。」
「アスルにあの家をやるよ。」
とテオは言った。
「俺は新しい家を探す。」
「だったら娘の家へ行って!」
とマリア・アルダ。少佐が母親を見た。
「ママ、そんなに私達をくっつけたいの?」
「だって、貴女が初めて紹介してくれた男の人じゃないの。逃しては駄目よ。」
まるでケツァル少佐が過去に全然モテなかった様な言種だ。ミゲール大使が収拾に取り掛かった。
「ドクトル・アルスト、娘の家に引っ越してもらえるかな?」
こんな場合、なんと言えば良いのか? テオは仕方なくと言う表情になっていないだろうな、と己の態度を気にしながら答えた。
「スィ。勿論です。彼女さえ良ければ・・・」
ケツァル少佐が「仕方なく」と言う顔で言った。
「試験期間と言うことでいかがです?」