ラベル 第5部 西の海 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 第5部 西の海 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022/01/25

第5部 西の海     24

 テオが外に出ると、暗がりから声をかけられた。

「ドクトル・アルスト、私はパエス中尉です。そちらの道は厨房棟の横を通ります。まだキロス中佐が食事中なので、こちらへ迂回して下さい。」

 目を凝らして見ると、男が一人立っていた。昼間会った時パエス中尉は座っていたし、じっくり顔を見た訳でもなかったので本人なのか判断出来なかったが、テオはそちらへ足を向けた。そばに来た彼に、パエスが言った。

「素直なのですね。私を警戒しないのですか?」
「ここで俺の名前を知っている人はそんなにいませんからね。」

 パエスは腕を振って歩こうと合図した。並んで静かに村の中を海に向かって下った。

「今夜は中佐の食が進まなくて、ステファン大尉もラバル少尉もフリータ少尉もまだ厨房棟から出られません。中佐が退席しないことには、彼等の食事も終わらないのです。」
「貴方は?」
「ガルソン大尉と私は家庭持ちなので自宅で食べます。ですから、私達は帰宅したことになっています。お話はガルソンと私からすることになります。」

 太平洋警備室は灯りが灯っていた。宿直があるので、夜間も照明は点けているとパエス中尉が言った。

「今夜の宿直当番はラバルなのですが、中佐はそれに気がついていません。だから今の時間に照明が点いていても気になさらない。」

 オフィスの中は昼間と違って空気が冷たかった。海からの夜風が窓から吹き込んでいた。ガルソン大尉は窓辺で真っ暗な海を眺めていたが、テオが入室すると、「どこでも自由に」と椅子を勧めた。それでテオはステファン大尉の席に座った。ガルソンとパエスもそれぞれ自席に座った。

「昼間の報告でステファン大尉にここへ来た本当の理由を尋ねました。」

とガルソンが言った。

「本当の理由?」
「スィ。普通、指導師の試しに通った隊員は本部の厨房で半年修行します。しかし彼はいきなりこちらへ派遣された。我々は彼が来ると本部から聞かされた時に、覚悟を決めていました。」

 彼は溜め息をついた。

「本部が不審を抱くのも時間の問題だと思っていました。キロス中佐は、貴方が考えておられる通り、心の病に罹っています。仕事への情熱を失い、日中はオフィスでただ座っておられるだけです。本部への定時報告は、私が彼女の動画を作成し、毎日少しずつ変化を加えて流していました。」
「本部を騙していたのですか?」

 テオはびっくりした。大統領警護隊の規則は知らないが、これはどんな企業でも軍隊でも違反行為だろう。ガルソンは再び溜め息をついた。

「キロス中佐は素晴らしい指揮官でした。気の力が大きく、技も長けていました。そして部下にも住民にも人望がありました。サン・セレスト村の住民もポルト・マロンの労働者も彼女を敬愛していたのです。だから、我々は彼女に回復して欲しかった。本部が彼女の状態を知ったら、きっとグラダ・シティに召喚して国防省病院に閉じ込めてしまうでしょう。そして新しい指揮官が送られて来る。私達はそれを避けたかったのです。しかし・・・やはり本部を騙し切れるものではない。」

 パエス中尉が言った。

「処分を受けるのはガルソン大尉と私の2人で留めて頂きたい、とステファン大尉に告げました。彼はもう暫く様子を観察してから本部に報告すると言いましたが、恐らく中佐の病は治らないでしょう。ラバルとフレータは地元出身ですから、ここに残してもらえるよう司令部に頼むつもりです。新しい指揮官にこの土地の特性を教える人間が必要ですから。」

 テオは2人を見比べた。どちらも感情を表さない先住民らしい顔で彼を見返した。テオは言った。

「話はわかりました。でも、貴方達は家族がいるでしょう? 処罰されたら彼等はどうなりますか?」

 ガルソンが言った。

「妻はアカチャ族です。身内でなんとかしてくれるでしょう。」
「そんな・・・」

 テオは言った。

「家族の為に最善の策を考えるべきです。中佐は一体、いつから今の状態になったのです?」


 

2022/01/24

第5部 西の海     23

  ステファン大尉とフレータ少尉が太平洋警備室に戻ってから1時間後に大尉からテオの携帯にメールが入った。

ーー今夜2030にこちらのオフィスに来ていただけますか?

 テオは即答した。

ーーO K

 部外者で白人のテオに太平洋警備室が抱えている問題を打ち明けてくれると言うのだろうか。
 午後の検体採取はセンディーノ医師が親しくしているアカチャ族の家族から始めた。純血種とメスティーソの夫婦だった。両方の細胞をもらった。子供達は学校から帰るのを待って、採取した。それから5軒回った。金曜日迄に全部の家を回れそうだとカタラーニが機嫌良さそうに言った。
 夕方、早めに作業を切り上げたガルドスが、診療所で清めの儀式の練習をすると、看護師が驚いて眺めていた。村の外から来る人間が何故それを知っているのか、と言う顔だった。ガルドスは医師にも教えるのだと彼女達に言った。すると彼女と仲良くなった方の看護師が、ガルドスの発音の修正を指導してくれた。
 その日の夕食はセンディーノ医師の自宅キッチンで料理された。センディーノはガルドスとカタラーニが教わった通りの簡略化された清めの儀式を見て、それからカタラーニの動画を自分の携帯に送ってもらった。

「これで私が作る食事を村の人が食べてくれたら、患者に療養食を出してみます。」

と彼女は新しい挑戦の考えを告げた。テオは検体採取の手伝いをしてもらっているお返しですと言った。
 夕食が賑やかなものになったので、危うく大統領警護隊の面会要請に遅れるところだった。テオは院生達に、ステファン大尉と会ってくる、と言って宿舎の鍵をカタラーニに預けた。

「俺が親しくしている文化保護担当部の活動を知りたいらしいよ。」

と誤魔化した。そしてカタラーニには、ガルドスに悪さをするなよ、と注意を与えた。カタラーニは笑って、「そんな恐ろしいことはしません」と言った。

第5部 西の海     22

  宿舎にしている空き家で3人で昼食を取っていると、ステファン大尉から携帯に電話が掛かってきた。軍関係の施設が3つもあるし、それなりに大きな船舶が出入りする港湾施設もあるので、サン・セレスト村は携帯電話が使えるのだ。セルバ式ハラールを習いたいのであれば、これから訪問しても良いですか、と言う内容だったので、テオは独断で構わないと答えた。電話を切ってから、院生達に昼寝をしたい人はしてもらって構わないと言うと、2人共興味津々で講習会に参加すると言った。
 半時間後にステファン大尉はブリサ・フレータ少尉と一緒に野菜とソーセージを持ってやって来た。フレータ少尉はカイナ族だと聞いて、テオはふと友人の母親の出自に疑惑がある件を思い出した。純血種のカイナ族だ。テオはつい”ヴェルデ・シエロ”のDNAコレクションに彼女を加えたい衝動に駆られたが、自重した。同じ純血種でもアカチャ族の女性達に比べると垢抜けして見えるのは、フレータが一度は大都会の本部で暮らした人だからだろう。
 カタラーニが携帯で動画を撮影して良いかと訊くと、フレータ少尉は戸惑ってステファンを見た。後輩だが彼は上官なのだ。ステファンは顔を撮影しないでくれ、と言った。音声の録音は構わないが、動画は手の動きだけだ、と制限をかけたのだ。
 最初にステファン大尉がソーセージを相手に儀式を行った。ソーセージは製造される前段階、つまり家畜を屠殺する場面でお祓いを受けるべきなのだと説明をしてから、彼はソーセージの上で手を波を表現するかの様に動かし、呪文の様な先住民言語で祈りを捧げた。次にフレータ少尉が野菜を相手に似たような動作でお祓いを行ったが、祈りの言葉が微妙に違っていた。
 一連の儀式が終わると、ステファン大尉が説明した。彼等が先程演じて見せたのは正式なアカチャ族の儀式で、大統領警護隊のものではないこと、実際のアカチャ族の家庭では、もっと簡略化された儀式が行われることを話した。そして次にフレータ少尉が実際に行われている儀式を実演して見せた。手の動きは同じだったが、呪文が短く簡潔になっていた。終わると、この家に来て初めてフレータが笑顔を見せた。

「簡単でしょう? 少し練習すれば明日からでも使えますよ。」

 笑うと若く見える、とテオは印象を持った。

「グラシャス。 コーヒーを淹れようと思うが、時間はあるかい?」
「スィ。半時間あります。」

 カタラーニが素早く動いてコーヒーを作った。ガルドスが大統領警護隊の2人に質問した。

「どちらの部族のご出身ですか?」

 ステファンが無難に答えた。

「私はオルガ・グランデ出身で、色々な血が混ざったメスティーソです。明確に所属する部族はありません。」

 フレータ少尉も慣れているのだろう、彼女もオルガ・グランデ近郊の村の生まれだと言った。普通、その答え方は、オルガ族と言う人口が多い”ヴェルデ・ティエラ”の部族だと言う意味を与える。だからガルドスはあっさり納得したが、テオはフレータが実際は出身部族について何もヒントをガルドスに与えていないことを知っていた。
 儀式について少し質問が出たが、ステファンとフレータはアカチャ族に関する答えしか言わなかった。
 シエスタの時間が終わり、テオは2人の大統領警護隊隊員を送りながら外に出た。太平洋警備室は歩いても数分の距離だ。

「急な申し出に応えてくれて有り難う。」

 彼は続けて質問を出した。

「キロス中佐は鬱病なのですか?」

 この質問はフレータ少尉に向けたのだ。フレータが足を止めた。

「何のことでしょう?」
「ちょっと噂を耳にしたのです。ポルト・マロンでね。」

 決してステファンから聞いたのではない、とテオは強調する為にそう言った。

「3年前迄は元気に勤務されていた中佐が、ある時期から急に引き篭もりになってしまったそうで、陸軍水上部隊では心配していますよ。貴方方もドクトラ・センディーノからお薬を処方してもらって中佐に飲んでもらっているのでしょう?」

 フレータ少尉は怒ったような不機嫌な顔になって海の方を見た。

「中佐はご病気ではありません。」
「しかし鬱の薬を処方されていると、俺は聞きましたが?」

 ステファン大尉が、ドクトル!とテオを止めた。個人のプライバシーの問題だ、と彼は言おうとした。しかし、テオはやめなかった。

「精神状態に問題がある”ヴェルデ・シエロ”は危険な存在ではないのか?」

 フレータ少尉が雷に打たれたかの様に、ビクッとして振り向いた。彼女はテオを睨みつけ、それからステファンに怒りの視線を向けた。ステファン大尉は仕方なく打ち明けた。

「この人は、大統領警護隊文化保護担当部と常に行動を共にされている特別な人です、少尉。」

 フレータが再び視線を向けて来たので、テオも言った。

「俺は君達一族のことを知っている。そして文化保護担当部以外の”シエロ”とも交流がある。君達の秘密は口外しないし、興味本位で接したりしない。だから本当のことを教えて欲しい。キロス中佐は心の病なのか、それとも何か他に理由があって引き篭もっておられるのか?」

 彼はステファンも知らなかったある事実を打ち明けた。

「実は、オルガ・グランデにピューマが1頭来ている。」

 ハッとステファンとフレータが息を呑んだ。”砂の民”だ。もし”砂の民”に心を病んだ指揮官の現状を知られたら、とても拙いことになる。指揮官の命が危ない。そして指揮官の現状を隠していた部下達も制裁を受ける。それは司令部からの処罰より残酷な事態になるかも知れない。
 やがて、フレータ少尉が喉から乾いた声を出した。

「私の一存で打ち明ける訳にいきません。ガルソン大尉と相談します。」


第5部 西の海     21

  うっかり調子に乗って「アミーゴ」と呼んでしまったが、将校は気を悪くした様子はなかった。それどころか、彼は自己紹介した。

「私はここの指揮官補佐のホセ・ガルソン大尉です。あちらでバイクのエンジンの修理をしているのがルカ・パエス中尉。ホセ・ラバル少尉とカルロ・ステファン大尉はご存じですな?」
「スィ。指揮官はキロス中佐でしたね?」
「カロリス・キロス中佐です。もう一人、厨房勤務のブリサ・フレータ少尉がいます。太平洋警備室は現在6名です。DNAサンプルはご入用かな?」
「ノ、結構です。」

 テオは前日のラバル少尉より人当たりが良さそうなガルソン大尉に、少し安心した。それにガルソンもパエスもラバルより若い。ラバル少尉は一人取り残された感があるのかも知れない。

「私の学生はこちらのカタラーニの他にもう一人ガルドスと言う女性がいます。医者の卵です。私達と同じ活動をしますから、見かけたら声でもかけてやって下さい。」

 オフィスから出て、テオとカタラーニは港湾施設に向かって歩き出した。

「大統領警護隊のオフィスって、普通の事務所と変わらないんですね。」

とカタラーニが感想を述べたので、テオは笑った。

「どんなオフィスを想像していたんだ? 文化・教育省の文化保護担当部のオフィスを見たことがないのかい?」
「遺跡には興味ありませんから・・・」

 カタラーニが申し訳なさそうに言った。

「軍隊だから、もっと機関銃とか銃器を装備しているのかと思いました。」
「勿論、彼等はそう言う物も持っているさ。だけど、アメリカの軍隊だって事務所はあんな感じだよ。武器保管庫は別にある。」

 文化保護担当部のケツァル少佐が机の下にアサルトライフルを置いていることは黙っていよう。テオは心の中で笑った。それに机の引き出しには拳銃ぐらい保管しているかも知れない。
 沿岸警備隊の構成員にアカチャ族がいると言う情報はなかったので、陸軍水上部隊基地へ行った。守衛に用件を告げると、既にガルソン大尉から連絡が行っていたので中に通してくれた。部隊長のオフィスで少し待たされた。当該兵士は艇整備の担当で、作業が終了する迄待ってくれと言われた。こちらの作業は数秒で済むものなので、テオとカタラーニはセルバ人らしく暢んびり待つことにした。部隊長がグラダ・シティの情報を聞きたがったので、世間話で時間を潰した。
 やがて、部隊長がさりげない風を装って質問してきた。

「大統領警護隊太平洋警備室に行かれたのですね?」
「スィ。オフィスに入れて頂きました。」
「指揮官に会われましたか?」
「ノ。指揮官補佐のガルソン大尉に応対してもらいました。」
「キロス中佐にはお会いになっていない?」
「会っていません。」

 部隊長がふーっと息を吐いた。テオがその意味を測りかねていると、彼は言った。

「中佐はこの3年ばかり引き篭もって宿舎とオフィスの往復以外は屋外に出られないのです。」
「引き篭もり?」
「スィ。部下達も当惑している様です。理由がわからないらしい。」
「3年前迄は普通に外出されていたのですか?」
「スィ。彼女はよく港に現れて、我々水上部隊にも沿岸警備隊にも声をかけてくれました。民間の積み出し港のポルト・マロンにも足を向けられて従業員達の安全に目を配っておられました。それがいつからか・・・」

 部隊長は首を振った。

「兎に角、ガルソン大尉は出来るだけ早く上官が元気を取り戻すよう、煩わしい業務などを一手に引き受けて勤務されている様です。他の部下達もセンディーノ医師が処方する気鬱の薬など、普通大統領警護隊が受け容れることのない薬品を中佐に与えている様ですがね。」

 鬱病の”ヴェルデ・シエロ”なのか? テオはカルロ・ステファンが新しい同僚達に違和感を抱いていることを思い出した。太平洋警備室の隊員達は指揮官の異常を本部に知られまいとしているのだろうか。それは、軍隊と言う組織の中では許されないことではないのか。
 やがて1時間以上経ってから、アカチャ族の兵士が現れた。彼は普通の若者で、部隊長の説明を聞くと一瞬不安そうな顔をしたが、綿棒を渡され、口の中を擦るだけだと言われると、素直に応じた。用事はアッという間に終了した。
 テオとカタラーニは部隊長に礼を言って陸軍水上部隊基地を辞した。




2022/01/23

第5部 西の海     20

  翌日、テオはカタラーニを連れて大統領警護隊太平洋警備室を訪問した。本部を訪問しても絶対に中に入れてもらえないのだが、太平洋警備室は、彼が彼自身とカタラーニの紹介の後、応対してくれている男性将校に指導師に会いたいと告げると、オフィスの中に入れてくれた。
 オフィスの中は文化保護担当部と同じように机が並び、パソコンやプリンターや書類が載っていた。カルロ・ステファン大尉は厨房棟で昼食の準備をしていると応対に出た将校は言った。

「指導師にどう言う用件でしょうか?」

と将校は民間人に対して丁寧な言葉遣いで尋ねた。テオは室内を見た。前日に声をかけてきた年配の少尉は姿が見えなかった。30代から40代と思われる男性将校が2人いるだけだ。しかも一人は机の上に何かのエンジンの様な物を置いて修理をしている様子だった。
 テオは少し躊躇ってから言った。

「こちらの言葉で何と言うのか知りませんが、ハラールを教えて頂きたいのです。」
「ハラール?」

 将校はちょっと考えてから、ああ、と呟いた。

「料理の前の清めの儀式のことですか?」
「スィ! それです。」

 テオはセンディーノ医師の小さな悩みごとを隊員に語った。村人から食事に誘われるのに、こちらから誘っても来てくれない、と。その原因は清めの儀式をしないからではないか、とカタラーニが考えついたのだ、と。

「一昨日、私達はここへ来たばかりですが、その時、ステファン大尉の厚意で同じ陸軍のトラックに乗せてもらいました。ステファン大尉はこちらの厨房で働くのだと聞いています。もしよろしければ清めの儀式を教えてもらえないかと・・・」

 応対した将校と機械の修理をしていた将校が顔を見合わせた。”心話”だ、とテオは思った。

「教えていけないと言うことはありませんが、」

と応対した将校が言った。

「私達は教わっていません。ステファン大尉に伝えておきましょう。急ぎの用事ではないのですな?」
「急ぎません。」

 すると機械の修理をしていた将校が顔を上げてテオを見た。

「アカチャ族と我々の儀式が同じと言う訳ではないが、それでもよろしいか?」

 テオはカタラーニを見た。カタラーニはちょっと戸惑った。先住民の儀式は全部同じだと思い込んでいた様だ。テオはその将校に言った。

「住民に私達が決して食べ物を粗末に考えていないと伝われば良いのかと思いますが、それでは駄目でしょうか? 白人でも食事の前に神に祈ります。」

 再び2人の将校が”心話”を行った。そして応対した将校がテオに頷いて見せた。

「確かに、我々の遣り方を住民に見せれば誠意が伝わるかと思います。」
「グラシャス。今日、明日とは言いませんから、よろしくお願いします。」

 オフィスを出かけて、テオはふともう一つ厚かましい要望を思いついた。

「私達がここにいる理由をお聞きでしょうか?」
「政府の仕事でアカチャ族の遺伝子を採取されていると言う話ですか?」
「スィ。実は陸軍水上部隊にも一人アカチャ族出身の兵士がいると聞きました。彼にも協力してもらえるよう、大統領警護隊から口添えしていただけませんか?」

 将校が微かに笑った。

「政府の仕事ですな? 電話を1本かけるだけで良いですか?」

 テオも微笑んだ。

「グラシャス、アミーゴ。」


第5部 西の海     19

 午後はアンゲルス鉱石以外の鉱山会社の波止場へカタラーニと共に出かけた。3社の小企業が共同で使用している波止場で、そこで5人からサンプルを採取出来た。アンゲルス鉱石のホセ・バルタサールから話を聞いていると言うことで、説明が短くて済んだ。そこで陸軍水上部隊にも一人アカチャ族の兵士がいると言う情報をもらった。流石に軍隊の基地にいきなり訪問は拙いので、次の日に電話でも入れようとカタラーニと話し合った。
 診療所に戻ると、センディーノ医師が自宅での夕食に招待してくれた。凝ったものは出なくて、BBQだったが、若い院生達は喜んでくれた。

「久しぶりに賑やかな夕食を取れて嬉しいわ。」

とセンディーノが言った。先住民達は食事会に来ないのかと訊くと、意外な答えが返ってきた。

「村の人達は私を招待してくれることはあっても、私の招待には応じてくれないの。理由を聞いても返事がないのよ。」
「それは・・・」

とカタラーニがちょっと考えてから言った。

「東のアケチャ族でも同じ習慣があるのですが、料理する前の食材にお祈りをしないといけないんじゃないでしょうか? 悪い霊を祓ったり、食材の霊に感謝していることを示せば、来てくれると思います。」

 テオは昼間ステファン大尉が話していたことと同じだったので、驚いた。それは”ヴェルデ・シエロ”も行うことだと言いたかったが、堪えた。

「つまり、ハラールの問題?」
「そうですね。」
「どうすれば良いのかしら? 教えてくれる気があれば、私が招待に応じてもらえない理由を訊いた時に教えてくれたわよねぇ?」
「きっと白人には理解してもらえないと思っているのでは?」

 ガルドスが少し悲しげに言った。彼女はメスティーソだが、時々純血の先住民から白人と同じ扱いを受けることがある。つまり、拒否だ。
 テオはちょっと考えてから、ふと思いついた。

「大統領警護隊も同じ種類の儀式を毎回調理する前に行うそうだ。カルロに頼んで、皆で教わらないか? それを看護師の前でやって見せたら、どうだろう?」
「大統領警護隊も調理前の儀式をするのですか?」

 院生達も医師もびっくりだ。だが宗教的なものは外国の軍隊でも行うだろう、とテオはイスラム世界の習慣を例にして言った。 

「そう言えば、大統領警護隊って先住民しか入れませんよね?」

と不意にカタラーニが言った。テオはドキリとした。

「メスティーソも入隊しているぞ。カルロはメスティーソだ。」
「イケメンですよね。」

 ガルドスは昨日一緒にトラックに乗った素敵な隊員を思い出してニッコリした。カタラーニはしかし興味があるようだ。

「陸軍に入った友達がいますが、15、6歳になる士官候補生を警護隊がスカウトに来るそうです。彼等は必ず先住民優先でしか採用しないとかで、警護隊に憧れていた友人は選から漏れてがっかりしていたことがありました。友人も僕と同じメスティーソなんですけどね。」

 すかさずテオは言った。

「俺には数人警護隊の友人がいるが、見た目が殆ど白人の男もいるし、アフリカ系の人もいる。選考の基準がどうなっているのか、外部にはわからないさ。」

 いや、大統領警護隊には決定的な選考基準がある。”ヴェルデ・シエロ”、しかもナワルを使って動物に変身する”ツィンル”しか採用しないのだ。
 カタラーニはテオの言葉に「そうなのかなぁ」と呟いたが、それ以上は突っ込んでこなかった。それで良いんだ、とテオは心の中で彼に言った。連中の正体を掘り下げようとしたら、命を失うぞ、と。

  

第5部 西の海     18

  突然カルロ・ステファン大尉がピクっと身体を緊張させ、後ろを振り返った。テオもそれに釣られて振り返り、一人の大統領警護隊隊員が近づいて来るのに気が付いた。

「ここの人だね?」
「スィ。ホセ・ラバル少尉です。」
「ブーカ?」
「ノ、カイナとマスケゴのミックスです。」

 ステファンは先輩に敬礼しようとして、己が上の階級だと思い出した。本部にいる時は忘れないのだが、ここでは何か違う雰囲気が漂っているので、つい格下に敬礼してしまう。
 ステファンの前に立ったラバル少尉は敬礼しなかった。テオをジロリと見て、それからステファンに視線を向けた。

「お知り合いですかな?」
「昨日こちらへ来る陸軍のトラックに3人の民間人を同乗させました。その一人です。」

 友人とは紹介しなかったステファンの考えを、テオは敏感に察した。カルロは新しい任地の先輩達を警戒している。万が一の時、友人に手を出されたくないのだ。
 テオは大統領警護隊を扱い慣れていない白人のふりをした。手を差し出して自己紹介した。

「グラダ大学生物学部のテオドール・アルスト、准教授です。よろしく!」

 ラバルが怪訝そうな顔をした。

「大学の教授がここで何を?」
「教授じゃなくて、准教授です。」

 テオは村民全員の細胞採取をすることに大統領警護隊の許可は不要だと知っていたが、一応断っておくべきだろうと思った。後で妨害されては困る。

「セルバ政府の依頼で先住民のDNAを採取しています。目的をお知りになりたければ、内務省のイグレシアス大臣に問い合わせて下さい。まぁ、秘密にするような話ではありませんがね。」
「先住民?」
「アカチャ族です。午前中にアンゲルス鉱石の協力で従業員からサンプル採取させてもらいました。明日は村の残りの住民にお願いして歩きます。予定では1週間こちらに滞在します。」

 テオはまだ手を差し出したままだった。ラバルはチラリとステファンを見遣ってから、視線をテオに戻し、渋々その手を握った。テオはその軍人らしい厳つい手を握ったまま喋り続けた。

「大学院生を2名連れて来ています。男と女、若い学生です。真面目な子達ですが、港湾施設に慣れていないので、もし危険な場所に行きそうな時は注意してやって下さい。よろしく。」

 やっと手を離してやると、ラバルは頷いて見せ、それからステファン大尉に「失礼します」と言って船舶が停泊している方角へ歩き去った。
 テオは声が届かないと思われる距離まで彼が遠ざかると、ステファンに囁きかけた。

「かなり年長の少尉だな。」

 ステファンが溜め息をついた。

「それで困っています。指揮官は中佐で副官は大尉ですが、残りの3人が年上の部下になるので・・・」
「本部でも大勢いるだろ?」
「本部には私の他にも若い上級将校が大勢いますよ。」
「指導師は?」
「中佐と私だけだそうです。」
「それじゃ、胸を張っていろよ。」


第5部 西の海     17

  昼食の時に、村民全員のサンプルを採る話をすると、センディーノ医師は肩をすくめた。そして以前行ったアンゲルス鉱石の健康診断で採取した検体が残っていれば良かったのに、と言った。
 シエスタの時間。宿舎に戻って昼寝をするカタラーニと、仲良くなった看護師の家に遊びに行くガルドスと別行動を取ることにしたテオは、港の方へ散歩に出た。乾季なので空気は乾いている。ビーチは幅が狭く、どちらかと言えば岩礁が多い海岸線だ。水深もかなりありそうで、海岸からすぐに落ち込んでいる箇所が多いのだろう。だから鉱石を積む貨物船が出入り出来る港が建設されたのだ。
 船が一艘着岸しており、鉱石を運んで来るトラックを待っている状態だ。
 テオは作業の邪魔にならないように、使用されていない波止場で船を眺めていた。アメリカ時代は湖の岸辺の街で育ったので、船はあまり珍しくないが、太平洋を航海する船はやはり大きく迫力がある。セルバ共和国に来てからは、ジャングルや高原ばかりで、たまに学生達と海水浴に行く程度だ。グラダ港へ行ったことはない。植民地時代からある港で、立派なコンテナバースやクレーンなどがあるそうだ。

「シエスタですか?」

 背後から声をかけられた。カルロ・ステファン大尉だ、と思って振り返ると、果たしてそうだった。

「君もシエスタかい? 新しい配属先はどうだい?」

 ステファンが隣に並んで立った。気の抑制タバコを出して口に咥えたが、火は点けなかった。

「どうと訊かれてましても・・・」

 彼は苦笑した。テオはその表情を読んでみた。

「想像していたのと違うって顔だな。」
「貴方には敵わないなぁ・・・」

 ステファンは視線をテオと同じ船に向けた。

「奇妙な任務なのですよ。」
「奇妙?」
「通常、指導師の試しに合格すると、半年間本部の食堂の厨房で働くのです。」
「はぁ?」

 厨房で働くと言うこと自体が意外で、テオは思わずそう声を出してしまった。

「厨房で料理をするのが指導師の仕事なのか?」
「仕入れた食材のお祓いをします。それから食べ物となる動物や植物の霊に感謝して料理します。時には、毒が混入されていないかチェックもします。」
「ああ・・・」

 食材のお祓いは、イスラム教徒のハラールを見聞したことがあったので、テオも理解出来た。食べ物への感謝も先住民なら普通にする。毒味も大統領警護に必要だ。しかし半年もそれをやるのか、と驚いた。

「すると本部で働く筈が、いきなり太平洋警備室に行けと言われたのだな?」
「スィ。副司令が、ここで何が起きているのか見て来い、と。」
「何が起きているんだ?」
「それが掴めない。」
「初日だしな。」

 暫く彼等は船と海と空を眺めていた。それからテオがまた質問した。

「ここの隊員達と上手くやれそうか?」

 直ぐには返事がなかった。テオが横を見ると、ステファンは考え込んでいる目をしていた。カルロ? と声をかけると、彼は視線をテオに向けた。

「ここの人達は何と言うか・・・」

 ステファンは肩をすくめたが、それ以上は語らなかった。まだ2日目だ。先輩の批評をしたくないのだ。彼は話題を変えた。

「貴方の検査の方は上手く行っているのですか?」
「スィ。アンゲルス鉱石のバルデスが営業所の方に話をつけてくれていた。診療所の医師も協力的だし、看護師も学生と仲良くしてくれている。ただ・・・」

 テオは営業所長は虫が好かないと囁いた。

「先住民やメスティーソを見下しているんだ。だから君も注意してくれ。大統領警護隊に刃向かったりしないだろうが、従業員を虐待している様子だったら、注意を与えてくれないか。トラブルにならない程度で良いから。」
「わかりました。貴方も港湾施設を歩かれる時は気をつけて下さい。船乗りは気が荒い人が多いと聞きます。」


第5部 西の海     16

  昼前に診療所に戻ると、待合室に患者はいなくて、イサベル・ガルドスと看護師1人が世間話をしていた。聞けばセンディーノ医師ともう一人の看護師は最後の患者と診察室にいると言う。テオが採取した人数を尋ねると、20代の女性1人、30代の男女1人ずつ、60代の女性2人だった。テオは人数を合計して、言った。

「目標人数には足りていないが、大臣が俺の目標人数を指定した訳じゃない。看護師の分も入れて全部で14人だ。遺伝子比較には十分だと思うが、どうだろう?」
「十分だと思います。」

とカタラーニが応じたが、ちょっぴり残念そうだ。この旅行がすぐに終わってしまう予感がして寂しいのだ。それはガルドスも同様で、

「あっけなく終わってしまいましたね。」

と言った。すると看護師が言った。

「それなら村民全員のサンプルを採ればどうです?」
「出来ないことはないが・・・」
「帰りたくないのでしょう?」

 看護師が悪戯っ子の様な笑を浮かべた。

「アカチャ族は港が出来る前から、海から来る客に慣れています。だから貴方達が村の中を歩き回って出会う人に検査協力を求めても騒いだりしませんよ。」

 テオは彼女を眺めた。純血種の先住民の顔をしてるが、もしかすると・・・。彼は尋ねた。

「昔も海から客が来たと仰いましたね? すると村の人でその他所から来た人と結婚したり、子供を産んだりした人もいたのですか?」
「いたでしょうね。」

と看護師はサラリと言った。

「白人やアフリカ系でなければどこの部族と混ざり合っているか、わかりませんもの。」
「そうか!」

 テオは手を打った。カタラーニとガルドスが不思議そうに見たので、彼は説明した。

「海沿いをやって来たり、船で訪れた人との間に生まれたアカチャ族の住民もいたんだ。その人の子孫がまだ村にいる可能性だってある。つまり、東のアケチャ族とここのアカチャ族に遺伝子が違う可能性も十分あるってことだよ。」
「そうなんだ!」

 ガルドスも目を輝かせた。

「アカチャ族が独立した一つの部族だと言う証明を探すのですね!」

 看護師は何故グラダ大学の人々が喜んでいるのかわからず、ぽかんとして見ていた。

第5部 西の海     15

  現場監督のホセ・バルタサールは50がらみの男性だった。よく日焼けしたなめし革の様な肌をした先住民だ。もしかすると見た目より若いのかも知れない。先住民は若い時期は幼く見えて男性でも可愛らしい人がいるが、ある年齢を超えると急速に大人びて加齢に従い若いのに老成して見える。それだけ生活が過酷なのだ。都会でビジネスマンとして働いている先住民は地方の人々と同年齢でももっと若く見える。
 テオはバルタサールと引き合わされた時、先住民の挨拶を丁寧に行った。東海岸のアケチャ族の挨拶だ。バルタサールは一瞬戸惑った表情を見せ、それから、「私達はこうします」と言いたげに、少しだけ手の位置を下に下げて挨拶をした。それでテオは改めてそれを真似て見せた。エルムスが上から目線でバルタサールにグラダ大学の先生と学生の作業を手伝うよう命じた。バルタサールは「わかりました」と言い、テオに「ついて来い」と手で合図をして所長室を出た。だからテオとカタラーニもエルムスに「グラシャス」とだけ言って、急いで現場監督について出た。
 山から乾いた熱い風が吹きおろす村だ。従業員達が仕事の準備をしているコンクリート舗装の広場の様な場所にバルタサールはテオとカタラーニを連れて行った。彼がホイッスルを吹くと、男達が集まって来た。先住民がいればアフリカ系の人やメスティーソもいる。海沿いだから隣国からも労働者が来ているのだ。バルタサールがテオを見た。

「貴方から話をして下さい。私は難しい話は出来ない。」

 それでテオはカタラーニに検査の説明をさせた。彼が白人の使用人でないことをはっきりさせたかった。カタラーニはこれから行う検査が政府の事業であること、目的は先住民の分布状況調査で、先住民保護助成金の予算算出の参考とすること、調査対象はアカチャ族の各世代男女2名ずつなので、協力者は名乗り出て欲しいこと(決して強制ではないですよ、と彼は強調した。)、検査は綿棒で口の内側を擦るだけなので数秒で済むし、痛みは全くないこと、協力の報酬はないが短時間で済むので決して仕事の妨害にならないことを語った。
 アカチャ族だけが対象と聞いて、早くも自分は無関係と決めつけた人達が集会から離れて行った。結果的に14名が残った。全員男性だ。テオは彼等に年齢を尋ね、20代と30代が5人ずつ、40代が3名いたので、彼等が自主的に2名選ぶよう頼んだ。50代は1人で、バルタサールではなかった。
 最終的に残った7人に、テオは自分で実際に綿棒を使って実演して見せ、細胞サンプルを採取することに成功した。
 保冷ケースに検体を入れて、テオとカタラーニは労働者達に丁寧に感謝の言葉を述べた。40代のサンプルを提供したバルタサールが尋ねた。

「足りないサンプルを集めますか?」
「ノ、診療所でも行っているので、ここはこれで十分です。それに必ずしも全部の世代、男女揃わせなければならないと言うこともありません。アカチャ族の遺伝子のパターンさえ登録出来れば良いのです。」

 バルタサールはテオの背後の風景に視線を向けて言った。

「数年前、会社の健康診断と言うことで、色々なことを検査されました。その時に血液も採られた。後で聞いた話では、その血液をアメリカのどこかの研究機関が買ったと言うことです。」

 テオはドキリとした。国立遺伝病理学研究所のドブソン博士がアンゲルス鉱石の労働者達の血液を集めていた。彼はそこから偶然”ヴェルデ・シエロ”と思われるサンプルを発見して、その遺伝子の持ち主に会おうと初めてセルバ共和国の土を踏んだ。そしてエル・ティティでバス事故に遭ったのだ。そこから彼の新しい人生が始まった。

「今日のサンプルを外国に売ったりしませんから、安心して下さい。」

 それは事実だ。問題は助成金の額だ。アケチャ族とアカチャ族が別々に助成金をもらえるのか、一つにまとめられてしまうのか、だ。

「会社の健康診断は、会社が雇った医師が行ったのですか?」
「ノ。」

 バルタサールは診療所の方を指差した。

「ドクトル・センディーノとドクトラ・センディーノです。会社がお金を払って2人に健康診断をさせたのです。この営業所の従業員だけですが。」

 では鉱山は別の医師が担当したのだ。テオはバルタサールに協力の礼を言った。
スムーズに捗ったので、もしかすると残りの日々はオルガ・グランデ観光で過ごせるかも知れない。


第5部 西の海     14

  2日目の朝。テオドール・アルストは2人の学生と共に朝食を済ませた。テオが早起きしてキッチンでそれなりの料理を作ったので、学生達が驚き、感心して歓声を上げた。

「先生、いつもこんなことをなさっているのですか?」
「いや、家じゃルームシェアしている友人が作ってくれるんだ。彼が来る前は俺も自分で作っていたがね。料理は彼の趣味なんだ。だから仕事が忙しい時や機嫌が悪い時は作ってもらえない。」

 笑顔で朝を迎えられたので、彼等は機嫌良く仕事に取り掛かった。まず診療所に行き、マリア・センディーノ医師の開業準備を手伝った。地方の労働者は始業時間にダラダラと通勤して来ることが多いが、医療機関は別で2人の看護師は時間前に出勤して来て、テオ達に色々と診療所内の物の位置や村人の様子を教えてくれた。彼女達もアカチャ族だったので、早速2人分のサンプル採取が出来た。それを診療所の手伝いをするイサベル・ガルドスが帰る迄管理することになる。
 テオとアーロン・カタラーニは港のアンゲルス鉱石サン・セレスト営業所へ行った。鉱石の積出を管理する事務所だ。社長のバルデスから所長のアダン・エルムスに細胞採取に協力するよう通達が来ている筈だった。エルムスは白人で、テオはドイツ系だと思った。きっと父親とか祖父はヘルムスなのだ。ドイツ人が薄情な国民だと思わないが、エルムスが所長と言う地位を心地良く思っている印象は拭えなかった。と言うのも、所長室に入った時、エルムスはテオに椅子を勧めたのにカタラーニを無視したのだ。使用人と思ったのかも知れないが、それでも失礼な話だ。だからテオは敢えて言った。

「うちの院生にも椅子をお願い出来ますか?」

 エルムスは失礼と呟き、カタラーニにパイプ椅子を提供した。セルバで高等教育を受けられる若者は富裕層の子供か奨学金給付対象の成績優秀な人間だ。いつの日かエルムスはその傲慢な態度のしっぺ返しを受けるだろう、とテオは思った。
 テオは気を取り直してエルムスに調査方法の説明をした。純血種もしくは先住民の血が濃いメスティーソの従業員の頬の内側を綿棒で擦るだけの採取方法だ。但し、年代に分けて男女2名ずつだ。テオが会社に求めるのは、従業員のいる場所へ案内して調査協力を要請してもらうことだった。

「注射と違って痛いことはしないし、薬を飲ませたりもしません。ただ綿棒で頬の中を擦るだけです。」
「それだけ?」
「それだけです。内務大臣が求めているのは、アカチャ族の分布状況ですから、御社の業務の妨害などは一切しません。」

 先住民保護助成金削減が目的などエルムスに言いたくなかった。多分、この男はイグレシアスが大統領選に立候補でもすれば喜んで票を入れる口だろう。テオは勝手にそう思い込んだ。

「それじゃ、現場監督に案内させましょう。」

 エルムスは席を立ち、事務所のドアを開けると、大声で人を呼んだ。

「バルタサール! ちょっと来い!」

 誰かが答えた。

「彼は現場に出ています。」

 エルムスは舌打ちして携帯電話を出した。現場監督にかけて、事務所にすぐに来るよう命令した。そして電話を終えるとテオに言い訳した。

「まだ船も積荷も来ていないのに、いつも外にいたがる男でね。まぁ、威圧的に話しかければ言うことを聞きますよ。」


2022/01/22

第5部 西の海     13

  スープとジャガイモの茹でたものだけの質素な夕食が出来上がると、フレータ少尉は軽く気を発した。食事の合図だ。しかし食堂に現れたのはキロス中佐とラバル少尉だけだった。ステファンは食器にスープとジャガイモを入れてトレイに載せ、彼等に渡した。フレータ少尉と己の分も盛り付け、各自好きな量だけパンを取って1台しかない幅の広いテーブルを取り囲む形で座った。本部の食堂では大所帯で常に誰かが交代で勤務しているので、席に着いたら勝手に食べるのだが、太平洋警備室は4人だけだ。指揮官のキロス中佐がフォークとスプーンを手に取ると、それが合図の様にラバルとフレータも食べ始めたので、ステファンも食事に手を付けた。食事中は静かにすると言うのは本部でも同じだが、人数が極端に少ないので実に静かだ。人が動く音も食器の音も椅子を引く音も聞こえない。まるで地下神殿の指導師の試しが続いている様な気分になったステファンは、少し躊躇ったが思い切って声を出した。

「ガルソン大尉とパエス中尉は後から食べるのですか?」

 するとラバル少尉が手を止めた。

「彼等は家族がいるから、家に帰って食べる。大尉はそのまま家で休むが、中尉は今夜の宿直当番だから、1時間後に戻って来る。貴方も来週から宿直当番のルーティンに入れるが、構わないでしょうな?」
「勿論。」

 ステファンは頷いた。

「夜間の港の見回りとかするのですか?」

 するとラバル少尉がキョトンとした。

「それは昼間私がしている。夜は陸軍がパトロールをしているから、我々はオフィスで朝まで電話番をする。陸軍や沿岸警備隊から出動要請があれば出かけるだけだ。」
「津波や高潮の時ぐらいです。」

とフレータが付け加えた。キロス中佐は部下達の会話に一向に関心を示さず、一人黙々と食べていた。

「宿舎の説明は受けられたのかな?」

とラバルに訊かれて、ステファンは「ノ」と答えた。

「では、ここの後片付けが終わったら、案内しよう。荷物はオフィスに置いたままでしたな?」

 その後も静かな食事が続き、最後にフレータ少尉が出したコーヒーを飲むと、キロス中佐は「おやすみ」と呟いて出て行った。3人の部下は立ち上がって彼女を敬礼で送ったが、いかにも形だけの敬意にステファンには思えた。
 ステファンはフレータを座らせたまま、後片付けを引き受けた。ラバル少尉とフレータ少尉は厨房で鍋や皿を洗っている大尉を眺めた。そしてラバルが呟く様に言った。

「今から張り切ると、半月も経たないうちに心が折れるぞ。」

 ステファンが振り向くと、彼は続けた。

「グラダ・シティにいる時は、制服を着ている時は神様扱い、私服の時は市民の中に溶け込んでいられる。しかし、ここじゃ直ぐに顔を覚えられる。私服で出かけても、何者かわかってしまう。何処へ行こうが怖がられる。友達なんて出来やしない。独りぼっちだ。入隊するんじゃなかったと後悔するばかりだ。」

 ステファンは手をタオルで拭いて、カウンターの外に出た。

「私はオルガ・グランデのスラムで育ったんです。掏摸やかっぱらいをして生活していました。そうでもしなければ母親を街角に立たせることになってしまう貧しさでしたから。自己紹介の時に言った様に父は私が幼児の時に死んだ。母方の祖父も私が5歳の時に亡くなった。我が家の男手は私だけだったのです。だから入隊して、給料をもらえる様になって家族はかなり楽になりました。神様扱いなんてされたことはないし、メスティーソだから本部でも純血種達から馬鹿にされ続けました。独りぼっちなんて平気です。仕事をもらえるなら、どんな任地でも大歓迎です。」

 ここの連中は大統領警護隊であることを後悔しているのか? ステファンは心の奥で困惑を覚えた。後悔しているから覇気がないのか? 

「私は今の仕事に満足していますよ。」

とフレータが言った。

「少なくとも、戦闘から遠い場所ですから。」
「君は女だからな。」

とラバルが鼻先で笑った。フレータはムッとしたが、言い返さなかった。
 ラバルが立ち上がった。

「後片付けが終わりましたな。では、宿舎へ案内しよう。男と女で別の家だ。中佐とフレータは女の家、大尉と私は男の家です。」

 男女で別の家に寝泊まりするのはカイナ族の風習だ、とステファンは気がついた。そう言えばフレータは純血種のカイナ族でラバルはカイナとマスケゴのミックスだ。



第5部 西の海     12

  大統領警護隊太平洋警備室の厨房は別棟だった。さらに付け足せば、食堂併設なので食堂もオフィスとは別棟になるのだ。オフィスの建物の裏手、指揮官室の背中側に当たる場所だった。ブリサ・フレータ少尉は厨房棟に入ると照明のスイッチを押した。柔らかな光が屋内に灯った。5人だけの所帯なので厨房も食堂も広くない。カウンターで仕切られているが、それがなければ一つの部屋と言っても良い広さだった。
 フレータは魚のスープを作ると言い、2人は教わった通りの食物を清めるお祓いの祈祷をして調理に取り掛かった。鍋に水を入れて火に掛けた。

「指導師の資格を取られたのですってね。」

とフリータが魚の鱗を取りながら尋ねた。ステファンはジャガイモの皮を剥きながら「スィ」と答えた。

「ここでは資格を持っているのは中佐だけです。」

とフレータは言った。

「私がここを任されているのは、私が女だからです。それに一番若いから。」
「全員で交代で料理しないのですか?」

 ステファンは階級が上だったが、ここでは新入りだったし年下なので丁寧に話しかけた。フリータは「ノ」と答えた。

「皆自分の仕事をするだけです。私も朝港へ行って魚を仕入れたり、畑へ行って野菜を分けてもらって、昼食や夕食の支度をするだけです。」
「では、私がここで働けば、貴女は別の仕事が出来るのでは?」

 フレータが顔を上げてステファンを見た。ちょっと微笑んで見せた。

「買い物に時間をかけても良いかも知れませんね、大尉さえ黙っていて下されば。」
「海岸をパトロールしたり、道路の状態を点検したりしないのですか?」
「私が?」

 フレータが手を止めた。

「本部では女性もそんなことをしているのですか?」

 逆にステファンが驚いた。

「大統領警護隊は男女で勤務内容が違うと言うことはありません。いや、陸軍でも憲兵隊でも警察でも、男女区別はありません。」

 フレータが溜め息をついた。彼女は魚の内臓を取り出し、ぶつ切りにした。鍋の水が沸騰したので、そこに魚を入れ、玉葱やニンニクも入れた。ステファンは別の鍋でジャガイモを茹でた。

「そう言えば、入隊して本部で修行している時は男達と一緒に警備に能っていました。丁度貴方頃の時にこっちへ配属されて、それっきり・・・ずっとこの場所で働いています。」
「他の方達は?」
「ガルソン大尉はもう15年こっちにおられます。少尉から中尉になられた時にこちらへ来られて、大尉に上がられて、そのまま結婚されてお子さんもいらっしゃいます。ブーカですが、所謂オエステ・ブーカと呼ばれる、オルガ・グランデに住み着いた支族の出ですから、グラダ・シティに戻るつもりはない様です。」

 フレータはちょっと背伸びして窓の向こうのオフィスの様子を伺った。厨房棟から見えるオフィスの建物は窓のブラインドが閉じられていた。上官達がこちらを伺っていないと確認してから、彼女は続けた。

「パエス中尉は大尉より古くて、17年こちらにいるそうです。昇級でガルソンに抜かれたので、同じブーカですがあまり親しくないです。中尉も結婚されています。多分愛想が悪い人と思われるでしょうが、頼んだことはきちんとして下さるので、意外に親切な人ですよ。」

 話し相手がいて嬉しいのか、フレータ少尉はステファンに新しい同僚達のことを教えてくれた。

「ラバル少尉は25年こちらにいます。恐らく中佐より長いです。港湾関係者に顔が利くので港の警備をしていらっしゃいます。あの方は独身です。」
「指揮官殿は・・・?」
「キロス中佐はグラダ・シティのブーカ族の出です。」

 と言って、そこでフレータはスープの中に塩や香辛料を入れた。

「キリッとした力強い方でしたけど・・・」

 彼女はそれ以上は語らず、ジャガイモの茹で具合を確認した。そして棚からパンを出すようステファンに頼んだ。だからステファンは言った。

「私は新参者ですから、大尉だからと言って遠慮せずに指図して下さい。命令口調で結構です。」

 フレータが微笑んだ。

「ずっと私が一番下でしたから、指図するのは慣れていません。」
「でも沿岸警備隊や陸軍には指図するでしょう?」
「ここでは誰もそんなことはしません。ただ見張っているだけです。沿岸警備隊も陸軍も私達には逆らいませんから、私達も命令しません。」

 なんだかおかしい・・・とステファンは感じた。ここの隊員達は覇気がなさ過ぎる。

第5部 西の海     11

  カルロ・ステファン大尉は陸軍水上部隊への輸送トラックから降りると、運転手の下士官に礼を言って、大統領警護隊太平洋警備室の建物に入った。見た目は隣の陸軍水上部隊の基地のボイラー室か?と思える様な小さなコンクリート造りの建物だった。ステファンがドアの前迄行くと、ドアが開いて30代半ばの男性が姿を現した。大統領警護隊の制服を着た隊員で肩章は大尉だった。
 ステファンと彼は視線を交わし、敬礼して挨拶を交わした。

「本部遊撃班所属カルロ・ステファン大尉であります。本日付で太平洋警備室厨房班に着任致します。」
「太平洋警備室ホセ・ガルソン大尉だ。指揮官補佐をしている。」

 ガルソンはステファンを建物の中に招き入れた。海側の窓が小さいのは村の家々と同じだ。海からの強風で割れないよう、小窓で明かりを採っている。薄暗くないのは東側の窓が大きいからだ。ブラインドは開いていた。広くない室内に机が4台、窓際に1台。ガルソンはステファンを奥のドアへ真っ直ぐ連れて行った。形式通りドアをノックして、少し開いた。中の人に声を掛けた。

「本部からステファン大尉が到着しました。」

 中の人の声は聞こえなかった。しかしガルソン大尉は「はい」と答え、ステファンに入れと合図した。ステファンは荷物を床に置き、室内に足を踏み入れた。戸口に1歩入り、敬礼した。

「ステファン、着任致します。」

 指揮官室は薄暗かった。ブラインドを全部閉じて、照明も薄暗かった。机の向こう側に胡麻塩頭の女性が軍服姿で座っていた。50代だと聞いていたが70歳近くに見える、とステファンは感じた。ガルソン大尉が紹介した。

「我々の指揮官カロリス・キロス中佐だ。」
「太平洋警備室へようこそ」

と彼女が囁く様に言った。そしてガルソン大尉に言った。

「ここでの任務を教えてあげなさい。」

 ガルソン大尉は敬礼し、ステファンに部屋から出る様に合図した。ステファン大尉はもう一度敬礼してからガルソンについて部屋を出た。ドアを閉じると、ガルソンが肩の力を抜いた様に感じた。
 室内にはさっきまでいなかった男女が3人、それぞれの机の前に立っていた。ガルソン大尉が声を掛けた。

「紹介しよう。今日からここで3ヶ月間厨房勤務をするステファン大尉だ。」

 彼は右に立っている男性を指した。

「ルカ・パエス中尉、車両と船舶などの乗り物の担当をしている。機械の整備なども得意だ。彼はブーカだ。」
「よろしく。」

 パエス中尉は30代後半と思われた。

「お若いですな、ステファン大尉。」

 明らかに年下の上官のステファンにパエス中尉がニコリともせずに挨拶した。まだ20代になってそこそこのメスティーソの若造が、と言う目だ。ステファンは本部でもそう言う目をよく見たので、無視した。パエスとガルソンはどちらが年上なのだろう。
 ガルソンは次にパエスの隣の机の男性を指した。

「ホセ・ラバル少尉。主に港の警備を担当している。外国から来る船を見張る仕事だ。彼はカイナとマスケゴの血を引いている。」
「よろしく。」

 ラバル少尉も年上だ。恐らく40代、パエスよりガルソンより年上だ。ステファン大尉は居心地が悪くなってきた。何故なら、3人目の先輩である厨房班のブリサ・フレータ少尉も30代だったからだ。先輩が全員年上で階級が下だ。ガルソンは大尉だが、昇級は何時だったのだろう。

「君はどの部族だ?」

とガルソンが訊いてきた。ステファン大尉はあまり答えたくなかったが、この質問は”ヴェルデ・シエロ”である限り、絶対に避けて通れない。彼は答えた。

「白人の血が入っていますが、グラダです。」

 僅か4人の先輩達が一瞬ざわついた、と彼は思った。実際は声を出さなかったが、彼等は互いの目を見合ったのだ。パエス中尉が声を掛けてきた。

「オルガ・グランデを一人で2年間制圧したシュカワラスキ・マナの息子と言うのは、貴方のことか?」

 これも答えたくなかったが、ステファンは頷いた。

「スィ。しかし私は父を覚えていません。2歳の時に彼は亡くなったので・・・」

 重たい沈黙が訪れ、不意にそれを振り払う様にフレータ少尉がステファンに手を振った。

「夕食の支度をしますから厨房へ案内します。」

第5部 西の海     10

  サン・セレスト村の診療所は女性医師マリア・センディーノと2人の地元の女性が看護師として働いていた。センディーノは白人で、隣国の太平洋岸の町の出身だったが、結婚してセルバに来たのだと言った。同じく医師だった夫は数年前に亡くなった。エル・ティティの警察署長ゴンザレスの妻子の命を奪ったのと同じ疫病だった。患者から罹患して、治療が間に合わず亡くなったのだとマリアは言った。イサベル・ガルドスが医学部生だと知ると、喜んだ。彼女の子供もグラダ大学で医師を目指して学んでいるのだが、まだ地元に帰って来ないのだと言う。
 診療所はセンディーノ家が経営しているが、村で唯一の医療機関と言うこともあり、港を利用している鉱山会社各社から少しずつ援助が出ているのだと言った。だから僻地の診療ではあるがレントゲン施設があり、簡単な手術を行える部屋もあった。特にアンゲルス鉱石は社長がミカエル・アンゲルスからアントニオ・バルデスに代替わりしてから援助を増やしてくれていると、マリアは感謝していた。テオはバルデスにマフィアのドンの様な印象を持っていたが、考えるとマフィアは地元を大切にする。バルデスも地元民にはそれなりに優しいのだ。

「アカチャ族はサン・セレスト村の構成員の9割を占めています。私は東のアケチャ族を知りませんが、内務省から貴方の調査に協力するよう要請が来ましたので、お手伝いします。」
「頬の内側の細胞を採るだけですから、健康診断の様な血液採取はしません。ただ、採取の目的をアカチャ族が納得してくれるかどうか、自信がないのです。」

 テオは正直に言った。先住民保護の予算を削るための検査だ。内務大臣は東西の海岸地帯に住む2つの先住民の集団が同じ祖先を持つと遺伝子レベルで証明して、助成金対象を一グループだけにしようと企んでいる。

「遺伝子が同じでも文化が別なら別部族ですよね。」

 アーロン・カタラーニは大臣の考え方に不満を覚えていた。マリアも頷いた。

「別部族だと言う結果が出るよう祈って検査しましょう。」

 宿舎は診療所から徒歩3分の距離にある空き家だった。マリアと2人の看護師で前日に掃除してくれたので、テーブルや椅子はすぐに使えた。ベッドは1台しかなかったので、それを小さめの部屋に移動させ、女性のガルドスに使わせることにして、テオとカタラーニは大きい方の寝室で寝袋で寝ることにした。
 セルバ共和国七不思議の一つ、どんなに辺鄙な土地でも必ず井戸がある、を裏切らず、この空き家にも井戸が裏手にあり、5、6軒で共同で使用していた。テオは炊事当番を決めてキッチンの壁に貼り出した。それから3人で村の食料品店に出かけて買い出しをした。アカチャ族は純血種の先住民で年配の女性は伝統的な襞の多いスカートを履いていたが、働ける世代や若い人は都会と変わらぬ服装だった。言葉もスペイン語で、男達は港で働いていた。女性達は村より標高の高い土地に作られた畑で野菜やトウモロコシを作っていた。もう少し南へ行けばバナナ畑があると言う。
 そう言えば往路で山を大きく迂回する様なポイントがあったが、あの辺りがバナナ畑だった、と思ったテオは、そこが以前通ったことがある道だったと思い出した。セルバ共和国に亡命する前、彼はアメリカ政府からの束縛から逃れようとエル・ティティに逃げたことがあった。その時、反政府ゲリラに誘拐され、ケツァル少佐とロホ、ステファンに救出されたのだ。ゲリラに重傷を負わされたロホを背負ってジャングルを走り、ティティオワ山の火口付近から生まれて初めて”空間通路”を抜けて出た場所が、あの道路側のバナナ畑だった。

 もう2年になるのか・・・

 感慨深いものがあった。あれは辛い事件だったが、お陰で大統領警護隊文化保護担当部との仲が深まった。信頼と信用を勝ち得たのだ。
 夕食の時、細胞の採取方法を話し合った。村の住人全員の細胞を採る必要はない。若者から高齢者まで、各世代毎に4名ずつ細胞を採っていこう。診療所に来る人の細胞は、ガルドスに任せる。ガルドスは医学生だから、マリアの手伝いが出来る。テオとカタラーニは港で港湾労働者から細胞を集める。これはアンゲルス鉱石のバルデスに協力を依頼してあるので、従業員から採取する。バルデスは内務省から話を通してもらっているので従ってくれる筈だ。
 上手く作業が運べば週半ばで終了するだろう。

第5部 西の海     9

  1週間程度の滞在ならサン・セレスト村の店で必需品を揃えることが出来ると言ったのは、ステファン大尉を拾う為に現れた陸軍の下士官だった。2人の院生と同じ飛行機でやって来たステファン大尉は陸軍基地に挨拶もせずに直接任地へ赴くのだ。それは彼の判断ではなく、大統領警護隊本部からの指示なので、陸軍基地司令官も承知していると言う。だから基地から水上部隊へ物資を運ぶトラックで大統領警護隊の隊員も運んでしまおうと言うことだ。テオは買い物をしてから夕方のバスで海辺の村へ行くつもりだったが、ステファンがトラックの荷台で良ければ乗って行くかと訊いたので、乗せてもらうことにした。
 テオが荷台に乗せてもらうことにした、と言うと、アーロン・カタラーニが助手席に乗せてもらっても構わないかと訊いた。飛行機で散々揺すられたので、トラックの荷台で乗り物酔いの限界に来るのではないかと心配していた。一同は笑って、運転手の下士官の許可をもらい、カタラーニは助手席に座った。テオとイサベル・ガルドスはステファン大尉と一緒に荷台に乗った。ネットでしっかり固定されている食糧品や生活用品の箱にもたれかかり、ネットを掴んで体を固定した。
 トラックは空港からオルガ・グランデの市街地を通り抜け、山道へ入って行った。遠去かる街並みを眺めながらガルドスが「都会生活よ、さようなら!」と叫んだので、ステファンが愉快そうに笑った。テオは彼に「試し」の内容を聞きたい衝動に駆られたが、我慢した。きっと外部の人間に漏らしてはいけない神聖な試験なのだろうと想像は出来た。呪いをかけられた人から呪いを取り除き、悪霊を追い払ったり、捕まえたりする修行だ。メスティーソの隊員でそこまで出来る人は滅多にいないと聞いたことがあったので、ステファン大尉はやはりシュカワラスキ・マナの息子として才能を持って生まれたのだ。そして祖父エウリオ・メナクからもかなりのグラダの要素を引き継いだのだろう。
 道路は舗装が終わり、ダートになった。トラックがギシギシと大きな音を立てて揺れまくった。喋ると舌を噛みそうだ。サスペンションが硬いとガルドスが文句を言い、ステファンが軍隊だから快適性は考えないと言った。彼等は気が合ったのか、話せる状態の道を走る時はお喋りして楽しんでいた。ステファンがメスティーソなので大統領警護隊だと意識せずにガルドスは話せる様だ。テオは外の風景を楽しんだ。灰色の岩石や黄色い土の山道が続いた。道幅は結構あって、アンゲルス鉱石や他の中小の鉱山会社が港への輸送路を整備していることがわかった。たまに港から戻る空のトラックとすれ違うと土埃が酷く、スカーフやマスクが欠かせなかったが、道路はティティオワ山の西斜面を大きく蛇行しながら下って行き、やがてトラック後部からでも真っ青な水平線が見え始めると、ちょっとした観光気分になった。
 途中でトラックは休憩の為に停車した。小さな集落があって、そこで飲料水を販売していた。コーラが高価だったので、テオはステファンと同じ地元でよく飲まれている甘味が付いたソーダ水を飲んだ。カタラーニは水だけで、ガルドスはレモン水を飲んでいた。運転士の下士官は持参した水筒で喉を潤していた。テオは時計を見た。空港を出てから2時間近く経っていた。ここから後どのくらいか、と訊くと、下士官は後1時間と答えた。
 セルバ人の1時間は1時間半だと思えば腹が立たない。トラックはまだ太陽が燦々と輝いている時間にサン・セレスト村に到着した。
 村はテオの想像と全く違っていた。石を積み上げて造った壁にコンクリートを薄く塗装し、屋根もちゃんとコンクリート製のしっかりした家が平地に並んでいた。メインストリートを挟んで山側に住宅、海側に商店や倉庫が並んでいた。

「高い位置に住宅があるのは、津波対策です。」

とステファンがそれとなく説明した。

「基地は海側にありますが、通信関係の施設は山側の別棟になります。」

 トラックが一軒の黄色い壁の家の前に停車した。カタラーニが降りて来て、後ろに来た。

「診療所に着きました。僕等はここまでだそうです。」


2022/01/21

第5部 西の海     8

  テオは”ヴェルデ・ティエラ”と呼ばれるセルバ先住民の遺伝子をこれまで細かく分析したことがなかった。漠然と”ヴェルデ・シエロ”と区別する為に分析するだけだった。”シエロ”達が”ティエラ”と呼ぶ場合は、”シエロ”でない人間を意味する。つまり先住民も白人もアフリカ系もアジア系もアラブ系も全部”ティエラ”だ。しかしセルバ国民が”ティエラ”と言う場合は先住民を指す。これがややこしい。”シエロ”の人口が少ないので、後者が”ティエラ”だと頭に入れておけば良いのだが、テオの親しい友人は”シエロ”なので彼は時々混乱した。
 内務大臣パルトロメ・イグレシアスがテオに依頼したのは、東海岸地域に住む”ヴェルデ・ティエラ”と太平洋岸地域に住む”ヴェルデ・ティエラ”が同じ一族なのか調べてくれと言うものだった。東のアケチャ族と西のアカチャ族が同じ先祖を持つ部族なのか、知りたいのだと言う。その理由は政治的次元のもので、言語が微妙に異なる両部族が同じ形態の祭礼を行ったり、共通の神話を持っていることなどから、居住区を管理する役人を1人だけにするか2人にするか、大臣は悩んでいるのだ。管轄する部署が一つなら予算を組み易い。テオは先住民を管理する部署を一つだけにして、担当者を部族毎に任命すれば済むことだろうと思ったが、どうやら同じ祖先を持つと思われる2つの部族を1つと見做して保護政策の予算を削ろうとしている様だ。役人の人件費の問題もあるのだろう。イグレシアス家は白人なので、先住民対策が時に厳しく、度々抗議のデモが行われる。テオはパルトロメ・イグレシアスに個人的な感情を持っていないが、亡命の際には色々便宜を図ってもらったし、保護してくれたので、取り敢えず調査の依頼を引き受けた。
 大学に1週間の予定で出張届けを出し、研究室の院生を2名連れて行くことにした。バイト代は雀の涙ほどしか出せないが、交通費と宿泊費は大学から出してもらえるよう交渉して成功したし、論文の課題に使っても良いと言う条件で男女2名が名乗り出てくれた。アーロン・カタラーニと言うイタリア系のメスティーソ男性とイサベル・ガルドスと言うスペイン系メスティーソ女性だ。ガルドスは医学部の学生で遺伝子の勉強をするために生物学部のテオの研究室に通っていた。アリアナ・アズボーンの弟子でもある。先住民に多い筋肉疲労から来る衰弱死を遺伝子の分析で対策を考えたいのだと言う。だから鉱山労働者が多い西海岸に行きたいのだ。
 週明けの月曜日、テオはエル・ティティの家からバスでオルガ・グランデに昼過ぎに到着して、空港でセルバ航空の定期便(1時間遅れた)でやって来た2人の若者と合流した。海辺のサン・セレスト村に診療所があり、そこの医師が調査に協力してくれると言うので、村にある空き家を宿舎として用意してくれている筈だ。そこへ行く前に装備品のチェックをして足りない物を購入してから村へ向かうバスに乗ろうと話し合っていると、声をかけて来た男がいた。

「オーラ、テオ! どうして貴方がここに?」

 振り返ると、カルロ・ステファン大尉がリュックを背負って立っていた。勿論軍服にベレー帽だ。髭も生やしているから、チェ・ゲバラが立っている様に見えた。ゲバラより顔の輪郭に少し丸みがあったのだが、1ヶ月も地下神殿に篭る指導師の試しの直後なのでほっそりとなって、ますますゲバラに似てきた。
 凄い、本物のエル・パハロ・ヴェルデだ!と目を丸くしている2人の院生を置いて、テオは親友と握手を交わした。

「試験に合格したんだってな! おめでとう!!」
「グラシャス!」

 ハグは好まない”ヴェルデ・シエロ”だが、ステファンはテオのハグを素直に受け容れた。彼は以前より細く見えたにも関わらず、筋肉はさらにしっかり逞しくなっているとテオの手の感触が伝えた。
 体を離してから、ステファンはもう一度最初の質問を繰り返した。

「ここで学生を連れて何をなさっているのです?」

 テオは院生達を振り返った。

「国務大臣の依頼で、先住民アカチャ族の遺伝子サンプルを採取しに来たんだ。東のアケチャ族と同じ部族であることを証明して欲しいらしい。政治的理由だよ。」

 ステファンが苦笑した。

「遺伝子が同じでも部族は違うと思いますがね。」
「大臣が分析結果を見てどう判断するかは、俺たちの知ったこっちゃないさ。」

 テオが院生達にウィンクして見せると、アーロン・カタラーニが同意した。イサベル・ガルドスは苦笑しただけだ。

「アカチャ族の村へ行かれると言うことは、ポルト・マロンへ行かれるのですね?」
「そうだったかな?」

 テオが考え込むと、ガルドスが笑った。

「先生は地名を覚えるのが下手ですね。 海辺の村はサン・セレストしかありませんよ。」
「だが、ポルト・マロンは鉱石の積み出し港だろう?」
「でも集落はそこだけです。村の外れにポルト・マロン港があるのです。」

 ステファンも「スィ」と言った。

「沿岸警備隊の基地も、陸軍水上部隊も大統領警護隊太平洋警備室も、サン・セレスト村にあります。食料品店も郵便局も診療所もサン・セレスト村にあります。」

 テオはオクタカスにあった先住民の集落に似た時代遅れの村を想像していたのだが、どうやら目的地は町の様相をしているらしかった。



 

2022/01/20

第5部 西の海     7

  約束の時間にカルロ・ステファン大尉がケツァル少佐のアパートを訪問した時、少佐はまだ夕食中だった。家政婦のカーラがステファンに食事はどうしますかと訊いたので、彼もいただくことにした。急な来客でも1人や2人の追加ならカーラは平気だ。
 向かい合って食べていると、数年前に戻った様な気分になった。カーラが帰り支度を始めたので、彼は席を立ち、彼女を見送った。この習慣も同じだった。彼女がタクシーに乗る前に彼は尋ねた。

「少佐はドクトルと上手くいってますか?」

 カーラはちょっと首を傾げた。

「休日のことはわかりません。でも月曜日の少佐はいつもご機嫌なので、上手くいっているのだと思いますよ。」

 ステファンは笑って彼女を送った。部屋に戻ると、少佐がテーブルの上の彼女自身の食器を片付けていた。彼の分はまだ残っていたのでそのままだ。彼が椅子に座ると、彼女が食器を洗っているうちに食べてしまいなさいと命じた。上官と部下というより、正に姉と弟だ。ステファンは温かいものを胸の内に感じ、その新しい感情にちょっと戸惑った。
 食事を終え、後片付けも終わってコーヒーを淹れてから、2人は改めて向かい合って座った。

「話とは何です?」

と少佐が先に切り出した。ステファンは質問した。

「指導師の試しに合格した後の最初の勤務は厨房班だと思いますが、他の部署に行かされることはよくあることですか?」

 厨房班は大統領警護隊の指導師の資格を持たなければ勤められない部署だ。本部にいる警護隊全員の食事の世話だけでなく、大統領の食事、大統領府での会食の世話もする。これには理由がある。そして指導者の資格を取った者は必ず最短でも半年は厨房班で勤務するのが慣習となっていた。(だから少佐以上の将校は全員料理が出来る。)

「他の部署?」

 訊かれて彼は言った。

「太平洋警備室です。」

 思いがけない部署の名が出て、ケツァル少佐は暫く沈黙した。偶然先日話題に出たばかりだ。指揮官のカロリス・キロス中佐は覚えているが、他の隊員は全く知らない。

「正式に辞令が出たのですか?」
「スィ。あちらの厨房で3ヶ月、それからこちらに戻って厨房で3ヶ月と命じられました。」
「エステベス大佐からですか?」
「ノ、エルドラン中佐とトーコ中佐のお2人からです。連名で辞令を出されました。」

 副司令官からの辞令なら、恒久的な地位を与えられるのではない。これは「任務」だ。

「太平洋警備室の厨房へ赴任とは聞いたことがありません。副司令お2人からの命令なら、それは臨時の身分を与えられて行う任務です。」
「やはりそう思われますか?」

 ステファンは腕を組んで考え込んだ。

「最初は本部の厨房班が定員一杯ではみ出したのかと思ったのですが、エルドラン中佐から向こうの隊員達の名簿を渡され、可能な限り情報を収集してから出発するようにと言われ、あちらで何か起きているのではと思っている所です。」
「あちらの様子は何も中佐から教えられていないのですね?」
「何も。寧ろ中佐達の方が情報を得たい様子でした。」

 ケツァル少佐も考え込んだ。本部から遠い分室で何か起きていても知りようがない。キロス中佐はマメに定時報告をしている筈だが、司令部に何らかの不安を感じさせる事象が起きているのかも知れない。

「太平洋警備室の厨房要員は1名ですね?」
「スィ。カイナ族のブリサ・フレータ少尉です。彼女と交代と言うことでもないのです。」
「他の隊員は?」
「中佐の副官のブーカ族のホセ・ガルソン大尉、同じくルカ・パエス中尉、マスケゴとカイナのミックスのホセ・ラバル少尉、以上です。キロス中佐以外は全員西海岸の出身です。」
「本部ではカイナ族とマスケゴ族はブーカとのミックスしかいませんから、確かに地域性はありますね。しかし特におかしい点はなさそうです。司令部は貴方に何を調べさせたいのでしょう?」
「エルドラン中佐はそれに関して何も仰いません。」

 ステファン大尉は冷めてしまったコーヒーを飲んだ。カップを置いて言った。

「不穏な動きがあるのであれば、副司令ははっきりそう仰ると思います。きっと何か掴みかねていることがあり、それが何か知りたいのでしょう。危険な任務とは思いませんが、軍人ですから常に用心を怠らぬよう勤務します。万が一・・・」

 少佐は弟の言葉を遮った。

「カタリナのことは私がしっかり守ります。グラシエラにはロホがいます。しかし貴方は一人で向こうへ行くのでしょう。それなら事前にオルガ・グランデで味方に出来る人々をチェックしてから行くべきです。」
「グラシャス。」

 ステファンは微笑した。

「”ティエラ”の知り合いを総動員して味方予備軍を想定しておきます。」


2022/01/19

第5部 西の海     6

  文化・教育省のオフィスにロホが帰ると、まだシエスタが終わっていないにも関わらずケツァル少佐とアンドレ・ギャラガが仕事をしていた。マハルダ・デネロスがいなかったので、オクタカスへ戻ったと思われた。人手が足りないので少佐とギャラガは昼休みを早めに切り上げて仕事をしているのだ。定刻の午後6時に帰るために。
 ロホが自席に着くと、少佐が声をかけた。

「教授のクシャミは治りましたか?」

 ロホは大学へ行くと少佐に告げた覚えがなかった。教授が彼女に大尉が来たと教える筈もないだろう。テオが彼女に告げる必要もない。上官は鎌をかけて来たのだ。ロホは素直に答えることにした。恐らく少佐は教授の本当の血統を知っているのだろうと彼は思った。だから嘘をつく必要はない。

「お昼前に治ったそうです。考古学部へ来た客はどんな成分の香水を使っていたのでしょうね。」
「間違ってもセニョリータにプレゼントしないで下さい。」

とギャラガが揶揄った。

「後でステファン大尉に撃たれますよ。」

 アンドレ!とロホが低い声で叱責した。グラシエラ・ステファンと交際を始めたことは、まだ他の職員に秘密なのだ。一般市民から畏怖の目で見られる大統領警護隊だが、この文化保護担当部の隊員は文化・教育省の職員達から友人として見られている。恋人が出来たなんて知られた日には絶対に揶揄われるのだ。
 ケツァル少佐が忍び笑いしながら書類をめくっていると、携帯電話にメールが着信した。差出人はカルロ・ステファン大尉だった。

ーー今夜お会い出来ませんか?

とあった。指導師の試しが終わったらしい。だが難関試験が終了したからと言って合格したとは限らない。少佐は返事を打った。

ーー合否は?
ーー通りました。

 淡々とした返答だ。あまりにあっさりしているので、彼女は彼が会いたがる理由を考えてしまった。

ーー貴方と私の2人だけですか?
ーースィ。場所と時間は貴女が決めて下さい。

 少佐は邪魔が入って欲しくない場合の会見場所をいつも同じ所に指定する。

ーー2000に私のアパートで。
ーー承知しました。

 ロホの机から溜め息が聞こえた。予算を組まなければならない監視計画書が溜まっていたのだ。

第5部 西の海     5

  学生達がケサダ教授を呼ぶ声が聞こえた。教授をお茶に誘っているのだ。ケサダは手で合図を送ると、残った食事を急いで食べてしまい、テオとロホに挨拶して、トレイを持って去って行った。彼の後ろ姿を見送りながらテオはロホに尋ねた。

「本当に君の用件は彼のクシャミのことだけかい?」

 ロホは迷った。テオにあの衝撃波の話をするべきだろうか。尤も教授自身がさっき言葉に出したので、テオも聞いているのだ。

「スィ、教授のクシャミです。」
「衝撃波を彼が出したのか?」
「私だけが感じたのです。デネロスとギャラガは感じていない様子でした。」
「それはつまり?」
「攻撃に使う気の爆裂波ではなく、身内に注意を促したり、呼びかけたりする時に使うものです。」

 ロホはちょっと考えて、周囲に聞き耳を立てている人間がいないことを確認してから説明を続けた。

「例えば、親が森の中や人混みで子供を呼ぶ時や、上官が己の部隊の部下だけに全員集合を掛ける時などに発する気です。ただ、先程貴方が教授に言われた様に、クシャミなどで無防備になった瞬間に発してしまう場合もあります。」
「教授のその衝撃波は大きかったのに、メスティーソの少尉達は気がつかなかったのか。」
「そうです。つまり、凄く独特の衝撃波を教授は出されたのだと思います。純血種のブーカやオクターリャ、サスコシなどにしか感じ取れない波です。」
「それにグラダも?」

とテオは付け加えた。そう考えたから、ロホはケツァル少佐に”心話”で報告してみたのだ。大臣の部屋にいても少佐にだって感じ取れただろうと思ったから。しかし少佐は無視した。

「ケサダ教授は純血種だろ?」
「でもマスケゴ族です。」

 ロホはこの時、一瞬テオの目が揺らいだことに気がついた。

「何かご存知なのですか、テオ?」

 ロホは鋭い。テオは己が隙を見せてしまったことを悟った。だが、「あのこと」は秘密にすると、ムリリョ博士と約束したのだ。だから彼はロホの顔を真っ直ぐに見て言った。

「今朝の教授のクシャミのことは忘れた方が身のためだ、ロホ。」

 ロホの目に「納得がいかない」と言う表情が浮かんだ。テオはどう言えば彼を納得させられるかと考え、”ヴェルデ・シエロ”流の語り方を思いついた。

「彼がどの部族の出身だろうと、彼をマスケゴとして育てた人の気持ちを考えてやってくれないか? そして彼はマスケゴとして生きているんだ。それを尊重して差し上げよう。君も古い考えの実家を出て新しい君自身の家を作ろうとしているんだ。理解出来るよな?」

 ロホが目を遠くへ向けた。そして呟いた。

「サスコシのメスティーソが純血のグラダを普通の子供として育てた様に・・・」
「そうだ。」

 改めて向き直ったロホの目はもう迷いがなかった。

「グラシャス、テオ。納得しました。今まで経験したことがない強さの衝撃波を感じ取ってしまったので動揺してしまいました。大尉になったばかりなのに、恥ずかしいです。」
「恥ずかしいことはないさ。ここは戦場じゃないんだ。だけど、そんなに大きかったのかい、彼のクシャミの衝撃波は?」
「スィ。これでやっとわかりました、少佐があの教授を怒らせるなといつも仰っている意味が・・・だからセニョール・シショカは彼に屈したのですね。」

 テオとロホは笑った。

「ところで、教授が文化保護担当部へ出向いたのは、どこかの遺跡を新たに発掘するためかい?」
「ノ。先日発見されたオルガ・グランデ聖マルコ遺跡の見学をなさりたいそうです。恐らく、ミイラの中に仲間外れがいないか、確認されるのでしょう。」

 ああ、とテオは納得した。以前ムリリョ博士から博物館収蔵のミイラの中から”ヴェルデ・シエロ”のものを探し出せと強制的にバイトをさせられたことがあった。ケサダ教授はそんな手間を後日に行いたくないので、自ら遺跡を見て幽霊の有無を確認するのだ。”ティエラ”の幽霊は生きている”ヴェルデ・シエロ”がミイラに近づくと怖がって遺体の中に隠れてしまうが、”シエロ”の幽霊は隠れない。だから助手ではなく教授自らが見に行く必要があるのだ。
 教授は生まれ故郷のオルガ・グランデを懐かしがって見に行く訳ではないのだ。恐らく10歳になるかならぬかのうちに離れてしまった故郷、母親もグラダ・シティに引き取ってしまっている現在は、未練がないのかも知れない。彼の胸の内は誰にもわからない。



第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...