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2022/06/06

第7部 渓谷の秘密      17

  グラダ大学考古学部の考古学上の発見はンゲマ准教授と彼の弟子達に任せ、テオとロホは陸軍のキャンプに戻った。ケツァル少佐とアスルもアレンサナ軍曹と共にテントの外に出て来たところだった。

「国境警備隊に不審な出入国をする人物への警戒を要請しておきました。」

と少佐は報告し、それからちょっと苦笑した。

「向こうは、いつもしていることだと不機嫌でしたけどね。」

 きっと少佐は大統領警護隊の国境警備隊責任者に”ヴェルデ・シエロ”の言語でこちらの状況を説明した筈だ。その証拠に、”ティエラ”のアレンサナ軍曹はテオにそっと囁いた。

「スペイン語で喋って欲しいよな・・・」

 スペイン語で話すとマズい内容だったのだ。テオは肩をすくめただけだった。
 その夜、遺跡のキャンプ地でもう1泊した。朝になると、少佐がアスルとアレンサナ軍曹に挨拶した。

「お邪魔しました。発掘隊が無事に調査を終える可否は、あなた方に掛かっています。任務の成功を祈ります。」
「グラシャス。」

 アレンサナ軍曹とアスルが敬礼した。テオも別れの挨拶をした。軍曹とは握手したが、アスルにはいつもの様に素っ気なくそっぽを向かれたので、苦笑した。ロホは愛想良く陸軍の兵士達に声をかけ、彼等はジープに乗り込んだ。
 来た道を走って戻り、トロイ家のそばへ着いたのは午後になりかけた頃だった。運転していたケツァル少佐が、特殊部隊が野営した岩場に似た更地に駐車して、休憩を宣言した。携帯食と水で昼食を取り、1時間の昼寝をした。木陰が涼しく思えるのだが、案外虫などが落ちてくる恐れがあるので、そこは避ける。車の後部ドアを開いてタープを張った。3人並んで寝るのは狭いので、ロホが車から少し離れて場所を確保した。
 テオは少佐と並んだ。時間を無駄にしない少佐は直ぐに目を閉じて眠ってしまった。テオは眠れなかった。場所が場所だ。すぐそばに惨劇が起きた民家が見えていた。周囲に張り巡らされた黄色いテープがそのままだ。半月も経てば雨風で破れて切れてしまうだろう。民家は近隣の住民が犠牲者の弔いと浄化を兼ねて焼き払うのだと言う。そこで営まれていたトロイ家の平和な生活は2度と戻ってこない。テオは会ったこともない人々の不幸を思い、胸の内で冥福と未来の幸運を祈った。
 アベル・トロイに憑依して家族を殺害させた悪霊は浄化された。しかし別の悪霊の気配が近くにあった。これは偶然なのだろうか。それとも何か関係があるのか。大統領警護隊文化保護担当部は、カブラロカ遺跡の発掘がこれからも続くことを考慮し、この付近の悪霊の管理をしたい様子だ。今の所、悪霊が閉じ込められていると思われる塚は1基だけだった。まだあるのか、それで終わりなのか、全く見当がつかない。

 ドローンで調査してみようか?

 テオがそれを思いついた時、岩陰のロホがむくりと体を起こした。銃を掴んでいるのが目に入ったので、テオも思わず体を起こした。

 何かいるのか?

と思った直後、腕にチクリと痛みを感じた。
え? と腕を見ると、赤い鳥の羽が目に入った。同時にロホが藪に向けて射撃した。ケツァル少佐が跳ね起き、薮の中でこの世の物とも思えない悲鳴が上がった。
 テオは羽を掴んだ。細い小さな針が付いていた。

 吹き矢だ!

 彼は少佐を見た。少佐が彼の肩を掴んだ、彼女が何か言ったが、もう聞き取れなかった。テオの意識は急激に遠ざかり、闇に沈んだ。

 

2022/06/02

第7部 渓谷の秘密      16

  ンゲマ准教授はメサの上で見つけた蓋をされた開口部の写真を見せてくれた。50センチほどの直径を持つ円形の窪みで、石が詰め込まれている様に見えた。

「もしこれがサラの石を落とす穴なら、下の部屋の中心にどの様な計測方法で合わせて穴を開けたのか、研究しなければなりません。」

 考古学者の研究に終わりはない。テオが彼の相手をしている間に、アスルが尾根から降りて来て、ケツァル少佐とロホと共に情報交換を行なっていた。アスルは、この日はもう澱みが見えなかったと断言した。前日の異様な気配を発した人物は、己の活動拠点に帰ったのだろうか。

「追跡して正体を調べたいのですが・・・」

 少佐が残念そうに言った。

「文化保護担当部の担当範囲を超えてしまいます。遊撃班を呼ばなければなりません。」
「衛星電話を使われますか?」

 アスルがチラリと陸軍のテントに視線を向けた。

「遊撃班が来るにしても、2日かかりますね。」

とロホが溜め息をついた。待っている間に怪しげな気を発した人物が遠くへ行ってしまわないか心配していた。追跡の手がかりを失うことも心配だ。少佐がアスルに尋ねた。

「一番近い南部国境警備隊は何処にいます?」

 アスルが携帯を出した。圏外だろうとロホが指摘しようとすると、彼はメモを見て言った。

「トレス村です。ミーヤの国境検問所が本隊で、トレスが分隊ですが、西海岸に検問所がないので、南部の警備隊の4分の1がトレスにいます。連絡を取りますか?」
「スィ。」

 少佐はアスルと共に陸軍のテントへ向かった。残ったロホはテオとンゲマ准教授のところへ行った。
 テオがオクタカスで洞窟に入った時の話をンゲマ准教授と助手達に語っていた。落石事件の話ではなく、洞窟内の壁や足元の様子の説明だった。ンゲマ准教授はテオと共に洞窟に入ったフランスの発掘隊の報告を聞いていたが、写真がなかったのでテオの話に真剣に耳を傾けていた。入り口付近は神殿の様な彫刻で飾られていたが、歩いて数分後にはただの素っ気ない岩壁になったこと。足元はほぼ平らで、いかにも人工的な手が入った床であったこと。オクタカスの審判の部屋はコウモリの巣になっていたので、床にコウモリの排泄物や体毛が山積して、不潔であったこと。

「ここの洞窟の入り口は樹木が茂ってコウモリの出入りの邪魔になっていた様子なので、連中が出入りするのは見たことがないな。」

とンゲマ准教授が助手達に同意を求めた。助手達もそれを認めた。

「だがコウモリがいないからと言って、危険生物がいないとは断言出来ない。」

 ンゲマは強い光を出せる携行ライトを数個持って来ていた。最初からサラの存在を確信していたのだ。テオはもう一度あの奇妙な裁判の場に行きたいと思わなかったので、「成功を祈ります」と言った。ロホを見ると、ロホは肩をすくめただけだった。



2022/06/01

第7部 渓谷の秘密      15

  墓と思われる蟻塚はそれ程の数でもなく、赤く変色していたのは最初に見つけた一つだけだった。テオはあれっきり声も臭いも感じ取れなかったし、”ヴェルデ・シエロ”達も何も見つけられなかった。ただ、ケツァル少佐が人間が歩いた踏み跡とタバコの吸い殻を2本見つけた。テオは慎重にその吸い殻をビニル袋に収納して、リュックサックに仕舞った。

「こんな奥地に来てタバコを吸っていたなんて、尋常じゃないな。」

と彼が感想を述べると、そうでもないですよ、とロホが苦笑いした。

「国境が近いですから、隣国の住民の居住地区がここから歩いて3時間の距離にあります。」
「それじゃ、悪霊使いは隣国から来たのか?」
「古代は国境がありませんでしたからね。カブラ族は隣国にもいるし、今は往来がなくても植民地化前は普通に往来していたでしょう。」

 少佐が肩をすくめた。

「ケサダ教授の研究分野です。」
「陸路の交易路か・・・」

 テオは南の空を見た。

「向こうにも”シエロ”はいるのか?」
「子孫はいるでしょう。でもママコナの声を聞ける能力は失われていると思います。夜目が利く程度でしょう。周囲と異なる能力を持っていると、仲間の近くにいる方が生き安いですから、かなり古い時代にセルバ側へ子孫達は移動した筈ですよ。」

 普通の人間の中で育った少佐が言うと説得力があった。テオは近くの蟻塚に視線を下ろした。

「それじゃ、悪霊使いは”ティエラ”と考えて良いのかな?」
「油断禁物ですが、私は一族の波長を感じませんでした。ですから”ティエラ”の異能者だと思いたいです。」
「私もです。」

とロホが同意した。

「”ティエラ”の異能者にも厄介な力を持つ人がいます。己の能力に気がついてそれを使いこなせる人間が一番手強いです。戦い方が私達と違いますからね。」

 普通の住民の墓地と思われる場所は見つからなかった。罪を犯さない住民は家族の近くに埋葬されたのだろうと少佐とロホは話し合った。テオは、昨夜宿泊した遺跡とこの日見つけた古代の町の跡や罪人の墓地跡を思い出し、ジャングルの中に大きな人間の生活場所があったのだなぁと感慨深く思った。
 再び遺跡のキャンプへ戻った。戻りながらテオは町の遺跡の写真をさらに撮影した。ンゲマ准教授に見せ、ケサダ教授にも土産に見せるつもりだった。ンゲマ准教授はサラの存在を確認しただろうか。
 夕刻、遺跡のキャンプに戻ると、大学のキャンプはちょっと興奮した雰囲気が漂っていた。アレンサナ軍曹に尋ねると、准教授と数名の学生がメサに登り、サラの石を落とす開口部らしき箇所を発見したのだと言う。
 早速テオと少佐はンゲマ准教授のところへ行った。ンゲマ准教授は彼等を見て、幸せそうな笑を見せて出迎えた。

「見つけましたよ!サラに違いない!」
「穴でしたか?」
「蓋をされていますが、円形の穴がメサの上にあります。後は洞窟の中に入って、中に円形の審判の部屋があることを確かめて、天井の穴とメサの穴が同一の物であることを確認しなければなりません。蓋を崩す訳にいきませんから、計測が必要です。」

 クエバ・ネグラの海底遺跡を発見したサン・レオカディオ大学のリカルド・モンタルボ教授に負けない興奮度だ。テオは取り敢えず「おめでとうございます」と言った。少佐は慎重に、「洞窟に入る時は、必ずクワコ中尉を同伴して下さい。」と忠告を与えた。


2022/05/30

第7部 渓谷の秘密      14

 尾根と言っても標高が低いので、登山のレベルではなかった。トレッキング程度だ。ロホを先頭に、テオを挟んでケツァル少佐が最後に並んで歩いた。通常は女性が真ん中だろうとテオは言ったが、いつもの如く無視された。民間人で”ティエラ”だから、真ん中はテオの位置なのだ。ロホも少佐も足音を立てない。木の葉が擦れて音が出るのはテオが動く時だ。 尾根を越えて、低地に降りると、渓谷と違って湿度が低くなった。川はなさそうだ。
 南に向かっていると、テオの耳に人の話し声の様な音が聞こえてきた。彼が小声でそれを少佐に囁くと、彼女は首を振った。聞こえないのだ。ロホも気に留めていないので、聞こえていないらしい。つまり、これはテオだけが聞き取れる霊の声だ。彼は緊張したが、ロホはそれほど重要とは考えていなかった。

「真っ昼間に大声を出している霊は大丈夫ですよ。」

 どう大丈夫なのか?と尋ねる間もなく、声が静かになった。こちらの話し声が霊に聞こえたのだろう。藪を掻き分け、開けた場所に出た。苔や蔦に覆われた石の壁や床が見て取れた。低木が生えているので全体像が見通せないが、結構な面積がありそうだ。少佐が囁いた。

「カブラロカの住民が住んでいた地域と思われます。安全を確認した後でンゲマ准教授に教えてあげましょう。」
「それじゃ、俺が聞いた声は?」
「陽気な古の住民達でしょう。」

 悪霊ではない、と言われて、テオはホッとして肩の力を抜いた。ロホが前方を銃先で指した。

「澱みが見えたのは、もっと向こうです。恐らく、そっちに墓地があるのでしょう。」

 古代の町の遺跡の中を慎重に足を進め、遺跡を傷つけないように細心の注意を払って歩いた。テオはンゲマ准教授やケサダ教授に見せるために写真を撮影しておいた。

「現代のカブラ族はここへ来ないのか?」
「植民地化された時に彼等の先祖は捕まって海の近くへ集められました。2、3世代はここを覚えていたかも知れませんが、現在の人々は言い伝え程度の知識しか持っていないでしょう。もしかすると、トロイ家の息子はその言い伝えを確認しようと冒険に来て、悪霊に捕まってしまったのかも知れません。」

 テオは遺跡を振り返った。そして心の中で言った。

 お喋りしている暇があるなら、子孫を守ってやってくれよ。

 遺跡を抜けるのに半時間かかった。石組がぐらついて足元が覚束ない箇所があったり、藪になって抜けられず、迂回しなければならない箇所があったり、で、考古学者には楽しい場所だろうが、ただ歩いている人間には散歩に不向きだった。
 再び森に戻り、ロホがリュックサックを探って、ネックレスを出した。黒い小さなビーズのネックレスで、テオの首にかけてくれた。

「お守りです。悪霊避けにどの程度効果があるかわかりませんが、憑依されるのは防げると思います。」
「グラシャス! 悪霊に襲われたら、憑依される他にどんな支障が出るのかな?」
「邪気の為に病気になったり、怪我をしたり・・・」
「それは防げないのか?」
「どれだけ防げるのか、悪霊の力によります。」

 ロホは申し訳なさそうに言い訳した。

「父や長兄ならもっと強力な魔除けを作れるのですが、私は四男ですから・・・」

 つまり、マレンカ家に代々伝わる秘伝の魔除けは教わっていないと言うことか。テオは納得した。
 少佐が彼等の遣り取りを聞いていたが、テオの不安を取り去る為に言った。

「ロホか私のそばにいれば大丈夫です。」

 ”ヴェルデ・シエロ”の中でも最強と言われるグラダ族とブーカ族だ。テオは彼等を信じていたが、悪霊の正体がわからないことが気になった。邪気を放って、それに触れただけの人を衰弱させ死に至らしめたネズミの神様より強いのだろうか。 
 町の遺跡から小一時間歩いて、地面がかなり乾いてきた。植物の様子も少し変化した。背は高くないが頑丈そうな樹木が生えていた。その木がまばらになる辺りに蟻塚があった。白っぽい蟻塚を2つ眺め、3つ目は赤い色をしていた。周囲の土の色とは違う、気味が悪い黒みがかった赤だ。テオは不快な臭いを感じた。彼が足を止めると、少佐とロホも立ち止まり、ロホがテオを己の背に隠す形で立った。少佐が囁いた。

「これは開けられていません。霊はまだ地下にいます。」

 テオは地図を出し、歩いてきた行程の地形を思い出しながら、現在地を探った。ロホが振り返り、テオが指したポイントを見て、空を見上げた。太陽の位置を確認して、それからテオに頷いて見せた。テオは地図に印を記入した。ロホがリュックサックから木で作った人形の様な物を出し、蟻塚の上に刺した。

「封印かい?」

 テオが尋ねると、彼は首を振った。

「ただの標識です。触るな、と言う警告です。」

 まだ眠っている悪霊には手を触れないで、彼等は探索を続けた。



第7部 渓谷の秘密      13

  アスルが尾根のキャンプへ戻ると言うので、ロホもついて行った。2人で交代しながら昼間の嫌な気配が近づかないよう見張るのだ。テオはケツァル少佐と共に陸軍のキャンプのそばに残った。車の後部席を倒し、簡易ベッドを設え、少佐はそこに寝て、彼は陸軍のテントに入れてもらった。兵士達は交代で警護に当るので、無駄なお喋りはしないで寝ていた。着任した当初は誰も人間がいないジャングルの奥地だと気楽に考えていたが、麻薬組織が彷徨いているかも知れないと言われて、状況が変わったのだ。若い兵士達は緊張していた。
 大学のキャンプも静かだった。学生達は昼間の発掘作業で疲れていた。そろそろ町に戻って1週間の休憩に入りたい頃だろう。別の学生と交替する予定の人もいる。ンゲマ准教授は洞窟の中を探検したのだろうか、とテオは考えた。もし洞窟がサラなら、尾根に石を落とす穴がある筈だ。アスルは何も言わなかったから、まだンゲマ准教授は尾根に登っていないに違いない。
 夜が明けると、渓谷は冷んやりとしていた。湿度が高いので寒く感じないが、爽やかな朝とは言い難かった。陸軍警護班は既に朝食の支度を始めており、発掘隊でも炉の火を大きくしてスープを煮込み始めた。テオは雨水を溜めたタンクの下で顔を洗い、自分達が持参した食糧を出して朝食の準備をした。少佐が森のどこかで着替えをして戻って来た。着替えたのは下着だけだが、それでもさっぱりした表情だ。ロホとアスルを待たずに朝食を取った。

「今日はどうする?」
「昨日の場所をさらに西へ探索してみます。」

 そこへロホとアスルが揃ってやって来た。アスルは陸軍の朝食を取りに行ってしまい、ロホだけがテオ達と合流した。

「昨晩は平和でした。」

と彼は報告した。

「尾根から見た限りでは、異常なし。ただ、南西の方角で空気が澱んでいる地点があります。」

 そんなことも見えるのか、とテオは内心感心した。少佐が頷いた。

「何かがいる様です。もしかすると我々を誘き寄せる罠かも知れませんが、確認の必要があります。」
「俺達が探索に出掛けて、ここは大丈夫なのか?」

 テオが単純に心配すると、ロホが肩をすくめた。

「アスルがいます。」
「ああ、そうだった・・・」

 テオはまだアスルが超能力を使って戦う姿を見たことがなかった。彼が知っているアスルの戦いは白兵戦だ。格闘技の達人なので、腕力と技で敵を倒すのだ。しかしアスルは純血種の”ヴェルデ・シエロ”で、能力的に高いと評されるオクターリャ族だ。爆裂波での攻撃も半端ないだろう。

「悪霊が墓から出て来ているのだろうか?」
「それなら封じ込めるのは簡単ですが・・・」

 ロホが顔を顰めた。

「悪霊使いが相手なら、厄介です。」
「悪霊使い?」
「死者の霊を呼び出して悪いことに使う悪い連中です。普通の人間なので浄化出来ないし、捕まえても本人に呪いを解く力を使わせないと悪霊が暴走してしまいます。最悪な場合は、悪霊使いに呪いを解く力がないこともあります。」

 テオは不味いコーヒーを飲む手を止めた。

「そんな場合はどうするんだ?」
「悪霊をそいつに憑依させて人間ごと消滅させます。一番やりたくない技です。」

 ロホが少佐を見た。少佐も肩をすくめた。

「私にその技は使えません。祈祷師の家系である貴方にしか使えない。私は貴方を守ることしか出来ませんから、もし悪霊使いを見つけたら、必ず私を呼んで下さい。」

 テオはまた別の疑問を抱いた。

「君達の結界は”ティエラ”には効果がないんだろ?」
「物体に効果がないと言うだけです。」

 ロホが言った。

「霊は封じ込められます。私は経験がありませんが、”ティエラ”のテレパシーとか言う能力も封じ込められますよ。」

 どうも「神の次元」の会話を完全に理解しきれないテオは黙り込んだ。そこへアレンサナ軍曹が朝の挨拶に来たので、その会話はそこで終わった。

2022/05/29

第7部 渓谷の秘密      12

  トロイ家のそばで野営する予定だったが、急遽変更することにした。装備はまだ車に積んだままだったので、車に乗り込むとテオ達はすぐにカブラロカ遺跡発掘現場に向かった。ケツァル少佐が先刻の嫌な気配の存在を気にしたのだ。1人で大勢の”ティエラ”を守っているアスルに注意喚起する必要があると彼女は判断した。
 遺跡へ向かう道はさらに細く、轍の通りに走らないとぬかるみに落ちそうだ。随分湿気の多い渓谷だ、とテオは感じた。そのうち日当たりが良くない場所に入り、植生が貧しくなってきた。大きな樹木が減り、低木だらけだ。道は川から離れ、背が高い木が茂る傾斜地へと移動し、凸凹を我慢すればぬかるみより走りやすくなった。ロホが地面に残る石組に気がついて、古代の道の跡です、と教えてくれた。
 暗くならないうちに遺跡に到着出来た。テントと小さなプレハブ小屋があり、細やかな集落を形成しているかの様だ。ンゲマ准教授の発掘チームはその日の発掘作業を終え、出土品の分類や洗浄をしていた。夕食当番も忙しく働いていた。
 アレンサナ軍曹と部下達は大統領警護隊の車両に気がつき、駆け寄って来た。ロホが緑の鳥の徽章を提示するより先に彼等は整列して敬礼した。
 ケツァル少佐とロホが降りたので、テオも運転席から出た。

「今日は発掘隊とは関係ない要件で来ました。」

と少佐が軍曹に説明した。

「しかし、あなた方にも知っておいてもらった方が良いと判断すべき状況が発生したので、ここに来た次第です。クワコ中尉はまだ監視中ですか?」
「その筈です。」

 アレンサナ軍曹は尾根の監視場所を振り返った。キャンプ地からは人がいる様子が見えないが、そこにアスルのキャンプがあるのだろう、とテオは想像した。ロホが暢んびりと言った。

「彼はすぐに来ますよ。」

 軍曹が自分達のキャンプを手で示した。

「あちらで休憩されてはいかがですか? 悪路のドライブは疲れるでしょう。」

 ケツァル少佐が警護任務の最高責任者だと知っているので、軍曹は緊張していた。彼女の機嫌を損なうと、彼の軍歴に傷が付きかねない。少佐は微笑んで見せた。

「グラシャス。みんな楽にしてよろしい。各業務に戻りなさい。」

 軍曹が解散の合図を出したので、兵士たちはそれぞれの持ち場へ戻った。学生達が、ちょっと好奇心に満ちた目で見るのを感じながら、テオは軍人達について陸軍のキャンプサイトへ行った。夕食のシチューが煮える良い匂いがして、空腹を感じたが我慢した。護衛隊も大学の発掘隊も余分な食糧は持っていないだろう。緊急時の非常食でもないのだから、客が彼等の食糧を食べてしまってはならない。しかし、軍曹が言った。

「クワコ中尉がいつも森の中で食材調達して下さるので、十分な量があります。遠慮なく召し上がって下さい。」

 勿論アスルは学生達の分は獲らないだろう。警護についている陸軍兵の労いの為に短時間で出来る狩りを行なっているに違いない。
 確かにアスル伝授の味付けだと思える野趣溢れる野豚のシチューを堪能しているところへ、やっとアスルが現れた。上官のケツァル少佐とロホに敬礼して、テオには頷いて見せてから、アレンサナ軍曹に告げた。

「南西の尾根の向こうに警戒しろ。こんな場所に山賊が来ると思えないが、殺人事件で無人になった家に引き寄せられる連中がいないとも言えないからな。」

 南西の尾根の向こう、つまりテオ達が遭遇した「嫌な気配」がいると思われる方角だ。アスルの言い方は、物好きな空き家荒らしを警戒しろと陸軍兵に命じた様に聞こえたが、恐らく彼は、と言うより、彼も、嫌な気配を感じたのだ。
 軍曹が承知と返答して、部下にトランシーバーで指示を出した。
 軍曹を同席させたまま、アスルは焚き火を囲んで上官達とテオと共に夕食を取った。話題はトロイ家の事件を発掘隊がどこまで知っているかと言うことだった。ンゲマ准教授と学生リーダーには事件の顛末がやや詳細に伝えられているが、学生達には動揺と不安を与えないよう、世間で流されているニュース以上の情報を与えていない、と軍曹が説明した。「やや詳細」と言うのは、錯乱した少年が家族を殺害して、現在勾留中と言う程度だ。大学側は世間同様事件が麻薬絡みだと思っている。学生達は渓谷入り口の民家が賊に押し入られ、家人に犠牲者が出たが、犯人は逮捕されたと伝えられている、と軍曹が言った。これは准教授が捻り出した嘘の情報だ。本当のこと、世間で信じられている事件の概要は、発掘が終わってから知らされるだろう。或いは、買い出し当番で出かけた学生が何か真実に近い情報を得たかも知れないが、テオが観察した限り、学生達は動揺している様子がなく、平素を保っていた。
 ケツァル少佐、ロホ、アスルは”心話”で互いの情報を交換し合った様だが、どのタイミングで行ったのか、テオにはわからなかった。当然アレンサナ軍曹は何も知らない。軍曹と部下達も麻薬絡みの犯罪に純朴な先住民の農家が巻き込まれた不幸な事件だと信じていた。だから少佐は言った。

「麻薬組織の残党が隠れている可能性があります。あなた方は学生達を守る任務をこれ迄通り続ける訳ですが、学生が警護範囲から出ないよう、しっかり見張って下さい。」

 つまり、アスルの守備範囲から出すなと言うことだ。しかしアレンサナ軍曹は拡大解釈した。学生が麻薬組織と接触することを防げ、と捉えたのだ。彼は頷いた。

「承知しました。彼等が外部の人間と接触しないよう、しっかり見張ります。」

 

2022/05/27

第7部 渓谷の秘密      11

  少し傾斜になった滑らかな岩場を登り、腰を下ろすのに丁度良い形状の岩を見つけて、テオはそこにケツァル少佐を座らせた。己は少し離れた位置で岩場に座った。

「今回の事件に直接ではないが、アデリナ・キルマ中尉が関わったんだな。」
「憲兵隊の護衛を指揮したのです。捜査の手伝いもしたでしょうね。ゲリラの犯行の疑いも当初出ていた様ですから。」

 キルマ中尉の第17特殊部隊は、テオがアメリカ合衆国からセルバ共和国に亡命して来た時、内務省の命令でテオの家の警護を担当した。実際には運転手兼護衛のエウセビーオ・シャベス軍曹と夜間担当の2人の兵士がいた。シャベスは”ヴェルデ・シエロ”達の因縁の闘いの巻き添えを食って重傷を負い、回復後一線から退いたと、テオは後日耳にしたことがあった。テオの護衛を担当しなければ、まだ特殊部隊で働いていただろうと、テオは彼に申し訳なく感じたが、少佐達は、それが軍人の宿命だ、と取り合わなかった。それでもテオは敢えて質問してみた。

「キルマ中尉と言えば、彼女の部下だったシャベスは今どうしているのかな?」

 少佐は「知らない」と答えるだろうと予想したのだが、彼女はきちんと答えた。

「陸軍の広報部で働いています。頭を負傷したので、少し半身に障害が残ってしまい、戦闘に出られません。しかし本人は軍を離れ難く、出身地で新兵募集の窓口勤務をしているそうです。」

 流石に本部では残れなかったのだ。敵に誘拐され、負傷したので、彼自身のプライドで昔の仲間と一緒の場所に居辛いこともあったのだろう。

「彼が元気なら、それでいいんだ。」

とテオは言った。”ヴェルデ・シエロ”に操られたことをシャベスは完全に忘却しているだろう。悪霊に操られて家族を殺めてしまった少年と同じだ。救いは、シャベスは誰も傷つけなかったことだ。テオは事件の後でシャベスを見舞いたかったが、それは内務大臣から禁止されてしまった。被護衛者と護衛者は個人的に親しくなってはいけないと言う理由だった。他にも政治的理由があった筈だが、亡命者のテオは仕方なく従うしかなかった。
 微風を楽しみながら、彼と少佐はロホの儀式が終わるのを待っていた。そろそろ終わる頃だろうとテオが腕時計に目を向けた時、少佐が岩の上に跳び上がる様に立ち上がった。アサルトライフルを西の方角に向け、射撃の構えになったので、テオは反射的に岩の上に身を伏せた。

「何だ?」
「嫌な気配を感じました。」

 テオの背後からロホが静かに、しかし仲間に解る様に葉音を立てて現れた。彼が少佐に報告した。

「何かが10時の方角から近づいています。」

 少佐が前方を見つめたまま頷いた。ロホがテオのそばで膝を突いて少佐と同じ方角にライフルを構えた。銃弾で倒せる相手なら良いが、悪霊なら”ヴェルデ・シエロ”の気の方が有効だろうとテオは思った。
 少佐は身を隠すつもりはなさそうで、岩の上に立ったままだ。テオは彼女が心配だったが、守られている身で何かが出来るとも思えなかった。こんな時は歯痒くて仕方がない。彼女が最強の”ヴェルデ・シエロ”と言われるグラダ族だとしても、人間に変わりないのだから。
 さぁ、来い! とばかりに少佐が銃を構えた時、軍用車両のエンジン音がトロイ家の方角から聞こえて来た。来る時にすれ違った、発掘隊の買い出し係が戻って来たのだ。エンジン音が聞こえた瞬間、少佐が銃を下ろした。ロホもフッと息を吐いて銃を退いた。

「大丈夫ですよ。」

とロホに声をかけられ、テオは起き上がった。

「気配が消えたのか?」
「猛スピードで去って行きました。」
「車の音に驚いた?」
「恐らく。」

 少佐が岩から降りて男達を振り返った、その顔に「残念」と書いてあったので、テオは笑いそうになった。それを誤魔化す為に、質問した。

「何だったんだ? 悪霊か?」
「人です。」

と少佐が答えた。

「でも嫌な気を放っていました。」
「すると”シエロ”か?」
「どうでしょう。」

とロホが首を傾げた。

「一族の気とは異なる感触でした。」
「私もそう感じました。」

 少佐が不満げに森を見つめた。

「もし”ティエラ”なら、異能者でしょう。厄介な相手の様です。」



2022/05/26

第7部 渓谷の秘密      10

  ロホが惨劇があった家から出て来て、自分達のキャンプ地に来た。”心話”でケツァル少佐に家の中の様子を報告してから、テオにも説明してくれた。

「血の跡などは残っていますが、清めの儀式が行われていました。恐らく近隣のカブラ族の人々が捜査員が去った後で片付けと葬式を行ったのでしょう。後半月すれば彼等はこの家を焼き払う筈です。本当はすぐに焼きたいのだと思いますが、憲兵隊が許可を出すのが半月後だからです。」
「気の毒な犠牲者の霊は浄化されているのか?」
「私は何も感じませんでしたから、彼等はもうここにいません。」

 テオは家を見た。決して立派な家屋ではない。木造の壁とトタンの上に木の皮や葉を葺いた屋根の典型的な僻地に住む先住民の家だ。家財道具が転がっていてもおかしくない庭は何もなく、後片付けをした人々が使える物は使おうと持ち去ったのだとロホが言った。

「但し、家の中の物は持ち出していないですね。やはり死者に悪いと思ったのでしょう。家と一緒に焼いてしまうつもりの様です。死者の持ち物ですから。」

 キャンプは車だけだ。テントなどはひとまず車内に残して置いて、畑を見に行った。まだ収穫前の若いトウモロコシの畑だった。獣避けの柵を開いて中に入ると、ちょっとした迷路の中にいる気分になった。背が高いトウモロコシの中を歩き、テオはどうにか反対側に出た。少佐とロホを呼ぶと、2人も間もなく姿を現した。

「畑の中には何もありません。」
「向こうに道らしき踏み跡がある。」

 テオが指差した方角に、草が倒れた細い獣道の様な通路が見えた。川へ行くのだろう。3人はその道を進んだ。

「遺跡へ行く道と直角の方角になりますね。」

と少佐が囁いた。ロホが頷いた。

「西向きですね。罪人の墓がありそうな方角です。」
「だけど、トロイ家は結構長くここに住み着いていたんだろ? 何故今更なんだろう?」

 テオが素直な疑問を提示すると、少佐もロホも首を傾げた。 
 道の先は新しい開墾地だったが、そこにも墓らしきものはなかった。さらに奥へ道らしき踏み跡が伸びていた。
   薮の中を歩き続けると、足元が再び緩くなって来た。湿地だ。不意に少佐がテオの腕を掴み、足止めした。彼女がそっとライフルの先で指す方向を見ると、大きなアナコンダが前方10メートル程のところを横切って行くのが見えた。大きなニシキヘビの類は都市部でもペットにしている人がいたりして、テオは見たことがあったが、野生の巨大な蛇は初めてだったので、思わず腕に鳥肌が立った。
 セルバ人は蛇を殺さない。神聖視すると言うより、いても邪魔にならないと考えている様だ。しかし北米育ちのテオは慣れなかった。毒蛇と無毒蛇の区別もつきにくい。
 アナコンダが通過するのに数分要した。それだけ長い蛇だった。アナコンダも急いでいなかったのだろう。沼地の主の様に悠然としていた。
 ロホがアナコンダが来た方角を指した。

「あちらの地面が乾いている様です。あちらへ回りましょう。」

 アナコンダは水辺へ狩に行くところだったのだろう。蛇が体を温めていた乾燥した地面の方へ一行は方向を転じた。靴やパンツの裾が泥だらけになったが、ジャングルの中での活動では覚悟していることだ。それでも固い地面を歩く様になると、テオはホッとした。道はなくなったが植生がまばらで背が低い樹木だけになった。
 突然ロホが立ち止まり、左手を指差した。

「あれ、塚じゃないですか?」

 テオと少佐も足を止めた。彼が指差した方角を見ると、低い樹木の中に石組が見えた。ロホが少佐とテオに待機と手で指図して、独りで近づいて行った。彼は石組の前で立ち止まり、繁々と眺めてから、手招きした。
 テオと少佐は静かにそちらへ歩いて行った。苔むした石組だった。高さは1メートルあるかないかで、根元の土が赤く見えた。石組は上部が崩れ、南北の幅50センチ程の柱の中央に細い縦型の穴が見えた。崩れた部分は新しい石の面が剥き出しになっていた。
 ロホが言った。

「恐らく、トロイ家の息子はこれをうっかり壊してしまったのでしょう。遊びではなく、狩でもしていたのではないでしょうか。」
「この塚のそばに居たってことか?」
「スィ。体がぶつかったか、持っていた物をぶつけたかしたのだと思います。」

 テオは恐る恐る穴を覗いて見た。深い穴なのか、真っ暗で何も見えなかった。

「ここから悪霊が出て来て少年に取り憑いたのか・・・」

 想像すると気が滅入った。ロホが背に背負っていたリュックサックから浄化の儀式の道具を取り出した。少佐がテオの肩に手をかけた。

「私達は向こうに行っていましょう。」

 悪霊はもういないと聞いても、やはり気持ちの良い場所ではなかった。

 

2022/05/25

第7部 渓谷の秘密      9

  森の中の道はダートでぬかるんでいた。予想通り凸凹だし、車はエアコンの効きが悪かった。運転はテオ、ケツァル少佐、ロホの3人で交代にハンドルを握った。路面に轍がなければ引き返したくなるような道だ。途中で2度ほど分かれ道があり、真新しい轍がそちらへ続いていたので、2度目の当番で運転していたテオが危うくそちらへ行きそうになったこともあった。しかし助手席の少佐が軍用車両の轍でないことに気がついて、その分かれ道が別の家族の開墾地へ向かうのだとわかった。

「分岐点に標識ぐらい立てておけよな・・・」

 テオは独りで苦情を呟いた。ロホが本来の道に残る轍を見て、憲兵隊か陸軍特殊部隊でしょうと言った。

「大統領警護隊が訓練を終えて引き揚げた後、彼等も事件現場の臨場を終えて帰投したのです。」
「それじゃ、この轍を辿って行けば、殺人があった家に行き着くんだな。」

 正直なところテオは現場を見たくなかった。あまりにも無惨で酷くて悲しい事件だ。殺された夫婦は何故息子が凶行に及んだのか理解出来なかっただろうし、息子も己が親を殺してしまった記憶もないのに親殺しの罪を問われている。兄が親を殺してしまう場面を見てしまった弟はどんなに深い心の傷を抱えていることだろう。
 物思いに耽っていたので、大きくカーブを曲がったところで、対向車が来ることに気が付き、離合スペースがないことに焦ってしまった。
 オフロード車同士、顔を突き合わせて停車してしまった。まさかの対向車だ。テオが窓から顔を出すと、向こうも顔を出した。見覚えのある顔だった。テオは思わず声をかけた。

「君は確か考古学部の・・・」

 向こうもテオをじっと見つめてから、アルスト先生、と言った。名前を思い出せないテオの複雑な表情に気が付かずに、学生は助手席に座っていた兵士に何か言い、それから数メートル車をバックさせた。ぬかるみに車を入れ、テオ達の車を通してくれた。
 離合してから、学生の車がぬかるみから出られることを確認する迄テオは動かなかった。

「何処へ行くんだ?」
「デランテロ・オクタカスまで、買い出しですよ!」

 学生はそう言って、クラクションを鳴らし、走り去った。
 少佐が時計を見た。

「この時刻にここへ来たと言うことは、かなり早い時刻にキャンプを出たようですね。」
「買い出しは予定の行動なのだろう。兵士は護衛だな?」
「当然です。」

 奥地に大勢の人間がいるのだと確信が持てれば気が楽になった。テオは車のスピードを上げた。そして昼になる前に、一軒の家が前方に見えてきた。
 誰も来ない土地だが周囲に黄色いテープが張り巡らされていた。前庭は既に草が伸びかけており、車や大勢の人間に踏み荒らされた箇所がぬかるんで残っていた。テオはなんとなく鼓動が激しくなり、血圧が上昇する気分になった。ケツァル少佐が彼の雰囲気に気がついて声をかけた。

「大丈夫ですか? 私は何も感じませんが?」

 テオは深呼吸して、車を停めた。

「大丈夫だ。犯罪現場と思ったら、ちょっと興奮してしまった。」
「もう霊はここにいませんよ。」

と言いながら、ロホが早くも後部座席から外に出た。彼は黄色いテープをくぐり、規制線の中に足を踏み入れた。
 少佐も外に出たので、テオも出ようとすると、少佐が手で制止した。

「駐車場所を決めてからにして下さい。私が決めます。」

 現場の下見をロホに任せて彼女は周囲の地形を眺めた。そして少し進んだ場所に乾燥した平地があるのを発見して、そこに車を誘導した。周囲より高いと言う訳でなかったが、渓谷の尾根を形成している岩盤の端っこが露出している感じだ。少佐はそこの周囲に無数の轍があるのを見て、その場所が特殊部隊の野営地になっていたのだと見当をつけた。焚き火の跡を残さないのが、いかにも特殊部隊らしいが、少佐は敏感に炉の跡を見つけた。アデリナ・キルマ中尉は憲兵隊の護衛をしていたので、戦闘体制とは違って多少の気の緩みがあったのかも知れない。そこが大統領警護隊のスカウトから漏れた要因だろう、と少佐は想像した。少佐と中尉はほぼ同期の年代だが、少佐はいきなり大統領警護隊に入隊したので、陸軍の経験がなかった。キルマ中尉と同じ時間を過ごしていないので、彼女が新兵時代どんな様子だったのか、知らなかった。
 テオが車を停め、輪止めを置いて、野営の準備を始めたので、彼女は物思いから戻って彼の仕事に手を貸した。


2022/05/24

第7部 渓谷の秘密      8

  テオは都会育ちだ。そしてケツァル少佐もロホも都会育ちだ。しかし軍人2人はジャングルでの活動訓練をみっちり仕込まれていたので、テオは心強く感じていた。
 取り敢えず1週間の出張期間をもらって、テオは大学の仕事を休んだ。休講の間、学生達には各自自主研究を与えたので、戻ったらその検証をしなければならないが、土壌検査など実際にはしないのだから、時間はある筈だった。
 ケツァル少佐はマハルダ・デネロス少尉に発掘申請が通りそうな案件があれば、メールするようにと告げた。申請内容の写真を送れと言うと、デネロスが不審そうな顔をした。

「ジャングルでお仕事なさるのですか?」
「見るだけです。内容に不備がなければ、ロホにも見せます。」
「出来るだけ粗探しします。」

とデネロスは言い、上官達を笑わせた。
 テオ、少佐、ロホの3人は少佐が「公務」でチャーターした民間機に乗ってデランテロ・オクタカス飛行場へ降り立った。テオはその飛行場に来るのは3度目だったが、毎回ダートの滑走路をガタガタ走る飛行機の振動に不安を覚えるのだった。
 携行用保存食は都会で購入した方が安いので、到着した時点で大きな荷物を持っていた。現地の大統領警護隊格納庫の管理人がオフロード車を準備してくれていたので、それに荷物を積み込んだ。事件現場までは車で行くことが出来る、と聞いて、テオは内心ホッとした。殺人事件があった場所で寝泊まりするのは気持ちの良いものではないが、戦場で野営する兵士達のことを思えば、我慢するしかない。
 ロホが管理人にトロイ家の息子達の様子を質問していた。

「祖父と両親を殺害した長男はどうなった?」
「憲兵隊の発表では、精神錯乱と言うことで、病院に送られました。恐らく本人は何も覚えていないでしょうし、現在は正気を取り戻していますから、辛い現実を味わっているでしょう。逆にこれから精神に大きな負担を強いられることになるんじゃないですか。」
「悪霊の仕業だから釈放しろ、とは誰も言わないだろうしな・・・。」

 他者に優しいロホは少年の将来を想像して暗い目をした。事件がなかったことにするには、ニュースが全国に拡散されてしまっていた。アベル・トロイには一生親殺しの汚名がついて回るのだ。

「次男はどうなったか知っているか?」
「弟の方は叔父がいるので引き取られたそうです。その家でどんな生活をしているのか、俺達にはわかりません。」

 テオは聞くともなしに彼等の会話を聞いていた。格納庫の管理人はデランテロ・オクタカスの情報を大統領警護隊の為に収集する役目もしているのだな、とぼんやり思った。
 ロホは管理人に礼を言い、隊則で規定されている金額のチップを払った。情報収集は管理人の臨時収入だ。多分、普段は全く別の仕事をしていて、大統領警護隊が来る時に格納庫の掃除をしたり、備品を整えているのだろう、とテオは想像した。
 1日目はデランテロ・オクタカスの格納庫で泊まった。食事は村の食堂で取った。風呂はないので、管理人が公衆蒸し風呂を教えてくれた。ジャングルに入れば5日間風呂なしになるので、テオとロホはじっくり蒸されて寛いだ。少佐も女性の風呂に入って、そこでトロイ家や森に住んでいる先住民達の情報を仕入れた。
 2日目の朝、彼等はカブラロカ渓谷入り口の家に向かって出発した。

2022/05/23

第7部 渓谷の秘密      7

  文化・教育省は入居している雑居ビルの改修工事を行う決定を下し、工事期間中はシティ・ホールに臨時オフィスを設けた。シティ・ホールで行われるイベントは土日に開催されることが多いので、週末は机やI T機器の移動で大忙しだ。だから大臣は観客席の半分をオフィス代用に使い、半分だけ市民に開放することにした。
 大統領警護隊文化保護担当部は文化財・遺跡担当課と境界のない狭い空間に同居した。元々同じフロアにいる仲間だから、その件に関して問題はなかった。気に入らないのは、通路を隔てて他のフロアの部署がいることだった。それぞれのフロア毎に仕事のやり方が違うし、陳情に来る市民の要件も違うので、かなり騒々しい職場環境だ。こんな場合、下っ端が一番損をする。直接市民と接する仕事をしている彼等を置いて、上司達は早々に静かな場所へ逃げてしまうのだ。文化保護担当部もアンドレ・ギャラガ少尉とマハルダ・デネロス少尉が取り残され、ケツァル少佐とロホは出張を決め込んだ。その出張の内容が、悪霊を封じ込めた墓探し、と聞いて、ギャラガとデネロスは内心下っ端で良かった、と思った。監視業務と違って森の中を歩き回るのはかなりしんどい仕事だ。都会育ちのギャラガは気を放出していればヒルや毒虫が寄って来ないと承知してはいるものの、それでも慣れない。樹木で空が見えない、見通しが利かない薮の中を歩くのも好きでなかった。デネロスは大学の研究課題が図書館の古書を必要としていたので、都市から離れたくなかった。だから留守番を命じられて、2人共ホッとしたのだ。
 ケツァル少佐とロホはジャングルでの活動準備を整えた。参加要請の理由に納得出来ないテオドール・アルストも同行だ。

「遺伝子学者の俺が、どうして蟻塚の土壌分析を行わないといけないんだ?」

 少佐とロホが視線を交わした。”心話”だ。ロホが咳払いしていった。

「貴方は霊の声を聞けます。我々には聞こえない。」
「だけど、君達は霊を見ることが出来るじゃないか。」
「封印されている場所が破壊されなければ霊は出て来ないんです。我々の今回の任務は霊封じではなく、霊が封じられている場所を探して地図に載せるだけです。」
「つまり、俺は警察犬の役目をするのか?」

 少佐とロホが「スィ」と頷いた。

「土壌分析は大学に出張の理由を誤魔化す手段に過ぎません。」

 ロホは地質学の教室から借りてきた土壌分析のサンプル容器と薬剤が入ったキットをテオに渡した。
 少佐が机の上に地図を広げた。

「悪霊の被害に遭ったトロイ家の人々の行動範囲は大体このくらいです。」

 彼女は赤ペンでトロイ家の場所にバッテンを描き、それから地図上で半径5キロメートルの大きな円を描いた。

「これは狩猟の範囲ですから、農民の彼等は実際はもっと狭い範囲で行動していたと思われます。」

 彼女はタブレットで衛星写真を出し、拡大して見せた。

「畑がここ、これが現在の耕作地です。こちらの空き地が、次の開墾地の筈です。今回の悪霊はここにいたのだろうと推測されるので、この開墾地を中心に捜索します。」
「アスルやンゲマ准教授達がいる遺跡は?」
「この渓谷の奥です。」

 ロホがペン先で谷間の奥まった地点を指した。

「ここに准教授の見立て通りにサラがあるなら、ここで有罪判決を受けた罪人は処刑のために集落から離され、森の中の牢に入れられたのでしょう。処刑方法はいろいろありますが、”風の刃の審判”で重傷を負った人間が有罪になったのですから、瀕死の状態か、既に死亡して運ばれたと考えられます。牢がそのまま墓となったと推測しても構わないかと・・・」

 ロホは考古学の先輩のケツァル少佐を見た。少佐が頷いた。

「生き埋めにされた人が悪霊になった可能性が高いですね。」
「嫌な話だな。」

とテオは囁いた。

「トロイ家の人々はそんな昔のことを知らずに住み着いたんだな?」
「カブラ族は遺跡が建設された場所より移動して、本来はもっとデランテロ・オクタカスに近い場所に住んでいるのです。トロイ家はきっと30年前に政府が出した入植助成金をもらって開墾を始めたのでしょう。大昔、そこがどんな土地だったのか知識がなかったのです。部族も現在の場所に移住して数世紀経っていますから、先祖の土地で何が行われていたか、どんな土地なのか、言い伝えすら残っていないのです。」

 少佐は宗教学部で民間伝承などを研究しているウリベ教授から確認を取っていた。文書化された歴史の記録を残さない部族の研究は難しい。口述で聞き取るしかない。特に白人が入植してから移住や迫害、言語統制が行われ、多くの伝承が失われた。ウリベ教授はカブラ族の多くがスペイン語を話し、部族固有の言語を話せる人が殆ど残っていないことを嘆いていた。彼女が録音したのは5つの昔話だけで、生きた会話などはなかったのだ。
 テオは念の為に質問した。

「カブラロカに反政府ゲリラはいないよな?」

 少佐が答えた。

「多分。」



2022/05/22

第7部 渓谷の秘密      6

  ケツァル少佐が自宅アパートに帰ると、ちょうどテオドール・アルストがテーブルに着いてカーラの給仕で夕食を始めようとしていた。彼はカーラが玄関へ出迎えに行ったので、彼女が帰ったと知った。

「始めるのを待っているよ。」

と彼が声をかけたので、少佐は急いでバスルームに入り、埃だらけの服を脱いでシャワーをサッと浴び、新しいTシャツとざっくりしたコットンパンツに着替えてダイニングに入った。テオは律儀に料理に手をつけずに待っていた。カーラがスープを温かいのと取り替えましょうかと声をかけたが、構わないと断った。
 向かい合って、赤ワインで軽く乾杯した。

「今日は文化・教育省で大変なことが起きたんだってな?」

 テオがトイレ詰まりを思い出させる発言をしたので、少佐はちょっと顔を顰めた。

「明日もビルを使えないのであれば、場所を移して業務しなければなりません。省庁そのものを引っ越した方が良いでしょうね。」

 インフラ整備にお金をケチる政府に不満な少佐はワインをごくりと飲んだ。そして話題を変えた。

「今日は急な出張がありました。」
「うん、カーラから聞いた。」
「命令を出したのは、”名を秘めた女の人”です。」
「え?!」

 テオの食事の手が止まった。全く予想外の人物が出て来たので、驚いたのだ。少佐とママコナがテレパシーで会話出来ることは知っているが、ママコナから命令が出たなんて初めて聞いた。これは、この部屋の外でする話ではないな、と彼は感じた。カーラは慣れているのか、何も聞かなかったふりをして、メイン料理を出し終えると、帰り支度を始めた。デザートまで居るつもりはないのだ。テオは少佐に断り、彼女を階下迄見送り、タクシーに乗車するのを見届けてから部屋に戻った。
 少佐がメインの肉の塊を大小2つに切り分けていた。小さい方をテオの皿に取って、彼女は残りが載った皿を自分の前に引き寄せた。テオの肉の3倍はありそうだ。彼女は超能力を使ったな、とテオは思った。

「ママコナはどんな命令を君に出したんだい?」
「悪霊の浄化です。」

 即答してから、少佐は説明した。

「カブラロカ渓谷近くの地元民の家で殺人事件が起こりました。その家の人が森の中にあった罪人の墓を何らかの理由で壊してしまい、悪霊となった罪人の霊が少年に取り憑き、家族を殺害してしまったのです。」
「それは酷いなぁ・・・」

 テオは正気に帰った時の少年の心の傷を思い計って気が滅入りそうになった。しかし少佐は感情を交えずに説明を続けた。

「偶然大統領警護隊遊撃班と警備班が近くで軍事訓練を行なっていました。彼等は惨劇を逃れた子供を保護し、その子を追ってきた憑き物憑きの少年を捕え、カルロ・ステファン大尉が悪霊を木偶に封じ込めました。彼は自力で浄化する自信がなかったので、木偶を持ち帰って上官に任せようと考えたのですが、ママコナが悪霊が首都に入ることを嫌がり、私に悪霊を首都に入れるなと訴えて来たのです。」
「ちょっと待った・・・」

 テオは心に浮かんだ疑問を素直に口に出した。

「どうしてママコナは君に命令したんだ? カルロの上官はセプルベダ少佐だろ?」
「セプルベダは男性です。」

 とケツァル少佐は即答して、彼の質問を終わらせようとした。テオは、何故男では駄目なのか訊こうとしたが、少佐は話を続けた。

「私はデランテロ・オクタカスまで行く時間がなかったので、カルロにロカ・ブランカへ回れと命じました。カルロはエミリオ・デルガドと2人で仲間と離れ、ロカ・ブランカで私と合流し、ビーチで木偶に封じ込めた悪霊を3人の力を合わせて浄化しました。」
「浄化出来たんだな。」
「幸いロホの助力を必要とせずに済みました。」
「おめでとう。」
「でも、まだ森の中に同じような悪霊を閉じ込めた墓がありそうです。」

 テオは肉を噛みながら考えた。もしかして、この出張報告はここから本題に入るのではないか?

「もしかして、これから悪霊を封じ込めた墓を探しに行くのか?」
「探しておいた方が良いでしょう。全てを浄化させる必要はありませんが、今後地元民が避けて通れる印を付けておくべきです。」
「どうやって探すんだ? ジャングルの中だろう? それにカブラロカって、現在アスルが発掘隊の護衛で行っている奥地だよな?」

 テオの知識では、グラダ・シティからデランテロ・オクタカス迄は国内線の航空機で行き、そこからオクタカス遺跡迄車で半日かかる距離だった筈だ。飛行機は毎日飛んでいる訳でなく、定期便は週に2回、月曜日と木曜日だけ、後は農家などが共同で料金を支払って農産物を運ぶチャーター便が偶に飛ぶだけだ。車でグラダ・シティから行けば、実際の距離ではアスクラカンより近いが所要時間は倍かかる悪路だ。そのデランテロ・オクタカスの村からカブラロカ渓谷はオクタカスより遠いと聞いていた。
 少佐が彼に尋ねた。

「蟻塚が赤いと言うのは、土の色が赤いのですよね?」
「俺は蟻の専門家じゃない。だが、蟻塚は土で出来ているな、普通は・・・」
「赤土でないのに赤い蟻塚が出来ていたら、それが悪霊を封じ込めた墓だそうです。」
「誰が言ったんだ?」
「ムリリョ博士。」

 テオは黙り込んだ。この会話は、彼に墓探しに参加しろと暗に言っているのだ、と敏感に察しながら・・・。


2022/05/21

第7部 渓谷の秘密      5

  グラダ・シティに帰った時、まだ太陽は沈んでいなかった。明るい夕暮れの街中をケツァル少佐はセルバ国立民族博物館に向かった。博物館の事務室に事前に電話をかけると館長であるファルゴ・デ・ムリリョ博士は在館だと言うことだったので、面会希望を伝えて、返事をもらう前に博物館に行ったのだ。面会を拒否する連絡はなかったので、博物館の駐車場に車を置いて、館内に入った。平日なので博物館は空いており、職員が閉館時間迄まだ1時間あると言うのに、終業準備に取り掛かっていた。少佐は緑の鳥の徽章を提示し、入館料を払わずに中に入った。
 奥の事務室に入り、早くも帰り支度を始めている職員の間を通り、さらに奥の館長執務室の前へ行った。ドアをノックすると、「入れ」と声がした。
 ムリリョ博士は左の椅子にミイラを一体置いて、机の上に置いたラップトップで仕事をしていた。書類を作成しているらしく、ケツァル少佐が挨拶しても頷いただけだった。それで少佐はマナー違反になるが、彼女から要件を切り出した。

「カブラロカ遺跡について教えて頂きたいことがあります。」
「あそこは未調査だ。」

 ムリリョ博士は顔を上げようともしない。彼が急いで作成しなければならない書類とは、政府に提出する予算案だろうか、と少佐は考えた。セルバ共和国政府の公金支出の申請締め切りはとっくに終わっていたが、ムリリョ博士の様な大物は多少遅刻しても受け付けてもらえるのだ。

「あの遺跡はサラではないのですか?」
「ンゲマはサラだと期待して掘っているが、まだ結果報告が来ていない。」
「サラであった場合、処刑された罪人は何処に葬られたのでしょう?」

 ムリリョ博士の手が止まった。老”ヴェルデ・シエロ”は顔を上げて、少佐を見た。

「儂はあの場所が現役であった時代の風習など知らぬ。カブラ族の先祖が築いたのであろう。カブラ族に訊けば良い。」

 少佐の質問の意図を尋ねようともせずに、博士は再びラップトップの画面に視線を戻した。少佐はもう少しだけ粘ってみた。

「先祖の風習を知らなかった為に、カブラ族のある一家に悲劇が起こりました。」
「ならば・・・」

 博士はそれでも顔を上げてくれなかった。

「ウリベに訊いてみろ。あの女はそう言う風習を調べているのだからな。」

 彼は卓上の電話を取った。内線で誰かを呼び出し、

「大臣のアドレスは何だったか?」

と訊いた。この場合の大臣は文化・教育大臣だ。 大臣宛の書類だ。やはり予算案なのだろう。事務員の回答を聞き、博士は「グラシャス」と一言囁き、電話を終えた。そして教わったアドレスに書類を送信した。
 少佐はその作業が終るまで辛抱強く待っていた。ムリリョ博士は若い人々がどんなに長く待たされても気にしない。飽く迄我流を貫き通す人間だ。そして少佐も辛抱強い。相手の性格を知っているから、決して急かさないし、諦めない。
 博士が遂にラップトップを閉じた。仕事を終えたので、帰り支度を始めた。もうすぐ閉館時間だ。少佐が声をかけた。

「カブラ族の農夫一家が何らかの悪霊を知らずに目覚めさせてしまい、取り憑かれた若い息子が両親と祖父を鎌で惨殺し、逃れた弟も殺そうとジャングルの中を追ったそうです。弟は偶然大統領警護隊遊撃班の野外訓練部隊に遭遇して保護され、追跡して来た兄は部隊に確保されました。ステファン大尉と遊撃班が悪霊を若者から追い出し、木偶に封じました。ステファンは上官に浄化を依頼するつもりでしたが、ママコナが悪霊を首都に入れることを嫌がり、私が浄化を依頼され、ロカ・ブランカの海岸で処理しました。
 同様の悪霊がまだカブラロカ遺跡の近辺に封じられているかも知れないと懸念が残ります。探す手立てをご存じでしたら、ご教授下さい。」

 考古学の弟子として、”ヴェルデ・シエロ”の若衆として、少佐は博士に教えを請うた。博士は鞄に書類を詰め込みながら言った。

「赤い蟻塚を探せ。」

 それだけだった。

2022/05/19

第7部 渓谷の秘密      4

  ステファン大尉は海岸で直属の上官セプルベダ少佐に電話をかけて、彼とデルガド少尉が遅れて帰還する理由を報告した。彼等2人が他の部下達と別行動を取る旨は既に伝えてあったので、今度の電話の要件は木偶をロカ・ブランカで処理しなければならなかった理由の報告だ。”曙のピラミッド”の聖なるママコナが木偶をグラダ・シティに持ち込むことを拒んだと聞き、セプルベダ少佐は「仕方あるまいよ」と呟いた。

ーーあのお方は首都を守らねばならないからな。取り憑かれる人間が”シエロ”ならあのお方も直ぐに誰が被害者か察知出来るが、”ティエラ”が被害者の場合は誰に悪霊が取り憑いてしまうのか、あのお方も我々もわからない。実際に被害者が別の人間を襲う迄わからないからな。人口が少ない地方で被害を最小限に食い止めたいとお考えになられたのだろう。
「しかし、”名を秘めた女の人”が遊撃班でも警備班でもなく文化保護担当部の指揮官に処理を命じられたのは・・・」

 ステファン大尉は上官の顔を潰したのではないかと、心配した。しかしセプルベダ少佐はいつもの如く、カラカラと明るく笑った。

ーー私は女性ではないぞ、ステファン。当代のママコナは困ったことが起きれば、まずは女性達に接触なさる。きっと女同士互いに感応しやすいのだろう。厨房でも君達男ではなく女性隊員に食事の我儘を仰っていただろう?
「あー・・・そう言えば・・・」

 ステファン大尉は苦笑した。彼自身はママコナのテレパシーを読み取れないが、神殿が本部厨房と直結しているので、女官が文書で大巫女様の食事のリクエストを持って来ていた。但し、ステファンや男性の専属厨房係隊員ではなく、女性隊員宛てばかりだった。

ーー大きな声では言えないが、巫女様はお年頃の女性だからな。

とセプルベダ少佐は言った。生まれて直ぐに神殿に迎えられ、一度も外に出たことがない女性の人生をちょっと考えたのだろう。ママコナは世界を見る能力があると言われている。だがピラミッドの中で瞑想して見る世界ではなく、実際に海の音や草原を渡る風や山の厳しさを体験なさりたいのではないか、とステファンはちょっぴりママコナに同情を覚えた。古代から幾世代もそうして閉ざされた空間で一生を終えて来た女性達を思った。そして姉や妹やマハルダ・デネロスがそんな境遇に生まれなくて良かったとも思ってしまった。

「半時間休憩を取ってから、帰還します。」

 ステファン大尉は上官に告げて電話を終えた。
 砂浜の外れで、古い漁船の影に入ったケツァル少佐とデルガド少尉が休んでいた。悪霊浄化で力を使ったので、休んでいるのだ。少佐はロホにお祓いが無事に終わったことを連絡して、ステファンが近づくと、「貴方も休みなさい」と言った。ステファンは部下を見た。デルガド少尉はあろうことかケツァル少佐のすぐ横で猫の様に丸くなって眠っていた。長身を胎児の姿勢にして本当に寝ていた。ステファンが眉を上げたので、ケツァル少佐が少尉を庇った。

「グワマナ族のエミリオにすれば、さっきのマックス攻撃波はかなりの消耗です。大目に見てあげなさい。」
「わかっています。」

 姉の隣は俺の場所なんだ、とステファン大尉は心の中で毒づいた。デルガドに他意がないとわかってはいたが。それに今、少佐の隣が空いていたとしても、彼が座れば少佐は鬱陶しがるだろう。ステファンは少し離れた影の中に腰を下ろした。

「ドクトルと上手く行っていますか?」
「余計な質問はしなくてよろしい。」

と少佐はつっけんどんに言い、それから答えた。

「一緒に住んでいると言うだけで、以前と変わりませんよ。」

 つまり、上手く行っているのだ。安堵と嫉妬が同時に起きて、ステファンは未練たらしい己にうんざりした。テオドール・アルストとケツァル少佐の同居は文化保護担当部に何ら変化を齎さなかった。つまり、それだけあの北米からやって来た白人は仲間に溶け込んでいるのだ。アスルがテオと同居を始めた時も同じだ。寧ろそれまで宿無しだったアスルが遂に定住したか、と仲間達は安堵したのだ。ステファンが文化保護担当部から出て行った時の方が仲間のショックは大きかったのだ。
 少佐が優しい目で、眠るエミリオ・デルガド少尉を見下ろしていた。ステファンはふと不安になった。少佐がデルガドを文化保護担当部に欲しいと言い出したらどうしよう? デルガドは結構文化保護担当部の仲間に気に入られている。気難しいアスルさえ、彼を家に泊めるし、チェッカーの相手をさせるし、マハルダ・デネロスもデルガドには優しい。だがステファンにとっても頼りになる部下だ。超能力の強さが遊撃班で一番弱いグワマナ族にも関わらず、デルガドは努力と才能で他部族の同僚と同等の活躍をしてみせる。そこが純血種の凄いところだ。異人種ミックスのステファンには必要不可欠な補佐だ。

「エミリオをそんな目で見ないで下さい。」

 ステファンはついそう口に出して言ってしまった。少佐が彼を見た。暫く眺め、それから小さく噴き出した。

「この子を取られたくなければ、指揮官としての腕をもっと上げなさい。」

 姉らしい言葉を残して、彼女は立ち上がった。

「先に帰ります。貴方はもう少し休息が必要です。無理せずに戻りなさい。」


第7部 渓谷の秘密      3

  ロカ・ブランカに到着したのは昼過ぎだった。観光地として成り立っている町ではないので、ハイウェイから離れると店らしき施設は殆ど見当たらない。ケツァル少佐は前年に宿泊した宿屋へ行った。昼間は食堂として営業しているので、そこで軽く昼食を取った。女性の一人旅は珍しいのか、客や従業員の目を集めたが、彼女が持つ独特の雰囲気、つまり「この女は只者ではない」感じが男達に威圧感を与えた。それは決して彼女が尊大な態度を取ったのではなく、彼女が”ヴェルデ・シエロ”の気を放っていたからだ。普通の人間達は、彼女が何者か知らなくても気軽に近づいてはいけない存在だと、本能的に察した。気を放つことは”ヴェルデ・シエロ”にとって「気を緩めている」場合と「警戒している」場合とに別れるが、この時少佐は気を緩めていた。周囲に彼女の敵となりうる存在が何もなかった。
 デランテロ・オクタカスからロカ・ブランカ迄どれだけ時間がかかるのか見当がつかなかった。幸いシエスタと言う習慣があるセルバ共和国では、店がどんなに混み合って席順を待つ人が外で並んでいようが平気で店に長居出来る。そしてこの時、ロカ・ブランカの宿屋の食堂はガラガラだった。地元の人間が数人カウンター席で食事の後のお喋りに興じているだけだったので、少佐もコーヒーを注文して窓から海を眺めてぼんやり座っていた。
 沖にある白い岩が町の名前の由来だ。その岩に打ち寄せる波頭を見るともなしに眺めていると、宿屋の外で軍用ジープのエンジン音が近づいて来て停車した。
 少佐は顔を戸口に向けた。開放されたままのドアの向こうから1人の長身の若者がやって来た。大統領警護隊の制服を着ていたので、食堂内の人々の間に一挙に緊張が走った。その隊員の顔を見て、ケツァル少佐は立ち上がった。若者が彼女の前に来て、気をつけして敬礼した。

「遊撃班ステファン大尉、デルガド少尉、只今到着しました。」
「ご苦労。」

 少佐も敬礼を返し、店主に紙幣を渡すと釣りを受け取らずにデルガド少尉と共に外へ出た。ジープの外にステファン大尉が立っていた。デルガド少尉が彼と同行した理由を彼女は漠然と察していた、デルガド少尉はロカ・ブランカより南のプンタ・マナ出身だ。このハイウェイ周辺の地理や裏道に詳しかった。恐らく彼が進んで運転手を買って出たのだろう。
 ステファン大尉は少佐に敬礼すると、ジープの後部へ顎を振った。

「荷物はあちらです。」

 教えられなくても、少佐にもわかった。ジープの後部から黒ずんだ煙が立ち上っている様な感じがした。ステファンが宿に入って来なかったのは、荷物から離れたくなかったからだ。目を離すと危険な存在だと彼は認識していた。
 少佐が”心話”を求めると、ステファン大尉はカブラロカ渓谷で起きた殺人事件や森の中で部下達が見つけた少年、飛行場に現れた憑き物付きの若者の話を伝えた。

「すると、その憑いていた物を移した木偶を貴方は今運んでいるのですね?」
「スィ。私の力では浄化出来ません。上官にお頼みするつもりでした。」
「セプルベダ少佐が浄化出来るレベルではありますが、”名を秘めた女の人”がそれを首都に持ち込むことを拒んでいます。」

 少佐は悪い気が立ち昇る様を嫌そうに眺めた。デルガド少尉は沈黙していた。純血種の彼にも見えているのだが、指導師の修行をしていないので、憑かれるのを防ぐことは出来ても祓うことは出来ない。恐らくステファン大尉と2人だけの道中、背後にあんな悪霊を積んでいては気持ちの良いドライブではなかったろう。

「力は大きくありませんが、汚れの程度が酷いです。新しい汚れの下に古い汚れが山積みされている感じです。きっと古い墓か何かに手を加えてしまい、封じ込められていた悪霊を出してしまったのでしょう。」

 ケツァル少佐は周囲を見回し、それから海岸へ車を出すよう命じた。
 ビーチは静かだった。元々地元民しか来ない海水浴場だ。平日に泳ぐ人は少なかったし、その日は少し波が高かった。
 3人の大統領警護隊隊員は砂浜に打ち上げられていた乾いた流木などを拾い集めた。それを砂の上に積み上げ、問題の木偶を布に包んだまま木の上に置いた。3人で取り囲み、少佐は言った。

「聖なる光を頭に思い浮かべ、木偶を見つめなさい。ステファンは出せるだけの結界能力を使うこと。デルガドは攻撃だけを考えなさい。」

 少佐が火種を作り、積み上げた枯れ木の山の下に入れた。暫く燻ってから、火が上がった。ステファンとデルガドは命じられた能力をマックスで出した。もしこの場面を目撃した”ティエラ”がいたら、彼等が光の筒の中に取り込まれた様に見えただろう。
 ステファンが築くグラダ族の結界の中で、デルガドの爆裂波が木偶に送り込まれた。布に包まれた木偶から黒い煙の塊の様なものが浮き上がった。少佐がそれに向けて浄化の呪文を唱えながら爆裂波をぶつけた。
 ドンっと鈍い音が響いた。木端と砂が四方八方に飛び散った。一瞬太陽の様に眩しい光を発し、木偶は消えた。
 ケツァル少佐、ステファン大尉、そしてデルガド少尉は砂の上に空いた浅い穴を眺めた。焦げた木片が散らばっていた。集めた枯れ木が全て一瞬で燃え尽きたのだ。

「質問してよろしいですか?」

とデルガドが口を開いた。少佐が「スィ」と答えた。少尉が質問した。

「あれは何だったんですか?」

 当然の質問だった。少佐はステファンを見た。

「カブラロカ遺跡の近くで事件が発生したと言いましたね?」
「スィ。」
「カブラロカ遺跡はまだ調査が始まったばかりですが、”ティエラ”の遺跡です。ハイメ・ンゲマ准教授が発掘隊の指揮をしています。」
「警護指揮官はアスルですね?」
「スィ。この際アスルは関係ありません。ンゲマが何を遺跡に求めているか知っていますか?」
「ノ」
「サラです。」

 サラは古代の裁判所だ。オクタカス遺跡はサラで裁判を行うために囚人を収監したり、裁判関係の役人が住んでいた遺跡だと考えられている。カブラロカも規模が小さいだけで、同じ様な場所だったのだろうとンゲマは推測しているのだ。

「”風の刃の審判”で有罪が決まった人間は大概処刑されました。処刑されなくても、岩を落として怪我をする程度で罪の重さを測ったのですから、有罪者はほぼ全員死んだことでしょう。その死骸を何処かに埋葬したのだとしたら、そこを掘った者に悪霊が取り憑く恐れがあります。」
「殺害された農夫の家族は、その墓を知らずに開墾したと?」

 ステファンが推量を述べると、少佐は頷いた。

「恐らく、知らずに何か傷つけるか、壊すかしたのでしょう。そして若い息子に取り憑いた。私は先刻若い男の気配を一瞬感じました。犠牲者の取り憑かれた息子は、悪霊となった罪人と年齢が近かったのだと思います。」

 デルガドが身震いした。

「そんな墓がまだあの森の中に残っているのではありませんか?」

 少佐は頷いた。そしてンゲマ准教授と学生達の無事を案じた。


2022/05/18

第7部 渓谷の秘密      2

  ケツァル少佐は腹違いの弟カルロ・ステファン大尉に電話をかけた。大統領警護隊遊撃班は警備班と違って時間は比較的自由だ。会議や危険な任務の遂行中でなければ、時間に関係なく出てくれることが多い。呼び出し音5回の後、ステファンの声が聞こえた。

ーー遊撃班ステファン大尉・・・

 姉からの電話だとわかっているが、彼女が私的用件で電話をかけて来る人間でないことを知っているので、役職で名乗った。ケツァル少佐も「ケツァル」と名乗った。

「今何処にいますか?」

 テレビ電話を使わないので、顔は見えなかった。背景が見えないが、背後の音が聞こえた。車のエンジン音で、車内にいるらしい。それも乗用車ではない。ステファンが雑音に負けない声で答えた。

ーーデランテロ・オクタカスからグラダ・シティに向けて車で半時間の場所です。

 そんな場所にいる理由は語らなかったし、少佐も訊かなかった。彼女は言った。

「そこからロカ・ブランカへ抜けられますか?」
ーーロカ・ブランカですか?

 ステファン大尉が怪訝そうな声を出した。ロカ・ブランカは東海岸線を通るハイウェイ沿いの漁村だ。観光客ではなく地元民御用達の海水浴場でもある。デランテロ・オクタカスとグラダ・シティの間を通るハイウェイから外れて海へ向かわなければならない。遠回りだ。

ーー何か用件があるのですか?
「出会った時に話します。貴方の荷物を必ず持って来て下さい。」
ーー部下は?
「部下が一緒ですか?」
ーー演習の帰りです。遊撃班の半数を率いています。

 少佐は考えた。ママコナは、「汚れ」を持っているのはステファンだと言った。部下は関係ないのだろうと思われる。

「部下はそのまま本部へ帰しなさい。それとも車両は1台だけですか?」
ーー指揮車両とトラックです。では、私だけが用件の対象ですね?
「スィ。 セプルベダ少佐には私から連絡を入れておきます。」
ーー承知しました。

 少佐は電話を切った。何時に落ち合うとか、何処で会うとか、そんな約束はしなかった。彼女はテオの居住区から彼女自身の場所へ戻った。手早く外出の準備をすると、カーラに言った。

「今夜帰りが遅くなるかも知れません。テオが帰ったら先に食べてもらって下さい。私は必ず今夜中に帰宅するつもりで出かけます。」
「わかりました。」

 カーラはいつも余計な質問をしない。軍人の家で働いていることを十分に承知していた。
 少佐は駐車場へ行き、彼女のベンツに乗り込んだ。車を道路に出してから、ステファンが拾った「汚れ」とは何だろうと考えた。彼女の唐突な要求に彼は素直に従うようだ。つまり、彼は己が「汚れ」を所持していることを自覚しているのだ。
 ママコナが首都に入れることを厭うもの。つまり、悪霊か? ケツァル少佐はロホに電話を入れておくことにした。車が大通りに出てしまう前に路駐して、ロホの携帯にかけた。
 ロホは2回目の呼び出し音の後で直ぐに出た。この男は文化保護担当部の仲間から電話がかかって来る時の着信音を他の人間からの着信音とは別に設定している。

ーーマルティネス・・・
「ケツァルです。貴方に知っておいてもらいたいことがあります。」
ーーどうぞ。
「”名を秘めた女の人”から要求がありました。カルロが持っている『汚れ』を聖都に入れるなと言うものです。」
ーーカルロの『汚れ』ですか?

 ロホの声に不安が混じったので、少佐は彼の誤解を解こうとした。

「カルロが汚れているのではなく、彼が持っている物が汚れていると言う意味です。本人も自覚している様でした。」
ーー”名を秘めた女の人”が厭う物ですね。祓いが必要なのですか?
「恐らく、カルロはセプルベダ少佐に祓ってもらうつもりで持ち帰って来る最中だった様です。でもママコナはその物がグラダ・シティに持ち込まれるのを嫌がっています。」
ーーセプルベダ少佐にはご依頼がなかったと言うことですか。
「”名を秘めた女の人”は女性に話しかける方が気楽な様です。」

 実際、”曙のピラミッド”の当代ママコナは女性の”ヴェルデ・シエロ”にお気楽に話しかけてくることが多い。まだ若いので、男性に話しかけるのが気恥ずかしいのかも知れない。ロホは男ばかりの兄弟の家で育ったが、父や兄達ではなく母親の方がママコナの声をよく聞いていた。母親は儀式に関わらない人だが、儀式に関する質問をママコナから受けて、ロホの父親に質問してから返答をしていた。
 ケツァル少佐は言った。

「貴方の助力が必要になった場合に、助けを求めます。よろしいですか?」
ーー承知しました。いつでもお呼び下さい。



2022/05/17

第7部 渓谷の秘密      1

  ケツァル少佐はグラダ・シティの自宅で、真昼間にも関わらず1人の時間を過ごしていた。休業するつもりなどなかったのだが、彼女が指揮する文化保護担当部が置かれている文化・教育省のビルがある問題を抱えてしまったからだ。文化・教育省が入居している4階建ての雑居ビルの何処かで、トイレの排水管が詰まってしまった。その結果、庁舎内は勿論のこと、ビルの1階で営業しているカフェ・デ・オラスも、少佐が一度も入店したことがないド派手な衣装を販売しているブティックも、省庁の職員達の主治医みたいな内科の診療所も、物凄い臭いに閉口し、一斉に休業してしまった。業者が呼ばれ、現在何処が臭いの発生源なのか調査中だ。
 職場に物理的な問題が発生した場合、セルバ共和国では場所を替えて仕事をすると言うことをしない。労働者は休んでしまう。休んだ分だけ給料が減るのだが、その間は別の仕事を見つけて働いても誰も文句を言わない。
 大統領警護隊文化保護担当部は文化・教育省文化財・遺跡担当課が休めば自分達も休む。発掘申請書は文化財・遺跡担当課が受理して文化保護担当部へ回すので、肝心の書類が回って来なければ文化保護担当部の仕事はない訳だ。
 少佐が休業を宣言すると、アンドレ・ギャラガ少尉は大学生に変身してグラダ大学へ行ってしまった。考古学部の通信制の学生だが、たまには全日制の授業を受けてみようと言う魂胆だ。マハルダ・デネロス少尉も溜まっていた大学の課題を消化する為に図書館へ行った。アスルはカブラロカ渓谷の遺跡の監視業務に就ているので不在だ。ロホも市内で行われている建設現場で出土した遺跡調査の巡視に出かけて、そのまま自宅へ直帰すると言っていた。
 ケツァル少佐は暇だった。文化保護担当部に届く申請書が丁度途切れたタイミングでトイレが詰まったので、彼女の仕事がなかった。だから彼女は自宅に帰った。突然の雇い主の帰宅に家政婦のカーラがちょっと迷惑そうだったので、彼女は「別宅」、即ちパートナーのテオが使っている居住区へ入った。テオはグラダ大学生物学部遺伝子工学科の准教授で、最近仕事が忙しい。隣国からの依頼で、20年前に隣国で起きたクーデターの犠牲者の遺体が数10体発掘され、身元鑑定のためのD N A分析に没頭していた。だから昼間、彼の居住区には誰もいなかった。
 テオの寝室は2人の部屋だ。少佐の寝室には時々女性の友人や部下が泊まるので、彼女は男性を入れない。男性客は彼女の居住区の客間に泊まる。テオの居住区の客間は、テオ個人の研究室になっていた。遺伝子抽出の為の機械や冷蔵庫、コンピューターが置かれている。大学で研究出来ないもの、つまりテオ自身の永遠のテーマとなる”ヴェルデ・シエロ”のD N A分析を行う部屋だ。少佐には理解出来ない世界なので、彼女は決してプライベイト研究室に入らない。例え家主であっても、彼女の慎みだった。
 暇を潰す為に、彼女はテオの居住区のリビングにいた。普段寛ぐ時は彼女の居住区のリビングを使う。それはテオも同じだ。だが、今はカーラが掃除をしたり、夕食の仕込みをしたりしている。家政婦の仕事の妨害をしたくないので、少佐はテレビも家具もないがらんとした部屋で、唯一置かれている古いソファの上に寝そべって帰り道に購入した雑誌を眺めていた。たまにはゴシップ紙も良いもんだ、と思っていると、突然頭の中でママコナが話しかけてきた。

ーー汚れを聖都に入れないで。

 ”曙のピラミッド”に住まう”名を秘めたる女の人”が聖都と呼ぶのはグラダ・シティのことだ。少佐はちょっと考えた。ママコナの言葉は時に抽象的で、話しかけられた”ヴェルデ・シエロ”は意味を理解するのに時間を要することが往々にあった。結局聖なる巫女が何を拒んでいるのか判明しなかったので、少佐は問いかけた。

ーー汚れとは?

 ママコナは短く答えた。

ーーエル・ジャガー・ネグロが持っている。

 そして彼女からのアクセスは途絶えた。
 少佐は雑誌を胸の上に置いて考えた。エル・ジャガー・ネグロは彼女の異母弟カルロ・ステファンのことだ。ステファン大尉が今何処で何をしているのか知らないが、何か良くない物を拾ったようだ。ママコナはそれが首都に入ってくることを拒んでいる。恐らくステファン本人に命令したいのだろうが、白人の血が混ざっているステファンにママコナの言葉は理解出来ない。だから姉のケツァル少佐に依頼が来たのだ。
 少佐は体を起こした。暇潰しが出来たようだ。まずは、ステファン大尉が何処にいるのか調べなければならない。

第11部  紅い水晶     10

  ケツァル少佐がロカ・エテルナ社の駐車場に車を停めたのは午後1時を少し回った頃だった。セルバ人なら昼食を楽しみ、昼寝を考える時間だ。少佐は指示された階の指示された場所に車を置いて、すぐ背後にあった扉の中に入った。ガラス張りの渡り廊下を通り、次の扉を開くと、そこはロカ・エテルナ社...