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2021/12/12

第4部 忘れられた男     20

  アリアナ・オズボーンから電話がかかって来た時、テオはゴンザレス署長の自宅で、会計士ホセ・カルロスから頼まれた書類の清書をしていた。役場に提出する期限が週明けの月曜日の午後だと言うのに、カルロスは彼を当てにして何もしていなかったので、テオは殺人的な忙しさだった。しかし、画面にアリアナの名前が出たので、電話を無視出来なかった。何かエルネスト・ゲイル絡みの事件でも起きたのかと不安を感じつつ、彼はボタンを押した。

「オーラ?」
「テオ、今何処にいるの?」
「何処って、エル・ティティだよ。」

 一瞬間があってから、彼女が、なんだ、と呟いた。だから彼の方が逆に尋ねた。

「何かあったのか?」
「そうじゃなくて・・・」

 彼女は少し躊躇ってから、言い訳するように説明した。

「貴方がケツァル少佐とロペス少佐と出かけてから、何も連絡がなかったから・・・」
「少佐は帰っただろ?」

と言ってから、テオは女性の少佐だと言い直した。英語では男女同じだ。

「ラ・コマンダンテの方・・・」
「彼女は帰って来たわ。でも、貴方達がどんな用件で出かけたのか、教えてくれないの。」
「ハリケーンで漂着した遭難者の身元調査だって、彼女は言ってなかったか?」
「言ったけど・・・」

 アリアナは躊躇った。それで、テオはふと思い当たった。彼女は、ロペス少佐が気になるのだ。彼女はまだ結婚する相手が彼だと、テオに告げていなかった。だからテオの方から先に言ってやった。

「ロペス少佐から婚約のこと、聞いたぞ。」

 彼女が黙ったので、彼は明るい声で言った。

「おめでとう! 式には呼んでくれるんだろうな?」
「ありがとう!」

 アリアナの声も弾んだ。

「彼から聞いたの?」
「うん。いきなり、車の中で、君との結婚を許して欲しいって言われて、たまげたよ。俺は君の親じゃないし、血のつながった兄貴でもない。だけど、君の唯一人の親族と彼は看做してくれた。感謝しているし、俺達の様な生まれの人間でも気にせずに愛してくれることにも、感謝している。」

 アリアナが電話の向こうで、涙を堪えて、「ええ」と呟いた。

「良い人よ・・・とても・・・」
「強いし、頼りになる男だな。」
「ええ・・・」
「幸せになれよ。」
「有り難う。」

 ちょっと間が空いた。彼女は感情の昂りを抑えて、それから、やっと次の話題に移った。

「貴方達が出発してから、彼から連絡がないんだけど、貴方はもうグラダ・シティに戻ったのよね?」

 ああ、そう言うことか、とテオは得心した。アリアナは婚約者から電話がないので心配しているのだ。

「彼は忙しいんだよ。漂流者が不法入国者の疑いがあったので、取り調べやら何やらで、外務省と憲兵隊基地を行ったり来たりしている。俺もちょっとだけ手伝いをしたんだ。多分、次の週末迄には、彼の仕事も片付くさ。」
「忙しいだけなのね?」
「うん。移民や亡命の件でないとはっきり分かれば、彼の仕事も一段落つくさ。だから、気を揉まずに、君は君のことをしていれば良い。」
「信じて良いのね?」

 アリアナはちょっぴり懐疑的になっていた。”ヴェルデ・シエロ”が絡むと、セルバ共和国では秘密裏に進行する物事が多々ある。彼女は婚約者に良くないことが起きたのではないかと心配だった。白人との婚約に、誰かの機嫌を損ねたのではないか、と。

「ケツァル少佐に電話しても、短い会話だけですぐ切られちゃった。」
「彼女は月曜日からオクタカス遺跡へ出張するんだ。2週間はかかるらしい。彼女の留守を預かるロホやマハルダ達もそれで忙しい。」

 テオは彼女に注意を与えた。

「セルバ人がいつものんびりしていると思ったら、大間違いだぞ。忙しい時、連中は自分優先で俺達のことを構ってくれないから、それを肝に銘じて結婚しろよ。」
「何、それ?」

 アリアナがやっと笑ってくれた。そしてテオはエルネスト・ゲイルのことを触れずに済んだ。



第4部 忘れられた男     19

  テオが鞄を下げたまま憲兵隊のビルから出て、タクシーを拾おうと通りを見ていると、ロペス少佐が護送車を引き連れて出てきた。テオの横で彼は自分の車を停め、護送車を先に行かせてから、窓を開けて声をかけた。

「乗って行かれますか? バスターミナルのそばを通るので。」
「グラシャス!」

 テオは後部席に鞄を置いて、助手席に乗り込んだ。車はドアが閉まるとすぐに動き出した。

「あの男は・・・」

と少佐が言った。

「アリアナのことは全く触れませんね。」
「ええ、俺もそれが気になっています。彼女のことを全く気にしていない冷たいヤツだとも思えるし、故意に無視しているのかも知れない。」
「彼女とあの男は、仲は悪かったのですか? 子供の時から?」
「仲が良いとか悪いの問題ではありませんでした。俺達は3人だけ、外部と隔離されて育ちましたから、遊ぶのも食事をするのも勉強するのも、寝るのも一緒でした。周囲は大人しかいませんでしたから。喧嘩する時も、誰が誰の味方、と言うこともなかったです。例えば、エルネストと俺が喧嘩しても、アリアナは傍観しているだけ。彼女と彼が喧嘩しても、俺は関心がなかった。つまり、」

 テオは溜め息をついた。思い出せば思い出す程、己が異常な育ち方をしたとわかる。

「俺達は自分のことしか関心がなかったのです。だから、現在もエルネストは彼自身の身の上しか考えていない。アリアナと俺がセルバで人間の温かい心に触れて、やっと本当の生き方を見つけたのに、彼はまだその体験もしていないのです。」
「残念ですが、彼にその体験をさせる時間的余裕はありません。」

 ロペス少佐が硬い表情で言った。

「大統領警護隊の司令部は、彼がセルバにスパイ行為を働く目的で来たのではないかと疑っています。彼がカルロ・ステファンを誘拐した当事者であることが、確実に彼に不利な状況を作り出しています。」
「わかります。」
「長老会は、警察や憲兵隊の様な慎重な捜査と言うものを望みません。疑わしきものは直ちに排除する、それが”ヴェルデ・シエロ”のやり方です。ですから、シショカが動いたのです。」

 外務省に、と言うより、大統領警護隊の隊員としての事務官のロペス少佐に、”砂の民”の動きが報告されたのだ。そしてロペス少佐は、それは拙いと考えた。現状はどうあれ、一度はセルバと深い関わりを持ったアメリカ人が、セルバで消息を絶ってしまうのは、政治的に良くないと判断した。

「エルネスト・ゲイルはセルバに長く滞在すればする程命を縮める確率が高まると言うことですね。」
「スィ。でも私は彼をセルバでは死なせたくありません。アリアナが彼を嫌っているとしても、貴方と彼女のかつての身内だったのですから。」

 テオは、このシーロ・ロペスと言う事務方の軍人を今まで誤解していた様な気がして、反省した。この男は”ヴェルデ・シエロ”らしく感情を表に出さないだけで、実際は他人を心から思いやり、情熱的に愛せるのだ。もしかすると、アメリカのセルバ大使館で初めて会った時から、アリアナに心を惹かれていたのかも知れない。

「エルネストの処分は、貴方の裁量にお任せします。」

とテオはキッパリと言った。

「俺は彼とここで会ったことを決してアリアナに言いません。貴方の仕事の妨げにならないよう、一切彼とは未来永劫関わりません。約束します。」
「グラシャス。」

 ロペス少佐は前を向いたまま、もう一つ情報をくれた。

「あの男の件が片付く迄、ケツァルとステファンをジャングルの奥へ隠しておきます。長老会に心配性の人がいて、2人があのアメリカ人と偶発的でも出会うことがないよう、気を回したのです。」



2021/12/11

第4部 忘れられた男     18

  空腹とその夜の宿はどうするのかと質問するエルネスト・ゲイルを残して、テオはムンギア中尉と検索係の憲兵と共にアウマダ大佐のオフィスに戻った。憲兵がドアを開き、中尉、テオ、憲兵の順で入室した。オフィスには客がいて、その姿を見た瞬間、テオは一気に緊張した。
 白い麻のスーツに黒いシャツ、白いネクタイ、白い靴の先住民の男が大佐の椅子の横に立っており、大佐は椅子にぼんやりと座っていた。

「尋問が終了したようですね。」

と男が言った。そしてテオを見て、微笑んで見せた。

「憲兵隊への協力に感謝しますよ、ドクトル・アルスト。」

 テオは相手の額を見た。セルバ式のマナーだ。

「建設大臣の秘書殿が、漂流者に何か御用ですか、セニョール・シショカ?」

 シショカが憲兵に命令した。

「ドアを閉めろ。」

 憲兵は言われた通りにした。テオは悟った。このアウマダ大佐の部屋の中はシショカの結界に取り込まれている。大佐以下室内の憲兵隊の人間は全員シショカの”操心”にはまってしまったのだ。ムンギア中尉も今やぼんやりと立っているだけだった。彼等には、テオとシショカの会話が聞こえていないのだ。
 シショカが溜め息をついた。

「大統領警護隊が情報を出し渋るので、時間がかかった。あの漂流者は、”出来損ない”のカルロ・ステファンを誘拐した当事者と言うではないか。」
「だから?」

 テオは不安に襲われた。シショカはエルネスト・ゲイルを消しに来たのか?
 
「本来なら、アメリカ政府に我々の存在を知らしめる結果を作った”出来損ない”を処分するべきだが・・・」

 シショカは身の毛がよだつ様な恐ろしいことを平気で言った。

「そうなると、あの”出来損ない”に任務を与えた大統領警護隊のみならず、長老会にも火の粉が降りかかる。だから彼等はあの”出来損ない”には決して手を出すなと我々に厳命した。」

 シショカが言う「我々」とは、”砂の民”のことだ。

「北の国はセルバのことに目を瞑っている。この国の存在を忘れかけている。このまま平穏に行けば、何の問題も起こらぬ。しかし・・・」

 テオはごくりと唾を飲み込んだ。シショカはエルネスト・ゲイルの出現を憂慮すべき事態と考えている。明白だった。

「セルバ共和国政府があの男を北の国へ返せば、北の連中はセルバを思い出す。それは困る。わかるな、ドクトル・アルスト?」
「エルネスト・ゲイルを消すと言うのか?」

 テオは、エルネストを愛していないが、セルバ人に殺させたくなかった。

「あの男は不愉快な人間だが、はっきり言って、馬鹿だ。さっきの尋問で知ったばかりだが、彼は政府機関を解雇されて、民間企業に就職している。あまり素行の良くない会社の様だが、そこであの男が重要ポストについているとも思えない。政府から政府へ引き渡すのではなく、アメリカの海岸にでも放置しておけば良いんじゃないか?」

 何を甘いことを言っている?と言いたげにシショカが眉を上げた。その時、ドアをノックする者があった。シショカが、チェッと舌打ちした。不意に憲兵達が動いた。結界と言うか、”操心”が解けたのだ。再びノックの音がして、大佐が憲兵に開けろと合図した。
 ドアが開かれ、入って来た人の顔を見て、テオはホッとした。外務省のシーロ・ロペス少佐だった。少佐はシショカを見ても何も言わず、アウマダ大佐に挨拶した。

「漂流者の調査は終わったか?」

 大佐が視線を向けたので、ムンギア中尉が急いで録音機を出した。

「こちらに・・・」

 大佐ではなく、ロペス少佐がそれを受け取った。テオは少佐に囁いた。

「研究所の話が少し入っています。」

 少佐が頷いた。そしてアウマダ大佐に言った。

「アメリカ合衆国の人間だと言うことなので、外務省で例の男を預かる。」

 ムンギア中尉が言った。

「あの男は先刻の取り調べで、密漁の疑いがあります。」
「でも、セルバ領海とは限りません。」

とテオは急いで口を挟んだ。ここでロペス少佐にエルネスト・ゲイルの身柄を預けた方が、憲兵隊基地に置いておくよりエルネストにとって安全と思われた。
 ロペス少佐はテオに頷いて見せ、大佐を見た。アウマダ大佐は大統領警護隊に逆らわなかった。

「あの男の身柄を、そちらが指示される場所へ移します。」
「結構、では外に大統領警護隊の護送車が待っているので、そちらに乗せて頂きたい。」

 護送車? テオは内心驚いたが、黙っていた。ロペス少佐もエルネストの出現を危険視している。だが、シショカの様な残酷な男が取る方法で「処分」はしないだろう。
 大佐が部下にエルネスト・ゲイルの移送の準備を命じた。ロペス少佐がムンギア中尉に録音機を見せ、「暫くお借りする」と言った。
 テキパキと動く憲兵隊を見ながら、テオはバスの時刻にまだ余裕があることを確かめた。余裕はあるが夕食は諦めるしかないだろう。
 ロペス少佐が、ドクトルの用事も終わったな、と大佐に確認した。アウマダ大佐がテオに帰っても良いと言ってくれたので、テオは少佐と共にオフィスを出ようとした。すると、シショカが初めてロペス少佐に声をかけた。

「少佐・・・」

 ロペス少佐が振り返らずに足だけ止めた。

「何かな?」
「外務省はあの男をどうするおつもりか?」
「然るべき手段で、帰国させる。」

とロペス少佐は言い、初めてシショカを振り返って見た。

「ハリケーンでインフラ被害が多く出ている。建設大臣はご多忙だろう。早く帰ってお手伝いされてはいかがかな?」



 

第4部 忘れられた男     17

  エルネスト・ゲイルは突然堰を切ったかの様に彼自身の現状を喋り出した。テオは横目で隣のムンギア中尉のポケットに小型の録音機が入っているのを見た。携帯電話ではないが、外国製の高価な機器だ。
 ゲイルは最初にテオが国立遺伝病理学研究所を滅茶苦茶にして逃亡したことを責め立てた。そして、テオと一緒に逃げたセルバ人の男”怪盗コンドル”に対しても呪いの言葉を吐きたてた。アリアナの悪口も言った。超能力者を制圧出来なかったヒッコリー大佐の部隊の責任にも言及した。テオは彼の罵詈雑言を聞き流し、エルネストが疲れて喚き立てるトーンを落とした頃合いに尋ねた。

「ホープ将軍はお元気か?」
「将軍は死んだよ!」

 ゲイルは吐き捨てるように言った。

「何故だか知らんが、自分の部下達に蜂の巣みたいに撃たれて死んだ。」

 テオは、研究所から逃げ出す時、ホープ将軍とその部下達に立ち塞がれたことを思い出した。あの時、ケツァル少佐が将軍ではなく部下達に”操心”をかけた。「その男が少しでも足を動かしたり、あるいは一言でも言葉を発したら、即刻撃て!」と言う命令と共に。少佐は1時間で”操心”は解けると言ったが、将軍は立っていたから、疲れて動いてしまったに違いない。上官を射殺してしまった兵士達は気の毒だが、きっと何も記憶していないだろう。
 テオの質問の意味がわからないムンギア中尉がテオを見たが、テオは気がつかないふりをして、次の質問をした。

「ワイズマン博士は?」
「軍の精神病院に入っている。」

 少佐の”操心”にかけられて自ら研究所のデータを全て破壊してしまった科学者は、心も壊れてしまって修復不能になったのだ。
 テオはドブスンや他の科学者達のその後も気になったが、ここで質問を控えることにした。バスに乗り遅れたくなかった。

「研究所は閉鎖になったんだね?」
「当たり前だ。全てのコンピュータがワイズマンの手で狂わされてしまって、施設全体が使えなくなった。研究所は解散された。」
「それで、君は今何処に所属しているんだ。」

 エルネスト・ゲイルは、ある名前を口にした。ムンギア中尉がドアの横にあるもう一つの机の方を見た。そこにもう1人若い憲兵がいて、ラップトップでゲイルが口に出した単語を片っ端から検索して確認していたのだ。その憲兵が手を挙げて断言した。

「実在する民間企業です。養殖漁業を行なっており、カリブ海の水産資源を米国の近海で養殖して販売しています。尤も・・・」

 憲兵は画面を見て顔を顰めた。

「他国の領海に無許可で侵入して違法に資源を採取して訴えられた事例が過去10年間に4回もあります。」
「ビジネスだ。」

とゲイルがテオに言った。

「珍しい魚や貝の遺伝子を採取して、培養する。天然の海で採ったものじゃないから、水族館に売れるんだ。珍味を出すレストランにも卸せる。」
「つまり、違法操業、密漁で遺伝子採取をしていたってことか?」

とテオは言った。

「だから、国籍がバレないように装備から製造元がわからないよう細工していたのか?」

 ゲイルが肩をすくめた。

「誰も傷つけないんだ、スパイ行為でもない。海は広いし、魚はいっぱいいる。いいじゃないか!」

 テオはムンギア中尉を振り返って言った。

「こいつ、社会常識がないんです。」


第4部 忘れられた男     16

  テオは憲兵隊のグラダ・シティ南基地へ行った。手には衣類が入った鞄を下げていたが、これはエルネスト・ゲイルと再度の面会をした後、バスに乗ってエル・ティティに帰省するためだ。憲兵隊の要請だから面会するが、本心を言えば、エルネストには関わりたくなかった。病院で会った時、エルネストはテオの顔を見ても嬉しそうでなかった。今どうしているのか、何をして暮らしているのか、アリアナは何処にいるのか、何も彼は尋ねなかった。訊く必要がないのか、関心がないのか、どちらかだ。テオが彼を愛せないように、彼もテオやアリアナを愛していない。アリアナもセルバの友人達もエルネストに絶対に近づかせたくなかった。
 アウマダ大佐はエルネストを尋問した筈だが、テオが彼のオフィスに来ても結果を伝えなかった。恐らく、テオとエルネストの証言の食い違いを見つけたいのだろう。
 金曜日の午後だ。憲兵も日勤の隊員達は任務を終了して帰りたそうな顔をしていた。テオは若い隊員に殺風景な通路に並んでいるドアの一つ迄案内された。ドアの上にプレートが掲げられており、「S Iー3」と書かれていた。取調室3号室の意味だろう、とテオは思った。憲兵がドアをノックしてから開き、テオに入るよう合図した。テオは鞄を大佐の部屋に置いて来れば良かったと思いつつ、持ったまま中に入った。鞄はビルに入る時に持ち物検査を受けていたので、誰も文句を言わなかった。
 長方形の装飾のない事務机の窓側にムンギア中尉が座り、その対面にエルネストが疲れた顔で座っていた。テオが入ると、彼は嬉しそうな表情で迎えた。

「やっと来てくれたか!」

 テオは彼を無視してムンギア中尉に挨拶して、中尉の隣の椅子に座った。

「さて・・・」

とムンギア中尉が英語で言った。

「貴方の名前と生年月日、国籍を言って下さい。」
「エルネスト・ゲイル・・・」

 エルネストは氏名と生年月日は答えたが、国籍はちょっと言葉を濁した。テオが尋ねた。

「どうした? アメリカ合衆国から追い出されたか?」

 エルネストはムッとした表情になった。

「そうじゃない、パスポートを海に落としたんだ。セルバにU Sの大使館はあるんだろ? 連絡してくれないか?」

 彼等の会話が聞こえなかったふりをして、ムンギア中尉がもう一度尋ねた。

「貴方の国籍は?」

 エルネストは渋々答えた。

「アメリカ合衆国。」

 彼は生まれた州と町の名前も告げた。ムンギア中尉は前日にテオが病院で書いたエルネスト・ゲイルの概歴に目を通していた。
 エルネストがテオに言った。

「さっきも別の憲兵に同じことを訊かれたんだ。僕は犯罪者扱いか?」
「入管を通らずに入国したからね。」
「ハリケーンで遭難して、打ち上げられただけじゃないか!」
「静かに!」

 中尉が注意した。

「乗船が遭難したのですか?」
「そうだ。」
「船の名前は?」
「ハーマイオニー」

 テオはプッと吹き出した。

「ハリー・ポッターの登場人物じゃないか。」
「船の名前なんだ。ちゃんと船体に書いてあった。」
「それは客船ですか?」

 エルネストが返事を躊躇った。中尉が重ねて尋ねた。

「民間船ですか、それとも公的機関の船ですか?」

 エルネストは溜め息をついて、答えた。

「海洋調査船だ。」

 ムンギア中尉がテオの方へ顔を向けたので、テオはスペイン語で説明した。

「海に関する色々なことを調査する装備を備えた船です。国が所有している船が主ですが、民間企業が運営しているものもあります。調査内容は、海流、海産資源、海底資源、海底地質、等の自然を調査するものがあれば、沈没船の捜索や宝探し、海底に建設された施設の点検などもあります。この男は、遺伝子学者ですから、本当に海洋調査船に乗っていたのであれば、目的は海産資源調査です。ただ、昨日も言いましたが、彼は陸軍施設で育ったので・・・」
「海産資源の調査に携わる可能性は低い、と?」
「スィ。」

 ムンギア中尉が視線をエルネストに戻したので、エルネストは「何だよ?」と言いたげに見つめ返した。セルバ人のマナーとしては、喜ばれない。
 テオは机の上に体を傾けた。

「エルネスト、本当のことを言ってくれ。君は、今、何処でどんな仕事をしているんだ? まだあの研究所にいるのか?」

 

2021/12/10

第4部 忘れられた男     15

  ケツァル少佐はカタリナ・ステファンに断ってカルロの部屋へ行った。ドアに鍵が掛かっていたが、ノックすると直ぐに開けてもらえた。”ヴェルデ・シエロ”に鍵は何の意味もない。ブエノス・タルデス、と挨拶を交わして、カルロ・ステファンは異母姉を中に招き入れた。質素な部屋だ。住人が本部の官舎に住んでいるから、実家には殆ど物がない。家を購入した時に付いていた家具がそのままあるだけだ。衣類は床に置かれたリュックに収納されている。窓際の古い机の上に置かれたラップトップに密林の映像が映し出されていた。
 椅子が1脚しかなかったので、少佐はベッドの上に座った。そしてラップトップのスクリーンを顎で指した。

「オクタカスですか?」
「スィ。私にも派遣の話が電話で伝えられました。長老の護衛です。」
「私も同じです。一種の牽制でしょう。」
「牽制?」
「グラダ族の力がどんなに強くても、調子に乗るとこうなるぞ、と言う・・・」

ああ、とカルロは頷いた。

「私は司令部に入るつもりはありませんよ。」
「私もです。」
「指揮官より、捜査官の方が面白い。」

 カルロ・ステファンは机の前の椅子に座り、マウスを動かして密林の画像を動かした。

「この部分、2年前の事故の後、撤収時にフランス隊が厳重にシートをかけたのですが、3分の1ほど動かされています。慎重に元に戻したつもりでしょうが、微妙にズレています。盗掘があったことは確実です。」
「誰が撮影したのです?」
「オクタカス村の子供です。スマートフォンで撮影して、SNSにアップしていました。」
「子供が?」
「最近、村でも携帯電話が通じるようになったので、面白がって遺跡へ行って撮影大会をしたらしいのです。」

 少佐が思わず微笑んだので、彼も嬉しくなった。

「自宅で座っているだけで、情報が入って来る。先祖はこんな状態を想像もしなかったでしょう。」
「そうですね。」

 ケツァル少佐は弟を見た。

「今日は、ちょっと質問を持ってきました。」
「何です?」
「貴方のお祖父様の名前を教えて欲しいのです。考えたら、一度も聞いたことがありません。」

 ああ、とカルロも不意打ちを食らった表情で首を振った。

「そう言えば、そうですね。私も祖父とか祖父さんとしか呼んだことがなかった。祖父の名前は・・・」

 彼は遠い記憶を呼び起こそうとちょっと天井へ視線を向けた。

「エウリオ・・・エウリオ・メ・・・」

 彼は自分の記憶にギクリとして、少佐を見た。

「エウリオ・メナクでした。」

 少佐は彼程に驚いた様子ではなかった。

「僅か50人前後の小さな村でしたから、恐らくマナ、ケツァル、メナク、後一つぐらいしか家系がなかったのでしょうし、互いに妻の遣り取りをして全員が親族だった筈です。ニシト・メナクもシュカワラスキやウナガンと近い親族で、もしかすると異母兄弟姉妹だった可能性もあります。エウリオさんも誰かの兄か従兄弟だったのでしょう。」

 カルロがフーッと息を吐いて脱力した。

「私達はあまりにも血が濃すぎますね。貴女が私を夫に選ばないと言われた理由も理解出来ます。グラダ族の純血種は危険です。貴女は危険ではありませんが、我々の子孫がどうなるか、私には抑えきれないだろうし。」

 彼は姉を見て、片目を瞑った。

「でも、ハーフもまだ危ないですよ、例え半分白人だとしても。」
「何ですか、それは?」

 ケツァル少佐は笑ったが、少し頬を赤らめた。それから、直ぐに真面目な顔になった。

「私が気になるのは、エウリオさんと共に出稼ぎに出た残りのイェンテ・グラダ出身の男達のその後です。 彼等はまだ生存しているのか、或いは子孫を残しているのか。」

 カルロは考え、首を振った。

「祖父から何も聞いていません。長老会もそれを気にしているのかも知れませんね。 だから、我々の護衛が必要なのでは?」



2021/12/09

第4部 忘れられた男     14

  2ヶ月の休暇はとても長く感じられた。カルロ・ステファンは退屈で2週間も経たぬうちに本部へ戻ろうかと思ったのだが、同じ時期に大学の雨季休暇に入った妹のグラシエラが、教員免許を取るための特別授業の一環で、スラム街の子供達の教育を行う団体にボランティアとして参加したので、その送迎をする為に実家に残った。グラシエラは”心話”と夜目しか使えない”ヴェルデ・シエロ”だから、普通の人間”ティエラ”と殆ど変わりがない。だから兄貴としては、妹が不良どもに狙われないかと心配だった。さらに気掛かりだったのは、妹の大学の同級生達だ。数人の男子学生がグラシエラを迎えに来たり、送って来たりする。彼女は「ただの同級生だ」と言うが、兄の目から見れば、どれも飢えた狼だ。だから顔を合わせると睨みつけてやる。学生達の間ですぐに噂になった。

 グラシエラ・ステファンの兄ちゃんはおっかない!

 グラシエラには、兄が大統領警護隊の隊員だと周囲に言うなと申し渡してあるが、それでも立ち居振る舞いは軍人だし、軍服を着て街で活動している彼の姿を目撃したことがある学生もいたので、正体がバレるのも時間の問題だった。
 流石にグラシエラも、同級生に片っ端から睨みを効かせる兄貴の態度にいささかうんざりしてしまった。それで彼女は、つい、言ってはいけないことを兄に言ってしまった。

「シータに振られたからって、私の友達に当たることはないでしょ!」

 その話をカタリナ・ステファンから聞かされたケツァル少佐は笑いが止まらなくて困った。カタリナも笑いながら、この3日ほど互いに口を利かない息子と娘に手を焼いている、と愚痴った。彼女達はステファン家の小さな居間でコーヒーを飲みながら世間話をしていた。

「カルロが貴女を慕っていたことを、私は知っていました。でも貴女の心が彼にないこともわかっていました。」
「彼は私にとって大事な部下で、愛する弟です。そして心から信頼出来る仲間です。それ以上でもそれ以下でもありません。」
「グラシエラも貴女を慕っています。でも兄と姉が結ばれる部族の古い習慣には抵抗があることも事実です。だから、貴女が彼に引導を渡してくれた時に、彼女も私も内心安心したのです。だけど、カルロは、まだ未練がある様です。」
「軍隊にいると女性と接する機会が少ないのも事実ですから。焦らずに長い目で見てやって下さい。それにしても、グラシエラの一発は今のカルロにとって、きつかったですね。」
「傷口に塩を塗ったようなものですよ。」

 カタリナは家の奥をチラリと見た。グラシエラはボランティア活動の最終日でスラムに出かけていた。新学期が始まるので、彼女の活動は休止だ。カルロの方も週明けに本部へ戻る。戻ってしまえば、次に実家へ帰るのは何時になるかわからない。本部では、彼を指揮官候補生として教育しているのだ。彼の念願の、「ケツァル少佐と同じ階級に上がる」日が近づいている。しかし、その昇級の目的だった女性は、もう彼のものにならない、と彼女自身から告げたのだ。カタリナは息子が自棄を起こさないかと、ちょっぴり心配だった。こうして彼女が少佐と居間でコーヒーを飲んでいる間も、カルロは自室に閉じこもって出て来ない。ハリケーンが来た時に、祈祷と言う任務で一時的に本部へ召喚されたが、自然災害の脅威が去ると、半ば強制的に実家へ戻された。カルロは丸2日、自室で眠りこけ、目覚めると部屋に閉じこもったままだ。
 ケツァル少佐は、ステファン家訪問の真の目的に入ることにした。何時までも失恋した弟を肴に喋るのも気の毒だ。振ったのは彼女自身なのだから、尚更だ。

「来週、イェンテ・グラダへ派遣されることになりました。」

 カタリナにはピンと来なかったようだ。不思議そうな目で義理の娘を見た。それで少佐は簡単に説明した。

「シュカワラスキ・マナとウナガン・ケツァルが生まれた村です。貴女のお父様の故郷でもあります。」

 ああ、とカタリナは頷いた。夫はイェンテ・グラダ殲滅事件があった時、まだ1歳だった。だから夫から村の話を聞いたことはなかった。父親は10代の頃に村を出て鉱山へ出稼ぎに行った。1度だけ里帰りしたが、その時点で既に村は消滅していた。父親は、故郷を失ったとだけ妻子に語り、それ以上村の思い出を語ることはなかった。恐らく、彼が出稼ぎに出る前からイェンテ・グラダ村には不穏な空気が満ちていたのだろう。父親は村がどうなったのか真相を知らなかったが、何故消滅したのか、理由は漠然と理解したのだ。だから娘に伝えなかった。堕落して自滅した故郷の話を語らなかった。
 カタリナ・ステファンにとって、イェンテ・グラダ村は古代セルバ同様、遠い存在だった。

「ジャングルの中の村だったとだけ聞いています。住む人がいなくなって、既に半世紀経っているのですから、ジャングルに呑み込まれてしまっていることでしょう。」

 彼女はケツァル少佐に微笑みかけた。

「貴女はお仕事で何度もジャングルに入られていると思いますが、気をつけて行ってらっしゃいね。」

 


第4部 忘れられた男     13

  カルロ・ステファンを男性として見ることが出来なくなった、とケツァル少佐はテオに言った。

「彼は、私にとって、グラシエラと同じレベルの人間です。」

と彼女は言い、テオは彼女をそっと見下ろした。2人はバルからリストランテに移動し、食事をして、一旦少佐のアパートまでベンツで帰った。テオが歩いて帰ると言ったのだ。だから、彼女は自宅の車庫にベンツを置いて、彼をマカレオ通りの長屋迄護衛してくれているのだった。

「グラシエラと同じレベル?」

とテオは繰り返した。ケツァル少佐にとって、グラシエラ・ステファンは可愛い妹だ。腹違いだし、互いの存在を知ったのはほんの2年前だ。しかし少佐は妹を愛している。どんなことがあっても守りたい存在だ。そしてグラシエラもこの強い姉を信頼し、心から慕っている。だが、少佐は彼女の人生に干渉しようと思わないし、少佐自身の人生に妹が干渉することも望まない。つまり、

「つまり、君はカルロを求婚者としては認めない、と解釈して良いのかな?」

 テオが確認すると、少佐は「スィ」と頷いた。

「彼は弟です。それ以外の存在ではありません。強いて言えば、私の命を預けられる同士です。」

 テオは微笑んだ。

「それは最高の褒め言葉だと思うな。」

 だけど、カルロ・ステファンの方はどう感じているのだろう。実力を認めてくれて信頼してくれた上官以上の存在として少佐を見ているあの男は、あっさり姉を諦め切れるのか?

「まだ22歳ですよ。」

と少佐が呟いた。

「カルロはまだ若いのです。これからいくらでも女性との出会いがあります。」
「確かに・・・」

 テオは少佐が体を寄せて来たので、ドキッとした。彼女が囁いた。

「私はもう28です。」
「だから? 痛い!」

 いきなり腕をつねられてテオは声を上げてしまった。少佐がパッと離れた。悪戯好きな子供の様な目で彼を見た。

「北米の男性はもっと積極的だと思っていました。」
「俺は消極的だと言いたいのか?」
「少なくとも、カルロ程ではありません。」
「それじゃ、マリオ・イグレシアス並みに迫ろうか?」

 少佐が笑った。
 車が走って来たので、2人は道端に身を寄せた。テオは彼女の肩に腕を回した。
 蒸し暑い夜だったが、お互いの体温を感じながら暫く道端に立っていた。テオは何時キスをしようかと考えた。キスは既に何回かしている。ただ、毎回少佐の方が挨拶程度に、スッと唇を接触させてくれるだけだ。もっと愛情を込めたキスをしたい。ここで強引に・・・。
 少佐がスッと体を離した。

「来週から暫くオクタカスの遺跡へ行ってきます。半月は帰りません。」
「はぁ?」

 いきなり仕事の話だ。テオはがっかりした。

「オクタカスって、あの”風の刃の審判”の遺跡がある所だったな。」

 随分昔の出来事の様に思い出せるが、あの遺跡は、カルロ・ステファンと初めて出会い、ロホやステファンが異種の人間だと確信を抱いた場所だった。そして・・・・

「イェンテ・グラダ村の遺構を確認して、オクタカス遺跡発掘が再開される前に村の遺構を完全に消滅させます。」

 イェンテ・グラダ村は”ヴェルデ・シエロ”の歴史の中で負の遺構になるのだ。ケツァル少佐の母と、彼女とカルロの父が生まれた村。存在すると危険だと一族から見做されて抹殺された村人達。その遺構が残っていて、もし考古学者達の目に触れれば、また厄介なことになる。

「君1人で行くのか?」
「そうしたいのですが、今回は長老会のメンバーも何人か行きます。彼等には、村を殲滅させた責任がありますから、最後の始末をするのだそうです。私は、彼等の護衛です。」

 ”ヴェルデ・シエロ”の長老会と言ったら、最高の超能力者集団だ。その護衛を命じられたと言うことは、少佐のグラダ族としての能力がどれだけ強いかと言う証拠だ。

「カルロは行かないのか?」
「聞いていません。でも長老が彼も一行に加えたいと思えば、彼も呼ばれるでしょう。」

 父親の誕生地を見たいだろうか? と考え、テオは別の可能性を思い付いた。

「カルロは、お祖父さんの故郷を見たいだろうな。」

 少佐が頷いた。カルロが見て記憶するイェンテ・グラダ村の景色を、母親のカタリナ・ステファンも息子を通して見るかも知れない。

 

第4部 忘れられた男     12

  エルネスト・ゲイルについて知りたい情報を引き出すと、憲兵隊はテオを大学へ送り届けてくれた。必要ならまた呼びます、と言う注釈付きで。
 テオは研究室に入り、次週から正式に始まる新学期の準備に取り掛かった。前期から続けて受講してくれる学生の授業と、新規に履修してくれる学生の為の入門講座の2つの教室を受け持つことになる。忙しくなるが、給料もその分多少アップするので文句を言わないことにした。シエスタ返上で働き、何とか授業方針に目処がたった。予算も降ろしてもらえる内容だ、と自分で思う。
 ホッと一息ついて、ふとエルネスト・ゲイルの現在に心が向いた。あの男は実際のところ、今は何をしているのだろう。何処かに潜入しようとした印象だが、彼にスパイ行為が務まるのか? バス事故に遭う前のテオは我儘で身勝手で他人への思い遣りがない人間だと評価されていた。しかし、彼自身の記憶の中のエルネストは、もっと酷かったと思う。エルネストは我儘と言うより、自分のことしか関心がなく、自分の殻に引きこもっていた。盗撮や盗聴が好きなのも、1人で楽しめるからだ。ネットに公開して視聴者を獲得し、標的となった他人を苦しめようとか、そんな目的ではなく、彼1人楽しめれば十分満足、と言う人間だ。諜報部から教育を受けてスパイ活動を行うなど想像出来ない。しかし、亡命はもっと想像出来ない。生まれ育った研究所が失われてしまったとしても、あの男は現代アメリカ文明の中でしか生きられない。ネットと宅配ミールのない世界で生きていけるだろうか。
 省庁が業務を終わる時間が近づいたので、彼はケツァル少佐にメールを入れた。

ーー夕食を一緒にどうだい?

 珍しいことに、速攻で返信が来た。

ーーO K

 思わずメアドを確認してしまった程だ。
 研究室を出て、歩いて文化・教育省へ行った。午後6時になって、何時ものごとく、職員達が一斉に雑居ビルから吐き出されて来た。
 ケツァル少佐は普段最後の方で出て来るのだが、その日は珍しく早いグループに混ざっていた。角に立っているテオを見つけると足速に歩み寄った。そして彼の顔を見るなり、言った。

「お腹ぺこぺこです。」

 テオは吹き出した。彼女は病院からオフィスに戻ってから、一心不乱に溜まった書類と格闘していたのだ。昼食も取らずに。
 部下を同伴するかしないか、それは夜の予定で決める文化保護担当部指揮官だ。少佐はテオをいつものバルに連れて行った。ビールと小皿料理で夕刻の一時を2人でのんびりと過ごした。テオは簡単に憲兵隊との遣り取りやエルネスト・ゲイルの現状を説明した。そして少佐はいつもの様に食べることに集中しているふりをして、彼の話の一言一句をしっかり聞いていた。

「要するに、現在のところエルネストが何処へ何をしに行こうとしていたのかは、まだ不明なんだ。あまり素直な男じゃないから、憲兵隊の尋問に正直に答えるかどうかも疑問だけどね。ただ、俺はあいつがこの国で問題行動を起こして、眠っている人々を起こしはしないかと、それだけが心配だ。」

 眠っている人々、と言うのは”砂の民”のことだ。テオは初めてこのロマンティックな隠語を思いついて使ってみたのだ。少佐はあっさり理解した。

「私はあの男のことを誰にも話すつもりはありませんが、シーロは私から事情を説明した時に、ゲイルが危険な存在であると思った筈です。」
「わかる。」

とテオは頷いた。

「ロペス少佐は、一族と共に婚約者も守りたい筈だね。」
「スィ。彼は私に感想を伝えませんでしたが、何か手を打つかも知れません。」

 事務仕事を長年してきたと言っても、シーロ・ロペスは大統領警護隊の少佐だ。移民や亡命者を相手に様々な対策も練ってきただろう。外務省の顔の1人として他の省庁にも出入りしているのだから、顔も広い筈だ。

 エルネスト・ゲイルは生きてセルバ共和国から出ることが出来ないかも知れない

 テオはふとそんな予感がした。

「ところで少佐、彼がセルバに流れ着いたことを、カルロに教えるつもりはあるかい?」

 ケツァル少佐が意外そうな顔をした。

「その必要があるのですか?」
「もし、エルネストが街中に出て、そこにカルロが通りかかったら・・・」

 よく考えると、馬鹿な心配だ。ここはカルロ・ステファンのホームベースで、ゲイルは紛れ込んでしまった異分子だ。ゲイルがどんなに騒ごうが、周囲は”ヴェルデ・シエロ”を信仰するセルバ人ばかりだ。そしてセルバ人にとって、カルロ・ステファンは、ただのメスティーソの大統領警護隊隊員だ。超能力を持っていようが、ジャガーに変身しようが、ゲイルがどんなに喚き立ててもセルバ人は無視する。ステファンも無視するだろう。
 テオは手を振った。

「いやいや、忘れてくれ、俺の余計な心配だった。」
「そうでしょう。」

 と少佐はビールをごくりと飲んだ。そして囁いた。

「カルロとは連絡を取り合っていませんから。」


2021/12/08

第4部 忘れられた男     11

  シエスタの時間だ。ロペス少佐は外務省から迎えに来た部下が運転する車で帰ってしまった。エルネスト・ゲイルの病室には憲兵隊の軍曹が見張りに着き、テオはアウマダ大佐とムンギア中尉と共に昼食に出た。勿論憲兵が彼を食事に誘ったのには目的があった。テオはエルネスト・ゲイルとの関係や、ゲイルのアメリカでの仕事について色々と質問された。それで彼は後々に厄介な事態に陥らないよう、可能な限り本当のことを喋った。
 彼とゲイルは親がいない子供で、同じ施設で育ったこと、長じてそれぞれ遺伝子分析を研究する分野に進んだこと、テオ自身はセルバ共和国で旅行中事故に遭い、そこで受けたセルバ人の親身の世話に感動して、セルバ国民になることを決意したこと、ゲイルはそれに反対で妨害を試みたこと、ゲイルはさらにセルバ人を誘拐して研究に使おうとしたこと・・・

「何故、彼はセルバ人を研究しようと考えたのです?」

と大佐が尋ねた。テオは肩をすくめた。

「彼は、セルバ人には古代の神様の子孫がいると言う噂を耳にしたのです。」

 憲兵達が顔を見合わせた。中尉が肩をすくめ、大佐が溜め息をついた。

「そんな噂をすることこそ、神に対する不敬ですがね。」

と彼は言った。

「セルバの神々は恐ろしいのです。失礼のないように我々は日々心がけています。あの男は命を落としても仕方がないことをしたのですな。」
「海が荒れたのも、神様を怒らせたからでしょう。」

とムンギア中尉が言った。若い彼がそんなことを言うと、ちょっとおかしく聞こえた。テオは彼等が白人であるテオを警戒していると感じた。エルネストの仲間とは思っていないが、セルバの秘密を打ち明けてはならない相手、と見做されているのだ。打ち明けてはいけないどころか、神様そのものと親しくなり過ぎている彼は、内心可笑しく感じながら、ムンギア中尉の言葉を冗談として受け止めたふりをして笑った。

「それで、誘拐されたセルバ人はどうなりました?」

と大佐が訊いたので、テオは本当のことを言った。

「無事にアメリカを脱出してセルバに帰国しましたよ。その時に俺も一緒に逃げて、セルバに亡命したんです。前にも言いましたが、エルネストと俺は軍の施設で研究者として働いていましたから、他国の人間になりたいと言っても許してもらえません。だから、俺は亡命するしかなかった。エルネストは、捕虜に逃げられて、俺にも逃げられて、恐らく軍から何らかの罰を受けた筈です。ただ、俺はセルバに来てから彼の消息を耳にすることが全くなかったので、彼の存在を忘れていました。だから、さっき病院のベッドで寝ている彼を見て、びっくりしたのです。」

 ふむ、と大佐が考え込んだ。

「彼がパナマ辺りに亡命しようとしたとは考えられませんか?」
「俺には考えられません。」
「何故?」
「それは・・・」

 テオは肩をすくめた。

「彼が育った施設以外の場所を全く知らない男だからです。彼は自活出来ません。社会のルールだってまともに守れない。それに、こう言っては何ですが、彼はメキシコから南の国々や民族を蔑視しています。己が馬鹿にしている国に逃げて来るなんて想像も出来ません。彼が亡命するなら、EUかイギリスぐらいです。」
「それでは・・・」

 アウマダ大佐とムンギア中尉は互いの顔を見たが、マナーとして目は見ていなかった。ムンギア中尉が呟いた。

「母国へ強制送還、と言うのは駄目ですね。」


第4部 忘れられた男     10

  エルネスト・ゲイルの事情聴取やその後の扱いについては、憲兵隊に権限があるので、テオは大統領警護隊の仲間の元に戻った。ケツァル少佐とロペス少佐は待合スペースで退屈そうに座っていた。周囲の患者は彼等が何者か気がついていないので、何か勘違いした年配の女性がケツァル少佐に、「おめでたか?」と尋ねて彼女を赤面させた。2人の少佐を夫婦と勘違いした様だ。テオが近づくと、どちらもホッとした表情で立ち上がった。

「彼は大丈夫でしたか?」

とケツァル少佐が尋ねたのは、エルネストの体調のことだ。テオは頷いた。

「彼は元気だ。どうやらパナマへ行く途中だったらしい。ここがセルバだと言うことを知って、ちょっと驚いていた。」

 ロペス少佐が廊下の奥のドアを見た。

「憲兵隊が指導権を持つ様ですね。」
「スィ。今のところ遭難者として事情聴取を受けるらしいです。」

 アウマダ大佐が出てくるのが見えた。ロペス少佐はケツァル少佐を振り返った。

「貴女はもう撤収してもらって結構だ。運転手を頼んですまなかった。」

 ケツァル少佐が微かに笑った。

「これで終われば良いのですが・・・」

 彼女はテオを見た。

「アリアナとテオをあまりあの男の件に巻き込まないよう気をつけて下さい。」
「アリアナには彼の話は聞かせません。」

とロペス少佐は言い、彼もテオを見た。 テオに、アリアナにはエルネストの出現を言うなと暗に要請したのだ。テオは、承知したと首を振った。やっと精神的な落ち着きを得て、幸福を掴もうとしているアリアナに、過去の亡霊を見せたくなかった。
 ケツァル少佐はテオの帰りの足のことをちっとも心配していないようで、「ではまた」と言って、病院から去って行った。その後ろ姿を見送って、テオはロペス少佐を振り返った。ロペス少佐はアウマダ大佐がそばに来るのを待ってから、エルネスト・ゲイルをどうするのかと尋ねた。
 アウマダ大佐は大統領警護隊の目を見ないように努めながら答えた。

「今日のところは南基地の憲兵隊分室へ連れて行きます。」
「事情聴取の後は?」
「宿舎を用意します。見張りは付けます。パスポートも何も持っていない外国人を野放しには出来ませんから。」
「少なくとも、彼は今のところハリケーンの遭難者で、我が国へ移民する為に来たのでも亡命に来たのでもない様だ。移民・亡命審査官の私に用はないと思うが?」

 アウマダ大佐はチラリとテオを見てから、ロペス少佐の意見を認めた。

「我が国へ入国するのは目的でない様です。しかし調査は必要です。アルスト博士をもう暫くお貸し願いたい。」

 ロペス少佐が顔を向けたので、テオは溜め息をついた。

「まぁ、ずっとここに詰める訳ではないでしょうから、俺は良いですよ。」

第4部 忘れられた男     9

  エルネスト・ゲイルは呻き声を立てながら目を開け、起き上がろうとした。点滴も酸素マスクも何も装着されていないから、簡単に体を動かせる。医師も憲兵も黙って彼の動きを見ていた。
 ゲイルが上体を完全に起こした時に、テオはムンギア中尉の後ろから声を掛けた。

「おはよう、ゲイル博士。」

 アウマダ大佐と医師がチラリと彼を見たが、何もコメントしなかった。エルネスト・ゲイルは手で顔を擦り、英語で「おはよう」と答えた。それから、ふと気がついた様に視線を上げた。メスティーソの中米人の医者と軍人が彼を取り囲んでいるのを見て、一瞬不思議そうな顔をした。それから、ハッとして周囲を見回した。

「ここは?」

 医師が英語で答えた。

「グラダ・シティのブルノ・リベロ病院です。」
「グラダ・シティ?」

 エルネストは怪訝な表情になった。

「パナマですか?」
「ノ。セルバ共和国です。」
「セルバ?」

 彼はピンと来なかった様だ。もう一度病室内を見回し、憲兵の後ろに立っているテオを見つけた。え? と言う驚きの表情になった。

「テオ? シオドア、君か?」

 テオは中尉の横に進み出た。

「そうだよ、君の昔馴染みのシオドアだ。今はテオドール・アルストと名乗っているがね。」
「それじゃ、ここはセルバ・・・」
「だから、ドクターがそう言ったじゃないか。」

 やっとエルネストの顔に不安そうな色が現れた。

「どうして僕はセルバにいるんだ? パナマへ行く筈だったのに・・・」
「ハリケーンで遭難したんだ。」

 とムンギア中尉が言った。

「貴方は救命筏に乗って、我が国の浜辺に打ち上げられていた。」

 ああ、とエルネストが枕に頭をどすんと落とした。少し安堵の表情になった。

「それじゃ、助かったってことか・・・」

 医師が憲兵にエルネストの診察をして良いかと尋ねた。

「問題がなければ退院させて結構です。」
「では、診察をお願いする。」

 医師が聴診器でエルネストの胸の音を聴き、目や舌をチェックし、脈や血圧を測って、憲兵大佐に頷いて見せた。大佐が中尉を振り返った。

「この男に着せる衣類が必要だな。」

 テオは大佐に尋ねた。

「彼をどうなさるおつもりですか?」
「遭難の状況を事情聴取する。船が遭難したとわかれば、関係ありそうな国に連絡して救助を促す。手遅れかも知れないがね。取り敢えず、彼を何処かのホテルに泊めることになるだろう。貴方がこの男性の身元をご存知で手間が省けた。」

 大佐は廊下の方へ視線を遣った。

「大統領警護隊のお出ましは、その後にお願いすることになるだろう。」


 

 

2021/12/07

第4部 忘れられた男     8

  エルネスト・ゲイルはまだ目を閉じていた。痩せたな、と言うのがテオが抱いた最初の印象だった。以前はぽっちゃりした体型だったが、かなり贅肉を落としていた。しかし美男子には程遠い顔立ちだ。太っていた時の方が可愛いかった、とテオは思った。やつれているのかも知れない。生まれてからずっと特別な子供扱いされ、大事に養育された男が、人生で最大の失敗をしたのだ。エルネストが生け捕った超能力者がとんでもないヤツで、その仲間もとんでもない女で、軍の基地内にある警戒厳重な研究所をメチャクチャにして、研究データを全て消去してしまって逃亡した。しかも2人の、やはり大事に育てた筈の研究者を道連れにして。軍は、あるいは国は、エルネストの失敗をどう処理したのだろう。エルネストは汚名返上の為に新しい仕事を背負い込んだのか? それとも母国に未来はないと諦めて逃げて来たのか?
 アウマダ大佐がテオを見た。大統領警護隊と何の話をしていたのか、と問いたげな表情だったので、彼は囁いた。

「この男は俺の知っている人間です。アメリカ人です。」

 それ以上の説明は、医師や看護師の前で言うのを憚られた。それにこの2人の憲兵は”ティエラ”だ。アメリカで起きた事件を全く知らない普通の人々だった。

「科学者ですか?」

とムンギア中尉が尋ねた。テオは頷いた。

「アメリカ合衆国陸軍の研究施設で働いていた男です。」

 それだけで、憲兵にエルネスト・ゲイルに対する警戒感を持たせるに十分だった。身元を徹底的に隠した装備を持ったアメリカ軍関係者だ。セルバ共和国と敵対している訳ではないが、友好的な活動をしていたとは言い難い。

「何処か南の方の国で活動していて、ハリケーンでセルバへ流された可能性も考えられるな?」

とアウマダ大佐が呟いた。漂流して来たと考えれば、大佐の意見が正しく思えた。パナマやコロンビア辺りが目的地だったのかも知れない。
 その時、エルネストがうーんと声を上げた。アウマダ大佐がテオに尋ねた。

「彼の名前は?」
「エルネスト・ゲイル。」
「アーネストではなく、エルネストですか?」
「スィ。何故かその発音で彼は子供の時から呼ばれていました。」
「子供の時から?」
「幼馴染です。」

 兄弟とは言いたくなかった。言えば、また話がややこしくなる。大佐がベッドの上の男に英語で声を掛けた。

「エルネスト、起きなさい。」



第4部 忘れられた男     7

  生存者は2階の病室にいた。医師の説明では、外傷はなく、低体温と脱水症状が酷かったのだと言う。救命筏に乗り込んだ時には既に着衣全部がずぶ濡れだったのだ。船から退避するタイミングを誤ったに違いない。殆ど手遅れのギリギリ一歩手前で救命筏に乗り込んだのだ。
 医師が先頭になり、2人の憲兵の後ろにテオ、ケツァル少佐、ロペス少佐の順で病室に入りかけた。しかし、ベッドで寝ている男の顔を見た瞬間、テオは回れ右して、2人の大統領警護隊の少佐の前で両腕を広げて通せんぼした。思わず低い声で言った。

「駄目だ、入るな。」

 少佐達が怪訝な顔をするよりも早く、彼は彼等を数歩押し戻した。そしてケツァル少佐に言った。

「エルネスト・ゲイルだ。」

 ケツァル少佐は2年も前に1度きりしか会っていない男を覚えていなかった。誰?と目で彼に問いかけた。テオは彼女を見て、後ろのロペス少佐を見た。そして簡単に、しかしわかりやすく説明した。

「アメリカで、カルロ・ステファンを拐った男だ。」

 2秒後にケツァル少佐が、ああ、と思い出して頷いた。ロペス少佐はまだピンと来ない様だ。ケツァル少佐が彼を振り返り、目を見て”心話”で説明した。ロペス少佐もそれで理解した。テオとアリアナ・オズボーンと共に遺伝病理学研究所で遺伝子操作されて生まれた男だ。C C T Vで黒いジャガーを見て、カルロ・ステファンが変身した姿だと知り、ステファンを拉致して超能力者の研究に使おうとした科学者だ。ケツァル少佐の”操心”でテオと彼女を研究所の所長室へ案内した後、ステファンに殴られて昏倒した。テオ達は彼をそこに放置して逃げたのだ。
 テオは彼女に尋ねた。

「君はエルネストの記憶を消したかい?」

 ケツァル少佐が首を振った。

「研究所の人間全員から私達の記憶を消した筈です。でも、貴方に私達の”操心”が効かない様に、彼にも効かなかった恐れは十分にあります。」
「じゃぁ、彼は君を覚えているかも知れない。」

 テオは病室の入り口を見た。エルネスト・ゲイルが何故セルバの海岸に打ち上げられていたのか知らないが、身元を隠す必要がある行動をしていたのだ。ここは用心するに越したことはない。
 テオは少佐達に向き直った。

「医者と憲兵は”ティエラ”だな?」
「スィ。セルバ人の90パーセントは確実に”ティエラ”です。」
「それじゃ、彼には俺が憲兵と一緒に面会する。君達は出来るだけ彼に近づかないでくれ。必要な時は俺が呼ぶから。」

 エルネスト・ゲイルに”ヴェルデ・シエロ”の細胞を手に入れる機会を与えてはならない。2人の少佐は純血種なのだ。エルネストがまだステファンを諦め切れていなければ、”ヴェルデ・シエロ”達を彼と接触させたくなかった。エルネストが”シエロ”の遺伝子を手に入れたとしても、無事にアメリカに戻ることは出来ないだろう。ここには”砂の民”と呼ばれる人々がいるのだ。テオは彼を愛せないでいるが、それでも一緒に育った”弟”だ。この国で死なせたくなかった。
 テオは1人で病室に入った


第4部 忘れられた男     6

  市営病院は初代院長の名前でも付いたのか、ブルノ・リベロ病院と言う名前だった。ロカ・ブランカではちょっと腹痛や頭痛したぐらいでは病院に行かない。町の薬局(と言えるのかわからないが)で薬を買って飲むだけだ。病院へ行くのはお産か重症患者だけだった。しかしそれは単に町と病院の距離が遠いからと言う理由だけのようで、実際に病院のロビーに入ると市民が普通に待合で順番待ちをしていた。決して診療費が高い訳ではないのだろう。市営病院だから、グラダ大学の大学病院の様な高度な技術はないかも知れないが、まともな医者がまともな診療を行っている様だ。
 テオはバス事故から救出されて入院していたエル・ティティの病院を思い出した。田舎の小さな町の小さな病院だったが、親身になって治療をしてくれた。唯一人の生存者だったテオを必死で看護してくれた。今でも時々彼は思う、自分が遺伝子分析学者ではなく、アリアナの様に医師免許を取って患者を診る遺伝病理学者であったならば、彼女の様に方向転換して臨床医になってエル・ティティの町に恩返し出来たのに、と。
 ロカ・ブランカの警察とは町から出る時にお別れしたので、病院での面会交渉は憲兵隊が行った。生存者はまだ眠っているが、容態は落ち着いたので間もなく目が覚めるだろう、と医者は言った。それで、先に冷蔵保存されている遺体の方を見ることにした。
 テオはミイラをたくさん見た経験はあるが、生の死体はない。少なくとも、意識してじっくり見た経験がない。死体安置室へ案内される時、彼はケツァル少佐に囁いた。

「俺が部屋から逃げ出しても笑わないでくれないか?」

 少佐が眉を上げて彼を見た。そして囁き返した。

「私が幽霊を見て逃げ出しても追わないで下さいね。」

 それで彼は少しだけリラックス出来た。
 死体安置室は地下にあり、薄暗くて、嫌な臭いが漂っていた。憲兵隊が首元に常に巻いているスカーフを鼻の上へ引き上げた。病院職員が言い訳した。

「換気扇がハリケーンで故障してしまってね・・・」

 シーロ・ロペス少佐はハンカチを出してお上品に鼻を押さえ、ケツァル少佐はスカーフをポケットから出して顔に装着した。テオも仕方なく皺だらけのハンカチを出して鼻を押さえた。
 室内は冷んやりとしていた。アメリカの様な遺体冷蔵保存用の引き出しがある訳でもなく、2体の遺体が台の上に並べて横たえられ、シートをかけられていた。職員が右側の遺体の前に立った。

「こっちが、漂着した時に既に死んでいた人です。救命筏の中に乗せられていました。救命胴衣を着けていましたが、頭部に傷があり、船から乗り移る時に怪我をして亡くなったものと思われます。他に外傷はありません。」

 シートを捲って顔を見せた。アフリカ系に見えた。まだ若い。30代前半だろう。

「発見時の服装は?」

 アウマダ大佐が尋ねた。職員が部屋の隅っこに重ねて置かれた衣類を見た。白っぽいグレーの作業服に見えた。蛍光色のラインが腕や肩の部分に入っている。同じ服が3人分あったので、もう1人の遺体と生存者も着ていたのだとわかった。
 ロペス少佐が遺体のシートをさらに捲る様に合図して、それから手袋を要求した。職員が薄いラテックスの手袋を客に配布した。テオは、それならマスクもくれれば良いのに、と思ったが黙っていた。職員は自分だけマスクをしていたのだ。
 手袋をはめたロペス少佐は遺体の手を眺めた。憲兵が彼の横に来て、一緒に眺めた。

「船乗りの手に見えますが?」

とムンギア中尉が感想を述べた。少佐と大佐が頷いた。力仕事をしていた手だ。
 次の遺体は前日に死んだ人だ。こちらはメスティーソで、やはり若かった。外傷はなかったが、全身ずぶ濡れで低体温症で亡くなったのだ。ロペス少佐はこの遺体の手も眺め、それから自分の手を見て、隣にいたムンギア中尉の手をいきなり掴んで眺めた。ムンギア中尉がギョッとした。テオは笑いそうになって堪えた。ロペス少佐は今完全に大統領警護隊の士官モードに入っており、”ティエラ”の将校は格下と見做しているのだ。彼は中尉の手を離すと言った。

「この遺体の男は、銃を扱い慣れていた。」


2021/12/06

第4部 忘れられた男     5

  海図を管理しているのは沿岸警備隊だったので、警察署長ではなく憲兵隊が連絡を入れた。テオはふと疑問に感じた。何故今回の遭難者の調査を沿岸警備隊が行わないのだろう、と。セルバ人達は何も疑問を感じないのか、それから半時間無駄話をして沿岸警備隊がファックスを送ってくるのを待った。主に次のサッカーのワールドカップの話題だったので、テオとケツァル少佐はテーブルの上の残りの備品をチェックした。

「非常食が2つだけありましたが、北米で手に入りやすいレトルト食品ですね。」

とケツァル少佐が言った。

「リオグランデから南で買えるとしたら、メキシコあたりでしょうか。 私個人の印象では、これは北米から来た様に思えます。こんなに用心深く身元を隠した避難用具を見たのは初めてです。」
「俺もそう思う。」

とテオは嫌な予感を抱きながら言った。

「これはスパイ活動をしていた船のものじゃないかな。犯罪組織がここまで身元を隠すとも思えない。」

 ロペス少佐が振り向いたので、彼は言い足した。

「どこの国がどの国を探っていたのかは、わからない。潮流を見ないとね。」

 ピーッとアラームが鳴り、警察署のファックスが数枚の紙を吐き出した。大統領警護隊と憲兵隊からの合同要請なので沿岸警備隊が超特急でこの過去3日間のロカ・ブランカを含む東海岸沖の潮流の様子を描いた図を送信してきた。
 大統領警護隊も憲兵隊も陸軍がメインなので、海図の読み取りは苦手だ。警察署長が初めて水を得た魚の様に図面を解読しながら潮流の向きを説明した。

「我が国の東を流れる潮流はメキシコ湾流で、南から北へ北上しています。まず逆流はありません。漂流物は南の方からやって来ます。今回の救命筏も南から流されて来たと思われます。何処の国の船のものかわかりませんが、セルバより南で遭難して、暴風で海岸に押し寄せられたのでしょう。」
「海流の速さと風向き、風速から船舶が遭難したと思われる海域はわかりますか?」

 テオの質問に署長が首を振った。

「無理でしょう。穏やかな状態の海で遭難したのでしたら計算も出来ますが、あの暴風雨の中ではね。生存者が回復したら訊いて見る方が良いでしょうな。」

 警察署を出ると、大統領警護隊と憲兵隊はそれぞれの車に乗ってグラダ・シティ南部の市営病院に向かった。そこに死者2名と生存者1名がいた。



2021/12/03

第4部 忘れられた男     4

  憲兵隊のアウマダ大佐とムンギア中尉は年齢も体格も違っていたが、テオにはなんとなく2人が兄弟の様に似ている感じがした。恐らく同じ制服を着て、同じ様な口髭を生やしているからだろう。彼等は私服姿のロペス少佐とケツァル少佐を、本当に大統領警護隊なのかと疑っている様な目だった。
 明るい屋外から小屋に入ると最初は真っ暗に感じる。ロペス少佐は全く気にせずに中に入り、真っ直ぐ中央に置かれたテーブルの前に進んだ。署長が戸口にあった照明のスイッチを押した時、彼は既に救命胴衣を手に取り、国籍の手掛かりを探るかの様に眺めていた。テオはムンギア中尉が上官に「本物ですよ」と囁くのを聞いてしまった。大統領警護隊の夜目が利くことは憲兵隊や軍隊では周知の事実なのだろう。
 ケツァル少佐は床に置かれた膨張式救命筏を調べ始めた。アウマダ大佐が男性少佐を引き受け、ムンギア中尉は女性少佐の相手をすることにしたのだろう、中尉がケツァル少佐に救命筏の構造の説明を始めた。
 テオはテーブルの上に並べられた備品を眺めた。ありふれた非常用装備に見えるが、セルバ共和国で簡単に手に入るとも思えなかった。メルカドに非常用装備を販売している店などないし、グラダ・シティのショッピングモールでも見たことがない。セルバ人は漁師を生業にしている人以外は沖に出て遊んだり作業をしたりしない。漁師だって救命胴衣を着用するようになったのはつい最近のことで、非常食や発煙筒や水の容器など船に装備しない。テオはふと何か足りない様な気がした。
 ケツァル少佐がテオと呼んだ。彼がそばに行くと、彼女が尋ねた。

「海軍には詳しいですか?」
「ノ。俺が育ったのは陸軍基地だから。」
「セルバ共和国には沿岸警備隊がありますが、海軍はありません。」

と彼女は言った。軍艦を持つ余裕が国にないのだ。空軍だって中古の戦闘機と輸送機、ヘリコプターしか持っていない。救命筏はセルバ人が所有するには高度な技術が使われていた。テオは彼女が指差した装置を見た。

「ええっと、それは?」
「SARTです。」

 ロペス少佐とアウマダ大佐が振り返った。ムンギア中尉も興味津々で彼女が指し示した赤いロケット状の装置を見た。ケツァル少佐は男達がそれ以外の反応を示さなかったので、説明した。

「捜索救助用レーダートランスポンダです。捜索救難を行う機関から発せられたレーダー波、質問波と言いますが、それを受信した際、SARTから応答波送信を行うことで捜索機関のレーダー画面上に救命筏の位置表示が行われます。この装置を装備している救命筏を搭載しているセルバの船はないと思います。」
「よくご存知で・・・」

 ムンギア中尉が感心すると、彼女は肩をすくめた。

「3年前に海底遺跡を調査するイギリス船に乗った時に教えてもらいました。」
「セルバに海底遺跡があるのかい?」

 テオはちょっと好奇心が湧いて尋ねた。ケツァル少佐は己の専門分野ではあったが、この場で必要な話題ではないと思ったので、「スィ」と短く答えて遺跡の話を終わらせた。
 アウマダ大佐が彼女に尋ねた。

「どこの製品かわかりますか?」
「恐らく・・・」

 ケツァル少佐は装置をじっくり眺めた。

「日本でしょう。」
「と言うことは・・・?」
「どこの国でも取引があれば購入出来ます。軍事的な物ではなく、遭難した時の救難信号用装置ですから。」
「でもセルバの船ではない?」
「セルバの企業が所有していても船籍を外国に置いていれば、セルバの船ではないですね。」

と言ったのはアウマダ大佐だ。ケツァル少佐が肯定した。彼女の養父の会社も船籍を税金対策でパナマに置いている。ムンギア中尉が調査してきた内容を報告した。

「ハリケーンでセルバの企業が関係した船が被害を受けたと言う報告は上がっていません。また、北米やメキシコ、あるいは南のベネズエラやブラジルからもそんな報告はきていないと外務省が言っています。」
「では、遭難したのは当局に船の運航を届け出ていないところ、と言うことになります。」

 ロペス少佐が警察署長に顔を向けたので、それまで黙って大統領警護隊と憲兵隊の会話を聞いていた警察署長がハッと姿勢を正した。楽に、と言って、ロペス少佐は頼み事をした。

「生存者に面会する前に、この沖の潮流がわかる海図とかあれば見せていただきたい。」




2021/12/02

第4部 忘れられた男     3

 ロカ・ブランカの警察署はエル・ティティ警察署より小さかった。署長と巡査が3名いて、署員の人数ではエル・ティティより1人少ないだけだが、建物は小さくて、事務所の奥にいきなり拘置所があった。テオ達が訪問した時、拘置所の鉄格子の向こうには子豚が一頭入っているだけだった。テオは思わず巡査の1人に質問してしまった。

「あの豚は何をやらかしたんだ?」

 巡査がチラリと檻に視線を向けた。

「3軒向こうの家の庭で無断飲食をしたのさ。」

 どこかの豚が逃げ出して他人の庭の草花を食べたのだろう。警察は豚を捕まえて飼い主が引き取りに現れるのを待っているのだ。エル・ティティではこのような場合、引き取り手が現れないと、豚は次の日曜日、日曜礼拝の後競売に掛けられる。落札されると、そのお金は教会に寄付されるのだ。ロカ・ブランカの警察がどんな方法で解決するのか、テオは訊かないことにした。 
 2頭のジャガーは・・・元い、2人の少佐は子豚を焼きたてのローストポークを見るような目で眺めていたが、憲兵隊の車が前庭に到着すると姿勢を正して座り直した。2人共、昨夜は仕舞っていた緑色の鳥の徽章を胸に付けていた。
 憲兵が2人入って来た。どちらも平均的なセルバ人、メスティーソの男性だった。ロカ・ブランカの警察官達が整列して迎え、大統領警護隊の隊員も立ち上がった。憲兵は警察官達を無視して真っ直ぐ大統領警護隊の前まで歩き、立ち止まると靴の踵をカチッと鳴らして直立姿勢を取り、敬礼した。2人の少佐も敬礼で応じた。年長の憲兵が名乗った。

「グラダ・シティ南基地のアウマダ大佐とムンギア中尉です。」

 憲兵隊の大佐は警察官から見れば高い地位だが、大統領警護隊から見ると少尉と同格だ。ロペス少佐が名乗った。

「大統領警護隊外務省移民・亡命審査官ロペス少佐と・・・」

 彼はテオを目で指した。

「グラダ大学生物学部のアルスト博士だ。我が国の遺伝子分析の権威だ。」

 テオは思わずロペス少佐の顔を見た。「権威」などと大仰な呼び方をされたのは初めてだ。ロペスは民間人のテオが憲兵隊相手に活動しやすいように気を配ってくれたのだ。
 ケツァル少佐の紹介がなかったのは、文化保護担当部の任務でないからだったが、憲兵の大佐が彼女を不審げに見たので、ロペス少佐は仕方なく紹介した。

「大統領警護隊文化保護担当部指揮官ミゲール少佐だ。漂流者の荷物を検分してもらうために来てもらった。」

 ケツァル少佐も彼を横目で見たので、テオは彼女がただのアッシーのつもりで来ていたのだと悟った。
 大統領警護隊が決して他人と握手しないと知っている憲兵達は、警察署長の机の後ろにあるドアを手で指した。

「まずは、漂着した救命筏、救命筏の中にあった物、それから村人達が浜辺で拾い集めた漂着物を見ていただきましょう。」

 署長が素早くドアに歩み寄り、鍵を開けて開いた。テオはドアの向こうは小部屋でもあるのかと思っていたが、外れた。ドアの向こうは、裏庭だった。そして道具小屋のような小さな家屋が一軒建っていた。


第4部 忘れられた男     2

  アメリカで住んでいた時代は、まるで富豪の息子かと思われるような至れり尽くせりの待遇で暮らしていたテオドール・アルストだったが、セルバ共和国に亡命してからは現地の住民の生活に自然に溶け込んでしまった。きっと彼を「創った」国立遺伝病理学研究所の科学者達が現在の彼を見たらびっくりするだろう。
 テオは太陽が昇る前に目が覚め、清潔とは言えないが掃除されているトイレで用を済ませ、前日に着ていた服を再び身につけた。それからグラダ大学事務局とゼミの学生代表にメールを送り、政府からの仕事の依頼を受けたので休講する、と連絡した。「政府」と言うのは大袈裟かも知れないが、この単語を入れておかないと、事務局は良い顔をしないのだ。テオは突然の休講が多い准教授なので、次期の雇用に影響が出てくる。食べるための教職だが、テオは学生達と一緒に研究するのが楽しくなっていた。単独で研究室に篭っているより、若者達と共にいろいろな説を論じ合いながら実験する方が楽しい。大学の方も内務省の要請で引き受けた科学者が政府に頼られている優秀な人間だと思えば、度々の休業にも目を瞑ろう、となる。
 身支度を終える頃にロペス少佐が目を覚ました。軍人なのに、テオが起きて動き回っていることに気が付かなかったのだ。すっかり「都会人」だな、とテオは心の中で思った。軍人らしい鋭い面も残っているが、オフィスで仕事をする方がこの男には合っているのだろう。毎朝定時に家を出て、夜定時に帰宅する生活が日常の筈だ。恐らくアリアナ・オズボーンと上手くやっていけるだろう。実を言うと、昨夜寝る前に彼とアリアナの将来についてじっくり語り合ってみたいとテオは思っていた。しかしベッドに入るとロペス少佐はすぐに寝てしまったのだ。
 朝の挨拶をして、ロペス少佐は部屋の外のバスルームへ行った。他の部屋の客に待たされたのか、かなり時間が経ってから戻ってきた。彼も着替えを済ませ、食堂へ降りた。コーヒーと菓子パンだけの朝食だったが、ないよりましだ。ケツァル少佐はとっくの昔に朝食を済ませて海岸のジョギングから戻って来ると、男達を眺めた。

「9時迄まだ時間があります。散歩しませんか?」

 ロペスがテオを見たので、テオは頷いた。他に時間を潰す方法を思いつかなかった。
 前夜は暗かったので宿周辺の風景が見えなかったが、朝日の中で見る漁村は美しかった。ハイウェイがすぐ近くを通っているが、地元民に観光で生業を立てようと言う意思がないらしく、道路と海岸の間にまばらに民家が建っているだけだ。砂浜より高い位置に外付けのエンジンが装着されているだけの簡単な漁船が並んでいた。ハリケーンで流されないように上げてあるのだ。砂浜は思ったより幅があり、整備すれば観光地としてやっていけそうだが、漁民は現状で満足しているのだろう。沖には村の名前になっている白い岩が波間に顔を出していた。陸から見ると象の背中に見えたが、この地に象はいないので、岩の名前に使われなかったのだ。
 ハイウェイから浜へ向かう脇道が何本かあったが、海水浴客用ではなく、地元民の生活道路だ。中には網が干されていて通せんぼされている道もあった。

「砂の上に足跡を残さないように歩く訓練を思い出す。」

とロペス少佐が呟いた。彼はスーツの上着を片腕にかけていた。テオは後ろを振り返った。砂の上に彼のスニーカーの跡が残っていたが、ロペス少佐の革靴とケツァル少佐の軍靴の跡はなかった。

「体重を減らすんですか?」

と揶揄ってみると、ロペスがちょっと笑った。

「そんな方法があれば本か動画配信で世の女性達からお金を集めますよ。」
「足の運び方です。」

とケツァル少佐が言った。

「今のようにゆっくり歩く場合のみ有効な歩き方です。走れば跡は残ります。」
「静かに暮らしていれば、誰も我々に注意を向けないのと同じです。」

とロペス少佐が言った。ケツァル少佐が彼に尋ねた。

「仕事は忙しいのですか?」
「適度に。」

とロペス少佐は答えた。

「近隣の国でクーデターやら大災害が起きて難民が押し寄せて来ない限りは暇だね。」

 


2021/12/01

第4部 忘れられた男     1

  ロカ・ブランカの村には宿屋兼食堂が1軒だけあり、ハリケーンの後であったが営業していた。混雑しており、ロペス少佐が交渉して、なんとか一部屋を確保した。緑の鳥の徽章を見せれば2部屋ぐらいなんとか出来たかも知れないが、そんな「ズル」をしないところが、このシーロ・ロペスと言う男の良さなのだろう、とテオは思った。

「ベッドは2つだ。私は床で寝るから・・・」

とロペス少佐が言いかけると、ケツァル少佐が店の外を眺めて言った。

「大きな木が生えています。私はあの上でも大丈夫です。」

 はぁ?とテオが呆れると、ロペス少佐も顔を顰めた。

「野獣ではないのです、淑女らしくベッドで寝て下さい。」

 テオが笑い出し、ケツァル少佐がむくれた。ロペス少佐は気にせずにテーブルを確保して、同伴者の希望も聞かずに店のお勧め料理を3人前注文した。食事は心配の必要がない美味しさだった。

「明日の朝9時に、ロカ・ブランカの警察署で憲兵と落ち合います。」

とロペス少佐が予定を告げた。

「先に警察が回収した漂流物と救命筏の中にあった物を検証します。それから病院へ行って、生存者に面会の予定です。」
「意識を取り戻していれば良いが・・・」

 テオは生存者が白人だろうが有色人種だろうが構わなかったが、事情聴取出来る状態に回復していることを願った。
 食事を終えると、2階の部屋に上がった。狭いベッドを見て、ケツァル少佐が溜め息をついた。

「2人で1台を使用するのは無理ですね。」
「俺が床に寝る。」

 テオはグラダ・シティを出発する時に自分の車に積んでいた宿泊用鞄を積み替えるのを忘れたことに気がつき、悔やんだ。着替えも寝袋もない。2人の少佐は大統領警護隊の常識なのか、リュックサックを持ってきており、着替えを持っていた。寝袋はないが軍人は野営に慣れている。生温い水のシャワーを浴びて、テオは上半身裸でベッドに入った。スーツを脱いだロペス少佐はTシャツと短パン姿になり、シャワーを浴びに行ったが、間もなく戻ってきた。

「女性用に一部屋空けてもらった。ケツァルはそっちへ行ってくれないか?」
「それは残念。」

 とケツァル少佐が言って、自分の荷物を持って部屋から出て行った。テオは半分がっかりして、半分安堵した。


第11部  紅い水晶     8

 研究室に入るとテオはケツァル少佐に電話をかけてみた。少佐は彼からの電話とわかったので、すぐに出てくれた。バックで船の汽笛らしき音がして、彼女が港湾施設にいることがわかった。 「出かけている時に申し訳ない。」 とテオは切り出した。 「ケサダ教授から依頼されて、文化保護担当部の人に...