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2021/10/19

第3部 隠された者  21

  ドロテオ・タムードの次男は話を続けた。

「川向こうの家は我が家と違って伝統を重んじます。ですから男の妻と子は男と同居していましたが、子供の養育費は妻の実家から出ていました。それなのに男は北米の女には自分で養育費を送っていたのです。妻の怒りはお金の問題でした。男と妻の仲は拗れてしまい、男は心の病で亡くなりました。」

 ロレンシオ・サイスの父親は死んでいた? ロホとステファンは再び顔を見合わせた。サイスはそれを知っているのだろうか。ロホが「失礼します」と断ってから質問した。

「その男が亡くなったのは何時ごろのことでしょうか?」
「4年前です。」

 即答だった。サイスがセルバ共和国へ移住して来たのも4年前だ。父親が亡くなって養育費の送金が止まったので、こちらへ来たのだろうか。彼は父親に会えたのだろうか。
 ロホが再度確認の質問をした。

「ロレンシオ・サイスはアスクラカンへ来たことがありますか?」
「ノ。」

 これも即答だった。ドロテオ・タムードが息子の代わりに言った。

「私は今日初めてその話を知ったが、もし川向こうの家の北米の息子がこの街へ来たら、男の妻が大騒ぎした筈だ。私はあの女を知っている。気性の激しい女だ。」
「その川向こうの家に娘はいませんか? サイスと同じ様な年齢の・・・」

 すると後ろにいた三男が答えた。

「男の娘が1人います。妻の子供はその娘1人だけです。」
「純血種ですか?」
「スィ。」

 ステファンはタムードと長男、次男に「失礼」と断って、後ろを振り返った。

「教えて下さい、その娘はこんな顔ですか?」

と言って三男の目を見た。三男も彼の目を見た。そして頷いた。

「ビアンカ・オルトです。」
「グラシャス。」

 ステファンはロホを見た。主人一家に失礼がないように声を出して言った。

「ビアンカ・オルティスはビアンカ・オルトだ。そしてロレンシオ・サイスの腹違いの姉だ。」
「ビアンカは名前と身分を偽ってサイスに近づいたのだな。目的は何だ?」

 するとタムードの次男の方から質問して来た。

「ビアンカ・オルトがロレンシオ・サイスのそばにいるのですか?」

 ステファンとロホは彼等に向き直った。ステファンは今回の訪問の理由を最初から説明することを決心した。

第3部 隠された者  20

 アスクラカンに向かって早朝グラダ・シティを出発したのはステファン大尉とロホだった。2人で大統領警護隊のジープに乗ってルート43を西に向かって走った。ルート43はグラダ・シティからアスクラカン迄は中央分離帯がある立派なハイウェイだ。都会と農業地帯を結ぶ産業道路も兼ねているので、バスやトラックが頻繁に行き来している。ジャングルは開墾され、コーヒーやバナナの畑が続いているし、少し小高い農地では野菜も作られている。つまり、そこに住んでいるサスコシ族は決して田舎者ではないのだ。メスティーソの起業家達に混ざって裕福な農園経営者として成功している”ヴェルデ・シエロ”だ。後進の純血種の”ヴェルデ・ティエラ”達が労働者として働いているのと違って、古代から住み着いていた”シエロ”の方が経営者として栄えている。他の土地に住んでいる他部族がひっそりと慎ましやかに暮らしているのに、アスクラカンのサスコシ族は豊かだった。

「だからミゲール大使は金持ちなんだ。」

とステファン大尉が呟いた。ちょっとやっかみが入っていた。彼は鉱山町のスラム出身だ。イェンテ・グラダ村出身の祖父が出稼ぎに出たのがオルガ・グランデでなくアスクラカンだったら、グラダ・シティから逃げ出した父が逃げ込んだのもオルガ・グランデなくアスクラカンだったら・・・と考えて、すぐに彼は馬鹿馬鹿しい妄想だと気がついた。祖父は故郷より遠く離れた鉱山で働いていたからイェンテ・グラダ村殲滅を逃れられたのだ。アスクラカンはイェンテ・グラダ村があったオクタカスに近い。父もオルガ・グランデに逃げたから母と出会い4人も子供をもうけることが出来た。アスクラカンにいたらすぐに追っ手に見つかってグラダ・シティに連れ戻されただろう。そしてカルロとグラシエラは生まれていなかった。
 フェルナンド・フアン・ミゲール大使の遠縁の農園主の家はハイウェイから横道に入り半時間走った所にあった。民家と畑が混在する平たい土地の中に建てられた大きめの家だった。大地主と言うより何処かの会社の重役と言った感じだ。門扉は開放されたままで、運転しているステファンは停止することなくジープを敷地内に乗り入れた。
 グラダ・シティを出る前にステファン大尉はその家の当主ドロテオ・タムードに電話をかけ、訪問することを告げていた。用件は言っていない。だから家から出て来たタムードは不審そうな表情でジープから降りてくる2人の男を眺めた。タムードは60代前半の純血種だったが、彼の後ろに立っている3人の息子はメスティーソだった。つまり妻もメスティーソだ、とステファンは思った。純血種と白人がいきなり婚姻することは滅多にない。特に地方では。
 ステファンもロホも私服だったが、緑の鳥の徽章は持っていたし、規則に従って拳銃も装備していた。2人は右手を左胸に当ててきちんと挨拶をして、日曜日の朝に訪問したことを詫びた。タムードは若者達が礼儀を守ったので機嫌を直し、客を家に入れた。明るい陽光が入るリビングは窓も開放されていて風通しが良かった。タムードの長男が父親の後ろに立ち、客がその向かいに座ると次男と三男がその後ろに立つと言う伝統的な迎え方だった。つまり客が突然敵意を剥き出しにすると直ぐに応戦出来る態勢だ。
 メイドがコーヒーを運んで来てテーブルに置いて去る迄、室内は静かだった。主人も客も相手の目を見ないで、しかし相手の様子を伺っていた。やがて、タムードが口を開いた。

「ミゲールの娘からの紹介だと言うことだが、どんな用件かな?」

 ステファン大尉が答えた。

「最近グラダ・シティで音楽活動をしているアメリカ合衆国国籍のピアニスト、ロレンシオ・サイスはアスクラカンの一族の人を父親に持つと聞きましたが、ご存知でしょうか。」

 タムードが後ろの長男を振り返った。30代半ばと思しき長男が首を傾げ、それから次男へ目を向けた。次男が答えた。

「ジャズピアニストのサイスのことですね。私が聞いた話で良ければお話しします。」

 父親が頷いて許可したので、次男は立ち位置を父親の後ろへ移動し、長男と並んで立った。

「川向こうの家族に、23年前に北米へ行って現地の女性との間に子供をもうけた男がいました。男はこちらに妻と子供がおり、北米の女と子供をこちらへ呼びたいと希望しましたが、当時まだ元気だった両親に反対され、希望は叶えられませんでした。男は北米での仕事が終わり、アスクラカンに戻って来ましたが、北米に残した女と子供に申し訳なく思い、養育費を送り続けました。彼の妻と子供はそれを知りませんでしたが、北米の子供がピアニストとしてメディアに出て来る様になると、男が隠していた秘密が明らかにされてしまいました。ピアニストは父親にそっくりだったからです。妻は夫が隠れて子供を作っていたことや、養育費を送り続けていたことに腹を立て、家族の家長に訴えました。」

 ロホとステファンは顔を見合わせた。自称ビアンカ・オルティスの話と一致している、と2人は頷き合った。

第3部 隠された者  19

 「自称ビアンカ・オルティスは何の為に大統領警護隊に嘘の情報を流すんだ?」

とロホが疑問を口にした。通常セルバ人は大統領警護隊に嘘を言わない。嘘をついてもすぐにバレると知っているし、バレた時の制裁を恐れているからだ。それは隊員達と同じ”ヴェルデ・シエロ”でも同じことだ。大統領警護隊は一族の中の警察機構同然だから、掟に触れることをしたり、法律違反をすれば処罰されることを知っている。捕縛され長老会の審判を受けることになれば、家族から除名されるし、部族からも追放される。最悪の場合は処刑もあり得る。

「自称オルティスはサスコシ族と名乗りました。確かにあの部族の本拠地はアスクラカン周辺の森林地帯です。しかし、そんなことは一族なら誰でも知っています。少佐・・・」

 ステファン大尉が正面のケツァル少佐を見たので、少佐が首を振った。

「父に訊いても無駄です。父は若い頃に故郷を出ていますし、農園の管理を監督しに年に数回帰郷するだけです。サスコシの部族内の様子は知らないでしょう。」

 純血種のグラダの少佐がそんなことを言ったので、事情を知らないギャラガとデルガドが怪訝な顔をしたが、誰も教えるつもりはなかった。ステファン大尉が頭を掻いた。

「ミゲール大使が駄目なら、市内でサスコシ族を探すか、直接現地へ行ってオルティスの調査をしなければなりません。彼女がサイスのナワル使用とどの様な関わりを持っているのか確かめる必要があります。」
「訊く相手はサスコシ族じゃなくても良いんじゃないか?」

とテオが言ったので、彼は注目を集めてしまった。この場で唯一人の白人である彼は、一瞬躊躇ったが、自説を述べた。

「確かに彼女はアスクラカンの訛りで喋ったから、あっちの出身だろうと推測されるが、あれだけ嘘が上手い女だ、訛りも訓練で話せるのかも知れない。もしそうなら、そうまでしてサイスに近づく必要がある一族の人間は何者かってことだ。」

 ああ、と溜め息混じりの相槌を打ったのはケツァル少佐だった。

「だから、ケサダ教授はピューマもいると仰ったのですね。」

 ロホとステファンが2秒後に同時に彼女の言葉の意味を理解した。

「ビアンカ・オルティスは”砂の民”?!」
「なんてこった!」

 それを聞いて、デルガドとギャラガもギクリとした。特にデルガドはショックを受けていた。彼は横に座っている上官を見た。

「大尉、あのことも報告した方がよろしいですね?」
「スィ。既に少佐には伝わっているが。」

 ロホとギャラガがデルガドを見たので、デルガドはシティホールに建設大臣秘書のシショカが現れたことを語った。彼の後に続けてステファンがシショカと話をしたことを告げると、少佐が苦笑した。

「イグレシアス大臣から、確かに私の携帯にコンサートのお誘いのメールが来ていました。私は先約があるからとお断りしましたけど。」
「シショカはサイスに対して関心を持っている様に見えませんでした。彼はオルティスとも顔を合わせていません。」
「つまり、シショカはサイスがミックスの”シエロ”だと知らない?」

とテオが訊くと、彼は知りません、とステファンは答えた。

「知っていれば、”出来損ない”の私に”出来損ない”のピアニストを見に来たのかとか何とか皮肉を言った筈です。あの男はそう言う性格ですから。」

 ミックスのアンドレ・ギャラガが嫌な顔をした。殆ど白人の容貌を持つ彼は、己より”シエロ”の血が濃い尊敬するステファン大尉が、純血種達から”出来損ない”呼ばわりされるのを耳にするのが本当に嫌なのだ。美しい真っ黒なジャガーに変身する大尉が何故軽蔑されなければならないのだ、とギャラガは己が侮辱される時よりも強い憤りを感じるのだった。

「自称オルティスはシショカがシティホールに行ったことを知らなかった様子だったなぁ。」

とテオが屋上での尋問を思い出した。ロホが言った。

「”砂の民”は全員が同じ命令を受けて動く訳ではありませんから、彼女だけがサイスを嗅ぎ回っていたのではないですか? ただ彼女はまだ若くて経験が浅いのでしょう。いつも取り巻きを連れているサイスになかなか近づけなくて、あの手この手で接近を図っているのかも知れません。」
「それなら・・・」

とステファンは大統領警護隊本部の地下へ降りた時のことを思い浮かべた。

「私が面会した長老は3名だったが、サイスがミックスの”シエロ”だと知っていたのは1人だけだった。だから、あの時点でサイスを粛清する命令は出ていなかったと思う。」
「長老会から命令が出ていないのに、”砂の民”が動いているってことはあるのか?」

 テオの疑問に、少佐がポツンと答えた。

「あります。家族からはみ出し者が出た時に家長が命令を発するのです。」



2021/10/18

第3部 隠された者  18

  エミリオ・デルガド少尉はケツァル少佐の自宅訪問は初めてだったので、勝手がわからず、ステファン大尉が「座れ」と言ったので素直に客用のソファに座った。そして既にこの家に馴染んでしまったアンドレ・ギャラガ少尉がキッチンからグラスと氷を運んで来たのを見て、自分も手伝うべきだったかと、ちょっぴり焦った。しかし誰も気にしていない様子だった。
 少佐は大尉の向かいの彼女専用のソファに座った。専用ではあったが、彼女の隣にテオドール・アルストが自然な形で座り、ロホは床のカーペットの上に座って少佐のソファにもたれかかった。ギャラガもグラスを配り終わるとロホと反対側のカーペットの上に座った。主人である少佐がグラスに購入したばかりの酒を少しずつ注ぎ入れながら、「報告」と言った。それで、ステファン大尉から始めた。

「ある信頼出来る筋からの情報で、アメリカ合衆国に市民権を持つピアニスト、ロレンシオ・サイスが今週の月曜日の夜に現れて市民を不安に陥れたジャガーであると見て間違いないようです。」
「信頼出来る筋?」

とロホが質問した。大尉は短く答えた。

「長老会のメンバーだ。」
「グラシャス。」
「サイスは本人も公表している様に、父親がセルバ人、母親が北米人です。父親は彼を認知しておらず、仕送りだけして彼の養育には一切関わらなかったと、証言する者がいます。その証人の身元については後からデルガド少尉から報告があります。今は、私がその証人ビアンカ・オルティスから聞いた話を言います。オルティスは自らをアスクラカン出身のグラダ大学学生と名乗りました。彼女の証言では、サイスの父親は彼女の祖父違いの叔父だそうで、彼女は彼に身元を隠したまま、ファンクラブのメンバーとして彼と知り合いました。
 月曜日の夜、まだ早い時間だった筈ですが、一部のファンクラブのメンバー達とサイスはドラッグパーティーをしたそうです。サイスが何を摂取したのか知りませんが、セルバへ来て彼がハメを外したのはその時が初めてだったとオルティスは証言しました。ドラッグの影響でサイスは変身してしまい、1人で外へ飛び出した。オルティスは追いかけたそうです。結局彼に追いつけぬまま、彼はマカレオ通りの自宅へ帰ってしまいました。
 オルティスは彼を守らねばと思い、火曜日に大統領警護隊がジャガーを探していると聞いて、大学にテオを訪問した私に声を掛け、実際にサイスが向かったのと反対方向へジャガーが歩くのを見たと証言しました。
 サイスは今日の昼まで自宅から出て来ませんでしたが、明日のコンサートの打ち合わせの為に今日はシティホールへ出かけました。練習風景は特に変わった様子を見受けられませんでした。
 我々はサイスが明日迄は特に問題を起こすこともないと判断して、オルティスの住まいを訪ねました。彼女が嘘の証言をした理由を糺しに行ったのです。そこで彼女の言葉からサイスがピアノの演奏中に気を放出していると推測しました。」

 既に”心話”でこの話を知った少佐は反応しなかったが、ロホとギャラガは驚いた。2人共ファンとは言えないまでもサイスのピアノはテレビやネット配信で聞いたことがあったのだ。

「演奏中に気を放っているのか?」
「スィ。媒体を通しては感じないが、生演奏を聞いた人は彼の音楽に心を奪われてしまう、そんな能力の様だ。だからファンが増えても急激に増加したりしない。」
「それはマズイんじゃないですか?」

とギャラガが心配そうに呟いた。

「一族が事実を知れば、彼を危険分子と看做す筈です。現に私も不安を感じています。歌や音楽で聴衆の心を虜にするのは、古代の神官の技でしょう?」

 ステファンは頷いた。

「だからテオと私はオルティスにサイスを大事に思うなら彼にキャリアを捨てさせる決心で守れと言いました。何故なら彼女は彼が理性で気を抑制していると言ったからです。それが本当なら、サイスは自分の能力を知った上で使っていることになるからです。オルティスは我々の言葉を理解した様に思われたのですが・・・」

 彼はデルガドを見た。デルガド少尉が後を引き継いだ。

「その証人のビアンカ・オルティスがどんな人物なのか、大尉とドクトルがオルティス本人に尋問している間に、私はネットや電話で調べてみました。最初にアパートの管理人に電話して、彼女が家庭教師をしている家の人から彼女を推薦されたので、私も雇いたいと言いました。彼女を紹介して欲しいと言うと、オルティスは家庭教師などしていないと言うのです。管理人が言うには、彼女は大学生ではないとのことでした。」
「大学生でなければ、何をしているんだ?」

とロホが尋ねた。デルガドが肩をすくめた。

「管理人は彼女の仕事を知らないと言いました。家賃をきちんと払ってくれるので、彼女が何をしているのか気にしていない様でした。」
「まぁ、そうだろうな。」

とテオが同意した。彼はオルティスの尋問の後でデルガドから彼女が学生でないと聞かされて仰天した時のことを思い出し、苦々しい気持ちになった。
 デルガドが続けた。

「試しに私は西サン・ペドロ通り1丁目第7筋近辺の各家に片っ端から電話を掛けて、良い家庭教師を探しているので誰か紹介してくれないかと訊いてみました。2、3人の名前が挙がりましたが、ビアンカ・オルティスの名はありませんでした。」

 テオはデルガドの勤勉さに驚いた。彼が屋上でオルティスを尋問している間にそんなことをしていたのか。

「次にグラダ大学の学生名鑑をネットで探しました。セキュリティが固かったのですが、ドクトルのI Dをドクトルのお宅で見てしまいましたので、侵入できました。」
「おいおい・・・」

 これは焦るべきか、怒るべきか、テオはただ苦笑するしかなかった。デルガド少尉はちっともいけないことをした意識はないらしく、話を続けた。

「学生名鑑にビアンカ・オルティスの名がありましたが、20年以上も前に卒業していました。」
「つまり、今は40歳を超えた女性?」
「そうなりますね。 それからサイスのファンクラブのウェブサイトを見ましたが、オルティスと言うメンバーはいません。」
「つまり、我々にロレンシオ・サイスの情報を提供した女は、グラダ大学の学生でなければ、西サン・ペドロ通り1丁目で家庭教師もしておらず、サイスのファンクラブにも属していない訳です。」



第3部 隠された者  17

  どう言うわけだか、大統領警護隊文化保護担当部の「2次会」の場所はいつからかケツァル少佐のアパートに固定されていた。テオの車にこれまた何故だかわからないが少佐とステファン大尉が乗り、少佐の車にロホとギャラガ少尉とデルガド少尉が乗った。バルではそんなに飲まない代わりにたっぷり食べたので、持ち帰りの酒を購入した。
 テオは運転しながら後部席の2人のシュカワラスキ・マナの子供達が静かなのが気になった。勿論”心話”で会話しているのだ。
 ステファン大尉はロレンシオ・サイスがアメリカ国籍のミックスの”ヴェルデ・シエロ”で、一族のことは何も知らずに育った筈だが、ビアンカ・オルティスがポロリと漏らした情報では「理性で気を抑制している」と思われる、と伝えた。オルティスはサイスの変身はたった1回で、それもドラッグの服用が原因だと言った。しかしそのオルティスはグラダ大学の学生と名乗ったにも関わらず、その後のデルガド少尉の調査で偽りの身分を使ったことが判明した。彼女は最初のステファンへの接触の際も、ジャガーが歩いた方向を事実と逆の向きで証言した。サイスの祖父が異なる従姉妹だと名乗ったが、それも怪しい。彼女はサイスを庇っているのか、それとも何らかの理由で捜査を混乱させているのか。
 そしてステファンは、これも言いたくなかったのだが、大学の図書館でケサダ教授に不意打ちを喰らい、”心を盗られた”ことを少佐に伝えた。教授は彼から何かしらの情報を盗み、そのすぐ後でテオにナワルにはピューマもありうることを伝えたのだ。恩師から己がまだ未熟だと思い知らされたステファンはその悔しさを、元上官と言うより、姉に思いきり訴えかけた。”心話”で粋がったり強がったりしても本心を隠すのは不可能だ。だから彼は素直に感情をケツァル少佐にぶっつけた。カルロ・ステファンからそんな感情の波を率直にぶつけられたケツァル少佐は一瞬戸惑った。そして自分の心が彼に伝わる前に、目を逸らし、彼の肩に腕を回して体を引き寄せた。
 テオはルームミラー越に少佐が弟を抱き締めるのを目撃した。彼は急いで目をミラーから外し前方を見た。
  少佐は腕の中でカルロが緊張したことを感じた。うっかり弱みを見せてしまった男の後悔だ。彼が目指しているのは、彼女を超えることだ。彼女より上へ行って、彼女を妻にする、それが彼の目標だった。しかし彼女は彼にそれよりもっと大きな目標を持って欲しかった。身分も階級も血の濃さも関係なく彼女と対等に立ってくれることだ。
 彼女は囁いた。

「私は何も経験せずに少佐の階級を手に入れた訳ではありません。」

 彼女は視線を前に向けていた。

「誰にも知られたくない失態もありました。それを乗り越えたことで今日があります。」

 彼女は顔をステファンに向けた。一瞬目が合った。

ーー貴方にも出来ます。

 そして彼を離した。ステファンは姿勢を整えた。

「失礼しました。ちょっと気張り過ぎたようです。どうも私は女性の扱い方をもっと学ぶ必要があります。」

 復活が早いのは姉弟に共通だ、とテオは思った。
 少佐が提案した。

「大尉の報告から、私にも思うところがあります。私の部下達の安全にも関わると思うので、この後で情報を共有させて欲しいのですが、構いませんか?」

 つまり、ステファンとデルガドが得た情報をロホとギャラガにも教えてやって欲しいと言うことだ。少佐が伝えるのではなく、調査した遊撃班隊員本人達から伝えて欲しいと言う。
 ステファンは素直に答えた。

「承知しました。デルガドにも報告させます。」


2021/10/16

第3部 隠された者  16 

  待ち合わせのバルへ行く車内でステファン大尉は黙り込んでいた。事情を知らないデルガド少尉は物問いたげにテオをチラチラ見たが、”心話”が使えないテオは教えてやれなかった。それにステファンは誰にも失態を知られたくないだろう。本当は食事にも行きたくないだろうが、デルガドの為に我慢しているのだ、とテオはその心中を察した。
 約束のバルでは既にケツァル少佐とロホとギャラガ少尉が食事前の一杯を始めていた。デルガドが少佐と中尉に気がついて敬礼しかけたので、テオはそっと手を抑えて止めた。
 文化保護担当部の3人は機嫌が良かった。聞けば、この日の「軍事訓練」はボーリングをしたのだと言う。何故それが軍事訓練になるのかテオには理解出来なかった。

「マハルダは不参加かい?」
「彼女は月曜日の朝から昼まで試験がありますから。」

 そう言えばデネロス少尉は考古学部を卒業してまた別の学部を受講しているのだ。まだ入学していないギャラガは、この日は勉強を免除してもらって終日遊んだようだ。デルガドとギャラガは同じ少尉だが、あまり接点はなかった様で、自己紹介をし合うところから始めていた。遊撃班はエリートだから、少尉の段階から遊撃班で勤務出来るとは羨ましいとギャラガが感想を述べると、デルガドも外郭団体に引き抜かれるなんて運と才能がなければ無理だと返した。
 テオが少佐にアンティオワカ遺跡の後処理の進み具合を聞いていると、ロホがそっと尋ねた。

「カルロがやけに大人しいですが、何かありましたか?」

 ケツァル少佐が並ぶ部下達の一番向こう端でカウンターにもたれて1人ビールを飲んでいる大尉を見た。可愛い部下のことを誰よりも理解している彼女が囁いた。

「何か任務で失敗をやらかしましたね?」

 テオは苦笑した。教えてやりたいが、やはり言えない。公衆の場所だし、他の部下達もいるし、カルロが気の毒だ。

「本人に聞けよ。」

とだけ言った。少佐とロホはそれきりステファンの態度には触れないで、バルの自慢料理を次々と注文した。いつもなら途中で場所を変えてゆっくり食事が出来るレストランへ行くのだが、バルに居続けたのは、ステファンの気分を気遣ったのだろうとテオは推察した。
 ロホが海鮮のアヒージョの皿を持ってステファンの隣へ移動した。

「厄介な相手なのか?」

と声をかけると、ステファンはグラスを見つめながら、

「どいつもこいつも・・・」

と答えた。ロホが何も言わないので、彼は自分から打ち明けた。

「ケサダ教授・・・」
「ん?」
「強烈なレッスンをしてくれた。」
「ほう?」
「恩師から名を呼ばれたら返事をしてしまうじゃないか。」
「そうだな。」
「一瞬心を盗られた。」
「あちゃ・・・」

 ロホが目を閉じて顔を顰めた。彼にも同様の経験があった。彼の場合は親だった。悪戯をして自分では上手く隠せたと思っていたのに、親に名を呼ばれてうっかり返事をしてしまい、心を親の支配下に置かれた。何をしたか全て自分の意思とは関係なく告白させられた。”操心”術の一つだ。名前を呼ばれ答えることで心を支配され、相手の意のままにされてしまう。ただ長時間支配される”操心”と違って、”心を盗る”術は有効期限が短い。だからかける方は強力な力で支配をかけてくるから、かけられた方は術が解けると気絶する。

「何の情報を盗られたのか、わからないのか?」
「ああ・・・だが、今関わっていることだ。」

 ロホにも大体想像がついた。サン・ペドロ教会近辺のジャガー騒動に関する捜査情報だろう。

「教授は担当だと思うか?」
「ノ、担当だったら私にあんなことはしない。もっと秘密裏に動くさ。教授は既に仲間が動いていることを私に教えて油断するなと警告してくれたんだ。」
「そう、それでどんな進展がありましたか?」

 いきなり隣でケツァル少佐が尋ねたので、ステファン大尉はもう少しで跳び上がりそうになった。咄嗟に2人の少尉の向こうにまだ残っているテオを睨みつけた。
 しっかり少佐を見張ってて下さいよ!
 悪りぃ!
とテオが合図をした。ロホは声を立てずに笑っていた。

第3部 隠された者  15

  大統領警護隊文化保護担当部との夕食の時間まで2時間もあったので、テオはグラダ大学へステファン大尉とデルガド少尉を連れて行った。週末なので学舎は閉まっていたが、図書館は開いていたので、そこで休憩した。ステファン大尉は寛ぎサロンで椅子に座ってぼーっとしていた。ぼーっとしているのではなく考え事をしているのかも知れないが、テオは時間が来る迄彼を放置した。デルガド少尉は大学の図書館は初めての様で、インターネットコーナーに陣取るとなかなか出て来なかった。任務に関することを調べているのか、趣味の情報を検索しているのかわからなかった。テオ自身は人文学の書籍コーナーへ行った。セルバ共和国の民族に関する文献などを探していると、書棚の角を曲がったところで考古学のフィデル・ケサダ教授とばったり出会った。型通りの挨拶をしてから、ケサダの方から話しかけて来た。

「土曜日だと言うのに珍しいですな。まだ試験問題を作成中ですか?」

 つまりケサダ教授は問題を作ってしまった訳だ。テオは微笑んで見せた。

「それが今回は奇跡的に今日の昼前に出来上がったので、今は息抜きです。」
「ほう・・・」

 ケサダが書棚の向こうを見た。そこからは寛ぎサロンもインターネットコーナーも見えないのだが、彼は言った。

「ロス・パハロス・ヴェルデスも息抜きですか。」

 なんでもお見通しの”砂の民”だ、とテオは思った。ケサダが”砂の民”だと言う確証は未だに得られていないが、彼は間違いないと思っていた。

「お聞きお呼びだと思いますが、彼等はサン・ペドロ教会周辺を徘徊したジャガーと思われる動物を捜索中です。」

 するとケサダが微かに軽蔑を含んだ笑を浮かべた。

「ジャガーだと思われているのですね。」
「教授は違うとお考えで?」

 まさか大統領警護隊が本物の動物のジャガーを探しているなんてケサダも思っていない筈だ。テオが探るような目で見ると、考古学教授は囁いた。

「大変稀ではありますが、ピューマもいるのですよ。」

 そして彼はさっさと次の棚へ移動して行った。テオは暫く長身の”ヴェルデ・シエロ”の考古学者を眺めていた。ケサダは丁寧に書籍の背表紙を一冊一冊チェックしていた。パソコンで検索すればすぐに本の場所はわかる。しかし、こうやって自分の目で見なければ気が済まない学者は多いのだ。
 有刺鉄線に引っ掛けて残されていた体毛は黄色かった。明らかにジャガーの体毛だった。それならケサダが言ったピューマは何のことだ? ピューマは、アメリカ合衆国出身のテオに取ってはクーガーの名の方が馴染みがあるが、ジャガーに負けない大きさだ。まさか、ナワルを使った人物はあの夜2人いたってことか? それが真実だとしたら、ケサダはそれを知っている。”砂の民”は既に真相を知っている?
 テオは急いでステファンのところへ行った。ステファンはソファの肘掛けにもたれかかって眠っていた。疲れたのか、今夜の張り込みに備えているのか。テオがそばに立っても目覚めなかったので、彼の体には触れずに声を掛けた。

「カルロ、悪いが起きてくれ。」

 ステファンが目を開き、そしてハッと体を起こした。心ならずも寝てしまった、と言う顔だ。大勢の人間が出入りする場所で眠ってしまって罰が悪そうな顔で彼はテオを見上げた。

「すみません、ついうとうとと・・・」

 うとうとのレベルじゃなかったよな、と思いつつもテオは見逃してやることにした。近くに部下がいるし、これから恐ろしい姉さんと食事だ。

「教えてくれ、カルロ。君達の一族にピューマはいるのかい?」

 ステファンが座り直した。テオは立ったままでは相手を威圧すると思えたので、そばの椅子に座った。

「ピューマのナワルを持つ人はいます。」

とステファンが周囲を気にしながら囁いた。

「非常に稀です。それに・・・」

 彼は空中に文字を書いた。テオは一瞬心臓が止まるかと思った。殆ど声を出さずに読み取ったことを確認する為に言葉にした。

「”砂の民”?」
「スィ。」

 ステファンも声を最小限に落とした。

「それが、彼等の選考基準です。ジャガーは選ばれません。」

 テオは椅子から離れ、ステファンの隣に座った。

「さっき、人文学の書籍コーナーでケサダ教授に出会った。彼がピューマもいると教えてくれたんだ。」

 ステファンが彼の顔を見つめ、それから泣きそうな表情になった。

「思い出しました・・・さっき教授に声を掛けられたのです。返事をして、それから・・・」

 彼は泣かずに悔しげな顔をした。

「教授に情報を引き出されて眠らされたんだ!」

 テオは彼を慰めようがなかった。純血種で手練れの”砂の民”にとって、ミックスでまだ修行中の若造など赤児同然なのだ。大学でもケサダはステファンの先生だった。どっちの力が上か、ケサダは弟子に思い知らせたのだ。

第3部 隠された者  14

  テオとステファン大尉は無言でアパートの階段を下りて外に出た。歩道でデルガド少尉が待っていた。彼は上官が出て来ると、スッとその前に立った。”心話”の要求だ。テオは2人の大統領警護隊隊員が一瞬で情報交換するのを横目で見た。羨ましいが、同時にそんな能力は欲しくないとも思う。秘密を持てない能力だ。彼はデルガドがステファンにオルティスの尋問内容を訊いたのだとばかり思っていた。ところが、ステファンの方が表情を硬らせた。彼はアパートの窓を見上げた。そして、手を振って「行こう」と仲間に合図を送った。
 道路を横断して路駐しているテオの車に戻った。幸い車に近づいた者はいなかったようだ。中に入ってから、ステファンがデルガドからの報告をテオに伝えた。

「ビアンカ・オルティスはグラダ大学の学生ではないそうです。」

 その短い報告が、テオのオルティスに対する同情心を消し去った。

「学生じゃない? それじゃ、大学で君に偽りの目撃証言を語ったのは、情報撹乱の為に最初から君を尾行して近づいたってことか?」
「そう言うことです。彼女は最初からさっきの屋上での尋問まで、一度も私に”心話”をさせなかった。貴方が何者かと質問してきただけです。」
「嘘だらけの女・・・」
「サイスのファンと言うのも怪しいです。」

 テオやステファンの言葉に青ざめて見せたのも芝居だったのか? それとも学生ではなく、アスクラカンからサイスを見守る目的で出て来た親族なのか?

「大統領警護隊相手に嘘を並べ立てられるなんて、大した女だと思わないか?」

 テオは時刻を確認するつもりで無意識に携帯電話を出した。メールが入っていた。ケツァル少佐からだ。彼は仲間に「失礼」と断ってメールを開いた。短い文章が入っていた。

ーー1900 いつものバル

 夕食のお誘いだ。テオはステファンとデルガドに声をかけた。

「文化保護担当部と晩飯を食う気分になれるかい?」

 デルガド少尉が尻尾を振りそうな顔をした。ステファン大尉は躊躇った。任務遂行中だ。行けば「仕事中に何をのんびりしている」と少佐は言うだろう。行かなければ「何故テオが誘ったのに断った」と後で嫌味を言われるだろう。彼は思わず独り言を呟いていた。

「女ってなんて面倒臭い生き物なんだ・・・」



第3部 隠された者  13

  ビアンカ・オルティスは大統領警護隊の大尉の言葉に顔を青ざめた。長老会がロレンシオ・サイスを野放しにすると思えなかった。海外でも活動する有名人だ。いつ何処で変身するかわからない。

「ロレンシオを助けてあげて。」

 と彼女はテオとステファンを交互に見ながら訴えた。

「もし叔父が彼を子供の時にセルバへ連れて帰っていたら、きっと彼は一族の人間として教育を受けてあんな面倒を起こさずに済んだのよ。私達の家族の責任だわ。なんとかするから、どうかもう少し報告を待って。お願い!」

 テオはステファンを見た。

「コンサートは明日だったな?」
「スィ・・・?」
「せめて明日1日待ってやろう。」

 テオはビアンカ・オルティスに向き直った。

「君は試験の準備があるだろうが、もしサイスの命が大事なら、大至急アスクラカンの親族に連絡を取って相談すべきだ。明日の夜、コンサートが終わる時点で大統領警護隊に君から家族の決定を知らせる。その内容次第で警護隊が動く。」

 オルティスが何か言おうとしたが、テオはその暇を与えずに続けた。

「”砂の民”を知っているね? 君が知らなくても君の家族の年配者達は知っている筈だ。”砂の民”がサイスの変身を知ってしまったらどうなるか、彼等は承知している。サイスの命が懸かっていることは間違いない。たった1回だけの変身だったが、彼は一般人に足跡や影を見られた。一族の力では誤魔化せないんだ。現にこうしてステファン大尉が捜査している。サイスを助けたかったら、彼のキャリアを駄目にしてしまっても守らなきゃならない。さもないと、彼1人の問題じゃなくなる。君の家族全員が責任を負うことになるだろうし、一族全体の問題に発展したら国を揺るがす事態になる。わかるかな?」

 カルロ・ステファン大尉が言いたいことをテオが簡潔に明瞭に述べた。口下手のステファン大尉は軽くテオに頭を下げた。そして彼もオルティスに向き直った。

「先刻シティホールに”砂の民”のメンバーが1人現れた。」

 えっ!とオルティスは真っ青を通り越して死者の様に白くなった。ステファンは続けた。

「幸い彼は全く別件でコンサートの座席を予約するつもりで来ていたが、少しでもサイスの気を感じたら彼のことを調べ始める筈だ。彼等は一族のリストを彼等個別に独自で作っている。リスト漏れは彼等に取って許されないことだ。私個人の意見を言わせて貰えば、明日のコンサートは中止すべきだが、聞いてもらえないだろう。事態は急を要すると理解してくれ。」

 オルティスが息を深く吸い込み、突然体の向きを変えて階段へ走った。彼女の足音が階段を駆け降り、部屋へ走り込むのをテオとステファンは聞いていた。

「非常にマズイ事態です。」

とステファンが囁いた。

「さっき彼女はこう言いました。サイスは普段理性で気を抑えていた、と。」

 テオも頷いた。

「スィ、確かにそう言った。サイスは自分が何者か知っているんだ。少なくとも、自分が超能力と呼ばれる力を持っていて使えると知っている。偶然ドラッグをやって変身してしまいました、では済まないぞ。」


2021/10/15

第3部 隠された者  12

  ビアンカ・オルティスはロレンシオ・サイスのファンクラブの幹部、バンドのメンバーと共にマリファナパーティーをしたと言った。勿論ロレンシオ・サイスも参加していた。彼の為のパーティーだった。

「私がリビングに戻ったら、皆床の上でぐったりしていました。眠っているのか、気絶しているのか、私にはわかりませんでした。ロレンシオだけが起きていて、でも様子が変でした。家に帰ると呟きながら服を脱ぎ始めました。」
「何故?」

とステファンが訊いた。己が変身すると分かっていなければ、服を脱いだりしない。暑くて堪らないと言うなら別だが。
 オルティスは肩をすくめた。

「あの時点で既に彼は正常でなかったの。彼が放出する気の強さが不安定に変化するのを感じた。彼は普段気を抑制していた。ほとんど能力がないと私は思っていた。ピアノを弾く時だけ気を放っていたのよ。だけどそれは勘違いだったわ。彼は普段理性で抑えていただけだったのよ。」
「酒と薬でタガが外れたか・・・」
「ロレンシオは裸になるとすぐにジャガーに変身した。そして家の外に飛び出して行ったので、私は慌てて追いかけた。」
「変身するところを誰かに見られたりしなかったか?」
「ないと思うけど・・・」

 オルティスは自信なさそうに言った。

「3軒ばかりの距離を追いかけて、彼を見失ったので、一旦パーティーをした家に戻った。皆まだ寝ていた。だから、もう一度ロレンシオを追いかけた。家に帰りたがっていたから、彼の家まで自転車で走ったの。そうしたら・・・」

 彼女は身震いした。

「何か凄い気を感じた。私は足がすくんでしまった。ロレンシオが発したのか、それとも他の”シエロ”がいたのか・・・」

 ケツァル少佐が放った気だ。単に犬達を黙らせようとお気楽に放ったグラダの族長の気だ。それがサスコシ族の女を怯えさせ、カイナ族出身の大巫女ママコナを驚かせ、薬物に酔ったジャガーの足を止めさせた。
 テオは微笑んだ。オルティスはロレンシオ・サイスを守りたい一心で、大統領警護隊が大学に現れたと知ると会いに行った。そしてサイスの家と逆方向へジャガーが向かったと嘘の証言をしたのだ。

「君はサイスにまた会えるのかな?」
「わかりません。言った通り、私はファンの1人なのです。」
「君と彼の関係を彼に教えてみては?」
「そんなこと、私には出来ません。家族の了承を得なければ・・・」
「それなら・・・」

とステファンが言った。

「もう君は彼に関わらないことだ。」

 テオとオルティスが彼を見た。カルロ・ステファンは大統領警護隊の隊員として彼女に言った。

「サイスは薬物使用の結果ナワルを使い、一般市民にその姿を見られた。大統領警護隊は彼を放置出来ない。長老会に彼の存在と現状を報告する。彼をどうするか、それは長老達が決める。そしていかなる決定にも、異論を唱えることは誰にも許されない。」



第3部 隠された者  11

 「サイスがナワルを使ったのは、どんなきっかけがあったんだ?」

 一番知りたいことだ。ステファンも同じだ。彼の時は生命の危機に迫られたから、無意識に変身した。純血種の様に、成年式と呼ばれる部族の儀式で呼吸を整え、年長者達の祈りの言葉の唱和を耳にしながら生まれたままの姿になって一族の者達と心を一体にして体を変化させていく・・・そんなことがミックスの”ヴェルデ・シエロ”に出来る様になるのは、最低でも2回”はずみで”変身してしまわなければ無理だ。全身の細胞が頭で思うような形に変化してくれない。ロレンシオ・サイスの身にどんなことが起きたのか、彼もテオも知りたかった。
 オルティスが躊躇った。

「パーティーをしたの・・・」

 テオとステファンは顔を見合わせた。若者のパーティーには、アレが付き物だ。ステファンが尋ねた。

「クスリをやったのか?」

 オルティスが小さく頷いた。

「ファンクラブの幹部5名とロレンシオとバンドのメンバー数人と・・・私。ロレンシオは父親がアスクラカンの出身だって知っていた。だからアスクラカン出身の私をパーティーに呼んでくれたの。私が血縁者だって知らないままに。お酒を飲んで楽器を鳴らして・・・そのうちに誰かがマリファナを吸い始めたの。」
「マリファナ? それだけか?」
「私はマリファナだけ・・・やばいものはなかったと思うけど、ロレンシオも調子に乗って何か吸ってた。」
「酒とマリファナ・・・」

 テオはステファンを見た。

「悪い組み合わせか?」
「ノ。」

とステファンが首を振った。

「生命を脅かす程の組み合わせとは言えません。合成麻薬やコカインの方が良くない。」
「量が多かったの。」

とオルティスが言った。

「ロレンシオは普段マネージャーに厳しく食事や嗜好品に制限をかけられています。でもあのパーティーはマネージャーに休暇を与えて彼自身がはめを外したかったのです。だからお酒を浴びるように飲んでいました。そしてマリファナ、それにエクスタシーもありました。」
「おいおい・・・」

 警察に知られたら逮捕されてしまう。テオは人気ピアニストも所詮は自制心の脆い若者なのだと知った。

「君は止めなかったのか?」
「クスリをやり始めた時、私は気分が悪くなって部屋を移動していました。」
「何処でパーティーをしていたんだ?」

とステファンが厳しい表情で問うた。サイスの自宅とは思えなかった。サイスはジャガーの姿で帰宅しようとしたのだ。パーティーの場は西サン・ペドロ通りより西だ。パーティーの参加者はサイスの変身を見たのか?
 オルティスが体をすくめる様に両腕で自身を抱えるポーズを取った。

「ファンクラブのメンバーの1人が自宅を提供したの。家族が旅行に出ていて留守だからって。だから家中を使って騒いでいました。」


第3部 隠された者  10

 「順を追って話してくれないかな。まず、君の出身部族はどこだい? アスクラカンの訛りがあるけど。」

 テオの言葉にオルティスはまたギクリとした。この白人はどんだけ知ってるの? と言いたげだ。ステファンは黙って彼女の顔を見ていた。少しでも彼女がテオに対して目の力を使おうものなら容赦せずに懲らしめるつもりだった。
 オルティスはスパスパとタバコを2回ふかし、それから答えた。

「サスコシ族です。よその血は入っていません。」

 確かケツァル少佐の養父フェルナンド・フアン・ミゲールもサスコシ族だったな、とテオは思った。ミゲール大使はかなり白人の血が入っているが。

「君とロレンシオ・サイスとの関係は?」
「私は彼のファンです。」

と答えてから、彼女はステファンに睨まれていることに気がついた。下手に嘘をつくと次の”心話”の時に思考を全て読み取るぞ、と言う無言の圧力だ。テオは微かだがステファンが気を放出し始めたことに気がついた。空気が固くなって来た感覚だ。サスコシ族の女性に対して圧力をかけている。それでは「腕力」で告白させるのと同じだ。相手の信頼を得られない。だから、テオはやんわりとした口調で注意した。

「カルロ、ちょっと力を入れ過ぎているぞ。」

 ステファン大尉が息を吐いた。空気がいっぺんに軽くなった感じだ。オルティスはびっくりしてテオを見つめた。テオが質問を繰り返した。

「もう一度尋ねる。君とサイスの関係は?」

 オルティスが視線を床に落とした。

「彼は私の母の母の息子の息子になります。」

 ややこしい。普通なら「従兄弟」なのだが、”ヴェルデ・シエロ”はそう簡単な家族構成でないことが往々にある。ステファンがテオの代わりに確認した。

「サイスの父親は、君の母親と父親が違うのだな?」
「スィ。」

 つまり、同じ女性を共通の祖母に持つが、祖父は違う男性である従兄弟だ。だが”ヴェルデ・シエロ”は母系社会を基礎としているので、オルティスの半分だけの叔父はオルティスの母親と同じ家で育った。この場合、100パーセントの叔父と同じ扱いになる。だが、その叔父の息子は、叔父が100パーセントでも50パーセントでも、子供を産んだ母親のものだ。”ヴェルデ・シエロ”の社会では従兄弟ではなく他人と見做される。だからオルティスは「従兄弟」とは言わずに、ややこしい言い方で表現したのだ。

「君とサイスの関係は理解した。サイスはアメリカ国籍を持っている。向こうで生まれたんだろう? いつ知り合ったんだ?」
「知り合いではありません。私は彼のファンの1人です。」

 彼女はステファンに顔を向けた。

「信じて、これは本当なの。私は彼の音楽が好きでずっと聴いてきたけど、実際に彼に会ったのは一月前なのよ。」
「するとファンクラブの集まりか何かで彼に会った?」

 テオの問いに、彼女はまた彼の方を向いた。こっくり頷いた。

「彼がセルバに移住して来てまだ1年でした。こちらに家を買って住んでも、演奏はアメリカへ行って行うので、滅多に地元のファンは彼に会えなかったんです。だからファンクラブが熱心に彼にアプローチを試みて、遂にファンクラブのメンバー限定でリサイタルを開いてくれたのが一月前でした。素晴らしかった! 皆彼の演奏に心を奪われました。彼のピアノを聴いていると、まるで天国にいるみたいな気分になって・・・」

 ステファン大尉がまた微かに気を放った。と言うより、緊張した。テオは彼を見た。大尉が硬い声でオルティスに言った。

「サイスは演奏の時に気を放出しているのではないか?」

 テオはポカリと頭を殴られた気分になった。レコードやC Dやネット配信では音しか聞こえないが、生で演奏を聞くと心を奪われる・・・。ピアニストの能力が高いのは確かだろう。しかしロレンシオ・サイスはピアノを弾きながら彼自身気がつかずに気を放っているのだ。彼が己の演奏に酔い、聴く者も酔わせる。
 オルティスが渋々ながらステファンの言葉を認めた。

「スィ。ロレンシオは無意識に気を放っているの。ファンは皆気づかなかったけれど、私はわかった。彼が私の血縁だと言うことは知っていた。叔父が長老に問い質されて認めたから。叔父は仕事でアメリカに行った時に向こうの女性と恋に落ちたのよ。だけど、セルバにも叔父の妻子がいたから、彼は向こうの女性をこちらへ連れて来ることが出来なかった。サイスの母親は私達一族ではないから。叔父は帰国して長老に報告したらしいわ。長老は国外のことには関知しないと言って、叔父にアメリカの母親と子供のことを忘れさせようとしたの。でも叔父は仕送りだけ続けていた。だから、私の家族はロレンシオのことを知っているの。」


第3部 隠された者  9

  部屋の中でコツコツと音がした。そして足音がドアに近づいて来た。

「何方?」

と女性の声が聞こえた。テオが聞いたステファンの携帯に録音された女性の声だった。ステファン大尉が名乗った。

「大統領警護隊のステファンだ。セニョリータ・オルティス?」
「スィ。」

 女性が溜め息をついた、とテオの耳には聞こえた。遅かれ早かれアパートを発見されるのはわかっていた、そんな溜め息だ。
 鍵を外す音が聞こえた。チェーンを掛けたまま彼女はドアを少し開き、ステファン本人だと確認すると、

「チェーンを外すからドアを閉めるわ。」

と言った。そしてその通りにした。奥の方で別の女性の声がした。

「誰なの、ビアンカ?」
「エル・パハロ・ヴェルデよ。例のジャガーの件。」

 ドアが開かれ、ビアンカ・オルティスが現れた。テオは初めて彼女を見た。ロホが「美人だ」と評したが、要するにセルバ美人だ、と彼は思った。少しふっくらした顔をしている。
ステファンだけでなくテオがいたので、驚いた様子だ。ステファンが紹介した。

「グラダ大学生物学部准教授テオドール・アルスト博士だ。 ドクトル、こちらがジャガーを目撃したビアンカ・オルティスです。」

 生物学部の准教授と聞いてオルティスが怪訝な顔をした。何故大統領警護隊が白人の学者を連れて来たのだ? と言いたげだ。テオが「よろしく」と挨拶して、それから言葉を続けた。

「先日君が目撃したジャガーについてもう少し詳しく話を聞きたいんだが、お友達は勉強中かな?」
「スィ。」

 オルティスは窓の外をチラリと見て、外へ出ましょう、と言った。ルームメイトに外へ出て行くと告げて、彼女は部屋から出て来た。

「屋上で良いかしら?」
「結構。」

 3人は階段を上って屋上へ出た。屋上は物干しスペースになっており、階段を上った所にだけ屋根と壁があり、小さなコインランドリーになっていた。大判の洗濯物がロープに吊るされて風に泳いでいたが、そろそろ取り込まなければならない時刻だ。
 オルティスはコインランドリーの壁にもたれかかり、2人の男性を見比べた。

「何をお聞きになりたいのです?」

 白人のテオには一族の秘密を話せない。”ヴェルデ・シエロ”だから当然の振る舞いだった。だからテオは言った。

「ロレンシオ・サイスは今迄に何回ナワルを使ったんだ?」

 オルティスがギョッとなったのをテオもステファンも見逃さなかった。ステファンの目を見たのは、”心話”で何故白人が一族の秘密を知っているのかと尋ねたのだろう。ステファンは彼女が若くて長老会によるトゥパル・スワレの審判の話を知らないのだと確信した。だからテオにもわかるように、言葉で説明した。

「ドクトル・アルストは長老会が認めた”秘密を共有する人”だ。」

 テオは改めて右手を左胸に当てて、よろしく、と挨拶した。オルティスが深く息を吐いた。そして大尉に尋ねた。

「タバコ、吸っても良い?」
「スィ。だが先に私が検める。」

 オルティスがポケットから出したタバコにステファンが手を差し出したので、彼女は箱ごと渡した。ステファンは中身の匂いを嗅ぎ、それから彼女に返した。テオは大統領警護隊が隊員に支給する紙巻きタバコではない手製の紙巻きタバコを彼女が口に咥えるのを見ていた。ライターで火を点けて、彼女は煙を吐き出した。

「ロレンシオは自分がナワルを使えるなんて知らなかったのよ。」

と彼女は言った。

「それにヤク中でもない。」


第3部 隠された者  8

  テオの車は西サン・ペドロ通り7丁目と第7筋の交差点に差し掛かった。7丁目は新しいアパートが立ち並ぶ通りで、主に学生や地方からグラダ・シティの企業に就職した若者達が住んでいる。他の地区の学生用住宅より少し家賃が割高になるが、サン・ペドロと言う名前のブランドに釣られて住むのを希望する若者達をターゲットにしているのだ。高級住宅地の一番最下層と言う訳で、8丁目はなく、住宅と商店が入り混じった地区が道路を挟んで始まっている。学生達が家賃を稼ぐためにアルバイトをする場所が近くにあるのだ。
 ビアンカ・オルティスは最初にステファン大尉にジャガーの目撃証言をした時、1丁目の家で家庭教師をしており、その家と自宅の間は第7筋を往復するだけだと言った。7丁目と第7筋の交差点の4つの角にはそれぞれアパートらしき建物が建っていた。ただ西サン・ペドロ通り側の建物がまだ築2年以内と思われるのに対し、反対側は煤けた古い建物だった。テオはその古い建物の横の路地に車を乗り入れ、並んでいる住民の車の間に路駐した。誰かの場所かも知れないが、他にスペースがないので仕方がない。
 ステファン大尉とデルガド少尉が外に出た。テオはビアンカ・オルティスの顔を知らなかったし、大統領警護隊の様に捜査権も持っていないので、車に残ることにした。もし住民に場所を空けろと言われたら移動しなければならない。駐車違反切符を切られるのは願い下げだった。大尉が半時間の時間制限を設けて少尉と共に学生居住区へ出かけて行った。
 車外に出て車にもたれかかり、携帯電話で主任教授のメールをチェックした。主任教授は彼が昼前に送信した試験問題に目を通してくれており、返事が来ていた。

ーーいいんじゃない?

 物凄くセルバ的だ。テオは「グラシャス」と再返信した。
 問題を一つクリアしたので気が楽になった。少し歩いて歩道に立ち、西サン・ペドロ通りとこちら側の境目になる大通りを眺めた。左斜め向いのアパートからデルガドが出て来た。テオに気がつくと、首を振って見せた。そのアパートにオルティスは住んでいないのだ。デルガドは次のアパートに挑戦を始めた。
 右斜め向いのアパートはステファンの担当で、こちらも少し遅れて外に出て来た。空振りらしく、次の建物へ足早に入って行った。テオは時計を見た。まだ世間はシエスタの時間だ。学生達は週明けに各学科で試験があるのでこの週末は勉強している筈だった。遊びに行く余裕のあるヤツはいないだろう、とテオは予想した。ここに探偵の真似事をする余裕のある准教授はいるが。
 デルガドが再び歩道に出て来た。ちょっと早いな、と思ったら、携帯を出して電話をかけた。すぐにステファンが外へ出て来た。デルガドが見つけたのだ。ステファンとデルガドが同時にテオを見た。なんだ? 来て欲しいのか? テオはジェスチャーで「少し待て」と合図して車に駆け戻った。急いでリュックを取り出し、施錠して歩道に戻った。
 車の流れが途切れるのを待って通りを横断し、デルガドが立っているアパートの前へ行った。ステファンは既に到着していた。デルガドが囁いた。

「ここの3階のBにいます。」

 テオとステファンは建物を見上げた。バルコニーがあり、植木鉢が見えた。落ちないように手すりより低い位置に置かれているが、敵が来たら落とせそうだ。

「単独で住んでいるのか?」

 ステファンが尋ねると、デルガドは首を振った。

「2人でルームシェアしている様です。」

 相方が部屋にいるとなると、会話がやり辛い。取り敢えず顔見知りのステファンとテオが部屋を訪ねることにした。デルガドは外で待機だ。

「アパートに裏口はあるのか?」
「非常階段が東端にある様ですが、通りへ出るのはこの歩道へ出る路地だけです。路地には自転車が並んでいます。走り抜けるのはちょっと難しいですね。」
「グラシャス。ここで待機していろ。必要ならすぐに呼ぶ。」
「承知。」

 心なしかデルガドはホッとした様子だった。未婚の彼が未婚の一族の女と対峙しなくて済みそうだと安堵したのだろう。
 ゲバラ髭のお陰で実年齢より年長に見えるステファンはデルガドより2歳上なだけだ。ビアンカ・オルティスとも殆ど年齢は変わらない。テオは時々彼等も学生達と同じ様に遊びたい年頃だろうにと思うことがある。だが様々な事情で軍隊に入った以上、彼等はその青春をお国のために捧げているのだ。同年齢の若者達の存在は別世界の生物と同じなのだろう。
 アパートの中は清潔だった。掃除が行き届いた階段を上り、テオとステファンは3階へ到着した。窓がない廊下の両側にドアが6つずつ並んでいた。廊下の突き当たりのドアは非常階段への出口らしい。正規の階段から数えて2つ目の南側のドアがBだった。
 ステファンはドアの前に立ち、拳でノックした。

第3部 隠された者  7

  建物の外に出ると、テオはそっと後ろを振り返った。シショカが後をつけて来る気配はなかった。ステファン大尉が気掛かりな顔で囁いた。

「本当に彼は座席の位置を確認に来ただけでしょうか?」
「君がケツァル少佐の名を出したら、彼は不機嫌そうな顔になった。きっと本当のことを言ったまでだろう。」

 そして大尉を励ました。

「このホールはセルバ共和国自慢の建築物だろう? そんな場所で事故とかで人が死んだりしたらイメージダウンじゃないか。しかも標的は有名人だぜ? 大臣の秘書なら、それはやるべきじゃないってわかるさ。」

 ステファンが苦笑した。

「グラシャス、テオ。さっきは酷いことを言って申し訳ありませんでした。出る幕がなかったのは私の方でした。」
「いや、俺もエミリオからあの男が何者か教えられて、咄嗟に彼がサイスを粛清に来たのかと焦ったんだ。しかも君が近くにいたら却って彼を刺激するんじゃないかと、余計な気遣いをしてしまった。」

 車に戻るとデルガド少尉が安堵の顔で迎えた。大統領警護隊と国務大臣秘書がシティホールで喧嘩などすれば一大事だ。デルガドはステファンが本気で腹を立てた所を生で見たことはない。しかし麻薬シンジケートのロハスの要塞をステファンが1人で吹っ飛ばした動画はテレビやネットで見たことがあった。シティホールを吹っ飛ばされたらどうしよう、と若者は内心ヒヤヒヤものだったのだ。

「建設省の職員をしている旧友に電話で聞いてみたのですが、セニョール・シショカは今日も大臣から無茶振りの指示を出されて怒っていたそうです。」

 シショカは公設秘書ではなく私設秘書なのでイグレシアス大臣の個人的な用件を処理する仕事をしている。大臣がケツァル少佐とのデートを希望すれば、そのお遣いに出されるのがシショカなのだ。ケツァル少佐は大臣や秘書からの電話には出てくれないし、メールを送っても梨の礫なのだ。だからシショカ自ら文化・教育省へ出向いて少佐の説得に抵る。そして十中八九玉砕する。
 シショカの無駄な努力は、どうやらグラダ・シティの若い”ヴェルデ・シエロ”達の間ではよく知られているようだ。文化保護担当部と馴染みがないデルガド少尉さえ知っているのだ。こんなに有名な”砂の民”もいないだろう、とテオは思った。尤もデルガドは大統領警護隊なのでシショカが”砂の民”だと知っているのであって、市井の”ヴェルデ・シエロ”には「お馬鹿な大臣の秘書をしている不運なマスケゴ族の男」と言う程度の認識だろう。
 再び車に乗り込んで、テオはエンジンをかけた。

「シショカを見張らなくて良いのかい?」
「大丈夫でしょう。」

 ステファンが投げ槍気味に言った。

「彼は座席を確認したら少佐のところへ行かねばなりませんから。」



2021/10/14

第3部 隠された者  6

  ステファン大尉が車のドアを開いた。 デルガドも続こうとすると、彼は命令した。

「車の中にいろ。」

 そして劇場に向かって歩き始めた。テオはエンジンを切った。

「あの黒い車の男がどうかしたのか、エミリオ?」

 デルガド少尉が硬い表情で答えた。

「”砂の民”です。」
「えっ?!」

 テオは劇場を見た。白いスーツの男は既にホールの入り口に達していた。ステファン大尉はその後ろへ足早に近づいて行くところだった。”砂の民”は滅多に正体を他人に教えない。仲間同士でも知らないことが多い。ステファン大尉とデルガド少尉が知っていると言うことは、有名な”砂の民”だと言うことだ。テオは名前だけ知っている有名な”砂の民”を1人思い出した。

「もしや、建設大臣の秘書か?」
「スィ。」

 ”砂の民”であり、ミックスの”ヴェルデ・シエロ”の存在を否定する純血至上主義者だ。そんな男にミックスのステファンを近づかせてはいけない。テオは車外に出た。

「ドクトル、駄目だ!」

 デルガドも出ようとしたので、テオは止めた。

「君はそこにいろ。ステファンも命令しただろ?」

 命令と言われて、デルガドは動きを止めた。
 テオは走ってステファン大尉に追いついた。ステファンが歩きながら抗議した。

「貴方が出る幕ではありません。」
「そうかな? 君が喧嘩しに行くなら、俺は立ち会う。公正な喧嘩かどうか判定してやる。」

 ステファン大尉は足を止めて彼を睨みつけた。しかし、結局何も言わずに再び歩き出した。ホールの中に入ると、白いスーツの男が階段を上りかけていた。ステファン大尉が声をかけた。

「セニョール・シショカ!」

 そうだ、そんな名前だった、とテオは思い出した。
 白いスーツの男が立ち止まり、振り返った。白いスーツの下に来ているシャツは黒かった。濃いグレーのネクタイをしているのは、いかにも大臣の秘書らしい。顔は正に純血種の先住民のもので精悍な細い輪郭に鋭い眼光を放つ目をしていた。
 ミックスの大統領警護隊隊員と白人の男が近づいて来るのを見て、純血至上主義者の男は嫌そうな顔をした。

「エル・パハロ・ヴェルデ、何か用かな?」

 恐らく”出来損ない”と口を利くのも嫌だろうに、シショカは周囲の一般市民を視野に置きながらステファン大尉の呼びかけに応えた。ステファンも相手の正体を公然と口に出したりしなかった。

「こんな所でお目にかかるのは珍しいと思いましてね。今日はどんな御用です?」

 テオはシショカが微かにたじろぐのを感じ取った。以前ケツァル少佐やロホがこの男を警戒していた。ミックスの仲間、ステファンやデネロスに危害を加えられるのではないかと用心していた。特に女性で能力の威力が強くないデネロスを絶対に1人で建設省に行かせなかった程だ。恐らくシショカもミックスの隊員の前で優位に立った態度でいた筈だ。しかし、人間は成長する。デネロスは元から能力の使い方が上手だったので、パワーでは負けても技では純血種と同等だ。ステファンにおいては、一人前のグラダ族として日々その能力の威力が増していっている。まともに戦えばマスケゴ族のシショカはひとたまりもないだろう、とテオはロホから聞かされていた。
 ステファンはシショカが彼を追って来たとは思っていない。”砂の民”が世間を騒がせているジャガーを突き止めたのかと心配しているのだ。
 シショカはステファンを見て、テオを見た。この白人とは初対面だが誰だか知っている、そんな顔だった。テオは彼自身は知らないが、”ヴェルデ・シエロ”界では有名なのだ。トゥパル・スワレの事件でシュカワラスキ・マナの子供達を守った白人、と言う評価が与えられていた。そして今もその白人はシュカワラスキ・マナの息子の横に立っている。
 シショカは顔を階段の上に向けた。

「大臣が明日のコンサートの鑑賞をご希望なのだ。VIP席の空きがあると聞いたので、どの位置になるか確認に来た。大統領警護隊が関与するような用事ではない。」

 テオはステファンが相手の言葉の真偽を推測っているのを感じた。
 シショカが逆に尋ねて来た。

「そちらこそ、何の用事があってここにいるのだ?」
 
 ステファンが答える前にテオが素早く口を挟んだ。

「俺がロレンシオ・サイスを知らないと言ったんで、カルロが連れて来てくれたんだ。俺はあいにくジャズよりフォルクローレの方が好きなんで、アメリカ生まれのピアニストに興味なかったんだ。しかし、このシティホールは大した建造物だなぁ。」

 彼は感心した風に天井や壁を見回した。ステファンが彼の嘘に付き合って、わざとシショカの気に触ることを言った。

「少佐とのデートにジャズコンサートは止して下さい、ドクトル。彼女はクラシックが好きなんです。」

 多分、イグレシアス建設大臣はケツァル少佐をジャズコンサートに誘うつもりなのだ。果たしてステファンの勘は当たった。シショカがムッとした表情を見せた。彼は大臣が少佐を射止めることは100パーセント無理だと知っていながら、2人の仲を取り持つ役目を担っている。少佐にせめて一回だけでも良いから大臣の誘いを受けて欲しいと思いつつ、大臣が振られるのを楽しんでもいるのだ。しかし、だからと言って少佐が白人とデートして良い筈がない、と純血至上主義者は考える。

「クラシックか・・・それじゃどこかのオーケストラの演奏会を検索してみようか。」

 テオはステファンの腕を突いた。さっさと引き揚げよう、と言う合図だ。衆人環視の中でシショカがサイスを襲うことはないだろう。


 

第3部 隠された者  5

  デルガドが客席にやって来たのは半時間も経ってからだった。ロレンシオ・サイスはステージの上でピアノを少々弾いて音合わせをしていた。夕方までに本格的なリハーサルを行うのか否か判断がつかなかったので、テオ達は劇場を出た。
 駐車場に出ると、デルガドがマネージャーの男はアメリカ人だと言った。サイスの健康管理に煩い男で、ピアニストに薬物を与えるとは到底思えないと言う。事実デルガドはマネージャーが楽屋裏で劇場側スタッフが用意した軽食の中身が健康的でないと苦情を言い立てていたのを耳にした。彼はファンからの贈り物なども厳しくチェックしており、スタッフさえ気軽に声をかけられないと不評だった。
 
 「ロレンシオ・サイスの経歴ってどんなものなんだ?」

 テオの質問にデルガドが劇場で手に入れたパンフレットを広げた。生年月日は見たまんまの年齢を裏切らないもので、生まれはグラダ・シティではなくマイアミだった。

「ちょっと待て・・・サイスはアメリカ合衆国の市民権を持っているのか?」
「北米生まれですから、そうですね。」
「母子家庭だよな?」
「スィ。母親がアメリカ合衆国の市民権を持っています。あちらの先住民です。」
「すると父親がセルバ人・・・」
「”シエロ”です。純血種か”ティエラ”とのミックスかわかりませんが、長老がツィンルだと言っていました。」

 ステファンは、サイスの出生の秘密を知っているらしい女性の長老が詳細を教えてくれなかったことが悔やまれた。サイスの父親は変身出来たのだ。だが息子の養育に関わらなかったので、ロレンシオは己の能力を何も知らずに成長したのだ。生活の場にアメリカではなくセルバを選んだのは何故だろう。母親と暮らしていたのだからアメリカで育ったのではないのか。己が周囲の人々と何か違うと感じて父親の故国へ来たのか?
 サイスはアメリカの高校を卒業してからセルバ共和国に移住していた。そして現在のマネージャーに「発見」されてピアニストとしての才能を開花させた、とパンフレットに書かれていた。主に活動の場はアメリカだが、メキシコやセルバでも演奏会を開いて大好評だと言う。
 経歴におかしな点はなかった。勿論”ヴェルデ・シエロ”であろうと無かろうとナワルのことなんて書かないだろう。

「父親は彼のことを知っているのかなぁ・・・」

 テオは車に乗り込んだ。ステファンとデルガドも乗ったので、エンジンをかけると一台の黒塗りの乗用車が駐車場に入って来た。突然車内の空気がビリッと帯電した感じに震え、テオはびっくりして思わずサイドブレーキをかけた。

「なんだ?」

 ステファン大尉も驚いた表情で後部席を振り返った。さっきの空気の震動はデルガドか? テオも後ろを見た。デルガド少尉が決まり悪そうな顔をした。

「申し訳ありません。あの黒い車の運転手の顔を見て、思わず緊張してしまいました。」
「運転手?」

  テオとステファンは黒い車の行方を目で追った。黒い車は劇場の入り口近くに駐車した。そこから降りてきた男を見て、ステファン大尉が緊張したのがテオにわかった。あの白い麻のスーツを着た男がどうかしたのか?

 

第3部 隠された者  4

  テオの車でロレンシオ・サイスの家の近所まで行った。まだサイスの車は庭にあるのが門扉の隙間から見えたので前を通り過ぎ、デルガドが先日電話に出た場所へ行った。自動車修理工の工場前だ。工場は土曜日なので休業しており、その前に駐車しても文句を言われなさそうだ。それにテオの車にはロス・パハロス・ヴェルデスが2人いる。
 デルガド少尉が車外に出て、ぶらぶらと工場の周囲を歩いた。ピアニストではなく修理工に興味があるふりをして工場内を覗き込んだりしていたが、体の向きを変える時は必ずサイスの家の方を見た。シエスタの時間なので住民は家の中で昼寝か長い昼食を取っているらしく、通りに人影はなかった。
 やがてデルガドが足速に戻って来た。

「サイスが車に乗りました。」

 彼は素早く車内に入った。
 サイスの家の門扉は自動になっているのか、ちょっと金属音を立てながら開き、サイスのイタリア車が出てきた。テオはサイスの車が角を曲がる迄待ってからエンジンをかけ、低速で後を追いかけた。マセラティのグランカブリオだって? ピアニストってどんだけ儲かるんだ?
彼はちょっと心の中でやっかみながら尾行した。彼の中古のトヨタ・クラウンは音が静かだ。グランカブリオのエンジン音を聞きながら追いかけた。Tシャツ姿の助手席のステファンは窓を開けてのんびり腕を外に垂らしていた。尾行なんてしてません、ドライブ中です、って感じだ。
後部席のデルガドは横に置かれたテオのリュックがちょっと気になった。何だか知らないが心をくすぐる様な匂いが微かにするのだ。恐らく普通の”ティエラ”では嗅ぎ取れない程度の匂いだ。
 2台の車は住宅街から市街地に入った。すぐに車の交通量が増えたが、ステファンは高級車のエンジン音を聞き漏らさなかった。

「次の交差点を左へ・・・彼は真っ直ぐシティホールに向かっています。」
「それなら、彼が寄り道しない限りは見失うことはなさそうだな。1人で乗っているのか?」
「スィ。彼のマネージャーは恐らくシティホールで落ち合うのでしょう。」
「マネージャーはセルバ人か?」
「そこまでは・・・」

 ステファンが口籠もった。デルガドも何も言わない。未調査なのだ。テオは調査対象が増えたな、と呟いた。
 グラダ・シティのシティホールは市役所と道路を隔てた向かいに建てられており、古代の神殿をモチーフにした近代的なデザインの建物だった。若者向けの音楽のコンサートから先住民の古代舞踊のショーやオペラまで上演されるセルバ共和国自慢の公共施設でもあった。国立ではなく市立なのだが、その警備は陸軍が行っている。大勢の市民が集まる場所で万が一のことがあれば大変だと言う国防省と内務省の意見が一致した結果だ。大統領警護隊はそこの警備には関知していないので、警備関係者の事務所建物はスルーして一般の駐車場に入った。その日は特にホールでの催し物はない筈だったが駐車場には50台ばかり車が駐まっていた。

「コンサートの打ち合わせにこんなに人が来るのか?」

とテオが素朴に疑問を口に出すと、デルガドが笑った。

「見学者です。催し物がない時は無料で中を見学出来るのです。立ち入り出来る場所は制限されていますが、アーティストや俳優などの練習風景を生で見られるので、結構人気なんですよ。」

 彼は建物の裏手を指差した。

「サイスの車は向こうの関係者限定のスペースに入りました。マネージャーやスポンサーなどはあっちに駐車しています。」
「俺たちは無理か?」
「警備がいます。我々が入れないことはありませんが、言い訳が必要です。」

 大統領警護隊は他人に自分達を見えていないと思わせる能力を持っているが、無闇に使いたくないのだ。今はロレンシオ・サイスがこの日どんな行動を取るのか見るだけなのだから。
 テオ達は車外に出た。遊撃班は外出の際に変装用に私服を持ち出す。デルガドはちゃんとステファンと彼自身の服を官舎から持って来ていた。だからTシャツにジーンズ、拳銃ホルダーを装着してジャケットで隠していた。テオは丸腰だ。リュックを背負って2人の隊員についてホールに入った。
 エントランスは吹き抜けで広い。売店もあるし、チケット売り場もある。スマホ決済が出来る様だ。客席へは中央の階段を上がってから並んでいる7つの扉から入る。その階段がまるでパリのオペラ座の中央階段みたいに凝ったクラシックな装飾をしてあったので、近代的な外観とチグハグでテオは可笑しく思えた。古代神殿ともマッチしない。この建物を設計した人はどんな美意識を持っているのだ? と彼は疑った。
 軍人ではなくホール職員が見学順路を案内しており、テオとステファンはガイドに従って階段を上り、観客席に入った。デルガド少尉は先にお手洗いに行くと言って離れた。
 テオは扇型の客席を想像していたがかなり違っていた。舞台を円形に取り巻くような形に客席があった。少し歪な形のコロシアムだ、と言うのが彼の第一印象だった。ステージは上下に可動式になっているらしく、グランドピアノが一階の客席より高い位置にあった。音楽を聴かせるので、最前列の客がピアニストの姿を見られなくても構わないと言う考え方なのだろう。見学者コースは2階席から始まっており、そこからだとピアノがよく見えた。
 調律師がピアノを点検しているところで、それを撮影している見学者もいた。テオとステファンも最前列の手すりにもたれかかって見物した。

「ジャズは好きかい?」
「嫌いじゃありません。ただ聞くより踊る方が好みです。」
「本部でも踊るのか?」
「まさか・・・」

 ステファンが苦笑した。

「そんなことをしたら営倉行きです。」
「だけど、君達も踊るだろ、クラブとかで・・・」
「休暇で外出する時はね。」

 ステージにピアノ以外の楽器が運ばれて来た。ジャズだからバンド演奏もやるのだ。先住民のピアニストが現れた。ラフな服装だ。プロデューサーやバンドリーダーと打ち合わせを始めた。ピアノの前にすぐに座る訳ではなさそうだ。
 テオは後ろを振り返った。

「エミリオはまだトイレかい?」
「ノ・・・」

 ステファンが声を低くした。

「楽屋でしょう。」

 1人で”幻視”を使って他人に見えないと思わせて忍び込んだのだ。

「サイスは目の前にいるぜ?」
「デルガドはサイスの部屋に怪しい物がないか調べに行ったのです。」
「怪しい物?」
「サイスに無意識にナワルを使わせる要因になりそうな物です。」

  つまり、麻薬や違法薬物がないか調べに行ったのだ。

「貴方はさっき車の中でマネージャーの存在を我々に思い出させてくれました。サイスが何も持っていなくても、マネージャーが何か持っているかも知れません。」
「マネージャーは今ステージにいるのかな?」
「我々は彼のマネージャーの顔を知りません。盲点でした。」

 ステファンはまたテオに一本取られたと言う顔をした。いや、盲点があったことを教えてもらって感謝するべきだろう、と彼は己の心に言い聞かせた。

「君は、サイスが何か薬を使って、その作用で無意識に変身してしまった可能性を考えているんだね?」
「昨夜の女の言葉を考えると、そんな場合もあり得ると思ったのです。」
「ビアンカ・オルティスはサイスが変身した経緯を知っているんじゃないかな?」
「知っているでしょうね。だが彼女と彼の関係が見えてこない。アスクラカンから来た女とアスクラカンに行った記録がない男の接点がわかりません。」
「カルロ、この後で彼女に会いに行ってみないか?」

 ステファンが振り返って彼を見た。

「一緒に行ってくれるのですか?」
「勿論・・・って、1人で会いに行くのはマズイのか?」

 すると大尉が躊躇った。

「向こうは未婚の女性ですから・・・」
「はぁ?」
「ですから・・・」

 ステファンはちょっと顔を赤らめた。

「オルティスがただの女性だったら問題ありません。しかしデルガドと私は彼女が一族の女だと知ってしまった。未婚の男が部族の長老や彼女の親の許しを得ずに未婚の女に接近するのはマズイのです。」
「ただの事情聴取だろ?」
「女の方から来るのは問題ありませんが、男の方から近づくには制約があります。それが一族の掟なのです。」

 面倒臭い一族だなぁとテオはぼやいた。

「ケツァル少佐やマハルダには誰もが平気で近づいているじゃないか!」
「彼女達が何者か、皆知っています。それに仕事仲間ですから平気なのです。彼女達の身分を知らずに、ただの一族の女だと言う知識しかなければ、一族の男は声をかけません。彼女達の部族や家族に対して失礼になるからです。」
「君が問題にしているのはオルティスが一族の女だと言うことだな? でも昨晩は君から声をかけたんだろ?」

 ステファンは渋々認めた。

「周囲に誰もいませんでしたから。彼女は私が声をかけたので怒っていました。」

 テオは溜め息をついた。

「わかった。それじゃ、俺がグラダ大学の准教授として彼女に声をかけよう。」



第3部 隠された者  3

 「寝るなら客間を使えば良いのに。」

とテオがコーヒーを淹れながら言った。カルロ・ステファンは狭いソファで寝て背中の筋肉が強張ってしまい、肩をぐるぐる回している。

「ここのベッドは私には上等過ぎて、よく寝付けないんです。」

 彼は腰も回した。テオが缶詰の煮豆とパンと目玉焼きをテーブルに並べた。

「それなら床の上に寝ろよ。毛布を使えば良いさ。」

 テオが待っているので、ステファンはストレッチを終了してテーブルに着いた。休日なのでテオはいつもより1時間遅く起きて、今は朝の7時だ。ステファンにしても寝過ごしたと言える時刻だが、ここは官舎ではないし、部下もまだ来ていない。

「エル・ティティには帰らないのですか?」
「うん、バスに乗り遅れたし、まだ週明けの試験問題を作らなきゃいけない。だから来週まで楽しみは取ってある。 俺は今日1日家にいる。君も遠慮なく寛いでくれ。」
「いや、サイスは今日の午後、コンサートの打ち合わせでシティホールに出かける予定です。監視します。」
「やっぱり、彼がジャガーかい?」
「スィ。」

 ステファンはテオにビアンカ・オルティスと真夜中に出会ったことを告げた。テオが食事の手を止めて考え込んだ。

「サイスがジャガーだと知っていて、しかもサイスがナワルの知識を持っていないと彼女は仄めかしたんだな?」
「スィ。彼女は若いですが、一人前のツィンルと思われます。長老から彼女に関する情報は何もなかったので、正直なところ昨夜は衝撃でした。」
「彼女は地方から大学に来ているらしいから、長老は彼女を知っているのかも知れないが、彼女がグラダ・シティに住んでいることは知らないのかも知れない。」
「地方にいた彼女が何故サイスを知っているのでしょう? サイスはデビューして7年近くなりますが、活動はもっぱら外国で国内ではグラダ・シティとオルガ・グランデぐらいしか演奏しません。アスクラカンでコンサートを開いた話は聞いていません。」

 グラダ・シティとオルガ・グランデにはそれぞれ集客スペースが広くて音響効果の良い劇場がある。闘牛が禁止される前は、闘牛場もあったのだ。現在はスポーツ施設に造り替えられてしまったが、そこでコンサートを開く人気アーティストもいる。しかしアスクラカンはサッカー場があるだけだ。それも世界大会など開けない、野原の中のサッカー場だ。

「音楽ホールがなくても学校などで弾いて子供達に音楽を教えることもあるさ。」

 テオは試験問題を考えるよりビアンカ・オルティスとピアニストの関係を調査する方が面白そうだと言う誘惑と戦いながら、朝食を終えた。
 ステファンの方はデルガド少尉が来るまではぐーたらするつもりなのだろう、食器洗いを手伝った後はまたソファの上に寝転がってしまった。
 静かな土曜日の朝だった。共有スペースの中庭で同じ長屋の奥さん達がお喋りをしながら畑や花壇の世話を始めた。子供の声が聞こえ、タバコの臭いも漂った。しかしテオの気を散らす様な雑音ではなく、彼はリビングのテーブルに書籍や資料を広げ、ラップトップで試験問題を組み立てて行った。問題は3問、一つは先日学生にネタバラシをした簡単な問題だ。残りはちょっと捻って引っかけ問題と、実際に実験に参加していないと解けない問題だ。問題が出来上がると、解答が複数にならないか検証して、それを主任教授にメールで送った。主任教授が月曜日の朝迄に目を通してくれる保証はなかったが、火曜日午前中の試験には間に合うだろう。 実にセルバ的な進行だ。
 そろそろ昼ご飯の支度をしようかと思う頃に、デルガド少尉がジープでやって来た。ステファンは休憩させるために彼を本部へ帰したと言ったが、規律が厳しい官舎で本当に休息出来たのか、テオは疑問に思った。昼食に誘うと、デルガド少尉は上官をチラッと見た。ステファンが微かに苦笑して、テオに頷いて見せた。

「大した物は出せないよ。期待されても困るんだ。」

 テオはスパゲティを茹でて、唐辛子とベーコンのオイルパスタを作った。そこに目玉焼きを載せて出すと、少尉は予想以上に喜んだ。きっと本部の食事はシンプルなんだろう、と想像がついた。
 セルバ人はメソアメリカ人らしく激辛の唐辛子類が好きだ。テオは少ししか唐辛子を入れていなかったので、ハラペーニョソースをテーブルに出しておいたら、ステファンもデルガドもスパゲティにふんだんにかけていた。

「ところで、サイスの尾行にジープを使うんじゃないだろうな?」
「距離を開けて行きます。大統領警護隊の車はグラダ・シティでは珍しくないですから。」
「しかし目立つぞ。」

 テオは彼等の服装を眺めた。

「軍服も目立つと思う・・・」

 ステファンとデルガドが目と目を合わせて会話した。テオは彼等が結論を出す前に提案した。

「俺の車を貸してやるよ。今日は出かけないから。どうしても、って言う用事があれば近所の誰かに頼むし・・・」

 するとステファンが提案した。

「一緒に出かけませんか? 試験問題も出来たようですし、今日はサイスをただ見張るだけになりそうです。」



2021/10/13

第3部 隠された者  2

  テオは出張の疲れが出たので、ビールを一本空けるとシャワーを浴びて寝てしまった。カルロ・ステファン大尉は彼が寝室で寝息を立て始めたのを確認してから、上着を着て、武器などの装備を身につけた。静かに玄関のドアを開き、外に出て施錠した。そしてマカレオ通り3丁目第3筋に向かって歩き出した。満月が過ぎたが、月はまだ丸い。彼は気を抑制していた。以前はコントロールが出来なくて放出しっ放しだったので、よく犬に吠えられた。いや、犬に吠えられた時は大概気力が弱っている時、母親に叱られた日や喧嘩で負けた日だった。気分が高揚していた時は気力が強かったのだろう、犬の方が怯えて吠えるどころか尻尾を巻いて縮こまっていたのだ。今の彼は普通の人間並みに制御出来ている。犬たちは民家の庭で道を通り過ぎる彼を眺めている。中には尻尾を振っているヤツもいた。

 こいつらと話が出来たら、ジャガーの正確な位置がわかるのにな。

 と彼は思った。雨季が近いせいか空気が湿っていた。だが雨にはなるまい。”雨を降らせるもの”と呼ばれたジャガーは雨が降る時をほぼ正確に察知する。降らせることは出来なくても、降るか降らないかはわかるのだ。
 3丁目の通りに来ると、前方に人影が見えた。ステファンは静かに歩調を変えずに近づいて行った。第1筋、第2筋と通り過ぎて行く間、その人影は1軒の家の前を行ったり来たりしている様子で、近づくステファンには気がついていなかった。
 女だった。ビアンカ・オルティスだ、と彼は判別した。彼はわずかばかり気を発してみた。側の植え込みの中でトカゲか蛇がいたのだろう、ガサリと音をたてて何かが逃げた。同時にオルティスがビクリとして振り返った。タイミングからして植え込みの音を聞いて驚いたのではない。ステファンが気を発したので驚いたのだ。
 数秒間暗がりの中で彼と彼女は互いの姿を見つめ合った。目は合わさない。ステファンは彼女が”ヴェルデ・シエロ”だと確信した。夜目が効いている。彼は低い声で尋ねた。

「こんな時間にそんな所で何をしているのだ?」

 オルティスは彼をグッと睨みつけたが、すぐに視線を逸らし、山側の二階建ての家に顔を向けた。ステファンもチラッとその家を見た。ピアニストのロレンシオ・サイスの家だ。人気アーティストの自宅らしく塀が高く、監視カメラも付いている。周囲の家々の3倍の広さはあるだろう敷地の奥に家があった。家は暗く、住人は就寝しているか留守なのだ。エミリオ・デルガド少尉の報告では、サイスは自宅にいると言うことだった。昼間近所の店でメイドが買い物をしたり、本人が庭でサッカーの真似事をしているのを目撃したと言う。
 ステファンはオルティスにもう一度声をかけた。

「こんな時刻にここにいるとストーカーか泥棒だと思われる。それにジャガーも出没する。」

 オルティスは無言で彼を振り返り、やがて通りの反対側に止めてあった自転車に歩み寄った。彼女は自転車を起こすと押しながら彼の側へやって来た。

「ロレンシオは無知なのよ。」

と彼女は言った。

「彼は自分に何が起きたのかわかっていない。だから・・・」

 彼女は自転車にまたがった。そして懇願の口調で言った。

「見逃してあげて。」

 彼女は地面を蹴り、自転車で走り去った。
 ステファンは彼女の姿が遠ざかって行くのを眺め、再びロレンシオ・サイスの家を見た。先刻の彼が発した気を感じた様子は伺えなかった。周辺の動物達も気がついていない。
 彼はサイスの家があるブロックをゆっくりと周回してみた。特に変わった気配はなかった。サイスの家の裏手に小さなロータリーがあった。中央に生えている大木を切りたくないので残してロータリーを造った、と言う感じの道の構造だった。彼は大木の周囲をぐるりと周り、それから木の上に素早くよじ登った。地面が傾斜しているので、それほど高い位置に登らなくとも目的の家の中が見えた。彼は枝の分かれ目で主幹にもたれかかり、枝にまたがる姿勢でサイスの家を監視した。
 夜明け近く迄そこでそうしていたが、結局動きはなかった。早起きの労働者が出てくる前にステファンは木から下りてマカレオ通りのテオの家に戻った。家の中に入ると玄関を施錠して浴室に行き、さっと水を浴びた。そしてリビングのソファの上で横になった。


第11部  紅い水晶     9

 ”ヴェルデ・シエロ”と付き合うと、その物事への周りくどい対処の仕方や、やたらと遠回しな表現とかで苛々させられることが度々ある。ケツァル少佐は生粋の”ヴェルデ・シエロ”で、生まれながら大ピラミッドのママコナ(巫女)からテレパシーで一族の作法を教わったが、育て親は殆ど普通の人間に等...