2021/11/08

第3部 終楽章  9

  金曜日の朝、グラダ大学の事務局が始業する頃合いを見計らってテオは電話をかけ、芸術学部のピアノ科のピアノ室を午後の2、3時間使用させてもらえないか、と尋ねてみた。生物学部の准教授がピアノにどんな用事があるのかと訊かれて、テオは「ここだけの話にしてくれないか」と断ってから、病気療養するピアニストが、静養地へ旅立つ前にピアノを弾いておきたいと言っている、テオが付き添って最終のオルガ・グランデ行きのバスに同乗するので、バスの時間迄の繋ぎだ、と説明した。事務員は、病気療養するピアニスト、と聞いて、何かピンとくるものがあった様だ。ピアノ科の教授と連絡を取るので、半時間待つように、と言って電話を切った。大学からの返事を待つ間、テオは己とサイスの旅行の準備をした。と言っても、サイスは自宅から逃げてきた時のままの鞄を持って行くだけだったが。先方へは大統領警護隊から既に話を通してあるので、手土産は不要だと言われていた。
 テオはビアンカ・オルトの死亡の知らせがアスクラカンに届いているのではないかと、ちょっと不安を感じたが、サイスには黙っていた。
 半時間経たないうちに大学から返事があり、ピアニストがピアノ室を使っても良い、と許可が出た。但し、と事務員が言った。

「混乱を避けるために、ピアニストには身元がわからないよう配慮してもらって下さい。」

 大学側は、ピアニストが誰なのか予想した様だ。果たして、昼過ぎにテオがサングラスと帽子とマスクで顔を隠したサイスを連れて大学に行くと、芸術学部が入った人文学の学舎の入り口にピアノ科の教授2名と学生10名が待ち構えており、学生達にピアノ演奏を聞かせて欲しいと言った。それでサイスがピアノ室を使う条件になるのだ。サイスは喜んで学生達と学舎の中へ消えていった。
 それから夕方迄テオは退屈な会議を切り抜け、なんとか定刻に解放された。芸術学部にサイスを迎えに行くと、彼は学生達に指導をしていた。弾きっぱなしでは疲れるだろうから、彼が自らインストラクターを務めていたのだ。
 大学当局に礼を言うと、ピアノ科の教授から、病気が治ったら大学でコンサートを開いて欲しいと言われ、サイスは笑顔で承諾した。
 テオの車は文化・教育省の、「いつも空いている」スペースに置いて、バスターミナルまではロホが送ってくれた。

「ロレンシオがこれから世話になる人はシプリアーノ・アラゴと言う人です。サスコシ族の族長です。リベラルな人ですが、族長ですから一応こちらからも礼儀を予習しておいた方が良いです。幸い、少佐の父君の遠縁の叔父さんにあたる人が、教えてくれます。アスクラカンのバスターミナルに迎えにきてくれるのは、その叔父さんの息子で、セルソ・タムードと言う人です。セルソはメスティーソで、気の良い男ですから、ロレンシオに必要なことを色々教えてくれる筈です。それから、もし困ったことがあれば・・・例えば、純血至上主義者に絡まれたりしたら、この名刺を見せて下さい。」

 ロホはケツァル少佐と彼自身の名刺をサイスに渡した。どちらも緑色の鳥の絵が描かれていた。サイスはそれを大切に胸ポケットに入れた。

「グラシャス、中尉。少佐とステファン大尉、それにデルガド少尉によろしくお伝え下さい。」

 サイスは握手しようと手を差し出して、ロホが純血の”ヴェルデ・シエロ”だと思い出した。しかしロホは優しく微笑んで彼の手を掴んだ。
 サイスが先にバスに乗り込むと、ロホはテオとも握手した。

「族長の家まで行ってやりたいけど・・・」

とテオは笑いながら言った。

「そこまで過保護にされると、彼も嫌だよね、きっと。」

 ロホは黙って笑っただけだった。
 そしてオルガ・グランデ行きのバスはターミナルをゆっくりと出て行った。


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