2022/04/28

番外編 2   引っ越し 1

  テオはケツァル少佐のコンドミニアムへ運ぶ荷物の整理をしていた。衣料品と研究資料だけだ。鞄に詰め込むと、自分がどれだけ物を持っていないか実感した。書籍が一番重量がある荷物だが、最近はネットで資料を検索するし、大学へ行けば研究室や図書館でいくらでも本を読める。結局自宅にある本は彼が気に入った小説のペーパーバックや古書店で発掘した自然科学関係の希少本ぐらいだ。室内装飾も殆どない家だから、絵画や彫刻なんて芸術品はないし、食器は全部置いて行く。それに慌てて全部持って行く必要もない。まだ鍵は持っているし、新しい家主になるアスルは、「俺は管理人になるだけで、家主は飽く迄あんただ。」と言った。要するに、テオに家賃を払えと言っているのだ。アスルはこれ迄通り部屋代しか払わない魂胆だ。テオも好きな時に寛げる空間があれば良いと思ったので、家の名義はそのままにしておいた。正直なところ、女性と暮らした経験が一度もない。試験管で生まれたので、母親と言う存在がなかった人間だ。だから、もしケツァル少佐との同居が彼自身の負担に感じることがあれば、逃げ場が必要だ、と彼は同居を始める前から対策を考えてしまった。

「アスル、車はどうするんだ? ロホの送迎に頼るのか?」

と足のことを心配してやると、アスルはこともなげに言った。

「自転車を買う。」

 マカレオ通りは坂道の街だ。外出は楽だろうが、帰路は疲れるだろう。しかし若い軍人は苦にならないのかも知れない。それに今迄もアスルは徒歩で出かけたり、徒歩で帰宅していた。テオの過保護は迷惑なのだ。

「君の手料理が懐かしくなったら、いつでも戻って来る。」

と言ったら、アスルは「ふん」と鼻先で笑った。

「カーラの飯の方が美味いに決まっているさ。」

 ケツァル少佐が雇っている家政婦のカーラは料理名人だ。アスルは彼女の手伝いをしながら料理を教わることが多い。荷造りするテオを手伝わずに、アスルは居間のソファに横になったまま背伸びした。

「もしかすると、アンドレを住まわせるかも知れないぞ。」

 アンドレ・ギャラガはまだ本部の官舎住まいだ。官舎住まいだと徹夜の勤務や出張の度に上官へ届け出なければならないので、はっきり言って手間だ。ギャラガに言わせれば、直属の上官はケツァル少佐なのだから、少佐の命令に従って勤務するのに、何故官舎を管理する警備班の上官の許可が必要なのかわからない、となる。警備班は宿舎の秩序を守る為に利用者にルールを守らせているだけなのだが。

「アンドレが住み着いても構わないさ。」

 テオは、恐らく普通の家庭を知らずに育ったギャラガがこの家に来て、近所付き合いを始めたら、きっと素晴らしい体験をすることになるだろうとワクワクした。
 するとアスルはまた言った。

「もしかすると、マーゲイが住み着くかもな。」

 グワマナ族の大統領警護隊遊撃班隊員エミリオ・デルガド少尉のことだ。アスルはあの後輩も密かに気に入っているらしい。デルガド少尉は任務の途中で休憩したくなると勝手にやって来て、勝手に家に入り込み、寝ていくことがある。昔のアスルと同じだ。アスルはデルガドに己と同じ匂いを嗅ぎ取っているのだろうか。

「カルロが来ても構わないぞ。」

とテオは言ってみた。やはり遊撃班のカルロ・ステファン大尉は、”指導師の試し”と呼ばれる試験に合格し、最終修行の厨房勤務を終えた。隊員の健康を守り、病気や怪我を癒す方法を学ぶ修行を終えたのだ。遊撃班指揮官のセプルベダ少佐の副官となって、これから多忙になる。息抜きに、マカレオ通りに来てもらっても構わなかった。ステファンには実家があるが、恐らく彼は母親と妹の世話焼きを好まないだろう。
 アスルはぶっきらぼうに言った。

「カルロはロホのアパートに行くさ。」

 そう言えば、ロホが現在住んでいるアパートは、元々ステファンが住んでいたのだ。ロホとステファンは入隊以来の仲良しで、ステファンは官舎へ戻る際にアパートをロホに譲り、ロホが妹グラシエラ・ステファンと交際することも許した。
 アスルはロホ、ステファン、どちらの先輩も尊敬し、愛している。だがステファンが文化保護担当部に戻って来ることはないと理解もしていた。ステファンが目指しているのは少佐の位で、文化保護担当部に少佐は2人も必要がない。アスルはケツァル少佐以外の指揮官を求めていない。

「誰だって構わないさ。」

とテオは笑顔で言った。

「君がこの家に入れるのは、味方だけだと知っているから。」
「当たり前だ。」

 アスルはツンとした。その時、中庭に面した掃き出し窓の窓枠をコンコン叩く音がした。テオとアスルが同時に振り返ると、隣家の子供がサッカーボールを抱えて立っていた。

「アスル、ゴールキーパーやってよ!」
「えー、またか?」

と言いつつ、アスルは体を起こした。口では文句を言いつつ、顔は嬉しそうだ。アスルは近所の子供達とサッカーをすることが楽しみになっていた。彼自身はプロ級の腕前なのだが、子供達とワイワイ言いながら走り回るのはストレス解消になるのだろう。

「ガキどもと走って来る。鍵は掛けて行けよ。」

 鍵がなくても開けられる彼はそう言って、窓から出て行った。
 テオはこれからも毎日出会う筈なのに、ちょっぴり寂しく感じてしまった。


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第11部  紅い水晶     14

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