2022/11/24

第9部 シャーガス病     1

  国立感染症センターが微生物学者アーノルド・マイロをセルバ共和国に派遣したのは、シャーガス病の研究の為だった。シャーガス病は中南米の風土病で寄生性の原虫であるクルーズトリパノゾーマによる感染症である。人の住居に住み着くサシガメ類の昆虫の糞に含まれる原虫が原因で、原虫の侵入した部位の腫れや炎症、リンパ節腫腸で始まり、発熱、肝脾腫に進行し、一部の患者は急性心筋炎・髄膜脳炎で死亡することもある。さらに数年後、20~30%の患者に、慢性心筋炎、巨大食道、、巨大結腸などが起きることもあり、それらはやがて死に繋がる可能性が大きい。急性期に抗原虫薬による治療を開始しなければ完治は困難で、慢性期に移行してしまうと、薬物療法の効果はあまり期待できない。そのため、この病気は本当に感染しないことが重要で、サシガメ類の昆虫に刺されないことが予防方法としか言いようがない。
 だが、中南米で唯一箇所、この病気の発症例が認められない国がある。それが、セルバ共和国だった。マイロはサシガメ類昆虫がセルバ共和国に生息するにも関わらず、病気が発生しないことに興味を抱いた。セルバのサシガメにはクルーズトリパノゾーマが寄生しないのだろうか。他の中南米諸国のサシガメとセルバのサシガメはどう異なるのか、彼はそれを調査する為に派遣された。セルバ人の体質に原因がある可能性もあるのだが、それは万が一のこととして、先ずは昆虫の研究だ。
 マイロがグラダ・シティ国際空港に降り立ったのは、雨季明けの蒸し暑い晴れた日だった。晴れていたが、空の一部には分厚い雲が浮かんでいた。いつでもスコールが始まるよ、と言う雰囲気だ。空港は南国ムードいっぱいで、褐色の肌のメスティーソ達が荷物を運んだり、再会を喜び合ったり、足早に歩いていたりと賑やかだった。知名度の低い国だから、もっと田舎っぽいと想像していたマイロは、空港ビルを出て、近代的ビルが並ぶ方角を眺めた。高層ビルと言うものは見当たらなかった。どれも4、5階建てだ。予備知識では、セルバ共和国では首都にある”曙のピラミッド”を超える高さの建築物は禁止されているとあった。だが空港から見る限り、そのピラミッドは見当たらなかった。同じような高さのビル群に埋もれているのだろう。
 湿った生暖かい空気を吸い込んだ時、左脇から声をかけられた。

「ドクトル・ミロ?」

 マイロをミロと発音するのは、英米圏の外の人間だ。マイロはその程度の覚悟はしていた。振り向くと、1人の女性が立っていた。30歳前後と見える女性で、スマートな体型だが、これはこの国ではスリムな方になるのではないかな、と彼は勝手に思った。

「そうです、アーノルド・マイロです。微生物学者です。」

 女性は薄い赤系統の花柄ワンピースの胸元にぶら下がっていたI D証を提示した。

「グラダ大学医学部微生物研究所のドクトラ・イメルダ・バルリエントスです。貴方と同じ微生物学者です。」

 そして彼女は握手する前に言った。

「申し訳ありませんが、パスポートで確認させて頂きます。」

 それでマイロは慌ててパスポートを出した。アメリカを出る前に、煩く注意されたのだ。セルバ共和国では身分証を求められたら、必ず素直に見せること、と。
 ビザを取得する時に、セルバ共和国大使館で亡命・移民審査官と言う肩書きの男性と数回面接した。そのロペスと言う男は大使館職員かと思ったが、彼自ら出した身分証には、大統領警護隊司令部外交部少佐とスペイン語で書かれていた。ビザが降りる迄、何度も入国目的を尋ねられ、シャーガス病の講義を少佐に行う羽目になった。何らかのスパイ目的かと疑われているのかと当初は腹が立ったが、よく考えると、セルバ共和国にはシャーガス病が存在しないのだ。その原因を調べに行くのだから、シャーガス病を知らない人々に調査目的を理解してもらわねばならないのだ、と彼自身が理解した。
 パスポートと国立感染症センターのI Dをじっくり吟味してから、バルリエントス博士は彼に書類を返した。そしてやっとニッコリして手を差し出した。

「セルバ共和国にようこそ!」


0 件のコメント:

第11部  紅い水晶     15

 在野の”ヴェルデ・シエロ”が大巫女ママコナに直接テレパシーを送ることは不敬に当たる。しかしママコナが何か不穏な気を感じていたのなら、それを知っておかねばならない。ケツァル少佐は2秒程躊躇ってから、大統領警護隊副司令官トーコ中佐に電話をかけた。その日の昼間の当直はトーコ中佐だった...