2022/11/25

第9部 シャーガス病     2

  イメルダ・バルリエントス博士は運転手付きの車で迎えに来ていた。マイロは「こう言う貧しい国で大学で働くエリートは上流階級並の生活をしているのだな。」と思った。車は日本製のセダンで、少し狭かったがエアコンが効いていた。バルリエントスが尋ねた。

「先ず職場に行きますか、それとも宿舎へ行きますか?」

 マイロは汗で少し不快に感じていたので、シャワーを浴びたかった。

「宿舎へお願いします。」

 車が走り出した。その時になって、マイロはバルリエントスと英語で話していたのに、運転手が通訳なしで理解したことに気がついた。彼は彼女にスペイン語で言った。

「スペイン語を勉強してきましたから、日常会話なら大丈夫です。」

 バルリエントスがニッコリ笑った。魅力的な優しい笑だったが、残念なことに彼女の左手薬指には指輪が光っていた。
 グラダ・シティの大きな通りは渋滞していた。止まってしまうことはなかったが、車は歩いても同じではないかと思われるスピードで、ゆっくりと進んだ。

「シエスタが終わったところなので・・・」

とバルリエントスが言い訳した。ああ、とマイロは納得した。中南米ではシエスタと呼ばれる昼休みが重要だ。暑い国なので、涼しくなってから働くのだ。それまではゆっくりお昼ご飯を食べて昼寝をする。

「大学も夜働くのですか?」
「ノ、グラダ大学のシエスタは正午から午後4時迄です。終業は6時。」

 それじゃ午後は2時間しか働けないじゃないか、とマイロは驚いた。事務なら兎も角、実験や分析などの研究に2時間は少な過ぎる。

「研究時間が長引いた場合は?」
「部屋の使用責任者個人の責任で終日使用可能です。でも、それは医学部だけの話です。たまに生物学部でも徹夜することはあるそうですが。」

 生物学部が徹夜するなら有難い、とマイロは思った。原虫の分析を手伝ってもらえるかも知れない。
 シャーガス病のことを質問しようとした時、彼女が右前方を指差した。

「あれが我が国の精神的シンボル”曙のピラミッド”です。」

 ビルの並びが途切れ、空間が広がっていた。白っぽい大きな石を積み上げた四角錐の建造物が見えた。エジプトのギザのピラミッドに比べれば小さいが、それでも近づいて行くと迫力があった。ピラミッドの周囲は芝生になっていて、観光客が歩いていた。ピラミッド自体は立ち入り禁止なのだろう、登ったり触ったりする人はいない様子だった。

「いつ頃の物ですか?」
「文献となるものが残っていないのですが、言い伝えではセルバに最初の人間が現れた時に、あれも一緒に現れたそうです。」

 そしてバルリエントスは恥ずかしそうに言った。

「考古学に疎いので、その程度しかお伝え出来ません。」
「大丈夫です、僕も考古学や歴史には詳しくなくて・・・」

 マイロは彼女が彼の家族やアメリカでの仕事のことを尋ねないことに気がついた。彼女自身の紹介もない。身分証を見せてくれただけだ。これがセルバ文化の常識なのだろうか。
 ピラミッドの次は白亜の石造りの大きなコロニアル風の館が見えた。こちらはフェンスに囲まれ、かなり大きな敷地を取っていた。兵隊が門の両脇に立っており、観光客の興味の的になっている。

「大統領府です。」

とバルリエントスが説明した。

「大統領と家族が住んでいます。後ろの建物が国会議事堂です。ここから見るとくっついて見えますが、実際は大統領府と議事堂の間には道路があります。」

 大統領府は横長に見えた。まだずっとフェンスと建物が続いているのだ。

「こちら側は大統領警護隊の本部です。」

とバルリエントスが説明した。

「大統領や政府高官の護衛や国家レベルの犯罪・・・テロなどの取り締まりを行っている組織です。」
「建物が大統領府より大きいような・・・?」
「隊員の宿舎や訓練施設が併設されているからです。彼らの正門は別にあります。大統領府から警護隊の本部に入ることは出来ません。」

 車はセルバ共和国の政治の中枢部を離れ、本格的な市街地に入った。オフィスビルや商店が並ぶ賑やかな地区だ。車は少し走って、小綺麗な近代的ビルの前に来た。

「セルバ共和国保健省です。貴方がこの国の中で移動される時は、必ずこちらに行き先と滞在先、同行者、旅行の目的、滞在期間の届出が必要です。普通の外国人は外務省の管轄ですが、貴方は医療関係者ですから。」
「わかりました。」
「明日、正式にご案内します。」
「わかりました。」

 車は止まらず、商店街の中に入って行った。一棟の雑居ビルの前に来た。1階にカフェとブティック、小さなクリニックが入居している。上の階はアパートか?と思っていたら、バルリエントスが言った。

「文化・教育省です。グラダ大学はここの管轄ですから、明日からここで大学で働く諸手続きをして頂きます。」

 「明日」ではなく「明日から」だ。マイロは彼女を見た。中南米では役所仕事の速度が遅いと聞いたが・・・。


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