2021/06/12

記憶喪失の男 4

 オルガ・グランデはエル・ティティの西、山脈を越えた盆地にある地方都市で、セルバ共和国第2の”大都市”だった。しかしミカエルは、「大きめの田舎町」だと思った。もっと大きな、”本物の”大都市を見たことがある、と感じた。摩天楼や高速道路や大きな通りや高層アパート群・・・それが何処だったのか思い出せなかった。
 バスターミナルでバスを降り、大きな広場に面したオルガ・グランデ聖教会へ向かった。ケツァル少佐から教会の名を聞かされなかったが、オルガ・グランデの町の名はこの教会が来ているので、疑いもせずに聖教会に入った。
 聖堂の扉を押し開くと夕刻の礼拝が行われていた。セルバ共和国は中南米の国らしくカトリックの国だ。先住民の古い信仰が地下に潜って生き残っているが、表立って出てこない。お祭りなどでヨーロッパのキリスト教と違う飾り付けや風習が見られるので、「融合している」と人類学者達は考えている。 薄暗い聖堂の中に並ぶ木製のベンチに信者達がぽつりぽつりと座っていた。日曜日の朝のミサほどには人が集まらない様だ。
 ミカエルは堂内を見回してみたが、少佐らしき人が見当たらなかったので、最後列のベンチに座った。丸一日バスに揺られて疲れた。空腹だった。今夜はここに泊めてもらえるだろうか。野宿でも構わないが、高地なので夜間の屋外は冷える。ゴンザレスから寝袋なしで外で寝るなと言われていた。明日少佐に出会わなければ、仕事を探そう。脚が治ったから力仕事も出来るだろう。代書屋で稼いだ所持金はバス代で使い果たしてしまった。この町の宿代はいくらするのだろう。
 背後で扉が開き、足音もなくケツァル少佐が入ってきて、彼の隣に座った。ミカエルはホッとして、声をかけようとした。彼女の方が先に口を開いた。

「リオ・ブランカ通りのセラードホテルに泊まりなさい。」

 彼の手に数枚の紙幣が押し込まれた。ミカエルはそれを確認した。地図が一枚紙幣の上にあった。上着のポケットに入れると、彼女は立ち上がり、静かに聖堂から出て行った。
 礼拝が終わってからミカエルは外に出た。日が暮れても街は活気があった。エル・ティティと違って街灯が明るく、(と言うか、街灯がある!)人々は大通りに面したバルで一日の締めくくりの食事と酒を楽しんでいる。彼等の服装は軽装ではあるがビジネススーツだったり、ジャケット姿だったり、ドレス姿の女性もいて、スペインの街角に似た雰囲気だった。湿気が多い山脈の東側と違って、ここは乾いていて夜風が心地よかった。
 ミカエルが事故に遭ったバスは、山脈の東のアスクラカンと言う地方都市を出発して、エル・ティティを経由し、ティティオワ山を越えて、オルガ・グランデを終点とするルートを運行していた。記憶を失う前のミカエルは、最終目的地なのか通過地点なのか知らないが、兎に角一応はこのオルガ・グランデを目指していたのだ。
 俺は何処へ行くつもりだったのだ? 何をしに行こうとしていたのか?
 大通りに沿って歩いて行くと、抵抗し難い良い匂いが漂ってきた。空腹をあらためて感じた彼は少し横道に入り、匂いの元の店の扉を開いた。繁盛しているバルだった。オリーブオイルの香り、タバコの煙、肉が焼ける匂い、労働者達の話声、女性の笑い声、グラスの打ち合わされる音・・・ミカエルは一つだけ空いていたカウンター席に座り、ひよこ豆とチーズのバネッレ、ハム、ポヴェレッロを注文した。酒を頼まないので奇異に感じられた様だが、無視した。夢中で食べて、食事が終わる頃に少佐にもらった地図でホテルの位置を確認していると、脇に1人の男が立った。視線を向けると、髭面のメスティーソの男で、服装は悪くなかったが上等とは言い難かった。ミカエルが彼の存在に気づいたと見るや、その男が声をかけて来た。

「タバコを1本分けてくれ、セニョール。」

 ミカエルは首を振った。

「持っていないんだ。吸わないんだよ。」

 男は肩をすくめたが、立ち去ろうとはしなかった。

「旅行者か?」
「仕事を探している。」

 もっともミカエルはこの男に仕事を紹介してもらえるなんて思わなかった。男自身が仕事を探していそうな雰囲気だったし、よしんば男が仕事を紹介してやると言っても、合法的なものとは思えなかっただろう。

「この町で仕事を探すなら、」

とその男が言った。

「アンゲルスの旦那に頼むこった。」
「えっ!」

 ミカエルはびっくりして男の顔を見た。男はカウンターの奥を見ていた。ミカエルは尋ねた。

「その人には何処へ行けば会えるんだ?」

 男は答えずにカウンターから目を逸らし、テーブル席で酒を楽しんでいる人々を眺めた。ミカエルは店員に声をかけた。

「こちらのセニョールにビールを一杯。」

 男がミカエルを振り返った。

「セニョール・アンゲルスは他所者にはお会いにならねぇ。」
「君になら会うのか?」

 男がニヤッと笑った。

「あんた次第だな。」

 ビールではなくお金か、とミカエルは思った。こんなことに使えるお金はない。こんな男の情報には。彼はポケットに手を入れ、事故前の唯一の手がかりであるしわくちゃの名刺を出した。”ミカエル・アンゲルス”と印刷されたカードだ。それを男に見せると、男の顔色が変わった。ニヤニヤ笑いが消え、目付きが険しくなった。

「あんた、そいつを誰から・・・」

 男が手を伸ばして来たので、ミカエルはカードをポケットに仕舞った。店員がビールを出した。落ち着きを失った男はそれをゴクゴクと喉に流し込んだ。髭に付いた泡を手で拭って言った。

「あんた、何処を寝ぐらにしているんだ?」
「セラードホテル。明日はわからない。」
「後で連絡する。」

 男はビールの礼も言わずに店の外へ出て行った。
 ミカエルはもう一度名刺を出して眺めた。ミカエル・アンゲルスなんて冗談みたいな名前だが、この町ではある種の効力を持っているらしい。セニョール・アンゲルスは俺を知っているのだろうか。少佐は彼を知っているだろうか。


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

シオドアとリコの出会いの場面。

カトリック教会の建築物の名称を調べずに書いたので、訂正。
礼拝堂は聖堂の中にあるので、シオドアが少佐と落ち合うのは聖堂の方。

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