2021/06/12

記憶喪失の男 5

  セラードホテルは中心街から数分歩いたリオ・ブランカ通りにあった。ミカエルは1泊分の料金を前払いして4階の狭い部屋に入った。古い宿だ。トイレは共同でシャワーは一つしかない。ルームサービスなどあろうはずがなく、電話だけがベッドサイドに据え付けられていた。旧式のダイヤル電話だ。ミカエルは窓際の壁にもたれかかって通りを走る車のヘッドライトを眺めていた。
 俺は外国人だ。この国の言葉を流暢に話し、この国の人間の行動パターンを何となく理解しているが、異邦人だ。多分、世界中の何処へ行っても同じ様に出来る。そう設計されている。
 頭痛がして来たので、彼はそれ以上考えるのを止めてベッドに入った。
 どれほど眠っただろうか。けたたましい旧式電話の音で目が覚めた。出るとフロント係が階下に客が来ていると告げた。無愛想な声なのは、フロント係が仮眠を邪魔されて腹を立てている証拠だ。ミカエルは礼を言って、ベッドから出た。荷物はないし、服を着たままで寝たので身支度の必要はなく、部屋の鍵も掛けずに外へ出た。
 少佐が来たのかと思ったが、待っていたのはバルで声をかけて来た男だった。

「仕事を探すには遅い時間じゃないか。」

 ミカエルが文句を言うと、男が愛想笑いをした。

「良い報せは早い方が良いと思ってね・・・」

 彼はついて来いと身振りしてホテルから出て行った。ミカエルはカウンターを見た。フロント係はもういなかった。彼はカウンターに部屋の鍵を置いて男の後を追った。
 男の後をのこのこついて行くことになるが、他に何が出来るだろう。恐らく碌でもないことが待っている予感がしたが武器も何も持っていない。盗られる物も持っていない。もう所持金はなかった。バルとホテル代で使い果たしていた。盗られるとしたら命だけだ。
 闇に包まれた路地を男とミカエルは歩いて行った。車も人も通らない。街灯もない区画だ。旧市街地だろうか。石の壁が両側に続いて、逃げ場のない裏道だ。
 風が冷たいな、と思う頃に、男が立ち止まった。そこに複数の人影があった。ミカエルも立ち止まった。相手は6人、と暗闇で数えた。恐怖は感じなかった。人影の一つがミカエルを案内した男に尋ねた。

「この男か、リコ?」
「スィ、旦那の名刺を持ってやがるんだ。」
「旦那はこんな白人なんぞ知らねぇって仰る。」

 暗がりから1人の体格の良い男が前に進み出てきた。ミカエルと同じぐらいの身長だ。喧嘩慣れしている雰囲気だ。そいつがミカエルに尋ねた。

「お前、何処で旦那の名刺を手に入れた? ホテルのヤツに聞いたところでは、お前は旦那の名前を騙って泊まっているそうじゃないか。」

 ミカエルは、あはは、と笑った。笑うしかなかった。

「どうして俺が旦那の名刺を持っているかって? それは旦那の方が知っている筈だ。」

 彼の態度を抵抗と看做したのだろう。男達が殴りかかってきた。統制が取れた団体行動ではなかった。ミカエルは軽やかに身をかわし、身近なヤツから順に叩きのめしていった。自然と体が動いた。慣れていると言うより、勝手に体が反応している。刃物を出した奴もいたが、簡単に奪い取って道端の溝に投げ捨てた。
 10分後には6人全員が路上に倒れ込み、呻いていた。ミカエルがホッと気を抜きかけた時、リコと呼ばれたバルの男が大きなナイフを抜いて突進して来た。ミカエルは際どくかわしてナイフを叩き落とし、リコの顔を2、3発殴った。石壁に体を叩きつけ、さらに頭を打ち付けようとしたところで、手が何かに抑えられた様に動かなくなった。

「それ以上やると、死なせてしまいますよ。」

 リコを壁に押し付けたまま、ミカエルは声がした方へ顔を向けた。
 暗がりの中に小柄な影が立っていた。声に聞き覚えがあったので、彼は応えた。

「殺すつもりはないよ、少佐。」

 彼は言い訳した。

「ミカエル・アンゲルスが何者なのか、知りたいだけなんだ。」
「冗談・・・」

とリコが呻いた。

「アンゲルスの旦那を知らないだなんて・・・」

 ケツァル少佐が近づいて来た。ミカエルは彼女の背後を見た。誰もいない。こんな物騒な地区に、こんな夜更けに、女性1人で来たのか? 
 路面に転がっている男の1人が起き上がろうとした。少佐がそちらへ顔を向けて言った。

「寝ていなさい。」

 男が暗がりの中でまた横になった。リコが彼女に「誰だ?」と訊いた。少佐が彼の真横に来て、彼女のカードケースをチラリと見せた。ミカエルに抑えられたまま、リコが息を呑んだ。ミカエルは彼が呟くのを聞いた。

「ラ・パハロ・ヴェルデ(緑の鳥)」

 ケツァル少佐がリコに囁いた。

「私はアンゲルスを知っている。だが、この男性は本当に知らない。教えてあげなさい。」

 優しい言い方だが、逆らえない何かが声の響きの中にあった。ミカエルは背筋がぞくぞくした。リコが顔を壁に向けて言った。

「旦那はこの街の支配者だ。鉱山主だ。この街で旦那に逆らえば生きていけねぇ。市長でさえも・・・」
「その旦那は今何処にいますか?」
「知らねぇ。」

 すると少佐がリコから少し離れて、ミカエルに言った。

「1発殴っても良いですよ。」

 ミカエルが拳を上げると、リコが喚いた。

「本当に、俺は知らねぇんだ! 旦那が俺みたいなチンピラに会って下さる訳がねぇ。」
「では、そこにいる連中に訊きましょう。」
「そいつらだって知らねぇよ。俺がセニョール・バルデスに命じられて集めた連中なんだ。」

 今度はミカエルが尋ねた。

「バルデスって誰だ?」

1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

助詞の使い方を訂正。
が と は の区別をはっきりと。

少佐はこれまで”連結”を使っていたが、ここへ来て初めて”操心”を使用。

第11部  紅い水晶     20

  間も無く救急隊員が3名階段を昇ってきた。1人は医療キットを持ち、2人は折り畳みストレッチャーを運んでいた。医療キットを持つ隊員が倒れているディエゴ・トーレスを見た。 「貧血ですか?」 「そう見えますか?」 「失血が多くて出血性ショックを起こしている様に見えます。」 「彼は怪我...