2021/07/18

聖夜 4

  シオドアは翌朝5時前に目が覚めた。まだ疲れが取れていなかったが、亡命のことを考えると興奮して熟睡出来なかった。大使は本国の許可が出次第彼とアリアナをアメリカから出国させてセルバ行きの飛行機に乗せると言ってくれた。空港までは武官とその部下が護衛してくれる。ケツァル少佐とステファン大尉はセルバ国民だし、軍務終了でこの日の内に帰国する予定だ。大使はカメル軍曹の遺体を引き取る口実を考えなければと言っていた。カメルは今のところセルバ共和国と無関係な泥棒として警察の遺体安置所に置かれている。もしかすると国立遺伝病理学研究所が彼も超能力者であると考えて遺体を引き取ってしまったかも知れない。カメル軍曹は恐らく何者かに心を操られ、ステファン大尉暗殺を図ったのだ。本人に罪はなかっただろう。大使は彼の遺体を本国の親族に返したいと希望した。この件は大統領警護隊文化保護担当部の管轄ではなかった。大使館の仕事だ。昨日大使の部屋にいたファルコ少佐と言う武官が指揮を執るのだろう。ケツァル少佐が彼と話をしたのは、その件かも知れなかったが、シオドアは確認する機会がなかった。
  客間のバスルームで洗顔して服を着替えた。廊下に出ると、冷たい風が建物の端から吹いてきて、微かにタバコの香りがした。ステファン大尉のタバコの匂いだ、と思ったシオドアは暗い廊下を静かに歩いて行った。アリアナや少佐の部屋は静かだ。まだ眠っているのだろう。大使館の業務開始が午前9時だと言っていたので、使用人もまだ活動していない様子だ。
 廊下の突き当たりにバルコニーに出る大きな掃き出し窓があった。そこで柵にもたれて庭を見下ろしながら、ミゲール大使がタバコを吸っていた。ガウンを着ている。シオドアが「おはようございます」と声を掛けると、彼は振り返って優しい表情で「おはよう」と返事をした。

「よく眠れましたか?」
「それが、亡命のことを考えると興奮してしまって・・・」

 シオドアは慌てて言い添えた。

「楽しみなので、興奮しているんです。本国が許可を下さることを切に願っています。」
「我が国を愛してくれて有り難う。」

 大使は微笑んだ。

「それとも、国ではなく人を愛して下さっているのかな。」
「人です。」

 シオドアは断言した。

「俺を救ってくれたエル・ティティの町の住人達、一緒に冒険をした大統領警護隊の仲間達、大学で俺を先生と呼んでくれた学生達・・・俺はセルバで初めて人間として扱ってもらえた。」
「私も貴方が気に入りましたよ。」

 大使がタバコを勧めてくれたが、シオドアは喫煙の習慣がなかったので辞退した。

「セルバ国民でも誰かが”ヴェルデ・シエロ”だとわかると、周囲は皆んな退くんですよ。私は父親がスペイン系で、母親がサスコシ族のメスティーソです。私は”心話”しか使えないので普通の子供として育ちましたが、母親は気を出しっぱなしの”出来損ない”でしたから子供の頃それなりに苦労した様です。虐められることは決してありません。皆んな神様の力が恐いのでね。その代わり、仲間外れにされます。ですから私の母は学校の勉強を頑張って白人の会社に就職し、父と出会いました。私の”ヴェルデ・シエロ”としての教育は、母方の親族から与えられた物です。」

 そしてふと心配そうな表情になった。

「寒くありませんか?」
「スィ、寒いです。」

 大使はシオドアに建物の中へ入れと手を振り、タバコを携帯吸い殻入れに入れて消した。

「このタバコの葉には、微量ですが麻酔の様な作用があって、”出来損ない”の出しっぱなしの気を鎮める効果があります。カルロ・ステファンが吸っているのを見たことはありませんか?」
「ジャングルで出会った時、彼はいつも咥えていました。火が点いていてもいなくても。」
「彼の様に大きな気を持つ者には必需品です。しかし、吸うと能力が抑制され、純血種の様に自由に使うことが出来なくなります。」

 大使は窓を閉め、シオドアを階段へと誘った。

「朝食迄時間があります。書斎でコーヒーでもいかがです?」
「いただきます。丁度欲しかったんです。」

 シオドアの正直な言葉に彼は朗らかに笑った。シオドアは大使にリクエストした。

「朝の寛ぎの時間を台無しにして申し訳ありませんが、もし宜しければ”ヴェルデ・シエロ”について少しレクチャーして戴けませんか? これからセルバ共和国で暮らす心構えとして。」
「構いません。私も早くに目が覚めて時間を持て余していただけですから。」

  大使の書斎は大使館に使われている区画の近くにあった。部屋の中は高価な書物がぎっしり詰まった書棚と農園主としての事業家である彼のもう一つの顔を表す書類のファイルの棚があり、観葉植物の植木鉢が5つ点在していた。大使はシオドアに好きな椅子にどうぞと言って、自分でコーヒーを淹れた。遠くで物音がした。彼はコックが出勤して来て朝食の仕込みを始めたのだと教えてくれた。
 
「通常は私一人か妻と2人だけなので朝は自分で簡単に済ませるのですが、今朝は客人がいますからね、彼は臨時収入を得られる訳です。」
「奥様はお出かけですか?」
「妻は宝飾デザイナーで、マドリードとパリに工房を持っています。セルバの農園へはよく帰って来ますが、この大使館には大きな行事がある時にしか来ません。」

 大使がウィンクした。

「ここには娘がいないでしょう?」
「ああ・・・」

 きっとケツァル少佐は大使夫人にも「ママ」と抱きついてキスをするのだろう。大使の机の上には家族の写真を入れた写真立てがたくさん置かれていた。黒髪のスペイン美女と黒髪の純血種先住民美少女の写真が大半だ。どの写真も笑顔が溢れていた。

「妻は娘が何者なのか知りません。生まれて直ぐに母親を亡くした赤ん坊を、私の親族を名乗る長老から託された時、本当に単純に子供欲しさから引き取ったのです。”操心”など必要なかった、とその長老は私に言いました。結局私達夫婦には実の子ができずに、子供はシータ一人だけです。ですから妻のあの子への愛情と言ったら、夫の私が嫉妬するほどですよ。」

と大使が幸せそうに笑った。シオドアはこの家族が羨ましかった。エル・ティティのゴンザレス署長が恋しくて堪らない。どうしても本国の許可をもらわなければ、と思った。

「そんな可愛いお嬢さんが軍隊に入ると決めた時、賛成なさったのですか?」

 シオドアの質問に、大使が複雑な表情をした。

「娘が普通の男性と結婚して普通の家庭を築いて穏やかに暮らしてくれれば、私達親は安心出来るのですが・・・やはりジャガーを檻に入れておくことは出来ないのです。」
「ケツァル少佐は、”ヴェルデ・シエロ”としての教育は”曙のピラミッド”のママコナがテレパシーで行う様なことを言っていました。」
「その通りです。私の母も私も”出来損ない”ですから、ママコナの声は脳の奥で雑音程度にしか聞こえませんが、娘ははっきり言葉として聞いていました。”心話”で私にはわかりました。そして日々彼女が”ヴェルデ・シエロ”として成長していくのがはっきりわかりました。正直なところ、私は焦りました。明らかに普通の子供と違って利口過ぎるし、感情表現も大人の物です。ですから私は毎日彼女に”心話”で言い聞かせました。能力を隠せと。使用人の子供達と同じ様に振る舞えと。」
「ジャガーは猫のフリをしたのですね。」
「スィ。きっと彼女なりに辛かったと思います。しかしママコナも同じ様に説得してくれたのでしょう。多くの純血種が同様の教育を受けて来たのです。親が同族であるかないか、その違いでした。シータは妻の前では現在でも普通の娘として振る舞います。たまに失敗しますが、妻は娘が風変わりなのはインディヘナだからだと思ってスルーしています。」
 
 大使は真新しい軍服を着てお澄まししている少女の写真を眺めた。

「軍隊に入って、士官学校に入学し、大統領警護隊にスカウトされる、それが普通の道筋ですが、シータは最初から警護隊に入りました。彼女が何者か、皆んなわかっていたからです。」
「彼女は有名な様ですが・・・」
「特別だからです。」

 大使が視線をシオドアに向けた。

「そもそも、何故長老がわざわざ私に彼女を預けたか、お分かりですか?」
 

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第11部  紅い水晶     19

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