2021/08/29

第2部 節穴  13

  女性が一人暮らしをしている家に入るのは初めてだった。ギャラガは殆ど恐る恐ると言う形容がぴったりな足運びでステファン大尉とロホについて中に入った。彼が入ってしまうと少佐が後ろでドアを閉めた。もう逃げられない、とギャラガは思った。オートロックの施錠音が聞こえた。短い廊下の突き当たりに広いリビングがあった。少佐が男達を追い越し、歩きながら手で座れと合図してキッチンへ消えた。ロホが彼女を追いかけてキッチンへ入り、ギャラガはステファン大尉がソファに座り、隣を示したのでそこに腰を下ろした。ソファは柔らか過ぎず硬くもなく、落ち着いて座していられる快適さだった。壁に薄型の大きなテレビが備え付けられ、棚には外国の様々な人形が飾られていた。目立つ家具はそれだけだった。バルコニーに面した掃き出し窓のそばの床にシートが敷かれ、その上に分解されたMP5短機関銃が散らばっていた。(ギャラガはMP5だと思ったが自信はなかった。)
 ギャラガが珍しくて室内を見回していると、ステファン大尉が小声で囁いた。

「少佐から”心話”を求められたら、昨晩の様に正直に伝えたいことだけ思い浮かべろ。力むと却って伝えたくないこと迄読まれてしまう。純血のグラダの力は半端ではないぞ。」
「承知しました。」

 忠告されると却って緊張してしまいそうだった。
 その頃キッチンでは2人の客の緊張を他所に、少佐とロホがのんびりした会話を展開していた。コーヒーの支度をしながら少佐がロホに苦情を言った。

「来るなら電話を入れて下さい。化粧をする暇もないじゃないですか!」
「まだお化粧を必要とされるお歳でもないでしょう。」

 お菓子を袋から皿に移していたロホは背中を肘で突かれた。

「あんな若い子を連れて来て・・・」
「カルロの部下ですよ。」
「部下の同伴が必要な任務とは?」
「それは本人から直接お聞きになられた方がよろしいかと。私の私見が入ると良くありませんから。」

 キッチンにコーヒーの芳しい香りが広がった。少佐がロホの右腕を掴んだ。

「綺麗に治りましたね。昨日は縫合が必要かと思いましたが。」
「擦り傷です。家に帰り着く迄に塞がって包帯も不要になっていました。」
「気をつけなさいよ。貴方はいつも終わりに気を抜く悪い癖があります。」
「肝に銘じておきます。」

 少佐が彼の腕を離し、カップにコーヒーを注ぎ入れた。
 2人がリビングに戻ると不思議な緊張感が漂っていた。少佐はすぐにそれが誰の気分なのかわかった。彼女がトレイをテーブルに置くと、ステファン大尉が自分でカップをそれぞれの席に分配して置いた。

「母がお世話になっているそうですね。」

と彼が世間話から始めた。少佐がロホを振り返ったので、ロホが手を振って否定した。

「私は何も言っていません。」
「ムリリョ博士からお聞きしました。」

と大尉が言ったので、ギャラガが「あっ!」と声を上げ、皆んなの注目を集めてしまった。ギャラガは焦った。彼は今になってムリリョ博士が言った「ステファン大尉の母親の面倒を見ているケツァル」が誰なのか悟ったのだ。ドッと冷や汗が出た。大尉が「何だ?」と尋ねた。ギャラガが返答に窮すると、ケツァル少佐が尋ねた。

「この子は誰?」

 ステファン大尉は紹介を忘れていたことに気がついた。失態だ。

「紹介が遅れました。警備第4班のアンドレ・ギャラガ少尉、ブーカ族です。5日間限定で私の下で働いています。少尉、こちらは文化保護担当部の指揮官シータ・ケツァル・ミゲール少佐だ。」

 立ち上がって挨拶すべきか? とギャラガは一瞬迷ったが、誰もが座ったままだったので彼も座ったまま敬礼し、「ギャラガです」と挨拶した。少佐が頷いた。

「ミゲールです。世間ではケツァルで通っています。好きな方で呼びなさい。」

 そして大尉に向き直った。

「用件とは?」

 大尉が少佐の目を見た。少佐も彼に視線を合わせた。いつもの様に一瞬で情報が伝えられた。少佐がコケモモパンケーキを小皿に取った。ロホが忘れ物に気がついた。急いで立ち上がり、キッチンへ歩き去った。大尉が少佐に尋ねた。

「ラス・ラグナス遺跡に行かれたことはありますか?」
「ノ。あることは知っていますが、行ったことはありません。」
「遺跡荒らしの通報もないのですね?」
「聞いていれば調査に行っています。」

 ロホが早足で戻って来た。メープルシロップの容器を持っていた。少佐の家のキッチンで何が何処にあるのか熟知している様だ。シロップをパンケーキにかける少佐にロホが話しかけた。

「ラス・ラグナスを調査しますか?」
「未調査の遺跡の被害状況が分かるのですか?」

と少佐が逆に質問して部下を考え込ませた。


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

ロホは「軍事訓練」で少佐の銃撃をかわしたものの、堤防から滑り落ちた。
少佐が「縫合が必要かと思った」ほどの怪我だから、単なる擦り傷ではなく、切り傷だったのだろう。
結構怪我の多い人だ。

コケモモパンケーキにはメープルシロップより蜂蜜の方が合うかも知れない。知らんけど。

第11部  紅い水晶     19

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