2021/09/04

第2部 地下水路  1

  空間通路を通ったのは、アンドレ・ギャラガにとって初めての体験だった。ほんの一瞬だったが、アンドロメダ星雲と色々な惑星や恒星が見えた・・・と思った。
 いきなり悪臭の中に出た。知っている臭いだ。これは!
 1秒後に後ろに出現したテオドール・アルストに、と言うか、テオの出現によって、彼は前方に突き飛ばされ、汚水の中に落ちた。足元の地面が30センチあるかないかの幅だったのだ。ドボンっと言う水音と、ギャラガの「バスタルド!」と言う叫び声を耳にして、テオは自分がマズイことをやってしまったと知った。
 鼻が曲がりそうな悪臭だ。真っ暗だが、どんな場所なのか彼もわかった。

「大丈夫か、アンドレ?」

 ギャラガは立ち上がった。水は深くない。膝より下だが、まともに顔から落ちたので、全身ずぶ濡れ、汚物まみれだった。

「大丈夫じゃないです。ここは下水道だ!」

 彼の目には石組の長い水路が見えていた。天井が高い。幅もある。セルバ共和国でこんな立派な下水道があるのはグラダ・シティしか考えられない。セルバ共和国だったら、の話だが。
 彼は腕を振って汚物と水を払った。ザブザブ歩いてテオの横に上がった。テオがハンカチを出して、見えないまま彼に向かって差し出した。

「すまん! 横に出れば良かったが、君の真後ろに出てしまったようだ。」
「どんな出方をするのか、その時でないとわかりませんから、貴方が謝ることじゃないです。」

 まるで経験者の様なことをギャラガは言ってしまい、赤面したが、テオには見えなかった。 

「何処かの下水道の様だな。」
「セルバ共和国で下水道設備があるのはグラダ・シティとオルガ・グランデだけだと聞いています。この立派な施設はグラダ・シティでしょう。」
「ここがセルバだったら、だね。ウィーンだったらどうしよう。」
「ウィーンがどうかしましたか?」
「『第三の男』と言う映画を知らないか?」
「ノ。」
「じゃぁ、今の言葉は忘れてくれ。」

 ギャラガは所持品のチェックをした。拳銃が濡れてしまった。身分証は無事だ。セルバ共和国は奇妙なことにパスケースや書類入れなど文具は防水仕様が多い。恐らくバケツをひっくり返した様に雨が塊になって降るスコールや、地図にない場所に突然川が出来たり池が現れたりする土地柄だからだろう。拳銃ホルダーも防水にして欲しかった、と無理な願いを抱きながら、彼はパスケースの水を払った。
 テオが尋ねた。

「カルロか遺跡荒らしがいた形跡はあるかい?」

 ギャラガは左右を見た。石組のトンネルが延々と伸びているのが見えた。天井はアーチ型で、人間が一人やっと通れる歩道らしきものが片側だけ造られていて、彼等はたまたまそこに出たのだ。

「人がいる気配はありません。」

 彼は上着を脱いだ。臭くて着ていられなかった。ジーンズと靴も脱ぎたかったが、これは我慢するしかない。気配でテオが彼が服を脱いだことを知った。

「ここがグラダ・シティなら、後で俺の家に行こう。突き飛ばしたお詫びに、服を進呈する。兎に角、外へ出よう。」

 闇の中では何も見えないテオはギャラガの肩に手を置いて、彼等は歩くことにした。上流へ行くか下流へ行くかと相談していると、上流の方が騒がしくなった。

「何だろう?」

 テオの問いにギャラガは耳を澄ました。

「多分、ネズミでしょう。群れで騒いでいる様です。」
「連中の巣穴に何かが侵入したってことか?」

 テオはステファン大尉に小動物が寄り付かないことを思い出した。

「上流へ行こう。ネズミが騒ぐ場所へ行って見るんだ。」

 ギャラガもその理由を悟った。立ち位置を入れ替わるために彼はもう一度汚水の中に下りて、テオの前に移動した。テオが「グラシャス」と礼を言った。
 水が流れて来る方角へ向かって歩いた。ギャラガの靴の中で水がジクジクと音を立てた。足元がぬるぬるで滑らないよう神経を使わなければならない。所々で細い送水管から地上の汚水が流れ込み、滝になっている場所では飛沫が飛び散っていた。テオもすぐに綺麗な状態でなくなった。壁に体を擦り付けるのも原因だった。

「警護隊の仕事は楽しいかい?」

とテオが話しかけてきた。真っ暗な悪臭の世界にいるので、黙っていると気が滅入るのだ。臭いは多少鼻の感覚が麻痺してきたが、暗闇は目が順応しない。光がないから彼には何も見えない。身軽にと思って携帯ライトをラス・ラグナス遺跡に置いてきてしまったのを彼は悔やんだ。ギャラガは適当に答えた。

「脱走を考えなくて済む程度です。」
「つまらないんだ。」
「そう言う訳じゃなくて・・・」
「文化保護担当部に空きがあるぜ。カルロが抜けたので、人手不足なんだ。」

 それはケツァル少佐の直属の部下になると言う意味だ。そうなれたら光栄だが、絶対に無理だ。

「私は考古学の知識がありませんし、本部の外で暮らした経験もありません。それに能力だって・・・」
「カルロの経験を聞かなかったのか?」
「聞きました。でも私はやっと3日前に”心話”が出来る様になったばかりです。」
「だが、いきなり”通路”で先導をやってのけたじゃないか。立派だぞ。」

 テオの声は耳に心地良かった。

「考古学だって、文化保護担当部の連中は少佐も含めて部を設置してから大学で学んだんだ。通信制で働きながら勉強したんだよ。君だって出来るさ。」
「出来ますか?」
「出来る。俺はグラダ大学の生物学部で働いている。わからないことがあればいつでも来いよ。マハルダだってそうしている。彼女は考古学部を卒業して、今は現代人類学を履修しているんだ。勉強家だよ。」

 テオはグラダ大学の先生なんだ! ギャラガはびっくりした。セルバ共和国の最高学府の先生と一緒に下水道を歩いているのだ。

「ケツァル少佐はこの半年間人手が足りないから補充人員を寄越せと本部へ陳情しているそうだ。だけどカルロが修行を終えたら戻るつもりでいるらしいから、司令部がなかなか新しい人を寄越してくれないと、少佐が俺にこぼすんだよ。」
「貴方は少佐と親しいのですね?」
「まぁ、腐れ縁ってやつだけど・・・俺は一応彼女を口説いているつもりなんだが、彼女はツンデレ女王だから、俺に甘えてくると思ったら冷たくなるし、なかなか落とせないんだ。」

 これまたびっくりだ。伝説のケツァル少佐に白人が求愛している。テオは誰に憚ることもなく堂々と明かしているのだ。

「もし、私が文化保護担当部に入ったら、ステファン大尉が戻る場所がなくなりはしませんか?」
「大丈夫だ。机を置くスペースは余っている。」
「そう言う問題ではなくて・・・」

 突然対岸で汚水の滝の水量が増して、飛沫が飛んできた。テオが英語で「シット!」と叫んだ。正に糞だ。

「ここを出たら、真っ先に熱いシャワーを浴びようぜ!」

 テオが怒鳴ったので、ギャラガは思わず反論した。

「お湯のシャワーがそんなに良いですか?」

 お湯が出るシャワーは金持ちの特権だ。だから、ロホの古いアパートでシャワーからお湯が出た時、ギャラガはびっくりしたのだ。お湯が出るシャワーは常夏の国では必需品ではない。少なくともグラダ・シティや東海岸地方では無用の長物だ。それが一般のセルバ庶民の感覚だった。テオは北の国から来たので、時々お湯のお風呂が欲しくなる。エル・ティティの家は水のシャワーしかない。その代わり町には共同浴場がある。伝統的な蒸し風呂の浴場だ。だからエル・ティティの暮らしに満足している。蒸し風呂がなければゴンザレスをグラダ・シティに引きずって来たかも知れない。

「この汚水はお湯で洗った方が綺麗になるんだぜ。家に帰ったらバスタブにお湯を張って、最初に君を入れてあげるよ。」

  

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