どれだけ歩いたのかわからなかった。時計では午前5時だ。8時間も歩いたのか? テオは空腹を感じた。ギャラガも同じだろう。しかしこの悪臭と汚物まみれの世界で食べ物の想像をしたくなかった。本当にカルロ・ステファンはこの下水道へ来たのだろうか。全く見当外れの場所に来てしまったのではないのか?
疑問に思ううちにいきなり行き止まりになった。細い支流が集まって主管になっているのだった。歩道も行き止まりで、支流は人間が立って歩ける高さではない。その代わり天井から鉄梯子が下りているのがギャラガにはわかった。
「行き止まりです。しかし鉄梯子があるので、上に出られます。」
テオも微かに上から光が差し込んでいる様な気がした。梯子がぼんやり見えた。
「取り敢えず上に上がろう。ここが何処か確認しなければ。グラダ・シティだったら、一旦ケツァル少佐に連絡を取って、俺の家に送ってもらう。見知らぬ場所でも電話が通じれば、何とかなるさ。」
楽観的なテオの意見にギャラガはもう驚かなくなっていた。この人は落ち込むことがないのだろうか。いつも前向きで、だから大統領警護隊文化保護担当部はこの人を守り神だと位置付けているのか。彼等は梯子を上っていった。
グラダ・シティは複雑な街だ。古代都市の上に先住民の町が出来て、そこにスペイン人が植民地を築いた。独立してから近代化が進み、高層ビルが海岸線に並び、オフィス街はピラミッドを超えない高さのビルがひしめき合い、植民地時代の建物を利用した官庁街、商店街、平屋の家屋が建ち並ぶ庶民層の住宅街、瀟洒なコンドミニアムが点在する高級住宅地、それにスラム街もある。
ギャラガが押し上げるとマンホールの蓋は簡単に開いた。幸い朝が早いので車の通りは少なく、石畳の広場に出た。まだ店開きする前の屋台がシートを被って並んでいた。低い家屋の向こうにグラダ大聖堂の尖塔が見えて、グラダ・シティにいるのだとわかった。ギャラガはテオが這い出すのに手を貸した。
「おめでとうございます。グラダ・シティです。」
思わず冗談が出た。テオが苦笑して周囲を見回した。何処だか見当がついた。ポケットから電話を出すと、アンテナが立ったのでケツァル少佐にかけた。午前6時前だった。少佐は起床している筈だ。
5回の呼び出し音の後で、彼女の不機嫌な声が聞こえた。
「ミゲール・・・」
「アルストだ。」
「何か御用ですか?」
当然少佐はテオがラス・ラグナスにいると思っている筈だ。まだデネロスはオルガ・グランデ基地に戻っていないだろう。テオは言った。
「今、ラ・コンキスタ通りとメルカトール通りの交差点広場にいる。アンドレ・ギャラガと2人だ。迎えを頼む。」
少佐が30秒沈黙した。いる筈のない場所から電話をかけて来た彼の、そこにいる理由を考えたに違いない。そして言った。
「部下を迎えに遣ります。」
テオはビニルシートを用意しろと言おうと思ったが、その前にせっかちな少佐は電話を切ってしまった。
泥だらけで立っている2人の男を、街行く人々が胡散臭そうに見ながら通り過ぎた。何処かで体を洗わなければ、とテオは思った。
「水が使える場所が近くにないかな?」
ギャラガが通りの向こうを指差した。
「噴水があります。」
2人は急いで噴水の池に走った。水浴びをしていると警察が近づいて来た。ギャラガは咄嗟に緑の鳥の徽章を取り出して見せた。警察官は、なんで白人が持っているんだ? と言いたげな顔をしたが、君子危うきに近寄らずを決め込み、立ち去った。
泥を落とせたが、臭いは残っていた。日が上って服が乾くのを待っていると、やっと見覚えのあるベンツがやって来た。テオの顔が綻んだ。
「ヤァ、少佐自らお出ましだ。」
え? とギャラガは仰天した。
少佐のSUVが目の前に停車した。出勤前のジーンズにTシャツ姿のケツァル少佐が下りて来た。テオが彼女に駆け寄ろうとすると、彼女が両手を前に突き出して制止した。
「来ないで下さい。あなた方臭いですよ。」
「洗ったんだが、まだ臭うか・・・」
テオは自分の腕を嗅いでみた。ギャラガが少佐の顔を見た。彼の動きに気がついて、少佐が彼の目を見た。ギャラガは昨晩の出来事から噴水で体を洗うまでのことを思い起こした。一瞬と言う訳ではなかったが、状況を彼女に伝えることに成功した。そして彼の頭に少佐の声が聞こえた。「わかった」と。彼は敬礼した。少佐が頷いた。
彼女は携帯を出して何処かに電話をかけた。テオはロホにかけたのかと思ったが、違った。彼女は先住民言語で早口に何かを誰かに伝え、それから電話を切ると、男達について来いと手で合図した。
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