2021/12/07

第4部 忘れられた男     6

  市営病院は初代院長の名前でも付いたのか、ブルノ・リベロ病院と言う名前だった。ロカ・ブランカではちょっと腹痛や頭痛したぐらいでは病院に行かない。町の薬局(と言えるのかわからないが)で薬を買って飲むだけだ。病院へ行くのはお産か重症患者だけだった。しかしそれは単に町と病院の距離が遠いからと言う理由だけのようで、実際に病院のロビーに入ると市民が普通に待合で順番待ちをしていた。決して診療費が高い訳ではないのだろう。市営病院だから、グラダ大学の大学病院の様な高度な技術はないかも知れないが、まともな医者がまともな診療を行っている様だ。
 テオはバス事故から救出されて入院していたエル・ティティの病院を思い出した。田舎の小さな町の小さな病院だったが、親身になって治療をしてくれた。唯一人の生存者だったテオを必死で看護してくれた。今でも時々彼は思う、自分が遺伝子分析学者ではなく、アリアナの様に医師免許を取って患者を診る遺伝病理学者であったならば、彼女の様に方向転換して臨床医になってエル・ティティの町に恩返し出来たのに、と。
 ロカ・ブランカの警察とは町から出る時にお別れしたので、病院での面会交渉は憲兵隊が行った。生存者はまだ眠っているが、容態は落ち着いたので間もなく目が覚めるだろう、と医者は言った。それで、先に冷蔵保存されている遺体の方を見ることにした。
 テオはミイラをたくさん見た経験はあるが、生の死体はない。少なくとも、意識してじっくり見た経験がない。死体安置室へ案内される時、彼はケツァル少佐に囁いた。

「俺が部屋から逃げ出しても笑わないでくれないか?」

 少佐が眉を上げて彼を見た。そして囁き返した。

「私が幽霊を見て逃げ出しても追わないで下さいね。」

 それで彼は少しだけリラックス出来た。
 死体安置室は地下にあり、薄暗くて、嫌な臭いが漂っていた。憲兵隊が首元に常に巻いているスカーフを鼻の上へ引き上げた。病院職員が言い訳した。

「換気扇がハリケーンで故障してしまってね・・・」

 シーロ・ロペス少佐はハンカチを出してお上品に鼻を押さえ、ケツァル少佐はスカーフをポケットから出して顔に装着した。テオも仕方なく皺だらけのハンカチを出して鼻を押さえた。
 室内は冷んやりとしていた。アメリカの様な遺体冷蔵保存用の引き出しがある訳でもなく、2体の遺体が台の上に並べて横たえられ、シートをかけられていた。職員が右側の遺体の前に立った。

「こっちが、漂着した時に既に死んでいた人です。救命筏の中に乗せられていました。救命胴衣を着けていましたが、頭部に傷があり、船から乗り移る時に怪我をして亡くなったものと思われます。他に外傷はありません。」

 シートを捲って顔を見せた。アフリカ系に見えた。まだ若い。30代前半だろう。

「発見時の服装は?」

 アウマダ大佐が尋ねた。職員が部屋の隅っこに重ねて置かれた衣類を見た。白っぽいグレーの作業服に見えた。蛍光色のラインが腕や肩の部分に入っている。同じ服が3人分あったので、もう1人の遺体と生存者も着ていたのだとわかった。
 ロペス少佐が遺体のシートをさらに捲る様に合図して、それから手袋を要求した。職員が薄いラテックスの手袋を客に配布した。テオは、それならマスクもくれれば良いのに、と思ったが黙っていた。職員は自分だけマスクをしていたのだ。
 手袋をはめたロペス少佐は遺体の手を眺めた。憲兵が彼の横に来て、一緒に眺めた。

「船乗りの手に見えますが?」

とムンギア中尉が感想を述べた。少佐と大佐が頷いた。力仕事をしていた手だ。
 次の遺体は前日に死んだ人だ。こちらはメスティーソで、やはり若かった。外傷はなかったが、全身ずぶ濡れで低体温症で亡くなったのだ。ロペス少佐はこの遺体の手も眺め、それから自分の手を見て、隣にいたムンギア中尉の手をいきなり掴んで眺めた。ムンギア中尉がギョッとした。テオは笑いそうになって堪えた。ロペス少佐は今完全に大統領警護隊の士官モードに入っており、”ティエラ”の将校は格下と見做しているのだ。彼は中尉の手を離すと言った。

「この遺体の男は、銃を扱い慣れていた。」


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