彼の名前を誰も知らなかった。どこから来たのか、何の仕事をしていたのか、そこから何処へ行くつもりだったのか、知っている者は1人もいなかった。彼は、ルート43号線がティティオワ山を上って行く中程の崖から転落したバスの乗員乗客38名の中の、唯1人の生存者だった。左大腿骨骨折と全身打撲、無数の挫創を負っていたが、彼は奇跡的に生き残り、救助された翌日には意識を取り戻した。しかし、彼の記憶は失われていた。
彼の所持品はバスと共に焼けてしまっていた。彼のボロボロになった衣服には、彼の身元を示す物が何一つなかった。身分証、運転免許証、パスポート、診察券、彼の名を知る手がかりは一つもなかった。唯一、彼のズボンの尻ポケットに入っていたシワクチャの名刺らしき紙片には、”ミカエル・アンゲルス”と印刷されていた。地元警察は彼の顔写真と名刺を新聞に掲載してみたが、彼の身元を判明させる有力な情報は一つも得られなかった。
エル・ティティ警察の署長アントニオ・ゴンザレスは彼に”ミカエル・アンゲルス”と仮の名を与え、傷が癒えた彼を自宅へ連れ帰った。ゴンザレスは2年前に妻子を流行病で亡くし、一人暮らしだった。ミカエルは通人よりも早く回復して、ゴンザレスの家の家事を手伝い始めた。エル・ティティの住民は多くが先住民の血を引くメスティーソだったが、ミカエルは白人だった。ゴンザレスの勘では北の国から来た人間だろうと思われたが、ミカエルは流暢にスペイン語を話し、読み書きも出来た。仕事は真面目で丁寧、性格は明るく素直で、ゴンザレスはこの若者がすぐに好きになった。病気で亡くなった息子が帰って来たような気がした。彼の孤独で味気なかった生活に小さな灯りが灯った様だった。
ゴンザレス家は決して大きくない。10分もあれば掃除は完了する。掃除の後は洗濯で、手洗いだが男2人の服など量が知れているから、これも大して時間はかからない。ミカエルは川で洗濯をして、庭に衣服を干したら直ぐに暇になった。脚が完治するまで何もしなくて良い、とゴンザレスは言ってくれたが、己の食費ぐらいは己で稼ごうと彼は思った。それで街に出かけた。
エル・ティティは小さな町だ。ティティオワ山のなだらかな斜面にへばり付いている貧しい町だ。主力産業はバナナ栽培、狭い耕地に芋やトウモロコシを栽培して細々と暮らしている。この町が抱える最大の社会問題は仕事がないことだった。だから他所者に働く場はないと思われたが、ミカエルは算術も読み書きも出来た。それで町で唯1人の会計士ホセ・カルロスの助手になった。難解な文章を作成することも、パソコンを使うことも、客に法律を解説することも出来たので、カルロスに重宝がられた。町長までが彼に書簡の代筆を頼みに来たので、気がつくとミカエルは町の代書屋になっていた。病院から退院して一月経つ頃には、彼は何人か顧客を持っていた。収入は現金より農作物や生活用品などの現物が多かったが、ゴンザレスは満足し、良い拾い物をした気分になっていた。ミカエルには内緒だが、このまま彼の記憶が戻らず、身元不明のまま、この街にいてくれたらなぁと思い始めていた。このまま2人で暮らして、ミカエルを養子にして、嫁を迎えてやって・・・と彼は勝手な夢を抱くようになった。
しかし、ミカエル・アンゲルスは決して現状に満足していなかった。エル・ティティでの生活は楽しかったが、己の身元が不明なままと言う状況は彼を不安にさせた。全てが明らかになった上でこの町で暮らせたら、どんなに心がスッキリするだろうか。身元判明の手がかりが一切ないこと、誰も彼を探しに来ないことが、彼を落ち着かせなかった。自分は親兄弟も友人もいない人間だったのだろうか。犯罪者ではなかったのか。ここにいることが、ゴンザレスや、仲良くしてくれる町の住民達に災難をもたらしはしないだろうか。
そしてある日、彼の下に訪問者があった。
2021/06/10
記憶喪失の男 1
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冒頭のページ。一番大事だと思うが、主人公の現況の説明だけに終わって、退屈な文章になってしまった。
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