2021/06/14

記憶喪失の男 11

 ミカエルが大統領警護隊のジープに乗って屋敷を出るのを、バルデスは引き留めなかった。 ミカエルは車が屋敷から遠ざかると気持ち悪さが軽くなった気分になり、バルデスから聞いた話をケツァル少佐に話そうかと考えた。しかし横を見ると彼女は前を向いたまま腕組みして何か深い考え事をしている様子だった。盗掘品密売をしている女の行方を考えているのだろうか。それともアンゲルス邸の2階に件の女が隠れていると疑っているのだろうか。それから彼自身のことに思考を戻した。バルデスからドクトルと呼ばれる俺は医者なのだろうか。それとも何か別の研究者なのか。先住民に興味を抱いていると言うことは、人類学者なのか。”空の緑”って何だ。
 前部席の年少の兵士が不意に溜息をついた。運転席の兵士がチラリと助手席を見た。

「ケ パサ?」(どうかしましたか)

 少佐が誰にともなく質問した。助手席の兵士が答えた。

「彼の思考が読めません。」

 彼? 俺のことか? ミカエルが後ろから見つめると、助手席で舌打ちする音が聞こえた。運転席の兵士が囁いた。

「落ち着け。」

 ケツァル少佐がミカエルに顔を向けた。

「バルデスは貴方の身元がわかる様なことを言いましたか。」

 ミカエルは正直に話すことにした。己の正体が何なのかまだ不明だが、常識で考えればバルデスより大統領警護隊の方が「正義」だ。

「バルデスは俺をドクトルと呼んだ。医者なのか、何かの研究者なのか、それは判らない。名前は言わなかったので、まだ俺はミカエルのままだ。俺は2ヶ月前に行方不明になったそうだ。それはバス事故の時期と合うから、本当だろう。ドクトラ・ダブスンと呼ばれる女性が俺を探して大使館に届けを出したらしいが、見つからなかった。ダブスンは北米の人間だ。俺は・・・」

 ミカエルはちょっと迷ったが、少佐がまだ見つめているので正直に語った。

「純血の先住民を欲しがっていた、とバルデスが言うんだ。彼は貴女が本物の”空の緑”だったら俺が食われちまうと心配していた。」

 まだ少佐が見つめているので、彼は笑って見せた。

「笑っちまうよね。どうして俺がインディオを欲しがるんだろう。その辺に大勢いるじゃん? それに”空の緑”って何? インディオの部族名だと思うけど、俺にはさっぱり判らないんだ。どうして君が俺を食っちまうんだ?」

 ケツァル少佐が溜息をついてへ向き直った。ミカエルは彼女もバルデス同様何か彼の正体について知っているのではないかと思った。少なくとも、何か手がかりに心当たりがあるのではないか。

「俺は何者なんだ、少佐、知っているんだろう? 教えてくれよ。俺は君達の敵か? それとも味方か? 犯罪者か? それとも唯のバカな旅行者か?」
「停めなさい。」

 少佐が運転手に命令した。ジープが砂埃の中で停車した。少佐がまた彼に向き直り、その日初めてまともに彼の目を見た。

「どうして私が貴方の正体を知っているのです。私はエル・ティティで初めて貴方の存在を知ったのです。貴方が敵か味方かなんて知りません。」
「だけど・・・」
「約束通りに貴方がネズミの神像を探す手伝いをしてくれたら、私は貴方の身元を調査するつもりでした。けれど、バルデスは貴方のことをよく知っている様です。今なら歩いて屋敷に戻れます。ここで降りて下さい。」

 ミカエルは、あの屋敷の気持ち悪さを思い出した。いくら身元判明の手掛かりがあっても、あの場所に戻りたくなかった。彼は前部席の兵士達を見た。彼等は味方してくれない。それどころか、少佐の命令一つで彼を砂漠の中に放り出すだろう。

「俺はあの屋敷に戻りたくないんだ。あそこは気持ち悪いんだよ。だから、君達に俺の身元調査を頼みたい。バルデスは信用出来ない気がするんだ。頼むよ。」

 心からそう言った。必死の思いで言った。
 少佐は前に向き直った。そして運転席に声をかけた。

「アルメイダの家へ。」


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

”ヴェルデ・シエロ”は普通人間の思考を読んだりしないが、ここではアスルがシオドアの頭の中を読み取ろうとして失敗している。
彼等は本当は人間の思考を読めるのだが、礼儀を守って読まないだけなのかも知れない。

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