2021/06/13

記憶喪失の男 10

「一体どう言うつもりなんだ、ドクトル?」

 バルデスが遠ざかって行くケツァル少佐を見ながら囁いた。3枚目のパンケーキを食べていたミカエルは、最初彼が誰に話しかけているのかわからなかった。だが食堂内にいるのは、彼とバルデスだけだ。俺のことか? ドクトルって、俺は医者か?
 バルデスが続けた。

「2ヶ月も姿を消して、皆んなを散々心配させた後で、ロス・パハロス・ヴェルデスの少佐なんぞ連れてひょっこり現れるなんて、冗談きついぜ。」

 ミカエルはドキっとした。バルデスは彼の正体を知っているのだ。だが知らないフリをしていた。彼の正体をケツァル少佐に知られると困ると言うことなのか? ミカエルは何とかしてバルデスの口から彼の本名を引き出そうと試みることにした。

「ちょっと道草を食っていたんだ。皆んなが俺を心配していたって?」

 誰も探しに来なかったじゃないか、とミカエルは内心苦々しい思いで言った。ゴンザレス署長は新聞広告まで出してくれたのだ。
 バルデスはまだ庭を見ながら言った。

「ドクトラ・ダブスンは大使館に届けを出してあんたを探してもらったんだ。だが、あんたも知っての通り、この国じゃ外国人が行方不明になっても警察は真剣に探さない。大統領警護隊を動かさないことには、警察も軍隊も捜索してくれないんだ。だが、あんたの研究は"空の緑”に知られちゃマズイ。だから私は組織を動かせなかった。ドクトラにはできる限り手を尽くすと言い含めて北へ帰ってもらった。それなのに、あんたと来たら、警護隊の少佐なんぞと一緒に暢気に朝飯食いにやって来やがって!」

 バルデスはミカエルの本名を言わなかった。だが、ミカエルは、彼が何か物凄く重要な言葉を口に出したような気がした。
 ドクトラ・ダブスン? 誰? 大使館? 違う。大統領警護隊でもない。”空の緑”・・・何だ、それは・・・?
 一瞬、何かが彼の記憶の底にあるものを突きかけた気がした。

「”空の緑”に知られないよう、行動していたんだ。」
「冗談だろう。あんたが連れてきた少佐は”ラ・パンテラ・ヴェルダ”の異名を持つ。”空の緑”だ!」

 緑の雌豹 だって? ミカエルは頭がこんがらがってくる気分だ。しかしまだバルデスは彼の本名を教えてくれない。彼は粘った。

「彼女は素敵じゃないか。先住民の美女だ!」
「確かにあんたが欲しがっていた純血種の先住民だ。だが、本物の”空の緑”だったら、あんたが食われちまうぜ。」

 俺が何を欲しがっていたって? 何故俺がインディオを欲しがるんだ? だから、”空の緑”って何なんだ? 俺は人身売買でもしていたのか?
 ミカエルは食欲が失せた。喉が乾いたのでオレンジジュースをがぶ飲みした。
 バルデスがミカエルの本名を口にする前にケツァル少佐が戻って来た。テーブルのそばに来るなり、要請した。

「2階に立ち入る許可をもらっている使用人がいる筈です。会わせて下さい。」

 何故2階にこだわるのだろう。バルデスは苦虫を潰した様な顔になり、給仕を呼んだ。やって来た給仕に何やら囁くと、給仕も彼に囁き返した。バルデスが頷くと、給仕はそそくさと壁際へ身を退いた。バルデスが少佐に向き直った。

「マリア・アルメイダと言う女が2階の係ですが、昨日から休んでいます。」
「通いですか。」
「スィ。」
「何処に住んでいますか。」
「会われるつもりですか?」
「スィ。ここを出ると直ぐに行きます。」

 バルデスが溜息をつき、再び給仕を呼んだ。女中の住所を調べろと命じられ、給仕は足早に厨房へ消えた。
 少佐が椅子に座ったので、バルデスが改めてコーヒーを勧め、彼女はやっとそれに応じた。つまり、ここでの仕事は一旦終わりなのだ、とミカエルは悟った。彼は少佐に尋ねた。

「朝飯は食わないのか?」

 少佐がアホなことを訊くなと言いたげな顔をして答えた。

「軍隊の朝は早いのです。」


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

バルデスは大統領警護隊が”ヴェルデ・シエロ”の軍隊であることを知っている。
これはセルバ人なら常識なのだ。
だからマフィア的な組織の実力者でも逆らわない。

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