2021/06/14

記憶喪失の男 12

 マリア・アルメイダの家がある地区はオルガ・グランデの街でも低所得層が住む所だった。市街地を挟んで富裕層の地区と向かい合うように山の斜面にへばりついている。対面の斜面より勾配がきつく、どの家も小さく、煉瓦で造られている家はまだマシで、板を並べているだけの家や遺跡の様な石を積み上げて板の屋根を載せただけの家などが並んでいた。
 大統領警護隊のジープは狭い九十九折の坂道を排気ガスを吐きながら上って行った。ミカエルは、少佐以下2人の兵士が市街地に入る頃から野戦帽をベレー帽に換えたことに気がついた。深い緑色のベレー帽だ。セルバ共和国陸軍の将校である印だ。前部席の2人はやはり将校だった。星の数から推測するに、運転席の男が中尉で助手席の年下の方が少尉だろう。緑のベレー帽にはそれなりの権威があるようだ。市街地でもスラムでも、対向車の運転手はジープの上の兵士が何者か直ぐわかるらしく、車を脇に寄せて道を譲った。歩行者もラバに引かれた荷車も慌てて道を譲る。ジープは殆ど停車することなく市街地を横断し、貧しい家が並ぶ斜面の区画へ入って行ったのだった。
 ジープが通り過ぎると人々がその後ろをついてきた。好奇心だ。噂でしか聞いたことがなかった大統領警護隊がやって来た。何をしに来たのだろう。誰の所へ行くのだろう。そんな好奇心だ。仕事がないから、ジープの後ろをついて歩いても文句は言われない。
 何処にも番地など表示されていなかったが、ジープはあるカーブを曲がった所で停止した。助手席の少尉が見物人に尋ねた。

「マリア・アルメイダの家は何処だ。」

 数人が近くの小屋を指さした。軍人は素直に「グラシャス」と礼を言った。
 少佐が降車したので、ミカエルも続いた。少尉も降りて2人の後に続き、中尉は外に出たものの車から離れずに残った。
 アンゲルス邸で女中をしているマリア・アルメイダの家は周囲の家と同様に石壁に板屋根を載っけた簡単な造りだった。冬は寒いだろうとミカエルは想像した。燃料になる樹木など生えない土地だ。化石燃料だって値が張るだろうし、だからこの地方の人々は厚着だ。アルメイダの家から赤ん坊を抱いた年配の女性が出てきた。既に住民の誰かが来客を告げたのだ。皺の深い彼女の顔を見て、ミカエルは女中奉公をしているのはこの人じゃないと思った。赤ん坊は孫なのだろう。女性が少佐におずおずと挨拶した。

「ブエノス・ディアス。」

 少佐が丁寧に挨拶を返した。

「ブエノス・ディアス、セニョーラ。マリア・アルメイダに会わせていただけますか。」

 年配の女性は困ったと言う表情を見せた。

「娘は昨日から病気で臥せっています。」
「彼女からお伺いしたいことがあります。病気は重いのですか。」
「熱が下がりません。明日も下がらなければ呪い師を呼ぼうかと思っています。」

 医者に懸かるお金がないのだ。ミカエルはアンゲルスが使用人にちゃんと給料を支払っているのかと疑問を感じた。
 ケツァル少佐が女性に顔を近づけて囁いた。

「マリアに会わせて下さい。病気は治ります。」

 何を言っているんだ? ミカエルが訝しげに少佐を見ると、女性は驚いた様に少佐を見つめ、それから彼女を小屋へ誘った。ミカエルもついて入った。小屋の入り口に少尉が立ったが、中には入らず、外の住民達の方を向いた。中を覗くな、と無言で周囲に伝えた。住民達が小屋から離れ、道の反対側で成り行きを見守る様に立った。
 ミカエルは、もしドクトルが医学博士の意味なら己も少しは役に立つだろうと思った。しかしハンモックの上で荒い息をしながら目を閉じている痩せた女を見ても、何をどうして良いのかわからなかった。少佐が病人の上に体を屈み込み、様子を伺った。そして母親に言った。

「外へ出て下さい。直ぐに終わりますから。」

 赤ん坊を抱いた女性は言われた通りに小屋から出て行った。
 ミカエルは病人を眺めた。

「伝染病じゃないだろうな?」
「違います。」

 ケツァル少佐が自分の服の胸元に手を入れ、黒いビーズのネックレスを引き出した。軍人がそんな装飾品を身につけていることにミカエルは驚いた。十字架だったら違和感がないのだが・・・。
 少佐がネックレスを外して、マリア・アルメイダの手に握らせた。気のせいだろうか、ミカエルはマリアの体からモヤモヤとした煙の様なものが立ち昇るのを目撃した。煙は白かったが、濁った感じで、直ぐに空中に溶けて見えなくなった。
 マリアが大きく息を吸い、目を開いた。少佐が優しく話しかけた。

「マリア、私はケツァルと言う者です。今の気分は如何ですか?」
「苦しかったのが、楽になりました。何だか悪い夢を見ていた様な・・・」
「いつからああなりました?」
「初めて旦那様のお部屋に入った時からです。」
「それは何時のことでしたか?」
「一月前・・・」

 マリアがゆっくりと体を起こした。ハンモックから降りるのを、ミカエルは手を貸してやり、椅子に座らせた。少佐が土間の隅にあった水瓶から水をコップに汲んで彼女に与えた。マリアが喉を潤すと、少佐の質問が再開された。

「貴女はアンゲルスの部屋の担当なのですね。」
「スィ。」
「何時雇われました?」
「一月前です。」
「アンゲルスに会ったことはありますか。」
「ノ。一度もありません。」
「他の使用人はどうです?」
「旦那様のお話は禁じられていました。でも・・・」

 マリアは戸口をそっと伺ってから、囁いた。

「2ヶ月前から誰も旦那様を見かけたことはないそうです。」

 2ヶ月前だって? ミカエルはドキリとした。バス事故と何か関係があるのか?
少佐が質問の中心を変えた。

「アンゲルスの部屋にネズミの石像がありませんでしたか?」

 彼女は石像の大きさを手で示した。

「大きさはこれぐらい、灰色の石で出来ていて、背中に翼があります。風化してただの石に見えるかも知れませんが。」
「ありました。」

 マリアが身震いした。

「旦那様のお部屋の机の上にありました。ネズミには見えませんでしたが、人形の様な石の塊でしたら、確かにありました。何か・・・肉が腐った様な嫌な臭いがして気持ちが悪かったので、旦那様のお部屋のお掃除は出来るだけ早く済ませる様にしてました。あの・・・」

 彼女が怯えた目で少佐を見た。

「悪魔でしょうか? 私の前にいた女中は亡くなったと聞いています。私は呪われたのでしょうか?」

 ミカエルは、初めて少佐が優しく微笑むのを見た。とても美しい微笑みだった。作り笑いでなく、心からマリア・アルメイダを労って微笑んだのだ。

「呪いは解けました、マリア・アルメイダ。でも、その黒いネックレスはこれから3日間、必ず身につけていなさい。4日目の朝に火に焼べて燃やしてしまうのです。必ず言いつけを守って下さい。わかりましたね?」
「スィー! 言いつけを守ります。」

 マリア・アルメイダは少佐の手を取って甲に口付けした。

「グラシャス、セニョーラ・ケツァル。」
「セニョーラではなく、少佐です。」
「グラシャス、少佐。グラシャス、ヴェルデ・シエロ。」

 ミカエルはハッとしてマリアを見つめた。ヴェルデ・シエロ? ”空の緑”?
 少佐がマリアに言い含める様に囁いた。

「私に礼を言うのは筋違いです。ネックレスを作ったのは、ママコナです。」

 マリアが黒いネックレスを胸元に推し抱いた。

「心からママコナに感謝します。」

 何だろう? これは芝居か? それとも俺は本当に奇跡を見たのか? ミカエルは戸惑いながら小屋の中の光景を見つめていた。
 少佐が小屋から出て行こうとして、何かを思い出した。振り返ってマリアに言った。

「アンゲルスの屋敷で見た物を語ってはいけません。誰かに語れば災いが降りかかりますよ。」
「わかっています。」

 まだマリアは感激で目を潤ませていた。

「旦那様のお部屋の話も、ネックレスのことも、貴女が助けて下さったことも、誰にも話しません。セルバの掟を守ります。」

 少佐が頷き、ミカエルに出ろと手で合図した。

1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

少佐が奇跡を行った様なシーン。
勿論、奇跡ではなく、ママコナの除霊能力を込められたネックレスでマリア・アルメイダに降りかかった悪霊の息吹を祓っただけです。
少佐がネックレスを身につけていたのは、「念の為」で、彼女自身がママコナに頼っていた訳ではない。

アンゲルスの屋敷で見たことを外で語るな、と少佐がアルメイダに言ったのは、アンゲルス暗殺を石像の呪いで行ったバルデスから彼女から守る為で、悪霊から守る意味ではない。
しかしアルメイダはバルデスの企みを知らないので、悪霊から身を守る為と解釈している。

オルガ・グランデの貧民街のシーン。
そこはカルロ・ステファンの故郷である。

第11部  紅い水晶     12

  カサンドラの父ファルゴ・デ・ムリリョ博士が彼女に「山で変わったことはなかったか」と尋ね、姪のアンヘレス・シメネス・ケサダが「ホテルに悪い気が漂っている感じ」と言った。カサンドラは不安になったが、姪にそれを気取られぬよう用心して、その夜は何事もなく過ごした。  翌朝、朝食の席に...