2021/06/15

記憶喪失の男 13

  帰りの車中は静かだった。勿論往路だって静かだったが、帰路は野次馬がついてこなかった。急な下り坂を降りて行くジープにぶつかるまいと人々が跳び退く様をミカエルはぼんやりと見ていた。路面の古い石畳は凹凸が激しく、往路よりも車は大きくバウンドし続けた。しかしハンドルを握る中尉は速度を落とすことなく、一定のスピードで運転を続けた。ミカエルはケツァル少佐に質問したいことがあったが、うっかり口を動かすと舌を噛みそうなので黙っていた。
 少しずつ道路両側の家々が大きくなって、地面が平になる頃に、少佐がベレー帽を取って上着のポケットに押し込めた。それでミカエルはやっと言葉を発した。

「次は何処?」

 少佐が振り向かずに答えた。

「セラードホテル。」
「え? 俺は用済み?」
「何か出来ることでもあるのですか?」

 そう言われると、何も思いつかない。だから別の質問に切り替えた。

「さっきの女性は本当に病気だったのかい? 君がネックレスを掴ませたら、彼女から煙が出て行った様に見えたけど。」

 いきなりジープが停止したので、ミカエルは危うく前の運転席の中尉に頭をぶつけるところだった。同じく助手席の少尉にぶつかりそうになって、少佐が怒鳴った。

「テン・キダード!」(気をつけろ!)
「ロ・シエント!」(すみませんでした!)

 運転席の中尉が前を向いたままで謝った。少尉も彼に苦情を言ったが、ミカエルの知らない言語だった。だが怒っていることは、はっきりわかった。背後でクラクションが聞こえた。ミカエルが振り返ると、背後に数台が急停止していた。これが都会並みに交通量があれば確実に二重三重の追突事故になっていただろう。
 出せと言われる前に、中尉はジープを発進させた。少佐がミカエルに尋ねた。

「首は大丈夫ですか?」
「うん、どうにか無事だ。一体、どうしたんだ?」

 後半は中尉に尋ねたのだが、少佐が答えてくれた。

「貴方が、マリア・アルメイダの体から煙が出るのを見たからです。」
「はぁ?」

 それが何か、と尋ねる前にホテルの前に到着した。少佐が言った。

「今夜、お食事を一緒にいかがですか。」

 ちょっとびっくりだ。愛想のないケツァル少佐がデートに誘ってくれている。ミカエルは、スィ と答えてから、ある問題に気がついた。

「俺はこの服しか持っていない。君が何処へ連れて行ってくれるのか知らないが、女性と一緒に出かけるのにふさわしい服装は無理だ。それに今夜の宿代もないし。」

 少佐が溜息をついてポケットから紙幣を数枚出した。この女性は財布を持っていないのか? ミカエルは彼女が紙幣を数えるのを眺めながら、何となく常識とズレている軍人達は本当は何者なのだろうと考えた。
 少佐からお金を受け取ったミカエルがジープから降りると、彼女は「では1700時に」と言い置いて、部下達と共に走り去った。
 ミカエルは紙幣をポケットに押し込み、一旦ホテルに入った。フロント係は彼を覚えていて、前払いすると昨晩と同じ部屋の鍵を渡してくれた。それからホールの片隅を顎で指した。

「あいつはどうなさるんです?」

 ミカエルがそちらを見ると、リコが小さくなって床に座り込んでいた。捨てられた犬みたいに情けない表情でこちらを見ているのだ。ミカエルがついて来いと合図すると立ち上がってやって来た。

「セニョール・バルデスに会ったんですか?」
「スィ。朝飯をご馳走になった。」
「前からのお知り合いで?」
「まぁ・・・そうだな。」

 昼休みに入る前の店でジャケットと新しいシャツとパンツを買った。リコが値引き交渉してくれたので、所持金が少し残り、それでリコと2人で昼食を取った。食べながら、旦那ことミカエル・アンゲルスに会ったことがあるかと尋ねると、リコは遠くからなら見かけたことがあると答えた。

「だけど、半年前だったし、それっきりでさぁ。今じゃバルデスが屋敷も会社も仕切ってるって話です。」

 リコはテーブル越しに顔を近づけて囁いた。

「噂じゃ、アンゲルスの旦那はもう生きちゃいねぇかもって・・・」

 ミカエルはアンゲルス邸で感じたあの嫌な感覚を思い出した。そして奇妙な病気に罹っていた女中のマリア。あの屋敷には何か禍々しいものが存在する。
 
「なぁ、リコ、今日は耳慣れない言葉をいくつか聞いたんだが、意味を教えてくれないか。ママコナとか、”空の緑”とか・・・」
「しっ!」

 いきなりリコが怖い顔になって、口の前で両手の人差し指を交差させた。

「白人のあんたがそんな言葉を口にしちゃいけねぇ。」
「しかし・・・」
「セルバではタブーの言葉がある。知っててもこんな大勢の人がいる場所で言っちゃ駄目だ。」

 彼は周囲を警戒するように見回した。

「バルデスやアンゲルスの旦那達よりおっかねぇ連中が、この国にはいるんだよ。」


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

大統領警護隊の隊員達は、シオドアが普通の白人ではないと気がつき始めます。
シオドア自身には自覚がないので、彼等が何に驚いたのかもわからない。

少佐が財布を持たない理由・・・戦闘時に落とすと困るから。

正統派セルバ人のリコは、誰が一番国内で力があるか知っています。

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