2021/06/15

記憶喪失の男 14

 ミカエルはシャワーを浴びて全身の汚れを洗い落とした。砂埃を落とすと体が軽くなった気分だ。エル・ティティの町は貧しいが、ゴンザレス署長の小さな家にはお湯が出るシャワーがあったし、町には共同浴場があった。石で出来た蒸し風呂と水の浴槽だ。オルガ・グランデのホテル住まいより清潔でいられた。ミカエルは早くもホームシックになりそうな気がした。このまま身元が判明しないでエル・ティティに帰ることになっても良いや、と言う思いと、否、やっぱり全てはっきりさせて心配することがない状態でエル・ティティに帰るべきだと言う考えが彼の胸を交錯した。
 午後5時きっかりに中尉がジープでやって来た。彼も新しい軍服に着替えているが、野戦服だ。彼はまだベレー帽を被っている。

「お昼のことはすみませんでした。」

と礼儀正しく中尉が急停止を謝った。ミカエルは手を振った。

「いいよ、怪我しなかったんだから。だけど、君は何に驚いたんだい?」

 ハンサムな先住民の若者が、困ったと言いたげな表情をした。

「貴方に”あれ”が見えたからですよ。」
「”あれ”?」

 しかし彼はそれ以上説明してくれなかった。

「少佐がお待ちです。乗って下さい。」

 ミカエルは彼が後部席を指したので、仕方なくルーフレスのジープの後部席に座った。

「君達は何処から来ているんだ?」
「オルガ・グランデ基地です。」
「基地があるのか・・・」
「街からは見えません。西のメサ(丘)の向こうです。飛行場もありますよ。」
「空軍?」
「陸軍と空軍兼用です。北米に比べればチャチな基地ですけどね。」

 中南米の人々は北米を単純に「アメリカ」と呼ぶことを好まない。中南米だって「アメリカ」なのだ。だから、北の国を指す時は必ず「北」を付ける。そして中尉が言った北米は、アメリカ合衆国とカナダを意味するのだろう。

「大統領警護隊は陸軍に属するのかな。」
「陸軍でも空軍でもありません。海軍でもない。」
「独立部隊か。」
「でもいざとなれば3軍を指揮出来ます。」

 へぇ! とミカエルが感心しているうちにジープは、恐らくオルガ・グランデで一番大きなホテルの駐車場へ入った。田舎に不似合いな高級車が並ぶ一角に、ジープが停車した。中尉が何処へ行くべきか教えてくれたので、ミカエルは礼を言って降車した。こんな場合、チップは必要だろうか。しかし中尉は車内でリラックスした姿勢を取り掛けていて、ミカエルがそのまま歩き去っても気にしない様子だ。
 歩きかけてミカエルは振り返った。

「君の名前を教えてもらって良いかな?」

 中尉が雑誌を出して広げながら言った。

「ロホ(赤)と呼んで下さい。相棒はアスル(青)です。」

 勿論本名ではない。だがミカエルも本名ではない。だからミカエルはそれで満足することにした。
 ホテルの野外レストランに歩いて行くと、入り口にアスルと呼ばれた少尉が立っていた。流石にアサルトライフルは持っていなかったが、拳銃を装備していた。近づいて来るミカエルを嫌そうに見て、それからレストランの人間を呼んだ。やって来たウェイターに、ミカエルを少佐のテーブルに案内するよう言いつけた。ミカエルに挨拶をしてくれなかった。それでもミカエルは「ヤァ」と声をかけて、ウェイターに誘導され、店内に入った。
 松明と地面に置かれたライトでムードアップされた店で、プールと植え込みがインテリア代わりになっていた。ケツァル少佐は肌の露出が少ないイブニングドレスを着ていた。それでも胸の豊かさは隠せないな、とミカエルは嬉しかった。化粧も綺麗にしているし、髪も邪魔にならないよう結っている。アクセサリーは小さな耳ピアスだけだった。
 ミカエルは席に着くと、メニューを渡された。エル・ティティでは食べられない高価な料理だが、何を選ぶべきか何となくわかった。ワインも彼の選択を少佐が喜んでくれた。多分、記憶を失う前の俺はこう言う店に頻繁に通っていたんだ、と彼は感じた。

「何か思い出せましたか?」

と少佐が尋ねた。

「ノ。多分、俺はこんな店に行き慣れているとか、あれは食べたことがある、とかそんなどうでも良いことは思い出せるけど、肝心の俺は誰か、何をしていたのか、そう言うことは全くなんだ。」
「焦らずにゆっくり思い出すことです。」
「俺のことよりも・・・」

 ミカエルは用心深く切り出した。

「今朝、俺がアルメイダの家で見たものは何だったんだ?」
「何を見たのです?」

 またはぐらかすつもりなのか。

「俺があれを見たと言ったから、ロホが急ブレーキをかけたんだろ?」
「犬でも跳び出したんじゃないですか。」
「ロホは素直に言ったぜ。俺が”あれ”を見たと言ったから驚いたって。」

 少佐が口の中で「あの正直者」と呟いた。ミカエルが重ねて訊いた。

「あれは何だったんだ? アンゲルスの屋敷の、あの気持ちの悪い空気と関係しているのか?」

 少佐はワインを飲み干してしまい、ウェイターにお代わりを頼んだ。そしてミカエルの目を見た。ミカエルは彼女の美しい黒い瞳を見返した。

「君の目は黒い宝石みたいに綺麗だね。」

 チッと少佐が淑女らしくない舌打ちをして、視線を逸らせた。運ばれてきたワインをまた一口飲んで、彼女は彼に頼んだ。

「これから話すことを口外しないでいただけますか?」
「いいよ。そのつもりで質問しているんだから。」
「では・・・」

 少佐が肉にナイフを入れた。

「先に食べてしまいましょう。軍人は食べられる時に食べておく。」


 
 



 


1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

ロホ君が名乗っています。真の名前でないので、平気で名乗れる訳ですが。
アスルはツンデレ君です。
少佐は、シオドアに”操心”を試みて失敗しています。多分、アルメイダの家で彼が見たものを忘れさせようとしたのでしょう。
少佐はこの後も時々ドレス姿で登場しますが、女を武器にすることは絶対にしません。
(ガラじゃないと自分でわかっている?)

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