2021/06/16

記憶喪失の男 17

  夢を見た。広い部屋、窓のない部屋に机が並び、それぞれにデスクトップのコンピューターが載っている。机の前に子供達が座ってキーボードを叩いている。その中に彼もいる。画面には文字がぎっしり映し出されている。彼はそれに手を加えて別のコマンドを作成している。隣の席の女の子が彼の画面を横から眺め囁いた。

「・・・を構築したらどうかな?」

 何を構築するって? 尋ねようとしてそこで目が覚めた。ミカエルの頭から部屋の詳細が消え去った。残ったのは、大勢の子供とコンピューターと・・・隣は誰だっけ?
 ミカエルは共同トイレに行って冷たい水で顔を洗い、口をゆすいだ。昨晩洗っておいたシャツはなんとか乾いていたので、それを着ると少し冷んやりした。階下へ降りた。リコはもういない。あんまりバルデスの報復を恐れるので、昨夜ケツァル少佐に彼の保護を頼んだら、基地の下働きでもさせようとジープに乗せて連れて行ってしまった。リコ本人は大統領警護隊と並んで座ることも怖がっていたが。
 ホテルの部屋の鍵を返して、近所の早起きのパン屋で揚げパンを買って朝食にした。街は既に活動を始めていて、通りは賑やかだ。大統領警護隊のジープがやって来たので、ミカエルは昨日同様少佐の隣に座った。彼の朝の挨拶に対し、ロホは返してくれたが、アスルは無視した。昨夜のご馳走の礼を言っても少佐は頷いただけだ。リコはどうなったかと尋ねたら、アスルが少佐の代わりに答えた。

「今朝は兵舎の清掃をしていた。」

 早速こき使われているらしい。ミカエル・アンゲルスの組織がどこまでオルガ・グランデの街に支配力を持っているか知らないが、大統領警護隊が基地に保護した男に手を出す馬鹿な真似はしないだろう。まともな仕事をして来なかったリコが、基地で規則正しく働いて少額と言えども給料をもらえるのだ。寝る場所も食べ物も与えられる。基地から出ない限り、あの男は安全だ、とミカエルは信じることにした。
 アンゲルスの屋敷の門は閉じられていた。昨日同様門衛が小屋から出て来た。アスルが片手を前に突き出すと、彼等は大人しく銃を下げ、門扉を開いた。ジープが屋敷内に進入すると、当然ながらアンゲルスの私兵達が別館から出てきた。やっぱり本館には誰も入らないのだ、とミカエルは確信した。
 本館の玄関前に停車したジープの側へアントニオ・バルデスが近付いて来た。

「ブエノス・ディアス、ドクトル。」

 バルデスが失礼なことに少佐を無視してミカエルに挨拶した。そしてアスルにも言った。

「ブエノス・ディアス、少尉。」

 アスルが降車したので、ミカエルも続いた。少佐と運転席のロホは動かない。
 ミカエルは朝の挨拶を返してから、バルデスの注意を惹きつける言葉を探した。

「昨日、お宅の女中を見舞ったんだ。」
「ほう?」

 アスルがミカエルに別館へ歩けと手で合図した。ミカエルが歩き出すと、バルデスもボディガード達も歩き始めた。アスルはミカエルを挟んでバルデスの反対側に位置を取った。
 ミカエルは背後で少佐とロホがジープから出るのを感じたが、バルデス達はそちらに注意を向けようともしない。ミカエルは話を続けた。

「マリア・アルメイダはインフルエンザが重症化しかけていた。でもケツァル少佐が紹介してくれた医者に抗生剤を打ってもらったし、薬も飲ませたから、数日経てば元気を取り戻す筈だ。その時は、また雇ってやってくれないか?」
「勿論です。」

 と答え、バルデスは疑い深い目でミカエルを見た。

「彼女はインフルエンザだったのですな?」
「スィ。なんとか子供に移さずに済んで良かったよ。年寄りのお母さんもいるしね。職場で他に罹った人はいるかい?」
「ノ・・・私は聞いてませんな。」

 バルデスは怖いものを見る目でミカエルの向こう側を歩いているアスルをそっと見遣った。ミカエルはリコにそうしてやった様に、マリア・アルメイダの安全保障もしておくことにした。

「ケツァル少佐は助けた女中の今後が気になる様だから、これからちょくちょく様子を伺いに来るかも知れないね。彼女がまた病気になったり怪我をしたら、きっと悲しむだろう。」
「当家では使用人の健康管理に気をつけています。アルメイダは元気になったら別館の担当に替えて、子供の養育手当も付けましょう。」

 バルデスが保証した。それで良いか、とアスルをそっと見る。ミカエルはアスルが鼻先で微かに笑うのを見たが、見なかったふりをした。

「朝食の用意をさせましょう。それまで、カード遊びでも如何です?」

 すると今迄無口だったアスルが初めてバルデスに顔を向けた。

「誰に向かって言っている? 俺は勤務中だぞ。」
「しかし・・・」

 バルデスがハンカチを出して額を拭った。

「基地にいらっしゃる将校さん達はお好きですよ。」

 ミカエルはアスルが舌打ちするのを聞いて、ちょっと可笑しく感じた。バルデスが慌てて言い足した。

「誰でも息抜きは必要です、少尉。基地の方は非番の日に街のカジノで遊んでおられるだけです。」

 そのカジノは誰の経営なんだ? とミカエルは心の中で呟いた。

1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

バルデスと用心棒には少佐とロホの姿が見えていない。
これは”幻視”。 いる人が見えないと言う幻。

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