2021/06/16

記憶喪失の男 18

  ケツァル少佐と中尉のロホは本館に入った。ホールの全ての窓が開放されているにも関わらず、屋内の空気は全く動かず、酷く重たく肌にまとわりつく感じがした。少佐は前日に入っているが、ロホは初めてだ。彼はライフルを持っておらず、拳銃と軍用ナイフを装備していたが、実際に手に持っているのは大きな麻袋1つだけだった。少佐も武器はロホと同じだったが、こちらは手ぶらだった。2人は迷わずに真っ直ぐホール中央の階段を駆け上がった。
 2階の半円形の回廊はホール側の壁がないにも関わらず、空気の重たさが1階以上で、ロホが一瞬戸惑うかの様に足を止めた。少佐は気に留めずに、回廊の反対側に並ぶ扉を一枚ずつ眺めながら、慎重に歩を進めた。ロホは遅れまいと彼女に続いた。
 一番立派な装飾を施した木製の扉の前で少佐が足を止めた。そっと手を伸ばして扉に触れ、急いで引っ込めた。
 ここだ。
 無言の了解が2人の間で交わされた。少佐が少し退がり、ロホが扉の前に立った。前を向いたまま、後ろの少佐に麻袋を預けた。両手を広げて前に突き出し、深く息を吸い込み、一気に吐き出した。
 扉が勢いよく内側に開いた。ドッと風が吹き出し、再び閉じられようとする扉を、ケツァル少佐が跳び込んで止めた。ロホが室内に入ろうとしたが、彼の体は何かグニャグニャしたものに阻まれ、廊下から中へ一歩も進めなかった。ロホが少佐に彼等の先祖の言葉で言った。

「進めません。」

 少佐が彼に麻袋を投げて返した。麻袋は部屋の中から吹く風に吹き飛ばされる様に空中を流れ、ロホの手に捕まえられた。ロホは袋の口を部屋に向けて開き、少佐に問いかけた。

「追えますか?」
「やってみます。」

 少佐は扉に手を掛け、一言「動くな」と言った。扉は風に逆らいながら開いたままだ。扉が動かないことを確認して、少佐は部屋の中央に置かれた豪華なベッドに向かって歩き始めた。ベッドサイドの棚に小さな石の塊が立っている。風はそこから吹いていた。気を緩めると吹き倒されそうな勢いだ。少佐の一歩は慎重だった。獲物に忍び寄るジャガーの様に、相手の出方を伺いながら一歩ずつ前進した。
 突然石像から顔が浮かび上がった。目を吊り上げ、牙のある口を大きく開いて彼女に向かってきた。シャーッと少佐がジャガーが敵を威嚇する様な声を上げた。石像から飛び出した顔は、また石像に引っ込んだ。だが風はまだ吹いている。少佐がちょっと顔を顰めた。さっきのヤツは石像に追い込んではいけないのだ。神様の怒りの部分は追い出さなければ、石像を回収出来ない。
 ロホは少佐が拳銃のホルスターを外し、ベルトを外し始めたので、困った。見てはいけないことを彼女は始めようとしている。しかし、彼はこの場から視線を逸らすことを許されていない。少佐が軍の認識票を首から外したので、彼女がこれからすることはもう間違いない、と彼は観念した。
 彼は確実に獲物が入るよう、袋の口をネズミの神像に向けて全身全霊で身構えた。

1 件のコメント:

Jun Tacci aka ねこまんま さんのコメント...

ケツァル少佐がネズミの神様を抑えるために、何をしようとしたか?

メソアメリカ文明の壁画に残っているそうです。
上半身だけナワルに変身している人間の姿が。

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